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ギター:マヌエル・バルエコ指揮:プラシド・ドミンゴオケ:フィルハーモニア管録音年月:1995年11月録音場所:AirStudios,London--------------------------------------------------------------------- この曲の素晴らしさは敢えて言うまい。皆さんよくご存知だから。 ここでは、私の好きな盤についてのみ、記そう。 ギタリストのバルエコのデビューは、ギターを志す人にとってかなり衝撃的だった。 ギターは6弦楽器だが、弦の太さはそれぞれ違うし、高弦はナイロン、低弦はナイロンに細い金属の巻き線と材質が違う。よって、弦が異なると音質が変わる。そこが欠点でもあるし、また魅力でもある。そこで、あるフレーズを2弦3弦にわたって弾くと、音色に鋭い人には1フレーズで音色がコロコロ変わるので耐えられないものらしい。 だが、バルエコはその欠点を克服する。まるでピアノのように均質な音で弾いたのだ。それがどれほど困難で、すごい事なのかは弾いたことがある人にしかわからないと思う。 音楽性も抜群、この人は相当耳がいいのだろう、どんな曲でも響きがぐだぐだにならず、和音がすっきり聞こえる。実は私もこういう音を求めていたが、この人を聞いてギタリストを諦めた。足元にも及ばないと思ったから。 当然アランフェス録音への期待は大きかった。ある時期、録音したという噂があったが、ライナーノートによると紛失したらしい。今回はファン待望の録音だったのである。 そして、指揮はドミンゴ!え、なんじゃそりゃ。まあ最初はそう思いました。なめられてると思いましたよ、ファンとしては。が、聴いて変わりました。いいじゃない、指揮者ドミンゴ、ブラボー。 自然な歌への傾斜、時に構造的になりがちなバルエコをよく支えて、音楽の素晴らしさを歌いあげている。第2楽章もセンチになりすぎず、ぎりぎりな歌い廻し。第3楽章の飛び跳ねるようなリズム。。。ちょっと重いかな? だが、この盤の素晴らしさはこれだけではない。 なんと、バルエコの伴奏でドミンゴがロドリーゴの歌曲を歌っているのだ。それがまた、いい。気持ちが優しくなるような曲ばかりだ。ロドリーゴの歌曲集CDを所有しているが、お座敷で聴いてるみたいな変な録音で閉口していただけに、ドミンゴの録音は渇きを癒すものだ。 さらにギターソロ2曲。最後に「ある貴紳のための幻想曲」。この曲は私も弾いたことあるので結構うるさいが、完璧なテクでかっこよくまとめてくれた。 というわけで、アランフェスのみならず、ロドリーゴ作品集としても1級品なので、皆さんに強く推薦。心なしかドミンゴのほうが主役に見える?(笑)
2006年02月27日
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カラヤン指揮ベルリン・フィル(ドイツ・グラモフォン) 録音年月:1973年2月 録音場所:イエスキリスト教会バーンスタイン指揮ウィーン・フィル盤(海賊盤) 録音年月:1987年9月10日(ライブ) 録音場所:ロイヤルアルバート・ホール、ロンドン小澤征爾指揮ボストン響(フィリップス) 録音年月:1990年10月13日~16日(ライブ) 録音場所:シンフォニーホール、ボストン--------------------------------------------------------------------- 小澤はニューヨーク・フィルの副指揮者時代にレニー(バーンスタインの愛称)の下振りとして、またスタンバイ指揮者として、マーラーの全交響曲を勉強したそうだ。 だから、小澤のマーラーにレニーの色は濃い。。。はずだがむしろカラヤンに近い感じがする。 この曲の演奏でいつも気になる箇所があるので、そこを重点的に聴いてみた。 1.第1楽章冒頭のトランペット。オケの全奏に入る直前はディミュニエンドの指示を守っているか。 2.第3楽章練習番号29のホルンのソロに続いて弦楽がsfでなだれ込んだあと、大太鼓がsf ppでトレモロを打つ。 このsfをどう扱っているか。 3.最終楽章まさに最後の頂点。練習番号34の前。例のコラール前半8小節はホルンにfff。後半8小節は1小節目をホルンがff、2小節目をトランペットとトロンボーン、チューバがfからffへrit.しながら大きくしていく。 それまでの流れをここで大きく食い止め、次の怒涛のコーダへのタメとなっている。 このあたりの音量調整と大きな流れの節目をうまく作っているか。 ~カラヤン盤~ 全体的に滑らか。冒頭トランペットは10代の柔らかい唇でわざわざ吹かせたと話題になった。カラヤン好みの強いが決して硬くならない音が欲しかったのだろう。 1.ディミュニエンドどころかクレッシェンドして、劇的な効果を狙う。 よく聴くとこのソロ、続く部分で落ちそうになったり結構危なっかしい。(プレッシャーだよね) 2.影のように、アクセントのあるppで叩かせる。全体がpへ向かう流れ重視と思われる。 3.盛大に鳴らしていて、後半8小節も前半とほぼ同じ音量。最後のffとの差がわからない。タメはあまり感じない。 ~バーンスタイン盤~ この驚くべき演奏の前に文句をつけるとバチあたりそう。全体にテンポを揺らしに揺らし、WPOがあちこちで破綻している。だが最後のコーダが終わった途端のブラボーの嵐はこの演奏の充実度を示している。 1.さすがレニー、完璧。冒頭のソロは楽譜の指示通りのアクセントもあり、満足。 2.実はここをsfではっきり叩くのは、レニーぐらい。インバルもそうだった記憶あり。ブーレーズはそれほどではなかったような。 3.このライブからしたら、そんなことは小さいことに思えてしまう。そのときのノリが大事。楽譜を超えた音楽の説得力に身を任せるしかない。しかたない。 ~小澤盤~ 全体にゆっくりだがスムーズ。圧倒的なオケのフォルテも力まず、割れるような汚い音は絶対に出さない。小澤の美意識なのだろう。丁寧な仕上がりで、ひたすらに美しい音響体が鳴り響く。 1.さすが小澤、完璧にディミュニエンド。レニーの影響か。 ちなみに続く全奏のダダダダン、ダダダダン、ダダダダーーの部分、トランペット以外は4分音符でトランペットは2分音符なのだが、小澤はトランペットも4分音符にしている。ちょっとやりすぎ。 2.カラヤンと同じ解釈と思われる。 3.実はここを完璧に音量調整しているのは、私が知る限り小澤盤しかない。よって普通と違い、一瞬脱力したように聞こえるが、スコアを見ると納得。タメはあまりタメになってないが。 気持ち的には盛大に鳴らしたいところ。マーラーのいじわる? こうして比較すると、小澤のマーラーは全体的な音楽の流れはカラヤンに近いが、細かい所はレニーの影響が強い。 が、テンポの揺らしはさほどなく淡々とゆっくり目のテンポでじわじわとクライマックスに持っていくなど、カラヤンともレニーとも違う作り方も聴かれた。 両方のいい所をうまく吸収し、自分のマーラー像を打ちたてた小澤盤は好悪の分かれるところだが私は素晴らしいと思う。小澤盤CDジャケット
2006年02月26日
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エサ=ペッカ・サロネン指揮ロス・フィル(SONY) 録音年月:1992年2月10日11日 録音場所:ロイス・ホール、カリフォルニアジャン=クロード・カサドシュ指揮リール管(AUVDIS) 録音年月:1982年9月 録音場所:Palais des Congres,Lille-------------------------------------------------------------------- 交響曲冒頭、鈴が鳴り響き弦楽が第1主題を歌う直前、スコアにはクラリネットとバイオリンに「rit.」の指示があるのに、鈴とそれに絡むフルートにその指示が書かれていない。 これをバーンスタインは「家の前を馬車が通り過ぎていくのを聴いて、昔の記憶が蘇ったように。鈴も一緒にリタルダンドすると馬車が家の前で止まったことになってしまう」と指揮者広上淳一に語ったそうだ。 それを知ってからこの部分は譜面をちゃんと読んでいるかどうかのチェックポイントになった。 サロネンはバーンスタインの言を知っていたのか、あるいは独自の読みなのか、鈴をきっちりイン・テンポで叩かせている。 この演奏の素晴らしさはここだけではなく、全体に楽譜の読みが徹底してる。しかもそれが極めて自然。どんな声部も浮き彫りにしながらも、主題に隠れもせず、隠しもしない。この絶妙のバランス。 録音のせいもあるが、まるでセリフを言っては後ろにさっと下がり、また言うときになったらすっと立ち現れるといった感じ。第3楽章は深みより叙情性が、第4楽章は歌手とのバランスが見事。 対するカサドシュは慣例に従い(?)鈴も一緒に遅くしている。だからと言って、この演奏をだめと言うつもりはない。この人はオケから一生懸命にマーラーの音を出そうとしているからだ。 それは小沢がボストン響からウィーンの響きを引き出そうと躍起になっているのに似ている。でも小沢のマーラーでは時に輝くような響きになってしまう。小沢の目指す「鈍い黄金色」ではなくぴかぴかに磨いた金地金に。その辺のジレンマがまたおもしろいと思うけど、今はカサドシュ。 リール響ももともとラテン系の軽い響きのオケなのだろう。特にソロ管楽器になるとなぜかラヴェルになってしまう。だがカサドシュは全奏のときに重い響きを、特に弦楽にはそうとう厳しい要求を出していると思われる。だから時にドイツ系のオケかと錯覚するくらい重厚な音がする。 しかもこの指揮者は楽譜の読みが独特で、不思議なバランスを聞かせる。そこにこの人の屈折した暗い感覚を聞く。通り一遍な演奏よりよほど主張があって、おもしろく聴いた。ただし、歌手はビブラートなのか緊張なのかわからない、震えるような声を出していて私は好きじゃない。 サロネンは明晰さをもってマーラーの譜面に光を照射しているのに対し、カサドシュは己の感覚を信じて熱くマーラーに挑戦している。北欧の光と南欧の陰はそれぞれのやり方でマーラーやその背後のウィーンという音楽の中心地に向かって新しいアプローチを試みているようだ。
2006年02月22日
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旧盤(ドイツ・グラモフォン) オケ:ボストン響 録音年月:1977年10月3日~17日 録音場所:シンフォニーホール、ボストン新盤(フィリップス) オケ:ボストン響 録音年月:1987年10月5日~6日 録音場所:シンフォニーホール、ボストン -------------------------------------------------------------------- マーラーとの付き合いはクラシック音楽聞き始めの頃からだから、随分になる。私をクラシック世界に引き入れた悪友にそそのかされ、バーンスタイン=WPOの交響曲「大地の歌」(DECCA盤)を買ったのが最初だ。(この盤についてはいずれ書こう) 初めてか、2枚目に買ったLPだった。ほんとは、そいつが聞きたかったのだろう。買った傍から「聞きに行こう」と別の友人宅に誘われた。そこのウチには豪華なステレオシステムがあったからだ。 こうして5人ぐらいの知人たちと聞き始めた。全く前提知識のない私でもその曲の異様な寂しさ、美しさは理解できた。 ラストでフィッシャー=ディスカウが大自然の永遠と人生の儚さを歌う頃には夕闇が迫っていた。全ての音が鳴り止み、部屋は真っ暗、しばらくの静寂が続き、やがて悪友がブラボーとつぶやいた。 すべてが完璧だと思った。 それからマーラー遍歴が始まった。 小澤旧盤は発売当時「小澤のクリーンヒット」と称された名盤だ。そして新盤と比べるとこちらのほうが良い意味で「青春」していると思う。そういえば、最初買ったときはミュージックカセットだった。ウチにまだステレオが無かったときだ。最初に買った小澤の録音だった。 冒頭の弦楽のフラジオレットをふわっと聞かせる音感は当時小澤盤とメータ盤ぐらいだった。その後すぐのかっこう動機の爽やかな音色、続く第1主題の伸びやかな歌い方、まさに「朝の野原を歩けば」(この主題はマーラー自身の歌曲から引用)の雰囲気そのままだ。曲が次第に熱を帯びていくときのじりっじりとした盛り上げ方、楽章を閉じるときの力強さ。マーラーはこう弾くんだという小澤の自信にも聞こえる。 第2楽章冒頭の跳ねるようなリズムも素晴らしいが、真ん中のトリオでの鄙びた感じに小澤独特の爽やかな叙情味を感じる。後年のマーラー全集でも言えることだが、小澤のマーラーはこうした叙情の表出が優れていると思うが、そこが弱弱しいと感じる向きもあるようだ。「fのマーラー」ではなく、「pのマーラー」。こんなやり方だっていいんじゃないかと私は思う。 最終楽章の「嵐のように」では新盤に比べてやや粗っぽいが、そこがマーラーの若さの表出に聞こえ、ラストのホルンの吹き上げ方同様、演奏自体を熱っぽくスケールの大きさを感じさせる。 新盤もほとんど変わらないが、より音色に練り上げられた味わいがある反面、旧盤に聞こえた若さゆえの荒々しさが消え、全体に丸みを帯びた印象がある。これはこれで良い演奏だと思うが、ちょっとスムーズにするすると行き過ぎじゃないか。もう少し何かこう悩んで立ち止まったり、意味なく突進してみたり(?)、それが若さってもんだろ! 旧盤の明るく伸びやかで若さ溢れる演奏がこの交響曲にふさわしいと思うので、こちらを強く推す。
2006年02月19日
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カラヤン指揮ウィーン・フィル 録音年:1961年9月 録音場所:ソフィエンザール、ウィーンホルスト指揮ロンドン響 録音年:1926年 録音場所:コロンビアスタジオ、大スタジオ、ロンドン-------------------------------------------------------------- 誰でも知ってる「惑星」をカラヤン盤(旧盤)とホルスト自作自演盤を比較してみた。 カラヤン盤はこの曲を有名にした代表的な演奏だけど、実は今まで避けていた。どうせ華麗で聞かせ所では見得を切って見せる演技たっぷりな演奏だろうとタカをくくっていたのである。 今回聴いて、それが誤解であることがわかった。「火星」の遅いテンポとバカみたいにきざむ四角四面なリズムが徐々に速くなっていく導入から、まるでレクイエムのアニュス・デイみたいに祈るような女声コーラス(響きは厚い)の「海王星」まで、すばらしい音楽の連続だった。「木星」の例のメロディの堂々とした歌、「天王星」の威圧的なブラス、見事の一言。曲の魅力と可能性を一気に開花させたカラヤンの腕前に敬服。 この無機的なリズムの火星を聴きながら思い出したのが、カラヤン演出の楽劇「薔薇の騎士」(R.シュトラウス)の舞台だ。終幕、無粋な男爵を懲らしめるため、合図とともにレストランにオバケが現れるという場面。彼はここで、レストランの窓から無表情の白い顔が一斉に覗き込むという演出をした。これがカラヤン流恐怖の演出である。 普通の舞台では白い布を被った「オバケ」が出てくる。これでは観客は恐くないどころか、しまいには笑ってしまうだろう。 火星の演出はカラヤン流「無表情の恐怖」で終始進められている。ただデカイ音で煽るような恥ずかしい演奏ではない。 自演盤の「火星」冒頭はコルレーニョではない。低弦のきざみの重々しい響きで開始される。まるで戦前の恐怖映画(フランケンシュタインとか)の音楽みたいに懐かしい響きだ。 全体に速めで、バスの進行を大事にした演奏。こんなラインあったっけという発見もあった。「金星」の最後、ブルックナーのアダージョみたいなホルンの上昇音形なんかそう。 また、金管がバリバリ鳴っている箇所でも木管の音が消えない。後ろで和音を鳴らしているだけでも、必ず聞こえる。作曲者にとって聞こえなくてもいい音なんて無いのだ。 「木星」は「人生をエンジョイする」と語った通り、幸せな音楽。例のメロディは早めのテンポで格調が高い。ただ下品に歌いまくるだけの演奏には垢を煎じて飲ませたい。 「土星」はよぼよぼの老人の哀れな末路ではなく、「老人力」よろしく闊達で背筋のピンと伸びた、気骨ある老人の堂々たる黄昏の曲だった。 「海王星」は神秘というよりカオスと言った趣(オケもカオス状態(^^;)。女声コーラスも低い音のラインを重視している。 聴き終えて、「惑星」は宇宙時代に祭り上げられた曲なんじゃないかと思った。自演盤はオケを鳴らして大見得を切るよりも、ひとつひとつの響きを重ねていく地味な演奏だった。もし、アポロ計画がなかったら、この曲は知る人ぞ知る秘曲だったかも知れない。 ホルストの他作品も実に地味で、吹奏楽の組曲1番にしても品位と慈しみに溢れたいい曲だけど一般にはあまり聴かれないし、セントポール組曲は弦楽オケでもっと弾かれてもいいと思うが、ほとんど知られていない。合唱曲にいたっては、聞いたことすらない。 「惑星」は確かに傑作だ。けれどそれだけでここほど世界的有名曲になれただろうか。人の運命はわからないが、曲の運命だってわからない。 埋もれていた曲が一夜にして世界中で脚光を浴びる、それは明日あることかもしれない。
2006年02月18日
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ロドリーゴはアランフェスの成功で協奏曲の依頼が増えてしまった。この分野で12曲作曲している(参考:オフィシャルHP)。 「夏の協奏曲」はヴァイオリン協奏曲(1943)。私はこの曲を日本で開催された「ロドリーゴフェスティバル」(1995)で初めて聞いた。ちなみにそのときのトリは先日紹介した「アンダルシア協奏曲」だ。実際、私の目的はアンダルシアだったが、中プロだったこの曲にすっかり魅せられた。なんという馥郁たるスペインの香り、そして風が頬をさっと撫でて過ぎ去っていく爽やかさとちょっとした寂しさ。 第1楽章は割りと古典的な様式。そのなかにあって、ソロはほとんど絶えず弾きまくって忙しい。メロディーは細かなメリスマ(こぶし)をもつ第2主題がちょっといい。忙しいわりにあっさりと終わる。 第2楽章はシチリアーナ。朗々と歌われる主題を様々に形を変えて歌い継ぐ一種の変奏曲。 第3楽章は明るく賑やかなロンディーノ。ここでも1主題を変奏していく。ロンディーノは小さなロンドという意味だったかな。 それにしても、ロドリーゴの曲はどれも華やかでわくわくするような終曲が素晴らしい。前にも書いたが、聴いて楽しいということ、いい音楽を聴いたと思わせること、それだけで充分じゃないかと思う。 CDはロドリーゴ追悼記念盤として一時期発売されたシリーズのうち、ギャラント協奏曲(チェロ)と組み合わせてあった。ときどき中古屋で見かける。
2006年02月14日
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小澤のことを書くとどうしても力が入ってしまう。つい長文になって、あまりブログ向きでないなぁと反省もしたり。 ちょっと気軽な感じで書ける題材をと思い、クラシックギターの分野からいくつか拾ってみよう。 ロドリーゴと言えば「アランフェス協奏曲」。20世紀を代表する名旋律であり、いろんな分野でアレンジしまくった名曲である。一体ロドリーゴってどれだけ儲かったのかと、下世話な話もしたくなる。 だがロドリーゴは盲目だし、何より音楽が好きだったみたいだから、お金のことは他人まかせで、世界中から来る作曲依頼にせっせと応えていた。 ギターの世界ではロドリーゴはギターオリジナル曲を多く書いてくれた、有難いお人だ。ご本人はギターを弾けなかったのだから、ほんと足を向けて寝られません。 さて、「アンダルシア協奏曲」はギターファミリー(父子4人ともプロギタリストというとんでもない一家)のロメロ一家からの依頼で1967年に作曲された、4つのギターとオーケストラのための協奏曲である。 全3楽章はアランフェスと同じ構成で、「柳の下のどじょう」と言われてもしかたがないが、ギター4台である分、そして父ロメロの出身地であるアンダルシアの明るい日差しを思わせる曲調から、こちらのほうがより派手な印象だ。 第1楽章はボレロ調のリズムでいきなり華やかに始まる。メロディーも朗々とした歌いぶりで気持ちいい。第2主題はちょっと哀愁を帯びしかも情熱的。4台のギターが一糸乱れぬアンサンブルと各ソロパッセージも聞き物。 第2主題はどこか物憂げな調子。真夏の正午、日陰でぼーっとしながら見る白日夢といった感じ。メランコリーと叙情のすれすれな気分。アランフェスの動機が散りばめられていて、それがまた効果的だ。時折噴水のようにきらきらしたパッセージが挟まるが、すぐに憂いを帯びた雰囲気が戻ってくる。4台のギターによるカデンツァは夢のように美しい。 第3楽章は軽快でしかも情熱的な祭り気分。闘牛場の騒々しさと興奮、あるいは収穫祭の晴れやかな浮かれ調子が幻想的に繰り広げられている。ラストは力強く終わる。 全体に素朴だが情熱的でアランフェスより夢幻性が強い。アンダルシアってそういう所なのかな? 個人的にはアランフェスよりこちらの曲が好き。華やかだし、聴いてて楽しいし、適度に叙情的でほろりとさせるところもあり。泣いて笑っての吉本新喜劇みたいだが(笑)、そんな大衆性とは裏腹な近代性も併せ持つ。 マーラーだブルックナーだと重い曲を好む日本のクラヲタからは馬鹿にされそな軽さだが、聴けば聴くほど味わいがある、それがほんとの名曲なのではないだろうか。 CDはロメロ一家の素晴らしいアンサンブルで。ひとりひとりの技術が高く、しかも共感に溢れている。指揮はN.マリナー。ロメロ/ロドリーゴ:アランフェス協奏曲他
2006年02月12日
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旧録音 オケ:トロント響 録音年月:1967年12月8日 録音場所:マッシーホール新録音 オケ:サイトウキネンオケ 録音年月:1989年9月15日 録音場所:イエス・キリスト教会(ベルリン)---------------------------------------------------------------------------- 1996年2月20日、世界で最もよく知られた日本の作曲家武満徹が65歳で亡くなった。私はこのときかなりショックを受けた。単に1ファンというだけではない。何かとても大事な人を失った感じがした。 今年は亡くなって10年。武満は果たして正しく評価されているだろうか。確かに演奏回数は増えているように思う。若手演奏家は武満を必ずレパトリーに入れているし(あの五島龍も!)、N響の海外公演でも武満は入っている。日本の演奏家なら武満を、という要請もあるのだろうし、演奏家にとっては名刺代わりなのかもしれない。 武満を世界に知らしめたのは間違いなく小澤である。武満をニューヨーク・フィルの創立125周年の委嘱作曲家に推薦したのも小澤だった。バーンスタイインは邦楽器とオケの協奏曲風な曲を望んでいた。小澤は武満の「エクリプス(尺八と琵琶のための)」を聞かせ、武満へ委嘱先が決まる。 だが、できあがった曲は「協奏曲」などではなかった。むしろオケと邦楽器、そして尺八と琵琶どうしも対峙している。これは共同で曲を仕上げる類の曲ではなく、真剣勝負の、切った張ったの曲なのだ。 実際、このレコーディングのとき、1回目のテイクを琵琶の鶴田錦史は録り直しを要求したが尺八の横山勝也は乗り気ではなかったという。小澤の決断で2回目を録ると横山はプレイバックに姿を現さなかった。鶴田は愛器の琵琶を忘れて皆を飲みに誘ったほど機嫌が良かった。このときのプレイバックを聞いていた林光によると全く別物だったという。1回目は尺八が勝っており、2回目は琵琶が主導権を握った演奏だったらしい。(結局1回目のテイクを採用した?) 初演間もないこのレコーディングは当時の熱気を捉えている。皆が命がけで真剣だった。心のすべてを吐ききっているかのような横山の、また厳しく激しい撥捌きでオケをリードしようとする鶴田の、魂魄傾けた演奏に小澤は時に二人を優しく包むように、時に厳しく対立するかのように自在な表情をトロント響から引き出している。 尺八から琵琶のかき鳴らしへ移り、ヴァイオリンの最高音でffで切り込んでいく気合とそれに続く後年のタケミツトーンを思わせる弦楽の甘い響き。このダイナミックに移り変わる箇所は何度聴いてもすばらしい。 サイトウキネンとの新録音はベルリン公演後の録音。オケはうまいし、1音1音が美しい。小澤は楽譜を超えてほとんど能の所作のように全てが完璧に決まっていく。独奏のふたりも初演から何十回何百回と弾いてきただろう。お互いに手の内を知り尽くした感があり、初演時の興奮も熱気もすでに無い。ただひたすらに美しい音と時間の流れしかないように思われる。これを「円熟」というのだろうか。 それにしてもあまりにお二人は円くなってしまった。トロント盤で聞かれた真剣勝負はない。横山は楽譜のSfzをmfにしか吹かないし、ffをpに変更するなどした結果、激しい感情の吐露が失われ、代わりに静寂の美学を聴くことになった。鶴田はコンセプトを変えず琵琶をかき鳴らす。だがタイミングがそここで合ってないようだ。私は鶴田の左指が動いてないんじゃないかと思う。(若杉盤でも同じなのでこれはふたりの長い年月をかけた「解釈」なのだろう) それまでひたすら静かに舞っていた横山がカデンツァの後半でやっと重い腰を上げ、二人で激しい舞を踊る。が、なんともやりきれない、フラストレーションが溜まるやり方だ。ケンカの絶えない夫婦が年月を経て、お互いに円くなり、たまのケンカもどちらが勝つのか予めわかり切っているかのような。この曲は初期のコンセプトから離れ、二人の至芸を聞く舞台になってしまったのだ。 初演時のコンセプトや熱気を聴くならトロント盤、美しいオケの響きと年月かけた熟成の芸を聞くならサイトウキネン盤といったところか。 鶴田もすでに鬼籍に入り(1995.4.4)、もうこの曲を聴くこともあるまい。仮に若手が出てきても、鶴田=横山コンビを越すことなどできない。ともに邦楽器に命をかけ、斜陽だった2楽器をこの曲で世界に知らしめることに全力を尽くした戦友だからこそ成せる芸の世界だったからだ。 同様に、小澤=武満も世界の楽壇へ挑んだ戦友であり、同志であった。こちらは新録音のCDジャケット
2006年02月11日
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オケ:トロント響録音年月:1967年12月7~9日録音場所:マッシー・ホール------------------------------------------------------------------------- 若き小澤の天才を証明した記念碑的な録音である。 曲はフランス現代音楽の巨星オリヴィエ・メシアンの代表作であり、20世紀交響曲のなかでも成功した例のひとつだ。 小澤はこの曲を1962年7月4日(26歳!)にN響で作曲者立会いのもと、実に15日にわたるリハーサルののち日本初演に臨んだ。(このときメシアンたっての希望で全曲録音されたらしい。いずれ陽の目を見るときが来て欲しいものだ) それから5年後、この年9月にトロント響の音楽監督に就任した小澤はカナダ建国100年祭記念委員会からの助成を受けて、トゥランガリラと武満徹のノヴェンバー・ステップスのアルバムを作成した。レコーディング直前には両曲のカナダ初演を行い、リハーサル時間を省くという用意周到さだ。 LPでのライナー執筆陣は録音現場の取材を林光、演奏評を黛敏郎、音楽評論家の秋山邦彦、横溝亮一らと豪華な顔ぶれ。しかも25ページの贅沢なライナーノーツだ。もっとも黛以外は専らノヴェンバーの解説で、ページの半分以上は武満関係だった。 ここではメシアンに話題を絞る。 最近ではサロネン、シャイー、ラトル、ケント・ナガノなど若手指揮者がこぞって録音しているが、67年当時はまだバリバリのゲンダイ音楽だった。超難曲(今でもそうだけど)であり、当時独奏ピアノパートを弾けるのがメシアン夫人のイヴォンヌ・ロリオしかいないんだから、この曲を録音するってだけでも話題になるのは当然。売り出し中の指揮者としてはこれで世間の注目を集めたいところ。だがヘタすれば自滅する恐れもあり、かなりリスキーな賭けだったろう。 演奏は黛をして「整い過ぎている」と言わしめるほどの緻密なアンサンブルにより、端正ですっきりとして見通しがよい。確かにときどきオケのほころびも聴かれるが、小澤の棒テクのおかげで破綻を免れている。ほとんど呪文みたいな弦の動きも金管の咆哮に埋もれず聞こえるし、音色的には何の魅力もない木管も時にふくよかでエロティックな表情を見せる。金管の苦しそうな音さえも官能の呻きに聞こえてくると、どこまでが音楽的要求なのか技術の限界なのかわからないぐらいだ。 この曲のポイントはベルリオーズ的循環主題が4つ登場することだ。これら主題が出てくることで一聴バラバラな全10楽章にまとまりを持たせる効果があるのだが、それぞれの性格をきちんと描ききらないとさっぱり訳がわからなくなる。 小澤はここで非常に丹念に4主題を扱う。決して重くならずしかも威容を誇る「彫像の主題」。まるで花びらが震えているように繊細な「花の主題」。淡い官能で描く「愛の主題」。主題というより塊と言ったほうがいい「和音の主題」。 私自身、この曲が好きで11種類のCDを持っているが、小澤の演奏は今でもなお、新盤に充分対抗できるのではないか。オルガン的な肉厚な響きで官能を描くプレヴィン盤、鮮やかな色彩とスマートさで新時代を感じさせるサロネン盤は好きで良く聴くが、小澤盤にはこれらに無い魅力がある。例えば第5楽章の狂乱するオケと官能を表すオンドマルトノとピアノの絡む部分。決してうまくないトロント響は崩壊寸前だがそれでも小澤は手綱を緩めない。果敢に難敵に立ち向かうその様から、異常な集中力と途方も無いエネルギーが放射され、聴く者に一種の快感をもたらしてくれる。 小澤は現代音楽のスペシャリストとされているが、どんな曲であっても常に全力でしかも情熱を振り絞って指揮してくれる同年代の大家が他にいるだろうか。現在まで続く小澤の姿勢を、このアルバム完成後の作曲者はこう評価している。「彼は本物の天才だ。トロントの市民は無二の宝を持っている!」。 そう、小澤はこの賭けに勝ったのだ。メシアン:トゥーランガリラ交響曲《RCA RED SEAL BEST 100(81)》
2006年02月10日
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多忙ゆえなかなか記事をアップできていません。うーん、毎日更新されている皆さんはすごいです。ホントに。それとCDジャケットの画像を探しているんですが、火の鳥にしても若い頃のもの(旧録音)がなかなか見当たりません。再発されているはずなのに。ショップもメーカーもどうかしてるぞ!というわけでいずれ手持ちのものをデジカメに撮ってアップしようかと考えています。
2006年02月07日
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オケ:パリ管録音年:1972年4月22日、24日、28日、29日録音場所:Paris、Salle Wagram--------------------------------------------------------------------- 小澤の才能を最初に認めたフランスはおそらくどの国よりも相性が良い(日本よりも)し、70年代は小澤が世界に向かって挑戦していた最もエネルギッシュな時代だ。凄まじい集中力と情熱的な演奏で聴いている側まで熱くなる。と書くとただ熱いだけの一本調子な演奏かと思われがちだが、この盤では演奏が始まった途端、まるで夢のように時間が過ぎてしまう。 不気味な低弦のピチカートからどこまでも高揚していくクライマックスまで、片時も聞き手の耳を放さないドラマ作りとオケの(特に木管)の瑞々しく美しい響き。LP期のジャケット裏解説にあった「華麗にして繊細」という言葉そのままだ。火の鳥の出現から王女たちのロンドへ至る躍動感、王子の出現のホルンソロから始まる優しい歌と対照的な怪物どもに捕縛される場面の禍々しい響き。凶暴な踊りに聞かれる煽るようなリズム。子守唄の味わい深さ。深い闇からフィナーレへと向かう爽快さ、開放感はまるで山の頂上にいるようだ。そして焦らしに焦らされた最後の一撃のあとに訪れる音楽の悦び。 ストラヴィンスキー初期の作品だけに陳腐な部分もあると聞くが、それを補って余りある小澤の瑞々しい感性の勝利だろう。まさにどこを切っても新鮮な果汁が滴り落ちるような素晴らしい演奏だ。 そしてこれこそが小澤の持ち味であり、ドイツ物でもロシア物でも現代曲でも、変わらないスタンスだ。小澤の特徴を一言でと訊かれたら、「この演奏を聴け」と答える。 残念ながら、ボストン響との再録音はパリ管盤の足元にも及ばない。確かに演奏はより滑らかに各場面を推移し、ダイナミックレンジも広く、音響も美しい。だがあえて言うと、躍動感と表現へのひたむきさが足りない。その意味でボストン響盤はどこか醒めた感じがする。 ちなみに小澤の演奏の下敷きと思われるマゼール=フランス国立放送響盤(71年)は感覚の悦びに欠け、全てが人工的な感じだ。これは彼の強調癖と響きの少ない録音のせいだろう。こちらは新盤(BSO)
2006年02月04日
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各報道機関より「ウィーン国立歌劇場は1日、小澤征爾氏の体調不良を理由に年内の音楽監督としての活動の休止を発表。日本の事務所も4、5カ月の治療と休養が必要」との報道がなされた。1月16日に緊急入院との報があり、その時点では3月復帰とのことだったが、2月1日になって年末まで活動休止となった。 昨日になって、9月のサイトウキネンフェステバルは参加する旨が伝えられたが、ファンのひとりとしてはじっくり休んで治療と体力回復に専念して欲しいと思う。 願わくば、アバドのように復帰後はより深くより強靭な音楽家になって日本の、そして世界の音楽ファンを唸らせて欲しい。まだまだ70歳。音楽家としてはこれからですよ、セイジ!
2006年02月03日
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「まったく知らなかったものを知る、見る、ということは、実に妙な感じがするもので、ぼくはそのたびにシリと背中の間の所がゾクゾクしちまう。」小澤征爾氏の著作「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫)の書き出しだ。何の屈託もない、明るく開放的な語り口。中学時代、ちょうどクラシック音楽を聴き始めた頃だった、学校の図書館で偶然見つけ、その語り口に乗せられて一気に読んでしまった記憶がある。 それ以来彼のファンになった。 だから私のクラシック体験と小澤ファン歴はほぼ同一だ。いつも彼の活動は気になっていたし、新譜も聞いてきた。 高校の頃、近所の中古レコード屋で彼の「悲愴」や「火の鳥」(ともにパリ管盤)のLPを見つけ、どうしても欲しくて昼飯代にもらっていた小遣いを貯めて買ったこともあった。もちろん貯めてる間は腹ペコだ。けれど、彼の演奏を聴き始めたら、そんなことはどうでもよかった。素晴らしかった。録音を聞いて涙したのはこのときぐらいだろうか。 大学の時はほぼ毎日、都内のどこかの中古レコード屋に必ずいたと思う。お金は無かったが、聞きたいLPはいっぱいあった。もちろんその中に小澤の録音もあった。 やがて就職して自分で稼ぐようになり、発売と同時に新譜を買えるようになれた。最近はクレジットカードでネット購入だ。が、すぐに買えるのはなんだか味気ない気がする。昔よく通った中古CD屋に今でもふらりと行ってしまう。生来のへそ曲がりのようだ。 このブログではこれまでに聞いてきたクラシック音楽のCDについて語りたいと思う。演奏評なんてとんでもない。私にとっての「シリと背中の間のゾクゾク」を徒然なるままに書き記していきたい。 でも密かに小澤録音のコンプリートを目指しているなんて、とてもおっかなくて書けないなぁ。(笑)
2006年02月01日
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