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磐余
(いわれ)の編(526年)
★・ 遷宮
蘇我高麗は朝日に輝く大和盆地を眺めていた。
空が次第に蒼暗くなり、日輪が徐々に欠けだした。
以前にもあった経験を父から聞いていたから、さほど驚かなかった。
しかし、民衆は不安げであり、自分も「 凶事の兆し
」と父が言ったことが気になり、
二階堂に向かった。
前・摂政の春日大郎(かすがのいらつめ)が昨日から意識を失い、身体が浮腫み、
黄色染みている。胆臟の病気が深刻化したようだ。
男大迹王、手白香媛なども空しく帰るばかり。
7日目には危篤状態になり、医師が、付きっきりの蘇我高麗に最後の意識が
戻ったことを告げた。
春日大郎
は蘇我高麗に次のように遺言した。
1. 大変お世話になり、これからもお世話になるだろう。
2. 王家の財産すべては手白香媛に譲る。
3. 吉備の女を王家には入れてはならない。
4. 物部を立てて大伴の力を削ぐべし。
5. 蘇我稲目には手白香媛を助けるよう伝えよ。
6. 御鷦鷯(みさざき)が大王になったら家宰を息子の稲目に継がせよ。
また、駆けつけた稲目に、自分と蘇我高麗の子供であることを伝えて、
王家の立派な家宰となるようにと遺言して、身罷った。
・ ・・・・
葬儀が終わると、蘇我高麗は 手白香媛
から呼び出されて、遺言の中身を
確認されたが、稲目の件は伏せた。
お母上は「ご自身が凶事を一身に受けて
王家、大和の国をお守りした」と自分は思うと伝えた。
手白香媛が言うには、「王家には当主が変わると宮を遷す慣わしがあり、
大王は枚方や樟葉を遷すまいから、王家の一切を任されている以上、
二階堂は撤去し、他に遷さねばならない。」と。
蘇我高麗が、二階堂は宮だけでなく街になっているから勿体ないというと、
「王家の仕来りでは、すべてを遷すことになるので、場所の選定を進めるように」
との女王の命令にやや不満を感じながら退出した。
物部麁鹿火
に聞くと、「雄略天皇の時代に、宮が 「朝倉宮」→「二階堂」 に
遷ったのは余りに不便なためであり、稚鷦鷯(わかさざき=武烈天皇)は
出雲の近くに宮があっても、実際には二階堂で政務を執っておられた。
新しく王家の財産を相続した新女王が事実を民に知らしめるためのもので、
慣わしではないかも。王家の家宰としては大変な出費、ご苦労様。同情する。」
といったところ。
蘇我一族が大きくなりすぎた事への非難の雰囲気を感じざるをえなかった。
★
男大迹王と蘇我高麗が翌日の葬儀の席での話である。
1. 義母の遺言で、引き続き家宰の仕事を引き受けるようだが、よろしく。
2. 西国では、倭国に出陣していた物部一族本隊が無傷で帰国したことで
東進論が勢いづき、中間の吉備の下道津父子に手を出している。しかし、
大和からは三野氏に茨田大娘を嫁がし、その前には笠氏に朝嬬媛が嫁いでおり、
この大和派と、反大和派の対立が目に見えている。難波から加古川までの52km
は、交易商人、水軍にとっては目と鼻の先で、戦となれば都の弱さが致命傷。
樟葉の宮や、二階堂では守れないので遷都する気持ちだ。大和盆地の中で、
以上の観点から「遷都の候補地」を
手白香媛だけでなく、男大迹王、
さらには兄君、弟君についても宮造りを行うことを考えるように、であった。
・ ・・
::::4つの遷宮の候補地:::::
1
. 耳成山の西方1里、畝傍山の北北西にあり、曽我川と葛城川の囲まれた
「曲川」と言う土地で、「水利による防御に優れ、大和盆地のアクセスがよい」
2
. 天香久山の西で、履中天皇の宮であった磐余(いわれ)のさらに奥地の
「池の内」という土地で、進入路は1本のみで、その奥は三方が連山の
守りやすい要害の地
3
. 甘橿の丘の西斜面で、耳成山、畝傍山の二山で前面を防衛し、多くの
大塚に囲まれ、砦に造り直させる。蘇我氏の屋形で囲めば守れる
4
. 平群谷の中央上庄(かみのしょう)で、旧平群氏の本拠地。生駒山地、
平群山地に囲まれた狭地で、北を枚方軍団、南を物部の軍団が抑止。
数日後の決定
:遷宮先は 第2案
を採用し、「 磐余玉穂宮
」とする、となった。
男大迹王は最初、防御上は第1案が攻守にわたり優れているとみたが、
王妃が万一大和盆地にまで敵が攻め込めばどこに宮があろうと同じであり、
むしろ吉野に逃げるのが一番であると言い、池の内は吉野に通じる街道筋である。
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また、大兄の王子の宮には第一案を、弟君の宮には第3案を当てるとした。
但し、民への負担はかけず、二階堂を解体、その部材、家具、調度を遷して、
三宮を建てるように。
「磐余玉穂宮」や家宰の役宅も平屋の簡素なものとする。
工事の設計・施工は、漢一族の地方分散を完遂した
山木の息子が棟梁として行った。
★ ★ ★・・ 水軍を造れ! 男大迹王の命令
蘇我高麗に突然、男大迹王から勅令が降りた。王家直属で水軍を造れという。
物部水軍がいるが、倭国と戦いになれば分家として倭国の水軍に加わるかも
しれない。
倭国は水軍戦を新羅、百済と経験しており、
吉備は児島水軍、塩飽水軍を持っていおり、
大和は角賀、秦、三国の交易船ばかりで、物部、大伴のは川舟程度であり、
これらとはとても戦えない。
男大迹王は、蘇我高麗が隼人梟師とも親しく、その隼人族ならば、
三国衆にも負けない外洋にも強い大型船を造る技術を持っていることを
見抜いているのである。
★・★
王家の所領の250郷に王家が神宮を造営する旨を伝達し、
隼人が設計した部材を各郷1隻の造船に見合う部材に振り替えて供出させ
隼人の邑で造船する極秘計画である。
王家は旧宮の部材で新宮を造り、新宮の部材と偽って
内密に新船を造船する作戦である。
さらに、男大迹王は計算する。
兵船を造船しても、水軍は水兵を必要とし、1郷当たりの人口千人のうち
成年男子250人として、うち10人を徴兵すれば2500人が集まる計算になる。
郷としては労働力が不足するから、不本意ではあるが拉致もやむを得ないという。
坂東の兵を集めて 蝦夷地を襲い
、2500人を拉致し、農奴として各郷に分け与える。
その数だけ兵を募ればいい。
拉致というと聞こえは悪いなら「説得」、「誘惑」でもいい。
舵取り、漕ぎ手は集めなくても本職の隼人に頼む。
随分と荒っぽい計画であるが、王家の極秘命令なので、王妃もご存じかを確認した。
★ ★ ★
八丁漕の帆船は熊野、志摩、白子、遠江、伊豆白浜、安房白浜、鹿島、香取に集められ、
王家の所領から徴兵された兵が、棒、弓、刀術、漕船術を磨き、湊同士の実戦訓練で
水軍らしく育っていた。
・・
・八丁櫓ぎ船の展示
・八丁漕ぎ船の船団
・八丁櫓ぎ船の帆かけ
・八丁櫓ぎ船の帆走
★
蘇我高麗は、内密でこれだけの大仕事をするに際して、
息子の稲目に、その腹心二名を伴い吉備国の探索するよう、
帰国したら指揮を代わって執るように命じた。
また、道中では「男大迹王」に探索に行く旨だけ伝えよ、と送り出した。
・・・
本宮、二の宮、三の宮も完成し、蘇我氏の役宅、諸豪族の別宅も完成するにつれて、
「 蘇我氏の王家乗っ取り
」などの噂が蔓延するようになった。
・・・
男大迹王、王妃の言うがままにしているのだが、蘇我氏への風当たりが日増しに
強くなる。
そんななかで、蘇我高麗は病に伏した。
王、王妃はすべてを知らんぷりし、
蘇我高麗が日蝕の闇に隠したかのようで、
その責任は一身に背負わされたのである。
・
あの「日輪の災い(日蝕)」は自分にも襲ってきたかのように思われた。
・
ついに、稲目にも会えずに、この世を去ったのである。
★
(呆けの写経は続く)
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