仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2009.11.05
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カテゴリ: 仙台
5 重村の藩校改革

学問所は、場所が城下の西北で通学に不便で、また小規模のため高橋玉斎が建議した礼法・弓術もできなかった。指南役の対立もあって講義がしばしば休止された。そこで、7代藩主重村は、宝暦10年(1760年)11月、通学の便を図るため、城下の中央部である北一番丁勾当台通東南角(現在の宮城県庁)に移転。

重村はこれに先立ち布令を発し(5月)、近年学問所に出席する者が少なくなったのは家臣の学問への志が薄く、父兄も学問を奨励しないからであり、学問所を移転し、従来の素読・講釈では学問を究めるのが難しいから、討論会も開くことにするので、怠りなく出席するように、と説いている。

重村はまた、藩校を凡下身分(足軽、小人など侍身分に入らない最下層の家臣)にも開く。庶民のためには家塾・寺子屋の開設を奨励。学業の向上した者を選んで江戸に遊学させ、私費による遊学も請願により許可するとした。

宝暦5年は冷害で年貢が激減し藩財政は危機に陥った。翌年に藩主となった重村は、農村復興と藩立て直しには身分を問わず学問に励ませ人材を育成すべきと考えたのであろう。重村の学問奨励策で、身分序列にかかわらず能力によって人材が出入司や郡奉行に抜擢されることになった。

また、重村は宝暦10年、藩医の別所玄李(実有)、翌年に常盤玄安(定軌)を医学講師に任命して学問所で医学書の講義を行わせた。それまでは藩医や町医者に入門して学んでいたが、藩の医員が増加し実力不足の医師も増えだし、また家中や民間の医師需要も高まったことに加えて、自然災害により生活や衛生の状態が悪化したため、藩として医学教育に乗り出したものであり、仙台藩の医学教育の始まりである。

明和8年(1771年)には重村みずから養賢堂と書した扁額を学問所に下賜。明和9年7月より、学問所は養賢堂と称するようになる。安永9年(1790年)には、奉行芝田信憲が多額の私金で学寮と書庫を増築し、蔵書数千巻を寄贈。養賢堂には新たに学頭職が置かれ、同年6月、初代学頭に、高橋周斎(以仲)が任じられる。

歴代学頭
 高橋周斎

 高橋容斎
 田辺楽斎
 大槻平泉
 大槻習斎
 大槻磐渓
 新井雨窓

6 林子平の献策

重村の養賢堂整備にもかかわらず出席者は少なかった。冷害による餓死病死者が出て、農村の疲弊と藩財政窮迫はますます深刻化し、特に天明(1780年代)の大飢饉は藩体制に打撃となった。人材育成が喫緊の課題となっていた。

林子平は明和2年(1765年)に藩当局に藩政全般を建議した中で、学政にも論究した。

(1)才能ある人材を得るために学問が重要だが、現在は儒学教典の講釈を受動的に聴講させるだけで、人材は育たない、
(2)学問に学派は不要で、学校の敷地を広げ学生の読書部屋を設け、特定学派に偏らずさまざまな書物を備え自由に読書させればおのずと才智は生じる、

(4)学校拡充と書物購入の費用は、武士百姓町人に4、5銭ずつ上納させる、
(5)家臣は学校に怠りなく出席するよう命じ、陪臣や凡下身分でも希望すれば出席を認める

藩当局は聞き入れなかったが、子平は天明元年(1781年)と同5年にも建議し、養賢堂とは名ばかりでその実はお粗末と批判した。いずれも却下されたが、後に大槻平泉により何点かは実現されることとなる。

7 大槻平泉の学制改革

文化6年(1809年)、9代藩主政千代(周宗)は大槻平泉を学頭御用に命じる(同7年に正式に学頭)。大槻平泉は、磐井郡中里村の大肝煎の家に生まれ、博覧強記の志村東嶼に学び、次いで江戸に出て大学頭林術斎の門人となり、昌平坂学問所で朱子学を学ぶ。諸国遊歴の後、文化3年に仙台藩に儒官として召し抱えられ、同5年に仙台に下って養賢堂で講釈を行っていた。



(1)学舎の拡充。医学部門を独立し医学官を設立。城下3、4カ所にも学校を設置
(2)学問を社会に普及させるため、養賢堂で印刷出版事業
(3)学校の財政基盤確立のため、一万石の新田開発
(4)学頭による藩学政と教育の一元的な管理(養賢堂のみならず藩の教育全般を管理)
(5)儒教教典と礼儀作法を中心としながら、歴史、詩文、地理、書道、算術など広く学ばせ、上達したものは右筆見習いや勘定方見習いとして研修
(6)優秀な学生を毎年2、3人他国へ遊学させ、他国からも受け入れる
(7)学習の進歩を試験して優秀な人材を藩に推薦。奉行や学校係が定期的に学校を見分。学頭が優秀な人材を直接藩主に推薦。
(8)儒役の世襲制の廃止と他職との人事交流

全体として実用的な人材の育成と人材抜擢のシステム確立が重視されている。儒役の世襲制廃止もこの目的のためである。

8 養賢堂の充実

大槻平泉は嘉永3年(1850年)まで40年近く学頭にあり、財政基盤確立や施設拡充に努めた。文化8年(1811年)に新田開発高1万2千石を学田とし、その年貢収入を運営費に組み入れた。学田は各地に設定され、仙台市内には荒井や根白石に養賢堂の字名が残っている。

また、出版、硝石(火薬原料)、製造、機織りなどの事業も始めた。さらに有志の献金により養賢堂は独立採算を実現。生徒からの入学料や謝金はとらなかった。

文化9年(1812年)、同11年には周辺の屋敷を召し上げて施設を順次増設。中心となる講堂は、敷地2町歩、25室からなる広壮な建物で、文化14年完成。表門はそれ以前に完成し、表小路に面した門構えは人々を驚かせた(維新後に南鍛冶町泰心院に移築)。最後に文政6年(1823年)孔子を祀る聖廟が落成。

江戸に滞在する家臣の子弟の教育のため、文化7年(1810年)江戸上屋敷に、順造館という藩校を設けた。日銀総裁や東京府知事を務めた富田鉄之助も学んだ。

平泉は教育を行き届けるため城下の3、4カ所にも学校を設けることを建議していたが、平泉の子の習斎(清格)が学頭を務めていた嘉永4年(1851年)に、二の丸に近い川内中ノ坂通に支校を開設したにとどまる。これは、小学校あるいは振徳館と呼ばれ、学頭添役(副学頭)が経営し、主に付近の大身武士の子弟を教育した。

安政4年(1857年)には庶民教育のため養賢堂構内に日講所を開設した。江戸時代後期には庶民教育の寺子屋が普及していたのだが、困窮民が増大し一揆や打ち壊しが続発し治安が乱れていたため、庶民の教化と人心の安定をねらったものである。


■大藤修『仙台藩の学問と教育 -江戸時代における仙台の学都化-』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 13)大崎八幡宮、2009年

■関連する過去の記事
仙台藩と学問(1)藩校の開設と芦東山 (09年11月3日)
芦東山と江戸期の司法制度 (08年10月2日)
岩手の生んだ大学者の芦東山 (06年3月29日)

仙台藩の人材育成にかけた藩の姿勢、またその内容はどうだったのか。勉強しようと思いました。大藤先生の一般向けの著書を読んでおります。3回か4回に分けて記す予定です。





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最終更新日  2009.11.12 09:17:19
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