全27件 (27件中 1-27件目)
1
1月17日(水)~20日(土)まで沖縄に行って、■美ら海水族館■に行った。ものすごく、大きな水槽。こういうハコモノは、日本のお家芸(?)のようなところがある。では、外国ではどうだろうか?昨年2月~3月の一か月の間、■ニュージーランド■に行った。 その時、乗ったグラスボートで、沢山の魚が寄ってきたのを見た。そして、人々は、自らも海に潜って、餌をやったりして魚と戯れる。 特に、小さな子どもが数人いて、大人に混じって海に飛び込んだのには、びっくりした。昨年、一昨年とニュージーランドをぐるりと回ったが、水族館をウリにしている町を見なかった。「魚を見る」というだけでも、文化の違いが見える。 ◆◆◆◆◆去年の11月くらいら調子悪かったPC。だましだまし、使っていたけど、メールを送っても開けないし、メールも受け取れない状態に。直してもらったが1万8000円かかった。(ノД‘) ◆◆◆◆◆突然、味がぼんやりするようになった。えっ!味覚障害?!!処方された風邪薬をの説明書をみると「プロモッコス錠100」の副作用として「口内異常」があった。すぐやめたら、数日後、少しよくなった。■2018年1月見た映画■*ペーパー・ムーン*嘘八百*アニー・ホール*パティントン■書き残したネタ■*沖縄:首里城、ひめゆりの塔*うちなーぐち*沖縄のホテル*白樺の籠*中之島の橋*花かご*いらっとする言葉。*葛井寺*江戸の人口と明治の人口と移民問題*スモーキング フリー*瀬田川洪水の原因と対策・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.31
コメント(0)
■2018年1月18日(木)晴れ美ら海水族館を見た後、■古宇利大橋を渡り、古宇利島へ。■■古宇利(こうり)島■沖縄本島北部、屋我地島の北に位置する古宇利島(こうりじま)は今帰仁村に属する有人島。358人(H21・5・31住民登録。) 面積3.13km²、周囲7.9kmでほぼ円形の形をした隆起サンゴ礁の小島。名護市街から58号線を北上、110号線を左折。橋を渡りながら奥武島と屋我地島を越えると古宇利島に渡る古宇利大橋がみえてくる。 平成17年2月8日に開通した古宇利大橋は、今帰仁村の古宇利島と名護市の屋我地(やがじ)島を結ぶ橋。無料で通行できる橋で全長は1960mある。橋を使って、電線と水道管が島に送られているそうだ。沖縄では、どこにいても海が近い。なのに、なぜ、潮のかおりがしないのか・・・。という話を添乗員さんがしてくれた。それは、サンゴがいるから。海の匂いは、貝の死骸、魚の死骸などの腐った匂いだそうだ。ところが、沖縄はサンゴがいて、海を掃除してくれる。だから沖縄では、潮のかおりがしないのだそうだ。へえ~~!!サンゴには消臭効果があるということで、浜辺でサンゴを探した。ここ、古宇利島の名物にウニがあったが乱獲のため激減、禁漁になっている。■古宇利大橋の楽しみ方■島からホテルに向かうとき、美しい夕焼けをみた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.30
コメント(2)
■2018年1月18日(木)晴れついて翌日、「沖縄美ら海水族館」へ。■沖縄美(ちゅ)ら海水族館■沖縄本土復帰記念事業として1975年(昭和50年)に本部町で開催された沖縄国際海洋博覧会において、海洋生物園が出展された。その後、博覧会跡地に国営沖縄海洋博覧会記念公園を整備するにあたり、博覧会施設を受け継いで1979年(昭和54年)8月に開館した。開館当時、水量1,100トンの水槽は世界最大であった。バブル崩壊後の1991年(平成3年)頃から入館者数が減少し始めたことに加え、短期間の博覧会用に建設した施設のため老朽化が著しくなってきたことから、内閣府沖縄総合事務局が主体となって新館を建設し、旧来の水族館を2002年(平成14年)8月31日に閉館、沖縄本土復帰30周年に合わせて同年11月1日に新館を開館させた。旧館閉館前の1年間の入館者数は43万人強であったが、新館開館後の1年間のそれは275万人に激増した。「沖縄国際海洋博覧会」を開催しようと言った人、誰だ!何百億円、いや兆規模のお金を使って、年間入館者数が43万人って、責任者出てこい!!沖縄にも仕事をというのは、よく分かるが、こういうハコモノを作るのは、もうやめにしませんか。大阪万博も賛成だという人を知らない。パリは撤退して正解。水族館の1階から2階を貫く「黒潮の海」水槽は、長さ35m×幅27m、深さ10m、水量7,500m3で世界でも有数の大きさを誇る。観客と大水槽を隔てるアクリルパネルは高さ8.2m、幅22.5m、厚さ60cm、パネル総重量は135トンあり、ギネスブック公認の世界最大のアクリルパネルとなっていたが、2008年(平成20年)10月にオープンしたドバイ水族館のアクリルパネルに記録を更新された。美ら海とは、大きな水族館が近くにあるかどうかで決まるのではなく、魚の種類の多さ、数の多さ、海の多様性など生き物の豊かさで決まる。僕がうまれたこの島の海を僕はどれくらい知ってるんだろう。汚れてくサンゴも減ってゆく魚もどうしたらいいのかわからない■島人(しまんちゅ)ぬ宝■■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.29
コメント(8)
20度以上と暖かかった沖縄から帰ると、大寒波。さっそく、風邪をひいてしまった。金曜日、2度目の医者通い。待合室では、マスクをかけた20人あまりの人の姿は異様だった。ふと、この20人以上の人の持っているカバンがそれぞれ違うのに気が付いた。色、大きさ、手提げ、ショルダー、材質・・・。一人として、同じものを持っている人はいない。ちなみに、私は黒いリュック。同じように黒いリュックの男性がいたが、大きさなどが微妙に違う。おんなじ風邪ひいて、おんなじマスクして、カバンは一人として同じものは持っていない。一人ひとりカバンが違うように一人一人違う生活がある。みんな、がんばれ・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.27
コメント(2)
家の前の貸農園の野菜に霜が降りている。窓越しにのぞきながら、私は60年ほど前、小学校で行われていた野菜の品評会を思い出していた。品評会の前の日、畑から選んで抜いてきたホーレン草を父は、束にした。つややかな大きな葉といい赤くて太い根といい、父が丹精をこめて作っただけあって、それは申し分ない出来栄えだった。「この分なら、今年は入賞するかもしれない」私はそう思うと心がときめいた。入賞すれば、名前がよばれ、賞状をもらった上に火ばしや五徳などがもらえるのだ。父はワラでたばねたホーレン草に名前を書いた紙をはさんだ。そして私が学校に持って行きやすいように細い縄で輪を作ってくれた。品評会の会場は、小学校の運動場で、朝早くから、むしろがひかれ、子どもたりの持ってきた野菜が地区ごとにならんでいる。私も自分の分をならべるとぐるりと見てまわる。よく巻いたキャベツ。ひとかかえもありそうな水菜。白くつややかな大根とカブ。 真っ赤な人参、その他どれをみても各々自慢の物だけに、みなみごとなものばかりである。うちでは、あれほどりっぱにみえた父のホーレン草も、ここにくると影がうすい。結局、私は入賞することもなく、参加賞の餅アミをもらって家の帰るのだった。 今、スーパーには、ありとあらゆる野菜が売られている。それら、ラップに包まれ、ピカピカ光る野菜には、季節がまったくない。これを作った人たちは、あの品評会の時ほど、誇らしげに出荷しているのだろうか。父たちが持ったと同じ愛情で育てられているのだろうか。パックに入れられ息苦しそうなトマトやキュウリを見るたび思い出すかじかんだ手をこすり合わせながら学校まで持っていった父とホーレン草。人々が本物の野菜を食べていたあの頃、冬は今より寒く、人々は今よりあたたかかった。 1987年の■ひととき■175号の転機。年数は、かえました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.26
コメント(2)
■2018年1月18日(木)沖縄2日目、■森のガラス館■に行った。琉球ガラスがお土産に有名だが、太平洋戦争後の資源難のため、沖縄にあるアメリカ軍基地で捨てられたコーラやビール,ペリエなどのの空き瓶を溶かして再利用したことから始まる品であるということをバスの添乗員さんから聞いた。 1975年の沖縄海洋博覧会をきっかけに観光土産品としての需要が伸び始め、琉球ガラスの生産額も増えた。各工房もただ生産するだけではなく、製作風景を見せるスタイルになり、工房でのガラスの作り方など直接説明しながら商品を売り出した。 「森のガラス館」もそんな工房を兼ねた店だ。■「琉球ガラス」は、■現在の沖縄地方には、アジアとの貿易を通じて比較的早くガラス製品がもたらされていたと考えられている。また、その製造は明治時代中期には始まっていたとされる。琉球ガラスは、戦後に雑多な瓶を溶かして再生されたガラスを使用して作成されたことから、厚手の赤色や緑色などの多彩な色合いとなり、再生の過程で混入する気泡と相まって独特の味わいをもつガラス製品となった。 そんな、素朴なガラスを世に知らしめたのは、民藝運動で陶芸家の濱田庄司。■琉球ガラスと民藝の出会い■琉球ガラスと民藝の出会いは、濱田庄司を通じて、でした。沖縄のガラス工房が再生ガラスでアメリカ人を相手に商売をしていた頃、民藝運動家で、益子の陶芸家の濱田庄司が沖縄を度々訪れており、その際、再生ガラスに目を留めたそうです。その後、濱田庄司が本土に沖縄のガラスの良さを伝えたこともあって、本土にも琉球ガラスが知れ渡ることになりました。■『民藝』のある暮らしをはじめませんか? ■ 最近は、再生ガラスで作る商品は少なくなって、効率のよいガラスを使うというが、濱田庄司が好きだった沖縄ガラスは、もっと武骨なものだと思う。環境問題の点からも再生ガラスが好ましい。 このように、ガラスの破片を売っているのも好ましい。■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2018.01.25
コメント(0)
■パディントン2■♪音が出ます!その約束が世界で一番のたからもの。南米ペルーのジャングルからやって来たパディントン。今ではウィンザーガーデンでブラウン一家と幸せに暮らしている。彼はどこへ行っても“元気”と“マーマレード”を振りまき、周囲から愛される人気者だった。そんななか、大好きなルーシーおばさんの100歳の誕生日プレゼントを探していたパディントンは、グル―バーさんの骨董品屋でユニークな飛び出す絵本を見つける。絵本代を稼ごうと様々な雑用仕事を始めるパディントンだったが、ある日、その絵本が何者かに盗まれてしまう。不思議な出来事が街で起こり始めるなか、パディントンはブラウン一家とともに事件を追いかける……。 ペルーからロンドンにやってきたクマのパディントンと周囲の人々とのふれあいを描く、マイケル・ボンドの児童文学を映像化し人気を博したファンタジーの続編。世界にたった一冊しかない飛び出す絵本を手に入れようとするが、無実の罪で刑務所生活を送るはめになったパディントンが度重なるトラブルを克服していくさまがつづられる。 子供向けかと最初はスルーしていたが、続編が出たというのは、面白いのだろうと見に行った。熊が働いたり、喋ったり、警察に捕まったり・・・。何より、人間の家の一員になったりして、やっぱりファンタジー・・・。なんだけど、真剣にパティントンを応援している。★「パティントン」の名前の由来は、ロンドンのパティントン駅からだそうだ。★「パチントン」のホームステイ先は「ブラウン家」。熊のホームステイ先だけに、「ブラウン」なのかな・・・?ブラウン家の主人、Mr.ブラウンは、 「ダウントン・アヴィー」のグランサム伯爵役、ヒュー・ボネヴィルだった!!★イケメン、ヒュー・グラントが、3枚目キャラ炸裂! パディントンがお金を貯めて買おうとする貴重な絵本を巡り、それをねらう落ち目の俳優ブキャナンと争奪戦を繰り広げる。得意とする変装シーンでは、甲冑を着た騎士、修道院のシスター、つるっパゲ男などに七変化、ホームレス風のおじさんコスプレでは、歯までガタガタにして完璧に!そして、ラストには楽しすぎるヒュー様のミュージカルシーン。「そこまでやるか~!」と思わせる弾けっぷりで締めてくれる。お笑いセンスの鋭さと、コメディ俳優としてのすばらしさを魅せつけたこの愛すべきダメ悪役キャラ、ヒューの新境地として、今後ぜひ定番化してほしい。●聞き逃したけどヒュー・グラントは「レ・ミゼラブル」に出ていたみたいなこと言っていたような・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.24
コメント(2)
■アニー・ホール■アニーを知り、愛し、暮らして、別れが来た。それでも愛してる、僕のアニー・ホール。ニューヨークに住むコメディアンのアルビー(W・アレン)。ある日、友人のTVディレクターのロブ(T・ロバーツ)とテニスに出かけ、クラブ歌手のアニー(D・キートン)という女性と出会う。意気投合したアルビーとアニーはデートを重ね、やがて同棲生活を始めた。だが、時が経つにつれ互いの欠点が気になってしまい、行きづまった2人は精神分析医のカウンセリングを受け始める。そんなある日、クラブでアニーの歌を聞いたプロ歌手のトニーが、彼女にハリウッドでのレコーディングを提案する。すっかりその気のアニーは、アルビーと共にカルフォルニアへ向かうのだが…。 ニューヨークを舞台に、都会に生きる男女の恋と別れを描いたロマンティックコメディ。主演も務めたウディ・アレン監督は、この作品で初めて長回しを利用し、自作の撮影スタイルのひとつを確立した。1977年のアカデミー賞では、アニー・ホールを演じたダイアン・キートンが主演女優賞に輝いた他、最優秀作品賞、監督賞、脚本賞を受賞している。 この映画、ダイアン・キートンのファッションが素敵だ。有名なのが太めのチノパン、白シャツ、黒いベスト、黒字に白い水玉のネクタイ。彼女のメンズライクな着こなしは「アニー・ホール ルック」として、いまなお伝説的に語り継がれている。■これ。■そんなアニーの服を見て、アルビー(W・アレン)は、「その服、いいね。ノーマン・ロックウェルみたいだ」という。■ここにノーマン・ロックウェルの絵■があるが、本当だ、白いシャツにベスト、ゆったり目のズボン!!【中古】 玲子さんのシネマファッション / 西村玲子でも取り上げられて、「このスタイルが当時評判になりました。私も真似しましたっけ。」とある。ボーイッシュな恰好なのに長い髪が女らしくて、本当にかっこいいダイアン・キートンは、ファッション・リーダーといわれたそうだ。気が付かなかったけど、テニスの帰りだから靴はテニスシューズだったようだ。下に書いているが、2000年以後は、ウッディ・アレンの映画を見ているがそれ以前は、見ていない。「インテリア」、「マンハッタン」が特に見たい。■午前十時の映画祭■でやらないかな・・・。■ウッディ・アレンの映画で見たい映画■1978 ☆インテリア 1979 ☆マンハッタン1985 ☆カイロの紫のバラ 1986 ☆ハンナとその姉妹 1987 ☆ラジオ・デイズ ■ウッディ・アレンの映画で見た映画■2008 ★■それでも恋するバルセロナ■ 2009 ★■人生万歳! ■ 2011 ★■ミッドナイト・イン・パリ■2012★■ローマでアモーレ ■ 2013 ★■ブルージャスミン■ ★■ジゴロ・イン・ニューヨーク■ 2016 ★■カフェ・ソサエティ Café Society■ 「サイモンとガーファンクル」のポール・サイモンがハリウッドレコード会社の経営者として出ていてびっくり。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2018.01.23
コメント(0)
■2018年1月18日(木)■沖縄バスツアー■2日目。日本最大級の蝶・オオゴマダラが舞う蝶々ハウス、■「琉宮城蝶々園■に行った。約500坪の広大な敷地の蝶々園内にある蝶々ハウス。温度と湿度が一定に管理されたビニールハウスの中に、目玉のオオゴマダラをはじめ、リュウキュウアサギマダラやアオスジアゲハなど常時約15種類以上の蝶々たちが優雅に舞う。中でも、本土ではなかなか見られない日本最大の蝶「オオゴマダラ」の美しさはこの上ないほど。ブーケンビリアをはじめとした鮮やかな花々が咲き誇るハウス内に蝶々が乱舞する光景はとってもファンタジー!蝶々の種類や数は、季節によって変動するので1年中様々な蝶々を観察することができるのも魅力。■オオゴマダラとは■全長約13センチの大きな羽と白黒模様が特長のオオゴマダラ。大きな羽をつかってふわふわと空中を舞う姿が風に舞う新聞のように見えることから「シンブンチョウ」とも呼ばれている。日本国内では、沖縄諸島や先島諸島に主に生息している。人懐っこい蝶々として知られているオオゴマダラは、人を怖がったりせずむしろ近寄ってきてくれる蝶々です。赤色を好む性質もあり、赤い服を着ていくと止まってくれるかも?ハウス内のいたるところにおいてある、造花で作られたブーケ。そこには、たくさんの蝶がとまっている。造花なのになんで? 実はこのブーケには、オオゴマダラのオスが好む物質「パラベン」がふりかけられている!ブーケと同じくパラベンが存分にふりかけられている帽子です。さらにオオゴマダラの好む赤色をしているので効果は2倍かも?パラベンの入った整髪料をふりかけて琉宮園を訪れたらオオゴマダラをひとり占めできちゃうかもしれませんよ!オオゴマダラは大きさだけでなく、黄金色に光る神々しい蛹(さなぎ)でも有名です。実物をみると想像以上の輝きに驚く人も多いのだとか。金箔をまとったかのような輝きの正体は、殻の内部にみちた黄色の体液。実際の抜け殻は無色透明ですが「構造色」と呼ばれる、実際に色がついていないものに色がついているかのように見える現象から黄金色に見えるそうです。■琉宮城蝶々園を徹底取材!■■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日■2018年1月18日(木)■ナゴパイナップルパーク■■森のガラス館■■琉宮城蝶々園■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.22
コメント(0)
1月17日(水)~20日(土)の3泊4日で沖縄ツアーに行ってきた。17日の朝は冷たい雨の中を出発。沖縄に着いても雨、翌日も雨のち晴れ、3日目も一日雨、最後の日だけ晴れという天候に恵まれない旅行となった。バスの中で添乗員さんが「沖縄は、小さな島で川の長さが短く、すぐ海に流れこみます。おまけにサンゴ礁の台地で土壌は保水力が低く、昔は水不足に悩んでいました。今は、ダムが出来て、水不足は解消されましたが、屋根の上のタンクは、水をためるためのもので、昔の名残です」という説明だった。言われて見ると、本当!あっちの屋根に、こっちの屋根に給水タンクが取り付けられている。川の長さが短いとか、保水力のない地層の代わりに、沖縄は雨が多い。それを利用しようとしているのか、海洋博公園の道路には雨水のマンホール(?)が!!「水は天からもらい水」というわけだ。以前、八重山諸島に行ったときに、「雨垂(あまだ)い水(みじ)や醤油(そーゆ)使(じげ)」という言葉を知った。雨水を醤油のように(大切に)使えという意味。■八重山諸島:古井戸の記憶■ 島人は、木の幹をつたって流れる雨水を水瓶にたくわえたりしながら暮らしたという。(3泊とも違うホテルだったので、シーツの洗濯がもったいない!)1泊目のホテルは、大浴場が有料(1000円)だった。これも、水を大切にする心がけだ。■那覇市のサイト■に雨水の効果が書かれていた。雨水・井戸利用施設設置の補助・・・雨水・井戸水を利用しよう! 雨水や井戸水を利用すると、色々なメリット(効果)があります。雨水・井戸水利用施設の導入を一度考えてみませんか?■メリット■1.上水道や下水道の使用量が減ります。2.都市型洪水の軽減(全面をアスファルトやコンクリートに覆われた都市は、大雨などの際 に、 雨水が側溝や河川に一斉に流れ込むため、都市型の洪水がおきる危険性があります)3.大規模災害への備え(地震などで、水道管が損壊するなどした際には、雨水や井戸水が、 トイレなどの雑排水に役立ちます) 4.干ばつ・断水への備え(ここ20数年、断水はありませんが、沖縄県は、台風が来ず・雨が降 らない状況などが長く続けば、いつでも断水になる状況となっています。また、観光客も増え続けており、水の使用は年々増えていく状況にあります) 5.本島北部の自然を守る(沖縄本島の水資源の殆どは、本島北部のダムで賄われています。雨水・井戸水を使うことは、北部での水資源開発による自然破壊を防ぎ、そこに住む動植物 を守ります)6.地盤沈下や都市部の気温上昇(ヒートアイランド現象)を防ぐ(雨水浸透施設は、雨水を地下に浸透させる施設で、地下水を増やしたり、地盤沈下防ぐなどの効果が見込まれます) ■沖縄ツアー2018年1月17日(水)~1月20日(土)■■2018年1月17日(水):移動日・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.21
コメント(0)
「 遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、 香炉峰の雪は簾をかかげてこれを看る 」 (訳) 遺愛寺の鐘の音は臥したままマクラを斜めに 立てて聴き入り、 香炉峰(山)に積もっている雪は簾を巻き上げて眺めている。■イラスト付き香炉峰(こうろほう)の雪■昨年■11月22日(水)■に行った鳥取県・智頭(ちづ)の■石谷家住宅■は【国指定重要文化財】。その家の一番いい部屋が写真の部屋。一緒にガイドさんの説明を聞いていた女性3人が、この部屋にはいると「わー、御簾(みす)のある部屋!!『香爐峰(こうろほう)の雪は簾(すだれ)をかかげてこれをみる』」と言った。御簾のある部屋を見て、清少納言の有名な「枕草子」が出てくるなんて・・・。私も『香炉峰の雪』は知っていたけど、とっさに出てくるなんて、この3人組の女性は、国語の先生なのかな・・・?「香炉峰の雪」と言われた清少納言が、とっさに簾を上げ、女房たちに感心されたように、簾を見て「香炉峰の雪」と言った女性たちに私はいたく感心した。山深い鳥取・智頭(ちづ)は、雪が沢山積もっているだろう。■枕草子:香炉峰(こうろほう)の雪■雪のいと高う降りたるを例ならず御格子(みかうし)まゐりて(参りて)、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集まりさぶらうに、「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪いかならむ。」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この官の人にはさべきなめり。」と言ふ。■現代語訳■雪がたいそう高く降り積もっているのに、いつもと違って、御格子(みこうし)をお下ろしして、角火鉢に火を起こして、(私たち女房が)話をしながら、(中宮様のもとに)集まりお使えしていると、(中宮様が私に呼びかけ、)「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪は、どうなってるかね。」とおっしゃるので、御格子を(ほかの女房に)上げさせて、御簾(みす)を高く(巻き)上げたところ、(中宮様は満足して)お笑いになる(他の女房の言うには)「(私たちも)そのようなこと(=白居易の詩のこと)は知っており、歌などにまでも詠むけれど、(とっさには)思いつきませんでしたよ。(あなたは)やはり、中宮様にお仕えする人として、ふさわしいようだ。」と言う。 「 遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、 香炉峰の雪は簾をかかげてこれを看る 」 (訳) 遺愛寺の鐘の音は臥したままマクラを斜めに 立てて聴き入り、 香炉峰(山)に積もっている雪は簾を巻き上げて眺めている。* 「香炉峰の雪」とは中唐の詩人、白居易の『白氏文集』に出てきます。 平安時代の貴族は広く漢詩を愛読していたのでした。■元詩■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.20
コメント(0)
■大正橋■東詰に、江戸時代に起こった地震の碑文がある。この石碑は、前日の安政東海地震に続いて発生した安政南海地震(1854年12月24日)による被災後、安政2年(1855年)7月に建立された。■石碑文の要約■安政南海地震では、地震を感じて家の一部が損壊し、人々は家の下敷きになるのを恐れて、船に乗って難を逃れようとしたが、地震の2時間後、津波が襲ってきて、船は転覆し、橋は落ち、地震で人は死ななかったが、津波で350人が死んだ。今から148年前の宝永4年(1707年)にも同じような地震があった時も船に避難して、大勢の人が死んだことがあった。我々はこの先祖の言い伝えを生かせなかったので悔しい思いをしている。そこで子孫に申し伝える。将来も同じような地震が来るのであろうが、決して船で逃げようと思うな。この石碑の文字がいつも読めるように毎年この石碑の文字に墨を入れよ。****************************************「ぢしんほうぼうゆり状の事」安政二年(大阪歴史博物館蔵)奉公人請状という雇用契約書の形式を借りて作られた鯰絵です。これから雇われようとしている鯰の「ゆり助」の身元を、「ぶるぶるやこわ衛門」らが、「大坂町屋敷大つなみ打寄場」に住む「橋々屋おち衛門」という雇い主に保証するという趣向になっています。ユーモラスなネーミングの背景には、大坂での安政南海地震の被害の実態があったのです。****************************************■大地震両川口津浪記■●「大地震の節は津波起こらんことを兼ねて心得、必ず船に乗るべからず。」 安政南海地震津波による大坂市中での死者の大部分が地震の揺れを恐れ、堀川の小船に逃れた人々であった。津波が安治川・木津川両川口へ押し寄せ、大型の廻船を軽々と市中の堀川に押し上げ、小船を押しつぶし、多くの人々を溺死させたのであった。江戸時代、大阪では大火が頻繁に発生し、人々は家財道具を川船に積み込んで、堀川に逃れることを常としていた。道路が狭く堀川が避難場所として利用されていたのである。宝永・安政の両地震の際にも、地震の激しい揺れを恐れ、多くの人々が船で堀川に避難し、その後、津波が襲い、船に乗っていた人々のほとんどが溺死したのであった。地震の揺れを恐れて、津波が襲うかもしれないという考えは浮かばなかったのである。安政二年(1855)の建碑から156 年経った現在(2011)、木津川の風景は大きく変化し、住民も入れ替わったが、石碑は地域の人々によって大切に守られている。毎年、8 月の地蔵盆には、津波碑を洗い、文字が読みやすいように「墨入れ」を行い、地域の人々が集まって供養が行われている。建立の精神が世代を越えて受け継がれているのである。■震災と木造校舎■2011.1.17■東日本巨大地震に思う■2011.3.13■クライストチャーチ大地震の記憶:白い椅子■■阪神大震災から22年■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.17
コメント(2)
■「鍋奉行犯科帳・道頓堀の大ダコ」■【内容情報】(「BOOK」データベースより)道頓堀に巨大なタコが現れた。対処に大わらわの大坂西町奉行所の面々をよそに、大食漢の名物奉行・大邉久右衛門が用人・佐々木喜内に命じたのはー(『蛸芝居』)。連日連夜、豆腐ばかりの献立に、久右衛門は爆発寸前。どうやら財政難のせいばかりではないようでー(『地獄で豆腐』)。書き下ろし1編を含む垂涎必至の4編を収録。大坂を舞台に描く、謎あり恋ありグルメありの食いだおれ時代小説第2弾。■鍋奉行犯科帳・浪花の太公望■(シリーズもの)この小説は、江戸時代の大坂を描いた時代小説。ということは、かつての大坂のようすが分かるだろうと思い図書館で借りた。 当時のことが分かるところをメモしておこう。●大坂三郷(さんごう)(北組、南組、天満組)と摂津、河内、和泉(いずみ)播磨の四か国というかなりの広範囲を担当しているのに、東西奉行所に配置されているのはそれぞれ与力三十騎、同心五十人だけなのだ。江戸とはちがって火付け盗賊改めも寺社奉行もいないため、いくら東西の奉行所が月替わりで月番を勤めるとはいえ、非番の月もほぼ休みはなかった。●奉行所の同心が天満の東寺町北側一帯に住居を賜っていることは、大坂の住民ならだれでも知っている。●普段の定町廻りは、与力一名、同心一名に、役木戸、長吏、小頭が加わり、ときには盗人吟味役も同行して、総勢六、七名で行われた。●上方の水は「軟水」なので、昆布を浸しておくだけで出汁が出る。関東の水は「硬水」なので、鰹など魚類を用いねば出汁がとれないのである。●(略)四角い木箱が置かれていて、底に砂が敷き詰めてある。樋箱(ひばこ)というおまるだ。●(略)本来は、目下のものが目上のものの仇をうつ場合にのみ許された。つまり、子や妻、弟・妹などの仇を討つ「逆さ仇」は禁じられていたのだ。●日本橋を横目に通り過ぎ、もうすぐ高津入堀川(こうづいりぼりがわ)にさしかかるあたりまで来たとき(略)●イカというのは、江戸でいう凧のことだ。京、大坂でイカ、イカのぼりなどと呼ばれていたものを江戸っ子が洒落っ気からタコと呼んだものらしく、近頃では、浪花の地でもイカとタコという呼称が入り混じってる。長崎ではハタと呼ぶらしい。(略)(略)幼いころ、正月に大坂城の馬場や河原などでちょこっと遊んだくらいだ。●カピタン一行の各地での宿は毎回決まっていた。たとえば下関では伊藤家と佐甲家(さこうけ)、小倉では大坂屋、京では川原町三条の海老屋、江戸では石町(こくちょう)の長崎屋、そして大坂では高麗橋脇の長崎屋が「オランダ宿」としてその任に当たっていた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.16
コメント(0)
■2018年1月6日(土)晴れ。■川湯温泉の仙人風呂■を見た後、熊野本宮大社へ。■熊野って何県?■「熊野」は、和歌山県南部~三重県南部の地域を指します。和歌山県南部に「熊野三山」と呼ばれる三つの大きな神社があり、(▲熊野本宮大社の敷地内にある熊野古道。)熊野三山へお参りするための道を熊野古道といいます。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山といいます。■熊野本宮大社の歴史■三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、飛鳥時代(615年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。■八咫烏(やたがらす)■八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。■八咫烏(やたがらす)ポスト■当社の社務所前にある、多羅葉たらようのご神木の下に、黒い八咫烏ポストが設置されています。黒は全ての色を合わせた尊い色であり、神の遣いである八咫烏の色、本宮の大地を象徴する神聖な色でもあります。また多羅葉の木は、葉の裏に爪などで文字を書いていたことが葉書の語源となり「葉書の木」「手紙の木」とも呼ばれています。■2018年1月5日(金)雨■闘鶏神社■■2018年1月6日(土)晴れ。■川湯温泉の仙人風呂■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.15
コメント(0)
■2018年1月6日(土)晴れ。■川湯温泉・仙人風呂■へ。写真の川の上の方が白くなっているのは、湯けむり。「仙人風呂」は「千人」は入れるところからきたといわれている。■川湯温泉・仙人風呂■「川底を掘ればたちどころにお湯が湧く!」大塔川をせきとめた野趣あふれる大露天風呂!川湯温泉街の前を流れる熊野川の支流・大塔川は、73度ほどの温泉(アルカリ性単純温泉)が湧き出る。毎冬、熊野本宮観光協会などが川の一部をせき止めるなどして「千人が入れるほど」という巨大な湯船(長さ約40メートル、奥行き約15メートル、深さ約60センチ)を開設。川の水で40度ほどに湯温を調節し、野趣あふれる温泉が楽しめる。■仙人風呂■■場所:川湯温泉 (大塔川) ■期間:12月~2月末日 ■入浴時間 6時半~22時(22時に施錠いたします。) ■入浴料:無料 (感謝の募金箱あり)■駐車場:無料 約40台(仙人風呂より下流約100m)■更衣室:男女別の簡易更衣場があります。 ■水着などの着用が必要でシャンプー、せっけんなどの使用は不可。河原の石ころを眺めながら歩いていたら、こんな石が!!。ひとつの石が、4~5個に割れている。次に川が増水したら、この石も離れ離れになるのだろうな・・・。仙人風呂の真ん前に、「亀屋」という古い建物があった。鄙びた温泉宿という感じが素敵だったので帰ってから調べてみた。■亀屋旅館■創業江戸末期(150年)。古きよき有形文化財。(▲家の前にある石は亀の甲羅に似ている。)平成20年3月に、国の有形文化財に登録された本館建物は、昭和初期に建てられた木造2階建ての和風建築です。 楓を使用した階段の踏み板等、今では珍しい木材も使用されています。軒先の縁側等、故郷の懐かしさをどこかで感じていただけたらと思います。■亀屋旅館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.14
コメント(2)
■嘘八百■♪音が出ます!騙し、騙され・・・。大阪・堺。千利休を生んだ茶の湯の聖地に、大物狙いで空振りばかりの目利き古物商・小池則夫(中井貴一)がお宝を探しにやって来た。そこで出会ったのは、腕は立つが、落ちぶれてくすぶっていた陶芸家の野田佐輔(佐々木蔵之介)。ある大御所鑑定士に一杯食わされ、人生の出端を挫かれた2人は結託。“幻の利休の茶器”を仕立て上げ、仕返しついでに一攫千金を目論む。ところがそれが、家族や仲間、大御所鑑定士、さらには文化庁までも巻き込む大騒動に発展し……。中井貴一と佐々木蔵之介がダブル主演を務め、「幻の利休の茶器」をめぐって繰り広げられる騙し合いを軽妙に描いたコメディドラマ。 焼き物が好きな私は、シリーズにしてもらいたいと思った。各地の骨董市を描いたり、観光地を取り入れたり・・・。それぞれの回にマドンナがいたりして・・・。■大分県の小鹿田(おんた)焼き■は、景色もいいので、作品としていいものになりそう・・・。 第二次世界大戦後、バーナード・リーチが来た事などを劇中劇にして・・・。(妄想中)。■バーナード・リーチ日本絵日記■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.13
コメント(0)
韓国の高額紙幣5万ウォンの肖像画で知られる申 師任堂(シン・サイムダン)の人生を描く時代劇、韓国ドラマ■「師任堂(サイムダン)色の日記」■が師任堂(サイムダン)の死という形で終わった。師任堂(サイムダン)の死は、死に顔で現わされてはいない。子どもたちが白いというよりも生成りの装束を着て、頭にも喪をあらわすものをつけていた。■昔の韓国の喪服・画像■また、師任堂(サイムダン)の夫は、屋根に上って妻の名前を叫んでいた。同じことが日本でもあるというのを本で読んだことがあるがタイトル失念。調べたら中国にもあるという、というか中国経由の儀式なのだろうか。死者の名前を呼ぶことを「魂呼ばい(たまよばい)」という。■「魂呼ばい(たまよばい)」■死者の霊魂を呼び戻す儀式。屋根の上に登ったり、井戸の中に向かったりして大声で死者の名を呼んだりするもの。たまよび。招魂。 …臨終のときとか,急死の場合とかに死者の名を呼び蘇生(そせい)させようとする行為。魂呼ばいともいい,とくに若者や産婦の死のときに行われる。愛媛県では急死者の場合には〈ひとよび〉といい,男が屋根の棟に登って名を呼ぶ。…■屋根に上り■故人の上着を大きく振り「故人の名前+復、復、復」と叫ぶ。これでその人が亡くなったことを知らせる意味もあった。現在ではほとんど行われていない。■孔子時代の葬儀エチケット■●其の死するに及びて、屋に升りて號び、告げて曰く、ああ某復れ、と。(礼運篇)「人が死亡したら屋根に登って大声を上げ、死者の霊に向かい「ああ、何がしよ、生き返れ」と叫ぶ。それから遺体に米を含ませ、煮た肉を霊に供える。天を望んで呼び戻そうとする。」日本にも屋根の上に登ったり、井戸の底に向かって遠ざかっていく魂を呼び戻す習慣が、かっては全国に見られた。 最後は主人公、師任堂(サイムダン)の死と終り方だったが、ハッピーエンドにはならないところがいいのかもしれない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.12
コメント(0)
■ペーパー・ムーン■信じあえば・・・愛し合えば・・・助け合えば・・・紙のお月様だってほら!本物に見えるでしょう。1935年の大恐慌期のアメリカ中西部。聖書を売り付けては人を騙して小金を稼ぐ詐欺師のモーゼが、亡くなった恋人の娘アディと出会う。モーゼは嫌々ながらもアディを親戚の家まで送り届けることになったが、アディは大人顔負けに頭の回転が速く、モーゼはアディを相棒として旅を続けることにする。1930年代の禁酒法時代、本当の親娘かどうか判らない男と少女の陽気なペテン旅行を描く。 1970年「ある愛の詩」で主役の御曹司を演じたライアン・オニール。私はあの頃、恋人役、アリ・マックグローの真似をして、髪を真ん中で分け、紺色の長袖Tシャツを着ていたのを覚えている。 「ペーパー・ムーン」は、「ある愛の詩」の3年後の1973年の作品。出演はライアン・オニール、その実娘テイタム・オニール。演技の経験も少なかったテータム・オニールは、当時わずか10歳でアカデミー助演女優賞を手にした。この最年少受賞記録は未だに破られていない。原作小説の題名は『アディ・プレイ』だったが、監督は「ヘビのようだ」と気に入らなかった。会社に変更を求めたが、10万冊以上売れている原作だったため容易に聞き入れてはくれなかった。監督は困り果て、友人であるオーソン・ウェルズに『ペーパー・ムーン』という題名ではどうかと相談すると、「良いタイトルだ、表題だけで売れる」と絶賛され、劇中のカーニバルの写真屋で「紙製の月」の上にアディが乗りたがるシーンを追加したことで、現在の題名が許可された。やがて、映画が公開されると、原作の題名も『ペーパー・ムーン』と変更になった。タイトルの『ペーパー・ムーン』は、劇中挿入歌として使われている1935年の流行歌『It's Only a Paper Moon』(『イッツ・オンリー・ペーパー・ムーン』、歌:ビリー・ローズ、イップ・ハーバーグ、ハロルド・アーレン)から拝借したものである。■ペーパームーン■「ペーパームーン」は、直訳すれば「紙のお月様」のことですが、実際には、もう少し丈夫な、板などで作られていたようです。1900年代初頭のアメリカで家族や恋人などとの、記念写真の背景として、人気がありました。「ペーパームーン」を背景に記念写真を撮るという行為は、人生の幸福な時を記録する意味がありました。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.11
コメント(4)
お正月に使った食器を仕舞う。1月5日から旅行だったので、4日に仕舞った。◆手前左の食器、蓋つきの椀は、お雑煮用で、もう30年くらい前に骨董品店で買ったもので松竹梅の模様。塗りのものは、扱いが大変なので陶器のものを買った。◆手前、右の器は■鶴の皿。■バザーで一枚70円で買った。◆上の段右の蕎麦チョコは、湯のみに使っていて、100円ショップで。◆真ん中の小さな湯飲みは、酢の物などを入れるものとして使っている。もらったもの、これも松竹梅。◆左の奥の皿は、もらいもので松と千鳥の模様。◆これらを乗せている木製の黒いお盆は、100円ショップで500円。普段からお盆として、ランチョンマット代わりとして使っている。◆右の置いてある赤い紙ナプキンは、お正月っぽいかなと思って北欧の100円ショップ「タイガー」で購入。クリスマス・シーズンだったので赤があったが、お正月に使えると思い購入。 手前の緑の葉は、ハラン。家のハランが増えて増えて・・・。葉をクルリと巻いて、ホチキスで止め、正月の箸置きに。切って捨てる前に箸置きとして使う。これ以外にも、重箱、富士山の絵が描いてある赤い塗りのお盆、ご飯の茶碗も「松竹梅」で目出度い!こうして写真を撮っておけば、来年の参考になる。これは■とり年■の飾り。■器歳時記:鶴の皿■■ワインボトルの飾り■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.10
コメント(0)
■2018年1月6日(土)■1日目:闘鶏神社■紀伊半島バスツアー、2日目、熊野大社本宮を目指す。途中、トイレ休憩に止まった近くに日置川が流れていて、「近露(ちかつゆ)大橋」という橋がかかっていた。ふと見ると、親柱になにか乗っている。さっそく行って見ると、河童。反対がわには親子の河童が。帰ってから調べると、河童伝説があった。■近露(ちかつゆ)の河童■この里にヤシキと呼ばれている旧家があるが昔、この家の馬を川原へつないでおいたところ河童が出てきて、綱を自分の身体にしばりつけ馬を川の中へ引っぱりこもうとした。馬はびっくりして急に走り出し、河童を引きずったまま厩(うまや)に逃げ帰った。家のものがそれを知って、河童をつかまえたが河童は「これからは悪いことをしないから許してほしい」といって、しきりに謝った。そこで「松ノ木淵の松が天に届くまで、橋谷の枝垂れ松が地に届くまで、そして下宮の狛犬が腐るまで再び出て来ない」ということをきつく約束させて、放してやった。下宮の狛犬は、その当時ヤシキの先祖が作り、神社へ献じたものだと伝えられている。明治のころまで子供たちが川で泳ぐ際、河童が出て来て尻を抜かれないようにと、時々この狛犬がまだ腐っていないか見に行ったものだという。この狛犬は、現在近野神社に移され保管されている。一方、橋谷の枝垂れ松と松ノ木淵の松は枯れて今はない。』この橋は河童だったが、熊野古道にある「牛馬童子」にちなんで■バスで通過した橋の親柱■には「牛馬童子」が!バスの中から見たので写真は撮れなかった。残念。■岡山県津山市■は、河童を町のシンボルにしているのでマンホールのふたにも河童が描かれている。河童は人々に近い存在だった。■河童のクゥと夏休み■■荒川アンダーザブリッジ■■昔語り:ごんご■▲津山市の道端にある河童像。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.09
コメント(0)
■2018年1月5日(金)雨ミステリーツアーということで、行先はわからないまま1泊2日のバスツアーに参加した。途中で紀伊半島と行先判明。1日目に行った先は「闘鶏(とうけい)神社」。■闘鶏(とうけい)神社■時は12世紀、平安時代末期。世に源平合戦と呼ばれる5年にわたる戦乱の時期。瀬戸内海を統括していた熊野水軍の領主・熊野別当湛増(武蔵坊弁慶の父)が、平氏、源氏のどちらからも応援を頼まれる。当時、彼は平氏派だったが、世の情勢を鑑みるにどちらの味方をするか決めかね、神前で紅白の鶏を戦わせ神意を問うた。赤旗の平家、白旗の源氏。その結果はなんと、7度の戦い全てに白い鶏が勝利。結果、湛増は熊野水軍を率いて壇ノ浦の戦いに赴き、源氏を勝利に導きました。というのが、この神社の名前の由来です。現存する社殿は近世の再建に係る6棟が揃って遺存するもので、仮庵山を背に北面して建ち、東より西へ西殿、本殿、上殿、下殿、八百萬殿の6棟が横一列に並ぶ。建立年代は、本殿は寛文元年(1661年)、上殿は推定で江戸時代前期、西殿は元文2年(1737年)、他3棟は延享5年(1748年)である。本殿と上殿は一間社春日造かつ奥行二間とする、いわゆる熊野造である。構成や配置、各建物の形式は熊野三山の社殿と類似しており、熊野との強い関係性を示す。本殿と上殿は、田辺地方における数少ない17世紀中期以前に遡る貴重な神社建築例である。各棟ともに細部には地域的特色を備え、近世における当地方の神社建築の展開を考えるうえでも貴重な遺構とされる。これらの社殿は国の重要文化財に指定されている。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。■闘鶏神社■1月2日、■勧進帳■という弁慶が活躍する歌舞伎を見たが、この日も弁慶に関係のある神社だ。ホテルはオーシャンビュー。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.08
コメント(0)
★(略)千勢は水に漬かったなずなをそのまま茶碗に取って、奥の間に引き取った庄兵衛のもとに運んだ。(略)彼女は、庄兵衛の指をやさしく握って、茶碗に漬けさせた。「うむ。なるほど、今日は爪の剪り初めだったな」(略)。七種のあまったものを水に入れて、その中に指を漬けると、たとえ怪我をしても疵(きず)にならないという信仰がある。「七種粥」*七草がゆは有名だが同じ七種の日に行われていたという、「爪の剪り初め」というのは、はじめて知った。■ななくさ 【七種・七草】■七種の菜をいい、春は芹・・御形・はこべ・仏座・・蘿蔔、秋は萩・尾花・葛・撫子・女郎花・藤袴・朝顔(今の桔梗かとの説あり)など。春のは正月七日に粥に入れて食べ七種の節句(人日)とし、秋のは見て楽しむが、たんに七草といえば春のをいう。粥に入れる前に俎の上で「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先にナズナ七種」などと囃して(別句もあり)、すりこぎなどで吉方に向かって叩く風もある。七種粥の汁水をつけて爪を切ると邪気を払うとし、これを七種爪という。 ■蔵の中:松本清張■【内容情報】(「BOOK」データベースより) 花筵問屋の主人庄兵衛は報恩講の席で、娘婿への相続を発表し、仕合せの中にいた。しかしその夜、店の蔵で、雇人が殺されたー「蔵の中」。中風の夫のために信心詣りを欠かさない袋物問屋のお房が落ちた罠ー「西蓮寺の参詣人」。穀物問屋大黒屋に出入りする厄介者留五郎が惨殺され、その死体には大八車の轍の跡があったー「大黒屋」。わずかな手がかりをもとに岡っ引きが真相に迫る、スリリングな時代短篇集。【目次】(「BOOK」データベースより) 蔵の中/酒井の刃傷/西蓮寺の参詣人/七種粥/大黒屋・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.07
コメント(0)
ついこの間■とり年ですから■と言っていたのに、はやイヌ年ですから。鳥の皿はけっこうあったけど、犬はないやろと思っていたら、あった!子ども茶碗に犬が!なに、この犬、舌を出してる。それに子どもの絵もなんか、ヘタウマっていうのか、ゆるいわー。なごむわー。 この茶碗は、娘たちが小さかった頃、今から40年近く前、私の母が買って、実家で使っていたもの。もうひとつの茶碗の絵は象やミッキーマウスもどきがボートに乗っている様子が描いてあって、思わずにんまりしてしまう。茶碗の写真は、撮りにくいので、門柱において撮ってみた。■#昭和の子供茶碗■を見ても、ゆるい絵に、つい、顔がゆるむ。 私の記憶が正しければ、中野翠の「千円贅沢」(だと思う)に「子供茶碗」というのが出ていて、安かった子供茶碗が最近、高くなったと嘆いていた。ずいぶん前に読んだ、「千円贅沢」また読んでみたくなった。■名前にイヌを持つ生物■生物の名、特に植物の名で、イヌが付くものも多い。イヌの特徴などに似ていることによるものもあるが、多くの場合、イヌが付かないものに比べて、より有用性が低かったり、使えなかったりすることを意味する(派生語も参照のこと)。イヌの特徴からの命名には、イヌノフグリ、イヌノハナヒゲ、イヌノヒゲなどがある。より使えないことによる例としては、イヌマキ、イヌビワ、イヌムギ、イヌガラシ、イヌツゲ、等。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.06
コメント(2)
「あきない世傳金と銀」を読んでいたら、大坂の正月風景が描かれていた。●丙寅(ひのえとら)ぁ 大小柱暦ぃ丙寅(ひのえとら)ぁ 巻暦ぃ凍空(いてぞら)の下、風呂敷包みを背負い、頬かむりした初老の暦売りが、来年の柱暦を掲げて通りを行く。●わかえびすぅ わかえびす新しい年、新しい札、わかえびすぅ彼方に、恒例の若戎の札売りの声がしている。 ::: 若夷は、えびすさまの絵を描いた紙札で、上方では正月元旦の朝、夷売りが町々を回って売り歩く。 人々はこれを買って門口に張り出して、新しい年の福を呼びこもうと待ち構えている。* 戎橋があるくらいだから、この札も売れたのだろう。●延享三年(1746年)正月二日。(略) 大川には、幟をはためかせた船が連なって浮かび、天満の街の界隈には、満載の荷を紅白の膜で飾り立てた荷車が景気よく行き交う。●道頓堀川には艶やかな絹織りを着込んだ客を乗せた船が幾艘も並び、船頭が錦の落ち葉が撒かれた川面に竿を挿す。●周囲の商家の台所から鰤(ぶり)のあらを煮る匂いか、美味しそうな香りが漂ってきた。 睦月二十日の今日は、骨正月といって、鰤の骨をことことと煮出して食する習慣がある。 倹しい商家の食の中では、ご馳走の部類だった。■あきない世傳金と銀1■ ■あきない世傳金と銀2■■あきない世傳金と銀3■ ■あきない世傳金と銀4■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.04
コメント(0)
イケメン キタ━━━(゚∀゚).━━━!!!松本金太郎改め、市川染五郎、12歳がイケメンとネットで大評判!!私は、2日夜、歌舞伎の「勧進帳」をテレビで見た。父が弁慶を、新染五郎は義経を演じていた。染五郎の美しさは、化粧をしていてもよく分かる。その後、■しゃべくり7■にも出ていたので、しっかりチェック!!キリリと濃い眉、きりっと切れ長な目、色っぽい口元と12歳にして、完成された美少年!!!見よ、■麗しきご尊顔!!■久々に、スターの顔を見たような気がする。テレビでも密着番組があるので見逃さないように、録画予約しとこ!!■1月3日(水)21:00~21:59高麗屋 三代の春~襲名・松本幸四郎家 歌舞伎に生きる~放送局:NHK総合松本幸四郎改め二代目松本白鸚、市川染五郎改め十代目松本幸四郎、松本金太郎改め八代目市川染五郎という、歌舞伎400年の歴史においても稀有な三代同時襲名が、平成30年1月東京 歌舞伎座で披露される。その襲名までの高麗屋三代の1年間を追った、密着ドキュメンタリー。■【放送日時】2018年1月7日(日)■密着10年!「八代目市川染五郎 密着3650日」高麗屋三代襲名スペシャル放送決定 ■松本金太郎に密着10年!貴重映像で描く12歳 歌舞伎俳優の物語【放送日時】2018年1月7日(日)午後1時55分〜午後3時20分テレビ朝日系列24局全国ネット放送【出演】★松本金太郎改め 八代目市川染五郎 ★市川染五郎改め 十代目松本幸四郎 ★松本幸四郎改め 二代目松本白鸚★松本紀保 ★松たか子新たな「市川染五郎」が翔び立つまでの10年の軌跡【番組概要】歌舞伎俳優・九代目松本幸四郎の孫で、七代目市川染五郎の長男、藤間齋(いつき)くん12歳。歌舞伎界で300年続く高麗屋に生まれ、4歳で松本金太郎として歌舞伎俳優の道を歩み出しました。そして、2018年1月に八代目市川染五郎を襲名します。静岡朝日テレビは、歌舞伎俳優・松本金太郎を2歳の初お目見えから10年間にわたり密着取材。そこには知られざる金太郎の苦悩や葛藤がありました。歌舞伎俳優は名門に生まれたからなれるのではありません。その環境を受け入れて日々習練に励み、いくつもの芸事を習い、礼儀・作法を身に付け、人間的にも成長しなければなりません。父・市川染五郎がそうであったように。宿命を背負い、数々の苦悩と立ち向かいながら新たなステージへと羽ばたく若き歌舞伎俳優の姿を、秘蔵映像とともに描きます。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.03
コメント(2)
大坂の湯屋は年中無休だが、元日だけは休む。そして元日の夜から火を燃して、二日の寅の刻頃(朝の四時頃)から番頭など四、五人が新しい木綿の着物や半纏を着て、湯屋の名を書いたぶら提灯を持ったり、腰にさして銅盥(たらい)を叩いたり、竹筒を吹き鳴らしていっせいに「わいた、わいた」と叫びながら隣町を巡って初湯を知らせるのを例とする。竹筒の音は法螺(ほら)に似ている。■江戸あじわい図譜■ ご飯、酒肴、菓子、外食…季節を大切にした江戸時代の食生活を江戸・大坂・京都を比較しながら幕末の記録文書『守貞漫稿』を基本に約400点の貴重図版で実証。■湯屋と銭湯■湯屋は「ゆや」または「ゆうや」と読み、銭湯のこと。江戸では湯屋といい、大坂では風呂・風呂屋といったのだそうだ。 今のように簡単に風呂に入ることができなかった江戸時代。しかも、火鉢やこたつくらいしか、暖房器具のなかった江戸時代の冬は、湯に入ることは、天国だったのだろう。ましてや、初湯となると「銅盥(たらい)を叩いたり、竹筒を吹き鳴らしていっせいに「わいた、わいた」と叫びながら隣町を巡って初湯を知らせるのを例とする。」って、お祭り騒ぎ。でも、湯屋(銭湯)で初湯を楽しむことができるのは、どのくらいいたのだろうか?・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.02
コメント(2)
★しかしどうだろう、久しぶりに見た(中森)明菜はいっそう不幸そうになってるじゃないの。幸福というのも癖であるが、不幸というのも癖である。(松田)聖子はすべてにおいて、幸福癖があったと思う。ものごとをそう深く考えないで「次があるから」と切り替える能力、これはとても大切なことだ。(略)「まず笑うことだそうです。こんな風にワリバシを歯ではさんで、唇の両側で笑う・・・」■美女は何でも知っている:林真理子■あけましておめでとうございます。私は、よくいえば楽天的、悪くいえば能天気。大金をかけなくても、まちの中を歩いたり■橋の写真や歴史■を調べたり、ランチを食べたり、■テレビのドラマ■やお笑いを見たり、■イケメン■に萌えたり・・・。お金持ちでなくても、若くなくても、美人でなくても、けっこう楽しく暮らしている。笑うことがあり、楽しいことがあるというのは、幸福なのだと思う。今年も笑っていこう。 「紅白歌合戦」に林真理子氏が出ていた。ひふみん、高橋一生など、そうそうたる人たちと一緒。来年の大河ドラマの原作者だからだが、「野心のすすめ」の頃から見ている者としては、すごい出世、そして、顔もいい方に変わった。本人いわく、歯の矯正をし、痩せてから劇的に顔が変わったのだそうだが、それだけではあるまい。精神的に、前向きに、笑って生きてきたからではないだろうか。ワリバシを歯ではさんで、唇の両側で笑う練習をしたのだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・
2018.01.01
コメント(2)
全27件 (27件中 1-27件目)
1