仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2026.03.23
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カテゴリ: 東北




英国国立文書館には、MI5が監視した人物の個人別ファイル(KV2)があるが、日本軍駐在武官で個人ファイルがあるのは小野寺ただ一人である。小野寺は、ヤルタ密約の日本関連部分で、ソ連はドイツ降伏から3か月を準備期間として対日参戦する、というウルトラ情報をスクープした。

小野寺は、日ソ中立条約を破棄するソ連の裏切り行為に驚愕し、即刻東京に打電したが、結果として陸軍参謀本部内で握りつぶされた。情報を重視できなかった当時の陸軍中枢は、ソ連仲介の終戦工作を期待し続けた。また小野寺はこの情報を前提に参謀総長あてに電報を送り、モスクワを仲介し平和工作の動きがあるようだがそれは帝国の将来に最も好まざること、と諌めたとされるが、それも黙殺されたようだ。

明石の成果は明治の参謀本部に生かされたのに対して、小野寺の成果は生かされず日本は無残な敗北を迎えたのだった。

小野寺はいかにして情報を手に入れるネットワークを作り上げたのか。1935年にラトビア公使館付武官を発令されると、バルト三国の重要性から参謀本部と外務省に掛け合い、エストニアとリトアニアの武官も兼務する。そして、バルト三国、ポーランド、ハンガリー、フィンランドなど、ソ連の脅威に晒される国々の情報任務にあたる軍人たちと関係を確立する。それは、誠実な人間関係に結ばれた仲間と協力者であった。機密電報の暗号化や、日本料理で来客をもてなすなどの百合子夫人の功績も大きい。

1939年小野寺はいったん帰国する。1939年第2次大戦の勃発のあと、ポーランドは独ソに分割占領され、ソ連はフィンランド領を割譲させバルト三国を併合した。

1940年小野寺は、中立国スウェーデンの公使館付武官に発令され、翌年1月ストックホルムに着任する。ここで、小野寺がつくったヒューマンネットワークはすでにできあがっていた。バルト三国公使館時代の各国の情報任務の軍人たちが期せずしてストックホルムに亡命していて、ソ連はもとより連合軍の情報までも小野寺に集まる仕組みができていたのだ。

ヤルタ密約でソ連参戦まで3か月しかないことを知った小野寺は、スウェーデン王国を通じた平和工作を企図し、折しも1943年10月ストックホルムに来た扇一登海軍大佐と投合し、扇を海軍武官として迎えようとしたが、臨時海軍武官の三品伊織大佐と組んだ岡本季正公使からビザ発給を妨害され、終戦工作の機会を逸した。

以上は下記文献から、おだずまジャーナル要約である。インターネット情報では、小野寺信は1897年(明治30)岩手県前沢町の助役の小野寺家に生まれ、本家筋の遠野の小野寺家の養子になり、陸軍士官学校を卒業している。戦後は、妻の小野寺百合子とともにスウェーデン語の翻訳などにも努めた。






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最終更新日  2026.03.23 18:39:49
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