全7件 (7件中 1-7件目)
1
手紙の名前に、見覚えはありませんが、苗字はよく知っていました。そうして、思い起こすと、彼女の母の名前であることがすぐに分かりました。 アパートの自分の部屋に入り、封書を開けると、彼女とよく似た几帳面な字で書かれた手紙と、さらに別の封書が入っていました。 前略、OOさま あなたと面識はございませんが、あなたのことはずいぶんと娘から伺いました。いきなり居なくなって、さぞ戸惑われたことでしょう。この手紙を出そうか、ずいぶん迷ったのですが、娘の希望もあり、ペンを取りました。 私の娘は、あなたのところからこちらに帰ってから、1週間で天国へ旅立ちました。 病名は急性骨髄性白血病と言うのだそうです。 大急ぎで治療をするべく、こちらの大学病院へ、そちらの病院から紹介状をいただいたのですが、息つく間もない出来事でした。 娘の葬式も過ぎ、遺品を整理していると、あなたへの手紙が出てきました。 歯茎や、鼻から絶え間なく出血している最中に、これを書いていたのだと思います。私たち家族でさえ、ほとんど病院で付き添いもできなかったほど状態が悪かったのに、あの子が唯一残したのはあなたへの手紙でした。 母として、女としてこの手紙はあの子の父と兄には見せずに、あなたに送ることが正しいことだと信じています。 娘を愛してくれてありがとう。 なにも考えることができぬまま、今度は彼女が書いた手紙の入った封書を手に取りました。宛名の部分に私の名前が書いてあり、封はしてありませんでした。 OOさん。 わたしが突然いなくなってびっくりしていることでしょう。あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのでしょう。 今、私は実家の近くの大学病院に入院しています。ここは無菌室で、透明だけど波打っていて外の景色が良く見えないビニール製の衝立に覆われています。私はいまこの2m四方の空間から一歩も外に出られないのです。 何から話せばよいでしょう? 1月のはじめから、どうも体調が悪くて、いつ病院にいこうか考えながら過ごしていました。実は、あなたとの最後の日の少し前に、私は何度か近くの病院に行って、検査をしてもらっていました。しょっちゅう熱が出たり、生理の血が止まらなかったりしていたので、不安だったのです。あの前日、私はあなたの大学病院に紹介状をもらっていました。最初の先生は、もしかしたら治療が必要な病気かもしれないとおっしゃっていたので、ある程度覚悟はしていました。 病院にいくや否や、担当の先生からすぐに家族を呼ぶようにお話をされました。たまたま私の兄が名古屋に単身赴任していて、すぐに来れる状態だったので連絡をつけました。 兄が車で到着するまでの間、いくつか追加で緊急検査をしました。骨髄穿刺や再度の採血、心電図、レントゲン、尿検査などです。ここまで書けばあなたにはもうお分かりのことと思います。 兄と二人で先生から受けた病名告知は、「急性骨髄性白血病」でした。それも極めて急速に進行しており、即刻の入院治療を勧められたのです。その時には、もう私は長く生きられないことがわかってしまったのです。 兄は、私の両親と連絡をとって、いろいろと短時間で検討した上、とにかく実家の近くで治療することになりました。先生も、入院したらしばらく出れないかもしれないし、家族が近くにいるほうが良いと、すぐに紹介状を書いてこちらの病院に連絡をつけてくれました。 兄に、あなたのことを話し、とりあえずあなたの部屋にある私の日用品を持って行くのを手伝ってもらいました。大学病院に行く前から、なんとなく私はもう駄目なような気がして、さらには病気のことを言うとあなたと一緒にいる時間がなくなるような気がして、黙っていたことを許してください。あなたの部屋に断りも無く兄を入れたことを許してください。そして、突然いなくなってしまう私を許してください。 いつもあなたと行ったあの店の前を通ったとき、ふとおかみさんの顔が見たくなり、少しだけ挨拶しました。あなたが好きだった海老のマヨネーズソースとトマト、最後に作ってあげたくなって、机の上に並べておきました。時間が無くて、あれだけしかできなかった。 多分、私の命が残り少ない事を知って、神様はあなたに逢わせてくれたに違いありません。私の命が無くなるその瞬間まで、いいえ、天に召されてもあなたを愛しています。 いつもいびきかいて寝てたね、大好きだった 神経質そうに眼鏡を拭いてたね、大好きだった ご飯食べるの早くて、いっつも私が食べ終わるの待ってたね。 宵っ張りの朝寝坊で、ぎりぎりまでベッドから出なかったね。全部全部、大好きでした。大好きです。 あたしがいなくなっても、ずっとずっと元気でいてください。 忘れないよ、忘れない。 あなたが話してくれたあなたの実家のそばの公園の桜、見に行ってみたかった。いつか一人でも誰かとでも行ったら、ほんの少しだけ私を思い出してください。 愛しています。----------------------------------最後のほうは、涙で目が曇って読めませんでした。そんなふうに、私の恋はおわったのです。今でも、彼女の面影はありありと私の胸に浮かび、風化しない笑顔とともに私の中で生き続けています。最後に一度だけ彼女に言いたかった。愛していますと。
2010.09.27
コメント(8)
私は、あまりにも唐突な状況に戸惑い、うろたえ、おびえ、悩みました。 冷静さはどこかに消え失せてしまいました。もともと彼女が住んでいたアパートに急いで行ってみても、真っ暗で鍵は閉まっています。私は彼女の部屋の合鍵は持っていなかったので、中を確かめる方法はありませんが、少なくとも人のいる雰囲気は全くありません。 夜も遅いというのに、彼女との共通の友人数名に電話をしました。今のようにメールのない時代、夜11時をまわり、迷惑この上なかったでしょう。相手が寝ぼけ声の状態が4人目くらい連続して続いた時だったでしょうか、ついにあきらめてその日に電話で探すのはやめました。 とはいえ、眠れるわけもありません。いてもたっても居られなくなり、近場で彼女と行ったことのある場所は全て捜しました。公園、街中の遅くまでやっている飲み屋、海辺、彼女の好きだった道端の桜の木・・・・どこにも痕跡はありませんでした。 一睡もしないまま、夜が明けました。翌日も、大学はありましたが、ちょうど解剖学の実習はほぼ終了し、後は講義のみを残す状態となっていたのは幸いでした。とても勉強は身に付きません。講義終了と同時に大学を飛び出し、あてどなく彼女を探しました。 解剖学の試験が近かったので、勉強しなくてはならなかったのですが、とても手につきません。教科書や過去問を開いても数分すると上の空で、気がつくと時間だけが過ぎ去っていました。彼女がいなくなった日と、前日の様子を何度も何度も、どこかにヒントがなかったか思い起こしては否定し、また思い起こすということが続きました。結局私が最も気になったのは、「体調が悪いから病院へいく」という彼女の言葉「男の人と一緒だった/しばらくこれないと言っていた」というおかみさんの言葉「永遠に愛しています」という彼女のメモでした。 最初は、彼女が病院にかかると言ったので調べようとしましたが、何処の病院を受診したかさえ分からず、さすがに、学生で何のつてもなかったのでこれを調べることはできませんでした。すると、おかみさんが言っていた言葉が気になります。 男の人と一緒で、しばらく来れないと言うことは??もしかして他に好きな人ができたのだろうか?そんなそぶりはなかったし、このところ忙しくて一緒に出かけはしていませんでしたが、少なくとも一緒に暮らしていた様子を思い出してもそんな様子はなかったし、それにあんなメモを残すはずもない。じゃあ親に強引に見合いでもさせられて連れ戻されたのだろうか?それならしばらく来れないと言うのも納得が行く・・・ 思考は、止めどもなく続き、眠れぬ夜が続きました。解剖学の試験は散々で、見事に追試験にかかり、気分転換もできぬままに惰性で勉強をして追試を受けました。進級なぞ、どうでもよくなっていました。 3月の初め、解剖学の追試の発表をみて、ギリギリの成績で何とか及第したことを知ったその翌日、私のアパートの郵便受けに、一通の封書が届いてました。もう少しだけ続きます
2010.09.24
コメント(2)
その日、私はいつものように夜遅くまで実習室にこもり解剖をしていました。人気の少なくなった夜10時ごろ、そろそろ切り上げて同級の仲間と軽く食事して家に帰ろうと大学を出ました。 学生の行く外食店はいつの時代も安くて量が多いお店です。今でもはっきりと覚えているそのお店は、長崎から出てきたご夫婦がやっている定食屋で、ご飯とみそ汁はお代わり自由でした。遅い時間もやっているので、仲間たちはかなりの頻度でこの店を利用し、おかみさんは私たちの顔をしっかりと覚えている方でした。 私は、仲間と一緒の時も、彼女と一緒の時もよくこの店で食事をしました。この夜、お店に入ると、おかみさんが私に走り寄って来ました。「あんたの彼女が夕方に来たよ。なんでもしばらく来れないって言っていたけど。どうかしたのかい?」「え?全然しらないけど・・・何時頃ですか?」「ええと、5時過ぎだったかね。男の方と一緒だったけど。」 私は不安になり、食事もせずに店を飛び出しました。急いでアパートに戻りましたが、電気は消えており、人のいる気配はありません。鍵を開けて、部屋の明かりをつけました。 もちろん、彼女の姿はありません。 たくさんあった彼女の荷物も、全て無くなっていました。 いつも使っていたテーブルの上に、私の好物メニューの夕食が並べられていました。 その横には、彼女の字で一言だけ書かれた小さなメモが置かれています。「永遠に愛しています」 彼女が持っていたアパートの合鍵は、郵便受けに入れてありました。次回に続きます。
2010.09.24
コメント(1)
大学2年の2月には、私の大学では解剖学の試験がありました。解剖学は、大学に入学後、初の難関試験で、今後の医師としての基礎中の基礎ですから、試験自体もかなり厳しいものでした。人体の構造としくみを知らなければ、何科の医師になろうとよい仕事はできませんから、どこの大学の医学部でも解剖学はそれなりにしっかりしたボリュームと時間を割いて講義されていると聞き及びます。 解剖学は、講義が1/3くらい、実習が残り2/3と、実習に重きが置かれていました。実際に献体された人体を表面から深部にわたって教科書と突き合わせながら3カ月かけて細かく解剖してゆくのですが、それまで医学部とは名ばかりの講義を受けていた学生たちにとって、これはかなりのインパクトがありました。さぼりがちであった大学にもまじめに通いだす学生が増えてくるのもこの解剖学実習があったせいかもしれません。 多分にもれず私もこの時期は夜遅くまで解剖に熱中しました。実習終了時間は午後5時ですが、大学の方も学生に配慮して、終了時間は自由に決めてよいことになっており、一番最後に残った学生が実習室の鍵を閉めてゆけばそれでよいという風な取り決めでした。それまでは夕方にはアパートに帰って彼女とすごしていたのが、試験が近くなるに従って帰宅が徐々に遅くなり、9時、10時になることもありました。彼女は、起きて待っていることが多かったのですが、1月の終わりごろになると疲れているときは先に眠っていることが多くなりました。 今考えると、その頃に私が彼女の変化に気づけばよかったのかもしれません。しかし勉強というか、解剖学の面白さに熱中していた私は、試験が終わるまでの間だからとたかをくくっていました。 2月のあたまだったでしょうか、彼女がけだるげな様子で言いました。「わたし、少し体調が悪いの。明日病院に行ってくるね。」「分かった。おれ明日は上肢解剖の仕上げだから少し遅くなるよ。先に寝てていいから」それが、彼女とかわした最後の会話でした。
2010.09.21
コメント(2)
私たちの大学の医学部は、2年生の夏休みの明けた頃から解剖学実習が始まります。当時は、大学に入学してしばらくは医学と全く関係のない一般教養の講義が続いて、ややモチベーションが低下したころに、やっと医学の基礎中の基礎ともいうべき領域の勉強が開始されるとあって、否応なくやる気に満ちたのを覚えています。彼女の方も、時期を同じくして現場の実習に出始め、お互いにその日の出来事を話するだけで夜は更け、気がつけば2人で椅子に座ったままうたた寝してしまい、朝目覚めると肩に掛かっていたタオルケットと目の前にメモと共に軽い食事が準備されていて、彼女は先に看護短大に登校したあとなんてこともありました。 彼女はもともと関東の出身で、看護婦(現在では看護師といいます)志望のために大学を受験し家をでてきたのですが、実家の方に戻るという制約もなく、そのままこの近辺の病院に就職するつもりだと言っていました。私も実家は関西で開業医ですが、すでに医学部に入学していた3歳上の兄が居り、特に帰る必要の無い身でした。もちろん、つきあい始めたころからそんな未来まで見据えていた訳ではありませんが、いろんな条件も含めた上でのお互いの相性を考えるとこの上ないパートナーになり得ることを、二人とも漠然と考えていたような気がします。それぞれの家族のこと、家のこと、実家にいるペットのこと、幼なじみの友達、全てを共有するかのように話をしました。 学生の身で贅沢はできませんでしたが、二人でこつこつとバイト代を溜めて、あちこちに旅行に行きました。現在の様にインターネットは発展しておらず、調べ物はもっぱら本屋です。あらかじめここに行きたいと考えている場所をそれぞれガイドブックで調べると全く同じだったりして、目を見合わせて笑うこともありました。旅行とは、行っている最中と同じくらい計画しているときが楽しいのだという感覚は彼女に教わったのです。そうして、計画を練ってから旅に出て、計画通りに行かなくても結果として楽しい時間を過ごせれば旅行は成功でした。目当てのレストランが閉店していたり、お店が無かったりしても、二人で居れば楽しかったのかもしれません。 冬が終り、春の息吹が感じられる頃に、暗雲がじわりと近づいてきました。次回に続きます。
2010.09.10
コメント(2)
head&neckももはや40をすぎ、青春時代は遙か彼方の遠い昔となりましたが、たしかにそうよばれる時期を過ごしていたのは覚えています。今回からは滅多に書かないhead&neckの学生時代の恋のお話です。 大学2年の夏、私は21歳、彼女は19歳でした。 一年浪人したあとに医学部に入学し、一年間の一般教養を学んだ後にやっと解剖という医学の勉強が始まった、そんな時期です。医学生とはいえ、知識は全くの素人同然でした。高校生の時に無かった自由な時間が有り余るほど手に入り、人並みな学生生活を満喫していました。 当時、私の通っていた大学は単科大学、つまり医学部しかありませんでした。そのころの学生比率は男8女2といったもので、ほとんど男子校のようなものです。いきおい、男子学生たちは学外の同年代の女子学生に出会いを求めることが多く、私の場合も似たようなものでした。 出会いは、いつも突然です。当時私が属していたサークルに、彼女も何気なく入ってきました。皆でバーベキューに行ったり、海に遊びに行ったりした夏も終わる頃、お互いに恋に落ちました。 今のように携帯電話のない時代では、次にいつ会うか約束し、時間を気にしながら待ち合わせをしていました。私はいつも約束の時間よりも5分早く待ち合わせ場所に到着する癖がありました。町中の人通りの多い交差点で、信号が赤から青に変わり、こちらに渡って来る人ごみの中に彼女の顔を見つけるのがこの上なく幸せな瞬間だったのかもしれません。几帳面に時間通りに待ち合わせ場所に現れる彼女は、私を見つけるとはにかんだように横目使いに左手を挙げるのです。 左利きの彼女と、右利きの私は、立ち居地が決まっていました。彼女は私の左側、私は彼女の右側で過ごしました。聞き手に荷物や食べ物、飲み物を持って、空いている手はお互いの掌に着かず離れずと言うのが自然なポジションでした。 彼女は、近くの看護短大の学生でした。勢い、話題も共通なものが多く、気まずい沈黙などはほとんどないままに秋になり、冬がやってきました。このまま、彼女と美しい四季を一緒に過ごしてゆきたい、そう思っていました。お互い大学生活をこなしつつ、余暇をお互いのために使い、時間を共有するという付き合いを初めて経験するということもあり、大人の恋愛としては私にとってこれが初恋だったのかもしれません。ずっとずっと、そんな時間が続いてゆくと何の疑いもなく、信じ切っていました。若い日の、あまりにも純真で、無邪気な感覚でした。次回につづきます。
2010.09.10
コメント(3)
9月になりました。残暑というにはあまりにも暑苦しい日々が続いています。 この1ヶ月、head&neckは久々の試験勉強に追われています。というのも、もうすぐ「頭頸部がん治療専門医試験」というのが有り、これを受験せねばならないからです。昨今、医学会は専門医流行りの傾向がありますが、ついに耳鼻咽喉科の様なマイナーな科にもその波が押し寄せてきた感があります。 一昔前までは、医師の資格といえば医師免許以外では、博士号くらいのもので、勤務医はこれが欲しいが為に大学の医局にしばられている面がありました。博士号をとるには多くは基礎研究を数年行って、論文を書き、所属する大学で認められれば晴れて「医学博士」となるわけです。したがって博士号というのは「ある一定期間研究をしましたよ」という証明書であって、臨床の能力には関わりはなく、況やこれで給料が上がるなんてこともないのですが、その言葉の響きの良さゆえか、はたまた洗脳か、とにかく多くの医師がこれを取得するために躍起になっていたのです。 数年前、いや十数年前から、各学会が「専門医」というのを設け始めました。これはまさに臨床知識を問うという観点から学会主導で設置された資格です。これも別に専門医を持っているから給料が上がる訳ではありませんが、専門医の資格無く一人で医療を行い、ミスをすると責められるといった風潮になっていますから、現在では臨床の医師は博士号よりこちらを重視するようになってきています。 ひとつヒット商品がでるとどんどんコピーがでるのと同じで、医師の世界も現在専門医濫立の様相を呈していることは否めません。中には資格コレクターみたいな医師も居るようですが、多くは自分の専門にする分野の資格は取らざるを得ない状況になっています。head&neckが9月に受験する資格は今年から新設されたもので、第1回の試験になります。 勉強をしていると、これまであいまいであった知識の整理になって、良い面もかなり感じますが、それでも出題委員のお偉いさんには頭の硬い方々がいるもので、まったく実地臨床とは関わりの無いような分野もある程度は覚えなければなりません。この辺り、どの資格試験でも似たようなものだと思います。 いずれにせよ、40代になると暗記も遅くなり、それに日常業務の忙しさも相まって、なかなか勉強は遅々として進みません。20代の学生の時のようにはいかないのです。また微妙に年齢からくる衰えを自覚するのでした。
2010.09.02
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1


