全30件 (30件中 1-30件目)
1
いやあ、怖いね、新幹線での焼身自殺! 巻き添えを食って亡くなった女性の可哀想なこと! 私も新横浜駅からよく新幹線に乗るし、しかも自由席の1号車に好んで乗るし、実はある事情によりまして、今日、この事件に巻き込まれる可能性がゼロではなかったというね・・・。 万が一、巻き込まれていたとして、目の前で71歳のじいさんが灯油をかぶり始めたらどうすりゃええのん? 1 とにかく逃げる。 2 猛然とタックルするか、ボコボコに殴るか、せめてライターを持った手を蹴るかして、火を点けるのを阻止する。 悩むねえ。でも悩んでいる暇はないか。やっぱり、即刻逃げるべきかな。2に失敗したら、確実に巻き添えを食うもんね。 実は今週末、学会の用事で東京に行くのですけど、今回は新幹線を使う予定なんですわ。くわばら、くわばら・・・。
June 30, 2015
コメント(2)
![]()
ネヴィル・ゴダード著『世界はどうしたって「あなたの意のまま」』(原題:At Your Command)を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 ネヴィル・ゴダードというのは、ニューソート系のライターの中でも著名な人物で、同じくニューソート系のジョセフ・マーフィーのお友達。というか、二人は共にエチオピアのユダヤ教ラビ、アブドルに師事したのですから、まあ、兄弟弟子とでもいいましょうか。ちなみに、ネヴィル・ゴダードに影響を受けたのが『ザ・パワー』のロンダ・バーン、そしてウェイン・ダイアーでありまして、ニューソート系というのは影響関係がハッキリしていて分かり易いねえ。 で、ゴダードはラビの下で修業したくらいですから、マーフィー以上に聖書色が強くてですね、書いていることの根拠の殆どが聖書からの引用であり、またその独自の解釈ということになる。何しろ、「(聖書は)これまでに書かれた中で最も科学的な本だ」と言っているくらいですしね。そして「聖書を、ある古代文明についての歴史書あるいは非凡な生涯を送ったイエス・キリストの伝記としてではなく、人の意識の中で繰り広げられる壮大な心理ドラマとしてみてみましょう。/そして、聖書を自分自身の物語だと宣言するのです」(12ページ)とのたまわっちゃう。 で、そういうゴダード氏にとって一番重要な聖書の一節が神の定義。聖書の中で神は「私はある(I AM)」と名乗る。例えばイザヤ書45章5節に「私(I AM)が主、他にはいない。私をおいて神はいない。あなたは知らないが、私はあなたに力を与えた。私は光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する。私が主、これらすべてを行なう者である」とある。 で、ゴダード氏によれば、この「私はある」という存在の自覚、これこそが復活だと。つまり人が「在る」と意識することが、この世において復活するという意味である(15ページ)というわけ。 だから、神様というのは、自分の外側にいる赤の他人のことを指す言葉ではなくて、本当の神は、自分自身が「私はある」と意識することの中に居ると。 で、そうなると、「祈り」というものも本質的に変ってくるので、それは赤の他人の神様に「望みを叶えてくださーい」と頼むことではなく、その望みがすでに叶っていると自覚することである、ということになる。つまり、もうこの時点で「引き寄せ系」の下準備が出来たわけですな。 だから、自分が貧乏だと自覚して、それで「神様、私を金持ちにしてください」と祈るのはナンセンスなわけ。だって、自覚していることが成就するのだから、貧乏だと自覚しているこの人が金持ちになれるはずがない。そうではなくて、「私は既に金持ちだ」と自覚すること。この祈り方によって、金持ちになってしまうわけです。 だから、マリア様も、「私は神の子を身ごもった」と自覚したから、イエス様を身ごもったわけで。 さらに続けてゴダード氏は、ヨハネによる福音書の最初に「初めに言葉があった」とあるのも、ここから解釈できると言っております。ここで言う「言葉」とは、現実化を求めて意識の中を動いている願望なんですな。で、その願望を、唯一の実在である「I AM」の自覚を持った者が明確に意識することで、初めて現実化する。マタイ18:19にある「どんな願いごとであれ、二人が心を一つにして求めるのなら、それは地上で叶えられる」という場合の「心を一つにする」というのは、二人の人間の心ではなく、「意識」(=「I AM」的存在の自覚)と「願望」が一つになれば、それは現実化する、の意であると。(32ページ) だから、病気の人で、自分は健康になりたいと思ったら、まずは「I AM」の自覚を固める。それで「I AM・・・ I AM・・・ I AM・・・」と唱えつつ、自分の存在がピュアに信じられるようになったら、そこに「healthy」という願望を付け加え、「I AM・・・healthy」と唱えてみる。ほーら、これで意識と願望が一つになったので、病気なんて消し飛んでしまうと。 ほんまかいな! だけど、何しろ長年の間、こうした真実に気づいていなかった人間は、従来型の信仰とか、慣習とか、色々なものに縛られて、本来の自分を見失っているわけですな。それゆえ、人間は誰しも自分のことを過小評価すると。だから、そういう束縛するものを全部棄てないと、本当の自分として生まれ変わることは出来ないのだそうで、それが「古い革袋に新しい酒を入れることはできない」の意味だと。 ちなみに、自分の願望がどういう風に実現するかは、考えなくて良い、とも言っております。それが『ローマ信徒への手紙』11:13にある「神の道は理解しつくせない」の意味だと。 しかし、人間はすぐ「how」の部分を考えてしまって、「どうせできっこない」という結論に達してしまう。これが邪念。 例えば獄中にあるものが「自由になりたい」という願望を持つ。もし、この願望を持ち続ければ、この男はどういう形であろうと、獄中から外の世界に出られます。 しかし、大抵の人は、自分をとりまく四辺の高い壁を「現実」だと思い、この壁を自分が乗り越えられるはずがない、と思ってしまう。その段階で、「乗り越えられるはずがない」という意識が現実化し、この男は獄中から出られないことになる。(82ページ) 意識の中の現実こそが現実であると、信じ続けること。それ以外に現実などない、と確信すること。これが難しい。 あるいは、こういう例もゴダード氏は書いています。 マタイ17:20に「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向って『向うに動け』と言えば、その通りになる。あなた方にできないことは何もない」とある。 で、あるおばあさんがこの説教を聞いて家に帰り、この一節を信じた「つもり」になり、眠りについて、翌朝、真っ先に窓辺に駆け寄って「どうせ山は動いたりしないと分かっていた」と叫んだと。 このおばあさんが心に抱いたのは、実は「山は動く」ではなく、「動く筈がない」だったんですな。だから山は動かなかったと。 またルカ5:1にイエスと魚穫りの話があって、イエスの弟子たちが夜通し魚を捕ろうと網を下ろしたけれど、一匹も掛からなかった。ところがイエスがやってきて、もう一度下ろしてみろというので、下ろしてみたら、さっきまで一匹もかからなかった場所で、網も裂けんばかりに魚がかかった。 弟子たちは、「こんなに何度も網を下ろしても掛からないのだから、ここには魚はいないんだ」と思って漁をしているのに対し、イエスは「魚が沢山掛かった」ことを信じて網を下ろすので、こうなったと。(88ページ) だから、聖書の中に書いてあることを、その気で読めば、ゴダード氏が言っていることを証するような逸話ばっかりだ、ということになるわけですよ。 だーかーらー、自分を取り巻く様々な束縛を打ち破って、「I AM」の自覚を持ち、神と一体化して願望を実現せよと。聖書にそう書いてあるじゃないかと。 これがゴダード氏の主張であり、本書の内容であります。 なるほどね。納得。(納得するんかいっ!!) さて、私もこのところ、この手の本をやたらに読むわけですけれども、なんかね、ちょっと掴んできた感じがする。何を掴んだかというと、私、今年の11月に、このテーマで学会発表するんですけれども、そこでの発表内容が自分なりに掴めた感じがする。学会で、こういうことを言おうというのが、大体掴めた。ということは、つまり、その延長線上に、このテーマで本が一冊書けるな、という自信が出てきた。それも、相当面白い内容の本がね。 ということで、なんか見通しが明るくなってきたなという手応えを感じている今日の私なのであります。I AM!【楽天ブックスならいつでも送料無料】世界はどうしたって「あなたの意のまま」 [ ネヴィル・ラ...価格:1,404円(税込、送料込)
June 29, 2015
コメント(0)
![]()
北欧映画『ファイディング・ダディ 怒りの除雪車』を観ましたので一言感想を。以下、ネタバレ注意ということで。 ノルウェーの田舎で除雪車で道の雪かきをするのを仕事にしているニルス・ディックマンという初老の男がおりまして、真面目にごくごく平凡な日常を送っている。ところが、彼の息子のイングヴァルの友人がギャングの麻薬をくすねたことから、イングヴァルが巻き込まれて殺されてしまうんですな。しかし、表向きは麻薬の多量摂取が元で死んだということにされ、警察も相手にしてくれない。それで、悲しみのあまり、ニルスの奥さん(イングヴァルの母親)は精神異常を来たし、家を出てしまう。 真面目な息子が麻薬などやるはずがないと確信するニルスは、ただ一人、息子の仇を取ることを誓い、ギャングの親玉である「伯爵」の部下を一人、また一人と誘拐し、殺していくんです。それで、いよいよ「伯爵」が誰であるかを突き止めるのですが、さすがに伯爵を素人の自分が殺すのは難しいということで、昔別のギャングのメンバーで、今は引退している兄貴のところに行き、「チャイナマン」という殺し屋を紹介してもらうわけ。 で、チャイナマンを雇ったまではいいのですが、こいつがまたくせ者で、ニルスからお金を受け取ると、その足で「伯爵」のもとを訪れ、お金をもらって、ディックマンという男がお前さんを殺そうとしているよ、という情報をもらしてしまうんです。で、「伯爵」は、そういえば昔、ディックマンというギャングがいたよな、と思い出し、ニルスの兄貴のところへ行って兄貴を殺してしまう。自分の不注意で、息子だけでなく兄貴まで殺されてしまったニルスは、もうこうなったら、自分で息子と兄貴の仇をうつしかないと思い、「伯爵」をおびき寄せる手段として、「伯爵」の息子を誘拐することを企てる。 ところで、その頃、「伯爵」は「伯爵」で窮地に陥っていたんですな。というのは、部下が次々に殺された時、てっきりライバルのセルビア人ギャングの仕業と思って、その一人を見せしめに殺してしまっていたんです。ところが殺した男が、なんと、セルビア人ギャングの親玉の息子だった。で、その親玉は、「目には目、血には血、息子には息子」とばかりに、「伯爵」の息子の殺害をもくろむわけ。 かくして、ニルスとセルビア人ギャング、双方から狙われることになった「伯爵」の息子ですが、わずかにニルスが先んじることとなり、セルビア人ギャングの目の前でニルスは「息子」の誘拐に成功する。 もっとも、誘拐の時に使ったクルマを手がかりに、「伯爵」はニルスの家を探し当てることに成功します。一方、「伯爵」の部下の裏切りで、セルビア人ギャングの方にもニルスの居場所の通報があった。そこで、「伯爵」とセルビア人ギャングの双方が、ニルスのところに急行することになるのですが、果してニルスは、息子の仇を討てるのか? 「伯爵」側対セルビア人ギャングの抗争はどうオチがつくのか?? というようなお話。 で、この映画に対する私の評価点はと言いますと・・・ 「77点」でーす! 割と高評価! っていうかね、案外、拾いものでしたよ、この映画。タイトルからして、ダサダサのB級映画かと思いきや、もちろんB級ではあるのですけれども、非常に出来の良いB級映画ではあった。適度に緊張感のあるストーリー展開なのですが、その端々に独特のユーモアがあって、それが妙に可笑しいんですわ。といって、ここで笑わせよう、というような作為はないので、ストーリーの緊張感を損なうものでもない。 で、作中、人が死ぬ度に、画面がブラックアウトして、墓標が掲げられるのですけど、その処理が斬新。 戦争映画でもギャング映画でもそうですけど、暑い所で繰り広げられる抗争って、なんか血みどろ・汗みどろで汚い感じがするのですが、ノルウェーみたいな雪ばっかりのところで行なわれる抗争って、どこかこう、ファッショナブルで美しいところがある。『ドラゴン・タトゥーの女』もそうでしたが、北欧サスペンスって、綺麗でいいよね。 ということで、『ファンティング・ダディ 怒りの除雪車』、教授の熱烈おすすめ!です。これこれ! ↓【送料無料選択可!】ファイティング・ダディ[DVD] / 洋画価格:3,748円(税込、送料別)
June 28, 2015
コメント(0)
![]()
山崎まどかさんの書いた『イノセント・ガールズ 20人の最低で最高の人生』(アスペクト)という本を読みましたので、心覚えを付けておきましょう。 この本、アメリカの、ある方面では名高い、だけど一般的には忘れられつつある、ましてや日本では知る人のほとんど居ないような女性たち20人の数奇なる人生を紹介した本でありまして、ほう、かつてアメリカにこんな女性が居たんだ・・・的な感慨を20度味わえる本であります。 じゃあ、例えばどんな人が紹介されているかと言いますと、イディ・ブービエ・ビールとか、デア・ライトとか、ドリス・イートン・トラヴィスとか、カレン・ダルトンとか・・・ね、全然知らないでしょ? 私も知らない人ばっかり。 されば、例えばイディ・ブービエ・ビールって誰かと言いますと、この人、かのケネディ大統領の奥さんだったジャクリーヌ・ケネディの従姉妹。ブービエ家というのは大金持ちの名門で、そこの娘が弁護士のビールさんと結婚して、このイディが生まれるのですけれども、イディのお母さんというのが変った人で、歌手になりたいってんで、コンサートを開いたりレコードを吹き込んだりするのですが、自腹でやるので、ビール家の財政は逼迫し、やがて離婚。一方、娘のイディも女優を目指していたのですけど、身寄りの無くなった母に呼び戻されてカリフォルニアの「グレイ・ガーデンズ」というお屋敷で二人で住むことになると。 で、それから二十年。屋敷も庭も荒れ果てたグレイ・ガーデンズに、この妙な母娘がひっそりと暮らしていたのですが、たまたま庭に迷い込んだ子供が彼等を「発見」。名門の娘二代が荒れ果てた屋敷に住んでいることが世間に知られるようになり、これを嗅ぎ付けたマスコミが興味を抱いて、この母娘のドキュメンタリーを制作。このドキュメンタリーに出演することで、ある意味、女優になる夢をかなえたイディは、二十年間に溜め込んだ妄想を爆発させ、若い時には大富豪のハワード・ヒューズやジャン・ポール・ゲッティに求婚されたことがあるとか、早世したジョン・F・ケネディの兄貴のジョー・ケネディに求婚されたこともあって、ひょっとしたら自分こそがファースト・レディになっていたかも、とか、言いたい放題言いまくり、エキセントリックな言動をカメラの前で披露しまくったらしいんです。しまいには、このドキュメンタリーを企画したジャーナリストが自分に気があるんじゃないかと妄想を逞しくしたようで、とにかく長年日陰に居た分、めちゃくちゃはじけて、はしゃぎ回ったんですな。 ってなわけで、晩年にちょっとしたブームがあって、それをバネにもう一度女優としてニューヨークへ進出、なんてこともやったようですが、これはさすがに大コケに終ったらしい。でも、彼女の死後、グレイ・ガーデンズの二人のオールド・ミスの話は芝居となり、演じた女優二人がトニー賞を受賞、ストレスで抜けた髪の毛を隠すために頭にターバンを巻き付けたイディの晩年のスタイルはある種のファッション・アイコンになるなど、それなりのインパクトを社会に残したとも言える。 ま、イディってのは、そんな人でしたと。 とまあ、そんな感じで、イディみたいな、ある時期にそこそこのインパクトを社会に与えて消えて行ったアメリカの20人の女性のプロフィールを綴ったのが本書でありまして、そういう意味で面白いっちゃ面白い。 実際、功なり名遂げた人の人生というのは、それはそれで面白いわけですけれども、平凡なる一市民たる我々からすれば、彼等は別格の人間なのであって、親しみが持てないところもある。むしろ、志半ばで消えた人、夢だけはでかかったけれども、実現はしなかった人、だけど、それでもほんの一瞬だけは、生命のきらめきを体験した人の人生の方が、その分余計切なくて、我々平凡人からすれば、つい共感してしまいがち。本書が扱う20人の女性たちの人生って、どれも皆、そんな感じです。 だから、この本は、目の付けどころがいいんですよね。大勢の人が注目するような人たちではなく、今や忘れられがちだけど、こういう人が居たよね、っていうような人の人生に目を付けたところがいい。 しかもね、参考文献を見ると、取り上げた20人の女性たちの人生を描いた本をそれぞれ1冊読んで、それを要約することで1章分にしているようなので、つまりは20冊程度の英語で書かれた本を読んで、この本を書いてしまったことになる。 めちゃくちゃ効率いいじゃん! 我々、研究者が1冊の研究書を出すとなったら、参考文献に100冊、200冊の文献は平気で並ぶよ。それが20冊だけでいいなら、すごい楽だ。その意味でも、賢ーい。 というわけで、とにもかくにも企画の勝利。で、実際、非常に面白い読み物が完成しているのだから、参考文献が少なかろうが、読者としては文句なし。もしこの20人の女性の生涯のあらましを読んで興味が湧けば、そこから自分で掘り下げて調べたっていいわけだしね。 ということで、本書『イノセント・ガールズ』、教授のおすすめ!です。興味のある方は是非!これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】イノセント・ガールズ [ 山崎まどか ]価格:1,566円(税込、送料込)
June 27, 2015
コメント(0)
名古屋は栄・パルコの上階にある小さな映画館で『ジェームズ・ブラウン 最高の魂を持つ男』を観てきました。以下、ネタバレ注意ということで。 といっても、これ、ソウル/R&Bシンガーのジェームズ・ブラウンの伝記映画ですから、ネタバレしたから面白味が半減する、といった体の映画ではありません。極貧の家庭に生れ、軽犯罪で刑務所に入っていたところ、刑務所に慰問に来ていたゴスペル・シンガーのボビー・バードに才能を見出され、身元を引受けてもらって出所すると同時にバードのグループでさらに頭角を現していくといういつもながらのサクセス・ストーリーでございます。 で、もちろんサクセス・ストーリーにはお決まりの挫折も色々用意してあって、売れるに従って、ジェームズ・ブラウンだけがスポットライトを浴びるようになり、グループの他のメンバーからの嫉妬を買ってグループがバラバラになるとか、女性問題があれこれあって、早くに結婚したりすぐに離婚したりまた再婚したり妻に暴力を振るったり子供が死んだりする。それからマスコミにも持ち上げられたり貶められたりする。で、しまいには、山あり谷ありの人生の中で常に彼の味方であってくれた大親友のボビー・バードとも仲たがいする、と。 だけど、荒れた生活の中で逮捕されたり、そこから立ち直ってカムバックしたりという中で、色々考えるところあって、最終的にはボビーとも仲直りをし、死ぬまで唯一無二のエンターテイナー、「ジェームズ・ブラウン」という「ソウル」を演じ切りましたとさ。 みたいな話。 で、この映画に対する私の評点はと言いますと・・・ 「72点」でーす! まあ合格。 あのね、72点というと、この映画に対する世間的な評価よりもちと点数が低いような気がしますが、これは映画としての評点でありまして、映画としては、それほど見どころがない。普通です。ジェームズ・ブラウン本人の生涯が波乱万丈なんだから、それを再現していけばそのまま波乱万丈になるわけで、ただそれだけ、という感じがする。 ただ、ジェームズ・ブラウンを演じたチャドウィック・ボーズマンは熱演で、口調もダンスもJBの感じが良く出ているし、映画の中で再現されるJBのヒット・メドレーはめちゃくちゃカッコいい。だから、JBファンとしては、とにかく楽しめる映画にはなっています。その意味では、72点という評点以上に面白いよ、と言っておきましょう。 それにしても、少し前に見たフランキー・ヴァリの伝記映画『ジャージー・ボーイズ』もそうだけれども、ミュージシャンの伝記映画って、どれも大体同じだよね。若き日、台頭していく時の爽快なサクセス・ストーリー、売れてきた後の仲間割れと家庭の崩壊、そして晩年のちょっとした仲直り。この三拍子でまとめるという。 その意味ではどの映画もすごく陳腐なんだけれども、しかしその陳腐さが主演の熱演によって救われるというのもよくあるパターン。レイ・チャールズの伝記映画『レイ』でもジェイミー・フォックスがレイに見事になりきっていましたが、今回のボーズマンもそんな感じ。アメリカの映画界・演劇界ってのは、人材が豊富だなあ。 というわけで、陳腐だけど面白い本作、JBファンにはおすすめ! と言っておきましょう。ゲロッパ! だけど、このレベルの映画、どうして大手シネコンが引き受けないのかしら。マルチ・スクリーン持っているなら、こういう映画も上映してくれればいいのに。マニアしか出向かないような小映画館でしか上映しないんじゃ、若い人たちがJBのすごさに触れる機会がますます少なくなるじゃん!
June 26, 2015
コメント(0)
私の数年前の教え子で、ゼミ内通称「シャンティー」が、なんと、豊川にヨガ教室「スカ・シャーラ」をオープンしましたー!! ひゅー、ひゅー! うちの大学の子たちは、安定志向が強いというのか、就職に関して、第一志望「公務員」みたいなのが多くて、実際、やたらに市役所とかに就職してしまう。あるいは銀行・信用金庫に行くのも多いですし、教員になるのも結構いる。とにかく、堅いのよ。 で、私自身にはそういう発想がまったくないもので、ゼミ生に対しては「なんでそんなに石橋を叩くんだ! 大学出ていきなり起業する奴とかはいないのか? 第二のスティーヴ・ジョブズ、第二のビル・ゲイツ・・・まではいかなくとも、第二のユニクロ、第二のヤマダ電機を作る奴はおらんのかぁぁぁぁ!」と獅子吼するのですけど、最近の学生は現実的だからねえ。「先生、何の夢を見ているの?」的な冷めた大人対応しか返ってこないというね。 しかし! ついに起業するゼミ生が出た! すごい、すごい!! ビルの一室をスタジオとして借りているんじゃん。頑張るねえ! 芸能人で言えば安達祐実さんをもうちょい美人にしたようなシャンティーは、私のゼミに居た時から頑張り屋さんでね。体は小さいけれど、爆発的なエネルギーの持ち主で、一度やるとなったら、一気に突破するタイプ。そのエネルギーでもって、いつしか周囲の人も巻き込んで協力を勝ち得てしまうので、ヨガ教室を開くとなったら、案外、評判を呼んで、名古屋進出、東京進出とか、してしまうかもしれません。 しかし、まずはその前に起ちあげたばかりの豊川教室をしっかり黒字にしなければ。 ということで、豊川方面にお住まいの方でヨガに興味のある方、釈迦楽ゼミの突撃隊長・麗しのシャンティーのヨガ教室「スカ・シャーラ」をトライしてみてください。女性だけでなく、中高年の男性向けのクラスもあるようですから、身体カッチカチのおじさんたちも是非!これこれ! ↓スカ・シャーラHP
June 25, 2015
コメント(2)
私が先輩同僚のために骨を折った本、『ロンドン散策』の書影がアマゾンにアップされました! ので、ご紹介させていただきます。 ま、一つ、裏話的な解説をさせていただきますと、この表紙デザインに辿りつくまでに、様々な別案があったわけ。 で、その多くは、例えば「ビッグ・ベン」だとかそういった「いかにもロンドン」なものが写りこんでいて、確かにそれだと一目で、「ああ、ロンドンとかイギリスの話ね」と分かるのですけど、反面、あまりにも対象に付きすぎるというのか、露骨すぎるわけ。 それに、そういうロンドンの写真って、「アマナイメージ」が版権を所有していることが多く、それを表紙に使うとなると、使用料を支払わなくてはならない。そこがちょっとね・・・。 で、最終的にこの「絵画的」な表紙デザインに辿りついたわけですが、後から考えれば、名もなきロンドンの一隅にある路地を描いたようなこの表紙デザインの方が、よほど「文学的」に見えるかなと。 ま、とにかく、色々あってこういう風になりました。もちろん、表紙デザインがどうのこうのという以前に、内容も味わい深いエッセイですから、興味のある方は是非。教授のおすすめ!です。これこれ! ↓ロンドン散策・書影
June 24, 2015
コメント(0)
![]()
前に大学院の演習で、院生と一緒にカナダのノーベル文学賞受賞者、アリス・マンローの短篇を翻訳していると書きましたが、ようやく一本、訳し終りそうなところまで来まして。 読んでいたのは「The Eye」という短編。小学校に入るか入らないかという年齢の女の子とその母親との微妙な関係がベースにあって、それで母親に親しみが持てない分、お手伝いに来てくれていた年上のお姉さんに強い親近感を抱くものの、そのお姉さんが交通事故死してしまって・・・ってなことが描かれているのですけれども、母―娘―他人のお姉さんという三人の女性の関係が面白く、また小学校に入ったばかり、というような女の子が母親を批判的に眺めている様子を見ると、女性ってのは、こんなに小さい時から女性なんだ、っていうのがよく分かってとても面白い。 だけど、アリス・マンローの英語って、なんだかこう、どこかぎこちないというのか、「これ、本当にネイティヴの英語?」的な、不思議な破格があるような気がします。まあ、そこがまた妙な面白さだったりするのですが。 例えばねえ、次の英文って、文法的に正しいでしょうか? I was not surprised then and not in the least scared. Instantly, this sight fell into everything I knew about Sadie and somehow, as well, into whatever special experience was owing to myself. これ、どういう場面かと言いますと、主人公の少女が親しみを抱いていたセイディーというお姉さんが自動車事故で死んで、今、葬儀が行われているのですけど、少女がセイディーの遺体を見つめていると、遺体の目がかすかに開いて、少女のことを見返した、というところ。だから、最初の文は、「(死んでいるはずのセイディーの目が開いたけれど)私は少しも驚きもしなければ、怖いとも思わなかった」ということなんですな。 次の文の「this sight」というのは、死んだセイディーの目が開いた、その光景。それが「fell into everything I knew about Sadie」だった、というのは、「私がセイディーについて知っているすべてのこととすぐに符号した」ということ。つまり、セイディーだったら、たとえ死んだとしても目ぐらい開けるでしょう、私が知る限り、セイディーってそういう人だもん、ということですな。ここまでは分る。 問題はその次です。 「... and somehow, as well, into whatever special experience was owing to myself.」って・・・。これ、どう解釈すればいいの? 「into」というのは、その前の文章から引き続いて「fell into」のことだと思うのですけど、そうなると、そこから先の文法構造が分らなくなる。 で、あまり分らないので、この文章全体をキーワードにしてネット検索してみたら、出るわ出るわ、色々なコメントが出てきた。 要するに、ネイティヴですら、この文章の文法構造が分らないわけ。それで、あーじゃないか、こーじゃないかと論じ合っているんですな。単語やら何やらを補ったりしながら。 これは甚だしい例ですけれども、アリス・マンローの文章って、しばしばこんな感じの文法的破綻、あるいは破綻スレスレのものがあって、そこが難しくもあり、また面白くもあるって感じかな。 ま、そんなところも含めて、アリス・マンロー、楽しんでおります。【楽天ブックスならいつでも送料無料】DEAR LIFE(A) [ ALICE MUNRO ]価格:1,244円(税込、送料込)
June 23, 2015
コメント(0)
昨夜はF1オーストリア・グランプリがあり、今回はホンダがパワーユニットを提供しているマクラーレン・ホンダ・チームのマシンに大幅アップグレードがあるとのことだったので、多少は期待して観戦していたのですが・・・ アロンソ選手はスタート直後、フェラーリ・チームのライコネン選手と接触していきなりのリタイア、そしてもう一人のバトン選手も序盤のうちにマシン・トラブルでリタイア。結局、前回のカナダ・グランプリから連続2戦、2台ともリタイアという情けない結果となったのでした。 マクラーレン・ホンダと言えば、1980年代にはアイルトン・セナ、アラン・プロスト両選手を擁し、16戦15勝を達成したこともある名門コンビ。今シーズンはその久々の復活ということで、世界中のF1ファンが期待を込めて見守っていたのですけれども、現在までの所、まったくいいところなく、資金不足でマシンの開発がまったく出来ていない万年最下位のマノー・チームと同等の結果しか出せていないという。 いや、マノーはトップから2周とか3周遅れとはいえ完走はするので、完走すらできないマクラーレン・ホンダよりまだマシという見方すらできるかも。名門マクラーレンと大企業のホンダが組んでいて、しかもドライバーには二人の世界チャンピオン経験者を擁していて、それで弱小マノー以下の成績って、ねえ・・・。 私も、久々にレースに復帰したホンダが、すぐにトップ・チーム並みのパワーユニットを作り上げるだろうとは思っていなくて、多少の苦労はするだろうなとは思っておりましたよ。しかし、あのホンダが本気だして参加しているのだから、少なくともシーズンの中盤になれば、そこそこの成績を出してくるだろうと期待していたわけ。 それが、どうよ。パワーの点でメルセデスやフェラーリにはるかに及ばないばかりでなく、燃費も悪く、さらにマクラーレン側のユニットとの相性が悪いのか、やたらにあちこちが故障して完走すら出来ない状態が、中盤に差し掛かってもまったく改善されないという。 で、まったく改善されないのに、ホンダの責任者のA氏は、「夏までにはポイント争いをする」「シーズン終盤には優勝争いをする」などと、夢のようなことばかり口にして、ファンになまじ期待させては、結果的にガッカリさせるようなことばかりしているというね。 うーーーん。我慢強く見守っていた私も、そろそろ我慢の限界が近づいてきたかなと。 どうしたホンダ! どうしたメイド・イン・ジャパン! ホンダは、レース以外の面でも自社製品のリコールが相次いで、特にアメリカ市場での信頼を失いつつありますが、それに加えてF1でのこの体たらくでは、もうどうしようもない。 この状況、もし創業者の本田宗一郎氏が見ていたらどう思いますかね・・・。 このままじゃ、ソニーと同じように、ホンダもかつての栄光の余禄をあっという間に使い果たしちゃうんじゃないの? 次戦はマクラーレンの地元・イギリスはシルバーストンでのレースになりますが、ここでまた二台ともリタイア、なんてことになったら、さすがの私もマクラーレン・ホンダの応援をやめようかなと思います。ま、そうならないように、少しはいいところを見せて下さいな。
June 22, 2015
コメント(0)
毎週日曜日のお昼前、『男子ごはん』という番組を楽しんでおります。かつては国分太一さんとケンタロウさんのコンビで、そしてケンタロウさんの残念な降板以降は国分さんと栗原心平さんのコンビで男の料理を作っていく番組ですが、特にふざけているわけではないのに何となく可笑しい二人のやりとりを楽しみつつ、「これなら自分にも作れそう」でいて、しかも実においしそうな料理に食欲を掻き立てられるという内容。いかにも日曜の昼の番組って感じで、いい感じです。 ところで、この番組のテーマ・ソングはダニエル・ブーンの『ビューティフル・サンデー』なんですが、これを聴くと、もうなんかね、たまらなくなってくる。 1976年の曲ですから、私は中学生になったばかりくらいの頃。小学生の頃から洋楽ファンだった私は、ラジオの洋楽番組を楽しみにしていたもので、だから尚のことこの曲は思い出深い。 だって中学校くらいの頃というと、ほんと、日曜日が待遠しかったもんね! 当時は土曜日も学校がありましたから、完全に学校から解放されるのは日曜日のみ。だから、日曜日がビューティフルだという感覚が痛烈にあって、この曲が言っている通りだ、と、本当に共感したものでね。 それで、思い返してみて、一体、中学校の頃の日曜日って、何がそんなに楽しかったのかと考えるのですけど、よく思い出せない。もちろん、友人と誘い合わせてどこかに遊びに行ったり、草野球などをしたり、あるいは互いの家を訪問しあったり、ということはありましたが、特に予定もなく一日中家にいることもあったはず。そういう時は何をしていたのか。 もちろん勉強なんかするはずはない。そうなると、何をしていたんだっけなあ。例えば当時流行ったラジカセとかのカタログを見て、こういうのが欲しいなと思ったり、釣道具の手入れをしたり、たまには絵を描いたり、大工仕事で小さな本棚を作ったり、とか、そんなことだったでしょうか。 そんなことって、今思うと別にそんなに強烈に楽しいとは思えないのですけど、当時としてはめちゃくちゃ楽しかったのでしょうね。生きていること自体が楽しいという感覚。 それが「ティーン・エイジャー」ってことなのかしら。 逆に、今、日曜日だからと言って、早朝から飛び起きてしまうほどの楽しみってないもんな・・・。「今日一日を精一杯楽しまなくちゃ!」という、止むに止まれぬ、せっつかれるような、追い立てられるような思いもない。何となくゴロゴロしちゃって。あるいは、「週明けにこの仕事があるから、準備しとかなくちゃ」的な、ものうい義務感でのろのろ動くとか。 それって、あんまりビューティフルなサンデーじゃないよね・・・。 そのギャップがあるもので、『男子ごはん』のテーマ曲が流れてくる度に、なんだか切なくって。ああ、日曜日がビューティフルだったあの頃の、あの強烈な「生きてる!」感は、もう戻ってこないのかな、なんて。 ひょっとして、逆に定年を迎えて、義務的に動く必要が一切なくなった時に、またあの「生きてる!」感が戻ってくる、なんてことはあるのかしら。 もうそうなら、早く定年を迎えたいもんです。もう一度、ビューティフル・サンデーを楽しむために。
June 21, 2015
コメント(0)
今週は予想外にストレスの多い週になってしまったこともあり、その厄を落とす意味も込めまして、週末に紫陽花を見に三ヶ根・形原・蒲郡の方に行ってきました~! まず向かったのは三ヶ根スカイラインの中腹にある「かんぽの宿」。ここ、今年の8月で閉鎖されてしまうのですが、昭和な感じの保養所的な雰囲気ながら、実は三河湾を見下ろす絶好の位置にあり、レストランも激シブ系ながらここの刺身定食は意外に旨いというね。というわけで、まさにその刺身定食を味わって、間もなく営業終了となるこの宿の最後を看取った次第。 そして次に我らが向かったのが、スカイラインの西尾側に下りてしばらく行ったところにある「和カフェ てらそ」。建築家・堀尾佳弘氏設計になるこのお店、何と言ってもベランダ席が素晴らしく、海を見下ろしながらのんびりコーヒーをいただきました。なんでも、満月に近い土日には、深夜まで営業していて、月明かりが海に反射して出来る「ムーンリバー」を鑑賞できるのがウリだそうですから、今度はその辺りを狙って来ようかと。 しかし、いいなあ。このカフェ。海を見下ろす山の斜面に突き出すように建てられているもので、海と山の両方の景色を堪能できるという。私は山派・海派で言ったら山派で、山の中に家を建てたい人なんですけど、海を見下ろす山の斜面に家を建てるというのもいいのかなあ。 三ヶ根スカイラインも、バブルの頃はイケイケだったのかも知れませんが、今は廃墟だらけ。とはいえ、無残な姿を晒すかつての店舗も立地だけは抜群にいいので、ああいうのをタダ同然で買い取って新築同然にリフォームする、なんて手もあったりするのかもね。 ま、それはともかく。 「たらそ」でまったりした後、本来の目的である紫陽花を見に、再びスカイラインを戻って形原温泉方面に出、ここにある紫陽花まつり会場へ。 ここへはもう何度となく来ているので、初めて見る感動というのはないのですが、それでも毎年ある程度の植え替えや植え足しをしているようで、山一面の紫陽花はやはり圧倒的。この季節、やはり紫陽花は似合いますなあ。 しかも山の斜面の一番上まで行ったとき、なにやらコツコツ大きな音がするので、音のする方を眺めてみると、なんとキツツキが立ち枯れした木をコツコツやっているじゃないですか! 私は半世紀生きてきて、生のキツツキを初めて見ました。これはちょっと感動でしたね。 ということで、大好きな紫陽花の花と、生キツツキまで堪能し、大満足だったのでございます。 で、帰りがけには蒲郡のお菓子の名店「プランタン スズキ」で焼き菓子をしこたま買い、さらにラグーナ蒲郡にあるマーケットで魚や輸入食品、さらに地元の食材などもゲットしてさらに大満足。今日は充実の息抜きが出来たのでした。これで今週あった嫌なことを忘れて、リフレッシュして、新たな気持で仕事をしましょうかね。
June 20, 2015
コメント(0)
このところ、八光流柔術の稽古では、四段技を少しずつ学んでいるのですが、これがまたなかなか厳しいもので。 とはいえ、その厳しさの質が、三段技の時とは少し違うんです。 痛み、という点から言うと、三段技の方がよほど痛いかも知れない。ただ、四段の技を受けると、何だか嫌な感じがするんですよね・・・。 その「嫌な感じ」というのがまた、ちょっと言葉にしがたいのですが、技を受けた後、しばらくしてから、嫌な汗が出てくる。貧血を起こして「ちょっと坐りたいな」と思う時のような感じと言いましょうか。あれ、何か変だな、体調悪いのかな? みたいな気になってくる。時間差でダメージがくるわけ。 実際、四段技の練習はあまり長く続けない方がいいらしく、また終った後、初段技の極めを何度か猛烈にこなすと、多少、ダメージから回復するのだそうで。 うーむ、恐るべし。一体、四段技は人体にどういう影響を及ぼしているものやら・・・。「お前はもう死んでいる」的な? それにしても、八光流、不思議な武道でございます。
June 19, 2015
コメント(4)
昨日、せっかく本を出して喜んでいたのに、妙な言いがかりをつけられて、今日はその対応に駆け回らされてしまいました・・・。 要するにね、大学事務に言わせると、出版した本の価格が安すぎると。全部売れたとしても、制作費を回収できないじゃないかと。 おお、ど素人がナメた口をきくじゃないか。 どの世界に元が取れる自費出版があるかって。取れるわけないだろう。自費出版ってのは、最初から損をすることが判っている出版形態なんだから。 で、それでも損害を如何に少なくするかとなった時、取るべき方法は二通りある。出版した本の単価を上げるか、あるいは逆に単価を下げて沢山売るか。 で、この二通りの方法、どちらも同じだけの効果があるとしたら、どっちを取るべきか。そりゃ、単価を下げる方でしょう。その方がより多くの人に本を読んで貰えるのだから。 だから下げたんだよ、私は。それで文句あんのかよ。 でも、私が突っ張ると、困ることになるのはこの場合、印刷業者の方。というのも、大学が印刷業者の見積もりにケチをつけ、こんなに沢山払えん、とか言い出したから。 というわけで、結局、私が始末書を書き、今回は本の単価を低く付け過ぎて申し訳ない、ただ、印刷業者にはちゃんと請求書通り支払って下さいと大学に頼んだわけ。 おおよ、始末書くらい、いくらでも書いてやるわ。こちとら、小学生の時から始末書はさんざん書いてきたんだ、どんなんだって書いてやるよ。 私の始末書をなめんなよ、私にとって始末書は男の華だ。あまり見事に謝るので、逆に謝られた方の頭が下がってくるほどの奴を書いてやるからな。 ほんっと、頭に来るぜ!
June 18, 2015
コメント(0)
いやあ、編集作業に係わって来た、というより、私が一人で全部作ってしまった先輩同僚のエッセイ集ですが、今日、業者から納入され、晴れて一冊の本として産声を上げました~! 昨年10月半ばに思いつきで企画を始めてから半年ちょい。頭の中に生まれた種が芽を出して、立派な本となりました。 それがさあ、また自画自賛で申し訳ないのですけど、実に良い出来なのよ。表紙とかのセンスが半端ない。 この本、いずれ近いうちにアマゾンでも販売されるようになりますので、アマゾンの準備ができたら書影と共に改めてご紹介したいと思いますけれども、実に洒落た小さな本であると、今から予告させていただきましょう。 しかし、人の本だとはいえ、自分が係わった本が世に出るというのは嬉しいなあ。私はほんと、「出版」というのが好きなんだね。形態そのものとして、本が好き。ましてや、自分の思い通りにデザインした本となると、嬉しさは格別よ。 で、早速、本の著者である先輩同僚のご自宅に伺い、出来たばかりの本をお届けしてきたのですけれども、先生も非常に喜ばれて。お世話になった先生だけに、少しは恩返しができたかなと。 ということで、今日は別に何をするわけでもないですけれども、一応、心の中ではお祝いの日と位置付け、家に帰ったら、夕食の時にお酒の一本も開けましょうかね。
June 17, 2015
コメント(0)
![]()
最近の我が家のヒット商品がこれ。「ティエラ・コーディアル ライム&レモングラス」。これこれ! ↓Tierra(ティエラ) コーディアル ライム&レモングラス 500ml/ビーバーフルーツファーム/フルーツ...価格:1,456円(税込、送料別) 8倍希釈なので、グラスに少々このシロップを入れ、そこへ炭酸水をジュバ! これで梅雨の時期にピッタリな、爽やかな飲み物の出来上がり。めちゃくちゃ旨いよ。最初人に頂いたのですが、すごく気に入ったので、自分でも買っちゃった。 あと、私はまだ試してないのですが、他の味もおいしそう。例えばTierra(ティエラ) コーディアル アップル&ジンジャー 500ml/ビーバーフルーツファーム/フルーツ...価格:1,473円(税込、送料別)Tierra(ティエラ) コーディアル ブルーベリー&ブラックカラント 500ml/ビーバーフルーツファー...価格:1,571円(税込、送料別) この辺りも旨そうだねえ・・・。 あともう一つ気になっているのが、工房「月の手」さんのブログで読んだ「赤紫蘇ジュース」。自然派指向で、試してみたくなりますね。これこれ! ↓工房 月の手ブログ
June 16, 2015
コメント(0)
私のゼミ生の一人が市役所に就職をしたいというので、じゃあ、お前さんは市役所に入って、市をどういう風によくしたいの? と聞いたら、「住みやすい町に」と。 うーん、曖昧だなあ、住みやすい町って、どんな町だよ? 私が思う住みやすい町ってのは、「町内会の無い町」だな。 町内会って、何? それ必要なの? 私の姉は滋賀県に引っ越したのですが、町内会が色々うるさいと嘆いております。結構な額の町内会費を取りたてられるのだけど、それもどうやら町の長老たちが何かというと集まる時の、飲み食いの費用に使われるようで。 一方、私も数年前に役員をやらせられましたけど、盆踊りの時にアイスクリーム売らされたり、町のウォーキングだとか言って、半日、横断歩道の緑のおじさんみたいなことさせられて。 さらに実家では80代も半ばの父や母が町内会の書記だかなんだかやらされて、苦労させられているみたい。そんな高齢者を下らないことに駆り出すんじゃないよ! まさに、町内会は親の仇。こんなもん、無くなればいいのに。 だから、ゼミ生にも言ってやりましたよ。「町内会のない市」というのを作れば、日本中から私みたいなのが引っ越してきて、過疎化解消だぞと。 そしたら、「先生、それは時代に逆行しています」ですと。 今、当該の市では、むしろ町内会的な組織を強化し、町中みんなが知り合い、みたいな町を作りたいのだそうで。 いやだね~! そんなところに住みたかないよ! 私は誰からも干渉されない町に住みたい! 私のような考え方の人間ってのは、少数派なのかなあ。そんなに町内会って、いいものなの? 私には親の仇でしかありませんが。
June 15, 2015
コメント(2)
![]()
アメリカにおける自己啓発本の歴史に合わせて、日本での自己啓発本の歴史にもちょいと目くばせしておかないと、と思い、そっち方面の本もあれこれ読んでいるのですが、これがなかなか面白くて。 例えば、第二次大戦後の日本では、やっぱり、敗戦という未曽有の出来事に遭遇した当時の日本人は、この先、どうやって生きて行けばいいのか、迷いが生じたと。 そこで登場するのが「人生論ブーム」。三木清の『人生論ノート』がバカ売れするのがこの時期でございます。 先日、哲学の先生と話をしていて、「三木清なんて、今読むとすごく難しいのに、よくそんな難しい本が売れたもんだよなあ」という話になったのですが、結局、すべての価値観がひっくり返ったところから、どうやって立ち直ればいいのか、当時の日本人の誰もが模索していたんでしょうな。だから、「死について」という章で始まる『人生論ノート』は、そういう当時の日本人のメンタリティにピッタリ合致したと。同様にこの時代、亀井勝一郎の『人間の心得』とか、三島由紀夫の『葉隠入門』がバカ売れしたのも、そういう背景があった。 ところが、日本人ってのは、立ち直りが早いんですな。まだそこかしこ焼野原だってのに、早くも復興の槌音ですよ。 1960年代になると、神吉晴夫のカッパ・ブックスから出た『記憶術』という本が大ブームになる。これは、要するに高校生は大学受験突破、大学生は就職試験突破、弁護士の卵は司法試験突破のための本であって、つまりは立身出世の術を伝授したもの。また、松下幸之助の『物の見方考え方』などもバカ売れして、早くも一生懸命誠実に働けば道は開ける、ってな話になってくる。 ちょっと前まで、この先、人間としてどう生きて行くか、ということについて哲学的に悩んでいたのに、もう立身出世かよ! と、思ったら、やっぱり振り子の針は逆に振れるので、1970年代になると、仏教書ブームが来たりなんかして、もう一度、物質的繁栄に対する反省の時代がやってくる・・・。 とまあ、そんな感じで、日本における自己啓発本の動向ってのも、なかなか面白いわけよ。 で、そんなあれこれを読んでいるうちに、『記憶術』一書のみならず、1960年代にカッパ・ブックスが如何にベストセラーを量産したか、ということが判って参りまして。 それで、そう言えば前に『カッパ・ブックスの時代』(新海均著・河出ブックス)という本を買ってあったよな、と思い出し、今日はその本を読んでおりました。 で、これを読みますとね、カッパ・ブックス創生期、神吉晴夫の天才的な編集方針により、同社が快進撃を続けていた時のことがよく分かる。 神吉晴夫は、自身、東大出のエリートなんですけど、岩波新書的な教養主義に異を唱え、もっと庶民的な、形而下の知恵を語るような本を出したいと思っていたと。 それで彼が打ち出したのが、「創作出版」という手法。 つまり、出版社側がまず企画を打ち出し、こういうテーマでこういう本を出そう、という風に決めるわけですな。そして、その企画に沿って本を書いてくれる著者を探す。 それも、岩波新書のように、既に功成り名遂げた有名な著者ではなく、まだ本を出したことがないような無名の著者に頼む。そして、頼んだままにせず、出てきた原稿を、編集部員が徹底的にダメ出しし、何度も何度も書き直しをさせて、練り上げる。その過程で、ハイブラウな人間だけが理解できるような本ではなく、いわば誰でも読んで楽しめるようなものにする。そうやって、出版社が一冊の本をゼロから作り上げるわけ。それが「創作出版」の手法。 で、『記憶術』も、『少年期』も、『頭の体操』も、『女の子の躾け方』も、『にあんちゃん』も、初期のカッパ・ブックスはそうやって作り上げられた。そして、それらがことごとくベストセラーになっていく。当時は十万部を越えなければ本ではない、と言われ、三十万部を超えてようやく本と認められ、五十万部を超えて初めて「流行」と言われたというのですから、ものすごい。 ふーむ! 今の出版不況の時代からすると、考えられない数字だ! 今、三十万部を超える本って、年にそう何冊も出ないですよ・・・。っていうか、私もカッパ・ブックス全盛の時代に生れたかったぜ! とはいえ、やはりいい事ってのはそう長くは続かない。その後、1970年に有名な労働争議が起り、カッパ・ブックスの版元の光文社は相当な打撃を受け、神吉晴夫が事実上、社を追われたばかりでなく、優秀な編集者が離散して他社へ移り、それが「祥伝社ノンブックス」になったり、「ゴマブックス」になったりするわけ。逆に言うと、カッパ・ブックスのスピリットが、そうやって他社に拡散しながら受け継がれた、とも言えるわけですが。 また、7年くらいかかってようやく労働争議が落ち着いた光文社は、その後も様々なトライをし、中には当たったものもあるし、全くの失敗に終ったものもあるのですが、カリスマを失った同社は総じて迷走を続け、結局、カッパ・ブックスは終焉を迎えてしまう。本書『カッパ・ブックスの時代』の後半部は、この光文社の迷走時代を辿りながら、あれほど成功していた出版社がどうしてこうなってしまったのかを検証しています。 というわけで、自己啓発本の歴史を考えるための傍証として読み始めたこの本ですけど、最後には、なんか悲しいなあ、という読後感に終ったという・・・。 だけど、出版社の運営っていうのは、なかなか難しそうですね。時代の波に乗った時はいいけど、一旦迷走が始まると、どろどろの泥濘。 しかし、そうはいっても、おそらく、この出版不況の真っ只中においてすら、どこかにベストセラーを生みだす種というのはあるはずなのであって、それは一体どこにあるのか。それが見つかれば、私ももうちょい、なんとかなると思うのですけどね・・・。【楽天ブックスならいつでも送料無料】カッパ・ブックスの時代 [ 新海均 ]価格:1,620円(税込、送料込)
June 14, 2015
コメント(0)
今日のおやつをどうしようということになり、そうだ、ミスドでドーナツ買ってきて、ハワイ・コナのライオン・コーヒーを淹れて、食べようということに衆議一決。 で、家からクルマで10分ほどのところにあるミスド(路面店)に向かったと思いなせえ。 ところが。 え゛ーーーーー! 潰れているーーーーー! なんとなんと、肝心のミスドが取り壊し中じゃないですかっ!! 嘘だろっ! ここが潰れたら、どこでミスド買えばいいんだよ~! っていうか、もうちょい蒸し暑くなってきたら、この店で例の「コットンスノーキャンディー」を食べようと思っていたのに~! まさか店自体が潰れているとは想像もしていなかったので、プランBを用意していなかった・・・。っていうか、もう「チョコファッション」食べながらコーヒーを飲む、というので頭が一杯だったので、急に方向転換できないよー。 その時、ふと心の声が聞こえてきた。 最近読んだ『日経Trendy』に、コンビニ・ドーナツ戦争のことが書いてあったではないか。それによれば、確かにドーナツ全般では、ミスドに一日の長があるけれども、メイン商品である「チョコファッション」に関しては、コンビニ・ドーナツのクオリティもバカにならないらしい。 おーし、ミスドがダメなら、コンビニでチョコファッション買ったろうやないかい! セブンイレブンに直行じゃ! で、家に戻りがてら、セブンに寄ってみた。 で、店員さんに「すみません、ドーナツってどこにありますかね?」と訊ねてみたところ、「あー、こちらです」と。案内されたところには、袋入りの既製品が。 「いやいや、こういうのじゃなくて、セブンイレブン・オリジナルの奴が欲しいのですが・・・」とさらに訊ねたところ、「すみません、この店舗では扱ってないんです」ですと! え゛ーーーーー! そうなのーーーーーー!? 話題のコンビニ・ドーナツ、あれは全店舗で売っているのではないのか・・・。 とほほほ。チョコファッション、今日は食べられないんだ・・・。 家に帰ってからネットでミスドのHPを見たところ、私の家の近くでは路面店がどんどん消失していて、大型スーパーに間借りした店か、駅前の店舗ばっかりになっている模様。広い駐車場のある郊外型路面店は収益性が低いのでしょうかね。 しかも、家の近くのセブンでは、チョコファッション置いてないというし・・・。 あーん、とうとうドーナツ難民になってしもた。買えないとなったら、ますますチョコファッションが食べたくなってきたよーーー!
June 13, 2015
コメント(0)
![]()
今日は夕方から名古屋大学にてミネソタ大学教授のポーラ・ラビノウィッツ教授の講演会があったので、それを拝聴しに行ってきました。 が、その前に。 名古屋大学の近く、というほど近くもないですけど、地下鉄本山駅の周辺には「脇田書店」と「シマウマ書房」といういい古本屋さんが2軒あるもので、名古屋大に用事がある時はとりあえずここに寄ることにしておりましてね。今日の収穫は小泉タエさんの『届かなかった手紙』(@脇田書店)と、加藤周一の『高原好日』(@シマウマ書房)。 で、とりあえずの収穫を手に名古屋大学へ。 ちなみに、何ゆえにポーラ・ラビノウィッツ教授の講演会を聴きにいったかと言いますと、教授のご専門が私の専門に非常に近かったから。ラビノウィッツ先生の近著は『American Pulp』という本で、これはアメリカのペーパーバック本、とりわけ1939年から1960年代前半にかけての、いわゆる「黄金期」のペーパーバック本の出版史を扱ったもので、これはまさに私の守備範囲ではありませぬか。 で、今日のお話は、前半はその近著の序文を朗読するような形で、教授がなにゆえにこのテーマを選ぶに至ったか、そのイントロ部分を紹介し、後半はこの本の中で扱ってきた様々なペーパーバック本の書影をスクリーンに映し出しながら、この時代のペーパーバック文化の何たるかを、具体的に説明された、という感じ。 今日のお話をざっくりまとめるならば、20世紀半ばに盛んに出版されたアメリカのペーパーバック本というのは、確かに中にはポルノっぽいものもあったりして、道徳的にどうかと思うものもあり、実際に議会の公聴会なども開かれて種々議論されたり、批判されたりもしたけれども、ハードカバーの本と比べて圧倒的に安い値段と、数多くの販路にものを言わせて、とにもかくにも「文学」というものを人々の手元に届けた、ということがある。教授ご自身もそうだったように、例えば親が買ったペーパーバック本が所有物として家の中にあれば、それを娘や息子が読むこともあるわけで、とにかくそうやって「文学」に触れる機会は増えた。それは、やはり「文化の民主化」という点ですごいことだったのではないかと。 その一方、インターネットというものが発達した現在では、読もうと思えばどんな文章でもネット上で読めるし、逆に自分が書いた小説をネットに公開することも出来るわけで、「書き手」・「流通の担い手(=出版社&書店など)」・「読み手」の間の垣根がなくなってしまった。それは、「文化の民主化」という意味では、20世紀半ばよりも更に進化した状態なのかも知れないけれども、それは同時に、編集者や出版社の人間が、様々な書き手が書いた玉石混交の作品群の中から良いものを選んで読み手に届けていた時代と比べると、「文化の門番」の役割を果たすものが無くなってしまった分、無政府状態になってしまっているところがある。 そういう状態を良しとするか否かは人によるけれど、ラビノウィッツ教授としては、どちらかというとあまり良い状態とは思っていないと。 20世紀半ばのアメリカン・ペーパーバック華やかりし時代は、やはりプロの編集者、プロの出版人が、たとえ貪欲な金儲けのためとはいえ、知恵を絞り、各社競い合いながら、いかに面白い本を世に出すか、そしてそれを沢山売るか、ということに必死になっていたのだし、そのために、攻め過ぎたセールスをしてしまったり、それが批判されて若干トーンダウンしたり、ということを繰り返していた。しかし、その人間臭いドタバタこそが、本当の文化だったんじゃないかと。 またそうやって出版された様々なペーパーバックを今、改めて見ると、安い紙が使われていたこともあり、また人の手から手に渡ってきた歴史があるために、本としてはボロボロの状態だったりする。けれど、手に取ればホロホロと崩れそうなその物質的手触りこそが、文化ってものなんじゃないかと。 そういう意味で、やっぱりこの時代のペーパーバック出版にまつわるあれこれというのは、面白いもんだよと。 ま、そんなお話だったのではないかと。 そして、教授のお話を聴きながら私が抱いていたのは、「私もまったく同感」という思いでしたね。 ただ、私はまた教授の新著を読んでいないのでアレですけれども、今日のお話を伺っていた限りでは、ラビノウィッツ教授が知っていることで、私が知らないことはほとんどないな。その意味では、教授の新著『American Pulp』は、10年以上も前に出された私の本の、ある意味では焼き直しに過ぎないのではないかと。(えー、結局また自画自賛?!) ま、同好の士が見つかったと考えればいいのかな? それにしても、ラビノウィッツ教授と私はあまりにも感性が似ているのか、教授が今、関心を抱いている分野の一つに「自己啓発本」があるとのこと。 それ、私が今、手を付けている分野ですから! 教授、あんたは私の「追っかけ」か! で、そんなことから、何だか私もラビノウィッツ教授や名大のN先生が係わっているプロジェクトに巻き込まれそうな気配。 うーむ、頼まれ仕事はしない、っつーのが私のポリシーなんだけどなあ・・・。どうしよう、引き受けるか、否か・・・。 ま、ちょっと考えます。【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】American PulpHow Paperbacks Broug...価格:2,875円 あ、それからもう一つ、今日のご講演で語られたことの中で面白かったことがありました。20世紀半ばに出されていたペーパーバック本には、「レズビアン小説」というジャンルがあるのですけど、その中で「ポーラ」という名前が頻出する。書き手の名前がポーラだったり、小説の主人公の名前がポーラだったり、とにかくやたらにポーラが出てくる。 ラビノウィッツ教授自身、ポーラというお名前であることもあって、何ゆえにレズビアン小説にポーラが頻出するのか、気になっていたんですな。 で、教授の仮説によりますと、これにはおそらく、著名な文化人類学者マーガレット・ミードが係わっているのではないかと。 マーガレット・ミードの著作に『サモアの思春期』というのがあって、これは当時ペーパーバック化されて非常によく売れた本なのですが、ここに未開人社会における性風俗のことが書いてある。もちろん、この本がやたらに売れたのは、未開人社会で人々がどうやってちょめちょめしているか、ということへのアメリカ人全般の興味があったからなんですけど、とにかくこの本は売れた。 で、この本の中で、ミードが人類学者として観察した未開人の娘さん達の名前が「ポーラ」とか「プーラ」とか、そんな感じの名前ばっかりだったと。 それで、この本を読んだペーパーバック本愛好者の間に潜在的な形で、性的に放縦な娘の名前として「ポーラ」というのが定着し、その後、レズビアン小説ブームが来た時に、そういう小説の主人公とか、ライターの名前として、やたらにポーラが使われるようになったのではないか・・・。 ま、これはあくまでラビノウィッツ教授の仮説ですが、これはなかなか面白いですな。
June 12, 2015
コメント(0)
今日は教育実習生の研究授業を参観するため、またまた知多半島の方の中学校に行ってきました。 で、今日参観したのは、中一女子の体育の授業だったのですが、お題目はマット運動。ということで、でんぐり返しだの、側転だの、倒立前転だの、そんなのをやらせているのを傍で見ていたというね。 ま、おそらく指導要領にそういうのをやらせろと書いてあるからやらせているのだろうと思いますが、下らないね。 マット運動って何よ? こんなの出来たからって、将来一体何の役に立つのか。我々英語の教員は、「中高と英語やってもろくに英語が話せるようにならない」って、いつも批判を浴びるのですが、それを言ったらマット運動なんて、それこそ何の役にも立たないじゃないの。出来ても、出来なくても、どっちにしろ何の役にも立たない。 考えてみ。とりあえず運動をやっていない、つまり「ママさんバレー」とかやってないふつーの成人女性が一体どんな運動をやっているか。 ヨガでしょ。ピラティスでしょ。 同じマット運動やらせるなら、でんぐり返しとかやらせている間に、ヨガかピラティスの基本でも教えてあげればいいじゃないの。そっちの方がどれだけ後々役に立つか。 特にピラティスとかだと、体幹を鍛えるので、体育の時間にそこを押さえておけば、クラブ活動とかでやる各種競技、テニスであれ、卓球であれ、陸上であれ、ソフトボールであれ、バレーボールであれ、そういう競技にとっても、基礎になるじゃないの。 どうしてそういう風に考えないで、昭和時代と同じように、相も変わらずでんぐり返しとか側転とかやらせているのか。もう、教育界の怠慢としか思えない。 私だったら、中等教育の体育の時間は、ヨガ/ピラティス、ジョギングの正しいやり方、護身術、この3つを徹底して教えるな。全部、将来的に必ず役に立つからね。 授業参観をする度に、日本の初等・中等教育って、何やっているのかなって思いますな。
June 11, 2015
コメント(0)
この間まで文科省は国立大学に対して「ミッションの再定義をしろ」とか言って、そのために随分、あれこれ作業させられたわけ。 だけど、再定義しようがないんだよね、実際のところ。例えば「医学部は人の命を助ける学問をする」ってのが定義だと思うけど、それをどう再定義すればいいわけ? 今までは助けてましたけど、これからは助けませんとか? 教育学部だって同じよ。「よい先生を育成します」という定義を、どう再定義すればいいのか。 それでも、再定義しろ、今風に変えろっていうから、無理して言葉遊びしてたのにさ。 今度はまた別なことを言い出しまして。曰く、「人文社会系・教員養成系は縮小・廃止の方向で」と。結局、再定義なんか関係ないんじゃん。再定義しようがしまいが、人文社会系・教員養成系はもういらないと。だから、潰すぞと。 で、潰した分どうするかというと、職業専門学校になれと。 ううむ・・・。 私思うに、そもそも諸悪の根源は、日本に大学が多すぎるってことなんですよ。今、760位あるんでしたっけ? で、国民の2人に1人は大学に行く。 それはねえ、多すぎると思うなあ。本当に大学で勉強したいと思っているのは、多分、日本人の10人に1人くらいだと思います。10人に5人ってことはない。 だから、大半、大学に遊びに来ているんだなあ。 で、全体的にみると、勉強しない大学生ばかりということになってしまう。っていうか、中学レベルの学力すらない大学生だって沢山いる、というのが今の状況。 ということは、そんな現状をよそに、じゃんじゃん好きなだけ大学設置を認可しまくったアホな文科省がそもそも悪いのよ。 だけど文科省は責任を取らない。責任はすべて各大学にきせて、「お前らどうするんだ、自分で考えて、改善案出せ」とか言ってくる。そんなこと言われても、「じゃあ、明日から、うちのダメダメ学生を全員東大生並の勉強家にします」って言ったって、そんなことできるわけがない。 そういう意味では、今度、文科省が「ダメダメ大学はいっそ専門学校になれ」と言い出したのは、既存の大学の数を減らし、大学生を減らすことにつながるわけだから、まあ、方向性としては正しい。ようやくまともな事を言い出したのかもしれない。 だ・け・ど。 これ総論賛成、各論反対が出るよね! 大学生とはとても言いかねる能力とやる気の持ち主たちが大学生でなくなるというのは、実質に合うと言う意味で、まだいいとして、専門学校に変えさせられる大学の先生はちょっと困るんじゃないかなあ。今年は大学教授だけど、来年からは専門学校講師だからね、と言われて、「OK!」という先生はあまりいないだろうし。 それに、専門学校化するということは、例えば「アメリカ文学」の先生なんてそもそも必要なくなるわけで、そういう先生は首になる可能性大。そうなると、人文社会系の大学の先生は、専門学校講師になって残るという選択肢すらないわけだ。そうなると、私も首筋が寒くなってくる。 そう考えると、文科省は「専門学校に変る大学は、文科省が決めるんじゃありません。各大学で話し合って決めて下さい」って、またいつもの責任逃れしようとしているけれども、このままじゃ、手を上げる大学って、そんなにないだろうな。 だから、大学の専門学校化も、結局、絵に描いた餅になるんじゃないの? もし本腰入れて大学の専門学校化するなら、少なくとも今、大学の先生として食っている人間が、職を失わないようにする、ということを保証してくれないとね。それをやった上で、大学の数を減らすというのなら、実効性はあると思いますが。 でも、財務省に睨まれただけですくみ上がってしまう文科省に、そんな大英断ができるはずもなし。だから、このまま当分、迷走するんだろうな。 ま、迷走するのはそっちの勝手だけど、その都度、我々大学人に「何かやれ、何か案出せ」っていうの、止めてほしい。アンパンじゃあるまいし、押せばアンが出るってもんじゃないよ!
June 10, 2015
コメント(0)
「73」、これ何の数字だ? そう、釈迦楽教授のう・え・す・と。(知らんわ!) 今年の1月あたりからダイエットを始めて、かれこれ半年近く。結局5キロくらいは痩せたので、ウエスト・サイズが76から73になっちゃった。すごくない? だけど、3センチといえども服のサイズとしては結構大きくて、今まで履いていたズボンが皆ぶかぶかになってしまった。ベルトでぎゅーぎゅー締め付けるという手もあるけれど、やはりそれにも限界がある。 ということで、4本くらい一挙に大人買いですよ。まあ、仕事着ですからねえ。履かないわけにはいかないし。 4本一気買いで女性店員さんに「ダイエット成功で、散財ですよ」と言うと、「どんなダイエットをされたのですか?」と尋ねられたので、「朝食抜きのプチ断食」であることを伝えると、「あ~・・・。それ、私、無理です」です、と。朝はしっかり食べたい方なんですって。 しかし、プチ断食で体脂肪は確実に減っているのだけど、意外に減らないのが内臓脂肪。こちらは断食にプラスして筋トレとかやってもなかなか落ちないので、軽い有酸素運動を継続するしかない。 そこで、このところ、夕食後に時間のある時は30分ほど家内とウォーキングですよ。さて、これで内臓脂肪まですっきり落ちて、ズボンのサイズも70くらいになるかしら。もっとも70となると、一般的にはサイズが細すぎて、選択肢の幅が狭くなるレベルですけどね。 ま、そこまで行くかどうかは別として、とりあえずスッキリした腰回りを新しいズボンに通して、悦に入っているワタクシなのであります。
June 9, 2015
コメント(0)
スズキから出た新型アルト・ラパン、いいですねえ。 ラパンの優れたデザインを見よ! スズキは「ハスラー」もいいけど、これもいいなあ。これは、私でもつい欲しくなるデザインですね。私だったら、水色と白のツートンかな。 私の知人で、最近、同じスズキの新型「アルト・ターボRS」を買った人がいるのですけど、もう少し待ってこちらを買った方が良かったのではないでしょうか。デザインの出来が違う。 最近、スズキは800cc二気筒のターボ・ディーゼルエンジンを開発して、今後の世界戦略車に使うという発表をしたばかり。勢いがある時は、何をやってもうまく行く、という感じじゃないでしょうか。 我が家は今、シトロエンとスバルR1の二台持ちですけれども、R1の後継車として、ちょっと候補に挙げちゃいましょうかね。
June 8, 2015
コメント(0)
![]()
荻原魚雷さんの書いた『古本暮らし』(晶文社)を読みました。 荻原魚雷さんというのは、フリーの編集者でありエッセイストなのかな? 「文壇高円寺」というブログをやっていて、この本も大半はこのブログに書かれたものらしい。で、本書の内容は、タイトル通り、古本がらみのエッセイという感じ。本を買った売った、この作家には思い入れがある、この本のこういうところがいい、といった話ですな。 といって、本のことだけが書いてあるわけでもなく、日々の暮らしのこともあれこれ。荻原さんは、奥様が漫画系の編集者みたいなことをやっていらっしゃるらしく、その手の職業柄、かなり不規則な勤務業態で、必然的に魚雷さんの方が主夫的なことをやっておられる。そういうこともあって、朝、チラシを見て、どこのスーパーで特売をしていると知ればそこに買い物に行く、というようなことも書いており、また安くおいしい食事を作るには、素材は安くても、調味料に贅沢した方がいい、といった知恵も盛り込んでおり・・・というような感じで、まさに日々の暮らしのこと、そういうことも書いてある。 つまり・・・漠とした本なわけですよ。ファンは、おそらく、この手の「本と生活にまつわる漠としたエッセイ」が好きなのでしょう。 私も嫌いではない。ですが、ちょっとこう、パンチがないというか、漠としすぎて、結局、何を読んだんだっけ? という感じがしてしまうところもある。 だけど、こういうのが、世間的には受けるのだろうなと。 だからこそ、魚雷さんは晶文社から本が出せる。そして、魚雷さんが書く本は、ちくま文庫にも入る。最近、ちくま文庫は、この種の古本エッセイだらけになりつつありますが、そういう「ちくま古本文庫村」に入れるわけだ。 で、思うのですが、こういう漠としたエッセイって、書くのは難しいだろうなと。 私は基本的に論理的な人間なので、何かを書くとなると、焦点となることに向って周到に書いてしまう。はじめのうち漠然とした書き方をしていているようで、全部読むと、全てが焦点となる一点に集中していることが判る。そういう書き方になっちゃうのよ。 だから、書くものに無駄がまったくない。遊びがないわけじゃないけど、その遊びも計算した上の遊びだから、本当の遊びではない。ま、本来、論文を書くっていうのはそういうことなんだけど。 そういう、無駄のないものしか書けない人間にとって、焦点を結ばない、漠としたエッセイって、書くのが難しいんだなあ・・・。逆に、起承転結のあるものはすぐ書けちゃうんですけどね。 魚雷さんの『古本暮らし』を読みながら、果たして私には、漠とした(古)本エッセイが書けるのだろうか、書けないのなら書けないとして、論理的でかつ面白い(古)本エッセイは書けるのだろうか、そしてそれが晶文社から出版され、最終的には「ちくま古本文庫村」入り出来るようなものになるだろうかと、そんなことを、それこそ「漠と」考えていたワタクシなのであります。これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】古本暮らし [ 荻原魚雷 ]価格:1,836円(税込、送料込)
June 7, 2015
コメント(0)
![]()
1974年に作られたブライアン・デ・パルマ映画『ファントム・オブ・パラダイス』を観ましたので、心覚えを。以下、ネタバレ注意ということで。 主人公ウィンスローは、スター性こそまったくないものの、作曲のセンスは抜群で、悪魔に魂を売った博士をテーマにした長大な組曲『ファウスト』が完成間近。しかし、その完成度の高さに気づく人はおらず、レコード会社との契約などは夢のまた夢。 ところが、それに気づいた奴がいた。それが大手レーベル「デス・レコード」社長で、かつては自身も大スターだったスワン氏。彼は、デス・レコードの稼ぎ頭だったグループ「ジューシー・フルーツ」の賞味期限がそろそろ尽きかけていたこともあり、また「パラダイス」という自前の劇場を建設中であったこともあって、新しい才能を探していた。で、ウィンスローこそ求めていた才能だとは認めるのですが、しかし、彼にはまったくスター性がない。そこで、ウィンスローが作曲した未完成の『ファウスト』組曲の一部を奪う一方、息のかかった警察官を使ってウィンスローを麻薬売買の容疑をかけて逮捕させ、シンシン刑務所に送りこんだばかりか、刑務所内でウィンスローの歯を抜き、すべて銀歯にしてしまうことで、今後どうあっても表社会で活躍できないような容姿にしてしまう。そしてその間、「パラダイス」の杮落しの準備を着々と進めるわけ。 しかし騙されたことに気づいたウィンスローも黙ってはいない。彼はシンシン刑務所を脱獄し、デス・レコードに単身殴り込みをかけるのですが、暴れている間に誤ってレコード・プレス機に顔を挟まれる事故に遭い、彼の顔は無惨に焼け爛れてしまう。彼はその焼け爛れた顔を仮面に隠し、他ならぬパラダイス劇場に隠れ住む怪人となると。 一方、パラダイスの杮落しの日が近づき、リハーサルが繰り返されているのですが、怪人となったウィンスローによりジューシー・フルーツの面々は爆死。そこで、スワン氏は一計を案じ、ウィンスローと正式な契約を結んで、ウィンスローが前々から見初めていた新人女性歌手・フェニックスに彼の歌を歌わせることを条件に、ロック・オペラ『ファウスト』の楽曲を完成させて提供することを約させる。ウィンスローは半信半疑ながら、フェニックスのことを思い、必死で曲を完成させるんですな。 ところが、やっぱりこれがスワン氏の策略だった! スワン氏はウィンスローの楽曲が完成するや、その楽譜を奪うと、ウィンスローを劇場内の作曲部屋の中に生き埋めにしてしまい、フェニックスではなく、「(ドラキュラの出身地)ペンシルベニアから連れてきた」という触れ込みでデビューさせた「ビーフ」率いるクイア・バンドにウィンスローの歌を歌わせることにするんです。 で、その策略に気づいたウィンスローは怪人パワーを発揮して監禁されていた部屋を脱出、パラダイス劇場のプレ・オープニング公演でパフォーマンス中の「ビーフ」を殺害。その騒動の中、ビーフに代わってソロを歌ったフェニックスが一躍注目の的となる。 しかし、それはウィンスローの望みでもあったと同時に、スワンの思うツボでもあったんですな。 フェニックスはそもそもウィンスローの存在をはじめからあまり意識していませんから、自分が一躍スターになったのはスワンのおかげと思い、彼にすべてを捧げようと思っている。そこで、スワンはフェニックスに求婚、パラダイス劇場の杮落しで、『ファウスト』の最後のシーンを改変し、スワン自らが主役となって、スワンと結婚する筋書きに変えつつ、その大団円の結婚のシーンで手下を使ってフェニックスを狙撃・射殺させ、このショッキングな結末によってパラダイス劇場を伝説の場所にしようというわけ。 なぜスワンはそれほど邪悪なのか? 実はスワンは、かつて自分自身が大スターだった頃、年齢と共に自分の容貌が衰えていくことに絶望し、自殺を試みていたんですな。そこへ悪魔がやって来て、永遠に衰えない若さと引き換えに、彼の魂を悪魔に売り渡す契約をするようそそのかし、スワンはその契約書に血のサインをしてしまった。しかもスワンは、先にウィンスローと契約した際、自分とウィンスローの寿命が同期するような条項を盛り込んでいたんです。だから、ウィンスローはスワンを殺すことができない。もし殺せば、自分も死ぬのですから。 しかし、愛の力は強かった。ウィンスローは自らの命を顧みず、フェニックス狙撃を阻止した上でスワンを殺し、そして自らもスワンと共に死ぬ。そしてそれを見たフェニックスは、ウィンスローこそ自分の真の恩人であったことを知る・・・。 ・・・ってなお話。こう説明していると、何だか深刻な話のようですが、これ、むしろギャグ映画ですから、実際はかなり可笑しい話になっております。 で、この映画に対する私の評価は、と言いますと・・・ 「86点」でーす! 高評価! かーなーりー面白い! 筋書きからも分かるように、『オペラ座の怪人』『ファウスト』『ドリアン・グレイの肖像』などのエッセンスをうまく組み合わせながら、スワンを演じているポール・ウィリアムズ(=超有名なミュージシャン)自身の楽曲によるロック・オペラそのものが秀逸。しかも、デ・パルマ監督の映像美学が素晴らしく、映画にしかできないセンスのいい映像美が横溢していて、ストーリー進行のテンポもすごくいい。『サイコ』など、過去の名作映画からの引用・パロディもそこここにあって楽しめるし、個々の俳優もそれぞれいい仕事をしていて、冒頭から最後まで一気に観させます。 例えば映画版『ルパン三世』に登場する「マモー」のモデルがスワンであることからも分かるように、この映画に影響された日本のアーティストやクリエーター、文化人も多く、まさにカルト映画の名に恥じない傑作。映像のセンスから言うと、スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』にも一脈通じるような、すごい作品だと思います。 ただ、これは洒脱な映像センスそのものを堪能する映画であって、内容で人を感動させる類の映画ではない。ということで、映画評論家の中には『ファントム・オブ・パラダイス』を自分にとってのオールタイム・ベストの映画だと明言している人もいるようですけれども、私はそこまでは高評価はしないの。私にとってのオールタイム・ベストは、やっぱり今も『ゴッド・ファーザー』かな。 でも、とにかく抜群にセンスのいい、面白い映画であることは確かですから、未見の方には教授の熱烈おすすめ! と言っておきましょう。これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】ファントム・オブ・パラダイス 【Blu-ray】 [ ポール・ウ...価格:4,010円(税込、送料込)
June 6, 2015
コメント(0)
今日の午前中、家の近くのカフェで某出版社と打ち合わせ。私が編集してきた、先輩同僚の本の見本が出たというので、それを確認しつつ、見返しの色などを決める作業をしておりました。 で、これがね、なかなかいいのよ。出来が。 大学出版会の本というと、表紙からしてセンスのないのが多いのですけれども、そこはそれ、私がすべてことを進めていますから、判型から何から抜群よ。 でまた、表紙がいいんですわ。これならどこへ出しても恥ずかしくないって感じ。で、今回持ってきていただいた見本には見返しがないのですけれども、最後の仕上げとして、私が見返しの色まで決定。この本にはペパーミント・グリーンというか、薄い青緑色の見返しが合うだろうと、そんな系統の微妙な色合いの紙を選んできました。この判型・この表紙で、この見返しだったら、もうパーフェクトじゃない? いやあ、何度見てもいいねえ! もうさ、あんまり良すぎて、自分で嫉妬するわ。これ、先輩同僚の本ですけど、自分の本としてこれを出したかった! さて、打合わせも無事終り、家に帰りがてら、私が立ち寄ったのはファミマ、サークルK、セブンイレブンという三軒のコンビニ。各店で一個ずつ、コロッケを買ったという。 この前某テレビ番組で、コンビニ各店で売っているコロッケの特集をやっているのを見ていたら、急にコロッケが食べたくなっちゃって。 で、上記三軒のコンビニで一個ずつ買ったコロッケでもって、家でコロッケサンドを作って、今日のお昼にした次第。トーストしたパンにバターと粒マスタードを塗り、ソースとケチャップをつけたコロッケと千切りキャベツ、それにコショウの効いた薄切りチーズを挟んで食べれば、上等な自家製コロッケパンの出来上がり! で、どこのコロッケが一番おいしかったって? うーん、三様ですけど、一番安くて、一番大きくて、味も満足という意味ではファミマかな。一個70円だもの。だけど、その他のも、それぞれ美味しかったです。 というわけで、先輩同僚の本は完成まで秒読みになってきたし、美味しいコロッケパンも食べられたし、なかなか良い一日となったのでありました、とさ。
June 5, 2015
コメント(0)
![]()
松田隆智という人の書いた『謎の拳法を求めて 武の人・松田隆智の足跡を辿る』という本を読みましたので読後感などを。 私はよく知らなかったのですけど、この本を書いた松田隆智という人は、日本に中国拳法の何たるかを伝えるのに功績のあった人なんですってね。 で、本書によると松田さんは、それこそ小学生くらいの時から武道、特に空手に憧れ、見よう見まねで独自に練習していたらしいんですな。で、松田さんの地元が愛知県の岡崎市で、当時その辺に「愛知学芸大学」という、どこかで聞いたような国立の教育系大学がありまして、そこに新しく体育館が出来たというので中学生くらいの時に遊びに行ったら、たまたま空手部の演武をしていたと。で、それを見た松田少年はますます空手に魅了されてしまった。 で、しかも、見よう見まねで練習していた空手の成果をちらっと大学の空手部の顧問に見てもらったら、筋がいいというので、特別に練習に来ていいことになった。そうやって、彼はますます空手にのめり込んでいく。 だけど、松田さんの探究心というのは、そこで止まらないんですな。空手は確かに強いが、他にも拳法・武道は色々ある。その中で日本の空手は本当に最強なんだろうかと。 そこから松田さんの拳法遍歴が始まるので、極真空手の大山倍達氏のところでさらに空手の腕を磨いたと思えば、ボクシングジムへ通って西洋流の拳闘を学び、空手にはないフットワークや連打の威力を思い知ったり、さらには古武道にも見るべきものがあるのではないかと大東流合気柔術を学んだり、私と同じく八光流柔術を学んだり、さらには剣の方面の古武道も色々見て回っている。それこそ東京・東北・九州と、とにかくそこに達人が居ると聞けばそこへ手紙を書いて、単身乗り込んで行くという感じ。 で、そのうち、中国武術のことをあちこちで聞くようになる。 日本男児として日本武道が最強と思いたいけれども、日本文化の大半が大陸からもたらされたものとしたら、武道・武術だって中国由来なのではないか? だとしたら、日本の武道だけやっていたら井の中の蛙になってしまうのではないか? そう思った松田さんは、すぐに台湾や中国に出向いて、日本でやっていたのと同じように達人を求めて教えを請うようになると。 ところが中国の武道界というのはなかなか複雑で、本当の達人が誰なのかさっぱり分からない上、様々な流派を横断的に勉強しようとすると、それぞれの流派の人たちから裏切り者とかスパイ扱いされてしまったりする。なかなか苦労させられるわけ。 それでも直情的な松田さんの思いは次第に通じ、道も開けてくる。そしてそこで学んだものを松田さんは日本に持ち帰って紹介し、それで、ブルース・リー以後、少しは話題になりながら、色々な誤解を受けて来た中国武術の数々の真のところが、日本に伝わるようになってきたと。 ま、そんなお話。 松田さんが語る具体的な中国武術の数々は、言葉の上での説明なので、この本を読んでも実際にはよく分かりません。しかし、優れた拳法とは何かを求めて、日本国内だけでなく中国まではるばる出かけて行く松田さんの情熱だけは伝わるので、そういう松田さんの熱意を読む本ですな、これは。 でまた、本編とは別に、本書後半には別な人の聞き書きで、松田さんの生い立ちを語った部分があるのですが、こっちはとにかく、めちゃくちゃ面白い。 岡崎あたりでは名の知れた空手の使い手だった松田さんのところに、地元の任侠道の組のみなさんがやたらにスカウトに来るわけ。で、昔の極道は、今のとは違ってなかなか面白みのある人たちだったらしく、もともと感性が彼らに近かった松田さんは、そういう人たちと遊ぶのが好きだったんですな。 ただ、松田さんの父親というのが警察官で。それで、親分さんたちも最終的には、「お前さんの親父さんが警察官でなかったらなあ・・・」と言って、松田さんを組に入れるのをためらうわけ。そこで、結局、せいぜい客分というか、相談役としてそういう地元の組に席を置くのですが、この時期のエピソードがまあ、本当に面白いのよ。当時、組同士の闘争でダイナマイトを使うのが流行し出し、その練習のために深夜の川原でダイナマイトを爆発させた時のエピソードとか爆笑ものよ。 誰にも多少なりとも「やんちゃ時代」ってのはあるものですが、松田さんのやんちゃ時代は、本当に切った張ったの世界ですから、面白いんだなあ。 でも、やはり松田さんは武道の人であって、二十代後半を境にそういう人たちとは縁を切り、上に述べたような「最強の拳法」を求める求道の人となる。本書には、松田さんの奥さまにインタビューした部分もあるのですが、松田さんは破天荒ではあったけれども彼なりの愛妻家であって、奥さまも「楽しい人生だった」と振り返っている。そこもとてもいい。 というわけで、拳法談義としてよりも、松田隆智という一人の稀有な武道家の人生を振り返る本として、なかなか面白い本です。興味のある方にはおすすめ!と言っておきましょうかね。これこれ! ↓【楽天ブックスならいつでも送料無料】謎の拳法を求めて新装増補版 [ 松田隆智 ]価格:1,728円(税込、送料込)
June 4, 2015
コメント(2)
書評紙『週刊読書人』の今週号に、私の書いた書評が掲載されているのですけれど、私が書評した本の版元の方から礼状が届きまして。 ま、版元として、こういう風に読んでもらえたらな、と思っていた、まさにそういう書評だったので、非常に嬉しかったと。 うーむ、そうでしたか。それはもう、こちらとしても最大限の褒め言葉でありまして、そう言っていただいて書評した甲斐がありました。こちらこそありがとうございました! 私のような仕事ですと、結構孤独な作業――というか、自己満足的な作業というべきか――そういうのが多いので、直接的に誰かの役に立つとか、それでお礼を言われるとか、そういうことがあまりないのですが、たまにこういうことがあると、嬉しいものですね。 やっぱり、人間ってのは、人とのつながりで生かされているというところがありますな。 だからこそ、書評のように人から頼まれた仕事も、精一杯良心的な仕事をしないとね。常に最善を尽くすと。 また、いただいたのは一枚の葉書ですけれど、これによってどれだけ自分が元気づけられたかと思うと、私もまた、人の仕事をよく見て評価し、いいものであれば、口に出してお礼を言うようにしよう! と思いました。
June 3, 2015
コメント(0)
自己啓発本の歴史を研究していたら、「William Holmes McGuffey」という名前にぶち当たりまして。この人は、アメリカの初等教科書の編纂者として有名で、1836年から1960年代くらいまで、この人が作った教科書が全米で広く用いられていたらしいんですな。 で、この教科書の内容が、「自己啓発的」であったと。 中でも有名なのが、Lesson 2 に登場する「Try, Try Again」という詩で、Try, Try AgainIf you find your task is hardTry, try again:Time will bring you your reward.Try, Try again:All that other folks can do Why, with patience, should not you?Only keep this rule in viewTry, try again. ってなことが書いてある。これを、アメリカのいたいけな子供たちは嫌になるほど復唱させられていたと。百年以上も。 で、それはそれでいいのですけど、この「Try, try again」っちゅーフレーズを目にした時、私には「ああっ!」と思い当たることがありまして。 あれは今から40年前。私が小学生の頃、我が家にアメリカから大学生のお兄さんが1ヵ月ほど泊っていたことがありまして。ロングビーチからやってきたロン(=ロナルド)という交換留学生で、私の父がしばらく面倒を見ることになったんですな。 で、当時私は小学生ですから、もちろん英語なんてろくに話せないわけですけれども、それでも不思議なことに、意思疎通が普通にできていたという記憶しかない。どうやって互いに話をしていたのか思い出せませんが、私が言うことは向こうに通じたし、ロンの言うことは私には普通に分かった。 まあ、互いへの善意さえあれば、言葉の壁なんてものは存在しないのでしょうかね。 で、ロンは大学ではバレーボールの選手だったので、私へのお土産にバレーボールのボールをくれて、よく二人でトスのキャッチボールみたいなことをしていたんですな。 それで、トスのやり方を私に教えてくれて、私がうまく出来なかったりすると、ロンはよく「釈坊、大事なのは練習だからな。一度練習してダメでも、Try, try again だぞ」と、よく言っていた。私はロンがしばしば私に言った「Try, try again.」というフレーズがすごく頭に残って、ロンのことを思い出すたびに、このフレーズが同時に出てくるほどなんですわ。 で、それから40年経って、自己啓発の研究書を読んでいた時に、再びこのフレーズに出くわした。 あ、なるほど、このフレーズというのは、アメリカで育つ若者には耳タコで、ロンはそれを私に受け売りしたんだなと。 思い出と学問が40年の時を経て、一つにつながった瞬間でございましたよ。 ということで、思わぬところで、思わぬものがつながったわけですが、「Try, try again」、いい言葉じゃないですか。失敗したっていい、トライ、トライ アゲイン! できなかったら、もう一度やり直せばいい、トライ、トライ アゲイン! この精神で、人間、生きて行かないとね! 凡人だって、この精神さえ保っていれば、いつかどこか遠くまで行けるかもしれませんよ!
June 2, 2015
コメント(0)
今年の私のゼミ生に、トウモロコシについての卒論を書こうって子が居まして。 トウモロコシってのは、どこが原産かっていうと、諸説あるみたいですけれども、おそらくは中南米だろうと。で、コロンブスが新大陸を発見して、ヨーロッパに持ち帰られ、世界的に広がった。今では米・麦と並ぶ三大穀物なんですけど、他の二つと異なって、今でもアメリカが最大の生産国になっている。 だけど、トウモロコシがどういう植物か、というのは、ごく最近まであまりよく分かってなかったみたいなんですな。不思議な話ですが。 で、結局、大昔、中南米に住んでいたインディオの方々が、トンでもない時間をかけて品種改良を行なった末に、今のようなものになっているので、今ではあまりにも品種改良が進みすぎ、野生で自生できない植物なんだとか。 そうなの?! 実生できないソメイヨシノみたいなものなんですかね? で、非常に栄養価の高い穀物なので、コーンブレッド、コーンフレーク、挽き割りにしておかゆ、メキシコの方ではブリトーみたいな形で食べたり、色々な食べ方があるわけですけれども、実際には大半が家畜用の飼料になっている。 ところがですね、トウモロコシを食べると牛はすごく太るのですけれども、そもそも牛ってのは草を食べる動物であって、トウモロコシを食べるようには出来てない。そこで、トウモロコシに含まれるなんとかいう成分を消化しきれずに、腹の中でガスが発生してしまう。これが、地球規模でやっかいなことになっている牛のゲップ問題。 さらに、飼料にするなら、味よりも大きさだってんで、今、遺伝子組み換えによってすごく大きくて沢山実る「キングコーン」というのが盛んに栽培されているのですが、この遺伝子組み換え食物の安全性が、色々と問題になっているのだとか。最近、キングコーンの安全を疑問視するドキュメンタリー映画も作られた由。「キングコング映画」ではなく、「キングコーン映画」ですな。 一方、石油資源に代わるものとして、人工で作ることのできる燃料としてバイオエタノールが注目されているわけですが、トウモロコシはこのバイオエタノールの原料でもある。つまり、色々問題はあるとしても、これから先の人類にとって、トウモロコシはどうしてもお世話にならざるを得ない穀物なんですな。 さらに、日本とトウモロコシの関係から言うと、気候面でトウモロコシの栽培に適した北海道にトウモロコシ栽培が伝わったという側面もそうですが、もう一つ、インパクトのある例としては、マッカーサー元帥のコーンパイプ、ですよね。コーンパイプというのは、非常に簡単に安価に作れるので、アメリカではある時期、トウモロコシの軸を使ったパイプが流行するわけですけれども、それを手にしたマッカーサーが進駐軍を率いて日本にやってきたということをもって、トウモロコシこそ戦後民主主義の象徴であった、という風に見ることもできる。 とまあ、トウモロコシを様々に論じつつ、トウモロコシ越しにアメリカを見る、というスタンスの論文になりそうなのですけれども、どうですかね、面白くなりそうかな? 私は面白いのではないかと思っているのですけどね。 ま、この先どうなるか、ちょっと楽しみにしながら、ゼミ生の奮闘を見守っていきましょう。
June 1, 2015
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1
![]()
