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と、ひとまずはご報告。今回はなんやかんやと忙しくしてしまって水曜日以降はコンピューターを遠くから眺めるだけ、なんて日も多くあって、本当にネットから離れっぱなしの日々を過ごしてみました。やっぱり一種の開放感があるわぁ~。特に場所も住んでるところと違うところだと。行く先はAの現居住地のAの実家だったんだけどここよりかなり南方だったくせになんでこんなに寒いんだよ!!!ってぐらい寒かった。毎日「おお、寒い」としつこく言ってた。本当にそんなに寒いわけではないんだけど、思ってたよりもずっと寒くって「こんなに寒いはずないのに・・・」って先入観が頭から離れなかったからなんだけど。(こういうところで私の頑固さが露出する。汗)さて、今回は婚約指輪なぞを買ってもらいました。婚約したので。別にプロポーズの言葉などはなし。強いて言えば、私が「そろそろ婚約する?」と言ったのがプロポーズの言葉か??でも指輪を買ったときに一応、公式にプロポーズされたのか?もしかしたらそうかもしれない。もうなんだか「結婚しよう」とは今までに何回も言われていたので(私はあまり言わない。しかもAは一体どれだけ本気だったのかがイマイチよくわかんない。いや、真摯な気持ちではあったと思うけど、どこまで現実的に言っていたかどうかがわかんない、ってことね。)今更いつが正式なプロポーズだったかなんてわかんないしどうでもいいかもしんない。要は、自称筋金入り独身者だった私も結婚する日が訪れたようです。年貢の納め時ってやつ??(笑)帰ってきてルームメートに報告したら「どちらかと言えばあなたよりもAさんのほうが恋愛とかに関して落ち着きたい願望があるような気がするのに・・・」となんとも鋭いことを言われました。(確かに「結婚」と言う言葉が出るたびに動悸が激しくなったり顔が険しくなったりして「そんな大げさな」と言っていたのは私のほうだった。)まあ、私の観点からするとね、長距離(多くは国際間)に渡る地理的な移動も多いし、今も一応中距離(またはプチ遠距離)なんてやってるし続けるのか続けないのかはさっさと決めないと仕方がない、って言うか。さっさと決めないと自然消滅への道まっしぐらって感じなんですねぇ。で、本当に好きで将来も一緒に生きて行けそうとお互い思いあってる相手だったら自然消滅させちゃうなんてそんなのもったいないじゃないですか。そういうわけでの決断。振り返ってみればやっぱり進行は早かった。(笑)気持ち的には「早い」って感じは全くしないのだけれどやっぱり自分の話を他人の話として聞いていたら「早ぇ~」と思っていただろうこと必須。(笑)高校生のころ、結婚20何年にもなるフランス人とスコットランド人のなんとも息の合った教師カップルがいました。その二人が出会って一週間後に結婚した、って聞いたときはびっくら仰天したけど今はその心境も全くわからなくもない、・・・なんて恐いこと言ってるんだ、私。(笑)私はそういう性格(意外なところで直感で動く人)なんだなぁ~と感慨にふけることの多い今日このごろです。まあ、こうなってしまっては直感が外れなきゃいい、と祈るばかり。これからどうなるのかはよく分からないけれどまあ、うまく行く努力だけは怠らないようにしましょう。
2004年11月30日
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世界でも数少ない日本のアメラジアン・ダブル・ハーフ・混血児・相の子研究者の公開講義に行った。例えば日韓ブレンズの子供にあなたは将来日本と韓国の架け橋になるのよね、と言ったって子供は何のことかわかんないし、妙なプレッシャーを与えるだけ。子供はただ子供でいたいだけ。(そうそう。たまたま親の国籍やエスニシティが違うってだけでどうして子供に妙なシンボリズムを付与するかなぁ~。どちらかと言えば架け橋になる可能性を秘めているのは親のほうでしょう。それとこれ、在日コリアンの人にあなたには韓国、または北朝鮮と日本の架け橋に~って言うのとそっくり!人によってはそういう使命を感じるかもしれないし、感じないかもしれないし。結局はその人の選択に任せられるべきこと。)子供をバイやマルチ・リンガル・カルチャーに育てられるかどうかは家庭の経済状況も関係してくる。(両方に家族がいる場合は周りが思ってるほどの経済的余裕はいらないけどやっぱり無理してでも飛行機代を捻出するなり、補習校に通わせるなり、インターに通わせるなりの経済力は必要。教育資金の問題。めったにない教育のチャンスをモノにする経済力があるかどうかの問題だから。中流家庭だったらそこで教育を取るのか、物質的な豊かさを取るのか、の選択になるだろうなぁ~。うちの場合は明らかに教育優先だった。)付録:ある家庭にお邪魔したらそこに家族が三世代そろっていた。そこで上記の先生は自分のことを「ハーフ」と呼んだら、若い世代は「ああ~」と納得。でもその上の世代が「え?」と言う顔をしたので「混血児です」と言ったら、まだ一番上の世代のおばあちゃんが「なんだって?」と言っている。そこで真ん中の世代のおばさんが「相の子だって」と耳打ちしたら、「あ~、そうか」と。(私は笑ったぞ。)
2004年11月29日
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文筆業に携わる、というのはなかなか難しいことだろう、と思う。というのは、人間誰でも得手・不得手はあるのだから作家でも作品別に良し悪しのあるだけでなく得意なジャンル、不得意なジャンルもあるはず、と思うのだが、何だか売られてるものを見るとそういうことは考慮されてるのだろうか・・・?とちょっと疑問に思ってしまうのだ。フィクション作家の書いたエッセイを読んで、作家自身(だと私が思ってるエッセイのナレーター)や同じ作家の書いた作品がさらに好きになったことは最近では一回だけ。逆にエッセイだけが好きで本業(?)のフィクションのほうは嫌いな作家もいる。フィクション作家のエッセイを読んでも可もなく、不可もなく、ってな感じでその作家の作品に対する私の気持ちが変わらなければいいのだけれど、大抵は何らかの影響がある。で、やっぱりそれが当たり前かもしれない。そもそも他のフィクション作家のエッセイを読み出したのは篠田節子のエッセイを読んだら、意見が合う・合わないのレベルではなくて読んでて面白いし、それでさらに篠田節子作品に対する気持ちが高まったからそれまでは避けるようにしていたフィクション作家のエッセイもなかなか捨てたもんじゃないかもと思って読み出したから。ところが、そのあと続けて読んだ人のエッセイは「え??・・・最悪・・・。そうか、こういう心理を基にああいう面白い小説が書かれてるのか。ちょっと卑屈だなあ、ひねくれてるなぁ」と思ってしまって何だかその人の書く暗くてちょっとひねくれた心理描写が気に入らなくなってしまった。しかも前は気にしないようにしていた、たまに目立つ、想像のみから書かれてるようなちょっと単純な心理描写のあらが気になるようになってしまった。その次に読んだ人のエッセイ集はまあまあ面白いのだが、「私は女のくせに・・・」といったかと思えば、また別のところで「誰それは、~のわりには・・・」という文章を書いていて、いいんだけど、結局はカテゴリの向こうにある「人」を見る観察眼はあるのははっきりしてるのに、その自分の能力に無自覚なのか結局そのカテゴリを利用した文章で終わっちゃってて歯がゆい思いをした。「書く」ということを職業にしてしまうと好き勝手書けなくなるし、書くことを依頼してきた出版者側や読む側の嗜好ってものを頭に入れて書かなきゃならないからエッセイで書いたこと∥作家の書きたいこと、という図式が描けるとは思っていないけれど、それでも読んだほうはそれで「作家の印象」ってものをどんどん構築していっちゃってるのだから読む側としては良いエッセイも書く作家ならばその人のエッセイも読みたいけれどそうでないのなら読みたくない(つまり、市場にも出して欲しくない)と思う。ちょっと極端なのかな?
2004年11月25日
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出かけるのでしばらくお休みします。今日は朝からいろいろな人と会えたりしてすごく楽しかった!久しぶりに社交的な一日を過ごしました。リフレッシュ!!
2004年11月23日
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最近、じゅうにひとえのサイトに「今週のトピック」なる新コーナーを設置したんですけどね、ちょっと今日、嬉しくなっちゃうような力作がどんどんとアップされました。どうぞご覧くださいませそして思うところがあったらどんどんコメントつけてね。いろんな人に考えていってもらいたいテーマばかりです。
2004年11月22日
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「書く」という行為は他人に見せる、見せないを別としてそして内容が何であれ「癒す」ということにつながる、という論がある。私は自分のここでの体験を通じて、すごく納得した。昔からたまに思ったこと・感じたことを紙に書き出してみることはあった。それはたまぁ~につける(笑)日記であったり、そこらへんにある紙切れであったり・・・。大学に入ってからはコンピューターがより身近なものになってきたこともあって紙よりもコンピューターに思いを打ち込むようになった。絵を描くことや歌うことや体を動かして汗をかく、というのもストレス解消になる、という点では「癒し」につながる。でも、私にとっては人に自分の考えてることを使う手段として使う言葉を使う、というのはまた別の効能がある。(そういう意味では作詞ができる人は似たようなことを経験するかもしれない。)思ってることを一旦言葉にすることによって自分の考えがまとまる。そして思ってることに対して対象がある場合。さらにそれが人間である場合。愚痴りが中心ならばここで愚痴ることによって頭を一旦冷やして、様子を見ることができる。いろいろ考えてるのだけどどうやってこれを伝えようかと思い悩んでいる場合は一旦言葉にしてみることでいろいろと考え直す機会ができる。一度書き出してしまうと(やったことはないけど)子供を生んでしまったようなもので自分の一部だった言葉が別のものとしての生命を持つ。この「別の生命」的存在は書いたものを公表する場合に顕著に表れると思う。そして、この場のように書いたものに対していろんな人から感想が聞けると余計に自分の考えを研ぎ澄まされる機会が与えられる。なかなかやりがいがあるのだ。そして最近は考えていたりすることをAに話す場合、ここで書いたことをかいつまんで話すことでうまく言葉にすることができて重宝してる。Aにも言い辛かった昔の思い出なんかもここに書き出してから言ってみると案外簡単に話せて私たちの関係の円滑化にも手を貸していたりする。書くってほんとにすごい。
2004年11月21日
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今日は久しぶりに南方の友人、ハナちゃんとおしゃべりした。感謝祭にあわせてAのところに南下するのでハナちゃんと会えるかどうかの確認のためと久しぶりにおしゃべりするためのお電話。毎度のことだが楽しかった。それでハナちゃんが言ってたこと。「病気の症状っていうのは万国共通だけど病気の捉われかたは(そもそも病気であるかどうかも含め)文化によって違う」ほほう~~~、なるほどねぇ~。って授業で先生が言ってたことらしいんだが。で、精神病についても同じことが言えると。これについては興味津々。なぜかと言うと、「アイデンティティの悩み」系のことって言うのはある程度、生活が安定していて自分の精神状態のことなんかに気を使ってられる贅沢ものの悩みなのかなぁ・・・と思ったりとかしちゃうからなのだ。衣食住が足りてて、毎日食べるものも足りてない人から見たら贅沢な暮らしをしてるのにこんなことで「悩んでる」なんて自己中心的で贅沢なのかな・・・と、実はしょっちゅう思うわけだ。(部外者にそう言われたことがあるのも影響してるのは確実だが。)今までは「精神的な悩み」というのは贅沢ものの特権みたいなものなんだと思ってて、自分の「悩み」の話なんかをしながらも申し訳なく思ってたところがあった。でもハナちゃんの話を聞いて、程度に差こそあれ、(この「程度の差」がポイントなんだが)やっぱり「精神病」とか「悩み」というのはそういうふうに意識されてないだけでいつでもちゃんと存在していたのだなぁ~、と思った。そして、確かに日常生活なんかに支障をきたさない程度なんだったら「贅沢ものの悩み」なのかもしれないけれど日常生活に支障をきたす場合は、その事実を(本人も含め)周りが意識してなくてもそれが本人の日常生活に支障を加えてるという事実は消えない、ということも再確認した。特別いじめられたこともないような人だったら周りによって植え付けられたコンプレックスや「仲間がいない」ってな孤独感を解消すれば良いだけだから悩みの解消法はそんなに難しくない。そういう人は仲間に引き合わせたり、その人の言ったことに対して相手の気持ちもわかってあげなきゃ、とか言って相手の言うことをやんわりと否定するのではなくてとりあえず相手が感じたことを正当に感じたこととして、事実として認めてあげればいいのだ。その上で考えすぎだとか捉え方に問題があるのだとか思うのだったらそう言えばいい。でもそれは「相手の視点」をちゃんと考慮したうえでしてほしい。自分に見えないからってないことにしてしまうのは究極の自己中心主義だろう。問題は、わりと簡単に解消される「贅沢ものの悩み」範囲で終わってない場合。そういう場合はどうしたらいいのだろうか。
2004年11月19日
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極度に緊張すると体がこわばってすごい凝る。そして大切に思ってる人に対して怒りと憤りを混じった気持ちを抱くとなんとも思ってない人に対する怒りと違って(そういうときは頭にカーッと血が上る音が聞こえるかのよう。笑)「言いたいんだけど思ったことはそのまま言えない、落ち着け、落ち着け!」と自分に唱えてる関係ですっごい緊張する(=体がこわばる)。さらにこう、何かを言おうと左手を伸ばそうとしてるような姿勢を必死に押さえてるので体の左側、特に肩甲骨のあたりが極度に緊張し、ついでに左手首が痛くなる。あう!!そしてね、そしてね、怒りや憤りがなんとか収まってもその緊張をちゃんとほどいてあげないとその体の左側が前に出ちゃってる状態がくせみたいになっちゃってて体の痛みと凝りはなかなかひいてくれない。前回そういうことになったときはどうしたかと言うと。まず、何気で昔マッサージ師の資格を持ってたAが左側の肩甲骨のあたりと左腕の内側の小指と薬指につながってる筋肉を思いっきり!モミモミ・・・。ううう~~~、極楽ぅ~。そして一旦、緊張がほぐれた体にまた同じところに負担がかからないように左肩を意識的に下げて、後ろに引くようにする。(実はこれがやっと右肩と同じ位置に持ってきてる)そういう時って、ちょっと気づくとすぐ左肩が緊張した状態に逆戻りしてたりするのよね。そうすると筋肉の緊張状態がわかる。そしてそれをちょっと続けたらすぐまた凝りだしたり左手首が痛くなるのがよくわかる。そういうわけで、気を付ける。
2004年11月18日
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はい、今日はタイトルそのまんま。惚れっぽいかぐや。「いいなぁ~」なんて思いながら眺める人はいっぱいいる。でもその中でそこまで思いつめる相手はほとんどいない。「いいなぁ~」なんて指くわえてみてるのは単に私の一日の活力にしてるだけ。(恐っ!!)だってそうすると、何だか自分のしてる何気ないことに張りが出るでしょ?っちゅーわけで本当に参っちゃった相手には何をするか。まずは手紙を書く。それも相手への気持ちをつづったラブレター。これをしてしまった時点で、自分のことながら「あぁ~、はまっちゃってんだな」と自覚する。(笑)そしてそれを渡してしまえばもう立派にはまってる。でも、私は手紙で愛の告白はしない。渡す相手はもう気持ちの通じ合ってる相手だけ。次にまた手紙を書く。(笑)これもやっぱりラブレターまたは相手のことを詠った稚拙な詩。(照)そしてその次もやっぱりまた手紙を書く。(笑)私にとって気持ちを伝えるのは言葉。というわけで、気持ちが募れば募るほどラブレター、またはそれに類したものを書きたくなる。よくやるのは選びに選び抜いたカードを自分なりに装飾してそれに自分のメッセージ(兼ラブレター。笑。しつこいって?)を書いて相手に送るの。半分お手製カード。お手軽で安上がりな趣味でもあるんだけどね。正直言って他に何がいいのやらよくわからん。よく時計とか身の回りにつける消耗品でないものがいいとか聞くけれどそんな金、ないしそれだと思い立ったときに即実行、ってわけにいかない。と、言うわけで言葉に変なこだわりを持つ、あたし。恋だの愛だのに浮かれて一瞬の気の迷いで書いた証拠品なんかを他人に持たせるなんて恐ろしい・・・と思ってるからラブレターを書いて渡した相手というのは私の中ではかなり特別な存在ということ。そしてそれは回数が重なれば重なるほど思いが強くなってるってことなんですねぇ。だって、私、ラブレターは一通一通でなくて一通渡すたびにこの人にはこれでのべ何通・・・っていちいち数えたりするもん。(って正直に言えば、一人に3通以上渡したのはAしかいないんだが・・・。笑)それで渡したラブレターなりラブメッセージなりラブポエムなりはその一通の重さだけでなくてのべ何通目の重さを持ってくると思ってる。ラブレター、書いて渡せば渡すほど好きってことなんです。きゃっ、言っちゃった!
2004年11月17日
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昨日は悔やんでも悔やみきれないことを書いてみた。今日は、あとでどれほど「周りの言うこと、聞いといて本当に良かったぁ~」ということに関して。恋愛関係とか親密な人間関係って言うのは現状に対処してる当本人にはやっぱり見えにくいことが多すぎるような気がする。特に私の場合はそうだ。だからこそ余計に私は信用できる友人や家族の助言を聞き入れるようにしてる。この「信用できる」というのがポイントなんだけど。はは。ようは自分が精神錯乱状態に陥ってて正しい判断力に欠けてるときに私の代わりに状況を正しく判断して次に何をすればいいのかを言ってくれる人をこういう場合に頼りにしてる、ってことだ。この、何度思い返しても「あのとき、ああしといて本当に良かったぁ~」と思えるような行動のきっかけになった助言をしてくれたのは、姉だった。大学生に成り立てのころ、その一年半ぐらい前にフランスで「ひと夏の恋」をした相手が、ネットで私の連絡先を探り当て、連絡をとってきた。私としてはまたいつ会えるかもわからない国際遠距離なんて面倒だし、疲れるし、何だか相手が妙な態度を取ったりしてたしで、そんなに深く関われない相手だと言う風に感じていたので、思い出にするのが一番、と思っていて、向こうがわざわざ私の連絡先を探しあてるなんて思ってもいなかった。相手も同じ気持ちだと思ってた。だから連絡があったときは驚いたけど、でも楽しかったフランスでの懐かしさやわざわざ私を探し当ててくれたのね、という感動も重なって返事をしてしまった。そしたら、なんとも奇妙な遠距離恋愛なんだかそもそも恋愛関係でないんだか今思い出してもはっきりしない状況に陥った。連絡を取ろうと思ったのは、その相手がフランスからアメリカに転勤することになったからだったらしい。で、アメリカにいる(はず)の私と連絡を取ろうと。でもねぇ~、アメリカと一口に言ってもなかなか広いのよ。(笑)相手は私のいるところから飛行機で2時間半くらいのところに転勤になった。私は「いつでも遊びにおいで」と誘ったのだが、なんだかんだでダメ。代わりに君が遊びにおいで、飛行機代は出すから、と言われたけれど、「電話するから」と言っといて本当に私に電話をした経験のないやつがそんな約束、守れるわけないとたかを括った私は「チケットを買ってくれたら行く」と言ってた。と、こんな状況が続いていて電話で話す内容はと言えばお互いのさまになってないフランス語と英語のちゃんぽんで「好きだよ」「また会いたいね」「また会おうよ」の繰り返し。(なんと内容のない会話だったことか。苦笑)それでも気持ちは高まると言うのが不思議なもので冬に実家に帰ったころにはなんとなくまた相手のことが好きになっていた。まあ、そもそも心惹かれる相手ではあったのだけど。でも日本に帰ってから電話するだの、しないだののくり返しでだんだん感情が高ぶってきて相手が電話すると言っては異常に喜び、実際してこなくては異常に悲しみ、私は何日か辛くてオイオイ泣いていた時期があった。感情の起伏が激しくなってしまってた。多分私も冬休みで特に何もすることなく家にいてヒマだったからそんな過剰に反応するようになっていたのだろう。でも、そこで辛くて辛くて泣いてる私の側に寄ってきて私の肩に優しく手を置いた姉は言った。「かぐやにこんな思いをさせるヤツは許せない。あいつのしてることはね、かぐやにたいする暴力なんだよ。こうやってかぐやに期待を持たせたり失望させたりのくり返しでかぐやの気持ちを疲労させるのも立派な暴力なんだから。そんなのに屈してたらダメだよ。連絡を取ることでそんなに心の負担になるのだったらもう連絡は取らないほうがいいと思う。」それを聞いて、「えっ、そうなの?これが『暴力』?私は暴力されてるわけ?ちょっと大げさすぎやしないか・・・」と思いはしたが、とりあえず連絡を取り続けるのは間違いだ、と言う点では賛成したので、そういうことにした。ところがねぇ~、そういう人なんだねぇ。「もう連絡しないから」と言うと、あの手この手で私を引きとめようとする。それでぐらついてしまう私もいたけれど、横で「大丈夫。恋愛なんてそんなもんなんだから。連絡を取り続けてたって何にも変わらないんだからさっさと見切りをつけたほうがいいよ。」という姉がいたので、それを頼りにしてきっぱり連絡を絶った。(こういう話をするといかにうちの家族は女系社会かがよくよくわかるなぁ~。笑)そしたら人生、楽になった。そもそも恋愛関係にあるのかないのかがはっきりしないくせにまるで恋愛関係にあるかのように私の気持ちを消耗させるような存在なんて邪魔なだけ。あのころは大げさかと思ったけれど、あのときの姉の私は暴力を受けている、と言うのはある意味正しかったと思ってる。親密に付き合ってる相手に対してころころと言ってることや態度を変えて相手を混乱させるのは混乱させるだけでは終わらない。相手はそれで疲労困憊するのだ。親密に付き合っている相手は自分の言動を他の人よりも真面目に受け止めようとする。だからそれに対して真摯に対応する、というのは親密に付き合っている相手に対する当然の義務だと思う。だから自分の言ってることをいちいち(または半分以上)「もう本気にしてらんないな」と相手に思わせてしまったらそれは自業自得なんだとも思うし、二人の信頼関係はもうそこまで崩れてしまったと言うことじゃないのかな?自分からエネルギーを奪う関係は良いとは思わない。献身だの何だのってのはあげてるエネルギー以上のものが返ってきてる、という満足感がえられてこそ。それを感じさせてくれない相手はしょせん、自分からエネルギーを奪ってるだけの存在。そういう人に見切りをつけたって自分勝手なことは何もない、と思う。そういう関係にある人たちには見切りをつけやすい時期に心を鬼にして出て行って、勇気はいるけれど、一生「あのとき、ああして本当に良かった」と思えると思うから、と言いたい。
2004年11月16日
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ことわざって本当にいろんなことをうまく言い表してるよなぁ、といつも思う。そしてこのことわざ、「後悔先に立たず」は常に常に頭の中に置いて行動しているところのある私。そのせいで思い切りが良かったり度胸のいりそうなことでもひょいとやってのけちゃうところがある。でも、それが行き過ぎて大失敗を犯してしまうことも、ある。せっかちなのだ。こと、恋愛に関しては「好きなの?好きじゃないの?付き合うの?付き合わないの?」とすぐにはっきり決めて欲しい、すぐに行動と言葉に出してほしい、というせっかち派。だからかなり好きでも態度がはっきりしないと待ち切れなかったこともあった。それで後悔してもし切れなくて、もう2年近く前のことなのにまだ引きずっていたことがあった。何よりも本当の恋愛を経験できるチャンスをそれより価値のずっと劣る恋愛ゲームのために犠牲にして(擬似恋愛ほどのものでもなかった)しかも相手のプライドをも傷つけただろうことが後悔されてたまらなかった。Aと付き合いだして、あのとき、やっぱり私は間違っていた。ゲームほどのスリルはなくても人と本当に心の交流ができることのほうがよっぽど大切なのだから長続きはしなかっただろうし、苦しいことのほうが多かったかもしれないけれどやっぱりあの時にあの人との付き合いを最優先するべきだったと分かった。そしたら、その取り返しのつかないことをしてしまった自分に頭が来て、なんだかあの時どうしてあんなことしてしまったんだろうと後悔してばかり。そんな気分がその人を思い出すたびに押し寄せてきてばかりの一年近くだった。それが、最近吹っ切れた。気づいたのだ。その人と(付き合うと言う意味ではなく)もっとうまく行く運命にあったのだったらそういう時期にその人と出会っていただろう。あのころの私は「ふれあい」の重要さを軽視していたところがあった。そんなときに私と会ってしまった人に対する申し訳ない気持ちもあるが、ここで一瞬運命論者になってしまうと「それも運命だったんだ」と落ち着けて、ここ一年常に感じていた妙な心の奥のざわざわが気にならなくなった。(どうせ相手は私のことをどう思っていたかなんて結局はわからないんだしね。)
2004年11月15日
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Aが日本語で結婚って何て言うの?って聞いてきた。「ケッコン」って言うんだよ。って言ったら、「えっ?そうなんだ。」「どうして?」と聞いたら、「うん?いや、実はキョロン(韓国語で結婚)と同じ漢字なのかな、と思ったんだけどね。」実はそうなんだけど、この漢字の場合は読み方がかなり違うだけ。で、冗談半分で「その言葉はどこで習ったの?」と聞いたら、(Aには1年半付き合った韓国人の彼女がいたので私はからかってるつもり。)「え、だって韓国では開口一番にみんなこれ聞くじゃん」って。「キョロンシッ(結婚式)って言葉は教科書で習ったけど、キョロンって言葉は普通にいつでもどこでも耳にしたよ」だって。確かにそうだ。「これ、(韓国の)外国人はみんな失礼だって言うけど、相手が結婚してるのか、何歳なのかをすぐ聞くってのは単に相手とどういう風に付き合えばいいのかを見極めようとしてるだけで何も失礼なことではないんだよね。別に結婚してることとか年齢とかを知られても困る人なんてそんなにいないじゃん」まあ、確かに本当に結婚してるのか・否か何歳なのかという事実だけを確認してるのならそういう質問をされて困る人は少ないだろう。(だからってその人たちのニーズを無視していいことにはならないけれど。)問題は結婚とか年とかに対する自分の現在のステイタスとかそういうものに価値基準がおかれてるからだろう。感覚的にそれを「失礼な質問だ!」としてしまうのは自分の「常識」に比べてしか「韓国の常識」を判断してないようでちょっと同意しにくい。もちろん「感覚的に」非難してるんでなくてちゃんと社会構造のことを問題にしてる人も間の説明をすっ飛ばすことで手短に話しちゃってるだけなのかもしれないけれど・・・。で、当面の「これは失礼な質問なのか」に戻ると、私はAと同じ、否。という結論に至る。これはみんなに平等(?)に聞いてる質問。とすると「それは個人的な情報でしょ?」って言う言い訳は成り立たない。いいや、みんながそれをいつも問われてる世の中だもんもうそれは名前を聞くのと同じ感覚、言うほうだってそんな感覚なのかもしれない。(実際はどうなんだろうか。)逆に相手と付き合っていく上で必要な情報なのだったら(特に敬語の程度とかを知らなきゃならない場合など)最初から答えを得てしまったほうが察そうとしたのに失敗してお互い顔向けできない事態になる、ってことがまねがれるわけだろう。合理的だし、非常に分かりやすくて私にとってはしっくりくる。とりあえず今はそのうち私も「結婚してるの?」って答えに「はい。してます」と答えるようになるってのが信じられないよ。<補足>N☆氏のコメントでまた少し思い直し&考え直した。そうだった、そうだった。ある系統の質問が嫌だ、というのは大体の場合、聞かれてること自体が嫌だと言うよりも(それもたまにあるけれど)それに続く質問が嫌だから、なんだよね。大体、年齢と結婚してるか否かを聞いてそれだけで終わりにするほうが珍しい。会話の糸口を見つけようとしてる場合だってあるし、そこから続く質問の答えを知ろうとしてる場合だってある。それにやっぱり何歳なんだったら何々ぐらいまではしてるはず、と言う基準に照らし合わせられてる場合が多いよねぇ。Aもいつも「まだ結婚してないのならいつ結婚するつもりなんだ?」と聞かれてたらしい。まあ、韓国に住んでたころにすでに20代の終わり(数えでは30はじめ)だったからねぇ。Aにとっては気になる質問ではなかったらしいけどそれはAの元々の性格、それまでの人生経験、結婚しろ、というプレッシャーが女性よりは少ない男性である、(特に都市部では30半ばでも独身の男性が結構いると聞く。)それと韓国人にも見えず、韓国人でないからある意味韓国社会の際の存在である、という要因のせいだと思う。ちなみにこの場合の大きな要因は、一番から元々の性格、韓国社会の一部とみなされてない、男性である、の順だと思う。そう考えるとなかなか難しいよねぇ~。みんなそれぞれ個人のこだわりがあるとさ、何を聞いたらよくて、何を聞いたらいけないのかとかって。独り言[[ う~ん、初めて「相手の気持ち」が分かり始めたかも・・・。やっぱりね、「相手の気持ちも察してあげなきゃ」ってこっちの気持ちを認めないうちに頭ごなしに言われても納得できるものじゃないね。 ]]
2004年11月14日
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よく言われるこのセリフ。「日本人じゃそうはできないね」そうかぁ~~~???私は「日本人じゃない」ってことかい?それは。おとといきやがれってんだい!!そもそもこのセリフは相手の「普通」という範囲内に抵触したときに投げつけられる。ようは私が相手にとって(←ポイントはここだよ!)「普通でないこと」を言った・しでかしたときに相手はそれを何かのせいにしたがる。それを「この人の性格」とか「この人の個性」とかそういうことで片付けたくない、というか片付けられない!だからその言動を説明する「何か」が欲しいんだよね。だってそうじゃないと何かと不安・・・。「普通でない」=自分の知らないこと・未知のことってわけでしょ?相手の言ったこと、したことをそのまま受け止めるってことはなかなか難しいらしいよ。言っとくけど、個々人の育った環境とかが全くその人の人格形成に関係ないって言ってるわけじゃない。で、その人に当てはまるカテゴリ、って言うのは多くの場合その人の人格形成に影響する。特に!!小さいころから「やっぱり~~だからなんだねぇ~」と言われ続けてたら。でもね、他の人が自分にとって「普通」と思ってることと違うことをしたらそれをすぐに「ああ、この人は私と違うカテゴリの人だから」で説明しようとしちゃうのは自分の心の平静を保つだけのためであって世の中をしっかりと見据えてることにはならないと思う。人間、カテゴリ化しないではなかなか生きていくのが辛いからさ、全くするな、って言ってるわけじゃないけどせめて複数のカテゴリの可能性ぐらいは考えてよ。すぐに「やっぱり~だから・・・」って言うのは、ちょっと安易すぎるよ。そう思わない?
2004年11月12日
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最近まで「いい!」と思えるレシピに出会ってなかったもの。そして自分のためだけだったらとっくにほっぽり出してたもの。チョコチップクッキー。これはチョコレート好きのAが遊びに来るときのため。最近見つけたおいしいレシピの特徴はオートミールを粉と同量(1カップ)使い、擂ったレモンの皮を一個分使う、というとこ。買ったオートミールの箱の裏にあったオートミール・ココナッツクッキーをオートミール・チョコチップクッキーにアレンジしたもの。でも、ココナッツをチョコチップで代用しただけでなくてライムをレモン代わりにもしてしまった。それと一応レーズンを入れてもよし、と書いてあったので向こうの想定してるクッキーの出来上がりとはかなり違うだろう、と思いながらも面白そうだからチョコチップにも見えるレーズンもちょっと混ぜてみた。普通、チョコチップクッキーって甘ったるくて私はあまり好きじゃないんだけど、ライムとオートミールの存在が効いてるのか結構さっぱりしてて、すごく甘いのはチョコレートだけというクッキーに出来上がって私も満足。これなら私にも食べさせたがるAの要求も素直に受け入れて(これは「おいしいものは一緒に分かち合いたい」という気持ちの表れね。)一緒に食べられるわ。チョコレートはちょっと味が濃すぎよ、だって。あっという間になくなるしね。
2004年11月11日
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私は昔からはまるとそればかり作る・・・、という性質。小学校のころは粉チーズ入れまくりのスクランブルエッグ(形状によってはオムレツ)にはまり、中学校のころはだし巻き卵にはまった。冬は必ず煮物作りにはまった。それ以外にもはまったものは多いはずなのだけれど(レパートリーの数=はまった回数のはずだから。笑)今は思い出せない・・・。とりあえず一時期何かにはまって難なく作れるところまで行って飽きたら次、と言うパターンらしいよ。(他人事みたいだねぇ。笑)最近のマイ・ブームはほっとけば勝手に出来上がってくれるもの。最近はお家にいることが多いのでオーブンにものを入れっぱなしにできたりとかする。それでハマリ出したのがポテトのオーブンフライ。ジャガイモを角切りにして、油をシューッと吹き付けるか軽く和えるかして塩こしょうして350~375℉(175~190℃)ぐらいに熱したオーブンに入れてほっておく。一時間かそこらすればジャガイモはしぼみ、こんがりしてくる。そこで取り出して適当に冷ます。いい匂いがしてくるからわかるし、カリカリ仕上げにしたいのだったら更に30分ほどほっとけばいいから楽。こないだはカボチャ(Acorn Squash)でもやってみた。おいしかった。さつまいもは似たような温度で丸ごと焼くからもうちょっと時間がかかるけど。すごい適当なのにおいしい。
2004年11月10日
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人のことばっかし糾弾してて、自分のことは完全に棚上げ状態の最近のわたし。そんなわけでちょっと懺悔タ~イム!!こないだ行ったお店できれいなお姉ちゃん(案外私より年下かも知れんが。笑)がいた。見かけ的には別に何とも思わなかったのだけど・・・英語の発音がちょっと違う・・・。しかも完全に慣れてるふうって感じでもなし・・・。「どこだ、どこのアクセントなんだぁ~!!」との思いが話せば話すほどふくらむ。「どこ出身なのですか」と聞くのは嫌なので聞いてる内容に沿って「それは専門学校で覚えたのですか?」「ここらへんの専門学校ですか?」とちょっと(自分なりに)頭の使う聞き方をしてみた。そしたら「いえ、ケベックの、私の出身地の専門学校で習いました」と。ああああ~~~~、そっかぁぁぁ~~~ケベック(カナダのフランス語圏)ねぇ~~~~。と(本人には言わなかったけど)妙に納得!でもその瞬間にお姉ちゃんの顔は少し曇ったような感じがした。ありゃ?と思ったがその時点では私の好奇心はふくらみにふくらんでいたのでやっとそれが解消された嬉しさにポーッとして、相手の反応の意味がよく理解できなかった。それでお店を出てからの帰り道にちょっと考えてみた。そしたら自分のしたことの嫌らしさにびっくり!英語の発音を元に出身地を割り出そうとするってことは英語圏に住んでる人に「あなたの英語、発音がちょっと変よ」って言ったことになるわけだもんね。確かに私の聞き方はちょっと込み入ってたかもしれないけれど、あのお姉ちゃんは気づいてたような感じがする。しかも本当に英語を後で習得した人だったら「英語にだっていろんなアクセントはある」と頭ではわかっていても「やっぱり私の英語は変なんだ・・・」と思わせるじゃないか、私の言動は!!しかも英語の発音を元に「ご出身は?」系の質問っていつもいつもされてるだろうし・・・。アクセントってなくそうと思っても無理な場合がすごく多いんだよね。それなのに一生ついて回る質問?ひどいことしたかもなぁ~。ごめんね。反省。
2004年11月09日
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英語で「お上手ですね」と言われる場合でたまぁ~にあるのが田舎ぁ~の方に行ってしまったとき。または田舎ぁ~の方から繰り出してきた人たちと話すことになってしまったとき。見かけがいわゆるヨーロッパ系白人か黒人でなければ英語が母語でないと思い込んでいる人に出会ったしまったとき。(大体そんな人って、もう50代以上か新移民とかじゃないとなかなか会わないけれど。)「ご出身は」と聞かれ、「日本です」と答え、「英語、お上手ですね」と続く。このやり取りの異常さはちょっと解説なしでは伝わらないわ。アメリカの「ご出身は」ってね、ご先祖様はどこからいらしたの?(多分あなたの両親、または祖父母の)元々の国籍はどちら?という意味合いが濃い場合がある。つまり、国籍的には多分、アメリカ人だと思われている。でも、「普通の」アメリカ人ではなく、「ハイフンつきの」(常を逸した)アメリカ人だという認識。だから「ご出身は」の次に来る「日本です」を聞いた相手は多分「私は日本人です」ではなくて「私の祖先は日本からやってまいりました。私はジャパニーズ・アメリカンです」というふうに解釈してるはず。それで、なぜかこういう人たちの頭の中には「ハイフンつきの」アメリカ人は何世代アメリカにいようとまだまだ「お国の言葉と文化」を保っているはず、という図式ができていて(日本の大多数と全く変わらない認識ですけどね。在日コリアン3世や4世に「じゃあ、ハングルしゃべれたりするわけぇ~?」と聞くのとおんなじ感覚だし。)それで「(外国語のはずの)英語がお上手ですね」と来る。ここの矛盾点というか私の心境の複雑さは私の場合には「英語がお上手ですね」というコメントは正しいからいいのだけど、そこで変に話がスムーズに行っちゃってるから逆に「いや、だから私はジャパニーズ・アメリカンではなくて日本出身の日本人なんです」という機会がなくなってしまうこと。そしてジャパニーズ・アメリカンも所詮は「ガイジン」なのね、という先入観を助長してるところ。(日本で「じゃあ、やっぱりバイリンガルなんですか?」と聞かれて本当に一応、英語が話せたから相手の固定観念を助長させる結果になる「はい」を言うのが大嫌いだったのと心理は一緒。)でも、それをはっきりさせることをいうのも本当はあまり好きじゃないんだよね。だって「日本出身の日本人」って「ジャパニーズ・ジャパニーズ」とか「ジャパニーズ・フロム・ジャパン」と言うしかないんだけど、これの裏には「私は本物。偽者のジャパニーズ・アメリカンと一緒にするな」という意味が、自分はそう言ってるつもりはなくても言外に含まれてしまう。それを言うのも嫌だし・・・。(日系の人だってエセ日本文化でない、ホンマもんの文化を持ってるわけですよ。)っちゅーわけで考えなくてもいいことまで考えていちいち悩んでしまう私の脳内をちょっとお披露目してみた。
2004年11月08日
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何語でも「お上手ですね」にあたる言葉はあたると思う。私はそれを韓国語・日本語・英語で言われたことがある。でもその「お上手ですね」に対する感じ方は言われてる言葉と私の関係によって全然違う。日本語で「お上手ですね」と同じ日本語が母語の人に言われた場合。ムカッとする。この人は見かけに惑わされてる、と思う。とにかく不快感と悲しさと怒りばかり感じる。韓国語で「チャラシネヨ」と言われると、ちょっとむず痒いけど嬉しい。そもそも韓国語以外を母語としてる人が韓国語を習おうとすることや韓国語をちょっとでも話せるようになること自体がまだまだ不思議・・・、という雰囲気が蔓延してるのでレベルの割には言われる回数が多すぎるような感じもするけど韓国にはソウルと言う大都会に6ヶ月しかいなかったし韓国を離れてからは別に辟易するところまではいかなかった。(2年以上在住していて「カmサハmニダ(ありがとうございます)」とでも言おうものなら目をまん丸にして「チャラシネヨ~~」といちいち感心されていたAはかなり辟易していたようだけど。苦笑)フランスではそもそもあまり言われたことがない。(笑)それどころかつたないフランス語を話し出すと、「どれぐらい習っていたの?」と聞かれて、「それでそんなもん?」と言われるか、「それにしちゃぁ、なかなかね」と言われるにしろ、結果的には「もっとがんばれ」とハッパをかけられるだけ。外国語が母語の人だってフランス語が話せるようになる、と思ってるからちょっと話せるぐらいじゃ全く感心してくれない。まあ、こっちのほうがやる気が出るってもんだけど。考えてみたら韓国でもフランスのようにどれくらい習ってたのかを聞いてきてそれに照らし合わせて私のレベルを判断してた人もたまにいたなぁ~。そういう人に出会うと、「がんばるぞ!」とやる気が出たもんだ。英語で“you speak English well”と感心されることはほぼない。それでも何度かあるけれど、そういうときはいってる相手によって感じ方は様々。一番最近は何年か前に韓国語の授業を一緒に受講していたコ。着飾ってなくてフェアな感じのするコリアン・アメリカン(チェミ・キョッポ)。私がたまに行くお店でずっとアルバイトをしてるんだけど、「自分は韓国人のくせに韓国語がまともにできないのにあなたは韓国と全く縁もないのに私より極めてて偉いわね。」とまあ、在米コリアンの人だとよく多分に持っているコンプレックスをよく口にする。この間、私が「でも私のネイティブの言語は日本語なのよ。英語の読み書きは留学してから覚えたの。」と言ったら「じゃあ、英語は別に第一言語じゃないんだ。それじゃあ、よくやったね、ちゃんと英語を覚えて。」と日常的に韓国語を聞いたり話したりはできるけれども韓国語を読み書きすることには苦労をする珍しい立場の人からねぎらいの言葉をもらえて何気で嬉しかった。人にはどんなに「英語は話せても読み書きはできなかったから結構大変でした」って言っても、英語が完全な外国語なのに英語圏に留学する人が多いせいか「それでも英語を第二言語とする人よりは楽だったでしょ」と言われ、結局英語でずっと教育を受けてきた人たちと比べられる。だぁ~か~らぁ~~~~~、ってよく思う。一緒じゃないんだよ。英語でずっと教育を受けてきた人たちと比べないでくれ!と思う。もうそろそろそんなことも言ってらんなくなったけど。(笑)[続く]
2004年11月07日
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友達の話を聞いたり、人に自分の話を聞いてもらったりしてるときのキーワード。「そう思ってるってこと、本人に言った?」すると大抵の答えは沈黙・・・・。(笑。はい、私もです。)確かに話さなくても相手には自分の思ってることをくみとって欲しい。特に、怒ってて、相手に「こんなこと言えない。でも察してほしい・・・。」と思ってるときこそ、そういう気持ちは強いと思う。それが実は一番まずいんだよね。こんがらがるから。相手は確かに自分の思ってることを察そうとしてるわけだ。でも、それを自分が言わないと相手は推測に基づいた間違ったこと内容を信じちゃってるかもしれない。そしてその推測に基づいてやったことがさらに「全然わかってない!!」「どうしてそうなるの!!」と、すでにイライラしてる自分の気持ちを逆なでする、という悪循環。うわぁ~、泥沼だねぇ~。でも、何かがうまくいってない、という認識が双方にある場合は、ある意味、まだ救いようがあるとも思う。とりあえず「話し合うチャンスをつくる」ということが二人の目的になりうるから。一番困るのは、「問題がある」と思ってるのが片方だけの場合。そして、そう思ってることが相手に全く通じていない場合。この間、かなり前から「距離を置きたい」と思っていた相手に「最っ低!!常識のないヤツ!!」と思うようなことをされた。でもそもそも「関わり合いになるだけ時間の無駄」と常々思っていた相手だったから何も言わなかったんだけど、つい最近そのことが話題に出たときに話しちゃったんだよね、私たち2人を知ってる友人に。そしたら出来事を話してる間にまた怒りが爆発してきて(爆笑)その友人はけっこう驚いていた。そして「(その人って)そんなに悪い人ではないと思うけど・・・。そう思ってることは、話してみた?」と聞かれた。ハッ、と思ったが、「う~ん、向こうは自分のやったことに問題があったってこと自体に気づいてないみたいだし。そもそも確かに悪気のある人ではないと思うけど、いつもそんな感じだからあんまり深く関わりあいたくないと思ってるし。話そうとするだけ時間の無駄だと思って何もしなかった。今じゃもう過ぎたことだし、蒸し返すのも何だかって感じでさ。」(恐ろしいねぇ~。本当に。苦笑)と返事。友人は「言うだけ言っておけば自分もスッキリするし相手も何かと考える機会になるんじゃないの?」とにかくまだそこまで怒っちゃうようなことだったらやっぱり相手に話してみたほうがいいんでないか、というご意見だった様子。でも、私もこの「本人に言った?」ってセリフ、私も人に何回言って、人に何回言われたことか・・・。人間同士のすれ違いって「言ったつもり」が積み重なって誤解が誤解を生んだままどんどん複雑化していくパターンが多いんだよね、ほんと。「それ、本人に言った?」言うことは勇気がいるけれど、それが一番大切なんだろうなぁ~。
2004年11月05日
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国際結婚とか越境結婚なさってる方でそれを「文化の違い」とかで片付けようとしてしまう人って多いけれど(そうでない場合は「男女の違い」にしてしまいがち。笑どっちにしろ、自分以外のことに責任転嫁しようとしてる??)違うと思う。「私は日本人だからこう感じるのに」「私はスイス人だからこう思うのに」「私は中国人だからこう考えるのに」妻・夫は分かってくれない!!!と大合唱。はっきり言って聞き飽きます。だってどうしてそう感じるのか聞いていくと、大抵それが本当に「文化的な違い」に根ざしてない場合が多いんだもん。自分がある人との一対一の関係においてたまたま「△人」と「□人」という違うカテゴリに分けられるからって全てをそれのせいにされると本当に閉口する。じゃあさ、おんなじ「△人」と結婚してみればいいじゃん!そしたら今度は「やっぱりこれは男女の違いなのね。別に文化の違いだけじゃなかった・・・」って言うことになると思う。でも、それって相手に自分の思ってること・感じてることを説明することを面倒くさがってるからじゃないかと思う。それで「~の違い」って言われても・・・。「文化の違い」って言うのもないわけではないけれど、カップルの間がうまく行かないときにそれを言い訳にするのだけは止めてほしい。一対一の関係の場合、相手の性とか、出身地とかって確かにその人の人格形成とかに影響はあるけれど結局のところ十人が同じ経験をして同じ人間となって出てこないように一人の人ととても親しく、近しくお付き合いするようになったらそういう「文化」とか「性・ジェンダー」とかそんな大枠のことよりも「その人の個性」っていう枠決めしにくいことのほうがずっとずっと関係が深くなってくるように思う。そして話をしたときやしようとしたときの相手の態度は結局はその人がどういう人かを一番如実にあらわすと思う。そこで「私の言ってることをわかってくれない!聞いてくれない!!」と言うのは「文化の違い」ではなくて、聞くつもりのない、理解するつもりのない相手の問題。それか相手の「男女関係」の捉え方の問題かもよ。そういう意味では「男女の違い」なのかも知れないけれど、本当は違うでしょ。それはその人の「男女」とか「男女関係」に関する考え方の違いでしょ?そりゃもちろん「文化の違い」ってものもあるとは思うけど、そればっかりを連呼する人は「怪しい・・・。もっと別の問題が潜んでるんじゃん?」と意地悪く思ってる私がいる。
2004年11月04日
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私は小学校の頃から合唱グループに入っていたり子供向けオペレッタに出演してみたりで結構、歌うことには入れ込んでいた。(今じゃ、そんなの過去の話になっちゃって悲しい限りだけどさ。)そして17のときに最後についた歌の先生がまた別の生徒とのデュエットを提案。そのデュエットが、ロッシーニのネコの二重唱ニャオン、ってなもんだい!でも実は最初に題名を見たときはふ~~ん、ネコの二重唱ねぇ~でもどうせネコの話とかなんだろうな、と疑ってた。ところところが~~~、違うのね!これ、全部ニャーニャーしか歌詞(?)がないの!!声楽では歌詞に感情をこめる練習もするけれどその過程で歌詞がなくてもメロディーに感情をこめる練習もする。これはそれ用に作曲された歌だったらしい。だから、歌詞はネコの鳴き声だけ。でも要は、感情をあらわす言葉の助けなしで感情を伝える練習なわけだから歌うほうは感情がこめられるように勝手にストーリーを作っちゃうわけよ。つまり「伝える感情」を作っちゃうのね。(笑)で、練習を終え、舞台に立つ。舞台に立つときは歌の紹介も何もなしで単に曲名がアナウンスされたあとに伴奏者とパートナーと私が位置につき、演奏(?)開始!練習してる頃からパートナーものりが良かったり、先生も面白がってたりで当日はお互いに十分なりきれる素地が出来上がってた。私は「これで念願のネコになれる!」とその瞬間を満喫。やっぱり人前で人間の言葉を話さないネコになりきれる機会なんてそうそうない。見かけは人間だけど人間からしたらニャーにしか聞こえないネコ言葉で舞台上のパートナーと人間から見たら、不可解なネコの行動を一通りできた、ってことでかなり満足できたのでした。やっぱりわたしはネコが好き☆
2004年11月03日
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悩み事が増えたりするとネコになりたい・・・ネコになってしまいたい・・・ネコならこんなことで悩まなくていいんだろうなと猫にしてみたら迷惑極まりないだろうことを考えるようになった。世間のしがらみとかが面倒くさくてどう考えてみたってのほほんとネコ暮らしのほうがいいような気がしたのだ。わりと大きめで限りなく優しくて何にも動じることなくいつもゴロゴロと寝そべっていた茶ネコ。誰かがソファに座りたくて、茶ネを押しのけるとされるがままにビヨーンと伸びて、前足が床につくまで体制を変えずにいた。それを見てるのが面白くて茶ネをソファ(またイス)から押しのけるのは家では一種のショーになっていた。父が「ネコ・エリマキ!!」と言って茶毛を首に巻いても目を一瞬うっすらと開けるだけ。父が「三味線!!べんべんべべん!!」と言って茶ネのお腹を弾くまねをしても(爆)されるがまま。それどころかベローンとした体制のままだからお腹が余計あらわにされてる状態。それをいいことに父は茶ネで思いっきり遊んでいた。でも茶ネはそれを気にする様子が全くない。そしてそれこそどこかのお后さまのように凛としていたシロ。いつでも威厳たっぷりに緩やかなカーブを描いた猫背をピンと伸ばして自分の周りにあるすべてのことを観察して吸収してた。ネコ風キス(まばたき)を教えてくれたのはシロ。居間の端から(ってことは台所の中に入っていたんだけど。笑)ジーッと見てると、シロがいかにも意味たっぷりに目を一回だけゆっくりつぶってまた開ける。何回かそれを「あとに続いてやってみてご覧」とでも言う風に繰り返すものだから私もやってみたら満足そうだった。そして「これは愛情表現っぽい」と思ってそれ以来、ネコには使うようになった。それが実際ネコ語でキスにあたるんだと知ったのは去年あたりだったけど。(遅い遅い。笑)シロはとっても頭が良くて常に家の人と意思疎通をしていた。ミャーミャー鳴くときは明らかに何かを教えてくれてるか要求してるときでそれをこちらがちゃんと理解すると満足そうにしていたものだった。ネコになるならシロのようなネコ、と私は決めていた。家の庭に犬が侵入してくるとすごい勢いで追い掛け回して必死で自分の領域の中にあるもの全てを守ってくれた。美人で聡明で勇気があって亡くなったのはもう10年近く前なのに未だに家では語り継がれる存在。そしてネコになりたいと言う思いは私の中で(今もだけど。笑)ふくらみ続けるばかり。そんな私の切望していたことが種の壁を通り越してひと時でも実現されたのは私が17のときだった。[続く]
2004年11月02日
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こないだShaquillさんのところで言われました。「ネコみたいだよね」って。どうして私の本性がばれたんだ!?とスクリーンの向こうであたふたとしてた私。そう、かぐやはネコなんです。我輩は猫である。自分で言うのもなんですがかぐやは猫の鳴きまねがうまいそしてゴロゴロができる。全ては猫になろうとした子供の頃からの努力の賜物。8歳の時に近所の同級生に押し付けられて家に持って帰ったまだ目の開いてない仔猫3匹がコトの始まり。実は私この頃、猫アレルギーでして、猫と同じ部屋に2分もいるとひどいくしゃみと涙目に悩まされたものです。そういうわけで拾ってきた(というか押し付けられてきた)のは私だったのに、仔猫の世話はほとんど母と姉に任せっぱなし。かわいいし面倒も見たいから側に寄りたいのに、ちょっとなでただけで際限なくくしゃみに悩まされ涙も出はじめるから仕方なくカーテンに包まって(猫の毛を吸ってしまわないように)お母さんとお姉ちゃんが仔猫ちゃんたちの世話をしてるのをジーッと見てた。やな奴。<自分。(笑)そこまで小さい仔猫ちゃんたちだったので食べさせるのもチューブで(最初はスポイトでミルクを飲ませてたんだけど間違って肺にミルクが行っちゃった仔猫が一匹死んじゃってからはお腹に直接ミルクをできるチューブに変更。)トイレの世話もしなきゃならなかった。食べさせる(=ミルクを飲ませる)でしょ。そしてちょっとしたらティッシュでお腹を軽くマッサージしてあげる。そうすると張ったお腹がしぼんでいき戦利品(笑)はティッシュに納まる、というわけ。そもそもそんな小さい頃(生後何日か)なんかに母ネコのもとを離れてちゃんと育てるのはなかなか難しいらしい。でも母ネコから隔離されちゃってるから与えられた条件下で一生懸命やるって感じ。そして私のネコアレルギーもネコちゃんたちが到着して1週間ほど位してからめでたくひきました。嬉しかったね、あの時は。そしてネコと共に育った子供時代。暖かくてフワフワしててそれぞれ個性もあって一日の大半を食べて寝て観察して暮らしてる。ちゃんと面倒をみてくれる人たちと住めるのならば(そうじゃなきゃ悲惨だから)幸せなネコとして生きるのが一番なんじゃないかと思い出しました。[続く]
2004年11月01日
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