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2023.07.27
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カテゴリ: 技術者シリーズ
八田與一の師・広井勇と「紳士の工学の系譜」


<参考文献> 『ボーイズ・ビー・アンビシャス第四集 広井勇と青山士 ―紳士の工学の系譜―』 | GAIA - 楽天ブログ

 また「ボーイズ・ビー・アンビシャス第一集」の資料編には「故廣井勇君の小伝」を収録しています。
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 広井は旧高知藩士広井喜十郎の長男として一八六二年(文久二)九月十二日高知県佐川村に生まれ、昭和三年十月一日東京市牛込の自宅で亡くなります。六十七歳でした。九歳の時、父が亡くなり、十一歳で上京し、叔父片岡利和のもとに身を寄せます。東京外国語学校に入学した後、工部大学校予科へ転じ、一八七七年(明治十)札幌農学校の官費生募集に応じて二期生となりました。同級生に宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造らがいます。広井は同級生六名とキリスト教の信仰に入りました。また、アメリカの土木技師ウィリアム・ホイラーに工学を学びました。札幌農学校ではそれぞれ天賦の才能にしたがって、規定の学科以外に特定の学科を選び研究し、卒業後はその専門を以て開拓使に奉職することになっていました。広井は土木工学を選び、ホイラーに従い数々の設計等を行いました。広井の札幌農学校卒業演説は「最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり」で、北海道の農業振興にはキリスト教道徳が必要であるというものでした。一八八一年(明治一四)卒業すると、広井は開拓使御用掛の辞令を受け、幌内鉄道工事の一部を担当したりします。内村鑑三は広井の告別式で北海道鉄道の橋梁の建設に従事していた頃の広井について語っています。「君は君の当時の工学的知識の全部をしぼりてその任に当たりました。そしてようやくにしてその橋は成り、列車の試運転が行われんとせし時、君は顔色あおざめ、四肢震いて憂慮に堪えざるものがあり、列車の無事通過を見て安心して胸を撫で下したと聞きました。すなわち広井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通じて強く働いたのであります」(第一集一四二頁)

 一八八三年(明治一六)六月七日付けで広井が宮部宛に出した英文の手紙には「 僕が君に打ち明けた宗教上の確信は日に日に強まるばかりだ。僕は努力することを学んだ。この確信において努力することこそキリスト教徒の最大の義務だ 」とあり、手紙に添えられた詩に「 我らは救い主を固く信じ 生涯闘い続ける ついに勝利した時闘いを止め 神の栄光を分かちあうのだ 」とあります。(第一集一一四頁)

同年十二月 広井は同級生中で一番先に留学 します。ミシシッピー河の治水工事に従事するなど、働きながら工学を研究する生活を続け、後にアメリカ留学を果たした新渡戸、内村、宮部と親交を深めます。

 一八八七年(明治二〇)広井は札幌農学校助教に任ぜられ、土木工学研究のため三年間ドイツ留学を命ぜられます。一八八九年(明治二二)七月帰朝し、九月に札幌農学校教授として新設の工学科の運営に苦心努力し、八年間教育に従事し、 岡崎文吉、真嶋健三郎

 広井の設計監督による小樽港工事は明治三0年五月に始まり、四一年六月まで十一年間にわたる大工事でした。この工事で広井は科学的実験の結果を経て、始めて火山灰をセメントに混和してコンクリート・ブロックを作り、これを大規模に使用して好成績を収めました。明治三三年一二月二五日の大暴風雨の際の事が市立小樽図書館所蔵の「原稿」に記されています。
「山のごとき激浪が非常の力でもって防波堤に衝突し、その勢いといったら実にたいしたもので、積重機を平気で打ち越え、積重機の上の枕木等を皆さらわれた。今まで多大の辛苦をして、漸くここまで仕上げたことがすべて水泡に帰してしまう。自分の熱血をそそいだ防波堤と共に情死する決心をした。暁近くまで心配したが、疲れで寝込んでしまい、翌日十時頃目がさめてみると、昨日と打って変って好天気なのに喜んで飛び出してみると積重機が少し傾いただけで無事だった。その時の嬉しさはいいようのないほどであった」 (第四集一三三―八)
 一八九九年(明治三二)九月広井は東京帝国大学教授に任ぜられ、大正八年までおよそ二十年間教鞭をとり、幾多の優秀な土木工学者や技師を輩出しました。東京帝大時代の授業について『広井勇伝』では、朝の九時からの授業に一人でも遅刻者がいると、講義はさっさと切り上げ、級の総代は教授室に呼びつけられ「教室は寄席ではない、学生は紳士であるから、もっと紳士らしい態度で聴講するべきものである」と言い渡され、広井の授業中、学生はいつもより早く腰掛に座って、静かに広井を迎えるようになったといいます。(第四集一二頁)
 広井はアメリカ留学中一八八八年にニューヨークのバン・ノストランド社からプレートガーダー橋の設計参考書を発行しています。この本はハーバード大学の土木工学のチャプリン教授が「これは貴国の人が書いたもので、他に比類のない良書です」と宮部に語ったように、広く教科書・参考書として採用されました。 英語による出版もまた広井が新渡戸や内村に先駆けて出版 したのです。(第一集一四三頁)

 内村は「旧友広井勇君を葬るの辞」(第一集一五五―九)において 「君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に貴いのであります」 と述べています。内村は最後に述べます。「 『この貧乏国の民に教えを伝える前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります。

 八田與一の台湾における事業もまた、広井の「紳士の工学」を受け継いで、「一種独特の永久性のある事業」が刻印されているように思えます。





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最終更新日  2023.07.27 17:00:10


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