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いままで鑑賞した2作品が無性に眠気を誘ったタルコフスキー。作品自体は好きだった。三本目のこちらは案外眠くならず、しかもしっとりと胸に響いてくる、タルコフスキーの自伝的な作品。母の思い出、妻への愛と別離、戦争・・・意識下の過去と現在の心象風景が、水と火をモチーフにした幻想的なイメージで綴られる。カラーとブルーがかったモノトーンが、シーンによって使い分けられている。夫婦の出会いから別れを、時間を遡って描く主題のほかに、少年の頃の思い出や、母親の記憶や、古い記録映画の映像を挿入した、監督自身の物語。ノスタルジーと家族への思いに溢れている。初めてタルコフスキーを観たとき観念的であると教えられてから、この言葉以外に適当な表現が浮かばなくなってしまった。とにかく観念の世界。心象を描くのでとりとめがないけれど、ほかにはない魅力が映像の端々にある。幻想世界を彷徨っているのに、時々ありありと感性を刺激されるから面白い。目を見張る映像が美しい。火と水、とくに多用される水のイメージは大きい。自分も持っているアニミズムの思想にしっくりと同化していく感じが、心地いいのかもしれない。どんな人も感情も自然の中の一部分――そういわれているみたいで、自然と同調していける確かな包容力があった。飛びきりの悲劇だって、死に直面したって、何かに守られているような根本的な温かさがタルコフスキー作品にはあるみたい。冷たい雨が降りしきっていても、人の温かみを感じて。 本編のなかで、ロシアのことを考察したシーンが印象的だった。プーシキンの手紙の一節をつかったシーン。たぶん監督自身の少年時代を描いた場面で、その少年は朗読する。「ロシアは歴史的に無価値・・・教会の分裂は欧州からロシアを引き離した・・・他のキリスト教国とは全く異なるキリスト世界を形成した・・・・」云々。確かに、広大なロシアは欧州であって欧州でないような感じがする。歴史に疎い私には、ロシアの歴史上の存在位置さえわからない。監督はプーシキンの手紙を引用して、そんな微妙な位置にある祖国を描きたかったのかもしれない。そしてそれこそが自らが生きた国であって、ロシアンカラーに染まっているのだから面白い。ほかにも本編で使われる印象的な詩は、詩人である監督の実父のもの。朗読は監督が務めている。もう忘れてしまったけれど、いい詩だった。ロシアには有名な詩人や文豪がたくさんいて、凍えた大地が生んだそれらの作品を、フト手にとってみたくなるような、そんな余韻があった。死ぬまでに観たい映画1001本監督 アンドレイ・タルコフスキー 脚本 アレクサンドル・ミシャーリン アンドレイ・タルコフスキー 撮影 ゲオルギー・レルベルグ 音楽 エドゥアルド・アルテミエフ 出演 マルガリータ・テレホワ オレグ・ヤンコフスキー (カラー/106分)
2008.09.30
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原題は『THE GOOD SHEPHERD』、2006年にもアンジーとマット・デイモン主演の同名作品があります。そちらのほうが有名。先に製作されたとはいえ劇場未公開だったため、タイトルは『レッド・イノセンス』となってDVDで出ています。スレイターファン歴は長くても、めっきりカナダの新人監督の作品などに出演することが多くなっている現実は悲しい。見るからに面白くなさそな作品を観ようと思えるのは、スレイター出演作だから以外にありませんが、期待していないのにガックリくるのが軽くショック。一切おすすめはできません。スレイターファンの方にも・・・声を聞くくらいなら・・・いいけど。 あらすじ マスコミ対策や資金集めに長けた神父・ダニエル(スレイター)は、ある神父の“信者殺し”という事件を任される。調査を進める中で明らかになったのは、殺された信者の隠された性癖と謎の集会の存在だった―――。謎の集団にもなりきれず、司祭?と枢機卿の見分けがつかない(そっくりさん)!サスペンスなのにダレダレだし、これぞ初監督作品という感じです。一番の問題点は『クライング・ゲーム』での好演が忘れがたいスティーヴン・レイが、ダニエルの気の合う友人として冒頭からさりげなく登場し続けることか。こんなインパクトある人が、物語に絡まないわけないから、もう始まりから疑ってかかって「ああやっぱり・・」となってしまうのでした。いいところなしだなぁ。普段からなるべく面白い映画が観たくて選んでるので、突然こんなゆる~いB級映画に対面すると免疫ができてなくて倒れそうになりますね。B級なりにいいところもあるから、この路線を楽しめる方も多いのでしょうが、いくら好きな役者さんが出ていたとしても、時間の無駄感たっぷりって感じで、損した気分です。自分でレンタルしてきたくせにねー監督 ルーウィン・ウェブ 製作 ジョン・フロック 脚本 ブラッド・マーマン 出演 クリスチャン・スレイター モリー・パーカー スティーヴン・レイ (カラー/92分)
2008.09.29
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チャップリン、キートンと並ぶ喜劇王ハロルド・ロイドの作品を初めて観ました。前の二人と違うのは、監督を自らやらずに役者に徹していることでしょうか。誰にも似ていない個性的なコメディアンでした。一作品だけでも当時の人気がわかります。面白かった!ロイド眼鏡というのはここからきているんですね。気の弱い牛乳配達員が、インチキ興行師によって人気ボクサーになるが・・・というお話。もとは舞台劇だったそうです。牛乳配達の相棒(馬)をこよなく愛し、八百長試合にも気づかず、突然人気者になった自分に大喜びしている間の抜けたロイドが可笑しい。やる時はやるっていうのも、ちゃっかり幸運を手にしている痛快なラストもお約束です。ワルツの調べに合わせてのボクシングに笑い、ブーメランみたいに舞う帽子に笑い。遊び心満載です。妹や恋人と、丁度いい具合に絡みがあって、興行師の愛人も合わせて、女性たちの存在が物語に花を添えています。それにしてもコメディアンはみなさん小柄ですね。身軽でないと務まらないのでしょうが、フットワークの軽さには拍手したくなる!監督 レオ・マッケリー 脚本 グローヴァー・ジョーンズ フランク・バトラー リチャード・コネル 出演 ハロルド・ロイド アドルフ・マンジュー ヴァリー・ティーズデイル (モノクロ//88分)
2008.09.28
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大ヒットした『Shall We ダンス?』から11年ぶり、周防監督の新作。時間を掛けて丁寧に取材を重ねて撮りあげた本作は、長尺ながら見事な安定ぶりでした。ほぼ裁判所内のシーンで占められてはいるものの、堅苦しくならず、丁寧に真摯に痴漢冤罪事件の真実を取上げています。日本の裁判所や犯罪関連の教科書という感じで、判りやすくて臨場感がある。そして出演陣がとにかく豪華。主人公・金子徹平(加瀬)はほんとうに痴漢なんかしていません。それでも認めて示談にすれば5万円の罰金、争えば99パーセントの確立で有罪、そんな馬鹿げたことになってしまう。これが日本の法廷で繰り返されている事実なんですね。主人公は1年もかけて家族や友人や弁護士たちと共に闘うけれど、すべてが無駄に終わってしまいます。この絶望は、いつの間にか他人事じゃなくなって、鑑賞後に裁判が少し身近になっているのも良い所。来年5月からは裁判員制度が施行されるそうだし、全く無関係な犯罪に巻き込まれるなんてことが無きにしも非ず・・・そう思うと一度は観ておきたいです。先日の『硫黄島からの手紙』を観るまでは、主演の加瀬亮さんを意識したことありませんでした。役柄のせいで気落ちしたヤツレタ表情が貧相で、ずっとイケテないイメージだったけれど実はカッコいい。瀬戸朝香さんもいい味出しているし、役所広司さんの普通の演技もたまにはいいものです。犯罪の周辺に絡んでいる人物はたくさんいて、留置所の常連、性犯罪だけを傍聴に来る変態男、無罪を貫いてを争い闘い続ける被告人など、周防監督が見てきた事実であろう描写には、知らないことがいっぱい。裁判所にもどうしようもない人間がいて、、溜め息が出ちゃうようなやるせない気持ちになるけれど、勉強になる一本でした。監督・脚本 周防正行 音楽 周防義和 出演 加瀬亮 瀬戸朝香 山本耕史 もたいまさこ 田中哲司 小日向文世 役所広司 (カラー/143分)
2008.09.27
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ドストエフスキーの「白痴」を、5代目坂東玉三郎主演、アンジェイ・ワイダ脚色・演出した同名舞台の映画化。玉三郎と二人芝居を演じた辻萬長に代わって、永島敏行が相手役ラゴージン役を務める。原作を読んだことはないけれど、長大な物語のクライマックス“ラゴージンがナスターシャを殺してしまったところに、ムイシュキンが訪ねてきた場面”これをコンパクトにまとめたストーリー。随所にそれまでの物語の重要な場面を挿入する構成をとっていて、全体の物語のニュアンスも感じながら観られるものだった。舞台の客席との距離はきわめて近かったというから、自分も慣れ親しんだ小劇場の雰囲気があったのかもしれない。映画という媒体で初めて触れた5代目坂東玉三郎の演技は、身震いするほど素晴らしかった!これを生で観てしまったら、忘れられないでしょう。当時の舞台を観た方が本当に羨ましく思います。ムイシュキンを演じる玉三郎は、イヤリングとショールを身につけると、一瞬にして女形に変身する―――という舞台と同じ演出で、映画ではカットを変えることで、眼鏡を外し薄化粧をしたより女性に近い姿のナスターシャとなっている。妖艶で見惚れるほど美しいナスターシャに目が釘付けになってしまう。映画ならではの演出だ。反対に、ムイシュキンを演じているとき身に着ける眼鏡は、光を反射させて表情を隠す。目が見えないことで、表情が読みとりにくくなる憎い演出。不気味に光るレンズがすごく印象に残る。 舞台上の閉塞感をわざわざ映画にした作品を、あまり好意的に観てこなかったけれど、本作は別。こういう形で映画にしてくれたからこそ、名舞台を今でも目にすることができるのだから嬉しい。しかもポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダとの夢のようなコラボ。どんな経緯があって実現したんだろう。50年代の『灰とダイヤモンド』や『地下水道』が日本でも人気高いワイダ、芸術家同士が引き合わされた感じだったんだろうか。玉三郎氏も、進んで各国の芸術家と一緒に仕事をしているから、舞台までの経緯はそういう難しいことではなかったのかもしれないけど。それにしてもこのお二人がコラボしていたなんて、本作を知るまで知らなかったので驚きだった。ワイダは親日家なのかも。(そういえば先日もBSで自作を語るインタビューに応えていたっけ)全編ポーランドの首都ワルシャワの宮殿でロケを行い、霞みのかかった逆光の淡い光の中で、絶対的な品位に包まれた映像美で綴られている。“白痴”と呼ばれるほど純真で美しい心を持ったムイシュキン公爵と、どこまでも粗野なラゴージン。坂東玉三郎と永島敏行の二人が、対比する人物像を見事に演じていることも、単調になりがちな舞台劇の映画化を助けている。なにはともあれ、坂東玉三郎の演技は脱帽ものだ。(カラー/日本・ポーランド合作/99分)
2008.09.25
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日曜に、『佐々木丸美展』が開かれているえりも町へ行ってきました。帯広駅に11時に降り立ち、迎えに来てくれていた旧友Sちゃんの車で、一路えりもへ。途中でお昼になり、飛び込みで林の中の小さな洋食店ウェザーコックに入りました。思いがけず美味しいピザとクリームパスタに舌鼓。コーヒーも美味しかった♪えりもは帯広から車で2時間の場所。途中からはずっと海沿いの寂しい道をいきます。本当になにもない、春でなくてもなにもないところ。そんなグレーの景色の中、突然目に飛び込んできたアザラシの群れのようなもの。よく見れば、真っ黒なウェットスーツに身を包んだたくさんのサーファーたちでした。さらに暫く行くと(たぶん鮭狙いの)釣り人たちが、いっぱい沖へ向けて竿を出していました。えりもに着いたのは2時ごろ。誰もいないことを予想していただけに、案外観光客が多くて驚きでした。道内外からの人でまずまず賑わっています。北海道の最南端、えりも岬のすぐ横にある風の館はすぐにわかりました。石造りの施設は、海側が一面ガラス張り。丸美作品のイメージに重なるといいますが・・・。最南端の風土を伝える施設そのものという感じで、私には特別な思いは湧かない建物でしたよ(笑) そんな「風の館」の2階の一画で、ひっそりと『佐々木丸美展』は開かれていました。私が足を踏み入れた時には誰もいなくて、とても静か。ファンの方に会えるかもという僅かな期待は破れてしまいましたが、そうですよね・・・最南端まではあまりに遠い。いくら地元の人でも、車を走らせてここまで来るには、かなりの気力と決意を要します。私はといえば、ずっとSちゃんにハンドルを握らせて、話しに夢中になりながらの来訪。もし彼女に運んでもらえなかったら来られかったろうと思うと、感謝カンシャ!でした。展示されているものは、先日の紀伊国屋書店で観たものと重なります。今回は創元社から出版されている館シリーズの牧野千穂さんのカバーイラスト原画が新しく見られて嬉しかった!奥深い雰囲気のある絵は、味戸さんに負けないほど丸美作品に相応しい感じがしていいですよね~。感激です。直筆原稿は何度見ても感慨ふかく、ファンの方が残していったメッセージノートを読むと、さらにまた感動します。ウイさんはじめ、この展示会を企画してくださったすべての方に感謝します。休日に遠路までお供してくれたSちゃんもありがとう!自分にとってはなんの目的もないものに付き合ってくれて、しかもなにもない道のドライブありがとう。それを楽しいものにできるのは、友達同士の強みだね。札幌から汽車で2時間半、そのまますぐに出発して、昼食タイムを入れて3時間。1時間見学して、また2時間以上かけて帯広に戻りました。公園で遊んだり、温泉に浸かったりしながらゆっくりと。その夜はSちゃんの家に泊まることになっていたので、居酒屋で飲みながら語らって、帰宅後も夜中まで語らって、久しぶりに本当に嬉しくて楽しい、名残惜しい時間を過ごしました。翌日、早いうちから近くの大きな公園でマウンテンバイクをレンタルして、十勝晴れの清々しい空気の中を自転車漕いで散歩。ここ暫くの私がリセットされていくような、漂白されていくような感覚。腹いっぱい笑い、悦び、楽しみました。Sちゃんにとっても同じだったみたい。やっぱり持つべきものは友達だなぁ。この1年はろくに人に会えずにいたけど、それじゃあいけないね。そんなことを実感しながら、帰りの汽車で爆睡してる間に、気づけば札幌。帰りは早く、すっかり秋の気配がしています。
2008.09.24
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(あらすじ)出版業を営むブロシャンの趣味は、毎週水曜日、バカな人間を招待しては仲間で笑い物にする晩餐会。今回はマッチ棒の工作が趣味という税務局勤めのピニョンという小男を見つけたのだが、当日ギックリ腰になり動けなくなったブロシャンは、ピニョンと二人きりになってしまう・・・! 途中で何度も眠くなって、4度目の正直でやっと観終えた作品。98年製作とは思えない冗長さを感じてしまって。後日再見してみましたが、これは脚本と役者さんを落ち着いて観て楽しまなきゃダメなんですね~。気づかないような小さな笑いどころがいっぱい。オーバーアクトがないぶん飽きない、大人向けな作品。後からじんわりと可笑しさが込み上げてくるタイプ。でもなぜだか記憶に残らない・・・。(笑)バカよばわりはともかくとして、展開にはイライラ。結局はみんながおバカだから救いは、ピニョンのバカ正直さだけ?! 本気で‘バカしてる’強みったらない。一番まぬけなブロシャンにずっとイライラしてしまった。自然と隠し事がバレていく脚本は、上手くて楽しめる物だった。これは単純に好みではなかったのかも。舞台劇調で進む映画は、それほど好きになれないことも多く。けれど、世間での評判はすこぶる良いです。そして嬉しい短尺。コメディでもテンポが速いわけではなくて、ほとんどがブロシャンの家で展開していくので、余計に眠気を誘われたのでしょうか。可笑しなくらい、猛烈な眠気が襲ってきてしまいました。監督・脚本 フランシス・ヴェベール 音楽 ウラディミール・コスマ 出演 ジャック・ヴィルレ ティエリー・レルミット (カラー/80分)
2008.09.20
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夏目漱石は、お札の肖像に選ばれたくらいだから、真面目で硬派な作品を書いていそうだけれど、意外にも違っていて、すっかり好きになってしまった。『吾輩は猫である』はユーモア、『それから』は人妻を愛して転落していく主人公という、危なっかしくも情熱的な物語。後ろ暗さや、退廃、不安感、そんな陰のあるところが好きだ。ここ数年気になる明治という時代、それに沿って生きた漱石。時代の風情も、登場する遊民たちも、閉塞的なのか自由なのか掴みどころのない魅力がいっぱいだ。この『こころ』は、同性愛を匂わす物語だというのだからすごい。―― 親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選んだ孤独な明治の知識人の内面を描く。―――鎌倉の海岸で出会った“先生”の、不思議な魅力にとりつかれた“私”。第一部で、私は先生に近づき、人生の多くを学ぼうとする。あまり多くを語ろうとしない冷ややかな先生は、人に言えない過去を持っている。その過去は、私に遺された先生の手紙として第三部で綴られていく。“私”の“先生”への執着はたしかに同性愛を含んでいるようだった。無条件で傾倒していく“私”の強い感情と、“先生”を厭世的にした怯えるほど強烈な罪悪感。こういう今では頑な過ぎると思われる感情が、新鮮で好きだ。生と死、罪と罰、愛と友情。深く考えるからこそ、ひとつひとつの命が重い。寡黙で思慮深い主人公たちだからこそ、明治特有の魅力が感ぜられてくる。三部に分かれていて、最後は終始“先生”の告白文で終わる。前半の二人の師弟関係が面白かっただけに、告白の長さに多少辟易としてしまったけれど、面白い本だった。卑怯と高尚、どちらも持った“先生”は、捉えどころがない。風貌さえ明瞭には浮かんでこなくて。後へゆくほど弱さばかりが目だち、煮えきらなくて、嫌いになりはじめて。。それでも無様で人間らしいこころには近づきやすかった。“私”のその後をつい考えてしまう。まったく触れずに終わったから。病気の父は死ぬだろうし、“先生”のいない生活はイヤでも始まってしまう。ただ、孤独な先生が、誰にも打ち明けなかった過去を、自分にだけは告げて死んだことを、“私”はどう受け止めてこれから生きるのか、知りたい気持ちがする。
2008.09.19
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(あらすじ)『父親たちの星条旗』に続く第2弾。1944年6月、日本軍の最重要拠点である硫黄島に新たな指揮官、栗林忠道中将(渡辺)が降り立つ。アメリカ留学の経験を持つ栗林は、合理的な体制を整えつつ、島中に地下要塞の構築を進めた。そんな中、ついに圧倒的な数のアメリカ軍が、島に押し寄せるのだった―――。 本土決戦になるのを阻止する、最後の砦となった硫黄島でなにがあったのか、『父親たちの星条旗』を観るまでは知らなかった。こんな小さな島で、アメリカ兵も日本兵も大勢が亡くなった。『父親たちの星条旗』で同じことを書いたけれど、これは戦争のほんの一部分でしかなくても、当時の過ちを広い意味で理解できる、うまく現代に絡めたストーリーになってます。主演はジャニーズの二宮和也。戦友を演じた松崎悠希の自然な演技に助けられている感じ。なぜここにジャニーズなのか、ほかにいい役者さんはいなかったの?そう思うのは私がアンチだからでしょうか。それもあり、素直に感情移入できない冒頭だったけれど、二宮くんの演技はあとへいくほど良くなっていった。疲労し衰弱ながらも生き残った主人公の絶望と苦しみは、渡辺謙演じる栗林中将との共演シーンでも引けをとらないものだった。合理的な考えを持った中将の下で、反感を抱く者が現れる件があった。逆らえば部下でも平気で殺すような体質は、実際にあったんだろう。憲兵だった清水(加瀬亮)がこの戦場へ送られてきた理由もそこにある。見回り中、吠えやまない民家の犬を任務妨害だから殺せと、命じられる清水。しかしどうしても引き金が引けず・・・結局硫黄島へと送り込まれたのだ。言いたい事も言えず、非国民とされれば、どんな酷い目にあうかわからない・・・ファシズムと変わらないなぁと、アメリカ人が作った日本側の戦争映画でつくづく思わされた。 描かれる日本に、さほど大きな違和感は感じなかった。ひとつだけ言わせてもらえば、カッコ良すぎる。渡辺謙、伊原剛志、中村獅童・・・男前な上官たちばかりで昭和を感じないのだ。写真にも載せてみたけれど、西中佐(伊原)の衣装もすごい。西竹一中佐は実際に硫黄島で戦った人物で、乗馬のオリンピック選手だというのは事実なのだけど。みんな当時の日本兵らしからぬ風に見えてしまうのは・・・仕方がないのだろうか。世間での評価は『父親たちの星条旗』より『硫黄島からの手紙』の方がいいらしい。私的には前者のほうがいい。タイトルとなっている手紙が、もちろん大事な意味を持ってはいるけれども、弱かったのが残念だった。至る場面で、みなが届かぬ手紙を認めるシーンはあるのだけど、心情を描くために朗読するのだけれど弱い。手紙の重さが、最後まであまり深くは感じられなかった。エンドロールにでもいい、実物を見せてくれたらよかったのに。監督 クリント・イーストウッド 原作 栗林忠道 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』 脚本 アイリス・ヤマシタ 音楽 カイル・イーストウッド マイケル・スティーヴンス 出演 渡辺謙 二宮和也 伊原剛志 加瀬亮 松崎悠希 中村獅童 裕木奈江 (カラー/141分)
2008.09.18
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(あらすじ) 昭和40年、福島県いわき市。炭坑の閉山で活気を失った町の再生を期して計画されたレジャー施設“常磐ハワイアンセンター”(現・スパリゾートハワイアンズ)誕生にまつわる感動秘話を映画化。施設の目玉となるフラダンスを教えるため、東京から呼び寄せられたダンス教師と、地元の炭坑娘たちとの葛藤と心の成長を描く―――。 とっても評判の良かった作品。予想どおりの映画で、手放しに楽しむことができた。『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』系のノリ。最後に出演者たちが、本編のために特訓した素晴らしいフラを見せる。ラストに感激している姿は本物の表情。独自のリアリティがあって始めの頃はこのての演出に感動したものだった。でもこう幾つも同じパターンを見せられると、いささか飽きてもくる。フラというのは斬新だけど。蒼井優のフラは絶品だ!『花とアリス』で見事なクラシックバレエを披露したのはかれこれ随分前のことだけど、このしなやかさは普通の人じゃ出せないもの。ハッとするほど可愛くて、美しい。そして見事な存在感。暗い炭鉱町の閉塞感とモノクロ感から、鮮やかなフラのシーンへ、行ったりきたりするメリハリのよさ、テンポのよさが魅力。あとはごくごく普通だと思う。『おくりびと』を観て、こちらを観て、最近妙に涙腺が弱くなった感じがする。ポロポロとよう泣けてくる。フラガールでこんなに泣くとは思わなかった!監督 李相日 脚本 李相日 羽原大介 音楽 ジェイク・シマブクロ 出演 松雪泰子 豊川悦司 蒼井優 山崎静代 岸部一徳 富司純子 (カラー/120分)
2008.09.17
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先日、モントリオール映画祭でグランプリを受賞した作品。受賞のニュースを聞いてから予告に惹かれて、久しぶりに劇場へ足を運んだ。『シコふんじゃった。』『双生児』での熱演が記憶に新しいもっくんは、やはり上手かった。味があった。観る映画を選べば、日本にもいい役者さんがいっぱいいることを実感できるのだ。 【あらすじ】チェロ奏者の大悟(本木)は、所属していた楽団の突然の解散を機にチェロで食べていく道を諦め、妻(広末)を伴い、故郷の山形へ帰ることに。さっそく職探しを始めた大悟は、“旅のお手伝い”という求人広告を見て面接へと向かう。しかし旅行代理店だと思ったその会社は、“旅立ち”をお手伝いする“納棺師”の職だった―――。 前半はとにかくコミカルで、笑えて楽しかった。母がやっていたスナックの跡地で、大悟夫婦は新生活を始めるも、夫が新しく就いた仕事はなんと納棺師。なにかと曰つきな仕事に、いつか生きがいを見出し、生きることや死ぬことに真摯に向き合っていくまでを描く。人は必ず死ぬし、大切な人の最期に立ち会うこともあるだろう。観客の誰にとっても、自分に置き換えたら胸苦しくなるテーマが、ここにはあった。ひとは永遠の別れが来て初めて、後悔や理解や感謝や、思いがけない感情に遭遇するのかもしれない。それまで気づけずに。見えなかったものが見えれば、赦すこともできる。そういう人の心の温かさをいっぱいに描いていた。少しくらい出来過ぎでも、脈々と底を流れている純粋な心意気は、小さな田舎町を舞台にしたことで、日本の美徳にうまく溶け出して鼻につくことはなかった。それにしても久石譲のテーマ曲には、いつもノックアウトされる。情緒豊かに切なく響くメロディラインの美しさは、久石氏の才能なんだろうな。チェロの音色が輪をかけて、人生の厚みのように濃厚に曲を惹き立てる。主人公がチェロ奏者でいる夢を諦めてからの、チェロの存在位置が、私にはとてもよかった。弾きたい時に必ず傍にあって、大好きな旋律を奏でられる、そのことが自分自身の心を高めたり静めたり癒したり律したりしてくれる。生きる糧ではなくなった音楽(楽器)の位置が、私はとても好きだった。赦すことは、しばしば映画のテーマになる。本作でも、主人公が、家族を捨てて女と駆け落ちした父親を憎んでいるという設定だった。憎しみの心が溶解する時。それを観ることに意味があるとすれば、きっとそれは尊いからだ。「食べるしかないんだよ」そう言った納棺会社の社長の言葉が素晴らしくよく響く。「どうせなら、美味いものを食べよう」死ぬのがイヤなら食べるしかない。とにかく生きるしかないんだから食べる、力強い食事シーンの数々が素晴らしかった。社長を演じたのは山崎努。72歳となり、味を増した怪演をみせている。監督 滝田洋二郎 脚本 小山薫堂 音楽 久石譲 出演 本木雅弘 広末涼子 山崎努 余貴美子 吉行和子 笹野高史(カラー/130分)
2008.09.14
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広島に原爆が投下された45年8月6日、叔父のもとへ行くため瀬戸内海を渡っていた矢須子(田中)は、突然の黒い雨を浴びてしまう。その5年後、福山市小畠村で暮らす、原爆を生きのびた人々の心の触れ合いと悲劇を描く―――。 十代の頃、家族で観て以来の再見。原爆といえば、毎年夏になると子ども向けに放送されていた、原爆体験者の語り聞かせで、私の胸には恐怖がべっとり焼き付いたと思う。生の言葉は、テレビという媒体を通していても、絵空事と思えない恐怖や悲しさで迫ってきたものだった。それと地人会による朗読劇、この子たちの夏-1945・ヒロシマ ナガサキ-を思い出す。お芝居をしていた二十歳ころに、所属していた劇団と、地元の朗読会の方々と協力して、地人会さんの台本を借り同タイトルを上演したのだった。お客さんの反応はとてもよくて、立派な舞台だった。台本は今も大事に持っていて、原爆を知る読み物としても秀逸で、その内容はとても忘れがたい。残念ながら、地人会さんは2007年で活動を休止されたそう。 原爆がもたらした、ピカドンによる肉体的・精神的な苦悶と悲しみ―――。自分の健康がいつまで続くのかわからずに、不安や恐怖のなかで生きるなんて辛すぎる。徐々に原爆症が表れて、友人や隣人が七転八倒の苦しみで死んでいくのを目の当たりして、ついに自分にも同じ症状が表れたら・・・・?得体の知れないピカの置土産は、それだけに留まらず、ウワサによる精神的な侵害も広がっていく。ピカにあった娘というだけで、見合いが破談になり続ける矢須子と、彼女を見守る叔父夫婦の苦悩は、第二の苦しみとなる。この家族を中心に描きながら、本作は原爆の恐ろしさ全体を描いたものだ。原爆投下直後の悲惨な描写から、5年後の悲劇、そして10年後、20年後、50年後、今現在に至るまで続いている被爆者の思いを感じられる、いつまでも風化しない作品。自動車のエンジン音を聞くと発狂してしまう悠一が印象に残る。普段は大人しく地蔵を彫っている悠一の突然の狂気は、戦場の恐ろしさを見事に表現している。そんな悠一と、次第に心を通わせる矢須子だが・・・。なんの罪もないふたりに、けして未来は明るくない。病に倒れ、衰弱してゆく矢須子を抱きかかえ、悠一は救急車に乗り込む。あれほど発狂を止められなかったエンジン音さえ諸ともせず。その強さは奇跡のように。掛かるとも知れない七色の虹に望みを懸ける叔父と共に、奇跡を祈らずにいれないラストシーンだ。監督 今村昌平 原作 井伏鱒二 『黒い雨』 脚本 今村昌平 石堂淑朗 音楽 武満徹 出演 田中好子 北村和夫 市原悦子 沢たまき (モノクロ/113分)
2008.09.13
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カトリーヌ・ドヌーヴは以前の『昼顔』が記憶に新しい。美しさや妄想、共通項のある作品だ。色んな意味ですごい映画だった。(あらすじ) ロンドンで姉と同居している妹キャロル(ドヌーヴ)は、隣室の姉ヘレン(フルノー)と愛人との情事の音に毎夜悩み、男性恐怖症からついに恋人を殺してしまう―――。『神経衰弱ぎりぎりの女たち』という、ある映画のタイトルを思い出した。キャロルはまさにぎりぎり。病んでいく様が、繊細な心理描写と、ポランスキーらしいシュールな映像で綴られる。ドヌーヴの演技は、女性らしいある種の演技の見本になったのかもしれない。か細い声、フェミニンな仕草。むかしの裕木奈江を思い出す。それがどんなにわざとらしくても、ふとした時に見せる表情は魅力で巧くて、とにかく美しいのだ。男に嫌悪感を抱きながらも、壊れていく意識の狭間では、幾度も男に無理やり抱かれている自分を妄想する。音は排除され、悲鳴も聞こえない・・・壁はひび割れ天井が迫ってくる・・・。美女が怖ろしい幻覚に苛まれるこの設定は『ローズマリーの赤ちゃん』にも共通したもの。冒頭のドアップの目とか、効果的に使われていたウサギの肉は、ブニュエルの『アンダルシアの犬』へのオマージュだろうか。本編は後の『昼顔』に似ているし。変態(といえば言葉は悪いけど)二人の監督は似てると感じた。 爪を噛んだり、顔を掻いたり、文句なしに美しいドヌーヴの神経質な小さな仕草の積み重ねは、恐怖感に絶大な効果を発揮している。始終落ち着きなく、見惚れさせながらも、狂気の淵へまっしぐらに進んでいく。心配して見舞いにきた恋人を、幻覚に駆られ惨殺したのを皮切りに、恐怖は最後まで息つく暇なく続く。人を殺めてしまっては後戻りできない、心神喪失となったキャロルに、いつまでも救いは訪れないのだ・・・。ラストにさえ、執拗に絡みつく人間のエゴと欲望が、なんともいえない不快な余韻を残す、かなり良くできた作品だった。死ぬまでに観たい映画1001本監督 ロマン・ポランスキー 製作 ジーン・グトウスキー 脚本 ロマン・ポランスキー ジェラール・ブラッシュ 撮影 ギルバート・テイラー 音楽 チコ・ハミルトン 出演 カトリーヌ・ドヌーヴ イヴォンヌ・フルノー ジョン・フレイザー イアン・ヘンドリー (モノクロ/104分/イギリス)
2008.09.10
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南アフリカのスラム街で暴力と犯罪にまみれた無軌道な人生を送る一人の黒人青年が、思いがけず生まれたばかりの赤ん坊を拾ってしまったことで、人間的な感情に目覚めていく姿を、南アフリカの過酷な現状と共に力強く描き出していく―――。 アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した作品。今回偶然観るまで存在の知らない作品だった。感想はまずまず、可もなく不可もなく。映画製作の歴史の浅い国は、ぎこちない作品になっても、味や個性があっていい。だからこそ、無意識にでも模倣を感じてしまうと、素直に評価できなくなってしまうときがある。本作もそんな作品のひとつだった。ツォツィには過去にトラウマがある。病身の母と、暴力を振るう父親の三人で暮らしていた家から、ある日飛び出したきり戻らなかったのだ。空き地の土管の中で大きくなった彼は、以後犯罪を繰り返し生きてきた。ある時、高級住宅街で銃を発砲し自動車を強盗したツォツィは、直後に後部座席に赤ん坊が乗っていることに気づく。なぜか、捨てておけない気持ちに襲われた彼は、赤ん坊を紙袋に入れて連れ帰るのだった。赤ん坊を育て始めるなんて、自分自身さえ理解できない感情で、ひどくとまどいながらも・・・。これが更正のきっかけとなるのは、安直でありきたりといえるのかもしれないけど、丁寧に綴られていく。赤ん坊と過ごした数日は、怪我をさせた赤ん坊の母親のことを考え、心痛める父親のことを考え、今まで犯したすべての罪をも考える。赤ん坊の家に仲間と再び押し入って、その気持ちを確かめるような行動に出る姿が印象的だった。綺麗事では終わらせず、心に響かせるには、なにが必要なんだろう。私はこの作品をありがちなものとしか評価できなかった。受賞暦を知っても同じ。必要なのは心に切り込んでくるなにか、なんだとおもうけれど。ツォツィの仲間や、赤ん坊を通じて知り合う女性など、脇役の存在は良かった。ほとんどが素人の役者さん。オーソドックスな演技に安心して観られた。監督・脚本 ギャヴィン・フッド 原作 アソル・フガード 『ツォツィ』 音楽 マーク・キリアン ポール・ヘプカー 出演 プレスリー・チュエニヤハエ テリー・フェト ケネス・ンコースィ (カラー/95分/南アフリカ=イギリス)
2008.09.06
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(あらすじ)「ぼくの記憶は80分しかもたない」博士の背広の袖には、そう書かれた古びたメモが留められていた。記憶力を失った博士にとって、私は常に“新しい”家政婦。やがて私の10歳の息子が加わって、ぎこちない日々は、いつか驚きと歓びに満ちたものに変わっていく――― 数学がとくに好きではない私には、素数を見つけて和めるほどまで、影響は及ぼさなかったけれど、数字というものには魅力をいっぱい感じました。数に愛着は持てないけれど、なぜ自分が3と7が好きなのか、これを読んで納得(笑)素数だからなんですね。優しくて切ない、このさりげなさがたまりません。母子の孤独も、絆の深さも、常にさりげなくて。博士との出会いが、どれほど親子二人を救ったんだろうと思うと、胸がジーンときます。単なる出会いじゃなく、奇跡のようなめぐり逢い。描き方が変えれば、こんなにカラッとした感動では済まなかったでしょう。内容と文章が相まって、切ない愛おしさに包まれた作品でした。小川洋子さんや、今読んでいる川上弘美さんもそうですが、言葉の穏やかな感じが大好きです。静かに真理を語れる。羨ましいことです。
2008.09.03
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日本人でありながら、フランス人としてその生涯を終えた数奇な画家・藤田嗣治の展覧会へ行ってきました。道立近代美術館にて。すばらしき乳白色と世界が絶賛した裸婦群や、アトリエ・フジタに残された豊富な生活資料や作品が展示されています。レオナール・フジタ (1886-1968)初期の頃の作品から晩年のものまで、長生きされたフジタ氏の作品は七変化。画家仲間だったモディリアーニの影響を受けているという初期の『家族』、幻の大作『争闘』など作風の変化に驚きながら。 『家族』(1917) 『争闘2』(1928)大作の前に置かれた椅子に腰掛けて暫く眺めていたら、大きさにも圧倒されるけれど肉体の美醜にも圧倒されました。大作へむけてのデッサンともいえる『闘士たち』の一群は、とても美しいとはいえない絵。あらゆる筋肉や骨の強調される様は、裸婦像の滑らかさとはかけ離れています。 墨を使った絵画も多くて、日本絵画を感じさせるものや、可愛らしいこどもがたくさん登場する作品はとても気に入りました。いつも記念にハガキを買って帰るのだけど、今回は真っ先に悪戯っぽい顔した子供が四人で手を繋いでるのにしました。可愛らしいと表現するのが一番しっくりきそうな、お皿や木箱は、どれも晩年に近いもの。こどもの絵は、授からなかった我が子の代わりに、心に生きる我が子を描いたものなのだそうです。絵の中の悪戯ぼうずたちが愛しく見えてきて、アトリエの再現などを含むこの展示スペースは好きでした。 1959年、カトリックの洗礼を受けてからの宗教画の多くは、私にはしっくりと来るものはなかったかな。戦争に翻弄された時代背景があるにせよ、フジタという人は革新的な意識を持った先人だったのでしょうね。宣伝屋などと言われても、当時の雰囲気に溶け込めただけですごいことに思える。日本画壇を批判する言葉も、なにも悪気があっていったわけではないのでしょうし、本国を捨ててフランス人として最期を迎えたことは、きっと少しは寂しいものだったのかもしれません。
2008.09.03
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瀬戸内晴美さん=寂聴さんは、業の深い方の代名詞のような人。その人生があまりに過激で話題に富んでいるため、ドラマになったりしている。(観たことはないけれど)書き下ろしの自伝的小説で、出家するに至るまでの、主人公の生を赤裸々に綴る。始めは、出家して俗世を捨てた人が、わざわざこれを(不倫相手と交わされた生活の細部や会話)書かないでいいのでは?書いてちゃいけないのでは?なんて不快にさえなるのだけど、そのうち半分くらいまで進むと、そんな風にしか生きられないことこそ、主人公の業であるように感じられてくる。ことに必死に向き合っているのだから、ある意味真っ当な生き方で、出家することでしか取り留められなかった恋とは・・・想像を越える情念であったはずだ。情熱は続かないそうはっきりと仰る寂聴さん。それに私は耐えることができない、と。いま穏やかに満面の笑顔を見られるのは、51歳のかの時、出家したおかげかもしれない。そうしなければ、いま生きておられたかどうかさえわからない。30年に及ぶ尼僧としての日々は、寂聴さんを救い充実させたんだろうし、苦しい修行荒行の数々もすべて‘良かった’と思えるものなんだと思う。景色が幾倍も美しく見えるようになった―――そんな言葉が胸に残った。なんとも凄みのある方でも、人並みならぬ優しさが、男たちを引き付けたのだというから驚きだ。困っていれば助けずにいれない、受け入れずにいれない優しさなど、私にはないけど、そんなふうに保たれている男女関係は、案外多いのじゃないだろうか。
2008.09.01
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