仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.06.16
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カテゴリ: 東北
明治29年(1896年)の今日(6月15日)は、明治三陸大津波のあった日だ。今朝(15日)のNHKラジオ第一(7:20ニュースアップ)で伊藤和明さんが語っていた。

綾里村(現在の大船渡市綾里)では、実に38.2mの津波が襲来したという。地震の直接の被害者はいないが、津波による死者2万2千人、流失家屋8千9百戸。人口の7割8割が失われる壊滅的打撃を受けた村もある。典型的な津波地震だ。

今朝のラジオでは、当日は日清戦争から凱旋した兵士を迎えて花火を上げていたとか、結婚式が行われていたとか、翌日は地引き網で死体を集めた、など、さまざまな実話を紹介していた。

当日は朝から有感地震はあり、夕刻7時32分頃に震度2か3程度の地震があるが人々はさして気にとめない。地震動が小さく警告の役割を果たさなかったために被害が拡大したとも言われる。しかし実際は三陸沖150kmを震源とするM8.5の大地震だった。

津波襲来は午後8時過ぎ。引くべき時間でもないのに引き潮があって、その後、大砲のような海鳴りが聞こえる。まもなく、耳をつんざくばかりの怒号とともに黒山のような波が襲来し、一瞬にして全てを流し去った。

生死を分けた事例として、靴を履かずに逃げた者が助かり、靴を履こうとした者は巻き込まれたのだそうだ。教訓として、津波には個性があるから過去の経験に基づく行動や思いこみが裏目に出ること、生き延びる唯一の方法はカネやモノに執着せず一目散に高所に逃げること、など。

また、37年後の昭和8年(1933年)の昭和三陸大津波では、高地移転の成否が明暗を分けた事例もある。吉浜村は明治津波の教訓から高地移転を実行し、昭和津波では大きな被害を出さなかった。これに対し、唐丹村でも明治津波で人口の8割以上が失われる地区もあり、山腹に移転した人もいたが、日常作業の利便性を求めて、また山火事もあって、再び海浜部に住むようになり、昭和津波ではまた世帯の8割が被害にあった。

ところで、明治三陸大津波を調べていたら、科学技術振興機構(JST)の「 失敗知識データベース 」というサイトを知った。これは興味深い。失敗学の畑村先生が関わっているそうだ。このデータベース収録のもっとも古いものが、この大津波のようだ。

「正しい」の使い方(06年5月25日)





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最終更新日  2006.06.16 05:37:30
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