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昨日の日記で「本能寺の変」に触れたが、それにからんで異説「信長の棺」(加藤廣氏執筆)という歴史小説を思い出す。
本能寺の変で信長は寺に火を放ち、爆炎とともに遺体はいくら探しても消滅して見つからなかったという。
しかし、信長は本能寺をただの寺とはほど遠い、城のように造っており、敵に攻められたら地下の抜け道を伝わって京都の市街へ逃げられるように、隧道(トンネル)を構築していた。
そのことは、忍者・根来衆であったとおもうが、彼等しか知るよしもなく、信長が逃亡せんとした時には、なぜか彼等は先に隧道を固めてしまっていたのである。
信長は抜け穴に颯爽と降り立ったものの、蝋燭の先には塞がれた隧道が見え、塊は突き壊そうにも松脂などで「こちんこちん」に固まっていたのだ。
後ろの本能寺は爆薬で燃え上がり、信長一同は自分たちが、まるで登り窯のなかにいるような地獄をみて消え去ったのであろう。
また、愛宕山と京都の間には、光秀と公家とが密談する庵が設けられていて、事前に「信長追討のみことのり」が宣言されていたという。
だから、光秀の「信長暗殺」は、もし光秀の天下統一が成功すれば正当な誅殺であったはずである。
しかし、光秀は、秀吉の「想定外のトンボ返り」で逆襲され、「追討のみことのり」は優勢な秀吉軍に向けて傾く・・・・・。
光秀の家老・斉藤利三(光秀の義弟)は娘を四国の長曽我部元親に嫁がせ西国に通じており、うまくいけば天下は違う方向に行っていたかも知れない。
(そういうことになっていれば、徳川幕府で土佐へ山内家が配置され植民地政策のような圧政が布かれることもなかったろうに、と小生はおもう。しかし、野球と同じで、歴史も、「あのエラーがなかったら勝ったのに」ということは言っても仕方がない。「勝った方が、勝ちなのだ。」「負けた方が、負けである。」再試合はありえないのだ。野球はノーサイドで終わるが、歴史では、試合そのものの経過や、選手名やスコアボードは書き換えられ、負けた軍の運命は悲惨きわまりない。)
さて、くだんの加藤廣氏とは、彼の若かりし頃(30年ほど前)にお会いしたことがある。
経済学に深い学識をもち、あのマシュマロのような口から優しく発声される英語は同時通訳のような流ちょうなスピーチであった。
また、テニスコートでシングルスの試合をかいま見たこともあるが、当時は太っておられて、相手の方(関西弁)も同じような体格であった。
体格の割には両者とも動きが良く、戦いぶりは、まるで甲冑で固めた武士が全力で刀を打ち合うような凄まじい姿であったことを忘れられない。
脱線するが、秀忠と「江」の息子・家光の乳母(養育係)として迎え入れたのは、奇しくも上記の斉藤利三の娘・お福である。
また、明智光秀は天海僧正だという説(伊牟田比呂多氏)もあるようだ。
天海僧正が江戸の守りとして建てるように進めた家康の墓所は日「光」東照宮であり、いろは坂には「明智」平と命名した地があり、天海が親しくした春日局は「光秀」を叔父にもつ、などが理由であるらしい。
歴史の番人は不在であり、どこかの放送局の「時空警察」でも眞のアリバイは掴めないのだ。
そこに小説の入り込むニッチな世界があるらしい。
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