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中村氏岸右衛門問答聞書(全集23‐19)現代語訳一 天保三年ごろ、中村氏が江戸の大伝馬塩町に借家していた時、岸右衛門が仕法の用事で時々江戸に出たとき、その都度中村氏宅に立寄った。中村氏は岸右衛門に、「なぜ、たびたび江戸へ出て来るのか」と尋ねた。そこで、宇津様のご知行所が、人が少くなり困窮したために、小田原から二宮(金次郎)様がご出張になり、いろいろご仕法に取りかかられた次第を物語りした。中村氏はその疑問がはれないうち、塩町は火事で焼失し、外神田の黒門町、また本所の相生町などへ転宅した。大変に困窮した状態で、もともと田舎育ちで江戸に住居したものの、たびたび類焼に及んだ結果、借財がかさみ困窮しているということをたびたび話した。二宮様が村で困窮した民を救い、大切に育て、借金があるものは返済の道をたてさせるなど仕法を下されていることなど詳細に話したところ、「それに相違ないだろうが、このようにたびたび江戸に出るについては費用もかかるだろうが、何か手当でもいただいているのか」と聞いた。「特に手当などあるわけではない。ただただ大勢を助ける道であり、自分の事は暮し方を縮めて、お礼のために無給で勤めている」と話した。「そのような仁恵のご仕法であれば、私は最近たびたび類焼にあい、借金が四、五十両に及び、生活にも差し支え、困窮しているため、なにとぞご仕法金を借りれるようお願いできないか」と頼まれた。私(岸右衛門)は中村氏に言った。「そこもとの家業は人を助けることが大切ではないか。最近は細川様よりお扶持(ふち)も頂戴されている上は、私どもと違いどのようにも人助けもできるはずではないか。私たち農民は、夏は炎天下で、冬は雪霜をいただいて、粉骨を尽し、年貢を納め、諸役を勤め、その余りで父母や妻子を養い、家小屋を作り、暑さ寒さをしのぎ、農具の修繕、肥料代あるいは馬の飼料、諸事万端すべて田畑の潤いとなり、今日助かっている身分である。日々の行いに油断があれば、たちまち困窮に陥ってしまう。その家業の妨げにならないように心掛け、大勢のために、辛苦艱難を厭わないで、江戸へ出ているのだ。私たちのようなものでも、その身を苦しめればその分だけは人の憂苦を安らかにできる。たとえば人が病気し苦しんでいる時に、なでたりさすったりして、外から悩み苦しむところを介抱すれば、その間は苦痛も緩和する道理だ。そこもとだけでなく私どもも困窮には変わりない。しかし今日まで大勢の家族が飢へもこごえもしないで、農業を勤めている。私たちよりも、また困窮の者も多いのを見れば有難いことではないか。身が安楽であるから人を助けることもできると心得て、手足が大儀でも少しでも人助けになることなので懸命に勤めている」と申した。中村氏は、理解できないふうで、「江戸への往復の費用も少なくはなかろう。その上無給ではそのうち手詰まりになるのではないか」などと言った。これは実は貧しい身なりでたびたび来ては分ったような話などをしたので、外聞にもかかわり、迷惑でもあろうかと察しました。「そこもとは、そもそも人助けの家業(医術)で江戸に出て、もとより我々とは格段に違う家業であるから、薬のお礼を貪らず、家業を専らに精励されれば、その余徳で今日貧しいはずがない。我々と違い、能力はあっても、人徳を財用の損得と同じように考えるから、こうしたことが分らないのだ。まず人に財を譲るならば、先方の都合がよろしいため、その者が有難く思えば、人徳を潤し、それが積り積って大徳の人とも、徳者とも世に唱えられるようになる。そこもとは、財を施すことはさて置き、草の根木の皮のたぐいで薬代を貪り、その身を富ますことしか念頭にないため、世間の人々に人徳を慕われることがなく、したがって医者の家業も不振にならざるをえないのだ」と、種々の問答をしました。つまりは相互にこれからのなりゆきで分るであろうと是非は決しませんでした。「自分もかつては、自分の利益しか考えなかった。次第にご知行所も困窮に及んで、いかにもお上にもなされようがなく、方法が尽き果て、終に退転亡所にもなるありさまだった。二宮様がご出張されて厚くご教諭を下さったけれども、八、九年の間は理解できないままに暮し(*)、その内にいろいろなご教化によって、次第に今日の有難い事を心得るようになり、家業に励むようになったのだ。しかしご知行所の皆全員が同じというまでではなく、それぞれの考えも有ることから、及ばずながら心配をいたし、たびたび江戸への出るくるのだ。家業一筋に精励して、年貢は滞りなく納め、諸役は差し出し、法令を守り、家は相続して隠居している身分なので、人としては恩報第一の趣きは、二宮様の明暮れのご教諭が心魂に徹し、有難い事について、せめて随身だけの事は厭うことなく、江戸へも出て、話し合いもしている。それでも中村氏はなかなか理解できない嘆かわしい状態でしたが、たびたび問答をしたところ、終には感服し、第一にその身の立て方に困惑している次第、さらにまた 細川様が難渋しているので、お取直しの仕法を頼みたいという含みで、内々若殿さまに申し上げました。そして、表向きは若奥様のご産前に付、野州の延べの地蔵は安産の守りであるという次第で、去る天保三年四月に、中村氏が桜町へ出張し、私宅(岸右衛門宅)へ逗留いたしました。二宮様に会いたいと私からもお願い申し上げたところお聞きいれなく、数日の逗留でやっと面会もできて会うこともできました。右は、細川様ご仕法の発端の儀をお尋ねについて申し上げました。※岸右衛門が「八、九年の間は理解できないまま」とあるのは、『報徳仕法と近世社会』早田旅人著の一三三頁の表3「長屋詰めの者」で裏付けられる。岸右衛門の名が出るのは文政一二年からで、桜町仕法開始の文政五年から八年目である。以後四年連続して岸右衛門の名が出てくる。また同書一三二頁で円蔵が陣屋詰めを退く際、名主を通していることから、『報徳記』で岸右衛門が「人をして」とあるのは、名主であろうと考えられる。
2026.04.30
文政三年十一月というと、配布した年表をご覧ください。金次郎三十四歳で、桜町仕法のため、万家のために一家を廃止する一年前です。 金次郎が服部家に仕えたのは二十七歳の時です。福住正兄(ふくずみ まさえ)の「二宮翁略歴」には、金次郎が服部家に勤めたのは、服部家の子の勉強に付き添い、勉学したいという目的があったとあります。「万兵衛の家を辞し、小田原にいたった。小田原藩家老の服部氏に三人の男子があった。皆よく読書した。先生は心ひそかに喜んで、自分から頼んでこの家の若党にしてもらった。夜はその子らの読書のかたわらに座し耳をそばたてて聞き、ついには四書〔大学・中庸・論語・孟子〕に通じ、暗記するまでになった。また、その三人の子が学校に行くとき付き添い、講堂の窓の下にたって、ひそかに講義を聴いて、おおむねその文章の意味を理解した。」金次郎は翌年二月にいったん帰宅し、十二月に「服部家家政取直し仕法帳」を作っています。『略伝』には「後に、服部家に災いがいろいろ起こり、家計が非常に苦しくなった。しかも家計を取り締まる人物がいなかった。そこで先生のもとに復旧してほしいと依頼がきた。先生は再び服部家に行き、日夜、勤めて、数年で借金をきれいに払い、しかも余財を生ずるまで立ち直らせた」これが名高い服部家の家政の立直しで、『報徳記』にその次第が感動的に叙述されています。 服部が家政の立直しが依頼が来ても、金次郎は「私は農夫である、服部は家老である。農夫が士の家を興すことなどできない」と断った。それを聞いて服部は感心してねんごろに要請した。そこで金次郎は五年間服部家の整理に尽そうと決意した。服部とは、内外一切を任すという約束のもと返済計画を立案した。報徳記には分度を定め、借金はすべて返済したとあります。「先生はその入る物を量(はか)り、分度を引き去って、中分の活計を立て、無用の雑費を省いて一年間の必要な経費を定め、借財の貸主を呼んで実情を説明し、これを五年で償還することを約束し、自ら使用人に代って家事を勤め、毎夜、家を治め、国を治る道を説き、服部氏に教えた。期間内に借財は減じ、五年で千余両の借金はすべて償還し終わり残金三百両が余った。」金次郎は三百両を三分し、二百両は服部夫妻に非常の時に備えるよう教え、残った百両は、金次郎に譲られたが、使用人に分かち、自らは一切報酬を受けることなく去ったとあります。しかし、服部家の借財額は文化一三年一八四両余だったのが、六年後文政三年には三六八両と増えています。これは一つには文政元年の藩主大久保忠真の老中就任にともない文政三年に江戸詰めとなり出費がかさんだことなどがあります。また文政二年には金次郎は米の先物買いに投資しますが、かえって百両の損失を出しています。新たな打開策として、この手紙にあるように、藩主のお手元金千両の下付を願い出て、うち七百両を低利で貸し付け、その四五九両を服部家の借財の借換えに使ったのです。この返済を確実にするため五常講、道徳に基づいた仕組みを工夫しました。三百両は極難の者への無利息貸付金としました。これが後に、報徳仕法の無利子貸付へと発展したのだと思われます。また五常講は、後の報徳社の原型といえます。さらに米の取引で失敗した金次郎の経験は、後に桜町において西物井村の七郎治という商才を持った人材の発掘・育成へつながり、その献身的な働きは、桜町仕法を安定的に運営することに役立っています。服部家の家政立直しは「報徳記」で描かれているほど見事な結末ではなかったのですが、その体験はその後の報徳仕法に結実しているという意味で重要であるといえます。
2026.04.30
内村鑑三君之小伝(抜粋) 宮部金吾序文この小伝は、内村君が逝去されました年の札幌同窓会第五十二回報告に掲載するため、同級生である小生へその執筆方を委嘱されましたものでありますが、遺憾なことには字数に制限を附せられてありました。内村君のごとき我が同窓中の一大偉人の伝を綴るに当り、例えそれが小伝にしろ、また出来得る限り簡潔にこれを記述しましても、なおその制限の数倍に達しましたことは、まことに止むを得ない次第であります。この伝記中、学生時代の記事にやや詳しく、伝道時代の記事に頗ぶる粗でありましたのは。全くこの制限に支配された訳であります。他日適当な人の手に依って内村君の詳伝が編纂さるる時に、この拙著が多少なりとも、参考の資料となれば幸いであると思ったのであります。独立堂主人藤沢音吉氏よりこの小伝を一書として発行の承認をしきりに迫まらるるも、元来この小伝は同窓間に発表したるもので、その文の拙劣にして、かつ余りに簡潔に過ぎ、敢て江湖の閲読に供するに足らないものでありますが、独立堂主人のたっての懇請黙(もだ)し難く、遂に承諾するに至ったのであります。 この小伝を書くに当り、湊謙次氏著「信の内村鑑三と力のニイチエ」に負うところが多くありました。内村令夫人及内村祐之博士よりは重要なる増補を辱(かたじけな)うしたる処が尠(すくな)くないことを記し、ここに深甚なる感謝の意を表したく思ふのであります。 昭和七年十月三十日 宮部金吾 キリスト教界の偉人内村鑑三君は昭和五年三月二十八日午前八時五十一分眠るがごとく安らかにその霊を神の御手に委ねられました。行年七十歳。熟々(つらつら)君の波瀾に富める貴き生涯を顧みるに、神は予め「我爾(なんぢ)を人を漁(すなど)る者と為さん」との聖旨に由り、君を選び給し跡を明らかに見る事が出来るのであります。神はこの為に君を札幌へ導き、米国に遣わし、いわゆる不敬事件をすら惹起せしめ、あらゆる辛苦困難を具(つぶ)さになめしめ、鍛えに鍛えられ、遂に君をして、独立独歩、文筆と講壇より純福音の宣伝を為さしめ、かつ確乎たる日本的独立キリスト教の基礎を築かしめ、未来ある栄光の偉業を遺さしめたのであります。 内村君は旧上州高崎の藩士内村謹之丞宜之氏の長男として、文久元年(1861)三月二十四日に、江戸小石川鳶坂上(今の本郷区真砂町)松平右京亮邸内に生れました。厳父は謹直高邁の士にて儒教に通暁し、藩に在っては家老の職を勤められました。慈母ヤツ氏は同藩士大戸家より嫁し、勤勉にして誠実なる貞女であって、宜之氏との間に君を頭として五男一女を挙げられました。君はかくて江戸に生まれて間もなく故郷の高崎に移り、その処に生い立って寺小屋式の小学校に通学しました。父君が漢学に造詣深かった関係上、日夜厳しく漢文の素読を強要されました。かくて十一、二才の頃迄温かき父母の膝下に在って厳格なる儒教的訓練を受けたのであります。 明治五年頃上京して私立の英学塾に入り専心英学を修め、明治七年三月に東京外国語学校(同年十二月東京英語学校と改正)の入学試験に合格し、英語学下等第四級に編入されました。これを思いますと、当時既に英語に対する素養が相当培われていたものと見えます。なお当時の一覧を見るに、同級中に末松謙澄、野村龍太郎、高木甚平、山本悌三郎、田中稲城、岩川友太郎諸氏の名前が並んでおります。もし君がかくして順調に学業に就いて行く事が出来ましたなら、吾々より数年前の先輩として、札幌に来る機会は、あるいは遂に与えられなかったでありましょう。しかるに君は幸か不幸か肺炎に罹り、一年有余の休学を余儀なくされました。 明治十年、君が東京英語学校の第一級に在学中、たまたま札幌農学校の官費生募集の勧誘がありまして、それに応じた者が十一名ありました。その内に内村鑑三、太田(新渡戸)稲造、岩崎行親、足立元太郎、高木玉太郎、佐久間信恭、藤田九三郎等の諸氏があり、是に宮部も加わりましたが、又工部大学予科からも広井勇、南鷹次郎、町村金弥等の諸氏応募され、合せて十八名の者が札幌農学校第二期生を編成する事になりました。 内村君の厳父は君に法学を修むるように切に説き勧められましたため、一時は法科大学に入学する決心を起こされたのでありましたが、つらつら自ら省るに、到底法律を以て立つべき性質でない事を感じられていたのでありました。折しも札幌農学校生徒の募集に遭遇し、北海道の拓殖、これ我が任務なりと深く心に決する所があり、父の許しを得て直ちに応募されました。札幌農学校に入学を志してからは、未だ東京にいる間より、特に内村・新渡戸両君と私の三人は、最も親密の交際を致しました。かくして札幌に於ける学生生活中、三人は始終行動を共にしました。その上内村君と私とは若き四年の日を寄宿舎で室を同じうしていたので、互いの性質はよく知り尽して居ます。君は武士気質(かたぎ)で、正直で、敬虔で、几帳面な所があり、友情に富み、また友人の忠告をよく受入れる雅量を持っていました。しかしまた一方に甚だ烈しい性質があって、多くの人々と衝突喧嘩もしましたが、不思議の事には同室におったにも係らず、私とは一度も喧嘩をした事がありませんでした。また世事慣れず、一見粗野な処があったので「不意気」という綽名を付けられても居ました。内村君は頭脳明晰でその学才記憶力に就いては驚くべきものがありました。勉学も規則正しく、その努力も人一倍でありましたが、試験の成績を見るに製図と兵式体操を除く外はほとんど各学科にわたり最高点を取らないものは無かった程で、恐らく札幌農学校開始以来、内村君程最優等の成績を取った者は他に一人もあるまいと思います。それは君の平素の心掛けが良かったからで、いつ準備勉強をするかは、同室の私にも判らぬくらいでありましたが、試験の一週間前には総ての準備が整い、にわか勉強のごときは決してされませんでした。この習慣即ち「規則正しい勉強」と「予め準備をして置く」という事は、内村君の一生を通じて常に変らずに保たれたものであります。君の主宰されていた月刊の「聖書之研究」雑誌が三十年間一回の遅延も無く続いて発行されていたのは常に三、四か月分の原稿が前以て整えられてあったがためであります。入学当時、内村君は十七才、新渡戸君と広井君とは十六才、私は十八才で、概して第二期生には年少者が多く、中々皆アンビシアスでありました。在学中にそれぞれある特別の学科を選んで、学業の余暇にその研究に努めていましたが、内村君は動物学を選び、特に水産学に興味を持たれておりました。卒業式の演説に、内村君は邦語で「漁業も亦学術の一なり」との題下に滔々とその識見を述べられました。「水産学は丁度農学に於けるが如く一つの科学として発達せねばならぬ。日本の如く水産物に富める国では其研究をおろそかにすべきではない」と力説されました。当時未だ幼稚なりし水産界の趨勢に対し、実に時勢に先んじたる卓見と言うべきであります。しかして実にこの農学校在学中に君はキリスト信徒となられたのでありまして、君がいかにしてキリスト信徒になったのかを知るは、君の生涯を記述するに当り、最も必要にしてかつ重大なる事柄であります。もっともその事に就いては、君の著書“How I Become a Christian”にくわしく書いてあります。明治十年九月三日に吾々が札幌に着き、農学校の寄宿舎に入った時には、上級生中にキリスト教信仰の熱が燃えていたという事など誰一人知っていた者は無かったのでした。第一期生はクラーク先生の感化誘導によって聖書を学び信仰を起し、ちょうど吾々が札幌へ着く前日に一同メソジスト教会の宣教師エム、ソー、ハリス氏より洗礼を受け、伝道心に燃えておった折でありました。思えば吾々は急に燃ゆる聖火の中に飛込んだようなものでありました。始めはキリスト教に反対した人も多数ありまして、内村君もその一人でありました。君が当時未だ草深かりし札幌神社の社頭に額づきて、この邪教を愛する国より追払い給えと祈願された由を、晩年に至る迄人に語られたものであります。しかし第一期生の特に大島正健君、伊藤一隆君等は非常なる熱心を以て、私共を日曜の夜の集会やあるいは祈祷会に導き、うるさい程に引出しに来られ、吾々は已むを得ずして集会に出た様な次第でありました。入校後間もなく教頭ウイリヤム・ホイラー教師より禁酒禁煙の誓約書に有志の者は署名するよう勧誘されました。之れには、ホイラー、ベンハロー、ブルツクスの三教師が既に署名されて居たので全級十八名の者は悉く之に署名して誓いました。又ホイラー教師は予てクラーク先生が来朝の節、横浜にて購入して来られたという英文聖書五十冊の内より一冊づゝを私共に分配されました。上級生の熱心なる誘導の結果として、私共十八名の内十五名はその年内に、即ち僅か三四ケ月の間に、クラーク先生の帰国に先立ち書残された「イエスを信ずる者の誓約」に署名し、クリスチャンとなる事を誓いました。これは一種の群集心理に基いた処もあった様でしたが、そこに確かに上よりの不思議な力の働きがありました。併しこの十五名の内、僅かに七名だけが踏み留まって、翌十一年六月二日にハリス師より洗礼を受けました。その人々というのは足立元太郎、藤田九三郎、広井勇、太田(新渡戸)稲造、高木玉太郎及内村鑑三の諸氏と私とで、その内新渡戸君と私とを除く外は現在では皆故人となられました。 受洗の時各々好む所の Christian name を選び其名で受洗しました。内村君はジョナサンを選ばれました。平素友情の徳を最も重んじた君は、ジョナサンのダビデに対する友愛の情にいたく感激して居ったからであります。 受洗後三年間の寄宿舎生活の間、吾々は信仰の鍛錬を充分に受けました。毎日曜日の午前に特別の小集会を開き、聖書を研究したり、感話をしたり、或は問題を設けて討論したりし、夜は上級生と共に集り、或時は水曜日に祈祷会を吾々丈けで開き互の信仰を磨きました。其内にも内村君の宗教熱は逐次高められ進められて行って小集会の指導者となられました。 明治十四年に卒業した当時、内村君の最も心をこめた問題は、教会問題であって、第一期及第二期生のクリスチャン諸氏が協議の結果、夫々属せる教会より脱会し、ここに外国の教派より独立し、其補助干渉を受ける事無く、日本人の手に依る純日本的教会を建てる事となり、明治十五年札幌独立基督教会の建設を見るに至つたのであります。 此信仰の独立は内村君の生涯を通じて鼓吹された主張であつて、此主義を貫く為には非常な苦境に陥つた事が屡々あるのであります。独り信仰に限らず、此「独立」といふことは、実に武士としての君が、全生涯全生活を通じ、あらゆる犠牲を払つて固守された貴き旗印でありました。 内村君が逝かれた後、新渡戸君の追想談の内に次のような事があつたので自分も之を想ひ起し非常に感を深うしました。「明治十四年の七月、卒業式を挙げる頃、当時札幌の公園であつた偕楽園の池の端に、宮部、内村と我輩三人集つて、社会に出るならば如何なる事を為すべきやをつくづくと話し合ひ、最も敬虔に祈り、国と同胞の為に一身を捧ぐる旨を述べ合ひ、夫々進む道は異らんも最大の目的は基督信徒として一生を全うする事を述べ合ったことは、四十九年前の事であつたが、今回我輩の記憶には昨日の如く思はるる」云々。 (以下略)
2026.04.30
「すごいシーンでケラケラ笑う」米国での反応に戸惑う賀来賢人に米国人監督が解説4/28(火) 女優穂志もえか(30)が28日、都内で、主演する映画「Never After Dark/ネバーアフターダーク」(6月5日公開、デイヴ・ボイル監督)ジャパンプレミア試写会舞台あいさつに、プロデューサーも務める賀来賢人(36)、デイヴ監督と出席した。同作は賀来とデイヴ監督が共同設立した映像製作会社「SIGNAL181」の長編映画1作目。死者の姉と生者の妹による霊媒師コンビが山奥の洋館に巣くう凶悪な亡霊に立ち向かうオリジナルストーリーで、穂志は霊媒師一家に生まれた愛里を演じる。 米・最大クラスの祭典「サウス・バイ・サウスウエスト2026」で観客賞受賞など、海外ではすでにさまざまな賞を受賞。同祭典の上映後舞台あいさつに出演した賀来は、「終わったら観客がステージに押し寄せてきて、すごい勢いで感想を言ってくれた」。 穂志も「見た直後に感想を言ってもらえるのはなかなかないこと。後で観客賞をいただいたのはお世辞じゃなかったんだって」と笑った。 賀来は「リアクションが意外で。すごいシーンでケラケラ笑うんです」。すると、米国人のデイヴ監督は「アメリカ人は怖い時、不適切な時は笑う」と解説。また、舞台あいさつ終了後、ステージに観客が押し寄せた件についても「面白がってくれたから前に来てくれたんです。それで安心しました」と流暢(りゅうちょう)な日本語で話した。
2026.04.30
24前商工大臣藤原銀次郎氏御講演「台湾糖業創始時代の思出」(台湾製糖株式会社)抜粋 台湾創立準備調査(p3-9)(その1)まず基隆に着き、第一に児玉台湾総督にお目に掛りました。その場所は今度参りまして、あれはどの辺だったかと探してみましたけれども、どうも判らないのですが、なんでも廟のような支那風の家でベランダみたいのようなものがあって、総督は椅子に座っておられた。総督の住居としては、いかにも貧弱で、東京から来て考えるとずいぶん質素なものであると思ったことを覚えております。三人一緒で総督といろいろ話がありましたが、一番最初私一人でお目にかかった時、私はまだ31、2歳の元気盛りで、相当威勢よく応対しました。その時の話は細かいことはよく覚えておりませんが、記憶に残っていることを申しますと、まず児玉さんの言ったことが面白い。長州の言葉で「お主はなにに来たか」と言われたから、私は台湾に製糖会社をつくるが良いか悪いか調査に来たと答えました。すると「そんな馬鹿なことがあるか」と言われるのです。初めてお目にかかった人からとんでもないことを言われたので、けしからぬことを言う人だと、児玉さんの顔をジロジロ見ていますと、今度は笑いだして「台湾に製糖会社を建てることは決まっているのだ。お主は台湾で製糖をやるにはどうしたら巧くやれるか調べに来たのだ」と言う。その通りですと答えると「それなら行け」とこうです。大変なことを言う人だと思ったが、そこが児玉総督の偉いところであるとも感じました。そうして別れる時に総督は「お主は帰りに俺に会ふて帰らんといかんぞ」と言われたので、承知しましたと答えて、それから三人は基隆から船に乗って安平に向かいました。当時基隆と台北との間は汽車があるにはありましたが、山のまん中に行くと汽車は止まって、乗客は汽車から降りて後押しをするという具合の汽車でした。基隆から汽船に乗って澎湖島を経て安平に着きますと、2里も3里もある沖合いに本船がとまって、そこから竹イカダに乗って上陸しました。安平から台南までは人力車だったか、トロだったのか、とにかく四春園という所へとまったのでありますが、それは支那風の家に畳を敷いてあるような宿でありました。 それから面白いのは、警察の人と打ち合わせましたところ、まず私ども一人に警察官が一人付いて鉄砲をかついで護衛してくれる。私どもも内地から用意したピストルを持っていく。その頃、台南市内は安全であったが市外は危険で、耕作地からは土匪が出てくるし、水牛なども恐れられたのであります。パンも無いのでソーダやビスケット、ミルクというようなものを仕込み、それを支那籠に入れて食糧として携帯し、これで大丈夫というので、甘蔗畑の間を通って警官派出所へ行って泊る。そこには警官が5人ばかりいるが夜具も飯もなくお茶ぐらいを沸かしてくれる。そこで三人は一室を借りてゴロリと寝て、翌朝は携帯の紅茶やミルクなどを飲んでまた出発し、その晩もまた辿り着いた交番に泊る。台南を出て奥に入ると嘉義までは宿屋というものはなかったのであります。もっとも私は嘉義までは出ず、嘉義の少し手前まで行って、たいていこれで様子が分ったというので私だけは還りましたが、鈴木さんや山本さんは専門家でありますから、もう少し視たいというので高雄までだったか鳳山までだったか行ったように思います。当時は鳳山が都会で、高雄は大した所ではなく小さなジャンクの港で重きを置いていなかったのであります。お二人はそういう所まで視て行きたかったのでしょうが、私は商売の方であるから、もうこれ以上は必要はないと二人にお別れして、安平に出てまた基隆に戻り、出発の際総督の命令がありますので、再び児玉総督にお目にかかりました。 藤原銀次郎伝 水谷啓二著P57-59(その1) さて三人の調査委員は、同じ船で台湾に渡った。基隆に着くと、まず児玉総督を訪問した。総督の官邸は、廟のような支那風の家で、総督の住居としてはいかにも貧弱なものであった。総督は竹の椅子に腰かけていた。三人は総督にあいさつしたが、総督は藤原が中上川の部下であったことを知って。いくらか警戒したものとみえて、藤原にむかって、長州弁まる出しで、「お主(ぬし)はなにしに来たか」と言った。「私は、台湾に製糖会社をつくるが良いか悪いか、調査に来ました」と答えると、総督は、「そんな馬鹿なことがあるか!」と一喝した。いくらこちらが弱輩でも、始めて会った者にたいしてはけしからぬことを言う人だ、と腹を立てて、藤原は無言のまま、児玉総督の顔を見つめていた。すると、児玉総督はとつぜん笑いだして、「台湾に製糖会社をつくることはもう決まっているのだ。お主は台湾で製糖をやるには、どうしたら巧くやれるか、調べに来たのだ」「その通りです」と答えると「それなら行け」と、まことに簡単明瞭である。しかも抑えるところはチャンと抑えている。児玉総督が、製糖会社をつくることは既定の方針として調査させることにしたのは賢明であった。別れるときにも、「お主は帰りに俺に会うて帰らんといかんぞ」と一本釘を刺すのを忘れなかった。「承知しました」と答えて、三人は総督府を出た。三人は、基隆から船に乗って、台南の近くの安平に向かった。澎湖島のそばを通り、安平に着いた。海が遠浅なので、本船は二里くらい沖合いに停泊し、そこから竹筏に乗って上陸した。安平から人力車で台南に行き、四春園という宿屋に泊った。そこは支那風の家に畳を敷いただけの殺風景なものであった。 台南で警察の人たちと打ち合わせた結果、調査委員一人について警官が一人ついて、鉄砲をかついで護衛してくれることになった。藤原たちも、内地から用意してきたピストルを持ってゆくことにした。そのころ台南市内は安全だったが、半里も市外へ出ると、土匪が出没したりして危険であった。食糧は、ビスケットやミルクなどを仕入れ、支那籠に入れて苦力に持たせた。これで用意はととのったので、調査隊は台南を出発し、ひろびろとした平野を嘉義の方に進んだ。このあたりは甘蔗(砂糖きび)がよくできるので、人間の背より高い甘蔗の畑がどこまでもつづいていた。調査隊はその間の田舎道を通り、夜は警察の派出所に泊った。そこには警官が5人ばかりいたが、夜具もなければ飯もなく、お茶をわかしてくれるだけだった。三人は、派出所の一室を借りて着のままでゴロリと寝て、翌朝は携帯してきた紅茶やミルクを飲も、ビスケットをかじってまた出発した。その晩もまた、たどりついた交番に泊るのである。台南を出て嘉義までは、宿屋などはなかった。藤原は、嘉義の少し手前まで行き、大体の様子がわかったので、台南に引き返した。鈴木藤三郎と山本悌二郎は専門家だから、台南からさらに南方の高雄や鳳山のあたりまで行って調査した。藤原は二人に別れ、安平から船に乗って基隆にもどり、出発のさいの約束があるので再び児玉総督を訪ねた。
2026.04.30
「永平家訓抄話」澤木興道 4-9『倶舎論』の極意というのは、破我で、大乗仏教の大意は我法二空ということであるが、それもみなこんな我をいかにして混ぜさせないかということにねらいがあった。もし、この我を本としてそこから割り出したものならば、これは仏教ではなくなって人間のことになってしまう。この我法二空の世界から出発せねばならんものが、ただこの我法からすると識神というものが出来てできて来て、妄想分別を生ずる。それでは、仏性といおうが真如といおうが、悟りといおうが、みなこれはとんでもない間違いである。 よほど高尚な名前でこの識神の妄想を積み重ねて、そうして威猛高になる者が、世の中にはたくさんあるけれども、そんなものは従来の識神を認めた、独断からしているだけのことで、何でもないことである。だから、そんなことをいつまでやっていたって、それは永遠に無明の連続に終始してしまう。 普通の人間は、法性真如の真実の道理にあいながら、まだほかによいことでもあると思えてとまどいする、これが疑というのである。ただとまどいしているばかりではいけない。いろいろ独断で見込みを立てて、でたらめなことを本当のことのようにきめてしまう。これを悪見というのである。この悪見を五つに分けると、身見、偏見、邪見、見取見、戒禁取見ということになる。この本が我であることは、もう繰り返すまでもないだろう。その我の持ち物が無明でそこから割り出すから、なんだかんだとめんどうくさいことが出て来るのである。「無始劫來、生死の本」生死というと大変なことのように思っているが、そう大したことはない。死ぬことくらいは何でもない。ようわしのところへ「人間というものは死なんならんときに死ねるものですか」というて来る人がある。死ぬくらいのことはわけないことである。国定忠治でも、幡随院長兵衛でも、一心太助でも、森石松でもみなやったし、わたしも日露戦争時分それくらいのことはやって来た。命を捨てるくらい何でもない。そんなことは生死ではない。けれども誰でも命は惜しいのだろう。散兵戦でみんなが頭を下げて伏せているときに、思い切ったことをやるとみな感心して買いかぶる。「あれはいったい何じゃ」「ウン、あれは沢木上等兵、禅宗の坊主じゃ」「道理で、悟っておるから・・・・・」こちらもそのつもりになる。はばかりながらお前らとは違うわい、おれは坐禅しておるぞ、くそっというようなものである。そんなことをして、毎日筋肉を鍛えて酒を飲んで暴れておると、線が太うなって命くらいどうでもなくなる。ところがもどって勉強し始めたら、また今度は線が細うなった。わたしには恐ろしいと思うものはなかったが、幼いときに、濃尾大地震を経験したので、どういうわけか、いくつになっても自身だけは例外だった。医者の診療室の一室を借りておったとき、ちょうど、火薬庫が爆発してその音響で、地震のように家がゆれて、薬のビンがガタンガタンというのにビクッとした。そんなことは散兵戦では一遍もなかった。何も恐ろしいものはなかったはずだったのに・・・。それからわたしは、ああこれは違うと思った。命がけでやることは何でもないが、仏法はまた別の角度から修行せんならんということがわかった。(「永平家訓抄話」p.302-305)
2026.04.30
190二宮翁夜話残篇48【48】尊徳先生はおっしゃった。国に上・中・下がある。上国の土にまた上・中・下があり、下国の土にもまた上・中・下がある。このよに上いい、あるいは下といっても、名前は同じでも、所が異なれば、その実はまた大きく異なる。なぜかといえば下国のいわゆる上田は、上国の下田にも比べ物にもならない、まして下国の中・下はなおさらである。上国の下田は、下国の上田に比べればすぐれていることはるかに遠い、ましてや上国の中・上はなおさらのことである。そして下国の上田の租税は、上国の下田に比べれば、その半ばくらいで下田の租税に近い。、いろいろな公の出金や仕事などもまたこれに準ずる。これが上国の民はますます豊かになり、下国の人民は離散したり逃亡したりすることを免れない理由である。野・常(栃木県・茨城県)の土は痩せていて利は少ない。そこの上田は上国(たとえば新潟県)の下田のようなものだ。そうであれば上国の下田の税金等をもって下国の上田の税金等とし、中下もまたこれにしたがって、その租税の基準を定めるならば、富み栄えること上国のようでなくても、どうして廃亡することこのようなことに到ろうか。上に立つ為政者は最大限心を用いなければならないところである。二宮翁夜話残篇【48】翁曰く、国(くに)に上中下(じやうちゆうげ)あり、上国(じやうこく)の土(つち)又(また)上中下(じやうちゆうげ)あり、下国(げこく)の土(つち)又(また)上中下(じやうちゆうげ)あり、或(あるひ)は上(じやう)と云(い)ひ、或(あるひ)は下(げ)と云(い)ふ、名は同じといへども、所(ところ)を異(こと)にすれば、其(その)実(じつ)又(また)大(おほ)いに異(こと)なる。如何(いかん)となれば、下国(げこく)の所謂(いはゆる)上田(じやうでん)は、上国(じやうこく)の下田(げでん)にだもしかず、況(いは)んや中下(ちゆうげ)におけるをや。上国(じやうこく)の下田(げでん)は、下国(げこく)の上田(じやうでん)に比(ひ)すれば勝(すぐ)れる事(こと)遠(とほ)し、況(いは)んや中上(ちゆうじやう)に於(お)けるをや。而(しか)して下国(げこく)上田(じやうでん)の租税(そぜい)は、上国(じやうこく)の下田(げでん)に比すれば、其(その)半(なかば)にして下田(げでん)の租に近し、諸役銭(しよやくせん)高掛(たかがか)りも又(また)是(これ)に準(じゆん)ず。是(こ)れ上国(じやうこく)の民(たみ)ますます富饒(ふぜう)にして、下国(げこく)の人民(じんみん)離散(りさん)逃亡(たうばう)を免(まぬが)れざるゆゑんなり。野常(やじやう)の土(つち)瘠薄(せきはく)にして利(り)少(すくな)し。其(そ)の上田(じやうでん)は上国(じやうこく)の下田(げでん)の如(ごと)し、然(しか)らば則(すなは)ち上国(じやうこく)の下田(げでん)の取箇(とりか)を以(もつ)て、下国(げこく)の上田(じやうでん)の取箇(とりか)となし、中下(ちゆうげ)も亦(また)是(これ)に随(したが)つて、其(そ)の租数(そすう)を定(さだ)むれば、富栄(ふえい)上国(じやうこく)に如(し)かずといへども、何(なん)ぞ廃亡(はいばう)此(こ)の如(ごと)きに到(いた)らんや、上(かみ)たる者(もの)尢(もつと)も心を用(もち)ひずば有(あ)る可(べ)からざる所(ところ)なり。
2026.04.30
二宮先生は言われた。「『論語』に言う。『徳を以て徳に報ゆ』と。地に向かって穀物の種を播けば、必ず生ずるに穀物を以てし、天に向かって善をうえれば、必ず酬いるに善を以てする。天地は虚しく受けない。必ずこれを返す。まして人をや。予は天保辛卯の年(天保2年)から、なんじらの村の為に金銭を輸送し、諸般の費用を、告げるごとに支給し、一つも違う所なく、以て成功に至った。予の孜々(しし)として、人の為めにして、少しも自分のの損益を計らないことは、特に以て天地生々の徳に報いんとするものだ。なんじらどうして虚しく人の恵みを受けることができようか。かつ予の法を地方に立てるのは、この青木村を以て始めとなす。今に及んで幸いに法のごとく償還し得たのは、どうして自分一人の楽しみのためであろうか。内には本村の為に恩義を達成し、外は他村の為に模範を垂れる。そうであれば、村主の托せられた八村、及び駿河相模等の諸村における、疲弊の人民が先後相ついで門に至って、既にわが教えを聴くために、次第に行って、その事に従わないわけにいかない。願わくはなんじらの村を立法の規範となし、それらのの諸村をして、荒蕪を開いて、人戸を置いて、負債をあがない、窮乏をたすけ、産業を起すなどのこと、、またなおなんじらの村のようにならしめんことを。即ち予がなんじらの村に、施設経営した所のものを以て、これをそれらの諸村に転用し、このようにして、わが広く救う道を拡充するならば、恵沢が窮民に加わって、その実効は日本の国々に普及し、報徳の教えの宗旨を弘めて、日本国の徳を輝かせるであろう。まことによくこのようであれば、すなわち功が成って教えが明らかに、本固くして末信に、たとえ飢饉や凶荒にあっても、困窮に陥る患いがなく、各人がその所に安んじて、その業を楽しみ、永世に伝えて究まりないようになるであろう。論語にいう、『老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐く』と。予が日本国のために法を立てる理由は、つまるところこれがためである。このようにして、互いに報いるに徳を以てし、父母を養い、その郷党を善くし、内は睦く外に親しみ、これを国中に達するのみである。書経にいう、『克く俊徳を明らかにし、以て九族を親しみ、九族既に睦じく、百姓を平章し、百姓昭明にして万邦協和す』と。日本を治めるのに、いまだ一戸からしない者はない。村境を開くのに、いまだ一畝からしない者はない。 右のように記して、以て父老に諭示する。各自拳々服膺して、あえて違ってはならない。
2026.04.29
新渡戸稲造小伝 宮部金吾著 新渡戸稲造君は文久二年(1862)八月三日新渡戸十次郎氏の三男として盛岡市鷹匠小路に生まれました。新渡戸家は旧南部藩の名門にて厳父は御勘定奉行を務められ敏腕の聞えありし才人であり、母せき子氏は藩中評判の賢婦人でありました。曾祖父伝蔵氏は儒者で兵学の大家でありました。祖父伝氏は最も傑出せる人物で、南部領内における不毛の大原野なりし三本木の開墾を計画し、十和田湖より疎水して、この土地を沃野と化するに成功した人であります。新渡戸君はちょうど稲生川の水利によって始めて籾四十俵が取れた時に生まれたので、幼名を稲之助と命名されました。 厳父は祖父の開拓事業を継承して著しき成績を挙げられましたが、専らその力を三本木市街地の建設に致されました。慶応三年新渡戸君の六歳の時、厳父は他界され、その後は長兄七郎氏が事業を継がれたのであります。栴檀(せんだん)は二葉より芳(かんば)しで、新渡戸君は幼少の頃より才気に富み又有名なきかん坊でありました。幼年時代の教育としては寺子屋で大学や論語を学んだのであります。 明治四年九月祖父は七十九歳の高齢をもって逝去されましたが、その遺言により同年十歳の折、君は厳父の実弟に当る東京在住の叔父太田時敏氏の養子となって上京し、名を稲造と改めました。 明治八年十四歳の時、東京英語学校に入学されましたが、それ以前の学校教育については確かな事は分っていないが、藩公の経営に係るとも、慣義塾に学んだともいわれています。東京英語学校入学当時は法律を志したのでありますが、ある夜、寄宿舎の会合で、文部省の視学係の西村貞氏が日本を富強ならしむるには有為な青年が理化工芸の学術の発達に向かって大いに努力しなければならない。徒らに天下国家の事に悲憤慷慨するがごときは国運の隆盛を期する上に何ら益するところがない、というような趣旨を諄々と説いたのを聴いていたく感銘し、同室の酒井佐保君と法律を捨て他に専門を求めることを約しました、 明治九年、明治天皇陛下には東北地方御巡幸の砌、畏れ多くも三本木駅の新渡戸家を行在所に充てさせられ、先考の存生中祖父の事業を継ぎて疎水開墾に尽力せることを聞召され、その功績を嘉し給い、異数の寵賜を辱うせしのみならず、子々孫々克く農事に励めよとの有難き御諚に接し、挙家感泣いたしました。ここに兄弟三名共に祖父の遺志を継ぎ、皇恩の優渥なるに報い奉らんとて始めて各自の志を立つることとなりたる由であります。 明治十年六月東京英語学校第一級(最上級)の教室にて開拓使九等出仕堀誠太郎氏(東京帝大教授中井猛之進氏の厳父)が校長の特許を得て、札幌農学校官費生募集の演説をされました。その勧誘に応募した者は英語学校より新渡戸稲造、内村鑑三、岩崎行親、高木玉太郎、藤田九三郎、足立元太郎、佐久間信恭、宮部金吾その他合せて十二名と、工部大学予科より南鷹次郎、広井勇、町村金弥の三名その他二名で、合計十七名が札幌農学校第二期生を編成したのであります。札幌行きを決心してから新渡戸、内村及び宮部の三名の間には兄弟も唯ならぬ親密な交際が結ばれ、互いの家を訪問しあい、何くれとなく相談し行動を共にしました。その頃英語の練習の為に、談話は一切英語を用いることとし、若し誤って日本語を用いた時は罰金を徴する事にしましたが、余り犯則が多いのと且つは不便を感じたため、その約束は暫くにして廃しました。今にして思えば全く児戯に等しき事でありますが、当時新渡戸君は十六歳、内村君は十七歳、僕は十八歳の青年であった事を思えば無理もないのであります。 次いで七月二十七日付けにて開拓使より札幌農学校官費生徒を申し付くとの辞令を受けると共に、生徒は総て東京に自宅の有無に関わらず、芝の植木屋という開拓使御用宿に合宿するように命ぜられ、東京を出発するまで約一ヶ月間そのところに暮らしましたが、その際我々三人の外に岩崎行親君が加わり、四人で一室を占領し密かに四人組を組織してこれを立行社と名付けました。その規約は身を立て道を行うというのが主旨でありました。 新渡戸君の一生を通じて最も大切なる出来事が札幌における学生時代に起こったのであります。それは君がキリスト教を信ずるようになった事であって、君は既に札幌へ来る前から信仰が萌していたものと見え立派な金縁の英語のバイブルを買って持っていましたし、札幌へ着いてから僅か一ヶ月の後すなわち十月二日旧友に先んじてW・S・クラーク先生の書き残された「イエスを信ずる者の誓約」に佐久間信恭君と共に署名いたしました。 翌明治十一年六月、君は内村、広井、宮部等六名の旧友とともにハリス宣教師より洗礼を受け、爾来信仰上の浮沈はありましたが、アメリカ国留学中フレンド派の団体に入会し、死に至るまでキリストに対する信仰を全うしたのであります。 札幌農学校在学中は、明治天皇陛下の御綸旨に適い奉るため、また故郷に在る老いたる母堂を悦ばせるため、特に農学に全力を注ぎ、一年級の時には二等賞を得、二年級の時には一等賞を得られました。また英語の学力においては級中誰一人君に及ぶ者なく嶄然として頭角を露わしていました。常に読書に耽りまして学校の図書館所蔵の英書中文学、伝記、宗教等に関するものは悉く読破されたのであります。 入学当時、君は頗る快活で思慮分別に富み歳に似合わずませたところがありました。時に諧謔を弄したり、また人をからかったりすることが好きでありました。運動会では幅跳び並びにサックレースで一等賞を取っていました。また好んで室内で相撲を取ったものであります。ところが卒業前一、二年の頃より多読の結果思想に動揺を来たし、ことに神学上の懐疑に陥り憂鬱な人となってしまいました。同級生はそこで君を呼んで「モンク」とアダナしたのであります。君自身も卒業後何年となく手紙に必ず「モンク」と自書したものでありました。君をして憂鬱にならしめたもう一つの原因は明治十三年夏、君の敬愛の的たる母堂が逝去された事であります。しかも君は十一年振りで母堂に面会するのを楽しみに札幌を出立し、途中諸所を見物しながら何も知らずに盛岡に着いたところ、二、三日前に母堂が他界されたことを始めて知ったのであって君の悲嘆は譬えようもありませんでした。それから学校への帰塗東京へ立ち寄り、はからずも長く求めていたカーライルの『サルトル・レザルタス』が手に入り、あたかも渇者が水を喘ぎ求めるごとき有様でそれをむさぼり読んだのであります。するとそれまでの煩悶憂鬱がさながら雲霧のごとく消え散じ、まるで復活したような気持ちになったと『随想録』に書いてあります。またその頃好んで読んでいた修養書はプルータークの『英雄伝』でありました。卒業に際して教頭から卒業生銘々に開拓使に仕えて何をやりたいか希望を第一第二として書いて出すよう申し渡されました。この時新渡戸君は第一希望としてOpeninng up開墾、第二希望として Crops(Sugar Beets)即ち作物栽培、特に甜菜栽培、として提出しました。この第一希望は祖父並びに厳父の遺志を継いで北海道の開拓事業に従事したい、第二希望は特に甜菜栽培を奨励して糖業を興したいというにあります。第一の希望は後年札幌農学校教授時代に北海道拓地植民に君の貢献せる所は決して少なくなくなかったのであります。また第二の希望は明治三十四年五年の頃台湾総督府殖産局長兼糖務局長となるに及んで達せられ、台湾における甘蔗農業の基を置き、その政策を確立し、日本をして砂糖について自給自足の国たらしめたのであって、実に日本糖業の恩人と認められるに至ったのであります。 明治十四年七月札幌農学校を卒業するや、直ちに開拓使の御用係を申し付けられ、准判任官月俸三十円を給すという辞令を受けて勧業課に出仕することになりました。たまたまその頃、北海道各地に蝗虫がおびただしく襲来して農作物の被害著しく、これが駆除のためにも新渡戸君も同僚と共に各地に奔走して奮闘したものであります。役所に帰ればこれという仕事もなく、自分の好きな英文学書を耽読していました。しかしこの頃多読に過ぎた結果か、視力が非常に衰え、暫く上京して治療するのやむなきに至りました。その後、しょうしょう快方に向ったので、翌十五年の秋再び札幌に出でて母校予科に教鞭を取っておりましたが、遂に意を決して東京大学文科大学に入学のため職を辞して明治十六年五月上京いたしました。大島正健君の追想談にこの入学に際しての外山正一教授との会見談が掲げてあります。それによると、何が目的で英文科を選ぶのかとの外山教授の質問に対する新渡戸君の答えは、「第一には若し天が許せば私は太平洋の橋になりたいと思います。第二には英語を学んで泰西の長所を取り、日本にはまだ形が備わっていない農学という学問を起こしたいと思います」というにありました。これに対し外山教授は第二の考えは結構だが、太平洋の橋とは何であるかと反問されました。「日本には日本の長所があり、西洋には西洋の長所があります。東西の文明が融合しなければ文化の華は咲かないと思います。私は日本の長所を西洋に教え、西洋の長所を日本に輸入する橋渡しの役をするために更に英語に精通したいのであります」と新渡戸君が答えると、「それは面白い考えだ、やって見ろ」といわれて教授は君の入学の願いを聞き入れたとのことであります。 明治十七年一月二十二日付けの書簡によりますと君の大学における日課は外山教授の欧州発達史、社会学並びに『ハムレット』。田尻教授のミルの『エコノミー』及び租税学講義。ドクトル・ラートケンの統計学並びにコックス氏の英語等でありました。第一学期の試験の点数は英語九十九,英作文九十四、エコノミー九十七・五、歴史八十一という優良な成績を挙げました。その後の手紙によると大学の教授にますます不満を感じ来たり、遂に米国へ留学することを決心し養父太田氏の許を求めました。佐藤〔昌介〕氏によると太田氏はあらかじめ稲造君の他日必ず大志を抱いて海外に雄飛する時あるを予想し、家禄を奉還して受けたる秩禄公債証書を生活費に使用せずして虎の子のように仕舞い置きたるものをこの時始めて稲造君の用に提供し、旅費並びに学費に充てしめたということであります。明治十七年九月一日いよいよ渡米の途に就き、ひとまずペンシルバニア州ミードヴィル市にあるアレンゲニー大学に入学しましたが、間もなくボルチモア市のジョンス・ポップキンス大学に転じここに学ぶこと三年、その間君はその全生涯を支配するほどの貴重なる修養を得られたのであります。この大学で研究された学科は経済学、農政、農業経済学、行政、国際法、歴史学、英文学等でありました。当時君の学資は決して豊かなものではなく、H.B.アダムズ教授の特別な愛護を受けて教室の手伝いなどをしては学費の補助を得、又各所よりの講演の依頼に応じては若干の謝礼を得て学資の足しにすることができたというような苦学を続けておりました。この時に当たり君にとりて実に天来の福音というべき音信が君の手許に達しました。それは明治二十年三月、札幌の佐藤昌介氏(当時札幌農学校教授兼幹事にして校長事務代理)から、君を札幌農学校助教に任じ、満三箇年農政学研究のためドイツ国留学を命ずという辞令を送って来たのであります。ここにおいて君の将来の方針は確定し、前途には光明が輝くこととなりました。米国留学中フィラデルフィア市のフレンド派の集会にて講演をなした機のこと、日本留学生の慈母と仰がれていたモリス夫人の家庭にて、夫人が「あなたに是非会いたいという人があるから紹介する」といって妙齢の淑女メリー・パッターソン・エルキントン嬢を引き合わせました。嬢は新渡戸君の演説を聞いて非常に日本の事柄にインテレストを感じ、なお詳しく質問したい事があるとて会談に時の経つのも知らないほどでありました。嬢は同市の由緒あるフレンド派の家門の出にして教養ある篤信の才媛でありました。同二十年五月下旬ニューヨークを出帆し、アイルランド、スコットランド、イギリス、オランダの諸国を経て六月下旬ドイツのボンに着きました。旅行中もボンに到着してからも忘れがたいのはその前年に面会したエルキントン嬢のことでありました。ある日のこと、たそがれ時にボンの市中を散歩しておりますと、黒服をまとった嬢そっくりの若い婦人に会ったので、驚きかつ喜んで「あなたはいつここに来ましたか」と問いかけたところ、その姿は消えて見えなくなってしまったので、不思議なことがあるものだと思いながら宿へ帰ってみると、机の上にエルキントン嬢からの手紙が置かれてあるのを見て驚喜したという話は、その後私がベルリンで君に会った時、直接に聞いたローマンスであります。それより手紙の往復が始まり遂に婚約を挙げるに至りました。夫人は実に稀に見る行き届いた良妻なりしのみならず、また一方慈母のごとき懇ろなる注意をもって常に君の健康に心を配られました。後年君が国際人としてかかる成功を収めたのも夫人の内助の力に負う所がすくなくなかったと思います。さてボン大学にては農政及び農業経済学を研究し、在学一年にしてベルリン大学に転じ、ここにも約一年間留まりシュモレル教授について農業史を、マイチェン教授について統計学を研究し、また同教授の紹介にてプロシャ国統計局に出入りを許され、研究上多大の便宜を得ました。明治二十二年四月ハレ大学に転学、専らコンラッド教授の下にて農業経済学及び統計学を研究し、二十三年六月論文”Uber den japanisxhen Grundbesitz,dessen Verteilung und landwirtschaftliche Verwertung”を提出、受験の上ハレ大学よりマギストル・アルチウム及びドクトル・デル・フィロソフィーの学位を受領されました。在独中二十二年長兄七郎氏が逝去されたため、君は実家を相続することとなり、新渡戸姓に復帰されました。二十三年七月より翌年一月にわたり植民地政策研究のためドイツ国東僻地方並びに米国、カナダの各地を旅行され、その途次、かつてジョンス・ホップキンス大学へ提出してあった論文『日米外交史』”The Intercourse between the United States and Japan; an Historical Sketch”に訂正を加えて同大学よりこれを出版いたしました。明治二十四年二月無事帰朝、三月三十一日札幌農学校教授に任ぜられ、農政、農史、農業総論、植民論、経済学等を担当し、また北海道庁技師を兼任して専ら植民地選定事業に関与されました。学校においては教授以外に予科主任及び教務部長等の事務を担当し、ますます重き責任を担うこととなりました。二十九年に校則改正の議起こるやその委員長となり、審議の結果本校発展上最も記念すべき改正案が得られました。これによると本科三年及び四年の午後の実験演習科目を分ちて農学甲科、農学乙科、農業経済学、農芸化学、農用動物学及び植物病理学の六科となし、学生をしてこの中一科を選択せしめたのであります。しかして農業経済学のセミナリーを演習と呼ぶことは実にこの時に始まったものであります。当時札幌には中学校の設が無く一般に不便を感じておったが、北海道鉄道株式会社長堀基氏がこれを憂い私立中学校の設立を企画され、新渡戸君にその校長たらんことを懇望してやまなかったので遂にこれを受諾し、校名を北鳴学校と名付け設立の目的を十分に果たしめしのみならず、新渡戸校長の倫理の講演は青年の心に深き印象を残したのであります。又ドイツ留学中から札幌に一の貧しき子弟のための夜学校を設立する希望を有していましたが、はからずも米国の一婦人よりその遺言によって社会事業に使用されたしとて金若干を夫人の許へ送金し来たったので、それをもって豊平橋付近に土地を購入しそこに夜学校を設立し遠友夜学校と命名いたしました。この夜学校は年を追うて改善発達し、四十年後の今日は一の財団法人として認められ、既に約八百名の卒業生を出し、いずれも社会の各方面に活躍しているのであって、実に有益なる社会事業というべく、新渡戸夫妻の美しい精神は永く記念されるでありましょう。かくのごとく君は学校の内外の業務ますます煩雑を加え、心を労すること、頓に繁くなりしため遂にはげしき脳神経衰弱症にかかり、一時は重態に陥ったので、夫人の英断にて官を辞し、ひとまず伊香保に療養の後、米国の太平洋沿岸に転地療養することとなり、ここに留まること約二年、篤き看護の効顕われ漸次回復するに至りました。この軽快の頃に筆を執られたのが英文『武士道』であります。この一巻の著述が日本精神を世界に向って紹介し併せて君の名声をいよいよ高からしめました。後にこの名著はカウフマン嬢によってドイツ語に訳されました。明治三十六年、京都帝国大学法科大学教授となられ、台湾総督府の嘱託を兼ねて、三十九年まで毎年一回ずつ渡台されました。京都は学問研究にとり仙境であると喜ばれておりました。三十九年京都大学総長の推薦により法学博士の学位を授与されました。しかるに時の文相牧野伸顕伯より第一高等学校長に就任方を頻りに慫慂され、それを断るに苦心の結果、後藤伯に相談せしところ、それは何でも到底聴き入れそうもない難しい条件を持ち出してこの話を自然立ち消えに至らせるのが妙案であろうと入知恵してくれましたので、現在の予算を倍額に増加すること、外国人教授五人を十人に増員すること、寄宿舎に大改造を加えること、又高等学校制度や教育の方針等調査のため一箇年間欧米へ派遣を希望する等の条件を提出せるところ、目下のように政府が財政困難の場合そんな無理なことはいわないで是非来てくれたまえと懇願され、それでは永いことは困るからせいぜい二年を限りとすること、東京帝国大学教授を兼任すること、又未だ十分に健康が回復していないから昼飯後三十分間控え室にて昼寝することを許してもらいたい等の条件の承認を得て、遂に就任することになりました。而して大学教授としては農科大学にて植民政策を講じたのであります。はじめ二年の約束が遂に在任七年の長きにわたりました。鶴見祐輔氏の書かれたものによると、「この一高長時代は新渡戸先生の一生に取って最も記憶すべき時代の一つであったと思うのであります。博士はこの時に、単に一高一千の学生の指導者となられたのみならず、隠然として日本全国の青年の思想的中心となられたのであります。当時の日本は日ロ戦争の直後で国民思想の動揺期でありました。大戦後に起こりやすい粗暴な気分と、当時文壇に現れた自然主義文学の唯物的な破壊的な思想の影響を受けまして、大勢の青年男女が適従する所に迷っておりました時に、博士はその一流の人格主義と理想主義とを掲げて、満天下の青年に帰向する所を示されたのであります。札幌時代以来新渡戸先生の薫陶を受けた全国の青年男女は今や悉く成人して、日本の社会の各方面に活躍しているのでありますから、新渡戸先生は日本のために新しき時代を作り出した一人として、永く日本国民に感謝せらるるであろうと思うのであります」と。一高校長時代に著された書物に、『随想録』、『帰雁の蘆』、及び『ファウスト物語』等があります。明治四十四年八月、日本より最初に選出された日米交換教授として渡米され、ブラウン、コロンビア、ジョンス・ホップキンス、バアジニア、イリノイ及びミネソタの六大学を主とし、その他各地において前後百六十六回の講演をなし日本の事情を全米国に紹介されました。その講演は翌年ニューヨークより”The Japanese Nation; its Land, its People and its Life(with Special Consideration to its Relations with the United States) ”と題する一書として出版されました。その節ブラウン大学よりL.L.D.の名誉学位を授けられました。帰朝後間もなく第一高等学校長の職を辞し、その後東京帝国大学法科大学教授に専任され、植民学講座を担当され、学生の薫陶に従事されること約八年間に及びました。明治四十二年実業之日本社の顧問となられ毎号青年のために精神の修養に適切なる記事を掲載し世道人心に裨益すること極めて大でありました。これらの記述を分類編纂し単行本として出版されたものが『修養』、『世渡りの道』、『自警』等であります。大正八年三月世界大戦後の状態を視察の為め後藤伯に同伴し、米国を経て欧州に赴かれました。その時あたかも平和条約が調印され、新たに国際連盟が成立し、日本からも一人の事務次長を出さねばならぬことになりましたが、その人選には全権一行も少なからず苦しんだのであります。新渡戸君がちょうど視察について鳩首協議中でありましたが、君の姿を見るや否や牧野伯が「ああ、ここにいた!」と叫んで参列者一同異口同音に有無を言わせず君に応諾を迫りました。そこで君は後藤伯さえ承知されるなら自分は快く御請する旨を答え、ここに日本はこの上なき適任者を代表として連盟に送ることができたのであります。君はそれ以来七年間スイスのジュネーブに在って連盟の仕事に従事されました。当時は連盟の初期であって困難もあったと同時にまた華やかな希望に輝いていた時代でありますが、博士はいつの間にか「連盟事務局の良心」と人に呼ばれるほど、この連盟に高尚な精神を吹き込まれたのであります。また君の人格は年と共にますます円熟を加え接触せる内外人を誰彼となく感嘆せしめ、「ジュネーブにおいて最も愛された人」というアダナを受けられるほどになりました。ここにおいて君は国際人として世界稀なる存在となられたのであります。就任中最も著しき功績と認められるは知的協力国際委員会の設立に関しその立案者との一人として活躍し又その活動に対しては終始かわらざる努力を払われたことであります。大正十四年勅旨をもって帝国学士院会員を仰せつけられ、また昭和元年貴族院議員に勅撰されました。昭和二年の春、国際連盟の事業に対し国民の理解と支持を喚起いたしました。また大阪毎日、東京日日新聞社の顧問となり、その英字新聞に毎号 Editorial Jottings(編集断片)として感想を名文にて発表いたしました。この断片集は外国の新聞にも転載されて好評を博したのであります。ジュネーブにあった頃執筆された著書としては”Japanese Traits and Foreign Influences”が昭和二年ロンドンより出版されました。また七年間国際連盟にあって積まれた経験が、『東西相触れて』、及び『偉人群像』となって世に公けにされました。昭和四年田中〔義一〕内閣の時、文相〔水野〕の辞任に際し、首相が奏上によってその留任をはかったことが、いわゆる優諚問題として貴族院の論議をまき起こしたに当たり、君は同院で首相問責の決議に賛成する演説をして、貢献する所がありました。早稲田大学の講師として種々雑多なる問題について学生一般に講演され、多大の感動を与えましたが、その講演中、我が国目下の非常時に際し、いかなる理解と決心を持つべきかについて述べられしところを『内観外望』と題する一書にまとめて出版されました。この書において著者の憂国の至情を洞察することが出来ます。同様に『西洋の事情と思想』も早稲田大学における連続講演の速記でありますが、これは逝去後昭和九年に出版されました。H.A.L.フィッシャー氏の編集に係る”The Modern World. A Survey of Historical Force”なる叢書中の一つとして日本の現状、発達等につき詳細に記述して、”Japan; Some Phases of the Problems and Development”と題し昭和六年ロンドンより出版しました。佐藤男の書かれた新渡戸君追想文中に君の性格の一面をよく物語る左のごとき叙述があります。「新渡戸君は私的生涯においては親戚故人に対する情誼も厚く頼まれれば否むことの出来ぬ性分であった。されば公生涯において極めて繁忙なる際でも、講演を頼まれれば引き受けるとか、又は新渡戸君でなくては出来ぬことはやはり快諾して美なる奉仕の精神を発揮された。この主義において東京女子大学初代の学長となり、又東京女子経済専門学校長ともなられた。」第三回太平洋会議が昭和四年京都で開催された時、君は井上準之助氏に代わり議長として最も公平なる態度をもって統括し、無事に成功裡にこれを終わることができました。会議の模様は『太平洋問題』と題する書に詳らかであります。第四回太平洋会議は昭和六年上海において開催され、君は日本代表の委員長として死を決して出席し、国際的に活動されました。大正十三年に米国において移民法が改正実施されし時、新渡戸君は非常に憤慨され、それが撤回されるまでは米国の土は踏まないと言っておりました。昭和七年二月君は急転する時局を深く憂えていましたが、松山市に講演旅行をした際、新聞記者を含む来訪者との宿舎での私的会見において「日本を亡ぼすものは共産党か軍部であろう」という意味の憂慮を述べられたとの報道が広まり、その後暫く軍部関係、在郷軍人等の団体から圧迫が加えられました。病気入院中弁明のため出頭を強いられたとか、延いては、軍の行動の代弁を要求されたとかの誤解に基づく内外の非難が加えられたのはかかる経緯によります。実際には、君は満州事変勃発以来米国において日本の真意が曲解され反日感情が日増しに募り日本の国際的立場が頗る不利な位置に置かれるのを見て愛国の情禁ずるあたわず奮然として起ち誤解一掃の為め昭和七年四月渡米の途につかれ一ヶ年間にわたり百回を超える講演を試みられました。昭和八年八月カナダのバンフに開かれた第五回太平洋会議に日本代表の団長として出席し、その議事の進行につき心を労すること一方ならず、無事成功をもって会議を終わりし時には君は非常に疲労を感じておりました。ヴィクトリアに病後の令夫人を迎えそこにて暫く休養の上、更にニューヨーク方面に赴き、日本の真の精神の説明の仕事に従事しようとしておられたところ、九月十三日急に激烈なる腹痛を覚え、同地のジュビリ病院に入院し、あらゆる治療と手厚き看護を尽くしたるも経過思わしからず、十月十五日の朝、腹膜炎を併発していた膵臓壊死のため(胃の潰瘍と穿孔がその誘発原因と思わる)手術を受けましたが、同日午後八時三十五分、七十二歳を一期としてこつえんとして永眠されました。病中医師看護婦に対し絶対の信頼を表し、よく病苦に堪え、一度たりともそれを訴えることなく、かえって常に口辺微笑を含んでおったということであります。病院開始以来かくのごとき患者はいまだかつて一人も無しと院長は感嘆した由であります。平素の鍛錬顕れ異境にあって日本武士の最後を飾ったものというべきであります。その報ひとたび伝わるや全日本のみならず世界の同情さんぜんとして博士の一身にあつまり、その人格と事業とを追慕し、その逝去を痛惜するの声、天下に満ちたのであります。未亡人の語られるには、「稲造は平素人には死に場所が大切だと言っておりましたが、このたび欧米各地より受け取った山なす弔詞弔電を見ると確かに稲造は死に場所を得たと偲ばれ自から慰むることが出来ます」と、かくて君は身をもって終に青年時代の夢であった「太平洋の橋渡し」を実現したのであります。新渡戸の遺骨はマリ子未亡人に護られ、十一月十六日横浜に到着、直ちに小石川の自宅へ帰られました。畏れ多くも博士の功績 天聴に達して勲一等に叙せられました。又、侍従を差し遣わされ幣帛並びに祭し料金一封を御下賜あらせられました。葬儀は同月青山斎場において佐藤男司会の下にフレンド派式によりいと厳かに挙行され、告別式には斎藤首相を初め各国大公使及び朝野各階級の人々約二千人が白菊の一枝を霊前に捧げ告別の誠意を表しました。遺骨は十二月二日に多磨墓地に埋葬され、遺髪は三本木の祖父太素(伝)翁の眠る太素塚の側に分葬されました。またカナダ・ヴィクトリア市スタンレー公園に市の有志者により故新渡戸博士の記念碑が建設されることになりました。新渡戸君は学識深遠なる碩学なりしのみならず生まれつきの雄弁家でありました。また君は偉大なる国際人であったのみならずなおまた真の愛国者でありました。実に日本にとってかけがえのない一偉人を失ったことは我々同窓としても誠に哀惜の情に堪えない次第であります。
2026.04.29
英国王訪米に冷や水…駐米英大使「米国と特別な関係なのはイスラエル」4/29(水) フィナンシャル・タイムズによると、クリスチャン・ターナー駐米英国大使は2月にワシントンを訪問した英国の学生らとの行事で、米英間の「特別な関係」という表現に対し「郷愁に浸っており過去指向的で多くの負担を抱えている」と拒否感を示した。この表現は第2次世界大戦直後に当時のチャーチル首相が作った。英国の戦後外交の資産を象徴してきた。ターナー大使は続け「米国と特別な関係を持っている国がひとつあるならば、それはおそらくイスラエルだろう」と話した。彼は米英が安全保障の側面で深く関係していると認めながらも、「英国と欧州は米国の安全保障の傘に依存するのではなく、国防分野などで両国関係を再定義しなければならない」と指摘した。発言の時期が注目される。同紙はターナー大使の発言が米国とイスラエルがイランを相手に軍事攻撃を敢行する数週間前に出てきたと指摘した。その後イラン戦争をめぐり米英の温度差が明らかになり両国の不和が水面上に浮上した。トランプ米大統領は英国がイラン戦争を十分に支援しないと不満を示し、スターマー英首相は「英国の国益に合致しない戦争に巻き込まれることを絶対容認しない」と対抗した。チャールズ3世の訪米日程もありさらに大きな外交的負担になったという分析も出ている。英国の立場では王室外交を通じて両国関係の亀裂を縫合しようとするタイミングで悪材料が出てきた。チャールズ3世は28日に米議会での演説で「両国が数世紀にわたり構築してきた同盟は本当に独特だ」と話した。続けて「この同盟は欧州と米国という2本の軸に基盤を置いた大西洋パートナーシップの一部。そのパートナーシップはいまいつになく重要だ」と強調した。ターナー大使は未成年者性搾取犯ジェフリー・エプスタイン氏のスキャンダルに対しても言及した。彼は「このスキャンダルが英国王室の高位要人、駐米英国大使、さらに首相(スターマー氏)まで揺さぶったが、米国では事実上だれにも影響を及ぼさなかった」と指摘した。そして両国の政治システムの責任性の違いを見せる事例だと指摘した。ターナー大使はスターマー首相のリーダーシップ危機に対しても加減のない評価をした。マンデルソン前大使の任命と解任をめぐる議論については「スターマー首相の任期を終わらせかねない危機だった」と話した。また、労働党が5月の地方選挙で大きく敗れる場合、党内でスターマー首相下ろしが始まるという見方も出した。高位外交官が現職首相の政治的生き残りの可能性に言及した事実自体が異例だ。議論が拡散すると英外務省は火消しに出た。外務省報道官はこれらの発言が「学生を対象にした私的で非公式な発言。英国政府の公式な立場を反映するものでは絶対ない」と線を引いた。
2026.04.29
日本企業出資の迎撃機 攻撃用ドローン無力化に初成功 ウクライナでドローン事業拡大日本のドローン開発企業「テラドローン」は、出資先のウクライナの企業と共同で手掛ける迎撃機によって攻撃用ドローンの無力化に成功したと発表しました。 こちらは迎撃用のドローンに取り付けられたカメラの映像です。 24日、ウクライナ東部の上空で攻撃用ドローン「シャヘド」に接近し、無力化しました。 この迎撃用ドローンは、テラドローンが出資先のウクライナの企業と共同で手掛ける「テラA1」で、実戦で攻撃用ドローンの無力化に成功したのは初めてだということです。 テラドローン 徳重徹社長 「戦場で実際に使われてみて結果が出るかというのは、極めて防衛業界において大事なこと。今ウクライナで起こっていることをしっかり吸収して日本に持ち帰り、対策を打っておくのは非常に重要なことだと思っている」 テラドローンは28日に別のウクライナ企業への出資を発表するなど、ウクライナを拠点に事業を拡大していて、日本への輸出も視野に入れているということですロシア「日本・ウクライナのドローン協力は露骨な敵対行為」4/7(火) ロシア外務省が6日(現地時間)、日本がウクライナと攻撃用無人機(ドローン)分野で協力することを自国に対する敵対行為と見なすと明らかにした。ロシア外務省のザハロワ報道官は、日本企業テラドローンが最近ウクライナ企業アメイジング・ドローンズと戦略的パートナーシップ締結を発表したことに関する質問を受けると、「民間人の保護などわが国の安保上の利益に対する露骨な敵対行為」と答えた。ザハロワ報道官は「ウクライナはドローンでロシアの民間目標物に対して組織的な犯罪的挑発をしてきた」とし「日本はゼレンスキーのネオナチ政権を支援することでウクライナ紛争に徐々に深く介入している」と非難した。続いて「こうした日本の行動はすでに大きく悪化したロシアとの関係をさらに損なわせる」とし「ウクライナ事態の迅速な解決に寄与するどころか戦闘をむしろ長期化させるだけだ」と強調した。また「わが国と国民に脅威となる武器、ウクライナにあるこうした武器生産施設はロシア軍の合法的な軍事目標物」と警告した。先月31日、テラドローンの徳重徹最高経営責任者(CEO)はウクライナでアメイジング・ドローンズに対する出資を発表した。テラドローンは迎撃用ドローンの開発と量産拡大が今回の協約の目的であり、ウクライナ産ドローンの活動半径は広範囲だと評価する声明を出した。徳重CEOは日刊キーウインディペンデントのインタビューで「中国の脅威が強まっている」とし、日本の防衛力を高めるためドローン分野への投資が必要だと強調した。同メディアは日本企業がウクライナのドローン分野に出資するのは今回が初めてだと説明した。共同通信は先月15日、日本政府がウクライナ産ドローンを自衛隊に導入することを検討していると、外交筋を引用して報じた。6日には日本政府が陸上自衛隊にドローン担当部署を新設するという読売新聞の報道もあった。★ロシアや中国が露骨に声高に反対する施策は、むしろ有効な方法であることを示している!?
2026.04.29
大谷翔平が113年の歴史の扉開く史上初の快挙 開幕5登板全てで「4条件」をクリア 米データ分析サイト4/29(水) ◇ナ・リーグ ドジャース1―2マーリンズ(2026年4月28日 ロサンゼルス) ドジャースは28日(日本時間29日)のマーリンズ戦に惜敗し、連勝は3でストップした。打者としては出場せず、投手専念で先発した大谷翔平投手(31)はドジャース移籍後最多の104球を投じ、6回5安打2失点9奪三振と粘りの投球で試合をつくったが、打線の援護に恵まれず、今季初黒星を喫した。開幕から全5戦で投球回6回以上、自責3以内のクオリティースタートを達成し、防御率はメジャー全体トップの0.60となった。 またしても歴史の扉を開いた。米データ分析サイト「Opta STATS」は公式Xに、大谷の史上初の快挙を投稿。今季開幕から5試合の登板全てで①投球回6回以上②5安打以下③自責点1以下④被本塁打0の4条件をクリア。1913年に自責点が公式記録となって以来、シーズン最初の5登板すべてで4条件をクリアした最初の投手だと伝えた。 この日は今季2度目の投手専念での出場。打線の援護に恵まれない形での今季初黒星となったが「あまりいい点の取られ方ではなかったですし、毎回のようにランナーも出て、攻撃に集中できるような流れを作れなかったので。序盤、点数取れなかったですけど、その要因の一つがそこなのかなっていう」と投手としてリズムをもたらすことができなかったことを反省していた。
2026.04.29
◎明治27年の農事の雑誌に「報徳」についての記事が載っている。いま読んでもためになる。読みやすく現代文にしてみよう●報徳心を以て行うべきである 農業をする者にとって報徳の心が必要であることは前にもたべたび述べている。なお耕うん栽培の上でも報徳の心は必要であって、もし報徳の心がなければ、前の年に飢饉があったその翌年は田畑に肥やしもやる必要がなく、耕うんするにも及ばいことになる。また夏は虫の害、秋は風雨の害があるかも明らかでないから、春から肥しを入れて耕作するのはとてもバカバカしい次第であるようだが、もしも農家が右の心得えで百姓するならば収穫もおぼつかない。またこのようなことをする農家もない。このことは百姓にはおのずから道徳が備わっていると前にも言った理由である。二宮大先生が言われた。「百姓は肥しをやったり耕作するのは未来の収穫を望むためにしてはならない。過去の恩徳つまり今日まで世を渡ってこられたのは、今日まだで田畑に作物が生育したおかげである。だからその徳に報いるために田畑の好むところの肥料をたくさん入れてやるのである」と。まことに人は何事でも右の心得えで行うべきである。すなわち何事も徳に報いるという心をもって行うべきである。
2026.04.29

忌野 清志郎 メドレー国が「戦争やりましょう」ていったらみんな戦争をバーっとやっちゃったり「お金が全てです」ていったらみんなお金が全てになっちゃったりとかそういう物わかりのいい人間ばっかりだとしょうがないなと思うやっぱり “わからず屋” じゃないと『ミュージックスクエア』(2005.4.21)NHK FMより夜に腰掛けてた 中途半端な夢は電車のベルで 醒まされた無口になったぼくは ふさわしく暮らしてる言い忘れたこと あるけれど多摩蘭坂を登り切る手前の坂の途中の家を借りて住んでるだけど どうも苦手さ こんな夜はお月さまのぞいてる 君の口に似てるキスしておくれよ 窓からある日、変な男がやって来て、詩集を出さないかと言い出した。「でもなー、俺は詩人じゃないぜ。ただのブルース・マンだからな。」「えー、ブルース・マンなんですか?」「そうさ。ブルースが俺にとりついているのさ。」「しかし……、まえはバンド・マンて言ってたのに。」ブルースが俺の足にからまって、一晩中踊らせるのさ。とても寝かしちゃくれねー。奴は俺の鼻から、スッと入りこむ。それで俺は、また新しい曲を書くのさ。俺はバンドの奴らと長いツアーに出る。でも、手をぬくわけにはいかねえ。ブルースが俺の背中にへばりついてて休ませちゃくれねえのさ。ステージでとんだりはねたりするのは、ブルースがとりついてるからなんだぜ。「そうですか。いろいろ大変ですねえ。ブルース・マンでいるためのトレーニングとかは?「まあ、ジョギングとか……」「しかし、必ずしも詩人だけが詩集を出すのではありません。ブルース・マンであってもかまわないじゃありませんか。」「し、」しかし、きみ……、それに服装が……」 その男が何も言わずにカバンから取り出したのは、着物であった。 刊行に際しては、その男すなわち彌生書房の川島達之氏、りぼんの坂田喜策氏、写真家のおおくぼひさこさん、共作の収録を快諾し応援してくれた仲井戸麗市、その他おおぜいの人達のお世話になりました。どうもありがとう。心から礼を言うぜ。昭和五十八年十一月忌野清志郎
2026.04.29
長編デビュー作で快挙 『我々は宇宙人』カンヌに続きアヌシー長編コンペ選出4/29(水) 坂東龍汰&岡山天音W主演 長編アニメーション『我々は宇宙人』カンヌ監督週間に正式出品【コメントあり】長編アニメーション映画『我々は宇宙人』が、「アヌシー国際アニメーション映画祭2026」(6月21日~27日)の長編コンペティション部門に選出されたことが発表された。すでに第79回カンヌ国際映画祭・監督週間への正式出品も決定しており、門脇康平監督にとって長編デビュー作にして、世界的映画祭への選出が相次ぐ快挙となっている。本作は、2022年に“才能が潰されない世の中”を掲げて誕生した映画レーベル・NOTHING NEWによる初の長編アニメーション。これまで『NN4444』や『〇〇式』、『チルド』などを手がけ、国内外の映画祭で評価を集めてきた少数精鋭の制作チームによる最新作となる。 企画・脚本・監督を務める門脇は、YOASOBI「優しい彗星」などを手がけた29歳の新鋭。東京藝術大学で絵画を学び、舞台映像やCMディレクションを経てアニメーション作家として活動してきた。実写のプレビズ撮影を取り入れるなど、従来の手法にとらわれないアプローチで、リアリティと映像美を両立させた表現に挑んでいる。声の出演には坂東龍汰と岡山天音がW主演で名を連ね、音楽はYaffleが担当するなど、新世代の才能が結集している。物語の舞台は平成の日本の田舎町。内気で“普通”であることに悩む少年・翼と、クラスの人気者で“特別”な存在の暁太郎との出会いから始まる友情は、やがて少しずつ歪み始める。暁太郎はクラスの中で浮いた存在となり、翼はその変化に気づきながらも何もできないまま、取り返しのつかない出来事を迎えてしまう。「もしもさ、俺が宇宙人だったらどうする?」という印象的な一言に込められた意味とは何か。ノスタルジーと不穏さが交錯する青春ミステリー。 アヌシー国際アニメーション映画祭は、フランス東部、スイス国境に近いアヌシーで1960年から開催されている界最大規模のアニメーション映画祭。長編コンペティション部門はクリスタル賞を争う最高峰の舞台として知られる。日本作品では『紅の豚』『平成狸合戦ぽんぽこ』『夜明け告げるルーのうた』などが最高賞を受賞してきた。 門脇監督は今回の選出について「アヌシー国際アニメーション映画祭は、一つ大きな憧れの舞台でした。今年の長編コンペティション部門に選んでいただけたことを最初に知った時は驚きで実感がなかなか持てなかったのですが、次第に喜びが込み上げました」と喜びを語り、「映画祭を通じて、1人でも多くの方にこの作品が届くことを願っています」とコメントを寄せている。 カンヌに続く世界的映画祭への選出を受け、『我々は宇宙人』がどのような評価を得るのか、今後の動向にも注目が集まる。■門脇康平監督のコメント(全文) アヌシー国際アニメーション映画祭は、一つ大きな憧れの舞台でした。 今年の長編コンペティション部門に選んでいただけたことを最初に知った時は驚きで実感がなかなか持てなかったのですが、次第に喜びが込み上げました。 大学時代に自主制作で作り方も何もわからない中、独学でアニメを作り始め、アヌシーに漠然と憧れていた時から10年。自分があの場所についに行けると思うと、感慨深い気持ちです。 映画祭を通じて、1人でも多くの方にこの作品が届くことを願っています。
2026.04.29
「出光丸」がホルムズ海峡を通過、サウジ産の原油を積載4/28(火)パナマ船籍の原油タンカー「出光丸」が、ペルシャ湾からホルムズ海峡を通過したことが船舶の追跡データで分かった。LSEGの追跡データによると、出光興産子会社の出光タンカーが運航し、サウジアラビア産の原油200万バレルを積んでいる。イラン紛争が始まって以来、日本関連の原油タンカーがホルムズ海峡を通過したのはこれが初めてとなる。ホルムズ海峡封鎖により供給が混乱する以前は、日本は石油輸入の95%を中東地域に依存しており、その多くはホルムズ海峡を経由していた。出光興産は、個別の船舶についてコメントしないとした。2月下旬に米国とイスラエルがイランを攻撃して以降、日本関連の船舶はこれまで商船三井が共同所有するLNGタンカーなど3隻がペルシャ湾からホルムズ海峡を通過した。ホルムズ海峡通過の出光丸、行き先は「名古屋」 厳戒下の決断、73年前の日章丸事件想起2026/4/29ホルムズ海峡を通過した出光興産系の原油タンカー「IDEMITSU MARU(出光丸)」は日本時間29日午前、オマーン湾をインド洋に向かって航行しているとみられる。イラン革命防衛隊に近いとされるタスニム通信は、出光丸はイラン側と調整の上で通過したと報じた。船舶位置情報の提供サイト「マリントラフィック」の目的地表示は「FOR ORDER」(注文用)から「Nagoya, JAPAN」に変わった。出光による厳戒下の石油輸送は、73年前の「日章丸事件」を想起させる。第二次世界大戦後の石油業界はメジャー(国際石油資本)に支配され、イランの石油資源は英国のアングロ・イラニアン・オイル・カンパニー(現BP)の管理下に置かれていた。イラン国民が富の恩恵を受けない中、当時のモサデク政権は1951年に石油の国有化を宣言した。英国は反発し、ペルシャ湾に軍艦を派遣して海上封鎖。イタリアのタンカーが拿捕される事件も起きた。外資と連携しない民族系の経営を進めていた出光興産の創業者、出光佐三(1885〜1981年)は熟慮の末、①窮地に立つイランの救済②メジャーへの反発③石油の安定確保―の観点から、イランの石油輸入を決断し、タンカー「日章丸」を神戸港から極秘裏に出港させた。行き先を知っていたのは船長と機関長だけだった。日章丸がセイロン(現スリランカ)沖に達したとき、船長は乗組員を集め、「本船はこれより、イランのアバダン港に向かう。そこで石油を積み込む」と宣言した。佐三から預かった「ここにわが国は初めて、世界石油大資源と直結したる確固不動の石油国策確立の基礎を射止めるのである」というメッセージを読み上げると、乗組員から「日章丸万歳」「出光興産万歳」「日本万歳」の声が上がった。出光、ベトナムに原油融通へ 400万バレル、日本含む供給網維持出光興産が、ベトナムに原油約400万バレルを供給することが28日、分かった。原油輸送の要衝ホルムズ海峡を通らないルートで調達した中東産原油を、ベトナムの製油所でガソリンやナフサなどの石油関連製品に精製し、同国向けに供給する。石油製品を原料に同国で生産された家電や自動車部品などは日本にも輸出されており、日本を含むサプライチェーン(供給網)の維持につなげる。原油は出光が調達したもので、日本政府が進めている石油備蓄の放出分は活用していない。400万バレルは、ベトナムの1日当たりの原油消費量の10日分程度。出光が出資する同国のニソン製油所などで石油製品に精製する。
2026.04.29
農談 第五十六号明治二十六年十一月二十五日発行、◎報徳 ●奇々妙々 ●道は実行にあり ●農家たるもの必ず二宮翁夜話を読むべし ●報徳学研究の必用 ●報徳社設立●奇々妙々 木に登って魚を求めてもとても獲られないようだ決してそうではない。法によるならば、必ず獲ることができる。二宮先生は言われた「杣(そま:きこり)が山に入って木を伐るのは材木が好きで伐るのではない。炭焼きが炭を焼くのも炭が好きで焼くのではない。そもそも杣も炭焼きも、その職業さえ勉強すれば、白米も自然に山に登るのである。奇々妙々の世の中というべきだ」と言われた。農家の勉強は、土を以て白米ともすることができ、塵埃を以て麦とすることができる。世の中の事は実に奇であり妙である。 ●道は実行にあり 二宮先生の家僕(下男)が芋種を埋めて、その上に芋種と記した木札を立てた。先生をこれを見て弟子たちにさとして言われた。「なんじらは大道は文字の上にあると思って、文字のみを研究し、また学問というものを書物を読んで道と思うのは間違っている。文字というものは道を伝える道具であって道ではない。そうであるのに書物を読んで道と思うのは過ちではないか。道は書物にはなく、行いにある。今あそこに立っている木札の文字を見てみよ。この札の文字によって芋種を掘り出し、畑に植えて作るからこそ食物ともなる。道も同じように目印の書物によって道を求めて、身に行って初めて道を得るのだ。そうでなければ学問というべきではない。ただの本読みである。 〇中村和三郎いわく、今日農業界にこの本読みが多い。翻訳の西洋農書を少々ばかり見てしきりに小理屈を並べて、その実は鍬の持ち方も知らない、米の成る木はどのようなものかというようなものさえいる。農業のごときは、ことさらに実行を尊ぶものであるから、先生のいわゆる木札すなわち書物ばかりを見て農業大先生と心得てはならない。穴に埋めたものが真の芋種である。すなわち米麦を作る仕事が農業である。●農家たるものは必ず二宮翁夜話を読むべし。 山口県吉敷郡西岐波村同盟員 澤村鹿之助私しは感ずる処ありてこのほど購入して二宮翁夜話を拝読致した処、いかにも感服のお話ばかりにて読み始めると寝食を忘れ、二日でも三日でも読みたき心が出て、夢にまでこの夜話を読むことを見るくらいでありますが、いかんせん、因縁悪しく、貧家に生れ、生計のため、日々読むこともできず、やっと夜業を済まし燈火で読みますが、総括すると道徳経済の四字となり、なおこれを一貫すると誠の一字となります。人間世界で誠の字ほど大切なるものはないと、私は思います。この誠の字を活用すれば仏説にいわゆる十悪五逆三毒の煩悩を去り、完全無欠の人物となられますと信じます。ところが世上には農事改良・・・・・・と申しますが当今のごとく道徳堕落の時節には先ず人心へこの二宮翁夜話の如きものを注入したら農業上の改良は勧めずして出来るものと信じます。諸君いかがです。農書も購読せねばならぬが、この夜話は農家たるもの是非とも見んければならんしてこの書籍は静岡の報徳図書館で僅か二十五銭で売りますから御求めなされませ。熱心の余り御勧め申します。●報徳学研究の必要 報徳学を少しく研究すれば譲奪の区別が明らかになり、譲と奪とが明らかなれば、従って吝と倹との区別が分かります。近頃本館事務室弁理が勤勉貯蓄の必要を公示してより、中にはこの熱に浮かされて吝と倹との区別もなく、無茶苦茶に節倹を唱え本人はよく気になりておるも、少しく心掛けある士より見れば吝の仲間入りする人もあります。一例をいえば倹約のため文通をすることを止めるとか、交際が出来ぬとかいう類です。これらは最も倹約ということを誤っているの甚だしきものと考えます。かくの如き人は二宮翁の夜話でも購読させて人間らしき心掛けを保つように致したきものと申すは・・・・・ 在事務所同盟員 井上惣次郎
2026.04.29
農談 第五十四号 明治二十六年九月二十五日刊行◎報徳●青木村冥加人足の事二宮翁常陸国青木村のため力を尽されしことあり。後年を経てその近村灰塚村の興復方法を扱れしとき、青木村旧年の報恩のためにとて冥加人足と唱え、毎戸一人ずつ無賃にて勤む。翁これを験して後に曰く、今日来り勤むるもの過半二三男にして我往年厚く撫育せしものにはあらず。これ表に報恩の道を飾ると雖も、内情いかんを知るべからず、されば我この冥加人足を出せしを悦ばずと。青木村地頭の用人某これを聞いて我よく説諭せんと言う。翁これを止めて曰く、これ道にあらず。たとえ内情いかにありとも彼旧恩を報いんためとて無賃にて数十人の人夫を出せり。内情のいかんを置いて賞せずばあるべからず。かつ薄きに応ずるには厚きを以てすべし。これ則ち道なりとて人夫を招き、旧恩の冥加として遠路出来り無賃にて我が業を助くる。その奇特を懇々賞し、かつ謝し過分の賃金を投与し帰村を命ぜらる。一日を隔て村民老若を分たず、皆未明より出来り終日休せず働き、賃金を辞して去る。翁又金若干を贈られたりと言う。●二宮当代先生の書簡 特待員松嶋吉平君が在京中、当代尊親先生に謁し、種々懇話せられしが、未だその旅宿滞在中左の書簡を贈られたりと、同氏より写しを得たればここに掲ぐ。 過日はわざわざ御来望の処、取込中の為欠礼多謝多謝。付てはその際御談話これ有り候貴地方漫遊の儀は少日数の繰合せば敢て相付け申さず候訳にもこれ無き候えども、本社よりも急に帰国を促し来り候事もこれ有り。到底緩々御丹精の現況拝見も届難き場合に付、他日緩々参向遺憾なき様致したく存じ奉り候。御厚意に悖(もと)り候儀は悪しからず御了察下されたく候。右用事のみ。余は後便に譲る。草々。 八月十五日 二宮尊親 松嶋吉平 殿 三池惣兵衛殿右の通りにて先生の当地方御漫遊これなきは遺憾の至りというべし。
2026.04.29
●報徳の開墾二宮先生は言われた、我が道は荒蕪を開くを以て勤めとする。そして荒蕪に数種がある。田畑が実際に荒れているのがある。また借財がかさんで家禄を利息のために取られ、禄はあっても益がないというありさまになっているものがある。この国にとって生地で本人にとっても荒地である。また地味が薄く、収量の少ない田地で、年貢は高いだけの、収穫しても作益のない田地がある。これは上のために生地であって下のために荒地である。また資産があり、財産があって、国家のために為さない。いたずらに贅沢にふけって財産を費やす者がある。国家にとって最大の荒蕪である。また知恵があり、才能があっても、学問もしないで、国家のためも思わないで、琴棋書画などをもてあそんで、生涯を送る者がある。世の中のために最も惜しむべき荒蕪である。また身体強壮であり、職業を勤めないで怠惰にかけごとに日を送る者がある。これもまた自他のために荒蕪である。この数種の荒蕪のうち、心田の荒蕪の損は国家のために大きな損失である。次に田畑山林の荒蕪である。皆勤めて起さなくてはならない。この数種の荒蕪を起して悉く国家のために供することを我が道の勤めとする。歌に むかしより人の捨てざる無きものを 拾い集めて民にあたへん
2026.04.29
農談 第五十三号 明治二十六年八月二十五日刊行◎報徳●報徳社創立の事 最近、学者も実業家も官吏も人民も皆報徳学の完全であり、人の世に必ず必要であることを認めると共に、報徳社が設立されるものもまた多くなってきているのは喜ぶべきことである。ここにおいて創立するものが最も注意するべきことは、報徳社を他の農会の積金講などと同じように見てはならないことである。報徳はすなわち道徳と経済との二つである。だからまず報徳社に入る者はこの二つは最初から最後まで言行と離れてはならないという決心が無くてはならない。その他創立に際し注意すべきことを左にかかげよう。〇始めから盛大であることを願い、むやみに社員を募って社員が多いことを頼みとしてはならない。最初は人数は少くても、よい人を選んで結社すべきである。もし人数が多いことを欲して入社させるときはどれほど厳重に申合せ、規則書に調印しても、一両年を経ないで乱れるものである。〇創立に際しては、どこからか標準とするべき規則を得て設立することであろうが、強いてその標準に準拠することを望んではならない。よくよく人情や風俗を考察し協議して規則を定めるほうがよい。岡田良一遠江国州立社長が言っている。「法は時によって同じではない。道は万世を経て変えることはできない」と。報徳というその道は動かすことはできないけれども、これを行うときの法は人情・風俗・時勢などで同じことはできないのである。〇報徳の法は、金を積んでよく散ずるにある。積むばかりでは報徳ではない。また積んで悪く散ずるのも報徳ではない。(以下注意するべきことをおいおいあげよう)
2026.04.29
「出光丸」がホルムズ海峡を通過、サウジ産の原油を積載4/28(火)パナマ船籍の原油タンカー「出光丸」が、ペルシャ湾からホルムズ海峡を通過したことが船舶の追跡データで分かった。LSEGの追跡データによると、出光興産子会社の出光タンカーが運航し、サウジアラビア産の原油200万バレルを積んでいる。イラン紛争が始まって以来、日本関連の原油タンカーがホルムズ海峡を通過したのはこれが初めてとなる。ホルムズ海峡封鎖により供給が混乱する以前は、日本は石油輸入の95%を中東地域に依存しており、その多くはホルムズ海峡を経由していた。出光興産は、個別の船舶についてコメントしないとした。2月下旬に米国とイスラエルがイランを攻撃して以降、日本関連の船舶はこれまで商船三井が共同所有するLNGタンカーなど3隻がペルシャ湾からホルムズ海峡を通過した。ホルムズ海峡通過の出光丸、行き先は「名古屋」 厳戒下の決断、73年前の日章丸事件想起2026/4/29ホルムズ海峡を通過した出光興産系の原油タンカー「IDEMITSU MARU(出光丸)」は日本時間29日午前、オマーン湾をインド洋に向かって航行しているとみられる。イラン革命防衛隊に近いとされるタスニム通信は、出光丸はイラン側と調整の上で通過したと報じた。船舶位置情報の提供サイト「マリントラフィック」の目的地表示は「FOR ORDER」(注文用)から「Nagoya, JAPAN」に変わった。出光による厳戒下の石油輸送は、73年前の「日章丸事件」を想起させる。第二次世界大戦後の石油業界はメジャー(国際石油資本)に支配され、イランの石油資源は英国のアングロ・イラニアン・オイル・カンパニー(現BP)の管理下に置かれていた。イラン国民が富の恩恵を受けない中、当時のモサデク政権は1951年に石油の国有化を宣言した。英国は反発し、ペルシャ湾に軍艦を派遣して海上封鎖。イタリアのタンカーが拿捕される事件も起きた。外資と連携しない民族系の経営を進めていた出光興産の創業者、出光佐三(1885〜1981年)は熟慮の末、①窮地に立つイランの救済②メジャーへの反発③石油の安定確保―の観点から、イランの石油輸入を決断し、タンカー「日章丸」を神戸港から極秘裏に出港させた。行き先を知っていたのは船長と機関長だけだった。日章丸がセイロン(現スリランカ)沖に達したとき、船長は乗組員を集め、「本船はこれより、イランのアバダン港に向かう。そこで石油を積み込む」と宣言した。佐三から預かった「ここにわが国は初めて、世界石油大資源と直結したる確固不動の石油国策確立の基礎を射止めるのである」というメッセージを読み上げると、乗組員から「日章丸万歳」「出光興産万歳」「日本万歳」の声が上がった。
2026.04.29
●早起 遠江 同盟員 森下広太郎故新村豊作翁(翁は同盟員新村里三郎君の父であり二宮大先生の門人である)曰く人、朝起きを学ばんと欲せばまずは早寝を学ぶべし。遅く寝て早く起きることは、凡人は永く堪えることはできない。早寝の修行がなるならば早起きはおのずからちかからん。また早起きしても炉ばたで眠っていては無益である、と。
2026.04.29
農談 第五十二号 ●節倹について 二宮先生の訓話二宮先生がおっしゃった。どれほど富貴であっても、その家法は節倹に立ち驕奢に馴れることを厳に禁ずるべきである。そもそも奢侈は不徳の源であり滅亡の基(もと)である。なぜならば奢侈を欲するから、利を貪るの念が増長し、慈善の心が薄らいで、自然と欲深くなって吝嗇に陥り、それから知らず知らずに職業も不正になっていって、災いを生ずるものである。実に恐るべきことだ。論語には「周公の才は美ありとも奢(おごり)かつ吝(やぶさか)なればその余は見るに足らず」とある。家法は節倹に立って、我が身はよくそれを守って驕奢に馴れてはならない。何事でも習いが性格となって、馴れてしまって常となっては、仕方がないものである。遊楽に馴れると面白いこともなくなる。甘いものもそれになれては甘きものもなくなる。これは自ら自分の歓楽をも滅ぼすのだ。日々勤労するものは朔望(旧暦の1日と15日)は休日も楽しみである。盆や正月は大きな楽しみである。これは平日勤労に馴れるためだ。この理を明らかにわきまえて、滅亡の基(もと)を断ち去るべきである。かつ若い者は酒を飲むのも、煙草を吸うのも、月々四五度に限って、酒好きとなってはならない。煙草好きとなってはならない。馴れて好きとなり、癖となってては、生涯の損大である。慎まなければならない、慎まなければならない。私の道歌にいう。 飯と汁木綿着ものは身を助くその余はわれをせむるのみなり◎和三郎謹んで思うに、この訓話は一家を保つ重宝である。我が同盟員たるものは、飯と汁の歌を肝に銘じて実行されたい。ちなみに倹と吝とを間違えないように、真の節倹を以て家法を立てられたい。倹と吝との別は前号伊藤特待員の節倹美談の末に水上同盟員が付記されている。観てほしい。
2026.04.29
24前商工大臣藤原銀次郎氏御講演「台湾糖業創始時代の思出」(台湾製糖株式会社)抜粋 昭和16年1月10日、屏東本社に於て挙行せる財団法人武智記念財団発会式に於ける御講演 台湾創立準備調査(p3-9)明治33年に支那に義和団の乱という事件がありました。ご承知ない方もあると思いますが、そういう事件がありました。当時、私は漢口の三井物産におりました。三井物産はその頃から初めて漢口に出張員を置くことになり、私がその出張員として店を設けておったのであります。ところが、その騒動で在留の外国人は全部引き揚げることになり、私も日本に帰り身体があいていたので東京で休養しておりました。すると、三井物産の当時の社長であった益田孝さんが私を呼び出されまして、今度台湾に製糖会社を興そうという話が起きて来たが、引き合うかどうかいろいろ話があって相当面倒なことになっている。ついては製糖専門の技術の方は、大日本製糖社長の鈴木藤三郎君が日本に於ける砂糖技師として最も優れているから、鈴木君に委員長格でやってもらう。次に農業方面のことは、ドイツから帰って仙台の高校の教授や勧銀の理事をやってきた新帰朝、新進気鋭の山本悌二郎君にやってもらう。もう一人工業方面の知識を持っていて商売上の知識もあり、この事業が引き合うかどうか調べる人がほしいんだが、それには身体があいている君が行って三人でやってみてくれないかと言われたので、私は喜んで承諾いたしまして、やがて三人は同じ船で台湾に行きました。その船の名は覚えておりませんが、わずか千何百トンか二千トン以内の船だったと思います。 藤原銀次郎伝 水谷啓二著P57-59明治33年4月のこと、山東省の一角に外国人排斥を目的とする義和団という一団が現われ、それに飢饉のために飢えた民衆が加わって、各地で掠奪殺傷を行い、北京へ迫った。そこで日本をふくむ六か国が出兵して暴徒を撃退したが、中国全土は騒然となり、民衆の対外感情も極度に悪化した。上海や漢口の物産も、商売ができなくなったので、藤原は一時内地へ引き揚げた。藤原が内地に帰ると、新たな仕事が待っていた。それは台湾の製糖事業の調査であった。・・・児玉総督と後藤長官は、台湾にもっとも適した事業として製糖事業に目をつけ、資本金百万円で一大製糖会社を設立する計画を立てた。・・・台湾に調査団を派遣することになった。物産の益田社長は、中国から引き揚げて来たばかりの藤原を呼んでいった。「こんど、台湾に製糖会社を興そうという話が起きてきたが、事業として引き合うかどうか、いろいろ議論があって、相当面倒なことになっている。ついては、製糖専門の技術の方は、大日本製糖〔当時は日本精製糖株式会社〕社長の鈴木藤三郎君が日本では砂糖技師として一ばん優れているから、鈴木君にやってもらう。つぎに、農業方面のことは、ドイツから帰って仙台の高校の教授や勧銀の理事をやっていた新進気鋭の山本悌二郎君にやってもらう。もう一人工業方面の知識をもっていてしかも商売上の知識もあり、この事業が引き合うかどうか調べる人がほしいのだが、それには身体があいている君がやってもらいたい」銀行と物産の両部門における藤原の経験が、はからずも役に立つ機会が訪れたのである。しかもこの調査団は、事業として引き合うかどうかという結論を出すのが目的だから、藤原の役割はきわめて重要であった。調査委員の人選がきまると益田は直ちにそのことを児玉総督に連絡した。藤原が中上川の部下であったことも知らした。さて三人の調査委員は、同じ船で台湾に渡った。
2026.04.29
「永平家訓抄話」澤木興道 4-8 これは、即身即仏という言葉でも、よう誤りが起こるが、「その身そのまま仏じゃ」といったからとて、凡夫を喚んで仏ということができんのはわかりきっている。そこで、ここでは尚書を喚んで今上、すなわち今上天皇といわれんじゃないかとやられるのである。そこにどえらい開きがある。凡夫を仏と喚ぶわけにはゆかない。さあここまでゆすられてみると、とうとう尚書も本音をはいてしまった。「與麼ならば則ち總に、和尚に秖對せざる。是れ弟子か主人公なること莫きや、否や」與麼(よも)ならば、「そうしてみるといったい、和尚に返事をせんのがわたくしの仏性でありますか」こういうて来ると、もはやしっぽが出てしもうた。「沙曰く、但し秖對するのみにあらず」ハイというたばかりではない。「老僧に秖對せざるも、無始劫從り來た、是れ箇の生死の根本と」返事をしてもしなくても、こんなところがみな煩悩、妄想のもと、すなわち生死の根本である。 いったい仏教というものを口で答えるものと思うたり、本を読んでわかるものと思うたりするが、わたしは顔の勾配に書いてあるという。この顔の勾配をチャンと長沙は見て取っておる。ハイといおうがいうまいが、めいめいの一つの坐りが我であるならば、これは何でもない話である。そこのところを生死の根本というのである。 そこで「乃て頌を示して云く、學道の人、眞を識らず」参禅学道の人は眞を識らねばならない。ところが仏性というものがいったいどういうものか、法性真如というものがどういうものか本当に知ろうともしないで、いつも中途半端なところで、自分で思いついたことやら、聞いたことやら、読んだことで決めておる。なぜそんなことをしているかというと、「秖(た)だ、從來、識神を認めんが為なり」識神というのはわれわれの思惑のことである。われわれのいろいろな思惑、あるいは予定概念というか、自分で決めたものというか、従来の識神を認むるがためである。この凡夫の胸算用を混ぜると、どこまで行ってもこれはいけない。 どこやらの後生願いが、ある善知識のところへ行って、門徒宗ではお領解という、禅宗では独参というが「私のお領解はこうでございますが」とだんだん述べたところが、「それは感心じゃのう、そこまでよう聞いた、そこそこ、そこが大事じゃのう」というて、感心してその大和尚が聞いておった。それから最後に「もう極楽往生大丈夫でしょうか」というたら、「ああ、極楽往生かい、それはおれは知らんよ、極楽まいりのことなら家へ行って嫁に聞いて見さっしゃい」というたという話がある。 従来の識神を認むるがためなり、従来の識神というのは、つまり、自分の一人ぎめということで、これを我をもって本とするというのである。仏教というものにこんな我を混ぜたらそれは仏教でも何でもなくなる。(「永平家訓抄話」p.301-302)
2026.04.29
190二宮翁夜話残篇47【47】尊徳先生は日光ご神領の興復法の取調帳数十巻を指差しておっしゃった。この興復仕法計算は、ひとり日光だけではなく、国家興復の計算である。日光神領という文字は本当に素晴らしい。この言葉は世界の事と見てもよい。そうであればこの帳簿は計算帳と見てはならない。これは皆一々悟りの道であり、天地自然の理である。天地は昼夜に変じたり満ちたりして違うことがなく、偽りもない。そして算術もまた同じである。だから算術をかりて、世界が変じたり満ちたりするのはこのとおりの道理であるから決して油断できないと示していましめたものである。この帳面を開くときは神の一を何であろうとも定めてみるがよい。善でも、悪でも、邪でも、正でも、直でも、曲でも、何であろうとも定めて置いて見る時には、元によつて利を生み、利が返ってまた元となり、その元に利が付いて繰返し繰返し仏説にいう因果因果と引き続いて絶えない事、年々歳々このとおりである。たとえば毎朝、自分が先に眼覚めて人を起こすか、また人に毎朝起されるか、この一事でも知ることができる。人の世は一刻勤めれば一刻だけ、ひととき働けばひとときだけ、半日励むならば半日だけ、善悪邪正曲直皆この計算のとおり、1厘違えば1厘だけ、5厘違えば5厘だけ、多ければ多いだけ、少なければ少ないだけ、このとおりと皆180年間明細に調べ上げたものである。朝早く起きた因縁によって麦が多く取れて、麦が取れた因縁によって田を多く作り、田を多く作った因縁によって実が多く取れて、麦が取れた因縁によって田を多く作り、田を多く作った因縁によって馬を買い、馬を買い求めた因縁によって田畑がよくできて、田畑がよくできた因縁によって田がふえ、田がふえた因縁によって金を貸し、金を貸した因縁によりて利が取れる。年々このようになっているによって富裕者となるのである。 そして富裕者が貧困になってゆくもまたこの道理である。原野の草、山林の木の生長もまた同じ理なり、春に延びた力によって秋に根を張り、秋に根を張った力をもって、春に延び、去年延びた力をもって今年太り、今年太った力をもって来年もまた太るのである。天地間の万物は皆このとおりであるこれを理論で言う時には、種々の異論があって面倒であるから、私は算術をかりて示したのである。算術で示す時には、どのような悟道者でも、どのような論者でも一言も言うことができない。天地が開けた昔、人も動物もまだ無い時から、違いがないこともって証拠として、天地間の道理はこのとおりの物であると、知らしめたのである。決してこの帳面を計算と見てはならない。数はごまかすことができない。この数理によって道理を悟るがよい。これが悟道への近道である。弁算和尚がかたわらにあって次のように言った。これぞ本当の一切経である。仰ぐがよい尊ぶがよい。二宮翁夜話残篇【47】翁(をう)日光(につこくわう)御神領(ごしんりやう)の興復法(こうふくはふ)の取調帳(とりしらべちやう)数十巻を指(さ)して曰(いは)く、夫(そ)れ此(こ)の興復仕法計算(こうふくしはふけいさん)は独(ひと)り日光のみにはあらず、国家興復の計算なり。日光神領の文字(もじ)誠(まこと)に妙(めう)なり、世界の事と見て可なり。されば此(こ)の帳簿は計算帳と見るべからず、是(こ)れ皆一々悟道(ごだう)して天地自然の理(り)なり。夫(そ)れ天地(てんち)は昼夜(ちうや)変満(へんまん)して違(たが)ひなく、偽(いつは)りなし。而(しか)して算術(さんじゆつ)又(また)然り、故(ゆゑ)に算術(さんじゆつ)をかりて、世界の変満(へんまん)するは此(こ)の如(ごと)き道理なれば決して油断は出来(でき)ぬぞと示して誡(いまし)めしなり。此(こ)の帳(ちやう)を開かば神(かみ)の一を何(なに)になりとも定(さだ)めて見るべし。善なり、悪なり、邪(じや)なり、正なり、直(ちよく)なり、曲(きよく)なり、何になりとも定め置(お)いて見る時は、元(もと)によつて利を生み、利が返りて又(また)元(もと)となり、其(そ)の元(もと)に利が付き繰返し繰返し仏説に云ふ因果因果と引続(ひきつづ)きて絶えざる事、年々歳々此(こ)の如(ごと)し。譬(たと)へば毎朝(まいあさ)己(おの)れ先(さき)に眼(め)を覚(さま)して人を起(おこ)すか、又(また)人に毎朝起さるるか、是(こ)の一事にても知らるべし。人世(じんせい)は一刻(こく)勤(つと)むれば一刻(こく)丈(だ)け、一時(ひととき)働けば一時(ひととき)丈(だ)け、半日励(はげ)めば半日丈(だ)け、善悪邪正曲直皆此(こ)の計算の如(ごと)く、一厘(りん)違(ちが)へば一厘丈(だ)け、五厘違へば五厘丈(だ)け、多きは多きだけ、少なきは少なきだけ、此(こ)の通りと皆百八十年間明細に調べ上げたり。朝早く起きたる因縁(いんえん)によりて麦が多く取れ、麦が取れた因縁によりて田を多く作り、田を多く作りたる因縁によりて麦が多く取れ、麦が取れた因縁によりて田を多く作り、田を多く作りたる因縁によりて馬を買ひ、馬を買い求めたる因縁によりて田畑が能(よ)く出来(でき)、田畑が能く出来たる因縁によりて田が殖(ふ)え、田が殖(ふ)えたる因縁によりて金を貸し、金を貸したる因縁によりて利が取れる。年々此(こ)の如(ごと)くなるに依(よ)つて富有(ふいう)の者となるなり。 而(しか)して富有(ふいう)者の貧困になりゆくも又(また)此(こ)の道理なり。原野(げんや)の草、山林の木の生長も又(また)同じ理なり、春延(の)びたる力に秋(あき)根を張(は)り、秋根を張りたる力を以て、春延び、去年延びたる力を以て今年太(ふと)り、今年太りたる力を以(もつ)て来年又(また)太るなり、天地間の万物(ばんぶつ)皆然(しか)り。是(これ)を理論(りろん)にて云(い)ふ時は、種々(しゆじゆ)の異論ありて面倒(めんだう)なれば、予(よ)は算術(さんじゆつ)をかりて示(しめ)せるなり。算術にて示す時は、如何(いか)なる悟道者も、いかなる論者も一言あらず。天地開闢(かいびやく)の昔(むかし)、人も禽獣(きんじう)も未(いま)だ無き時より、違(ちが)ひ無き物を以(もつ)て証拠(しようこ)として、天地間の道理は此(こ)の如(ごと)き物ぞと、知らしめたるなり。決して此(こ)の帳を計算と見る事勿(なか)れ。夫(そ)れ数(すう)は免(めぬが)るる事能(あた)はず、此(こ)の数理(すうり)によりて道理(だうり)を悟るべし、是(こ)れ悟道(ごだう)の捷径(せうけい)なり。弁算和尚(べんざんをしやう)傍(かたわ)らにありて曰(いは)く、是(これ)ぞ真(しん)の一切経なる。仰(あほ)ぐべし尊ぶべしと。
2026.04.29
内村鑑三は、The Japan Weekly Mail の8月11日号に “Justification for the Korean War” を発表し、欧米に向けて日清戦争の正当性を主張した。 もし戦争の多分は欲より来るとするも、すべての戦争は欲の戦争にあらず、利欲をもって戦争唯一の理由とみなし、もって神聖なる人類性の価値を下落せしむるなかれ。吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと、その義たる法律的にのみ義たるにあらず、倫理的にまた然り、義戦たるものはこの種の義に因らざるべからず 彼は、日清戦争の目的を三つあげる。朝鮮の独立、シナの懲戒、そして東洋の文明化と永久平和である。この時の内村の論の特徴は、世界歴史の中から多くの義戦の例を引き、義戦の理由を具体的に示していることである。聖書からはギデオンがミデアン人と戦ったのを義戦の一例として語っているが、新約からの引用はない。(略) 日清戦争が義の戦争であることを具体的に論じていた内村鑑三は、戦後しばらくたった1897年(明治30年)12月 “A Retrospert” (猛省)を迫られた。弱小国の救援、すなわち朝鮮の独立のための義の戦いは変節し堕落した。「台湾をもぎ取ることと、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と何の関係があるか」と彼は憤慨する。朝鮮の隷属は主人を変えただけ、賠償金は軍備増強のみに使われた。「これほど栄光にみちて始まり、これほど恥辱にみちて終わった戦争がかつてあっただろうか」猛省(明治三〇年一二月一四―一六日『万朝報』) 三年半前、日本国民が一体となってシナとの戦争に入ったとき、我々は最も高貴な動機をもって危険な企てを始めたのだった。それは弱国をその尊大な隣人の支配から救うためだった。我々の強さはその時まだ試されていず、シナの弱さもまだ露顕していなかった。彼の海軍はわが海軍に勝り、彼の国庫は無尽蔵、彼の要塞はほとんど難攻不落と考えられていた。それでも戦争は義戦として始められ、それゆえに我々はたとえ国家の存立を犠牲にしても戦う価値があると考えた。それはペルシャのアケメネス朝の王たちに対するギリシャ人の戦いに似た戦い―文明のための戦い―と我々は考えた。正直なところ我々ははじめてこの戦争におもむくことを求められたとき、血と肉とに協議すること、ましてや自己と欲望に協議することなどつゆほどもなかった。 * 牙山においてピョンヤンにおいて、黄海の海上において、我々の鬨(とき)の声はこれだった―弱小隣国の救援!殺戮(さつりく)はこの動機に基づいてのみ正当と認められた。そう、我々は命を失うことを何とも思わなかった―自分たちはまさに「人が人のために死ぬ所」たる祭壇に犠牲として捧げられることを知っていたからである。支配者の剣が堕落するまでの日清戦争は、日本史の中で、その道徳的達成の最高点を示す指標としていつまでも記憶されるだろう。 * ところが、そこで変節が始まったのだ。まず指導者たち、ついで軍人、そしてついには全国民が、最初の誓いを捨ててしまった。彼らはいまや全く新しい道―卑劣不正な征服の道に入った。「シナ四百余州を双肩に担う」、「我が金融組織を確立するに足る金を吸収する」、「手負いの兎はしっかり捕えるまでははなさない」といったような声が、我がラッパ吹き新聞から聞こえ始めた。陽光輝く澎湖諸島に新しい遠征隊が送られ、自然の警告を無視し、恐ろしい悪疫を犯して征服を敢行した。威海衛は陸海からのわずかな攻撃だけで陥落し、丁汝昌の北洋艦隊の殲滅は、死んで行った者には不幸であっても我々の幸福には何の関係もないこととして、歓呼された。そして陸軍が遼東半島の背面に入ったとき、「過てる兄弟を膺懲(ようちょう)する」よりは「弁髪(べんぱつ)狩りをする」ために戦争が遂行された。牛荘を奪うのは何ら面倒なことではなかった。北京や奉天にむかい、我々は「二世紀にわたって蓄積された馬蹄銀(ばていぎん)」を目当てに急いだ。 ピョンヤンを占領した時には、正義が我々の目的だった。凍結した遼河を渡り、山海関にむかった時には、その同じものが我々の口実に過ぎなかった。国家の進路が本来の高貴な道からこのように逸脱した―これは目撃するに最も悲しい逸脱だった。 * 敵と講和を結ぶことになったとき、我々は朝鮮の幸福と独立を最大の関心事となすべきだった。講和条約のその他の条項は、すべてこの唯一本来の目的に従属せしめられるべきであった。このことに失敗して、我々は戦争全体に失敗した。そして事実はどうなったか? * 下関条約は平和の条約ではなかった。正確に理解すれば、それは将来長年にわたって極東を荒廃させる幾多の続けざまの戦争の条約であった。すでにそれはきわめて不可解なやり方で朝鮮の王妃を処分した。すでにそれは西洋の一強国による中国の一港湾の最も無法な占領を招いた。そしてあの恥ずべき条約の当然の結果として、またこれから起こるべき幾多の破滅的な事件を予想するのに、予言者の目は必要としない。 なぜ、こうなったのか?日本があの条約において偽善的にふるまったからである。義戦が不義のうちに終結されたからである。台湾をもぎ取ることと、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と何の関係があるか。シナの暴徒の手にかかって殺された二人のカトリック宣教師の生命の代償の一部として、山東地方の鉱業独占権を要求するドイツの態度も、これよりわずかにもう少し不合理の度合いが大きいにすぎない。下関条約で、日本は戦争の本来の目的である朝鮮の独立のために、何ら特別な保証を求めなかった。二億両(テール)、遼東半島、揚子江流域の新条約港の開設、および台湾と澎湖諸島の割譲は、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と、極めてかけ離れた関係をもっているにすぎない。我々はここに告白しよう。かつて「日清戦争の義」を書いたことをみずから極度に恥じていると。下関条約はあの戦争を不義なるものとした。あれは義戦として始まったが、欲戦として終わったのだ。(略)
2026.04.28
米国発の原油タンカー急増 喜望峰回り多数、代替調達か4/28(火)海上輸送の要衝ホルムズ海峡の封鎖状態が続く中、米国を出発して日本に向かう原油タンカーが急増している。北米は、中東以外からの原油輸入を進める政府の代替調達先の一つ。23日時点で、主要な積み出し拠点である米国メキシコ湾沿岸部を出航した日本向けタンカー13隻が確認されており、うち1隻はパナマ運河を通って日本に着いた。来月以降、喜望峰回りも含めた到着が本格化する見通しだ。 船舶の位置情報サイト「マリントラフィック」などのデータを、楽天証券経済研究所の西勇太郎グローバルアナリストが分析した。船舶数は約1カ月前の3隻から4倍強に増加。13隻のうち3隻は、大西洋と太平洋を結ぶ全長約80キロのパナマ運河を通過した。通航料が高く、幅の狭さや水深の浅さから大型船が通れないなど制約が多いが、片道30日程度と、50日程度かかる喜望峰回りより航路は短い。 26日には、米国産原油91万バレルを積んだタンカーが東京湾に到着した。コスモエネルギーホールディングス子会社のコスモ石油(東京)が調達し、輸送日数は35日。広報担当者は「国内の安定供給に資するため早さ重視でパナマを選んだ」と述べた。 13隻のうち10隻は喜望峰ルートを使う。早ければ1隻が5月初旬にも到着するが、6月に入るとみられるタンカーもある。海運関係者は「時間がかかっても量を選ぶか、通航料を払ってでも早さを選ぶか。荷主のニーズで航路は決まる」と説明した。 西氏は「米国発の原油タンカーは、長期契約ではなく、スポット契約による調達分と考えられる」と指摘。「米国産は他のアジア諸国との取り合いになる可能性もあり、来月以降も継続的に調達できるか疑問だ」と懸念を示した。 このほか、ホルムズ海峡を通過しない中東発の4隻、マレーシアで積み替えた原油を搭載した4隻のタンカーも確認。西氏によると、この8隻と米国発の13隻以外には、日本向けの代替調達とみられる原油タンカーは見当たらないという。
2026.04.28
国力増進の根本策 日本精製糖会社長鈴木藤三郎(第1集104-108ページ)(「実業世界太平洋」第3巻第9号 明治37年1月1日発行) 私たちがこのように生活する東京の大都会、百余万人の飲料水を玉川から引いた人はどのような人かと問うに、人これに答えることのできない者が多いであろう。もしその人がなければ、とうてい今日この盛大な大都会を見ることはできなかった。飲料水の創設者は、換言するならば東京大都会の創設者といっても過言ではないほどである。そうなのにその人を知らないのはどうしてであろうか。これは全く上に述べた四者、軍人、政治家、敵討ち、大盗賊の外であるためである。また私が以前伊豆に遊んだときに、佐野地方27村ばかりの田地に灌漑する水は、箱根の湖の口から多くの山腹をうがって、これを引いたものである。そしてその創設者を問うてみると水を引いた恩恵に浴している農民でさえも、よくその名を知る者はない。これは不思議な事ではないだろうか。
2026.04.28
「永平家訓抄話」澤木興道 4-7「沙曰く、ただ風火の未だ散ぜざるが為なり」 今の科学では元素が九十いくつあるそうだが、昔は地水火風の四大が元素だった。だから風火というのは、今の言葉からすれば九十いくつかの元素で、ミミズの体も、これらの元素が集まった有機体であるから、いろいろの様相を表わすのだと、長沙和尚は考えていたのである。つまりミミズの両方が動いているのも元素の集まっている有機体の活動である。これが分散してしまって、元素が自分自分になってしまったら、有機体の活動はなくなってもう動きはしない。つまり元素が互いに関係しあわないで、てんでバラバラになれば、それでミミズの生命も何もかもおしまいである。この長沙の和尚はなかなか科学的で話せるではないか。「書対え無し」と、もちろんのこ長沙和尚の気持ちが竺尚書にわかるはずがないから、唖然として開いた口がふさがらなかったものとみえる。そこで長沙が再び問いをなして「沙尚書と喚(よ)ぶ。書応諾す」ハイという。そこに一大問答が起こり、そこで次のような頌を作られるのである。 以上を受けて長沙景岑和尚「尚書と喚ぶ」これは官の名前。そこで、竺尚書「応諾す」ハイと答えた。沙曰く「是れ尚書の本命にあらずや」前のところでは仏性を問うておるから、やはりそれを続けて、お前の仏性というのは、いまハイと答えたが、それではないのかね、と聞かれるのである。こんなふうの問答は、古来の祖師の中にもしばしば行われたものとみえる。楠正成が湊川で戦死する前にも、正成と喚ぶ、正成応諾す、是れ何者ぞ、というなどそれである。ここでは長沙は探りを入れて、尚書がいったい何と思うておるかと、与奪自在の言葉をもって、「是れ尚書の本命にあらずや」と浴びせかけられたのである。 そこで「書云く、即今、秖對(したい)を離却して、第二箇の主人公有るべからず」今、尚書と呼ばれ、ハイという、秖對、つまり受け答えをした。その受け答えを抜きにした、第二箇の主人公はないというのである。それはきまったことであるが、しかし、それではまだ生きていない。そこで、「沙云く、尚書を喚びて、今上(にんじょう)と作すべからず」といわれるのである。(「永平家訓抄話」p.299-301)
2026.04.28
190二宮翁夜話残篇46【46】尊徳先生はおっしゃった。儒学者は皆「大学」の三綱領というけれども、至善に止まるの至善とはどのようなものか明らかではない。私はひそかにその実は二綱領であろうと愚考している。なぜかといえば明徳を明らかにするは道徳の究極である。民を新(あら)たにするのは、国家を経営する究極である。その上に「至善に止まる」というけれども、「明徳を明らかにす」と「民を新たにする」とのほかに至善とさす物はあるまいと思うからである。だから三綱領といっても実際には二綱領と心得てよい。二宮翁夜話【46】翁曰く、学者皆大学の三綱領(かうりやう)と云(い)ふといへども、至善(しぜん)に止(とどま)るの至善とは如何(いか)なるや、明(あきら)かならず。予はひそかに其(そ)の実(じつ)は二綱領(かうりやう)なるべしと愚考(ぐかう)せり。如何(いか)にとなれば明徳(めいとく)を明かにするは道徳(だうとく)の至極(しごく)なり、民(たみ)を新(あらた)にするは、国家経綸(こくかけいりん)の至極(しごく)なり。其(そ)の上に至善に止(とどま)るといへども明々徳と新民との外に至善とさす物(もの)はあるまじと思へばなり。仍(よ)って三綱領(かうりやう)と云(い)ふといへども其(そ)の実(じつ)二綱領(かうりやう)と心得て可(か)なり。
2026.04.28
ナウシカの「腐海」も再現 ジブリに浸れる展覧会、愛媛県美術館で日本テレビ系の映画番組「金曜ロードショー」の歩みをたどりながら、スタジオジブリ作品の魅力を紹介する展覧会が、松山市堀之内の愛媛県美術館で開かれている。2023年以降、東京や静岡など全国各地で開催され、約210万人が訪れた。四国ではこれが初開催だ。金曜ロードショーではこれまで200回以上、ジブリ作品を放送している。最初の作品は1986年の「風の谷のナウシカ」。 4月16日の「開展式・特別鑑賞会」で、スタジオジブリの西岡純一・広報・学芸担当フェローは「当初、他の民放からも風の谷のナウシカの放送依頼があったが、子供の見る時間として、夜7時を提示された。しかし、日本テレビだけは、映画として夜9時を提示。大切に扱ってくれた」と明かした。 展覧会では風の谷のナウシカから「アーヤと魔女」(2020年)まで、ほぼ全作品の絵コンテを展示。「アッシーくん」「同情するならカネをくれ」など時代ごとの流行語やニュースも紹介している。 「となりのトトロ」の「サツキとメイの家」や、松山市の道後温泉本館がモデルとなった「千と千尋の神隠し」の湯屋「油屋」の模型などもある。 また「魔女の宅急便」「もののけ姫」などの立体的な展示空間で、ポスターの中の主人公のように撮影できるコーナーも。展示の最後には「風の谷のナウシカ 王蟲(オーム)の世界」と題し、作品に登場する「腐海」が再現されている。金曜ロードショーとジブリ展【愛媛展】 7月5日まで。一般1900円、中学・高校生1600円、小学生1100円。土日祝などは日時指定の予約制。休館日など詳細はホームページ(https://kinro-ghibli.com/ehime/)へ。
2026.04.27
明智光秀の菩提寺・西教寺 客殿内部を期間限定で一般初公開戦国武将、明智光秀の菩提寺として知られる大津市坂本の西教寺で25日から、豊臣秀吉ゆかりの京都・伏見城から移築した重要文化財「客殿」の内部が初めて一般公開される。 桃山時代に建てられた客殿は書院造りで、同寺本堂の西側に位置する。1598(慶長3)年、秀吉の家臣だった大谷吉継の母らが寄進したとされる。現在は寺の特別な法事だけに使われ、一般参拝者は廊下からアクリル板越しに見るだけだった。 近年、動画配信サービス「ネットフリックス」のドラマ撮影で使われたことや、放送中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で改めて戦国時代への関心が高まっていることもあり、春と秋の観光シーズンに合わせた限定公開を決めた。 客殿内部のふすま絵は、狩野永徳を筆頭とする狩野派が描いたとされ、中国の古事や猿など、部屋ごとに画題が異なる。帝(みかど)を描いた障壁画を床の間に据えた「上座の間」に近づいて見られるのは、今回が初めて。天下人・秀吉にふさわしい空間を目指したことがうかがえる。 23日にあった報道向けの内覧会で、西教寺の前阪良樹主事は「貴重な文化財を将来につなぐため、広く価値を共有したい」と一般公開に踏み切った理由を説明した。 公開は25日~5月10日と11月7日~12月6日の午前9時~午後5時(受付は午後4時半終了)。拝観料は大人500円など。西教寺(077・578・0013)。
2026.04.27
AI、東大と京大「首席合格」 「チャッピー」最高得点4/27(月) 今年実施された東大と京大の入学試験問題を生成人工知能(AI)「チャットGPT」に解かせると、合格者の最高得点を上回り「首席合格」を果たしたことが27日、AIベンチャーのライフプロンプト(東京)の分析で分かった。最難関の東大理科3類の最高点より50点高かった。数学は満点。2024年の東大入試では全科類不合格だった。通称「チャッピー」はわずか2年でトップ合格を果たした。 米オープンAIの「チャットGPT―5.2シンキング」を使い、東大、京大の2次試験の前期日程を解かせた。問題を画像データにしてAIに入力した。解答は記述式を含むため、大手予備校の河合塾の講師に採点してもらった。大学入学共通テストもAIに解答させ合計した。 東大の結果は計550点満点のうち、AIは文系の文科1~3類が452点、理系の理科1~3類が503点を取った。東大が発表した合格最高点は、文系が文科3類の434点、理系が理科3類の453点。AIがともに最高点を上回った。 今年の数学の問題は難解だったがAIは満点を獲得。英語も9割得点した。一方で世界史などの論述問題は不得意で得点は2.5割だった。
2026.04.27
「明治・大正・昭和政界秘史-古風庵回顧録- 若槻礼次郎」講談社学術文庫155-41ページ 脱税を防ぐ その頃日糖(大日本製糖会社)疑獄事件が起こり、これがため私の友人で社長の酒匂常明が自殺し、政界に大きな波乱をまき起こした。大日本製糖会社というのは、日本で砂糖を精製するために一番初めに作られた大会社で、なかなか盛んにやっておった。社長の鈴木藤三郎は、そういう事業には極めて堪能な人であった。しかしその会社は、巧みに砂糖税を脱税しているという評判があったので、税務管理はしきりに目を光らしているけれども、なかなか見つからない。多分夜中にやるだろうというので、深川の先にあった会社の工場の周囲を、夜通し税務官吏が張り番した。それがどうもあんまりひどいというので、三井銀行の早川千吉郎君は、元大蔵省の役人でよく知っているので、それがやってきて、あれでは事業会社がまるで監獄のようであり、税務官吏に取り囲まれているというのは、なんとしてもみっともよくない。会社の方もよく注意させるから、監獄扱いだけは止めてほしいという。そしてあの会社には、渋沢翁(栄一)が深い関係があるから、渋沢から口をきいてもらって、脱税などさせないようにするという話であった。それでこちらもいろいろと研究して、歩留まり検査ということを始めた。それは要するに、原料糖を百斤使えば、これから精製された砂糖が何斤かは必ず出る。これが欠けたら脱税したに脱税したに相違ない。ここまで出せば脱税せんで真面目にやったものだという、歩留まりの率を97パーセントか98パーセントか、その割合で認めることにした。そうすれば原料は外国から、輸入したもので、これはすぐ調べがつく、あとは一々砂糖を検査しなくても、その90何パーセントが精糖ということで、簡単に税金が取れる。従って会社も監獄扱いをされないで、脱税問題は収まった。 これと前後して、どういう事情か知らんが、鈴木が社長を辞めた。渋沢翁の意見で後任は政府の信用のある人がいいということで、大蔵省へ行ってきた。私はそれには関係しなかったが、阪谷(芳郎)さんは渋沢の婿なので、いろいろ物色して、農商務省の農務局長をしていた酒匂を推薦したらしい。酒匂は永いこと農務局長をしており、北海道出の農学士で砂糖のことも詳しい。それに極めて真面目な人で、かつて西園寺公の満州旅行の際、私は彼といっしょの部屋に泊り、いっしょに酒を飲み、いっしょに冗談をいったりして、よく知ってる仲なので、私はいい社長が出来たことを喜んだ。前にいった歩留まり検査について後日談があるから、ここで一言しておこう。その後砂糖会社がいろいろ出来た。明治製糖会社もその一つである。そしてどの会社に対しても、大蔵省はこの歩留まりで税を取っていた。ところが今から十年ばかり前と思うが、明治製糖はこの90何パーセントかの歩留まり以上に砂糖を作り、それは明らかに脱税だということで、だれかが告発した。それを検事局が取りあげて、会社の重役を牢に入れた結局起訴されたかどうか覚えておらんが、長い間拘留された。私の方からいえば、大蔵省が行政上の便法として、歩留まりでいいとし、それが数十年も慣行されていたものを、突然脱税だといって、逮捕するなどということは、ずいぶん無理な話だと思った。 疑獄のあと始末 酒匂が日糖の社長になって間もなく、私は財政委員になってヨーロッパへ行った。その後会社はますます盛んで、大阪や門司の会社を買収合併して、全国の砂糖会社を一つにしてしまった。こうなると欲が出るものとみえて、これを官営にし、政府に買い上げてもらえば、大いに儲かるというので、重役たちは多数の議員に金を贈り、砂糖官営案を議会に出させる運動をした。一年あまりで私がロンドンから帰った。そのころ贈賄が暴露して、大疑獄事件となり、日糖の重役たちは検挙せられ、関係した議員も続々拘引された。もちろんこのことは酒匂の発意でないことは、今なお私は信じているが、正直な彼は責任を負って自決してしまった。 大風一過、さすがの大日本製糖も、こうなると会社の信用も墜(お)ち、経理の内情が暴露し、危険信号を出すようになった。合併した会社の買収金も、全部支払われていない。三井銀行や三菱銀行から大分金を借りているのが、期限が迫っている。どこの銀行も、会社が怪しいとなると、金を引き揚げようとする。これは商売の常道である。いよいよ会社は風前の灯火となった。職務怠慢を勧める そこで会社に関係の深い渋沢が乗りだし、藤山雷太に整理案を作らせた。藤山はこれまでこの会社に関係はなかったが、しきりに砂糖会社の状態の悪いことを攻撃していた。そしてその案によって、もちろん渋沢のお声がかりもあって、三井も三菱も、急に貸金を回収しようとすれば、会社は潰れる。会社が潰れれば大きな損をしなければならん。だから取立てを猶予して十分整理させ、会社を復興させようということにみな賛成した。 ところが会社は、百数十万円の税金を滞納している。これを大蔵省から取立てられた日には、会社は丸潰れであって、整理案もなにもあったものではない。どうしても大蔵省に嘆願して、税金の支払いを猶予してもらおうというので、渋沢から桂公に泣きついた。桂公がそのことを私にいって、渋沢がこういってきたが、なんとかならんかという。私は、それに対して「法律の規定では、税金を取らぬとか、猶予するとかいう規定はどこにもありません。だから法律上なにか方法があるかといわれるなら、それはどんなに研究しても方法はありません。しかしもし大蔵省が職務怠慢とか、職務曠廃というそしりを受け、非難を被ってもかまわん。大きな会社を救済するために、大蔵大臣が責任を負う覚悟があれば一つの方法があります。それは大蔵省が、滞納処分をすることをしないで、これを見送っておれば、事実上納税を猶予したことになります。その代わり、これが会計検査院や帝国議会に知れれば、非常な非難を受けます。それを覚悟の上なら、やれんことはありません」といったら、桂公は即座に「よろしい。おれが責任を取るから、やってくれ」ということで、話は一ぺんにきまった。 話はきまったが、私は会社の整理案なるものを一応見ておく必要があるので、そのことをいってやると、藤山が書類をもって説明に来た。私は藤山とは初対面であったが、彼は実にぺらぺらよくしゃべる。しかし彼の説明には筋道が通っていて、よく呑み込めたから、これなら整理もできんことはあるまいと、彼らの望み通り、滞納処分をしないことにした。そして結局会社の整理が出来た。だから大日本製糖の再生の恩人は、渋沢栄一翁はもちろんだが、三井の早川千吉郎、三菱の豊川良平の両君も非常に尽力したものである。しかしそれにしても桂公の庇護に頼ること大であったことを、会社側も感じていたのであろう。 その後藤山が亡くなり、東京会館で追悼式が開かれ、私にも案内状がきた。私はそういう席へ出るのが億劫なので、断りの返事を出した。ところが息子の愛一郎君がやってきて、あなたが出ないと、折角の追悼会が淋しいものになるから、ぜひ出て欲しいという。出席すると、追悼の言葉を述べてくれという。そこで私は、前に掲げたように、日糖救済の経過や藤山君の説明振りのよかったこと、それで大蔵省がみずからの責任を負う覚悟をした次第を述べた。愛一郎君らはそれで満足したのか、追悼演説は私だけで、外にだれも立たせなかった。それは多分日糖の関係者らが、深く当時のことを銘記しておったからであると、ひそかに感じた次第であった。(この稿終わり)★若槻礼次郎回顧録では、鈴木藤三郎については「どういう事情か知らんが、鈴木が社長を辞めた」とある。その後、渋沢栄一の意向で後任を「政府の信用のある人がいいだろう」と大蔵省に社長のあっせんを求めてきて、当時の農商務省農政局長の酒匂常明氏をあてた旨が記されている。 あるいは鈴木藤三郎が手塩にかけて大成してきた日本精製糖会社を追い出されるように退出させたシナリオを承認したのは、渋沢栄一かもしれないとも思われなくもない。 渋沢は藤三郎が社長退任後できた大日本製糖会社の相談役としておさまっており、その後の政・官の調整役を積極的に担っている。 渋沢は藤三郎が日本精製糖を株式会社にしようとしたとき「自分は学歴のない人間は信用しない」と株式会社化への協力を断り、あまつさえ大阪に精製糖会社を設立し対抗した。 そのこともあってか、藤三郎は「自分は3回人を信じそこなった。その一人が渋沢翁である」と述懐していたという。 渋沢は明治日本がつくりあげた政・官・財を調整する役割をになっており、いろんな場面でその能力を発揮するが、その影での活躍はあきらかにされてはいない。 若槻礼次郎回顧録はそうした渋沢の一面をうかがわせるものでもある。
2026.04.27
「永平家訓抄話」澤木興道 4-6 竺尚書は見解邪なるがゆえに、仏性が肉体の中に宿っておると思うたのである。ちょうど昔の狐つきというものは、狐が入ったように思っていたのだが、そんなものは入りはしない。あれは頭の蝶つがいがどうかなっただけのことである。仏性もこれと同様に、肉体の中に宿っているものではない。そこが竺尚書にはわかっていなかった。そこで彼には、みみずを二つに斬っても、両頭ともに動いている。そこで、仏性は阿那(なこ)箇頭(ことう)、いったいどこにあるのかという疑問がわいて来たわけである。彼には動いておるものじゃから、動くものを仏性と思えたのである。そのあたり、昔も今も考えのたいして違いのないことがこれでよくわかるであろう。そこで「沙曰く、妄想すること莫かれ」仏性の巻中には想妄なし、という言葉が使うてあるが、本来仏性は、妄想なしである。われわれはいつでも見込みを立てている。その見込みを立てるのが我見である。だから見込みをもった生活では、文句が絶えないのが当り前である。ところが、この我見はどうして起こるかというと、何の問題も文句もなく、ただ起きて来る、だいたいこの自分には、我見を起させる計画など、もとよりないのだからである。わたしは「妄想莫し」ということを、ぐずぐずいうなというが、これは、わたしの口癖だそうである。これはわたしの国の方言でもあろうが、「ぐずぐずいわん」「ぐずぐず思わん」「ぐずぐずせず」などという。ここには「妄想することなかれ」とある。つまり、「妄想なしにあれ」という意味である。みみずを二つに斬って両方が動いているのを見て、仏性がどちらにあるかということは妄想である。それは仏性というものを、どこか心の中に描いて見込んでおっての話である。そこで仏さんというものがいったいどんなものかということが、根本から問題になって来る。『般若経』の中に、「諸諸の相は相にあらず、すなわち如来を見奉るなり」とある。われわれが見ているものは、見たとおりのもの、すなわち諸諸の相が相でないなら、一切のものを見なおさんならん。すなわち従来の考え方を根元からひっくりかえさねばならない。そこで長沙和尚は「妄想するな」とわれわれが見た通りのものでないという立場からご親切にいわれたものであるが、かの竺尚書にはわかるはずはない。だから、どうしても動くものが仏性と思えてならないのである。それだから、「書曰く、動くを争奈せん」と問い返さないではおられなかったのである。動くというものはとかげのしっぽでも動くじゃないか。うなぎを開いて骨を抜いて、串に刺してあぶっても動くじゃないか。動くものを仏性と思うのはとんでもない間違いである。(「永平家訓抄話」p.298-299)
2026.04.27
190二宮翁夜話残篇45【45】尊徳先生はおっしゃった。世の中の人は、なにかと小事を嫌って大事を欲するけれども、本来、大は小の積ったものである。そうであれば小を積んで大をなすよりほかに方法はない。国中の田は広大であり無辺無数である。そうではあるがその田畑は皆一鍬ずつ耕し、一株ずつ植え、一株ずつ刈り取るものだ。その田の一反(たん)を耕す鍬の数は3万以上である。一反の稲の株の数は1万5千ほどであろう。皆一株ずつ植えて一株ずつ刈るのである。その田から実った米粒の一升の数は64,800余りである。この米を白米にするには、一臼の杵の数は、1,500ないし1,600以上である。その手数を思うがよい、小を勤めなくてはならないことを知るべきである。二宮翁夜話残篇【45】翁曰く、世(よ)の人とかく小事(せうじ)を厭(いと)ひて大事(だいじ)を欲(ほつ)すれども、本来大は小(せう)の積(つも)りたるなり。されば小(せう)を積(つ)んで大(だい)をなすの外(ほか)に術(じゆつ)はなきなり。夫(そ)れ国中の田(た)は広大無辺無数なり、然(しか)るに其(そ)の田地(でんぢ)は皆一鍬(くは)づつ耕し、一株(かぶ)づつ植ゑ、一株づつ刈り取るなり。其(そ)の田一反(たん)を耕す鍬の数三万以上なり。其(そ)の稲の株数は一万五千内外なるべし、皆一株づつ植ゑて一株づつ刈るなり。其(そ)の田より実法(みの)りたる米粒一升(しよう)の数は六万四千八百余あり。此(こ)の米を白米にするには、一臼(うす)の杵(きね)の数、千五六百以上なり。其(そ)の手数思はざるべけんや、小(せう)の勤めざる可(べ)からざる知るべきなり。
2026.04.27

大智禅師発願文大智禅師発願文(だいちぜんじほつがんもん)願わくは、我れ此の父母所生(ぶもしょしょう)の身を以て、三宝(さんぼう)の願海に回向し、一動一静(いちどういちじょう)、法式(ほっしき)に違(い)せず、今身より仏身に至るまで、その中間(ちゅうげん)に於て、生生世世出生入死、仏法を離れず、在在処処、広く衆生を渡して疲厭(ひえん)を生ぜず、或は剣樹刀山(けんじゅとうざん)の上、或はかく湯炉炭(かくとうろたん)のうち、唯これ正法眼蔵を以て重坦(じゅうたん)と為して、随処に主宰とならん、伏して願わくは、三宝証明(しょうみょう)、仏祖護念。【現代語訳】 角田泰隆老師願うところは、私は、この父母から受けたところの身体を、大いなる仏法の世界に投げ入れて、日常生活のあらゆるものごとを、仏の教えに従って生き、今生の私から、遙か未来に仏として身を受けるまで、その道のりにおいて生まれ変わり死に変わりする中で、仏の教えから離れることなく、それぞれの生涯に於いて、広い心をもって生きとし生けるものを進んで助け、たとえかりに地獄に堕ちて、剣の樹や刀の山の上の苦しみにあっても、どこにあっても、正法眼蔵を自ら拠り所とし、他に説き明かすことを願いとして、いたるところで主体的に生きたい。どうか、三宝よ、我れに明かりを与えたまえ。仏祖よ、我れを護りたまえ。大智(だいち)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。肥後国の出身。大智祖継(だいちそけい)とも。一般には大智禅師と呼ばれる。肥後国宇土郡長崎(現・熊本県宇城市不知火町)生まれ。幼名は萬仲。7歳の時大慈寺の寒巌義尹に師事し、義尹の没後は鎌倉建長寺・京都法観寺・加賀大乗寺などを訪れている。正和3年(1314年)、中国(元)に渡り、古林清茂、雲外雲岫(うんがいうんしゅう)らに学び、正中元年(1324年)に日本に帰国した後は、瑩山紹瑾の指示により明峰素哲のもとで参禅した。その後加賀国に祇陀寺を開創し、さらに肥後国に聖護寺を開創、また肥後菊池氏の帰依を受けて廣福寺を創建し、菊地氏一族に大きな精神的影響を与えた。正平8年/文和2年(1353年)には有馬澄世の招きにより肥前国加津佐(現長崎県南島原市加津佐町)に赴き、水月山円通寺を創建。正平21年/貞治5年12月10日(1367年1月10日)、同地で没した。〇大智という法名に関して、以下のような伝説が伝わっている。 齢七つの萬仲は、肥後大慈寺の寒巌義尹に弟子に入ることとなった。相見の時に寒巌が年齢を問うた「名前はなんと申す」「萬仲と申します」「幾つになる」「齢七つになります」そこで寒巌は手元の饅頭を勧めた。饅頭を食す姿を見て寒巌は問うた。「萬仲が饅頭を食べるとは、いかなる心地か」すると萬仲は澄まして答える。「大蛇が小蛇を食らうようなものです」その答えに甚く感心した寒巌は、川(大慈寺の傍を流れる緑川)を指差して言った。「この川は川舟の往来が激しく騒がしい、この場で舟の往来をとめて見せよ」萬仲座を立ち川を望む側の障子を閉て座に戻ると言った。「これで舟はとまりました」「ならば、その場を動かずにとめて見せよ」萬仲は黙って目を閉じた。七歳の智慧に甚く感心した寒巌は「なかなか知恵の回る小僧だ、出家したら小智と名乗るがよかろう」「いやでございます」「何故じゃ」「小智は菩提の障りとなります」寒巌は笑い、大智と名付けたという。〇大智禅師の偈頌は、古来より非常に優れていると評されており、一部の学者は五山文学に数えてもおかしくない、或いは五山文学の白眉であるという言い方もされている。その大智禅師の偈頌を侍者などが収録して刊行されたのが『大智禅師偈頌』であり、1首のみ五言絶句で、他は全て七言絶句である。流暢華麗の文字をもって宗旨が諷誦され、古来より宗乗の一部として、或いは詩偈の指南書として重用されている。なお、全ての偈頌には題が付され、以下の通りである。1 仏誕生2-4 仏成道〈三首〉5 仏涅槃6 出山相7 達磨8 魚籃9 雁山諾睺羅尊者10 布袋和尚11 栽松道者12 不落不昧話13 百丈野狐話14 応真不惜15 即心即仏16 非心非仏17 拈花話18 聖諦不為19-20 無情説法〈二首〉21 趙州狗子話22 雲岩弄師子話23 玄路24 鳥道25 展手26 不依倚一物27 即心即仏28 奪人不奪境29 透法身句30 随所自在31 金書華厳32 読法華33 覧永平和尚之坐禅箴34 看真歇和尚語35 跋真歇和尚拈古36 覧投子語37 賀永平正法眼蔵到来38 宿龍翅真歇堂39 謝太元天子詔許還本国40 游天冠山華厳境41 破船時呈高麗王42 呈双渓大師43 高麗游白蓮社44 松吟菴45 瀑泉46 大徹堂47 眺望院48 等接軒49 台嶋50 鷲尾看花51-52 笠津遠望〈二首〉53 雪後上比良山54-55 水月菴〈二首〉56-57 蘆月菴〈二首〉58 富士山59 賀覚菴和尚浄土寺建方丈60 笠津和韻61 無漏接待〈五言〉62-64 宿南谷菴有感〈三首〉65 辞源長老66-68 上瑩山和尚〈三首〉69 寄広首座70 喜僧自太元至71-73 寄等持古先和尚〈三首〉74 上源元師75 寄道人76 会道友77 寄弘宗菴主78 上東明和尚79-80 寄人〈二首〉81 祖庭82 月堂83 太虚84 玉礀85 月江86 曲江87 月堂88 心月89 雲山90 果山91 竹菴92 桂岩93 心田94 桂堂95 坦翁96 南叟97 同菴98 石室99 古灯100 枯木101 大虚102 無覓103 玉泉104 覚天105 無禅106 黙山107-108 松岩〈二首〉109 悟菴110 黙翁111-112 照菴〈二首〉113 宝山114 銕関115 黙山116 玉峰117 隠山118 虚菴119 絶同120 銕山121 画橋122-123 無方〈二首〉124 円観125 照菴126 雪中懐古127-131 雪中示寂山〈五首〉132 示講主帰禅133 因月憶馬祖134-137 坐中有感〈四首〉138-139 示人〈二首〉140-147 鳳山山居〈八首〉148-150 因事〈三首〉151 答洞上宗要152 鎮西道中有感153-154 偶作〈二首〉155 山中偶作156-157 示僧〈二首〉158 山居159 偶作160 示人161 城中偶作162-163 偶作〈二首〉164-165 示僧〈二首〉166 示明照大師167 聴竹168 送僧礼石橋169 送僧之太元170-171 送僧之京〈二首〉172 送体長老赴天皇請173 送同参174-176 送僧之大元〈三首〉177 送源上人178-179 送僧〈二首〉180 送僧見洞峰181 送行182-183 送僧遊大元〈二首〉184-185 送僧之関東〈二首〉186 僧見洞谷和尚187 送僧之万寿188 送瞿維那省本師189-196 悼洞谷和尚〈八首〉197 為洞谷和尚起塔198 礼育王塔199 礼足菴和尚塔200 悼戴家女児201-202 礼永平塔〈二首〉203 礼天衣塔204 礼永興開山塔205 悼雪庭和尚206 歳晩207 中秋有感208 半夏示僧209 立春210-211 元旦〈二首〉212-214 開炉〈三首〉215 雪216-217 藕花〈二首〉218 筍219 栽松220-221 竹箆〈二首〉222 蒲団223-224 袈裟〈二首〉225 鉢盂226 香合227 牛228-229 化灯〈二首〉
2026.04.26
【速報】アメリカ産の原油が日本到着 ホルムズ海峡“封鎖”で代替調達4/26(日) イラン情勢により中東からの原油の輸送が困難となっているなか、代わりの調達先として、アメリカ産の原油を積んだタンカーが日本に到着しました。 このタンカーは、アメリカ産の原油およそ91万バレルを積んでいます。先月22日にテキサス州を出発しました。 中東情勢が悪化した後、ホルムズ海峡を通らない、代わりの調達ルートとしてアメリカ産の原油が日本に届くのは初めてです。 原油は、海底のパイプラインを通じて、コスモ石油の製油所に送られる予定です。 コスモ石油は今回、大型のタンカーよりやや小さい、パナマ運河を通過できる大きさのタンカーを使って原油を調達しました。 輸送にかかる期間はおよそ35日で、アフリカ南端の喜望峰を回るルートに比べ、20日程度の短縮になるということです。
2026.04.26
「文政十二年二月の尊徳」(「尊徳の裾野」p.269)文政十二年(一八二九)二月は、尊徳の行方不明の時期である。この時期の尊徳の行動の一部を明記した資料が、小田原の報徳神社の宝物中から発見された。文政十二年二月吉日付けで、母の実家の当主、川久保太兵衛にあてたもので、表紙に「五常講」、裏表紙に「川窪太兵衛」と記された通い帳式の簿冊(ぼさつ)に、五ページにわたり書き込まれている。(略)「このたび、相州足柄下郡曽我別所村の私の母方の在所へ、祖父母の仏参に来てみたところ、大変困窮して昔の形を失い、まことに嘆かわしい姿になっている。そこでつらつら考えたのは、いま私はかたじけなくもご城主の命により、下野国芳賀(はが)郡東沼村・横田村・物井村、高四一四六石余、宇津汎之助(うつ・はんのすけ)様知行所の復興にあたっている。享保年中から追々困窮して、文政四年には収納が米千五俵余、畑方金百二十七両余と、わずか千石相当にしかならず、ご勤仕もできない有様となったので、ご本家でも捨てておかれず、村柄(むらがら)取直し・収納復古・百姓相続の仕法を私に仰せ付けられた。そこで文政五年から赴任したところ、天なるかな時なるかな、人民に勤労意欲が出、田畑開発はあらましでき、風俗も立ち直り、年貢米が千九百俵余、畑方はまだ集計しないが、存外の成就をみた。このように功あるこの身は、すなわち父母の賜物であって、全くわが身ではなく父母の陰徳による。その父母はどうかといえば、祖父母の陰徳があったからだ。その本が乱れて末の治まるものがないように人生孝行より大事なものはないが、では、何をしたら孝行になるのか?このように退転同様になってしまっては、たとえ追善供養をしたところで、いったんの志で仏意を保てるわけがない。このように信ずるとき、ふと天の命がわが心中に浮かんだ。それは他でもない。桜町の仕法のように家々で子孫が繁盛しているのは、みんなが親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養なのだ。この身は天から先祖に分身して、また先祖から代々父母に分身して、父母から我へと分身した。それゆえ、天理にかなうことをしさえすれば、直ちに孝行なのだ。しかるに川久保家では、代々のうち奢りが長じ、分を越えて暮らして他人の財宝をむさぼり、天の悪(にく)みを受けて、田畑山林家株を天道に取り戻されたのだ。不思議と子孫男女が息災だが、いのちがあって田畑・山林・家株・財宝・衣食を天から受け得たいと願うならば、身を縮め、一切七分で暮らし、堅く分限を守り、天下に陰徳を積んで、国家に財宝を施し、人民のために勤めて後、天の恵みを受けるしかない。さて、天下の財宝は天下万民の勤行によって生ずる。万民の勤行は衣食があってできる。ところが昨年文政十一年は、天明の飢饉のような国土一円の凶作で、農民ははなはだ難渋している。そこで、仏の菩提のため、元金は私が出すから、里から米を買い入れて山家へ運び、山家から麦を買い入れて里へ運び、それも一銭も利を取らずに買入れ値段で売買して、米麦を流通させ、近村隣家の助けになろうと心がけるがよい、神儒仏の心は一つ。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
2026.04.26
「大日本報徳」1940年6月号21ページ『先駆者の一生』 鈴木藤三郎翁伝の出版に就(つい)て 佐々井信太郎 静岡県の産んだ偉人鈴木藤三郎翁の偉名は広く知られている。しかし時移り世を隔てるにしたがって、その事蹟は漠然としてくる。砂糖精製の事業成功者の翁というだけが語り継がれていくのみとなる。報徳同人中には報徳全書一万巻の謄本を作って、今市の二宮神社に寄付した篤志の人として周知せられているが、その発明的天才、事業家としての翁は詳らかに語られていない。誠に遺憾のことであった。 客年11月、「黎明日本の一開拓者」と称する一書が私の許(もと)へ寄付せられた。それを聞いて頃日渇望していた鈴木翁の伝たることを知った。著者は翁の三男五郎氏の筆に成るものであった。しかしそれは非売品であった。 一読熱烈なる追孝心に成る好著である知った私は、世の青年に広く読ます方法もがなと念じていた。 然るに今年6月の新聞紙に「先駆者の一生」と題して鈴木翁伝の平凡社より出版せられたのを知った。しかしてこれは「黎明日本の一開拓者」といかなる関係があるかと思っていた。数日を経て著者鈴木五郎氏が私を訪問せられ、さきの著を刪修したとて、一書を寄せられた。しかして広く世に広める便宜を平凡社が引き受けたことを知り、大慶措くところを知らなかった。 その特許総数159件という発明者の一生は、実に黎明日本の文化を開拓しまた工業発明の世界への先駆者である。この書によって翁の面目は全く文字通り躍如たらしめることに充分成功している。特に私は五郎氏がこの発明家たる父翁を熱愛し、翁の一生に対して注ぐ子たるものの追慕と醇孝の精神が400頁の全巻を通して表現していることを悦ばしく思った。これによって埋もれたりし翁の一生が明瞭なるのみでなく、後進が発明し工夫し事業を起さんとする好指針となるものである。私はこれによって事業家としての要件が不屈不撓にあることを知る有力な資料を得たのみでなく、報徳の教えに準拠するものは成功し、これに逆らうものは苦しむことをも知り得た。経世に志のある有為の青年に一読をすすめるものである。
2026.04.26
25「児玉源太郎」宿利重一著 365~370ページ(一部漢語、言い回しなどを改めた) 糖業エピソード 児玉源太郎は、総督として臨む場合には、支那式に輿に乗り、いわゆるお祭り騒ぎ的に悠々然たる大人たると共に、閑な時には、ハンチング(鳥打帽)の軽装で老書生を彷彿(ほうふつ)させるような態度でひょうひょうとして散歩する「旦那」さんでもあった。それ故に大綱をすべて小節にとらわれず、台湾における財政、経済、産業、交通の諸問題は凝滞なしにこれを解決し得た。人の和が無くて終に結実はありえないのである。そのよい実例は糖業史に発見できる。台湾の産業中の王座を占めるのは糖業であるが、この新領土から砂糖を得ることは、台湾のために有利なだけではなく、年々-明治29年には砂糖及び菓子類の輸入額1,387万余円-これが輸入をしている内地も益するところ大である。ここにおいて糖業は早くから研究されていたが、依然として古いやり方を脱せず、土着人のなすがままに放任し、そうでなくても規模も小さいもので、それを助長するという程度を出なかったが、明治31年の冬、判任の山田煕(ひろし)という嘱託が殖産課に就任し、この人の糖業に関する献策を後藤長官が断乎採ると同時に、原案の3千万円の製糖会社を6分の1程度のものとし、速やかに実行すべく、趣意書を児玉総督に提出したが、児玉総督の炯眼はこれを見過ごさず、ただちに着手と決したのである。 「・・・50万円案は長官(後藤)より児玉総督の前に進達せられました。するとその日の午後4時頃、総督官邸より私(山田)にスグ来いとの御用、私は直ちに参向しました。名刺を通ずればスグこちらへとの案内、初めて総督に面会。総督曰く、君が山田か(略)この案は君、誰から貰うて来たのか、誰から教えられたものか、その出所をつつまず知らしてくれ。これはどこの誰の案であるか?と意外のご質問。私にはその意味が分らぬ。何と答ふべきやボンヤリ立ったまま、その答ふる所を知らず。ただ不思議と総督のお顔を見守りしのみ。然るところ総督はやさしき言葉にて、マアいすに腰をかけよ、実にこの案は近頃稀に見る名案である。この案の出所さへ分かれば、その提案名義人の君の名誉に決して傷は付かぬのであるから、つつまず話してくれと。煕曰く、私は他人の論文をわが者顔に閣下の御前に出すような卑劣者ではございませぬ。これは全く山田煕の案に相違ござりませぬ。と口では当然の答えを為した積りでも憤慨に堪へぬ小人の私ゆえ、多少顔にも現はれたに違ひなかったと、今なほ恥ぢておりますけども、その時は既に捨身の構へですから、総督といえども少しも遠慮すべからずの覚悟。然るに総督は微笑しながら平然として曰く、いくらお前が考案だと主張しても、他人のものであるといふ証拠が歴然として見えているではナイカ、仰せられる。総督の言葉いよいよ出でていよいよ奇なり。然れども、われに正直の城壁のあるあり。曰く、証拠とはそもそもいかなるものにござりますかと。総督曰く、証拠とはこの趣意書は世界的にできておる。然るに設計書は一糖廓の少しく大なるものに過ぎぬ。だから設計書がお前のものなら、趣意を誰が書いたか、もし趣意をお前のものとせば、設計書はそれは誰の設計か、他人のものに違ひナイではナイかと、私はその眼光鉄壁を透するの明に驚き、かつ喜び、真に我を忘れまして手を打ってエラいと申し上げました。すると総督はそれ見ろ、白状せよ、誰か。私は傾蓋旧知の如しといふものは、真にかくの如きをいふかと嬉しく思ひました。3千万円の設計書の0を3個消せ。百分の一にせよと長官の仰せをいろいろと嘆願して、50万円にまでこぎつけましたのです。実に閣下の御大観の明には恐れ入りました、と喜ぶと閣下も非常にお喜び下さいまして、ウンソーカこれは全く君の案であったのかネー。後藤を呼べと電話をかけさせられ、長官が見えますと、これは山田の3千万円の方が善いぞ、総督は3千万円に賛成する。この方針でヤロウとの事で、後藤長官は一議なく3千万円に、ソウかも知れませんネーと賛成せられました。こういうことも(「山田煕君談話」31~2ページ)もあり、総督府の補助、誘引となったので、元老の井上馨、三井の益田孝、糖商鈴木-藤三郎-の賛成、出資となり、明治33年12月、資本金100万円(半額払込済)の台湾製糖株式会社の創立を見た。これが台湾における製糖会社の最初であるといえば、資本金一百万円の少額なるものをひそかに嗤笑(ししょう:嘲り笑う)するものもあるであろうが、当時の我が帝国で百万円の資本を擁する会社は十指を屈する程度に過ぎなかった事実にかんがえるならば、台湾製糖の成立決して容易なるものでなかったことが想われる。しかし機運は動き、躍進に次ぐに躍進をもってし、台湾の製糖業は驚異の国際的の地位を誇っている。これも炯眼(けいがん)の人・児玉ありしがためでなければならぬ。 糖ハ是レ本島物産ノ大宗ナリ。其ノ産出額嘗(かつ)テ一億斤ノ上ニ出ヅ、然ルニ輓近(ばんきん:最近)漸ク衰運ニ陥リ、所産年一年ヨリモ減ジ、殆ンド回復ノ期ナカラントス。顧(おも)フニ斯業(しぎょう)ノ盛衰其ノ繋ル所甚ダ大ナリ。須臾(しゅゆ:短い時間)モ忽諸(こっしょ:軽んじること)ニ付スベカラズ。是レ殖産改良の業之ヲ以テ首位ニ置ク所以(ゆえん)ナリ。其ノ方法ニ至ツテハ、茲(ここ)ニ縷述(るじゅつ)スルニ遑(いとま)アラズト雖モ、要ハ広ク良種ヲ海外ニ取リ、之ヲ本島ニ移植シ、且ツ民ニ教フルニ栽培ノ法ヲ以テシ、又新式機械ノ利用ニ依リ、在来ノ製造法ヲ改メ、以テ其ノ品位ヲ高メ、生産費ヲ節シ、数年ノ後、今ノ産スルニ倍?(ばいし:「?」は5倍の意、数倍に増すこと)セシメンコトヲ期ス。今ヤ新ニ砂糖消費税ノ施行セラルゝアリ。当業者ハ一時負担ノ重キヲ喞(かこ)ツ者アルベシト雖モ、一方ニ於テ著々改良ノ実ヲ挙グレバ、生産費ノ減少ト糖価の上高トニ獲ル所ノ利益ハ、優ニ之ヲ償フテ余リアルベシ。」 この画期的の所説は、明治34年11月5日、児玉総督の試みた殖産興業に関する訓示の中の糖業の振興策の要諦であるが、この時代の台湾総督府には、農学博士新渡戸稲造が殖産事務嘱託として在り、その熱意を傾けて起草、提出した「糖業改良意見書」の具象化せんとする初期であった。」「正伝 後藤新平3 台湾時代1898~1906」(鶴見裕輔著)341ページより(読んでわかりやすくするため、本文の「濫觴」を「始まり」へ、「甘蔗園」を「サトウキビ畑」など訂正した)砂糖政策 台湾における砂糖の始まりは、遠く隋朝時代に遡る。当時中国人によって移植された農作物のうち、サトウキビこそは最初のものであったと伝えられる。その後オランダ統治時代においては、すでに台湾物産の重なものの一つに数えられ、サトウキビ畑は田の約3分の1を占めていたといわれる。鄭成功が台湾を支配するや、自ら努め励む方策を立てて、福建地方よりサトウキビの苗を輸入して、糖業を奨励し、台南地方の平原多くはサトウキビの耕作のために開拓されて、その後50年間に、台湾砂糖の産額は約3倍に上った。しかし、清朝時代に入ると、政府は全く保護を加えることなく、ひたすら厳しく税金をとることに努めたために、治世250年、ほとんど何らの進歩を見ないで終わった。加えるに中国資本家は、耕作者あるいは製糖者に資本を前貸しする術策によって、金利と糖業の利と、二重の利益を一人占めして、生産者を苦しめたために、台湾が数百年の間に砂糖より得た利益は、少しも糖業の改良に費やされることがなかった。その製糖の方法やサトウキビ耕作法が、数百年前に異ならず、幼稚で原始的なものにとどまったのは、このためである。後藤新平が、民政局長として、新領土に赴任した当時の台湾糖業は、上田恭輔の回顧したように、初めて台湾に赴任した頃の、「在来種の甘蔗は、釣り竿よりも細く、ヒョロヒョロとした実に貧弱なもので、大きな石臼の上で水牛が漫々緩々とこれを圧砕し、薄汚い蜜汁のトロリトロリと滴(したた)る中には水牛の小便も混じり、これが精製されたところで一塊の黒砂糖たるに過ぎず、況(いわん)やこの産額にいたっては論外に僅少であった。という状態であった。しかも台湾の糖業が、このような幼稚な産業制度にもかかわらず、なおよく5千斤ないし1億斤を生産し、輸出もまたこれに準じて少なくなかったことは、台湾島が砂糖産地として、いかに天恵無限であるかを示すものであった。この原始的な糖業を近代化して、この埋もれた財宝を採掘増減するには、2つの大方策が必要であった。 一つは農業的に、蔗種と耕作法とを改良することであり、他は工業的に、従来の糖ロウと称する原始的生産法を廃して、大工業制度に移すことであった。 しかして第一の農業的改革の重任を授けられたのは、アメリカ帰りの若い農学者、新渡戸稲造であった。後に台湾糖業の基礎となる「糖業改良意見書」を提出するにいたるまでの経緯について、新渡戸自身の回顧談を引用すれば、次のとおりである。 着任後2か月も立たないうちにすぐにジャワに製糖事業を見に行きました。私は殖産局長というので台湾の財政の独立を計画するについて、台湾にどういう産物が最も適しているかにということについて意見を書いてくれというわけでありました。私は砂糖だナと思って、それじゃとにかくジャワに行って砂糖を研究しましょうと申しますと、すぐに行ってくれということになった。それから帰って全島をわずか3週間ばかり歩きました。汽車もろくにない時分でありました。そうして台北に帰って来る、「君、すぐに意見書を出してくれ」と後藤さんが言われる。「わずか3週間見たくらいでありますから、意見書はもっと調べた上で差し出します」「イヤ調べなくても良いからすぐに出してくれ」「それは困りますナ」私は今こそこんな変な者になってしまいましたけれども、その頃はまだ自ら学者をもって任じておったから、学徒としてさような軽率な意見書は出せないと思ったので、「よく調べていろいろ参考書も見てから意見書を書きます」と申しますと「イヤそんな事は要らない。台湾のことのよく分からないうちに書いてくれ。君が台湾の実態を知ると、眼が痩せて思い切った改良策が出なくなる。ジャワを見た眼の高い所で書いてくれ。行われない事でも何でも良いから、高い所を見た眼で書いてくれ」と言われました。その時に児玉さんも後藤さんもそういう風なやりかたであるから、思い切った事が成るのだと深く感じました。ところが実際にうとい学説や理想論などを言って頭からはねつけられると思っておりましたが、幸いにも私の意見が容れられました。 さらにこの『糖業改良意見書』に対する児玉総督の態度について、新渡戸は、自著『偉人群像』(333~336頁)のなかに、次のように語っている。 わが輩殊に児玉将軍に接して、彼の心の動きに感服したことは、右に述べた産業意見の内に、糖業に関する意見書を総督に出したが、総督自ら読むに先だちて、関係官衙(かんが)の者共が考究して、終りに総督の手元に達した。スルト総督はこの意見書を読み終って、わが輩を呼び出したので、我輩総督官邸に行くと、児玉総督は軍服を着て、唯(ただ)一人机の側に坐っていた。その机の上には、我輩の意見書が一冊横たわっていた。我輩を見るや、児「君、僕はこの糖業意見書を見た。しかも二度繰返して見た。一体わが輩は書類を二度も繰返すことはしない男だが、台湾財政独立の基を築く根底論であるから念を入れて見たが、そこで聴きたいことがある。君これで行けるのか。」新「はい、行けると思えばこそ書いたのであります。」児「本当にこれで行けるかね。」新「はい、技術上、学術上から推せば、必ず行けると思います。しかし、この意見書通り、実行するかせぬかによるのであって、この中に殊に閣下に読んでいただきたいと思うところが、一ページ御座いますがお気につきましたか。」というと暫く首を傾けていたが、児「それはフレデリック大王のことではないか。」新「全くそうであります。フレデリック大王がプロシャの農政改革実行の為めに、時には警察権を用い、時には憲兵の力をかりたりして、なかなか手きびしくやりました。しかるにここに糖業を基礎として台湾財政独立を計るには、フレデリック以上の決心を要するものと思います。なかなかこの保守的の農民を相手に改良種を植え付けたり、進んで機械を用いることは容易でなかろうと存じます故に、仮に閣下が私にこれをやれと仰せられたところで、一兵卒のない技術官には何も出来ません。とに角この意見書でやるかやらないかという問題は、全く総督の決心一つによることであります。」と述べたところ、総督は椅子から立ち上がって、部屋の中を5,6度も歩き出した。わが輩は彼の返事がイエスかノーか、彼の態度様子について注目していた。暫くあって彼は再び椅子に戻って来て、手を振ってニッコリ笑いながら、「君、やろう。」この一言が即ちかの台湾糖業の今日の大発展の出発点となったのである。児玉将軍の「行(や)ろう」という一言は真に力強いものであった。何ゆえなれば彼は思想の人より実行の人である。彼の履歴を見ても、実行、敢行、断行の生涯が一貫されている。
2026.04.26

25「砂糖の一生」上巻78~80ページに1970年に筧氏が発表された「恩讐の彼方、マックラリー少佐一行」というエッセイがあり、それによると昭和20年終戦の年の秋、アメリカ軍の将校がTS(台湾製糖株式会社)本社を訪問してきた。マックラリー少佐ほか少人数で、筧氏は工場技師とともに砂糖工場、酒精工場を案内させ、研究所の応接室で応接した。少佐らは「実に見事に爆撃したものだ。われわれの爆破作業のなかでこれほど理想的に計画どおり完全に行われたものはない。今までの調査のなかでナンバーワンだな」とささやきあったという。「昭和20年6月30日、本社と両工場の爆撃を敢行した編隊長以下の一行であった」とある。すなわち少なくとも屏東の本社はこの爆撃でほぼ完全に破壊されたことがうかがわれる。「砂糖の一生」82~84ページ 台糖(新TS)の陣痛を語る第二次大戦の終結の年の翌年〔1946〕四月現地責任代表者筧氏は台湾から広島大竹港から東京まで満員電車で直行した。中国人の接収委員長から「上京用務済み次第必ず帰台する条件付き」で中国側の許可を受け高雄港から出航した。上京の目的は 1 引揚げ社員の日本での就職 2 TSの糖業復帰だった。しかし製糖、精製糖いずれも不許可で、倉庫営業所を神戸の旧砂糖倉庫において認められただけで、薪や炭の倉庫業から事業を始めた。日本(台湾)糖業、最後の三日間 1900年、台湾製糖株式会社創立とともに産声をあげた、台湾糖業は100万トン自給自産の目標を達成した。しかし第二次大戦によって無残にも玉音放送で最後の三日間を壊滅した。最後の台湾総督兼軍司令官安藤将軍は、アメリカ軍の台湾上陸を阻止し、台湾島および祖国本土を固守する方策として最後の作戦を立案しその実行を決意した。それは台湾製糖を活用すること、すなわち工業力を利用し軍事用燃料を提供、農業、工場、鉄道輸送力の強化、高砂族の山岳戦などである。そのため台湾に残存した、台湾製糖、明治、大日本、塩水港を一社に統合する案を立てた。筧社長は強硬に反対し、4社存続のままで軍の要求にこたえると主張し、その結果4社の機動的輸送力を活用し、軍民官が結集した「台湾糖業運営会」を組織することになった。会長は総督、総務長官の判定で筧氏に決定した。その通達があったのが終戦の日8月15日のわずか3日前だった。昭和20年8月15日正午、古亭庄の旧台北大学跡の総督公室に呼ばれた。糖業連合会支部長、4製糖会社代表、総督府殖産局長、軍首脳が一緒だった。そこで「玉音放送」を聴いて、その一瞬、台湾糖業連合会は勿論、万事壊滅に帰した。別室において蒋介石政府に対する4社の接収引継の協議に変わってしまった。安藤総督は一人自害し、筧氏も戦犯としての処刑を覚悟したが、蒋介石の好意により南京裁判は免れた。 「砂糖の一生」下巻87~88忘れられぬ〔1945年〕6月30日 目標の重大性によって敵の爆撃は大規模であり慎重である。台湾の都市で見れば台北、工場で見ればわが阿?工場がまさにその例だ。6月30日、わが本社事務所、砂糖、酒精両工場の爆撃は今までの他の工場と全く構想を異にする。その日8時半よりP38が2機何回となくわが社の上空を旋回し、またB24、B23が先駆となって爆弾を投下し、再び戦果を確認するため旋回を繰り返した。10時20分B24が4機5機5機の三回、B29の2機の第4回で各隊ただ1回の集中全弾投下を行って南方に退去した。20キロないし500キロの爆弾だけ約500~600発を東は阿?事務所、用度倉庫の線、西は万丹道路、南は瑞竹鉄道事務所、北は一条通りこの長方形面積約4万坪の地域に投下した。この日の被害は甚大で、本社、阿?両事務所は全壊、第一、第二両工場大破大焼、再興すこぶる困難。死者12名、負傷者約20名。死者は1名を除き他はみな防空壕内であった。「砂糖の一生」下巻317~320ページ引揚船、団長の苦悩終戦の翌年〔1946〕(3月末)高雄港から、アメリカ軍用船に割り当てられた約千人の一員として乗り込んで、日本へ引き揚げた。上陸地は広島県大竹港だった。乗組員の編成は、高雄州の旗尾街、 東市中の人々と、台湾製糖社宅在住の三部隊混成だった。筧氏は団長となった。高雄埠頭倉庫のコンクルートの床にゴロ寝して出航を待った。船倉では畳一枚くらいの広さの鉄板に男女7人を割り当てられ、3日間雑魚寝した。船中では、お産あり、病死あり、筧氏は団長として船中死亡者の水葬に立ち会った。大竹港に上陸手続きをすませて、立錐の余地のない列車で立ちん棒で東京に向かった。 319ページ6行目TS社台湾所在全財産を蒋介石政権の接収委員に情冊として引渡しを完了した。国民政府の指定するメンバーのみを残留(事実上約1年内外)そ引き揚げた。 後記で筧氏は「台湾在住35年、TS幹部・役員在勤30年だったので、蒋介石政権派遣の接収委員から私有財産に期待をかけられた・・・ところが社宅、会社の帳簿、銀行等調査しても皆無に等しく、接収情冊には家具の一部(タンス等はアメリカ軍により爆破)のみ。接収委員は筧氏の初期引揚船乗込を許可せず、「こんなはずはない。どこかに隠匿しているに違いない」と各方面を調査した。その間、台北の国民政府本部と話し合い、一応帰国の上、社用を果たし直ちに再度台湾に帰る誓約を交わし引揚げが許された。日本帰国後、再度台湾に帰るに及ばずとTS接収委員から通報があった。(写真は2011年6月10日台湾訪問の際に撮った橋頭の製糖工場跡内部の製糖用機械類)「土と人と砂糖の一生」下巻53~140ページ百日百言抜粋 第2日 わが社の職場における重傷死に対し特別弔慰金として二千円を贈呈した。(1944年11月23日) 第4日 昭和19年12月10日、台湾製糖株式会社創立45周年記念日に当り、私(筧氏)は今更のごとく改めて我が社に敬愛の意を表するのである。 我が社は領台当時、国策上より誕生し宮内省の御持株をうけ、質実剛健、積極運営、自作農、家族主義、派閥皆無、内台協調、道義立脚、歴史尊重等の社是社風・・・ 日本糖業発祥の地、橋子頭、瑞竹の里屏東に因縁を深め、・・・私の公私の一生を幸福な感謝の信仰生活に終始せしめるものである。(1944年12月10日) 従業員各位に望む(第15日) 決戦下のわが社経営要綱については戦局が苛烈緊迫するに従い一層全力を傾倒せざるべからず。・・・ 然るに最近敵機の来襲投弾等頻発し、かつ盲爆を重ぬるに至りては、・・・ 客年より工場に農場に鉄道に諸建物にあるいは製品資材に連日大小の被害を続出するのみならず、尊き人命犠牲を生むに及んでは、・・・ 曽文渓以南に集中して広大なる自作園と多数の工場、鉄道を所有するわが社が、その蔗園(さとうきび畑)内に飛行場またはこれに随伴せる諸施設を抱擁しその建物に皇軍の駐屯するは当然、かつ吾人の光栄とする所にして・・・敵の空襲が熾烈を極むるも、当然かつ甘受せざるべからず。・・・ 昭和20年2月22日 筧 専務取締役 我が家の受爆記(第32日) 昭和20年4月26日正午前後、私の最も住み慣れた屏東の住宅が遂に敵機の爆破するところとなった。・・・(1945年4月29日、帰社当夜新居宅にて) 忘れられぬ6月30日(第51日)(前掲) 2011年6月10日高雄の製糖工場跡の製糖機械 最近産業遺産に日本でも注目されそのツアーが盛んになっているが、100年以上の伝統のある工場を丸ごと保存している台湾のスケールには驚くほかない。
2026.04.26
190二宮翁夜話残篇44【44】ある人が質問した。今日、「中庸」の講釈を聞きました。まことに難しい講釈で、聞いても分りません。「喜怒哀楽の未だ発せざる之を中と云ふ」とはどういう道理でしょうか。尊徳先生はおっしゃった。「これは最も難しい道理だ。しかし、これを他の物に移して説明する時には了解できるものである。これを草木に移せば、根や幹や枝や葉がいまだ生じない種のことをいっていると見ればよい。これを草木に移してその後に「中」というのは何物かを考えるのが近道である。どうだ、分かったか。」ある人は感激し拝んで帰っていった。二宮翁夜話残篇【44】或(あるひと)問ふ。今日(こんにち)中庸の講釈(かうしやく)を聞けり。誠(まこと)に六ヶ敷(むつかし)き講釈(かうしやく)にて、聞いても分らず。喜怒哀楽の未(いま)だ発せざる之(これ)を中(ちゆう)と云(い)ふとは如何(いか)なる道理なるや。翁(をう)曰く、是は尤(もつと)も六ヶ敷(むつかし)き道理なり、されど之(これ)を他物(たぶつ)に移して説く時は了解(れうかい)出来(でき)る物なり。之(これ)を草木(さうもく)にて云(い)はば、根幹(こんかん)枝葉(しえふ)未(いま)だ発(はつ)せざる之(これ)を種(たね)と云(い)ふと見るべし。之(これ)を草木(さうもく)に移して然る後に中と云(い)ふの何物なるやを考ふるを近道とす、如何(いか)に分かりたるや。或(あるひと)感拝(かんぱい)して帰(かへ)れり。
2026.04.26
「オオタニが触れた瞬間に力が移った」村上宗隆《年間60本超ペース》に全米熱狂!伝説の映画になぞらえる声も4/25(土)現地時間4月24日、シカゴ・ホワイトソックスの村上宗隆はダイヤモンドバックス戦に先発出場。連続試合本塁打こそ「5」で止まったものの、鋭い安打を放ちチームの勝利に貢献した。「開幕から驚異的なペースで本塁打を量産している村上選手。前日まで5試合連続となる第10号を放つなど、出場わずか24試合での2桁到達は、ヤンキースの主砲・ジャッジ選手をも上回るリーグ2位となっています。シーズン換算では年間60本を超える歴史的な数字を叩き出しています」(スポーツ紙記者)「ホワイトソックスのウィル・ベナブル監督も『これ以上何を言えばいいんだろう。もう言うことがなくなってくるよ』と絶賛。MLB公式Xも『勢いが止まる気配がない』と報じるなど、球界全体を巻き込む熱狂を起こしつつあります」「SNS上では、村上の覚醒の理由を2026年3月のWBCの“ある瞬間”に求める投稿がバズっています。注目されているのは、3月8日のオーストラリア戦のベンチ内。大谷翔平から構えの助言を受け、村上の肩や体に触れているシーンです。村上自身、大会後に『“力の方向”についてアドバイスをいただいた』と明かしていますが、この接触がファンの想像を掻き立てているようです。 これに対し、現地のアメリカ人ファンが、《みんな、オオタニが彼に触れた瞬間に力が移ったことに気づいてないよね。スペース・ジャムみたいに(笑)今のムラカミは、当面のところオオタニなんだ》とXに投稿。これが1万件以上の「いいね」を集める事態となっています」(在米ジャーナリスト)『スペース・ジャム』とは、バスケットボールの神様マイケル・ジョーダンが主演した90年代の映画で、プロ選手の才能がモンスターに盗まれる描写がある。その設定になぞらえ、「大谷の超人的な才能が村上に注入された」というジョーク混じりの称賛が、現地ファンの間で大きな話題となっているのだ。11号の村上宗隆「5打席連続HR打ったことあるんで…」 驚異の7戦6発…米記者笑わせる4/25(土) ホワイトソックス・村上宗隆内野手は24日(日本時間25日)、本拠地でのナショナルズ戦に「3番・一塁」で先発出場し、メジャートップタイとなる11号を放った。試合後には「まだ始まったばかりで、まだ140試合くらいある。終わったときに何とかいい成績を残せればいいなと思います」と話した。 1点ビハインドで迎えた4回の第2打席、快音を響かせた。元巨人の右腕マイコラスがカウント1-2から投じた外角のチェンジアップを捉えた。体勢を崩され、片手でスイングするような形だったが、打球はぐんぐん伸びて右翼席へ着弾。打球速度104.0マイル(約167.4キロ)、飛距離415フィート(約126.5メートル)、角度33度の一発を運んだ。 村上は右手を上げてガッツポーズ。「大きな声援をいただいていたので、嬉しかった」。スタンドを見渡しながらダイヤモンドを一周し、ベンチに戻るとナインから手荒い祝福を受けた。11本塁打はヨルダン・アルバレス外野手(アストロズ)に並ぶメジャー最多。そして3・4月の本塁打数でも、ポール・コネルコに並んで早くも球団月間記録になった。 これで直近7試合では6発。米記者から短期間で本塁打量産の経験について問われると、「一応日本では5打席連続ホームラン打ったことあるんで……」とニヤリと答え、記者を笑わせた。 最初の5本塁打はすべて直球を捉えていたが、変化球を捉えた本塁打も増加しつつある。対応については「徐々にですけど、良くなってきていると思いますし、まだまだ改善するところもたくさんある。いろんなピッチャーが来ると思うので、成長していけたら」と話した。 この日は本塁打のみで3打数1安打1打点。打率.256、OPS1.020となっている。 村上が打席に入ると、ファンからは大歓声。「すごく嬉しかったです。期待に応えたかった」と振り返った。
2026.04.25
農談 帝国農家一致結合 第十号 明治二十三年一月刊行◎農談 謹んで新年を祝す 好耕園主 中村和三郎先ず新玉の春と相成りおめでたいー園主(わたくし)は諸兄(みなさま)に向って祝詞(のりと)を申し上げます。また本団体のますます盛んに同盟諸兄の万福を祈ります。また私しども即ちこの団体は純粋なる農家の結合であります。百姓の団結であります。で、他の大同団結、愛国公党或いは改進党など申す学者方や政治家等の政治志操とか申すところより結合されたものとは大いに異なります。私しどもの申すことは、土を掘るとか、虫を殺すとか、肥を製することや、ばかりで、とても立派な話ではありません。が、一々実際に採って用いることが出来ます。一々国家富強の基、即ちいわゆる、国家の大本のことばかりです。されば近頃は貴紳方や貴婦人方もおいおい我々の仕事を賛助されることとは相成りました、が、肝心なる本人即ち農家がそれほど気を入れませんのが、実に園主は、遺憾、残念、でなりません。園主は右の次第でありますから何でも日本国中の我々の同業家、即ち農家が一大団体となり同胞の如き交誼(まじわり)を結び、我が農業上における知識を交換することと致したいという素志で以てその結果が、即ち今日の帝国農家一致結合と申す団体と生まれ出たのです。が、とても北海道の人士と沖縄の人士とが毎月一堂に寄合(よりあい)をすることは出来ません故に農談と申す寄合場所を、発行することです。もちろん雑誌と申せば知識の交換が主で、農談ばかりが寄合場、知識交換、と申す訳ではありません、が、大概の農事関係の雑誌、農事関係の協会が全体普通農家には高尚に過ぎ、直ちに採って用いるという訳に行きません。我々百姓連中には字句が難しくて誦読に苦しみます。我々農家はなかなか一か月十銭内外の費用を払うのは困難です。故に鍬を手にし実業に従事する我々連中にはこれが仲間に入るものが沢山ありません。書生先生、席上老農、の間に行われるのみで、我々百姓連中、真の農家はそのようなる貴重な、我々のために有益なるものがあるや否やを知らざるものが多いことです。で、それら園主は前申す通り何でも日本国中の実業に従事する、普通農家、百姓連中が残らず団結悉く寄合をすることの出来る工夫が第一と考えたのです。これを実行するには、自ら実業に従事する真の農家がその実験説をば思うがままに相互に吐露し、字句はなるだけ平易で百姓流で、会費はなるだけ安くなければ、真の百姓、真の農家の寄合場となることは出来ません。我々連中に功能がありません。ですから本団体はあくまでも右の主義を以て帝国農家の間に立つ積りです。園主はこの三主要点をどこまでも実行する決心です。諸兄も定めしこの主義は決して賛成されることで、否共にその思召しでありましょう。 そこで諺(ことわざ)に「三年経てば三つになる」と申すことがあります。百姓連中、農家の寄合でも一年は一年だけの進歩することであります。進歩すればその進歩の程度に適うように規則の改正が必要です、から、本年は一致結合の規則を改正する、積り、二月中には発布の心得です。改正規則もつまり三主要点の実行、純粋農家の結合を確乎に、土を掘ることや虫を殺すことや、肥を製することを寄合場にて充分思うがままに吐露(はなしあい)するのです。諸兄新年とに奮って団体のために三主要点の実行を計られよ。農は国家の大本、です。園主もまた斃(たお)れるも、なお止まざるの決心であります。
2026.04.25
188(「内村鑑三全集12」より)旧漢字、旧仮名遣いを改め、ふりがなを多用して読みやすくしました。予が見たる二宮尊徳翁 1予はかって「日本及び日本人」なる一書を英文にて著し、これを世に示したり、録するところ、西郷隆盛、日蓮上人、上杉鷹山公等なりしが、これを読んで英米人のもっとも驚嘆せしは二宮尊徳先生という。彼らが異教国と称するこの国にかくのごとき高潔偉大の聖人あらんとは彼らの意外とせしところなりしと見ゆ。もし欧米人が詳らかに先生の性行閲歴を知りえたらんには恐らく先生をもって世界における最高最大の人物に数えるならん。英人は世界の宝庫といわるるインドを有するよりもシャークスピア全集を有するを誇りとなす。否、シャークスピア全集を有するは誇りにあらず、シャークシピア全集を有するは誇りにあらず、シャークスピアその人を生じたるをもって光栄となすという。しからばわが日本は満州を獲るよりもロシアに勝つよりもこの二宮先生を有するというにおいて至大のの光栄となすべきか。予は汽車に乗りて国府津(こうず)松田間を過ぐるごとに先生を思うて止まざるなり。予の理想に近き人を求むれば先生はすなわちそれなり。近年、日本に産出せられたる書物の中にてもっとも大なる感化力あるものは二宮先生の報徳記にしくものなし。予は予が小児(しょうに)らにまず読ましめたきものはすなわちこの書なり。予が雑誌「聖書の研究」の読者に推薦して熟読を勧めおるものは実にこの書なり。この書は聖書的の書籍にして現今博聞館より出版する幾百冊の書を読むもこの報徳記の百分の一の益をも感化をも受くること能(あた)わざるべし。何ゆえにこの書がしかく偉大なる感化力を有するや。他なし。これ真正の経済なるものは道徳の基礎に立たざるべからざることを先生の事業生涯をもって説明したるものなればなり。すなわち身をもってこの問題の解決をなしたるなり。先生は経済と道徳の間に橋をかけたり。先生の一生は経済道徳問題の福音なり。この意味において報徳記は一部の「クラッシク(古典)」なり、経書なり。そもそも現今経済を論ずるものは大抵倫理道徳と関係もなきものと為すもののごとし。倫理と経済と分離して秋亳(しゅうごう)の関係なきものなるや否やは至難の問題に属すといえども恐らく倫理道徳の要素なしに経済の成立すべきはずなからん。アダムスミスの「富国論」は著名なり。邦人皆これを読みて経済学上の大著となす。しかれども彼れはこれをその倫理学の一篇として書きたるものなり。彼れは両者密接の関係を認めたるなり。しかるに現今英米の学者輩経済学をもって単に利欲の学問とせり。ここにおいてか経済学は武士の子孫が学ぶべきものにあらずなどと思惟したる者ありき。福沢氏のごときは道徳は畢竟経済なりと道破し現今の社会主義者は道徳は単に胃腑の問題なりなどというに至れり。かくのごときは果たして真正の経済学なるべきか。先生はしからず。道徳は原因にして経済は結果なりと断じたり。至誠勤勉正直(せいちょく)にして初めて経済の成立するものなりとせり。かくのごとき高尚なる経済論はたとえ英のオックスフォード大学に行くも決して聴くことを得ず。勤倹貯蓄のみが先生の報徳なりとなすものあらば先生を誣(し)ゆるもまた甚だしからずや。もしかくのごとき人あらば予は先生に代わりていわん。諸君は誤れり。諸君まず善人となるべし、至誠の人となるべし。予の根本とするところは道徳なるがゆえに諸君もまずこれを心がけざるべからずと。ゆえに先生の報徳説盛んに行わるるところには必ずまず道徳的大変化大復興起こらざるべからず。もししからずしてただ勤倹貯蓄経済上の変化のみならばいささかこれをあやしまざるを得ず。先生が事業の為すところには往々反対家出でたり。そはその地の料理店貸し座敷、あるいは一部の偽善者輩なりしがこれをもって見るも先生の事業方針の正に道徳上の改革より初まれるを想見すべきなり。かって大磯の川崎屋孫右衛門なるもの先生につきて廃家再復の途(みち)を聞かんと欲せし時、先生浴室より飛び出し、夜中二里余を隔てたるところに逃げ行けり。何ゆえぞやといえば、彼のごとき難物は容易に道に入(い)るべき人間にあらず、仕法を教えるも益なしと考えたればなりという。家政困難を救うは、先生の喜ぶところなりといえども、その人物を改善せしむるを先となしたることこれをもって明らかなり。先生の自信の強きことはまたこれによりて知らるべし。今日のキリスト教の伝道者などが説教聴聞に来るものあらばよくこそ来たれりとて礼を述ぶるがごとく卑屈ならず。教えを乞うものあるもまず自ら教えを受くるに足る者となりて来たるにあらざれば決してこれを授けずしてしりぞくるがごとき自信力は先生の有せしところにしてかくのごとき確信こそ吾人(ごじん)の得んと欲するところなり。しかしてその与える再興の法は何ぞや。いわば汝は非を飾り他(ひと)を苦しめんとす。誠に悪人なり。速やかに善に帰し家産を尽くして人命を救助し一人も助命の多きを多きを願うべし。これ汝の家の再興の法なりと教訓せしがごとき実に高尚なる工夫なり。先生が破産家の整理法は実にかくのごとし。今日の社会決してこれを見いだすこと能わざるなり。予かって某地の人某の2万円ばかりのために整理の相談を受けしことありたり。予は翁の教えをもってこれに勧めたり。すなわち財産を隠蔽するなかれ、至誠をもって各債主に事情を告白せよ。無一物貧措大となるも恐れるなかれ。有るを有るとし無きを無しとして一毫の私心を挟まず返却の途(と)を講ぜよといいしに後某来り謝して債主等の好意能く予の至誠他意なきを憐れみ満足なる整理を遂げたりとのことをもってせり。また先生の印旛沼堀割見分の命を受けその復命をなしたるごとき実に現時の人々(ひと)に見ること能わざるところなり。先生つぶさに種々の調査を遂げ確かに印旛沼掘割より生ずる大益を認めたれども、その地方人民の道徳腐敗のゆえをもって直ちにこれに着手するもその功なきを認めまず儒者を遣わしてその民を教導ししかる後に事業の挙がるべきをもってしたり。先生はこの沼の開墾事業をもって道徳問題となしたり。今日の教師らにこの見識ありや。測量や水利やただこれをもって土木事業は成就すべしと思うは非なり。先生は150年以前すでに日本ありて以来の卓抜の識高潔の徳をもってかくのごとき復命をなしたり。今日の経済学者はまずソロバンを手にす。先生はまず至誠の有無を質す。吾人先生に学ぶところなきか。今や不景気の声高し。この救済策をもって先生に問わば先生必ず云わん。人民腐敗せり、まずこれを救わざるばからず。不景気の救済は不道徳の救済ならざるべからず と。今どきの人ややもすれば挽回策をもって農工銀行や商業銀行の設立によるとなす。しかれども人心腐敗すればかくのごときものはかえってこれ不景気の前駆となり破産の機関となり了せん。予聞けるに越後の人にして所有地を抵当になし農工銀行より金(かね)を引き出し放蕩して遂に破産せるものありき。畢竟経済の本は金にあらずして人の心にあるなり。この点において先生の経済論は実に敬服のほかなきなり。今の経済学者はただこれをもって金銭利欲の問題となして人の意志に関する無形の倫理道徳の問題なるを知らず。真に憐れむべきにあらずや。予は農学士なり。今やキリスト教の伝道者となりて東奔西走すれば友人輩あるいはあやしみあるいは笑えり。しかれども予思えらく、牛の改良や種子の改良はその事はなはだ容易なり。ただ人心を改良し罪あるものを悔い改めしめ悲しめる者に慰謝を与えることこれもっとも難きことにしてまた甚だ尊貴なることなりと。かくのごとき事業こそ万事の根本となるにあらずや。これ予の喜んでとるところの事業たるなり。予の伝える福音を信じて破産をなしもしくは放蕩するがごとき人はいまだかって一人もこれあらざるなり。すべての財産は天のたまものなり。至誠勤勉の結果なりとは二宮先生の教訓なり。キリスト教においてもまたしかり。人往々キリスト教の信仰のごとき絶えて経済などには関係もなきもののごとく思惟するは甚だいわれなきことなり。
2026.04.25
25◎鈴木藤三郎君立志画談4 山田霞洲生(「大日本報徳学友会報第38回)○日本精製糖株式会社の創立 前回略説したように全く他人の資本を借りて事業を起そうとする過ちをを悟った鈴木君は、しばらく雌伏(しふく)して専ら財力を養って、東京に出る資本を作り、以前視察しておいた小名木川の地に移転して工場を設置し、精糖氷砂糖の事業を営まれ、まさに非常に雄飛しようとした。もともと人生の行路というものは険しかったりなだらかだったり、順調、逆境のときもあり、予め予期できない。順風で波おだやかな時に乗った君は、ある朝火災にかかって器械・工場のような有形の財産がすべて灰燼に帰する不幸に遭遇し、ほとんど起つことのできなきような打撃をこうむって、非常の逆境におちいった。いかし鈴木君の頭脳は災厄に遭うごとに鍛錬いよいよ堅く、勇気ますます加わり、禍を転じて福となす方策を講じて、初一念の貫徹に尽したことから、よく経済界の変調をもしのぐことができて、事業はおいおいと栄え行く事となった。 明治28年日清戦争が平和の終局を見るとともに、一時沈静した日本の事業界が急に活気を呈し、各種の事業が勃興し、糖業界の前途を想い起せば、その需要ほとんど無限ともいうべきだった。砂糖の原料産地として有名な台湾島は日本の領土に帰し、事業拡張上得がたい好時期にめぐりあわせたといわなければならない。独力、薄資でこの事業の拡張をはかるならば、数年の後でなければ十分な拡張を見ることができないと感じられた鈴木君は、むしろ一身の利益は減じても、衆と共に利をわかって、この得がたい時期に投じ、規模を大きくし、国家の利益を興すことこそが愛国経世の士のとるべき方針であるとされ、断然その計画を立てた。「好事魔(こうじま)多し」(物事がうまく運びそうなときほど、邪魔や災難が起こりやすい)というように、また多少の障害に遭遇したが、例の頭脳はよくその障害に打ち勝ち、吉川・長尾両氏の賛成を得て、ここに発起人会を開くこととなって、長尾氏の別邸に集会して席上株式会社の設立の要項を協定し、株式の募集に着手する事になった。そこでこれを発表すると大変に世の人の歓迎を受け、10日ほどもたたないうちに予定の株数を超過する状況で、日本国唯一の精製糖株式会社は創立された。長尾氏が社長に、吉川氏は取締役に、鈴木君はその専任取締役に就任して、事業を担任する事となった。ここにおいて鈴木君は従来独力経営して来た精糖氷砂糖の両工場を挙げて会社に譲って、多年経験して来た手腕を振るって専ら拡張に従事された。従来資本のために制約され十分に、その能力を伸ばすことができなかった鈴木君は、今はそれらを顧慮するところなく、自由に手腕を振るう事になったから、事業の発展は鈴木君の予期に違うことなく、会社は朝日が天に昇っていくときのように、きわめて元気で勢いで隆運におもむいた。鈴木君が生命を賭した事業はここに全く成功したので、その得意を想うべきであろう。挿図に示したように、会社創立より五年ばかりの間は、天馬に鞭うって広々とした野原を走りまわる勢いであった。○欧米糖業上の視察 鈴木君の計画は見事に的中し、社運が盛り上がるとともに、一度欧米に渡航してかの地の製糖業を視察し、精巧な新機械をも購入し、さらに南洋における原料地の実況を調査し、一大拡張をはかろうとされた。 社長はじめ重役一同は鈴木君の計画を歓迎し、議論はたちまち決して、鈴木君は遠く離れた外国に航海して、世界一周という盛んな勢いで旅立つ事となった。明治29年7月14日のことで鈴木君の年齢42才の時であった。この旅行においてどのように手腕を発揮せられたかは、次回において説明する事とする(次に続く)(この連載記事は実際はここで終了している)◎鈴木藤三郎君立志画談4 山田霞洲生(「大日本報徳学友会報第38回)○日本精製糖株式会社の創立 前回略説したるごとく全然他人の資本をかりて事業を起さんとするの過誤なるを悟られた君は、暫く雌伏して専ら財力を養い、帝都に出るの資を作られ、かつて視察しおきたる小名木川の地に移転し工場を設け、精糖氷糖の業を営まれ、まさに大いに雄飛せんとせられき。由来人生の行路は険夷常なく、順逆の境、予め必すべからず。順風恬波に乗じたる君は、一朝火災に罹り器械工場のごとき有形の財産ことごとく烏有に帰するの不幸に遭過し、ほとんど起つあたわざるの打撃を蒙り非常の逆境におちいった。されども君の頭脳は災厄に遭うごとに鍛錬いよいよ堅く、勇気ますます加わり、転禍為福の策を講じ、初一念の貫徹に尽されたれば、よく経済界の変調をも凌ぎ得て事業はおいおい栄え行く事となった。 明治28年日清戦争は平和の終局を見るとともに、一時沈静したる我が事業界が俄然活気を呈し、各種の事業勃興し、糖業界の前途を想起すればその需要ほとんど無限というべく。砂糖の原料産地を以て有名なる台湾島は我れの版図に帰し、事業拡張上得難きの好時期に際会したといわねばならぬ。独力薄資斯業の拡張をはかれば数年の後にあらざれば十分の拡張を見るを得ぬと感じられたる君は、むしろ一身の利益は減じるも衆と共に利をわかち、この得難きの時期に投じ規模を大にし国家の利益を興すこそ愛国経世の士たるもののとるべき方針なりとせられ、断然その計画を立てられた。好事魔多しとやらいえるごとくまた多少の障害に遭遇したるも例の頭脳は能くその障に打ち勝ち、吉川・長尾両氏の賛成を得たればここに発起人会を開くこととなって長尾氏の別邸に集会して席上会社設立の要項を協定し株式の募集に着手する事になった。そこでこれを発表すると大いに世人の歓迎を受け、旬日を出でずして予定株数に超過するの好況にて、我が国唯一の精製糖株式会社は創立せられ、長尾氏は社長に吉川氏は取締役に、君はその専任取締役に就任し事業を担任する事となった。ここにおいて君は従来独力経営し来った精糖氷糖の両工場を挙げて会社に譲り、多年経験し来った手腕を振って専ら拡張に従事せられた。従来資本のために制せられ十分に驥足を伸ばすことを得ざりし者、今はそれらの顧慮するところなく、自由に手腕を振う事になったから、事業の発展は君の予期に違わず、会社は旭日東天の勢いを以て隆運に赴いた。君が生命を賭したる事業はここに全く成功したのでその得意想うべく、挿図に示せる如く会社創立より五年ばかりの間は天馬に鞭うって曠原を馳駆するの勢いであった。○欧米糖業上の視察 君の計画は見事に的中し、社運の隆昌盛と共に、一たび欧米に渡航して彼の地の糖業を視察し、精巧なる新機械をも購入し、かつ南洋における原料地の実況を調査し一大拡張をはからんとせられた。 社長はじめ重役一同君の計画を歓迎し、議はたちまち決して君は万里の波濤を航して世界一周の壮途に上がる事となった。これ明治29年7月14日で君が齢将に42才の時であった。この行いかに手腕を発揮せられたかは次回において説明する事とする(次下嗣出)
2026.04.25
「永平家訓抄話」澤木興道 4-4「近代皆云う。諸人応諾の処、即ち諸人の本命と」道元禅師の時代にも、現在と同じようにこういう連中もあったものと見える。「諸人応諾の処」というのは、「オイ」といわれるとそれがわかって、応えられる。そのわかるところを、その人の本命と考える者があったわけである。だから人が得心して、感心でもすると、人間というものは、自分も本気でこれでいいと思うようになってしまう。じっさいヤソ教の牧師さんたちでも、信者がえろう随喜の涙をながして感嘆して、信者がよけいできると、はばかりながら、誰それもおれの弟子である、誰それもおれの弟子であるという、それじゃから神様を信ぜよ、といったことを、まことしやかにいったりする。また明治時代に、乃木はおれの弟子じゃ、というた手合いがおった。乃木さんが信じたくらいだから、おれは本当に偉いのだと思っていたのであろう。こんな間違いというのも、多勢の人が応諾する処、諸人の本命、すなわちオイといったらオイと、沢木がいうたらハイと、いかにもわかったように返事をするのを本命、すなわちめいめいの主人公、生命、あるいは仏性と、考えたからである。「冷暖自知の処、即ち諸人の主人公と」寒いのは寒い、暑いのは暑いと知見するのを、その人の主人公だときめる。われわれが知覚するとしないとにかかわらず、寒とか暑とか思うと思わないとにかかわらず、体の方はただ何ともいわずに順応している。だから知覚するのを主人公ときめるのは、もちろん、独断であることは申すまでもないのである。 また「向来乃ち是れ仏性、更に第二人有るべからず」という独断もあり得ることである。向来というのはこれまでという意味で、以上これまでに、例にあげてきた、応諾したり、冷暖自知したりするのを主人公と考えたのを、これが仏性であって、ほかには仏性というものがあるはずがないときめる、こんな連中の出て来るのも当り前である。 だから「若し恁麼に会せば、則ち、先徳の呵する所なり」とおおせられるのである。以上のようなことは、考えたりいったりしてはならない。なぜならそんな馬鹿なことは仏道でないと、仏様にしかられるにきまっているからである。そこで例をあげて、なにゆえに仏道でないかを説明せられる。これがまたむずかしい、おもしろいといえばおもしろい則である。(「永平家訓抄話」p.295-297)
2026.04.25
「永平家訓抄話」澤木興道 4-5「見ずや竺尚書」これは竺という姓、尚書というのは書記官とか何とかいう官名である。「長沙の岑和尚に問う」長沙景岑和尚に参禅したものとみえる。「蚯蚓(きゅういん)斬って両段と為す、両頭倶に動く、審(いぶ)かし仏性、阿那(なこ)箇頭(ことう)にか在る」『涅槃経』の中に「一切衆生悉有仏性」一切の衆生ことごとく仏性ありという言葉があるので、誰にも仏性があるというてあるから、竺尚書もてっきり仏性というものをまんじゅうのアンのようにこの体の中の何かに入っていて、死んだりすると、それが抜け出て向こうの豚の腹に宿ったりするものと心得ておったに違いない。『倶舎論』を読んでみても、世間品ではそういうものがありそうに見えるように書いてある。ところが、破我品の、我というものを破する極意の方へ行くとそんなものはない。そこで仏性というものは、どういうものですかというのには、まず見解が正でなければならん。 この手で人の横面を張るときは、仏性どころの話ではない修羅道である。人のがま口を汽車の中でそろっと自分の方に宿替えさせるのは仏性ではない、そっくり盗性そのものである。われわれは小僧のときに、和尚の留守に三盆白が重箱に入っているのをゆすぶると、上へ大きな塊りがころげだしてくる。これをパクッとやったものだが、あれは餓鬼道性じゃ。それだから天台の学問では十界互具というておる。 十界互具というのは、十界の一々に他の九界が同居しているということで、仏さんにも菩薩と声聞と縁覚と天上と人間と修羅と餓鬼と畜生と地獄とが同居しているというのである。だから不用意のところにパッと餓鬼が飛び出したり、畜生が飛び出したり、声聞が飛び出ることがあるのは、当り前のことである。不用意なところに仏性が飛び出してくれればいいが、仏性はなかなか飛び出んものである。飛び出る可能性は十分あるのであるが、これはそのままでは万劫永劫飛び出ないのである。(「永平家訓抄話」p.297-298)
2026.04.25
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