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何気なく、駅で手にした五能線のパンフレット「五能線の旅」。JR東日本と五能線沿線連絡協議会の発行とある。岩館駅(秋田県八峰町)のコーナーで、小入川鉄橋、お殿水などと一緒に写真で紹介されているのが、チゴキ灯台。県境に近い岬にある灯台で、恋人や家族連れに人気、とある。そうです。このメルヘンの世界にあるような小さな灯台を紹介したのは、2013年、このブログでした。ああ、ここまで有名なったのか、と感慨を覚えます。(注、これは事実ではありません)2013年5月。一人旅で訪れたときは、誰もいなかった。2019年に家族で立ち寄ったことがあるが、このときは、何台か車が来ていた(下の写真)。やはり当ブログの影響に違いない(注、事実ではありません)。岬、海、花、柵、そして白い灯台。本当に絵になる。■関連する過去の記事 チゴキ灯台、お殿水(八峰町)(2013年5月17日)
2026.05.24
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蝦夷平定を成し遂げた坂上田村麻呂の成功を支えたのは、道路である。その時代、すでに都から大軍勢を東北まで進軍させられるだけの道路が整備されていた。古代王朝は、租税を全国から集めるためもあり、道路網の整備に注力したのだ。中でも幹線は、大和と大宰府を結ぶ山陽道。東北方面には、都から東山道が造られた。東山道は、美濃、飛騨、信濃をぬけて、いまの前橋市を通り、いまの宮城県内陸部から日本海にはいり、最終的にいまの秋田県にまで達していた。田村麻呂率いる軍勢はおもにこの東山道を通って遠征した。その道幅は広く、幹線道路の場合10メートル以上に達することもあった。埼玉県所沢市で発掘された東山道の一部は、12メートルもあった。(歴史の謎研究会編『舞台裏から歴史を読む:雑学で日本全史』青春出版社、2022年 から、当ジャーナルで要約)所沢市のサイトをみたら、東の上(あずまのうえ)遺跡というのがあって、南陵中学校校庭から12メートルの道路跡が検出され、古代の幹線道路東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)として埼玉県内で初めて確認された、とある。ついつい、現在の東京中心の交通網、また近世の五街道をイメージしてしまうが、古代の官道が、いまの岐阜県→長野県→群馬県→栃木県と、山をのりこえて横断したのだ。いまの埼玉県の道は、東山道幹線と東海道を連絡するもののようだ。後日、古代官道の東山道のルートをよく調べたい。■関連する過去の記事(東山道など) 東北と海の大道(2026年04月18日) 北方へのびる道(2026年04月17日) 奥州藤原氏と貢馬の道(2026年04月16日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日)
2026.05.19
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テレビでやっていた。奇岩が飲み込んだような神社。ぜひ、行ってみたくなった。(只見町インフォメーションセンターの解説)
2026.05.18
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光禅寺通り、仙台青葉教会の辻から少しだけ南に入ったところ。蘇生白虎隊士 飯沼貞吉終焉之地光禅寺通幼稚園跡地 1951ー1991飯沼貞吉、1868年戊辰の役に出陣、會津飯盛山にて自刃、唯一人蘇生、後名を貞雄と改め、1931年この地に没す1991年12月 建之飯沼貞雄終焉の地(幼名貞吉、嘉永7年(1854)生れ) 会津藩士飯沼猪兵衛一正(禄450石)二男。 慶応4年(1868)戊辰戦争の際、白虎隊士として出陣するも飯盛山で同志と共に自刃。偶然救助され唯一人蘇生した。後、白虎隊自刃の顛末を手記に残し、歴史の貴重な証言者となる。 明治5年(1872)逓信界に入り、電信技術者として九州から北海道にいたる全国の電信・電話網の架設に尽力した。この間、明治27~28年(1894~1895)に日清戦争に出征し、朝鮮半島の軍用電信架設を成功させた。明治30~37年(1897~1904)に仙台郵便局勤務、後、札幌郵便局を経て、明治43年(1910)に仙台逓信管理局工務部長となり、以降この地を終の住み家とした。 大正2年(1913)退官。従5位勲4等。昭和6年(1931)仙台にて没。 享年78歳。 父方の祖母に会津藩家老西郷頼母妻千重子、母方の従兄妹に山川浩、山川健次郎、大山捨松あり。〔おだずま注:次の一文は読めるが、カバーされている。おそらく、言及している樹木が、2013年以降現在までの間に伐採された。〕 2013年8月 貞雄孫飯沼一浩、同一宇、同一元 建立
2026.05.17
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何気なく決算や人事の記事を眺めていて、山形銀行の社外取締役に、元県教育長が就任し、原田啓太郎社外取締役が退任するという。お名前からして、原田製作所を起こして戦後山形の機械工業を牽引した原田好太郎さんの御親族の方だろう。昨年の勉強を思いだす。同じ紙面に、「やまや」の創業者山内英房取締役ファウンダー、妻の山内一枝取締役副会長が、それぞれ退任するとの記事もある。英房氏は91歳、山内英靖代表取締役会長の父で、1970年に株式会社化し、社長、会長を歴任したとある。■関連する過去の記事 原田好太郎と山形の機械工業(2025年01月25日)
2026.05.16
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最近、大崎市田尻地区を通って、気が付いて驚いた。大崎八幡神社があるのだ。地域名にも八幡があるが、明治の町村制で田尻村ができる前は八幡村だった。あ、そうか。数少ない仙台の国宝、大崎八幡様は大崎から移したというが、もとはここだったのか。大崎八幡宮のサイトには、次のようにある(当ジャーナル要約)。坂上田村麻呂が武門の守護神である宇佐八幡宮を旧水沢市に勧請し鎮守府八幡宮を創祀した。奥州探題大崎氏がこれを自領内の旧田尻町に遷祀し、大崎八幡宮と呼ばれた。大崎氏滅亡後は政宗公が岩出山城内に御神体を遷し、仙台開府後は城の乾(北西)の方角の現在地に、旧領米沢の成島八幡宮とともに、祀られた。知らなかった自分がいうのもおかしいが、もっともっとPRするべきでないか。先日、田尻の記事を書いた。蕪栗沼も有名だが、縄文の遺跡から、中世の城柵、近世では萱刈潜穴などの先人のすばらしい遺産もある。すばらしい地域だ。■関連する過去の記事(旧田尻町)●田尻の謎を解く(その2)(2026年05月12日)●田尻の謎を解く(その1)(2026年05月09日)●加護坊山(2026年05月04日)●涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日)= 政宗の岩出山移転の際に、伊達三傑の一とされた亘理元宗は、遠田郡に村替えになる。はじめ、大沢村の百々城を与えられ、間もなく涌谷城に移る。百々城は田尻駅東南の丘陵で、岩出山城の南の抑えとして要地だった。●宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)= 当初計画は、吉岡ー古川ー築館ー一関の奥羽街道沿いだったが、三本木や金成が難工事だったことと、松島、塩竈に近くなることから、小牛田ー瀬峰ルートになったとされ、山地の少ない田尻を通ることになった。小牛田村長の奮闘も伝えられる。●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)●気仙沼線の歴史とBRT(2015年9月22日)= 大正11年の改正鉄道敷設法の別表による予定路線には、「気仙沼より津谷、志津川を経て前谷地に至る、津谷より分岐し、佐沼を経て田尻に至る」鉄道が含まれた。その前半部は昭和52年に気仙沼線として全通。後半部は、気仙沼線と東北本線田尻を短絡する路線だが、実現していない。●組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)= 定時制分校の数が多すぎ、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格した。●奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)= 大崎八幡社について。栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮とともに、奥州三八幡という。大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。
2026.05.13
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田尻の謎を解く(その1)(2026年05月09日)に続く記事です。前回記事では、解ききれなかった謎に、今回ついに踏み込んでいます!前回は昭和58年の田尻町史を調べたが、実は、それとは別に、田尻町史編纂委員会編纂、桜井宇京編集、『田尻町史』(昭和35年8月)があるのだった。読んでみた。昭和の合併における新町名と役場の場所についての部分を、下記に記す。(当ジャーナルで適宜まとめている。)1 昭和の合併の経緯(なお、前回記事とも内容は重複)町村合併促進法施行(昭和28年10月)頃から、合併機運は旺盛。しかし、実際に動きが具体化したのは、田尻町が12月中頃に、4か町村(田尻町、沼部村、大貫村、中埣村。通称河北4か町村)による合併案を呼びかけたのが始まり。各村の与論は区々で必ずしも田尻町案に同調する機運ではなかった。しかし、翌29年1月に至り、沼部村の与論が田尻町案に傾き、村当局も積極的に。たまたま県試案が発表されたが、4か町村案と、小牛田町、不動堂町、北浦村、敷玉村のうち堀切・松ヶ崎・梅ノ木、及び中埣村による合併案となっていた。これは中埣村住民の与論が、田尻ブロックと小牛田ブロックの二派に分かれたことを考慮したものだった。県試案の発表を契機に合併の機運は益々高まる。中埣村は3月7日、帰趨を決する住民投票を行い、投票総数1624(うち持ち帰り4,無効3)、小牛田ブロック賛成945,田尻ブロック賛成672をもって、中埣は脱退にいたった。このことが田尻、沼部両町村を強く刺激し、両町村から大貫村に対する働きかけが強力に行われた結果、3月15日、合併期日を5月3日とし、法定の合併足趾協議会を設置することで一致した。3月27日の第1回協議会を皮切りに数回協議を重ねる。その過程で、町名、役場の位置等で紛糾もしたが、ついに基本的事項の決定をみ、4月10日沼部大貫両村議会、11日田尻町議会が議決に至った。2 紛糾の内容以下は、昭和35年の町史の記載のうち、合併協議会の議事録で、町名と役場位置に関する部分を書き出す。ちょっと長いが、紛糾の様子がよくわかる。(当ジャーナルで適宜簡素化。)●合併協議会議事録、第2回(3月31日)から田尻、沼部、大貫の順に、第一項(新町名)の提案を説明。沼部(宮崎):町名の審議は後回しとして審議しては如何田尻(高橋):本日の審議の進行はいかなる方法で決定するや議長(富田沼部村長):できるだけ満堂一致で決定したい。田尻(沢田):小牛田ブロックの方法は遠田地方事務所長(餅):満場一致で決定した。できるだけ満場一致で決定してほしい。小牛田ブロックは最後に決定した。議長:沼部宮崎氏の発言通りで如何。賛成の声有り。(中略)第三項(町村役場支所又は出張所の統合整備に関する事項。内容は、1号役場の位置、2号増改築方針、3号支所出張所の位置など)について。田尻(山村):役場は、増改築が不要な旧田尻町役場を本庁としたい。沼部(宮崎):将来の新町の発展を考えるべき。田尻(山村):庁舎位置は町名とともに重要だから、休憩して座談的に決定すべき沼部(中峯):町名とは関係がない。田尻(山村):関連性ではなく、重要ということだ沼部(宮崎):いままで何か話し合いがあったのなら、紳士的に満場で決定すべき沼部(柳原):新町の中心部におくべき大貫(高橋):休憩せず決定すべき田尻(後上):他官庁との問題、人口密集等を考えた場合、また、旧中埣村の一部合併問題もあるので、旧田尻町役場とすべき大貫(林源):役場は中心に置くべき。また大貫村民には遠くなる。大貫(遠藤):大貫村としては何も利益のない合併なので、旧田尻町役場とすれば、合併して不便となる田尻(菅原):田尻町案は現在当分の間ということでその後は移転されるもので、田尻町案に賛成議長が休憩を宣言。15分後再開。沼部(宮崎):大貫案に賛成。賛成の声1、2名。田尻(佐助):田尻町としては引くことができない。地方事務所長の参考意見は沼部(加誠):我々委員で決定すべき田尻(宮崎):田尻案は合併に経費がかかるので当分の間の庁舎であり、将来沼部に新築は何も差し支えない沼部(宮崎):田尻も沼部も言葉に表し得ぬことがあると考えるので一応大貫村案に賛成。裁決(ママ)すべきなり。裁決、裁決とさけぶ声有り大貫(佐々木):当分の間田尻に置くのは良いが、役場位置を決定しておくべき田尻(佐助):大貫としては1号(役場の位置)の問題は了承したのではないか大貫(佐々木):当分どこで事務を執るとも、場所はここで決定すべき沼部(加稔):役場の位置は大貫村案のとおりで、位置は沼部村富岡、として、仮庁舎の件は2号(増改築の方針)で定めるべき田尻(佐々敬):田尻町案の書き方は間違っているのでないか。2号で審議すべき沼部(柳原):位置を沼部に置く、ただし増築新築までは旧田尻役場を使用するのは村民に知らす方法を知らず、反対大貫(遠藤):田尻町案の修正はいかに田尻(佐々敬):当分の間とは、仮庁舎の意味田尻(山村):将来の新築計画は合併後にすべき大貫(伊藤):田尻町助役(山村)に反対。この会議で決定せねばかえって後に禍根のこす。議長裁決せよとの声1人田尻(宮崎):役場の位置を決定していた場合、将来議会で変更できるか地方事務所長:禍根を残すからここで決定してほしい。ここで決定した場合、その決議は有効議長休憩を宣言。再会(ママ)は午後1時30分。議長:休憩中いろいろ審議せるも結論を得ず。よって本日はここで散会に決定。沼部(加稔):議長、散会とは何か。休憩中にいかなる状況か説明もなく納得いかない。その通りの声が多し議長:散会の決定を取り消す。改めて、散会か続会かを諮る。田尻(佐助):二三日おいて再開が良い沼部(柳原):続会して審議を田尻(菅原):議長の取り消しはいけない田尻町側委員が退場退場との声あり。騒然となり記録不能。田尻町側7名退場せり。大貫(佐々木):退場が今後悪例となるので会議を続行してほしい議長:再会を諮る沼部(加稔):続行してほしい。田尻の理由を示さず退場は遺憾佐々木田尻町長、田尻町委員の無断退場を陳謝田尻(山村):二三日考慮したい旨述べているので、その点議長から伝えてほしい議長:ただ今の田尻町助役の言を全員に伝え、続会か散会か一堂に諮る。議長は非常に苦しい立場で迷っているから皆さんの意見をはっきりしてほしい大貫(林源):続会に賛成だが、田尻の二三日の余裕は見通しあってのことか田尻(佐々敬):5月3日の合併に支障ないよう努力する沼部(加稔):佐々木町長と助林役の意見は了承するが、退場した田尻町議長(佐々木助五郎)は遺憾だ田尻(山村):田尻町としては全部取り入れられない状況なので、二三日研究させてほしい沼部(中峯):退場は遺憾だが、後日田尻が同意された場合考えることとして2か村の意を考えてはどうか沼部(加稔):3か町村合併を2村のみで会議はできないから、本日は閉会してほしい沼部(柳原):退場した委員は田尻町の半数だから続行して差し支えない大貫(林源):退場の理由を明らかに議長:柳原に、半数でなく5名(おだずま注、合併協議会は各町村から12名の委員で構成)、林氏に対し、1号の役場位置は沼部村富岡に置くことは田尻も了解、2号の仮庁舎は、新築まで旧田尻町役場に置く点は大貫村は絶対に譲ることができないとのことで、この2の点で意見の相違あり退場したと思われる大貫(林源):それを二三日研究してどう決定しても、大貫村は絶対に譲歩できない田尻(佐々敬):大貫林氏に対して了解できるよう説明した大貫(遠藤):どこまでも続会を希望。2か村の合併も考えている沼部(加清):議長の宣言の非をせめる議長:散会は取り消したので非はないから了承を。田尻の委員5人も残留しているので、続会か散会かを諮っている。改めて続会かどうか諮る続会の声多く、異議なしの声も。大貫(伊藤):続会も良いが、田尻の残留委員は参加するのか、2か村だけでやるのは違法だ議長からこの旨たずね、田尻町委員回答なし沼部(柳原):同席していれば参加したことになる大貫(佐々木):議事規則には過半数で進行できるが、一応二三日待つ方がよいかと。同じことをしばらく繰り返す。違法問題で騒然となる。休憩状態にはいる。大貫(伊藤):前言の違法を取り消した議長:再会の宣言を明確にして議事進行してもよいのだが、田尻町委員が半数以上退場しているので、今後退場等の絶対ないこととして、本日は散会しては如何大貫(遠藤):田尻の修正案は今までの会議の線に近づけて提出を議長休憩を宣言。再会して第三回協議会日程を決定す。●合併協議会議事録、第3回(4月3日)から・議長(大貫村長):本日の議長は前回のゆきがかり上、富田副会長に。なお、会議の前に懇談30分行う・議長(富田):10時30分まで懇談を懇談が時間が延びて、その間昼食。・議長、午後1時再開を宣する・議長:第三項1号の件(役場の位置)について、懇談中の結論に基づいて決したい。・田尻(佐助):沼部案に賛成・沼部(中峯):その地区内としては如何沼部案に賛成の声多数議長:1号の件、沼部案に賛成の声有るが如何、満堂賛成。2号(増改築の方針)上程。田尻(佐助):大貫案に賛成満堂賛成。3号(支所出張所など)上程、大貫案に満堂賛成。4号上程。田尻(佐助):4号は田尻案に決してほしい大貫(遠藤):大貫案にしてほしい田尻案多数の賛成有り、田尻案に決定。5号を上程、田尻案に決定6号を上程、大貫案に決定。以上で第三項を全部決定。田尻(佐助):第一項にもどって審議を。賛成の声多数議長:第一項、町名の件を上程す大貫(遠藤):大貫案通り遠田町としてほしい。遠田の遠、田尻の田とした大貫(門間):過去の状況、田尻米のこと等から、田尻町としてほしい大貫(岩井):合併合体の意味から遠田町県(二上地方課主事):番外として発言、合併町村の町村名の状況を説明沼部(加稔):町名は自主的に決定したいので番外者は発言を遠慮を田尻(佐助):田尻米として全国に知られている、田尻町で沼部(加誠):田尻案に不賛成沼部(中峯):沼部村の委員だけの協議を希望大貫(遠藤):中峯氏の案には不賛成議長、休憩を宣言午後2時10分再会を宣言。休憩中の結果について、沼部(中峯):決定しかねたので今日は閉会してほしい大貫(遠藤):遠田町に関わる適当な町名であれば、あえて遠田町を固持(ママ)しない大貫(瀬戸):続行して決定を沼部(宮崎):休会して研究することにして今日は散会を沼部(宮崎):賛意大貫(遠藤):休憩を要求議長休憩を宣言。大貫村委員、田尻町委員、各別室で審議。大貫(遠藤):町名は遠田町とし、高校と病院は旧田尻町新町付近に建築を。もし町名を田尻とするなら、病院は駅より大貫村寄りに。また高校は廃止して沼部村に小牛田農林高校分校を置いてほしい。議長:田尻町の委員の意見は田尻(山村):田尻町の案は私心がないもの。なお、役場は駅近くにするので病院は旧田尻町にしてほしい大貫(遠藤):消防本部は旧田尻町にして遠田町とする田尻(山村):病院は大貫診療所を病院と同じ設備にしてほしい。なお、家政専門学校を大貫村に設置は差し支えない議長:一同に諮る。田尻(佐助):第三項の案で譲歩したのだから、今また町名に異議があるとは考えていなかった。駅名をとることでは如何大貫(遠藤):遠田町を固持(ママ)田尻(宮崎):病院は大貫村にあるので、田尻・沼部の中間に立ててほしい。高校は、小牛田農林分校は反対。田尻高校の独立校として場所はどこでもいいから存置を希望する大貫(遠藤):大貫の病院は独立で建築したもの田尻(山村):田尻が全国的に知られている田尻(千葉):町名の話に病院や学校が条件づけられているが、提案事項のみの審議とせよ大貫(遠藤):7項と同時に審議を。議長:休憩を宣言。15分後再会。田尻(菅原):第1項の町名を譲歩したという経緯を明確に。議長:一案は遠田町、二案は田尻町で条件付き大貫(議長):3号は決定されたので町名とは別。田尻(佐々敬):総合的に審議しても良い沼部(中峯):条件付きで田尻町として良いとの話なので、病院を考えず授産場等を拡大すべき大貫(岩井):急がずに進めていくべき議長:本日は結論にならないので、散会と本協議会解散の重大なる2案が出たが如何沼部(久保):散会が良い大貫(伊藤):一問題ごとに散会しては議長:県では19日の県会で審議決定するので、本日散会では5月3日の合併がどうかとなる再び休憩、午後5時10分再会沼部(柳原):町名は田尻町として、7項の問題を考え、学校病院等は田尻駅付近として、総合的に考えて町名は田尻町とすべき沼部(加誠):田尻町の名は不賛成沼部(加稔):第一項第1号の審議も必要だが、総合的に全部審議の必要あり、小委員会を設けてその後本協議会で審議では沼部(宮崎):紳士的に定めていきたい。総合病院は旧田尻町、高校は旧田尻町新町へ沼部(加誠):町名は総合審議してはどうか沼部(柳原):委員付託としてその報告通り決定する方法も議長:沼部加誠案はどうか諮る。賛成の声、不賛成の声あり田尻(佐々敬):小委員会にて総合調整委員会としては大貫(遠藤):大貫の代表意見として、町名は新町名、病院その他は全部田尻町へ、他は何も要求せず、遠田町は譲らず議長:小委員会は必要か必要ないとの声有り田尻(佐助):調整委員会でいくべき大貫(林源):委員を引き受ける人はない沼部(中峯):このまま会議を進めるべき大貫(遠藤):役場は少しくらい遠くていいが町名は遠田町沼部(中峯):町名は田尻、病院・学校は沼部に置けばいい大貫(遠藤):町名は賛成できず沼部(宮崎):町名は田尻町で大貫に了解いただいてその他の事項は後日研究では沼部(加稔):結論出ないと思う議長:皆さんの意見で沼部(柳原):歩み寄りの線が残るよう散会して後日再会しては。そうでなかったら解散が良い賛成の声有り議長:町名の問題で散会となると後の審議にも影響沼部(宮崎):町名を田尻町とすることで大貫村の公式発言あるのか議長:田尻町とした場合、病院は大貫寄り、高校は小牛田農林分校とするよう、第二案として発言有った沼部(加稔):ここまでくれば結論出ないから閉会を。打ち切り解散は希望しない議長:5日に再会で如何休憩状態となり、議長休憩宣言。再会。議長:大貫村提案の第一案か、第二案か再び休憩状態、午後6時40分再会宣言議長:休憩中に話し合い結論が出たようなので、町名の件審議を得たい。大貫(佐々木):署名員は如何に議長:前回同様一同了承大貫(遠藤):休憩中に第7項の問題と関連していろいろ話し合いされたので、その点了承した。喜んで町名を田尻町とすることに賛成する。妥結の要点は以下。1.旧大貫村直営診療所を拡充して丁型の国保病院とする2.旧田尻町・旧沼辺村中間道沿いに、病院を新築する3.旧大貫村に講堂兼体育館各150坪を新築する4.旧大貫村の家政研究科を整備拡充して、家政専門学校とする5.高等学校を統合し、家政科を併置して、田尻駅付近に建設する議長、休憩を宣言、休憩中に一同了解。再会を宣言して、大貫遠藤氏の言を再確認するため一同に諮り、満堂賛成。これにより議長は第一項新町名を田尻町と決定する旨を宣言した。3 田尻駅の名称について東北本線が本町を貫通したけれども、停車場は小牛田と瀬峯(ママ)に頼る不便があったので、庁内に停車場を設置してほしいというのが宿願であった。とくに地方物産の米穀その他の移出と地方開発に痛切な必要を感じたのは田尻地区町民であった。29年以来、設置について地元沼部地区の有志と協議の上、再々、停車場設置の請願書を帝国鉄道庁に提出し、他方、代議士菅原伝に陳情した。遂に認可され、明治41年起工、同年俊成、業務開始。昭和35年町史には、上記の趣旨が書いてある。駅名はスンナリだったのだろうか。4 郵便局の名称気になったのは、郵便局の名称。現在の郵便局は、「本田尻」と「田尻」だ(ほかに大貫も)。昭和58年町史には郵便局の記載がないが、昭和35年町史には数ページにわたって、記載がある。ごくごく一部だが、下記の通り。・田尻郵便局(局員19)、明治7年創設。明治29年田尻町字町の大火で類焼。・沼部郵便局(局員23)、昭和4年設置。区域は新田尻町のうち、旧沼辺大貫の両村なお、郵便関係の歴史をまとめた資料では、昭和55年1月時点で、次のように記されている。・本田尻 田尻町田尻字町浦、定員14・田尻 田尻町沼部字新富岡、定員21以上から、昭和55年までに、沼部局が田尻局に、田尻局が本田尻局に、それぞれ改称していることになる。日本郵政グループのサイトでは、「もとたじり」と読む。5 感想私は、人家密集している田尻と沼部の対立の図式化と予想したのだが、新町名については大貫村が遠田町を主張したが、沼部村は沼部の名を主張することはなく、役場位置については田尻町が自町を主張したいようだが、病院や高校の配置とも相まって、新町の中央の沼辺におさまったという感じだろうか。駅名は、すでに知名度がある一帯の名として田尻の名として、沼部も反論がなかったものと推察。なお、本田尻(もとたじり)の表現は、郵便局だけなのか、地域でも浸透しているのか。やはり、地域の人に聞いてみようか。■関連する過去の記事(旧田尻町)●田尻の謎を解く(その1)(2026年05月09日)●加護坊山(2026年05月04日)●涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日)= 政宗の岩出山移転の際に、伊達三傑の一とされた亘理元宗は、遠田郡に村替えになる。はじめ、大沢村の百々城を与えられ、間もなく涌谷城に移る。百々城は田尻駅東南の丘陵で、岩出山城の南の抑えとして要地だった。●宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)= 当初計画は、吉岡ー古川ー築館ー一関の奥羽街道沿いだったが、三本木や金成が難工事だったことと、松島、塩竈に近くなることから、小牛田ー瀬峰ルートになったとされ、山地の少ない田尻を通ることになった。小牛田村長の奮闘も伝えられる。●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)●気仙沼線の歴史とBRT(2015年9月22日)= 大正11年の改正鉄道敷設法の別表による予定路線には、「気仙沼より津谷、志津川を経て前谷地に至る、津谷より分岐し、佐沼を経て田尻に至る」鉄道が含まれた。その前半部は昭和52年に気仙沼線として全通。後半部は、気仙沼線と東北本線田尻を短絡する路線だが、実現していない。●組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)= 定時制分校の数が多すぎ、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格した。●奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)= 大崎八幡社について。栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮とともに、奥州三八幡という。大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。
2026.05.12
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朝日新聞に、票の有効無効をめぐる過去の裁判所の主な判断が載っている記事があった。(5月9日、原晟也、野口駿の署名。デジタル版は11日)・(記載の内容)チョキ →有効(木村長吉候補は「チョキ」と呼ばれている)、1952、仙台高裁・○トミ →無効(通称がマルトメだとしても、文字による投票と言い難い)、1952、名古屋高裁金沢支部・ホンテン →有効(柴田四郎右衛門候補の家は酒屋で、「ほんてん」は、柴田本店の略称として使われている)、1978、最高裁・イシイマ →有効(石井若三郎候補を「イシイサマ」と記載しようとして「サ」が脱落したもの)、1956,東京高裁・サワダケイ →有効(沢田操候補に対して「沢田兄」の趣旨で書いた票で、「兄」は敬称)、1951、仙台高裁・石田親分 →有効(親分は一種の敬称であることに疑いない)、1954、東京高裁・カガヤアンコ →無効(アンコは敬称でなく若い男などを意味する蔑称で、他事記載とすべき)、1957、最高裁こうみると、本当に微妙だ。以上は、記事の中で表として解説されているものだが、記事の本文の中にも過去の実例がある。・1950年代、新潟県堀之内町議選、「カジ」が鍛冶業を営む候補者の通称として、裁判で認められた。(当ジャーナル補注)この件は、神栖市選管も有効とする理由として挙げていた)。・2005年鳴門市議選、「バンド ヒゲ」が有効に。坂東という前職がヒゲの写真やイラストを使用、また一部市民からヒゲさんと呼ばれていた。・2015年大竹市議選、「キタジタカシ」を市選管・県選管は北林隆候補の票として有効としたが、無効と判断。北地という別の候補と取り違えた可能性あるとした。誤記の場合は、他の候補者と解釈されうるかどうかが、判断の分かれ目のようだ。■関連する過去の記事 神栖市長選を考える(何度目か)(2026年05月01日) 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.05.11
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素朴に感じている疑問。旧田尻町は田尻と沼部に2つ密集地があるが両者の関係はどうなのだろう、例えば、沼部地区の駅名がなぜ田尻なのか。また、昭和の合併で新町名で揉めなかったか。田尻町史編さん委員会編集『田尻町史 下巻』(昭和58年3月25日発行)をもとに、調べた。1 田尻の地域区分史の概略明治の町村制では、遠田郡に1町(涌谷町)と11村ができた。田尻地区では、大貫村、沼部村、田尻村が成立。その後、明治35年に田尻村が単独町制。小牛田町(明治40年単独)より先の町制である。昭和29年に、田尻町、大貫村、沼部村が合併して、田尻町が発足する。2 明治の町村制について明治21年4月、市政町村制が公布され、翌年4月1日に施行、あたらしく田尻、沼部、大貫の3か村が成立した。県は政府の訓令に基づいて、一町村およそ300から500戸を標準としながらも、町村の旧慣、現状を考慮し、民情にそむかぬように、郡長の意見、地方民の希望にできるだけそうよう配慮した。合併後の新町村名を付けるときも、旧村を大字として残すなど、意外なほどに慎重な考慮を払った。たとえば、県の作成した合併試案の変化にもよく表れている。このなかで、大嶺、八幡など北西部の6か村で大幡村という全く新しい村域を構想したのは面白い。田尻村554戸、沼部村514戸、大貫村292戸となった。・田尻村 ←旧村名(数字は戸数):田尻(260)、大嶺(68)、八幡(44)、小松(42)、通木(41)、諏訪峠(13)、沼木(20)、中目(40)、北牧目(26)・沼辺村←沼部(242)、小塩(81)、大沢(102)、桜田高野(14)、北高城(8)、北小牛田(67)・大貫村←大貫(189)、蕪栗(103)大貫村が小規模なのは交通、地理上やむを得ないことだった。新村の組み合わせの後、新村名を付けるときに一悶着が起こった。たとえば沼部村では、連合村時代の村会議員たちが大沢村を主張し、あるいは、大沼村、鶴城村を持ち出すなど容易に定まらなかった。結局、沼部村に落ち着いたものの、藩政期以来の沼辺村の「辺」をさけて、沼「部」村と字を変えた。村役場は、田尻村が新町田尻に、沼部村は沼部館浦の八幡社境内におかれた。ともに前代の戸長役場を踏襲した。大貫村役場は祇劫寺内におかれた。その後、田尻村役場は、著しく老朽化したため、昭和7年に至って議会で庁舎位置を町浦22番地内に決定、着工。請け負った会社の倒産などもあったが、8年末に完成、昭和30年まで存続。沼辺村役場は旧修験寺道場であり老朽が甚だしく、昭和9年、沼部字富岡183の21、もと産業組合事務所跡に新庁舎を建築した。大貫村役場はまもなく大貫館山館跡に写った。それから明治33年3月、ふたたび字宿にもどって米谷源之丞別宅を借り受け移転。41年に大貫字2また71番地、高橋氏居宅の一部を借りる。大正13年に大貫海上春見所有の居宅を買い入れ、小学校運動場東に建築することとした。3 東北本線田尻駅について東北鉄道の敷設と小牛田駅の開業で、駅前に米穀肥料商が進出したばかりでなく、総じて田尻地方での地方商業資本の続出と成長を授けることとなった。これらをもたらした一つが道路整備。明治22年に遠田郡役所から小牛田、中埣、田尻、沼部、北浦、富永6か村に指示があり、小牛田駅から高清水村に至る街道(高清水街道)の修築が目的であった。前代までほとんど藩政期の脇街道そのままだったものを、路幅を広げ、屈曲を直し、近代的道路に替えるものである。明治22、23両年度の事業として、それぞれの村会で、組合設立(小牛田村外5カ村組合)と分担金を決議した。分担金は田尻村の負担が最も大きい。高清水街道の修築と同時に、県議で中埣村出身の鈴木丙二は、自費で江合川に橋を架け、高清水街道を南北に結んだ。通行料をとったので営業橋という。34年に県に買い上げられ、遠田橋と呼称。明治41年12月田尻駅の開業とともに、田尻駅前には田尻合同運送株式会社が興った。町史にはほかにも鉄道と地域経済の変貌ぶりなどが記載されているが、田尻駅の位置や名称についての経緯は記載がなかった。ただ、22年の組合6カ村の「告第1号」には、次のような内容がある。(概略)1 修築すべき路線区分第1区 小牛田停車場より小牛田駅まで第2区 北浦村より中埣駅西出口まで第3区 中埣駅西出口より田尻駅横町入り口まで第4区 田尻駅出口より旧道を経て栗原郡界までここで、停車場が鉄道駅のことで、北浦、中埣、田尻は、近世からの継立や宿駅としての意味なのだろう。停車場としての田尻駅については記載がない。まったく想像なのだが、開業当初は停車場の計画はなく(反対運動に対する配慮もあったか)、その後地元の機運も沸き上がり設置した際に、場所は沼部だが、宿駅としての交通上の地位の重要性から、また先に町制を単独で施行した(明治35年)こともあったか、停車場名は田尻でおさまった、か。4 昭和の合併田尻町長佐々木敬一は田尻、沼部、大貫、中埣の4か町村による合併案(河北ブロック)を打ち出し、関係町村によびかけた。各町村ではまだ合併機運が熟さず、29年1月にいたって沼部村の与論がようやく田尻町案にかたむく。こうしたときに、県試案が出され、中埣村は、河北ブロックと同時に、小牛田ブロック(小牛田、不動堂、北浦)にも属する形となった。当時中埣村では、村民の意見も二つにわかれ、村当局は収拾に苦慮しており、県試案もそれを顧慮したものだった。2月に4町村長、議長が会合したが意見の一致を見ず、一方、中埣村当局は村民投票で帰趨を問うこととし、3月7日住民投票、小牛田ブロック参政954票、田尻ブロック参政672票で、小牛田に決定した。これがかえって3町合併機運を急速に盛り上げた。3月15日には話し合いで合併期日を憲法記念日の5月3日にすることなどで意見が一致。しかし、合併促進協議会の新調建設計画策定では、とりわけ新町名と役場位置で紛糾した。ようやく第4回協議会でまとまり、翌4月6日に正式に新調建設計画が作成された。役場の位置は、旧沼辺村字富岡。なお、一時仮庁舎として、旧沼辺村役場および近接家屋を借り上げて充当する。役場位置とは、田尻駅前富岡であり、32年9月着工、33年4月竣工。沼部字富岡183の3番地。県内で初めて円形庁舎。町村合併は、29年4月1日の1市3町(白石、小牛田、鳴子、岩出山)に次いで、二番目の新町である。5月5日、沼部小学校講堂で新町開庁式を挙行した。4 当ジャーナル補足上記(3)のとおり、新町名と役場位置で紛糾したとあるが、じっさいにどのように紛糾して、どんな案が浮上したのか、などは記載がないようだった。地図を眺めて気づいたのだが、郵便局名が、田尻地区(田尻町浦)が「本田尻郵便局」、沼部地区が「田尻郵便局」だ。このへんにヒントがあるかも。後日調べます。(だいたいこのようなことは、地元に長く住んでいる人に聞けばわかることなのですが...)〔当ジャーナルからお知らせ〕次の記事(下記)で、謎を解いて(?)います! ご覧ください。田尻の謎を解く(その2)(2026年05月12日)■関連する過去の記事(旧田尻町)●加護坊山(2026年05月04日)●涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日)= 政宗の岩出山移転の際に、伊達三傑の一とされた亘理元宗は、遠田郡に村替えになる。はじめ、大沢村の百々城を与えられ、間もなく涌谷城に移る。百々城は田尻駅東南の丘陵で、岩出山城の南の抑えとして要地だった。●宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)= 当初計画は、吉岡ー古川ー築館ー一関の奥羽街道沿いだったが、三本木や金成が難工事だったことと、松島、塩竈に近くなることから、小牛田ー瀬峰ルートになったとされ、山地の少ない田尻を通ることになった。小牛田村長の奮闘も伝えられる。●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)●気仙沼線の歴史とBRT(2015年9月22日)= 大正11年の改正鉄道敷設法の別表による予定路線には、「気仙沼より津谷、志津川を経て前谷地に至る、津谷より分岐し、佐沼を経て田尻に至る」鉄道が含まれた。その前半部は昭和52年に気仙沼線として全通。後半部は、気仙沼線と東北本線田尻を短絡する路線だが、実現していない。●組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)= 定時制分校の数が多すぎ、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格した。●奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)= 大崎八幡社について。栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮とともに、奥州三八幡という。大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。
2026.05.09
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伊東市の市民団体が田久保前市長に、議会解散に伴う市議選や市長選の費用約8千万円を賠償させるよう、市に住民監査請求をしたとの報道があった。大変興味深い事案だと思う。形式上は、法律に基づいた権限行使だから、賠償責任を問うためには、この権限行使が法に反するものと評価されなければならない。地方自治法242条(住民監査請求)は、違法又は不当な公金の支出、と定め、同法242条の2(住民訴訟)は、違法な行為、と定める。意外と知られていないように思うのだが、住民監査請求の場合は、「違法」でなくても「不当」であれば、賠償責任を肯定する勧告ができるのに対して、住民訴訟の場合は、「不当」では賠償責任を問えないことになっている。「不当」とは、違法(法令の規定に違背すること)とまではいえないが、行政活動として実質的に妥当性を欠くことであり、不当な公金の支出の具体例としては、理由もなく特定の団体に補助金を支出したり、時価より高い物品等を購入するような場合である(松本英昭)。逆に言えば、訴訟では不当性の判定はしないが、監査の段階では、不当なので賠償せよ(ただしくは賠償させるよう首長に言う)と勧告することができる。法規に照らした厳格な法律関係の確定という司法活動(憲法上の司法権の範囲には含まれない客観訴訟だとしても)とは違い、行政活動の違法性のみならず合目的性を柔軟に判断する監査委員の権限として武器を与えているものと考えることができるだろう。監査委員の活動それ自体も行政の一環であり、団体自治の自浄性なり統率性の発揮を期待されているとも言える。首長が好き勝手に税金使うのを許すのか、ということだ。今回の事案では、どうだろうか。まず、住民監査請求で前市長の賠償責任を認めるために「違法」とするなら、たとえば地方自治法2条14項(最小の経費で最大の効果)を根拠にすることが考えられそうだが、他方で、首長による解散の権限は法に明示されているものだし、不信任と解散について理由は限定されておらず(地方自治法178条)、首長と議会のねじれを早期に是正させるための仕組みと理解すれば(ねじれ是正が住民の利益になる)、理由はさほど重視すべきではない、つまり、今回の件では不信任や解散の理由がないから違法だという論法は困難だとなるように思う。また、失職による市長選挙は直接には議会の不信任の結果だから前市長の責任と構成するには難がありそう。まず難しいだろう。しかし、「不当」なら可能性はあるようにも思う。世に争点とされたのが卒業したのかどうかという前市長の個人的な事項に属する問題であること、解散したとしてその問題は解決するとは言えないだろうこと、当の本人はダンマリを決め込んで「解決」の姿勢もみえなかったこと、刑事手続きも行われているほど特異であること、などを重視して、他方で客観的に市政が停滞したこと(重要な意思決定や議会決議などが事実上できない状態でいたことのコストは大きい)のバランスからしても、想定される市長の権限をおおきく踏み越えて恣意的に行使したものだ、という方向だ。それでもなおハードルは高そうだが、市民の不利益が尋常ではないことと前市長の主観的態様を際立たせることで、可能性はあるように思う。次いで、住民監査請求が棄却されて住民訴訟に進んだ場合はどうだろうか。違法というためには、権限の濫用の法理しかないだろう。では、どこからが濫用と認められるかは、相当難しい。また、かりに、監査請求による勧告があって、市から賠償を求められた前市長が、訴訟の場で争うことも考えられるが、裁判所は、監査委員の勧告について自律権を尊重する姿勢をとるのか、も関心がある。これまで、首長の個人責任が問われた訴訟はわりと多いはずだから(三セクへの支出など)、時間を見て調べておきたい。〔随時内容を追加します。編集長〕以下、今回の経緯を整理。・昨年5月 田久保氏市長就任・9月 市議会が全会一致で不信任決議を可決・市長が、議会を解散・市議選(定数20)で決議案賛成派19名当選・10月 再度の不信任案可決、市長失職・12月 市長選、田久保氏落選・今年3月 有印私文書偽造同行使で在宅起訴■関連する過去の記事 大衡村の議会解散を考える(2015年3月18日)
2026.05.08
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たまに思うことだが、立憲主義を破壊するなどの論法で、為政者、たとえば高市政権の政治姿勢を批判する論調がある。言いたいことはわかるし、憲法が組み込んでいる権力抑制の仕組みたちを軽視したり踏み越えるようなことは抑制的であるべき、という趣旨なら理解もする。しかし、政治的手法が横暴だとしてそれを批判する場合に、独断さや国民の理解や共感を得ていないことを説明すればいいのに、わざわざ「立憲主義」を持ち出して、それも憲法の規範的論議の作法もさほど行われず、一方的で乱暴で度が過ぎる、と感じるときがある。今朝の河北新報にジャーナリスト尾中香尚里さんの評論文があった(5月6日。共同の配信か)。当ジャーナルで論旨を書き出すと、次のとおり。・高市首相は、来年の党大会までに憲法改正発議にめどを立てることに意欲をしめした・唖然とするのは、首相が憲法を理想の国の姿を物語るものとしたこと・憲法は国家の恣意的な権力乱用を縛るもので、その根本を首相は理解していない・立憲主義は個人の尊厳を最優先するものだが、首相はむしろ国民を国家に従わせる真逆の姿勢・今年1月の無謀な自己都合解散は、有権者に投票先を考える時間を与えず、およそ国民を個人として尊重したとは言えない(a)・当初予算案を衆院でまともに議論せず強引に通過させたのは、代表たる国会の意思も尊重しない態度だ(b)・武器輸出を原則容認する4月の閣議決定は、国会に説明もない政策転換である(c)・選択的夫婦別姓は、名前に関する個人の決定権の問題で憲法の要請から必要不可欠な政策なのだが、首相にはどこ吹く風だ(d)・そんな首相がもくろむ改憲は、憲法の存在意義自体を変えることにつながりかねない。すなわち、国家権力を縛るのでなく、権力側が描いた国家の形に国民を従わせるものだ・そんな憲法を変質させてしまいかねない改憲は、あってはならない・憲法改正の正しい姿は、国家ではなく国民から声が高まったとき国会がそれを受けて発議する形しかないごく簡潔にまとめれば、「(ア)高市首相は国民の総意に基づかない独自の内容の憲法改正に前のめりだが、(イ)これまでにも憲法の根本を踏まえない政権運営(具体的にaからd)をしてきた首相のことだから、(ウ)憲法じたいを変質させる懸念があり、とても容認できない」となろう。まず、(ア)で論者がいうのは、改正の具体的内容についてではなくて、国民が求めていないだろう姿に従わせるという姿勢を問題視している。論者からすると、国民から声が高まって国会が発議するのだと良いというが、憲法96条は各議院の総議員の3分の2の賛成をもって国会が発議して、国民投票に付することを定めている。なにをもって「国民の声が高まったか」を問題視するのなら、それは、まさに代表たる国会(各議院)が熟議のうえで、主権者である国民に発議できる状況と内容とタイミングであるかどうかを判断することでしかない。まさか「総意」を憲法学者やマスコミが赤旗白旗を挙げて判定するなどありえない。そして、議院内閣制である我が国では、発議に関わる立場の国会議員を擁する党の代表でもある首相が意思を表明することが、政治的に(主要施策の選択行動という意味で)おかしくはないし、憲法上も禁じられているとは言えまい。要するに、論者が言いたいのは、論者の識見からは国民不在の首相独断なのでおかしい、という点に尽きる。それは、一つの価値判断で尊重されていいが、だからといってことさら憲法を持ち出す必要はない。論者は、憲法の本質である権力乱用の抑制の趣旨に反している、あるいはそれを理解していない、と言いたいようだが、少なくとも首相の側では国民の総意を得て進めている(総選挙の圧勝)、あるいは発議の上で国民投票で承認を得るつもり、として憲法の趣旨にむしろ沿っているというだけだろう。この論者氏は、むしろ、高市首相や各政党が主張する憲法改正の具体的内容を丁寧に取り上げて、国民の総意かどうかの点をふくめて、検討する方がいい。国民の総意による憲法改正は、私も賛成だ。そうであれば、どの点をどう改正すべきかすべきでないか、具体的に論じることが、国民のためでもある。次に、(イ)について。何点か高市首相の政権運営に批判があるが、その意見自体は、一つの政治的立場に過ぎない。一つの価値判断である自論の擁護のために「立憲主義」を援用するのでは、とても客観的で公正な議論とは言えないだろう。たとえば、(d)選択式夫婦別姓は憲法の要請だ、式の論議は、現行法の同姓主義には違憲の主張もあるが、最高裁は立法政策の問題と判断しており、ましてや、選択式までも憲法の要請とは解されないだろう。立法政策の議論として国民各位の理解をえる方向が望ましいところ、たしかに高市氏の主張は、これまで集約しかけた整理とは別の持論を持ち出したようにみえる面はあるが、だとしても、それが立憲主義に反するとはとても言えないだろう。最後に、(ウ)について。憲法を変質させる姿勢だからダメだとするが、まず、憲法を変質させるとの指摘は、規範的に考えるとどういうことだろう。論者が言いたいのは、憲法の個別の条項の改廃なら(国民の総意を前提に)許されるが、憲法の本質である権力抑制の趣旨自体を変えるのは絶対だめだ、ということのようだ。それ自体は正論らしく聞こえるが、じっさいのところ首相はそこまで言っていないし(それは当たり前だが)、考えているはずもない。民主制を変更して専制にするのは革命であり、憲法制定権力が何らかの形で正当化づけなければならないだろう(憲法論的には議論百出しそう)。もっとも、論者氏からすれば、なにもそこまで言ってはいない、民主制の外観のままで実質的に専制になる懸念があるということだ、と反論しそうだが、憲法上の規範的論議として何の意味があるのだろうか。政治家としての資質や政策遂行の姿勢について批判はじゅうぶん有っていいし望ましいが、憲法をもちだしてそれを変質させるとかいう議論ではありえないだろう。現状変更や独断らしき政治的振る舞いを批判するのに、いちいち憲法を(それもその本質をゆがめる式の議論を)もちだすのでは、憲法の価値を下げてしまうことに気づかないのだろうか。それよりは、政権の具体的な言動や選択しようとする主要政策をしっかり批判して、主権者である国民に正しい判断(選挙、国民投票)を促すほうが良い。私は、こういう論者には注意すべきだとおもう。国の重要な施策についてどのような意見があるにしても、だいたいこういう論者は、自論に引き寄せるために、立憲主義をもってくるのだ。そして、こういう風潮が我が国はまだまだ多いのだ。偽善者的な立憲主義(者)と、名付けよう。おなじ今日の新聞にも世論調査結果がでていたが、憲法改正で論じられる具体的な条項について是非のアンケートができるような時代に、やっとなった。戦後80年以上が経ち、社会も経済も随分と変わった。日本国憲法だけがひとりそのまま全く変わらないということは、不自然であるといえないか。一定の人たちは、いまでも憲法が手つかずの聖典であり続けてほしいのだろうか。(もちろん私は、いわゆる改憲ありきの立場ではなく、さまざまな不都合を打開するための改正であれば必要とする立場。そして、国民の支持を得ることはもちろんである。また、法規範的な論議が主となるべきで、ムードや理念的な憲法改正はむしろ有害だとさえ思っているが、そうした点も含めてメディアや(あまり動かないが)憲法学者等がしっかり議論して、国民の幅広い合意を形成してほしいと願う。)耳障りの良い正論めいた議論ほど、じつは有害かもしれない。■関連する過去の記事(立憲主義、特に、安易に立憲主義に言及することについて、など) 皇室典範改正勧告問題を考える(2025年02月14日) 国事行為に踏み込む?(2024年10月08日) 安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その2)(2016年6月12日) 藤田論文を読む(2016年5月30日) 安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その1)(2016年5月22日) 新安保法制と憲法学者(2015年6月6日)
2026.05.06
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こどもの呼び方について、多くの小学校では男女平等のためか「さん」で統一する例が多いようという。全国紙のある新聞社は、幼児から大人まで原則として「さん」で統一、別の新聞社は、原則小中学生は(男女を分けて)「さん」「くん」、高校生以上は「さん」で統一しているという。ちなみに河北新報社は、小学生以上は(男女とも)「さん」、0歳から未就学児は主に「ちゃん」だ。大事なのは組織として明確な判断基準があることだという。(5月5日付河北新報から。NIEのコーナーで、前日本新聞協会NIEコーディネーター関口修司さん)そうなのか。学校や幼稚園保育園での悩みも察するが、新聞がそれぞれ基準を持っていること、そして基準を持つことが大事なのだという。いろいろな考え方があるだろう。私自身は、家族や社会のはなしであり、あまり統一や基準とかには馴染まないと考えるが、放送や新聞がみずから基準を持つことは理解できる。学校や保育などの現場も自由でいいと思うが、呼ばれる側(親でなく本人)の受け止め方は重視していくべきだろう。思い出すことがある。大学時代の友人が4年生のころ、社会人になったら同級や目下の人間も「さん」づけで呼ぶと、決意をもったように語っていた。まだ昭和の時代だが、自分はそこまで意識は高くなかった。いまは令和の世だ。ジェンダー平等の観点とあいまってか、職場の部下や同窓会の主に男性の後輩を「君」でなく、みな「さん」で呼ぶ流れがあると思う。自分も、それが良いと考えており、実践しているつもりだ。みな同じ会社や集団の仲間だ、指揮命令関係があるとしても、個性を持った人間同士、互いを尊重して付き合おう、という趣旨だろう。思えば、私の同級生の40年以上前の発言も、こうした考えだった。相手を見下してはいけない、と。本当に素晴らしいやつだ。また、「さん」統一の理由には、「君」付けで後輩や格下のスティグマを与えないという上記の理由の外に、私自身はもう一つ、「面倒がないこと」を理由に挙げたい。消極的な理由だが、少々無理して積極的に言うなら、だれでも「さん」なら敬称の意味もうすれて、組織やポストでなく生身の人間の付き合い(ファーストネームで呼び合うアメリカ社会みたいに?)を促すかもしれない。実はいまの職場で、若手職員から、上司をポスト名で呼ぶのをやめて「さん」にしたらとの意見があった。私自身は賛成だ。たぶん、一定の時間つづければ慣れると思うが、「始め方」が問題だ。上から強制や誘導は下策だろう、何気なく若手から使って広まる仕掛けがうまくできないか。こどもの話、ジェンダーの話からそれてしまったが、これも一つのポジティブアクションだろう。
2026.05.05
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大型連休の中のこの日。大崎市田尻の加護坊山に登った。山頂から、風わたる耕土を眺める。豊かなる里が広がる。遠くには七ツ森と蔵王連峰だ。
2026.05.04
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これだっ!と思わずにいられない。河北新報記事だ(5月3日、川村公俊さん署名)。箟岳山焼(ののだけやまやき)だ。概要を下記に(当ジャーナルまとめ)。涌谷町の割烹みうら(三浦嘉彦代表)で、箟岳山焼が提供される。ウェルファムフーズの町内立地工場(2024年稼働)が生産する銘柄鶏「森林どり」と、箟岳で名物だったジンギスカンのタレを再現して組み合わせた逸品。遠田商工会が中心となり、今年3月の試食会では13の事業者が独自メニューを披露。今秋には大規模イベントを開催。箟岳山地区は、1960から70年代、4軒ほどのジンギスカン店が営業していた。三浦さんも少年野球の打ち上げで訪れた。各店の味は違ったが、当時の記憶と食材を意識して、タレを開発した。地元の川敬醸造のしょうゆに、果物やスパイス、ニンニク。料理を通じて、町に人を呼び込むと三浦さん。昔は羊、今は鶏だが、町に根付いた食文化を次代に合わせて残したい、と意気込む。実は、私(おだずまジャーナル編集長)も社会人駆け出しの石巻時代に、天気のいい日に先輩が、ああ箟岳でジンギスカンでも食うか、なんて言ったことを覚えている。なので、箟岳はジンギスカンの名所という印象が自分には強いが、地域の皆さんには味で馴染んだソウルフードに違いない。そして、新たな立地企業と地元の企業とが一丸協力して、昭和の味で町おこし。なんてすばらしい取組か。歴史と今が融合し、世代もつないで、町を盛り上げる味づくり。あたらしい味を求めに、たくさんの人が涌谷を訪れるかも知れない。ぜひ、頑張ってください。秋のイベントいきます。ところで、この記事は連載のようで、「おいしい物語@みやぎ/まち盛り上げるグルメ」の5回目とされている。シリーズのこれまでも、よく読んでおこう。■関連する過去の記事(涌谷町。ほかにも多数ありそうですが) 城山公園の桜まつり(涌谷町)(2026年04月12日) 箟岳白山小学校(2025年05月30日) 涌谷町の殺人事件(2022年11月20) 涌谷町の地名 産仮小屋(2015年4月25日) 誉れ高き箟岳分校史(2012年5月15日) 定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日)=涌谷町と鉄道の歴史 ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月25日) 涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)
2026.05.03
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前回記事(神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日))に続けて、改めて、茨城県選管の裁決についての報道を拾ってみる。・県選管は、市選管が有効票と認めた「まんじゅうや」「だんごさん」は、木内氏の通称として市内で広く使用されているとは認められないとした。また、欄外に「○」が付された石田氏の有効票も無効とした。(毎日新聞から。当ジャーナルで表現整理。以下同じ)・木内氏の親族が市内で営む和菓子製造会社「木内製菓」の存在を根拠に、市選管は有効としたとみられるが、通称として広く認められたものではないとした石田氏側の申立てが通った。県選管は、「だんご「まんじゅう」は木内製菓の商品として認知されているが、「だんごさん」「まんじゅうや」が通称として広く使用されているとは認められない、とした。(読売新聞)・神栖市選管が有効と認めた根拠の一つは、かつて新潟県で実施された選挙で、鍛冶業を営む候補者に「カジ」と書いた票が有効とされたこと。しかし県選管の裁決では、新潟の事例は人口が神栖市の1割程度の小さな自治体で、人口が大きくなるほど同業者が多数想定される、とする。(朝日新聞)ところで、茨城新聞の記事では市民の声として、・市選管が再点検したのに県選管で審査結果が変わることに驚く・これまでは(まんじゅうやで)認められていたのかも知れない・名前以外の記載が無効になることについて高齢者にもわかりやすく説明をなどが紹介されていた。市民側の率直な意見だろう。さて、肝心の茨城県選管の裁決は、神栖市のホームページに出ている(おそらくは概要資料で、裁決書本文ではない)。県選管がどのような判断をしたのか(他事記載の○に関する部分は除外)、以下に当ジャーナルで要点を整理する。・過去の判例等に基づき慎重に判断・公職選挙法68条の規定(どの候補を記載したか確認しがたいもの)に反しない限り、投票した選挙人の意思が明白であれば有効とすべき(法67条)・誤字脱字などがあっても、記された文字の全体的考察によってどの候補者に投票したかを判断しうる以上、有効として投票人の投票意思を尊重することが、代議制民主主義に合致(最判昭和25.7.6.)・候補者の氏名のほか、他事の記載は無効だが、職業、身分、住所、敬称のたぐいはこの限りでない(法68条)・他事記載とは、符号、暗号等、投票した選挙人の何人たるかを推知させる意識的記載であって、しかもそれが明白な場合を指す(仙台高判昭和63.6.30.)・「だんごさん」「まんじゅうや」について、市選管の主張は、木内氏を「まんじゅうや」と呼称する者がおり、一定の範囲の市民や市職員の一部からも日常的に呼称されている、また、「まんじゅうや」「おだんごさん」の記載は木内氏を示すものと考えられ、反対に石田候補を示す要素は全くない、とする。・しかし、「まんじゅうや」等の記載が石田氏を示す要素が全くなく木内氏を示す要素しかないとしても、そのことのみで木内氏の有効投票と認められるのではなく、その記載内容が木内氏の呼称として神栖市内いずれの地でも慣習的に使用されている状態にある限りにおいて、氏名に代わる通称として有効になるというべきところ、「だんご」「まんじゅう」が木内製菓の商品として市内で認知されたことは認められるが、「だんごさん」「まんじゅうや」が木内氏の通称として広く使用されていると認めるに足りる証拠はなく、無効と判断せざるを得ない。■関連する過去の記事 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.05.01
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