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■3月24日 祈りこの日の箕面駅では雨にも雪にも降られなかった。いつものように瀧安寺・弁天堂から姫岩を通って滝に向かう。 そして、私が「緑の大聖堂」と呼ぶこの場所で祈った。今は葉を落としているが、あと2週間もすればここは一面薄黄緑に染まる。緑に萌えて、山がもくもくと大きく膨らむ季節がやって来る。祈りながらもふと、「こんなことはただの自己満足に過ぎず、自分は偽善者ではないか」そんな思いが心によぎる。サイトを通じて数百円の募金をしただけで、毛布1枚すら寄付していない私は被災地の人々の何の役にも立っていないような・・・。 森の木々が言った。 「俺たちを見てみろ。葉を落としても、足元さえしっかりしていれば何度でも新しく成長することが出来る。さくねんの俺たちを思い出してみろ」2010/11 この画像はその上の画像と同じ場所、昨年11月の紅葉直前の木々。つばきくんやpow-powの元気な姿が見える。 つばきくんの彼女のハルちゃんは、まるで彼の根っこから生えているように見える。 「なぁple。俺たちはな、君らのような恋愛はしないしセックスもしない。でも、こうして寄り添って生きている。そして時には陽や水を求めて競い合う。君たちが『愛』と呼ぶものを、俺たちは『共存』と呼ぶんや」 森を流れる清らかなせせらぎの水。この水は急流や激流にもなり、そして津波にもなる。しかしせせらぎの水がささやく。「私たちに『怒り』はない」そう。私は神にも怒りはないと思っている。神も自然も、常に私たちに与え続けてくれている存在なのだと。ただし私たちは『愛=共存』を忘れてはいけない。 せっかくなので、滝にも挨拶して行こう。まだまだ体力が戻らない私は、ここまで登って来るのにいつもの3倍の時間がかかった。看板にはご丁寧に「 ← 滝 」と書いてくれているが・・・ 言われなくてもさっきからずっと見えてるんですけど・・・。 清々しい風とマイナスイオン。そんな癒しの場所だと思っていたが、ふと滝を見上げて気が付いた。ここは付近一帯が、ひとつの大きな磐坐だったということを。役行者が修行中に顕現した弁才天さまは、きっとこの磐坐に降臨されたのだろう。今回は帰路の弁天堂付近で雨が降り始めた。「もう帰っちゃうのか?」そう言われているような気がした。「ありがとう・・・」そうつぶやいたら、なぜだか涙があふれた。かっこ悪いので、ハンカチで鼻を押さえて花粉症のフリしながら駅まで歩いた。こんなおっさんが、涙を流しながら歩いてるのって周囲の人の目にはどう映るのだろうかと考えるとこんどは笑えてきた。「キモイ・・・」 そうだ。私たちは笑顔で元気でなくちゃ。私たちが元気でなけりゃ、被災地の人々を救えない。再生のための根となり、養分となってガンバロウ。 .
2011.03.27
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今、東北の人たちのためにそして原発被害軽減のために各地でいろいろな人たちが祈りを捧げています。宗教家でも神秘家でもない人たちが心をひとつにして東北の人たちのことを心配しています。なんとか、一人でも多く、一日でも早くと。そして私は、弁才天さまのお膝元で山の神、水の神、森の神、そして森の木々に祈ることにしたのです。そんな「祈り」がいったい何になるのか・・・。箕面まで行く電車賃を、東北の人たちのために寄付した方がよっぽどマシだと言われるかも知れません。寄付はあとからでも出来ますが、私は今は、祈りたいと思ったのです。あれから1週間が経った3月17日、私は再び箕面へ。地震のあった11日、「原点に帰る」と、息巻いて箕面・滝道に乗り込みました。しかし駅に着いた途端、激しい雨に見舞われました。まるで「本気で来る気があるのか?」と、試されていたかのように。滝道に続く坂道には、早春の陽がさしているのに私の回りだけ雨が降っているみたいな気がしました。改札口を出た人たちは、躊躇することなく傘もささずにどんどん街へ出て行く・・・。 「あなたのそばに行かせてください」私としては、かなり殊勝に弁才天さまにお願いしてなんとか山に入ることができたのでした。そして17日は・・・、なんと雪。ふと、帰ろうかとも思いました。でも、東北の被災者のみなさんのことを思えばこんな雪・・・私にはコートも、手袋もあってそして帰る家も暖房もある。私が寒さに耐えたり、少々濡れたからといって被災者の方々が助かるわけではありません。でも、行かなければ。 ■3月17日 原点で祈る 「じたばたするでない」山の神は言う。「いったいどれほどの長きに渡り ここで水を生み、木々を育んできたかわかるか?」そう。人間という存在も、その営みも自然の雄大さや地球の歴史と比べればちっぽけなもの。私たちは、自然も季節も何もかもコントロールできるなんて大きな勘違いをしていたのかも知れない。木々の顔色を見てもう大丈夫かも知れない・・・。ふと、そんな風にも思った。しかし、こんな声も聞こえたような気がした。「ただし、己のケツは己で拭け・・・」原発のことだろうか。箕面の弁才天さまも山の神、水の神も、その日は何も語らなかった。ただ木々たちはささやき合っていた。旧友のpow-powや龍樹は試すような目つきで言葉を濁す。「できるか?心をひとつに・・・」「やってやるとも」仮想空間やディスプレイの中で呑気な顔したアバターたちだがみんな見えないタスキをかけている。そこには「東北ガンバレ」「負けるな」と書いてある。アメーバPiggでピンクや青の義援金Tシャツを着た連中がポカンと口を開けて上を向いている。その先には義援金の赤い風船が飛ぶ。その他のウェブサイト、SNS、そして携帯のゲームサイトにも義援金募金の呼びかけが掲載されている。登録者たちはプロフの欄に、自己紹介の代わりに「被災者の方々頑張ってください」などと書いている。日本で最も忍耐強い人たちが雪の舞う寒空の下で、一生懸命に耐えている。彼らに、「私たちがついているゾ」とみんなで言おう。日本中の人たちが今、心を合わせ優しい気持ちになっている。日本で最も忍耐強い人たちだけど彼らには今、救けが、日本人の救けが必要なのだ。愛国心という言葉が教科書から排され、国歌や国旗に背を向ける一部の教師たち。愛国心や君が代や日の丸が戦争を起こすとでも言うのか。愛国心のない国は滅びるだろう。私はこの国が好きだから、滅ぼしたくはない。私はこの国が好きだから、この国の誰ひとり不幸になって欲しくない。お金を寄付できる人、ボランティアなどの行動を起こす人。だけど何にも出来なくても、東北の復興を願い、祈ることは出来る。現地で奔走するレスキュー隊も、これから活動しようとするボランティアたちも何らかの支援活動に参加する人もお金や支援物資を寄付する人もただTVを見ているしかない私たちもその思いはみんな同じだと思う。日本中がひとつになる。必ず大きな力になるだろう。山の神、水の神、そして森の神々もきっとそれを期待しているのだと思った。 「あのなぁple、お取り込み中わるいんやが・・・」「え?」「オイラ、椿ちゃうねんけど・・・」「お、つばきくん、隣にいるのは椿か?」どうやら「彼女」らしい。「そのカワイ子ちゃんには『ハルちゃん』て命名しよう」「なんで?」「なんでって・・・、その、あの、春やしな(^∇^)」 椿と言えば、脇道でこんな光景をよく見かける。道に落ちた椿の花を柵の上に並べているのだ。最初に見たときは、子供の遊びかと思った。しかし、何度もこういう光景を見る。きっと誰かが始めて、またそれを見た誰かがマネしているのだろう。伝染するのは病気ばかりではなく善意だって愛だって伝わって行くのだろう。こんなちっぽけなことでも、心が和む。誰かのために出来ること、私たちにもきっとある。 3月24日の「祈り」につづく .
2011.03.24
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東北で未曾有の被害が出たあの地震があった日私は自分の原点である、箕面・滝道に向かっていました。大阪でも揺れを感じたというあの時間、私は阪急電車の中にいて気づきませんでした。そして、あの震災のことなど全く知らぬまま山に入っていたのです。 ■3月11日 「原点に帰る」 とある理由から、原点である箕面に行こうと思った。「原点に帰ろう」そう思ったのだ。まずは瀧安寺・弁天堂で弁才天さまにご挨拶。お賽銭はいつもの100倍した(100円だけど)。弁才天さまのお言葉はいつもと同じだった・・・。滝にご挨拶したあとは、いつものように古い友人達に逢いに行く。 一番仲良しの木に会いに行く途中の脇道。この辺りの連中が、いつでも好意的に騒がしい。「俺にも名前をつけてくれないか」そう言ってきたヤツがいた。ちょうど足元に椿の花が落ちていたので「つばきくん」と呼んでやった。「うぐぐ・・・。オイラ、椿の木ちゃうねんけど・・・」 15年ほどの付合いになる、pow-pow。モミジのくせに、紅くならない偏屈者。一張羅は新緑の緑なんだそうだ。「よ。久しぶり」「おう、pleか。お互い、ちょっと歳くったなぁ」「おめぇ、自慢の枝が1本折れてるな」「ああ、生きるためにはなple、 時には身軽になることも必要や。お前も覚えておけ」葉をつけていないpow-powを見るのは久しぶりだった。 その他の友人たちにも挨拶して、その日は何も知らぬまま山を下りた。帰路の滝道は来たときよりも、少しだけ優しい気持ちで歩く。箕面駅が見え始めた頃、弁才天さまの声がした「何度 同じことを言わせるの?」「・・・」「原点に帰るだなんて、ちゃんちゃらおかしい」「・・・」「あなたはまだ、一度もスタートラインに立とうともしていない」「・・・」「わかってるでしょ?」「おっしゃるとーりです」私は都合が悪くなると「・・・」無言になる。この春は、あと2回来なさいと言われたような気がした。 ※3月17日 「祈 り」につづく
2011.03.24
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朝鮮人街道とは近江国に残る脇街道。徳川家康が関ヶ原での勝利後に凱旋した街道で吉道とされ 将軍上洛の際に使用されるのが慣例となっていたそうです。 滋賀県野洲市から近江八幡市、安土、彦根までの街道で参勤交代には使用が認められなかったが、朝鮮通信使には認められていたので朝鮮人街道とよばれるようになったそうです。 先日廻った安土町など、この街道の周辺の神社は見応えがあります。 先ず最初に参拝したのは御上神社(みかみ)。 表参道は国道8号線沿いになるのでしょうが、 私はJR野洲駅方面から、裏手から鎮守の杜を通る参道を歩きました。 表参道にも回りましたが、西側にあるこの参道がすばらしかったです。鎮守の杜は杉や楠の大木が 並んでいます。まっすぐ天に向かって伸びる杉に負けまいと上へ上へと背伸びする楠が印象的でした。 整然と区画された農地が広がっています。 雲雀の声があちこちから聞こえ、 梅の花をつつく、様々な野鳥の姿も見られました。 生和神社などを経て、兵主大社(ひょうず)に参拝。 「大社」と称されるだけあって、参道も社殿もなかなかのスケール。 大鳥居の前で息を飲むようにシャッターを切っていると 、 地元のおばあさんから声をかけられました。 大阪から来たと言うと、驚いておられました。 「あれまぁ、わざわざどうも」 ・・・(笑) この付近の神社を9社廻りましたが、 伊勢ではなく、神武遙拝所が多く見られたのが印象深かったです。 何か理由があるのでしょうか。 それと手水舎の亀。 これらの神社については、神社ブログの方に 順次UPして行こうと思います。 今回もレンタサイクルで、およそ15km走りました。 .
2011.03.14
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前回からの続きですが、今回は応神天皇陵についてではありません。天皇家(古代)の歴史を知るには、やはり天皇陵の調査が最も有効な方法だと思います。しかし先の日記には「調査目的で天皇陵を掘り返すことには反対」と書きました。では、どうすればいいか・・・。私たち一般人でも、「調査のために、あなたのご先祖様の墓を掘り返しますよ」と、言われたらいやなもんです。しかし、天皇陵は古いものだと1700年前のものもあります。文化財としても天皇家の祭祀の場としても、整備・修復を要するものも少なくないはず。宮内庁書陵部によって、それらは行われているのでしょうがもちろん公開はされません。応神天皇陵などは百舌鳥・古市古墳群に属しています。百舌鳥・古市古墳群は世界文化遺産の国内候補の暫定リストに入っており今後は整備・修復の必要性が高まるかも知れません。そういった整備・修復時に、宮内庁監視のもとで学術的な調査をする。そのようなことは可能なのではないかと思います。実は2008年11月、宮内庁管理の古墳の整備が公開されたことがあります。 公開されたのは堺市の御廟山古墳です。陵墓参考地ではありますが、仁徳天皇の妃を葬ったもの あるいは応神天皇初葬地とも言われる古墳です。濠水の浸食によって崩落が進行している墳丘部・裾回りの修復のため、宮内庁と堺市が共同で行った事前調査の実施に伴い公開が実現したのです。 このような公開が実現した理由のひとつは、墳丘部は宮内庁管轄ですが、濠は堺市の管理・管轄だから。公開は堺市管理の周濠に桟橋を作り、墳丘部周辺から見学する形でした。かなり近くから墳丘部を見学することが出来、場所によっては露出した埴輪に手が届きそうなほど。 宮内庁もこの公開には好意的だったようで、見学者向けに説明板が設置されていたり、簡単な解説もありました。こういう場所に学芸員や学者が立ち会うことが出来ればと思います。 このような場所が、周濠上の桟橋から見ることが出来たのです。ここに学者が立ち入ることが出来れば、少なくとも応神天皇陵の立ち入り調査よりはずっと成果が期待できると思います。こういった調査は、以前は別々に行われていたそうです。いわゆる「縦割り行政」ってやつですね。この時の宮内庁と堺市の合同調査は、調査・工事の効率と経費面を考えてのこと。お役所の仕事もすこしずつ進歩しているのですね。 .
2011.03.05
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