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このページを開設してからのアクセスが先日、1万件を超えた。2カ月間で1万(1日平均で約160件余)という数字が、多いのか少ないのか、よく分からないが、とにかく嬉しいことには違いない。もっとも、同じ人がアクセスした、ダブルカウントも含むので、実質は5~6千件(人)というところか…。 ページはあくまで、僕一個人の趣味的なことでやっているので、会社の同僚でも、ごく親しい人間にしか明かしていない。会社以外の個人的な友人にも、ごく限られた人しか教えていない。 だから、遊びに来てくれる(or 書き込みしてくれる)方には、顔も名前も知っている人から、顔も名前も知らないけれど、このページを通じて親しくなった人、また誰か知らないけれど、とりあえず覗いていってくれる人まで、様々な人がいる。 初めて僕のページを覗いてくれた人が、どういうきっかけで(or どういう道筋で)、ここにたどり着いたのかは知らない。「酒」&「ピアノ」という複数語、あるいは、「うらんかんろ」という言葉で、GoogleかYahooで、キーワード検索すれば行き着くこともできるが、そんな人はまずいないだろう。 この「楽天広場」で、僕と同じようにホームページを持っている方ならご承知だが、運営する当人の管理ページには、自分のページに遊びにきてくれた、「最新の訪問者50件」が表示される。ただし、楽天にページを持っている人は、「ニックネーム」(僕なら「うらんかんろ」)で表示されるだけ。それ以外の方は、「@(アット・マーク)以下のアドレス」だけ。 「@以下」だけだから、どこのどういう人かを知る術(すべ)はない。けれど、どういう人が僕のページに興味を持ち、遊びに来てくれたのか、@以下のアドレスから、いろいろ想像をめぐらせるのも、また楽しい。 見に来てくれる方のプロバイダーは大手から、国内各地の小さなものまで実に様々。地元の「ケーブルテレビを通じて」というアクセスも、結構多い。いろんな会社(業種)のアドレスがあるのも面白い(僕もときどき会社のLANから、アクセスしたりするので、とやかく言う資格はありませーん)。大学やお役所のLANからのアクセスも少なくない。 意外なことに(世界とつながるインターネットの世界だから当たり前だが)、海外からのアクセスもそれなりに多い。見たこともないアドレスと思って調べてみたら、スウェーデンだったり、イタリアだったり、米国内の大学だったり…して、驚いてしまう。 先日、米オハイオ州、KENT州立大学のアドレスでアクセスがあったときには、思わず、胸がジーンと来た。KENT州立大学と言えば、ベトナム反戦運動が盛んだった1970年、反戦デモの学生と州兵が衝突し、州兵の発砲で4人の学生が犠牲になった、有名な事件で知られる。 CSN&Yのニール・ヤングは、この事件に衝撃を受けて、死んだ学生を悼み、当時の大統領ニクソンを批判する名曲「Ohio」(写真右は、「Ohio」収録のアルバム「4 Way Street」)を作った。 もちろん、外国からのアクセスとは言っても、僕のページは日本語オンリーなので、おそらくは、その国に住む日本人の方に違いないのだが、どんな方なんだろうかと、いろいろと想像がふくらんでしまう。 海外からアクセスしてくれた方、ぜひ一言何か、感想でも書き残していってくだされば、僕としても、とても嬉しいのですが…。どうかよろしくお願いしまーす(スウェーデンの方は一度書き込んでくれました。本当にありがとう)。
2005/01/31
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旅行ガイドブックにも、必ずと言っていいほど紹介されている。でも一度も行ったことがなくて、いつかは訪れてみたいと思っていたBARがあった。 それは、浅草の「神谷バー」(写真右下はお店のパンフレットから)。雷門のすぐそばにあって、創業は1880年(明治13年)というから、なんと今年で125年もの歴史を持つ。 その神谷バーに行く機会が、昨年末ようやく訪れた。お店にあったパンフレットの言葉を借りれば、そこは、「いつの時代にあっても、気取らない下町の社交場」。永井荷風や萩原朔太郎ら文人も、しばしば通ったとか…。 そして、神谷バーの名物と言えば、ご存じ「デンキブラン」。電気が珍しかった明治の頃、舶来のハイカラなお酒ということで名付けられたという。ブランデーをベースに、ジンやワインやキュラソーや薬草などがブレンドされ、その配合は今も秘伝。 ほとんどの客は、ここではデンキブランを注文する。1杯260円、という信じられないようなお値段。きりきりに冷やした小ぶりのグラスに、冷やしたデンキブランを入れて客に出す。想像していた味よりは、やや甘かったが、冷やして飲むとなかなかいける。 フード・メニューも充実している。串カツや冷や奴、小エビの唐揚げなんていう、居酒屋のようなアテもいろいろあって、嬉しい。だからかどうか知らないが、東京在住のBAR好きの友人は、「あそこはBARというよりも、居酒屋か大衆食堂」と冷ややか。 でも、僕の感じ方は違った。真っ昼間に店内に足を踏み入れた僕は、時間がゆったりと流れるレトロな空間の中にいた。そして、楽しそうに談笑しながら、飲み、食べるご近所さんらしいお年寄りたちの顔を見ていて、幅広い世代に愛されるイギリスのパブに、どこか相通じるものを感じた。 BARというには、確かに違和感があるかもしれない。明治の和風パブの名残かもしれない。でも、昼の11時半から開いていて、近所のお年寄り同士が、気軽に集える空間は、高齢化社会を考えても貴重な存在(それに、たらふく飲んで食べた僕でも、2千円払ってお釣りがくる良心的価格!)。 こんな場所が、日本にあってもいい。BARは、若者だけのための場所ではない。
2005/01/29
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クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング(Crosby, Stills, Nash & Young 以下、CSN&Y)って言っても、洋楽では、少しマニアックな世界に入るかもしれない。1960年代後半に結成され、メンバーの平均年齢が61.2歳になった今も活動をし続ける、息の長いユニット。 でも、僕にとっては青春そのもの。14年前、クロスビー、スティルス&ナッシュの3人での来日ツアーがあったが、僕は、自分の青春時代がプレイバックするような感動に震えた。(3人とも結構太めになって、いいおっさんになっていたのは、少々哀しかったが…)。 米ウェスト・コーストのロック・バンド、「Byrds」のデビッド・クロスビー<David Crosby>、同じく「Baffalo Springfield」のスティーヴン・スティルス<Steven Stills>、そして英国のバンド、「Hollies」のグラハム・ナッシュ<Graham Nash>という、当時それぞれ、一応名をなしていた英米の3人が集まって、1968年、鮮烈にデビューした。 ファースト・アルバム(写真左)を発売した直後の69年の夏には、あの伝説のコンサート、「ウッドストック(Woodstock)」にも出演した(同名の映画では、ステージで歌う彼らの姿が見られる)。そして、その後間もなく、スティルスと同じバンドにいたニール・ヤング<Neil Young>が加わり、4人でのユニットとなった。 彼らの音楽の特徴は、やはり美しいハーモニー。それまでのロック・バンドと言えば、メーン・ボーカリストが歌って、それ以外メンバーは曲のサビあたりで、少しコーラスを付ける、という程度のことが多かった。 しかしCSN&Yは、4人がそれぞれ対等の立場でボーカルをとり、曲のほとんどの部分で、3部のハーモニーを聴かせるという、凝ったことに挑んだ最初のバンドだったかもしれない。時々エレクトリック・ギターも使うが、基本はアコースティック・ギターを生かしたアレンジ。それが、当時はとても新鮮だった。 2人の友人と僕が学生時代につくっていた「木の葉がくれ」という名前のバンドも、男声3人のトリプル・ボーカル。だから、CSN&Yはとてもいいお手本で、彼らの曲のコピーはとても勉強になった。バンドメンバーのAがレコードを聴いて採譜し、3部のハーモニーを五線譜におこした(僕にはそういう才能はなかったので、Aにお任せだった)。苦手なおたまじゃくしを追いながら、よくコーラスの練習をした。 「青い眼のジュディ<Judy; Blue Eyes>」「Helplessly Hoping」「Teach Your Children」「Carry On」等々。僕は当時、一番上のパートを担当することが多かったが、今では残念ながら、あまり高い声は出せなくなった。 CSN&Yの曲のなかでも、僕は、ナッシュがピアノを弾きながらメーンボーカルをとる、「Our House」という曲が、大好き(写真右の、「Deja Vu」というヤングが初めて加わった1970年のアルバムに収録されている)。 この曲は、コロンビア大学の学園紛争を描いた映画、「いちご白書」の中の挿入歌でもある。主人公のカップルのラブ・シーンのバックで使われていたが、うっとりするくらい美しいメロディー。僕も、BARでの弾き語りでときどき歌う(ばんばんの「いちご白書をもう一度」という曲のおかげで、映画は有名になったが、実際に映画を観たという人は、意外に少ない…)。 最近、1960~80年代の名曲がCMで使われてブレークし、昔のアルバムが再発されたり、なんてことがよくある。アル・クーパーの「Jolie」やホール&オーツの「Private Eyes」や、先日も触れたが、キャロル・キングの「Home Again」なんかがそう。 「Our House」も上の3曲に負けないくらいの美しいメロディー。僕はそのうち、どっかのCMで、この曲がバックで使われるんじゃないかと、睨んでいるんだけれど。
2005/01/27
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ウイスキーという酒を飲み始めたのはいつからだろうか。亡くなった父は、僕が小学生の頃、ときどきジョニー・ウォーカーの黒を飲んでいた。(当時は1本1万円近くした。大卒の初任給が8~9万円くらいの頃だった。父は、「舶来の酒なのだ」と、とても大事そうにしていた)。高校生の時、一度盗み飲みしたことがあったが、美味しいとは全く思わなかった。 大学時代も、ほとんどビールかワインが中心。ウイスキー(ブレンディド)を飲むのは、ゼミのコンパとかで、大勢で騒ぐときくらい。そんな時の銘柄は、たいていバランタインかヘイグが多かった。 ウイスキーを本格的に飲み始めたのは、社会人になってから。とは言っても、昔は今ほどたくさんの銘柄はなかった。20代の前半、僕は、北陸・金沢で仕事をしていた。銘柄には地域的な偏りがあるかもしれないが、当時よく目にしていたのは、次のようなもの。 国産ならリザーブ、オールド、角、ホワイト、スーパーニッカ、ブラックニッカ…。輸入ものなら、シーバス・リーガル、ジョニー・ウォーカー、ブラック&ホワイト、ヘイグ、デュワーズ、バランタイン、ホワイトホース、カティ・サーク…くらいかな。 ウイスキーの銘柄は、転勤して住んだ各地の思い出と重なる。今はもうないが、金沢の繁華街・香林坊に、僕が行きつけだった「ガリバー」というBARがあった。そこでは、ブラック&ホワイトが、お店のメインの銘柄だった(写真は、当時よく飲んでいたラベルのボトル)。僕は、もっぱら水割り一筋だった(と言うか、当時は、水割り以外で飲む人は、ほとんどいなかった)。 金沢のBARと言えば、だからブラック&ホワイトを思い出す。ブラック&ホワイトと同じメーカー、ブキャナン社の最高級銘柄である、ロイヤル・ハウスホールド(当時はもちろん、名前に「The」がついていた)も、もちろん「ガリバー」にはあったが、その頃の僕の給料では、とても手が届かなかった。 その後、神戸で仕事をしていたころは、デュワーズかカティが多かった。洋酒は次第に安くなってきたとはいえ、スタンダードクラスでも、当時はまだ、2500円~3000円以上した。だから家では、もっぱら国産を愛飲していた。徳島では、フェイマス・グラウスを一番よく飲んだが、後半はモルトにはまったので、ブレンディドはあまり飲まなくなった。 今まで飲んだブレンディドの中で、「一番好きな銘柄は何か?」と聞かれたら、しばらく考えてしまうが、やはりデュワーズ・ホワイトラベルと答えるだろう。それも、昔の60~80年代のデュワーズが好き。 デュワーズの上位銘柄、「アンセスター」や「ネ・プラス・ウルトラ」も大好きだが、ともに今では幻の品。「ネ・プラス…」は、故・向田邦子さんが溺愛したウイスキーだった(東京の実践女子大図書館内にある向田邦子記念文庫では、生前の彼女愛飲の「ネ・プラス…」のボトルが、飲みかけのまま保存されているとか)。 「デュワーズは、最近は味が落ちたね」という評判をよく聞く。なぜだろう? キーモルトの質が落ちたからか? それとも腕のいい職人が減ったからなのか? 昔のデュワーズの復活とともに、できれば「アンセスター」と「ネ・プラス…」の再リリースも心から願っているのだけれど…。
2005/01/25
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ウイスキーに氷はつきもの。オン・ザ・ロックや水割りも、氷一つで味がかなり変わる。だから、いいBAR(バーテンダー)は氷にこだわる。 最近は、コンビニでもボール状の氷や、板状の氷も比較的簡単に手に入るようになったが、やはり、プロがこつこつと削ってくれた氷で飲むウイスキーの方が、断然旨い。 氷と言えば、やはりいまは無き神戸のBAR「ルル」のマスター長原さんの「氷切り」のパフォーマンスを思い出す。客の目の前で、縦横が30cm×50cmくらい、厚みが20cmくらいの大きな氷を、包丁で切れ目を入れ、均等にどんどん割っていく。 最終的にはタンブラーやロックグラス1個にちょうどおさまるくらいの氷に仕上げる。その手つきの鮮やかさと言ったら、絶品の技だった。あの氷切りのショーが見たくて、「ルル」に通う常連客も多かった。 氷一つとっても、そのBARの個性が出るから面白い。オン・ザ・ロックの氷も、あるBARは、アイスピックで削ってボール状にした氷を使う。別のBARでは、四角い大きなサイコロ状の氷を使う。あるいは、不均等な大きさのブロック状の氷を、何個か入れるBARもある。 形はともあれ、ウイスキーを注いだ瞬間に起こる、あのシャキーンという氷に亀裂が入る音は、なんとも言えないくらいいい音だ。アイスピックで丸くボール状に仕上げるのは、修業中の若いバーテンダーにとっては必須科目。何個も何個も作り上げていくのは、手が冷たくなって大変だろうが、僕はいつも、心の中で「頑張れー!」と応援している。 水割りやジン・リッキーなどのときの氷は、やはりタンブラーの内径ぎりぎりの、直方体のものがいい。「氷が大きい分、酒が減るんじゃないか」と昔は思っていたが、あるバーテンダーが「量は同じですよ、ほらっ」とメジャーできちんと計って見せてくれて、大きな誤解であることがわかった。 氷も、ある地域の水で凍らせた氷でと、とことんこだわるBARもある。「阿蘇の伏流水で作った氷なんです」と言われると、確かに、同じ水割りでも、なんとなく美味しいような気分になる。 ただ、申し訳ないけれど、僕自身のなかでの最高のオン・ザ・ロックの氷は、プロがつくった氷ではなかった。徳島のBARでのこと。マスターが、冷凍庫の保冷箱から大事そうに取り出した四角い氷を、グラスに入れ、ウイスキーを注いだ。 そして、「**さん、氷に耳を近づけてごらん、面白いから」と言う。僕は、ウイスキーに浮かぶ氷にそっと耳を寄せた。するとどうだろう! 聞こえる!シンセザイザーの電子音楽のような美しい調べが…! 何なんだこの氷は? その氷は、南極大陸の地下深くから切り出されたもの。そのBARの常連さんに、観測船「しらせ」の関係者がいた。その方が徳島・小松島港に寄港した際、店に寄って、マスターに「これ、お土産」と持ってきてくれたのだという。(南極の氷を、日本国内に持ち込んでいいのかな?)。 氷から聞こえた音は、長い間、氷の中に閉じこめられていた大気が、眠りから覚め、はじける神秘的な音…。その日、僕も含めた幸運な客は、その何千年(何万年?)かの眠りについていた貴重な氷で、ウイスキーをしみじみ味わった。 プロの氷屋さんも、最高のバーテンダーも、南極の氷にはちょっと降参だろう。そんな至福の瞬間もただし、氷が溶けるまでの約1時間くらいで終わってしまった。あーっ、残念!(と波田陽区風に…)。
2005/01/23
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今の僕のホームグラウンド・ピアノBARは、大阪キタにある「M」。お客さんは40人近く入れる比較的大きなピアノBARだが、早い時間は結構すいているので、練習がてらにときどき弾かせてもらっている。 そこには、いろんなお客さんが来て、歌伴(歌の伴奏をすること)で知り合いになる。知らないお客さんから、「****って曲、歌いたいんだけど、伴奏してもらえる?」と頼まれ、弾いているうちに意気投合したりする。 「M」では、もちろん僕は、会社勤めの組織人じゃなくて、あくまで一個人で来ているから、相手の名前やどこに勤めているとか、野暮なことはまず聞かない。だから、何度か歌伴をさせてもらって、顔はよく知っている人でも、いまだに名前は知らないお客さんが多い。 「M」でのもう一つの楽しみは、店にいる従業員の女性(とは言っても、ここはラウンジBARではないので、隣に座っての接客はない)のなかに、ときどき、めちゃくちゃ歌の上手い人と出会うことだ。これまでにも2人ほど上手い女性と出会い、お客さんの少ない時間帯など、いろんな曲の歌伴をして、よく遊んだ(写真左は、「M」のある大阪・キタの夜)。 もう10年近く前にもなるが、最初に出会ったTさん(僕は名前の方で、Kちゃんと呼ぶことの方が多かったが)は、ホイットニー・ヒューストンや、マライア・キャリーら洋楽の女性ポップスや、安室奈美恵の歌なんかが、すごく上手かった。 Tさんは、真剣にプロになることを夢見ていて、その後上京した。残念ながらデビューは果たせず、今は実家のある鳥取に住んでいるという話を聞いた。でも、鳥取で音楽活動は続けているといい、先日自作のCDを「M」のマスターに送ってきた。 次に出会ったHさんは、洋楽なら、女性の歌からビリー・ジョエルら男性の歌まで幅広く、器用にカバーする才能の持ち主。とくに、彼女の「New York State of Mind」や、「Dasperado」は絶品だった。今は、昼間の仕事をしながら友人とバンドをつくり、ライブハウスなどで頑張っているという。 そして、いま僕がもっぱらよく歌伴をしているのがSさん。以前の2人には悪いけど、「M」でこれまで僕が出会った女性の中では、一番歌が上手い。表現力も非常に豊かだ。Misiaの「Everything」やスティービー・ワンダーの「Overjoyed」なんて難しい曲でも、プロ顔負けに歌ってくれるので、伴奏する方としてはとても気持ちいい。 何よりも気に入っているのは、和洋のポップスだけでなく、ジャズも(現在勉強中とのことだが)、何曲かカバーすることだ。レパートリーの広い人の歌伴をすると、弾き手も非常に勉強になる。ときどき、「次はこれを歌いたいから練習しといてね」とリクエストをしてくる。これが僕にとっては、知らない曲との出合いになるとともに、新たな挑戦にもなるから、練習にもまた熱が入る。 お客さんは、最近のヒット曲をリクエストしがちなので、最近の若い人の歌をこまめにチェックしていない僕としては、彼女は、今どんな曲がはやっているのかの情報源でもあり、実に助かる。一青窈の「ハナミズキ」も、彼女のリクエストがあって覚えて、僕も大好きになった曲。 先日、彼女の歌伴をしたときは、二人ともノってきて、「涙そうそう」「未来予想図2」「スイート・メモリーズ」と和ものから始まり、「Killing Me Softly…」「You’d Be So Nice…」など洋ものまで、たて続けに15曲近くやったら、マスターから、「そろそろ仕事に戻ろかー」と、睨まれてしまった(ちょっと遊びすぎたかな?)。 今年に入ってからは、仕事が少し忙しくて、まだ「M」にはお邪魔していないが、「近々行かなければ…」と思っている次第。ことしは、ジャズの歌伴も、もう少し増やしたいなぁ…とも考えている。
2005/01/21
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東京から友人が来て、「どこか大阪らしいBARに連れて行って」と頼まれたら、という話題で、先日(5日)の日記に僕は、「ミナミだったら、道頓堀の『Eve』というBARに案内する」と記した。 では、もしキタならどこに連れて案内するか。広い意味では大阪キタに入るということで、僕はたいてい、大阪駅(梅田)から電車で二駅の「十三(じゅうそう)」というところにある、「十三トリス」(写真左)というBARに案内する。 「十三トリス」は、その名の通り、1950~60年代に、洋酒メーカーの某S社が全国展開させた「トリス・バー」のうちの1軒である。1956年(昭和31年)の開店創業。おそらく、全国のトリス・バーのなかでも屈指の歴史を持つ老舗だろう。 店は、阪急十三駅の西改札口から出て、歩いてわずか約30秒という、とても嬉しい立地にある。内装は開店当初から、ほとんど変わっていない。「『この雰囲気、壊したらあかん』というお客さんが多くて、手を入れとうても、入れられません」とマスターは言う。 足を踏み入れると、まさしくそこは昭和レトロな世界。ウナギの寝床のように細長い店内に、長~いカウンターが伸びる。店に出入りするドアが、そのカウンターの両端それぞれの側にあるのが、とても面白い。 「トリス・バー」だから、客はたいていトリスのハイボールを頼む。常連はみんな、「T(ティー)ハイちょうだい!」と愛称で言う(なかには「トリハイ」って言う人も)。そして「Tハイ」(写真右)とともに、客が必ず頼むのが、名物メニューの「イカ焼き」(写真左下)。 見かけは、イカ入りお好み焼き。それが熱した小ぶりの鉄皿の上に乗って、ぐつぐつ、あつあつの半熟(?)状態で出てくる。上にいっぱいに盛られた削りカツオはまだ湯気で踊っている。これがまたTハイと抜群に相性がいい。小腹がすいたときなど最高だ。 僕が十三トリスに行くのは、たいてい1軒目か、最後の仕上げの1軒。1軒目のときは、イカ焼きともう一つの名物「三田牛のカツサンド」(これが800円!という、涙ものの良心価格)をしっかりお腹に入れてから、バー巡りに出かける。 店はいま、先代マスターの奥さんと、その息子さんである2代目マスターが切り盛りする。ことし50周年ということで、記念誌を出す計画という。その記念誌上で、十三トリスやお酒にちなんだ川柳の特集をするので、「**さんも、ぜひ一句お願い」と頼まれた。 川柳などつくったことがない僕だが、必死で考えて6句ほどFAXで送った。先日、店にお邪魔したら、「2句ほど採用させていただきました」とマスター。どの句が採用されたかは(少し気になったが)記念誌を見てのお楽しみということで、あえて聞かなかった。 十三トリスにはいつも、昭和30~40年代の懐かしい時間が流れている。どこか我が家に帰ってきたような、居心地の良さも感じる。関東から来た友人はほぼ例外なしに感嘆し、満足して帰っていく。この雰囲気に惚れて、出張で大阪に来るたびに寄るという東京の同僚もいる。 十三トリスは、可能な限り「十三トリスのままで」いてほしいと願うのは、僕だけでないだろう。【十三トリス】大阪市淀川区十三本町1-2-7 電話06-6301-4826 午後5時半~午前零時 日祝休 トリス・ハイボール(Tハイ)460円、イカ焼き780円
2005/01/19
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きょうは、6433人の命が奪われたあの阪神・淡路大震災から10年。被災者の一人であった者として、きょうはやはり震災の記憶について触れざるを得ない。 前日の16日、深夜勤明けの僕は午前3時半ごろ帰宅した。眠りについたのは午前4時近くだっただろうか。それから間もなくして、強い縦揺れに襲われ、目が覚めた。あの時、まず思ったのは、「近くでジェット旅客機が墜落したに違いない」。 僕はベッドから起きて家を飛び出した。だが、辺りはまだ暗くてよく見えない。しかし見渡せる範囲では、火柱や煙が上がっている様子はない。近所の人たちも、何事が起こったのか確かめようと、次々と家から表に飛び出してきている。間もなく、夜が白み始めると、辺りの惨状がはっきりしてきた。 周辺の古い木造家屋の約8割は、全半壊状態だった(我が家は軽量鉄骨プレハブだったため、幸い屋内の被害だけで済んだ)。近隣でもとくに、我が家のすぐ向かいの家の姿には言葉を失った。大きな2階建てのお屋敷なのだが、1階部分が完全に見えない。2階部分もかなりひどく崩れている。この家には、親子4人と祖母が住んでいるはず。それは、近所の多くの人も知っていた。 だから、誰かれともなく敷地に入り(塀も崩れていた)、その家族を捜し始めた。すると、どこからともなく、がれきの下から「助けてくださ~い」という声がかすかに聞こえてくる。声のする辺りの屋根瓦を、7、8人の男性で協力して、はがしにかかった。 だが、駆けつけた人たちはみんな素手だ。あたりには、瓦やガラスや陶器のような破片が散乱している。手にけがをするのは目に見えている。僕は、家にあった軍手の束のことを思い出し、つれ合いに持ってこさせ、配った(この時ほど軍手に感謝したことはない。「震災の時、一番何が役立ったか」と、聞かれることも多いが、いつも「軍手の買い置き」と答えている)。 約1時間くらいかけて、屋根瓦と天井板をはがし、両親と子どものうち、姉を救い出した。祖母は入院中で、家にいないという。しかし18歳の妹は、「別の場所で寝ている」という。父親が、がれきとなった家のその場所辺りに案内した。僕らは再び屋根瓦をはがし始めた。だが、妹がいたはずの空間の惨状を見た誰もが、生存に不安を感じていた。 結論から言えば、大きな梁(はり)の下敷きとなっていた妹を、約1時間後に見つけ出し、病院に運んだ。だが、その後ほどなく、「即死状態だった」と伝え聞いた。18歳の若さで奪われた命。「だから、早く建て替えようと言ったのにー!」と母親は、がれきの中で号泣した。 聞けば、この家(お屋敷)は建築後、約70年経っていたという。この辺り一帯で数多くの土地を持つ昔からの地主さん。建て替える資金的な余裕がないはずはなかった。父親は「長年住み慣れていた母が、建て替えを渋ったので…」と話していたと、後に聞いた。 近隣では、この娘さんも含め4人の方が犠牲になった。いつも通勤に利用する駅の、すぐ駅前にある7階建てのビルは全壊し、18人が亡くなった。我が家のある地域では、停電した電気は当日の夕方までに復旧したが、水道が戻るまでは約2週間、ガスの復旧には39日かかった。 日常生活は徐々に戻ってきた。だが、一瞬にしてすべてを奪ってしまった震災は、僕の価値観をも変えてしまった。「形のあるものはいつか壊れるかもしれない。そして形のあるものだって、墓場まで一緒に持って行ける訳ではない」と。 娘を失った一家は、震災後に引っ越し、家があった場所は広い駐車場に変わった。その家の庭にあった大きな松の木だけは、切られずに残され、家の名残を伝えている。その松の木の根元に今朝、僕は花をひと束、供えた。助けられなかった妹さんのために…。生きていれば、28歳。幸せな家庭を持っていたかもしれない。 「命のドラマ」は6433の数だけあったはず。彼女は6433分の1だったかもしれない。だが僕は、あの日の朝のこと、彼女のことを「1.17」が来るたびに思い出すだろう。
2005/01/17
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青年雑誌のあるページに、いくつかのトレンディなBARが紹介されていた。30年ほど前のこと。なかでも「いま一番おしゃれで、注目のBAR」として、誉められていたのが、東京の神宮前にあるBAR「R」だった。 「いつか行ってみたいな」と思い続けていたら、その「R」がカクテルブック(写真左)を出版した。さまざまなカクテルが、素敵なグラスを使って美しい写真で紹介され、各界の著名人が味わい深い文章を寄せていた。 僕の念願は、その1年後くらいに叶った。原宿駅で降り、地図を片手にたどり着いた「R」は、意外にもこじんまりしたBARだった。カウンターに座って、ふと天井を見上げると、そこには夜空に光り輝く「天の川」が…。 「何という、おしゃれな空間!」。僕は、店主であるバーテンダーOさんの、カクテルだけでないこだわりに、素直に感動した(写真右=Bar「R」のマッチ。マッチ一つとっても素晴らしいデザイン・センス!) それから10年余、Bar「R」が南青山に支店をオープンしたというニュースを聞いた。たまたま連れ合いと東京へ行く機会があった際、せっかくだからと、一緒にその南青山の2号店を訪ねた。本店ではなく2号店に足を向けたのは、Oさんが本店ではなく、2号店の方にいるという話を聞いたから。開店まもない時間で、店内はすいていた。 僕らがカウンターに座ると、Oさんが近寄ってきた。前回「R」に行った際は、Oさんは不在だったので、初めて出会うOさん。僕が、「大阪からお邪魔しています。神宮前の本店には、随分前ですが、一度…」と言うと、寡黙なOさんも、少し嬉しそうな顔をしたように見えた。 2号店のこだわりは、Oさんが長年集めた素晴らしいアンティーク・グラスの数々を、バック・バーに飾り、お客さんに見てもらうこと(見せるだけなく、実際に使う!)。そして、店内に飾る生け花(Oさんは「小原流」の師範でもある)も、ひと味違う凝ったものにすること。かな?、と僕は思った。 オリジナル・カクテルを頼むと、Oさんは、バック・バーからグラスを選び、それを使って作ってくれた。他に客がほとんどいなかったこともあって、Oさんは、「これは30年代のグラス。戦後のものは良くないんです。やはり職人の腕は、戦前の方が上ですね」などと、丁寧にグラスの解説をしてくれた。 Oさんは、今も年に2回ほど、グラスを探しにヨーロッパの蚤の市を歩き回るという話などを、熱く語った。お値段は少しお高めだったけれど、僕らは満足感に浸ることができた。 しばらくして、青山に3号店もできた。そこではHさんというバーテンダーと知り合った。Hさんは今は新宿で自分のBARを持つが、とても気さくで、いつも律儀に案内状をくれる。東京へ出張しても、なかなか新宿まで行けない僕は、申し訳ない気持ちでいっぱい。 その後、時は流れて、仕事で徳島に住んでいたときのこと。行きつけのジャズBARで、お客さんも少ない時間帯、僕はいつものようにピアノを弾いて遊んでいた(写真左=グラスのデザイン一つとっても、「こだわり」が感じられるBar「R」)。 そこに年配の男女4人連れの客がやって来た。僕は演奏をやめようとしたが、マスターが「いいから、いいからそのまま弾いといて」と言うので、適当に弾き続けた。 30分くらいして、僕は演奏を休んで、その年配のお客さんたちに挨拶に行った。「下手な演奏で、すみません」と会釈した僕に、うち1人の女性が、「いいえ、楽しませてもらってますよ」と嬉しい言葉をかけてくれた。 するとマスターが、「**さん、この方、弟さんが東京で『R』っていうBARやってるんよ、知ってる?」と聞く。「えーっ!」と、僕は絶句した。あのOさんの実のお姉さんが徳島にいたとは! そう言えば、Oさんが徳島県出身という話は、以前に雑誌かなにかで読んだことがあった。僕は、「弟さんのBARへは、何度かお邪魔しています」と伝えた。世の中は狭いと改めて思う。神宮前の「R」から始まった縁が、思いがけない出会いを生む。だから、BAR通いはやめられない。
2005/01/15
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推理小説ファンの僕だが、日本の作家ではとくに高村薫が好きだ。硬質で骨太の語り口、徹底的にディテールにこだわる描写、意表をつくストーリー展開…、どれをとっても魅力的な作家だ。 その高村薫原作の映画で、現在上映中の「レディー・ジョーカー」が、今週末で終わるというので、先日あわてて見に行ってきた。原作は上下巻合わせて約900頁の超長編。しかも登場人物の関係が複雑すぎて、「映画化は無理だろう」と言う声もあったという話題作だ。 以前映画化された同じ高村薫の「マークスの山」の時は、原作を読んでから観たが、時間がなくて、僕は原作を読まないまま足を運んだ。 「マークスの山」はほぼ評判通りの出来だった。だから今回も期待に胸を膨らませて行った。だが結論から言うと、監督(というより脚本家かな?)が膨大な長さの原作を、十分に消化しきれないまま、映画にしてしまったという印象だ。 映画を観た後も残った、もやもやした疑問は以下の通り、4つほどあった。(原作=写真左=を読んで映画も観たどなたか、ぜひ教えてくださーい)。 (1)障害児の女の子が扮する「レディー・ジョーカー」が、映画の筋書き(展開)の中で、どういう役割を果たしたのかはっきりしない。 (2)大杉連が演じていたレディー・ジョーカーの父親役は、なぜ最後に子どもを置いて、行方をくらましてしまったのかがよくわからない。 (3)総会屋から脅されていた歯医者と、渡哲也演じる薬局店主との関係が、いまいちよくわからない。 (4)日の出ビールから奪い取ったあの20億円は、結局どうなったのか?(映画では、曖昧なまま終わっている) 原作を読んでから観に行ったつれ合いは、「20億円は、映画でもそうだったように、結局、隠したアパートの部屋にそのまま放置されていたと思う」と言う。原作では、主人公たち(誘拐実行犯グループ)の動機は金ではなく、目的を達した後は、金にさほど執着しなかったように描かれていた、とも。 高村薫は、一筋縄ではいかない作家だ。必ずしも、読者の期待通りの筋書き(エンディング)にはしないことはわかっている。僕はこれから、原作の方をじっくり読んでみようと思っている。 それにしても、高村さんの小説なら、「黄金を抱いて跳べ」か「李歐」か「リビエラを撃て」を誰か映画化してくれないかなぁ…。とくに「リビエラ…」は、世界を舞台にした、壮大なサスペンス映画になるに違いないと思うのだけれど…。 ※本の画像は、Amazon HPから引用・転載しました。感謝いたします。
2005/01/13
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「ブラインド・テイスティング」と言っても、何のことかわからない方に少し解説しておくと、未知の酒の味や香り、時には銘柄を、鼻と舌だけで見分けること。 ひと頃、このブラインド・テイスティング(以下、ブラインドと略)にはまった時期があった。きっかけは、あるBARのバーテンダーからの「こんなお遊びしてみませんか」の一言。一人で遊ぶのは面白くないから、ブラインドをする時は、たいていいつも、会社の酒好きの同僚と、競い合うつもりで一緒にやった。 最初のうちは、ある特定のモルト・ウイスキーと、それをキー・モルトに使ってブレンドしているブレンディド・ウイスキーとの飲み比べだった。例えば、ブレンディド・ウイスキーの代表的銘柄でもある「シーバスリーガル」と、シーバスのキー・モルトである「ストラスアイラ」というモルト・ウイスキーを、2つのグラスに(バーテンダーは僕らにどっちに入れたかは言わずに)入れてもらって、鼻(香り)と舌(味)だけで、それぞれを言い当てることに挑んだ。 モルトは文字通りモルト100%。ブレンディド・ウイスキーには、モルトと、トウモロコシなどで作るグレーン・ウイスキーがブレンドされている。そんな違いくらい、「飲めばわかるだろう」と思われるかもしれないが、これが案外難しい。プロのバーテンダーなら、モルトとブレンディドを、鼻と舌だけで言い当てるのは簡単だろうが、素人である僕らは最初、結構よく間違った。 銘柄やBARを替えながら、何度かそんなことを繰り返しているうちに、モルトとブレンディドを間違える確率は少なくなったが、バーテンダーは次に、少しレベルアップしたブラインドを提案してきた。 例えば、スコットランドの各地域(ハイランド、スペイサイド、ローランド、キャンベルタウン、アイラ島など)を代表するモルトの地域別&銘柄当てや、アイラ島の8つの蒸留所モルトの銘柄当て、国産モルト・ウイスキーの銘柄当て(またはメーカー当て)等々。 これはかなりハイレベル。各地域や各蒸留所のウイスキーの特徴を、あらかじめ舌に覚え込ませていないとかなり難しい。言い当てられる「勝率」は、最初は2~3割だったが、経験を積んでくると5~6割くらいの確率で当てられるようになった。(このブラインドでは、問題として出す銘柄をバーテンダーが事前に僕らに伝える場合と、まったく「お任せ」という場合の2つがあった。「勝率6割」というのは前者の方で、後者の場合は当然、勝率は3~4割に落ちた)。 でもバーテンダーは、僕らが6割当てられるくらいレベルアップしてくると、さらに闘志をかき立てられたのか、「変化球」を投げてくるようになった。例えば、あるBARで「ハイランド、スペイサイド、それ以外の計3種類、銘柄はお任せ!」と頼んで、ブラインドした時のこと。一つだけ、どうしても分からないモルトがあった。 悩んだ末に、僕らは紙に答えを書いて、バーテンダーに見せた。すると彼は、「違いますねぇ…」と、してやったりの表情。もう一度口に含み、別の銘柄を書く。「う~ん、まだ違いますねぇ」と彼。さらに味わっても、五感はますます混乱してくるだけ。僕らは、「もうギブアップ!」と降参した。 このときブラインドしたのは、グレンモーレンジ(カスク)とグレンリベット(ボトラーズもの)、そして、僕らを最後まで悩ましたのは、何と「夢想仙楽」というシェリー樽で熟成された焼酎。「してやられた!」と思ったが、後の祭り。それほど、ブラインドというのは難しい。 今は、BARでのブラインドはほとんどしない。ブラインドに挑むと、五感や神経が張りつめて、はっきり言ってかなり疲れる。モルトの味を深く味わうどころではない。楽しく、心地よく飲むのが、BARではなかったのか? そんな疑問を持ち始めてからは、やめた。 ブラインドもたまにやるとゲーム的には面白い。だが、あんまり度が過ぎるのも、どうかということだろう。毎日のようにブラインドをしている蒸留所のブレンダーは、ホンマに偉いと、改めて感心した次第。
2005/01/11
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そこそこ有名な名所・旧跡で、結構身近にあるのに、一度も行ったことも見たこともないところって、意外と多いんじゃないだろうか。僕自身もそうだけれど、「そのうち行けるから」と思っていて、結局まだ一度も行っていないところは多い。 例えば、関西で言えば奈良の唐招提寺。ご存じの通り鑑真という偉いお坊さんが建てた有名な寺だが、法隆寺や東大寺は何度か訪れているのに、唐招提寺は、恥ずかしいけれど、地元に住みながらまだ一度も行ったことがない。 東京だと、高輪の泉岳寺(写真右は、境内の四十七士墓所)や、両国(当時は本所松坂町と言った)にある吉良上野介邸跡(当時の屋敷のごく一部が復元されている)も昨年、ようやく念願かなって出張帰りに、生まれて初めて両所を訪れることができた(泉岳寺では、墓石に刻まれた四十七士の年齢のなかに、15歳とか17歳とか…を目にし、自然と涙がぽろり…)。 「このままだと死ぬまで行けない所も出てくる」という思いもあって、最近は、まとまった時間があって、天気が良ければ、そういう「まだ見ぬ近場の名所・旧跡」へ日帰りの旅を楽しんだりしている。 先日も滋賀県安土町にある、あの織田信長の安土城跡を、生まれて初めて訪れた。国宝・姫路城なら、関西人の8割以上は訪れたことがあるだろうが、安土城(跡)となると、おそらく1割もいるかどうか、と思う。 安土城跡へは大阪駅からだと、JRの新快速と各停を乗り継いで1時間半ほど。安土という琵琶湖東岸のひなびた駅で降りる。そこから城への登り口(安土城は山城です)まで、歩いて25分ほど。 日本人は戦国ドラマが好きだが、戦国時代の数々のドラマの舞台になった関西でも、当時の面影がよくしのべるような史跡は、ほとんどないと言っていい。「本能寺の変」の本能寺(京都)だって、寺は今でもあるが、往時のものではなく、建っている場所も違う。 しかし安土城跡は、光秀軍の攻撃で城郭は焼け落ちたものの、その落城時に焼け焦げたらしい(?)黒くススけた瓦の破片が今も、城内のあちこちに散乱している。 石垣も、ほぼ往時のまま残っていることもあって、戦国の城の雰囲気を想像以上によく伝えている(「瓦の破片は文化財です。持ち帰らないでください」なんて町教委の立て札もある)。天守閣跡に通じる大手道(写真左上)は最近、発掘調査が進んでいて、大手道の両側からは、当時信長の家臣であった秀吉や家康、利家らの屋敷跡なども見つかり、きれいに整備されている。 大手道の石段に利用されている敷石を見るのも面白い。ところどころに何と「石仏」が…。信長は征服した地域から持ち帰った「石仏」を、天守閣へのメーンロードである大手道に再利用した。敷石に「仏」を使うなど、いかにも「神仏を恐れなかった信長らしい」と言う歴史家もいる。 かように安土城跡は戦国歴史ドラマ好きの方には、絶対お薦めしたいスポット。ただし山城なので、山頂の天守閣跡までの約1時間は、結構きつい登り道(水なんか、当時はどうやって運んだのだろうか?)。だが、汗をかいて天守閣跡までたどり着くと、眼下には、琵琶湖や近江平野のすばらしい光景が広がる。 そして、貴方も、信長がここから見た、「天下統一の夢」を共有できたような、心地よい気持ちになること間違いなし。
2005/01/09
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ジャクソン・ブラウンって言っても、日本では、涙を流すほど好きな人と、「それって誰?」という人とに、かなり分かれるだろう。 米ウェスト・コーストを代表するシンガー・ソングライターの一人。72年のデビューだから、もう32年ものキャリア。いつも永遠の青年のようなマスクをしているが、1948年10月生まれ。若く見えるけれど、今年の誕生日が来れば、なんと57歳(!)だ。 僕がジャクソン・ブラウン(以下J・B)と出会ったのは、デビューから間もない1973年。わかりやすいメロディー、暖かみのある声、ギターや生ピアノを生かしたシンプルな演奏。それに社会や政治、環境、差別など、さまざまな問題へのメッセージ性あふれる歌詞。どれもが僕の心を揺さぶった。当時は、まだCDのなかった時代。国内盤レコードの発売は数ヶ月遅れになる。僕は輸入盤専門のレコード店をあちこち回り、最新盤を探し、手に入れた。 3年後の76年冬、たまたま、米国に旅する機会があった。訪れたケンタッキー州の州都ルイヴィルのホテルで、テレビを見ていたら、偶然、音楽番組で演奏しているJ・Bに出会った。「Jamaica、Say You Will」「Late For The Sky」「Fountain of Sorrow」など約10曲余り。初めて見る「動くJ・B」。僕は、ますますその音楽に惚れ込んでしまった。 そして、そのJ・Bが1977年春、初めて日本をコンサート・ツアーで訪れた。大阪では厚生年金の大ホール。僕はもちろん、万難を排して見に行った。このときのコンサートは、ギター2本(このうち1本はJ・Bが弾く)、ベース、生ピアノ、ドラムスの5人だけという非常にシンプルな編成。J・Bは曲によっては、自らピアノを弾いて歌った。 アコースティックな雰囲気の演奏(その後の来日コンサートではシンセが加わる)が、かえって良かったのか、その後10回以上来日しているJ・Bの数々のライブでも、この77年来日時が今もファンの間では「ベスト」との評価だという話も聞いた。 その後、四半世紀の音楽活動には好不調もあった(妻の自殺という悲劇も)。だが、アルバム「Late For The Sky」(写真左)や「Hold Out」(写真右)などの不朽の名作を生みだし、「Doctor My Eyes」をジャクソン5に、「Take It Easy」をイーグルスに提供するなど、ソングライターとしての才能も開花させた。 何よりも、僕は社会や政治へのメッセージにこだわり続けたJ・Bの姿勢に共感する。3枚組みのレコードにもなったあの反核コンサート「No Nukes」を中心となって企画。ほかにも反・人種差別や災害支援などといったチャリティ・コンサートには、必ずと言っていいほど彼の姿がステージにあった。 日本が好きなのか、初来日以後、3~4年に一度は必ず来てくれた。ステージでは客席からリクエストを募り、わざわざ演奏するサービスも、もうお馴染みだ。音楽的には、はっきり言って、かつての素晴らしさには陰りが見えるが、それでも、社会へメッセージを発信し続けようとする彼の姿勢は、今も変わらない。 僕の彼への思いも変わらない。代表曲の一つ、「Rock Me On The Water」は、ジャズ歌手(例えば、ダイアン・シュア)もカバーしているけれど、僕もときどき弾き語りする大好きな曲。 98年を最後に、ちょっと日本から足が遠のいているJ・B。元気にしているのだろうか?(と書いた後、念のため関連サイトを調べてみたら、何と!03年と04年に、それぞれ来日公演があったことを知った。あぁ何たる不覚、うかつ!!)。次回来日した時には、久しぶりに、彼の熱い、暖かい歌声に触れてみたいと願っている。
2005/01/07
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関東から会社の同僚や友人が来阪し、大阪の街を案内することが時々ある。晩飯をひとしきり、一緒に食べた後、「じゃぁ、どこか大阪らしいBARに連れてってよ」と頼まれることも多い。 「う~ん、大阪らしいBARねぇ…」と僕は迷う。彼が期待している「大阪らしいBAR」のイメージとは何だろうか、と。店内の雰囲気が派手で、ごちゃごちゃしているBARか? それとも新世界のような下町の雰囲気を残した庶民的なBARか? はたまた、バーテンダーが大阪的なノリのBARか? 「大阪らしいBARって、どんなイメージ?」とあえて尋ねても、「だからぁ…、『大阪らしい』ってのはー、にぎやかで、ホンワカした感じのBARだよー」くらいしか、答えは返ってこない。「じゃぁ、任せてくれる?」と言ったものの、僕はそのたびに悩む。オモロイBARは、大阪でもいろんな地域にある。一カ所に絞るのは至難だ。 だから、相手がBAR好きで、時間にも余裕があれば、キタやミナミ、それ以外の地域と、2~3軒くらい案内するが、1軒しか行く時間がないとなれば、僕はたいてい、ミナミの道頓堀の「EVE」(イブ)というBARに連れて行く。 「EVE」は道頓堀・松竹座の向かい、路地の奥に入ったビルの、細い急な階段を上がった2、3階にある。オープンしたのは定かではないが、1960年代後半か70年代の初めだと思う(写真左=1階のドアを開けるといきなり階段です)。 いわゆる、正統派のオーセンティックBARではない。室内の壁という壁には、訪れた国内外の客が名詞を貼りまくり、独特のはちゃめちゃな世界(空気)を創り出す。外国の紙幣や記念写真なんかも、あちこちに壁に貼り付いている。こんなカオス(混沌)が、いかにもミナミ的(大阪的?)で、僕は好きだ。 客層は場所柄、若いサラリーマンやOL、フリーター(?)なんかが多い。バーテンダーは気さくで、客同士も隣に座って気が付けば、みんな友だち。もう一つ、「EVE」が昔から有名なのは、ここが、関西のミュージシャンやアーティストの、たまり場的なBARだったから(かつては、上田正樹や憂歌団、黒田征太郎らが常連だった…)。 「おもちゃ箱」みたいなイブ・ワールドに感動するか、それとも単にごちゃごちゃした、汚いBARと映るかは、訪れる貴方の感性次第。でも、僕にとっては、20年以上経った今も、とても居心地のいい空間…。 法善寺横丁にも近く、有名なグリコの巨大ネオン看板は目と鼻の先。近くには、たこ焼き屋さん、お好み焼屋さんもいっぱいある。大阪観光の名所を案内した後に立ち寄るには、最高のロケーション(ついでに言えば、お値段も非常に良心的!)。 決して僕は、「EVE」の回し者ではないが、もし、大阪へ来られる機会があれば、ぜひミナミまで足を伸ばし、勇気を出して扉を開けてほしい。大阪「てんこ盛り」ワールドに浸れば、きっと得した気分になるだろう。
2005/01/05
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この冬は、ホット・カクテルに結構はまっている。ホット・カクテルは体を冷やさず、胃にも優しい。まさに冬にうってつけの飲み物だ。風邪をひいた時など、これを飲めば翌朝にはほとんど快癒する。 とは言っても、これまではホット・ウイスキーか、ホット・バタード・ラムか、ホット・ワインぐらいしか知らなかった。去年までは、家ではもっぱらホット・ウイスキーだった。 飲むときには、丁字(クローブ)とレモンピールがぜひもの。ことしはさらにシナモンスティックが加わった。この3点セットを添えると、ウイスキーの風味が増し、一段と旨くなる。 ただ、いくらホット・ウイスキーが好きでも毎日のように飲んでいると飽きてくる。そこで、ホット・カクテルのバリエーションをもう少し広げたいなぁと思い、この冬はBARへ行った時など、バーテンダーにホットなカクテルについて、いろいろ教えを請い、実際に頼んで味わっている。 その結果、ことしは少しホット・カクテルの選択肢が広がった。最近のお気に入りは、ホット・ウイスキーのダークラム・バージョン。na_geanna_mさんからは、ホット・ラムにレモンジュース15mlと砂糖1個を加える、「グロッグ」というカクテルも教えてもらった。 先日、大阪のあるBARのバーテンダーに教えてもらったのは、バーボン30mlにホットミルク120ml、最後にナツメグ・パウダーを振るというもの。 ホットミルク系のカクテルはあまり飲まないが、これは本当に旨かった。オリジナルだというので、「何か名前あるんですか?」と聞いたが、「いえ、まだないんです。何かいい名前考えといてください」と彼。バーボンを使うから、「ミルキー・ケンタッキー」なんてどうかと思っているんだけれど、「いまいち!」と却下されるかな? ちなみに、彼の05年のイチ押し・ホット・カクテルは、「セント・コアントロー」。レシピはコアントロー20ml、フランジェリコ10ml、チョコレート・シロップ5ml、ホット・コーヒー80ml、ホイップクリーム&チョコレート・フレイク適量。コアントロー社から頼まれてつくった彼のオリジナルで、絶品の味でした。 このほか、別のバーテンダーからは「コーヒー・ココア系リキュールや種子系、ベリー系のリキュールは、ホットミルクと相性がいいですよ」「面白いところでは、ウオッカにビーフブイヨンまたはコーンポタージュの素を加え、熱湯で溶かして飲むと、意外と旨いですよ」などと教えて貰った。 今年の冬はそんな訳で、ホット・カクテルを結構飲んでしまいそうな予感がする。
2005/01/03
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皆さん、あけましておめでとうございます。新年はいかがお過ごしでしょうか? 我が家では、(先日の日記でも書きましたが)元日の昼から友人3組が訪れ、おせちを囲んでにぎやかな時間を共有する予定になっていました。 ところが、いつも必ず参加していた幼稚園時代からの同級生の友人夫婦が、(先日も触れましたが)脳梗塞で年末入院した父親の容体がやはりいまいちで、結局、今年は残念ながら、(初めてのことですが)直前でキャンセルとなりました。 でも、その他の友人2組は例年通り参加してくれ、その以外に、いまはスウェーデンに住む友人(女性で、僕とつれ合いとの共通の友人です)が、里帰りの機会を使って、数年ぶりに飛び入り参加してくれました。彼女も結構、酒に強いのでおせちを肴にシャンペンを空けながら、昔話や近況で大いに盛り上がりました。 スウェーデンに渡ってもう20年になる彼女の夫は、スウェーデン人ですが、1~2年に一度の頻度で子ども(現在17歳と10歳の男の子)を連れて(時には夫も連れて)、大阪市内にある実家に里帰りしています。 でも、彼女が昔の友人と会える時間はなかなかありません。今回も大晦日に、「帰国しているよ」という電話はあったのですが、「(我が家の宴会参加は)99%無理だろうから、ごめんね」という話だったので、僕らも再会できるとは思いませんでした。 面白かったのは、彼女の言葉の使い分けです。家で、夫と話すときはスウェーデン語、日常生活はスウェーデン語と英語、子どもと話す時はそれにさらに日本語が加わると言います。 僕の家から、一緒に帰国した子ども(実家にいる)と携帯電話でしゃべっているときは、バリバリの大阪弁でしゃべっていたのが非常におかしかったです。ちなみに子どもたちと実家の祖父母は、日本語(大阪弁)と英語で、コミュケーションをとっているそうです。子どもは、3カ国語をあやつっているわけで、ホンマにすごいの一言です。 スウェーデン語は、僕が昔、デンマーク人船員のたまり場だった、神戸の外人BARで覚えたデンマーク語に、隣国ということもあってよく似ています。彼女曰く、スウェーデン人とデンマーク人は、それぞれの言語を使って会話しても、だいたいコミュニケーションがとれるとか。 ただし、元日宴会に参加した別の友人が、どこかで仕入れてきた知識で、「スウェーデン語で灰皿は、『アスケベ』(=あ、助平)って言うそうやね」とちゃかすと、「それはデンマーク語! スウェーデン語では『アスクファット』よ」と、厳しくチェックされましたが…。 そんなこんなで、積もる話もあって、昼頃から夜まで飲んで食べて盛り上がって、結構酔っぱらってしまいました。あしたは、少し節酒しようっと…。あんまり内容のない話で、すみません。 皆さん、今年もよろしくお願いいたします。
2005/01/01
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