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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(382) ハロウィーン・かぼちゃ 2000年代前半 ※昨日紹介した「介護あの目この目/介護ざっくばらん」の2回目<下>をきょうお届けするつもりだったが、きょうはハロウィーンということなので、きょうしか紹介できない作品を。一徹氏が描く「ハロウィーン・かぼちゃ」がこれ。 ちなみに、元来「ハロウィーン」は古代ケルト人が起源と考えられている祭りだという(ケルト人にとって、1年の終わりは10月31日であるとのこと)。本来、キリスト教にとっては異教徒の祭りであることから、キリスト教教会においては、容認派から否定派まで様々な見解があるというが、一方で現代では、宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。 10月31日の夜は、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。かつては、有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いた。現代ではこれに因んで、カボチャをくりぬき、蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン (Jack-o'-lantern)」を作り、魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート!(Trick or treat!=「お菓子をくれないと悪戯するよ」)」と唱えて回る。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティを開いたりする(上の2段落の記述は、Wikipediaの説明を参考にしました)。 以上、いずれにしても、いい歳をした大人が仮装をして、飲んで騒いで街で暴れる日ではない。くれぐれも他人に迷惑をかけないで楽しみたい。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/31
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ITTETSU GALLERY:もう一つの成田一徹(361)~(380) バー・シーンを描いた切り絵で有名な成田一徹(1949~2012)ですが、実は、バー以外をテーマにした幅広いジャンルの切り絵も、数多く手掛けています。花、鳥、動物、職人の仕事、街の風景、庶民の暮らし、歴史、時代物(江戸情緒など)、歴史上の人物、伝統行事・習俗、生まれ故郷の神戸、小説やエッセイの挿絵、切り絵教則本のためのお手本等々。 今回、バー・シーンとは一味違った「一徹アート」の魅力を、一人でも多くの皆さんに知ってもらいたいと願って、膨大な作品群のなかから、厳選した逸品を1点ずつ紹介していこうと思います(※一部、バー関係をテーマにした作品も含まれますが、ご了承ください)。 ※故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします。(361)明治初頭の銀座 1991年 ※フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」=ダイヤモンドプレス刊=誌上)の第3回のために制作された作品。おそらくは、当時の錦絵か写真を参考にしながら描いたと思われる(落款は初期のスタイルである)。銀座の通りには人力車が走り、松並木も見える。通りの商店等の建物は、はや洋風化しているが、切り絵をよく見ると、まだ髷(まげ)を結ってる男性もいる。 新政府は1871年(明治4年)、男性に対して、髪型は自由にすべしとの「断髪令」を出したが、法的な強制でなく、表向きは罰則もなかったこともあってか、市井の隅々に浸透するまでには時間がかかった。ほぼすべての国民が断髪した(髷を切った)のは明治20年代の前半だったという。この銀座の光景は、明治5年~10年頃ではないかと推察している。(362)旧・東京医学校本館 1991年 ※昨日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第3回のために制作された作品。この回は、開国直後の日本にドイツからやってきたミュルレル、ホフマンという2人の政府お雇い外国人教師(医学教育)に焦点を当てている。この絵に描かれたのは、1875年(明治8年)に完成した旧・東京医学校本館(現在の東京大学医学部の前身)。建物は現存しており、現在は東京大学総合研究博物館小石川分館(重要文化財指定)として利用されているという。(363)ホフマンとミュルレル 1991年 ※一昨日、昨日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第3回のために制作された作品。 今回は、この3回目の主人公でもあるテオドール・ホフマン、レオポルド・ミュルレルという2人のお雇い外国人教師の肖像画。2人は明治の新政府から招へいされ、1871年(明治4年)にはるばるドイツから来日した。当時ホフマンは33歳、ミュルレルは47歳。ともに軍医学校の教官をつとめていた。とくにミュルレルは陸軍病院の総監督もつとめる熟練の外科医だった。 漢方医学や蘭方医学が幅を利かせていた日本に、近代医学の専門教育の基礎を築いたのがこの2人である。2人は約4年間滞在し、言葉の壁に苦しみながら、旧・東京医学校(現東京大学医学部の前身)で約1000名余の医学生を育てた。なお、二人の肖像画に微妙な風合いの違いがあるのは、ホフマンの絵(左)は原画からのスキャニング、ミュルレルの絵は印刷媒体の画像であるためである。悪しからずご了承願いたい。(364)長崎・丸山町「料亭・花月」 1991年 ※引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」=ダイヤモンドプレス刊=誌上)を材料に一徹氏の作品を紹介していく。いましばらくお付き合い願いたい。 今回は、この連載第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)に添えられた切り絵である。鎖国下にあった江戸時代、唯一、オランダとの貿易を通じて「世界への窓口」として開かれていたのが長崎・出島である。そのため、長崎の丸山町、寄合町界隈には外国人向けの遊興施設が数多く存在した。 この絵に描かれた「花月」は、丸山遊郭で最大の遊女屋「引田屋」の庭にあった茶屋で、出島の阿蘭陀商館付き医官として来日したシーボルトもたびたび訪れたという(「花月」は、現在でも料亭として営業を続けている)。(365)楠本タキとイネ 1990年代前半 ※本日も、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の挿絵から。シーボルトは1822年、長崎・出島の阿蘭陀商館付き医官として来日した。ドイツ人なので本来は入国できない身分だったが、オランダ人であると偽ったという。 この絵は、女性と幼子の肖像画である。女性は楠本タキ、幼子の名はイネという。来日した26歳のシーボルトは、まもなく長崎の遊女「其扇(そのぎ)」と出会い、一緒に暮らし始める。「其扇」はタキの源氏名だった。そして間もなく二人の間にはイネという娘が生まれた(この時シーボルト30歳。タキは19歳)。 しかし1828年、シーボルトは国禁の日本地図を持ち出そうとして幕府から国外追放処分を受ける。タキや2歳のイネを連れ帰ることは叶わず、その後、タキは女手一つでイネを育てた。3人が再び日本で再会できたのは開国後の1859年だった。 タキやイネは、再来日時にシーボルトに同行した異母弟から、その後経済的な支援を受け続けた。イネはシーボルトの弟子から医学を学び、その後、日本初の女性産科医になったことでも知られている(以上、シーボルト、タキ、イネの経歴については、Wikipediaなどを参考にさせて頂きました)。(366)シーボルト胸像 1991年 ※本日も、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の挿絵からシーボルトの胸像である。 シーボルトは1822年、長崎・出島の阿蘭陀商館付き医官として来日した(下の画像は商館付き医官時代のシーボルトの肖像画)。出島の外国人は島外へ出ることは原則禁止されていたが、シーボルトはその医学的な貢献もあって、特例として島外の長崎に「鳴滝塾」という医学塾を開くことが認められ、ここで数多くの日本人医学生を育てた。 また医者と同時に博物学者でもあったため、約6年間の滞在中、自然環境や植物、動物、鉱物、風俗、産業、地理、歴史、宗教など幅広い分野で研究に打ち込み、数多くの標本、資料を収集した(これらの膨大な資料は現在、オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている)。 1828年、国禁の日本地図を持ち出そうとしたいわゆる「シーボルト事件」で国外追放となったが、帰国後は、日本での体験や収集した資料を紹介する著書を数多く出版し、長く鎖国状態にあった日本への理解を広げることに貢献した。再来日した1859年以後は、オランダの貿易会社顧問を務めながら、の幕府の外交顧問にも就任し、1862年に帰国するまで諸外国との対外交渉などで助言役を果たした(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。(シーボルトのお抱え絵師だった川原慶賀筆)(367)大福寺(大阪の西洋医学教育発祥の地) 1991年 ※懲りずに引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうは第2回目に添えられた挿絵。「大阪の医学教育の発祥の地」とも言われる、大阪・天王寺区にある大福寺という浄土宗の古刹である。 1869年(明治2年)、新政府によってここに大阪で初の西洋医学の教育も兼ねる「公的病院」が置かれた。院長は蘭学医学の開祖、緒方洪庵の次男、緒方惟準(これよし)。そして、緒方の相方として、オランダ人のボードインというお雇い外国人教師(医官)が赴任したが、詳しい話また次回に。(368)ポンペとボードイン 1991年 ※前日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうは第2回目の主人公である2人、ポンペ・ファン・メールデルフォルト、アントニウス・フランシスク・ボードイン(いずれもオランダ人軍医)の肖像画である。 1854年(安政元年)、江戸幕府は長き鎖国を解き、欧米諸国に対して開国する。そして、ポンペは幕府招へいのオランダ教師団の一員として、1857年に来日。長崎奉行所医学伝習所と養生所(付属病院)の教官となった。来日時はまだ28歳の若さだった。 約5年間の滞在中、約60名余の医学生を教え、約1万5千人の患者の治療にもあたった。とくに、当時日本で大流行したコレラの治療に尽力した。養生所は現在の長崎大学医学部の前身となり、同大学にはポンペが授業で使った人体模型が今も保存されているという。 一方、ボードインはポンペの推薦で後任として1862年(文久2年)に来日した。この時42歳。長崎での医学教育と治療の任にあたると同時に、オランダ政府からは「(オランダが)開国後の日本の医学教育でイニシアチブをとれるよう幕府と交渉すべし」との命も与えられていた。ボードインの努力もあって、1867年(慶応3年)5月、幕府と約定書(契約書)を交わすに至る。 ところが、その5カ月後、弱体化した幕府は大政奉還を決め、江戸幕府は終焉を迎えることになった。約定書は明治の新政府にも引き継がれると思っていたボードインだったが、新政府は西洋医学教育の導入にあたっては、当初は英国式、のちにはドイツ式を選び、お雇い外国人教師はドイツから招へいした。 しかし新政府はボードインを解雇せず、前回紹介した大阪・大福寺での「公的病院」での仕事を紹介。1869年(明治2年)、失意のうちに大阪へ赴任する。その後、東京の大学東校(現・東京大学医学部の前身)でも教鞭をとり、1870年に帰国した。 余談だが、ボードイン最大の功績は「上野公園を守ったこと」という。新政府は東京の大学病院を当初、上野の森を壊して建築すべしと動いていた。しかしその計画を聞いたボードインは「この豊かな自然環境を壊すことには絶対反対である」と強く再考を申し入れ、政府は建設地を本郷に変更した。ボードインの進言がなければ現在の上野公園はなかったかもしれない。(以上、Wikipediaなどを参考に記しました。※作品画像の質感が違うのは、ポンペ<左>はスキャニングされた雑誌掲載の絵で、ボードイン<右>は原画であるためです)(369)上野公園 1991年 ※引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうも第2回目に添えられた挿絵で、上野公園の有名な西郷ドンの銅像がある場所辺りが描かれている。 上野の森の歴史は、徳川幕府三代将軍・家光の時代に遡る。家光が江戸城の鬼門を封じるために、寛永2年(1625年)、この地に寛永寺という寺を建てた。その後、幕末の戊辰戦争で戦場となったため、一帯は焼け野原となった。 そして、前回も紹介したように、この地に医学校と大学病院を建てる方針だった明治の新政府に対して、政府お雇いの外国人教師だったアントニウス・ボードイン(オランダ人)=下の写真ご参照(出典:Wikipedia)=が「上野の豊かな自然環境は後世へ残すべきだ」と働きかけたこともあり、その3年後、東京府公園が誕生したのである。 ボードインは開国直後の西洋医学教育でも貢献したが、上野公園の誕生にも大きな功績を残した。現在、公園内にはその業績をたたえる「ボードワン博士像」が建てられている(場所は東京都美術館と国立西洋美術館の間くらい)。ちなみに、弟のアルベルト・ボードインも神戸で初代駐日オランダ総領事をつとめるなど、兄弟で日本びいきだった。(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。(370)ベルツとスクリバ 1992年 ※最後にもう一度2回だけ、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)にお付き合い頂きたい。きょうは第5回目に添えられた主人公たちの肖像画である。 エルウィン・フォン・ベルツ(1849~1913)=上=とユリウス・カルル・スクリバ(1848~1905)=下。ともに明治の初期、新政府のお雇い外国人教師として来日。ほぼ同じ時期に東京大学医学部に在籍し、それぞれ内科学、外科学を教えた。この連載の第363回で取り上げたミュルレルとホフマンの次世代の教官として、日本での西洋医学移植のアンカーとして尽力した。 ミュルレルとホフマンが短期間の滞在だったのに対して、この二人は30年近く日本に留まり、ともに日本人の妻を得て、スクリバに至っては日本に骨をうずめた。 ベルツの功績は多岐にわたる。数多くの寄生虫病の原因究明、脚気やハンセン氏病の治療・研究、蒙古斑の発見、なかでも温泉療法の推奨には力を入れ、草津温泉にたびたび通った。温泉従業員のために処方した皮膚病の治療薬「ベルツ水」(グリセリンカリ液)は商品化され、今なお販売されている。 一方、スクリバは外科医として見事な手腕を発揮し、脳の開頭、乳がんなど数々の難手術をこなしたという。明治24年(1891年)の濃尾大地震では、現場に急行し、先頭に立って負傷者の治療にあたるなど災害医療にも貢献した。三男は帰化して、「須栗場」の姓を名乗り今も子孫が健在という。東京大学の本郷キャンパス構内には、2人の医学教育への貢献をたたえた銅像も建てられている。 なお、ベルツが残した日記は「ベルツの日記」として岩波文庫から刊行されているが、「為政者の言葉に流されやすい日本人の気質」を早くも指摘するなど、いびつな形で進んだ明治の近代化、民主化に対する皮肉に満ち溢れ、その後の軍国主義日本の破滅を予感させるような内容にもなっている(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。(371)草津温泉・湯畑 1992年 ※フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品紹介もきょうでお終い。最後に、第5回目に添えられた残りの挿絵を。 昨日登場した2人のお雇い外国人教師のうち、エルウィン・フォン・ベルツ(1849~1913)は、日本人女性を妻にするなど日本を愛し、とくに群馬県の草津温泉をこよなく愛した。 1876年(明治9年)に来日したベルツは、1878年の夏、初めて草津温泉を訪れた。大噴泉に、温泉国でもある故国・ドイツのチロル地方を町を思い浮かべた彼は、ひと目でこの地をほれ込んだ。「硫黄分多く含んだ熱湯がすぐれた殺菌力を持つ」ことを知っており、「温泉入浴療法」の研究に打ち込み、前回も触れた皮膚病の治療薬「ベルツ水」も開発する。 ベルツはさらに、草津に「大規模な温泉リゾート」を建設しようと約1万坪の土地まで購入する。しかし時代はまだ、訳の分からない西洋人にそこまで好き勝手させる状況ではなかった。計画は、地元の「源泉提供の拒否」に遭い、頓挫する。やがて20世紀に入り不況の波が押し寄せ、町は手のひらを返したようにベルツに助力を懇願したが、すでに帰国の迫った彼にはもはや時間はなかった。 草津町はそれでも「ベルツの恩」を忘れていない。1962年(昭和37年)、町はベルツ生誕地のビーティハイム市と姉妹都市の友好条約を結び、町内にはベルツの銅像もでき、2000年にはベルツ記念館までオープンした。もし草津温泉を訪れることがあれば、私もぜひこの記念館を訪ねてみたい(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。 ※なお、この連載の第311回で紹介し、「どの媒体で使われたのか不明」と書いた「草津温泉・熱乃湯」(下の画像)の絵は、この「赤ひげ異人伝」の第5回で使われたものでした。(372)神戸港カルタ(残り5枚) 1983年 ※神戸港振興協会に勤めていた頃、一徹氏は協会広報誌誌上で、頻繁にイラストや切り絵を描いていた。これは、1984年の正月号に掲載された「神戸港カルタ」と題された作品。実はこの連載の第6回でも、そのうちの1枚を紹介した(下の画像ご参照)。 今回、当時制作された残りの5枚と実際の掲載紙面が確認されたので、一気にお見せしたい。まだ切り絵を始めて間もない頃、カッティングはまだ粗削りだが、初々しくて素朴で、温かい味わいも伝わってくる。(373)クリスピン「夜の犬」の表紙頁のために 1980年代後半 ※極めてシンプルな線で女性の横顔がカッティングされ、闇に浮かび上がる。深遠で静謐な空気が伝わってくる作品。月刊ミステリー・マガジン(早川書房刊)に掲載された英国のミステリー作家・エドマンド・クリスピン(Edmund Crispin 1921~1978)の短編小説「夜の犬(Dog in the Night)」の表紙頁のために制作された。一徹氏の名前はまだ本名の徹でクレジットされており、制作時期が1990年以前であることが分かる。 「夜の犬」は1954年発表。没後翌年の1979年に出版された短編集「フェン・カントリー(Fen Country)からの純粋推理」にも収録された。実際のミステリーマガジン誌上では、下の絵にあるように(トレーシング・ペーパー上の)文字図版が載った形で掲載された。 なお、クリスピンは、英国外ではあまり知られていないが、ブルース・モンゴメリー(Bruce Montgomery)の名前で、ミュージカルやオペラなどの作曲家としても活動するなど多才な人だったという。(374)曾野綾子「アレキサンドリア」のために 1995年 ※曽野綾子さんの小説「アレキサンドリア」(1995年~96年、月刊「オール読物」連載)のために制作された挿絵のうちの1枚。この連載小説では毎回、古代エジプト&古代ローマ文明にモチーフを得た小作品が6~7枚添えらえていた。(375)西舘好子「いま二幕目」のための挿絵 1986年 ※一徹氏はプロデビュー(1988年)の前から、エッセイスト・西舘好子氏(作家で故・井上ひさし氏の元夫人)と懇意となり、彼女の連載の挿絵をよく担当した。これは週刊誌「サンデー毎日」での連載エッセイ「いま二幕目」(1986~87年、88年に単行本化)の第7回目のために制作された挿絵。絵のバックに、スパッタリング手法(ブラシに絵具を付けて金網の上から擦ってスプレー状に撒くこと)で加工した紙を使い、紅葉の山とモミジをモノトーンで巧みに表現している。 (なお、原画は行方不明で、この画像は印刷物からスキャニングしたもの。画質が若干粗いのはそのためである。悪しからずご了承願いたい)。(376)「ススキノララバイ」のための挿絵 1994年 ※ハードボイルド小説で知られる東直己氏(1956~)の小説「ススキノララバイ」の挿絵(掲載雑誌は不詳)のために制作された。東氏は、映画化された「探偵はバーにいる」(2011年公開、大泉洋・主演)の原作者としても知られる。なお、この連載では第174回でも「ススキノララバイ」のための挿絵を紹介している → こちらへ(377)「ニュース場外乱闘」のための挿絵(デイヴ・スペクター氏) 1994年 ※スポーツライター李春成氏による連載エッセイ「ニュース場外乱闘」(扶桑社刊・週刊SPA誌上)の第26回のための挿絵として制作された。この回は、かのデイヴ・スペクター氏のSPA誌上での発言に対して、李氏が全面的に反論する内容。 スペクター氏曰く「サッカーは見てて面白いスポーツじゃない。第三世界、発展途上国のイメージが強いスポーツ。9割以上の米国人はペレ以外のサッカー選手の名前を知らない」等々。李氏は「アメリカ中心の考え方でモノを言うのはおかしい。(メジャーの)ワールド・シリーズって言っても全然ワールドじゃない」と批判する。という訳で、一徹氏が描くスペクター氏の絵も、エッセイで李氏が使った「米帝主義者」という過激な言葉まで添えられている。 まぁ、これは今から27年前の1994年のやりとり。その後、日韓W杯も開催された。日本選手の海外有名チームでの活躍も目覚ましい。サッカーは今や、米国を含めた世界中で幅広い世代から人気を得ている。さすがのスペクター氏も現在は、国際スポーツとしてのサッカーの地位や存在感は認めているんではないだろかねぇ…。 それにしても、30年以上も日本のメディア界で、日本語も駆使しながら活躍し続けるスペクター氏って、改めて凄い人だなぁと思う。個人的には、あのダジャレも含めて嫌いではない。(378)「ポケットに栞(しおり)を」のための挿絵 2003年 ※文芸評論家・清水良典氏が中日新聞(東京新聞)紙上に連載したエッセイ「ポケットに栞(しおり)を」のための挿絵。月1回のエッセイの連載期間は約3年(2000年~2003年)に渡ったが、一徹氏は毎回、「グラス+何かのモチーフ」という構図の切り絵を提供した(原画は残っておらず、紙面をスキャニングした画像なので、画質が粗いことはご容赦願いたい)。(379)「もういちど男と女」のための挿絵 2007年 ※毎日新聞夕刊で2006~07年にかけて掲載された連載記事「もういちど男と女」(執筆者は梶川伸・編集委員)の挿絵として制作された一枚。「髪」と題されたこの回では、ビートルズ好きの長髪の男と、年に一度だけ忘年会で出会う女性との20年近くに及ぶ交流を綴る。 お互い中高年となり、直近、居酒屋で出会った際には、男はついに長髪を切っていた。女は、いたずらっぽく男の後ろ髪に触れる。男はそれに反応した自分に気づかれまいと、目の前の焼酎のお湯割りに手を伸ばしたという話から、この図柄になった。なので、絵はこの一文の「メインテーマ」ではなく「小道具(脇役)」に過ぎないのだが、一徹氏は、時にあえてこういう脇役を絵にすることもあった。(380)「一徹くんの切り絵ッセイ」のための挿絵 1991年 ※プロデビューから2年後の1990年、一徹氏は週刊「サンデー毎日」からバーや酒をテーマにした小コラムの依頼を受けた。タイトルは「一徹くんの切り絵ッセイ」となった。毎回40行ほどのエッセイに自らの切り絵を添えた連載は、読者の人気を呼び、1年間続いた。そしてその後、同誌での連載「to the BAR」につながっていく。 これはその最終回(第49回)のために制作された作品(1991年6月)。エッセイでは、80年代末から90年代初めにかけて、相次ぎ灯りを消した神戸のグッドバーを惜しむ内容。絵にした「BAR ANCHOR」は、一徹氏による空想上の理想のBARでもある。絵はまだ粗削りな部分もあり、素朴な味わいも漂うが、その後の都会的なセンスやシャープな切れ味も垣間見れる。エッセイは、一徹氏らしく「では、いつかまたどこかの酒場で。」という文章で締めくくられている。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★過去の総集編ページをご覧になりたい方は、こちらへ。【Office Ittetsuからのお願い】成田一徹が残したバー以外のジャンルの切り絵について、近い将来「作品集」の刊行を計画しております。もしこの企画に乗ってくださる出版社がございましたら、arkwez@gmail.com までご連絡ください。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/30
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(381) 「介護あの目この目/介護ざっくばらん」のための挿絵<上> 2000~01年 ※2000年から翌年にかけて、一徹氏は共同通信配信の連載記事「介護あの目この目」(掲載紙によっては「介護ざっくばらん」というタイトルに)のための挿絵を担当した(筆者は複数の専門家。記事は全国各地の地方紙に掲載された)。 「介護」という切り絵にするには少し難しいテーマ。一徹氏は当時、「大くくりなテーマなんで、何をモチーフにしたらいいのか迷った末、一から手作りで作り上げる様々な器の姿を添えようかと…」と語っていた。そして、毎回味わいのある器を、存在感たっぷりに描き上げた。せっかくなので、この挿絵の中から選りすぐった8枚を、2回に分けて紹介したい。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/30
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(380) 「一徹くんの切り絵ッセイ」のための挿絵 1991年 ※プロデビューから2年後の1990年、一徹氏は週刊「サンデー毎日」からバーや酒をテーマにした小コラムの依頼を受けた。タイトルは「一徹くんの切り絵ッセイ」となった。毎回40行ほどのエッセイに自らの切り絵を添えた連載は、読者の人気を呼び、1年間続いた。そしてその後、同誌での連載「to the BAR」につながっていく。 これはその最終回(第49回)のために制作された作品(1991年6月)。エッセイでは、80年代末から90年代初めにかけて、相次ぎ灯りを消した神戸のグッドバーを惜しむ内容。絵にした「BAR ANCHOR」は、一徹氏による空想上の理想のBARでもある。絵はまだ粗削りな部分もあり、素朴な味わいも漂うが、その後の都会的なセンスやシャープな切れ味も垣間見れる。エッセイは、一徹氏らしく「では、いつかまたどこかの酒場で。」という文章で締めくくられている。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/29
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(379) 「もういちど男と女」のための挿絵 2007年 ※毎日新聞夕刊で2006~07年にかけて掲載された連載記事「もういちど男と女」(執筆者は梶川伸・編集委員)の挿絵として制作された一枚。「髪」と題されたこの回では、ビートルズ好きの長髪の男と、年に一度だけ忘年会で出会う女性との20年近くに及ぶ交流を綴る。 お互い中高年となり、直近、居酒屋で出会った際には、男はついに長髪を切っていた。女は、いたずらっぽく男の後ろ髪に触れる。男はそれに反応した自分に気づかれまいと、目の前の焼酎のお湯割りに手を伸ばしたという話から、この図柄になった。なので、絵はこの一文の「メインテーマ」ではなく「小道具(脇役)」に過ぎないのだが、一徹氏は、時にあえてこういう脇役を絵にすることもあった。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/28
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(378) 「ポケットに栞(しおり)を」のための挿絵 2003年 ※文芸評論家・清水良典氏が中日新聞(東京新聞)紙上に連載したエッセイ「ポケットに栞(しおり)を」のための挿絵。月1回のエッセイの連載期間は約3年(2000年~2003年)に渡ったが、一徹氏は毎回、「グラス+何かのモチーフ」という構図の切り絵を提供した(原画は残っておらず、紙面をスキャニングした画像なので、画質が粗いことはご容赦願いたい)。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/27
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(377) 「ニュース場外乱闘」のための挿絵(デイヴ・スペクター氏) 1994年 ※スポーツライター李春成氏による連載エッセイ「ニュース場外乱闘」(扶桑社刊・週刊SPA誌上)の第26回のための挿絵として制作された。この回は、かのデイヴ・スペクター氏のSPA誌上での発言に対して、李氏が全面的に反論する内容。 スペクター氏曰く「サッカーは見てて面白いスポーツじゃない。第三世界、発展途上国のイメージが強いスポーツ。9割以上の米国人はペレ以外のサッカー選手の名前を知らない」等々。李氏は「アメリカ中心の考え方でモノを言うのはおかしい。(メジャーの)ワールド・シリーズって言っても全然ワールドじゃない」と批判する。という訳で、一徹氏が描くスペクター氏の絵も、エッセイで李氏が使った「米帝主義者」という過激な言葉まで添えられている。 まぁ、これは今から27年前の1994年のやりとり。その後、日韓W杯も開催された。日本選手の海外有名チームでの活躍も目覚ましい。サッカーは今や、米国を含めた世界中で幅広い世代から人気を得ている。さすがのスペクター氏も現在は、国際スポーツとしてのサッカーの地位や存在感は認めているんではないだろかねぇ…。 それにしても、30年以上も日本のメディア界で、日本語も駆使しながら活躍し続けるスペクター氏って、改めて凄い人だなぁと思う。個人的には、あのダジャレも含めて嫌いではない。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/26
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バーUKは、本日10月25日(月)から、平日は午後4時~9時半で営業致します(ご入店は9時まで。10時までの延長もあり)。午後9時でノーゲストの場合、閉店させて頂きます。午後9時以降にご来店の場合、必ず9時までに店までご連絡くださいませ(電話06-6342-0035)。事前にご連絡がなかった場合、ご入店をお断りいたします。土曜営業の場合は、午後2時~7時半で営業致します(ご入店は7時まで。延長営業はありません)。以上、何卒ご了承くださいませ。バーUKは、感染防止対策をとった「ゴールドステッカー認証」店ですが、「3密」を避けるために、ご入店は当面御3人様まで、ご在店は90分以内とさせて頂きます。また、同一時間帯での在店者数は、原則、店のキャパの60~65%程度(7~8人)に制限させて頂きます。皆様のご理解、ご協力の程よろしくお願い致します。For the time being from today( 25th of Oct )the bar UK is open from 4:00 to 9:30 pm.( Your entry is until 9:00 pm. ). However, open from 2:00 to 7:30 pm. on Saturday of business day.
2021/10/25
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(376) 「ススキノララバイ」のための挿絵 1994年 ※ハードボイルド小説で知られる東直己氏(1956~)の小説「ススキノララバイ」の挿絵(掲載雑誌は不詳)のために制作された。東氏は、映画化された「探偵はバーにいる」(2011年公開、大泉洋・主演)の原作者としても知られる。なお、この連載では第174回でも「ススキノララバイ」のための挿絵を紹介している → こちらへ◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/25
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(375) 西舘好子「いま二幕目」のための挿絵 1986年 ※一徹氏はプロデビュー(1988年)の前から、エッセイスト・西舘好子氏(作家で故・井上ひさし氏の元夫人)と懇意となり、彼女の連載の挿絵をよく担当した。これは週刊誌「サンデー毎日」での連載エッセイ「いま二幕目」(1986~87年、88年に単行本化)の第7回目のために制作された挿絵。絵のバックに、スパッタリング手法(ブラシに絵具を付けて金網の上から擦ってスプレー状に撒くこと)で加工した紙を使い、紅葉の山とモミジをモノトーンで巧みに表現している。 (なお、原画は行方不明で、この画像は印刷物からスキャニングしたもの。画質が若干粗いのはそのためである。悪しからずご了承願いたい)。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/23
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バーUKを愛して下さるお客様へ大阪府の吉村知事は、10月25日(月)以降、時短営業要請を解除する発表しました。しかしながら、バーUKは以下の3つの理由から、コロナ禍以前の営業時間には戻さず、1時間程度の延長に留めます。理由その1:コロナ禍の影響もあって、バーでお酒を飲む方々の「飲むスタイル」がかなり変わってしまったことです。 具体的には、遅い時間帯に2軒目、3軒目としてバーに行かれる方々がかなり減っており、とくに3名~5名のグループで連れもって飲みに行くという状況が激減していること(バーUKでも、ほとんどが早い時間帯に1人~2人で来られるお客様です)。また、多くの企業では、大人数での忘年会や新年会、送別会は引き続き禁止しているようです。理由その2:大部分の企業では、現在でも一定割合でリモートワークを継続しており、都心部には人が完全に戻ってはいません。緊急事態宣言解除後も、大阪のオフィス街で働く人々は以前より若干増えた程度で、出勤するのは今なお週に3~4日のところが多いようです(周辺にオフィス・ビルが多い北新地界隈も同じような状況です)。 従って、早い時間帯のお客様が中心のバーUKの場合、9時以降の時間帯で、あまり遅くまで営業しても、集客はあまり期待できないと現状では考えています。理由その3:店主も当たり前ですが、この2年間で2つ歳をとりました。60代も後半になり、正直、体力の衰えも感じています。しかし、まだバーUKの「灯り」は消したくはありません。店の経営状態と健康が許せば、できる限り長く続けたいと思っています。 なので、これから先のバーUKの姿を考えた場合、営業時間をコロナ禍前より短くして、できるだけ体力を温存しながら、細く長く店を続けていきたいという思いを、今は強く持っています。 結論として、緊急事態宣言解除後も、気は緩めずに感染対策を徹底して営業して参りますが、現在、時短要請に応じて午後4時~8時半(入店は8時まで)としている営業時間は、全面解除になっても、午後9時半まで(入店は9時まで。10時までの延長あり。9時でノーゲストの場合は閉店)と致します。 同一グループの入店人数は3人までに緩和(現在は2人まで)致しますが、同一時間帯の在店者数は最大でも7〜8人に制限(現在は6人まで)させて頂きます。また、ご在店は原則90分以内でお願いいたします。 もちろん、上記の時間外であっても、事前にご相談(予約)があれば、柔軟に対応致しますので、マスターまでお気軽にお問合せください。 以上、皆様には何卒、ご理解、ご協力の程をよろしくお願い申し上げます。
2021/10/22
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(374) 曾野綾子「アレキサンドリア」のために 1995年 ※曽野綾子さんの小説「アレキサンドリア」(1995年~96年、月刊「オール読物」連載)のために制作された挿絵のうちの1枚。この連載小説では毎回、古代エジプト&古代ローマ文明にモチーフを得た小作品が6~7枚添えらえていた。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/22
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皆さま、バーUK11月の店休日のお知らせです。10月24日からは行政からの時短営業要請は解除となる予定ですが、営業時間については、当面、以下のように致します。何卒宜しくご理解のほど宜しくお願い致します。 【11月の店休日=予定】3日(水)=祝日、7日(日)、13日(土)、14日(日)、20日(土)、21日(日)、23日(火)=祝日、28日(日) ※6日、27日の土曜日は営業予定です(営業時間は午後2時~7時半。ご入店は7時まで)。なお、2日(火)は、ウイスキー・セミナー開催のため、原則として終日貸切営業となります。 ※営業時間は(10月25日以降)、平日は原則午後4時~9時半(ご入店は9時まで。10時までの延長もあり)とさせて頂きます(午後9時以降にご来店の場合は、事前に店まで必ずお電話くださいませ=電話06-6342-0035)。 午後9時の時点でお客様がいらっしゃれば9時半~10時まで延長いたしますが、ノー・ゲストの場合は閉店いたします。 以上、何卒ご理解、ご協力の程を重ねて宜しくお願いします。【Notice for November 2021】the bar UK is closed on 3rd、7th、13th、14th、20th、21st、23rd、28th
2021/10/21
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(373) クリスピン「夜の犬」の表紙頁のために 1980年代後半 ※極めてシンプルな線で女性の横顔がカッティングされ、闇に浮かび上がる。深遠で静謐な空気が伝わってくる作品。月刊ミステリー・マガジン(早川書房刊)に掲載された英国のミステリー作家・エドマンド・クリスピン(Edmund Crispin 1921~1978)の短編小説「夜の犬(Dog in the Night)」の表紙頁のために制作された。一徹氏の名前はまだ本名の徹でクレジットされており、制作時期が1990年以前であることが分かる。 「夜の犬」は1954年発表。没後翌年の1979年に出版された短編集「フェン・カントリー(Fen Country)からの純粋推理」にも収録された。実際のミステリーマガジン誌上では、下の絵にあるように(トレーシング・ペーパー上の)文字図版が載った形で掲載された。 なお、クリスピンは、英国外ではあまり知られていないが、ブルース・モンゴメリー(Bruce Montgomery)の名前で、ミュージカルやオペラなどの作曲家としても活動するなど多才な人だったという。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/21
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バーUKは本日20日(水)、「月イチ平日定休」のため、お休みを頂戴いたします。何卒宜しくお願い致します。Sorry, today( 20th of Oct ) the bar UK is closed.
2021/10/20
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(372) 神戸港カルタ(残り5枚) 1983年 ※神戸港振興協会に勤めていた頃、一徹氏は協会広報誌誌上で、頻繁にイラストや切り絵を描いていた。これは、1984年の正月号に掲載された「神戸港カルタ」と題された作品。実はこの連載の第6回でも、そのうちの1枚を紹介した(下の画像ご参照)。 今回、当時制作された残りの5枚と実際の掲載紙面が確認されたので、一気にお見せしたい。まだ切り絵を始めて間もない頃、カッティングはまだ粗削りだが、初々しくて素朴で、温かい味わいも伝わってくる。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/20
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(371) 草津温泉・湯畑 1992年 ※フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品紹介もきょうでお終い。最後に、第5回目に添えられた残りの挿絵を。 昨日登場した2人のお雇い外国人教師のうち、エルウィン・フォン・ベルツ(1849~1913)は、日本人女性を妻にするなど日本を愛し、とくに群馬県の草津温泉をこよなく愛した。 1876年(明治9年)に来日したベルツは、1878年の夏、初めて草津温泉を訪れた。大噴泉に、温泉国でもある故国・ドイツのチロル地方を町を思い浮かべた彼は、ひと目でこの地をほれ込んだ。「硫黄分多く含んだ熱湯がすぐれた殺菌力を持つ」ことを知っており、「温泉入浴療法」の研究に打ち込み、前回も触れた皮膚病の治療薬「ベルツ水」も開発する。 ベルツはさらに、草津に「大規模な温泉リゾート」を建設しようと約1万坪の土地まで購入する。しかし時代はまだ、訳の分からない西洋人にそこまで好き勝手させる状況ではなかった。計画は、地元の「源泉提供の拒否」に遭い、頓挫する。やがて20世紀に入り不況の波が押し寄せ、町は手のひらを返したようにベルツに助力を懇願したが、すでに帰国の迫った彼にはもはや時間はなかった。 草津町はそれでも「ベルツの恩」を忘れていない。1962年(昭和37年)、町はベルツ生誕地のビーティハイム市と姉妹都市の友好条約を結び、町内にはベルツの銅像もでき、2000年にはベルツ記念館までオープンした。もし草津温泉を訪れることがあれば、私もぜひこの記念館を訪ねてみたい。(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。 ※なお、この連載の第311回で紹介し、「どの媒体で使われたのか不明」と書いた「草津温泉・熱乃湯」(下の画像)の絵は、この「赤ひげ異人伝」の第5回で使われたものでした。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/19
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(370) ベルツとスクリバ 1992年 ※最後にもう一度2回だけ、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)にお付き合い頂きたい。きょうは第5回目に添えられた主人公たちの肖像画である。 エルウィン・フォン・ベルツ(1849~1913)=上=とユリウス・カルル・スクリバ(1848~1905)=下。ともに明治の初期、新政府のお雇い外国人教師として来日。ほぼ同じ時期に東京大学医学部に在籍し、それぞれ内科学、外科学を教えた。この連載の第363回で取り上げたミュルレルとホフマンの次世代の教官として、日本での西洋医学移植のアンカーとして尽力した。 ミュルレルとホフマンが短期間の滞在だったのに対して、この二人は30年近く日本に留まり、ともに日本人の妻を得て、スクリバに至っては日本に骨をうずめた。 ベルツの功績は多岐にわたる。数多くの寄生虫病の原因究明、脚気やハンセン氏病の治療・研究、蒙古斑の発見、なかでも温泉療法の推奨には力を入れ、草津温泉にたびたび通った。温泉従業員のために処方した皮膚病の治療薬「ベルツ水」(グリセリンカリ液)は商品化され、今なお販売されている。 一方、スクリバは外科医として見事な手腕を発揮し、脳の開頭、乳がんなど数々の難手術をこなしたという。明治24年(1891年)の濃尾大地震では、現場に急行し、先頭に立って負傷者の治療にあたるなど災害医療にも貢献した。三男は帰化して、「須栗場」の姓を名乗り今も子孫が健在という。東京大学の本郷キャンパス構内には、2人の医学教育への貢献をたたえた銅像も建てられている。 なお、ベルツが残した日記は「ベルツの日記」として岩波文庫から刊行されているが、「為政者の言葉に流されやすい日本人の気質」を早くも指摘するなど、いびつな形で進んだ明治の近代化、民主化に対する皮肉に満ち溢れ、その後の軍国主義日本の破滅を予感させるような内容にもなっている。(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/18
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(369) 上野公園 1991年 ※引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうも第2回目に添えられた挿絵で、上野公園の有名な西郷ドンの銅像がある場所辺りが描かれている。 上野の森の歴史は、徳川幕府三代将軍・家光の時代に遡る。家光が江戸城の鬼門を封じるために、寛永2年(1625年)、この地に寛永寺という寺を建てた。その後、幕末の戊辰戦争で戦場となったため、一帯は焼け野原となった。 そして、前回も紹介したように、この地に医学校と大学病院を建てる方針だった明治の新政府に対して、政府お雇いの外国人教師だったアントニウス・ボードイン(オランダ人)=下の写真ご参照(出典:Wikipedia)=が「上野の豊かな自然環境は後世へ残すべきだ」と働きかけたこともあり、その3年後、東京府公園が誕生したのである。 ボードインは開国直後の西洋医学教育でも貢献したが、上野公園の誕生にも大きな功績を残した。現在、公園内にはその業績をたたえる「ボードワン博士像」が建てられている(場所は東京都美術館と国立西洋美術館の間くらい)。ちなみに、弟のアルベルト・ボードインも神戸で初代駐日オランダ総領事をつとめるなど、兄弟で日本びいきだった。(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/17
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(368) ポンペとボードイン 1991年 ※前日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうは第2回目の主人公である2人、ポンペ・ファン・メールデルフォルト、アントニウス・フランシスク・ボードイン(いずれもオランダ人軍医)の肖像画である。 1854年(安政元年)、江戸幕府は長き鎖国を解き、欧米諸国に対して開国する。そして、ポンペは幕府招へいのオランダ教師団の一員として、1857年に来日。長崎奉行所医学伝習所と養生所(付属病院)の教官となった。来日時はまだ28歳の若さだった。 約5年間の滞在中、約60名余の医学生を教え、約1万5千人の患者の治療にもあたった。とくに、当時日本で大流行したコレラの治療に尽力した。養生所は現在の長崎大学医学部の前身となり、同大学にはポンペが授業で使った人体模型が今も保存されているという。 一方、ボードインはポンペの推薦で後任として1862年(文久2年)に来日した。この時42歳。長崎での医学教育と治療の任にあたると同時に、オランダ政府からは「(オランダが)開国後の日本の医学教育でイニシアチブをとれるよう幕府と交渉すべし」との命も与えられていた。ボードインの努力もあって、1867年(慶応3年)5月、幕府と約定書(契約書)を交わすに至る。 ところが、その5カ月後、弱体化した幕府は大政奉還を決め、江戸幕府は終焉を迎えることになった。約定書は明治の新政府にも引き継がれると思っていたボードインだったが、新政府は西洋医学教育の導入にあたっては、当初は英国式、のちにはドイツ式を選び、お雇い外国人教師はドイツから招へいした。 しかし新政府はボードインを解雇せず、前回紹介した大阪・大福寺での「公的病院」での仕事を紹介。1869年(明治2年)、失意のうちに大阪へ赴任する。その後、東京の大学東校(現・東京大学医学部の前身)でも教鞭をとり、1870年に帰国した。 余談だが、ボードイン最大の功績は「上野公園を守ったこと」という。新政府は東京の大学病院を当初、上野の森を壊して建築すべしと動いていた。しかしその計画を聞いたボードインは「この豊かな自然環境を壊すことには絶対反対である」と強く再考を申し入れ、政府は建設地を本郷に変更した。ボードインの進言がなければ現在の上野公園はなかったかもしれない。(以上、Wikipediaなどを参考に記しました。※作品画像の質感が違うのは、ポンペ<左>はスキャニングされた雑誌掲載の絵で、ボードイン<右>は原画であるためです)◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/16
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(367) 大福寺(大阪の西洋医学教育発祥の地) 1991年 ※懲りずに引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。きょうは第2回目に添えられた挿絵。「大阪の医学教育の発祥の地」とも言われる、大阪・天王寺区にある大福寺という浄土宗の古刹である。 1869年(明治2年)、新政府によってここに大阪で初の西洋医学の教育も兼ねる「公的病院」が置かれた。院長は蘭学医学の開祖、緒方洪庵の次男、緒方惟準(これよし)。そして、緒方の相方として、オランダ人のボードインというお雇い外国人教師(医官)が赴任したが、詳しい話また次回に。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/15
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皆さま、きょう10月14日は、切り絵作家で、私の30年来の親友でもあった成田一徹さんの命日です。2012年のこの日、彼が急逝してから、早いもので9年となりました。9 年の歳月が経ってもなお、奥様から「都内の駅構内で倒れて救急車で運ばれた」という一報を聞いたのが、まだ昨日のことのように思い出されます。今でも、一徹さんが突然バーUKのドアを開け、「遅くなってごめん、ごめん」と言って入ってくるような錯覚に時々襲われます。「バーUK」の名付け親は、皆さまご承知の通り一徹さんです。「定年後にバーを開きたい」という私の夢を知っていた彼が、いまから約15年ほど前、ウイスキーの故郷・大英帝国(UK)と、当時我が家で飼っていた「うらん」と「かんろ」という2匹の愛猫の名にちなんで名付けてくれました。その際、コースターや門燈も一緒にデザインしてくれて、その切り絵原画までプレゼントされました。結果的にこれで背中を押され、私の決意も固まりました。なので(2014年5月に歩み始めた)バーUKは、一徹さんの「後押し」無くしては誕生しなかった店です。ご存知のように、バーUK店内には一徹さんの「原画ギャラリー」があり、バー関係の絵を中心に常時10数点を展示しています。店内にギャラリーをつくるという構想は、生前の彼には伝えていましたが、実現したバーUKを見ることなく天上の人となってしまったことは、今も残念でなりません。一徹さんは亡くなりましたが、私は、彼が創り出した独創的な芸術は永遠に不滅だと信じています。2019年末には、6年越しの念願が叶って、バー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』改訂増補版を刊行することが出来ました。これを記念して始めたバーUK公式HP上での「ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹」の連載も、すでに1年を経過し、400点近い知られざる作品を紹介し続けています(今後もまだ続きます)。バーUKと私はこれからも、一徹さんのバー業界への貢献とその唯一無比の画業(アート)を次世代へ伝えるため、微力ながら精一杯尽力していきたいと強く思っています。
2021/10/14
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(366) シーボルト胸像 1991年 ※本日も、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向けの季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)に添えられた作品から。第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の挿絵からシーボルトの胸像である。 シーボルトは1822年、長崎・出島の阿蘭陀商館付き医官として来日した(下の画像は商館付き医官時代のシーボルトの肖像画)。出島の外国人は島外へ出ることは原則禁止されていたが、シーボルトはその医学的な貢献もあって、特例として島外の長崎に「鳴滝塾」という医学塾を開くことが認められ、ここで数多くの日本人医学生を育てた。 また医者と同時に博物学者でもあったため、約6年間の滞在中、自然環境や植物、動物、鉱物、風俗、産業、地理、歴史、宗教など幅広い分野で研究に打ち込み、数多くの標本、資料を収集した(これらの膨大な資料は現在、オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている)。 1828年、国禁の日本地図を持ち出そうとしたいわゆる「シーボルト事件」で国外追放となったが、帰国後は、日本での体験や収集した資料を紹介する著書を数多く出版し、長く鎖国状態にあった日本への理解を広げることに貢献した。再来日した1859年以後は、オランダの貿易会社顧問を務めながら、の幕府の外交顧問にも就任し、1862年に帰国するまで諸外国との対外交渉などで助言役を果たした(以上、Wikipediaなどを参考に記しました)。(シーボルトのお抱え絵師だった川原慶賀筆)◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/14
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(365) 楠本タキとイネ 1990年代前半 ※本日も、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の挿絵から。シーボルトは1822年、長崎・出島の阿蘭陀商館付き医官として来日した。ドイツ人なので本来は入国できない身分だったが、オランダ人であると偽ったという。 この絵は、女性と幼子の肖像画である。女性は楠本タキ、幼子の名はイネという。来日した26歳のシーボルトは、まもなく長崎の遊女「其扇(そのぎ)」と出会い、一緒に暮らし始める。「其扇」はタキの源氏名だった。そして間もなく二人の間にはイネという娘が生まれた(この時シーボルト30歳。タキは19歳)。 しかし1828年、シーボルトは国禁の日本地図を持ち出そうとして幕府から国外追放処分を受ける。タキや2歳のイネを連れ帰ることは叶わず、その後、タキは女手一つでイネを育てた。3人が再び日本で再会できたのは開国後の1859年だった。 タキやイネは、再来日時にシーボルトに同行した異母弟から、その後経済的な支援を受け続けた。イネはシーボルトの弟子から医学を学び、その後、日本初の女性産科医になったことでも知られている(以上、シーボルト、タキ、イネの経歴については、Wikipediaなどを参考にさせて頂きました)。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/13
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(364) 長崎・丸山町「料亭・花月」 1991年 ※引き続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」=ダイヤモンドプレス刊=誌上)を材料に一徹氏の作品を紹介していく。いましばらくお付き合い願いたい。 今回は、この連載第1回目(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)に添えられた切り絵である。鎖国下にあった江戸時代、唯一、オランダとの貿易を通じて「世界への窓口」として開かれていたのが長崎・出島である。そのため、長崎の丸山町、寄合町界隈には外国人向けの遊興施設が数多く存在した。 この絵に描かれた「花月」は、丸山遊郭で最大の遊女屋「引田屋」の庭にあった茶屋で、出島の阿蘭陀商館付き医官として来日したシーボルトもたびたび訪れたという(「花月」は、現在でも料亭として営業を続けている)。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/12
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(363) ホフマンとミュルレル 1991年 ※一昨日、昨日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第3回のために制作された作品。 今回は、この3回目の主人公でもあるテオドール・ホフマン、レオポルド・ミュルレルという2人のお雇い外国人教師の肖像画。2人は明治の新政府から招へいされ、1871年(明治4年)にはるばるドイツから来日した。当時ホフマンは33歳、ミュルレルは47歳。ともに軍医学校の教官をつとめていた。とくにミュルレルは陸軍病院の総監督もつとめる熟練の外科医だった。 漢方医学や蘭方医学が幅を利かせていた日本に、近代医学の専門教育の基礎を築いたのがこの2人である。2人は約4年間滞在し、言葉の壁に苦しみながら、旧・東京医学校(現東京大学医学部の前身)で約1000名余の医学生を育てた。なお、二人の肖像画に微妙な風合いの違いがあるのは、ホフマンの絵(左)は原画からのスキャニング、ミュルレルの絵は印刷媒体の画像であるためである。悪しからずご了承願いたい。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/11
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(362) 旧・東京医学校本館 1991年 ※昨日に続き、フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」誌上)の第3回のために制作された作品。この回は、開国直後の日本にドイツからやってきたミュルレル、ホフマンという2人の政府お雇い外国人教師(医学教育)に焦点を当てている。この絵に描かれたのは、1875年(明治8年)に完成した旧・東京医学校本館(現在の東京大学医学部の前身)。建物は現存しており、現在は東京大学総合研究博物館小石川分館(重要文化財指定)として利用されているという。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/10
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(361) 明治初頭の銀座 1991年 ※フリーライター・木村克彦氏の連載「赤ひげ異人伝」(医師向け季刊誌「ドクターズ・シエスタ」=ダイヤモンドプレス刊=誌上)の第3回のために制作された作品。おそらくは、当時の錦絵か写真を参考にしながら描いたと思われる(落款は初期のスタイルである)。銀座の通りには人力車が走り、松並木も見える。通りの商店等の建物は、はや洋風化しているが、切り絵をよく見ると、まだ髷(まげ)を結ってる男性もいる。 新政府は1871年(明治4年)、男性に対して、髪型は自由にすべしとの「断髪令」を出したが、法的な強制でなく、表向きは罰則もなかったこともあってか、市井の隅々に浸透するまでには時間がかかった。ほぼすべての国民が断髪した(髷を切った)のは明治20年代の前半だったという。この銀座の光景は、明治5年~10年頃ではないかと推察している。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/09
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ITTETSU GALLERY:もう一つの成田一徹(341)~(360) バー・シーンを描いた切り絵で有名な成田一徹(1949~2012)ですが、実は、バー以外をテーマにした幅広いジャンルの切り絵も、数多く手掛けています。花、鳥、動物、職人の仕事、街の風景、庶民の暮らし、歴史、時代物(江戸情緒など)、歴史上の人物、伝統行事・習俗、生まれ故郷の神戸、小説やエッセイの挿絵、切り絵教則本のためのお手本等々。 今回、バー・シーンとは一味違った「一徹アート」の魅力を、一人でも多くの皆さんに知ってもらいたいと願って、膨大な作品群のなかから、厳選した逸品を1点ずつ紹介していこうと思います(※一部、バー関係をテーマにした作品も含まれますが、ご了承ください)。 ※故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします。(341)コートを着た漆黒の女性像 1990年代前半 ※おそらくはミステリー小説の挿絵として制作された作品。黒を強調し、効果的に生かした女性像。カッティング・ナイフで切る本数は極力少なく、シンプルに。乱れた髪を表現した曲線(カーブ)が見事だ。顔はリアルには描かず、まるで未来から来た宇宙人ような雰囲気もある。同様な作品は極めて少ないため、実験的な意味合いもあったのだろう。(342)クラシック・ファッションのための小品=4点(F) 1990年代前半 ※この連載で第18回目、48回目、90回目、188回目、236回目と過去5回紹介してきたクラシック・ファッションの作品も今回が最後。いずれも切り絵技法書の「作例」としても掲載された。いずれも1920~30年代の欧米の女性ファッションをモチーフにしており、禁酒法時代(1920~33)の米国の富裕層の女性はこのようなファッションに身を包んでいた。 なお一徹氏が、ファッション誌から依頼された訳でもないのに、なぜこうしたクラシックなファッションの作品を作り続けたのかは、私自身その理由を把握していない。どなたか生前に一徹氏から何か聞いておられたら、ぜひご教示ください。(343)「恵美子の手袋」の表紙のために 1994年 ※猫を抱いた幼い女の子。全体に左にやや傾いた姿で描かれ、動的な印象を与える。作家・山崎秀雄氏(1907~2005)のミステリー小説「恵美子の手袋」(ミステリマガジン94年7月号掲載、早川書房刊)のために制作された。原画と、雑誌で実際に掲載された表紙の「完成見本」を並べて紹介する。なお、この女の子が猫を抱く構図は、第102回でよく似た図柄=1996年制作=を紹介したが、こちらは身体を傾けない姿で描いている(下の画像参照)。(344)運動会 1990年前半 ※コロナ禍の学校では、運動会を開催するにもいろいろ制約があり、苦労しているようだ。青空の下で、何の気兼ねもなく開催できる日々が一日も早く来るように祈るばかりだ。このリレー競技中の子どもたちを描いた作品は、自著の切り絵技法書の「作例」として制作された。(345)中秋の名月 1990年後半 ※きょう9月21日は旧暦の8月15日、「中秋の名月」らしい。一徹氏の切り絵でこの「中秋の名月」をモチーフにした作品はないかなと探したら、1枚あった(カラーでは「月見」と題した作品=下の画像参照<第73回で紹介>=はあるが…)。 ちなみに、「中秋の日」が毎年変わることは知っていたが、昨夜のテレビで気象予報士が「今年は満月ですが、中秋であっても、必ず満月であるとは限らない」と話していた(旧暦は月の満ち欠けも関係していたのに対し、新暦は月齢とは無関係であることが理由らしい)。また月見団子にも、関西と関東で違いがあるという。関西はやや細長い団子の上にアンコを添えたような見た目、関東はこの切り絵にあるような丸い団子。この歳でまた一つ賢くなった。(346)サプライズ・プレゼント 1990年前半 ※ドアを開けたら、花(チューリップ)を持った男性が立っていたという場面。「サプライズ・プレゼント」と名付けられたこのカラー作品は、切り絵技法書の冒頭、カラーの「作例」を紹介するために制作された。一徹氏は、カラーの花の切り絵は数多く手がけているが、花と人物を組み合わせた作品は意外と少ない。(347)アイ・ジョージ 2008年 ※この絵を見て誰かすぐに分かる人は、おそらく50歳代後半以上の方だろう。この連載で過去4回(ちあきなおみ<第31回>、青江三奈<103回>、松尾和子<131回>、フランク永井<197回>)紹介した、ビクターレコードのベスト盤企画CD用につくられた作品。 歌手アイ・ジョージ(本名は石松譲治。1933年~)。香港生まれ。父親が日本人(石油会社の役員)で母親がスペイン系のフィリピン人だった。父親が出征したため10歳で日本へ渡るが、身を寄せていた父方の祖母が空襲で亡くなったため、事実上孤児となり、長野県の果樹園に引き取られた。 終戦後、復員した父もまもなく他界したため、ジョージはそれからしばらく、パン屋、運送屋、ボクシング選手などさまざま職業を転々としたという。1953年、流しの歌手としてナイトクラブや米軍キャンプで歌っていた頃、仲間に勧められてテイチクレコードの歌手採用試験を受けて合格。黒田春夫という芸名でデビューした。 しかし、歌謡曲歌手として売りたいレコード会社の戦略とジャズ歌手として生きていきたい本人の主張が嚙み合わず、テイチクを退社。1959年、当時、大阪最大のナイトクラブ「クラブ・アロー」に、外国人歌手の代理としてステージに立ったところ人気を得て、専属歌手となる。その頃、俳優の森繁久彌に見出だされ、森繁劇団の公演に「流しの歌手役」でも出演していた。 1959年12月、アイ・ジョージとしてデビュー。再びテイチクとレコード契約を結んだ、NHKの紅白歌合戦には1960年から1971年まで12回連続出場した。レパートリーはラテン系の外国曲が中心だったが、1961年には自作曲「硝子のジョニー」が大ヒットした。他に代表曲は「赤いグラス」(1965年、志摩ちなみとのデュエット)、「別れのバラード」など。 1980年代以降は目立った歌手活動はしておらず、2000年代以降に、自らの事業に絡む金銭トラブルの話題が週刊誌などに取り上げられたくらいで、芸能界からは事実上姿を消している。(348)「十三トリス」のコースターのために 90年代後半~2000年 ※「十三トリス」は1956年(昭和31年)開業という大阪屈指の老舗バーである。一徹氏も大学院での学生時代から通い始め、社会人になってからも、切り絵作家として独立してからも、大阪に来れば必ずと言っていいほど顔を出し、江川栄治マスターとは終生親交を深めた。 そして時折り、江川マスターの求めに応じて店のコースターやテレホンカードなどのグッズ用のために、オリジナル作品を提供した。コースター用に制作した作品はもう少しあったと記憶しているが、残念ながら、いま手元に残されているのはこの3作品(コースター自体の形は丸型だった)。(349)小説「カット」の表紙のために 1997年 ※SF作家・草上(くさがみ)仁氏(1959~)の小説「カット」(早川書房刊、月刊「SFマガジン」1997年8月号所収)の表紙のために制作された作品。上が原画、下は雑誌上での完成予想見本。一徹氏と早川書房との付き合いはプロデビュー前からに遡り、「ミステリマガジン」「SFマガジン」誌上での小説の挿絵依頼は終生続いた。(350)海の男たちⅡ 1980年代前半 木版画?or ゴム版画? ※当時勤務していた神戸港振興協会の広報紙のための作品。この連載の第199回でも紹介した4作品(下のURLからリンクできます)とほぼ同じ時期に制作されたと考えられる。一徹氏の手になる原画は残っておらず、印刷媒体の資料のみが現存するが、絵のタッチからして木版画かあるいはゴム版画ではないかと思われる。のちには同じような構図のものを切り絵でも制作している。(351)ホット一息 1990年代前半 ※この連載でも何枚か(例えば、第85回「福寿草」、第158回「サクラ」、第251回「かき氷屋の幟」など)紹介したが、一徹氏が当時、毎日新聞社からの依頼で作った「休刊日お知らせチラシ」のための切り絵。年間10枚ほど制作していた(ところで、このカップに入っているのはコーヒーなのか、紅茶なのか? 微妙な色合いで答えが分からない)。(352)「イケズやわ」 2002年 ※この連載の第331回「Rの幸せ」(下にリンク有り)でも紹介した漫画原作者・城アラキ氏の連載エッセイ「男を磨く男のコラム:男包丁」(2002~03年、週刊「漫画ゴラク」=日本文芸社刊=誌上)のために制作された挿絵。第8回「京都女は10年殺し」で使用された。 「お兄さん、このあとディスコへ連れてってくれへん?」。旬の稚鮎を楽しむ鴨川べりの桟敷にいた筆者は、隣に座った舞妓のTちゃんにそう耳元でささやかれた。しかし、そのあと悩みに悩んだ末、結局、待ち合わせの場所には行かなかった。 翌朝、京都駅に見送りに来てくれたTちゃんがまた耳元でささやいた。「お兄さんのイケズ」。「10年以上経った今でも胸が痛む。毎年、京都、夏、鮎っていうと思い出す」と記す筆者。で、「京女のイケズは10年殺し」なのだそうだ。 ちなみに、私なら、たぶん誘いを断るような勇気はなかっただろう。周りから「無謀だ、リスキー過ぎる」と言われてもバー開業へ突っ走ったのと同様、「行かなくて後悔するなら、行ってから後悔しよう」と自分で自分を納得させて…。 ・第331回「Rの幸せ」は→ こちらへ(353)ジタン(GITANES)はいかが? 1990年代後半 ※若い頃は誰しも格好をつけてタバコに手を出したがる。一徹氏も例外ではなかった。20~30代の頃は愛煙家だった。好んだ銘柄はよく覚えていないが、時には、当時「洋モク」(今では死語かも?)と言われた外国製のタバコを持っていた記憶がある。 私の場合も基本は国産のショートホープかセブンスターだったが、時々、米国製のKENTやLARK、たまにこのフランス産のGITANESにも手を出した。しかし、40歳になる前に禁煙し、以来紫煙とは縁がない。一徹氏も(理由は生前聞き忘れたけれど)50歳を過ぎた頃からほとんど吸わなくなった。 この作品は、おそらくは、誰かの小説かエッセイのための挿絵として制作されたと思われるが、現時点ではそれ以上の情報はない(※ちなみに2021年現在、GITANESはフランス国内ではなく、ポーランドで生産されているとのこと=出典Wikipedia)。(354)ザ・シガー・ストーリー「ヘミングウェイ」のために 2002年 ※一徹氏は、大ヒット漫画「ソムリエ」「バーテンダー」の原作者としても知られる城アラキ氏とタッグを組んで2001年から2002年にかけて、隔週刊の漫画雑誌「スーパージャンプ」(集英社・発行)誌上で、前代未聞の切り絵漫画「ザ・シガー・ストーリー:葉巻をめぐる偉人伝」を連載した。 城さんの編む原作(話)に従って、漫画のようにコマ割りし、そこを隔週で12頁~16頁分の切り絵で埋めていく作業は、当時の一徹氏本人の言葉を借りれば、「それまでに経験したことがないくらい過酷で、エネルギーを使う作業」だったという。 通常はA4サイズくらいの切り絵で制作には、どんなに早くでも1~2日かかる。この連載の原画サイズは、1ページが約B4サイズくらいの大きさ。コマ割りもあるので、通常の原画の2~3倍の時間と手間がかかった。なのでこの頃、とにかく寝る間も惜しんでひたすら机に向かい、毎日3~4時間の睡眠だったという。 しかし、一徹氏は稀代の漫画原作者とのコラボを喜び、「絶対に成功させる」という意気込み通り、全10話を完走した。連載は後日、集英社から単行本にもなり、短期間で完売した(本は現在絶版だが、嬉しいことに最近、電子書籍として復刻されている)。 本日紹介した切り絵は、第9話「ヘミングウェイ」の中で使われた1頁そのままの原画(本では95頁に)。実際の誌面では、言葉やセリフが加わっている(下の画像ご参照)。嬉しいことにこの原画は現在、神戸・三宮の「パパ・ヘミングウェイ」というバーの壁に飾られている。ぜひとも生の原画をご覧頂き、一徹氏の切り絵への「熱い情熱」を感じてほしい。(355)「ポケットに栞を」のために 2001年 ※一徹氏は、文芸評論家・清水良典氏が2000年9月から2003年5月にかけて中日新聞(&東京新聞)文芸面で月1回連載したエッセイ「ポケットに栞を」(計33回)の挿絵を担当した。これはその第14回(2001年10月2日付)のために制作された。この連載では、毎回必ず「グラス+何か」というモチーフで切り絵を作り上げた。10月なので、実った柿とカクテルグラスを組み合わせたが、このグラス自体はその奇妙な形からしても、一徹氏の想像の産物であろう。(356)石川県観光PR記事のための3枚 1980年代後半 ※プロデビュー直後の作品。雑誌の石川県の観光PR記事のために依頼されて制作した。それぞれ兼六園、加賀友禅、温泉郷(山中、山代、片山津、粟津、和倉など)をイメージして描いたという。切り絵の線にはまだ後年のシャープさは見られないが、ほのぼのとした感じがよく伝わってくる。絵のギャラは、まだデビュー直後の新人ということもあり、「(1枚当たり)バーに1回行って飲める程度」と安かったが、「ギャラに関係なく、仕事を頼まれること自体が嬉しかった。プロとして認められたみたいな気がした」と後年振り返っていた。(357)異国にて 1990年代前半 ※建物の窓から見下ろした街の景色。遠くには霞んだような山が見える。なんとなくヨーロッパのどこかの町のようにも見える。何かの小説かエッセイの挿絵として制作したのだろうか。制作に至った詳細が一切分からない。皆様の中で、この描かれた国・場所はどこなのか何か情報をお持ちの方はご教示願いたい。(358)秋の農家の庭先で 1990年代前半 ※切り絵技法書の「作例」の一つとして制作された作品。秋の景色に一番似つかわしい果物と言えば、やはり、柿ではないだろうか? 田舎へ行けばどこででも見かけそうな光景。長閑で澄み切った空気や心地よい風を感じるような絵である。(359)菊 見 2005年 ※一徹氏は2003年から2005年にかけて、銀座「和光」発行の月刊誌「チャイム銀座」で、神崎宣武氏(民俗学者)の連載エッセイ「風物詩でティータイム」の挿絵を担当した。この切り絵は、この連載の第27回「菊見」の挿絵として制作したもの(部分的にカラーにしているのは意図的なもので、絵が未完成という訳ではない)。 かつては秋になると、全国各地で人形仕立ての菊を楽しむイベント「菊人形」が開催されたが、今では集客効果も乏しいのか、すっかり廃れてしまった。しかし、神崎氏によれば、江戸時代は、春の花見(桜)と並んで、秋には菊を愛でる「菊見」が盛んだったという。しかし、花の栽培技術が進んで、年中菊が楽しめるようになり、桜のような有難さも減った。結果、「菊見」は時とともに流行らなくなったという。年中菊が楽しめる現代はもちろん素晴らしいが、菊人形づくりのような職人的な技までこの先消えてしまうのかと思うと、少し悲しくなる。(360)松 茸 1990年代前半 ※秋にちなんだ絵(小作品)をもう一つ。味覚の秋の「王者」と言えば、やはり松茸だろう。近頃はスーパーのコーナーでも、外国産の方が幅を利かせている。今年の作柄はどうなのだろうか。一徹氏が描くと、松茸はこうなる。あの香ばしい匂いが伝わるような立派な逸品である。切り絵技法書の「作例」としても掲載された。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★過去の総集編ページをご覧になりたい方は、こちらへ。【Office Ittetsuからのお願い】成田一徹が残したバー以外のジャンルの切り絵について、近い将来「作品集」の刊行を計画しております。もしこの企画に乗ってくださる出版社がございましたら、arkwez@gmail.com までご連絡ください。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/08
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誠に申し訳ございませんが、バーUKは本日7日(木)、やむを得ない事情によりまして、臨時休業させて頂きます。ご迷惑をお掛け致しますが、何卒ご了承くださいませ。
2021/10/07
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バーUKは、本日6日(水)は第25回「テイスティングの集い」(午後3時~9時)開催のため、原則として貸切営業となります。何卒ご了承くださいませ。
2021/10/06
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(360) 松 茸 1990年代前半 ※秋にちなんだ絵(小作品)をもう一つ。味覚の秋の「王者」と言えば、やはり松茸だろう。近頃はスーパーのコーナーでも、外国産の方が幅を利かせている。今年の作柄はどうなのだろうか。一徹氏が描くと、松茸はこうなる。あの香ばしい匂いが伝わるような立派な逸品である。切り絵技法書の「作例」としても掲載された。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/06
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(359) 菊 見 2005年 ※一徹氏は2003年から2005年にかけて、銀座「和光」発行の月刊誌「チャイム銀座」で、神崎宣武氏(民俗学者)の連載エッセイ「風物詩でティータイム」の挿絵を担当した。この切り絵は、この連載の第27回「菊見」の挿絵として制作したもの(部分的にカラーにしているのは意図的なもので、絵が未完成という訳ではない)。 かつては秋になると、全国各地で人形仕立ての菊を楽しむイベント「菊人形」が開催されたが、今では集客効果も乏しいのか、すっかり廃れてしまった。しかし、神崎氏によれば、江戸時代は、春の花見(桜)と並んで、秋には菊を愛でる「菊見」が盛んだったという。しかし、花の栽培技術が進んで、年中菊が楽しめるようになり、桜のような有難さも減った。結果、「菊見」は時とともに流行らなくなったという。年中菊が楽しめる現代はもちろん素晴らしいが、菊人形づくりのような職人的な技までこの先消えてしまうのかと思うと、少し悲しくなる。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/05
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バーUKは本日4日(月)以降の営業について改めてお知らせしておきます。 1.営業時間は平日は午後4時~8時半です(ご入店は8時まで。9時までの延長あり)。午後8時でノーゲストの場合、閉店準備に入らせて頂きます。 2.午後8時以降にご来店の場合、必ず8時までに店までご連絡くださいませ(電話06-6342-0035)。事前にご連絡がなかった場合、ご入店をお断りすることがあります。 3.バーUKは「ゴールドステッカー認証」店ですので、営業時間内は酒類を提供できます。ご入店は、当面御2人様まで、ご在店は90分以内とさせて頂きます。 4.「密」を避けるため、同一時間帯での在店者数は、原則、店のキャパの50%(6人)までとさせて頂いております。 以上、ご理解、ご協力の程よろしくお願い致します。
2021/10/04
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(358) 秋の農家の庭先で 1990年代前半 ※切り絵技法書の「作例」の一つとして制作された作品。秋の景色に一番似つかわしい果物と言えば、やはり、柿ではないだろうか? 田舎へ行けばどこででも見かけそうな光景。長閑で澄み切った空気や心地よい風を感じるような絵である。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/04
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(357) 異国にて 1990年代前半 ※建物の窓から見下ろした街の景色。遠くには霞んだような山が見える。なんとなくヨーロッパのどこかの町のようにも見える。何かの小説かエッセイの挿絵として制作したのだろうか。制作に至った詳細が一切分からない。皆様の中で、この描かれた国・場所はどこなのか何か情報をお持ちの方はご教示願いたい。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/03
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バーUKは本日2日(土)も営業いたします。営業時間は、午後2時~7時半(ご入店は7時まで。8時までの延長あり)です。当店は「ゴールドステッカー認証」店ですので、営業時間内は酒類を提供できます。また、ご入店は、当面御2人様まで、ご在店は90分以内とさせて頂きます。なお、現在「密」を避けるため、同一時間帯での在店客数をキャパの50%(6人)までとしております。ご来店の際は、ご予約頂ければお席は確保できますので、事前のご連絡を宜しくお願いいたします(電話06-6342-0035)。以上、何卒宜しくお願い致します。
2021/10/02
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(356) 石川県観光PR記事のための3枚 1980年代後半 ※プロデビュー直後の作品。雑誌の石川県の観光PR記事のために依頼されて制作した。それぞれ兼六園、加賀友禅、温泉郷(山中、山代、片山津、粟津、和倉など)をイメージして描いたという。切り絵の線にはまだ後年のシャープさは見られないが、ほのぼのとした感じがよく伝わってくる。絵のギャラは、まだデビュー直後の新人ということもあり、「(1枚当たり)バーに1回行って飲める程度」と安かったが、「ギャラに関係なく、仕事を頼まれること自体が嬉しかった。プロとして認められたみたいな気がした」と後年振り返っていた。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/02
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バーUKはいよいよ本日1日(金)から、2カ月ぶりに営業を再開いたします。営業時間は当面、午後4時~8時半(ご入店は8時まで。9時までの延長あり)と致します。当店は「ゴールドステッカー認証」店ですので、8時半まで酒類を提供できます。また、ご入店は御2人様まで、ご在店は90分以内とさせて頂きます。なお、午後8時の時点でノーゲストの場合は、閉店させて頂きます。8時以降にご来店の場合は、8時までに店まで必ずお電話くださいませ(電話06-6342-0035)。以上、何卒宜しくお願い致します。
2021/10/01
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(355) 「ポケットに栞を」のために 2001年 ※一徹氏は、文芸評論家・清水良典氏が2000年9月から2003年5月にかけて中日新聞(&東京新聞)文芸面で月1回連載したエッセイ「ポケットに栞を」(計33回)の挿絵を担当した。これはその第14回(2001年10月2日付)のために制作された。この連載では、毎回必ず「グラス+何か」というモチーフで切り絵を作り上げた。10月なので、実った柿とカクテルグラスを組み合わせたが、このグラス自体はその奇妙な形からしても、一徹氏の想像の産物であろう。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/10/01
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