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「《ありがとう》の人生」 足立大進「X=∞(無限大)」p.25 私の大学時代の先生が口癖のように、「X=∞」ということをおっしゃった。「X=∞」、これが分れば、禅も仏教も卒業だよとよくおっしゃっていました。 自分の命というものが、俺の命にとどまらず、ご縁お蔭を頂いているこの世の中の総てに支えられている。天秤にかけたら、自分の命と全宇宙が同じだというんです。これがお釈迦さまのお悟りなんです。塵涓抄(じんけんしょう) – 足立大進老大師 遺書 私の大学の頃、今津洪嶽という老教授がいらした。仏教の講義で、こういうことをおっしゃった。今は大学の教授が酒を飲んでから教室へ来たりすると、すぐにクビになりますが、私たちの時代は、古き良き時代であった。 この先生は講演先の岐阜からの帰りで、車中でウイスキーのポケット瓶を傍へ置いて、チビリチビリ飲んでくる。午後になって京都の学校へ着いたころには酔っ払っている。その先生が赤い顔をしながら「X=無限大」と黒板にお書きになる。そして、「X=無限大、こいつがわかればな、もう仏教のお経なんか読むことはないよ。仏教は全部これでつきるんだ。」と。「禅宗、禅宗というけれども、禅の教えもX=無限大がわかりやあいいんだよ」そういう駄ボラみたいなことをおっしゃっていた。酔っ払っていうのですから、私たちはこんちきしょう、いい加減なことをいってやがると思った。 いま考えてみると、これはすばらしい講義です。X=無限大、Xというのは自分の命です。自分の存在です。あなたがた一人ひとりが全部Xなんです。イコール無限大であるという。世の中の全てのものによって支えられ生かされている、空気も太陽も水も、ご両親も、あるいは弟や妹も。食べるもの、着るもの、全てのものに支えられて生かされている世界がある。 天秤(てんびん)というはかりがあるでしょう。「天秤ばかり」。みなさんご存知ないと思うけど、昔はそういう重さを量(はか)る器械があつた。一方に重しを置いて、五グラムとか十グラムとか、こちらに物をのっけます。私のうちは歯医者でしたから、親父はよくそれで薬や金(きん)を量っておりました。あなたがたが天秤の片方に乗ったら、もう一方に宇宙のすべてのものを乗っけてやっとバランスがとれている。命というのはそういう素晴らしいものなのです。それをご縁であり、お陰であると受け取らなかったら、人間らしい生き方はできないと、こう申し上げていい。*今津洪嶽老師は大東亜戦争の一番昭和天皇様が御苦労召された時期を国師として支えられた。京都の妙光寺住職にして日本大学、花園大学の教授。老師は明治から昭和に至る禅の巨匠としても、その道に於いては知らぬ者が居なかったと言う。その為、弟子となろうと多くの人材が門を叩いたが、老師の修業の過酷さ故に、殆どの人が道半ばにも至らず老師の下から逃げ出したという。実際に修行の最中に亡くなった方も一人二人では無かったようです。終戦時、厚木に降り立ったマッカーサーを飛行機のタラップの下で、老師は待ち構えていて、一喝した逸話は知る人ぞ知る話として、大東亜戦争の最後を飾る太平洋戦争の秘話として残っています。マッカーサーの元へと天皇陛下が通訳の武藤さんを連れて赴かれた事は歴史上も記述が残っていますが、天皇陛下がマッカーサーの前に立たれる決断を良しとして送り出されたのが国師としての老師であったと言う事は、歴史の何処にも残ってはいないのです。天皇の国師とは正にその様な歴史の蔭と成る存在と言う訳です。一体どの様な修行を為されたのか…斎場の場で白日様が教えて下さったエピソードが有ります。かつて、師匠がとにかく《掃除》だけを何年もさせられたものだ。庭掃除を次々させられたので…師匠も「参った」と言いたく無い性格の方ですから…綺麗にとことん庭先を掃いて、そうして見事に綺麗にして、得得として老師の元へと行った所、老師曰く「そのゴミはどこへ捨てたか…」「ゴミですか?それは竹籔の中へ捨てました」老師は烈火の如く怒られて「庭先は綺麗に成ったけれど、竹籔の中が汚く成ったではないか…直ぐ竹籔を掃いて来い」それから一週間も要して落葉が一つも無い様に竹籔の中を綺麗に掃き清めた。《師匠(老師)に対して、これくらいの素直さが無ければ、務まらないものだ》師は、今度は一つ文句の言われない様に掃除をしてやろうと思い、石ころを集めて穴を掘って埋め、燃やせる物は全部燃やした。「どうだ!今度は文句の付け様も無いだろう」と報告すると老師は…「ゴミはどこへ遣ったか?」「石ころは穴を掘って埋め、燃やせる物は皆燃やしました」「よう気が付いた。じゃ、燃やした"燃やし殻の灰"はどこへやったか?」「灰はその辺に放(ほか)しました」「たわけ者!!」と怒鳴られ。「何故、灰を畑に撒く位の慈悲心が無いのか!」さあそれから何度綺麗に掃除しても、綺麗に掃き清めても、筋を付けて3年の間、今津老師はこの掃除の終了を許さなかった。3年の月日が巡った時に、師が命ぜられた掃除を…綺麗に掃き清め、筋を立ててゴミは全て処理をして、老師にいつもの様に「ただいま掃除が終わりました」と。すると老師は、庭に飛び出して来て、飛び石の上をパパパーと飛んで行って、庭木をトントンと叩いたら、木の葉がパラパラと舞い散ってしまった。これが《禅の掃除》なのです。老師はこの時、こう言われた…「この世の中にゴミは無い」「置くべき所に置かざればこれゴミだ。置くべき所に置けば、これゴミに非ず」置くべき所に置くか、置かざるかが、ゴミと成るか、ゴミと成らざるかの境だ。「良く聞かっしゃい」「人の世と言うものは……此の人の世ばかりで無く、《宇宙は縁起に因って成り立っている》じゃ。"この世"は《縁》に拠って世の中の全てが生じていると言う事じゃ。"原因が有って結果を生じる"とは"原因無ければ結果を生ぜず"と置き換えても良かろう。即ち、《縁に因って世は動き、両手を打つ所に音は生ず、両手打たざれば音無し》とな。『縁の集いに拠って世が成り立っている事が宇宙の原則』なのじゃ。即ち、縁有るが故に集い、縁無くして其れが消えるが故に、"この世"は仮のもの、又"この世"は《空》と言うのは"空しきもの"と言っても良いじゃろう。縁有って集い、縁無くして亦散るのが、此の宇宙の実相じゃ…と言う事は、縁集まれば結果を生じ、縁無くては何事も此れ成り立たずとも裏書きして置いても良いと言う事に成ろう。太陽有るが故に地球有り、地球有るが故に月有りと。お互いの縁に因って其の太陽や月も地球も成り立っているのじゃ。宇宙は縁に因って成り立ち、縁に因って成り立たざるものは何一つ無い。因って元々有るに非ず、縁に因って"有"と成り、縁無ければ"無"と成ると。春来たれば桜の花が咲き、匂っても春と言う《縁》無くては木の幹を割っても一枚の花弁だに無き桜が《縁》有れば、また4月に咲く。《縁》に因って物は生じ、《縁》無くて消えるが故に、これ《有》か《無》かと。《無》と思えば《縁》に因って生じ、《有》と思えば《縁》無くしてまた消える。これ《有》と言うも間違いなれば、これ《無》と言うも間違いじゃが、この《有》·《無》に片寄らず、《有·無》に拘(こだわ)らず、《有·無》の両者に跨がっているもの、これ『空』と言う。即ち、宇宙の実相は『空』なのじゃ。わしの話を能々(よくよく)耳に留めて置くが良い。縁に因って生じ、縁無くて消えると…敢えて言えば…『縁』に拠って生ずる根本の力は有ったと雖も、理屈の上で言えばそう成るだけだから、実態としては『空』なのじゃ。『生命の世界』等と言い、佛教に於いては、これを『法界』、『法身』と言う。神道においては、『天津身光日乃大御神』と言うが、実は《縁》に拠って生ずるのが出発点であって、《縁》無くては元々これが無いのじゃ。理屈で言えば、可能なるエネルギーが元々有った等と言うが、もしも《縁》以前に可能なるエネルギーを認めると言う立場は、佛教は…または神道は取らないのじゃ。《縁》に拠って生ずると言う意味に於いて、"この世"から消え散じた後も、神々の世界に至る迄の幽界、霊界、神仙界、神界と有って…だから現実に於いての神の働きは真に具体的であり、姿、形を保(も)たれ給うているのじゃ。即ち、神も《縁》に因って生じたものだから、宇宙は全て《縁に因って生じたものだから、縁を超えてはこれ無し》じゃと言わねば成らん。この辺の消息を余程能く摑んで置かないと、一分の間違いが千里の開きをそのところに至らせる結果と成るのじゃ。『宗教』と言うものは、時を得ずは本当の働きが出て来ないもので、《縁起と言う事は、本体はこれ『空』、"縁に因って仮の姿を生ずる"と言うもの》じゃ。また、《縁》と言うものには《目に見える現実の世界丈では無くて、見えざる世界の縁来たざるしては何事もこれ成り立たず》じゃ。見えざる無形の世界の助け借りずしては、何事も人の世も成り立た無い事を"この世"の愚か者達は理解が付かないと言う事なのじゃ。これを称して《迷える者》と言うのじゃ」と、御説きに成られたのです。今津老師の修行と言うか、禅の修行は悟りを目標として照準を定めて居られたので、そこらのいわゆる常識の知性の範疇に於ける修行からはかなり非常識だったように観えますが、実は悟りとは或る意味宇宙を解明し、宇宙と合体する事が悟りの本質なのです。ある朝、師は老師に尋ねられたそうです。「おい!わしが今朝観た夢の中身を言ってみい」と。「わかりません」と冗談を言われたかと思ったそうでしたが、「愚か者!それで弟子が務まるか!」と怒鳴られたそうです。禅は《一個の器の水を減らしも増やしもせずに移し替える》のが基本と言われます。師匠と文字通り同じ匂いが身体から発するまで、師匠に成り切らねば成らないのです。すべて、悟りを開いた師は老師の夢だけで無く、弟子一人一人の夢の中に入り込む事を当たり前の如く行っていました。
2026.01.31
東野圭吾書き下ろし小説「クスノキの裏技」配布期間:1/30(金)~サイズ:文庫本サイズ「クスノキの裏技」は本作のために東野圭吾が執筆した書き下ろし小説。映画の入場者特典として小説を書き下ろすのは今回が“初”となる。 本小説は、玲斗や千舟に深く関わる千舟のはとこ、 柳澤将和の過去にまつわるエピソードが描かれる。さらに原作小説や映画では描かれなかった、知られざるクスノキの力の“裏技”も明かされることに…!※お一人様1回のご鑑賞に対して1点のプレゼントとなります。※入場者特典は数量限定の為、なくなり次第終了となります。※特典は非売品です。転売、内容の複写・複製等は一切禁止となります。※まれに傷や汚れがあるものがございますが、返品・交換は一切お受けできません。ご了承下さい。💛「特典は非売品です。転売、内容の複写・複製等は一切禁止」とあるにも関わらず、公開初日、多数転売されている。転売ヤーが多数動員させているのがいるのかも?12月30日、「クスノキの番人」公開初日、最初の回に観にいって「クスノキの裏技」ゲット!観覧後、文庫本を買って、読んだ。「ペリリュー」も、漫画原作を読むと、映画は時間の関係もあり、原作のステキなエピソードが多数省略されている。それでも日本国民全員が太平洋戦争の真相の一端を知るために観るべき作品だと思った。映画「クスノキの番人」も小説に較べると、省略・改編したところ、逆に原作にないエピソードを追加したり、新らしいキャラを創作したりしているのに気づく。せっかくなら「クスノキの裏技」も映画に組み込んでくれればなどと妄想する。ふくろう(みみずく)キャラもかわいかった。親子連れのお子様をターゲットにしたものであろうか。
2026.01.31
大相撲V・安青錦、まさかの“入門不可”もあり得た 親方「断ろうと思って」運命変えた「目」1/31(土)今月の大相撲初場所(東京・両国国技館)では、大関・安青錦(安治川)が2場所連続優勝を飾った。日本相撲協会公式YouTubeチャンネル「親方ちゃんねる」では、安治川部屋への入門経緯に言及。安治川親方からは「本当の事を言うと断ろうと思って……」と驚きの発言が飛び出した。 初場所前の1月8日に撮影された「親方ちゃんねる」の番組では、小野川親方(元幕内・北太樹)と千賀ノ浦親方(元幕内・里山)が安治川部屋を訪問。安青錦、安治川親方の4人で食卓を囲んだ中で、小野川親方から「大関が部屋に入門するきっかけは?」との質問がぶつけられた。 ウクライナ出身の安青錦は日本に来て約3年半。2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻(戦禍)を逃れ、相撲を続ける環境を求めて来日し、報徳学園高校や関西大学相撲部で稽古を積んでいたことで知られる。 安治川親方は「よく稽古をしに行っていた報徳学園の元監督から連絡がありまして」と、入門当時を回想。「いい子がいる」と連絡を受けたが、当時は部屋を起こしたばかり。弟子も1人だけという状況から「本当の事を言うと断ろうと思って」と本音を明かした。 先方の顔を立てる都合上、「一応会うだけ会うよ」と二つ返事。「でも会った時に凄く一生懸命な目をしていたので、その目にやられたというか、その場で『うちにおいで』と、『来るか?』と言った」と、振り返った。「大関どうでした? その時は?」と小野川親方から問われたが、安青錦は「その時はそこまで日本語がわからなかったのでとりあえず元気よくで」と苦笑い。「(親方から)稽古よりとりあえず日本語を頑張れって言われて、それは覚えています」と頬を緩ませた。【大相撲】安青錦が仕切りで相手より先に手をつく理由「相手が遅いので…自分はどっちでも」1/31(土)小野川親方は「大関と対戦する相手が取りにくそうにしている。心掛けていることは?」と大関に問いかけた。 安青錦は「自分は特に意識してやっているわけじゃない。子供の時から低い体勢で相撲を取っていたので。自然にそうなっている」と回答。小野川親方は「自分らからしたら絶対、やりにくいもんね。あんな低い体勢で入られたら」と指摘すると、千賀ノ浦親方も「みんな引きたくなりますよね。(相手が)引きたくなるような相撲を取るところがすごいですよね」と同意した。 さらに「仕切りの際に(相手より)先に手をつくのは意識している?」との質問に、安青錦は「結構、相手が手をつくのが遅いので…。みんな、後つきが多い。自分は別にどっちでもいいんで、先に」と答えた。 これには小野川親方も「後でも先でもいいけど、相手が遅いから先についてるだけ…。それがいいよね! どっちでも変わらないというね!」と感心しきり。安青錦は「意識してないです」とうなずいていた。
2026.01.31
「ばけばけ」濱正悟、スタッフも絶賛のハマり役 ほぼオリキャラ・庄田多吉の誕生秘話「ばけばけ」濱正悟、スタッフも絶賛のハマり役 ほぼオリキャラ・庄田庄田を演じる濱について、橋爪は「すごく好青年。きっとこの人いい人だろうなというのが、お芝居からも伝わってきます」とその魅力を絶賛。庄田という人物については「登場人物たちの中で行くと、女性経験が少ない奥手な男で、世間から優秀と見られているが、その上には錦織がいる。もがきながら生きてきて、悪いことがない素直な青年だと伝わる人物です」と分析した上で、「濱さんの演技が役にいい影響を与えてくれていると思います。演じ方によって腹に一物抱えた人物にもなってしまう。でも、そうしてほしくはありません。純粋な男を体現していただける人をキャスティングしようと思い、濱さんにお願いしました」と濱の起用経緯を明かした。「今回の男性キャストは、松江中学の学生はオーディションは実施しましたが、ほかの人たちはこちらからお声がけさせてもらいました。濱さんも直接お願いして、出演していただいています」とキャスティングを振り返り、「濱さんが最初にスタジオに来た日、どう見えるのか私も見学しました。ニュートラルなお芝居をするし、すごく素直に見えて、庄田という役にぴったりだと率直に思いました。同じ感想をスタッフも持っていました」橋爪は「デートをしていても下心を感じない、あの感じがとてもいいと思うんです。彼自身はこの役に対して不安があったと思います。登場シーンは少ないし、庄田の生い立ちを描いているわけでもない。東京のシーンで初登場しましたが、彼は演技に入る前、どんな人物かをすごく気にしていました。いい男にも悪い男にも作れる役で、例えば、錦織を利用するとか、寝首をかいてしまいそうな男にも、演技次第で作れてしまう。余白の多いキャラなので、最初にどの方向で芝居をしたらいいのか、演出と濱さんを交えて話をしました」と撮影中のやり取りも回顧する。 その上で、「濱さんはひねくれている男だったり、悪めのキャラクターをやってきたことが多かったそうです。これくらいまっさらな人を演じるのは『挑戦です』『すごく心配です』っておっしゃっていました」と濱の反応も明かす。庄田は、本作のために作られたオリジナルキャラクターだが、橋爪は「本庄太一郎という人がいたんです」と参考にした人物がいたことも紹介。「松江出身で、(錦織のモデルとなった)西田千太郎とほぼ同年代の人。二人が教員になろうと一緒に上京したというお話が残っています。その人の生き方、歩んだ道を参考にしました。人物造形としては、本庄太一郎の論文を見る限り、性格は庄田と全く違う人物です。キャラとしては完全オリジナルですが、生き方は参考にしたという感じです」と説明し
2026.01.31
トランプ氏、アメリカ財務省などを提訴 納税記録流出めぐり1.5兆円要求1/31(土) アメリカのトランプ大統領は29日、自身の納税申告書が報道機関に漏えいし無断で開示されたとして、日本の国税庁にあたる内国歳入庁と財務省を相手取り、100億ドル、日本円で1兆5000億円あまりの損害賠償を求めて提訴しました。大統領が政府機関を訴えるのは異例です。トランプ大統領側は訴えの中で、1期目に自身の納税申告書が報道機関に漏えいしたのは、内国歳入庁などが「不正な閲覧を防止する義務を怠っていたことなどが要因だ」と主張しました。その上で、情報の漏えいにより「自身の評判や社会的地位に加え、経済的な利益に重大かつ回復不能な損害をもたらした」として内国歳入庁などに対し100億ドル、日本円で1兆5000億円あまりの損害賠償を求めました。現職の大統領が自らの政権下の政府機関を訴えるのは異例で、アメリカメディアは「巨額の支払いが生じれば、アメリカの納税者が賠償金を負担する可能性がある」と指摘しています。アメリカの歴代大統領の納税記録は慣例で自主的に公表されてきましたが、トランプ氏は公開を拒否し続けてきました。ニューヨーク・タイムズなどは、トランプ氏が大統領に就任する前の15年間のうち10年間、所得税を支払っていなかったと報じていました。情報を漏えいした内国歳入庁の元職員は、トランプ氏らの納税記録を漏えいした罪で起訴され、既に有罪判決を受けています。
2026.01.31
『手が欲しい』by坂村真民 目の見えない子が描いたお母さんという絵には いくつもの手がかいてあった それを見たときわたくしは 千手観音さまの実在をはっきりと知った それ以来あの一本一本の手が いきいきと生きて見えるようになった 異様なおん姿が少しも異様でなく 真実のおん姿に見えるようになった ああわたくしも千の手が欲しい ベトナム・パキスタンの子らのために インド・ネパールの子らのために あるお母さんが、使ったものを戻すことが苦手でどうしてもお部屋がぐちゃぐちゃになってしまう片づけができない9歳のわが子にいつものムムムをこらえて、こう教えたというのである。「お母さんが教えてもらった観音様のはなし、をきいてね。お母さんね、今野先生からお顔洗いをこう教わったの。自分のこころの中の自分のお顔をした観音様を洗わせていただいていることをイメージしてごらんなさい とお母さん、きょうね、教わったとおり自分のお顔を洗っていたらほんとうに、胸の下あたりにとっても尊い観音様があるような気がしてそこに中心が定まるとあっちこっちにあった自分がそこにすーっと集まってそれを守らせていただいている身体があってああ、ありがたいなあ、ありがたいなあと思いながら目を開けてみるとなんだか左の口元が上がり、にっこりしていたの。目をみていたらこの目はお母さんの中にある観音様からくるものをあらわさせていただかなきゃいけない大切な窓口だから大切にしていなくてはならないそう思ったの。○○ちゃんの中にも○○ちゃんの観音様があるのを感じてごらん。その観音様を立派な観音様に完成させることを考えたらへんなものは食べれないねえ頭にも心にもいい栄養がいるねえ。『ぼくの中にある観音様にとってこういう感じでいいかなあっていう目でときどきいろんなものを見渡してみてね。』そう、お子さんにお話して、「お母さんのお話 むずかしかった?」と聞いたら、その子は「ううん」と首を横に振ってそのあとは あけっぱなしだった引き出しもしめて床におちていた靴下も拾ってそして、お風呂でもいつもより身体をていねいに洗ってツルツルになってお風呂をあがった。ご飯の時のお魚もいつもよりおいしいとたくさん食べたという。
2026.01.31

2. 資本主義の精神 P38この研究の表題には、「資本主義の精神」というやや意味深げな概念が使われている。この言葉はいったい、どういう意味に解すべきなのか。「定義」というべきものをあたえようとすると、われわれはただちに、研究目的の本質に根ざすある種の困難に直面することになる。 およそ、このような名称の使用が何らかの意味をもちうるような、そうした対象が見出しうるとすれば、それは必ず一つの「歴史的個体」《historisches Individuum》でなければならない。すなわち、歴史的現実のなかの諸関連をそれの文化意義という観点から概念的に組み合わせて作り上げられた一つの全体というか、そのような歴史的現実における諸関連の一つの複合体、つまり「歴史的個体」でなければならない。 ところで、このような歴史的概念は内容的にみて、その個体的特性が成り立つためには有意義であるようなそうした現象にかかわるものだから、《genus proximum.differentia specifica》「直近の類、種差」という図式にしたがって定義する<ドイツ語でいえばadgrenzen限定する>ということは不可能で、むしろ、歴史的現実の中なかから得られる個々の構成的要素を用いて漸次に組み立てて行くというという道をとらなければならない。だから、その確定的な概念的把握は研究に先立って明らかにしうるものではなくて、むしろ、研究の結末において得られるべきものだ。言いかえるなら、ここで資本主義の「精神」とよばれているものの最良のーすなわち、われわれがここで問題としている観点にもっとも適合的なー定式化は、究明の過程を経てはじめて、しかもその主要な成果として提示することができるのだ。さらにまた、われわれが今とろうとしている観点(それについては後段でもっと説明せねばなるまい)が、ここで問題としている歴史的現象を分析するために唯一可能な観点だというのでも決してない。観点を異にするなら、ここでも別のものが「本質的」特徴となってくることは、一切の歴史的現象についても見られるとおりだ。-このことから直ちに次のことが生じてくる。すなわち、われわれのとらえ方からすれば本質的なものとしてわれわれに見えてくる。そうしたものだけが、資本主義の「精神」の唯一可能な理解であるわけでもなければ、またそうでなければならぬ必要もない。このことは、方法上、現実の事象を抽象的な類概念に当てはめていくのではなしに、むしろつねに、またどうしても、特殊個体的な色彩をもつ具体的な発生的関連という姿にまとめ上げて行かねばならぬ、そのような「歴史的概念構成」というものの本質に根ざしているのだ。 それゆえ、このような事情にもかかわらず、本書において分析しかつ歴史的に解明すべき対象をやはりあらかじめ確定しておくべきであるのならば、その場合、問題となりうるのは、ここで資本主義の「精神」とよんでいるものの概念的な定義などではなくて、さしあたってたかだか暫定的な例示に止まるだろう。そのような例示はじっさい、研究対象についての理解を得るためにならなくてはならないのだ。そうした目的からわれわれは、問題の「精神」をものがたっている一史料をとり、説明の手がかりにしようと思う。この史料は、さしあたってそのような資本主義の「精神」を、ほとんど古典的と言いうるほど純粋に包含しており、しかも同時に宗教的なものとの直接の関係をまったく失っているためにーわれわれの主題にとってはー「予断が入らない」という長所をもっている。 ☆どうもウェーバーの論述のもって行きかたは難しい。訳者の大塚久雄先生は実に明晰な論述をされる方だが、それをしてこのもって行き方の分かりにくさは相当のものである。ここで大塚史学といわれた大塚久雄教授のまとめを最初に提示しておくことも無駄ではなかろう。「報徳記を読む会」において、森信三先生の推譲についての論述を読んだあと、夜話に入ったところ、とてもわかりやすいと好評であった。哲学の効用は、論述を明確に明晰に整理しなおすことによって、得心しやすくするという効果があるらしい。「社会科学における人間」大塚久雄著から「ヴェーバーの社会学における人間」からその概論を引用してみよう。 「社会科学における人間」大塚久雄P112-115P112 ヴェーバーの人間類型論について忘れてならないのは、それがエートス論という姿をとって現われてくるということです。 エートス論とは、人間の行動様式を類型化してとらえるにしても、それを単に外側の社会的な現われとしてだけでなくて、そういう行動様式を内面からささえる、あるいは、推し進める意識形態、あるいは観念形態、とりわけ倫理意識の問題をも含めて人間類型論を構成しようとする。それがヴェーバーのエートス論の特徴だと言ってよいと思います。P115 近代初期の西ヨーロッパで資本主義経済が発生してくるさいに、その発生を担う人間諸個人を、内面からそういう方向に押し動かす内的-心理的起動力として作用した、そういうエートス、それがヴェーバーの言う「資本主義の精神」です。ところがその「資本主義の精神」が近代初期の西ヨーロッパ、とりわけイギリスや北アメリカのイギリス植民地で生まれてくるその過程で「プロティスタンティズムの倫理」詳しくいうと、禁欲的プロティスタンティズムに由来する宗教的エートスから重要なものをいわば遺産として受けとった、とヴェーバーは考える。そのばあい、禁欲的プロティスタンティズムが生みだしていた宗教的倫理から「資本主義の精神」へという、いわば発生史的なつながりをその両者のあいだに認め、そして、この論文で、その事実を学問的な形で論証しようとした。」
2026.01.31
永平初祖学道用心集 5-9道元・学道用心集講話「第五 参禅学道は正師を求むべき事」(澤木興道)その9「皆是れ師の咎(とが)なり、全く機の咎に非ず」師匠が責任をもって弟子を養育せんととんでもない間違いが起こる。人生を誤らしてしまう。「所以(ゆえ)いかんとなれば、人の師たる者、人をして本を捨てて末を逐わしむるの然らしむるなり」と。この本と末ということが非常に大事なことだと思う。この本といったら何だろう。末といったら何だろう。極楽参りだとか、功徳とか、功能書はすべて末である。坊主になったら管長になる。そんなことは末である。その本というのは、悟りというても間違えやすい。修行というても間違えやすい。『証道歌』の中に「本を得て末を憂うることなかれ」とある。われわれは本さえ得れば、枝葉末節は心配することはいらん。この本を、われわれは、如来、正法眼蔵、涅槃妙心というても言葉になってしまうし、悟りというても、うっかりすると手品使いのような悟りになるが、要するに本は不生不滅の本である。至道無難禅師の歌に 生きながら死人となりてなり果てて心のままになすわざぞよき というのがある。自分で考えれば間違えることはきまっておる。仏さまの教えのまま、正師の教えそのままー。むかしはそうじゃないけれども、いまどきの世の中は・・・・・とよくいうが、むかしでも外道は外道、邪見は邪見、そんなに違いはしない。だから「本を捨てて末を逐わしむるの然らしむるなり」と。 「自解(じげ)未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専にして、濫りに他人をして邪境に堕つることを招かしむ。哀むべし、師たる者、未だ是の邪惑を知らず、弟子何為(なんすれ)ぞ是非を覚了せんや」この本というのは一体何だといえば、『法華経』の信解品に長者窮子(きうじ)の喩ということがある。孤児のルンペン、これを一切衆生に喩え、長者というのは仏さまに喩えてある。仏さまが一切衆生を追っかけ、探し歩かれる。ところが窮子は逃げ歩く。そうしてお前はおれの子じゃというても、そんなことをいうて、おれを殺して生肝をとるんじゃないかとひがむ。それを方便でだまし、汚い着物を着せて裏門から入れ、掃除夫に雇って、ぽつぽつ仕込んだ。とうとう番頭にまで仕上げた。番頭というのは仏教では菩薩修行である。そうして総支配人というところまできても、窮子にはまだ雇われ根性があった。しかし、もうよかろうというのでお客を呼び、「皆さまよ、わたしに一人の子どもがある。実はわたしの子であるということを忘れてルンペンで逃げ歩いていたのを、ようよう見つけたところが、ひがんでしようがない。だましてここへ連れてきて、掃除夫にし、番頭にまでなりました。これがわたしの子でございますから、どうぞ私同様にお願い申します」といった。それであっと驚いた。これは何も窮子が努力して長者になったのではない。ルンペンでひがんでおる者をひっ捕まえて、だましてとうとう跡継ぎにした。これが正法である。だからわれわれは何も自分で努力するんじゃない。仏の教えに疑いの晴れたのが悟りである。 『法華経』の譬喩品でもそうである。化物屋敷の三方から火がついた。子供が中でたわむれておるので、早く出ろというけれども、こんなおもしろいのに出られるかといって出ない。そこでそれよりおもしろいものを作らんならん。羊の車、鹿の車、牛の車、その飾りから何から立派なものを作って、好きなものに乗せてやるから出ろというと、それはおもしろそうだと思って出てきた。出てきてみたら、声聞もなく縁覚もなく菩薩もなく、唯有一仏乗で、一乗よりなかった。だまして一切衆生を引っ張り出して仏にするのが仏法である。だから仏法では仏になる道よりない。発心して仏の教えに従ったら成仏する。しかるに「自解(じげ)未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専にして、濫りに他人をして邪境に堕つることを招かしむ」これだけ覚えればいいとか、坐禅をこれだけするといいとか、・・・・そんなことは何もいらん。仏の教えに疑いが晴れたときが成仏である。だから、「哀むべし、師たる者、未だ是の邪惑を知らず、弟子何為(なんすれ)ぞ是非を覚了せんや」(「沢木興道全集」第2巻p.117-120)
2026.01.31
192二宮翁夜話巻の5【8】尊徳先生はおっしゃった。窮のもっとも急なものは、飢饉、凶歳よりはなはだしいものはない。一日ものんびりとしてはならない。これをのんびりすれば、人命に関して容易ならない事変を生ずる、変とは何か。暴動である。古語に、小人窮すれば乱す、とあるとおりだ。むなしく餓死するよりは、たとえ刑に処されても、暴動をおこして一時の飲食を十分にし、快楽を極めて、死につかんと、富豪の家を打ち毀し、町村に火を放つなど、言うべからざる悪事を引き起す事は、昔からあることだ。恐れなければならない。この暴徒・乱民は、必ずその土地の大家に当たる事は、大風が大木に当たるようなものだ。富裕の者は、その防ぎが無くてはならない。二宮翁夜話巻の5【8】翁曰く、窮の尤(もつと)も急なるは、飢饉凶歳より甚しきはなし、一日も緩(ゆるう)すべからず、是を緩うすれば、人命に関し、容易ならざるの変を生ず、変とは何ぞ、暴動なり。古語に、小人窮すれば乱(らん)す、とある通り、空しく餓死せんよりは、縦令(たとひ)刑せらるゝも、暴(ばう)を以て一時飲食を十分にし、快楽(くわいらく)を極(きは)めて、死に付かんと、富家(ふか)を打ち毀し、町村に火を放ちなど、云ふべからざる悪事を引き起す事、古(いにしへ)より然り、恐れざるべけんや、此の暴徒乱民は、必ず其の土地の大家(たいけ)に当たる事、大風の大木に当るが如し、富有者たるもの、其の防(ふせ)ぎ無くばあるべからず。
2026.01.31
橋爪氏サワは「もう一人のトキ」幼馴染で同様の家に生れたでも生き方が違う夫々の苦しみ辛さがあり二人が対比夫々の良さや生方が見える」サワ「おときにはなれん好きだったのに全部おときのせいだけんね」視聴者の期待を裏切り驚きを与えるどうなるおさわ
2026.01.30
21世紀枠長崎西と高知農長崎西は選考委員会から最も評価が高い学校マネ自作アプリ科学的な取組評価昨秋県大会準優勝九州大会はベスト8高知農は長崎西についでの評価連合チーム出場多く部員不足に悩まされた中学校小中学校野球教室など野球振興高く評価関東 山梨学院 山梨 5年連続9回目 花咲徳栄 埼玉 6年ぶり6回目専大松戸 千葉 3年ぶり3回目佐野日大 栃木 12年ぶり5回目 横浜 神奈川 2年連続18回目 東京 帝京 東京 16年ぶり15回目
2026.01.30
「<安心(あんじん)>の道しるべ」足立大進p.187- 黙 説了也(もく・せつりょうや) その3 坊さんの理想像は、黙ったままで何も喋らないのが一番です。お茶でもすすめてあとは聞く一方で「ああそう」「うんうん」「そうそう」と聞くだけでいい。「私はこれで喜寿になりました」「米寿になりました」「娘がやっと嫁に行きました」「孫ができました」というような、嬉しいことを話しに来た人には、「よかったねえ」と言えばいい。 悩み事を持ってきた人、これが多いのですけど、困っている人には、何かおっしゃったことに対しては「うーん、そう、困ったねえ」と言えばよい。「そんなに仲が悪かったら別れちゃえばいい」とか、「もう暫く我慢して様子を見なさい」とか、そこまで踏み込んで言わなくていい。「うーん、そう」と聞いておいて、「うーん、困ったねえ」と言っておればいい。「ああ、そう」「よかったね」「困ったねえ」という、この三つの単語があれば、用は足りるのです。・・・ ところが、厄介なことに、嬉しいことを話に来た人には「よかったね」と素直に言えばいいのですが、心から「よかったね」とは言えない時がある。相手が幸せそうな顔をしていると、「何を有頂天になっているんだ、そのうちつまずくさ」といった心がともすると起こりがちです。 私が「坊さんは三つの単語だけで仕事ができる」と申しますと、「理想はそうだよね、なかなかそうはいかん」と和尚さんたちは答えられる。 言葉というものは妙なもので、しゃべればしゃべるほど真実から遠ざかるということがございます。私ども禅宗では、あまりしゃべらないほうがいいと言われている所以であります。私自身反省です。慙愧々々。
2026.01.30
(昭和56年8月25日発行、春秋社)(1959年4月20日発行、春秋社)朝比奈宗源老師の獅子吼 抜粋34P.137-140 こぼれ話 その2一、山門のこと 国師の逸話の中、山門建立の時、江戸の金持ちが二百両とか寄附して、国師がお礼らしいことをいってくれないとぼやいた時、国師が「そなたが、そなたの金を積むのにわしにお礼をいえというのか」と一喝して、寄附者の眼をさまさせたということは有名であるが、その山門についてである。その時、国師が建てられた今の山門は、実は隣山の建長寺がさらに大規模な山門を建てることになり、不用になったが、まだ年代も比較的新しく、廃材にするのも勿体ない、一方それまでの円覚寺の山門はいかにも寺としては小さかったので、幸いだからそれを譲り受けて建て替えたものらしい。 そこでそれまでの山門のやり場である。これを国師は自分の育った宇和島仏海寺へ送って同寺の山門にした。その山門は昭和年代までそのままあったが、どういう都合か遠州奥山方広寺の足利紫山老師の代に買いとられ、今は同山の入口に厳然と聳えている。噂にきけば楼上には円覚寺時代からの観音大士及び十六羅漢が安置されており、その作も優秀であるそうだ。先年紫山老師の津送に登山した時、全体は小造りであったが気品のある建築で、奥山の境地にはよくはまっており、その処を得たように思えた。この山門を鎌倉から宇和島へ送るとき、あるいは門は別で仏像だけであったが、国師はその運送に頭を痛めたらしいが、その時も上野東の法親王が円覚寺の荷物では道中の通行に手続きが面倒であろうから、輪王寺の宮様の荷物としようと仰せられて、皇室の菊の紋章の札を立てて東海道から下ったそうで、仏海寺では明治時代までその札を保存して国師の遺徳をしのんでいたそうで、それを見たと話した老僧が十年ばかり前まで生きていた。遠州奥山方広寺山門
2026.01.30
しかし、コルベールの闘争からも知られるように、フランス自体でも、17世紀には、事情はまったく同じだった。オーストラリアさえもー他の諸国については黙するとしてーときおりプロテスタントが及ぼすこうした方向への影響は教派によって必ずしもすべて同じ強さではなかったようだ。カルヴィニズムは、ドイツにおいても、同じようにそうした影響を及ぼしたらしい。すなわち、ヴッパータールやその他の地方でも「改革派」の信仰(6)は、他派に比較すれば、資本主義精神の発達を促進することが大きかったようだ。たとえばルッター派に比してそれがいちじるしかったことは、大づかみにも、また個々の地方、とくにヴッパータールについても、比較してみれば分かることだろう(7)。(6)周知のように、「改革派」の信仰は、どんな形態をとっている場合でも、ほとんどすべて多かれ少なかれ緩和化されたカルヴィニズムないしウィングリアニズムだ。(7)ほとんど完全にルッター派に属するハムブルク市でも、17世紀にまで遡りうる唯一の資産家はある有名な改革派の家族だ。スコットランドについては、バックルを始めとして、イギリスの詩人のうちとくにキーツがこの関係を強調している(8)。(8)それゆえ、この関連を主張するのは決して「新しい」ことではない。ラヴレーやマシュー・アーノルドなどはすでにこの関連について論じている。むしろこのことに理由もなく懐疑を抱くことのほうが「新しい」ことだ。問題はこの関係を説明することなのだ。 ☆ウェーバーのこの注の多い「資本主義の精神」は、注をよく読みとかないと十分に理解できないところがある。その注たるや、思考が多彩におよび、読者を混乱させるところがある。本論は「フランスのユグノーの教会では最初から改宗者の間に修道士と産業人(商人や手工業者)が、迫害の時代にさえ、とくに数多く見出されたという事実は、まさしく特徴的な、ある意味で「類型的」なことがらなのだ」「スペイン人は、オランダ人のカルヴィニズムは商業精神をかきたてるということを知っていた」「カリヴィニストのディアスポラ(散財)を「資本主義経済の育成所」とよんでいるのも正しい」とカルヴィニズムが資本主義経済(近代産業)の担い手であるというこの類型的な事象は「(8)」の補注で、「この関連を主張するのは決して「新しい」ことではない。」とされ、この論文の目的は「この関係を説明することなのだ。」と解説されている。 一層はっきりしているのはーこれも一応記憶にとどめておくだけでよいがープロテスタント諸派のうちでもとくに「非現世的なこと」が富裕なこととともに諺のようになっている信団(ゼクテ)、わけてもクウェーカーとメノサイトの場合に、宗教的な生活規制が事業精神の高度な発達と結合しているということだ。イギリスや北アメリカでクウェイカーが演じた役割は、オランダやドイツではメノサイトが演じた。このことは幾多の周知の事実によって明らかだが、とくに東プロイセンでメノサイトが兵役に服することを絶対に拒否したにもかかわらず、フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世さえ産業の不可欠な担い手だとしてそれを放任したという事実は、この国王の性格に照らして考えるとき、もっとも有力な例証の一つだと言わなければならない。★余談になるが、このフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世については、台湾糖業政策について、新渡戸稲造と児玉総督との著名な対談がある。 着任後2か月も立たないうちにすぐにジャワに製糖事業を見に行きました。私は殖産局長というので台湾の財政の独立を計画するについて、台湾にどういう産物が最も適しているかにということについて意見を書いてくれというわけでありました。私は砂糖だナと思って、それじゃとにかくジャワに行って砂糖を研究しましょうと申しますと、すぐに行ってくれということになった。それから帰って全島をわずか3週間ばかり歩きました。汽車もろくにない時分でありました。そうして台北に帰って来る、 「君、すぐに意見書を出してくれ」と後藤さんが言われる。「わずか3週間見たくらいでありますから、意見書はもっと調べた上で差し出します」「イヤ調べなくても良いからすぐに出してくれ」「それは困りますナよく調べていろいろ参考書も見てから意見書を書きます」と申しますと「イヤそんな事は要らない。台湾のことのよく分からないうちに書いてくれ。君が台湾の実態を知ると、眼が痩せて思い切った改良策が出なくなる。ジャワを見た眼の高い所で書いてくれ。行われない事でも何でも良いから、高い所を見た眼で書いてくれ」と言われました。その時に児玉さんも後藤さんもそういう風なやりかたであるから、思い切った事が成るのだと深く感じました。ところが実際にうとい学説や理想論などを言って頭からはねつけられると思っておりましたが、幸いにも私の意見が容れられました。 新渡戸は、『偉人群像』(333~336頁)で、次のように語っている。 わが輩殊に児玉将軍に接して、彼の心の動きに感服したことは、右に述べた産業意見の内に、糖業に関する意見書を総督に出したが、総督自ら読むに先だちて、関係官衙の者共が考究して、終りに総督の手元に達した。スルト総督はこの意見書を読み終って、わが輩を呼び出したので、我輩総督官邸に行くと、児玉総督は軍服を着て、唯一人机の側に坐っていた。その机の上には、我輩の意見書が一冊横たわっていた。我輩を見るや、児玉「君、僕はこの糖業意見書を見た。しかも二度繰返して見た。一体わが輩は書類を二度も繰返すことはしない男だが、台湾財政独立の基を築く根底論であるから念を入れて見たが、そこで聴きたいことがある。君これで行けるのか。」新渡戸「はい、行けると思えばこそ書いたのであります。」児玉「本当にこれで行けるかね。」新「はい、技術上、学術上から推せば、必ず行けると思います。しかし、この意見書通り、実行するかせぬかによるのであって、この中に殊に閣下に読んでいただきたいと思うところが、一ページ御座いますがお気につきましたか。」というと暫く首を傾けていたが、児玉「それはフレデリック大王のことではないか。」新渡戸「全くそうであります。フレデリック大王がプロシャの農政改革実行の為めに、時には警察権を用い、時には憲兵の力をかりたりして、なかなか手きびしくやりました。しかるにここに糖業を基礎として台湾財政独立を計るには、フレデリック以上の決心を要するものと思います。なかなかこの保守的の農民を相手に改良種を植え付けたり、進んで機械を用いることは容易でなかろうと存じます故に、仮に閣下が私にこれをやれと仰せられたところで、一兵卒のない技術官には何も出来ません。とに角この意見書でやるかやらないかという問題は、全く総督の決心一つによることであります。」と述べたところ、総督は椅子から立ち上がって、部屋の中を5,6度も歩き出した。わが輩は彼の返事がイエスかノーか、彼の態度様子について注目していた。暫くあって彼は再び椅子に戻って来て、手を振ってニッコリ笑いながら、「君、やろう。」この一言が即ちかの台湾糖業の今日の大発展の出発点となったのである。児玉将軍の「行ろう」という一言は真に力強いものであった。何ゆえなれば彼は思想の人より実行の人である。彼の履歴を見ても、実行、敢行、断行の生涯が一貫されている。『糖業改良意見書』の中の フレデリック大王のこと を現代語訳して引用してみよう。(「新渡戸稲造全集」第4巻291~292頁)「昔、プロシャ国のフリードリヒ大王はその父の遺志を継いで大いに力を農業改良に尽された。父王が専ら節倹を勧めて富源の枯渇を防ぎ、もってプロシャ国の財政の基礎を建てられた後をうけて、フリードリヒ大王は一意富源涵養に志して昼夜みずから村落を巡り、直接地方の小役人に命令した。そして亜麻、穀類、牧場の牛馬より野菜類の改良に至るまで、躬みずからスキを握ろうとする姿勢をもって指導奨励の労を執り、ジャガイモに向っては特に力を注いで当時これを栽培する者は極めて稀だったのを7年間で4倍の生産額の増進させたのであった。当時、王のこの事業に熱心で非常の決心をもってこれに臨み、その施策はほとんど極端にはしったものがあった。こまかくいうと役人のジャガイモの耕作奨励に勉めない者を淘汰し、また農夫のジャガイモ耕作しようとしない者には罰金を科し、強制のために憲兵を使用したことさえあった。このように極端にはしった結果は、自然や風土の適しないことを顧みないで、人民に強制させて不利を蒙らしめたという過失を免れないとしても、今にして当時を顧みれば、プロシャ国農業の復興は実にこの時にある。この合理的強制政策の美果にほかならないことは明白であって、王の偉大な業績は千年の下忘れられないものである。放任制度の下では遅々とした農業の進歩に一刺激を加え、その速度を急にしようと望むならば、勢い国家の力に頼らないわけにはいかない。いわんや本島の糖業はプロシャ国のジャガイモと同日に論ずることはできない。糖業の興廃は実に本島の財政、そればかりでなく帝国植民政策が成功するか失敗するかに関する重大事であるから、政府のこれに対する態度は極めて丁重に、これに施す方針は必ず確乎不抜でなければならない。政府が果たしてこの決心があるならば、これを実行する方法として糖業奨励法のようなものを発布し、これに基いて適当な機関、すなわち臨時台湾糖務局とも称するようなものを設置し、支局または出張所を産糖地に配置して、上述した改良方法の実施に関する事務はすべてこれに一任して実績を挙げるように努めさせるべきである。」
2026.01.30
(昭和56年8月25日発行、春秋社)(1959年4月20日発行、春秋社)朝比奈宗源老師の獅子吼 抜粋35P.138-140 こぼれ話 その2一、本坊庫裡の筧のこと 国師の住山は30年にもわたったので、そのいつ頃かは分からないが、円覚寺で庫裡の勝手へ裏の山から竹の筧で水を引いたら、国師は大変機嫌がわるく、「今の若い者は体を使うことを憎んで、こんな無精をする」といわれたという。これは私の師匠の真浄老師から60余年前にきいたことだ。その時もすぐ昔の人はなぜ生活を便利にすることをそんなに悪徳とされたのだろうと不可解に思い、それを肯定した態度で話した師匠まで同様に思ったことがある。自分が80歳になって国師や師匠よりも老僧になった今日でも、この話はよく理解できない。一、白川楽翁との問答 国師が円覚寺に参詣に来た松平定信を出迎えたものか、二人の問答に出る般若水は当山の裏を入ったすぐ左側のちょっとした岩の下にある。以前は清らかな水がちょろちょろと出て、下のこれも可愛い滝つぼのような水たまりにそそいでいた。そこには昔から境内の十勝の一つとして般若水という立札があった。これを見た楽翁は、「般若水というが、この水にどういう仔細があるのですか」ときくと、国師はすかさず、「左様この水は四六時中、般若の真理を説き通しでありますが、あなたには聞こえませんか」と一拶した。また進んで僧堂の前へ来ると、「坐禅」と書いた牌(はい)が掛けてあるのを見て「坐禅」とは、ときくと「あなたが鉄鞋で一日中に日本国中を一めぐりすることができても、この坐禅のことばかりはお分かりになりませんよ」と、時の天下の権力者を子供扱いしたと伝えられている。なお、この般若水の上に何百年かを経た好い形の赤松があり、これも般若松と呼ばれていたが、関東大震災の少し前に風で倒れた。寺ではそれを用材に挽いて取って置くと、間もなく大震災で全伽藍が倒壊、第一期に復興した現在の庫裡の玄関を入った広い廊下の椽(たるき)はこの松を記念しようと、その板で張ったものである。
2026.01.30
永平初祖学道用心集 6-1道元・学道用心集講話「第六 参禅に知るべき事」(澤木興道)その1 第六 参禅に知るべき事右、参禅学道は一生の大事なり、忽(ゆるが)せにすべからず、豈卒爾(あにそつじ)ならんや。古人臂(ひじ)を断ち指を斬る、神丹の勝躅(しょうちょく)なり。昔、仏家(ほとけ)を捨て国を捐(す)つ、行道の遺蹤(ゆいしょう)なり。今人云く、行じ易きの行を行ずべしと。此の言尤も非なり、太(はなは)だ仏道に合(かな)わず。若し事を専にして以て行に擬(ぎ)せば、偃臥(えんが)猶懶(ものう)し、一事に懶ければ万事に懶し。易きを好むの人は、自ら道器に非ざることを知る。況んや今世流布(るふ)の法は、此れ乃ち釈迦大師無量劫来難行苦行して、然して後に乃ち此の法を得たるなり。本源既に爾(しか)り、流派(るは)豈易かるべけんや。好道の士は易行を志すこと莫れ。若し易行を求めば、定んで実地に達せず、必ず宝所に到らざるものか。古人大力量を具するすら尚言う、行じ難しと。識るべし仏道の深大なることを。若し仏道本(もと)より行じ易き者ならば、古来大力量の士、難行難解と言うべからず。今人を以て古人に比するに、九牛の一毛にも及ばず。而も此の少根薄識を以て、縦(たと)い力を励まして以て難行能行に擬するとも、猶古人の易行易解にも及ぶべからず。今人の好む所の易解易行の法とは、其れ是れ何ぞや。已(すで)に世法に非ず、又仏法に非ず、未だ天魔波旬(てんまはじゅん)の行に及ばず、未だ外道二乗の行に及ばず、凡夫迷妄の甚しきと云うべきか。縦い出離を擬すと雖も、還って是れ無窮の輪廻(りんね)なり。其の骨を折(くじ)き髄を砕くを観るに亦難(かた)からざらんや、心操を調うるの事尤も難し。長斎梵行亦難からざらんや、身行を調うるの事尤も難し。若し粉骨貴ぶべきものならば之を忍ぶ者昔より多しと雖も、得法の者惟(こ)れ少し。斎行(さいぎょう)貴ぶべきものならば古より多しと雖も、悟道の者惟(こ)れ少し。是れ乃ち心を調うること甚だ難きが故なり。聡明を先とせず、学解を先とせず、心意識を先とせず、念想観を先とせず、向来都(すべ)て之を用いず。身心を調えて以て仏道に入るなり。釈迦老子云く観音流(ながれ)を入(かえ)して所知を亡ずと。即ちこの意なり。動静の二相了然として生ぜず、即ち之れ調なり。若し聡明博解を以て仏道に入るべくんば神秀(じんしゅう)上座其の人なり。若し庸体卑賤を以て仏道に嫌わるるものならば曹渓高祖豈敢てせんや。仏道を伝得するの法は、聡明博解の外に在る事、是に於て明かなり。探って尋ぬべし、顧みて参ずべし。又年老耄及(ぼうぎゅう)を嫌わず、又幼稚壮齢を嫌わず。趙州(じょうしゅう)は六旬余にして始めて参ず、然りと雖も祖席の英雄たり。鄭娘(ていじょう)は十三歳にして久学す、能く又叢林の抜萃なり。仏法の威は加と不加とに見(あらわ)れ、参と不参とに分る。或は教家の久習(くじゅう)、或は世典の旧才(くさい)、皆禅門を訪(と)わる、其の例是れ多し。南嶽の慧思は多才の人なり、尚達磨に参ず、永嘉(ようか)の玄覚は秀逸の士なり、已に大鑑に参ず。法を明め道を得るは、参師の力たるべし。但宗師に参問するの時、師説を聞いて己見に同ずること切れ、若し己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄(きよ)うし、眼耳を静かにして、唯、師法を聴受して更に余念を交えざれ。身心一如にして水を器に瀉(うつ)すが如くせよ、若し能く是(かく)の如くならば方(まさ)に師法を得ん。今愚魯の輩(やから)、或は文籍(もんじゃく)を記し、或は先聞を蘊(つつ)み、以て師説に同ず、此の時、唯、己見古語のみ有って、師の言未だ契(かな)わず。或は一類あり、己見を先として経巻を披(ひら)き、一両語を記持して以て仏法と為す。後に明師宗匠に参じて法を聞くの時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合わざれば非と為す、邪を捨つるの方(みち)を知らず、豈正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫(じんじゃごう)なるも尚迷者たらん、尤も哀むべし、之を悲しまざらんや。参学識るべし、仏道は思量、分別、ト度、観想、知覚、慧解の外に在ることを。若し此等の際に在らば、生来常に此等の中に在って常に此等を翫(もてあそ)ぶ。何が故ぞ今に仏道を覚(さと)らざる。学道は思量分別等の事を用うべからず、常に思量等を帯びて吾身を以て検点せば、是に於て明鑑なる者なり。其の所入の門は、得法の宗匠のみ有って之を悉(つまびら)かにす。文字法師の及ぶ所に非ず。天福甲午清明(きのうえうませいめい)の日書す。「参禅知るべき事」この段は、十章のうちで一番文句が長い。世の中では参禅といえば、何かこうやって法を聞くこととか、あるいは独参して法を聞くことのように思う。また公案を拈提(ねんてい)したりすることのようにばかり思うけれども、如浄禅師から道元禅師、それから瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師、常済(じょうさい)大師の流れにおいては、いつでも参禅とは坐禅なりである。わたしは昨日、『正法眼蔵』三昧王三昧(ざんまいおうざんまい)巻、それから海印三昧、三味に関係する眼蔵をほとんど読んだ。その中に道元禅師が、身で坐禅するか、心で坐禅するか、身心を脱落して坐禅するか、それからまだいろいろあるけれども、「坐禅を坐禅と知れる者まれなり」と書かれてある。これは公案を考えて悟ろうとするものではない。わたしもこの年まで雲水しておるのだから、いろいろなことがあるが、しかし熱が冷めてしまえばやはりもとの凡夫である。大したことはない。この年まで坐禅、坐禅といっているのだから、もしそういう形に伝記を書いたら、大悟何遍、小悟その数を知らずというてもいいくらいのことはたくさんあるけれども、それはいずれも、大したことじゃない。ところがここに参禅は坐禅なり、また坐禅を坐禅と知れるまれなり、と、こういう言葉がある。また『正法眼蔵御抄』、これは正法眼蔵を註釈したもので一番古いものであるが、この中に、誰が坐っても坐禅は坐禅なり、とある。わたしのように四十年も五十年も坐禅、坐禅といっておると、坐禅がいつの間にやら商売になってしまった。 坐禅で月給もらうのはわたしが元祖でしょう。人ばかり坐禅させて、学生を怒るばかりで、自分は坐禅しておるひまがない。人を坐禅さすのが名人になって、自分は名人でなくなってしまった。そうすると、始めて坐禅する人でも、わたしのように五十何年坐禅しておる者でも同じことである。盗(ぬす)ッ人(と)でも七十にもなれば非常に下手になる。わたしが盗ッ人だったら、わたしの発心した十七、八の時分がきっと一番上手だったと思う。坐禅でも、たいがいの禅宗の坊さんは、おれも七十になったでのう、と、よほど悟りが上等になったようにいうけれども、わたしはそんなことはよういわぬ。そうすると、年にはかかわらん。坐禅ならば誰の坐禅でも作仏(さぶつ)なり、とある。(「沢木興道全集」第2巻p.124-127)
2026.01.30
192二宮翁夜話巻の5【7】尊徳先生がおっしゃった。人の世の災害は凶歳よりはなはだしいものはない。そして昔から、60年間に必ず一度はあると言い伝える。さもあろう。ただ飢饉だけではない、大洪水も大風も大地震も、そのほか非常の災害も必ず60年間には、1度くらいは必ずあるものである。たとえ無いとしても必ず有る物と極めて、有志者で申し合せ、金や穀物を貯蓄するがよい。穀物を積み囲むには籾(もみ)と稗(ひえ)ともって、第一とする。田の多い村里では籾を積み、畑の多い村里では、稗を囲うがよい。二宮翁夜話巻の5【7】翁曰く、人世の災害凶歳より甚敷(はなはだし)きはなし、而して昔より、六十年間に必ず一度ありと云ひ伝ふ、左もあるべし、只(ただ)飢饉のみにあらず、大洪水も大風も大地震も、其の余非常の災害も必ず六十年間には、一度位は必ずあるべし、縦令(たとひ)無き迄(まで)も必ず有る物と極(き)めて、有志者申し合せ金穀を貯蓄すべし、穀物を積み囲ふは籾(もみ)と稗(ひへ)とを以て、第一とす、田方(たかた)の村里にても籾を積み、畑方の村里にては、稗を囲ふべし。
2026.01.30
「<安心(あんじん)>の道しるべ」足立大進p.185- 黙 説了也(もく・せつりょうや) その1 仏教にはいろいろな宗派宗旨があります。その多くはお釈迦さまがお説きになった言葉、つまり経典をより所として成り立っております。 たとえば、華厳宗という宗派は『華厳経』というお経を根拠にしておりますし、天台宗とか日蓮宗は『法華経』がより所です。真言宗は『大日経』とか『金剛頂経』というお経によって、真言宗の教えはこうであると教義を立てています。 このように、それぞれの宗旨宗派がより所とするお経を、「所依の経典」と申します。 では、私ども臨済宗、禅宗の「所依の経典」は何かと申しますと、実はこれが無い。禅宗の教えは何というお経に出ているのですか。どの経をよんだら良いですかと問われても、それが無いのです。 所依の経典、つまり各宗派宗旨が根拠とするお経は、お釈迦さまの言葉、仏語であり、経典をより所とする宗旨宗派は「仏語宗」である。 これに対して、臨済宗、禅宗はお釈迦さまがお悟りを開かれた、そのお悟りの心を根本とする「仏心宗」であると申します。 私は、新しく住職する若い和尚に、 黙 説了也と書いてはなむけとすることがあります。黙っているところで、禅の要点は全部説き終わっているのだと。 先年よく喋るある和尚にこれを書いて差し上げたら「老師は意地が悪い」と言われました。p.187- 黙 説了也(もく・せつりょうや) その2 何年か前、ミュンヘン・フィルハーモニー楽団の指揮者のお方が、円覚寺においでになりました。大書院にお通ししましたが、足がご不自由で、これで音楽の指揮ができるかと案じられるくらいです。 その方には椅子を用意し、私は座について、この方が指揮者で、隣は大使館の誰々であるとか紹介があって、ことらも、これは何部長であると一応の紹介があり、向かい合って坐っておりました。 私は顔を見てにっこりと笑っているだけで何も言わなかった。にこにこしておられる。私のほうの執事が見かねて、何か質問がありますか、何かお話してくださいと催促しました。 その時、その指揮者の方が「もうお目にかかっただけで十分です。有難うございます」と言って手を合わせて、黙ってにこにこして、何も質問をなさらない。その時、私はこの、 黙 説了也という言葉を色紙に書いて持って行き、差し上げました。それで無言のところに禅の要点はすべて説き終わっている仔細があると、ちょっと説明をしましたら、「音楽も一緒なんです、始まる前に終わっているんです」とおっしゃいました。 その後テレビで拝見しましたら、介添えがなければ歩けないようだったのが、指揮者として台の上に立たれたら、もう全然そういうことを感じさせなかった。見事なものだと思いました。 この指揮者の方が亡くなられてから、ご子息で、映画監督をしておいでの方が、父が生前、円覚寺へ行ってたいへん感動したと常々語っており、日本に行ったら必ず訪れるように申しておりましたと、その後、二度も円覚寺を訪ねて下さった。洋の東西を問わず、一芸に秀でた人には通ずるものだと、こちらが感激したことがございます。第1194回「口は禍の門」先代の管長、足立大進老師は、よく「黙」の一字を揮毫しておられました。そして「黙」と書いて、そのあとに、「説了也」と書いておられました。黙っていて、それですべて説き終わっているということです。私が、僧堂の師家の代参という役を仰せつかった時にも「黙」の一字を書いてくださいました。そのあとには、『維摩経』の「善哉善哉乃至無有文字語言是眞入不二法門」と書いてくれました。文殊菩薩の問いに対して維摩居士が何も言わなかったのでしたが、その一黙が、素晴らしい、素晴らしいと讃えた言葉です。なんの文字言語もないのが、真の不二の法門に入るということだと讃えたのです。
2026.01.29
世界史にみる工業化の展開-二重性(経欧史学会編 学文社) P232 18世紀および19世紀のアメリカにおける資本主義の生成と発展を語るときに必ず引用されるのが、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において展開された、有名なテーゼである。ヴェーバー・テーゼはごく簡単に整理すれば次のように理解されていると考えてよいであろう。近代資本主義の特質は、非合理的な利潤獲得を目的とする賎民資本主義(Paria-Kapitalismus)とは全く異なり、正当な利潤を合理的に追求するという合理的経営資本主義であると考えた。そしてその心理的起動力=資本主義の精神、すなわち勤労や節約といった市民的心情倫理は、「あたかも労働が絶対的な自己目的=天職Berufであるかのように励むという心情」であり、そうした天職倫理は、カトリック的な禁欲=世俗外的禁欲ではなくて、プロテスタント的禁欲の精神、すなわちプロテスタントの世俗内的禁欲の精神から生まれたのである。さらにこうした心情は、興隆しつつある中産階級のなかにのみみられるものであり、彼らを内面から推し進めたのがまさにプロテスタンティズムの倫理であった。そしてヴェーバーが考えた中産階級は、近代西ヨーロッパおよびアメリカ合衆国にしかみられない、というものである。 ここで注意しておかなければならないのは、ヴェーバーが資本主義の精神の担い手としてあげているのは資本家ばかりではなく、労働者もその中に含まれているという点である。
2026.01.29
永平初祖学道用心集 5-8道元・学道用心集講話「第五 参禅学道は正師を求むべき事」(澤木興道)その8 西行法師の書かれたものにはおもしろい話がたくさんある。念仏申し死んだら結構じゃと思ったものだから、「往生するから皆さん寄ってください」といって幕を張って首を吊ることにした。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申して、一週間のうちに往生するといったけれども、一週間の間に決心がつかない。もう一週間延ばしてくれといった。そこで西行法師はさもありなんと書いてござる。そうしてさらに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、もう三日日延べしてくれ、さもありなん。こういうことで、ぼつぼつ興がさめてきて見物人がだれもいなくなった。そうしたら今度はいよいよ往生するからというので、また人が集まった。そうして五日間、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えて、結構な往生を遂げさっしゃったと書いてある。念仏をそんなものと心得ておった。鎌倉以前の幼稚な信仰である。何も極楽往生という言葉が悪いのではないが、死んだらいい所へゆけると思うのはあまりにも浅はかな考えである。 だから「縦い良薬を与うと雖も、銷方を教えざれば病と作(な)ること、毒を服すよりも甚し」だいたい、自殺と他殺とどれだけ隔たりがあるかというと、同罪である。われわれは生きておるのではなくて、生きさせてもろうておるのである。わたしはいつもよくいうが、心臓に油さした者もなく、ねじを巻いた者もありはせん。天然自然に生きておる。宇宙の原則と続いておる。それを自分だけ気ままにするのは無責任なわけで、死なんならんときに死にとうもないのはどうかと思うけれども、生きられるだけ生きんならん。自殺も他殺も仏教では同罪である。だから「良薬を与うと雖も、銷方を教えざれば病と作(な)ること、毒を服すよりも甚し」という弊害が起こる。「我朝古より良薬を与うるの人無きが如く、薬毒を銷(しょう)するの師未だ在らず」薬の中毒ということがあって、アスピリンを飲んだら、熱は下がったけれども、何やら頭がおかしいということがある。「是を以て生病除き難く、老師何ぞ免れん」人生の根本問題の解決がついておらない。人生何をしたらいいか、とにかくでたらめ放題でやっておるので、人生どうせんならんというきまりがあるわけじゃない。だから、坊主にでもなってみようかというデモ坊主というのがある。お寺にでもいってみようか、歌舞伎役者にのろけるよりその方が品もいいという後家さんもある。何も大したことはない。(「沢木興道全集」第2巻p.116-117)
2026.01.29
192二宮翁夜話巻の5【6】尊徳先生はおっしゃった。穀物を貯蔵して数十年を経て少しも損じない物は、稗にまさるものはない。申し合せてなるだけ多く貯蔵するがよい。稗を食料に用いるに、凶歳の時は糠(ぬか)を去ってはならない。から稗一斗に小麦4,5升を入れて、水車の石臼でひいて、絹篩(きぬふるい)にかけて、団子にして食べるとよい。俗に餅草という蓬(よもぎ)の若葉を入れると、味もよい。稗を凶歳の食料にするには、この方法が第一である。稗飯にするのは損である。しかし上等の人の食料には、稗を2昼夜の間、水につけて、取り上げ蒸籠(せいろ)で蒸して、よく干し、臼で搗いてヌカを去って、米を少し交ぜて、飯に炊く。大いに増えるものであるから、水を余分に入れて、炊くがよい。上等の食として用いるこの方法が一番よい。そうであるから富裕の者も自分のためにも、多く貯蔵しておいてよい。つとめて貯蔵するがよい。二宮翁夜話巻の5【6】翁曰く、囲穀(かこいまい)数十年を経て少しも損ぜぬ物は、稗(ひえ)に勝(まさ)れるはなし、申合せて成る丈(だけ)多く積み置くべし、稗を食料に用ふるに、凶歳の時は糠(ぬか)を去る事勿れ、から稗一斗に小麦四五升を入れて、水車の石臼にて挽(ひ)き、絹篩(きぬぶる)ひに掛けて、団子に制して食すべし、俗に餅草(もちくさ)と云ふ蓬(よもぎ)の若葉を入るれば、味好(よ)し、稗を凶歳の食料にするには、此の法第一の徳用なり、稗飯にするは損なり、されど上等の人の食料には、稗を二昼夜間、水に漬(つ)けて、取り上げて蒸籠(せいろう)にて蒸して、而して能く干し、臼にて搗(つ)き、糠(ぬか)を去りて、米を少(すこし)く交ぜて、飯に炊(かし)ぐなり、大いに殖(ふえ)る物なれば、水を余分に入れて、炊(かし)ぐべし、上等の食に用ふるには此の法に如(し)くはなし、されば富有者自分の為にも、多く囲ひ置て宜敷(よろし)き物なり、勉めて積み囲ふべし。
2026.01.29
「<安心(あんじん)>の道しるべ」足立大進p.185- 黙 説了也(もく・せつりょうや) その1 仏教にはいろいろな宗派宗旨があります。その多くはお釈迦さまがお説きになった言葉、つまり経典をより所として成り立っております。 たとえば、華厳宗という宗派は『華厳経』というお経を根拠にしておりますし、天台宗とか日蓮宗は『法華経』がより所です。真言宗は『大日経』とか『金剛頂経』というお経によって、真言宗の教えはこうであると教義を立てています。 このように、それぞれの宗旨宗派がより所とするお経を、「所依の経典」と申します。 では、私ども臨済宗、禅宗の「所依の経典」は何かと申しますと、実はこれが無い。禅宗の教えは何というお経に出ているのですか。どの経をよんだら良いですかと問われても、それが無いのです。 所依の経典、つまり各宗派宗旨が根拠とするお経は、お釈迦さまの言葉、仏語であり、経典をより所とする宗旨宗派は「仏語宗」である。 これに対して、臨済宗、禅宗はお釈迦さまがお悟りを開かれた、そのお悟りの心を根本とする「仏心宗」であると申します。 私は、新しく住職する若い和尚に、 黙 説了也と書いてはなむけとすることがあります。黙っているところで、禅の要点は全部説き終わっているのだと。 先年よく喋るある和尚にこれを書いて差し上げたら「老師は意地が悪い」と言われました。
2026.01.28
(昭和56年8月25日発行、春秋社)(1959年4月20日発行、春秋社)朝比奈宗源老師の獅子吼 抜粋32P.194-199 仏光国師のこと その2その中のいく首かを摘録すると、 遠く迦文肘後の方を佩び、重ねて鶴肋遺伝の芳を尋ぬ。感ず、公が西望して香を焚いて立つに。故に我れ迢々として大唐を出ず。 賞す公が百計、咨参を解し、路を得て行く時、放憨をほしいままにするを。自ら笑う戸門に鎖鑰なく、知らず老僧が龕に偸入することを。 黄金城郭われ主となる。君が先手するをいかんともせず。老夫を留め得て破屋を看せしむ。風前おぼえず笑い呵々。 故園の田地すでに荒蕪す。濁世委われ久居すべきにあらず。あまつさえ君を追ってすなわち行かんと欲す。念う君、孤寡人の扶くるなからん。 というような類である。ここに詳しく解説することはできないが、第一は、公の至誠に感じて日本に来たこと、第二以下はいずれも公の力量をほめ、又先手をとって涅槃城中に入ったことを「自ら笑う、この世界に戸をたてることがないので、わしが入ろうと思っていた龕に公がこっそり入ってしまった」とか、「わしが主であった黄金の城郭に先手をとってはいり、わしのような老いぼれをあとへのこした。風前おぼえず笑い呵々」と。この大笑は国師の痛腸をしぼった笑いだ。 最後の句は「わしも君のあとを追っていこうと思う。君もひとりで淋しいであろうから」と。まるで幼児を失った母のような切ない愛情を吐露していられる。 国師の「自ら悼む」という詩に至ってはさらに一層悲壮な感がある。 頓然として歯谿又頭重。一息青山万興劫空ず。後に千年雲水の客。是れ誰か此に来りて孤踪を弔わん。 法の為に人を求めて日本に来る。珠回ぐり玉転じて荒苔に委す。大唐沈却す孤筇の影。 添え得たり扶桑一掬の灰。 本と生滅なし是れ真常。暫く閻浮に出でて路を借りて行く。更に聴け老夫真実の説。 一函の白骨乱れて縦横。 灼然として悲願無窮を示す。是の処青山古松あり。舌あって談ぜず無舌の句。朝々雨を呵し又風を呵す。 学翁睡り熟して正に悠なる哉。花木堂前万象ひらく。畢竟分身誰か是れ伴。牛頭去り了って馬頭回る。 これは七首の中の五首である。国師の詩は当時の禅僧の詩としては決して難解のものではない。しかし今日から見ればむずかしい。(略)鎌倉時代の禅僧には詩人が多いが、国師のようにその死後を深刻に歌った人はほかにはないと思う。多くの禅僧はその禅的人生観に立って、あるべきように歌っているが、国師の詩にはあるべきようの枠にはまらない。高僧ぶったところなど微塵もない。ただの人間が悲しいところを悲しいと感じ、うれしいことをうれしいと感じたように、素直に歌っていられる。「後二千年雲水の客、是れ誰か此に来りて孤筇を弔わん」とか「更に聴け老夫真実の説、一函の白骨乱れて縦横」などの句は、その祖国が異民族のために奪われ、祖先の墳墓が踏みにじられて遠く日本に来て唯一の知己を失った国師の、人生への無常観、ああした乱世の人たちの味わう虚無感が少しの粉飾もなく打ち出されている。しかし、国師の憂いは今までのところ、我が国においては杞憂であった。国師の火葬された遺骨は、始め建長寺開山塔後の山上に葬られたが、法孫夢想国師の手によって今の円覚寺舎利殿後方の山上に移され、現存する簡古風雅な塔が築かれた。さすがに夢想国師の工夫になるだけあって、国師の人柄にふさわしい塔様である。戦前墳墓にも国宝という名が冠せられた時、この塔はまっさきに指定され、今も法孫の尊崇とあつい擁護を受けている。
2026.01.28

「鈴木藤三郎伝」189~196ページ 話し終わって井上は席に帰った。一同は、熱狂的な拍手で、これに答えた。 近くロシアとの開戦を覚悟していた井上は、大蔵大臣としての最近の体験からも、当時、わが国の輸入超過の激増によって正貨が海外に流出して、万一に備える資力が薄弱になることを心の底から憂えていた。その唯一の救済策として、わが国の産業の発達に、彼の全精力を集中していた。その中でも新領土の新興事業としての台湾製糖会社に、彼が、どんな大きな期待をかけていたか、この演説でも十分に知ることができる。 この台湾製糖会社の株主は、僅かに95名であったけれども、国策会社としての性質をもっていたので、皇室をはじめあまねく財界の一流の人々が集まっていた。それだから、この大株主会には一流中の一流人が出席していたのであるが、それに向かっての井上の説話が噛んで含めるように、まるで子どもにでも訓すように懇切丁寧をきわめているということは、一面、彼の世話好きな性格をよく示しているものであるが、他面には、当時の財界人の知識が、どんなに幼稚であったかを証するものである。また、これは、明治時代のわが国の産業の発達が、全く政府の指導と援助に依存していたという事実を端的に示すものとしても、興味深いものがある。しかし、最近まで大蔵大臣であって、現に財界の最高指導者である井上から、これほどの期待と庇護をかけられては、藤三郎をはじめ台湾製糖の関係者達が、身を粉にしても、この待望にそおうと奮起したことは、想像にかたくない。心のうちの感激で、血色のいい顔をいっそう輝かしながら、藤三郎が立って、「ただ今は、井上伯閣下からありがたいお話を承りまして、感激に堪えません。粉骨、必ずこの御期待にそう覚悟でございますことを、固くお誓い申し上げます。 次には後藤民政長官閣下のお話を承りたいと存じます。」こういって、藤三郎は、井上の隣に掛けている後藤に向かって。「どうぞ・・・・・。」と、頭を下げた。 短い顎鬚を奇麗に刈りこんだ赤ら顔に、当時としては珍しい鼻眼鏡をかけた後藤新平は、サッソウと立ち上がって演壇に進むと、活達な調子で話しはじめた。「私は製糖業については、まことに無経験でありますけれども、台湾での砂糖製造業は、実に有利なものと確信している者であります。それに児玉総督閣下からも、この事業についてはできるだけの保護と便宜を与えよという御命令もありましたから、私は、この糖業の発達には、十分に尽力をする覚悟でおります。 従来、台湾においての事業としては、金山とか樟脳、製塩事業など、いろいろと着手した者もありましたが、これらの多くは失敗してしまって、ほとんど台湾の事業というものは、すべて望みないかのように内地人から見捨てられ、せっかく、小資本でも台湾に向かって投資して、何か事業を起こそうと思っている者も、みな手を引いてしまうという有様でありました。 この時に当りまして、私は現職に就任いたしまして、それらの事柄を調査して見ましたところ、全くこれとは反対で、決して望みがないどころではありません。砂糖、鉱山、製塩、樟脳など、みな有利の事業であります。それでは、なぜに、こんな有利な事業が沢山ありながら、このように失敗するかと申しますと、今まで台湾で事業を計画した者はすこぶる多かったのですが、その企画が当を得ていなかったり、あるいは、当局者に適当の人物がなかったからで、目下成功しているのは、ただわずかに藤田、田中両氏の鉱山事業があるだけであります。 それであるから、台湾の事情に通じない人々は、台湾という所が、事業に適しない土地かのような感を抱いておる者があります。これは台湾が、濡れ衣を着せられている訳であって、前に申したような失敗事業家のために、汚名をこうむっているのであります。実に残念至極のことであるばかりでなく、今まで台湾へは、確実な事業家の来たことはないので、したがって本島人の信用を害したことも非常なものでありました。 そうしたところへ、今回、有力な株主を持ち、老練な当局者をいただいている当社のような会社が、台湾の諸事業中でも、もっとも有望な製糖業を企画せられたということは、私のまことに喜びに堪えないことであります。この事業が、非常な勢いで発達するであろうことは、もちろんでありますが、なおこの発達の成功によって、従来こうむっておりました汚名を、必ずそそぐことができると信じまして、諸君に感謝すると同時に、今後、ますます御奮発して事業にお当たり下さるように希望して、この事業の着手されたことを心から歓迎するものであります」 新領土の開発に40歳半ばの情熱を打ち込んでいる後藤は、豪放なうちにも、元は医者だけに人の気をそらさない如才ない口調でこういってから、いよいよ本題に入った。「土地の買収は、決して困難なことではありません。穏当な方法で簡単に授受させることは、容易なことであります。これは、台湾第一の生産事業の発達に関することでありますから、若し万一にも困難な場合があったとしても、十分尽力致す覚悟であります。今までに台湾で、砂糖の生産を文明的の方法でするのは、当社が最初でありまして、私どものもっとも熱望していたことが実現するのでありますから、これは当然であります。 鈴木氏の調査されたところによりますと、総督府で調査したものよりも、よほど多くの採取を得られる見込みのようであって、将来、台湾でもっとも大きな事業となるものは砂糖業ですから、総督府でも、十分この事業のためには尽力するつもりでおります。 また、建築材料その他の必要のために、山林払下げの件については、総督も十分承知されておられるようであります。これについても、できるだけ便宜を与えて、成功してもらいたいと思っておられるようであります。これについても、できる限りの便宜を与えて、成功してもらいたいと思っております。 前に申したように、従来事業を起こした者は、多く俗に壮士と呼ばれるような虚業家ばかりであって、台湾で営利事業はとうてい成功しないとか、官省が不親切であるとか、徒らに不平を鳴らして、台湾の生産事業をそしっておりますが、ただ一笑に付しているのであります。彼らの失敗は、理の当然でありますが、諸君は、これと違うばかりではなく、母国者としての義務を持たれ、かつ永遠の営利的事業の先導者であるからから、官においてもできる限りの尽力をして、保護と便宜を与えようと存じております」(台湾製糖株式会社・特別株主協議会議事録) 後藤は、こう力強い口調で、話を終った。一同はまた熱狂的な拍手を送った。財界最高の指導者である井上と、事業地で最大の実権を握っている民政長官の後藤とから、これだけの支持と援護を保証されたのだから、この事業の前途には、まばゆいほどの希望の光をみとめないわけにはいかない。しかも、それが単に個人の利益ばかりでなく、国家にも大きな貢献をすることになるのだと聞かされては、そうした事業の大株主となっている光栄に、この日清戦後の産業革命期の新興資本家達は、歓喜し興奮せずにはいられなかった。それにつけても、この後藤の話でも、わが国に領有されたばかりの台湾が、どんなに、ひと旗組の虚業家に悩まされていたかが推察される。これは、その後の朝鮮、満州、中国でも、同じようなことが繰り返して行われたことを思い合わせると、わが国民性というものについて、深く考えずにはいられないことである。後藤民政長官の演説に次いで、益田孝が、台湾に耕地としての土地買入れの提案をした。もちろん一同は異議なく、これを承認した。すると、次には大蔵や内務や各省大臣を、たびたび勤めるようになった山本達雄が立って、勢いよく増資希望の演説をした。 機を見るに便な益田は、すぐこれを受けて、次のように述べた。「ここに、諸君にお断りしておかなければならないことがあります。それは、当社は最初50万円の払込みで第一期の事業をいたす計画でありましたが、ただ今、山本氏の御発議もありました通り、今後は、それを百万円として事業を拡張する計画に改めなければなりません。なお、土地も、先には一千町歩を買入れる計画でありましたが、さらに三千町歩位は買入れておきたいという希望であります。工場ができて、開業の後に好結果を得ましたならば、またまた百万円の資本金を二百万円として、第二工場を起こしても宜しかろうと思います。」 会社が創立されて、まだ1か月にもならないうちに、第2次、第3次までの増資を提案したことは、随分突飛なようであったが、時の勢いというものは偉いもので、満場一致で、これを承認した。これで、大株主会協議会は午後4時30分に散会した。 当日の出席者は、井上馨 民政長官後藤新平の2来賓のほかに、陳中和(代)周端立、原六郎、武智直道、長尾三十郎、益田孝、アルウィン、熊谷良三、今村清之助、吉川長三郎、相馬順胤(代)大浦倫清、鍋島喜八郎、山本達雄、小栗富次郎(代)原田勘七郎、安部幸兵衛、志賀直温、田中銀之助、増田増蔵、磯村音介、岡本貞烋、岡村竹四郎、根津嘉一郎、三島通良と藤三郎の25名であった。 この大株主協議会の様子を見ても、井上が、この会社のために、いかに尽力したかということが分る。彼のこの懇切な指導と後援は、生涯変らなかった。しかし、これは、わが国の産業発達のため、ことに輸入超過を防ぐためという、国家経済上の見地からなされたものであって、決して一片の私情からではなかった。井上の持論としては、株式会社は社会的意義の上からいって、株主にばかり多額の配当をしたらいいというものではない。当時の金融状態から考えて、内地ならば1割、植民地ならば1割2分位を穏当とする。そして、それ以上の利益は、積立や償却に当て、会社の内容を堅実にし、社員や工員を優遇しなければいけないという意見であった。 台湾製糖会社も、創立2年目から5分、6分、8分と年々配当を増していって、5年目からは1割の配当を続けていたが、その後、利益も大いに増したので、9年目についに1割4分に増した。すると、たちまち井上から非常な御小言が出て、将来、増配はまかりならぬとの申渡しがあった。これには、重役一同も恐縮した。それで、次期には、前年よりはるかに利益が上がっていたのに、配当は1割2分に引き下げることになって、会社は一般株主に、この減配の理由を説明するのに、大いに閉口をしたと伝えられている。しかし、このおかげで、利益をドシドシ償却や積立てに当てたので、会社の内容はすこぶる堅実なものになった。
2026.01.28
(昭和56年8月25日発行、春秋社)(1959年4月20日発行、春秋社)朝比奈宗源老師の獅子吼 抜粋33P.135-140 こぼれ話 その1 大用国師(誠拙周樗(せいせつ しゅうちょ))の百五十年の遠忌を迎えるための準備として、昨年から山門屋根の葺替え。境内参道の石段を改修したり、新たに敷石の整備をいそぐ一方、国師の遺徳を顕彰する目的のため、禅文化研究所に依頼して、禅文化の5月号を誠拙禅師特集号として、各派の尊宿や学者方に執筆を願い、国師の遺墨や遺品を出陳してもらい、5月22日から6月6日は、真前への供茶をはじめ、終日添釜して供養していただくことになった。これに僧堂では5月18日から24日まで報恩大接心を行ない、国師の語録忘路集の提唱をして供養に充てることになった。これでまず仕度はととのったと思うが、さてまだ何かありはすまいかと考えた結果、わが山で時代が近いためもあろうか国師くらい逸話が多く残っている人はない。その逸話には宗派を越えて全仏教的教材となっている有名なものから、国師の生活にまつわるなんでもないような話は、ちょっと探しても見つからない。しかし国師に縁のあるものはやはりなつかしい。そこで私はここにその大した話ではないが、このまま消えてなくなるのは惜しいと思うこぼれ話のいくつかを記して、遠忌の記念にしようと思う。一、 そばや無極亭 国師はその時代の上野東叡山の法親王の帰依があつく、よく御所へ出て法談をされた。国師がそばが好きであったのは、法親王はいつも山下のそばやのそぼでご馳走された。平民的な国師はいつかそのそばやの主人と親しくされ、そばやが私の店にまだ屋号がありません。一ついい名をつけて下さいと願うと、国師はさっそく筆をとって、お前の店のそばはうまくていくらでも食える。そこできりがないから無極亭としようと、すぐ書いて渡した。そのそばやの額は明治の始めまであったそうで、私の先輩で実物を見たという人があった。因みに先年、北鎌倉駅前に知合いの人がそばやを開いて屋号を頼まれた時、私はこの因縁を話して無極亭と書いてあげた。幸いに今日でも繁盛している。円覚寺管長のページ 2025.07.03今日の言葉 大用国師のこと毎年六月二十八日は大用国師のご命日の法要を務めています。大用国師というのは、誠拙周樗禅師のことであります。円覚寺の中興と称せられる方であります。江戸時代に、円覚寺は衰退していた頃がありました。『円覚寺史』には、「口碑によると、圓覺寺山内の諸僧が、どてらを着て、博奕にふけつてゐたといふが、まさかそれがそのまま事實とは思へないが、」と書かれていて、更に「矢張り、相當の風俗綱紀の紊亂はあつたものと見える」と書かれているのです。しかも「一旦大切な舍利を正續院内の昭堂舎利殿の中の龕に安置するとなると、これを供養守護する人が必要になって来るが、山内は無人であったらしく、その係りを捻出出来ないとみえ、正續院自身も殆ど無人に等しかつたらしい。」という状況となっていたのでした。正続院には仏舎利をお祀りする舎利殿があり、開山様をお祀りする開山堂があります。そんな大事なところをお守りする人もいない有様だったのでした。そんな衰退していた宗風を挽回されたのが、大用国師なのです。江戸時代の禅僧としてはなんといっても白隠禅師がよく知られています。白隠禅師が江戸時代に臨済の禅を再興されたと言われています。大用国師は、その白隠禅師より五十九歳ほど若い方であります。大用国師は、四国の宇和島のご出身です。鍛冶屋の生まれで、三歳の時に父に死に別れます。母はまもなく再婚して、新しい夫との間に子供も出来ます。そうして七歳で宇和島の佛海寺で出家します。自らの意志というよりも、新しい夫婦の子供も出来てやむを得ぬ事情だったのだと推察されます。そこで雛僧として教育を受けました。十六歳で行脚に出て、本格的な参禅弁道に励みました。海岸寺の東巌禅師をはじめとして荊林禅師やすぐれた禅僧方を尋ねられました。井山の宝福寺におられた白隠下の大休慧昉禅師にも参じたとされています。最後に横浜永田の宝林寺東輝庵に隠栖されていた武渓老人こと月船禅師に参じます。誠拙禅師二十歳の時であります。この月船禅師という方は古月禅師の法系と言われていて、すぐれた禅僧でありました。三春の高乾院に住された後に、永田の東輝庵に寓居されていたのです。偈頌にもすぐれていてその詩偈集『武渓集』が知られています。 この詩偈集『武渓集』の訓注本をかつて出版したことがありました。当時の円覚寺は衰退していたのでありました。円覚寺でも創建当初は山内全体が修行道場として規律を保っていました。それが、山内に代々の住持の塔所である塔頭ができて、だんだんと塔頭に住する者達が独自に修行するようになって、本山の修行は形式だけになってきました。そして江戸期には、寺院の増加に併せて僧侶も増え、宗風が沈滞していったようです。さてそういう沈滞の気風の中で、九州の古月禅師がでて、禅風を挙揚され、その同じ系統にあたると言われる月船禅師が関東で教化を挙げられました。白隠禅師も静岡の原の松蔭寺で大いに教化をなされていたのでした。沈滞の気風を一掃しようという動きは地方からでした。そうして月船禅師の元で修行がほぼ完成したころに、大きな転機が訪れました。当時の円覚寺は続灯庵の実際法如禅師や仏日庵の東山周朝禅師らによって何とか円覚寺にも宗風を復古させようという機運が起こっていました。山内すべては無理でもせめて、舎利殿開山堂をいただく円覚寺一番の聖地である正続院だけでも僧堂として伝統の修行を復活させようと努力していました。そこでもっとも大切なのはその指導者を得ることです。僧堂を復興して宗風を挽回してゆくその任に堪える指導者が何としてでも必要でした。その白羽の矢が立ったのが、当時円覚寺末寺にあたる永田の宝林寺内の東輝庵にいた青年僧誠拙禅師その人でした。当時まだ弱冠二十六歳、その若者に円覚寺の将来が託されたのでした。続灯庵の実際法如禅師と師匠の月船禅師の推挙によって円覚寺に錫を移します。安永六年(一七七七年)、誠拙禅師三十二歳の時、東山周朝禅師に嗣法して仏日庵の塔主になりました。天明元年誠拙禅師三十六歳の時、正式に前版職という今日の僧堂師家に任ぜられました。そうして円覚寺の僧堂を復興されました。これだけでも一大業績ですが、大用国師は円覚寺だけにとどまらずに、六十二歳の時に八王子の広園寺にも僧堂を開単されました。開山峻翁令山禅師の四百年大遠諱に結制大会が行われ、それに併せて開単されました。 六十四歳で僧堂師家をご自分の弟子の清蔭禅師に譲られ一時山内の伝宗庵に隠居され、更に横浜金井の玉泉寺に隠居しようとされました。ところが隠居の間もなく、明くる年六十五歳で京都相国寺の大会に拝請され師家をつとめて『夢窓国師語録』を提唱されました。誠拙禅師の名は天下に広まり、六十九歳で天龍寺の大会も師家をつとめ、天龍寺にも僧堂の基礎を築かれました。さらに最晩年の七十六歳で再び上洛され、今日の相国寺僧堂を開単されました。今も相国寺僧堂にはその時の禅堂が残っています。ところが、その時病に倒れ、相国寺でご遷化なされます。文字通り僧堂の為に捧げた御一生でした。円覚寺にはご遺骨になって帰山され、今の正伝庵の塔所に埋骨されました。僧堂の開単だけでも円覚寺と広園寺、天龍寺と相国寺においてなされました。ほかに結制大会は、南禅寺や建長寺などにおいてもなされました。遠くは故郷である宇和島の仏海寺や大乗寺においても祖録の提唱がなされ、紀州由良の興国寺においても開山大遠諱を勤めておられます。 円覚寺は、大用国師開単以来、清蔭、淡海、東海和尚と代々誠拙下の師家方によって指導されてきましたが、明治になって一時閉単し、白隠下の今北洪川老師によって再開単されました。「大用国師」の諡号は大正八年に追贈されています。そんな功績のあった大用国師を偲んで法要をお勤めしたのでした。横田南嶺
2026.01.28
永平初祖学道用心集 5-7道元・学道用心集講話「第五 参禅学道は正師を求むべき事」(澤木興道)その7 そこで「或は人をして心外の正覚を求めしめ」正覚は菩提ということである。自分以外に、向こうに仏さまがあるように思う。客観的に仏さまがあると思っておる。自分自身が久遠の仏だということ、生まれもせねば死にもせぬということをのみ込んでいないのである。迷うた覚えもない。悟る必要もないということが、まだとっくりと性根にこたえておらんのである。お釈迦さまは何を教えられたかといえば、生まれた覚えのない人間になれということである。それなら死ぬ気づかいはないぞということである。しかるに「心外之正覚を求めしめ仏身は法界に充満す」とお経にあるが、これは宇宙いっぱいということであり、宇宙いっぱいなら、宇宙いっぱいの仏のほかにおれはありはせん。それを向こうに仏さまがあるように思う。あるいは木像を向こうにおいて、その木像を一生懸命に拝む。どうか極楽にやってくださいとか、福を授けてくださいとか、どうぞわたしを悟らせてくださいとか・・・・・。心外之正覚を求めておる。「或は人をして他土の往生を願わしむ」この世界から金魚鉢の水をかえるように、パッと極楽へ生まれ変わる。そんな世界があるなら望遠鏡で見てみたらいい。ここではいかんからあそこへ生まれよう、そんなものはありはせん。どうせここでいかんものが、夜逃げして余所へいったら、また信用のない世界をふやすようなものである。ここが厭なら余所へいっても厭である。お釈迦さまは逃げたり追うたりするのを戒めておられる。女と生まれて残念だ、男になれるんなら煩悶はせんとか、年寄りが、おれがもっと若かったらという。そんな阿呆なことはない。男に生まれたら男、女に生まれたら女、年寄れば年寄りの分でゆく。心外之正覚を求め、向こうに神仏があると思うものじゃから、「惑乱此に起り、邪念出れを職(もと)とす」と。(「沢木興道全集」第2巻p.115-116)
2026.01.28

『二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう』横田南嶺禅師「花は嘆かず」坂村真民咲くも無心散るも無心 花は嘆かず今を生きるp.140-144 恩師の松原泰道先生に初めてお目にかかったのは、まだ中学生の頃でした。三田の龍源寺におうかがいして、私は仏教の一番大事なところを色紙に書いてくださいとお願いしました。先生は即座に、次の言葉を書いてくださいました。 花が咲いている 精いっぱい咲いている わたしたちも 精いっぱい生きよう そして先生は、こんなことを言われました。「花を見ても何も感じない人がいます。あるいはただ『きれいだな』『美しいな』と思うだけの人もいます。花は精一杯咲いています。私たちも精一杯咲いています。私たちも精一杯生きなければいけません。一輪の花に仏教のすべてがこめられているのです。花から何を学ぶかが大切なんです。」 その言葉はまだ少年だった私の心に強く残りました。この世界にあるものは、花一輪、雑草一本無駄ないのちはありません。人間は万物の霊長であり、優れた存在なので、花や草など平気で踏んだり、むしったりしてもかまわないという考えもあるかもしれません。 でもいのちはみな同じです。今を懸命に生きるいのちに上も下もありません。花や草を見て、そこに一生懸命生きようとしている姿を感じることができれば、私たち自身にとっても生きていく大きな力になるのではないでしょうか。 唐の時代に趙州(じょうしゅう)和尚と禅僧がいました。「禅と何か」と問われた時、和尚は「庭前の柏樹子(柏の木)」と答えたといわれています。円覚寺にも開山の無学祖元が植えた大きな柏槇(びゃくしん)の木があります。 柏槇の木はどこにも行きません。自分が植えられた、縁がある場所で、ただひたすら根を張り、空に向かって枝を広げ、日の光を全身に浴びて、育ち続けています。そういう姿を見て「ああ、偉いなあ」と感じる心が大切なのです。(略)円覚寺管長のページ 2024.10.10今日の言葉 大木に習う(略)円覚寺には、開山仏光国師がお手植えになったと伝わる柏槇の大木があります。あの大木のように坐れと教えられたものです。大地に深く根をおろして空に向かって枝を伸ばし、大木のように坐るのです。臨済禅師が松を植えられたことから、松を禅寺に植える習慣があります。景徳伝灯録には松ではなく杉となっていますが、松や柏のように常緑樹であることが大事なのです。色が変わることのないものです。仏光国師の語録には、「允賢(いんけん)二上人、松を栽うるを謝する上堂」という一節があります。二人の禅僧が松や柏槇を栽えてくれたのに、仏光国師が御礼を言われた説法です。そのなかでも、黄檗禅師のところでは臨済が松を栽えたが、巨福山建長寺では松を植え、柏槙を植えるのだと書かれています。建長寺には今もたくさんの柏槇の大木が残っています。その頃に栽えたものもあるのかもしれません。大木を見るたびに、こちらも励まされます。大木は何百年もの歳月を動かずにじっとしているのです。しかも、決してなにもしていないのではありません。みずみずしく、いつも伸びようとしながら立っているのです。大地に深く根を張って伸び続けるというのは、坐禅そのものだと思います。まさに大木に習うのであります。横田南嶺 「一本の木を見つめていると」坂村真民 一本の木を見つめていると神とか仏とかいうものがよくわかってくる見えないところでその幹をその葉をその実を作っていってくれる根の働きは見えないところで私たちを養って下さっている神とひとしく仏と同じである見えないものを見る目を持とう見えないものを知る心を持とう
2026.01.28
192二宮翁夜話巻の5【5】尊徳先生はまたおっしゃった。右の方法はただ窮を救う良法であるだけでなく、職業を勧める良法である。この法を施す時は、一時の窮を救うだけでなく、遊惰の者を、自然に勉強におもむかせ、思はず知らずに職業を習い覚えさせ、習いが性と成って弱い者も強者となり、愚者も職業になれて、幼者も繩をなう事を覚え、草鞋(わらじ)を作る事を覚え、その外いろいろな稼ぎを覚えて、手が遊び徒らに食う者がなくなって、人々は手を遊ばせていることを恥じ、徒らに食べるだけなのを恥じ、各々職業に精出すように成りゆくものである。恵んで費えないことが、窮を救うの良法である。しかし右の方法は、これに倍する良法というべきだ。飢饉や凶歳のときだけでなく、窮を救うことに志ある者は、深く注意しなければならない。世間で窮を救うことに志ある者は、みだりに金や穀物を与えるのは、はなはだよくない。なぜかといえば、人民を怠惰に導くためである。これは恵んで費えるだけである。恵んで費えないように、注意して行い人民をして、憤発し勤め励むようにするを、要するのである。二宮翁夜話巻の5【5】翁又曰く、右の方法は只(ただ)窮救の良法のみにあらず、勧業の良法なり、此の法を施す時は、一時の窮を救ふのみならず、遊惰の者をして、自然勉強に趣(おもむか)しめ、思はず知らず職業を習ひ覚えしめ、習(ならひ)性と成つて弱き者も強者となり、愚者も職業に馴れ、幼者も繩を索(な)ふ事を覚え、草鞋(わらず)を作る事を覚へ、其の外種々の稼ぎを覚えて、遊手(いうしゆ)徒食(としよく)の者なくなりて、人々遊手で居るを恥ぢ、徒食するを恥ぢて、各々精業(せいげふ)に趣く様に成り行くものなり、夫れ恵んで費えざるは、窮を救ふの良法たり、然りといへども右の方法は、是に倍したる良法と云ふべし、飢饉凶歳にあらずといへども、救窮に志ある者、深く注意せずばあるべからず、世間救窮に志ある者、猥(みだ)りに金穀を施与(せよ)するは、甚だ宜しからず、何となれば、人民を怠惰に導くが故なり、是れ恵んで費(つひ)ゆるなり、恵んで費えざる様に、注意して施行し人民をして、憤発勉強に趣(おもむ)かしむる様にするを、要するなり。
2026.01.28
「<安心(あんじん)>の道しるべ」足立大進p.174- 老僧が舎利は天地を包む 諸仏 凡夫 同(とも)に是れ幻(げん) 若し実相を求むれば 眼中の埃(あい) 老僧が舎利は 天地を包む 空山(くうざん)に向って冷灰(れいかい)を撥(あばく)こと莫れ 弘安四年(1282)の春、仏光国師は北条国師は北条時宗公に「莫煩悩」という字を書いてお示しになりました。「煩悩すること莫れ」つまり「迷うな」ということです。「これは一体どういうことでしょうか」と時宗公がお尋ねすると、国師は、「この秋博多あたりで騒ぎがあるだろうが、やがておさまるから心配しなくてよろしい」と、予言のようなことをおっしゃったのです。果してその秋、二度目の蒙古襲来があった。北条時宗は北条家の嫡流ですが、十三歳の時、父時頼公に死に別れ、まだ幼いということで、執権はしばらく一族の者がつとめ、そして文永五年、十八歳で執権になりました。 この年大蒙古国(文永8年「大元」と改名)第5代皇帝・クビライが始めて日本にやって来ます。時宗公は元と戦うために、その短い生涯のすべてを捧げ尽くされたのです。文永十一年と弘安四年の二度の襲来を無事切り抜けて、日本を護られた。朝廷は元の脅しに、弱気になったことも度々でした。こうした時、常に断固として強い態度をとり続けたのが時宗公だったのです。・・・時宗公の毅然とした勇気ある態度を、精神的な面から支えたのが、仏光国師であったと申せましょう。元の大軍の騒ぎが治まった後、仏光国師は生国中国へ帰りたいという希望をもらされますが、時宗公は強くおひきとめになり、翌弘安五年(1282)仏光国師を開山とする新しい禅寺の建立に着手されます。これが円覚寺であり、十二月八日には大仏落慶の法要が営まれました。その落慶の時の法語で開山国師は、「此軍及び他軍、戦死與溺水、万衆無帰の魂、唯だ願わくは速やかに救抜して、皆な苦海を超え得て、法界了(つい)に差無く、寃親(おんしん)悉く平等ならんことを」と唱えられました。敵も味方も戦死した者は水死した者も、迷っている者がことごとく救われて成仏するようにということです。こうして寃親平等という仏教の大理想によって円覚寺が建立されたのです。 開山様は一年ほど円覚寺に住まわれ、また建長寺に帰られました。時宗公は弘安七年四月四日急に病になり、開山様を呼んで、頭を剃り衣を着て出家をされ、その日お亡くなりになります。国師は「法光寺殿を悼む」という詩を作られるなど、時宗公(法光寺殿)を悼んでおられます。 開山様がお亡くなりになったのは弘安九年(1286)九月三日です。その少し前「自悼」という七首ばかりの詩を作っておられます。その中の一首、 法の為に人を求めて日本に来たる 珠回り玉転じて 荒苔に委す 大唐に沈却す 孤筇の影 添へ得たり扶桑 一掬の灰 開山様は時宗の父時頼の見事な最期を慕って、日本に法を伝えたいと誓願を立てられたのです。仏法を伝えたいと日本にやってきたが、「珠回り玉転じ」、歳月は空しく移った。大唐国から一本の杖(孤筇)が失せて、代りに日本に少しばかりの灰が残ることになるだろうという意味でしょう。そしてお亡くなりになる少し前に、お示しになったのが冒頭の句です。「諸仏 凡夫 同(とも)に是れ幻(げん)」、仏だ凡夫だといっても皆、幻に等しいぞ。「若し実相を求むれば 眼中の埃(あい)」、そこに変化しないものがあるなどと思って探してみたところで、それは眼の中に入った埃のようなものだ。「老僧が舎利は 天地を包む」私の遺骸をどこに求めようとするのか、実は宇宙一杯であるぞ。「空山(くうざん)に向って冷灰(れいかい)をあばくこと莫れ」、火葬にして後、山の上で骨を求めて灰をひっかけまわすようなみっともないことはしてくれるな。
2026.01.27
(昭和56年8月25日発行、春秋社)(1959年4月20日発行、春秋社)朝比奈宗源老師の獅子吼 抜粋31 かくて公をしてあくまでその文武の徳を発揮せしめて、みごとに第2回の元寇を退けしめ、わが国の防衛を全うしたが、その後わずか3年にして公の死を迎えたのだ。古くから名君賢臣の出会いを水魚の如しというが、国師と公との師弟の間にも、これに似た普通の師弟の間に見られない濃やかな愛情があった。早く父を失った公は、国師に父に対するような敬愛を感じ、公の天性のすぐれたのを見た国師は、民族の別も僧俗の差もこえて公を子のように愛したらしい。国師が公と別れた後つくられた、法光寺殿を悼むという七絶六首と、自ら悼むという七絶七首を読むと、千里の異境に唯ひとりの知己を失い、愛弟子を先きだたせた、老いて孤独な国師の心情がまざまざと描き出されて、ひしひしと胸をうつ。その中のいく首かを摘録すると、 遠く迦文肘後の方を佩び、重ねて鶴肋遺伝の芳を尋ぬ。感ず、公が西望して香を焚いて立つに。故に我れ迢々として大唐を出ず。 賞す公が百計、咨参を解し、路を得て行く時、放憨をほしいままにするを。自ら笑う戸門に鎖鑰なく、知らず老僧が龕に偸入することを。 黄金城郭われ主となる。君が先手するをいかんともせず。老夫を留め得て破屋を看せしむ。風前おぼえず笑い呵々。 故園の田地すでに荒蕪す。濁世委われ久居すべきにあらず。あまつさえ君を追ってすなわち行かんと欲す。念う君、孤寡人の扶くるなからん。 というような類である。ここに詳しく解説することはできないが、第一は、公の至誠に感じて日本に来たこと、第二以下はいずれも公の力量をほめ、又先手をとって涅槃城中に入ったことを「自ら笑う、この世界に戸をたてることがないので、わしが入ろうと思っていた龕に公がこっそり入ってしまった」とか、「わしが主であった黄金の城郭に先手をとってはいり、わしのような老いぼれをあとへのこした。風前おぼえず笑い呵々」と。この大笑は国師の痛腸をしぼった笑いだ。 最後の句は「わしも君のあとを追っていこうと思う。君もひとりで淋しいであろうから」と。まるで幼児を失った母のような切ない愛情を吐露していられる。 国師の「自ら悼む」という詩に至ってはさらに一層悲壮な感がある。
2026.01.27

「鈴木藤三郎伝」162~167ページ 明治33年(1900年)12月10日の午後2時から日本橋区坂本町の銀行集会所で、台湾製糖株式会社創立集会が開かれた。そして、定款の確定、創立費の承認などがあったあとで、2か月に近い炎熱下の実地踏査ですっかり日焼けした顔の藤三郎が立って、台湾の現地について詳しい調査報告をした後、将来について次のように述べた。「さて将来の見込みについて申し上げますと、当初は一日二十噸の砂糖を製造することといたしておりますので、最初はそれが何か所くらい、台南県中に設立することができるかを懸念しました。しかるに実地を検分したところでは、予想よりも非常に有望であります。東の蛮界に接する山から西の海岸まで、幅はたいてい六,七里、長さは三十余里で、その間は大抵平坦であります。地味も良好で何作に適し、県下一般に大差はありません。また気候は、十月ごろから翌年の三、四月ごろまでは降雨なく、四,五月から九月ごろまでは雨季になるとのことです。それならば、甘蔗は三月に植付けるものですから水を要する時には雨が降り、水がいらない時には晴天となり、自然の灌漑が、その宜しきを得て、蔗作にはあつらえ向きであります。但し台北は、これと反対だそうでありますが、台南では、このように地味も気候も良好であります。 それならば、本島人が耕作する方法はどうかと申しますと、実に案外に進歩しております。初めは本島人の耕作方法は不完全であろうから、内地人を連れて行かなければ十分のことはできなかろうと思ったのであります。ところが、実際の畑の作り方は、たいてい何町歩という広大な区域に作りつけ、多くは水牛を飼っておいて、その力を利用しております。先ず土で鋤でおこし、さらに器械で耕やし、すべて種子を入れるまで、みな水牛の力を用いますから、その結果は、内地人のいく倍にも当りましょう。そのうえ12,3歳の幼童も、自由に水牛を使役するには驚きました。さらに生活水準を見ますと、鳳山地方で調べたところでは、一人一日の生活費は3銭5厘から5銭で足りて、その常食は、米、甘藷、其他豚肉であります。また衣服は、腰部にわずかばかりの布片をまとうだけで、裸体に炎天にさらされていても平気であります。しかも仕事の量は、内地人の倍もして、農事の様子もなかなかに巧みであります。 このように、地味も天候も良好である上に、労役者も前に述べた通りでありますが、かく三点とも満足でありますのに、なぜに、その産出する砂糖が、今日まで発達しなかったのでしょうか?これには二大原因があります。今日の砂糖の製法は二百五十年前、鄭成功が渡台したときに、これを伝えたものであります。その時代に用いた器具や設備を詳細に写しておいた図面が、台南の某寺に保存されておりますが、これを見ると、今日の製法も、その図面に描いてあるものと少しも違っておりません。しかも西洋諸国では、日進月歩の器械を利用して製造いたしますから、精良の砂糖を産しますが、台南では二百五十年前の製法を改めないばかりか、種子も、その時代から未だ一度も改良を試みたことがないという有様ですから、その製造の品質が粗悪で、ついて今日のような衰退を招いたのは当然であります。ですから、今、新たに資本と知識とを、この地に加えたならば、今日の産額の五倍から八倍を得るのも容易であります。 台南には、甘蔗の作付け反別が年々2万5千甲あります。これは現在の畑地の五分の一、または六分の一に過ぎません。そして、三年に一度の輪作方法を採るとしても、畑地は十五、六万甲(甲は町すなわち三千坪より六十六坪少ないだけ)ありますから、その三分の一としても、五万甲は植付けることが出来ましょう。本島人が、蔗作の利益あることを知ったならば、五万甲の作付けを見ることは、むずかしいことではありません。そして現今は、一甲につき五十ピコル(一ピコルは百斤)位の砂糖を得る割合ですが、いま製法を改良して百ピコルを得るとすれば、五万甲から五百万ピコルの砂糖が取れます。 そうすると、それだけの製造をするには、当社大の会社が百社位は設立できる余裕があります。そのうえ荒れ地にも甘蔗の植付けをするようになったならば、その倍額となりましょう。ですから、一千万ピコルの砂糖は、台南一県で産出する望みがあります。仮に一社五千万円の資本として、百社五千万円の資本を投下すれば、翌年から年々五百万ピコルの砂糖ができましょう。そして、今日、内地の需要は、年々五百万ピコルですから、台南県だけで一手にこれを供給することができるはずであります。 工場の敷地については、初めに四、五ヵ所を見定め、さらに取捨して三ヵ所を選定しました。できるだけ大工場を設置するのに適当な土地を目当てとして、いま調査中であります。」(台湾製糖株式会社創立総会報告書)藤三郎の報告は、これで終った。この事実が予想以上に有望なことを知った株主達は、大きな満足を掌にこめて、盛んな拍手を送って彼の労をねぎらった。すると三島通良が、すぐ立って質問した。「当社の事業の有望なことはよく分りましたが、なお台湾の衛生状態について伺いたいと存じます?」 藤三郎は、当時の台湾が、内地人から風土の悪い、疫病の巣のように思われていることを知っていたので、声に力をこめていった。「はい、内地人が、初めて彼の地に参りましたときは、宿舎の設備もなおざりにしたために疫病にかかりましたが、宿舎を注意すれば、その憂いはありません。ですから、当社の建築につきましては、いくぶん建築費は増加しても、なるべく設備を十分にしたいと思います。なお、工場地の選定についても、大いにこの点に注意をいたしました。」三島が、すぐまた聞いた。「食物は、いかがですか?」「野菜や牛肉もあり、日本食にはさしつかえありません。」藤三郎のこの答にも、三島は、まだ安心ができないというように、「飲料水は?・・・・」「飲料水は、概して不良であります。もっともこして使いましたら、たいして困難はなかろうと思います。但し曽文渓のほうは、いくぶんか宜しいようです。」藤三郎が、こう答えたときに、磯村音介が、「議長ッ!」と、精力のピチピチと溢れているような小柄な体で、勢いよく立ち上がったと思うと、かん高い声で、こう質問した。「重役の俸給については、発起人諸君の御意見がありましょう。それを伺いたいと存じます。」議長席の益田孝が、ゆっくりと立ち上がって、静かにこういった。「左様、いくぶんの考案もない訳でもありませんから、試みに申し上げて見ましょう。社長ほか重役一同の俸給を、総額で一ヵ年に金五千円以内といたしまして、その分配法については、取締役に一任することとしては、いかがでしょうか?」「賛成!」叫ぶように磯村がいった。すると、益田は、にこやかに議場を見回して、念を押すようにいった。「なお御意見があったら承りたいと存じます。」「異議なし!」という声が、2,3人の口から上がった。益田は、物慣れた調子で、間髪を入れずに、こういった。これで、創立総会は閉会となった。 支配人の俸給が、台湾を任地とするのではあるけれども、2,400円、副支配人が1,800円であるのに、内地にいる重役の俸給は、社長以下取締役5人と監査役3人の合計8人で、一ヵ年総額5,000円以内という申し出をしたことは、いかに重役達が国策に殉ずる覚悟で、この事業に着手したかがしのばれると思う。これに引続いて行われた重役選挙の結果、益田孝、田島信夫、陳中和、武智直道の4名と藤三郎が取締役になり、監査役には長尾三十郎、岡本良恷、上田安三郎の3名が当選した。またロベルト・ウォーカー・アルウィンを相談役に推薦することが、議決された。取締役会で互選の結果、藤三郎は、日本精製糖会社専任取締役を現職のまま当社の社長となって、わが国の製糖界の王者の地位を占めることになった。わずか12年前には郷里の氷砂糖工場で職工達といっしょに印半纏を着て働いていたことを思えば、いささか感慨なきを得なかった。だが、その時代の波は、そうした感慨にふけっている暇もないほどに多忙だった。この時、藤三郎は45歳の働き盛りであった。12月28日には、午後5時から台湾総督の児玉源太郎、民政長官の後藤新平、参事官の関谷貞三郎、総督秘書官の大島富士太郎を始め重役一同を、浜町の常盤家に招待して、社長に新任したあいさつとともに、今後の援助を願ったのであった。
2026.01.27
192二宮翁夜話巻の5【4】尊徳先生はまたおっしゃった。天保7年、烏山侯の依頼で、同領内に右の方法を、施行した大略は、一村一村に諭して、極難の者のうち、労働につける者と、つけない者と、2つに分けて、労働につけない、老人、幼子、病人など千有余人を烏山城下の天性寺という禅寺の講堂、物置そのほかの寺院また新しくに小屋20棟を建設して、一人白米1合ずつ、前に言った方法で、同年12月1日から翌年5月5日まで、救助した。飢えた人々の気を晴らすために藩士の武術の稽古をここで行わせ、自由に見ることを許し、時々空砲を鳴して憂鬱な気分を消散させた。そのうち病気の者は自分の家に帰し、また別に病室を設けて療養させ、5月5日に解散した時は、一人について白米3升、銭500文ずつを渡して、帰宅させた。また労働につける達者な者には、鍬を一枚ずつ渡し、荒地一反歩について、起返し料金3分2朱、仕付料2分2朱、合せて一円半、外に肥し代1分を渡し、一村で共同して精出させた。幹事になるべき者を人選し、入札で高札の者に、その世話方を申し付け、荒田を起きかえして、植えつけさせた。この起返した田は、一春の間に58町9反歩植えつけた。実に天から降るように、地から湧くように、数十日のうちに荒田が変じて水田となり、秋になってその実りはそのまま貧民食料の補いとなった。その外、藁で編んだ靴や草鞋(わらじ)、繩などを、製造した事も莫大であって、飢民一人もなく、安らかにに相続させ、領主君公の仁政に感激して、農事に勉んだ。大変悦ばしいことであった。二宮翁夜話巻の5【4】翁又曰く、天保七年、烏山侯の依頼に依つて、同領内に右の方法を、施行(しかう)したる大略は、一村一村に諭して、極難(ごくなん)の者の内、力役(りきえき)に就(つ)くべき者と、就(つ)くべからざる者と、二つに分ち、力役に就(つ)くべからざる、老幼(らうえふ)病身等千有余人を烏山城下なる、天性寺の禅堂講堂物置其外寺院又新(あらた)に小屋廿(20)棟(むね)を建て設(まう)け、一人白米一合づゝ、前に云へる方法にて、同年十二月朔日(ついたち)より、翌年五月五日まで、救ひ遣(つかは)し、飢人(きじん)欝散(うつさん)の為に藩士の武術稽古を此処(ここ)にて行はせ、縦覧を許し、折々空砲を鳴(なら)して欝気(うつき)を消散せしめたり、其の内病気の者は自家に帰し、又別に病室を設けて、療養せしめ、五月五日解散の時は一人に付(つき)白米三升(じょう)、銭五百文づゝを渡して、帰宅せしめたり、又力役に付くべき達者の者には、鍬一枚づゝ渡し遣(つかは)し、荒地一反歩(たんぶ)に付き、起(おこし)返し料金三分二朱、仕付料二分二朱、合せて一円半、外に肥し代壱分(いちぶ)を渡し、一村限り出精にて、事に幹(くわん)たるべき者を人撰(せん)し、入札にて高札の者に、其の世話方を申付、荒田を起反(おこしかへ)して、植へ付けさせたり、此の起返(おこしかへ)し田、一春間(しゆんかん)に五十八町九反歩、植付になりたり、実に天より降るが如く、地より湧くが如く、数十日の内に荒田変じて水田となり、秋に至りて其の実法(みのり)直ちに貧民食料の補ひとなりたり、其の外沓(くつ)草鞋(わらじ)繩等を、製造せし事も莫大の事にして、飢民一人もなく、安穏(あんをん)に相続し、領主君公の仁政を感佩(くわんぱい)して、農事を勉励せり、豈(あに)悦(よろこば)しからずや。
2026.01.27
「<安心(あんじん)>の道しるべ」足立大進p.172- 明日扶桑国裏の雲 その2 時頼公の嫡男時宗もまた早くから禅に参じます。 しかし、やがて大覚禅師は弘安元年に示寂され、兀庵禅師も帰国してしまわれた。時宗公は自らが帰依する禅の指導者として大覚禅師の後任に立派な禅僧の招へいを発願し、二人の使者の僧を中国に派遣いたします。この時の書状は今日でも円覚寺に保存されていて、重要文化財に指定されております。 使者の二人の僧は天台山に登り、時宗公の意を伝えますが、その時の住持は無準師範禅師の高弟の環渓惟一禅師で、すでに八十歳という高齢でした。 そこで環渓禅師は自分の弟弟子にあたる、第一座の無学祖元に師の無準の袈裟を授け、日本に渡ることを要請いたします。時頼の臨終の様子を聞いて、心を動かされていた開山様は、遂に環渓の弟子である鏡堂覚円などを伴として、渡来されることになります。冒頭に掲げたものはその別れの際の詩です。「世路(せろ) 艱危(かんき)にして故人に別る」、元の兵が押し寄せて混乱し、行く末どうなるか案じられる今、古くからの友にお別れをしなければならない。再び逢うことは叶わないかもしれぬ。「相看(しょうかん) 手を握って頻(ひん)なることを知らず」、一所懸命手を握り合って、その数は何度にも及ぶ。いつまでも名残りは尽きない。「今朝 宿鷺(しゅくろ)亭前の客」、宿鷺亭は天童山にあった建物の名で、今朝はこうして天童山にいるが、もう出発の時が迫っている。「明日 扶桑国裏(ふそうこくり)の雲」、明日はもう日本の空に居ることとなりましょう。 弘安二年(1280年)六月、開山様は海を越えて九州の大宰府にお着きになりました。 途中、京都では無準師範門下の兄弟子で、京都東福寺開山聖一国師(円爾弁円)から立寄るようにと使者もまいりました。しかし、その誘いも断り鎌倉に直行し、八月には鎌倉に入られます。仏光国師をお迎えした時宗は、早速建長寺の住持として迎え、政務の暇を見ては禅の教えを受け、深く国師を尊敬されたのでございます。
2026.01.26
192二宮翁夜話巻の5【3】尊徳先生がおっしゃった。私が烏山その他に施行した飢饉の救助方法は、まず村々にさとして、飢渇に迫られた者のうち、次のように区分させた。老人・幼少・病身などの労働に従事できない者、また婦女子などその日の働らきが十分にできない者を、残らず調査させ、寺院または大きな家を借り受けて、ここに集めて男女を分けて、30人、40人ずつ一組として、一所に世話人を1,2名を置いて、一人について一日に白米一合ずつと定めて、40人であれば、一度に一升の白米に水を多く入れて、粥にかしいで塩を入れ、これを40個の椀(わん)に平等に盛って、一椀ずつ与え、また一度は同様だが、野菜を少し交ぜて味噌を入れ、薄い雑炊とし、前と同じように盛って、一椀ずつ、かわるがわる、朝から夕方まで一日に4度ずつと定めて、与えるのである。そうすると一度に二勺五才の米を粥の湯になした物である。これを与える時にねんごろに諭して言う。おまえ達の飢渇は深く察している。実に憐れむべき事である。今与えたところの一椀の粥湯(かひゆ)、一日に四度に限るから、実に空腹にたえがたかろう。しかしながら、大勢の飢えた人に十分に与える米や麦は天下にない。このわずかな量の粥は、飢えをしのぐに足らないであろう。実に忍びがたいであろうが、現在は国中に、米穀の売物はない。金銀があっても米を買う事ができない世の中である。しかるに領主君公が莫大の御仁恵をもって、倉を開かれ、お救いくださる米の粥である。一椀なりとも、容易ならない、厚くありがたく心得て、夢々不足に思ってはならない。また世間では、草の根や木の皮などを食べさせる事もあるけれども、これは大変よろしくない。病気になって、救うことができず、死ぬ者も多い、大変危ない事であり、恐るべき事である。世話人に隠れて、決して草の根や木の皮など、少しでも食べてはならない。この一椀ずつ粥の湯は、一日に4度ずつ時を決めて、きっと与えるものである。だから、たとえ身体は痩せても決して、餓死する患いはない。また白米の粥であるから、病を生ずる恐れも必ずない。新麦が熟するまでの間の事であるから、いかにもよく空腹をこらえて、起き臥しも運動もしずかにして、なるるだけ腹が減らないようにし、命さえ続けば、それを有り難いと心に思って、よく空腹をこらえて、新麦の豊熟を、天地に祈って、寝たければ寝るもよし、起たければ起きるがよい、日々何もするに及ばない。ただ腹がへらないように運動し、空腹をこらえ、それを仕事と心得て、日を送るがよい。新麦さえ実れば、十分に与えることができよう。それまでの間は死にさえしなければ、有り難しとよくよく覚悟を決めて、返す返すも草木の皮や葉などを食べてはならない。草木の皮や葉は、毒がない物であっても腹になれないために、多く食べ日々に食べれば、自然に毒のない物も毒となって、そのために病気を生じ、大切な命を失う事がある。必ず食べてはならないと、懇切に諭して空腹に馴れさせ、無病とすることこそが、飢饉救済の最上の方法であろう。必ずこの方法に随って、一日一合の米粥を与え、草木の皮や葉などは、食べよと言わず、また食べさせてはならない、これがその方法の大略である。また身体が強壮な男女は別に方法を立てて、よくよく説きさとして、平常5厘で買い上げる繩一房を7厘に、1銭の草鞋(わらじ)を1銭5厘で、30銭の木綿布を40銭で買上げ、平日15銭の日雇賃銭は、25銭ずつ払うようにすることによって、村中の一同が憤発し勤め励んで銭を取って自らの生活を立つことができるようにすべきである。繩、草鞋、木綿布(もめんぬの)などは、どれほどでも買取り、仕事は協議工夫をして、どれほどでも、人夫を遣わせば、老幼男女を論ぜずることなく、身体壮健の者は、昼は出て日雇賃を取り、夜に入っては繩をない、沓(くつ)や草鞋(わらじ)を作るがよい、と懇々と説諭して、勤め励ますべきである。さてその仕事は、道や橋を修理し、用水が悪い堀を浚(さら)い、溜池を掘、川の堤防を修理し、沃土を掘出し、下田下畑に入れ、畔(あぜ)の曲ったのを真直ぐに直し、狭い田を合せて、大きくするなど、その土地土地にあわせて、よく工夫すれば、その仕事はいくらでもあるであろう。これが自分が10円の金を損をして、彼に50円、60円の金を得させ、こちらで100円の金を損して、彼に400円、500円の利益を得させ、さの村里に永世の幸福をのこし、その上美名をものこす道である。ただ恵んで費えないだけでなく、少し恵んで、大利益を生ずる良法である。困窮が甚しいのを救う方法は、これが一番よく、これが私が実地に施行してきた大略である。二宮翁夜話巻の5【3】翁曰く、予が烏山(からすやま)其の他(た)に施行せし、飢饉の救助方法は、先づ村々に諭して、飢渇に迫りし者の内を引(ひき)分けて、老人幼少病身等の、力役(りきえき)に付き難き者、又婦女子其の日の働き十分に出来ざる者を残らず、取り調べさせ、寺院か又(また)大なる家を借り受け、此処(ここ)に集めて男女を分ち、三十人四十人づゝ一組となし、一所(しよ)に世話人一二名を置き、一人に付き、一日に白米一合づゝと定め、四十人なれば、一度に一升の白米に水を多く入れて、粥(かゆ)に炊(かし)ぎ塩を入れて、之を四十椀に甲乙なく平等に盛りて、一椀づゝ与へ、又一度は同様なれど、菜(な)を少しく交ぜ味噌を入れて、薄き雑炊(ぞうすい)とし、前同様に盛りて、一椀づゝ、代(かは)る代る、朝より夕(ゆふ)まで一日四度づゝと定めて、与ふるなり、されば一度に二勺(しやく)五才(さい)の米を粥の湯(ゆ)に為したる物なり、之を与ふる時懇(ねんごろ)に諭さしめて曰く、汝等の飢渇深く察す、実に愍然(びんぜん)の事なり、今与ふる処の一椀の粥湯(かいゆ)、一日に四度に限れば、実に空腹に堪へ難かるべし、然りといへども、大勢の飢人(きじん)に十分に与ふべき米麦は天下になし、此(こ)の些少の粥湯(かいゆ)、飢へを凌(しの)ぐに足らざるべく、実に忍び難かるべけれど、今日(こんにち)は国中に、米穀の売物なし、金銀有りて米を買ふ事の出来ざる世の中なり、然るに領主君公莫大の御仁恵を以て、倉を開かせられ、御救ひ下さるゝ処の米の粥なり、一椀なりといへども、容易ならず、厚く有難く心得て、夢々不足に思ふ事勿れ、又世間には、草根木皮等を食せしむる事も有れど、是は甚だ宜(よろ)しからず、病を生じて、救ふべからず、死する者多し、甚だ危き事なり、恐るべき事なり、世話人に隠して、決して草根木皮などは、少しにても食ふ事勿れ、此の一椀づゝの粥(かゆ)の湯は、一日に四度づゝ時を定めて、急度(きつと)与ふるなり、左(さ)すれば、仮令(たとひ)身体は痩(や)するとも決して、餓死するの患ひなし、又白米の粥なれば、病の生ずる恐れも必ずなし、新麦の熟するまでの間の事なれば、如何(いか)にも能く空腹を堪(こら)へ、起臥(おきふし)も運動も徐(しづ)かにして、成る丈(た)け腹の減らぬ様にし、命さへ続けば、夫を有り難しと覚悟して、能く空腹を堪(こら)えて、新麦の豊熟を、天地に祈りて、寝たければ寝るがよし、起きたければ起きるがよし、日々何も為(す)るに及ばず、只(ただ)腹のへらぬ様に運動し、空腹を堪(こら)ゆるを以て、夫(それ)を仕事と心得て、日を送るべし、新麦さへ実法(みの)れば、十分に与ふべし、夫迄(それまで)の間は死(し)にさへせざれば、有難しと能々(よくよく)覚悟し、返す返すも草木(くさき)の皮葉(かわは)を食ふ事勿れ、草木の皮葉は、毒なき物といへども腹に馴れざるが故に、多く食し日々食すれば、自然毒なき物も毒と成りて、夫が為に病を生じ、大切の命を失ふ事あり、必ず食する事なかれと、懇(ねんごろ)に諭して空腹に馴れしめ、無病ならしむるこそ、救窮(きうきう)の上策なるべけれ、必ず此の方に随ひ、一日一合の米粥(こめがゆ)を与へ、草木の皮葉などは、食せよと云はず、又食せしめざるなり、是其の方法の大略なり、又身体強壮の男女は別に方法を立て、能々(よくよく)説き諭して、平常五厘の繩一房(ふさ)を七厘に、一銭の草鞋(わらじ)を一銭五厘に、三十銭の木綿布を四十銭に買上げ、平日十五銭の日雇賃銭は、二十五銭づゝ払ふべきに依り、村中一同憤発勉強し、勤めて銭を取つて自から生活を立つべし、繩、草鞋、木綿布(もめんぬの)等は、何程にても買取り、仕事は協議工夫を以て、何程にても、人夫を遣(つか)ふべければ、老幼男女を論ぜず、身体壮健の者は、昼は出て日雇賃を取り、夜は入つて繩を索(な)ひ、沓(くつ)草鞋(わらじ)を作るべし、と懇々説諭して、勉強せしむべし、偖(さて)其の仕事は、道橋(みちはし)を修理し、用水悪水(あくすゐ)の堀を浚(さら)ひ、溜池を掘り、川除(よ)け堤を修理し、沃土(よくど)を掘り出し、下田下畑(かでんかはた)に入れ、畔(あぜ)の曲れるを真直(まつす)ぐに直し、狭き田を合せて、大にするなど、其の土地土地に就(つい)て、能く工夫せば、其の仕事は何程もあるべし、是我が手に十円の金を損して、彼に五十円六十円の金を得さしめ、是に百円の金を損して、彼に四百円五百円の益を得さしめ、且つ其の村里に永世の幸福を貽(のこ)し、其の上美名をも遺(のこ)す道なり、只恵んで費(つひ)へざるのみにあらず、少なく恵んで、大利益を生ずるの良法なり、窮(きう)の甚しきを救ふ方法は、是より好(よ)きはあらじ、是予が実地に施行(しかう)せし、大略なり。
2026.01.26
「第45回大阪国際女子マラソン」(産経新聞社など主催、奥村組協賛)が25日、ヤンマースタジアム長居(大阪市東住吉区)発着の42・195キロのコースで行われた。日本選手のトップは4位の矢田みくに(エディオン)で、初マラソンの日本最高記録となる2時間19分57秒をマークした。日本歴代6位の好タイムだった。矢田「うれしい。初めの20キロは市民ランナーの『頑張れ』という声を楽しみながら走れた。後半も声援がある中で走れて、きつい中でも、幸せを感じながら走ることができた」初マラソンで2時間20分を切ったことについては「23分台で走れたらと思っていたので、びっくりした」
2026.01.25

韓国に勝ち街中大騒ぎ…深夜2時でも道路はバイクだらけ 歓喜ベトナムの夜「ファンが溢れ出た」サウジアラビアで行われているサッカーの「AFC U23 アジアカップ」は23日、3位決定戦が行われ、ベトナム代表がPK戦の末に韓国代表に勝った。ベトナム国内では、深夜でも勝利を祝うファンが後を絶たず。街中が大騒ぎになった様子を地元メディアが伝えた。試合はベトナムが先制。2-1とリードする後半41分にFWグエン・ディン・バクが一発退場。数的不利となった。さらに、後半アディショナルタイムに失点。延長戦でも決着がつかず試合はPK戦にもつれ込んだ。韓国の7人目が失敗すると、ベトナムは全員が成功。PKスコア7-6で3位に輝いた。ベトナムメディア「Vnエクスプレス」国際版は「U-23アジアカップで韓国をPK戦の末破り、ベトナムが3位になるとファンが通りに溢れだした」との見出しで記事を掲載。国内各地の様子を映した大量の写真とともにレポートした。ホーチミン市では「試合終了のホイッスルの後、ファンが通りに溢れだした」そうで、赤いベトナムのユニホームを着た老若男女が歓喜した。路上では太鼓やラッパを吹いて笑顔を浮かべる人、国旗を振る人が大量発生。道路では何千もの人々がバイクでクラクションを鳴らしたという。地元のバソン橋は、そんな歓喜のバイクで埋め尽くされた。首都のハノイ市でも、気温10℃ながら大量のファンが勝利を祝福。フライパンを叩いて喜ぶファンもいた。さらに、国内第3の都市ダナン市でも同様に、バイクを乗り回して多くの若者たちが国旗とともに快挙を祝っていた。いずれの都市でも、午前2時を過ぎても騒ぎは続いていたという。ベトナムはグループステージで全勝し決勝トーナメントへ。準々決勝でアラブ首長国連邦に勝つも準決勝で中国に0-3で敗戦。3位決定戦に回っていた。
2026.01.25
永平初祖学道用心集 5-6道元・学道用心集講話「第五 参禅学道は正師を求むべき事」(澤木興道)その6「之を以てる暁(さと)るべし。但だ、我国昔より正師未だ在らず」日本の国には、道元禅師まで正師がなかった。わたしはこれが子供のときの悩みであった。何だ、禅宗坊主偉そうなことをいうて。伝教大師や弘法大師、行基菩薩や良弁僧正よりも道元禅師は偉かろうか、わたしはそう思った。学問してみなければそんなことはわからぬ。わたしは頭は悪いけれども本は一生懸命に読んだものである。雨が降っても、雲水時代から傘を買うたことがない。雨が降っても、あじろ笠をかぶって本を読んで道を歩いた変わり者だと、昔の友だちに会うと冷やかされる。しかしとにかく寝ても覚めても仏法のことが一通りわかっていないと、安心して喋ってもおれん。 ところが、日本の鎌倉以前の仏教というものは、抽象的、論理的である。奈良の仏教の言草に「覚え唯識習い俱舎」という言葉がある。学問を覚えることは非常にたくさん覚える。それは錯雑な何宗の学問もどっさり入っておるが、ほんとうに自分の宗旨はどれかというと、ない。死んでもいい宗旨はない。地位が高いから名高い、仏教の学問があるから偉いというので、理念や概念や観念ばかり、もう一つ奥がない。昔より正師未だあらず。「何を以てか之が然ることを知るや。言(ことば)を見て察するなり、流を酌んで源を討(たず)ぬるが如し」これは、天台智者大師の摩訶止観の言葉を、ここに借りてきていうてござる。「我朝古来の諸師集の書籍、弟子に訓(おし)え人天に施す、其の言是れ青く」間違っておるとはいわぬ。仏教の教理を抽象的に説いておるのが青し。もう一つ奥の味が出ておらぬ。熟しておらぬ。「其の語未だ熱せず」これは抽象的である。観念、理念である。正味が出たのとは違う。「未だ学地の頂(いただき)に到らず、何ぞ証階の辺(ほとり)に及ばん」だから「只、文言(もんごん)を伝えて名字を誦せしむ」言葉を知り、これはどういうわけ、ああいうわけ、その解釈をどっさりいう。そんなことをいくら覚えても「日夜他の宝を数えて自ら半銭の分無し」これは涅槃経にある譬である。銀行の窓口では、千円札をうちわみたいにして勘定しているが、あれが自分の月給ではない。自分の月給は一枚あるかないか・・・。一日に何万枚勘定するか、わけがわからぬ。銀行員みたいなものである。人の金を勘定して、自分のものじゃない。一切経をそらで読んでもなんにもならん。わたしは一度熊本の第五高等学校の講堂で、一切経を三遍読みましたという人と一緒に講演したことがある。そのとき「おれは三遍読むほどばかじゃない。三分の一読んだら仏法はわかった」と啖呵をきった。痛快だった。実際読んだらいいというなら、『般若心経』を三遍読んでごらん。わかるか・・・・・・。『般若心経』がわからなければ、『金剛般若経』でもよい。大般若経六百巻、三遍ほど読んでごらん。わかるかわからんか。そんなもの読まんでも、如是我聞と読んだらちゃんとわかるじゃないか。それがわからぬ者は、みな読んでも駄目である。よけい読みさえすればよいというのは間違いである。札をたくさん数えておる銀行員は、七千円と八千円しか月給をもらっておりはせぬ。これが『涅槃経』の中にあるから「古の責之に在り」である。お釈迦さんが物を覚えただけではいかん。知っただけではいかん、と。そうおっしゃっておる。そこで禅は教外別伝とか、不立文字とか、言葉ではない。字数ではない。現なまの仏法でなければならぬわけである。人の銭勘定をするように、昔話をしておるようなことでは、仏法ではないわけである。(「沢木興道全集」第2巻p.113-115)
2026.01.25
「<安心(あんじん)>の道しるべ」足立大進p.170- 明日扶桑国裏の雲 その1 世路(せろ) 艱危(かんき)にして故人に別る 相看(しょうかん) 手を握って頻(ひん)なることを知らず 今朝 宿鷺(しゅくろ)亭前の客 明日 扶桑国裏(ふそうこくり)の雲 仏光国師(無学祖元)をお迎えする当時の鎌倉の禅は 栂尾の高僧明恵上人に深く帰依した北条泰時を祖父とし、松下禅尼を母として生まれたのが北条時頼公です。 時頼公は建長元年東福寺開山聖一国師に就いて授戒され、中国より大覚禅師(蘭渓道隆)が来朝されるや、帰依して禅を学びました。建長寺はこの大覚禅師を開山として建てられたものです。蘭渓の語録「大覚録」には時頼公を褒める言葉がしばしば見られ「時頼公こそは在家の菩薩である」とすら表現されています。 また同じく来朝された禅僧兀庵(ごったん)普寧にも深く帰依いたしました。時頼公は幕府の執権としても優れた力を示しておりますが、そこに禅の修行で培われた力があずかって大きかったことは申すまでもありません。 時頼公は三十七歳の若さで亡くなりますが、臨終に際して平素の僧形に袈裟をかけ、坐禅をしたまま、 業鏡(ごうきょう高く懸く 三十七年 一槌(いっつい)に打破すれば 大道坦然(たんねん))と唱えて亡くなられるという素晴らしいものでありました。 実は、この話が円覚寺の開山様が日本に渡って来られたことに深い関わりがございます。泉古澗という中国僧がその当時、日本に来ておりましたが、後に中国に帰ってから、執権、時頼公の素晴らしい臨終の様子を開山様に話したのです。 それを聞いた開山様には、そんなに深く禅を会得している人が日本に居るならば、自分も行ってみたいものだという気持ちが次第に深まったのです
2026.01.25
永平初祖学道用心集 5-5道元・学道用心集講話「第五 参禅学道は正師を求むべき事」(澤木興道)その5 そこで、発心正しからざれば万行空しく施す。「誠なる哉比の言」。ほんとうにそうじゃ。「行道は導師の正と邪とに依るべきか」むかしの歌にも ほととぎす鳴きつる方は山ならむ かぢとりなほせ夜のふなびと というのがある。真っ暗がりで船を漕いだところが、崖にぶっつけた。船が覆るというので、舵をとり直さんならぬ。われわれも方角が間違っておりはせぬか。坊主になるのでも、おれは禅師様になるとか、緋の衣を着るようになるとか、それでは発心でもなければ何でもない。そんなことをするくらいならば、兵隊の大将になるというのと同じである。おれは博士になる。おれは大学総長になる。おれは内務部長になる。大臣になる。同じことだ。大したことはない。だから道元禅師の『正法眼蔵』法華転法華の巻に「出家修道を歓喜するなり。ただ鬢髪(びんぱつ)を剃る、猶好事なり。髪を剃り、又髪を剃る。これ真の出家なり」とある。髪を剃り、又髪を剃ると、これには深甚な意味がある。坊主になった者は何遍でも坊主にならんならん。わたしらも一遍発心して坊主になったが、ときどき慢性になったり馴れたりする。おれも坊主馴れしたと思うことがある。なおこの法華転法華には難しいこともあるが、要するに導師の正と邪というものが非常に大事である。 わたしはこのごろ、風外禅師*1の伝記が30年前に出ておるのを世に出してあげたいと思って、有形無形骨折っておるが、この風外禅師は非常にいい師匠を持たれた。風外禅師という偉い人が出たのも、その師匠の導きがよかったからである。七つかそこらの何も知らぬ時分から、ああいういい師匠に導かれて、基礎学は十分教えてもらった。いいかげん物心がついたところで、人生と正法の何たるかを十分注ぎ込まれて、どうしてもいてもたってもおれんので、修行に出て、狼玄楼*2というような九十近い偉い人について修行し、大悟徹底した。だからここに「機は良材の如く、師は工匠に似たり」とある。機は弟子、師は師匠。弟子はよい材木のようなものであるし、師匠は大工さんのようなものじゃとー。 「縦い良材たりと雖も、良工を得ざれば」いい材木でも、つまらぬ職工にあったら、あたら良材を切り損なったり、寸法を間違ったりする。だから、「奇麗未だ彰れず」と。そうして「縦い曲木と雖も、若し好手に遇わば妙巧忽ち現ず」あまり素直でない小僧のことを、わたしらの宗旨では曲木という。お釈迦さまの弟子にも曲木がある。前にもいうた央掘摩羅のごとき、また阿那律のごとき、それから周利槃特のごときも頭の悪いことおびただしいものである。それから難陀尊者のごときは色気の多い男だった。それをお釈迦さまがうまく舵をとってゆかれたのが十大弟子である。若し好手に遇わば妙巧忽ち現ず、である。「師の正邪に随って悟の真偽有ること」飯を炊くことが上手なら、典座にいいかというと、そうはいかぬ。魂が違えばー。それならといって、飯を炊くことが下手な者を典座にしてもいかぬ。そこに、師の正邪に随って悟の真偽有りで、正しい道をもって料理をしなければ、典座にならず、料理人になってしまう。はばかりながら包丁を持ったら・・・というて威張ってしまう。それは正しい道に入っておらぬからである。ただ声がいいだけなら、坊さんでなくてもたくさんある。適材は適所でなければならんが、そこにその態度が違わなければならん。声を使えば仏道で声を使わねばならず、料理をすれば仏道で典座にならねばならん。悟の真偽が違う。(「沢木興道全集」第2巻p.110-113)*1 風外 慧薫(ふうがい えくん、1568年(永禄11年)- 1654年(承応3年)ごろ)は江戸時代前期の曹洞宗の僧、画僧。永禄11年(1568年)、上野国碓氷郡土塩村(現・群馬県安中市松井田町土塩)に生まれる。土塩の乾窓寺に入った後長源寺(安中市上後閑)で得度したとの説もあるが、乾窓寺の開山時期からそれは考えにくく、はじめから長源寺に入寺得度したとも考えられている。また雙林寺においても修行したとされている。 その後相模国小田原の成願寺の住職となった。数年後には、曽我山中の洞窟にて達磨や布袋等の肖像画を描き、絵仏師として活動したとされている。寛永5年(1628年)ごろに真鶴へと移り住み、風外寿塔、貴船神社に伝わる自筆の「貴宮大明神縁起」(慶安3年(1650年))などを残している。 その後竹渓院(静岡県伊豆の国市原木の竹慶院)に移り3年間留まったという。そこからさらに終の住処として浜名湖を望む遠江国金指石岡(現・浜松市引佐町金指)に庵を営んだという。最期は、青銅300文で人を雇って墓穴を掘らせ、そこに入って立ったまま入滅したと伝えられる*2 玄楼奥竜 げんろう-おうりゅう1720-1813 江戸時代中期-後期の僧。享保5年生まれ。曹洞宗。但馬(兵庫県)竜満寺の象山問厚の法をつぐ。享和元年山城(京都府)興聖寺の住持となった。禅風がきびしく,狼玄楼とよばれた。文化10年10月12日死去。94歳。志摩(三重県)出身。俗姓は村上。別号に蓮蔵海。著作に「蓮蔵海五分録」「鉄笛倒吹」など。
2026.01.25
(昭和56年8月25日発行、春秋社)(1959年4月20日発行、春秋社)朝比奈宗源老師の獅子吼 抜粋30P.192-199 仏光国師のこと その1仏光国師は中国人のかいた伝記に、その性質は沈重不訥容貌英異とあるように、世辞のない静かな、聡明な思索型で、何ごとも徹底しなくては承知できない、窮屈なくらい純粋な人であったようだ。 国師は時宗公より25歳の年長で、南宋の宝慶2年(1226)に生まれ、幼年から出家し径山(きんざん)の無準禅師に参じ、無字の公案を看ること5年、ある夜三昧に入り、首座寮の版の鳴るをきいて大悟し、こういう偈をつくられた。 一槌に打破す精霊窟(せいれいくつ)。突出す那吒の鉄面皮。双耳聾の如く口唖に似たり、等閑に触着すれば火星飛ぶ。**板をたたく槌の音ですべての迷いが打破された。本来の自己(那吒太子という仏法の守護神=本来の自己)がそのままそこに姿を現した。何も聞こえず何も言えないとしても、うっかり私に触ろうものなら火花が散るぞ(「禅の名僧に学ぶ 生き方の知恵」p.21) と。いかにもその悟境の痛快であったかがうかがえる。しかし禅は一旦の悟りだけでいけるものではない。国師はその後、当時の名流に参じてその修行をみがき、とくに虚堂智愚(きどうちぐ)禅師の指導によって語言三昧、言句の上での大自由を得られ、その名はあまねく中国の禅界に知られた。29歳の時ひとりの母上に仕えるものがなかったので、郷里へかえり賈白雲庵という小寺に入り、母上をむかえて奉仕し、7年の歳月を送られた。この自分の様子は国師ののこされた詩によって窺われる*が、まことに淋しい、しかし人間的真実にみちたもので、国師の美しい人柄がよく出ている。*風、長林を攪(か)いて雪牀(ゆきしょう)に満つ 寒藤葉無く空桑に倚(よ)る 誰か知る戸破れ家残る処 添い得たり、黄梁(こうりょう)客夢(かくむ)の長きを(風が吹いて林をかき乱し、雪が吹き込んで床につもる。藤の木は葉がすべて落ち、桑の木にも葉がない。この荒れ屋住まいの様子を誰が知るであろうか。誰も知らなくても、心の中では母と一緒に楽しい夢を見ているのだ)(「禅の名僧に学ぶ 生き方の知恵」p.24)後に宰相賈似道の懇請で台州の真如寺へ出世し、ここにも7年いて退かれた。この頃、国師の祖国宋は元のために南へ南へと圧迫され、国師も雁山能仁寺へ避難されたが、その寺もついに元軍の犯すところとなった。その時、寺の僧侶はみな逃げ去ったが、国師はひとり禅床に坐って動かなかったので、元の兵士たちは生意気な坊主だと、白刃をぬいて国師にせまると、国師はしずかにこういう偈を唱えられた。 乾坤弧孤筇を卓つるに地無し。喜得す人空、法亦空なることを珍重す 大元三尺の剣。電光影裏 春風を斬る。 と。この意味は、わしの心境は天地の間に筇(つえ)一本たてるところもない、したがって、自分もなければ自分をとりまく環境もない。三尺の剣を振ってこのわしの首を斬るなど、ご苦労千万なことだ、それは春風のなかで剣舞するようなものさ、というのである。 この偈をきき、国師の泰然として眼中に生死もない様子を見た元の兵は、こういうひとを傷つけたりしたら、どういう罰があたるかわからないと、早々に立ち去ったという。母に仕えては孝順処女のような国師に、一面こうした叱咤すれば三軍をなびかせる剛毅なところがあったのだ。この国師がその祖国がほろびた翌年、時宗公の特使に会い、わが国に渡来されたのである。時に年54歳であった。弘安2年8月到着、直に建長寺に迎えられ時宗公の師家となられてその修養を指導され、諸般の最高顧問的存在となられた。円覚寺管長のページ 2024.10.20 今日の言葉 仏光国師の漢詩先日白駒妃登美先生のご一行がお見えになったおりに、円覚寺の開山仏光国師の漢詩を少し紹介して話をしました。漢詩は次の三つであります。乾坤 孤筇を卓つるに地無し。喜得す人空 法亦空なることを珍重す 大元三尺の剣。電光影裏 春風を斬る。という詩です。それから世路艱危、故人に別る。相看て手を握って頻りなることを知らず。今朝宿鷺亭前の客。明日扶桑国裏の雲。という詩と、そして諸仏凡夫同に是れ幻。若し実相を求むれば眼中の埃。老僧が舎利 天地を包む。空山に向かって冷灰を撥くこと莫れ。という詩であります。はじめの漢詩は、仏光国師の偈の中でももっともよく知られたものであります。臨剣の偈とか、臨刃の頌とか言われています。この漢詩については、朝比奈宗源老師が『しっかりやれよ』(筑摩書房)に解説されていますので、そちらを参照してみましょう。「開山も元が侵略して来たものですから、真如寺を出て南に逃れ、今の福建省の雁山の能仁寺という寺に避難しておられた。ところがその寺へもやがて元の兵が乱入したらしい。すると寺の者たちは皆逃げてしまったが、師、一榻に兀坐―開山一人だけ坐禅して動かなかった。そこで元の兵隊がこの坊主横着な奴だと思ってでしょう、白刃をもって開山の首を斬ろうとした。その時神色すこしも動ぜず、為に偈を説いていわく――そしたら少しもおどろかないで、この偈を説かれたというんです。乾坤無地卓孤筇これは大そう痛快な詩です。天地の間に杖一本立てる所もない。喜得人空法亦空人空の人というのは主観、法というのは客観界、私から見れば皆さん方を含めてこうして私を取り巻くあらゆるものが法であります。嬉しいことにはその法もなければ、これがこれだというものもない。これは私がいつも言う悟りの境地ですよ。そういう境地から見れば、珍重大元三尺剣珍重というのは、ご苦労さんということです。ああ、大元の兵隊さん、三尺の大だんびらを振り上げてわしの首を斬るというが、それは、電光影裏斬春風お前さんたちがぴかぴかする刃を振り回して、わしの首を斬ることは、ちょうど春風の中で剣舞するようなものであって、ごくろう千万であると、こういう意味で、実に小気味のよい詩であります。」という意味であります。最近になって駒澤大学の小川隆先生から「珍重」は「さらば」という別れの言葉と教わりました。そうしますと、「さらば、大元三尺の剣が私の首を斬ろうとも、あたかも稲光のする間に、春の風を切るようなものだ」という意味になります。こちらの方が臨場感があってよろしいように感じます。この漢詩について、朝比奈老師は、「まぁ、開山という人は、前にはお母さまに仕えて娘のように優しくしていたかと思えば、こういう場合に臨めば毅然としてですね、叱咤して三軍を退けるような気概のあった人で、ここらが、私が開山を好きな所であるし、後に日本に来て、北条時宗の師匠になっても、日本の武士たちとぴったり呼吸の合った所以だと思います。ともかくこれは、詩そのものが一つの歴史であり、時と人とがぴしゃりと嵌る所に嵌った、 たぐい稀な作品です。」と称賛されています。仏光国師は、ご自身の修行をすませて三十歳の頃から、三十六歳にお母様がお亡くなりになるまで、おそばに仕えて孝養を尽くされたのでした。そんなお優しい一面もあれば、元軍に囲まれても微動だにしないという峻烈な一面もあるということなのです。次の詩についても朝比奈老師の解説を参照しましょう。「「衆に辞す」 ですから、皆にお別れを告げるのがこの詩であります。世路艱危別故人これは今日の韻からいうとちょっと韻を別にしておりますが、昔は通韻といいまして、共通して使ったと見えます。まさに自分の国は亡びてしまおうとしているこの時勢にです、なじみ深い人たちとここでお別れをするというのです。相看握手不知頻手を握って、覚えず強く握って、しきりなるを知らずですね。まあこれは説明はいりますまい。今朝宿鷺亭前客宿鷺亭とはその時開山が居られた天童山にあった建物です、いまこうして宿鷺亭の前にいるが、明日は日本の空の一片の雲となるであろう。こういう軽い表現が詩というものには好もしいですね。」というところです。更に朝比奈老師は、「実によい詩であります。この時のことを伝記にはこう書いてあります。僧行士俗涙を垂れて別れざるはなし坊さんも、 坊さんでない人も、みな涙を流して開山の出立を見送られた。こうして日本においでになるのであります。」と称えておられます。最後の詩は、遺偈といっていい漢詩であります。諸仏凡夫同に是れ幻。仏様といおうと迷っている人といおうと同じように幻にすぎない。若し実相を求むれば眼中の埃。何か少しでも真実となるものを求めようと思っても、そんなものは目の中の埃のようなもの。老僧が舎利 天地を包む。私の骨はこの天地いっぱいにある。空山に向かって冷灰を撥くこと莫れ。焼いた後の灰をかき回して骨を拾うようなことをしてくれるなという意味であります。良寛さんは「形見とて何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」という歌を残しました。仏光国師は「自分の骨はちっぽけなものではなく、この天地いっぱいを包んでいるのだから、骨を拾うようなことをするな」と言われたのでした。こんな詩について語り、そして怨親平等についてお話させてもらったのでした。横田南嶺
2026.01.25

「鈴木藤三郎伝」183ページ~井上馨と後藤新平台湾製糖会社の事業目論見書は、前にも書いた通り総督府技師の山田?(ひろし)の意見に基づいたものが、製糖原料の甘蔗は、すべて農民から買入れる予定だった。したがって会社としては、耕地は一坪も所有しないことになっていた。ところが、藤三郎が実地に視察して来た結果、耕地を今のうちに所有しておくほうが、会社の将来のためであると考えて、創立総会でも、その意見を述べたものであった。また、井上馨にも、このことを報告したところ、井上も大賛成で、「それでは、土地を買入れる資金が、新たにいる訳だから、予定より早く、第二回の払込みをさせなければなるまい。至急に大株主を開いて、その了解をうるようにしなさい。わしも出席して、助言してあげよう」といった。それで、創立総会から1か月も経たない明治34年(1901年)1月5日の午後1時から、三井集会所で大株主会を開いて、このことを懇談することになった。それには、井上と台湾民政長官の後藤新平も特に出席した。 この『台湾製糖株式会社・特別株主総会』の司会は、例によって益田孝がした。彼は、こういう会合には慣れ切った物柔かな態度で立ち上がると、こういった。「諸君、今日は、当会社の協議会でありまして、100株以上の大株主だけにお集まり願った次第でありますが、便宜上、鈴木氏に会長となっていただいては、いかがでしょうか?」「賛成・・・・賛成・・・・。」の声が、二、三人の口から勢いよく呼ばれた。「どうぞ・・・・。」益田に、こういわれて、藤三郎が立った。そして、会長席に進んで、一礼した。彼は、井上や後藤のような高位高官の前で話しをするのは初めてなので、少し固くなった調子で、こう口を切った。「今日、大株主諸君に御来会を願いました主旨を申し述べます。元来、当会社の発起した当時のもくろみは、まず最初は工場と機械だけを設置いたしまして、原料の甘蔗は本島人から買入れて営業をする見込みでありました。ところが、先ごろ、私がかの地に参りまして実地に踏査いたしました結果、甘蔗の耕作をするのには、種子や肥料などに大いに改良を加える必要を悟ったのであります。しかし、この改良をするのには十分の施設がいります。それには、とうてい、他人の事業に、会社が干渉するだけでは効を奏することができません。それで、会社自身が、まず地主となって、本島人を小作人として、これに適当の方法を教えてこそ、初めてこの目的を達することができるでございましょう。私は、そうした考えの下に、工場に適当な場所を地として2か所を選定いたしました。一は曾文渓、一は橋仔頭であります。この地は、将来事業を拡張いたしますのに、至急有望の土地でありますから、今日、この付近に耕地を買入れておくことは、会社のために利益であろうと存じます。その概略は、創立総会のおりの調査報告中にも申し述べておきましたが、なお今日は、このことにつきまして、とくと御協議を申し上げたいのでございます。これにつきましては、井上伯爵下にも、御意見のあることを承りましたから、ただ今から閣下の御意見を、お聞かせ下さるようにお願い申し上げます。」 藤三郎は、こういうと、井上馨の前にいって、「どうぞ・・・・。」と、低く頭を下げた。井上は、「ふむ・・・・。」と、軽くうなづくと、いかにも大政治家らしいゆったりとした態度で、演壇に立った。そして、幕末維新のころにはいくたびか白刃の下を潜って、その傷あとがまざまざと眼尻や下あごのあたりに残っていて、『ひと癖ある面魂(つらだましい)』という言葉がピッタリする顔で、じっと一同を見わたした。その気魄に押されて、一座は水を打ったようになった。
2026.01.25
192二宮翁夜話巻の5【2】尊徳先生はおっしゃった。世の学者たちは皆、草の根木の葉などを調べて、これも食べることができる、あれも食べることができるといっているが、私はそのような話は聞きたくない。なぜかといえば自ら食べて、よく経験したものでなければ、とてもおぼつかない。さらにこのような物を頼みにすれば、凶歳の用意を自然と怠るようになり世の害となるであろう。それよりも凶歳や飢饉の惨状がこんなにもひどいものだと述べる事が、僧侶が地獄のありさまを絵に書いて、老婆を諭すが如く、懇々と説いてさとして、村ごとに穀物を積み事を勧めることが勝っていることにしくはない。だから私は草の根や木の皮を食べろとは決して言わない、飢饉がどんなに恐ろしいか、囲穀(かこいこく)を行わなければならない事だけを諭し、囲穀を行わせることを勤めているのだ。二宮翁夜話巻の5【2】翁曰く、世の学者皆草根木葉等を調べて、是も食すべし彼(かれ)も食すべしと云ふといへども、予は聞くを欲せず。如何(いかん)となれば自ら食して、能く経験せるにはあらざれば、甚だ覚束(おぼつか)なし、且つかゝる物を頼みにせば、凶歳(きやうさい)の用意自(おのづか)ら怠りて世の害となるべし、夫(それ)よりも凶歳飢饉の惨状、甚(はなは)だ敷(し)を述ぶる事、僧侶地獄の有様を絵に書きて、老婆を諭(さと)すが如く、懇々説き諭して、村毎に積穀(つみこく)を成す事を勧むるの勝(まさ)れるに如(し)かざるべし、故に予は草根木皮を食すべしと決して言はず、飢饉の恐るべく、囲穀(かこひまい)の為(な)さゞるべからざる事をのみ諭して、囲穀(かこひまい)をなさしむるを務(つと)めとす。
2026.01.25
永平初祖学道用心集 5-4道元・学道用心集講話「第五 参禅学道は正師を求むべき事」(澤木興道)その4 発心というものは宗教的にいうと一体どんなのが発心か。たとえばわたしが盗ッ人になろうと思って、親分にわたしをあなたの子分にしてください、今日から泥棒にしてもらいます、といって泥棒の子分になって、親分子分の盃をもろうたら、まだ盗まぬうちからりっぱな泥棒になる。ところが、いま発心ということは、仏さまの弟子になる、仏さまの子になるのだから、何も坐禅せんでも、発心したらそのときには仏さまになる。発心が仏さまである。発心が盗ツ人である。発心して盗ッ人になったら、とらぬうちから盗ッ人になっておる。そこで正しい発心をしたら、最初の発心が正覚を生ずる。それが仏になる。そのときにほんとうのおのれを見い出す。だから発心ということが大事なことは、きまりきっておる。東京から九州へゆこうと思ったら、鹿児島行の汽車に乗ったらいい。発心は乗ることである。間違っていない列車に乗ることである。発心を間違えることは、列車を間違えることである。東京から鹿児島行に乗らんならぬのに青森行に乗ったらたいへんである。長野行に乗ったら長野にいってしまう。 わたしにもそんなことがあった。朝八時に上野から常盤線に乗れば、中村というところに午後の四時に着く。ところが東北本線に乗ってしもうた。これは失敗(しま)ったと思った。仕方がない。中村といっても何処か知らぬものだから、ともかく福島で降りると、中村はやはり福島の手前である。常盤線でまた戻らんならん。その晩七時からの講演に、向うでは公会堂を借りて用意しておったのに、とうとうわたしは間に合わなかった。それは発心が間違っておった。乗車口が間違っておった。そこで発心出家ということは、つまりいうと常識の世界から仏法の世界へ早変りすることである。常識の世界なら、百万円の宝くじが当ったら幸福だ、運がいいというようなものだが、われわれから見たらそれは運がいいとも思わぬ。百万円の金でしくじらねばいいがと思う。すぐ心配する。あのたくさんの当った人の中で、たった二人しかまじめに百万円を使うておる人はないげな。常識でいう幸福と仏法でいう幸福と、幸福の相場が違うわけである。つまりいうと、現実の幸不幸と久遠の幸不幸とは違うわけである。現実の世界から久遠の世界へ早変りする、永遠に間違いのない世界へ早変りするのが、すなはち仏法の発心である。(「沢木興道全集」第2巻p.109-110)
2026.01.24

「本当に偉い人」坂村真民 本当に偉い人は マザーテレサのように 素足にサンダルを履き 極貧最下の人たちに 一生を捧げる人である 『二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう』横田南嶺禅師p.88-92 私は先日渡辺和子さんに、マザー・テレサについてお話を聞くことができました。・・・マザーが来日した際、渡辺さんは通訳としてマザーに付き添ったそうです。私が渡辺さんに「来日中のマザーで、一番印象に残っていることは何ですか?」とお聞きしたところ、次の三つのエピソードをあげてくださいました。 まず、マザーに泊まっていただくために、一番いい部屋を用意した時のこと。疲れをとってゆっくり休んでいただこうと、ベッドも完璧に調えておいたのですが、朝、マザーが出たあとの部屋を見ると、ベッドはまったく使われていませんでした。マザーは床の上で寝ていたそうです。 二つ目のエピソードは、お祈りの時の話です。マザーはどんなに多忙で、疲労し、夜遅くなった日でも、宿舎に戻ってくると、必ず「今日はまだお祈りをしていない」と、ひとりで教会に行って、一時間以上お祈りをしていたそうです。 冬の寒い時ですから、教会の中は冷えきっています。マザーの体を心配してシスターたちが暖房をつけておきました。するとマザーは「暖房を切ってください」と言い、冷たい床の上で、はだしになって一時間以上お祈りをしていたといいます。 三つ目のエピソードは、笑顔についてです。マザーは渡辺さんに「私はどんな時でも笑顔で写真に写るようにしています」と話しました。それはマザーと神さまとの約束だからだそうです。 カメラマンの中にはぶしつけな人もいます。目の前でいきなりフラッシュをたいたり、了解もなく、パシャパシャ写真を撮る人もいます。しかしマザーはいやな顔一つせず、どのカメラマンにも必ず笑顔で答えるのです。なぜなら、マザーは神さまにあるお願いをしていたからです。「本当はシャッターを押されるたびに、私は不愉快な気持ちになります。でもその気持ちを表わさず、必ず笑顔で写るようにします。その代わり、私が笑顔をつくるたびに、神さまのお近くにいる誰か貧しい人をひとり救ってあげてくださいと、私は神さまとそういう約束をしているのです」(略)「愛をこめて生きる」(渡辺和子著)インドのカルカッタに当年とって78歳になるマザー・テレサという一老修道女が住んでいる。この人は、「神の愛の宣教者」という修道会の創始者であり、国際連合が『世界最悪の居住条件を持つ』と宣言したこの街で、貧しい人の中でも最も貧しい人々に仕えることを使命としている。その貧しさとは物質的なものもさることながら、それ以上に、この世で人々から『不要』『邪魔者』扱いをされている人々、自分自身「生きていても、いなくても同じ」、または、「生きていない方がいいもしれない」と思っている、 貧しい人々 である。 1979年のノーベル平和賞受賞者であるマザーはかくて、望まれずして生まれたが故に棄てられた子供達を拾って育て、人々に忌み嫌われるハンセン病患者を手厚く看病し、さらに、路傍で一人淋しく死んでいこうとする瀕死の病人を「死を待つ人の家」に連れて来て死なせてやることに力を尽くしているのである。「人間にとって、生きのびることも大切ですが、死ぬこと、しかもよい死を迎えることは、もっと大切なことです。」そうマザーは考える。マザーの手の中で死んでいく人々がほとんど例外なく最後の息を引き取る前に言う言葉が「サンキュー」であるということ、感謝して死ぬという事実がマザーの信念を支えている。この話を終ってマザーは言う。It is so beautiful.それは本当に美しい それは pretty きれいではない。汚い建物、蠅が飛び交い、異臭が立ち込める中、ゴザを敷いただけの床の中で骨と皮にやせ衰えた人が死んでゆく。そことは立派な病院、清潔な病室、真っ白のシーツ、消毒された器具、最新の医療機器に囲まれて死ぬ人々と外見において雲泥の差がある。 しかし、それらの『きれいなもの』に囲まれながらも心淋しく死んでゆかねばならない人々がいる。それに引き比べ脱脂綿に水を含ませただけのもので、唇をしめらせ、手を取って「よく辛い人生を生きてきましたね。さあ安らかに旅だちなさい」と優しく語りかける看護人に見守られて死ぬということは、より人間的な死なのかも知れない。 マザー・テレサが3度目に来日した折り、岡山での祈りの集会に出席された。その朝東京を発って広島へ赴き、そこで一つの大きな講演を済ませての帰途という強行軍であった。駅頭には報道関係はじめマザーを一目見ようとする人々が押しかけ、数限りなくフラッシュがたかれ、シャッターがきられていた。・・・老齢、長途の旅、ハードスケジュールにもかかわらず、カメラにほほえみかけていたマザーは、通訳として傍らを歩く私(シスター渡辺和子)にささやくように一つの秘密を明かしてくれた。「シスター、私はね、一つのフラッシュがたかれ、一つのシャッターが切られるたびに、一つの魂が神さまのみもとに行くようにと祈っているのですよ」その言葉に何の気負いもなかった。それは時空を越えて、人が beautifull にその一生を終え、新しい生を感謝のうちに始めることを願う優しさに満ちていた。私はそのささやきに、深く深く感動させられた。「時空を超えたやさしさ」より抜粋(「愛をこめて生きる」渡辺和子著)
2026.01.24
(昭和56年8月25日発行、春秋社)(1959年4月20日発行、春秋社)朝比奈宗源老師の獅子吼 抜粋29P.222-224 毒狼窟・古川堯道老師のこと その2 老師は島根県簸川郡の人、家は地方での豪家であったが、不幸な出来事があって倒産し、それが老師の出家の因縁となったとうかがった。 12歳で松江万寿寺の大航老師について出家、18歳備中井山宝福寺の九峰老師に参じ、のち鎌倉に来て釈宗演老師の会下に入り、かたわら南天棒鄧州老師の印可をうけられた。宗演老師の命によって、福島県須賀川普応寺、鎌倉東慶寺、新潟県関興寺、又鎌倉浄智寺にと、諸寺に歴住され、大正5年宗演老師が再び円覚寺管長となられる時、宗制を改め管長と専門道場師家と分け、老師を専門道場の師家に請じ、宗演老師は専ら管長としての職をとられた。大正8年11月、宗演老師が遷化されたので老師が管長の職をつがれた。この間に関東大震災があり、大正の末頃から昭和の初めにかけて、禅堂、居士林、大方丈、庫裡、書院等の復興工事が行われ、昭和6年退職、故千崎如幻師の招きで米国に遊ばされ、帰国後横浜天池庵にあって休養、昭和11年に再び円覚管長に当選、15年に引退の後の大部分は山内蔵六庵に閑栖してすごされた。円覚寺管長のページ 2024.04.22今日の言葉 担板漢四月十七日は、円覚寺の古川尭道老師のご命日でありました。老師の頂相をかけてお経をあげました。堯道老師は「毒狼窟」という室号をお持ちでいらっしゃいましたが、その頂相を拝見しても、眼光鋭くいかにも「毒狼」という名の通りだといつも思います。老師の略歴は、『円覚寺史』にあります。明治五年十二月八日島根縣簸川郡に生る。十三歳春慈雲寺(後松江の圓成寺住)石倉主鞭に得度、松江萬壽寺大航、井山寶福寺九峯、圓覺洪嶽、松島瑞巌寺南天棒鄧州、瑞龍禪外、虎溪毒湛等に歴參、洪嶽に嗣法す。普應寺、東慶寺、關興寺、浄智寺に住職、大正五年六月圓覺僧堂師家、大正九年一月より昭和五年五月まで管長、六年六月渡米東漸禪窟師家、七年一月歸國、久保山天池庵住職、十年六月―十五年六月再び管長、爾來藏六庵退隱、昭和卅六年四月十七日示寂、骨清窟に塔す。壽九十一。嗣法別峰宗源。自歷畫傳『擔板漢』」とあります。最期のご様子について朝比奈宗源老師は『獅子吼』の中で次のように書かれています。「戦時からずっと山内蔵六庵に閑栖していられた毒狼窟・古川堯道老師は、昭和三十六年四月十七日、忽爾として遷化された。あえて忽爾としてというのは、老師は数え年九十歳になられ、旧冬以来いくらか衰えは見えたが、その気力はさかんであり、周囲にある者はみなまだ当分は大丈夫であろうと思っていた。現に御遷化の前日十六日の日曜には、いつもの如く居士数氏のために提唱をされた。もっともその折も居士の一人がこたつにやすまれたままで結構ですというと、「ねていて提唱ができるか」と一喝され、起きて袈裟をかけて提唱されたそうで、はたの者にはいたいたしかったらしいが、あのご気性ではそうしなくては気がすまなかったらしい。そのあとはやはり疲労されたと見え軽いけいれんをおこされたが治まり、その夜も平常とかわらず、明くる十七日午後零時半頃、急に変化が起こり、直に医師をむかえいろいろ手当を加えたが効が見えず、四時十分には遂に示寂された。全くあっという間であった。臨終に立会って下すった野坂三枝博士も、こんな楽な臨終は今まで見たことがないといっておられたが、最初に注射をした時、顔をしかめられただけで、あとは一切苦悩の影を示されなかった。また何も言おうともされず、 平生の老師の通り、すらっと逝ってしまわれた。私には忽爾として逝かれたという感じが深い。」と書かれています。先代の管長足立大進老師も修行時代には、まだ蔵六庵にいらっしゃって、僧堂が四九日にお風呂を沸かすと、まず堯道老師のところに行ってお声をかけて、お風呂にはいってもらっていたと仰っていました。鬚をはやした老師が杖をつきながら、手拭いを持ってお風呂に入りに来られたそのお姿が印象深いと仰っていました。朝比奈老師が「老師の人となりは米寿のお祝いに出版された、老師の自伝『担板漢』に記されている通り、誠に典型的な禅僧であった。明治大正の間でも最も古風な面をもった人で、宗演老師は極めて進歩的積極的な方であったのに対し、老師は全くその反対な人であったが、お互いにその長所を認めあい尊敬されあっていた。」と書かれています。何に於いても進歩的な釈宗演老師に対して古風な老師だったとうかがっています。足立老師は、そんな尭道老師のことをご尊敬されていたようで、お亡くなりになる時にも堯道老師がお召しになっていた法衣をつけて入棺するようにと言い残されていました。私は老師のご遺体に尭道老師の法衣を着せながら、改めて老師は尭道老師を慕っておられたことを思ったのでした。堯道老師は明治二十五年に円覚寺の僧堂に来ています。その年の春に宗演老師が師家となったのでした。宗演老師はまだ三十二才、尭道老師は二十歳でありました。堯道老師の『擔板漢』によると「此の時圓覺僧堂は極めて枯淡にて、朝は割麦一升に米三合の一人前一合づつの粥に萬年漬とて大根の葉をしほ漬に成たるものにて、昼は割麥一升に米三合づつの飯一人前三合づつ汁は醤油槽で製造の味噌に時々の野菜を汁の實になし、晩は朝の通りの粥で、それに大衆が満衆になれば不足で困難、そこで横濱や諸方に合米と云ふものを願った。」という枯淡な暮らしだったのであります。麦一升に米三合ですから、麦飯といってもほとんど麦だったようです。朝比奈老師の『しっかりやれよ』という本には、こんな堯道老師とのやりとりが載っています。朝比奈老師が、修行僧の頭となっていて、堯道老師に、「ご飯は麦半分米半分、こりゃ祖師の命日かなんかでなきゃ食べさせなかった食事です、味噌汁もたっぷり、おこうこもこしらえ、味噌もしこむというように準備しておいて、堯道老師に、「人間並の食事を食べさせてやって下さい」と願ったんです。ところが老師は、「そんな贅沢はいかん」こう言う、そこで朝比奈老師は修行僧の中でも役位という古参の者たちで何日もかけて老師を説得したという話があります。朝比奈老師は堯道老師の頂相に「「楞伽窟中、金を抛ち鉄に換え、大担板漢、林下の傑と稱す。」と讃を書かれていますが、「担板漢」とあだ名されていました。「担板漢」というのは、入矢義高先生の『禅語辞典』には、「板を横に肩にかついだ男。自分がかついでいる(抱えこんでいる) 物や理念に左右されて行動する人聞を罵って言う。つまりワン・パターンの教条主義者。」という解説があります。また『禅学大辞典』には「一方向きの人。一を知って二を知らない者のたとえ。」とあります。朝比奈老師は「融通の利かない人を担板漢という。板を背負った男っていう意味です。板を背負っているから、馬車馬みたいに脇や後ろは見えない」と解説されています。そう言われるほどに一筋に生きた方なのであります。堯道老師のご命日に老師の遺徳を偲んだのでした。
2026.01.24

「鈴木藤三郎伝」157~160ページ 台湾の工場敷地を実地調査するために、藤三郎は、支配人として入社することになった山本悌二郎と、三井物産会社の調査課員である藤原銀次郎を伴なって、10月1日に新橋駅から出発した。のちには、山本は台湾製糖会社の社長から農林大臣に、藤原は王子製紙会社の社長から商工大臣にまでなったが、このころは、まだ血気盛んな時代であった。藤三郎達は、3日に神戸を出帆して、7日に台北に着いた。さっそく、総督府を訪ねると、児玉総督は大いに喜んで、歓迎の宴を開いた。藤三郎が、わが国糖業界の第一人者であり、山本はドイツで農業経済を専攻して第二高等学校教授もしていたので、藤三郎が主として技術方面を、山本が農業方面を調査に来たのであることは分っていた。それで、総督は藤原に、「お主ゃ、何を調べに来たのか?」と聞いた。「私は益田孝の命を受けて、この仕事が引合うものかどう?やるか、やらぬか?ということを調べに来たのです。」 血気の藤原は勢いよく答えた。すると総督は、「そんな馬鹿な奴があるかッ!」 と、どなりつけるようにいった。その語気があまり激しかったので、あっけにとられたように半ば口をあけて、しきりに目ばたきをしている藤原の顔を見て、児玉はおかしそうに「ハハゝゝゝ。」と笑いながら、「やるか、やらぬか?ではない。やることにきまっているのだ。やることにきまってはいるのだが、それを、どうやればよいか?ということを、君は調べに来たのだ。よいナ?」 と軍人らしい淡白な調子で、噛んで含めるようにいった。そして、別れ際に、「現地の調査には、どんな便宜でも図るから、遠慮なくいって下さい。」と藤三郎にいったあとで、ニコニコ笑いながら藤原に、「帰りには、キット寄るのだぞ。素通りは、いかんぞ。」といった。その言葉のうちに、この老総督が、どんなに国家の前途を、この島の開発にかけて日夜心を砕いているかが、藤原の心にもしみ入るように分った。 藤三郎達は、10月13日まで台北に滞在して、総督府で下調べをしたりいろいろな打合せをした上、14日に基隆(キールン)を出帆して、16日に安平に上陸して台南に行った。そこで3日間準備をして、19日から実地踏査にかかった。 初めには工場を、台南の北方の麻豆(マトウ)付近に置こうと考えていたから、まっさきにそこに行っては、土地の買収やその他に不得策であろうと、ことさらに南方に出て打狗(ターター:高雄)へ行って、陳中和に面会してから鳳山に行き、それから万丹、東港を経て、枋寮(ぼうりょう)に行った。この地は、台南県中で糖業地帯の南端に当るので、これから北に進んで踏査した。枋寮から北には、諸所に良好な大原野がある。これを見た藤三郎は、総督府の山田がした、原料の甘蔗は本島人から買い入れるという目論見ばかりでなく、進んで会社が土地も所有し、耕作もした方がいいという覚悟がきまった。それで、原野は特に注意して踏査した。枋寮と石光見との間に、蛮界に接して広漠とした原野があり、また石光見から阿?街付近にも大原野がある。この大原野をよぎって阿里港から手巾寮に至り、淡水渓を渡って、蕃薯寮から山を越えて関帝廟に行って、ひとまず台南に帰った。この間、2週間かかった。 それからまた、大目降から曾文渓をへて麻豆に出て、北に向かって行くと布袋市に着いた。この地は海の近くで産糖地ではないが、そこの塩田に本島人を使役している実地を視察して、大いに参考になった。この布袋市から塩水港に出て新営所に至り、そこから軽便鉄道で台南に帰った。その間11日であって、前後を通しては24,5日かかった。この間は泊る所がないので、いつも警官の駐在所に泊って歩いた。 そのころの台湾は、まだ土匪(どひ)の出没が激しいので、各地を踏査する間は、藤三郎達もピストルで身を固めた上に、総督府から特に派遣された一個中隊の兵に護衛されて歩いた。それでも、藤三郎達の通過したすぐあとに、やはりそこを通った討伐警官の一隊が、匪賊の襲撃にあって全滅したというようなことがあった。
2026.01.24
円井わん&さとうほなみの名演がキャラを作った橋爪「円井さんに関しては制作陣、特に監督の村橋(直樹)が昔からずっと好きな役者さんで。どこかで一緒に仕事をしようねと言い続けてきて、なかなか叶わなかった役者さんの一人なんです。オーディションでは最終選考まで残っていただいて、ヒロインの次点には、円井さんの名前を書いて局に提出しました。それくらい芝居が素晴らしくて、今回はヒロインに一番近い立ち位置のキャラクターをお願いすることにしました」実際に現場で見た円井の芝居「期待以上」「円井さんはどちらかというと自家発電する人ではなくて、芝居場に放り込むと、その人をちゃんと生きていける人。誰かとやりとりをさせて、現場の中に佇ませると、すごく味が出てくるんです。そのあたりが今回の作品にも合っていると思うし、髙石さんともいい関係を築いてくれている。本当に素晴らしい役者さんだと思います」さとうの芝居にも惹かれるものがあり、オーディション結果を伝える際「絶対にどこかでキャスティングするので、スケジュールを空けておいてください」「さとうさんは心の中に抱えている業があって、それをカラッと出すことができる。それがなみにハマると思ってキャスティングしました。彼女自身もとても明るい方で、現場のムードメーカーにもなってくれて。本当にいい役者さんがキャスティングできてよかったです」なみは完全なオリジナルキャラクターでモデルとなる人物がいないそのため、制作陣も最後まで行く末を決めきれないまま、物語を走らせた。「脚本のふじきさんとも、『書きながらこの子の将来をどうするか考えていこう』と話していて。遊郭から男性にもらわれて幸せな生活を送る道もあれば、ずっと変わらず遊郭にいる道もある。当時、松江にはやり手の“遊女”もいたので、なみもそうなる可能性はあるよね、と。あるいは、ずっと遊郭にいて、のたれ死ぬような人生かもしれない。本当にいろいろな可能性を残して台本をスタートさせました」なみの行く末はさとうの芝居に触れる中で定まっていった橋爪は「ふじきさんはとっても優しい本を書く方なので、『救いがどこかにほしいよね』と。最後は救える人にしたいね、というのが一番でした」「なみは何年も身請けの話が来なかった子だと思うんです。もう30歳を超えていて、当時は23歳を超えたら行き遅れと言われていた時代ですから。でも、あがき続ければ何かあるのかもしれない。そういう少しの希望が見えたらいいなと思いました。(物語として)最後までなみに寄り添えるのであれば絶望でもいいと思いますが、今回はトキの物語でそこまで描けないので、絶望的な結末にはできない。それはさとうさんの芝居を見て思ったことですね」💛さとうさんの明るさと笑顔が、なみをハッピーエンドに導いた。その意味で、なみがさわの口をあげる仕草が、またさわの将来を暗示させる(^^)
2026.01.24
「<安心(あんじん)>の道しるべ」足立大進p.166- 珍重す大元三尺の剣 その2 元の兵は一人坐っている国師を見て、首をはねてしまおうと剣をふりかざす。その時、開山国師は少しも動ずることなく、一首の詩を示されました。それが冒頭に掲げて有名な「臨剣の偈」と言われているものです。「乾坤孤笻を卓(た)つるに地無し」、笻は杖のことで、乾坤(宇宙)は広やかであるが、杖一本立てる場所とてない。「喜び得たり人空法亦た空なることを」、「人(にん)」とは主体的なものと申したらよろしいでしょうか。見るもの、見られるものと分けると、見るものが「人」、見られるものが「法」ということになります。 私たちは目で見、耳で聴きます。その目や耳を持っている主人公を人と言い、音や形など、外に存在する一切のものを法と言ってもいいでしょう。「人空法亦た空」という時は、自分も外の世界も一切が空だというのです。「珍重す大元三尺の剣」、珍重というのはいろいろな意味がありますが、ここでは「ようこそ」と言っておきましょうか。「電光影裏に春風を斬る」、ピカッと稲妻が光る中で春風を斬るようなものだ。本来空の上から見れば、斬るものもなければ斬られるものもない。 開山仏光国師の孫弟子の一人が、京都の天龍寺などを開山された夢窓国師ですが、夢窓国師の歌に、 打つものも 打たるるものも おしなべて 如露亦如電 応作如是観とあります。「如露亦如電応作如是観」とは『金剛経』の中の一節です。「一切のものは露や電(いなづま)のごとくはかないものである」という意味で、棒でもって打ったり打たれたりするが、どちらも同じく、はかない存在だということであります。両方並べて味わって頂くとよろしいと思います。 さて、開山国師の泰然自若としたこの立派な態度に驚いた元の兵は、詫びて刀を収め、国師は難を逃れることができました。その翌年、遂に宋の国は元によって滅ぼされてしまいます。国師は自分の兄弟子である環渓惟一禅師のところで第一座をつとめておられましたが、やがて北条時宗公よりの招きを受け、日本に来朝されることになります。
2026.01.24
坂村真民さんの詩の言葉「念ずれば花ひらく」と刻まれた二つの碑が船に積まれ、アメリカへと運ばれた。碑には英訳も刻まれ、石は山岳信仰の霊地、鞍馬の如意宝珠型の見事なもので、二つともニューヨーク禅堂正法寺とニューヨーク大菩薩禅堂金剛寺禅堂に建立された。 師家は嶋野栄道老師である。 真民さんは、老齢と足の激痛とで、建碑の除幕入魂式に参列できないため、心をこめて書いたメッセージの代読を重信幸廣さんにお願いした。「ニューヨーク禅堂正法寺師家、大菩薩禅堂金剛寺師家、嶋野栄道老師は、仏教東漸の大きな鳥である。」と、代読する重信さんの声に呼応して、突如、大鷲と思われる大きな鳥が飛来し、碑の上を円相を描きながら飛翔した。重信さんは思わず心の中で、「しんみん先生」と叫んだ。奇跡は喜積奇跡は 喜積 実に不思議な奇跡の連続だったとのこと二つの碑石が ニューヨークに着いたのが七月二日三日はみんなで設置四日は除幕入魂式重信幸廣君がわたしのメッセージを代読していて老師は仏教東漸の大きな鳥であると読みあげた時突如として大きな鳥が飛来し円相を描きながら碑の上を飛翔転回したと言うアメリカ合衆国建国二百二十五年大菩薩禅堂開山二十五周年参会者二百五十人これにも感動したその他数々の奇跡がすべて喜積から来ていることを知った信じよう宇宙心霊のなさることの不思議さありがたさ偉大さをよい話大鷲が 飛来した時重信君は ああしんみん先生と 叫んだという この話はよかった うれしかった
2026.01.24
永平初祖学道用心集 5-3道元・学道用心集講話「第五 参禅学道は正師を求むべき事」(澤木興道)その3 前に述べた、殺人鬼・央掘摩羅がお釈迦さまに出会って、正しい道に引入れてもらった話を思い出してほしい。また摩訶迦葉は天才で、黙ってほっておけば縁覚になる。ところがお釈迦さまに出会うた。人間というものは妙なもので、会うただけでもう一大事成就した。それで一生頭陀行(ずだぎょう)、糞掃衣(ふんぞうえ)を衣となし、乞食を食となし、老いぼれてからでもこの頭陀行をやめなかったので、「お前、もういいかげんに修行をゆるめたらどうだ」といわれると、「あなたにお目にかからなかったならば、わたしは縁覚で終るはずだったが、あなたのおかげでわたしは正しい道を得た、それがためにわたしは一生この頭陀の行を捨てません」と。これは摩訶迦葉のお釈迦さまに会うた喜びである。そこに「参禅学道は正師を求むべき事」と。どうしても正師を求めなければならね。もし正師がないならば、生は無駄である。念仏申せばそれでいいか、坐禅したらそれでいいか、といえば、坐禅して地獄へ堕ちた無問(むもん)比丘というのがある。これは正師を得なかったからだ。念仏申して地獄へ堕ちる者もあるわけである。だから師を求めるということが非常に大事な問題である。「右、古人云く」。 これは天台の荊渓(けいけい)大師*1の言葉ーである。「発心正しからざれば万行空しく施す」発心が間違っておるならぱ一生涯は間違いである。何で坊主になったかといえば、百姓するより坊主の方が楽じゃろうと思って坊主になった。このごろは百姓も楽ではない。芋作りからしてえらい。むかしはよく侍(さむらい)の冷飯とか、家老の息子が坊主になっておる。弟息子は兄貴の下座に坐って、冷飯で一生兄貴に土下坐して暮さんならんのはばからしいというので、坊主になって上座に坐ってやろうというので坊主になったのがずいぶんある。これも発心が正しくない。だからむかしはよく坊主と女子といっておる。貧乏人の女の子が器量がよければ殿さまのお妾にでもなるとか、あるいは女官でも勤めておったらやんごとなきお種を宿すとかいうことで、玉の輿(こし)に乗った。大正以来はそんなことはいわないけれども、明治時代をではよういいよった。思わぬ出世する者が、何万人に一人くらいはある。ところがそんなものは発心が正しいのではない。*1 荊渓湛然(けいけい・たんねん)は、中国唐代の天台宗僧侶。妙楽大師と称された。天台宗の第6祖面山和尚*2 が『永平家訓』というものを編集せられたが、道元禅師のお言葉の中から、第一番に発心出家訓というものが収められてある。これは何かというと、やはりここにあるところの「発心正しからざれば万行空しく施す」ということである。どうしても発心が正しくなければならん。(「沢木興道全集」第2巻p.108-109)*2 面山 瑞方(めんざん ずいほう、1683年12月22日(天和3年11月5日)- 1769年10月16日(明和6年9月17日))は、江戸時代中期の僧。曹洞宗。本姓は今村。肥後の生まれ。15歳(16歳とも)で母と死別したことにより、出家する。後に江戸に出て卍山道白及び梅峰竺信の門人となった。後に陸奥の仙台に出て、損翁宗益と共に曹洞宗の興隆に携わり、黄檗宗の卍山と共に曹洞の中興を成し遂げた。1705年(宝永2年)に相模の老梅庵の住職となり、以後生まれ故郷の肥後の禅定寺や清潭寺、豊後の醍醐寺、若狭の空印寺等の住職を歴任した。また、晩年には関東や畿内を行脚し、「建康普説」といった新しい仏法を生み出し、多くの著書を残した。1741年(寛保元年)より若狭の永福庵に建立し、居住した後に上洛して1769年(明和6年)に建仁寺にて入滅した。入滅後も庶民から「婆々面山」と呼ばれた◎「沢木興道 この古心の人」よりp.277-2795 正法眼蔵の参究へ面山は生涯の大恩人明治45年、興道にとって大和法隆寺における勉学の終わりの年だった。29歳から33歳まで、足掛け5年にわたる法隆寺勧学院での勉学中も、道元禅師撰述の書を手放さず、その根元に参入したいという願望は絶えず脳裡を離れなかった。興道は往時を回顧して「面山和尚はわしの恩人じゃ」としばしば言った。「面山和尚には聞解(もんげ)という多くの古典の解釈書がある。これはカタカナまじりで書いて、つまり平言葉で誰でも読んでわかるようにしたもので、非常にわかりやすい。いくらいいことが書いてあっても、わけがわからないでは困る。学問してからわかるようになる、そんなことでは遅い。学問がなくても、たった今わからねばならぬ。わしは面山和尚の『聞解』でぼつぼつやってきた・・・そんな具合でわしは一生涯面山和尚のご厄介になった」
2026.01.24
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