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すごくうまい映画だと思った。じ~んとしたとか感動したとかそういう映画ではなくてどちらかと言えば「ちょっと待て。その後、みんな、どうなるの?」的なそれぞれの人物たちのその後が気になる終わり方。それと、英語の字幕がすごく良く出来てて感心した。今まで英語の字幕付きの韓国映画って良く見てるけど毎回毎回ヤバいんだよね・・・。明らかに韓国語が母国語で英語がヤバい場合と英語が主言語で韓国語の訳が「ん~~」って場合と。(って、私はそもそも字幕の翻訳ができるほどの韓国語力もないのに偉そうにすみませんすみません)前者の方が圧倒的に多いんだけど。でも、今回のは本当に熟れているというか「そうか!!」という訳ばっかり。すっご~~いと思ってたら翻訳者に3人の名前があってしかも翻訳の編集者付き!!韓国映画協会(かなんか)が一役買ってたらしくそこでそこまでお金をかけた翻訳ができたようなんだけどそこは偉いと思った。というか、韓国の政府方針として韓国文化を海外に輸出するためにちゃんと政府主導でスポンサーをするところが韓国は偉いと思う。で、映画のほうに戻る。・・・。言いたいことはたくさんあるんだけどストーリー的な面白さとは違う個々の人物を通しての20世紀末の韓国をかいま見るみたいな作りだと思った。なんか、一言で言い表しにくい。題名に出てくる猫ちゃんは明らかに小道具。なんだけど、映画の中では丁寧に扱われてて安心できるというか。(動物愛護の観点からは。)なんか、すごく優しい映画。純粋な思いやりや思春期の、時には非情なほどのまっすぐさがすごく良く出てるって感じがした。おすすめ!
2011年05月30日
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何年ぶり??ええ!!ここに投稿するの、本当に何年ぶりでしょうか、一体!?ちょっと復帰してみようかなと思ってます。ほとんどミクシィ日記しか書いてなかったんだけどどうやら、ミクシィは新規の海外在住会員が登録できなくなったらしくこれから、いろいろと制限が激しくなりそうでそれに、また「世界全体」に向けて発信したいようなことが増えてきたので復帰を検討中。ひとまずは今晩見た映画の感想などをコピペしてみます。どうぞご笑覧くださいあせ☆
2011年05月30日
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お久しぶりなのに怒り系で申し訳ないような気もしますが、これ、聞いたり見たりするたびに思うのでやっと書くことにしました。自分のことで、ちょっと不思議なことがあった。それは、どうも私の言葉遣いは硬いところがある。初めての人とやり取りをするときに妙に相手に「硬いわね」的思いをさせることがある。妙に相手に「なんでそんなに距離を置くのよぉ」と言われてしまったりそう思わせてしまうよう。でも、考えてみれば、私は、自分から仲良くなりたい人やもともと本当に仲の良い人に対してはたいして硬すぎることはなく逆に甘えすぎなぐらいだと思う。で、何でそんなに「硬い」と思われるのか。私に勝手に親近感を抱く人がいるからだ。で、その親近感を勝手にあらわして、それを私にも強要してくる相手というのは私を「ハーフちゃん」「ガイジンさん」呼ばわりしてくる相手である場合が多い。要は、私は「私」という個人ではなく「ハーフ」ちゃん、「ガイジン」さん、という生まれながらの有名人なわけで、だから芸能人や他の有名人や、タレントよろしく「ファンの皆さん、ありがとう♪今日も私を応援してください」とでも言って欲しいのかまたは特に前からの知り合いでもないのに前々から大親友かでもあるかのように馴れ馴れしくしても良い相手と思う人がいるようだ。と、こういうことを言うと「自意識過剰だよ、お前。(ケッ)」って言う人が必ず現れるのだけど、私にはあの「ハーフちゃん?」「外人さん?」と言いながらニコニコと歩み寄ってくる人たちが気持ち悪いし、憎らしい。で、自意識過剰だというのならそういう人たちのとる行動をどうにか説明してくれよ、とも思う。私には、そういうことをする人たちが外国風の名前を見て、日本人の名前には「さん」とか「氏」とか付けるのに突然呼び捨てにする(してもいいと思う)心理に直結していると思う。見かけの違いで、勝手にこちらに親近感を持つ人には、「いや、みかけが目立つのはもうわかってるからほっといてよ」とでも言えば(言えないけど、言えればどんなにいいだろう)ショックを受けて、その人は退散するけれどその後もぞろぞろとそういう人が出てくるのに変わりはない。だから、特に虫の居所が悪いのでもない限りいちいち「いや、みかけが目立つのはもうわかってるからほっといてよ」と言うのも面倒くさくそうやって寄ってくる人を避けるしかないわけだ。というわけで、「硬い」と思われようが、初対面の人やよく知らない人に対して馴れ馴れしくする気にはなれない。で、最後に一言。「さん」が敬称だからってそれをつければいいってもんじゃないし。もうちょっと考えてくれや。(って言いたい相手は、そもそもこれを読んでる可能性すっごく低そうだな。orz)
2008年06月29日
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私は、自分のことに関してネット上では意図的に隠してきたことがいくつかある。それは、本名や本人を特定できるような個人情報などというわかりやすいことに限らない。察しの良い人などは気付いたりするのだけどそれは、食生活に関することだったり宗教生活に関することだったり政治思想に関することだったりする。隠してきた理由にはいくつかあるが、一番大きな理由は~~代表にされるのが嫌だからだ。韓国にいたときに日本の大学に通う在日コリアンの子がいた。アメリカの大学に通うあるリベラル思考の日本人の子はその在日コリアンの子の名を「韓国風」に読み、その子が「いや、苗字は韓国読みでも、名前は日本読みでそれがオレの名前だから」と言っても、しつこく下の名前も「韓国読み」で呼んだ。その同じリベラル思考の子は、私がユダヤ教徒だと知ると私に中東問題のことに関して議論を吹っかけてきた。それは、私個人の考えを知るためというよりは私を「ユダヤ人代表」として話を進めるためだった。私がいくら自分はユダヤ人代表でありえないし多くの典型的なアメリカのユダヤ人は、現地在住のイスラエル人やユダヤ人とはかなり異なった意見を持っている。私は、とてもじゃないが、そのみんなの意見を代弁できるほどの知識を持ち合わせていないと言っても聞く耳を持たなかった。ある意味、「リベラル」あるいは「左翼的」な人に典型的な「正しい答えはひとつしかない」的態度だ。その思考パターンはこうだろう。在日コリアンであるならば、正しい名前の読み方はひとつ。それは、(現代)韓国風の読み方。ユダヤ人であるならば、中東問題に関する考え方はひとつ。それは、何を置いてもイスラエル擁護の考え方。正しくは、本人の名前の読み方は、民族的アイデンティティがどうであれ、本人が決めるべきことだ。特に、当時の朝鮮人に創氏改名を強要した日本人の子孫がまたその朝鮮人の子孫である在日コリアンに「正しい名前の呼び方」を強要する図は皮肉以外のなにものでもない。そして、中東紛争に関して言えば、中東内でもイスラエル内でもいろんな国のユダヤ人内でもさまざまな考えが混在する。多様すぎてとてもじゃないがその道の専門家でもない私にはそれを上手く一言で言い表すことはできない。政治家や社会運動家にでもなれば民主主義国家では他の人の意見を代弁することが大切になるから自分の意見を述べるときに代表者として意見を言うことも大切になるだろう。でも、私は政治家でも社会運動家でもない。時には他の人の考えを代弁することもあるけれど、そうするときは選ばせてほしい。そして、それを自動的に私のアイデンティティにつなげてほしくない。・・・・と言っても無理なのはわかっているのだけど。私の言うことをいちいち「代表」の声として、箱にはめて理解する人はそうするしそうしない人は、すでにそうしない。そして、私も人が「代表」として声をあげているときとそうでないときをちゃんと区別するようにしているがたまに失敗することもある。なかなか難しいことではあると思う。けど、やってみようとする価値はあると思う。
2008年03月05日
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お久しぶりすぎて、忘れ去られてるんじゃないかってぐらいお久しぶりです。さて、ここでのブログ書きをお休みしていた期間私にとってのこの場の意味を考えていました。この場で当初知り合ったブログ仲間の中にはもう早々にこの場から引き上げてしまった人もいるしまだまだブログを更新し続けてる人もいる。でも、一番多いのは細々と更新を続けている人たち。私は、ほぼ更新しない状態でした。その間、ミクシィ日記は「細々」更新状態。でも、内容は考えたものを書き上げたというよりも近況報告に止まるものが多く自分的には公共の場にアップできるものではありませんでした。そこで改めて気付かされたのはここでの私は「よそゆき」の私の姿であること。元々、言いたいことがあって伝えたいことがあって始めたブログなので当たり前といえば、当たり前なのだけどそれでも、ミクシィ日記と比べたときにびっくりしました。さて、このブログを始めたときの目的をこの場が果たせたかというとそんなことはない。まだまだ伝えたいことはあるのです。が、正直言って今は時間を見つけるのが前よりも格段に難しくなってきてます。それに自分の生活のことを語りたいわけでもないので、考えたことをアップしていくにはそれなりに考えたことを消化し、言葉にしていくというプロセスが大事でありそれを経なければ人に見せられる、または見せたいと思うようなものは出来上がりません。比較的最近のものを始めた当初のものと比べたときに「フィクション」の率が高くなっているのは伝えたいことを「お話」を通して言うほうがやりやすくなったからです。ところがこれも時間がかかる・・・。何度ももうやめてしまおうかと思いましたがこういう場は、一度やめてしまうとなかなか再開しにくい。というわけでかすみつつも更新していくことにしました。こんな私ですがどうぞよろしく。
2008年02月13日
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私には、現実にありえるけれどもめったには起らない恐いことを繰り返し想像してしまうクセがある。それが一回や二回や三回ぐらいまでならいいのだけれども時期によっては、だんだんその一番怖い場面がはっきりしてきて その場面だけがなんでもないときに頭の中で瞬間的に再生されてしまうようになり一種のネガティブなイメージトレーニングをしている状態に陥ってしまう。一番多いのは、自分の不注意やちょっとした気の迷いで起こしてしまう事故を起こしている場面だ。ある程度そのイメージが固まってきてしまうと口に出したら最後、その事故を引き起こしてしまうのではないかと思えてしまうのであまりに怖くて具体的な内容は口に出せない。ここしばらくは、そんなこともなかったのだけどごく最近、今度はまた新しいイメージが沸き起こってきてどんどんそれが肥大してきていた。それをなんとはなしにAに話してみたら自己催眠やイメージトレーニングなどで使われるというごく基本的なコントロール法を教えてもらえた。一つ目に提案されたのはその想像が起きたときに怖い方向に持っていくのではなくてもっと持って行きたい、肯定的なほうに想像力を働かせるということ。でも、これは、その場面が不可抗力的に瞬間的に頭をよぎってしまうので、無理。と言ったら、「じゃあ、これは?」と言って、こんなことを提案してくれた。怖い場面が現れたら、その場面を一時停止させてそれを縮小させたり拡大させたりしてしまいには破ってしまう、と言うもの。要は、その場面を自分のコントロール化に置いてしまい矮小化してしまう。と言うわけで、それを説明してもらってる間に早速、その新しい「怖い」場面を伸び縮みさせてついにはビリッと破ってみた。そしたら、かなり解放された。またあのシーンが頭をよぎったらこの手で行こう。すでにその場面に対する無力感や恐怖感は薄れている。またあれを想像してしまったら今度はもっと自信たっぷりに破ってしまえる。そうか。こんな手があったんだ。私にとっては重大な新発見。肯定的なイメトレの方法(物事が自分の思い通りに行っているところをできるだけ詳しく、繰り返し思い浮かべるようにする)は昔からなじみがあったのだけど、否定的なものを克服する方法は今回始めて知った。これはほんの一例で、他にもいろいろなバリエーションがあるのだろうけどもしこれが使えるのならどうぞ。
2007年10月02日
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Aがいかに手抜き料理を嫌がるかという話をしたばかりですが本人は自覚してなくても料理をたくさんしていればけっこうお手軽にできる料理と言うのもレパートリーに忍び込んでくるのも当然なわけで。今日はいつもAの料理をおいしくいただいてる私がその中でも比較的簡単にできるちょっと変わってておいしいデザートを二品ご紹介。でも分量は適当なので、適宜調節してください。まずは♪チョコラード♪材料(一人分):コーヒー(またはコーヒー代用品)一杯ココア 大さじ一杯ほどシナモン 小さじ一杯ほどはちみつ 好みにあわせて小さじ二杯以上作り方:コーヒーにココア、シナモン、はちみつの順に混ぜる。はちみつは砂糖で代用してもいいけれど、そうするとちょっと味の濃厚さが薄まるので、ココアの量を増やすか、コーヒーをもうちょっと強くしたほうがいいかも知れない。コーヒー代用品もちょっと水っぽくなることがあるので、様子を見てちょっと濃い目に作ったほうがいいかも。牛乳は入れてもいいけれど、まずは牛乳なしで飲んでみて。案外必要ないと感じるかも知れません。次は♪アップルサラダ♪材料(6人分):りんご 一個 くるみ 手に一掴みほどレーズン 大さじ2~3杯ほどヨーグルト 半カップほどはちみつ(甘さにもよるけれど)大さじ一杯ほど作り方:りんごはいちょう切り。くるみは食べやすいように大きめにくだく。りんご、くるみ、レーズンを混ぜる。ヨーグルトにはちみつを溶く。わりとしっかり溶くと本当にドレッシング状にとろりとなります。ドレッシングをかけて、和えてできあがり。これらをレシピなんて呼んだら、Aに文句を言われそうですが、まあ、アイデア提供ということでお許しくださいませ。☆おまけ☆私が朝ごはんによく作るのが、このバナナシェイク。(一人分)牛乳 半カップバナナ 一本小麦胚芽、シナモン、きなこ、すりごま 好みに合わせて適量(私は特に小麦胚芽とシナモンの味が好きなので、ここらへんをたっぷり入れます。)あれば、プルーン 2個ヨーグルト 半カップ順にミキサーに入れていき、スイッチオン。あっという間にできて、腹持ちも非常に良く、栄養も満点。忙しい朝もこれだけ飲めばお昼まで十分持ちます。元は母が子供のころによく朝ごはんに作ってくれたシェイク。もし試してみたらご感想を教えてください。
2007年10月01日
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自分はいろんな点でマイノリティ性を持ち過ぎちゃってて似非ベジタリアンであることもそうなのだけどそれゆえ、いつもいつも自分を説明・弁護しなきゃいけないのでアピールしたいことについて以外は一応沈黙を守り通すのを常としている。ところが、ここ何ヶ月かでいろんな人のブログやら日記やらミクシィコミュニティ内でさまざまな食生活形態に関していろいろと書いた人たちがいてそれについたコメントなども見て思ったところもふんだんにある。というわけで、それについてちょっと思ったことをまとめてみた。まずは、もし肉食をしなければ生きていけないところにいる人間も菜食であるべきだと思うのかって点。全然思わないわ、そんなこと。人間、雑食ですわ。本来なら肉は少量摂ったほうが体にもいいとは思う。ただし、現代の先進国の大多数の人が食べているようにほぼ毎日は食べすぎだと思う。多分適量は1週間に200~300グラム程度でしょう。または月に1~2回くらいたっぷりと。ところが、現代の先進国では、中流層以上の人なら肉を食べなくても十分に健康的に生きていける環境がある。それは、肉や酒・タバコなどの嗜好品を過剰摂取しても一応は健康的に生きていけて、長生きまでできちゃうようなところにも端的に現れてると思う。そういう中で、肉を全く食べずに生きると言う選択も(私自身は卵・乳製品に加え、魚も食べる似非ですが)一見限定的であるようで、実はそれでも十分バラティーのある食生活ができるし栄養も十分に摂れるので今、ここに生きているからこそできる贅沢な選択だと思う。次に、肉食動物のいわゆるアンチ・ベジタリアン性について。肉食動物が、狩りをして動物を捕らえるのは残酷ではないの?人間もそれと同じことをしていると捉えられない?って言う発言をよく耳にしますが、全然違うと思います。自分で食べる肉を自ら狩って自ら捌いて自ら料理し食卓に乗せることをしてる人はあるいは肉食動物とより近い関係にあるかもしれない。特に、その狩りの目的が娯楽を主な目的としていない場合。ところが、現代の先進国で売られている肉は狩られていないだけでなく多くの場合は、ひどい状況下で育てられ(例えば狂牛病があんなに広まった背景には本来は草食動物である牛のえさに同じ牛の脳が入っていたというのもあった。)殺され、出荷されている。そして、それを食べる多くの人は「自分でその牛・豚・鶏を殺してみな」と言われても「そんなの、気持ち悪くてできない」と言うのではないかと思ってる。実際、食肉処理場見学に行って何年も肉が食べられなくなった人も知っている。私は、もし肉を食べるとしても殺されるその瞬間まではのんびりと放牧され慈しみ育てられた動物しか食べたくないと思う。(実際、肉も食べる人であればいろいろとしたくない妥協もしなければならなくなると思うけれど。)人間は、肉食で、本能的に狩りをするしかできない動物でないからこそ最初から殺す目的で動物を育てることができる。そして、そういう力を持っているからこそ、それを行使するときにはそれなりの責任を負わなければならないと思う。だから、本能的に狩りをすることでしか生きていけない動物の狩猟・肉食行為を人間の肉食行為になぞらえるのはおかしいと思う。さて、では「なんでもおいしくいただきます」という姿勢がいいのかと言うとこれはこれで「なんでもって言っても犬を食べるのはちょっとやりすぎでしょ・・・」とか「ウサギを食べるのはさすがにちょっと残酷なんでは・・・」とか言う声が聞こえてきたりする。そういうのを聞くとああ、結局この人は「自分の限度」を超えるものには嫌悪感を持つものなのかな、と思う。「なんでもおいしくいただくのがよろしい」 ↓「肉を食べなかったり、その他の食事制限があるのは単なるわがまま」 ↓「でも「なんでも」にも実は[発言者の]「許容範囲」が隠されている」ということを見せ付けられると要は、自分と違う食生活をする人が許せないだけなんじゃないかと思えてしまう。そうすると、まじめに相手をするのがくだらなく思えてきてしまう。最後に蛇足だが「宗教的理由があるなら納得できるけれど自分で勝手に菜食になるのは単なるわがまま(=好き嫌い)なのではないか」という意見に出会うと、私はなんだかわけがわからなくなる。私の菜食気味である理由のひとつには宗教的理由もあるのだけどそれでも、個人的には宗教的・文化的理由での菜食主義よりは環境保護などの観点からのベジタリアンの人の理屈のほうが私にはわかりやすいし自分が菜食主義者でなくても納得しやすいと思う。なのに、イデオロギーに基づいたベジタリアンは「好き嫌いをしてるだけでわがままな人間」というレッテルを貼られて「宗教的・文化的理由のベジタリアン」は尊重されるべきもの?んんん???と思う。
2007年09月25日
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昔、「幸福の手紙」とか言うのがあったの覚えてますか?ほれ、あの「この手紙を一週間以内に15人の人に送らなければあなたは不幸になる」ってやつ。最近(ってわけでもないけど)、メールでもこれの発達した版が出回ってます。ただ、その「これを回さなければ不幸になる・・・」って脅し文句はきれいさっぱりなくなってますが・・・。最近届いたのでは簡単なレシピを交換しつつ回すというのがあります。これ、前にも回ってきたことがあるのだけど思いっきり無視しちゃいました。今回はどうしようかと考えあぐねてるのだけど今回は、別のルートでAにも同じものが届いてました。そしたらA、意気揚々と「キムチのレシピを書いて送ろう!」とな。でも、ちょっと待って。簡単に手に入る材料で(これはクリアできるけど)わりと手早くできる料理のレシピを送るようにって書いてあるよ?と言ったら「オレ、そう言う料理、嫌いだ。やっぱりやめた。」だって。思わず笑ってしまいました。まあ、確かにあなたは凝り性。そして、そのおかげで私は毎日おいしい食事をいただけるのだから文句は言わないよ?今晩なんかは、すっごい久しぶりに私一人で食事したのだけど前もって今晩は私一人だとわかっていたので、Aが昨晩トマト・ソースを余分に作っておいてくれた。私はそれを使って、お手軽にピザを作って食べました。おいしかった。そういえば、昨晩母親と話してたとき、ちょうどAがここ2週間ぐらい「作ろうって思ってるんだけど~」と言っていたなすのパルミジャーナをせっせと作ってるところだった。Aの作ったのは、イタリア系アメリカ風でスパゲッティ・トマトソースになすのパルミジャーナをのせたもの。ボリュームたっぷりだったけど、ものすごくおいしかった。で、そのトマト・ソースだけど、実はこれAの得意料理の一つである。私は私で、最近強力粉を買ったときに「そういえば、ピザ生地ってすごく手軽に作れるんだよねぇ」と思い出していて、すごく作りたくなっていた。そして、それをAに言っていて「トマト・ソースを作ってくれればピザ生地を作るよ」とすでに持ちかけていたのでトマト・ソースはすでに余分に作ってくれていた。というわけで電話口で母親に「今、Aがトマト・ソース作ってるの~。今日はなすのパルミジャーナで明日はピザにしようかと思ってて~。」と言ったら「ああ、はいはい。あなたのところはさながらレストランよね」と言われた。う~~ん、確かにそうかもしれないなぁ~~、と思った。だからこそ、「手軽なレシピを回そう」と言う話には見向きもしないAなのですが・・・。
2007年09月24日
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雑誌とかによく特集されている(と聞く)デートコースとかデートのためのオススメの場所をまじめに受け取る感覚が長いことよくわからなかった。「好きな人と一緒にいるならどこにいて何をしてようが関係ないじゃん」と、非常に長いこと思っていた。逆に、「デートコース」とかに気を使わなきゃならないなんて相手との会話や実際の相性に自信がないんじゃ?と思ったりしていた。そういう感覚に変化が起こり始めたのはAと付き合って2年ぐらいしてから。それは、婚約したかしないかのころ。当時住んでいたところにあったたまに乗る路面電車から見る夜景が美しくて「ああ、これをAに見せてあげたい」となんとも素直に、そして強烈に思った。そして、何か美しいものを見るたびに「これもAに見せてあげたい」というか一緒に見て「きれいだね」と言ってみたりAはどう思うのか知りたい、と思ったりした。美しいものを一緒に愛でる仲の良い友人に対して「~~だったらやっぱりきれいだって言うかなぁ~見せてあげたいなぁ~」と思ったことは今までに何度もあるけれど付き合っている相手に対してそう思ったことはほとんどない。そして、Aと長くいればいるほどいいところを発見するたびに「これは、次のデートのときにAを連れて来たい!」「これは、Aにも見せたい!」と思ったりする頻度が増えていくようである。独身のころなんかは全然興味のなかったデートスポットとかデートコースとか言うものにどんどん関心が強まっていく自分を感じる。そうか・・・。大切な人と特別な時間を過ごしたいと思ったらデートでどこに行って、何をするか、ということが大切になってくるのだなぁ、と思う一方でいや、でも、元々一緒に暮らしていない相手と会うという行為自体が特別ではない?じゃあ、どうしてわざわざデートにこらなければならないの?と思うのも本当。私が恋人であるAとのデートに凝りだしたのはやっぱりAと一緒にいるのがある程度「普通」のことになりだしてその中でちょっと「特別」なことをしてさらに二人の時間を特別なものにしたいと思い始めたからであって会うたびに、毎回「特別なこと」をしていたら気疲れして、ちょっと食傷気味になってしまってたと思うから。ま、でもこれは、私の性格だと思いますが。イベント好きな人には、やっぱりデートもひとつのイベントであり特別にする価値のあるものなんでしょうなぁ~と感覚の違う私は納得しようとするしかない。
2007年08月13日
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今日は心底、Aと結婚して良かった~~と実感した。今日、実家から帰ってくる途中、電車の中で不愉快なことが続きAの待つ我が家に帰ってくるころには不機嫌度絶好調。迎えに来てくれたAはぷんぷん怒ってる私に「そんなことで・・・」と呆れたり無視したりせずに「本当にそうだね。そういうときにはこうしてみたら?」と冗談半分、本気半分で提言してくれた。その間中も笑顔は崩さず。その後は、重い荷物を全部持ってくれて二人でカフェに行ってニコニコしながらもっと話を聞いてくれて自分の一日のことも話してくれて。なんか、まだ電車の中でのことには腹が立っていたけれど帰ってくる先の相手がこの人で本当に良かったぁ~とも思った。この人と、こういう関係になるチャンスは一回、街中ですれ違ったあのときだけでそのときに声をかけるだけの勇気が出せたから、今があるなんてなんか不思議でたまらない。
2007年08月12日
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「国際交流」「国際理解」「国際」何たらと言うものに非常に強い猜疑心を持っている。その根は、ある「国際学校」に行った時に由来する。ことあるごとに「日本人に見えないね」と言われて育った私は17の夏、(インターナショナルスクールではない)「各国の若者を集めた、しっかり根付く国際交流」を目指した「国際学校」に行けばそんな言動から逃れ、自由に自分でいられるパラダイスに行けるものだと思っていた。結果は、大間違いだった。何かと言うと私の日本人性は、日本人にも、日本人でない人―特に他のアジア人―にも疑われた。一人ひとりが本国のミニ大使である場において私はどこをも代表しない(させてもらえない)存在だった。自然に個人になれるなんてうらやましい、と思われるかもしれない。それもひとつの見方かもしれないが、「自国」を持てない、「自国」を持つ選択肢を最初から与えられてない、と言うのが私の実感だ。本当に国「際」の産物の人は「国際的でうらやましい」と言われるけれどもそれ以外の場所に身の置きようがない。うらやましいもへったくれもない。「ハーフなんてかっこいい!!」なんて能天気なことを言ってる人には自分がそうだと実感して言っていること(=「日本人です」)を物心つくころから赤の他人に否定されて育ってごらん、と言いたくなる。「かっこいい」なんて言うのだったらちゃんと私の今いるところに私の居場所を作ってから言ってください。私をどこかに追い出してそれから遠くから見つめて「かっこいい!!」はあなたの自己満足です。やめてください。「ハーフ」なんて国も地域もないから。「どこの人ですか」って聞くのだったら「ハーフです」って答えを期待するのはやめましょうよ。だから「国際」的な場は嫌いです。自分の属する「国」の典型を体現していないと、みんな納得しないから。
2007年06月27日
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こんにちは。どうも最近ブログの方向性が見失われつつある状況ですがとりあえず、こんにちは。今日はびっくりしたことをばひとつ・・・。私、なんとも不便なことに塩素系やアンモニア系の刺激の強い洗浄剤などに弱い。非常に弱い。自分で使うことはもちろんままならずそういう洗浄剤・消毒剤が使われたところで一定以上の時間を過ごしてしまうとなんとアレルギー反応のせいで、元凶はなくなっても2日間ぐらい寝込んでしまい3日目ぐらいにやっと普通の生活に戻り始められるという有体。というわけで私はもちろん使わないし、ほかの人が掃除してても私がいる限り家の中では使えない。残り香だけで反応してしまいますから・・・。そういうわけで普段からおうち周りのお掃除には酢や重曹が大活躍してるわけですがこの間、買った重曹の袋にこげつきの落とし方が書いてあったのでそのとおりやってみたら・・・・なんと、おなべが買った当初のごとくぴかぴかになってしまいました!!感動!!!やり方はいたって簡単で焦げ付きのついてるおなべに水と重曹を大匙1~2杯程度入れて煮立たせてからしばらく置くだけ。すると、焦げ付きがふんわ~り浮いてきてスポンジでこすらなくてもいいくらい。すごい!!まあ、こういうのって人によっては常識で知らない人にとってはすごいことなんでしょうが・・・。とにかく感動しました。まだ試したことがなかったらどうぞお試しあれ。
2007年06月21日
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昨晩は、ちょっと遅れた私のバースデイ・ディナー兼火曜日の晩知らせの届いた吉報の2本立て祝辞のため、家族そろって晩御飯。とにかくお腹いっぱい食べ、家族みんなで楽しい時間を過ごせた。帰って来てからもまだ興奮が冷めず寝床に入ってからも、何時間もいろいろな話をしながら夜が更けていった。話題の内容は、それこそ「つれづれなるままに・・・こころにうつりゆくよしなしごとを」語っていただけなのだけどそのうちのひとつにもし離婚したら・・・ってのが入っていた。そもそもの始まりはAの大学時代の親友で今離婚調停に入っている人がいるのだけどこの人が、まだ正式に離婚していないのにすでに何人もの人と正式に付き合ってきているから。これは、双方ともそうしていてお互いこれをオープンにしているので浮気とか不倫とかそういうものではない。そして、うちらにとっては、想像の域を全く出ないのだけど「もし自分がその立場にいたら~・・・」「絶対やんないだろうなぁ~」と二人して言っていた。もう離婚すると決まっている相手だから相手に対する義理とかそういう理由ではなくて裁判とかで親権の話になったときに不利になるかもしれないから、って理由。まあ、実際そのときになったらどう思うかはわからないけど。で、こういう話をしてるときに私は普段、できるだけ自分の状況に照らし合わせて考えてみるようにしてる。ところが・・・昨晩は、どんなにがんばって想像してみようとしても「離婚相手」をAとして想像できなかった。どうも、ふっと想像上の離婚相手をAにしてみようとするとうまくいかない、というか、そこで思考停止してしまって周りの「離婚」とか裁判に関する想像がうまくいかない。と言うわけで、お互いとっても抽象的な想像上の「離婚相手」を想像しながらそういう話をしていたってことを、今朝、お互いに告白しあっていた。そして、まさに「離婚するってこと自体、想像もできないんだよねぇ~」「そうそう、僕も。」なぁ~んて、言いながら、カーテンを引っ張ったら・・・・チリーン!って音がして3週間ほど前から行方不明になっていた指輪が現れたのです。人生、探し物をしているときにどういうおまじないが利くかはわからないものです。
2007年06月08日
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家に帰った荒沢を待っているのは、忙しい母親が残しておいてくれた手料理だ。「食べなきゃ・・・」いつもそうは思うのだが、食べることを考えただけで気分が悪くなる。無理して食べた日には、少量であるにもかかわらず、必ず吐いてしまう。父親より一足先に帰ってくる母親は、「イクちゃん、今日は学校どうだった?」といつもどおり聞く。「うん・・・」はきはきと答えられなくなったのはいつごろからだろうか。荒沢にはもうわからない。でも、母は異常にもう長いこと気づいている。邦実が、学校から帰ってきてからあまり話さなくなったのが中学校2年生の終わりごろから、ということも把握している。そのころは、特別気にすることもないと思ってゆったり構えていたが、異変に気づきだしたのは高校生活が始まったころからだった。どうも、様子がおかしい。周りのことをあまり気にしないはずの子だったのに、気づくと朝、鏡の前でもたもたしていることが多くなった。学校から帰ってきたときの気分の浮き沈みも激しくなっているようだった。折に触れて、母親は何でも相談しろ、と言ってきているし、毎日一回は「何かあった?」と聞く。でも、邦実は潤んだ目で母親をみつめるばかりで、口からは何も出てこない。言いたいことがあるのは、わかっている。それがどんなにくだらなく思えることでも、まじめに受け止める覚悟もできている。でも、邦実には、まだ何かを言い出せるほど、気持ちがまとまっていない。こんなとき、待つ以外にどうしたらいいのか、母親にはわからなかった。―――――――――これは、フィクションです。よろしかったら、ぷちっと応援よろしく。
2007年05月17日
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音楽には具体的な情景を思い浮かべさせるものや音自体で遊ぶものとがあるんだなぁ~と思った。こないだは、複雑な経緯でわたってきたコンサートの招待券が思いがけず手に入った。久しぶりに感動した。音楽を聴いてあんなに感動したのは、子供のころに連れて行ってもらったピアノのコンサートに連れて行ったもらったとき以来だった。今回の最後の曲は、あまりに良くて涙をこらえてしまうぐらいだった。指揮者は腕全体をくるくると回す特徴のある指揮姿でオーケストラの音のまとまりは第一バイオリンが感情表現豊かな一人のバイオリン奏者に聞こえるようなすばらしく息の合った演奏。技術的なところでは、心配するところはなにもない、と言った安定した演奏。勝負は、その技術的に完成された音にどれだけ表情を持たせることができるかどれだけ聴衆を突き動かせるか、にかかっていた。一曲はバレエ曲だったのだけれどその曲を聴いている途中でドイツかフランスのおとぎ話に出てきそうな深緑のうっそうとした森の情景が目の前に浮かんできて本当にびっくりした。こういうのを聞いていると「やっぱりヨーロッパ文化はすごい」と思ってしまう。「こんなに完成されたものを持っているような文化はさぞかし素晴らしいのだろう」とため息をついてしまう。やっぱりそういうのを実感する瞬間というのはすごいものを見せ付けられたときなんだな、と思った。で、それを指揮している人が世界をまたに掛け、活躍している「アジアン」だというのがまたすごくかっこよかった。そういう人の常としてその人自身、かっこいい人なのですが。ある意味当然かも。すごく人柄も良さそうで、それも良かった。感動して泣けるチャンスはそんなにないのでそういうチャンスに恵まれたことを非常に幸せに思った。またあんな素晴らしい音とホールに会えるのはいつだろう。今から楽しみにしてしまう。よろしかったら応援お願いします。ぷちっ。
2007年05月15日
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今日も荒沢を連れてくる井沢の様子を見ながら保険室を担当する林先生は、井沢の困惑を見抜いていた。林は、思春期にいる荒沢の心のゆれの危うさを考えていた。そして、原因がはっきりとはわからないながらも、こういうものは長期戦になることを知っていた。そもそも、食べなくなってしまうところから考えてはいてはだめだ、と林は考えている。原因はその前に積み重なっている。問題は、積み重なった問題が何で、何がきっかけでそれが放出したか、だと林は、井沢に伝えたくて仕方がなかったが、相談を受けてもいないのに、そう言うことを口に出すのもためらわれた。井沢は井沢で、林に荒沢のことを相談してみようかと考えてみたこともある。でも、倒れた後の荒沢を収容するだけの保健室で働く、ちょっと自分よりも保健や病気の知識があるだけの林「先生」にいったい担任である自分にもわからない何がわかるだろうか、とも思った。井沢には、摂食障害が一種の「気から来る病」であるという意識が希薄だった。しかし、この学校では、それが普通だった。多くの教師たちは、健康な体には健康な精神が宿る、と信じているふしがあった。荒沢は、また保健室のベッドで目覚めた。「今学期に入ってから、何度目だろう・・・。これじゃあ、もう、授業にもついていけないなぁ。申し訳ないなぁ。」ぼんやりした頭のことで考えるのは、両親や家族にたいしての申し訳なさだけだ。でも、荒沢自身にも、食欲がまったくなくなってしまったのに「これ」といった理由が見つけられるわけではない。起きてくると、林先生がいつもどおり、机で何かをしている。振り向いた林は、これもいつもどおり、「気分はどうだい?」と聞いてきた。「この先生は、いつも何も聞かない」と、荒沢は少し不満げに思う。林は林でタイミングをうまく計ろうとしているのだが、どうもそれがいつだか良くわからない。自分があまりいろいろと聞かれるのを嫌がるタイプだし、向こうは「多感な年頃の」女の子なものだから、ついいろいろと聞くのをためらってしまう。でも、荒沢は、「今日の気分」以外の、もっと実のあることを聞かれるのを待っている。自分の中のこんがらがった糸をほぐしてくれる相手を探している。でも、何ヶ月も通っている保健室の林は、その役目を果たしてくれそうにもなかった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれは、フィクションです。よろしかったら、ぷちっと応援よろしく。
2007年05月06日
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お腹の中がぐるぐるしてる。気持ち悪い。感触がない。目の前に雪が舞ってる。やばい・・・、やばい・・・・。倒れた荒沢の前に現れたのは、担任だった。「また倒れたのか・・・。ちゃんと食べてるのかぁ、こいつ。」軽すぎる荒沢を背負って保健室に連れて行くのは担任の井沢にとってはすでに当たり前のことになっていた。井沢は、いつもどおり保健室の先生に荒沢のことを頼んでいった。荒沢がちゃんと食べていないのは、誰が見ても一目瞭然だった。体重などで悩む年頃なのは、井沢も知っている。そして、なんらかの摂食障害に悩み、体調を損なう生徒がいるのも毎年のことだった。でも、井沢は、摂食障害が体重を気にしてる生徒だけに起こるものだと思っていたから、荒沢の場合はちょっとわけがわからなかった。荒沢の場合は、どうも入学したてのころから、体重というものを気にしたことがないような印象を受けていた。それどころか、荒沢の価値観は、明らかに他の生徒から大きくかけ離れていた。体重や自分の見かけよりも、もっと大切な何かがある、という使命感の元、勉強やスポーツに打ち込んでいるのは、今ごろの女子高生にしては丈の長いスカートをはいていたり、常に唇を引き結んでちょっと不機嫌な表情をしているところからもわかる、と井沢は思っていた。井沢は、そういう荒沢に頼もしいものを感じていた。だからこそ、夏を境に荒沢がどんどんやせ始めた当初は、気づかなかった。荒沢の異常なやせ具合に気づきだしたのは、荒沢がひんぱんに倒れだす1ヶ月前、冬休みの前あたりからだった。その冬の期末試験あたりから、荒沢の成績も落ち込みだした。井沢にはどうも、何が起きているのか、わからなかった。ーーーーーーーーーーーーーーーーこれはフィクションです。ところで、ブログランキング、復活しました!よろしかったら応援お願いします。ぷちっ。
2007年04月30日
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結論から言うと、妙に充実しております。昨日、ついにAは豆腐作りを再開。私がやっとミキサーを買ったのを機に何ヶ月か家に眠っていた黒大豆を引っ張り出し、お豆腐を作りました。もったいなくてまだ全部食べてはいないのだけど味見の結果、めちゃめちゃおいしかったです!!そして、今日はその豆腐作りの途中で手に入ったおからを使っておからと小松菜の炒め物が食卓に参上。妙に新鮮で濃厚な味がして、うまかった!!で、今晩、野暮用で夕方出かけていた私を待っていたものはこんがり茶色の揚げたてのさつま揚げ!!いやあ、これがうまいのなんのって!!さっそくパピィ&マミィに「食べにおいで!」とお電話しました♪ででで、今晩はさらに何日か前から下ごしらえに入っていたキムチをやっと漬けたらしい。こちらはもちろん何週間か待たなきゃならないけれど・・・。とにかく、再度充実してきた家の食糧事情を眺めつつ私はなんて幸せ者・・・・と幸せをかみ締めているしだいでございます・・・。
2007年04月24日
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振り向いたのは、誰かに呼ばれたと思ったから。でも、よく考えてみたら、私の存在は、ないことになっていたんだった。だから当然、私の名前を呼ぶ人もいるわけがない。もし私のことを話す人がいたら、たとえクラス中に言うのであっても「あいつが」と言うだけ。私の名前ですら「汚い」から。その状態があまりにも当然すぎて、自分でも忘れていた。でも、そんなことを考えていたら、名前を当然のように呼ばれる隣の席に座る「わに」がうらやましくて仕方なくなった。でも、そんなことを考えていても仕方がない。私の名前は呼ばれない。私の存在は消されている。隣に座りたくない、同じ班にいたくない「負」の存在として以外は。―――――――――――――――これは、フィクションです。
2007年04月24日
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実家から遠く離れていたときは家に電話をかける頻度が自覚症状はなくてもいかに今の自分が不機嫌なのかに気づくきっかけになっていた。機嫌が悪いと家にやたらと電話をかけるようになる。遠くにいる家族に癒しみたいなものを求めていたのかもしれない。さて今、わりと実家のそばに住んでみると「帰りたい」と思うとわりとその思いは簡単にかなえられるせいかわからないけれど不機嫌度は実家への電話の回数には現れず代わりにいかに特定の人の本を読むかに現れるようになる。ファンには非常に悪いとは思うけれど私は村上春樹氏のフィクションが大嫌いで(エッセイは面白いと思うのだけれど)読むと非常に機嫌が悪くなるということが、この間判明した。というか、彼の書いた長編を今まで読めたためしがなかったのだけどあるきっかけで「読んでみるか」となったのだ。そんな長いものでもないしそれどころか読みやすいはずなのに読みきるのにすごく時間がかかりついでに尋常でないストレスがたまった。すごく読みづらくってあまりに機嫌が悪くなってしまったために200ページほどを読んだその日の夜に会った母には「どうしたの?なんかあったんじゃない?」としつこく聞かれた。で、「何があったっけ?Aとの仲も今はすこぶるいいし・・・でも、何か理由があるような気がする・・・・」と考えていたら何のことはない村上春樹本をOD(オーバードース)してしまった結果だということに思い当たった。本当は、その晩、家に帰って残り200ページ弱だかなんだかを読みきってしまう予定だったのにあまりの機嫌の悪さに危機感を持った私は現実逃避に走ることにした。そして、取り上げた本は毎度おなじみ斉藤美奈子本。今までは日本語の本がなかなか手に入りにくいという環境もあり好きな作家や物書きのものは小出しにして楽しみを減らさない努力をしてきた。でも、最近は日本語の本に囲まれている贅沢から斉藤美奈子、篠田節子両氏の本を読み漁っている。でも実はこの二人の本をどれだけ読んでいるかは今の私の不機嫌度バロメーターになっていることも最近わかった。だって、面白い。斉藤美奈子本はいろいろと脳を心地よく刺激してくれしかも笑かしてくれるので脳のマッサージを受けたような気分になり篠田節子本は、もう全然別の世界にいやおうなしに私を連れ去ってくれる。というわけで、不機嫌度が増すと彼女らの本を手に取る。でも、この二人、著作数が多いといっても一介の読者のスピードについていけるわけがない。切れたときにどうしようか・・・。今はそれが目下、不安の種。
2007年04月23日
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山を見つめるようになったのは、いつからかわからない。あるいは、大好きな話をそこで落としたときからだろうか。大好きなものをあそこに落としてきたから、気になって仕方がないのだろうか。今日もかなたにそびえる山のうねを探して、私の目は地平線の上を泳いでいる。――――――――――今日もボクは、つい好きな人の頭上の向こうを探ってしまう。今現在、ボクはここにいるのに、いつも探しているのは、もっと向こうにある何か。その「何か」が何なのか、ボクにすらわかっていない。答えを知る日は来るのだろうか。――――――――――手元ばっかり見るくせがついたのはいつだろうねぇ。老眼がひどくなったときからかしらねぇ・・・。前は縫い物は好きだったんだよ。嫌なことがあっても、不思議と気分が落ち着いてくるもんでね。でも、いつごろからか、それが楽しくなくなった。そのころから、何もせずに手だけ見るようになったような気がするねぇ。―――――――――ほんとのところは、誰にもわからない。もしかしたら、視線の先にあるものが見つかる日がくるのかも知れないし、ずっと見つからないのかもしれない。でも、自分は何かを探しているかもしれない。そう感じるだけでも、なんらかの安堵を得られたことはないだろうか。―――――――――――これは、フィクションです。
2007年04月19日
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「まじめ」であることは疲れる。窓から空を見上げながらマキは思った。明日からは「フマジメ」になってやろう、と真面目に思いつめている自分に気づき、マキはふっと息を漏らした。最近、疲れてきている。そして、タマもそれに気づいている。面倒を見なければならない存在がうっとうしい。なんでもっと自分で自分のことができないのか。・・・タマとマキでは年齢差が大きいわけではない。仕事も二人ともしている。ただ、タマは出勤する仕事で、マキは在宅の仕事だ。在宅だともっと時間が自由になると思われがちなのがマキは不満でたまらなかった。在宅仕事ということは、何時間かけても仕事が納品できなければ、収入がないということだ。その点、出勤していれば一定以上の収入が得られる職種はうらやましいとすらマキは思う。もちろん、タマのこぼす愚痴を毎日聞きながらもそこに勤めたいと思うわけではない。でも、出勤形態の職種が全部そういうわけではないだろうとも思う。勤めに出てみようか、とはマキの心のつぶやき。・・・タマは帰りのバスの中で、最近のマキについて考えている。最近イライラしているのは、よくわかる。ただ、理由がよくわからない。「何かしたっけかな?」ちょっと考えてみてもあまり思いつかない。「もしかして愚痴のこぼしすぎ?それともマキの体調の変化?・・・・。なんだろう・・・・よくわからない。そろそろ聞くしかないかな。」家に帰ると、マキは待ちかねたように「そば、食べに行こう」と言う。久しぶりに機嫌の良いマキを見て、タマはちょっとほっとする。マキは、たまに思いつめてしまうことがあることをタマは良く知っていたが、そういうときにどうすればいいかはまだ良く把握していなかった。タマはそういうとき、そのうちわかるようになるだろうと思うと同時に、マキをよく観察して、自分のどういった行動や言動に反応しているのか気をつけて見るようにもしていた。今のマキの機嫌の良さは一時的なような気がするけど・・・。・・・そば屋で大好物の月見そばをすすりながらマキは言った。「アタシさ、外に出て働こうと思うんだ」タマは仰天した。「えっ、マキ・・・。だって、あんた、高校のときバイト以外で外で働いた経験ってあったっけ?」「ないよ。でもさ、なんだか家にいるといらないことをいろいろ考えちゃってさ、あまり良くないと思うのよね。アタシにとってもタマにとっても。」「私は別にいいんだけど・・・。マキがちょっと心配だよ・・・。それに今の仕事はどうするの?」「一応受注した分は終わらすよ?でもさ、私の仕事って出勤形態にしてもちゃんとできるものだと思うのよね。だから、家にいるのが良くないんだったら思い切って外に出て仕事してみようと思って。」「いいけど、それはいいけどさ・・・。でも、それじゃあ家事とかはどう分担することにしようか?二人とも家から出ちゃうと、日中に済ませなきゃならないものとかが積み重なるじゃない?」マキの目が光った。「今まででも、家事分担は問題だったんだけどね。」そこでタマは気づく。そうか、これは自分にも家事をさせようという作戦だったのか。「・・・・マキ。・・・・これからちゃんと家事分担するようにするよ。それでもまだ外で仕事がしたいっていうならまた話し合おう。」マキはちょっとびっくりする。外で働こうと思ったのは、別に家事分担の不均等だけが問題ではない。でも、それが解決されれば気分もまた変わるのだろうか。マキはもうちょっと様子を見てみることにした。ーーーーーーーーーこれはフィクションです。
2007年04月16日
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書きたいことはいっぱいあったはずなのにまっしろな紙を目の前にしてしまうと考えていたはずのことまで白紙にもどってしまう。こちらをにらみつけているような白紙が怖い。「ほら、なんか書くことあるんでしょ。さっさとしてよね。こっちもあんたもいつまでそこにそうして座ってるヒマはないんだから」私にもそういうヒマがないんだとわかってくれているその気づかいには気づけずにひたすら「白紙」を恐れる自分がいる。何かを書きだしちゃうとさ。字の順番どおりにしかモノゴト描けないから同時性ってものが出なくなっちゃってすごくやりにくいんだよね。わたしたち。経験するんでも。考えるんでも。字みたいに順序良く順番をおってやったりしないじゃん。たいていはもっと混沌としてて立体的な経験じゃん。だからさ、書くってすごくやりにくいんだよ。と「白紙」にささやかな抵抗を試みるも「白紙」はそれに答えずただ待つ。けっきょく「白紙」をそうでなくさせることができるのは自分だけ。そう思い知らされる。ーーーーーーーーーーーーーこれはフィクションです。
2007年04月16日
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なぁ~んだかなぁ~・・・・。最近、いろいろと鬱屈しちゃってるんだよねぇ・・・。理由は大体わかっているんだけどね。いろんなことの総合でありまする・・・。しつこいようだけど、まずはコンピューターのこと。(苦笑)これ、かなり重症なようでついにショップに修理に出さなければならないもようなのだけど、そうするまでまた長いことかかるのもわかってる・・・。涙。そして、一番最近では、我慢ならない本を読んでいること。その本とも明日でおさらばなはずだけど。今日、お母さんと会ったときに「なんか、機嫌が悪いようだけど、何で?」と聞かれてうまく答えることができなかったのだけど後で考えてみたら、その本のせいもかなりあった。そういうわけで口直しにこないだ衝動買いした斉藤美奈子本をちょっと読んでみたらかなり機嫌が直った。単純。笑。でも、ここまで本に影響されちゃうなんて、私も危ういね。もっと基本的なところでは、ここまで気分がアップダウンするわけに体調の危うさ&運動不足が影響大。ここ1週間ぐらい鼻炎のせいでけっこう激しい頭痛に悩まされていた。そこに追い討ちをかけるがごとく舌の右奥に炎症が発生しおかげで食べ物を食べるのもはっきりしゃべるのも一苦労。鼻炎のほうは、昨日かなり積極的に治療したためにおかげでひきつつあり、今日はもう頭痛はなくなったけど舌の炎症は相変わらず。こちらも早く治したい。でもなぁ~~、それ以外にもここ何ヶ月か何をどう言ったらいいかわからない抑圧された言葉たちが私の中で渦巻いているのがよくわかる。それが「ごちゃごちゃ」している最大の要因。ただ機嫌が悪かったり気分が悪かったりするだけでは「ごちゃごちゃ」した気分にはならないのです。せいぜい「むしゃくしゃ」する程度?なんか、何かを言ったら「それってネガティブにしか聞こえないじゃないか。またか・・・。最近、不満なことにしか目が行かないのか」(自分は嫌いなことで自分を規定する人間ではなくて好きなことで自分を規定するような人間になりたい、という理想に反するので問題。)「それ言ったら、~~が嫌がるかも」「それ、~~には耳たこだよね」「またそういうことばかり言ってたら<過激>だとしか思われない」などなど、いろんなことが気になって何も言えない。書けない。それでも、言える所があればいいのだけれど、最近では、周囲で(Aや家族を除いて)自分の考えを安心して述べられる相手が少ない。どうやら私は「激しすぎる」みたい。という感じがする。これはけっこう辛い。私は、常に自分では一番苦手とする「マイルド人間」を演じてなければならない。疲れる。Aや家族の周りでそうでなくていいと言うだけでも幸せなのだけれどもそれ以外のところで「浮く」ことが怖くて自分を抑えなければならないことにけっこうストレスを感じる。これが鬱屈している一番の理由だという気がする。加えて、自分のコンピューターが使えない今、好きなときに自分の考えをささっと書きとめて・・・がかなり難しい状態にある・・・。やっぱりPC問題、さっさと解決しよう・・・。
2007年04月15日
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コンピューター、とりあえずは復活したのだけれど、まだ完全ではありません。怖くてそこから先、手をつけられずにいて(今は必要に駆られていない、と言うのもあるけれど)そしていつまた何かを書いている途中にデータとともに立ち消えされてしまうだろうか、と思うとどうもコンピューターをつけ、ネットサーフィン以外のことをしようという気も失せ・・・現在に至っております。本業で使う用事ができれば四の五の言わずにまた使うようになるので、そうすればブログ書きのほうも復活することぐらいわかっているのだけどね。(^^;)さて、最近再度はまっちゃって怖いぐらいの物はと言えば斉藤美奈子氏の本。この間、今まで読んだことのなかった氏のデビュー作「妊娠小説」を読みました。痛快。抱腹絶倒。こんなに面白い文芸批評があって良かったのだろうか、否、もっとあるべき。構成的にもよく練られてます。ただし、私でも「お?そうか??」と思うような説明の足りないと思われる部分が一箇所。(第3章「妊娠小説のなかみ」の第1節「妊娠物語の類型学」の最後。)しかもそこが後々議論の一端として使われているのには「ちょっと待て!!もちょっと説明してほしい!!」と思いました。でも、それにも関わらずエンターテイメント性は抜群!他のところの論理構成も素晴らしい!!なんといっても第2章の「妊娠小説のしくみ」は絶品です。小説を野球のイニング式を使い、スコアボード化して、「終盤一発ぶちかまし型」「中盤盛り上げ型」「序盤先制逃げきり型」「全篇お祭り型」に分けてしまう。そして、極めつけは「妊娠濃度による分類」と呼ばれる料理評価法に基づく「読み終わったあとの胃のもたれぐあい」による分類法。分類のされ方は「妊娠スパイス級」「妊娠ミート級」「妊娠シチュー級」「妊娠ステーキ級」「妊娠ハンバーグ級」「妊娠パセリ級」(順番は濃度に比例せず)・・・素敵。素敵なのです!!私の中ではこの「妊娠濃度による分類」が一番お気に入り。ぜひおすすめ。そして、もし時間があったらアマゾンでの数々の書評も読んでほしい。結構おもしろい。そんなわけでまとまりのない今日ですが、さよなら、さよなら。
2007年04月12日
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言いたいことがありすぎてどこから始めたらいいかもわからなくなってる。そういう時ってありませんか?最近、簡単に疲れてしまうので一日がごくごく短くなってしまいやりたいことややらなければならないことが今までの半分もできません。早くこの状態に慣れてしまわなければならないのに。加えて、状態のおかしかったコンピューターを直そうとしたら逆にブートも正常にできない状態になってしまいました。必要最低限のものはバックアップしてあったけどここ何ヶ月か書き留めておいてあったものや購入してダウンロードしてあったものなんかはうかつにもバックアップしておいてなかったのでうかつに手を出すとクリーンインストールする羽目になって今までのものを全部失うんじゃないかと思うと怖くて手が出せず、代わりに手軽なインターネットだけで遊んでしまいます。それも良くないんです。自分のコンピューターに保存してあるいろいろなものを見ながら地道にいろいろなことを書き留めていかなきゃいけないところにあるのに・・・。コンピューターのメモリばかりに頼らず、ノートにメモをすることを中心にしておいてよかったとは思うけれどやっぱり何かをまとまったことを書きたいときにはいろいろと自分仕様にした自分のコンピューターの機能が使えないと不便。なんやかんやで停滞期です。明日あたりにでもいい加減コンピューターに手を出すかな。もう一週間以上経っちゃったしね。ダメだ、オレ。そういう気分。(笑)
2007年03月25日
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当然だけど、私も人間なので、規定概念を持とうと思っていなくても持ってるところはある。そのうちのひとつが性産業で働いたことのある人たちで新宿2丁目のお水の人たちと付き合いのある、またはあった人たちは性やセクシュアリティに対して、もっと「わかっている」人が多いということ。ああ、もうそんな考えがいかにばからしいかちょっと前に話題になったある本を読んで思い知らされた。その本の著者の書いてることを読んでみたら「男とセックスする男はゲイ」「女とセックスする女はレズ」「男とも女ともセックスする男?何それ?」(→「バイ」というコンセプトにあたったことがなかったってこと?)「まともな男はもちろん女とセックスしたいはず」「レズになる女の子は、本当に好きな男とセックスしたことのない不幸な女の子」(=男嫌いだから女に走る。)と、まあ、こういうようなことを思ってるんだろうな、とわかるところがあちこちにありまして・・・。考えてみりゃあ、下から二番目の「まともな男はもちろん女とセックスしたいはず」だって自然で理想的な組み合わせは「男女」と思っているからそう考えるのが自然になるわけです。この人、売春をしてたことのある人です。男娼をしてた人たちもリアルタイムで知っています。ちなみに、男友達を始めとするいろんな男に10代のころからレイプされまくってもいる人です。それに対して怒る気力すらもうなく、「ああ、そうか。男ってどこまでも行っても男で、これが当たり前なんだ・・・」と受け入れてる様子。レイプされることが当たり前なんて、かわいそうとか不憫とか言うのは嫌なのですがそれに抵抗できないと感じるところまできてしまっている彼女に対する思いはそうです。自分に対して振るわれる暴力に対してもう抗う気力を失い、「まあ、こんなもんなんだな」とあきらめるとこうなることもあるんだな、という反面教師です。とと、話がそれましたが・・・。そう、そのセクシュアリティに対する思い違いと言うか・・・。私の悲しい勘違いは、見事に打ち砕けました。でも、その勘違いは、案外性産業関係者が自他共に広めてるウソなんじゃないか、とも思いました。だって、彼女だって「私は職業柄いろんな人を見てきたから、ゲイだのレズだの平気だし」・・・暗に偏見も持っていない、と言外に匂わせている。でも、その浅はかな意識に基づく「偏見は持ってないよ」は、「私の身にさえ降りかからなければオッケー」ってレベルの話であってオープンさを装った無関心であるのは明らか。だから、旅行中に「実は私、レズで・・・」とある子に告白されたときに「襲われる?」と身を固くする。よく聞く話ではある。全寮制のある高校に通っていたときに誰かが実はレズだといううわさが流れた。私は無責任にもカミングアウトしてほしい、そしたらみんなも自分の「レズって変」から「ああ、全然普通の人でもレズでありうるんだ」と気づくはずだと思っていたから。そして、何よりももしその人が本当に女性が好きなんだとしたら自分にとって大きな一部分であろう「誰が好きか」ということを全く秘密にしておかなければならないことから生じる孤独感が気になった。自分の経験から、マイノリティの一番の敵は「孤独感」だと信じていたから。で、彼女がレズかも・・・という噂の行く先は、ルームメートの、彼女の前で着替えるのを恐れる暗い部屋で彼女と一緒にいたら襲われるかも、というルームメートの(うちの一人の)恐怖に直結したらしい。私は正直、呆れた。今思うのは、なんで恋愛関係はいまだに「襲う」「襲われる」で語られるのだろう、ということだけど同時に、なんつーか、恋愛関係にいろいろあって男女関係にもいろいろありつつ、同時に男女関係にありえないこともあるように男男関係や女女関係だって、もちろん一般の(男女間)恋愛関係と全く変わらないところもあればやっぱり男男関係にしかありえないことや女女関係にしかありえないことやその周りに育った、その国・地域ごとの異性愛者とそれぞれの同性愛者と両性愛者の恋愛文化の違いをみんなもうちょっと知ってもよさそうなものだなぁ~ってことだ。私はもぐりなので、そんなに知ってるわけではないのだけどそれでもちょっとした比較文化論を聞くと面白い。でも、それは論を振り回せる相手と話さなくてもゲイである友達と話して、「そういうデート上のしきたりがあるのね」と知ることからも得られる情報。でも、「あ、私は偏見持ってないから」に包まれた無関心では、その面白さを味わうことはできなくなってしまう。なんか、この本、すごいがっくりした。期待、なんでしちゃったんだろうか、ってちょっと思った。そして、セクシュアリティに関する人の意識なんて「こんなもんなのかなぁ」とも思った・・・・。それってちょっとあんまりなんじゃ・・・。と思ったよ・・・・。脱力・・・・。
2007年03月21日
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この間、すっごいいい映画を見に行った。その映画を上映している映画館、映画の始まる前にいろいろな注文があった。最初の画面では、「上映中のご飲食はご遠慮願います。ご飲食はロビーのみにて。」次の画面では「携帯の電源はお切りください。」そして3つ目の画面では「周りのお客様の迷惑となるので上映中のお話は絶対におやめください。」そしてやっと予告上映。次々と、黒字に白の慇懃な注意事項を書いただけの画面を見せられて、少々気がめいった。幸い映画鑑賞の妨げにはならなかったけれど、思わず連れに「なんかいろいろとうるさいね」と耳打ちしてしまった。これで思い出したのは、さるアメリカ都市の「大衆浴場」。北アメリカのお家には一般的に日本のように深いお風呂がない。そうすると何が嫌かって、体を深く沈めこむことが出来なくてあっという間にお風呂の温度が下がってしまうこと。どうも日本のお風呂のようには一息つけない。そこで日本式のお風呂に入れるところを捜し求めていたのだけどアメリカの「大衆浴場」は温かいプール浴場のようなところが多くてみんな水着は着てるしお湯はぬるいし、塩素いっぱいで汚いしとにかくきれいになるために行くようなところじゃない。ところが、さるところに住んでいたとき、そこのジャパンタウンに「日本式」大衆浴場があると聞きつけ、意気揚々と向った。確かに大きいお風呂はあったし、男女が(日にちによって)別れていたし、水着着用は禁止で日本式お風呂っぽかった。インテリアデザイン的に仏像の頭があちこちに配置してあっていかにも「ピースフル(平和的)でしょ」「(エキゾチックな)アジアン・スピリットよ」ってのに違和感を感じたけどそれも「まあ、お金儲けの一環よね。」で済ましていた。・・・・が、ふと見ると「おしゃべり禁止」の文字。「・・・・・はあ???」と思った。いやね、私はそのとき一人で行ったのだけれど、私にとっての大衆浴場の醍醐味と言ったらいろんな形のいろんな様相の女性が人目をはばからず・堂々とうろうろしてたり他の人たちと一緒に来てる人たちが何の話だか知らないけれど何だか楽しそうに話をしてる音を聞くと言うものだと思ってる。そのときも若い女の子が4~5人一緒に来てて明らかにみんなで裸になってお風呂に入る経験なんて今までしたことなくてすごくわくわくしててそのことについてみんなでワイワイキャイキャイはしゃぎたそうだったのにすぐに周りに注意されてしまって、代わりに神妙そうな顔をしたいかにも「私は悟ってるの」という顔をした年上の女性達が我が物顔でのさばってるのが私には気に入らなかった。この間の映画の予告を見て、そういうことを思い出したのだ。なんか、映画だとかお風呂だとか公共の場でやるものに私は神妙な静寂を押し付けるのが嫌いだ。その「大衆浴場」も結局なんか、粋がり過ぎてるような感じがして法外な値段でもなかったけれど安いわけでもなかったからそんな窮屈さを感じるためにわざわざ行く気も起きず行ったのは本当に日本式のお風呂に入りたくてたまらなくなったときだけ。映画は、そんなに厳重に注意をしなくても一般常識を守るような観客だったら大体は大丈夫だろう。そんな、三フレームも使って神妙に注意を促すべきものだろうか。なんか、注文が多いなぁ、と思った。別の、よく行く映画館もいろいろな注意を促す。でも、かわいいBGMがついていてお茶目な画像がついているし、そもそもルールそのものの促し方が、こちらにも良心も常識もある、という前提にたった物言い。「飲食は周りの迷惑にならない程度に」「携帯の電源は必ず切るように」(←当たり前のことなのだけど、忘れやすいので、この注意はどこでも言ってくれると嬉しい)「お話も周りの迷惑にならないように」と、どれも「はい、わかりました。基本は「周りの迷惑にならないように」ってことですね」と答えたくなるような言い方。まあ、好みの問題だろうと思うけれど・・・、どうも理由のよくわからない「何が何でもこれが決まりごとですから」っての、あまり好きじゃないなぁ。「これが原則でこういうルールなので、そこらへん念頭に置いておいてね」ぐらいが私は一番好きなのだ。・・・・やっぱり好みの問題だ。笑。ぷちっ。
2007年03月12日
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花屋の前を通った。ふわっと梅の濃厚なかおりがして先週末行ったハイキングでのことを思い出した。そういえば、山のふもとに降りたところでこの世のものとは思えないかぐわしい梅の花のにおいをかいだ。次の小さい山を登る手前でのことだった。行った先は家から電車を2時間半乗り継いだところ。少し遠かったが、都心を離れ、まともにハイキングをしたいと思ったらそこまで行くしかなかった。降り立ったところは、イルカのなごり雪にでも出てきそうな駅。一瞬、「タイムスリップ」したのかと思った。と、花屋の前を通り過ぎても梅の花のかおりはまだ私を包んでいる。後ろからついてくる人がいるようで、不安を感じつつも、おずおずと後ろをふりかえった。そしたら、私の好きな人が子供と一緒に大きな梅のブーケを抱えて立っていた。「ママ、お誕生日おめでとう」それは、これまでにない最高の誕生日プレゼントだった。―――――――――これはフィクションです。ぷちっ。
2007年03月07日
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大阪のオバハンや大阪の人に関するステレオタイプはいろいろあるけれども最近、大爆笑ものをいろいろと目にした。皆さんにもおすそわけ♪警視庁のHP(http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/koreisagi/koreisagi.htm)で「『大阪のオバちゃん』は振り込め詐欺にあいにくい」突っ込みに学ぶ 「なかなか『大阪のオバちゃん』のように突っ込みは難しい」と思う方という章がある、とマイミク・ななやんさんより情報ゲット。早速確認しに行ってみました。軽く、爆笑。いや、何よりも、それに応じて、「こんなリンクがありますよぉ~~~ http://www.youtube.com/watch?v=MouGK23AcH0」って読者がいたのが、さらに素晴らしかったかもしれない。これ、ちょ~~おすすめです。ぷちっ。
2007年03月04日
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このあいだ、たまたま本屋で手にした本。「ヒラリーとライス――アメリカを動かす女たちの素顔」岸本裕紀子「ものは言いよう」斉藤美奈子「ヒラリーとライス」は、実はもうけっこう前に読んだんだよね。元気が出た。世の中、立派な社会的に偉い女性たちは確かにいてそれを私たちは「例外」として扱わずに「お手本」として見ることができるということを身をもって実感させてくれる。そもそも、この本を書いたきっかけが、著者の昔から男性用雑誌でよく見かけた「あなたは信長タイプ?秀吉タイプ?家康タイプ?」という見出しを見て「自分は何タイプなんだろう・・・。女性だったら誰がお手本になるの?」と思っていたことを結実させた本らしい。確かに、某所某所に「あなたはヒラリータイプ?ライスタイプ?」という質問が投げかけられている。だから、この人たちは「例外的な女性」で(良い意味でも悪い意味でも)「一般の女性」とは共通点がない、というふうに読めないようになっている。もちろん、それだからこその問題は含んでいるわけだけど。問題点というのは、ここで作り上げられた「ライス像」「ヒラリー像」がちょっと胡散臭いのだ。(笑)はっきり言って、まともに政治評論みたいに読んだらまずいだろうと思う。これはあくまでも「あなたは、ライスタイプ?ヒラリータイプ?」本。さて、「ものは言いよう」のほうだけど実はまだ本屋でぱらぱらと立ち読みした程度でちゃんと読んではいない。でも、横山ノックのセクハラ事件に関する扱いが嬉しくて期待満々で購入してしまった。読むのはこれから。楽しみ~~~。
2007年03月01日
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圭は、好きになれないでも必死で慣れようとしている街中のコンクリートの上を歩いていた。うつむきながら自分のいっぽいっぽを見ているうちに歩くスピードによって時間の流れ方が違うことに気づいた。早く歩くと空間を切る足の速度が違うのはもちろんだが空間を切る足の、一瞬一瞬の「一瞬」の長さまでもが違うような気がしてきた。これがアインシュタインの言っていた「相対性理論」のことなのかなぁ~、と思った。これはフィクションです。
2007年02月19日
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サトの親指と人差し指が、ケイの人差し指を軽くはさみケイの親指と人差し指がサトの親指の外郭をなぞった。二人の手のひらはまだ重ならない。重なったらどうなってしまうのかこの二人にはまだ想像がついていない。ケイは、サトのまつげをサトは、ケイのまぶたを見ている。これは、フィクションです。ぷちっ。
2007年02月18日
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女1「ねえねえ、あの子、なんかミステリアス・・・。かっこいいねぇ。」女2「え?あ、ほんとだ。なんかさ、肌が褐色で足がすらっとしてる~~。なんだろ。黒人さんとのハーフかなぁ~。」男「ああ、まあ、一応美人なんじゃね?ちょー気ぃ強そうだけどな。付き合うのはダメだわ。」女2「何、話が飛躍してるわけ~~?」男「一度くらいやってはみたいけど、マジで付き合うのはごめんって意味だよ。だってガイジンの女って気ぃ強いじゃん。」女1「まあ、そうだけどね。」・・・・女2(小声で)「あ、後ろの人たち、韓国語話してるょ・・・。」女1(小声で)「うわぁ~~、本当だ~~。私、「冬のソナタ」はまってるんだよねぇ~~~。」男子「だっせ。韓国語ってどっかの方言みたいでどうも好きになれねんだよなぁ~。お前ら、あれ、ヨン様とかにもはまったりしてるわけ?」女2「ええ~。私は別に・・・。」女1「・・・ねえ、あんたさぁ・・・・。」(たまには何が好き、とか言えないわけ?)男「何だよ。」女1「・・・・別に。」これはフィクションです。ぷちっ。
2007年02月15日
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―――深夜、寝ている女性の寝室。(っっっ、痛っっ・・・。><)(何?ああ、またか・・・。早く終わらしてほしい・・・。涙。なんで男ってこんなに性欲があるんだろう。こんなの十年に一回でいいのに。早く終わらしてよね、本当。)―――終了後。(また血が出てる・・・。)女―「ちょっと!!やりたいんなら、せいぜい優しくしてよね!」男―「何言ってんだよぉ。気持ちよかったんだろ。お前、だんだん濡れてきてたぞ。(にやにや)」(そこで体が勝手に反応してくれてなかったら、私、今頃あそこがぼろぼろになってるって。自己防衛力だよ、ばか。)―――次の日。女「旦那が夜しつこいのよねぇ。寝てるときに気づいたらいつの間にか上に乗っかられてたり」友人A「そんなあ、まだ相手にされるだけいいと思わないとぉ~」女「でも、痛いのよ」友人A「だって、そんなもんじゃないの?アタシだって気持ち良かったときなんて、何回かしかないわよ。結婚前はイクふりしてたけど、結婚してからはそんなフリもしなくていいから楽になったぐらいよぉ~」女「そうなの?みんなも痛いのがまんしてるわけ?」友人A「そうなんじゃない?」女「そっかあ~。じゃあ、私も我慢しないといけないのかなぁ・・・」この話はフィクションです。
2007年02月14日
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最近、けっこう映画漬けの生活を送っている。その中で、いかにも避けたい映画があったりする。「それでもボクはやってない」日本の裁判制度の問題点を指摘するものだそうだ。ふ~~ん・・・。で、どういうふうに問題点を浮かび上がらせるのかと言うと・・・。痴漢の犯人に間違われたあるフリーターの「現行犯逮捕」されてからの物語を追うことで、だそうだ。ふ~~~ん・・・・。で、痴漢された中学生の女の子のほうの話は?予告編やストーリーを読んだだけではわからない・・・けれど、重視されないのだろうな、と思う。この監督は、そういえば、しがない中年男の浮気願望をファンタジー化した映画を作って、すごく評価された人だったなぁ。そういえば、欧米の映画界はちょー女嫌い要素の濃かった「誰も知らない」も少女・処女に対する、すごくねじれた偏愛を表現した「弓」と「サマリア」も高く評価した。「誰も知らない」、「弓」、「サマリア」の3本共に共通して言えることだけれどいまや大声で言えないような男のロマンやプライドを取戻す(=女性を従来のように再度抑圧しようとする)テーマが根底に流れたりするのよね。なんで欧米の映画界はそういう映画を作る東アジアの監督達をそんなに高く評価するんでしょう。なんか、自分達の中の<失われた>何かをその監督達の作品に求めてたりするのかな?よくわからないけど・・・。「それでもボクはやってない」。題材にするんだったら、別の犯罪でも良かったんじゃない?万引きとか。いっそのことレイプとか。被害者は加害者の顔が見えなかった、という設定でさ。苦笑。裁判制度を問題にするんなら、題材はそこら中に転がってるのに。女性に対する暴力の取り締まりはまだまだですよ。それでも、女性に対する暴力自体が慣習化していたから今度はそれが取り締まられるようになると、すぐ「やりすぎなんじゃないか」って・・・。この映画は、その「やりすぎなんじゃない?」って声を助長するように思う。たかが痴漢なのに、って意識を人にまた植えつけると思う。こういう映画を作りたいなら、痴漢は許さない行為、って常識が浸透してからにしてほしいです、本当。「それでもボクはやってない」をごらんになった方がありましたら、ぜひご感想を聞きたいです。よろしくお願いします。ぷちっ。
2007年02月13日
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一日三食納豆を食べてもオッケー☆と思っているような私でも「納豆チョコ」を見かけたときは、ちょっとひいた・・・。でも、ミクシィの某コミュ(はい、「納豆」コミュです。白状したよ!?)のスレを見てるとけっこう評判がいい??そうなの!?ってなわけでバレンタインデーに納豆チョコを買い求めることになりそうです。Aも納豆好きだからね。チョコを神々の野菜、って呼んでるぐらいだし。ちょうどいい組み合わせかと。笑。ぷちっ。
2007年02月08日
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早速、逆カルチャーギャップ問題勃発。単に、純朴な田舎出身の人(=私)が小ざかしい都会の人間にだまされたと言えるかもしれないけれど・・・。笑。自分の新しい環境の新しいルールを身に付けようとしております。徐々に自分のペースがつかめてきてるやも知れません。よくわからない・・・。苦笑。ネットはまだつながってません。ゆえに、やっぱりまだ不便。いろいろと書き溜めたりとかもしてる(つもりな)んだけどねぇ~~~。
2007年01月31日
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書きたい話題は尽きないのだけど、先月末から引越し中なので何かを書く時間もそれをアップする時間も(もっと正確に言えば、アップを可能にするネット接続も)まだない状態です。困ったねぇ~~。ネット接続、最低あと1ヶ月はかかると言うし。そんなに時間かかるのかよ・・・。もっと下調べしておけば良かった。なんか変なキャンペーンに踊らされずに・・・。がっくし。ま、とにかく。引越し兼ネット接続が完了するまで、しばらくはお休みです。
2007年01月14日
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気分↑の要因:日曜日。韓国式スパに友人と行き、無心に垢をこする。お肌つるつる。サウナで他愛のない話をしながらのんびり。友人お手製のお昼を一緒に食べる。気分爽快。血流良好。ところが・・・・気分↓の要因:最近詰め物をしたばかりの歯がものすごく痛くなり、どうやら歯の根管手術(root canal treatment)が必要と思われ、今日(火曜日)決行。今朝、手術の一環として麻酔を打たれたときにここ何日か続いていた痛みが一時的に治まり、目前に迫る手術よりも久しぶりに感じる無痛感のほうで喜んでしまったぐらいのありさま。実際の手術も、ちょっと痛かったりした。涙。日が暮れるにつれ、また痛みがよみがえりつつあり・・・、最悪。再び、気分↑の要因:月曜日の夜は、Aのたっての希望でクリストファー・ゲストのFor Your Considerationを見に行く。期待を裏切らない作。内容は、アカデミー賞などの芸能界の大物賞に振り回されるベテラン(だが小物)役者たちや映画制作会社などの人間模様。役者ひとりひとりの演技がまぶしい。アイデアもいいけれど、本当に役者陣に支えられている映画。そして、再び気分↓の要因:コミュをともにする見知らぬ人からの突然のメール。間単につらつらとものを書いた後に「かぐやさんってハーフですか?それじゃあ、日本語・・・あ、でも日本で育ってるから大丈夫なんですね?」・・・・(-_-;)本当に「日本語大丈夫?」って思ってるんなら、その最初の2段落ほどは何なんだよ!!伝わってるかどうかわかんないなら、一言なんか断りいれるもんじゃない?それか、私が絶対わかると思う言葉を選ぶとかね!?(-“-)対面でうっかり口をすべらしたとかじゃなくてね?メールの世界ですから。一回文面を見返すとかね?特に知らない人にメッセージ送る場合って。気をつけるでしょ??まあ、いいけど。返事?するわけないです。あああ~~、また歯がぁぁぁぁ~~~~。ぷちっ。
2006年12月19日
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人の年齢をあてる自信はかなりある私ですが、最近、大きく外した。しかも、その外し方に心当たりがあった・・・。この間、友人・知人何人かで集まる機会があったのだけど帰る方向がごく近いので、そのメンバーで集まるときにはほぼ必ず送って行ってもらう人に「行きも乗せてってくれる~~~?」と電話をした。快く応じてくれたその彼。車の中でのその日の話題は、いかに家がすごく片付いていないかそしてそれを、こないだ、人を家に呼んだときに寝室だけに限ったのに、それを見られてしまったときのことになり、そこから「ああ、僕もちょっと付き合ってる子がいるんだけどその子に最初自分のところを見せたときに、すごく片付けてる人で、気後れするかと思って心配だったて言われたよ~~」という話からその彼女の話に。で、その彼女、知り合って5年ぐらい付き合っているという。そこですでに「あれ?もしかして20中盤なのかな?」と推測年齢を修正しだした私。でも、出会ったのは大学の頃、とかそういうのを想定していた。ところが、出会ったのは、彼が大学でちょっと教えていたときというではありませんか。5年前に大学で教えていた??ってことは、最低でもその頃までには大学を卒業してなきゃならなかったはず。えええ~~????でも、その後、何年か他のこともしてたらしく・・・。ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ!!あなた、今、何歳??と、ちょっとパニクり出しました。そしたら、いつもどおりのおっとりとした調子で「僕、けっこう年行ってるよぉ~~」と言う。で、判明したのは、彼が33歳だということ。マジかよ・・・・。それで思い出したのは、当初Aに韓国で出会ったとき私はAが絶対!!私よりも年下だと思ってたこと。多分23歳ぐらい。もうちょっと上に見積もっても多分25ぐらい。28より上のはずは絶対ない!!!!と自信を持っていただけあって(そして、「年下の若いツバメちゃんをたぶらかしちゃいけないだろ~~」と自戒もしていた。笑。)始めて一緒に食事したときに「そういえば最近誕生日が過ぎたばっかりなんだよね」(Aは10月生れ)と言うから、「そうなんだぁ。それで、何歳になったの?」と聞いたらば「今年で30になった」と聞いて、びっくりしたなんてもんじゃなかったこと。なんだろなぁ~。私は男性の年齢が全くわからないようです。魅力があるかないかだけで判断してるかも。女性相手だとけっこう的確に年齢があてられるのに・・・。女性相手だと的確、というのも、女性に対する視線が厳しいと自ら言ってるような感じがして嫌だったりもするのだけど。苦笑。ぷちっ。
2006年12月17日
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ああ~~。のりさんのエントリーにコメントを書いていたら、長くなりすぎて二分割しても足りない状態に・・・。というわけで、もう面倒なので、トラバしてこちらに返事を書いちゃいます。元はこちらです・・・。------------------------------------返事が遅れてすみません。どうも、内容が自分にとっても難しくて、返事するにも何度も見直してからでないと出来ない状況です。>まず、ハマスが勝ったのは、彼らがイスラム原理主義的に行動し、庶民の民生活動に骨身を惜しまず働いているからで、それを中東の周辺国家が支援しているからでしょう。彼らはイスラム社会の中で全く民主的なのです。ただ、語弊があるとすれば、もともとイスラムに原理主義はなく、本来は原点回帰でしかないというところでしょうか。原点回帰か原理主義かという言葉の問題は、私は気にしません。原理主義→恐いもの、という図式が自分の中にはないので。行動においては、原点回帰≒原理主義と理解しています。で、パレスチナ内におけるハマスの行動ですが、ちょっとそこらへんの状況理解の違いが激しいようです。私の持つパレスチナ内におけるハマスなどの団体のイメージを説明するのに一番手っ取り早いのは「パラダイス・ナウ」という映画です。自爆テロにリクルートされる二人の若者の話を描写したものですが、リクルートするのは二人の小学校時代の先生です。そして、リクルートするときの言葉は優しく思いやり溢れるもので、「お前達はこの崇高な仕事のために選ばれた」という持ち上げたようなものなのですが、実際には二人にはそのミッションにノーと言う権限はなく、逃げ出すことのできないようにすぐさま見張りもつきます。何かを感じ取る周囲の人も、いろんな社会構造的な理由で手出しはできません。この映画を見るときの素地になっているのは、2年間同じ宿舎で暮したパレスチナ出身の子の日々の表情でもあります。イスラエルやイスラエルのしていることをいつも声高に非難していたのはレバノンから来ている(レバノン人口の80パーセント以上を占める)パレスチナ系レバノン人の2人でした。実際に現在のパレスチナ(当時は占領地)出身の子は、たまにそのレバノン人たちの意見に自分の意見が代表されているかのように目をらんらんとさせていることもありましたが、そうではなく、自分だけにしかわからない思いを抱え込んでいるようにしか見えない表情もよくしていました。いずれにしろ、パレスチナ出身のアラブ系パレスチナ人が教育のある(この場合は、英語ができる、と言う意味です)パレスチナ系レバノン人たちに「かわいそうなパレスチナ」の象徴として利用されているような、今のメディアで行われている図式が繰り返されていたような気分はぬぐえません。>パレスチナにおけるイスラエルは外敵ですよね、私はパレスチナ人はイスラエルはかなり横暴だと思っていると思います。そんな簡単なものではないと思いますよ。多くのパレスチナ人は経済的にイスラエルに頼っているし、実際に(パレスチナ系も含めた)アラブ系・ユダヤ系などのさまざまなイスラエル人と日常的に接触があります。(さまざまな系統の)イスラエル人に関する感情はそんなに一枚岩的なものではないと思うし、それに付随して政府に関する考えも実はもっといろいろあると思います。ただし、それをおおっぴらに言えるような社会情勢にはないと思います。一般のパレスチナ人の心境というのは、もっとずっと複雑だと思います。さまざまな方角からさまざまな理由で抑圧されているものがいろいろとくすぶっていると思うから。それと、パレスチナというとムスリムと思われがちですが(実際人口の大半はそうですが)リーダシップに多くいるクリスチャン勢力のことも見逃してはならないと思います。宗教的何かもあるわけですよね。その「何か」が何だかはわからないのですが。>レバノンの親シリア勢力というのは、これまた複雑な構成ですが、ヒズボッラーが中核にあることは間違いがない所でしょう。彼らの倒閣に向けた抗議行動は激しさを増すばかりです。ヒズボッラー問題はまた全然違うと思います。第一、レバノンの宗教的・経済的人口構成がパレスチナとは全く違う。土地の歴史も全く違います。>ところで、どうも意味が取りづらいのですが、政教分離を政治と教育の分離と取っていますか?>それとも、教育に宗教の教えを含ませているのでしょうか?分りづらくてすみません。何度か読み直すうちにやっとわかりました。(汗)政教分離はちゃんと政治と教会(=宗教)の分離と了解していますが、政治はその思想に則ったその政治形態を実行するための教育に伴われていないと充分に機能できない、と思っているので、突然話が政治から教育に飛んでしまったのです。本当に申し訳ない。でも、人の描く「理想の政治形態」が一様でないように、人の描く「理想の教育」もまたいろいろとあり、だから「理想の教育=」というふうにできない、と言いたかったのです。----っちゅーわけで、これは普通の書き込みというよりは、のりさんへの日記のコメント中でのやり取りの中での延長みたいなものです。よろしく。
2006年12月15日
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ちょうどここにリンクの貼ってある恋愛成績表なるものを見直したばかりだったのでマイミクのブログで見かけたモテぢから実力テストに俄然興味を覚え、やってみました。結果はこちら。自分なりには好成績だと感じます。ところで、恋愛成績表のほうはあまりに好成績で(18段階中2位の「ジュリエット級」)嬉しくて記念に貼った、という側面も強いです。結婚する前は、どんなにがんばっても18段階中10位以上にはならなかったのに、結婚してから一気に成績が上がりました。結婚してから恋愛力に磨きがかかった模様。笑。それが一体何を意味するのか、それは・・・あなたのみが知る。どうぞ思ったことを書き残していってくださいまし・・・。モテぢからサイトでは、「ポイント」に書かれた「あなたに好かれていると勘違いしてる男の子がいっぱいいます。」の文がちょっと痛かったです。***そう・・・。私はある頃からよく勘違いされるようになりました。でも、サイトで疑われてるようにボディ・タッチが多いからではありません。私は、むしろ不思議がられるぐらいに人の体を触りません。でも、よく人のことをじっと見るし、好意は男女のわけ隔てなく表現してしまう。で、私の好意の表現方法は、別にべったりしてないと思うけどけっこうストレートだと思うのです。そういうのって女の子が相手だと、喜んでもらえて終わりなのですが男の子が相手だと、どうも勘違いされる場合が非常に多い。***婚約指輪をもらえてほっとした理由のひとつに「これでまともな人には勘違いされずに普通に接することができる・・・。(勘違いされそうになったら婚約指輪をさりげなく見せよう)」と思ったからです。まあ、婚約指輪やら結婚指輪やらしてても(私の眼から見たら)「まともでない人」、または「不倫・浮気は当たり前」という世界の人には関係ない、ということはわかっているので勘違いや面倒な状況から完全に守られているわけではないのだけどそれでも大多数の面倒な勘違いは指輪をちらりと見せさえすれば回避できるし、完全に回避できないと感じた場合は、「伴侶」や家族の話題を前面に出す。***Aに出会う前は勘違いされるのが面倒くさくてたまらなくてニセの結婚指輪をしようかと本気で考えたこともありました。でも、誰とも付き合いたくなかったわけではなくて大多数の、単に友達づきあいしたいだけの男の子たちに勘違いされるのが面倒くさかっただけなのです。で、それこそ私が付き合いたいと感じるような人こそがそのニセの結婚指輪をあっさり本物と思うタイプ。(それがニセだと見抜けるような計算高いタイプやニセかと疑いそうな恋愛の駆け引きに慣れているタイプとは本気の付き合いはしたくありませんでした。)それにビジネスや、自分の仕事の場で必要でもないのに私的理由からニセの結婚指輪をするってすごく計算高いようで、自分らしくないようで、本当に付き合いそうな相手に、のっけから自分らしくないことで誤解を受けるのは「それこそ面倒くさいじゃないか」と思いました。だから婚約指輪を手に入れたときには心底ほっとしました。結婚したときも「これで好きな男の子にも女の子と同じように自由に好意を表現できる」と思って安心しました。実際、男の子との友達づきあいがちょっと自由で楽になった面があります。・・・・・が、勘違いする人は相手が指輪してようが、してまいが自分の都合の良いように解釈するのねぇ~~。苦笑。単なる勘違いの場合、別に実害はないのでほっといてますけどね・・・。***それにしても恋愛成績表、モテぢから☆実力診断ともに共通している診断結果は「駆け引き上手である」という点と「考え方が実際の年齢よりも上」という点。本当はルックスにもうちょっと気を使ってもいいんじゃない?ってのも共通項であるはずなのだけどそれは恋愛成績表をやったときにちょっと気分が違ったからかなぁ~、と。私のルックスに対する無関心さはすごいものがありますから。もうそれこそ「そこまで無関心でなくてもいいんじゃ」ってくらい。苦笑。逆に、だからこそ普通にでも見かけに気を使う人に対しては素直に感嘆してしまいます。化粧に毎日欠かさず15分以上かけている、と聞くだけで「へへぇ~~」と頭が下がってしまう。私は一日に鏡を見る回数が2~5回程度です。自分がけっこう嫌いで、けっこう落ち込んでた時期なんて、鏡に映った自分の姿をちゃんと見るのが週に何回程度だったということすらありました。***「駆け引き上手」はそうかも知れない。極力相手の反応や、周りの空気を読んで、それに相応しい対応をしようとしますから。ただし、何人もの人と気づかれずに平行に付き合って・・・というタイプの「駆け引き上手」ではありません。そういうことをする気力も欲もないです、私には。人間間の付き合いを円滑にしていきたい、そのための「駆け引き」は惜しまないそんなところだと思いますが。それにしても「駆け引き上手」のネガティブな印象はぬぐい難い。残念ですね・・・。***およよ。診断結果を貼り付けるだけのつもりだったのに・・・。長くなってしまった。他の方の診断結果も教えてもらいたいです♪ぷちっ。
2006年12月14日
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晩御飯も食べ終わりケイは暖かい飲み物を手にエイはデザートとコーヒーを手に二人は混雑するカフェで向かい合わせに座った。ケイは、エイに外国語を習う予定だった。教科書は、ない。エイは、ケイに前に座りケイの用意してきたノートに簡単なダイアローグを書き始めた。ケイはその言葉のブロック体は読めたが筆記体は読めなかったのでエイは書きにくいながらも気をつけてブロック体でダイアローグを書いていく。ケイは、エイの長いまつげに見ほれながらも視線をもう少し落としてエイの書きだす言葉をさかさまに読んでいっていた。すると、ソジュだの、キムチだのというその言葉には存在しないだろうその言葉には不似合いなそして、洋服を着たコリアンたちでいっぱいの西洋風のカフェにも不似合いのでも、今二人の座っている国にはぴったりの言葉が書き出される。ケイはびっくりして「ソジュ?ってあの焼酎?え?キムチって、ここで食べるキムチでしょ?」と言った。エイは、ちょっとケイを見上げていたずらっぽく笑った。そのときケイは、エイの目がきらっと光ったような気がした。ケイの心臓が打ち抜かれたのは、その瞬間だった。ぷちっ。
2006年12月13日
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ソウルの肌に刺さりそうな寒気の中奥から白い湯気を出している愛想のいいお兄さんたちが店頭に立つ大学芋屋さんの前で、ケイは先月知り合ったばかりの人を待っていた。目の前に立つ深いこげ茶色の肌の彼と中央ヨーロッパ風の風貌をしたケイは同じソウルの冬空の下同じガイジンとして梨花大学駅前に佇んでいた。彼もまた誰かを待っているのだろうか声をかけてみようか、とちらちら考えつつもでも、エイが来てしまったら、そこで会話を中断するのもなんだし・・・誤解されたりするかなぁ~~など、つらつらと考えたりしてるうちにストレートの亜麻色の髪の毛が階段の下から現われ身軽に階段を駆け上がる、少年っぽい風貌をした細身のエイが、ケイの「先月知り合ったばかりの人」が現われた。無愛想なエイの表情はケイが声をかけると人懐っこい笑顔に変わりケイは、自分がエイにとって特別な人であるような錯覚を覚えた。さっきまで同じフレームの中でソウルの駅前で佇む外国人たちを演じていた相手に心の中でそっとさよならを言ってケイは、今度はエイとソウルを闊歩する外国人たちのフレームに移った。ぷちっ。
2006年12月12日
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大学入学したての頃に親切で、ケント・デリカット並みの分厚いめがねをかけたちょっとひょうきんなルックスの先輩P(♀)に出会った。やっぱりまだ大学に慣れない頃でその先輩Pのこともまだよく知らない頃、その人が階段を降りてくるところに出くわし軽く挨拶しがてら、どこに行くのかと聞いたら「ちょっと寝不足で疲れてるから、彼氏のベッドで昼寝をしてこようと思って」と言われ、「彼氏??」とものすごい違和感を感じたことがあった。その約2年後、すごく尊敬していて、不思議なほど性を感じさせずでも、この人は実際のセクシュアリティーがなんであれ宗教的な理由から、ヘテロとして生きていくのかなぁ~~なんて思っていた先輩S(♀)と実はこの1年ほど付き合っていてかなり真面目な付き合いであるということを人づてに聞いて「ああ~~、納得納得。確かにあの二人ならお似合い。でも、いろいろとプレッシャーがあって大変だろうなぁ。うまく乗り越えられればいいけれど・・・。大学の頃に出会って、その後ずっと一緒にいる老カップルなんかになってくれたら良いなぁ~~」なんて部外者らしく気楽に考えていたらその何年か後かにその二人は別れてしまったらしい。二人ともとてもいい人だっただけに残念と感じたのは私だけだったろうか。うちの大学は一応は女子大のなのだけれども大学を卒業してから性転換手術を受けた同級生がいる。同じ大学やその周辺の大学出身で大学時代を一緒にすごした人たちとお昼を食べてるときに「もしかして、あの人がうちらの大学の初の男子卒業生じゃない?」とみんな面白がりながら興奮気味に話していた。もちろん私もその一人。男の子でうちの大学に行けないのは逆差別なのではないか、と食って掛かった子がいたらしいが(授業・専攻・寮などがほぼ共同運営されている共学の大学が道を渡ったところにあるにも関わらず)その子は、当然「男」ということで願書も受け付けてもらえなかった。当たり前だ。お隣の共学大学に通う男でしょっちゅう「君らの大学は、男を受け入れないことで逆差別してるんじゃないの?」なんてねちねちと大学生活4年間中、言い続けてきたやつもいるけれど本当にうるさい。そういう台詞は女性差別がほぼないと言っていい世の中にする努力をしてから吐いてくれ、と言いたくなる。ま、とにかく。男性が生まれつきの男性として入学することはできなかったわけだけど女性として入学して、女性として卒業して、その後男性になった人は当然オッケーだろうと思う。もちろん、そこで話題になったのは性転換をしている最中の人は入学できるのだろうか、とかじゃあ、入学申請をした時点ですでに性転換を完了してる人は?どっち向きならオッケー?生まれつきは女なんだけども、男になってでもやっぱり女子大に行きたいよぉ~~って人は?とか・・・。面白半分にみんなで想像してみました。あまりに未知の世界で結論には達しえなかったのだけど。セクシャリティ:他には。う~~~ん・・・。ゲイ・レズの人の中にはトランスセクシュアル(ニューハーフなどの性転換をした人)は気持ちワル!バイセクシャルはい○らんなだけなんでしょ、または、バイは自分がレズ・ゲイだと認められない人の「逃げ」なだけと言う偏見もあるもよう。でも、一度「バイって男とも女とも関係が持てて、両方の世界の良いところが味わえて一石二鳥ン♪」なんて言い切ってる19歳だかに会ったこともあって「ちょっとそれは違うだろ。」と思ったこともあった。そういえば、最近は「汎セクシュアル」という呼び方も存在してる模様。要は、相手のセクシャリティは全く関係ない、という立場。でも、そういう人は相手が誰でもいいわけではなくて相手の年齢・ユーモア感覚・経験・学歴などなど・・・相手の性やセクシュアリティとは違うところで相手のことを見極めようとしてるんだよね。なんとも大変そうだ・・・。ヘトロであれば、異性全員が相手になりうるのかといえばそうではなく、レズ・ゲイであれば、同性全員が相手になりうるのかといえばそうでもなく、バイであれば、異性同性誰でも相手になりうるのかといえば、やっぱりそうでもなく・・・。恋愛関係がそんなに簡単なものだったら世の中、「恋愛」はそんなに人の話題に上らないはず、と思うのは私だけではないのではないでしょうか。ぷちっ。
2006年12月04日
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マジで惚れた人と付き合ったことのある人との人数が気分によって数え方が違うせいもあり、一致しないことの多い私ですがAの前に最後にマジ惚れした人の思い出が最近のマイトピックでありました。今までに付き合った人はフツーに「好き」な人で、もちろん人間的に尊敬できる人です。というわけで、連絡もたまに取ったりしますが「好き」と言っても、人間的良さのほうが先立ち連絡をしても、私が動揺することは少ない。ところが、マジ惚れしてしまった人の場合、思い出すだけでどきどきしてしまう場合もあり、連絡を取る、なんて考えるだけでも胸が苦しくなることもあり、(←ちょっと大げさ)動揺の度合いが激しすぎて考えるのも危険だという感じがする。でも、マジ惚れするからには人間的にもかなぁ~り尊敬してる人なんです。というわけで縁が完全に切れてしまうのもちょっと勿体ないというかね。私から見ればAの前にマジ惚れした人との失敗のおかげで今のAと私がいると言っても過言ではないし。なんて、そんなこと、きっと本人には言えないだろうけど。でも、一緒に楽しく健全に過ごしたひと夏のあと、好きだったのに、惚れてしまったのにその人には何も言い出せずせめて自分の思いを打ち明けた手紙だけでも・・・と思って何気なく私たちの間を行き来していた共通の友人に手紙を託そうかとも思ったけれど「結局それで何になる」と冷静に判断を下したつもりで結局手紙を渡さないまま、別れてしまった私たちだったけれど多分、向こうは充分に思いを伝えていたつもりだったのだと思う。私はそれを汲み取れなかった。(だから失敗を犯した。)そして、冬に再会したときには夏の奥手加減を考え直してか「私風」と思われるアプローチを一生懸命仕掛けてきてくれた。でも、私はそれをそうと気づかず「らしくない。何なんだろう?」と気づかなかった。私としては「そっち風」に合わせてるつもりだった。夏にほぼ毎日カフェで勉強をしていた頃っていろんな話をしたけれど多分二人の間に共通していた気持ちは「この人ならわかってくれる」というものだったような気がする。でも、「もっと頼ってよ」ともよく言われたような気がする。そして、自分の話はあまりしてくれなかった。聞くと、なんか、ポツリポツリと言いにくそうに断片的には話してくれるのだけどいろんな思いがごっちゃ混ぜになって話しづらそうだった。どうしても私のほうが話すことが多くて、私は一方的に頼ってる感じがしてちょっと申し訳なかった。それに、「私のほうが年上なのに・・・」というつまらない見栄のせいか、一方的に頼っていると感じるのが恥ずかしくもあった。向こうは、私よりかなり年下だったのに(この年齢ではたいした年齢差ではないけれど)包容力がすごくあって一緒にいると安心できてすごく頼りになって優しくて気取らない人で冷静な判断力の奥にある熱さには火傷するかと思った。そう・・・すごく好きだったのです。それでも、はっきりとお互いに何を言ったわけでもなくて(というか、私はいろいろと言ってみたのだけど、ちょっと反応がはっきりしないと感じていた)なんか私の全体的な印象として「私はすごく好きだったんだけど、向こうはどう思っていたのかはっきりとは分らない」という思い出になっていたのでそういうふうにAにも話していたのだけれどつい最近、「そう言えば、冬に再会したときのあれは!!」と思い出して、Aに話してみたらば「それって、明らかに両想いだったんじゃん。なぁ~~んだ、二人、全然付き合えたのに。そうならなくて、君たちにとっては残念だったけど僕にとっては幸い。(ニッコリ)」と、言われた!!はっ!!!そうか!!!そうだったのか!!!(ガーン・・・)夏の失敗のことや、冬のときのことを話してみたらば「それ、相手はかぐやに合わせてるつもりだったのに思ったような反応が返ってこなくて向こうはきっとすごく混乱したろうね、かわいそうに(同情)」と言う。そう言われてみれば・・・確かに・・・確かにそうだったろうと思う!!私は、私で、向こう風に合わせようとしていたし、確かに私へのアプローチの大体の方向は間違っていなかったけどちょっとタイミングとか場所とか細かいところがずれていたので私もその意味が汲み取れなかったわけで・・・。ああ・・・悲しいすれ違い・・・。遠距離は無理、と言ってた私だけどあの人とだったら試してみる価値はあると感じる人だった。(私にとっては、それがひとつのリトマス試験みたいなもん。)どうやら、私たちどうもタイミングが合わなかったみたい。今や、そのかっこよさにさらに磨きがかかっているのだろうと思うと恐いもの見たさ半分Aにも紹介してみたさ半分で連絡を取ってみたいんだけどぉ~~~。どうなんだろ。連絡とってもいいんだろうか。ぷちっ。
2006年11月29日
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久しぶりの怒り系なので、火傷にご注意。久しぶりに見てむかついた言葉。「日本人より日本人らしい」「それってかなり日本人化してるジャン!笑」え~~っと??もう、どっから切り出したらいいかも分らない。これ↑がむかつく、と言った時点で次が読めてしまう人は**まですっ飛ばしてください。他にも聞くと不愉快になる言葉。「ええ~~、サシミが食べられるの~~?すごぉぉ~~い」「納豆が好きなの?すごぉぉ~~い。私、納豆食べられなぁ~~い。私よりも日本人らしい~~。(笑)」「あ、でも××はやっぱりダメなんだぁ~~。そうだよねぇ、仕方ないよねぇ。」私に向って放たれることもありますが、相手が私の場合は、たいていもうちょっと高度です。でも、私の身の回りの「ガイジン」(と見られる人)はたとえそれを言っている相手よりも長いこと日本に暮していても今でも日常的に耳にする言葉です。私の場合は、例えばちょっとしたしぐさとか言うこととかね。そういえば、山奥のキャンプ場で水を大切にしなきゃあかんだろう、と判断した上でトイレの水を流さずに用を足したら、出てきたときに「あ、水流してないから、かぐやだと思ったよ」(ガイジンは用足すときに水流さんでしょ?が言外に含まれていたと思ったのは私だけでしょうか。)と言われ、唖然としたことがあった。あそっか、たとえ山奥のキャンプ場で、ぎりぎり水洗便所のようなところで水が足りないので、みんな節約してねぇ~とその日言われたばっかりでも大和撫子の恥じらいを忘れ、水を何度でも何度でも流しながら用を足さなかったから→相手はガイジン風のかぐやのはずになるんですか。なるほどね。それだけに関わらず何かといっては私の「違うところ」を探し出そうとする人だったし。この人にとっては、私は「フツーの人」になることはありえないんだなと思うと今でも連絡を取るのが億劫になる。ちょっとでも「日本人慣れしたガイジン」以上のことをすると「えっ??」と驚かれるのも、無視するようになった。無視するようになったけど全く傷つかないようになったわけじゃない。ただ、無視するのが上手になっただけ。言っても仕方ないんだもんね。****************そういうときに心安らぐのは「え?君、ハーフ?」と、街角に立つ見知らぬ男に言われくそ真面目になんて答えようかと思って立ち往生してる私の手をひっぱって「答えることないよ。行こ。」と足早にそこから立ち退かせてくれる友人。私のことを「ええ!?意外と、日本人らしいねぇ」「やっぱりそういうところ、ガイジンだよねぇ」と言わずに「やっぱりそういうところ、かぐやだよねぇ」「やっぱりそういうところ、ここらの人だ」「あれ?前からそうだったっけ?」と迎えてくれる人たち。なんで今更こういうことを言い出すのか。自分にちょっと問うてみた。最近の私の知らない人からの無神経な言葉に対する対応は「無視」だったのに・・・。多分・・・・・・・・はっきり言って日本に帰るのが恐くてたまらない。また無神経な言葉に殴られるのが恐くてたまらない。私には、ささいな「無神経な言葉」一つの裏に無数の嫌な思い出がある。いつその奇襲に会うのかと思うと見知らぬ人の周りでは挙動不審になる。天真爛漫な人見知りをしない自分にも戻りたいけれどもそれが可能なのかはわからない。それが「大人」になることなんだよ、と言われればそれまでだけど・・・。ぷちっ。
2006年11月28日
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私、どこかすごい大自然の中に住んでんじゃありません?とあらぬ誤解を受けそうな気がする今日この頃。いや、全然違うんだけどね。苦笑。実はこないだ、夜のお散歩を楽しんでいたらあるアパートの塀の上をどうも毛を乱した猫が走っていくように見えた。どうも様子がちょっと変だったので「ん??」とちょっと注目したAと私。そもそもここらへんでは塀の上を歩く猫をあまり見かけないし。最初に「ポッサム(フクロネズミ)じゃない?」と言ったのはA。私は、フクロネズミなんてその存在についてしか聞いたことがなかったので見てもさっぱりわからなかった。徐々に近寄ってみると、やっぱり尻尾の様子がおかしい。(猫みたいに)ふさふさしてないの。それどころか、ねずみみたいにシッポの肌がそのまま露出してる。ほええええ~~~~と思って、近寄ってみたりしたけれど、向こうはすでに木に登り始めててちょっと木陰に隠れてうまく見えなかったので一生懸命観察しようとしたんだけど姿が見えなくなった辺りであきらめ、家に帰り、早速ググって見ましたよ。A曰く「すごく醜い動物で、猫のえさとかを食べちゃって狂犬病を持ってるねずみのでっかい版みたいなもん。」って言うので、けっこうかわいい外見してんじゃないのかなぁ~~と思ったら、案の定。(笑)見てやってください、このかわいい姿。危機に瀕すると死んだふりをするんだって。おもしろい。ちょっと死んだふりをさせてみたかったりとかしたかったんだけど木から落ちて死んじゃったりとかしたらやだしそうする過程で万が一噛みつかれたりとかしたら恐いしそもそも普通に日常を生きようとしてるだけの生き物をこちらの都合だけでからかったりしちゃいけないよねぇ~~と思い、ちょっかい出したくてむずむずしてる自分を辛うじて抑えちょっと木を揺らすぐらいに留めておきました・・・。で、フクロネズミは、その名の示すとおり有袋動物らしくて(て言うか、なんでAはそういう難しい言葉を知ってるのだろう。いや、分野によっては、意外な知識量があったりする不思議な人なんだけどね。)カンガルーのお仲間。(人間に寄れば。)子供を自分のお腹のところにある袋に入れて育てるらしくて。う~~~ん、かわいいなぁ~~~とまた動物フェチ全開の私です。なんだろ。現実逃避気分?あ、でも別にフクロネズミになりたいとかとは思わないんだけどね、全然。笑。やっぱり一番は大切にされる家猫か嵐山モンキーパークのお猿さんかです。笑。ぷちっ。
2006年11月27日
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