Mr. Cats' Gardenのブログ あるいはニャンスケの生活と意見

PR

×

プロフィール

Cats' Garden

Cats' Garden

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2019.03.04
XML
(2019/2/23上演 黛敏郎 金閣寺 オペラ全3幕 日本語字幕付原語「ドイツ語」上演、東京二期会オペラ劇場(フランス国立ラン歌劇場との共同制作公演)、東京文化会館大ホール、原作:三島由紀夫、台本:クラウス・H・ヘンネベルク、指揮:マキシム・パスカル、演出:宮本亜門、主催:東京二期会)

<<開演前の薀蓄>>

 宿主は日本人がやるオペラが嫌いであった。オペラ好き日本人たちは西洋音楽を一生懸命お勉強して受容したつもりになっていた。だけれど、問題が山積だったのだ。
 発声:ベルカントなる発声法を一生懸命やるも、小柄な日本人、しかも日本語の発音に馴染んだ喉口には、欧州の人々のような喉笛太く頭の天辺から踵まで響く声は出にくい。精一杯目一杯の様が歌唱と舞台に出てしまい、芸術にならない。“真面目"にお勉強する”正調クラシック指向”の古典的エリート層が特に目一杯になりやすく苦しい。
 歌詞:原語でやれば本来の発音とはだいぶ違う日本語なまりが出てしまい、意味不明に。一方、翻訳を試みれば不自然なイントネーションの日本語、そして、音符一つに一音ずつ割り振るような変な習慣が翻訳西洋音楽の世界で習慣化していたためか、情報量が原詩に比べて大幅減。話の展開自体が粗筋だけの子供芝居のレベルに落ちてしまう。
 演技:嘗ての日本のオペラは、動きの少ない、一見、能のような、しかし、能では動くときは動くのである、だから能のようなというのは正確ではないが、兎に角極めて動きが緩慢で表情がなかったのである。演技を付ける前の台本を読みながらの立ち稽古のようなレベル。
こんな日本のオペラは見たくない、センスが汚染される。――これが嘗ての宿主の日本のオペラに関する見解であった。

 ニャンスケ一行にとって、久しぶりの東京文化会館大ホールである。宿主の相方は、別口で近年にも色々来たことがあるようなことを言っていたが、宿主とニャンスケは相方が登場する前、今から45年以上前までは、東京文化会館が出来て以来、年に1回程度は来ていた。それ以来である。つまり、45年ぶりかも知れない。あの頃、ランパルやニコレのフルート、ヴィンシャーマン(ネット情報によれば、1920年生まれのヴィンシャーマン氏、健在とのこと。オーボエを吹くとき、ヴィンシャーマン氏の眉間から額にかけて紅潮した逆三角形が表れていた。脳溢血で倒れちゃいうんじゃないかと心配だった。それが100歳近くの今まで健在であるとは、良かったです、本当に!)のオーボエ、バッハゾリステン、みんな文化会館大ホールだった。みんな宿主がいたのは4階か5階だった。室内楽が大ホールで?文化会館大ホールは管楽器の独奏が4,5階からものすごい音色音量でピアニッシモからフォルテまで細かいニュアンスが完璧に入るのだった。
 約半世紀ぶりの大ホール、しかもお馴染みの4階、入ってみると、相変わらずの急勾配の擂り鉢状、しかし、席が前より広くなったような気もしないでもない。座り心地も良い。半世紀前には可成りあったような気がする座席モケットのすり切れもない。そして、大きく湾曲した何段かになっているように見えるつり天井風の天井と、雲形定規を色々取り混ぜて壁から一寸浮かせて貼り付けたような独特な作りの一階席横の高い壁。この天井と壁は全く変わっていない。昔来たとき、音響効果はこの天井と壁の構造から来るんだよねと思っていた。50年後も変わっていないのは、やはり多分これは音響効果と密接なんだろう,などと勝手に思いを巡らせる。開演前、舞台前のオケボックス内オーケストラの音合わせの様子がその鮮明な音と共に伝わってきて、改めて東京文化会館大ホール4-5階席の醍醐味が嬉しいのだ。




​ ​  ​ ​​ ​

 <<開演してから>> 

 どこかで聴いたことがある黛敏郎「金閣寺」の出だし、どこか一部を聴いたことがあるのは確かだが、(たぶんテレビ番組「題名のない音楽会」だろう、)それ故か、曲想自体・楽曲全体が馴染み深さを感じさせてしまう。そして、何と、聞こえてくるのは美しいドイツ語のテノール、しかも歌いながら大きく動いている。あたかも普通のストレート・プレイの一場面のような感じに。「あれ、出演者は日本人じゃなかったの?」思わず宿主はチケットに書かれた情報を見直す。「間違えない、やはり二期会だ。二期会も半世紀の間に化けていたのだ。」 
 日本人が演じるオペラがオペラとして違和感なく世界に受け入れられる。。。それは日本のクラシック音楽における長年の課題だった。芸大の学生サークル?から生まれた「こんにゃく座」がアッサリとこの問題に答えを出してから半世紀、日本のクラッシック声楽のご本家とでもいうべき二期会が、いつの間にか世界基準準拠レベルに塗り替えられていた。

 この認識と同時に不思議なことが起きていることにも気がついた。声楽レベルに遜色が無くなった瞬間、二期会オペラから実質的に国籍が消えたのである。何処の国の人が、という認識はもはや音楽・歌劇の世界では重要なアイデンティティでは無くなってきているのである。残っているのは誰かという個性である。オペラ歌手も演技者であるから、個性には身体的特徴も入ってくる。何カ国語が使えるか、いうような語学力も勿論個性である。

 上演する側からも観衆側からも問題になるのは、何語で行われるかである。作曲者と作詞者(台本作家)の創作が行われた最初の組み合わせが最も良いのは言うまでもない。言語を代えた上演の場合、巧みな翻訳が望まれる、というのは皆が思うこと。言葉と譜面が合わない。言葉を工夫する。時にはニュアンスが大きく変わってしまう。
 こんな時、場合によっては曲をいじることもあって良いのではないだろうか。作曲者自身あるいは作曲意図が完全に掴めていると自他共に認める人間にしか出来ない作業かも知れない。手直しされた楽曲は言葉を換えた(翻訳した)場合も曲をいじった場合も含めて、原曲とは別の芸術評価を受けるべきなのであろう。

 そんな雑念の中、舞台は進行していっている。字幕スーパーが舞台の縁、上辺と左右袖に出ている。上辺には英語、左右は日本語。ドイツ語歌詞の訳は英語の方が解りやすい。言葉のリズムが近いのだ。そしてニュアンスの広がり方も比較的近い。



 大勢の僧侶が登場して読経のような雰囲気を醸し出す合唱、そしてそのまま舞台奥と左右の三方の壁際にならび低い声でリルレインする合唱を通奏低音のように続ける。これはオペラ「金閣寺」の音楽的背景なのだ。

 3幕構成で第1幕と第2幕が続けて上演され1時間、25分の休憩を挟んで30分の第3幕が演じられる。第1幕と第2幕は主人公が何故金閣に放火することになったのか、その時代背景、社会的背景、そして家庭と職場の環境を辿る部分である。ニャンスケの感覚からズバリと言えば冗長なご託を並べて主人公金閣放火の格好付けをしているだけ。だがしかし、戦後75年、三島没後半世紀が経とうとしている現在、そして、金閣の国際的な認知度などを考えると、1幕と2幕の回想場面や敗戦、広島原爆のイメージ、疎外されていく落ちこぼれ組などを描いていくことは、貴重な歴史教育と人間教育の部分であるような気もする。

 歴史を貫いて様々な戦国の戦をかいくぐり、明治維新の荒波と太平洋戦争の戦火を免れて、金閣は慄然と美しく荘厳に生きてきた。体制が立憲君主制から立憲民主制に大きく舵を取って尚、厳然と美の集大成として聳えている。それは日本の心と文化を縛る規範であった。金閣は破壊されねばならないのではないか。日本文化と日本の心を大きく飛翔させるためには金閣が邪魔なのである。疎外からの開放、呪縛からの解放、自由に!そのために金閣を燃そう。

 金閣は美しく権威がある。それ故に、燃さねばならない。それは若きたくましき王子が20歳で死なねばならないこと、死に損ねた戦士は体を美しく鍛え45歳で自死することと相通じる三島美学であり、オペラ金閣寺に凝集された共感者(あるいは共感は無くとも真摯に理解した者)の音楽、舞台芸術に相通じる。この第3幕が全てである。





 オペラ金閣寺のCDは余り出ていないようである。
演奏: 東京フィルハーモニー交響楽団、指揮: 岩城宏之、作曲: 黛敏郎、CD (1994/10/25)
レーベル: フォンテック、ASIN: B00005EZXB、JAN: 4988065032821

 このオペラの原形は市川崑監督の映画 炎上 かも知れない。勿論原作が三島由紀夫、作曲は黛敏郎である。

​ ​



​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019.03.08 11:47:29
コメントを書く
[舞台・音楽・芸能パーフォマンス等々論] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: