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1984年6月21日、「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(2)です。奈保子さんは北海道・札幌の東急百貨店屋上でファンの集いがあり、新曲「コントロール」を歌います。「コントロール」は八神純子さんが奈保子さんのために作って提供した歌です。歌った後に握手会がありましたが、仕掛け人の男性が、大きなプレゼントの箱を渡しました。(この箱の中に、実は生きた羊が入っているという設定です)↓ 1984年6月21日放送「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」。河合奈保子 北海道名物 ヒツジの生き造り哀れな仔羊に大号泣!↓ 北海道札幌市。 松岡まことレポーター。↓ 時計台。↓ ポプラ並木。↓ デビュー5周年記念「河合奈保子ファンの集い 本日午後2時から 東急百貨店屋上」↓ 東急百貨店屋上の河合奈保子さん。新曲「コントロール」のポスター。↓ 地元テレビ局の取材で熱唱する河合奈保子さん。↓ なにやらあやしげな男。(ドッキリ仕掛け人)↓ 怪しい男が河合奈保子さんに花をプレゼントする。↓ 巨大なプレゼント攻勢をかける男。↓ 巨大なプレゼント箱を渡す男。↓ 次のファンと握手する河合奈保子さん。↓ ファンからプレゼントを渡され喜ぶ奈保子さん。↓ ファンにお礼を言う奈保子さん。↓ さていよいよワナが!!
2023.08.27
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1984年6月21日の「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」で、河合奈保子さんが出演されました。番組側が仕掛けを準備して、スターをドッキリさせるという番組で、奈保子さんが北海道・札幌に行ったときに撮影された映像が放送されました。当時のキャップは露木茂さん、レポーターは松岡まことさんでした。この時のドッキリですが、プレゼントでもらった羊を食べるという提案があり、奈保子さんが泣いてしまいます。(流れは次の通り)・北海道でのサイン会で、奈保子さんが男性から変なプレゼントを受け取る。・サイン会が終了後、奈保子さんが食事をしていると、例の男性が現れた。その人がプレゼントした箱の中には、生きた羊が入っていた。・奈保子さんはこの羊を東京に持って帰られない。すると男性がその場で、羊を肉にして、ジンギスカンで食べようと提案した。それを聞いて、奈保子さんの目から涙がポロポロ。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(1)です。↓ 1984年6月21日「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」に出演した河合奈保子さん。↓ 河合奈保子さんと、レポーターの松岡まことさん。「こんにちは」と挨拶する奈保子さん。↓ 松岡レポーターから、「奈保子ちゃんは本当に動物が好きなのね!」と言われる。↓「好きです」と答える奈保子さん。↓ 松岡レポーター:「最初奈保子ちゃんは(プレゼントされた)羊を(東京に)連れて帰ろうとしたんですよね」↓「こんなに羊が大きくなることも知らないでね」」↓「アハハッ。持ち帰られる物ならば(持ち帰りたかった)」と奈保子さん。↓ 松岡レポーターから「食べてた肉は美味しかったですか?」と聞かれた。↓「食べてた方ですか?」↓「もう、すごいお腹が空いていたんですよ、その時」↓「もう恥ずかしいくらい、いっぱい食べてて」↓ 松岡レポーターが「奈保子ちゃんの食欲も見ものなんです」と言った。↓ 恥ずかしがる奈保子さん。↓ 松岡レポーター:「カメラに向かって一言お願いします。どうぞ」↓ 河合奈保子さん:「VTRスタート!」
2023.08.26
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河合奈保子さんが冬の北海道で取材を受けました。(月刊平凡 1982年3月号切り抜き)河合奈保子 雪の精雪のホワイト・ボードに”ラブレター”の文字永遠に残したい5つのカタカナ列車にかき消されてもナオコがかいた文字は永遠に残されるだろう今日一日は雪の精。グレーのコート。金ラメのブーツに身を包んだ奈保子。すっぽりと雪化粧された真冬の北海道の原野、零下10度のもとで撮影を開始した。春、初夏、秋と一番陽気がいい時しか北海道を訪れたことがないという奈保子も、真冬の厳しくつき刺すような北海道の自然の驚異にただただ驚くばかり。透き通るような奈保子の肌も、ときおり猛威をふるう吹雪にうたれ、顔の筋肉が硬直していくさまが、自然の偉大さに怖ささえ感じる。30分という短い時間の中で、ファンタジックな写真に挑戦した奈保子、写真のあがりをみた時、”奈保子じゃないみたい!! でも、パネルにしたら素敵でしょうね” ちょっぴり背伸びをした雪の精。奈保子はいかがかな。でも、奈保子は”ナハハ”が一番とおっしゃるファンの皆さん、来月はオーストラリアで楽しい写真を紹介します。楽しみにしてくださいネ。 (協力:マッシュネロ・ハウス、撮影:小堀篤信氏)↓ 雪の精のように美しい河合奈保子さん。
2023.08.25
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河合奈保子さんが北海道・富良野で取材を受けた雑誌切り抜きがあったので、紹介します。1985年夏の奈保子さんです。富良野でゆっくりされています。河合奈保子さん:北海道富良野より愛をこめて・・・ (記事の一部)もう1年以上奈保子が「富良野に行きたいよー。いっしょに行こうよー」と言い続けてた。チャンスができた。1日だけ富良野で、取材の時間が出たのだった。1985年10月3日に出る新曲はなんと「ラヴェンダー・リップス」という。不思議な偶然の一致。11月23日、24日は、東京・芝郵便貯金ホールで恒例となった秋のリサイタルをやる。そして、先日行ってきたばかりのロサンゼルス録音LPと、アメリカ横断して撮影されたビデオが年末までに発売される予定だ。無邪気の天才も、立派に成長しているのです。↓ 北海道・富良野の河合奈保子さん。
2023.08.24
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今年はお盆に山口県の田舎に帰ろうと、新幹線のチケットを予約していましたが、台風の影響で帰省を諦め、チケットの払い戻しをしてもらいました。休みは毎日ウォーキングをして、夜に家に帰ってきた後、シャワーを浴びて妻と晩御飯を食べる生活でした。2023年8月12日もウォーキングをして帰り、夕食をとっていると、テレビで「ダウンタウン vs Z世代」という番組がありました。柏原芳恵さんが紹介されていたので、河合奈保子さんも紹介があるかなと思っていましたが、全然でてきません。諦めてご飯を食べていると、いきなり河合奈保子さんが「けんかをやめて」を歌う姿が紹介されました。手元にカメラが無かったので、スマホで備忘として撮影しました。奈保子さんの映像は何度見ても良いです。品のある奈保子さんでした。↓ けんかをやめてを歌う河合奈保子さん。
2023.08.23
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2023年7月22日、タワーレコード新宿店に行き、新発売のCD「河合奈保子 MASAO URINO WORKS ~売野雅勇作品集~」を購入しました。売野雅勇さんが河合奈保子さんに書いた作品の総曲数は、訳詞も含めて61曲あり、そのうちの36曲を売野さんが選曲してできたCDです。ブックレットには、それぞれの作品に対する売野さんのコメントが記載されており、とても興味深かったです。私の個人的な「河合奈保子さんベスト3」は、①「トワイライトクルーズ TURN IT UP」 ② 「LOVE ASSISTANT 」 ③「夏のキャンドル」です。このうち①、③はCDに選曲されており、ブックレットに売野さんのコメントが記載されているので紹介します。「トワイライト・クルーズ TURN IT UP」アメリカ西海岸の名だたる名プレイヤー、ミュージシャンが作り上げたサウンドの中で、こんなに自由にのびのびと歌っている奈保子さんを見ることは、私たちにとっても喜びだし、誇りに思えますね。完全にAOR、大人のロックですね。歌詞のノリも外国曲とは思えないくらいスムーズに嵌まっています。ドライブするときにぜひ聴いてみると、僕がどんなふうに歌詞を考えたか気づかれるかもしれません。「夏のキャンドル」英語のタイトルでは"LOST YEARS AT MARIENBAD”。フランスの60年代のアート・フィルムで『去年マリエンバードで』というタイトルをLAST YEAR(去年)ではなくLOST YEAR(失われた日々)としたものです。最初は日本語のタイトルが、「マリエンバードの休日」となっていたようで、ネット上で作品解説をしてくださっている奈保子さんのファンの方が「ラジオで放送した時は、”マリエンバードの休日”と紹介していた」と書いています。売野さんの提供作品というと、私が高校生から大学生の時代に当たり、レコードを購入しては聴いていました。自分が買って聴いたレコードとなると、とても愛着があり、処分することができません。今回のCD「河合奈保子 MASAO URINO WORKS ~売野雅勇作品集~」にある36曲について、手持ちのレコードを写真に撮り、紹介します。「河合奈保子 MASAO URINO WORKS ~売野雅勇作品集~」↓ 私が持っているレコード (シングル、アルバム)CD「河合奈保子 MASAO URINO WORKS ~売野雅勇作品集~」36曲の紹介ーーーーーーーーーーーーーーーーー刹那の夏プールサイドが切れるまでーーーーーーーーーーーーージェラストレインーーーーーーーーーデビュー ~Fly Me To Love~ーーーーーーーーーーラヴェンダー・リップスーーーーーーーーー北駅のソリチュードバラードを止めてーーーーーーーーーー涙のハリウッドジャスミンの夢飾りーーーーーーーーーーエスカレーションーーーーーーーーーーー唇のプライバシーーーーーーーーーーーーUNバランスーーーーーーーーーーーコントロールーーーーーーーーーーーーーーアルバム「さよなら物語」よりパリは悲しみに燃えモスクワ・トワイライト霧雨の埠頭哀しみのコンチェルトーーーーーーーーーーアルバム「DAYDREAM COAST :デイドリーム・コースト」よりガラスの中の海 HOME AGAIN, ALONE AGAIN 夢が過ぎても AS LONG AS WE'RE DREAMING銀色の髪の少年 WISDOM RIDEーーーーーーーーーーーーーーーーーアルバム「スターダスト・ガーデン -千・年・庭・園ー」より海流の島夏のキャンドル八月の水鏡南回帰線チャイナタウン・ラブソディ暁のスカイパイロットスターダスト・ガーデン千年庭園永遠のシネマハウスーーーーーーーーーーーーーーーーーアルバム「HALF SHADOW :ハーフ・シャドウ」よりマーマレード・イヴニング12月のオペラグラスーーーーーーーーーーーーーアルバム「9 1/2 NINE HALF :ナインハーフ」より星になるまで NIGHT AFTER NIGHTホワイト・スノー・ビーチ SAY IT'S OVER冬のカモメ ONLY TONIGHTトワイライト・クルーズ TURN IT UP
2023.07.31
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2023年7月22日(土)、タワーレコード新宿店に行き、新発売のCD「河合奈保子 MASAO URINO WORKS ~売野雅勇作品集~」を購入しました。ブックレットには、高島幹雄氏の「本作品集について」の文章があります。冒頭の部分を下記紹介します。本アルバムは、2023年7月15日に開催の『売野雅勇 作詞活動40周年記念 オフィシャル・ブロジェクト MIND CIRCUS SPECIAL SHOW 「それでも、世界は、美しい」と題された記念コンサート、複数のレーベルからリリースされる記念CDの一つとして、売野雅勇自身のたっての希望で生まれた河合奈保子へ提供した作詞作品集です。売野雅勇が河合奈保子に書いた作品の総曲数は訳詞も含めて61曲にのぼります。また、全シングル35作品のうちA面曲を手がけたのは11作品で、作詞家別としては最多曲数になります。この多数の中から売野雅勇自身のセレクトによる36曲をCD2枚に収録。曲順の構成も売野雅勇が手がけ、全収録曲の解説を書き下ろしたスペシャルなアルバムになっています。曲順はリリースの歴史をたどるオーソドックスなスタイルではなく、売野雅勇作詞としてのラスト・シングルでもある「刹那の夏」をトップにおいて再構築された物語性、ヴォーカリスト、アーティスト・河合奈保子へ込めた溢れんばかりのリスペクトを感じられる構成といってもいいでしょう。ーーーーーーー2023年7月22日、タワーレコード新宿店にて。「河合奈保子 MASAO URINO WORKS ~売野雅勇作品集~」↑ 奈保子の新境地を切り開いた売野作品を集大成!「河合奈保子 MASAO URINO WORKS ~売野雅勇作品集~」1980年代に一世を風靡したトップアイドル河合奈保子に提供した多くの作品の中から、売野雅勇がセレクトした38曲を収録。またブックレットには売野雅勇による制作当時のエピソードも含む全収録曲の解説が掲載。河合奈保子がアイドルから大人のシンガーへと変貌を遂げる時期に作られた売野雅勇の作品はどれも聴きどころ満載だ。↓ タワーレコード新宿店入口。ーーーーーーーーーーー↓ 購入した「河合奈保子 MASAO URINO WORKS ~売野雅勇作品集~」。
2023.07.30
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2023年7月21日(金)の朝日新聞を読んでいると、週刊ポストの広告があり、すぐに河合奈保子さんの笑顔を見つけました。「週刊ポスト2023年8月4日号(2023年7月21日発売)/小学館」で、「昭和水着アイドル夏ソング(歌詞カードつき)」の中央に、河合奈保子さんが写っており、早速雑誌を購入しました。記事では次の紹介がありました。河合奈保子『スマイル・フォー・ミー』(「1981年)26万枚作詞:竜真知子/作曲:馬飼野康二5枚目のシングル。リリースした年の10月に事故で腰椎を骨折。初出場となったNHK『紅白歌合戦』ではコルセットを着けて、紅組トップバターとして歌い上げた。ーーーーーーーーーーー社会学者の太田省一氏のコメントもあります。「アイドルの夏ソングは、夏休みに入った開放感で、これまでにない恋の期待に高まる若者たちの心をピンポイントでくすぐりました」「当時のアイドルファンは、思春期の若者たちが大半を占めていました。夏ソングが今でも忘れられない印象があるのは、こうした最も恋愛に関心が高い時期と重なったことも決して無関係ではありません」ーーーーーーーーーーーーーー「週刊ポスト2023年8月4日号(2023年7月21日発売)/小学館」↓ 黄色い囲みが河合奈保子さん。↓ 昭和アイドルの夏ソングあの頃、夏は明るく元気だった!↓ 笑顔が可愛い河合奈保子さん。↓ 河合奈保子さんの紹介。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 2023年7月21日(金)の朝日新聞↓ 週刊ポストの広告。↓ 昭和水着アイドル夏ソング(歌詞カードつき)↓ 中央のまぶしい笑顔は、河合奈保子さん。上段:キャンディーズ。(左からミキちゃん、ランちゃん、スーちゃん)下段:左は石野真子さん。中央は河合奈保子さん、右は大場久美子さん。
2023.07.28
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2023年6月30日(金)夜、会社から帰ってきてシャワーを浴び、妻と食事をしようと机に着いた時、偶然にもテレビ画面に、「エスカレーション」を歌う河合奈保子さんの映像が出て来てビックリしました。すぐに会社用のカバンからカメラを取り出し、テレビ画面の奈保子さんを、記録として撮りました。「高嶋ちさ子のざわつく音楽会音楽家ちさこさんの原点 昭和歌謡昭和生まれがグッとくる6月のヒット曲エスカレーション 河合奈保子(1983年)作詞:売野雅勇/作曲:筒美京平/編曲:大村雅朗」「エスカレーション」は、奈保子さんが大人っぽい路線に変更した時期の歌です。オリコンチャートで、奈保子さんのシングルでは最高の売り上げとなりました。↓「エスカレーション」を歌う河合奈保子さん。
2023.07.10
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1981年12月31日、NHK紅白歌合戦で河合奈保子が初出場し、「スマイル・フォー・ミー」を歌いました。前回のブログで、1番を歌う奈保子さんを紹介したので、今回は2番目を歌う奈保子さんについて紹介します。また、「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」に、1981年紅白歌合戦で奈保子さんが思った事が記載されているので、一部を紹介します。テレビでは分からなかった、奈保子さんの心の動きが書いてあり、とても印象に残りました。P222~224「あの笑顔が、もどってまいりました。紅白初出場です。新潟のおばあちゃん、見ていらっしゃるでしょうか。コルセットも、まだとれないのよ。お辞儀も、まだじょうずにはできません。でも、こんなに元気になりました。本当によかった・・・。河合奈保子さんです。『スマイル・フォー・ミー』」紅白の司会者、黒柳徹子さんが、こんなふうに、紹介をして下さいました。最年少の初出場。私は、第32回紅白歌合戦での、トップバッターです。ステージの恐さに加えて、トップバッターというプレッシャーが、私を押しつぶそうとしていました。下手側の舞台袖で、出番を待ちながら、私の胸は張りさけそう。今か今かと震えていたのに、この黒柳さんのことばを聞いたとたんに、震えがピタッと止まったんです。不思議なほどに、気持ちがスウッと落ちついたんです。私の心ん中って、いったいどんなふうになっているのかはわかりません。でも、すごく強いものがあったような気がします。あの事故の日と同じように、下手側からステージへ。思い切りの笑顔で、飛び出しました。「スマイル・フォー・ミー スマイル・フォー・ユー」コーラスが始まりました。入場進行の赤いブレザー姿で、紅組の出場者の皆さんがフリをつけてくださいます。スクール・メイツの皆さんも、何十人と登場してきました。まっ白なミニのドレスを着た私。髪には、お花の髪飾り。笑顔が、精いっぱいのオシャレです。全国のファンの皆さんに、元気な姿を見てほしかったから、とびっきり元気よく歌いました。涙は禁物。青空のような笑顔でなければ、『スマイル・フォー・ミー』には、ならないでしょう?初出場にしては、自分でも悔いのないように歌えたと思っています。白色のトップバッターはマッチ。『ギンギラギンにさりげなく』を歌いました。次に登場したのは、やはり初出場の石川ひとみさん。『まちぶせ』を歌いました。でも、だんだんと声が震えて来て、どうとう涙で歌えなくなってしまったんです。うれしさと緊張のためだと思うのだけど、ひとみさんの気持ちは、痛いほどにわかりました。うしろの応援席で見ていた私。初めは笑顔でいたけれど、いつのまにか一緒に泣いていました。その頃になって、やっと実感がわいてきたのだと思います。私も、このステージに立って歌ったんだ・・・。何だか信じられないような気持でした。番組終了までの3時間、私は4着のドレスに着替えました。楽屋へもどるたびに、横になって休んでいたんです。だから、楽屋にいる時間のほうが多かったかもしれません。来年こそは元気になって、みんなと同じように出場したい! そんなことを、ずうっと考えていました。紅白初出場のVTR。家で見ていた家族にとってもらいました。見るたびに、黒柳さんのことばに胸が一杯になって、泣いてしまいます。あれは、本当に、私の心そのものでした。ーーーーーーーーーーーー河合奈保子さんが1981年10月5日に「第一腰椎圧迫骨折」で入院され、治療後に退院した後、桃の木温泉で休養され、芸能活動に復帰されました。それから12月31日には「輝け!日本レコード大賞 ゴールデン・アイドル」を受賞され、紅白歌合戦に初出場されました。奈保子さんにとって、怒涛の1年だったと思います。この時期の奈保子さんを、ブログにまとめてみましたが、当時のことを改めて思い出すことが出来ました。1983年1月以降については、また機会があるときにブログに書こうと思います。ーーーーーーーーーーーー↓ 1981年12月31日、NHK紅白歌合戦で「スマイル・フォー・ミー」を歌う河合奈保子さん。前回のブログでは1番目を紹介したので、今回は2番目を紹介する。↓ 河合奈保子さん。ーーーーーーーーーーーーーー「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」
2023.06.22
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1981年12月31日、NHK紅白歌合戦で河合奈保子さんが初出場し、「スマイル・フォー・ミー」を熱唱しました。まず、歌の1番目を歌う奈保子さんを紹介します。↓ NHK紅白歌合戦で「スマイル・フォー・ミー」を歌う河合奈保子さん。
2023.06.20
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1981年12月31日、NHK紅白歌合戦で河合奈保子さんが初出場しました。奈保子さんは11月5日に「第一腰椎圧迫骨折」となり、入院、療養を続けました。その後無事退院することができ、コルセットをまきながら紅白出場することができました。河合奈保子さんの出番の時、黒柳徹子さんが奈保子さんを紹介します。当時私は、テレビにかじりついて番組を見ていました。黒柳さんの暖かい言葉は、この年になっても忘れることができません。【黒柳徹子さんの言葉】あの笑顔が戻ってきました。紅白初出場です。新潟のおばあちゃん。見ていらっしゃるでしょうか。コルセットをまだ取れないのよ。お辞儀もまだ上手にできません。でも、こんなに元気になりました。本当に良かった。河合奈保子さんです。スマイル・フォー・ミー。ーーーーーーーーーーーーー↓ 黒柳徹子さんが河合奈保子さんを紹介する。
2023.06.19
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1981年12月30日、河合奈保子さんはNHK505スタジオで、紅白歌合戦の前日練習を行いました。ダン池田さんの指揮による「スマイル・フォー・ミー」を歌う奈保子さんです。↓ 河合奈保子さんとダン池田さん。
2023.06.18
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1981年12月31日、「輝け!日本レコード大賞」で、田原俊彦さん、柏原芳恵さん、河合奈保子さん、松田聖子さんが受賞されました。奈保子さんも笑顔いっぱいで、とても嬉しそうでした。↓ 左から田原俊彦さん、柏原芳恵さん、河合奈保子さん、松田聖子さん。↓ 田原俊彦さん。↓ 柏原芳恵さん。↓ 河合奈保子さん。↓ 松田聖子さん。
2023.06.17
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1981年12月31日、河合奈保子さんは「輝け!日本レコード大賞」で「ゴールデン・アイドル賞」を受賞しました。奈保子さんは「スマイル・フォー・ミー」を歌った後、竹下景子さんからインタビューを受けます。竹下さんが「奈保子ちゃーん、皆が応援してくれて、良かったねー」と切り出します。「どう?」と聞かれた奈保子さんは、「ありがとうございました」と胸いっぱいの表情で答えます。「ねえ、今年は奈保子ちゃんにとっても、色んな意味で忘れられない年になったと思うけど」と竹下さんが続けました。竹下さんが柏原芳恵さんに「芳恵ちゃんは、とっても親友なわけでしょ。奈保子ちゃんが怪我している時、やっぱりとっても心細かった?」と質問します。芳恵さんは「はい。いつも二人でキャッキャ、キャッキャ騒いでいるので、いないと淋しかった。でも、お見舞いに行くと、本当は辛いんだろうけど、一生懸命『キャーッ、ヨシヨシ!』なんて言って、とっても元気出してくれてね、芳恵も見舞いに行っても嬉しかった」と答えました。竹下さんは「ああ本当、奈保子ちゃんってそういう時でも、声はいつも明るかったんですってね」と話しました。河合奈保子さんと柏原芳恵さんは、ナオナオヨシヨシと呼び合う仲良しです。↓ 竹下景子さんが河合奈保子さんに質問をする。↓ 竹下景子さんが柏原芳恵さんに、奈保子さんについて聞いた。↓ 田原俊彦さん。↓ 松田聖子さん。
2023.06.16
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1981年12月31日、「輝け!日本レコード大賞」で、河合奈保子さんは「ゴールデン・アイドル賞」を受賞され、舞台で「スマイル・フォー・ミー」を歌いました。1番を歌い、繰り返しの部分になると、ゴールデン・アイドル賞を受賞した松田聖子さん、田原俊彦さん、柏原芳恵さんが河合奈保子さんのそばに来て、一緒に歌います。奈保子さんは「第一腰椎圧迫骨折」の療養が終わり、コルセットをしたままで歌っています。歌うのが嬉しくて仕方がないという感じで、笑顔がはちきれんばかりです。↓ 右から、松田聖子さん、河合奈保子さん、柏原芳恵さん、田原俊彦さん。↓ 河合奈保子さんと柏原芳恵さん。↓ 「スマイル・フォー・ミー」を一緒に歌う松田聖子さん。↓ 田原俊彦さん。
2023.06.15
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河合奈保子さんですが、1981年11月20日に『輝け!日本レコード大賞』で、”ゴールデン・アイドル賞”を受賞し、桃の木温泉の旅館でその連絡を受けました。「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」P205に、下記記載があります。「二日続けてのハッピー・デー。(注:前日にはNHKから紅白歌合戦初出場決定の連絡があった)11月20日には『輝け!日本レコード大賞』で、”ゴールデン・アイドル賞”を頂きました。聖子ちゃんとトシちゃんは会場で。私は、温泉で・・・。とってもうれしかったけれど、会場で歌えないのが残念! 12月31日の本選の日には、絶対に会場で歌いたいなあ。思いっきり大声な声で・・・。ーーーーーーーーーーーーーーー1981年11月20日、桃の木温泉の旅館で、『輝け!日本レコード大賞』”ゴールデン・アイドル賞”の受賞を知る河合奈保子さん。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー1981年12月31日、『輝け!日本レコード大賞』で、”ゴールデン・アイドル賞”を受賞し、舞台で「スマイル・フォー・ミー」を歌う河合奈保子さん。コルセットを付けている。↓ お辞儀をする奈保子さん。
2023.06.14
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「河合奈保子さんの会報 かなりや Vol.6 昭和56年(1981年)12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」で、「奈保子のひとりごと」として次の記載があり、紹介します。「奈保子のひとりごと 紅白蓋合戦初出場ほんとに嬉しいです!」紅白が決まって、まるで夢のようです。去年出場できなかったので、今年は絶対出たかった。デビュー前からあこがれの番組だったし、歌手になった以上目標でもあったし。でも初出場の知らせを聞いたとき、嬉しいんだけど信じられなくて、喜びをうまく表現できなかった。ちょうど温泉にいるときに聞いたんだけど、その日の夜、温泉の板前さんがお祝いに紅白の天ぷらを作ってくれたんです。紅と白のころものとってもきれいな天ぷら! もったいなくて食べれなかった。紅白の衣装はまだ決まってないけど、奈保子の希望としては白い衣装を着たいと思ってます。大好きな白い衣装で歌えたら最高でしょうね。みなさん楽しみにしてくださいね。そして「レコード大賞ゴールデンアイドル賞」を取れたのはファンのみなさんのおかげです。みなさんの応援にお応えして、精一杯歌います。ほんとうにどうもありがとうございました。
2023.06.13
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「河合奈保子さん会報 かなりや Vol.6 昭和56年(1981年)12月10日)発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」を見ると、奈保子さんが入院などについて、ファンからの質問にQAの形で答えている部分があり、紹介します。Q1)入院中いちばん嬉しかったことはなんですか?A1)入院してから1週間くらいファンのみなさんに申し訳ないってことばかり考えて、ずーっと淋しい思いをしてたんですね。そんなとき、ファンの方から送られてきた何千通のお手紙を全部読ませてもらって、「早く元気になんなきゃダメだよっ!」て書かれているのを見てすっごく励みになりました。その事がいちばん嬉しかったことです。Q2)入院中に体重の変化はありましたか。A2)ガーン!またこの質問!測ってないからわからないけど、変化してないみたいです。入院したから太ったなんて、あんまり言わないでくださいよー(笑)Q3)入院中、趣味の刺しゅうはしましたか?A3)あっ!刺しゅうのことまるっきり忘れてた!でも入院中はベットの上だし、針使うと危ないからできなかったでしょうね。前会報で紹介したレターラック、あれから全然進んでないんです。さっそくタヌキまんじゅうの箱出してやらなくちゃ(笑)。Q4)もうすぐクリスマスだけど、クリスマスの思い出ってある?A4)いちばん心に残っているのは小学生の時。プレゼントにピアノをもらったんです。あと中学のときは、友だち同士で家に集まってパーティーをやったこと。あんまり豪華にできなかったから、カレーライスとお菓子がメインでね。スーパーマーケットでみんなと一緒に材料買ったりしたのが、すごく楽しかったなー。Q5)奈保子ってズボンはかないけど、何か理由でもあるの?A5)あっはっはっー!どうしてはかないんでしょーねー!ズボンってあんまり持ってないんです。スカートも持ってないや。いちばん多いのはキュロットスカート。でも休みの日はジーンズはいてるんですよ。Q6)これから勉強したいことってある?A6)やっぱり歌ですね。まだまだ勉強することがいっぱいあります。それに事故があって、また1から出直すつもりでいるし、もう一生懸命がんばります。↓ 河合奈保子さん。
2023.06.12
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河合奈保子さんは「第一腰椎圧迫骨折」治療後に退院し、1981年11月20日から27日まで山梨県・桃の木温泉で休養されました。「河合奈保子さん会報 かなりや VOL.6 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」に次の記事がありました。「温泉最後の夜は奈保子の回復を祝って みんなで乾杯!」最後の夜は、板前さんが腕をふるっての大豪華食事! タイやカニなどがテーブルの上へズラリ!そして地元の方からの差し入れで、ケーキや果物などですごくにぎやか。食べきれないよォー!なんて嬉しい悲鳴の奈保子でありました。ーーーーーーーーーーー↓ 河合奈保子さん。温泉最後の夜。↓ 奈保子さんのメッセージ。ご心配をおかけしましたが、ほんとうにもうすっかり回復して元気いっぱいです。1月には新春コンサートもあります。今まで休んでいた分、思いっきり歌います。ただ体の方がまだちょっと無理がきかないかもしれませんが、その分精一杯やるだけのことをやりますので、みなさん期待していてくださいね。↓ 「えいっ!」もうこんなこともできるんだから!」
2023.06.11
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河合奈保子さんは「第一腰椎圧迫骨折」治療後に退院し、1981年11月20日から山梨県・桃の木温泉で休養されました。「河合奈保子さん会報 かなりや VOL.6 昭和56年(1981年)12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」で、次の記事がありました。「療養の後半は大取材攻撃!」もう走れるくらいになった頃、各TV局、雑誌などの取材ですさまじいほど、そしてどこの取材陣も聞く事は同じ。太らなかった? これに奈保子大憤慨!「もー、みーな体重のことばかり聞くんですよー!全然変わっていないのに!」ごめん・・・。われわれFC取材班も奈保子にこの質問をしてしまったのだ。あいかわらず美しい奈保子だったよ。だから許しておくれ。ーーーーーーーーーーー某新聞社からの電話取材。「私、太ってなんかいませんですよ」
2023.06.10
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1981年11月20日~27日、河合奈保子さんは「第一腰椎圧迫骨折」治療後に退院し、山梨県・桃の木温泉で、休暇を取りました。「河合奈保子さん会報 かなりや VOL.6 昭和56年(1981年)12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」には、次の記事がありました。「階段の登り降りはもっとしとやかに・・・」温泉に来た当初は、階段の登り降りもつらかった奈保子だけど、回復するにつれてタッタッタッとリズミックに登れるようになった。しかしタッタッタッが次第にドッドッドッに。「私が階段登ると旅館中に響くんだって。女の子らしく登りなさいって注意されちゃった。静かにしてるつもりなんだけどなあ!」たしかにドッドッドッ!だね。でも音をたてて階段を上がり降りするくらい元気だったんだもん。それでいいのだよ。さて骨によく効く温泉に入るのは眠る直前に入るのがいいんだって。温泉で筋肉がほぐれたところで眠ると効果抜群!しかし宵っぱりの奈保子。お布団に入ってもゲームをしたり本を読んだり、あいかわらず夜早くには眠ることができなかったそうだ。「温泉につかってると、なんとなく治ってゆくのがわかるんですね。ここに来てから日に日に回復していくのが早いみたい」うーん。さすが桃の木温泉。きみも骨を痛めたら是非訪れたらいかが?↓ アレンジャーの神林さんと「ラブレター」のレッスン。「早くTVで歌いたいな」↓ ひさしぶりに弾くピアノ。この感触がたまりません!
2023.06.09
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河合奈保子さんは「第一腰椎圧迫骨折」による入院が終わり、1981年11月20日から山梨県・桃の木温泉で1週間休養されました。「河合奈保子さん会報 かなりや VOL.6 昭和56年(1981年12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」には、桃の木温泉にて生まれて初めて「北斗七星」を見た事が書いてあるので紹介します。生まれて初めて見た北斗七星に奈保子カンゲキ!「夜、なんの気なしに窓を開けたんです。そしたら目の前に北斗七星! もー大感激!教科書で見た事はあるけど、本物は初めてなんだもの。しばらくボーゼンとしちゃってマネージャーに『早く寝なさい!』なんて怒られちゃった』」毎夜、まるで降るように空いっぱいに輝く星々。でも奈保子の目に映る星の方がもっときれいだったよ。↓ 桃の木温泉で休養中の河合奈保子さん。ーーーーーーーーーーー私が持っている「最新版 全天恒星図<1950年分点> 廣瀬秀雄、中野繁 共著/誠文堂新光社/昭和51年(1976年)10月25日 第11版発行」。↓ 大熊座の北斗七星の部分。↓ 大熊座の北斗七星。↓ 北斗七星。
2023.06.08
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河合奈保子さんですが、「第一腰椎圧迫骨折」の治療が終わり退院した後、1981年11月20日から山梨県・桃の木温泉で休養されました。「河合奈保子さんの会報 かなりや VOL.6 昭和56年(1981年)12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」に、桃の木温泉で休養中の奈保子さんの記事があるので紹介します。「TVは1時間100円! こんなのないよぉー!」TV好きの奈保子がなぜかTVをつけない。「だっておカネ入れなきゃダメなんですよー。1時間100円なんだもん。もったいないから見ないんだ」TVが見たいときは、ちゃっかりとマネージャーの部屋へ。おかげでマネージャー、小銭がなくなって困っていたよ。↓ 「もうすぐ切れちゃうから誰か100円ちょーだい」
2023.06.07
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「河合奈保子さん会報 かなりや VOL.6 昭和56年(1981年)12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」ですが、奈保子さんが「第一腰椎圧迫骨折」の入院を終え、1981年11月20日から山梨県桃の木温泉で休養した次の記事があります。「甲府から約40分行ったところにある桃の木温泉。奈保子は腰の骨の回復のため、11月20日から27日まで、この閑静な温泉地でのんびりと過ごした。気になる温泉での行動を、FCはばっちり取材してきたぞ」「奈保子温泉レポート いい空気を吸ってのんびり過ごした1週間」「朝は午前9時に起床! 朝食がとってもおいしい」温泉に滞在して1週間。後半は雑誌やTVの取材で忙しかったけど、その前半はとにかくのんびり、のんびりと、朝は9時に起床し、ホッカホッカの御飯で朝食。腰をコルセットでしめつけられていたのにもかかわらず、空気がおいしいせいか奈保子は朝から食欲もりもり。出されたものは何一つ残さず食べていたよ。ただ朝の凍てつく寒さには奈保子もずいぶんとまいっちゃって、朝起きるときはムクムクの着ぶくれ奈保子。ダルマのようになって朝を過ごすのだ。午前中は朝食のあとゲーム大会。病院からもってきたゲームをマネージャーと夢中になってやっていた。ゲームの苦手な奈保子も、ようやく人並に出来るようになったとか。ーーーーーーーーーーーー↓ 着ぶくれぶくぶく。河合奈保子さん。↓ 河合奈保子さん。↓ こたつでくつろぐ奈保子。ミカンやリンゴを食べてゴキゲン。↓ マネージャーS氏と恋愛ゲームをして楽しんでます。↓ 奈保子が夢中になってやったゲーム。お気に入りはインベーダーゲーム。
2023.06.06
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河合奈保子さんは1981年10月5日、NHKホールの小ゼリから落ちて「第一腰椎圧迫骨折」で入院となりましたが、11月16日に退院し、11月20日から山梨県中巨摩郡(現:南アルプス市)の桃の木温泉で休養されました。「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」P190から桃の木温泉の記載があるので、少し紹介します。20日から一週間、リハビリをかねて、山梨県の温泉に行くことになりました。ゆっくりと休養ができるように、記者会見では、下部温泉へ行くとごまかしていたようです。でも、本当は、山梨県中巨摩郡物の木温泉”桃栄館”という所へ潜ぷく(?)していました。当日は、朝6時半に集合。私と名里さんと佐藤さん、香川さんと清水さん、そしてトレーナーの川島さんと、車3台をつらねて走らせました。車の中からは、紅葉した山々が見えてとてもきれい。それに、お天気に恵まれたせいか、雪でまっ白な富士山が見えたんです。何だかとてもうれしくて、ドライブ気分を満喫していました。とはいうものの、中央高速を、精一杯のノロノロ運転。コルセットをつけた私は、座イス(体が楽なように、車のソファにおいて使っていました)に身をまかせて、少しでも体が楽なように過ごしていました。当然、ギブスベッドも持参です。桃の木温泉は、甲府のインターチェンジを降りてから、40分ほど走った所にありました。ーーーーーーーーーーーー旺文社の「山と高原地図」34、42を持っているので、桃の木温泉の場所を示します。桃の木温泉、夜叉神峠、広河原、鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)、白峰三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)の位置が分かるようにしています。山登りが好きな方なら、良くご存じの場所です。ちなみに、北岳は日本で2番目に高い山です。1位は富士山、3位は北アルプスの奥穂高岳です。ーーーーーーーーーーーーー↓ 桃の木温泉で休養中の河合奈保子さん。↓「河合奈保子さんの会報 かなりや Vol.6 昭和56年(1981年)12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部。↓「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」ーーーーーーーーーーーーーーーーー【桃の木温泉の場所】↓ 2018年版 日本アルプス総図/山と高原地図34/旺文社↓ 右は「韮崎駅」。中央下が「桃の木温泉」その上が「夜叉神峠」、中央上は「鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)」、左は上から「北岳」、「間ノ岳」、「農鳥岳」。↓ 桃の木温泉、夜叉神峠、広河原、北岳、間ノ岳、農鳥岳の位置。↓ 桃の木温泉と夜叉神峠の位置。ーーーーーーーーーーーーー↓ 2022年版 北岳・甲斐駒 南アルプス/山と高原地図42/旺文社↓ 甲府と南アルプスの位置図。北岳、鳳凰山、夜叉神峠、広河原、韮崎の記載あり。↓ 図の右端の黄色い枠が、桃の木温泉。ーーーーーーーーー↓ 櫛形山の図。左端に「桃の木温泉」がある。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 山と渓谷 2022年8月号 特集巨大山塊 南アルプス 表紙p53 北部概念図。
2023.06.05
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1981年10月5日、河合奈保子さんはNHKホールの小ゼリから落ちて、「第一腰椎圧迫骨折」で入院となりましたが、11月16日に退院されました。「河合奈保子さんの会報 かなりや Vol.6 昭和56年(1981年)12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」を見ると、「待ちに待って奈保子退院!」という記事があるので、紹介します。待ちに待って奈保子退院!新曲「ラブレター」も発売され、遂にエンジン始動!奈保子がブラウン管から消えてはや2ヶ月半。奈保子の笑顔を見たくて首を伸ばし切っていたみんな、お待たせしました! 奈保子はやっと退院して、遂にTV出演もできるほど元気になりました。↓「河合奈保子さんの会報 かなりや Vol.6 昭和56年(1981年)12月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」河合奈保子さんのメッセージ「みなさん、お元気ですか?本当に長い間、心配かけてしまってすみませんでした。もう、すっかり良くなって、今、少しずつお仕事はじめています。これからまた、新しい気持ちでがんばります。応援してくださいネ!!NAOKOより」ーーーーーーーーーーーーーーーー↓「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」P180~181で、奈保子さんと祖母の事が書いてあります。待ちに待った退院の日が、11月16日と決まりました。バンザーイ!でも、情が移るというのかしら。この病室にも愛着がわいてきて、サヨナラするのが何となくさみしいような気がします。仲よしになった先生や看護婦さんとも、お名残りおしい。当分の間は通院しなければいけないし、また会えるかなあ。退院が決まって誰よりも喜んだのは、おばあちゃんかもしれません。長生きをして、奈保子の花嫁姿も見たいし、赤ちゃんだって抱いてみたいねって言ってたんだもん。これで安心して新潟に帰れると、ホットしたそうです。おばあちゃんは、茶わんむしや野菜サラダを作って、毎日のように届けてくれました。「具は入れないでね」って注文をするので、おばあちゃん特製の茶わんむしは、プリンのよう。口の中でつるんとすべるような舌ざわりは、さすがに年季が入っていて絶妙の味。「おいしいね」ってほめると、そればっかり毎日作って運んでくれる。かわいいおばあちゃんでもあります。私のために、1ヵ月もお寺さんを留守にしてしまって・・・。(注:奈保子さんの新潟の田舎はお寺)お寺の住職さんは、おかあさんの弟であるおじさんがやっています。でも、おばあちゃんも、自転車に乗って檀家さんへお経をあげに行ってるんです。おじさんたちも、おばあちゃんの帰りを、首を長くして待っているので、私の退院を見届けてから新潟に帰ることになりました。おばあちゃん。長い間ありがとう。いつか、おばあちゃん孝行をするから待っていてね。退院してからは、家族4人が一緒に暮らせるようになりました。新しいマンションへ、お引っ越しです。20日からは、山梨県の温泉へリハビリテーションに行くことになりました。12月には、お仕事へも復帰できる見込み、止まっていた歯車が、また回転をし始めたようです。
2023.06.04
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「河合奈保子さん会報 かなりや Vol.5 昭和56年(1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」に、『セットをこわしちゃタメよ!」という記事がありました。ここはTBS「たのきん全力投球」のスタジオ。本番の合間に、セットとして置かれている花びんを、奈保子はヒマそうにいじくりまわしていた。しかしこの花びんはちょっとしたしかけになっていて、動かしちゃいけないものだったのです。ディレクターがすっとんできて「ダメー!」と言ってももう遅い。たのきんからは「ヒヨコがこわした!」とバカにされ、スタジオ中は苦笑い。「こめんなさ・・・い・・・」と語尾も小さい奈保子でした。↓ 「それでね、私ね、」なんておしゃべりしながら花びんをくるくる。↓「あっこれまずいよ動かしちゃあ!」「えっ!」ドキッ。↓「あーこわした、こわしたー!」奈保子しゅーん・・・。↓「さきほどは申し訳ありませんでした」と奈保子。「いいえ、いつものことですから」と田原のあんちゃん。↓ 今月の決定的瞬間。えーい!スーパーマンだぞォー!と、テレビカメラの乗っているクレーンを軽々と上げる奈保子。げっ!顔に似合わずすごい力・・・ぞっー!なーんちゃって、これは左の方で操作して、軽く持ち上がるようにしているのでした。あーびっくりした!?
2023.06.03
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1981年秋ですが、河合奈保子さんの会報にて、奈保子さんが刺繍をされている記事があるので紹介します。「奈保子しんぶん 1981年秋 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」最近奈保子は刺繍に凝っています。それも特にクロスステッチ。マネージャーさんに連れられて、布や糸を買ってきては、ヒマさえあれば女の子っぽく糸を通しているのです。今作成中なのはクッション。完成したらまっさきにFC(ファンクラブ)のみなさんに見せてくれることを約束してくれました。(男性諸君はクロスステッチって言ってもわからないと思うので、ちょっくら説明しますと、専用の布に十字に刺繍してゆく方法をいうのです。刺繍のなかでもけっこうテマがかかるもので、でも誰ても美しく仕上がるっちゅーステッチなのです)「河合奈保子さん会報 Vol. 5 昭和56年〔1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」なんとおまんじゅうの空き箱に刺繍道具が!先月号で紹介したとおり、奈保子は今クロスステッチに凝っている。クッションはとっくに出来上がって、現在制作中なのはレターラック。それも完成間近で、最後の追い込みにがんばっている。しかし色とりどりのきれいな糸や針を入れている箱をみてガクゼン!「せんば子狸まんじゅう」の空き箱じゃないのォ・・・」「アッハッハ。だっててきとうな大きさの箱がなかったんですよォ。でもそんなにこの箱へんですか?」奈保子のシールをはって、かわいく見せようとしてるけど、この箱は華麗な手芸道具を入れる箱ではありませぬ。どなたか奈保子にプレゼントしてやっちくれェ。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 奈保子さんと刺繍作品。↓ 刺繍道具を入れている「せんば小狸まんじゅう」の箱。奈保子さんのハートシールが上に貼られている。↓ 奈保子さんの刺繍道具。↓「河合奈保子さん会報 Vol. 5 昭和56年〔1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」
2023.06.02
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「河合奈保子さん会報 かなりや Vol. 5 昭和56年(1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子さんFC編集部」に「徹底研究!奈保子♡」という記事があります。奈保子さんのウォークマンと眼鏡について書かれているので紹介します。ウォークマンで常に音楽に触れている奈保子の持っているのはウォークマンⅠ。しかしヘッドホンだけはⅡのもの。これで少しでも時間が空くと音楽を聴いている。今日のテープはイルカ。ウォークマンの前に写っているのはメガネ。仕事中はめったにかけないけど、誰もいない所ではどうやらかけているらしい。このメガネ、買ってからずいぶんたつらしく形もなんとなくオバンくさ・・・あっごめん!ケースに入れずに、ディバッグの中に無造作に入れてるもんだから、レンズも傷だらけ。そろそろメガネを買いかえたいらしいけど、ヒマがないんだって。奈保子にはアラレちゃんみたいなメガネが似合うんじゃないかな。奈保子お気に入りのミッキーの鏡はこれで3つめ。1つめはマネージャーのS氏が落っことして割っちゃった。2つめはグアムに置き忘れ。それでこれが3つめというわけ。3つめは誰がどうやってなくすのかなあ・・・。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 河合奈保子さんのウォークマン、メガネ、ミッキーマウスの鏡。「河合奈保子さん会報 かなりや Vol. 5 昭和56年(1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子さんFC編集部」
2023.06.01
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「河合奈保子さん会報 かなりや Vol.5 昭和56年10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」の中に、「徹底研究!奈保子♡」という記事があります。奈保子さんの化粧道具について記載があるので紹介します。奈保子さんはデビュー当時から、色々な記事で、奈保子さんは化粧をしないか、薄化粧程度と書かれていました。今回の記事でも、「日本一化粧品を持っていない歌手なのです」と書いてあります。お化粧道具は小さくまとめて仕事上で大切なお化粧道具は、赤いポーチにかわいくまとめてある。ここでひとつ注意書きを。普通歌手の人っていうのは、30㎝四方くらいの化粧バッグにお化粧品をドバっと入れて持っていくのが常。しかし奈保子はこれだけ。これだけでっせ!日本一化粧品を持っていない歌手なのです。でもお化粧の匂いが感じられないのが魅力だもん。これでいいのだ。先日愛用のリップクリームを忘れ、本番前にあわてて仲良しの柏原よしえちゃんに借りていたのを目撃!きみのクラスの女の子も、トイレで友達とリップクリームの貸し借りしてるでしょ。今度確かめに行ってごらん。なんちゃって。ちなみに、女性ファンのために、奈保子の使用している基礎化粧品は、マリークワントのものですよ。「河合奈保子さん会報 かなりや Vol.5 昭和56年10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」
2023.05.31
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「河合奈保子さん会報 かなりや Vol. 5 昭和56年(1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」に、「徹底研究! 奈保子♡」という面白い記事があるので紹介します。「ナオコはきらびやかな芸能界にいても、なぜか普通の女の子。きみの隣の席に座っている女の子みたいに、小さなことにクヨクヨしたり、笑ったり。それは奈保子の持ち物ひとつにしてもわかる。どこにでも売っている物を、大事に大事にしている奈保子。今回はそんな奈保子の愛用品を、どばっとここで公開しちゃうぞ! そしてもちろん、クスッと笑っちゃう奈保子のドジエピソードも、奈保子に内緒で紹介しちゃおう!」リュックサック下げて、まるで遠足気分今まで奈保子のバッグは、妹さんからもらったピンクのスポーツバッグだった。それが最近はなんとNOWく、真っ赤なディバッグを下げている。バースデーにファンの方からプレゼントされたものだ。ファスナーの部分には、マンションの鍵と、食いしん坊の奈保子らしく、ハンバーガーの小物まで吊るしてある。奈保子が歩くたんびにハンバーガーがユラユラ・・・。さて、奈保子のお話に耳を傾けてみよう。「いろんな物が入っているから、いつもパンパンなんです。でもこのリュックいいでしょ。遠足行くみたいで気分がいいんですよね・・・。えっ?これディバッグっていうんですか。へーっ。今リュックサックっていわないんですねー」ーーーーーーーーーーーーーーーー「河合奈保子さん会報 かなりや Vol. 5 昭和56年(1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」
2023.05.30
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河合奈保子さんの会報「かなりや Vol.5 昭和56年(1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」ですが、「奈保子FC 特別販売物」の紹介があります。「奈保子の新しい写真集をFC(ファンクラブ)より特別販売致します。あなたの住所・氏名・電話番号をお書きの上、現金書留に1,000円(送料込み)を入れて「奈保子・写真集」係まで」この写真集は、音楽専科社が発行しています。ーーーーーーーーーーーーー「Naoko Kawai /音楽専科社」ーーーーーーーーーーーーー河合奈保子さんの会報「かなりや Vol.5 昭和56年(1981年)10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」下の部分に、「特別販売物」として奈保子さんの写真集の紹介がある。
2023.05.29
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河合奈保子さんの「かなりや Vol.5 昭和56年10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」があります。奈保子さんは1981年10月5日に事故に遭い、入院されましたが、この会報はその時期に発行されたものです。事故の少し前ですが、奈保子さんの手書きメッセージがあるのでご紹介します。「秋・・・・外はもうすっかり秋ですね!!ついこのあいだまでは、毎日毎日、セミの泣き声が聞こえて、夏まっ盛りって感じだったのに・・・。今奈保子は、初めてのサマーコンサートを終えて、ホッとしたところです。会場に来て下さったみなさん。本当にありがとうございました。とってもステキな思い出ができました。ところで、9月1日にでました。ムーンライト♡キッス。きいてくれましたか?とってもロマンティックな曲で、気に入ってます。そうそう、一番大切なことを言い忘れていました。(ごめんねっ)今度10月10日、11日、大阪の万博ホール。東京では10月16日、17日に芝郵便貯金ホールで、カナリー♡コンサートを行います。昨年よりも、もっともっとステキなコンサートにしたいなあ・・・って思って、今とてもハリキッテます。奈保子はコンサート、大好きです。だって、みなさんとのふれあいの場だと思うから・・・♡♡♡。それではみなさん、またどこかでおあいしましょうねっ♡from NAOKO」ーーーーーーーーーーーーーー↓「かなりや Vol.5 昭和56年10月10日発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」↓ 河合奈保子さん。↓ 奈保子さんのメッセージ。
2023.05.28
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「河合奈保子 カナリー・コンサート」のパンフレットに、「銀座山野楽器」のCMがあったので紹介します。「YAMANO NAOKO NEWS河合奈保子 カナリーコンサート パートⅡライブ(仮題)2,800円 曲目未定1981.10.16~17 郵便貯金ホールでの実況録音。本日の公園がライブ盤になります。11/25発売予定只今 予約受付中!!山野オリジナル予約特典・オリジナルキーホルダー・カラーポスター」広告には、「銀座山野楽器店に来店の奈保子」として、奈保子さんの写真が記載されています。奈保子さんは1981年10月5日に事故に遭い、入院されたので、このライブは実施されなかったと思いますが、CMを見ると、当時の奈保子さんの人気や勢いを感じることが出来ます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓「河合奈保子 カナリー・コンサート」のパンフレットより。「銀座山野楽器」のCM。↓ 銀座山野楽器店に来店の河合奈保子さん。↓ 「河合奈保子 カナリー・コンサート」のパンフレット。(黒坂了司氏撮影)河合奈保子さんのサイン有り。↓ 清楚で可愛らしい奈保子さん。
2023.05.27
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1981年10月5日、河合奈保子さんはNHKホールでレッツゴーヤング・リハーサルの時に小ゼリから転落し、「第一腰椎圧迫骨折」で入院されました。「奈保子しんぶん Vol.4 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」を見ると、当時の奈保子さんのスケジュール表(1981年9月17日~10月31日)があり、「河合奈保子さん会報 かなりや Vol.5 昭和56年(1981年)10月10日 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」を見ると、スケジュール表(1981年10月16日~11月17日)があります。事故のあった1981年10月5日以降も、予定がびっしり入っていたことが分かります。(1981年10月5日の事故以降に予定されていた11月16日までのスケジュール)10月 6日 12ch ヤングベストテン10月 7日 LF レギュラー TBSたのきん10月 8日 CX スターどっきり10月 9日 リハーサル10月10日 大阪万博ホール(リサイタル)10月11日 大阪万博ホール(リサイタル)10月12日 CX 夜のヒットスタジオ10月13日 ANB 音楽祭ノミネート10月14日 リハーサル10月15日 新宿音楽祭10月16日 東京郵便貯金ホール(リサイタル)10月17日 東京郵便貯金ホール(リサイタル)10月18日 取材10月19日 レコーディング FL レギュラー10月20日 レコーディング10月21日 LF レギュラー/TBSたのきん10月22日 取材10月23日 12ch 歌マネ大賞10月24日 早稲田大学学園祭10月25日 信州上田市民会館(コンサート)10月26日 取材10月27日 レコーディング/12ch ヤンヤン10月28日 ANB 音楽祭本選(中野サンプラザ)10月29日 日本歌謡大賞ノミネート10月30日 レコーディング/LF ヤンスタNo.110月31日 島根11月 1日 MBS11月 2日 CX かくし芸11月 3日 取材11月 4日 TBS たのきん11月 5日 CX かくし芸11月 6日 CX スタバレ11月 7日 CX かくし芸11月 8日 取材11月 9日 NTV ザ・コイピューター11月10日 ハウス CF11月11日 NTV 日曜8時ドンパチ放送11月12日 日本歌謡大賞本選(武道館)11月13日 NTV モーニングサラダ ソックリモノまね大賞11月14日 市原市民会館11月15日 熊谷会館11月16日 取材11月17日 12ch ヤンヤンーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」のp9~10に、奈保子さんが救急車の中で、事故のためスケジュールに穴を開けてしまうのではないかと心配する心境が記載されているので紹介します。(p9~10))昭和56年(1981年)10月5日。渋谷のNHKホールで行われた『レッツゴーヤング』の収録。そのリハーサル中、私は、ステージに開けられた小ゼリ(深さ約4.5メートル)に、誤って落ちてしまったのです。午後4時20分。それは忘れられない時間となりました。私は救急車の中にいます。タンカの上に横たわったままの姿で、運ばれています。聞き覚えのあるサイレンの音が、まるで人ごとのように飛びこんでくるのは、どうしたことでしょう。心とは裏腹に、不思議なほどに意識がハッキリしています。「もうすぐ病院に着くからね。それまでのしんぼうだよ。どこが痛いのか、自分で説明できるね」私はこれからどこかの病院へつれていかれるのでしょう。白衣の人は、カルテをとっているようです。本人への質問は、意識がどのていど正常かを確認するためだと言い、話しかけるのをやめようとはしませんでいた。答えながら、私はずっと泣いていました。涙があとからあとからこぼれてきて、耳のほうへと伝わってゆくのがわかります。このことはファンの皆さんに知られちゃうのかな・・・。大阪のおとうさんやおかあさんが聞いたら、どんなに驚くだろう・・・。3日も寝ていれば平気だろうけれど、コンサートは大丈夫かな・・・。今日の『レッツゴーヤング』の本番は、出なくても平気なのかしら・・・。事務所の人に迷惑をかけちゃって、申しわけないことをしてしまったんだ・・・。頭の中では、いろんなことが渦をまいていました。「くだらないことを考えていたんだね」って言われるかもしれません。でも、デビューしてから一日の休みもなかった私にとって、仕事を休まなければならないってことが、どんなに大きくて、気がかりなことか・・・。考えれば考えるほど、そんな事故を起こしてしまった自分がくやしくて、涙がとまりませんでした。ーーーーーーーーーーーーーーー↓「奈保子しんぶん Vol.4 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」↓ 河合奈保子さん 1981年9月17日~10月31日のスケジュール予定表。10月5日に墜落事故があり、それ以降はキャンセルとなった。↓ 河合奈保子さん 1981年10月16日~11月17日のスケジュール予定表。10月5日に墜落事故があり、それ以降はキャンセルとなった。↓ 予定されていた10月10日、11日の大阪万博ホールのリサイタル。ーーーーーーーーーーーーーー↓「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」
2023.05.26
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河合奈保子さんは「第一腰椎圧迫骨折」で入院されていましたが、1981年12月に復帰され、「ラブレター (作詞:竜真知子、作曲:馬飼野康二、編曲:若草恵、歌:河合奈保子)」がリリースされました。サイン付「ラブレター」のレコードを持っているので、紹介します。レコードのB面は、「No No Boy (作詞:竜真知子、作曲:馬飼野康二、編曲:若草恵、歌:河合奈保子)」です。「奈保子しんぶん Vol.6 昭和57年(1982年)1月発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」には、「ラブレター」の振付で、次の記事があります。「奈保子スナップ! 楽屋でも振りのレッスン」「私ってちゃんとした振りも、すぐ自分流にアレンジしちゃうから気をつけなくちゃ・・・」なんて言いながら、「ラブレター」の振付を練習する奈保子。見ている方は簡単そうに見えても、踊りながら歌うっていうのはとてもたいへんなこと。こんなふうに普段の研究があってこし、TVやステージの成功があるんだね。ーーーーーーーーーーー河合奈保子さん「ラブレター」レコード。サイン付。 1981年12月発売。↓(A面)「ラブレター (作詞:竜真知子、作曲:馬飼野康二、編曲:若草恵、歌:河合奈保子)」↓(B面)「No No Boy (作詞:竜真知子、作曲:馬飼野康二、編曲:若草恵、歌:河合奈保子)」ーーーーーーーーーーーーーーーーーー「奈保子しんぶん Vol.6 昭和57年(1982年)1月発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」「奈保子スナップ! 楽屋でも振りのレッスン」* コルセットを付けたまま、練習をする奈保子さん。
2023.05.25
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奈保子さんですが、1981年10月5日、NHKホールの小ゼリから転落し、「第一腰椎圧迫骨折」で入院されました。退院後に休養し、1981年11月30日に「夜のヒットスタジオ」でTV番組復帰されました。1981年12月13日、「秀樹の弟・妹コンテスト」が東京・九段会館で行われ、河合奈保子さんはゲスト審査員として出場されました。コンサートは石川秀美さんが優勝しました。秀樹の弟・妹コンテストの後、午後6時から、河合奈保子さんの復帰後初のステージが始まりました。「奈保子しんぶん Vol.6 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」に、ステージの詳細が記事になっているので、一部を紹介します。ーーーーーーーーーー復帰後初のステージということに、オーディションの熱気が加わり、奈保子はいつになく緊張気味。「まだ無理が出来ないので、マキシムさんたちに助けてもらいながらがんばります」そう言い残しステージに飛び出して行った。ーーーーーーーーーー(1部の様子)ショッキングピンクのサロペットという、私服で登場だ。ステージ中央にセットされたイスに腰かけ、ノートを開く奈保子。入院中にせつせつと綴っていた日記を読みながら、その想いを歌にたくしていくという設定だ。「10月10日晴れ。今まで泣いてばかりいたけど、たくさんの方から激励のお手紙をいただいて、本当にうれしかった。でもTVを見るのはやっぱりつらい。まるで別世界のように感じてしまう・・・。早く元気になって歌いたい・・・」「奈保子のまわりには家族のみんながいる。わざわざ仕事を休んで、おとうさんまで来てくれている・・・。悪いな・・・って思う。おばあちゃんが『お嫁さんに行けなくなっちゃうんじゃないかと思ったよ・・・」なんて言った。バカだな・・・おばあちゃんたら・・・。奈保子はまだ・・・18・・・なのに・・・」声を震わせて「秋桜」を歌う。奈保子が泣いている・・・。奈保子のケガはみんなが心配した・・・。でもいちばん、この世の中でいちばん心配したのは、奈保子の家族他ならないのだ。家族を思って一生懸命「秋桜」を歌った奈保子・・・。「10月30日、今日は待ちに待ったお好み焼きとタコ焼きを、おかあさんが持ってきてくれた。おいしい・・・」奈保子の大好きなイルカの「あの頃の僕は」そして「あの素晴らしい愛をもう一度」「心もよう」が続く。スポットはただ一点。奈保子だけにあたり、しっとりとやさしい。時折スポットを見上げる奈保子。眩しいばかりの照明も、この日は太陽よりも輝かしく奈保子に映ったことだろう。「11月24日、うれしい知らせ・・・。奈保子が紅白歌合戦で歌うことが決まった」それまで水を打ったような静けさだった会場が大歓声。「ケガをした日、神様は奈保子に翼をくれたのかもしれません。だってこんなに早く良くなったんだもの」そう、そしてその翼は天使の翼よりきれいなものなんだ。「翼をください」では会場全体の大合唱となった。感激で声もとぎれがちな奈保子を、みんなで盛り上げて1部は終了した。ーーーーーーーーーー(2部の様子)ヒット曲メドレー。イスに座りっぱなしの1部とはうって変わって、2部はまっ白なステージ衣装でいつもの奈保子のステージだ。デビュー曲から「ラブレター」まで、汗と涙で顔をくしゃくしゃにして歌ってくれた奈保子。今日は奈保子の体を考えてアンコールはなし。しかし奈保子はとめるスタッフを振りきってステージに登場してくれた。「ごめんね。奈保子あんまり長い間立ってられないんです。みんなとお別れするのつらいけど、また会えるもんね!カナリーコンサートで会えるもんね!そのときもっともっと歌うからね!」奈保子に見送られて会場を出てゆくファンの人たち。「バイバイ!」なんて、まるで友達にさよならするみたいに手を振ってくれた奈保子・ーーーーーーーーーー「奈保子しんぶん Vol.6 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部」1981年12月13日の記事より。↓ 1981年12月13日、秀樹の弟・妹コンテストで石川秀美さんが優勝。西城秀樹さん、石川秀美さん、河合奈保子さん。
2023.05.24
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1981年12月13日、芸映プロダクション主催の「秀樹の弟・妹コンテスト」で、石川秀美さんが優勝して歌手デビューしました。河合奈保子さんは同コンテストで、審査員として参加されました。「第一腰椎圧迫骨折」で入院されていたのですが、無事退院されてまだ間もない時期で、コルセットを付けての出席です。石川秀美さんのデビュー曲は「妖精時代 (作詞:松本隆、作曲:小田裕一郎、編曲:萩田光雄)」です。ーーーーーーーーーデビュー曲「妖精時代」を歌う石川秀美さん。↓ 西城秀樹さん、石川秀美さん、河合奈保子さん。↓ 河合奈保子さんと石川秀美さん、
2023.05.23
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1981年10月5日、河合奈保子さんがNHKホールの小ゼリから転落し、「第一腰椎圧迫骨折」で入院しました。退院、休養後、1981年11月30日に「夜のヒットスタジオ」でTV番組復帰されました。コルセットを付けながら、芸能活動を再開された奈保子さん。1981年12月13日は、芸映プロダクション主催の新人オーディション「秀樹の弟・妹オーディション」で、奈保子さんも審査員として出席されました。そして、「秀樹・奈保子の妹」に決定したのは、当時中学3年生の石川秀美さんでした。ーーーーーーーーーーーー「愛 編む 秀美 I am Hidemi/石川秀美/集英社/1982年10月31日 第1刷発行」を見ると、石川秀美さんがオーディションに合格した時の様子が記載されています。西城秀樹さんと河合奈保子さんの名前も出てきます。(P48)55460分の1。この数字、何かわかります?あのね、秀美が秀樹さんの妹に選ばれたときの確率なのです。えーっ、うっそォ~ッ。ー秀美、嫌いだけど、ぶりっこやっちゃいます。だって、東京・九段会館の決戦大会で選ばれたときの秀美の感想って、本当にそうだったんだもん。”えーっ、うっそォ~ッ”もう、俗にいうぶりっこそのもの。でも、信じられなかったんですよね。ほんとに。決勝大会は(1981年)12月の13日、日曜日。(P51)決戦大会の当日は、全部で14人の出場者がいたんだけど、み~んながガチンガチンにあがってるでしょ。それを舞台の裏で、秀樹さんと奈保子さんがほぐそうとして、ジョークいったりしてくれてたんですよね。でも、どんなジョークだったか、笑ったかどうかも覚えてないんです。ただ、わーっ、やっぱり優しい心づかいのある人たちなんだなあって、感じてました。(P52)”あ~あ、特別賞もダメだったし、もういいや”って思いつつ、ずっと下向いていると、ただ下向いているのもつまんなくってね。呪文みたいに「6番・石川秀美、6番・石川秀美・・・」って唱えた。で、呼ばれたんですよ、秀美の名前が。”ありィ!?”その次は、例のぶりっこ。でも、秀樹さんと奈保子さんから、トロフィーや花束を受けとっているうちに、うわ~っ、本当なんだなあって実感がわいてきて、秀美、もう泣きべそ!その泣きべその顔のまんま、すぐ記者会見があって、事務所の人たちにあいさつして、初めて太田さんと富山さん(いつもついてくれている秀美のマネージャー)に紹介されたんです。その夜は、泊まれば、奈保子さんのショーが見られたんだけど、秀美、学校もあるし、太田さんと富山さんに送られて、最終の新幹線で帰ったの。ーーーーーーーーーーー↓ 奈保子しんぶん Vol.6 昭和57年(1982年1月発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部より。「奈保子に引き続きフレッシュガール誕生! 秀樹・奈保子の妹は中学3年生の石川秀美ちゃん!」↓ 画面右から、西城秀樹さん、石川秀美さん、河合奈保子さん。↓「愛 編む 秀美 I am Hidemi/石川秀美/集英社/1982年10月31日 第1刷発行」↓ p213。↓ p214昭和56年(1981年)12月13日(日)秀樹さんの妹に選ばれたこの日から、秀美の世界は、がらりと変わってしまいました。それから、今日までの10ヶ月、秀美がどんなふうにきたか、秀美もちょっぴり懐かしく、あたなと一緒にふりかえってみたいのです。(写真は、西城秀樹さん、石川秀美さん、河合奈保子さん)↓p218初レコーディング。1982年2月6日。日音のAスタジオっていうところで。デビュー曲『妖精時代』を、夜の7時から。
2023.05.22
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河合奈保子さんは、1981年10月5日に「第一腰椎圧迫骨折」で入院しましたが、退院後、1981年11月30日に、夜のヒットスタジオでTV復帰出演をされました。それから、1981年12月3日には、久米宏さんと黒柳徹子さんが司会をされる「ザ・ベストテン」の第200回記念番組があり、河合奈保子さんが駆けつけて、挨拶をされました。黒柳さんが「河合奈保子さんが駆けつけてくださいました」と奈保子さんを紹介します。奈保子さんは「はい。本当にどうもすみませんでした」と挨拶しました。久米さんが「退院、おめでとうございます」と言い、黒柳さんも「心配してたの。本当によかったわね。本当にお体を大切にしてください。良かった」と続けました。奈保子さんのそばには柏原芳恵さんがおられます。二人は「ナオナオ・ヨシヨシ」と呼び合う仲良しコンビです。↓ 1981年12月3日。ザ・ベストテン 第200回。↓ 司会の久米宏さんと黒柳徹子さん。↓ 河合奈保子さんが番組に駆けつけた。久米宏さん、黒柳徹子さん、河合奈保子さん、柏原芳恵さん。↓ 奈保子さんと芳恵さん。↓ 手を握り合う奈保子さんと芳恵さん。↓ ザ・ベストテン200回記念で、全体写真を撮った。↓ 記念写真。前列は、久米宏さん、黒柳徹子さん、河合奈保子さん、柏原芳恵さん、田原俊彦さん、松田聖子さん。↓ 200回も番組で生演奏をされてきた、オーケストラの方々に拍手をした。↓「(二人で)キャーって言ってたけど、仲がいいの?」と黒柳さんに聞かれ、「ハイ」と答える2人。
2023.05.21
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1981年10月5日、河合奈保子さんはNHKホールの小ゼリから落ちて、「第一腰椎圧迫骨折」で入院しました。退院後は桃の木温泉で休養され、1981年11月30日に夜のヒットスタジオでTV復帰されました。井上順さんと芳村真理さんが司会をされた夜のヒットスタジオでは、河合奈保子さんが新曲「ラブレター」を歌いました。スタジオの後ろには、奈保子さんの親衛隊の皆さんが並び、「奈保子コール」連発です。奈保子さんは「ラブレター」のサビの部分になると、感極まったのか涙声になりましたが、それでも一生懸命歌います。当時テレビでこのシーンを見てから、もう40年以上経ちますが、奈保子さんの「ラブレター」を聴くと、奈保子さんの歌う姿がありありと蘇ってきます。私はこの「ラブレター」が好きで、聴くと自分の高校時代を思い出します。ーーーーーーーーーーー「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」に、この時の「夜のヒットスタジオ」の事が書いてあるので、一部を紹介します。(P215~216)声の調子がよくなるように、局へ向かう車の中でも、大声で『ラブレター』の練習をしてスタンバイ。音合わせやリハーサルがあるので、スタジオへは午後5時頃に到着。『夜のヒットスタジオ』は、フジテレビの第6スタジオで収録されます。なつかしいスタジオのざわめきや、天井からいくつも下がったライトに、わけもなく胸がときめいてしまいます。これが、あんなにも恋しかったスタジオの風景・・・。「オハヨーゴザイマース。どうかよろしくおねがいしまーす」顔なじみのタレントさんやスタッフの皆さんに、ごあいさつをしながら定位置へ。突然、ファンファーレが鳴りわたりました。「エッ」と思ってバンドさん(ニュー・ブリードの皆さん)を見たら、指揮者のダン池田さんがニッコリ。それをきっかけに、スタジオにいる皆さんが、拍手で迎えてくれたんです。そうか、これは私へのお祝いのファンファーレ・・・。「ワァー、どうしよう」皆さんの暖かな心づかいに、気持ちがほぐれたよう。ありがとうございます。前奏が流れ、いよいよ『ラブレター』。ゆうべ覚えたばかりの振りもあるし、なかなか思うように歌えません。フラットしたり、シャープしたり、声がひっくり返ったり・・・。うまく声の調整ができないんです。もう、サイアク!二度の音合わせをしてОK。楽屋へ引き上げたものの、わずか十分足らずの音合わせで、ダウンしてしまいました。ーーーーーーーーーーー(P217)午後10時から本番。初めてのステージ用コルセットをつけ、新調した白のドレスに着かえた私。井上順さんや芳村真理さんの暖かな司会に励まされて、トップ・バッターで歌います。新潟のおばあちゃんからの電話もつながっていて、今日はうれしいことづくめ。アレッ!? ファンの皆さんからいただいたたくさんのプレゼントが、大きくて真っ白な木に、つりされられています。まるでクリスマス・ツリーのよう。リボンのついた箱もあれば、ぬいぐるみもあります。千羽鶴もあります。みんな、私と一緒に病院で暮らした仲間ばかり。こんな形でファンの皆さんにお礼が言えるなんて、なんだか胸がいっぱいです。ファン・クラブの皆さんも大勢かけつけてくださって、あのなつかしい”ナオコ・コール”も始まりました。「ナオコー、ナオコー」曲が始まる前から、うれしさで涙がこぼれそうです。ガンバラナクッチャ! ガンバラナクッチャ! 今の私にできるのは、笑顔で歌うこと・・・。みんな見てください。私、こんなに元気になりました。本当に、本当にありがとう。歌っている時は、夢中でした。ただ、ひざがガクガク震えて、マイクを一生けん命に握りしめていた事だけを覚えています。歌が終わって、心の中で張りつめていた糸が、プツンと切れたよう。「アリガトウゴザイマシタ」 こらえていた涙が、ポロッとこぼれてしまいました。↓ 1981年11月30日。夜のヒットスタジオ。井上順さん、河合奈保子さん、芳村真理さん。↓ 新曲「ラブレター」。↓ 画面右側は、奈保子さんの親衛隊の皆さん。左側は、奈保子さんが入院中にファンから送られた品々が、木にかけられている。↓ 歌いながら涙ぐんでしまった奈保子さん。↓ 涙をぬぐう奈保子さん。
2023.05.20
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1981年10月5日、河合奈保子さんはNHKホールの小ゼリから落ちて、第一腰椎圧迫骨折で入院しました。退院後に休養し、1981年11月30日の「夜のヒットスタジオ」がTV初復帰番組となりました。司会の井上順さんと芳村真理さんが、奈保子さんを迎えて会話をします。井上さんが「只今の心境はですね、初めてテレビにでるような感じだったですね」と言い、奈保子さんが小さい声で「ハイ」と答えます。芳村さんが「ドキドキしてる?」と聞くと、奈保子さんは「ハイ。ドキドキしてます」と緊張気味に答えていました。井上さんが「奈保子ちゃんが元気になる事を、田舎のおばあちゃんがとても心配している」と言って電話の受話器を取り、「おばあちゃまですか。今、奈保子ちゃんと代わりますからね」と、受話器を奈保子さんに渡しました。テレビ局と田舎のおばあさんの家で、電話がつながっていました。おばあさんは「体は治ったの?」と心配されていました。久しぶりにおばあさんと話をする奈保子さんは、嬉しそうで笑顔いっぱいでした。↓ 1981年11月30日。夜のヒットスタジオに出演した河合奈保子さん。司会は井上順さんと芳村真理さん。↓ 井上順さんが奈保子さんの祖母が心配されていると話す。↓ 祖母電話がつながっていた。↓ 井上さんが奈保子さんに受話器を渡す。↓ 奈保子さんが祖母と話をする。↓ 祖母の声を聞いて、嬉しそうな奈保子さん。
2023.05.19
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河合奈保子さんは1981年10月5日、舞台の小ゼリから落ちて、第一腰椎圧迫骨折で入院しました。療養して退院し、休養が終わったので、1981年11月30日に「夜のヒットスタジオ」に出演しました。奈保子さんは、「スマイル・フォー・ミー」を歌いました。松田聖子さん、薬師丸ひろ子さんなど、出演された方々が、奈保子さんに花を渡しました。「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」P214~215で、次の記載があります。昭和56年(1981年)11月29日(日)今、鳩時計が、ポーッ、ポーッと、11回鳴きました。そう。夜11時です。明日は、退院して初めてのテレビ。久しぶりの『夜のヒットスタジオ』。歌えるかなあ。声が出るかなあ。どうしよう・・・。(日記より)ーーーーーーーーーーーー1981年11月30日、「夜のヒットスタジオ」で「スマイル・フォー・ミー」を歌う奈保子さん。↓ 右から、松田聖子さん、河合奈保子さん、薬師丸ひろ子さん。↓ 河合奈保子さんと薬師丸ひろ子さん。↓ 松田聖子さん。↓ 皆さんから花を頂く奈保子さん。
2023.05.18
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河合奈保子さんは1981年10月5日、NHKホールの小ゼリから4,5メートル下に落下し、「第一腰椎圧迫骨折」で入院しました。テレビ復帰は1981年11月30日で、フジテレビの『夜のヒットスタジオ』でした。番組では、ジュリー(沢田研二さん)が「57日ぶりの登場です。河合奈保子さん」と紹介し、マイクを奈保子さんに渡しました。↓ 「夜のヒットスタジオ」(1981年11月30日)ジュリー(沢田研二さん)。↓ ジュリーが「57日ぶりの登場です。河合奈保子さん」と紹介した。↓ お辞儀する奈保子さん。↓ マイクを受け取る奈保子さん。
2023.05.17
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1981年10月5日、河合奈保子さんはNHKホールの小ゼリから4.5メートル下に落下し、第一腰椎圧迫骨折で入院し、療養しました。11月16日には病院の前で退院会見をしたのですが、風呂に入っても痛みが無いかどうか調べるため、奈保子さんは病院に戻りました。病院のカルテでは、退院日は11月18日だったそうです。(わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行)P188~190記載あり。奈保子さんは11月20日から一週間、南アルプスの麓にある山梨県・桃の木温泉で休養しました。休養中に嬉しい知らせが届きました。1)1981年11月24日、奈保子さんはNHKから『紅白歌合戦』初出場決定の連絡を受けました。(P204)11月24日。12時ジャスト! 待ちに待った『紅白歌合戦』初出場決定の連絡が入りました。直接電話をとったものの「エッ、本当ですか?」取材の方に取り囲まれて、カメラのフラッシュがまぶしかったなあ・・・。ちょうどTBSの『3時にあいましょう』の中継が入っていました。鬼沢慶一さんのインタビューもあったし、久しぶりのテレビで、アガッチャッタ。でも、でも。バンザーイ。今年は出られる。うれしいなあ。本番の時には『スマイル・フォー・ミー』を歌いたい。ゆうべ、おじいちゃんにお願いしたかいがあったんだ・・・。2)1981年11月25日、東京プリンスホテルで第23回日本レコード大賞・部門賞発表会が行われ、河合奈保子さんは「スマイル・フォー・ミー」でゴールデン・アイドル賞を受賞しました。「風立ちぬ」の松田聖子さん、「グッドラックLOVE」の田原俊彦さん、「ハロー・グッバイ」の柏原よしえさんも受賞しました。(P205)二日つづけてのハッピー・デー。(11月)25日には『輝け!日本レコード大賞』で”ゴールデン・アイドル賞”をいただきました。聖子ちゃんとトシちゃんは会場で、私は、温泉で・・・。とってもうれしかったけれど、会場で歌えないのが残念! (12月)31日の本選の日には、絶対に会場で歌いたいなあ。思いきり大きな声で・・・。ーーーーーーーーーーーー山梨県・桃の木温泉で休養中の河合奈保子さん。日本レコード大賞で「ゴールデン・アイドル賞」を受賞した。ーーーーーーーーーーーーー1981年11月25日、日本レコード大賞の「ゴールデン・アイドル賞」受賞者。河合奈保子さんも受賞したが、桃の木温泉で休養中だったので、TVで日本レコード大賞を見ていた。↓ 河合奈保子さん。
2023.05.16
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1981年10月5日、河合奈保子さんがNHKホールで小ゼリから4.5メートル下に落ちて、第一腰椎圧迫骨折で入院しました。1か月以上療養し、1981年11月16日に退院しました。同日、ザ・トップテンにおいて、奈保子さんが退院の報告をする映像が流れたので、ご紹介します。「ザ・トップテン」1981年11月16日午後1時、無事に退院なされました、河合奈保子さんです。トップテンを見ていたファンの皆さんに、一言お願いします。(奈保子さん)はい。本当にファンの皆さん、どうも長い間、ご心配をおかけしまして、どうもすみませんでした。今日、無事、退院することができました。入院中に、皆さんから暖かい励ましのお手紙など、沢山頂いたんですけれども、それが何よりも、私にとって何よりも一番の励みでした。本当に、どうもありがとうございました。自由にはまだ歩けないんですけど、ようやく歩けるようになったんです。(奈保子さんが少し足を前に出してみるが、止める)まだちょっとダメかな。これからも、また新たな気持ちで一生懸命頑張って行きたいと思いますので、応援してください。↓ 1981年11月16日、ザ・トップテンで、退院した河合奈保子さんへのインタビュー映像が流れた。↓ 引退した河合奈保子さん。↓ 病院前でマスコミに退院の挨拶をする奈保子さん。↓ 病院の先生、看護師の方々と一緒に。↓ 奈保子さんは少し歩こうとした。
2023.05.15
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1981年10月5日、河合奈保子さんはNHKホールの小ゼリから4.5メートル下に転落し、第一腰椎圧迫骨折で入院しました。病院では長期にわたりギブスで体を固定していましたが、コルセットに変わり、入院して約1か月後の1981年11月4日、奈保子さんは自分の足で立つことができました。「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」P175~176に、「ペンギン娘」としてこの時の事が記載されており、紹介します。「ペンギン娘」昭和56年(1981年)11月4日(水)今・・・たった今。自分の足で立てたんです、私!昨日も少し立ってみたけど、すぐダメになってしまって・・・・。今日も立った時には、ヒザがガクガクして自分の足っていう感覚がなかった。でも、勇気を出して、左足を一歩、前へ。すごく怖かったけれど。一歩、二歩、三歩・・・歩いた。そして病室の外を見たの。この病院に来てから、初めて外の風景を見たの。自分の目で・・・。うれしかった。うれしくて、しばらくボンヤリ見てた。こんな喜びは、自分しかわからないだろうなあ。*今日から付き添いの渡辺さんは、自分のお家に帰ってしまいました。一か月ものあいだ、本当にありがとうございました。昭和56年(1981年)11月5日(木)今は夜の11時5分すぎ・・・。アハ! 今日は、別に何もなかったけれど、なんだかとっても楽しいのです。だって、昨日より、また少し歩けるようになったんだもん。朝には、お花にお水もあげられたの。でも、今日は少し、歩きすぎたみたい。私が歩くと、みんなが「ペンギンみたいだ」っておもいっきり笑うのです。失礼な・・・。真剣に歩いてるっていうのにね。(日記より)↓「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」 ↓「新装版 わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/復刊ドットコム 2021年8月31日初版発行」
2023.05.14
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1981年10月5日、河合奈保子さんはNHKホールにあった小ゼリから4.5メートル落下し、第一腰椎圧迫骨折で入院しました。入院当初はギブスで体が動かないようにしていましたが、コルセットに変えて、少し動くことができるようになりました。「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」P168~170で、奈保子さんのコルセットについて記載があるので紹介します。P168コルセットをつけて、とうとう起き上がることが出来ました。亀さんギブズから解放されて、ヤッタ!って感じ。コルセットは窮屈だけれど、多少はガマンも必要なのです。婦長さんに助けてもらって、ヨイショ。起き上がる瞬間、ひどい目まいがして、落ち着くまでに少し時間がかかってしまいました。寝たきりの生活をしていたせいか、頭の血のめぐりまで、どうにかなったよう・・・。でも、これで、ようやく一つの区切りがついたようで、本当にうれしいなあ。25日間、天井しか見ていなかったんだもの。起き上がって見る角度は新鮮で、何もかも新しく見えて・・・。なんだか違う世界を見たような気がしました。経過は良好。レントゲン検査も”異常ナシ”。あと、2、3日もしたら立てるようになるかもしれません。無事に歩けるかどうか、チョッピリ心配だなあ・・・。P169~170コルセットは、直接肌につけると痛くなってくるので、まず薄いTシャツのようなものを着るんです。(女の子用の例の下着は、普通に付けられます)それから、太い芯の入っている部分を背骨にキチンと合わせて、両脇からもってきて前で止めます。マジック・テープがついているので、一番下をペタン、上をペタン、最後にまん中をペタンという具合。マジック・テープといえどもバカにはできません。それで、しっかりとしめつけられるんです。でも、スカーレット・オハラというよりは、スカーレット・オナカという雰囲気でした。昔の硬性コルセットは、カチカチの曲がらないようなものだったそうです。でも、現在は、どなたも、私と同じようなものを着用しているそうです。他の2枚のコルセット(軟性コルセット)はステージ用。薄くて伸縮性のある生地でできていて、ベージュ色です。(女性用の下着で”ガードル”というものがあるんです。あんな感じの生地を想像してください)ステージ衣装のえりもとから見えないように、注意をして作っていただきました。この種のコルセットはあまりないそうで、特製というところです。でも、薄いだけに背中への負担が大きいそう。使用は1時間以内と制限されました。↓ わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行P170 奈保子さんのコルセット紹介。↓ わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行↓ 新装版 わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/復刊ドットコム/2021年8月31日初版発行
2023.05.13
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河合奈保子さんは1981年10月5日、NHKホールで行われた「レッツゴーヤング」のリハーサルで、4.5メートルの小セリから落下し、「第一腰椎圧迫骨折」で入院しました。「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」P67には、この事故がきっかけで奈保子さんの母、妹が東京で暮らすことになったことが書かれています。P67「ユカちゃんごめんね」昭和56年(1981年)10月13日(火)今日から妹の由香里が、東京の学校へ転校しました。中3の二学期のおしまいに転校なんで、かわいそう・・・・ごめんね、ユカちゃん。今が一番大切な時期なのに、私がこんなことになってしまって。受験もあるのに・・・・ごめんネ。一日も早く学校に、東京の学校になれてください。とっても大変だと思うけど、とってもつらいと思うけど、私にはこれぐらいしかいえません。本当にごめんなさい。でも・・・、ユカちゃんならだいじょうぶよネ!ぜったい・・・(日記より)事故がキッカケで、おかあさんとユカちゃんは、東京で暮らすことになりました。私を一人で東京におくのは、心配になったそうなのです。おとうさんは、お仕事があるので大阪で一人暮らし。私のせいで、とうとうこんな形になってしまいました。おかあさんは、私の看病であわただしく大阪を離れて以来、帰ることもなく、東京の人になってしまいました。ユカちゃんも、(10月)9日に上京したきり、制服も教科書もないままに、東京の中学校へと転校しました。ーーーーーーーーーーーーーー同本P108~111で、「病室の人気者」として、奈保子さんの妹のユカさんの似顔絵が紹介されています。絵のじょうずなユカちゃんは、スタッフの皆さんの似顔絵を描いては、私を笑わせます。「ネェネェお姉ちゃん。マネージャーの清水さんて”ムーミン”に似てない?」ある時、こっそりと耳打ちしたことが、キッカケでした。「これが清水さん。そいで、こっちがムーミン」「キャハハハ、似てるゥ~」2人(?)が並んだ姿は、まるで兄弟のよう。セーターからお腹をポッコリと出した清水さんが、かわいいんです。会社の部長さん、専務さんからバンドの大石さん、マキシムのお姉さんたちまで、とにかくみんな似ていました。じょうずに特徴をつかんでいて、実物よりいいみたい。(ハハハ、ごめんなさい)サインペン1色ではさみしいので、ユカちゃんが学校へ行っている間に、私がぬり絵をしていました。できあがった順番に、壁にはってお披露目。お見舞いのお客様やスタッフの皆さんにも、大ウケにウケていました。回診の時には、担当の恒川先生までが、「これはじょうずだねえ。ひとつ、ボクの絵も描いてもらえないかな」なんて。陰でこっそりと『ツネちゃん』とアダ名していた私とユカちゃん。もちろん、喜んで描いてあげました。親しみを込めて、とびっきりじょうずにね。そのせいかしら、できあがった絵を見て、「こりゃいいぞ。実物よりハンサムに描けているよ」壁にはった似顔絵は、退隠するまで、病室の人気をさらっていました。おかげで、始終なごやかな空気に包まれていたような気がします。ーーーーーーーーーーーーーー河合奈保子さんの入院部屋の様子。(雑誌の切り抜きより)↓ 壁に飾られたユカさんの絵。↓奈保子しんぶん Vol.5 昭和56(1981年)11月発行 芸映プロダクション・芸映友の会 河合奈保子FC編集部。「奈保子の病院のお部屋」↓「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/1983年5月20日初版発行」↓「新装版 わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス/復刊ドットコム/2021年8月31日初版発行」
2023.05.12
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