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月に一度のたしなみ教室へ。 このお教室へ参加する前夜は,家を丁寧に掃除してからやすむ。 着る服のアイロンがけだとか,ハンカチだとか,靴の用意。 普段トレパンばかりのわたしにしてみたら,スーツだとかスカートだとかのわたしというのは,もうコスプレの域だ。 とにかく,心と環境の準備を整えて,参加するのだ。 先生からの教えの仔細は,クラスのおりなどでご紹介することに。 わたしがブログで書いたもの(それはもう心から感嘆したことを記しているのだけれど。そして,母となった方のすべてにお伝えできたら!と切実に感じているものだけれど)は,どんなに心に通じるものでも,それは「書籍」から仕入れた「知識」のひとつとなりがちで、それは先生の意ではないので,わたしの出会うことのできた,ご縁のある方がたへお伝えしようと思う。 「知識」ではなく,「知恵」を持つべきだって。 (あ,また言ってしまった!) やはり,臨場感のある場で聴ける先生の言葉は,心に美しい鐘の響きのように満ちる。 そして,これまでの雑な行動や気持ちの居心地を悪くさせ,どうにももやもやとしてしまうのだ。 お教室の数日前からずっと感じていたこと。 それは,親から伝わったものしか,美しいものも,そうでないものも,こどもに伝えられないということだ。 基本的に。 そしてその長い歴史ある,美しくない,雑なものに関しての習慣や癖を改善するということも,実にくるしみやつらさを伴うものなのだと。 美しいものを知ってしまったから,これまでわたしを占めていた雑なものが居場所を失って,暴れ出しそうな感覚だ。 特にたしなみ教室へ通い出してから,よいもの,気持ちよい方へ向かおうという意思が発揮されて,体力と落ち着きの足りない時には,新しい理想と離れがちになり,たいへんにがっかりするのだ。 こどもたちの行動は,それまでのわたしの心を映した歴史でもあるわけで、なんともつらい瞬間が多々ある。 なんと雑で傲慢だったのだろうと。 ひとには,ホメオスタシス機能があるけれど,心もそうなのね(涙) 一方で,いいじゃん,いままで通りだって,という悪魔の声もちゃんとするのだ。 が,明らかに嫌だ。 いままでの雑さに、もはや耐えられない。 信じられない! だって,障子戸の開け方も知ってしまったし(笑)もう立ったまま開け閉めできないわ。 今日,わたしの心に深く響いたことば、「わかってる、,大丈夫」というあいまいな言葉を信じるのではなくて,からだで「できる」ところまで,実践する,ということ。それを促せる,ということ。 もちろん,この身をもって。 こどもたちに示すことのできる,残された時間は,ほんとうに僅かだけれど。 それでも,知ってしまったから。 そう! 今日,このたしなみの教室の開催に奮闘してくださった,聡明なうこさんが,お看板とお免状をいただいた。 言葉を震わせながら,先生へのご挨拶をするうこさんの姿は,とても胸をうつものだった。 ひとは、自分の軸になるものを見定めて真摯に努力するときの姿は,ほんとうにそのひとを美しくみせるものなのだ。 それほどに,彼女はきれいだった。 おめでとう,うこさん。
2008.11.07
やさしいふり,なんてのは恋につきものですが(笑) どうもわたしたちは,この「振り」というものを大判振る舞いで自己演出しているらしい。 やさしいふり、わかったふり,格好つけたがり(あ,ちょっと逸れたね)。 「振り」ばかりで表現していると,自分の本当の気持ちが「わけがわからなくなってしまう」。 のっぺらぼうな,時にすべての表情が抜けてしまったような、怖い顔立ちになるのだ。 もっと怖いのは,自分が何を求めていて,何を知らなくて,自分がどれほどの「痛み」を自分自身と他人へ生みだしているのかさえ,わからなくなってしまうこと。 わたしとあなたに通う血というものを感じられなくなるということ。 「型」かたち,を覚えそれを生活の中で表現し続けると,「型」の奥にひそむ感謝と謙虚の気持ちが自然に滲み出る。 うつくしさ,という名の花なのだ。 その花はね,根元までもが「優しい」。 あぁ,しかし,このわたしが「謙虚」なんて,人生生きてみるものだ,かなり気恥ずかしいし,あたらしい風合いのカーディガンでもはおっている気分だ。 さて,振りは振りでも,いま夢中なのは,バレエの「ナポリの踊り」の振り付け! ひゃぁ,ステップでリズムを刻むのがね,すごいことになっていまして(汗) ついつい空いた駅のホームで,得体の知れない人物になって,おかしなリズムでちょこちょこと移動中。 駅のホームでこれが出る,というのは,発表会の風物詩,ははは! こちらの「振り」は幸福がもれなくついてまわってくる,大切な大切な「振り」なのだ。
2008.10.03
たしなみ教室へ。 先生が語りかける言葉は,小学生(それも高学年)の子を持つ身としては、かなりががが~ん!!!←冷や汗&脂汗付きと心がきゅうきゅう鳴くような時間でもある。 それから,ひとと生きてゆくための心の在り方,自分の感謝だとか尊敬だとかこうして出会えることのできるよろこびを表現するための所作と言葉遣いに触れて,きゅうきゅう泣いていた心の容量が広く深く温かみを増しながら,うつくしさをぐんぐんと吸収してゆくのだ。 それはとても幸福な瞬間だ。 うつくしい型として表現することは,何よりも自分自身の心が楽になるの,と先生。 お教室の後でいただいたパンフレットにこんな言葉が。 「不作法を卒業しませんか」 「堅苦しい挨拶はニガテだから。 気取ってたり格好をつけるのはイヤだから。 こんな思いで敬遠して 気楽は礼儀知らずのはじまりです」 正直,こんな言葉に素直に頷ける自分がいるなんて。 いやいや,自分の変化がとても愉快。 一緒に先生との時間を共有している方たちはみんな,自分の心がどんどんみずみずしくなってゆくのを嬉しく感じているんじゃないかな。 その気持ちでお教室中が満たされて,わたしたちはみなやわらかくなってゆく。 女性として生まれたことに,なんだろう,とても感謝できるのだ。 「生まれっぱなしにしなさるな」との先生の言葉が響く。 はじめはみんな動物なのだから。 母の手と心をかけて,人間にしてゆく。 動物のまま育ってしまった子は,おとなしい子や自分よりもちからの弱い子を「エサ」にして虐めるのだ。 そうせずには生き残れない,という動物の本能によって。 「生みっぱなしにしなさるな」 あぁ,きっとまだ間に合う,と心に思う。 「寛容」と「峻厳」という言葉をいただく。 「きわめて優しい」 「きわめて厳しい」という意。 他の誰も示せない厳しさと優しさを見せられる、それが親なのだと。 世間も誰も助けない,許さないという状況にあっても,母だけは子を見捨ててはならないのだと。 心にずっと抱きしめているひと,それが,母。 その心は「寛容」なのだと。 だからこそ,日常から真剣に接しなくてはならない。 ともだち親子,はやはり違うのだ。 食卓で出る食べ物ひとつとっても,「あなたのためにこの魚は死んでくれたの。 あなたがこれを食べて丈夫なからだになって, 誰かを助けたり,よろこびを分かち合ったりするために」 だからいただきます,という気持ちが生まれるのだと。 うつくしい気持ちというものには限りがないのだと感じるわたしの心が,静やかで、やわらかく吹く風のまま揺られて在る。 おそらく,参加されている方も,感じているのだと思う。 わたしたちはどんどんやわらかく,静かに微笑む。 心を矯正する,というよりも,どうしようもなく求めていたものに巡りあい,うつくしい泉のお水をすくって「わたし」というものを潤す。 ずいぶんと乾燥していたのだと,気づく。 ついこの前まで、わたしも生まれっぱなしだったのだと。 そのお水のエネルギーそのものになってゆく快感がそれはそれはみずみずしいのだから。 少しずつ,わたしの中にもあった、ひととしての心の明かりが灯り,あたたかくなる。 そのひかりを家族と大切なひとへ手向ける。 それは言葉に尽くせないほどのよろこびだ。 それが,母だ。
2008.10.03
たしなみ教室へ。 バレエでも身の幅が薄くなるけれど,この月に一度のたしなみ教室では,自分の家族への心の使い方を顧みる,そしてかなり内省する時間で,やはり身の幅は薄くなる(笑) ↑ ほんとう。 みんな薄くて伸びているの。 はじめに,お部屋への入室からお相手へのご挨拶,それから着席までの所作の実技をそれぞれで。 はじめて想うひとのご実家へ伺うときは,本来ならば!こんなご挨拶ができたらよかったのですが(あははは・・・),もう結婚してしまいました・・・ 鞄や手荷物を持ったときの着座だとか,正面の切り方(お相手にスカートの奥が見えないための配慮)だとか,心構えなど。 そう,お招きいただきありがとうございます,というのは,本来は違うのです,と先生。 相手のご両親からしてみたら,「誰も招いていません」というのが筋で。 確かに。 お邪魔している気持ち,そしてご挨拶をする機会を与えて下さった感謝の気持ちを伝えること。 先生の言葉は母の身に深く響き,揺さぶられる。 産まれたてのこどもは,まだ霊長類ヒト科の動物。 それを親の手と心をかけて人間に育てていくことが親の努め。 けれどわたしたちは注意ばかりで,手をかけようとしない。 正しい理屈ばかりでこどもを圧倒する日々の積み重ねは、やがて理屈ばかりいう子に育ってしまう,と。 いつかわたしの言い続けた理屈でやがてこどもに返されるときが来る。 いえ,もう来ています。 だから,「エサ」を与えてはいけない。 食事の時,お膝が開いていたり,背中をまあるくして食べている姿は,犬と同じだから。 人間としての食事ができる所作を,母が身をもって,そしていつも手の温かさを添えて,伝え続ける。 親が理屈ばかりを言っていると,やがて知識ばかりが頭に入って,ひとの気持ちだとかはわけのわからないまま大人になっていく子になってしまう,と。 だから,こどもたちから笑顔がなくなっているのだ,と。 母親がキレていてはもう,お話にならない。 そこから豊かなものはひとつも生みだせない。 格好だけ身ぎれいな母が多すぎる。 母としての格好の良さとは、心の容量の深さ,ひとへの謙虚な気持ち,ひとを見守れること,待てるちからをこの身に備えること。 みんな,格好の良さというものを誤解している,と。 先生,ありがとうございました。 そして,この会を取り仕切ってくださったうこさんがお声がけされての昼食会。 15名の方と,雰囲気のあるレストランで会食。 ひとりひとりの方の自己紹介がじつによいものだった。 ものをつくりあげることが好き,という方が多く,うこさんを中心に,丁寧に日常を送りたい,誰かと支え合いながら,この子育ての時間のよろこびを共有したい,という方たちばかり。 とてもね,ユニークであたたかい気持ちがひとりひとりの中にあって,それを感じることのできる時間だった。 みなさんのいちばん好きなもの,というテーマでお話したのだけれど,(ま、もちろんわたしはバレエです,もうバレエですね,うふふ)最後にご紹介されたともこさんという誠実な,行動力のある女性が,「好きなひとたちと一緒に過ごすことができる,その時間がとても好きです」とおっしゃった。 そのときのともこさんの,なんともいえないやわらかさがうつくしいなぁ,としみじみ思った。 ひとはみな,神様から授かった,誰かの心を結ぶきれいな音のする鈴を持って産まれてきていると思う。 ともこさんの中の鈴がとてもきれいに鳴り響いて,わたしたちの心にも届く。 こうしてわたしたちは,深く結びついてゆくのだ。 この感じを,豊か,と呼ぶのかな,とふと思った。 ひとのうつくしいところが,そのひとからどうしようもなく滲み,広がり,誰かに響き,そのひとまでもやわらかにする。 そう,きっと,これが「豊か」ということなのだ。 だってわたしたちはみんな,お腹がいっぱいでとてもしあわせに満ちていたから。 うこさん,さまざまなご配慮,今日もありがとうございました。 みなさん,とても美味しかったですね!
2008.09.26
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