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2025.11.13
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

修証一如  その2

 それならば、悟りを開いたらどうなるかといえば、出世するという人がある。わたしたちはおかしな人間で、坊主になったら出世したくない、出世みたいなものをやめてしまって、坊主をやめたら乞食しようと思っている。始終その気持ちでいるからべつに出世したくない。それならどうするかというに、しなければならぬことがほかにたくさんある。ここが利口そうな顔をしていてもたいがいな者が間違っている所だ。戦争でも悟りと同じように「重賞の下に勇夫あり」で、懸賞でつるとすれば褒美はいらぬという者には仕方がないことになる。芸術でも同じように懸賞でつる。そんな褒美はいらぬ。そんな盲千人にほめてもらわぬという者があれば、そういう飛び離れた者の芸術は懸賞ではつれぬわけだ。懸賞でひっぱりだすものは、その程度のものしかない。それにひっかかる大蛸があるかという問題である。
 悟りというても、そこに起こる問題は個人我という我執が首をだすことである。そうすると悟りという虫が着いてしまう。軍人もそうだ。忠義さえつくせば、勲章はもらわんでもよいものである。その境地に満足できなければ本当の軍人ではない。死ぬだけが仕事だったら、それで安気に犬死ができなければならない。葉隠武士道の中に「忠義と申す事は、死ぬだけにて候」とある。犬死、猫死である。少々はなばなしい死にようをしようと思うと死にぞこねる。「死に損ねるものにて候」になってしまう。匹夫の勇などというデリケートな死に方があるが、そんな面倒な死にようをしようと思うと、やはり死にぞこねてしまって、犬死鼠死ぐらいしかできない。
 むかしの偉い人を見ると犬死、とあまり変わらぬ死に方をした人が多い。楠木正成が湊川で戦死しているが、あれはずんぶんつまらぬ死に方である。情けない死に方である。もっとはなばなしい死に方があったろうが、実は犬死を忍んでやったのだ。そこが楠公の偉いところといわねばならぬ。あの時逃れておったら、われわれの手本にはならなかったかも知れぬ。そこが無住法師のいわゆる「死したればこそ生きたれ、生きたらば死になまし」で、全身を投げ出して考えなければ駄目である。
 大智禅師の偈頌にもそういうものがある。
  放下全身倚断崖(全身を放下して断崖に倚(よ)る)
  風磨雨洗幾千回(風磨し雨洗う幾千回ぞ)
  皮膚脱落有真実(皮膚脱落して真実のみあり)

 この全身心を投げ出すところが道元禅師の「弁道話」中の「放てば手に充てり」の道理だ。にぎったらにぎりそこねる。放てば手に充てり。「死したればこそ生きたれ、生きたらば死になまし」である。ここに宇宙いっぱいの問題を相手にしたところがある。(『禅談』p.227-229)





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最終更新日  2025.11.13 09:30:11
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