仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2009.11.04
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カテゴリ: 仙台
河北新報の菅野正道さんの連載(11月4日)に、根白石が取り上げられていた。
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根白石は、仙台城下に存在した14の宿場町には含まれないが、町の出入り口と中程で直角に曲がる道路と両側に家が建ち並ぶ様は、宿場町そのもの。記録に宿場町とは現れないが、かつては仙台から宮床に通じる街道があったという伝承も残っている。また、幕府の法令を掲げる高札場が、仙台藩では宿場町以外にも例外的に根白石に存在した。

根白石はある時期に、おそらく江戸時代のごく初期に宿場町であった可能性が高い。

仙台城下以北の奥州街道は、富谷や七北田の宿場町が形成された元和期(1620年前後)に完成するが、それ以前の経緯ははっきりしない。そこで、奥州街道が根白石を通って宮床へ抜けていた可能性が考えられる。

宿場町は、旅人を宿泊させるだけではなく、重要な機能として物資の輸送がある。すなわち江戸時代は宿場町ごとに荷物を積み替えるのが原則で、通過する物資の量を勘案して宿場町には輸送に携わる人が集住していた。

直線道路の全長が600メートルに及ぶ根白石の町の規模は、七北田(推定500メートル弱)を上回る。おそらく、根白石が宿場町として機能したのは十数年程度の短期間だったのだろう。

(当ジャーナルで要約と再構成)
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とすると、宿場町という制度自体が江戸期に始まったもので、街道が参勤交代の道路であるとともに、人の出入りや交易を把握し管理するための公的施設として明確に位置づけられたことと関連しているのだろうか。すなわち、街道じたいは戦国以前からあるのだけれども、本陣や高札場、馬の継立てなどが整備された宿場町の制度は江戸期のもので、根白石については、従来の奥州街道ルート(奥州山街道、秀衡街道)に沿って宿場町とされたが、その後、街道ルートが富谷とされてしまった、ということだろうか。

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最終更新日  2009.11.04 23:13:08
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