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今から65年以上前に、岡山県の田舎で小学生時代を過ごした。私の住む集落の真ん中あたりに、大きな椋木(むくのき)があった。少し離れて、榎(えのき)があった。榎も巨木だった。その二本の木の下は、小さな広場になっていた。二本の巨木が影を落として、夏でもそこに行くと涼しかった。その広場をサントウサマとよんでいた。エノキの下に、小さな祠(ほこら)が祀られていた。この祠には、伝説がある。 昔、昔、戦国時代のこと。■天神山城■落城の際、城主宗景の姫が逃げ込んだのが、私の集落のすぐ近くの山だったという。姫は、川の水を飲みに出て、村人に殺された。その後、集落には、疫病が流行り、恐れた村人は、姫を手厚く祀ったという。その後、盆踊りをして、姫を慰めた。という話が、私の子どもの頃にも、伝えられていた。 榎は、昔、重宝された。その成木はたかだかとして枝もよくのび、老樹になると神寂(かみさ)びてみえる。昔の人は、この木を愛し、橋のたもとや村境にうえた。また一里塚にもうえて、「印の榎」とした。「街道をゆく 赤坂散歩」司馬遼太郎。昔の村人も、姫のことを忘れないようにと「印の榎」を植えたのだろうか。 8月23日の地蔵盆には、村の婦人会が、サントウサマで、小さな踊りの会を開いた。♪大坂ご番所でとめられたよ、(アレハヨイヨイヨイ)♪高い山から谷底見ればよ瓜やナスビの花盛りよ (アレハヨイヨイヨイ)♪踊り踊るなら品(しな)よく踊れよ(アレハヨイヨイヨイ)マイクも太鼓をたたく人もいない素朴な盆踊りの音頭をとるのは、私の同級生の母親だった。 3時過ぎくらいからの踊りが終わると、紙に乗せられた、白砂糖が、子供に配られた。甘いものが手に入りにくい時代、子供の目当ては、この白砂糖だった。 七夕が終わって、翌日の夜は、手火(てび)があって、15~16日は、盆踊り。永遠に続くと思っていた長い夏休みも「サントウサマの祭」が終われば先が見えてくる。しかし、学校が始まるのはずっと先。明日も明後日も遊べるし泳げる・・・。私の子供の頃、家には、クーラーはおろか扇風機も無かったけれど、夏が大好きだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.08.26
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今から65年以上前の話。私は、岡山県の田舎で小学生だった。夏休みに入ると母は、いつも使っている布団を作り直した。▲■中国の水郷のまち 鳥鎮(うーちんにて)■当時は、どこの家でも布団は、家で作るもので、夏に布団の綿と布を剥がして、布を洗うのだった。まず、掛け布団の「側(がわ)」と取る作業。側(がわ)とは、布団の綿を包んでいる布のこと。母は、「はるなちゃん、手伝おて」と言ったので私も、布団の綿と側を剥がす手伝いをした。 縫い目を握りハサミで何か所か切って、布を引っ張ると面白いように糸がほどけ、アッという間に、布と綿に別れる。綿は、竿にかけて、良く干した。太陽の光に菌作用が働くので、丁寧に乾かした。▲■中国の水郷のまち 鳥鎮(うーちんにて)■布は、川に持って行って洗濯をする。村を流れる川の橋の下での洗濯は、楽しかった。▲■中国の水郷のまち 鳥鎮(うーちんにて)■洗濯が終わると、家に持って帰って、これもよく乾かす。布が乾いたら、一か所を開けて縫い合わす。 私も塗っていく。「私は、18歳まで、布団をよう縫わなんだんじゃ」と母は、縫いながら話をする。「これじゃあいけんと思うって、吉乃姉さんのところに、泊まり込みで教えてもらいに行ったんじゃ。」末っ子の母は、女手が多かったので、甘やかされて、布団を縫うことをしなかったのだった。そんな母に、吉乃の夫の喜六が、「なんじゃ、18にもなって、布団もよう縫わんの」と言ったそうだ。20年以上前のことなのに、さっき言われたというように悔しがった。 表を中にして、綿を起き、くるくると布と綿を一緒に丸めるようにする。開いている所を縫って、綿を落ち着かせるために、糸で布団の所々を縫う。これでやっと一枚の布団が完成した。掛け布団が終わったら敷布団もある・・・。布団は、家族の分があるので、一日だけでは終わらない大変な仕事だというのが私にも分かった。小学生の私は、針に糸を通したり、少しは縫ったりと手伝った。 布団カバーというものが無かったが、どの家も一年に一回は、こうして布団を作り直していた。 家族中のふとんを、家事の合間に縫わなければならないのは、丁寧にやっていては、追いつかない。それを母は、「三針一寸」と笑いながら縫っていた。「三針一寸」というのは、一寸の中に3針、1センチに1針の割=目が粗いことの言い回し。母は、裁縫が苦手などと言いながら、娘が生まれると、子ども用の小さな布団を縫ってくれた。娘が少し大きくなると、人形の布団も作ってくれた。私の夏の思い出の中に、母が布団を作り直す景色がある。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.07.26
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今から50年ほど前、夫の実家には、親戚がよく集まっていた。 私の住んでいた家の同じ私鉄駅から少し行った駅に住んでいた、まりさんは、多くは語らず、ただニコニコしていた。後で知ったのだが、老化で少し耳が聞こえにくくなっていたそうだ。 河野清子さんという女性が隣に座っていた。彼女は、眼鏡をかけていて、はっきりとものを言うタイプに見えた。河野家がみんなの本家だということで、「〇〇さんは、△さんといとこ」というようなことを話していた。 その隣に座っていたのは、中村のお母さん。この一座の中で一番年長で、■戦中・戦後の暮らし■を書き残している。その横は、中村家の末っ子の嫁。この一座で一番若く、30代だった。中村のお母さんの付き添いという感じだった。 その隣には、夫の父親の姉、夫の伯母の雅子。 客は、いつもこのメンバーで、入り口に一番近い所に、夫の母、真知子(仮名)が座っていた。全部で6人の話を進行役のようにまわしていた。私は、事前の掃除を手伝ったり、当日のお茶くみなどで、義母を手伝っていた。こうして、義母は、私を親族の一員に入れようとしてくれていたのだと思う。 そんな様子を見て、誰かが、「真知子さんは、本当に賢いな。戒名に<智>の字を入れたらええわ」と言ってみんなで笑っていた。1900年創立、先輩に歌人の与謝野晶子、後輩に脚本家の橋田壽賀子のいた女学校出身の彼女の面目躍如の話だ。あの頃、親戚の人たちは、どんな用事でで集まっていたのだろう?今では親戚が集まるといえば、葬式の時だけ。ネットを通して話をすることが、新しくて素晴らしいかのように言われる昨今であるが、人と人が面と向かって、「無駄」なことを話す付き合いが、懐かしい。2023年6月23日に100歳の天命を全うした彼女の戒名には、「智」の一字が入っている。■女学校■■母の姉、夫の母■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.06.26
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*船場*は、大阪市の中心にあり、南北を土佐堀川、長堀川、東西の横堀川に隔離された大阪商人の憧れの土地だという。その船場で夫の父親・誠太郎(仮名)の前の代まで、商売をしていたという話は、結婚してまもなく知った。なんでも初代は、和歌山県の田舎から出てきて、炭の商いをしていたのだそうだ。随分前になるが、その先祖の出身地といわれるところまで、夫と行ったことがある。 「私の父親が若くして亡くなりまして」と夫の父・誠太郎が言っているのを聞いたことがある。父親が早く亡くなったせいか、炭というものが時代遅れになったからか、船場の店は人手に渡り、大正生まれの誠太郎は、商売ではなく、サラリーマンをしていた。 誠太郎の姉で、夫にとって伯母にあたる松子(仮名)は、幼いころの記憶として、船場の暮らしが残っていた。だから、夫の弟の満(仮名)をよぶとき、「みつボン」と言っていた。これは、船場風の呼び方なのかもしれないと思っている。「うちのお母ぁはんなんか、(商売の手伝いも子守も)なんにもしまっかいな(しませんよ)。乳母日傘(おんばひがさ)でんがな」と松子が話していたのを聞いたことがある。「うちの母は、商売のことはしません。子育ては、子守をやとっていました。」「乳母日傘」のおんばとは、乳母という意味で、いかに裕福な家庭だったかということを誇りに思っていたのだろう。 そんな松子が、私が結婚まもなく、アパートに来てくれた。 松子は、白い二枚貝の形をした陶器を持ってきた。昔の駅弁が入っていたもののようだ。その中には、梅干が入っていた。「これを流しの下に置いといたらよろしねんで」と松子は私に言った。 まだ20代半ばだった私はどんな応対をしたのだろう。きっと「はぁ」とは、「はい」とか言っただけだったのではないだろうか。 もし今だったら、「その風習は、松子おばさんの子どもの頃もやっていたんですか?」など詳しく聞いただろう。その頃の食べ物、船場の言葉、船場の風習、船場の暮らし・・・なんでも今なら聞いてみたい。歳をとって体にいろんな不具合が起こるが、好奇心は、若いころより旺盛になった。松子伯母は、私が30代の頃になくなった。もっといろんなことを聞いておきたかったなと思う。 今の季節、船場には、「魚島時(うおじまどき)」という言葉があったという。瀬戸内海を魚が島のように大群で移動する季節に、鯛を贈り合うという船場の風習があるという。そういえば、夫と娘は、船場の末裔だ。そんなことを思って鯛の料理を考えた。*船場(せんば)*は、大阪府大阪市中央区の地域名。大阪市の中心業務地区 (CBD) に当たる。大坂の町人文化の中心となった所で、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁と見なされていた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.04.26
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今から70年近く前、私は岡山の田舎で小学生になる準備をしていた。準備をしていたというのは、父や母で、私は、何にもしていないのだが・・・。戦後のベビーブームに生まれたの私の世代は子どもの数が多い。新たに小学校に入学するのは、私を入れて5人だった。当時、バスに乗って幼稚園に通う子もいたが、同じ村の子は、誰も幼稚園に行っていない。小学校が私の最初の集団生活になった。当時、今のように就学前から字が読める子がいたのかどうかは知らないが、父は学校から入学前に自分の名前だけ読み書きが出来るようにしておいてくれと言われていたそうだ。そこで、父は私に平仮名で名前を書くことを教えた。 しかし、ノートはなく、鉛筆もない。地面に棒を持って書いて、私も棒を持ってそれを真似して覚えた。今でも地面に字を書く自分の姿を映像も込みで覚えている。鉛筆とノートは、入学式の後、買ってもらったのかもしれない。 入学する前に、こけしの絵がついたランドセルを買ってもらった。ランドセルは、皮で出来ていなかった。厚紙のように思うのだが、厚紙だったら雨が降ったら、破れるのではないか?6年間持つのか?今考えると何だったのだろう・・・。教科書も買ってもらった。運動靴は、その前の年の秋の運動会の時に買ってもらった。 小学校に入学してはじめて、知ったものは多い。ブランコ、滑り台、シーソー、チューリップ、オルガン、同じ村以外の子ども・・・。初めてのことのなんと多い事か・・・。小学生になることは、私にとって、一大事だった。親にとっても初めての子どもの入学は、一大事で物入りなことだったのだろうと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.03.26
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現在20歳の孫が1歳10か月の時のこと。うちのキッチンで、孫は、レンジや調理台のボタンを押す格好をしながら言う。「ピッ!ピッ!ピッ!・・・」。うちのキッチンは、電気。「ピッ!」と押すだけで、煮炊きができる。私の子どもの頃、今から65年以上前、火の周りには、色々なものがあり、色々な音がした。★マッチ。マッチは大箱と小箱があり、家にあるのは大箱マッチ。小箱マッチは、タバコを吸う大人の男が、ポケットに入れて携帯していた。★火箸火箸も2種類あった。上のは、煮炊きをするときや風呂を沸かすとき、使った。↑の火箸は、火鉢に置いてあって、燠(おき)を挟むのに使った。★火吹き竹竹を2節ほど使って、節に穴を空ける。火に向かって吹くと火が勢いよく燃える。今は、鉄製のものを売っていて、キャンプなどで使うシーンを見るが、当時は、竹を切って各家で作っていた。コンロの火おこしは、うちわを使った。★せんば(じゅうのう)。スコップのような形でせんばとよばれているものがどこの家にもあった。灰をすくったり、カッカと熾っている火を乗せたり・・・。せんばにも大小があった。大きいのは、クドで使っていたし、小さいのは、火鉢で使っていた。今、せんばをみるのは、溝掃除の時くらいだ。うちには無い。★昔は、火鉢、コンロなど、毎日使っていたのにいつの間にかなくなった。今、私の家では、暖を取るために石油ストーブを使っている。しかし、子どもの頃、石油ストーブは、どこの家にも無かった。★火鉢やコンロで使っていた、鉄きゅうとよんでいた餅アミも見なくなった。暖をとるためにあちこちで見られた焚火も今は無くなった。今、焚火を見ようとするとキャンプにいかなければならない。★消壺というものがあった。裏庭においてあって、真っ赤に燃えた熾き(おき)をセンバにいれて消壺に入れて蓋をすると酸素が無くなって火が消える。それは、炭になって消し炭とよばれた。コンロなどで使う。 ●裏口のすぐそばに、畳半分くらいの焚き物を置く場所があった。焚き付けといって、マッチをすって大きな炎になるまでの細い木の枝や枝豆をとった後のマメガラとよばれるもの、松の落ち葉=マツゴなど置いてあった。それらは、それぞれの音がして、火を焚く音は豊かだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.26
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今年で結婚して50年になる。今から50年前の今頃、母と妹と私は、私が暮らすことになるアパートを掃除するために大阪のH市にある古いアパートに行った。その頃、私たち一家は竜野市という兵庫県の西に位置する町に住んでいた。そこから大阪のH市は、バスで姫路まで行き、そこから新快速で大阪駅、環状線、私鉄を乗り継いで片道3時間近くかかったのではないかと思う。掃除道具は持って行かなかった。私鉄でE駅に着いてそこから北へ、アパートまでは歩いて数分。アパートまでの道は商店街になっていた。アパートのすぐ近くには、市場もあった。掃除道具はそこで買えばいい。どうせこれから使うものだから・・・。私はそう思っていた。 しかしその日は月曜日で商店街は休み。市場も休みだった。私はがっかりし不安になった。掃除ができないことにではない。住むことになる商店街や市場の休日も知らないこと。いや、それを教えてくれる人がいないこと。私はこの地で、誰も教えてくれる人がいない土地でこれから暮らしていくのだという不安にかられた。 そのアパートには、約3年住んだ。その後、駅から南へ数分のところに移り、その後、今住んでいる所に暮らしている。どこも私鉄のE駅から数分のところだ。 本屋、自転車屋、風呂屋、薬局・・・となんでも揃っていた商店街。総菜屋、小間物屋、肉屋、豆腐屋・・・なんでも揃った市場。50年前賑わっていた商店街は、まわりにスーパーが出来始めて少しづつ衰退していった。市場も無くなってその跡には、小型スーパーが出来ている。週に数回、そのスーパーに行くが、行き帰りに顔見知りの人に必ず会う。冬の空嫁してこの地に五十年 はるな・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.26
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私の子供の頃、今から65年以上前の岡山の田舎の12月の話。当時、食べ物は、野菜、米など殆どを自分の家で作った物を食べていた。しかし、時々、チクワや煮干しなど必要なものは、店で買った。当時、私の家では、買い物はツケで買っていた。普段は、現金がないので店で借りていたのだ。盆と年末には、ツケの支払いをしていたようだ。盆や年末になると現金が入ってくるはずもないのだが、母はどうやって金策していたのだろうと思う。いや、母だけでなく、他の人もみな貧乏だったのだが、なんとか支払っていたのだろう。その証拠に、商店から、どの家にも「歳暮」が贈られていた。 歳暮は、暦や餅アミだった。暦はひと月ごとに一枚の様式で薄い紙。どの家も農家だったので、日曜日に休むことはなかったが、暦には、大安や仏滅などが記入されていたので、必要なものだった。 餅アミの形は、正方形か丸で「てっきゅう」とよばれていた。このよび方は、独特のものなのかと思い今回調べた。*てっきゅう*火の上に2本かけ渡し、串に刺した魚などをのせてあぶるのに用いる鉄製の角柱形の細長い棒。また、鉄線を格子状に編んだもの。◇「鉄架(てっか)」ともいう。「鉄弓」「鉄橋」と書くこともある。古い言葉だと知った。てっきゅうは、餅をやいたり魚を焼いたり、ナスビを焼いたりと一年中活躍していた。 あの頃、今のようにプレゼントを貰ったりあげたりという風習はなかった。そんな中で歳暮というプレゼントは、生活に必要な、ありがたいものだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.12.26
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今から70年以上前に岡山の田舎に生まれた。子ども時代は、春夏秋冬とそれぞれに楽しいことがいっぱいあった。10月は、10月10日の秋祭があったが、その前日、9日に運動会があって村中の人で学校の運動場で楽しんだ。それよりも、もっと前から秋祭に向けて用意があったので、大人は、忙しかった。★障子の張り替え。涼しくなったとはいえ、まだ川に入れる季節、紙を剥がして桟だけになった障子を川で洗った。そして、桟が乾いたら障子紙を貼る。これから秋が深くなって冬になると障子を貼り替えると家の中に光が入り明るくなる。そのために障子の張り替えをするのだが、お金の無い家では、破れた箇所に桜の花のような切り紙をして破れた箇所に貼った。★ドブロク作り。父は、酒が大好きだったけれど、買うお金が無かったので、自分でドブロクを作って飲んでいた。★道普請。村中総出で道を直したり、道の周りの草を刈ったり・・・。秋には枯れる草もあるので、この時期、刈っておけば、春まで大丈夫だ。「昔は、祭には、遠い所から親戚が来て、ごっつお(御馳走)を食べて帰った。その時、道が荒れていたら困るから、祭りの前にするんじゃぁ」と父が言った。 そして、10月9日の小中、青年団、村中参加で開かれた運動会。運動場に、村ごとに、筵(むしろ)を敷いて、重箱に入った母の作った巻き寿司を食べた。 10月10日の祭には、運動会の翌日ということで学校が休みだった。神社の参道には、ずらりと出店が並んで、獅子舞が太鼓の音に踊った。 寒くも暑くもない季節。稲刈りもあとちょっと先・・・。そんな楽しかった祭も人々が農業を手放すと供に消えたのだ。私は、夢のような楽しかった運動会と秋祭、その準備を今もはっきりと思い出す。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.10.26
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今から65年ほど前の話。当時、私は岡山県の田舎で小学生だった。私の住む村の交通手段はバスのみで、集落の橋を渡った所に停車場があった。木橋の橋面を丸太で作り、上を土でならした橋で「土橋」という。集落は山のふもとにあったので、橋を渡って田んぼにも行った。 或る時、父が「うちの村の橋は、昔は無かったんぞ」「えっ!!」と私は驚いた。「橋が無かったら向こうに渡れん・・・?!」と私。「そうじゃ」と父は話し始めた。「そうじゃ、じゃあから、村中で、自分らで橋を架けたんじゃ」と父。「竹を切ってきて、大きな籠を作ってなぁ」と父が、村の人が力を合わせて作った橋について話をしてくれた。「大きな籠の中に、川で拾った大きな石を入れる。そんな石の入った籠を何個も川に並べて、その上に板を渡したんじゃ。」 「ふーん」と私は、石を入れた籠を思い浮かべた。竹は村のあちこちに藪があるのですぐ手に入る。村に住む父のいとこは竹細工職人だ。「山籠」という籠は、大きくて山に背負って行って落ち葉を掻いて持って帰る。山籠だったら大きさとしてぴったりだ。川には大きな石がごろごろしている。村の人が頑張って作る橋が浮かんだ。「せぇでも(それでも)、その橋は、大水(おおみず)が出たら、流れてしまう。水がひいたら、籠を編んで石を入れて、また橋をつくったんじゃぁ」と父は言った。「ふーーん。それ、お父ちゃんが子供の頃の話?」と私は聞いた。「ワシが生まれる、ずーーと前の事じゃ」と父。「なんじゃぁ~。お父ちゃんの子どもの頃の話かと思った」と私。「ワハハハ・・・」と父は愉快そうに笑った。★寺田寅彦の「天災と日本人」を読んだ。寺田は、文明が進歩すればするほど災害による被害は甚大になるという洞察を持っていたという。その話を読んで、竹と石と板で出来た遠い遠い昔の私の先祖たちが作っては直していた小さな橋を思い出した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★旅先で見たいろいろな橋★▲■ロンドン・タワーブリッジ■2018.7.18■高知県:四万十川の沈下橋■2023.5/22■高知県:神幸橋(じんこうばし)■2023.5/21 龍馬が脱藩の時ここを通った。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.09.26
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今から60年以上前の話だ。岡山で生まれ小学校、中学校に行った私だったが、中学2年の時、親の仕事で兵庫県・龍野市に引っ越した。家の前には1.5mほどの幅の小川が流れて、小川の前には水田とあぜ道とまだ舗装されていない道が続いていた。父の母も陽気な人で、新しい環境にすぐなれたのか、知り合いも増えていた。 そんな中に、近くの村に牛を飼っていて、搾りたての牛乳を分けてくれるという家があると教えてくれる人がいた。母は早速私を連れて、その家に行き、次からは、週に2~3回、私が朝取りに行くことになった。 ある朝、母にたたき起こされた。眠たくてしかたがないが、自転車の前のかごに、空の2合瓶を乗せて私は出かけた、ようだ。ようだ、といのは、私は完全には目覚めていなかったからだ。 完全に目覚めたのは、田んぼの中。橋を渡ってすぐ、右の田んぼに自転車で突っ込んだらしい。何が何だか自分でも分からなくて、「ギャー!!」と大声で叫んだ。その声が聞こえたのだろう、母が慌てて出てきて、そして私は気が付いた。眠ったまま自転車に乗っていて、水田に落ちたということを・・・。 体中が泥だらけになっていたが、幸運だった。もし、少し手前の小川に落ちていたら大けがをするか死んでいたか・・・。道で倒れても怪我をしていただろう。 そんな小さな事件は、少しすると、ケロリと忘れて、2合瓶を持って牛乳を買いに行ったし、家の前の小川で泳いだ。これが、中学2年の夏休みで、岡山県の田舎から兵庫県・龍野市へ来て、最初の夏はこうして過ぎていった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.08.26
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今から65年ほど前のこと。私は、岡山県の山奥の小学校に通っていた。その頃は、親が、子どもたちを連れて旅行をするという風習はなかった。山奥に育った子どもに海の経験をさせようということからか、4年生か5年生になると、「渋川の臨海学校」に行った。臨海学校に行く前に、歌を習った。 ♪オールそろえて えっさっさ 漕げよカッター 根かぎりよいしょよいしょと ひく網に かかる獲物は 何かしら魚もおどるよ 血もおどる たのしい海の 研修所♪何回も何回も歌っていると、臨海学校への思いがどんどん高まった。子ども達で「カッター」とよばれる小舟を漕いだこと。地引網を曳いたこと。とった魚での食事。学校の友だちと一緒の部屋で眠ること・・・。渋川の臨海学校の思い出は、今も鮮やかに残っている。そして、渋川の臨海学校は■岡山県渋川青年の家■という名前で今もあった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.07.26
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母は、きょうだい10人の末っ子だった。その中でいちばん仲がよかったのが、12歳年の離れた姉・佳乃。その母の姉・佳乃が5人の子ども達を残して亡くなったのは、私が小学校の3年生の時だった。母は、私たち家族を残して、慌てて、通夜・葬式に行った。 子どもというのは、母親が家のいなということは、さびしいことだった。たった2~3日のことでも、帰りはいつかと父に尋ねた。そして母が帰ってくるという日、父は子ども達を前にこう言った。「お母ちゃんはなぁ、大事なお姉さんが死んでつらいんじゃぁ。じゃあから、そっとしてあげにゃあ。お母ちゃんにあんまり、うるそうしたらいけんぞ。」父の細やかな気持ちが分かる言葉を覚えているが、帰って来た母親にまとわりついたのかどうかは覚えていない。6月5日、夫の母親が100歳の誕生日を迎えた。6月19日は、市から100歳の誕生日のお祝いがあり、市長さんに祝ってもらった。そして、6月23日14時25分、永眠した。大正、昭和、平成、令和を生き、100歳の誕生日をみんなに祝ってもらったことは、幸せな人生ではなかっただろうか?しかし、70歳を過ぎた息子であっても、百歳を過ぎた母親であって死の重さは変わらない、惜別は変わらないのだと思う。義母は、私の父が亡くなった時、「ひとつの時代が終わったわ」と言っていた。私も、義母の死に、ひとつの時代の終わりを感じる。百歳の夏は越さざり義母(はは)逝きぬ はるな▲夫の母▼■昔語り:女学校■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.06.26
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私の子ども時代、今から65年以上前、醤油は今のようにプラスティックに入ってはいなかった。全て、一升瓶に入って売られていた。もっとも、岡山の田舎なので、あれこれ銘柄は選べなくて、「とら醤油」という一升瓶に入った商品、一択だった。 瓶に入って重くて、割れる危険性があるので、醤油は、うちの近くの人が取り扱っていた。どういう繋がりから委託されたのか知らないが、その家は、醤油のみをそれも、虎醤油のみを扱っていた。私も一度、母に頼まれて買いに行ったことがあるが、土間の隅に6つに分かれた木の枠に入った虎醤油が入っていた。買いに行くときは、空になった瓶を持って行った。プラスティックか瓶かは選べないし、一升瓶か五合瓶かなど選べなかったが、選ぶということを考えたことがなかった。 当時、調味料といえば、塩、砂糖、味噌、酢、そして醤油・・・。ウースターソースは小学4年生頃に初めてカレーが家で作るようになるまで買ったことがなかった。調味料は、圧倒的に醤油が多いので、一升瓶でも多すぎるということはなかった。持って帰った醤油は、片口に入れて、片口から醤油さしに入れた。その醤油さしを、明治45年生まれの父は「きびしょう」と言っていた。今回のブログを書くにあたって、「きびしょう」を調べてみた。 小型の土瓶ともいうべきもので,おもに陶磁器であるが金属製のものもある。急焼,急備焼とも書き,〈きびしょう〉〈きびしょ〉とも呼ぶ。もと中国で酒を暖める具とされていたが,江戸時代に日本に伝えられ,煎茶に用いられるようになったとされる。…とあった。 今でこそ、醤油は当たり前に使っているけれど、江戸時代などは、味付けは味噌が多かったという。 また、手許には、塩が置いてあって、その塩を入れる小さな皿を、手しょうと言った。「手塩」が語源だという。だから、食事の際に使う醤油さしなどなかったのだろう。明治時代以降に、醤油をよく使うようになってから、急須にいれて、卓上に置いていたのではないだろうか。 なにせ、父は明治45年生まれの父、私の祖父は明治9年生まれだ。祖父は江戸時代の暮らしを色濃く残した暮らしをしていたのだろう。その暮らしを引き継いだ父は、皿に醤油が残っていると怒った。醤油をかけすぎて残したりしてはならないという、父の教えを私は今も守っている。また、今回、「とら醤油」を調べてみたら、150年の歴史を持つ老舗で今も醤油や酒を造っているというのを知り、懐かしく嬉しかった。■とら醤油■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.05.26
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今年4月の句会のテーマは「豆の花」だった。桜が満開の季節にあって、豆の花など気が付かなかったが、改めて豆の花を見ると、なんときれいなことか・・・。「きれい・・・」と桜を見上げて人々は口々に誉めそやす。豆の花は、ほめられもせず、咲いていた。いや、咲いていることも気づかれていなかったようだった。私も句会のテーマが豆の花でなかったら、見なかっただろう。 今から65年以上前の田舎では、殆どの人が自給自足に近い暮らしをしていたと思う。少なくとも私の家はそうだった。畑には、いろんなものが植えられていて、時期が来れば、それを食べた。今頃は、エンドウやそら豆のシーズンだ。 母に「エンドウを採ってきて」と頼まれると私は、籠とハサミを持って畑に向かった。小学3~4年生くらいになれば、しっかりと膨らんだ豆を選ぶことは誰でもしっていた。中には成長して皮が白くなっているのもあったので、慌てて採った。或る程度籠にたまったら家に持って帰って、豆の鞘(さや)を剥く。この作業も好きだった。豆を剥きながら、生の豆を口に放り込んだ。生臭い豆のにおいがしたが、嫌いではない。剥き終わったら母が塩味の豆ご飯を炊いてくれる。豆ごはんは続いた。それは、米を節約するための母の工夫だったのだろうが、子どもだった私は、まったく気が付かなかった。 ソラマメは、塩ゆでして、おやつにした。その頃、豆の花はを見ると、もうすぐ豆ごはんが食べられると楽しみにしていたものだった。 豆の花ほめられもせず咲きにけり はるな・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.04.26
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一年で一番寒い今、朝起きると、マッチでストーブの火をつける。マッチを使うのは、ストーブに火をつける時だけ。 今から65年以上前、岡山で暮らしていた子ども時代には、家の中にはマッチが数か所に置いてあった。台所のクド(かまど)の前、風呂のクドの前、畳の部屋・・・。マッチには「大箱マッチ」、「小箱マッチ」の2種類があった。 うちに置いてあったのは、「大箱マッチ」と呼ばれるもので、小箱マッチよりも数倍も大きいものだった。 「小箱マッチ」は携帯用で、タバコを吸う大人が持っていて家にはなかった。当時、マッチはよく使うのであったけれど不用意に使うことはなかった。タバコを吸う大人も自分のマッチを使わず、焚火から小枝を拾い、タバコに火をつけていた。火鉢の燃える炭から火をつけることもあったし、休憩する時は、タバコを吸っている人のタバコから自分のタバコに火を貰っていた。 年末に餅を搗いて隣に持っていくと、「おつり」と言って、マッチをひとつかみ重箱に入れてくれたのも懐かしい思い出だ。■おつりはマッチ■■お返しは小燐寸一つ餅配■池田世津子☟■老前整理整理:マッチ2016■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.01.26
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私の子供の頃、今から65年以上前の年末は忙しかった。正月の三が日くらいは、ばたばたしないようにと、いろんなものの準備をしなければならないからだ。山へ薪をとりに行かなくてもいいように、早くから山に薪をとりに行く。洗濯機のない時代だったけれど、正月は、こざっぱりと、洗った服を着なければならない。 雑煮で祝うために、餅つきの準備。自分の家で作ったもち米を「かして」=水に漬けて、蒸篭で蒸して。石臼で搗く。搗き上がった餅は、母がちぎって、子どもの私たちが丸める。その丸い餅は、「もろぶた」と呼ばれる木の箱に入れる。 餅をもろぶたに並べながら父が「昔、ワシが子どもの頃は、うちにゃあ、もろぶたが無(のう)てなぁ。ワシのおかあは、餅を並べるために、新しい薦(こも)を編みょうった。」と言っていた。 岡山県から兵庫県・龍野市に引っ越して、田んぼを持たなくなった。故に、もち米を作らなくなった。 その頃だろうか、餅つき機というものが出来たのは・・・。父と母は、餅つき機でせっせと餅を搗いてくれた。私は、せっせと餅を丸め、もろぶたに並べた。親元を離れた私は、餅つきをしない。 先日、夫の実家の柿をとった。今年は柿のなり年で、置くところのないほどとれた。「もろぶたに並べればいい」とひらめいた。夫に、「もろぶたは、どこにある?」と尋ねると「処分した」との答えだった。もろぶたは、正月には、餅を搗いて祝うという日本の文化の一部だと思う。もとぶたは、私の子どもの頃の正月を迎える象徴的な道具だったと気が付いた。【もろぶた】餅や麹などを入れる浅い木箱。1:室蓋(むろぶた)からの転でもろぶた説。室=物を入れて置いて暖め、または外気に触れないように、特別の構造をした所「もろぶた」は、浅い木の箱で、もとは麹を入れるためのものだったそうだ。ゆえに、「こうじぶた」が訛って、「こうじゅた」と言っている人も大阪にいた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.12.26
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今から65年以上前、私が小学生の頃のの岡山の話。その頃、私の家には柿の木が無かった。野菜を植えて、収穫が過ぎたら違う野菜の種を蒔き・・・と次から次に野菜を植えていた。一年で一回収穫するだけの柿の木を少ない畑に植えるわけにはいかないのだった。 だから柿の実が色づく頃には、同級生の子で柿の木がある家が羨ましくて仕方が無かった。よく遊びに行っていた近所の家では、渋柿で干し柿を作っていた。縄に皮を向いた柿を挟んで軒から吊るすので吊るし柿とよんでいた。こうして太陽に当てると、渋柿も甘くなり保存できる。剥いた柿の皮は、筵(むしろ)に並べていた。この皮も甘くなり、子どもたちは喜んで食べていた。私もほんのりと甘くなった皮をもらって食べた。 今年、うちの近くにある夫の実家では柿の実が大量になった。■10月25日■と11月のはじめに柿の収穫をした。今年は柿のなり年で、たわわに実った柿を収穫した。しかしこれをどうする?収穫した柿は、店で売っている柿よりも小粒だ。ここ最近、店頭にならんでいる柿は、種無しが主流だが、収穫した柿は種が多い。近所に配っても迷惑がられるかもしれない・・・。 そんなことを思いながら、65年ほど前の私がこれを見たら喜ぶだろうなと思った。沢山あるので、干し柿を作ってみた。庭古(ふ)りて柿の木高き夫(つま)の生家(いえ) はるな・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.11.26
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今から60年以上前に、岡山の田舎で子供時代を過ごした私。テレビもラジオもない生活で普通の暮らしってどんなものか比べることはできなかった。しかし、家が貧しいということは、知っていた。 そんな中でも、父も母も一生懸命に働いて、「ハレ」の日には、頑張って御馳走を作ってくれた。正月の雑煮、雛祭りの巻きずし、七夕の流し焼き、秋まつりの混ぜご飯・・・。「ケ」の日も、季節に沿って新鮮な野菜の料理が出た。いろんな思い出の食べ物があるが、よく思い出すのは「ふりかけ寿司」だ。 私が小学6年生くらいの時だったか父は出稼ぎで現金を得るために、兵庫県・龍野市に単身働いていた。月に一度くらい帰ってくる時に、土産に持って帰ってくれたのがふりかけだった。それは、私はふりかけを見たことも聞いたこともないものだった。「これでお寿司をしよう」と父は笑いながら言って酢飯を作りふりかけを文字通りふりかけた。「ふりかけ寿司」とは、酢飯にふりかけを混ぜただけのものだったが美味しかった。単身出稼ぎに行っていた時、お寿司が食べたくなって作ってみたと父が笑いながら言った。 また、母が入院していた時には、「ダシ雑魚が切れたからこれで炊いてみた」と掘りたてのジャガイモをスルメで炊いたのを食べさせてくれた。無いからと諦めたり愚痴を言うこともなく、いつもその時の最大の力を出して家族の生活を豊かなものにしようとした父。 最近、「親ガチャ」という言葉をよく聞く。現金を入れガチャガチャと回すとおもちゃが出てくる「ガチャガチャ」。欲しいおもちゃが出るか出ないかは運しだいという。それになぞらえて、親のあたり、はずれを「親ガチャ」という言葉で表現するのだ。私は、貧しい子供時代を過ごしたけれど、「親ガチャ」をはずれだと思わない。貧しかったけれど自分を不幸だと思わなかったのは、食事ひとつにしても父母とのあたたかな思い出があるからだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.10.26
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今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を過ごした。当時は、野菜、果物、味噌、漬物・・・なんでも家で作るのが当たり前。その中心に米があった。田植えをし、草取りをし、稲刈りをした。田植え、稲刈り期間の数日は、学校が休みになったくらいに、皆で米を作った。 なのに、米の飯が食べられるのは、正月と祭だけ。あとは、毎日、麦飯だった。 中学生になって学校に持っていく弁当も、もちろん麦飯。母は、弁当に入れる御飯の部分になるべく米が多くなるようにと心を砕いた。炊きあがると、米と麦は釜の中で上下に分かれる。重い米は、釜の下に、軽い麦は釜の上部になる。そこで母は、下の米をグイとすくって、私の弁当箱に入れた。その後、残った釜の中の米と麦を混ぜるのだった。母が米を救って入れてくれたとはいえ、弁当箱の上には、チラホラ麦があった。 おかずは、野菜のたいたんでも入れてくれたのだろうか?大根の漬物や梅干は必ず入っていた。今の弁当のおかずの定番、玉子焼きやウインナーなど一度もなかった。家でニワトリは飼っていたけれど、卵を産むのは時々で、1つ産めば、味噌汁に入れて家族みんなで食べたし、数個産んだら、現金が欲しいので、買ってくれる近所のおばあさんの所に売りに行ったからだ。必ず入っていたのが、イカを干してレースのように薄くし焼いて醤油をつけたものが、ご飯の上に必ず乗っていた。おかずは玉子焼き、ご飯はもちろん、銀飯、デパートの包み紙に弁当箱を包んで持ってくるような子もいる中、私は、麦飯、粗末なおかず、新聞紙に包んだ弁当を食べる・・・。中学生の私には、昼食は、みじめな時間だった。しかし、親の懐具合を知っているから、文句など言えるはずがなかったが・・・。 もうすぐ、稲刈りの季節。私の住む地方では、めっきり水田が少なくなった。しかし、貧しいからと麦飯を炊く家は今はない。「貧乏人は麦を食え!」という政治家の有名なセリフも、もはや知る人もいないのではないだろうか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.09.26
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今から60年以上前、私は岡山県の田舎で小学生で、夏休みになると、毎日、毎日泳いでいた。水着など買える環境に無くて、小さい頃は、パンツだけ。少し大きくなると、母が親戚でお古の水着を貰ってきてくれた。そんな訳で、浮袋など買ったことは無かった。ちょっとは泳げたし、だいたいの子どもはそんなものだったから、浮袋が無いのが辛いとは思ったことがなかった。 そんなある時、水泳の場に、浮袋を持ってきた子がいた。いや、正式に浮袋として買ったものではなく、タイヤチューブに空気を入れて浮袋として使っていたのだ。タイヤチューブの浮袋を持ってきた子は、ぷかぷか浮いて気持ちよさそうに川面に浮かんでいた。当時、自転車がパンクすると、各自家で修理していた。この浮袋も、パンクして車に使うことが出来なくなったタイヤを貰ってきて、修理して浮袋にしたのではないかと私は思った。 家の帰って父にその話をした。羨ましそうな顔をしていたのかもしれない。そんな私に父は言った。「アメリカじゃぁ、タイヤの古手の捨てる場所に困っとるそうじゃ」。後年、児童公園などで、古タイヤを使った遊具を見るたびに、「日本も、捨てる所がなくなったからこういう使い方をしているのか・・・」と思っている。■先日、映画「サバカン SABAKAN」■を見たが、その中に、古タイヤで作ったらしき浮袋を持っている若い女性が出ていた。今もあるのかと検索したら、なんといらなくなったタイヤチューブを浮袋用に売っていた。それを知って、ぼんやりとしていた60年以上前の夏が急に鮮明になった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.08.26
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私の子どもの頃の夏は今から60年以上前。夏の食卓に並ぶのは、明けても暮れても、同じものだった。 ★ナスビ。(ナスビ揉み)縦に半分に切って、斜めに細く切る。それをすり鉢に入れて、塩をして揉む。さっと水で流して、おかずとする。塩気が足りない場合は、少し醤油をかけた。 ナスビは、焼き茄子にすることも多かったが、その場合は、七輪に火を熾して外で焼いた。家の中に火の暑さが残らないようにするためである。 ★キュウリ(キュウリ揉み)キュウリもよく食べた。キュウリを薄く輪切りにし、塩をして揉む。煮干しを少し焼いて、手でちぎってキュウリと混ぜる。酢、味噌、砂糖と入れ混ぜる。キュウリ揉みの出来上がりだ。タコもワカメも無しだったが、たまに油揚げがあると焼いて小さく切って混ぜた。揚げが入っていると大喜びした。 入れ物は、すり鉢。当時は、ボールというものは無かったし、大きな鉢もうちには無かった。したがって、すり鉢が唯一の入れ物だった。すり鉢がふさがっている時は、鍋を代用した。★トマト。トマトは、くし型に切ったり、輪切りにして、醤油で食べた。明治45年生まれの父だけは、トマトが苦手だった。父が子供の頃(大正時代)には、トマトは馴染みがなく、「トマトのことを赤ナス、ゆいよった」「唐柿(とうし)ともゆいよった」と父は言っていた。はじめて、トマトを食べた父は、そのあまりの生臭さに食べられなかったそうだ。「それで、ワシは、トマトに砂糖醤油をかけて食うようになったんじゃ」と父は笑いながら、いつもひとり砂糖醤油で食べていた。★チシャ(チシャ揉み)うちの前の家に■ふーちゃん■というおばさんがいた。彼女は、毎年夏にはチシャを作っていて、持って来てくれた。「柔らけえぞ、旨いから、まあ食べてみんせぇ」と言いながら持って来てくれた。柔らかなチシャは、手でちぎって、炙った出汁雑魚と混ぜ、酢味噌(酢・味噌・砂糖)で食べた。チシャ揉みという名前で、夏の食べ物だった。 夏は、なるべく火を使わないような料理が多かった。火を使わない食事をしながら、お昼御飯が終わったら、どこで泳ごうかと楽しい思案をしていた。岡山の田舎で、テレビもない時代だったので、ほかの家がどんなものを食べていたのか、私は知らない。しかし、当時の食事のことは、今も鮮やかに覚えている。 ■冬の食卓:鯨肉と水菜■■冬の食卓:「煮食い」と「煮こごり」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.07.26
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私の母は、歌の好きな人だった。家は貧しかったけれど、母の大らかで陽気な歌声に、どれだけ家が明るかったのかと最近よく思う。私が子どもの頃、今から60年以上前は、テレビもない時代。自分で歌うのが唯一の楽しみとあって、歌の好きな母は、地域のコーラスグループに入っていて、月に何回か、夜になると練習に出かけた。場所は、小学校の音楽教室。(小学校(1)の左端にあった。)先生は、中学校の音楽の先生。コーラス部員は、小学生や中学生の親たちだった。 田舎の夜は暗く「暗ろーてきょてーから、(暗くて怖いから)はるなちゃん、ついて来て」と私に頼む母。私は、母について小学校に行った。子どもの帰った夜の小学校は、がらんとした寂しい建物だった。私は、音楽室の隅っこに座り、歌う大人たちを時々見ながら持って来た本を読んだ。いろんな歌を聞いたが、特に耳に残っている歌がある。♪あわれ白拍子~ 花の命~・・・という出だしの歌だ。がらんとした教室の中で聞く歌は寂しく、60年以上経ったた今も、耳に残っている。♪あわれ白拍子(しらびょうし)~ 花の命~ 過ぎし日の明け暮れは露に似て今宵別れの舞い衣 しずやしず~静(しずか)の小袖は露に濡れ、かざす扇の重たさよ。ああ、今に残る~ よしや 吉野の舞い塚あわれ~ 先日、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で捕らわれた静御前が舞い踊ったのは有名な下の曲。♪しづやしづ しづの苧環(をだまき)繰り返し むかしを今に なすよしもがな♪ 吉野山 嶺の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき いつも私を、静、静、 苧環(をだまき)の花のように美しい静 そう呼んでくださった義経様 幸せだったあのときに戻りたい 吉野山で雪を踏み分け 山に去って行かれた愛する義経様 残されたあのときの義経様の足跡が、 いまも愛しくてたまらない。放送されるテレビの歌番組の多い昨今だが、昔は何もなかったから、自分たちが歌うしかなかった。何も知らずに聞いていた、あの歌には深い意味があったのだなとしみじみ思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.05.26
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65年以上前の岡山の田舎の話。当時、村には、薬局などなくて薬は、置き薬とよばれる富山の薬売りが持ってくるものが家にあった。いつも知っている村の人の顔を見て暮らしていたので知らない人が来るのは新鮮だった。薬売りは、土間に入って、靴は脱がないで、土間の上り框(かまち)に腰掛け、吊り下げていた、紙袋を点検していた。熱さまし、腹痛など、使った薬があれば、補充していたのだ。私は、それをじぃーっと見ていた。 すると、薬売りのおじさんは、笑いながら、「お嬢ちゃん・・・」と私に呼びかけた。そして、紙風船を出してきて、私にくれた。紙風船など滅多に手にすることがないので私は、夢中で息を吹き込んで遊んだ。今から、2~3年前、富山市に行った。夫が、具合が悪くなった時、ガイドさんの女性が、「うちに来て、薬があるから・・・」と言ってくれた。遠慮していると、「ここをどこだと思っているの?ここは、薬の町、富山ですよ。」と冗談めかして言って、薬をくれた。 私は、小さな子どもだったので、年に一回の薬売りは、いつ頃来るのか覚えていない。ただ、夏は暑いし、冬は寒いので徒歩で家々を廻る薬売りにとって、今の季節が一番いいのではないかと思う。いや、来月の麦秋が済んでからの方がお金が払えるから、麦秋後だったのだろうか?何軒くらい廻ったのか?どこで泊まったのか?昼食はどうしたのか・・・?今なら気になることがいっぱいある。こんな時、父に聞いておけばよかったと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.04.26
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今から65年以上前、岡山の田舎の小学校に入学した。入学した時には、上の図の「小学校2~3」の所に2階建ての古い校舎があった。明治5年から始まったというから、私が入学した時には、相当古いものだった。祖父も、父も、この小学校に通ったのだろう。但し、明治9年生まれの祖父の代には、同じ校舎ではなかっただろうが、明治45年生まれの父は、きっと同じ校舎だったと思う。その建物が、小学校1年の時に建て替えられて、1階の建物が3棟になった。小学校1年生は、二クラスあって、「い組」と「ろ組」に分かれていた。2組あったのは、私たちの学年だけで、他はみな1クラスだけ。私たちは、戦後のベビーブーム、真っただ中というわけだ。 「小学校1」には、1年生、2年生、音楽教室があった。「小学校2」には、3年生から6年生の教室。「小学校3」は、教員室、宿直室、給食室、理科室、家庭科室などがあった。 私が入学した時は、幼稚園はなくて、私は幼稚園に行っていない。私が3年生の時に、幼稚園をつくろうという話になったのか、幼稚園の部屋を待たずして、園児が通い始めた。園児たちは、黒く塗った場所の一部にいた。ここは、講堂で入学式や卒業式が行われるところだったが、その一部を使って、幼稚園となった。次の年には、小さな幼稚園が出来た。 運動場は、小学校と中学校が日を分けて使っていた。運動会は、幼稚園、小学校、中学校が合同で、その上に青年団が加わる賑やかなものだった。盆踊りも、この運動場で行われた。運動会にも、盆踊りにも屋台が出て、それはそれは賑わった。 それから6年後、小学校を卒業した私は、中学生になり、講堂の2階が私たち1年生の教室となった。その頃はどの家も平屋だったし、学校も平屋だったので、はじめての2階は楽しくて仕方がなかった。1年生は2クラスで、その教室の隣には、和裁室があった。この部屋は、その頃、夜、和裁を学ぶ女性が使っていたそうだ。音楽の授業の時は、少し離れた部屋まで行った。 中学2年になって、教室は、木造平屋の大きな校舎になった。しかし、そこにいたのは、1学期の終わりまで。その年、中学2年の夏、兵庫県竜野市に引っ越しし、龍野中学校に転校したからだ。私たちが卒業して間もなく、中学校は、廃校になり中学生たちは、自転車で一番近い町の中学校まで自転車で通ったという。そして、小学校も、■2017年3月■145年の歴史に幕を下ろしたと知った。私が通った3棟の小学校もとっくの昔に建て替えられていた。ネット上で、その廃校になった小学校を見ても、私の過ごした小学校時代は思い出せない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.03.26
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ここ数年、時代小説をよく読んでいる。その中に、「綿入れの着物」が出てくる。寒くなる前に、着物に綿を入れるのだ。読んでいて、綿入れの着物なんてあるはずがない!と思っていた。しかし、よく考えたら、私の子どもの時代には、綿を入れた衣服があった。今から65年ほど前の岡山の山間部の村で私は子供時代を送っていた。 ★当時、大人も子どもも、男も女も、冬になると「ちゃんちゃんこ」を着ていた。それは、綿の入った袖なしの袢纏のようなもので、今の時代のダウンジャケットのようなものだった。★綿入れ袢纏もよく着ていた。綿入れ袢纏は、高校に通うようになっても家の中で着ていた。あれは、秋の深まった頃だろうか、夜、小学生の私に母が一緒に付いて行ってと言って、小学校に行ったことがある。母親たちの音楽同好会があって、歌が好きな母も入っていたのだった。その時も、「はんちゃ」を着て、片手に読みかけの本を持って、母のお供をしたことがあった。綿入れ袢纏のことを「はんちゃ」と言っていた。語源を調べたが分からなかった。しかし、九州の糸島や東北でも使われる言葉だそうだ。★■ねんねこ半纏(ばんてん)■というのもあった。赤ん坊を背負った時、赤ん坊が寒くないようにと綿の入ったおんぶ用の袢纏があった。春や秋には綿の入っていな袷(あわせ)のを使っていた。★亀の子袢纏ねんねこ袢纏は、仕事がしにくいということで、ねんねこ袢纏の袖をなくしたものが、よく使われていた。背負われた子供に、「ええなあ、温(ぬく)うて」と大人たちは声を掛けた。また、背負っている母親にも、「子どもを負うとったら、温(ぬ)くかろう」と声を掛けた。★丹前冬、仕事から帰ると父は、風呂に入り、下着を変えてから、その上に、丹前を着た。丹前は、綿の入った着物。そして、夕食と晩酌。母が作る料理を「美味しい、美味しい・・・」と何度も言いながら酒を飲んだ。 いつも、夏の暑さより寒い方がましと思う私だが、今年の冬の寒さは辛い。家に入ってもダウンジャケットを脱ぐことが出来ない私に、「外みたいな恰好をするな」と夫が叱責する。昔は、外でも内でも綿入れを着ていたのだがと私は言葉に出さずつぶやき、春の訪れを待っている。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.02.26
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昭和30年頃の正月は、今とまったく違っていた。朝起きると、母が、「餅をなんぼ食べるんなら?」と聞いてくる。皆の食べる餅の数を煮えたぎる鍋の中に入れる。12月28日に搗いた餅は、湯の中で柔らかくなってゆく。 雑煮の出し汁は、ダシジャコでとって、醤油で味付けしてある。具は、豆腐、竹輪、人参、ホウレンソウだった。雑煮の汁の中に、茹でて柔らかくなった餅をいれる。ホウレンソウやダシジャコが餅にへばりつくが、それがなんとも美味しかった。美しいお椀も重箱も祝箸も無かった。いつもの味噌汁用のお椀に雑煮は入れられた。 昭和30年頃、今から60年以上前の正月は、今とまったく違っていた。家にはテレビが無かったし、村の中にも無かった。だから、自分の家の雑煮しか知らなかった。 雑煮を食べたあと、母が蜜柑をひとつくれた。子供に、ひとつづつ蜜柑を渡して、残りは籠にいれて、子どもの手の届かない高い所に吊り下げた。正月にお年玉がもらえるということは知らなかった。もし知っていたとしても、もらえなかったであろうけど・・・。 正月の一日には、小学校に行った。小学校の講堂に全生徒が集められ、校長の話を聞いた。話が終わると、全校生徒にミカンが一つか二つ配られた。 大人たちは皆、家で休んでいて、村の中は誰一人大人の姿を見なかった。子供は、凧あげ、独楽廻し、マリつきと元気よく遊んだ。昭和30年頃、今から60年以上前の正月は、今とまったく違っていた。家にはテレビが無かったし、村の中にも無かった。だから、自分の家の正月以外知らなかった。母の炊いた煮しめと雑煮、それに一日一個のみかんだけ、正月飾りも、お年玉もない正月だったが、その頃の正月は、一年で一番はれやかな日だった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2022.01.26
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今から65年ほど前、子ども時代は、に岡山の田舎で育った。たった二間と土間、風呂、台所などがある普通の農家で、ほとんどどこの家にも、押し入れと床の間がついていた。私の家も同じように床の間があったが、そこに、小さな濃い茶色い牛が置かれていた。私の家だけでなく、どこの家にも、この小さな濃い茶色い牛があった。 隣の町に「田倉の牛神様」とよばれる神社があって、飼っている牛を売ったり、新たに牛を買ったりするとその牛の健康、無事と五穀豊穣を願って牛の人形を買うのだと父が言っていた。「田倉の牛神様」は、隣の駅だけれど、一番近い駅に行くにはバスに乗らなければならないし、そんなお金などなかったので一度も行ったことがない。 昔は、どこの家にも牛を飼っていて、田んぼでトラクター代わりに働いていた。ずーっと思い出すこともなかったが、今年はうし年ですからということで思い出した。■田倉牛神社■どうして田倉牛神社は牛の像を奉納するようになったのか?それは、江戸時代の岡山藩が農業振興策の一つとして、農家に牛を飼うことを推奨し、各村に一カ所ずつ、神様をまつる祠(ほこら)を設けたことが一因とされている。村人たちは、農耕牛の健康を神社で祈願していたという。トラクターなどない時代、牛の健康は農作業に大きな影響を与えていたのだ。田倉牛神社は、徐々に”農耕の神”として信仰を集めていき、備前焼の牛または馬が多く奉納されるようになったと言われている。 コロナ禍にあかべこってピッタリのグッズだ!!■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■■牛草(ぎしぎし)■■「商いは牛の涎とブログ■■こって牛■■藤原定家の牛の歌■■赤べこ■■生薬「牛黄(ごおう)」■■牛耳る■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.11.26
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稲刈りの季節である。今から65年以上前、私は岡山の田舎で子供時代を過ごした。山間部にある田んぼは、どの田も細いあぜ道がついていた。だからリヤカーでは通れない。 そんな時には木製の一輪車を使った。うちには無かったが、ほとんどの家にはあった。その一輪車の名前は「ちょうた」と言った。なぜ「ちょうた」というのか、私は知らなかったし大人に聞くこともしなかった。もし聞いても誰も知らなかっただろうが・・・。「ちょうた」のことは、「猫車」として認識したのは、いくつの時だったろうか?■木製・猫車 画像■しかし、「猫車」がなぜ「ちょうた」と呼ばれたのか・・・?その答えが分かった!!■ちょうた■…これ(猫)をふつうの人が耳にすると実際には存在しないヤマネコがその地にいると誤解する可能性がある。山仕事をする者は一般に山中で猫ということばを用いることをきらい,津軽でマガリ,中国山地でも兵庫県でトリ,岡山県でチョウタ,広島県でジンタなどといいかえる。沖縄県先島地方では猫をマヤといい石垣島の神事ではマヤの神,トモマヤの神という二つの神が面を着けて現れ,海の彼方の世界からやってくるものと考えられていた。…「峠」のことを「たわ」と言ったり、「猫車」のことを「ちょうた」と言ったり・・・。私の子供時代は、普通に使っていた大昔からの言葉の数々・・・。それらは今は使われているのだろうか?たぶん消えてなくなったのではないだろうか・・・。かつては、人がやっと通れるくらいの細い道と小さな田んぼばかりだったが、数枚の田が一緒になり、軽トラが入ることが出来る道が出来た。昔ながらのちょうたのは消えたが、今も「ちょうた」は懐かしい景色と共に残る故郷の言葉だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.10.26
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私は、60年以上前の田舎で子供時代を過ごした。その頃は、何もなかった。夏になると、毎日川に泳ぎに行っていたが、誰も浮き輪など持っていなかった。明けても暮れても毎日泳ぎに行って、■花咲く、合歓(ねむ)の木の下で■泳いだ。泳ぎつかれると、あおむけになって川上から漂った。目に映るのは、薄紅色の花と優しげな葉っぱ、花咲く合歓の木・・・。 そんな毎日だったが、ある日、一人の子どもが、浮き輪を持ってきた。それは、車のタイヤを利用して浮き輪にしているものだった。浮き輪に乗って、ぷかぷか浮いている子が羨ましくて家に帰って父に云った。「〇〇ちゃんが、タイヤの浮袋を持って来ていたわ。」「そうか・・・」と父が言った。「アメリカじゃ、古くなったタイヤが多すぎて処置に困っておるそうじゃがなぁ」私は、信じられなかった。あの頃、どの家にも車なんかなくて、泳ぎに行くときに出会うのはバスだけだったからだ。 その頃、なんにも捨てるものなどなかった。枯れ枝や落ち葉は、焚き物になったし、古い浴衣は、おしめになった。自転車のタイヤがパンクしても自分たちで張り替えて使い、リムがダメになったら、子どもがもらい受け、リム廻しという遊びをしていた。今の子どもは、浮き輪なんて小さい頃から持っている。しかし、三面コンクリートで花咲く合歓の木はなくなった。豊かな水の川もないし、子どもの遊ぶ時間もなくなった。私たちは沢山のものを手に入れることが出来るようになったが、それと引き換えに豊かな自然を失い、気候変動に怯えなければならなくなった。今、しみじみと自分がいい時代に生まれたと感じている。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.08.26
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私が岡山県の田舎で子ども時代を過ごしたのは、今から65年以上前のことだ。その頃の夏は、クーラーはもちろんのこと、扇風機もなく、団扇と打ち水が頼りの暑い夏を過ごした。子どもは水浴びに川で過ごしていたが、それが出来ない乳幼児は、あせもが出来ていた。 そんな時、うちの前の家に桃の木のある家があった。その家の奥さんは、■ふうちゃん■という名前のおばさんだった。ふうちゃんは、あせもの赤ちゃんを見かけると、「うちの桃の葉を持って帰って風呂に入る時、いれてみ。よーなるから」といって、桃の葉を勧めていた。 「ひなた水」といって、朝のうちにたらいに水を張って温かい湯にするが、その中に、桃の葉を入れているのを見たことがある。 岡山は桃で有名だが、どのうちにもあるというわけではない。だから、そういわれた人は、ありがたく、嬉しかったに違いない。改めて桃の葉のことを調べたらいろんな効能があることが分かった。そういえば、冬、大人たちは、あかぎれが痛む時、「桃の花」というクリームをつけていたなと思い出した。 そんなことを思い出しながら、今が旬の桃を食べている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.26
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私は、今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を過ごした。その頃は、世の中がみんな貧しい時代で、食べる物も、家も質素だった。着ている服も質素で、華やかな色や形のものを見たことがなかった。その頃の女たちは、何を着ていたのだろう・・・?私は知らない。なぜなら、十人が十人、着ているシャツ(?)やセーター(?)の上にかっぽう着をしていたのだ。 下は、もんぺをはいていた。 かっぽう着をいえば、白というのが今の当たり前だが、当時は、鼠色などが主流だった。それに小さな格子などの模様があった。主婦たちは、かっぽう着を着て、もんぺという姿で、山や田んぼに行き、炊事などの家事をし、近くの商店に買い物に行った。かっぽう着さえ着ていれば、下にどんなに継のあったった服を着ていようが分からない。たらいで洗濯をする古い母の写真がある。その写真の姿もかっぽう着だ。当時、かっぽう着は、主婦の制服だったのだろうか。 そんな主婦たちの勝負服は、白いかっぽう着だった。葬式や嫁取りなど特別な日には、女たちは、そろって、真っ白なかっぽう着を着て、集まった。そこで、煮ものやちらし寿司などを作って村の人に出した。この特別な日は、女たちは、華やいで見えた。それは、特別な真っ白なかっぽう着を着たからそう見えたのだろうか・・・。それにしても、あの頃の女たちは、かっぽう着の下に、どんな服を着ていたのだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.06.26
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今から60年以上前の春、私はおやつを求めて、野山をさまよった。子どもながらに私たちは、食べられる草をよく知っていた。スカンポや、チガヤ、それにシイトとよんだ草も食べられる草のひとつだった。新聞紙に包んだ塩を持って出かけて、シイト(スイバ)を採る。塩を包んだ新聞紙に、採ったシイト(スイバ)を入れて包み、石を重しにする。少しすると、シイト(スイバ)は、塩で酸っぱさがまろやかになる。 シイト(スイバ)より大きい葉っぱで、よく似た葉っぱがあった。よく似ているけど、「牛のシイト」と言って食べなかった。大人になってから、「牛のシイト」は、「ギシギシ」とよばれるもので、若芽を食べる地方があるという。そして、また今年になって、「ギシギシ」は、「牛草」ということを知った。「牛のシイト」と言っていたののもあながち間違っていなかったのだ。■野草:スイバとギシギシ■■牛草(ギシギシ)■◆根は緩下剤や皮膚病の薬になるほか、葉を開く前の若芽は食用になる。◆薬用根や根茎には、エモジンやチリソファノールなどのアントラキノン誘導体、アントロン、タンニンが含まれている。アントラキノン誘導体には緩やかに便通をよくする緩下作用があり、緩下薬として古くから知られているまた、タンニンには組織細胞を引き締める収斂作用があり、腫物などの炎症を鎮める消炎薬に用いられている。胃腸が冷えやすい人や、妊婦への服用は禁忌とされている。◆食用早春の時期、鞘に包まれた若芽は日本の東北地方で山菜として食用されているほか、葉が開く前の若芽には透明なぬめりがあり、独特の食感からも方言で「オカジュンサイ」と称されている。若芽は袋状のさやを取り除いて軽くゆでて水にさらし、お浸しや和え物、汁の実などに調理される。多少のクセがあるため、塩漬けやぬかみそ漬けにしても食べる。近縁種のスイバの若葉は酸味があるが、ギシギシと同様に食用される。■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.05.26
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私が岡山県の田舎の小学校に入学したのは、今から60年以上前のこと。そんな時代の「給食」は、たったコップ一杯の「ミルク」だけ。ミルク用のコップの中には、漢字の「山」という字を横にしたような「ヨ」という印があった。1年、2年は「ヨ」の一番下の2年、3年は真ん中、5年、6年は、一番上のラインまで「ミルク」を入れた。それは、悪名高き、脱脂粉乳だったが、当時、何も分からず飲んだ。 小学3年生くらいの時だったか給食にしようという話が出た。教育委員会などから出たのだろう、栄養が偏らないように給食がいいというのだった。そんな中、給食に反対する親がいた。「弁当にすればいい。うちは米を作っているから弁当なら持たせられるが、給食代は払えない」というのが、反対の親の言い分だ。 うちの家の前の家も反対で子どもが4人いて、そのうち2人が小学生だった。その家の主婦、■ふーちゃん■のいうことを聞いて、子どもたちは、給食の時間になったら家に昼食を食べに帰っていた。それを見て、うちの親は、「(ふーちゃんの子)A子ちゃんらが可哀そうじゃ。ふうちゃんも、給食に賛成したらええのに・・・」と言っていた。 「のんきだな・・・」と子どもの私は思った。「私は確かに、給食を食べているが、給食費を払えないのは辛いわ。」私は、給食費をくださいと親にいうのがつらくて、言い出せないような子どもだった。先生が、給食代の集金をしても、私は毎回「忘れた」と言っていた。親が辛がるような給食代の話は出来なかったのだ。小学校3年生か4年生の頃、「ミルクとコッペパンとおかず」の給食が始まった。しかし、毎日ではなく、週3回だった。しばらくして、月曜日から金曜日までの週5回の給食になり、それを「完全給食」といった。(土曜日は、半ドン。) 先日、読んだ武田百合子の「ことばの食卓」に以下のような文章が出てきた。●家の近い生徒は、都合でお昼を食べに帰ってよいことになっていた。「食べ」といった。校門から「食べ」の生徒が、ばらばらと抜きつ抜かれつして、切り通しの坂を走り去って行く。真昼間の表から駆け込んだ茶の間は、藤棚の陰で令んやりと暗い。◎あった、あった、私の中学生の頃も、食べに帰る人がいた。私もたまに帰った。もちろん、粗末なお昼を食べるのだが、考えると食べる物もなくて水だけの人もいたのではないだろうか・・・。あの頃は、まだ日本中が貧しかった・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.04.26
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今から60年ほど前、岡山県の田舎の村の中学校に入学した。中学校は、小学校と同じ敷地に建っていて、運動場を共有していたが、日によって、時間によって小学生が使ったり中学生が使ったりしていていたので、中学生の姿はよく見ていた。4月になって、初めて中学校に登校。セーラー服に白いスカーフ、紺に襞スカートの制服で、鞄は布製の手提げで、紐の付いたズックの靴が決まっていた。セーラー服は、村の誰かからもらったものだった。布製の手提げかばんも貰い物で、元は赤だったのだと分かるくらいに褪せていた。当時は、村の子どもの誰かが卒業すれば、家族や親せきでなくても、制服を譲り受けて使うのが常だったので、私は、それに対してなんにも思わなかった。男の子は、詰襟の学生服上下に白いズックの斜めかけ鞄だった。 白い布の靴は、時々使い古したタワシで洗った。当時は、歯磨き粉は、まったくの粉であったが、洗った靴の上にその白い歯磨き粉を塗ってより白くしようとしていた人もいた。 中学生になってはじめて、英語の授業があった。1年生の最初の英語の時間に先生が言った。「皆さんは、これから英語という言葉を習います。もしかしたら、小学校で、算数や国語が分からなかったという人、苦手だった人。そんな人も英語は、今日から習うのでみんなはじめてです。得意も苦手もありません。」私は、その言葉を聞きながら、なるほど・・・と思った。じゃあ、頑張ってみようかな・・・と。1年ちょっとして、中学2年の時、兵庫県竜野市に引っ越した。教科書は、みんな違ったが、唯一、英語だけは一緒だった。しかも、ほんの少しだけれど、前の中学校の方が進んでいて、習ったところだったので私は良くわかった。中学生の時のいい思い出があるからか、話せないわりに、外国に行っても、今も英語には苦手意識がない。私は、勉強部屋も勉強机もない中学生だった。したがって、家で予習や復習をしなかったが、あの頃の中学校は、授業中に聞いていれば、分かるのんびりしたものだった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.03.26
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今から60年以上前の子供の頃、私の生活範囲は、歩いていける狭い場所だった。バスに乗って少し離れた町まで行くことは、年に一度もあるかないかのことだった。 ある日、私は、バスで父と一緒に山陽本線の和気駅のある町に行った。歯医者かどこかに連れていってもらったのだろうか・・・。 帰りは、和気駅の前にあるバスターミナルから乗る。誰も車を持っていなかった当時は、和気駅からあちこちに向けてバスが出ていて、結構人が乗り降りしていた。 バスターミナルには、平屋の建物があった。そこの入り口で、帰りの切符を買って、建物の中に入る。中は土間になっていて、木枠の四角い炉がきってあった。炉の中には、灰がはいっていて、真ん中で炭火がかっかとい熾っていた。土間の火鉢を囲みながら大人が喋っている。話好きな父は、すぐみんなと笑いながら話をしていた。 私は、入り口のガラス戸から外を見ていた。外には、バスが止まっていて、女性の車掌さんがバスを雑巾で拭いていた。小さかった私は、車掌さんが羨ましくて仕方がなかった。一番前に立って、腰から鞄を下げ、右手に切符を切る鋏を持っている車掌さん。なにより、毎日バスに乗れることは素晴らしいと思った。 当時から多くなかったバスの本数は、今は一日2往復だとか・・・。ほとんどの人が車を使う。和気駅前のバスターミナルにあったバスの待合所は、とおの昔になくなった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.02.26
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今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を過ごした。その頃は、ご飯を炊くのも風呂をたくのもすべて、たきぎだったので、一年中のたきぎを冬の手に入れるために荷車を引いて山に行くのだった。そのため、朝から夕方まで山で過ごすから昼の食事は山でとることになる。山に着くと、父は、炉をつくることから始める。「木の枝を集めてきて」と父と母に言われて、私は枯れ枝を探しに行く。その間に母は、飯盒(はんごう)に米を入れれ流れる水のある場所まで行き、米をとぐ。 お茶を作るために薬缶に水を入れる。この頃は、家でも水道はなく、井戸水を飲んでいたので、山の水を使うのに、誰もまったく抵抗などなかった。父が近くにあった石を使って造った炉に枯れ枝と新聞紙で火をつけ、しっかり燃えると太めの枝をくべ、飯盒を火にかけた。薬缶は、炉の石の上に乗せた。次は、おかずを作る。 ある時は、「つけあみ」と呼ばれていたアミの塩辛を空き缶に入れ、炉のそばに置いた。空き缶に入れた「つけあみ」は、しゅーという音でたちまち熱くなり、塩で白くなった。またある時は、「ネギ味噌」というおかずをつくった。これは、きざんだネギを家から持って来て、これまた家から持ってきた味噌を空き缶に入れ、薬缶の湯を注ぎ、炉の脇に置いておく。 飯盒のご飯が炊けたら、みんなで火を囲みながら弁当箱に熱々のご飯を入れ、その上に熱々の「つけあみ」か「ネギ味噌」を乗せて食べる。細い木の枝で父の作った箸。今、空前のキャンプブームでキャンプ用品も色々出ている。鉄の火吹き棒まで売っていると知ってびっくりした。私たちは、山に持って行かなかったし、火吹き棒の代わりの火吹き竹は、家で作った。キャンプは楽しいに違いない。60年以上前の山で食べた、キャンプみたいなお昼は、今も楽しかったと思い出すのだから・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.26
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(▲大阪天満宮のお百度石)昔、今から65年くらい前のことだったと思う。私は、お百度参りをしたことがある。大人のお百度参りの後からついていったことがあるというのが正しいのだが・・・。(▲近所の神社のお百度石)お百度参りとは、何か願いを込めて、神社などに百回参ることだ。その願いとは、近所の小さい男の子が大けがをし、それが治るとようにという願いだ。ケガをした子、Tクンは、当時、1歳か2歳で妹と同い年だった。Tクンが遊んでいるところに運悪く、鎌があって、それで大けがをしたというのだが、詳しいことは、私は分からない。(▲こんな感じの祠があった。)私たちの村にはお寺も神社もなかったが、小さな祠が何か所かあって、その1か所はうちの家の裏にあった。そこから、村の中心にある広場の祠まで、主婦たちは何度も足を運んだのだった。まだまだ小さかった私は、事の重大さも分からずに、大人が大勢集まって騒いでいるのが珍しく皆の後をついて歩いたのだった。当時は、村には電話もなかったので、医者に運ばれたTクンの様子を知ることは大人でもできないことだった。分からないから不安が募り、村の主婦はTクンのケガが取り返しのつかないようなことになりませんようにとお百度を踏んだのだろう。今、たとえコロナが流行っても、みんなは昔の人のように怖がらないのは、電話はおろか、ケイタイまである時代だからだろうか・・・。神社に行くと、ついついお百度石に目が行く。小さなTクンが怪我をしたとき、救急車も車もないのにどうやって運んだんだろうと今になって思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.12.26
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11月5日、夫の実家の柿の収穫に行った。60年以上前からそこにある柿の木は、毎年多くの実をつける。夫が木に登って柿の実を取り下で、段ボールの箱を待っている私に向けて落とす。少しして、私の頭に痛みが走った。柿の実が落ちてきたのだ。「さるかに合戦や!」と私。 私が幼い頃、父や母から聞いたおとぎ話のひとつに「さるかに合戦」があった。握り飯を持った蟹が、木の上で柿を取っている猿に、「握り飯と柿の実を替えことしよう」と提案する。意地悪な猿は、木の下の蟹をめがけて柿をぶつけ、蟹は死んでしまう。蟹の子どもが、臼や蜂、栗と蟹の仇をうつという話。 今から60年以上前、田舎にいても、私の家には柿の木がなく、柿はめったに食べられなかった。 そんな中、私の妹は、おやつのおにぎりを持って、家の前に立っていた。うちの家の前の家の子ども、■A子ちゃん■が柿を持って立っていた。「かいとうしょう」と妹が自分のおにぎりを差し出した。「かいとう」とは、「かえこと」つまり、交換ということを妹なりに言いたかったのだ。いつも父や母に語ってもらった「さるかに合戦」が妹の頭にあったのだろう。母は、私たちが大きくなってから、何度もその話を楽しそうにした。 その後、柿とおにぎりが交換されたかどうか私は知らない。 今年も柿は豊作だった。食べきれない柿を夫があちこちに配った。柿が食べたくても食べられなかった、60年以上前の妹や私に食べさせてやりたいと思った。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.11.26
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今から60年以上前、私がまだ岡山の田舎に住んでいた小学生だった頃の話。いろんな遊びをしたが、中でも「ゴム跳び」はよくあそんだ遊びのひとつだ。■ゴムとび(ゴム跳び)は、二人の人の体や電柱にゴムひもを渡し、■跳ぶ人が歌に合わせて、ゴムを足や体に引っ掛けたり捻ったりする、子供の遊び。主に女の子が遊ぶことが多い。(ウィキペディアより。) 地方によって、遊び方は違うのだろうが、私たちの遊びは歌を歌いながらその歌に合わせて、跳んだり、ゴムを引っかけたり、ねじったりした。 曲は「桃太郎」♪ももたろさん、ももたろさん、お腰につけた黍団子一つ私に下さいな。「花火」♪ドンとなった花火だきれいだな。空いっぱいに広がった・・・「証城寺の狸囃子」♪しょしょ証城寺、証城寺の庭はつんつん月夜だみんな出て来い来い来い「みかんの花咲く丘」♪みかんの花が咲いている思い出の道丘の道・・・「お猿の駕籠屋」♪えっさ、えっさ、えっさほいさっさ お猿の駕籠屋だほいっさっさ。・・・ まだまだあった。「ちんから峠」♪ちんからほい、ちんからほい、ちんから峠のお馬がほい・・・。「村の鍛冶屋」♪しばしも休まず槌打つ響き 飛び散る火花よ走る湯玉 ふいごの風さえ息をもつかず仕事に精出す村の鍛冶屋。「村の船頭さん」♪村の渡しの船頭さんは、今年60のお爺さん、歳はとっても、お舟を漕ぐ時は、元気いっぱい櫓がしなる・・・。私が生まれたのは、戦後まもなく。これらの歌は、歌詞からみると、私より前の世代も歌っていたのだろうと思う。 そんな中に、「鐘の鳴る丘」というのがあった。♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台鐘が鳴ります きんこんかんめえめえ子ヤギも鳴いてます風がそよそよ丘の上黄色いお窓はおいらの家よ何度歌いながらゴムを跳んだり足に絡めたりしたことだろう。NHKの朝ドラ「エール」を見ていたら、「鐘の鳴る丘」がどのようにして作られたのかというのをやっていた。菊田一夫:作詞、古関裕而:作曲だったのか・・・。子どもの頃、無邪気に歌っていた歌の背景には、悲惨な戦争孤児の物語があったのだと知ってはいたが、改めて涙が出た。「鐘の鳴る丘」は、当時の戦争孤児たちへの「エール」だったのだと思う。 戦争孤児たちは、80歳を超えただろう。私と一緒に遊んだ人たちは、70歳をとっくに超えている。みんな今も元気でいるのだろうか・・・。■鐘の鳴る丘・動画■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.10.26
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私の子供時代は、今から60年以上前。 その頃、時計はねじ巻き式で、毎日ねじを巻いていた。とはいえ、うちには時計が無かったので、遊びにいった家の子どもたちがねじを巻くのを見ていたのだった。まだ子どもの背丈では、時計まで届かない。そういう時に時計の下に持って行って使うのが、絵の「足つぎ」だ。足つぎは、買ったものではなく、必要に迫られて作ったようなシンプルなものだった。いつもは、部屋の隅っこにあって、誰も気が付かないようにひっそりとあり「足つぎ」という役目の他に、布切れの保管場所だった。 台には、丸や四角の穴があって、そこにぼろ布が入れてあった。(☝現在97歳の夫の母によって丁寧に繕われたパジャマ)着物や服は、繰り返し繰り返し形を変え、使われる。いよいよダメになった布の切れ端が、この足つぎの穴に入れ、保管されるのだ。 もんぺに穴があいた時、台の穴に手を突っ込んでつぎあて用の端切れを探す。下駄の鼻緒が切れた時にすげかえ用の布も、そこにあるものを使っていた。家の藁で編んだ草履の鼻緒にも飾りとして、目印として藁と一緒に編み込まれていた。 この春、コロナが流行ってマスクが不足、あちこちで、自作のマスクをしている人を見た。 昔だったら、足つぎから余り布を出してくるのだが、昨今の人々は、あのマスク用の布をどこに保管していたのだろうと思った。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.09.26
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今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を過ごした私。当時は、8月15日と16日に盆踊りがあった。15日の夜は、学校の校庭で、16日の夜は、山の中腹にあるお寺の盆踊りがあった。村の中心部に学校があり、お寺は、学校から川沿いに歩いて10分ほどのところから山に登った。 ある年の8月16日の夕方、私は、近所の年上の女の子に連れられてお寺に向かった。小学校を過ぎ、橋を渡ると道が二手に分かれ、左に行くとお寺に続く道があった。左に曲がって少しすると、一緒に行っていた女の子が、川の向こうを指さしながら、「あそこに、A子ちゃんがおるんやで」と言った。 当時、村には、病院はなかったが、「避病院」とよばれる伝染病の「病院」だった。A子ちゃんは、赤痢でその避病院にいるのだった。私より2つ年下の子がたったひとりで、そこにいるのかと思うと可哀そうでたまらなかった。年上の女の子が私に、「A子ちゃん、ゆうてみようか」と言い二人で「A子ちゃーーん」と叫んだ。避病院と道の間には、川が流れているし、聞こえるはずはなかった。避病院は、いつの間にか無くなって、診療所が出き、診療所の医者がスクーターで往診に来ているのを見ることが、たまにあった。避病院は、私の記憶の中に夏の思い出として残っている。 *夏の日の記憶の言葉「避病院」 はるな・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.08.26
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今から60年近く前に私は中学生になった。中学生になると、紺のサージのセーラー服に白いタイと襞スカートの制服になった。夜寝る前に、次の日にはくために、スカートの襞を整える作業があった。それを寝押しとよんでいた.当時、アイロンなどなかったので、布団の下に敷いて襞を整えなければならなかったのだ。先日、向田邦子の「夜中の薔薇」というエッセイにそれが載っていた。まず布団を敷く。(略)畳の上にスカートを置く。スカートは紺サージである。慎重に前と後ろの襞(ひだ)を整え、そろそろと、整えた襞を乱さぬように敷布団をのせなくてはならない。(略)あれは当時の女学生の夜の儀式であった。朝、目が覚めると、一番先に布団をめくって、スカートを調べた。寝相が悪かったせいだろう、襞に二本筋がついていることもある。おかしな具合に折れ曲がっていることも多かった。「ああ、どうしよう」朝から気持ちが潰れた。たかがスカートの襞の一本や二本と思うのは、いま、大人になってからの気持ちである。あの頃は、それが何かの目安だったのであろう。向田邦子の「夜中の薔薇」襞(ひだ)私が中学生になる1年くらい前から、父は出稼ぎに行っていたとはいえ、岡山で百姓をしていた父と母は、どうやって私のセーラー服の代金を工面したのだろう?当時の家の状態からすれば決して安いものではなかったろう・・・。だからだろうか、私が中学2年生になった夏、百姓に見切りをつけ、一家で兵庫県竜野市に引っ越した。 最近見かける制服は、紺のサージではなく、チェックが多い。また上もセーラー服ではなく、ジャケットが多い。どの家庭にもアイロンはあるだろうから、寝押しをする必要はないだろう。それ以前に、襞がとれないような加工だってしているのかもしれない。ズボンの折り目を整えるためにも寝押しをしたが、今の人達には、「寝押し」は死語になっているのかも知れない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.26
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私が小学生の頃、うちには、絵本も本もなかった。それで私は、小学生になり字が読めるようになると、教科書を読んだ。 中学生になると「赤毛のアン」や ■「ジャン・クリストフ」■ 高校に入ると、「山月記」や「平家物語」が教科書に載っていた。「赤毛のアン」、「山月記」は大人になってから手に入れ、今も読み続けている。そんな私の原点は、「イナゴの大旅行」という物語で9歳か10歳の頃、国語の時間に読んだ。 台湾旅行で汽車に乗った「僕」は、紳士の帽子にいたイナゴを見つけるという物語というのは覚えているが、もう60年以上前のことなので、結末はどうなったか、覚えていない。しかし、今もなお、覚えているフレーズがあった。■それにしてもこの蝗はどこまで遠く行くつもりであろう。■もう今まで来ただけだって、人間にとっては何でもない遠さだが、彼にとっては僕が東京から台湾へ来たぐらい遠い旅であるかもしれない。 新型コロナのため、3月から図書館が閉鎖。2か月以上も図書館に行けない、本を読めない生活が続いた。「いなごの大旅行」は、そんなおりに思い出したのだ。ネットで検索すると、■蝗(いなご)の大旅行■があった。子どもの頃には知らなかった、作者の名前・佐藤春夫の名を知った。コロナ禍で、図書館が閉鎖になり、読む本がなくなって、娘の高校の時の古典を読むところまで本に飢えていた。コロナが流行ったから、図書館が閉鎖になったから、本に対する飢餓感が「イナゴの大旅行」まで、たどり着いたのかもしれない。先日から、図書館が条件付きで使えるようになった。中学生の頃、読んだ「ジャン・クリストフ」を借りようと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.26
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私の子どもの頃、今から60年以上前の話。春は野草摘みで明け暮れた。★セリ春は名のみの早春、まずセリを摘んだ。川辺に生えたセリは、父の好物で摘んでくるように言われていた。湯を沸かし御浸しで食べたセリは、ほろ苦く春の香りがした。父は「自然の作ったものには勝てん」と笑っていた。★ヨモギ。母に頼まれ摘みに行った。ヨモギ餅に入れるのだ。★ノビル。これも母に摘んでくるように頼まれた。茹でて酢味噌で食べると美味しいが小さな球根を採るのが難しかった。★イタドリ(サイシンゴ)。 塩を入れた新聞紙を持って山に行った。山のふもとには、イタドリが沢山生えている所があって、ポコリと折って皮をするすると剥き塩をつけて食べた。イタドリを沢山とった時は、水車を作って、用水を利用してくるくる回して遊んだ。■イタドリの水車・画像■イタドリを私たちは、「サイシンゴ」といっていた。★スイバ(シイト)。塩をいれた新聞紙に採ったスイバを入れ、新聞紙をたたんで重しをかけた。少しすると、スイバの塩漬けが出来、それをおやつとして食べた。★■チガヤ(ズンボ)。■昔は春になるとどこででも見ることができる草だった。春先に出てくる白い綿毛の穂を食べるとほのかに甘い。これは、子どものおやつだった。チガヤのことを「ズンボ」といっていた。★アマネ。チガヤの根をアマネといった。文字どおり甘い味のする根っこだ。最近分かったのだが、チガヤはサトウキビと近縁だそうだ。甘いはずだ。 春は時間が許す限り、山に川に野に出て野草を摘んだ。この他、食べなかったけれど、ネコヤナギを愛で、レンゲを摘みタンポポを摘み、 ツクシを摘み、 落ち椿を拾って歩いた。こうやって、私たち子どもは、春を満喫した。コロナウィルスで学校が長い休みになっている、今時の子どもたちは、どうやって春を過ごしているのだろうか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.03.26
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「昔、うちでは、炭を焼いていた」と父が私に話してくれた。明治45年生まれの父が4歳~歳頃というから、大正のはじめ頃のことだろう。 明治9年生まれの祖父に連れられてよく山の炭焼きに行ったという。昔は、どこの家も、田んぼの忙しくない冬場に、炭を焼いていてのだそうだ。祖父が働いている時、周りで小さな父が、ちょこまかと遊んでいたと思うとつい、笑みがこぼれる。 そんな時、父は大声で怒られたという。「早よう降りてこい!!」なんと、父は炭窯の上に乗って遊んでいたのだそうだ。 燃える窯ので遊ぶということは、大人だったら怖いと思うが、幼い子供には格好の高い場所を見つけたと思ったのだろう。 優しくて大きな声を出すこともなかったという祖父。そんな祖父を父は大好きだったようだ。炭窯の上に乗って怒られたこと。日露戦争に行ったこと、鳥取砂丘で陸軍の練習を行い、吉井川を屋形船に乗って帰ってきたこと・・・。私が生まれる随分前に祖父は亡くなっているが、祖父の思い出は父を通して沢山あるような錯覚をしてしまう。(■伊賀上野で見た窯 ■炭窯ではないが、同じような構造だ。)炭を売る行商をしたことがあったという父は、炭窯を造った経験はあったのだろうか?それは聞かなかったけれど、子どもの頃の風呂のクドや台所のクドは、父が造ったものだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.02.26
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歳末助け合い運動の赤い羽根は、私に、「貧しい人に愛の手を」と書いてある鉛筆をくれた。貧しい農家が、まがりなりにも、年を越せたのは、赤い羽根のおかげで、いくばくかのお金が手に入ったからだろう。 その他にも、「?」という不思議なものをもらった。それは、長方形の黄みを帯びた白いものだった。私たち家族は、額を寄せ合って考えた。「なんだろう??」考えても、考えても分らなかった。それは、クセのあるにおいがした。「消しゴムにしては大きいな。」父は笑いながら言った。食べるものなのかもしれないが、食べ方が分らない。仕方がないから、放っておいたら、その四角いものに、青いカビが生えてきた。 もう、この辺で、勘のいい方は、お気づきでしょう。答は、はい、「チーズ」。それは、今から40数年前の贈り物。その頃は、クリスマスプレゼントというより、年越しの贈り物だった。家族で思い出しては、笑っていたのに、その中の一人、父は、今年はいない。2002.12.24に書いたもの。■年の瀬■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.12.26
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■銀の滴(しずく)、降る降るまわりに、金の滴、降る降るまわりに・・・。■銀の滴(しずく)、降る降るまわりに、金の滴、降る降るまわりに・・・。有名なアイヌのユーカラの出だし・・・。アイヌは文字を持たない民族。彼らの伝説や神話は、全て、人から人へ、口から口へと伝えられた。 2002年2月26日に90歳を目の前にして死んだ私の父も生まれつきか、産まれてすぐか、右半身が不随だったので、文字を書くのが苦手だった。その代わり、彼は、口が達者で、面白おかしく、昔の話をしてくれた。 ある時、父は、私たちの話してくれた。 「わしのお父(とう)がまだ、小(こ)まい頃のことじゃ。」「わしのお父(とう)とは、父の父、私の祖父のこと。祖父は、まだ明治のはじめ、明治9年の生まれだ。「お父(とう)が、お父(とう)のお父(とう)に連れられて、地主の〇〇の家に行った時のことじゃ」明治も20年になっていない頃、祖父は、父親につれられて、地主の家に行ったそうだ。田んぼを借りている代わりに払う、年貢米を持って行ったのだ。地主の家の板の間に通された、小さな子どもの祖父とその父親。祖父の父親は、地主の目の前で持ってきた米を用意された袋に入れた。「そしたらな・・・。」と父が話す。「板の間で、地主は、その家の子どもに相撲を取らせたんじゃ。」「相撲を取ることで、板の間の板が動く。すると袋の米が、どんどん隙間に入って詰まっていくというわけじゃあ」と父は笑いながら話してくれた。この話は、祖父から父へ、父から私へと話し伝えられた。 地主の〇〇家は、大きな門構えのある家で私の同級生がいたので、1~2度だけ私も行ったことがある。しかし、父に聞いたこの話はしたことがなかった。明治9年生まれの祖父の顔を私は知らないが、祖父のエピソードは沢山知っている。おかげで、祖父の生まれた明治9年という時代が身近なものに思える。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.11.26
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私が小学生だったのは、昭和30年代だ。その頃、運動会といえば、一大行事。学校だけでない、親だけでなく、村をあげての一大行事だった。山奥の小さな村に育ったので、小学校と中学校が同じ敷地にあった。もちろん、運動会も小中合同。ヨーヨー釣りや綿菓子、おもちゃなどを売る出店が出て、いつもと違う雰囲気の運動場。小学校にあがる前の子に「おもちゃとり」というかけっこがあった。並んで「よーいドン」で走って行っておもちゃをとってくるというもの。それが私の運動会初参加だった。 運動会の一番人気は、村の大人と、中学生が交じっての地区対抗リレーだった。地区は、「上(かみ)」、「中」、「下(しも)」に分かれて大人に交じって中学生も走る。私の家の近くに住む中学生の女の子、Mちゃんは、足が早いと有名で、中学生ながらリレーの選手だった。 彼女は、走る時、運動靴から藁草履(わらぞうり)に履き替えて走る。他の人も、藁草履が多かった。裏がゴムの運動靴は滑るからだ。この日も走ったMちゃん。途中で、裸足に。それを見ていた応援団は「あっ!Mちゃんが、草履をぬいだ!本気で走るぞ!!」と大声で声援。Mちゃんが、どこの家の子どもで、どこに住んでいると応援する人たちは、村が違ってもみんな知っている。昼食は、家族と筵の上で食べる巻きずしとゆで卵という、当時のうちの一番豪華なものだ。ダンス、騎馬戦、借り物競争、応援合戦、玉入れ、玉転がし、リレーに仮装行列・・・。見る方も、みんな知ってる人ばかりなので、応援に熱が入る。 同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まりである地域共同体。あの頃の運動会は、学校の行事ではなく、地域共同体の行事だった。この共同体意識がなくなったのは、中学2年、生まれた村から兵庫県竜野市に引っ越した頃だ。同じ村で生まれ育ち、働き死んでいく。その途中での楽しみとして、運動会はあったのだと思う。だからみんなあんなに夢中になったのだ。 「人間関係の喪失や帰属意識 の希薄化は,人々において不安や苦悩をもたらし,幸福 感を低下させるものと考えられる。」小学生の頃、幸せだったと思うのは、私が、どこの誰で、誰の子どもということをみんなが知っていたからだと思う。今の私を知るのは、ほんの一握りの人だけ・・・。今、私は、完全に幸福と言いきれないのは、コミュニティが希薄だからだろうか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.10.26
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私の子どもの頃、今から60年以上前の話。その頃の岡山の田舎では、どの家も、藁ぶき屋根で襖の間仕切り、(一部、板戸もあった。)。外部と家の仕切りは、障子だった。今頃は、その障子を張り替える時だった。 家で破れが目立つ障子紙をバリバリとはがす。これは、子どもが喜んでやっていた。桟だけになった障子を川に持っていく。古いタワシでゴシゴシとこすって、残っている糊や紙を洗い流す。障子の桟を家に持って帰って、家で炊いた糊で障子紙を貼っていく。ここでも子どもの出番で手伝った。障子の張替は毎年というわけにはいかないが、近所でもやっていたので、年中行事と覚えている。私の村では、川で障子を洗うのだが、小学校に行く途中にある家では、家の前の溝で洗っていた。その時は、板をはめ、溝の水位を上げた。小学校に行きながら見ていた風景を■旅先の郡上八幡■で見たことがある。きれいに障子を洗って、新しく真っ白な障子紙をはると、一気に家の中が明るくなったようだった。この時期に障子を洗うのは、まだ水が冷たくないこともあるが、10月10日の祭りの客をもてなすためだったのだろう。■道普請■をしたり、どぶろくを作ったり、障子を貼り替えたり・・・。村は、こうして10月10日の祭を待った。(写真はすべて郡上八幡で)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.09.26
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