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2023.01.25
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カテゴリ: 報徳
二宮先生語録巻の二【146】~【150】

二宮先生語録【1】~【25】 | MM2022のブログ - 楽天ブログ

【一四六】魯の哀公問ひ曰く。年飢へ、用足らず。是れを如何。有若対へ曰く、盍ぞ徹せざるやと。宜なるかな、言や。余嘗て力夫を諭して曰く。力銭一日三百文を得て、足らずんば、則ち須く二百文取るべし。二百文を得て、足らずんば、則ち須く一百文を取るべし。一百文を得て足らずんば、則ち須く取らずして力むべし。此の如くせば、則ち豈足らざる有ん。是れ則ち有若の意なり。


《訳》論語(顔淵篇)に、魯の哀公が「今年は凶作で、国費が足らないが、どうしたらよいか」と尋ねたのに対して、有若が、「どうして昔のとおり十分の一の税率に切り下げないのですか」と答えたという。まことに良い言葉だ。私はあるとき人夫を諭してこう言った。「人夫賃一日三百文取って足らなければ、二百文取れ。二百文取って足らなければ、百文取れ。百文取って足らなければ、何も取らずに働け。そうすれば決して足らないことはない」と。これは有若が言ったのと同じ意味だ。

【一四七】管子曰く、衣食足て礼節を知ると。宜なるかな、言や。今食を小児に与ふ。腹に満たざれば則ち啼き、既に腹に満れば則ち食はず。況んや成人に於てをや。貪惏者と雖ども、而も飽けば則ち必ず譲る。是れ豈真の礼儀に非ずや。

《訳》管子は言う。「衣食足りて礼節を知る」と。もっともなことだ。よく言ったものだ。今、食べ物を子どもに与えるとしよう。腹に満たなければ泣き、すでに満腹すればそれ以上食べない。ましてや成人はなおさらである。欲深い人間でも、飽きれば必ず譲る。これこそが真の礼儀ではないか。

【一四八】論語幾諌の章を誦し曰く。善ひかな。人の子父を諌むるの道。誠に斯の如なるべきのみ。豈止父を諌むるの道のみならんや。凡そ事を処する、須く斯の如くすべし。

《訳》尊徳先生は、論語の幾諌の章を読まれた。
「子曰く、父母に事(つか)えては幾(ようや)くに諌(いさ)む。志の従われざるを見ては、又敬して違(たが)わず、労して怨みず。」
そしてこう言われた。「まことに善いことだ。人の子が父をいさめる道はまことにこうあるべきじゃ。ただ父をいさめる道だけではない。およそ物事に対応するには、すべてこのように「いくたびも心を尽くしていさめ、自分が願うとおりに従わなかったとしても、敬して違わない、苦労してもうらまない」ようにするべきだ。


【一四九】争論の発するや。各々其の居処を定めざる故なり。苟くも居処を定めば、則ち何の争論か之有ん。今東西を論ずる者有り。東に在る者西と為すなり。西に在る者東と為すなり。米価を論じて貴を善と為す者、糶者なり。賎を善と為す者、糴者なり。南瓜を論じて蔓を愛する者、初生の時なり。蔓を悪む者、実を食ふの時なり。遠近を論じて近を善と為す者、用を致すの時なり。遠を善と為す者、失火の時なり。一切事を論ずる。各々其の居処を定めば、則ち是非判然。何の争論か之有ん。

《訳》争論が発するのはおのおのがその立場を定めないからだ。いやしくも立場を定めたならばどうして争論が生じようか。
今、東西を論ずる者があるとする。東にある者は西とする。
米価を論じて高いことをよいとする者は米を売る者じゃ。
かぼちゃを論じてツルを喜ぶ者は、生え始めの時で、ツルを嫌がるのは実を食べる時だ。
遠近を論じて近くてよかったとするのは、用をたす場合であり、遠くてよかったというのは失火の場合だ。一切の事を論ずる場合、それぞれ立場を定めれば、是非ははっきりしている。どうして争論など起こることがあろうか。

1『「尊徳と梅岩』西晋一郎著「悟道理論草稿に曰く、『ある在所近村一つの大川あり、此の方の村里の人々は彼の向う岸を川向うと、向うの村へ渡りて向うの村の里人にきけば、我村方を川向うと申す也。・・・こちらが河向うか、そちらが河むかいか、御前さんあり、私あるゆえの、御前さんと私なければ本来河はただ河なり。こちらはこちら、そちらはそちら、・・・ただただ御前さんは御前さんのお御先祖よりなされきたりたる御家業専一に成され、私は私の先祖より伝わりたる商売をいたし、これまでの通り炭薪塩茶何様何品なりとも御手紙さえ遣わされ候えば、御用次第差遣わし申すべき候。・・・御たがいになかよくくらし居候間、御先祖たちのなし置かれたる通りに万代くらし、向う村の事はあらため申しまじく候。其の本々はありて無きのみ、有りて無きのみ。』
お前さんあり私あるゆえの、お前さんと私なければ本来河はただ河である。我汝を超えて物の真を見る。世上ただ己れ己れの立場ばかりから見る。これを忘れてひたすら各自その業にいそしみさへすればこれ最上であつて、人も喜び我も喜ぶ。ただその分々の働きに専一なるのみで事は十分足るので、その上に我とか汝とか余分のものを加える必要はない。我と汝というも畢竟、分を示すに外ならぬので、人我の別を逞しくするのではない。」



【一五〇】稼穡を為す者、農夫の常。愚者と雖ども而も之を知る。唯力を用る分外に進めば、則ち秋穫居多。秋穫居多なれば、則ち其の家必ず富む。農にして富を得る。豈他有んや。父母を養ふ者、人子の常。頑夫と雖ども而も亦之を知る。唯力を用る、分外に進めば、則ち父母必ず悦ぶ。父母必ず悦ぶ。之を孝と謂ふ。夫れ孝は吾が徳を脩るなり。人にして徳を脩る。豈に他有んや。



ただ力を用いることが、分外に進むならば、秋になれば収穫が多くなる。
秋の収穫が多くなればその家は豊かになる。
農業によって富を得る方法がほかにあろうか。
父母を養うことは人の子の常だ。頑な下民でもまたこのことを知っている。
ただ力を用いることが分外に進めば、父母は必ず喜ぶ。
父母が必ず喜べばこれを孝という。
そもそも孝とは自分の徳を修めるのである。人として徳を修める方法がほかにあろうか。

1『忠孝論』西晋一郎著「 親の愛は無窮の慈愛である。 この心を外にして別に神愛があるであろうか。子のその親に対する感謝も無限である。この心を外にして別に神恩があるであろうか。父子は生命の無窮の道であり、父子の情は宇宙万有の情の根底である」(三八頁)





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最終更新日  2023.01.25 10:48:13


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