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あまり知られていませんが、奈良に不思議な遺跡があります。奈良時代に造られたとされる、「頭塔」と呼ばれる遺跡です。これとよく似た遺跡が他にもあります。只今、そこを訪れた時の写真を探しています。この遺跡の詳細と類似した遺跡については後ほど「龍水御朱印帳」の方でご紹介しようと思います。 .
2011.01.31
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天正10年(1582年)、明智光秀が起こした本能寺の変で自害したとされる織田信長。その廟所や墓所は、主なものだけでも全国に20ヶ所ほどあるそうです。そもそも信長の遺体は本能寺からは見つかっておらず、その墓所の「本命」は特定出来ません。 先ずは本能寺にある信長墓。ある意味「本命」と言えるかも知れませんが、現在の本能寺は移転していて信長が亡くなった場所ではありません。 秀吉によって信長の法要が行われたのが大徳寺。都中から3千人の僧が集められたと伝えられています。そのような盛大な葬儀を行ったのは、秀吉が信長の後継者であることを世間に印象付ける狙いがあったとか。遺体がないため、秀吉は信長の木像を作らせて焼いたそうです。木像は2体作られ、残りの1体は総見院に安置されています。総見院は、信長の位牌所として秀吉が大徳寺山内に建てた寺。常時公開はされていませんが、先日その坐像を運良く拝することが出来ました。 総見院には、信長一族の墓石もあります。手前から順に、秀雄、信雄、信長公、信忠、秀勝、信高、信好の墓碑。 大徳寺の南、船岡山の中腹にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)。信長を主祭神とするこの神社の創建は、元々は明治天皇の命によるもの。「けんくんじんじゃ」と呼び親しまれ、近くのバス停も「けんくん神社前」となっています。京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町 京都にある「信長墓所」で、最も気になるのがこの阿弥陀寺境内にあります。ガイドブックにも載らないこの小さな寺は寺町通り北部にひっそりと佇んでいます。 寺はここに信長の墓があることを宣伝するつもりはないようです。「信長で一儲けしよう」などとは考えていないのでしょう。本堂には信長公と信忠の木像が安置されているそうですが、扉が閉ざされていて拝することは出来ませんでした。檀家さんたちのための寺であり、観光地ではないのですね。周辺にも境内にも案内板等は全くなく、山門前にただ「織田信長公本廟」の石碑が立つばかり。 本堂の裏にある墓地に、ひっそりと建てられている墓石。墓石の前には、「織田信長 信忠 討死衆墓所」と書かれた小さな石碑があるだけ。墓地内では特に目立つものではありません。 信長墓の横に並んでいるのは、本能寺の変の頃信長の近習中の近習といった存在だった森蘭丸とその兄弟の墓。崩壊の恐れがあるのか、テープで巻かれてありました。修復までの応急処置だとは思いますが・・・。この墓所が最も気になる理由は以下の通り。NHKの「歴史ヒストリア」で紹介されていた内容ですが阿弥陀寺には「信長公阿弥陀寺由緒之記録」という記録が残っています。それによると、本能寺の変を知った阿弥陀寺の住職、清玉上人は本能寺に駆けつけ信長の遺骨を密かに持ち帰ったそのことを知った秀吉は、自分が喪主となって信長の法要を阿弥陀寺で執り行なうことを申し出たが清玉上人は拒否。そのため秀吉はやむなく上記の創建院を建てることになったようです。また当然ながら怒った秀吉は、阿弥陀寺を移転させその規模も大幅に縮小させたようです。 上の画像は、阿弥陀寺の墓地内にある清玉上人のお墓です。この清玉上人とういう僧は、織田家で育てられたと伝えられています。阿弥陀寺は近江で開創され、信長の入洛にともなって京都に移転し当初は相当な大寺院だったようです。なお、本堂内の信長像などは毎年6月の「信長忌」(本能寺の変の6月2日か)に公開されるようですが正確なことは日時も合わせて未確認です。信長の遺体がらみでは、遠く静岡県富士宮市に(首塚)があるそうです。本能寺の変で信長の首を密かに持ち出し、西山本門寺に葬ったという言い伝えがあるそうです。 私が知っている(訪問した)信長の墓所は、もう1ヶ所あります。上の画像がそれですが、場所は高野山。秀吉をはじめ、数々の武将などと同様奥の院への参道に建てられています。「鳴かぬなら、殺してしまえ ホトトギス」そんなイメージからか、歴女たちにはあまり人気がない織田信長。男性には人気があるようですが、私もその一人。戦国にはあまり詳しくありませんが、革命児的な信長と「これぞ武将!」といった感じの真田幸村に惹かれます。ちなみに歴女に人気ナンバー1は、伊達政宗だそうです。 .
2011.01.27
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本日の朝刊1面と社会面にまたまた纒向遺跡と卑弥呼の文字が躍っています。今回のNEWSは、纒向遺跡の3世紀頃の穴の土壌からタイ・アジなどの魚の骨や歯、シカなどの動物の骨そして穀類や木の実が大量に見つかったというもの。これらを供物と考え、祭祀の跡と推理するのはいいのですが例によってマスコミ各社は「卑弥呼の供物」というタイトルを付けています。 毎回毎回、纒向遺跡で何か見つかると、必ず「卑弥呼の~」という「枕詞」が付くのはいかがなものでしょうか。私たち古代史ファンにとって、纒向遺跡はとても興味深い遺跡です。しかしそれは「邪馬壹国」としての興味ではなく、大和朝廷に繋がる古代王権の遺跡としてロマンを感じるのです。確かに纒向遺跡は、3世紀の遺跡であることは間違いないのでしょう。つまり邪馬壹国があったとされる時代の遺跡なのです。しかし纒向遺跡は、「3世紀に栄えていた場所だ」ということ以外に具体的に邪馬壹国につながる材料がありません。3世紀頃の遺跡なんて、全国にたくさんあると思いますが纒向遺跡が邪馬壹国である可能性は、九州以外の全国にある3世紀頃の遺跡と変わらないと思っています。纒向遺跡のこれまでの発掘調査から判ることは 3世紀の大和(三輪山麓)に、強大な権力を有した「クニ」があった と、いうことでそれ以上のものではないのです。纒向遺跡が邪馬壹国の有力候補地だと騒がれる理由は、どうしても邪馬壹国が大和にあったと思いたい「邪馬壹国畿内説」によるもの。「畿内説」は魏志倭人伝にある邪馬壹国への行程の記述で「南行」と書かれた部分を「南ではなく、東の誤りである」という強引な解釈で成り立っています。魏志倭人伝の記述は曖昧だとも言われますが、百歩譲って「南行」を「東行」と解釈することに目をつぶっても「女王国の東 海を渡ること千余里 また国あり 皆倭種なり」という、魏志倭人伝の1文は畿内説では説明のしようがありません。纒向遺跡(大和)の東には海なないからです。畿内説を説く人は、この1文を完全に無視しているようですが簡単明瞭で重要な1文ではないでしょうか。ちなみに畿内説では「南行」を「東行」と解釈するわけですから、「女王国の東」の海とは、つまり「女王国の北」の海ということ?どっちにしたって、大和の周辺には海はありません。 また、3世紀頃のものだと判明した箸墓古墳を卑弥呼の墓だとする説がもてはやされています。あの古墳が卑弥呼の墓だと推察出来る理由は、「3世紀頃に造られた古墳である」という以外にはありません。現在、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命墓(やまとととひももそひめ)の墓とされ宮内庁の管理になっています。ただし日本書紀の記述通りに歴史を見れば、倭迹迹日百襲姫命が亡くなって墓を造ったのは崇神天皇10年のこと。西暦で言えば、紀元前88年のことなんです。従って、箸墓古墳造営時期と異なるのですが私は箸墓古墳は九分九厘、倭迹迹日百襲姫命の墓だと思っています。このブログでは何度も書いていますが、古事記や日本書紀は、天皇家の歴史を古く見せるために古代天皇の在位時期に手を加えていると考えています。上記の紀元前1世紀の崇神天皇は第10代の天皇です。初代神武天皇が即位したのは紀元前7世紀という記述ですからどう考えたって事実とは思えません。しかし記紀の記述を読めば、誰がどう考えたってあの箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓だと考えるのが妥当でしょう。従って箸墓古墳の調査結果から言えるのは「箸墓古墳は卑弥呼の墓である可能性が高まった」ではなく、 「倭迹迹日百襲姫命は紀元前1世紀の人だと考えられていたが3世紀頃に生きた皇女だった」 と、考えるのが自然ではないでしょうか。マスコミは、そろそろ「畿内説」の呪縛から解かれるべきです。 .
2011.01.22
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なかなか体力が回復いたしません。リハビリの指導を受けてはいるのですが、30~50分歩けと言われてもこのクソ寒い中、目的もなくただ運動のために出かける気になれません。「目標脈拍数84」と言われても、計るのが面倒です。何とか外に出るために、毎日買い物に出かけていますが自宅周辺の坂道は今の私には過酷な試練となっています。 坂のない場所に出かけて、気分転換でも・・・と言うわけで、久しぶりに京都に行きました。「お礼参りをしていない」と、ずっと家内が気にしていたこともあって7年ぶりの鈴虫寺だったのですが、ご覧のような石段・・・。10分くらいかけてゆっくり上りました。ここへは松尾大社から歩いたのですが、突然の大雪でエライ目に遭いました。 「もう坂道や石段はゴメンや」と向かった先は大徳寺。気になることがあっての訪問でしたが、知識&リサーチ不足。大徳寺境内に入ったはずなのに、広い境内には「拝観謝絶」と書かれた塔頭(たっちゅう)ばかり。それらは「○○院」と書かれた看板があって、大徳寺が見当たりません。(上の画像は大徳寺の三門 (金毛閣)です) 「???」のまま、トイレに行きたくなって駆け込んだのは総見院。何やら「特別拝観」とやらで、拝観料はナント600円也。拝観入口では「おとな2人」の前に、「トイレありますか?」と聞いてから中へ。 なんだかんだ言いながら、総見院では秀吉が作らせた信長坐像と上の画像の織田一族の墓を見ることが出来たのですが実はこれらを見ることこそが、大徳寺訪問の目的だったのです。大徳寺に来たのだから、さも当然とばかり思っていたのですがあとで調べてみると「通常は非公開だが、春秋などに特別公開されることがある」とのこと。 (Wikipedia)もしこの日、総見院が公開されていなかったら大徳寺の実態も判らない上に、信長坐像も見ることが出来なかったわけです。普段の私なら、このあと織田信長つながりで建勲神社とかすぐ北にある今宮神社に参拝するところです。しかしこの日の私は、迷わず最寄りのバス停を目指しました。あまりの寒さに、途中でニット帽も買いました。 次に向かったのは晴明神社。シルバーカーを押す老人にも追い越されるような体力でしたが何かとご縁のある晴明さま。そして晴明神社には坂道も石段もないということで、この日最後の訪問地に選んだのでした。2004年秋の初参拝以来、何度も参拝している神社です。さほど広くない境内ですが、晴明神社は来るたびに何か新しいものが増えています。手水の屋根、厄除の桃、五芒星をあしらった鳥居の額、境内周辺の苔、固められた地面に晴明公坐像。そして昨年暮れには地面に描かれた北斗七星とご神木に作られた台など。 「さすがに、もう何も出来ないだろう」と思っていましたが、境内入口に五芒星の立派な門扉が出来ていました。さすがです。そのうちスッポリと屋根に覆われて、「晴明ドーム」と呼ばれるようになるかも知れません。パワースポットブームで、雑誌などの「神社特集」でしばしば紹介されている晴明神社。しかし安倍晴明公を偲ぶなら、嵐山の墓所の方がマシかも知れません。 ところで、晴明神社でいただいたこの御朱印。「晴明社」の文字は「土御門晴雄卿(安倍晴明の子孫)が、安政元年に揮毫されたものを版におこしたもの」なのだそうです。しかし「京一條戻橋」も日付も、全てゴム印でした。なんだか観光地のスタンプみたいです。 退院以来、初めての長時間にわたる外出でしたが、なんだか内容が薄かったようで濃かったようなお出かけとなりました。はっきり言えることは、とっても疲れたということ。まだまだ神社巡りに飛び回る体力じゃないようです。 .
2011.01.17
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