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Feb 25, 2018
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​昨日の井上ひさしさん、
本宮ひろ志さんの
お話の続きです。

WIKIPEDIAや「市の文学データベース」
などによる
話を並べてみる。

<井上 ひさし さん>​
日本の小説家、 劇作家、放送作家で文化功労者、
日本藝術院会員であり、
日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、

井上ひさしさんは山形県生まれが1934.11.17
~鎌倉市逝去2010.4.9の
生涯のうち市川市に縁が深い(市川市文化振興財団理事長2004年7月 -)。
上智大学外国語学部フランス語科卒。
浅草フランス座文芸部兼進行係などを経て、
1964~1969年NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」
1969年戯曲「日本人のへそ」などを手がける。
1972年「手鎖心中」で直木賞受賞、
1981年「吉里吉里人」で日本SF大賞、
1982年読売文学賞小説賞を受賞。
1999年、菊池寛賞受賞。



市川市との関係

昭和42年10月、国分町に転入。
昭和50年、北国分町に新居を構え、昭和62年に世田谷区に転出するまでの
約20年間を市川で過ごす。
鎌倉市での逝去まで、市川市文化振興財団理事長(2004年7月~)を勤めている。

​以下、市川市と関係がある作品:​

著作権法の範囲内で市川言及箇所を一部引用

ああ幕があがる


こまつ座との共著。第二章「あねさま日記」(斉藤美穂/著)の部分。

p35-37 “夕方、遅れ気味の報告を先生に。
先生は市川の自宅で入道雲を見たそうだ。
浅草橋と市川はつながっているのだ。・・・”

空き缶ユ ートピア

1984(昭和59)年4月、集英社文庫。 小説。

 作品の舞台として設定された場所が「北国分アパート概念図」・・・
「今日は真間山見物だそうですよ」・・・「市・西部公民館」・・・
「国立病院・職員通用口」など

浅草キヨシ伝 『井上ひさし全芝居』

雑誌掲載なし。単行本未収録。
1994(平成6)年5月、新潮社。
「井上ひさし全芝居 その二」に所収。
戯曲。1977年10月に東京・紀伊国屋ホール、11月に読売ホールで初演。
市川という地名の明記はないが、「8.荷風先生とストリップ」
「13.カツ丼」等の章にて永井荷風が頻繁に登場する。

作品解説p612 “浅草という視点からとらえ直された作者の近代日本論であり、
同時に高村光太郎、永井荷風、壺井繁治、高見順、川端康成らの文章、
発言をたどることで浮かびあがる作者の日本知識人論でもある。・・・”

兄おとうと

2003(平成15)年、「新潮」8月号に初出。 2003(平成15)年10月、
新潮社。 戯曲。

p31 二 恩賜の銀時計 “十一年後の大正九年(1920)十月初旬、
秋晴れの日曜日、午後おそくの江戸川東岸の料理旅館「川源」の
二階座敷(奥に廊下)。隅に革製の旅行鞄とバイオリンのケース。”
p32 “作造「・・・帰国したのは七年前ですから、だいぶ昔のことになりますが、
その三年間で、もっとも印象に深かったのは・・・
(大きく見回して)市川キリスト教会青年会のみなさん、
ここからが本日の講演の眼目でありますが・・・もっとも印象に深かったのは、
ヨーロッパ各地で、人びとが目覚め始めて

ある魔男狩について 『演劇ノート』

1978(昭和53)年2月、「花子さん公演パンフレット」に初出。
1997(平成9)年7月、白水社。「演劇ノート」に所収。 エッセイ。
真間山周辺について書かれている。

p99 “いま住んでいるところに低くて小さな山がある。
古代には貝塚だったそうであるが、いまは雑木と雑草におおわれている。
山裾をひとめぐりすると約三百米ぐらいか、
ぶらぶら歩きにはうってつけと思われたので、
引越してきた当座はよくこの山へ歩きに出かけて行った。
標高三十一米の(と数字がこまかいのは、地図にそう載っているからだ)
この山を道が一本東西に貫いていたが、・・・・”

ある八重子物語

1992(平成4)年3月、集英社。 戯曲。

p153-154 “徳蔵「間もなく姉は市川真間の、
庭に梅の咲く一軒家に引っ越しました。」”・・・(中略)・・・
“徳蔵「はい。市川真間に移ってからは日毎に元気をなくし、
二年後に、この世の人ではなくなりました。」”

一葉の世界 『樋口一葉に聞く』

1984(昭和59)年4月、「季刊the座」創刊号 1995(平成7)年12月、
文芸春秋。「樋口一葉に聞く」に第Ⅰ章として所収。

p19 “昨年の十一月二十三日、すなわち一葉女史の命日の夜、
わたしの近くにある下総国分寺の墓場へ出かけ、
小砂利に覆われた小道のほどよいところに立って、・・・”
p34 おわりに “わたしは馬頭の鬼の胸毛らしきものを数本、
手に握ったまま、下総国分寺の墓地で気を失っていた。・・・”

一叩一推人答えず 『風景はなみだにゆすれ』

1974(昭和49)年11月、雑誌「国文学」に初出。
1979(昭和54)年4月、中央公論社。
エッセイ集2「風景はなみだにゆすれ」に所収。 エッセイ。

p136 “わたしの住んでいるところはこの鴻ノ台である。
総寧寺へも里見公園へもわたしは何十回となく訪れている。
なにしろこっちの散歩のコースのなかに入っているのだから、
強いといえば強い。
漱石が訪れたころといまとでは総寧寺も里見公園もここがこうちがう、
あそこがこう同じだ、としたり顔して書き連ねることもできるが、
それはよそう。”

因縁の糸 『本の枕草紙』

1978(昭和53)年6月より1981(昭和56)年7月、
「週刊文春」に毎月連載。
1982(昭和57)年11月、文芸春秋。
「本の枕草紙」に所収。 エッセイ。

p68 “売れるかどうかはとにかくとして数冊の小説本やエッセイ集が
発行されるでしょうし、人の善い出版者がいて、ひょっとしたら
全集とまでは行かなくても選集か作品集を出してくれるかもしれません。
家人はその印税でなんとか食いつなげるのではないか。
印税がどうもあてにできないようなら、江戸川を越せば小岩の飲食街、
そこのキャバレーに勤める手もある。・・・(中略)・・・
さいわいこの市川には大学が多いのです。なんとかなるでしょう。”

自惚れ 『にっぽん博物誌』

1981(昭和56)年1月30日号、「週刊朝日」に初出。
1983(昭和58)年3月、朝日新聞社。
「にっぽん博物誌」に所収。 エッセイ。

p22 “さらに、知事閣下は僕と同じように市川市にお住いである。
新聞の第一面トップを飾ることのできる大立物と同じ市内に住んでいるなんて、
もうこれは信じられないほどの仕合せである。・・・”

オーストラリア通信

1976(昭和51)年7月2日号、8月6日号、8月20日号、8月27号、
「週刊朝日」に連載。
1979(昭和54)年5月、中央公論社。

エッセイ集3「ジャックの正体」に所収。 エッセイ。

「日本語喪失」p184 “さらに「東京」を「トウキョウ」、
「横浜」を「ヨコハーマ」、「市川」を「イチカーワ」と、
日本の固有名詞を外国人のようなアクセントで言っている。・・・”



家庭口論

1973(昭和48)年1月から1974(昭和49)年2月号、
「婦人公論」に初出。
1974(昭和49)年2月、中央公論社。

1976(昭和51)年3月、中公文庫。 作者43歳の作。

「ジェット機と鈍行列車」p154 
“たとえば渋谷の放送局に行く用事が出来たとする。
するとわたしは机上に原稿用紙をひろげこう大書する。
「現在の居住地である市川から渋谷へ行くには、
中央線で行くべきか、はたまた山手線で行くべきか」・・・”
(「ジェット機と鈍行列車」より)
“ただ、たったひとつのわたしの発病は社会にささやかな寄与をした。
わたしの住んでいるところは市川駅から徒歩で二十分ほどの丘の上にある。
一帯はかつて砲兵隊の練習場だったそうだ。
現在は敷地二十数坪数百万の小住宅地から始まって、敷地

「針千本と筆一本」 “ただ、たったひとつのわたしの発病は
社会にささやかな寄与をした。
わたしの住んでいるところは市川駅から徒歩で二十分ほどの丘の上にある。
一帯はかつて砲兵隊の練習場だったそうだ。
現在は敷地二十数坪数百万の小住宅地から始まって、
敷地二百坪数千万のかなり結構な住宅に至る数百軒の建売住宅が、
森と畑との間に点在する新開地である。”

続・家庭口論

1975(昭和50)年5月、中央公論社。1976(昭和51)年3月、中公文庫。
作者43歳の作。

「猪鹿蝶とフルハウス」p11 “日記を読み返してみると、
1970年は、渋谷から市川まで五度も歩いている。
たいてい夜の九時に渋谷を発って、江戸川を渡るのが夜明けの四時か五時、
家に辿りつくのが、新聞配達少年が家に新聞を配るのと同じころ。・・・”


「さよならとグッドバイ」p195 “・・・
考えをまとめるという大義名分を押し立てて散策に出る。
近くには下総国分寺がある。八犬伝ゆかりの里見公園がある。
矢切の渡しの近くに野菊の墓がある。
矢切の渡しから江戸川を渡れば柴又の帝釈天である。・・・”


「ツリーと門松」p28 
“「あなた!近くの下総国分寺で初詣の客に除夜の鐘を撞かせてくれるんですって。
行ってみましょうよ!」”

「マイクと鉛筆」p133 “途中の国分寺にこの間出た痴漢らしい人が
また居たみたいと彼女が言うので、棒を持って走り出す、
国分寺には誰もいず、空しく戻ればラーメンが煮えすぎてのびている。・・・”

「映画監督と医者老人」p114 “彼とつきあっていると、たしかに退屈はしない。
満員電車の中、新聞も読めず雑誌をひろげることも出来ず、吊り広告にも見飽きて、
さあ、退屈だ、どうやって市川までこの退屈を凌ごうかしらん、
なんて思案しはじめると、きっと左足の指がむずむずし、・・・”

「植木と空手形」p53 “わたしたちはこの三年後に小岩からひとつ先の
市川市に建売を買った。
己が持家を得てから次第に例の仮の宿意識は薄れてきているようだが・・・”

喜劇役者たち

1977(昭和52)年1月から5月号、1980(昭和55)年2・3月号、
「小説現代」に初出。
1980(昭和55)年6月、講談社。1983(昭和58)年10月、講談社文庫。

連作短編集。

「いわゆる亭主屋事件について」p154
 “「しかし入場料が千円というのは安いですね。
市川や船橋では三千円もとっていますよ。」
「東京都は千葉県とちがって取締りがきびしい。・・・」”

「九八とゲーブル」p87 “名刺には関場病院医師何某とあった。
関場病院といえば市川市にある精神病院だが。・・・”
p53 “支配人のこの問いにふたりは一瞬困ったような顔をした。
が、すぐ、「市川の国府台のほうでごそごそやってました」背広のほうが答えた。
「市川の国府台か。あのへんにストリップ小屋があったかしらん」・・・”

希望の制度 『遅れたものが勝ちになる』

1981(昭和56)年7月、「太陽」に初出。
1989(平成元)年4月、中央公論社。
エッセイ集6「遅れたものが勝ちになる」に所収。 エッセイ。

p22 “日常生活にもなぞなぞ遊びがぎっしりと詰まっている。
ごく単純なものでは東京の地下鉄、地下鉄を利用して市川から池袋へ
行くとしてどこでどう乗り換えるのが正しいか。
僕は地下鉄路線図を前にして、十分間はたっぷり考え込む。”

きらめく星座

1985(昭和60)年10月、「すばる」に初出。
1985(昭和60)年9月、集英社。
戯曲。副題として「昭和オデオン堂物語」。
市川憲兵分隊の権藤伍長、陸軍野戦重砲隊の小笠原砲兵などが主役として出場。

p174 “源次郎「自分は明日八日朝、再入院することになりました。
入院先は、さうだ、権藤さんがおいでの市川憲兵分隊とは近いんだ。
市川国府台陸軍病院ですから。」”
p177 “権藤「みなさんのゐない家に張り込んでも仕方がない!・・・
さうなると小笠原正一砲兵一等兵はいつたいどこに現はれるのか。
長崎か。満洲か。市川か。市川に現はれてくれれば好都合だが。」”
p21-22 “権藤「(胸のポケットから四つに畳んだ書類を取り出して渡しながら)
私服勤務中の東京憲兵司令部市川憲兵分隊の権藤伍長である。
それが分隊長発行の公務証だ。ここは自分が調査中の家なのだ。
引き取つてくれんか。」”・・・(中略)・・・ “権藤「みさをさん、
でしたな
。自分が事情を説明しませう。市川国府台野戦重砲隊第三旅団砲兵、
小笠原正一一等兵は演習中に脱走した。
演習中の脱走は「敵前逃亡」とみなされる。
これは陸軍刑法ではきはめて重大な犯罪です。」”
p46 “正一「おれだけぢやない。
雷が三尺そばに落ちても顔色ひとつ変へないやうな頑強な砲兵でも
三人に一人は神経症にかかつてゐるぐらゐなんだ。
市川国府台の砲兵旅団のすぐ隣に陸軍病院がたつてるけど、
そこは神経症の専門病院なんです。
それぐらゐ野戦砲の音は兵隊の心をバラバラにしてしまふものなんです。」”

吉里吉里人

1981(昭和56)年8月、新潮社。 作者48歳の作。
作品中には市川という地名がかなり出てくる。

p11 “「鴻の台の穴熊」(出版社の会議室にカンヅメになったときに
かぎりましなものを書く市川市在住のある小説家の不思議)”
p180 “これはいっぱいかつがれたか、と例の編集者を逆恨みしながら
東京の東郊江戸川べりのわが家へ戻ってくると、
おどろくべきことに玄関が叩きこわされていた。・・・”
p198 “電車が市川に着くと「学科試験に受かりさえすればなあ」と
嘆いていた若者が立ちあがった。・・・”
p200 “若者の家は下総国分寺に近い畑地の中にあった。
代々百姓をしてきたのだが、若者とその兄は間もなく
その辺が宅地用造成地になるだろうと見越して、
休日に畑の土をいじるだけにしているようだった。”
p335 “「暇があったら市川へも訪ねて来たまえ」「暇なんかないと思うよ」”
p385 “暇をみて市川市立図書館より借り出すべし”
p405 “市川市立図書館の女司書は、古橋がこれまでにただの一度も
本を元の所へきちんと戻したことがないので(ここは開架式だ)軽蔑している。・・・”

戯作者銘々伝

1979(昭和54)年9月、中央公論社。 小説。

「平秩東作」p75 “さて、その善兵衛に当時四歳の男の子がいましてね、
この子は母親と行徳村へ帰った。が、こいつ、しつこい野郎でねえ。
なんとかして親父の仇をというので、同じときに島流しにあった親を持つ
忘れ形見たちと語らって・・・。”

決定版までの二十年-『十一ぴきのネコ』
『死ぬのがこわくなくなる薬』


1990(平成2)年4月、新潮社『決定版十一ぴきのネコ』 1993(平成5)年12月、
中央公論社。
エッセイ集8「死ぬのがこわくなくなる薬」に所収。
1997(平成9)年7月、白水社「演劇ノート」にも所収。 自作解説、エッセイ。

中公版エッセイ集p174 “二十年前、この戯曲を書いていた時分、
ぼくは活字へ重心を移しながらも、生計は放送の仕事で立てていた。
市川市郊外の下総国分寺裏の建売住宅(値段は一千八百万円!)に住み、
朝は、十時に目をさました。・・・”

高校野球大会初日観戦記

1976(昭和51)年8月20日号、「週刊朝日」に初出。
1979(昭和54)年5月、中央公論社。エッセイ集3「ジャックの正体」に所収。

エッセイ。

p99 “じつは高校数年、千葉県に住んでもよかったわいなどと
内心では思っているのである。
なにしろ、一昨年も昨年も、縦1.05メートル、横1.51メートル、
重さ八キロ、周囲の房の数五百本、制作費四十八万円の深紅の大旗は
江戸川を渡っているのだ。そればかりか、千葉駅まで出かけて行き、
駅頭の歓迎会を覗きもした。・・・”

巷談辞典

1974(昭和49)年12月10日から1975(昭和50)年4月18日、
「夕刊フジ」に連載。 1981(昭和56)年3月、文芸春秋。 エッセイ集。

「危機一髪」p6 “それからが大変だった。三人組はわたしを市川駅まで
追いかけてきた。そればかりではない。・・・(中略)・・・
とにかくぐずぐずしていては四対一、袋叩きになるのは目に見えている。
市川駅に電車が着いたとき、わたしは彼等にこう言った。
「わたしは市川市の郊外でささやかにではありますが空手道場をやって
おるものです。・・・」”
「奇々怪々」p76 “・・・バスに乗って市川と松戸の間を終点から終点
まで二往復もし、運転士が「次は終点の松戸駅(あるいは市川駅)」と、
告げるたびに、・・・”
「九寸五分」p110 “次になるべく歩くことにしよう。毎日一回は、
市川市から松戸へ、松戸市から東京都へ、そして東京都から市川市へ、
一都二市を股にかけて歩きまわろう(と申しましても、拙寓は市川市の北の端、
三分歩けば松戸市で、・・・)”
「通勤電車」p63 “ところで、小説を書きはじめたころ、通勤電車に好んで
乗っていたことがある。
車内には中間小説誌の広告がぶらさがっているが、
自分の写真の載っている広告の下に立つようにして、
市川から新宿まで行ったりするのである。”
「表札泥棒」p53 “・・・受験が終るまで、表札をお借りいたします。
志望校は千葉大学医学部と慶応です。どうか、わたくしの合格を、
下総国分寺に祈ってください。」”
「夫婦円満」p95 “「昨日まで待っても、向うから切符が届きませんので、
わたしが昨夜、市川駅で買い求めておきました」という。”
「郵便番号」p97 “日本語の住所の表記法は、どなたもご存知のように、
「大」から「小」へと場所を限定して行く。
たとえば、わたしの住所は「千葉県市川市北国分一-三」であるが、・・・”

鴻の台だより 『わが蒸発始末記』

「鴻の台だより1」は、1975(昭和50)年7月号から12月号、
「面白半分」に掲載。「鴻の台だより2」は、
1979(昭和54)年7月号から10月号、「面白半分」に掲載。
2009(平成21)年3月、中公文庫エッセイ選集「わが蒸発始末記」に所収。


小林一茶

1979(昭和54)年12月、雑誌「海」に初出。 1980(昭和55)年、中央公論社。
戯曲。

 “こちら立花の源七さんというお人だが、行徳からの乗合船で乗り合せた俳諧師が
自分と同じに水天宮で下船し、・・・(中略)・・・それならこれから途中で
迎えうって、どっと市川真間まで繰り出そうではないか、ということに決まって
こうやってとびだして来たところです。・・・”

コメの話

1992(平成4)年2月、新潮文庫。 米に関するエッセイ。

「一粒のコメから地球を見れば」p91 “それから千葉県の市川市にも
昭和三十年代には1300ヘクタールぐらいの田んぼがあったんですね。
ところが20年ぐらいの間に、田んぼが四分の一に減ってしまった。
四分の三が宅地になったわけです。あそこに真間川という川があります。
桜の堤防で有名な川ですが、
これも台風が来るたびに氾濫して、洪水ををおこす
。以前は田んぼがあって、降った水を引き受けてくれていた。・・・
(中略)・・・そこで、市川市は、大きな人工貯水池をつくる計画をたてましたが、
その用地買収だけで120億円もかかりまし
「続・コメの話」p265-266 “市川市の真間川もよく氾濫を起こした。
とくに昭和41年、43年、61年には大洪水になった。
急激な宅地化で水田が一気に潰されたのが原因である。・・・”

ごろタク 『井上ひさし笑劇全集』

1976(昭和51)年3月、講談社文庫「井上ひさし笑劇全集」上巻に所収。
戯曲掌編。

p136 “乗客「(おずおずと)運転手さん、市川まで行っていただけません
でしょうか。」
運転手「市川?」
乗客「お願いします。」
運転手「行ってもいいけどよお!この時間に市川へ行くとよお、
帰りは空で戻んなくちゃなんねえからな。」・・・”
p141 “女客「感じのいい運転手さん!」
運転手「おそれいります。じゃ八王子へ参りましょう。」
乗客「おい!市川はどうなるんだよ!」
運転手「八王子へいってから、市川へまわりますよ。」
乗客「おい!市川と八王子じゃ正反対だぞ!」”

コンチキ・バンバン 『さまざまな自画像』

1971(昭和46)年4月24日から5月29日、「朝日新聞」に初出。
1979(昭和54)年6月、中央公論社。エッセイ集4「さまざまな自画像」に所収。

エッセイ。

p45 “そのころの私は、放送の仕事が忙しく、帰るのはいつも夜中の二時か三時、
そこでどうしても、都心から市川市までタクシーを利用することになるのだが、
あるとき、二晩続けて、血も凍るような恐ろしい車に乗る破目になってしまった
のである。”

さそりたち


1975(昭和50)年5月、8月、11月、1976(昭和51)年2月、
1978(昭和53)年8月、「オール読物」に初出。
1979(昭和54)年3月、文芸春秋。連載五編にプロローグとエピローグを
書き下ろしで加筆。
松戸、市川、小岩を舞台として描かれたユーモア連作。
作品中には市川駅周辺や国府台付近の様子が描かれている。

「プロローグ」p6-7 “掛値なしにいいところだぜ。
うちの店から西に向って歩くと、例の野菊の墓がある。
そこからさらに西へ行けば矢切の渡しだ。
日曜日には向岸の柴又帝釈天へ渡し船が出る。
南は里見公園だ。園内すべて古戦場でね・・・(中略)・・・
東は下総国分寺に国分尼寺がある。
さらに東へ進めば、真間の手児奈だ。
四月八日の花祭の鄙びた賑やかさ、これもなかなかいいぞ。
手児奈堂の横には北原白秋の旧居があるが、
そうだ、この市川ってとこは文人の旧居の多いところでな、
永井荷風だろ、幸田露伴だろ、北原白秋だろ、水上勉だろ、五木

自家製文章読本

1981(昭和51)年2月から7月号、「波」に連載。
1984(昭和59)年4月、新潮社。1987(昭和62)年4月、新潮文庫。 文章論。

「透明文章の怪」p62 “山下清の作文や放浪日記は、
彼自身にとっては実用文の一種であった。
『裸の大将放浪記』(ノーベル書房)の監修者の式場俊三はそのへんの事情を、
≪清の手記もまた、すべて保護者である八幡学園の先生に読んでもらうための
ものであった。
作文は課題であり、追想日記は就寝前の夜業として書かされた。・・・≫”
「冒頭と結尾」p137 “たとえば校歌作詞家としての折口信夫がそうであった。
折口信夫は二十三枚の校歌をつくったが、
半数以上の十四が同じパターンを持っている。・・・(中略)・・・
千葉県市川市立八幡小学校校歌(昭和27年11月3日制定)は
ほれぼれするような歌詞だが、パターンはいつもの朝昼夜である。”

私家版日本語文法

1981(昭和56)年3月、新潮社。1984(昭和59)年9月、新潮文庫。
日本語に関するエッセイ集。

「区切り符号への不義理」p127 “わたしは市川市民であるが、
たとえば数日前の朝刊に次のような文章を刷った紙がはさまってきた。・・・
(市川市民憲章の本文)・・・”

十二人の手紙

1978(昭和53)年6月、中央公論社。
手紙や書類で構成された不思議な連作短編集。

「赤い手」p47 “生れたところ 千葉県市川市北方町六-一 
船山産婦人科病院
   住民登録住所 千葉県 市川市北方町六-八 みどり荘3号 ・・・”
「隣からの声」p121 “とりいそぎ連絡申しあげます。
わたしは市川市の関場病院に勤務する精神科医師ですが、
昨夜、あなたのおくさんの水戸博子さんが関場病院に入院されました。”

清張文学魅力のすべて 『風景はなみだにゆすれ』

1973(昭和48)年11月、『松本清張の世界』
(「文芸春秋」臨時増刊)に初出。 1979(昭和54)年4月、中央公論社。
エッセイ集2「風景はなみだにゆすれ」に所収。 エッセイ。

p172 “・・・たとえば、いつも通い慣れている駅、
ぼくの場合は市川から通っているんですけれども、
いつも降りている側の反対側に、ある日なんの気なしに降りると、
同じ町なのにまるで違っていて、あれ、と思うようなことがありますね。・・・”

帯勲車夫 『合牢者』

1974(昭和49)年11月、「オール読物」に初出。 1975(昭和50)年3月、
文芸春秋。「合牢者」に所収。 短編。

p143 “あわれ妾どもの心底お察し下され、
チト御保養がてら東京へお遊びにお出で下され候わば、
妾どもの嬉しさは一方ならず、あるほどの限りお慰め申し上げて、
月は嵐山のみならず東都八景はむろんのこと、池上晩鐘、芝浦晴嵐、
羽根田落雁、玉川秋月、行徳帰帆、飛鳥山慕雪、吾嬬社夜雨、
小金井橋夕照などの江戸近郊八景までも残らずご案内申し、・・・”

たそがれやくざブルース

1975(昭和50)年8月、「小説現代」に初出。 1991(平成3)年6月、講談社文庫。 小説。

文庫版 「養鶏牧場の決闘」p220 “だが、小説と考えずに、
これをある事件に関する報告として読むと、なかなかおもしろい。
航空便がアメリカ南部の都市からわたしの住む市川市へ届くのに
四日必要であるとすれば、…”

手鎖心中

1972(昭和47)年10月、文芸春秋。 長編小説。
第67回直木賞を受賞。市川ではないが本屋のネーミングが「真間屋」。

p46 “この七曲りの中ほどに真間屋という本屋があるが、
絵草紙類だけでは立ち行かぬと見え、店の片隅には、
三、四十種の江戸千代紙や、その他、硯に筆、紙の筆箱、一閑張りの小物入、
三段重ねの小さな紙ひきだし、凧に豆帳面などが並べてある。”

東京セブンローズ

1982(昭和57)年4月刊行の「別冊文藝春秋」159号から、
1997(平成9年)4月の「別冊文藝春秋」219号まで中断をふくみ連載。
1999(平成11)年3月、文藝春秋。大幅に加筆訂正。 長篇小説。

p182 “「四日前と現在の市川市の結核患者の數を較べてみなさい。
ぞっとしますよ。何しろ二倍近くもふえてゐる。
原因の半分ぐらゐは名前だけの配給制度にある。と私は睨んでゐますがね。・・・」”
p186 “上野公園では市川醫師會の先生方が落花生と握飯を待ってゐる。
自分が遅れればその分だけ、落花生や握飯を貰ひ損ねる戰災者の數が殖える。
急がなければならない。背後の荷臺に積まれてゐるのは、
いはば帝都を去る戰災者への御餞別である。
市川、松戸兩市の市民からのはなむけである。愚圖々々してはいられない。
それに下矢切へ出るこの陸前濱街道は知らない道ではない。
・・・(中略)・・・ただし、下矢切から國府臺を経て市川橋東詰に至る間の
幅廣の一本道は、注意を要する。道の右手、江戸川側に騎砲大隊の兵営がある。
川畔に臨む里見

とくとく歌仙

1989(平成元)年、「文学界」新年特別号に「菊のやどの巻」初出。
1991(平成3)年11月、文芸春秋。 丸谷才一、大岡信、高橋治と歌仙
(連歌・俳諧の形式の一つで、長句と短句を交互に36句続けたもの)を綴ったもの。

p58 “「葛飾は肥桶舟さへ歌枕」”

ドン松五郎の生活

1975(昭和50)年1月、新潮社。 作者42歳の作。

 “なにしろ丘の下を流れる江戸川をひとつ越せば東京だ。
この丘陵は住宅地として評価されはじめた。”
 “わしの生まれるよりも前、
この丘陵地帯は陸軍砲兵部隊の演習地だったそうだ。
が、戦争が終ってからは、犬の年月にして八年間、
人間の年月でいえば一年間、荒野のまま放置されていた”

中村岩五郎 『井上ひさし全芝居』

1992(平成4)年10月、「すばる」に初出。
1994(平成6)年10月、新潮社。

「井上ひさし全芝居 その五」に所収。 戯曲。
1992年9月3日~13日まで、東京・紀伊国屋ホールで初演。

p399 “もとより、出は市川のお惣菜屋、
中学校にやつてきた歌舞伎教室を観て、
おれの未来はこれで決まつたと勝手に思ひ込み、
担任の先生の、
「同じ市川でも、市川家なら出世の見込みもあるだらうが、
市川市といふだけぢや先行きは暗いぞ」といふ忠告も
上の空のどこ吹く風、・・・・”
p404 「・・・その母親、現在、市川市の養護ホームに
御厄介になつてをりますが、
同室のおばあさんたちについてうつかり、
「うちの子は歌舞伎の役者」と自慢したのが悪かった。
みんなから「中村岩五郎なんて聞いたこと
p404 “「・・・その母親、現在、市川市の養護ホームに
御厄介になつてをりますが、
同室のおばあさんたちについてうつかり、
「うちの子は歌舞伎の役者」と自慢したのが悪かった。
みんなから「中村岩五郎なんて聞いたこともない」と
言はれ、・・・」”
p406 “「・・・劇場がはねたら三木書店組を近くの
ホテルのロビーに待たせておくの、
市川養護ホーム組を有楽町駅まで送るの、
駅で朝日の夕刊を買ふの、・・・」”

涙から明日へ 『さまざまな自画像』

1971(昭和46)年10月29日号、
「朝日ジャーナル」に初出。
1979(昭和54)年6月、中央公論社。
エッセイ集4「さまざまな自画像」に所収。 エッセイ。

p133 “「堺正章のような」彼は、いま、
東京郊外の新興都市の小さな百貨店のフロア主任をしている。
・・・(中略)・・・
「国分町の林様、二階まで至急お越しくださいませ」
これは暗号で、「警備員さん、二階で万引が発生したわよ。
すぐ来て」という意味だ。”

偽原始人

1975(昭和50)~1976(昭和51)年、「朝日新聞」に連載。
1976(昭和51)年、朝日新聞社。 作者42歳の作。
文中の国分台貝塚の名称は、作者の創作。

 “体操のつぎは、近くの下総国分寺や真間山をかけ足で
ひとまわりしてくるのが、日の出学習塾の「夏季特別学集会」
のきまりだということを、ぼくは知ってたんだ。”
 “林のあるところは国分台貝塚という丘だ。
丘の直径は二百十三メートル、周囲は九百六十七メートル。
丘のいちばん高いところが海抜八十三メートル、
畑は海抜五十メートル、つまり、畑に立って眺めると、
国分台貝塚は三十三メートルの高さの丘ということなる。
これもぼくの調べた数字じゃない。
丘の入口に、「ちかんに注意しましょう!国分台小PTA」
と赤ペンキで書いた立札がたっているけど、
そのとなりに「国分台貝塚について」という立札もあって、
それに書いてあることを写しただけだ。”

ニホン語日記

1989(平成元)年4月20日号から1990(平成2)年9月27日号、
および1992(平成4)年1月16日号から7月9日号、
「週刊文春」に隔週掲載。 1993(平成5)年6月、文芸春秋。

日本語に関するエッセイ集。

「このごろの愛読書」p160-161 
“・・・つまり和洋女子大附属国府台女子中のが悪いヒッカケを
狙ったものだとすれば、こっちのは出来の悪いメンタルテストだ。”

「マニュアル敬語」p9 “『月刊いちかわ』という市川市のタウン誌
があって、毎号、掲載される天気予報カレンダーがおもしろい。
市内でラーメン屋をやっておいでの杉田さんが独特の方法で
何十日も先の天候を占うのであるが、・・・”

日本亭主図鑑

1975(昭和50)年7月、新潮社。 作者42歳の作。

 “わたしは千葉は九十九里浜の魚婆でございます。
この『日本亭主図鑑』のなかにも六回ほど姿をあらわしておりますので、
おぼえてくださっている読者もおいでになろうかと存じますが、
朝、銚子の魚市場で仕入れた魚を背負籠に入れて、
午前中は千葉市内のお得意様を行商して歩きます。
売れ残りがあるときは市川や小岩あたりまで足をのばします。・・・”

人間合格

1990(平成2)年7月、「すばる」に初出。 1990(平成2)年3月、集英社。
戯曲。

p235 “おやじ「ま、劇団経営でいろいろあったんじゃないのかね。
それに人気商売だしさ。
とにかく彼女は、山田定一を市川の病院に入れて、
自分は近くの小岩でダンサーをやって、面倒をみているらしいよ。」”

馬喰八十八伝

1980(昭和55)年1月11日から10月24日号、「週刊朝日」に初出。
1986(昭和61)年4月、朝日新聞社。
江戸時代の初め頃、下総国に馬産地として知られた桜七牧、馬喰の若者が主人公。
中山法華経寺、下総国分寺、市川宿などが舞台として登場する。

p103-104 “(駒太夫のことだ、小吉を大将にして追手をかけてくるにちがいない。
よし、それなら正反対の方角の真西、下総中山の法華経寺へ行くことにしよう。
おっかさまも中山の法華経寺なきっと納得してくれるだろう)下総中山の法華経寺は、
日蓮上人様が法難を避けるためにしばしば引き籠ったという由緒のあるである。
「成田様が八十八ヶ所目、成田様から香取、鹿島へ回って、
それから西へ逆戻り中山法華経寺に詣る。
中山法華経寺から市川真間の手古奈堂、そして下総国分寺。
江戸川の矢切の渡しを渡れば葛飾柴又帝釈天。帝釈様を拝んで草
p109 “そのお金で施療院をお建てになるのだそうですよ。
下総国分尼寺は、下総国分寺から西へ五町ばかり離れたところにあるのですけれど、
国分寺と国分尼寺との間の雑木林がすでに切り拓かれておりました。・・・”
p126 “さて桜川を平底舟でくだった金兵衛は櫂も櫓もない舟まかせ、
気がつくと江戸前の海へ出ていた。そして潮に流されて浦安へ着いた。そこで舟を捨て、
馬の皮を担いで市川宿に入ったのが前日の夕景。・・・”

箱根強羅ホテル

2005(平成17)年7月、「すばる」に初出。 2006(平成18)年2月、集英社。 戯曲。

p200 “智恵子「(止めて)荷物ほどくのもたいへん、火を起こすのもたいへん。
そう、これ、加藤さんからのはがき。
いま配達になったばかり。(日付を見て)市川郵便局で四日前の受付け。」”

花子さん 『国語事件殺人辞典』

1978(昭和53)年8月、「すばる」に初出。
1982(昭和57)年10月、新潮社「国語事件殺人辞典」に所収。 戯曲。
五月舎第二十回公演作品。
1978(昭和53)年2月4日から24日まで21日間23回、紀伊国屋ホールで上演された。

新潮社単行本p150 “わたしの主治医、市川国府台の精神病院の院長いわく。”
新潮社単行本p158 
“「というのは、去年一年、市川国府台の関場病院に入院していましたので、
計らずもその余裕ができたからなのですが・・・。」
「関場病院といえば精神病院ではないか。」”
新潮社単行本p171 “「戦争末期、市川国府台の高射砲部隊にいたころ、
こいつ、ちょっとした事故にあいましてね、
弾丸をつめてB29めがけてズドンと打ったつもりが、
弾丸の野郎、無精をきめこみやがって飛びださねえ、砲身のなかで破裂しやがった。」”
新潮社単行本p175 “「嘘だと思うなら市川の国立国府台病院で資料を調べてみな。
こないだの戦さであそこの病院に、そのころは陸軍病院だったがね、
とにかくあそこの病院にゃ延べ一万四千五十四名の精神障害者が入院してるんだ。
そのうちの三人がこのおれたちよ。」・・・(中略)・・・「おれたちは
『太平洋戦争中における市川国府台陸軍病院小史』ってパンフレット作りを
一生の仕事にしている。・・・」”

花よりタンゴ

1986(昭和61)年10月、集英社。 戯曲。副題として「銀座ラッキーダンスホール物語」

p139 
p29 “藤子 一昨年、市川から引き取られてきたの。梅子と同じ年齢。
金太郎 (はっと思い当って小指を立てて)御前の別宅さまの?はあ…。
御前をお車にお乗せして市川へうかがうたびにお小遣いを頂戴したものでしたが。
よく気のつくいい方でございました。それで別宅さまはお元気にしてらっしゃいますか。
桃子 江戸川べりを父と散歩しているところをグラマンに襲われたの。
そのときの機銃掃射で父も…。”

春休み

1985(昭和60)年4月、「IN・POCKET」に所出。 1987(昭和62)年6月、講談社。
「ナイン」に所収。 短編。

p154 “今のところは市川へ出るにしても松戸に出るにしても不便でございますがね、
間もなくこの近くに新線が敷かれることになっておりまして、
しかもその新線は都営地下鉄につながります。
そうなりますと、銀座まで三十五分か四十分で出られるんじゃないでしょうか。
空気はよし、都心は近し、このへんは穴場でございます。”(「春休み」より)

ひさしとわたし(ロジャー・パルバース/著、上杉隼人/訳)

2003(平成15)年2月、「國文学」に初出。 ロジャー・パルバースによるエッセイ。

 “ぼくは一九七五年の年末も市川の井上家に泊めてもらったが、
その日、ひさしさんは、NHKの「行く年来る年」の取材を受けた。
・・・(中略)・・・
日本に戻ったひさしさんは、その問題の半年間も、前よりもっと寛大になって、
ぼくとぼくの前の妻を市川の自宅に迎え入れてくれた。
ぼくはほんとうに井上家の最高の居候だった。・・・(中略)・・・
一九八二年の初夏に日本に渡った。
今度もひさしさんと好子さんは、ぼくを市川の自宅にやさしく迎えてくれた。・・・”

百年戦争

1994(平成6)年5月、講談社文庫より上下巻で刊行。

文庫版下巻p192 “「・・・いろんな中学の野球部から入部の勧誘がありましょう。
そこであなたは市川市内の中学校へ進みます」
「どうして市川市内の中学校なんだろ」
「理由はふたつあります。ひとつ、習志野高校へ進学するため。
ふたつ、あなたのおとうさんの弟さんが市川市内で精肉店をやっているので、
そこへの寄宿が可能なためですな」・・・”

不忠臣蔵

1980(昭和55)年5月から1984(昭和59)年12月号、「すばる」に初出。
1985(昭和60)年12月、集英社。 長編小説。

「松本新五左衛門」p358  “八右衛門新田一本柳の太兵衛の末ッ子で太吉という若者が
下総国分寺市川の名主さんのところへ聟入りしました。・・・”
「鈴木田重八」p204 “次善の策として、江戸の周辺を逃げ回り、
お二人を引きずり回すことに決めました。
川越、関宿、佐原、船橋、松戸、市川、逃げ回りながらも江戸へ近づいて行き、
極月十二日に市川に入る。十二日夜、市川に、寺坂吉右衛門がやってくる手筈になっていた。
そのとき討入りの日時が判明する。
しかし関宿で腿の骨を折ったとき、もう自分は脱盟者になるしかないと思いました。・・・”
p358 “八右衛門新田一本柳の太兵衛の末ッ子で太吉という若者が下総国分寺市川の名主さんの
ところへ聟入りしました。

ブラウン監獄の四季

1977(昭和52)年 月、講談社。1979(昭和54)年7月、講談社文庫。 エッセイ集。
テレビの放送作家をしていた頃を綴ったエッセイ集。

「監獄入りを果すまで」p7 “また、テレビ局の放送塔の林立する都心は、
ぼくの住む市川からは西にあたり、したがって昼寝や仮寝するときでも
決して西方浄土に足を向けて横になって・・・”
「巷談俗説による日本放送協会論 その一」p199
 “ぼくの住む市川から東京へ国電で出かけるのに、
この秋からは片道150円はかかることになりそうである。往復300円である。・・・”

それからのブンとフン 『井上ひさし全芝居』

1974(昭和49)年11月、「新劇」に初出。 1976(昭和51)年11月、新潮社「雨」に所収。
1983(昭和58)年9月、「雨」を新潮文庫より刊行。1994(平成6)年5月、新潮社。
「井上ひさし全芝居 その二」に所収。 戯曲。
1975年1月16日~2月5日まで、テアトル・エコー第46回公演として初演。

全芝居版p164 6.さらにふたつのテレビ番組 イ.こんにちは、フン先生 
“東京郊外下総国分寺裏のフンの家。フンが例の木箱机に獅噛みつき、
折込み広告利用の原稿用紙に向ってなにか書きまくっている。・・・”

ブンとフン

1972(昭和47)年9月、朝日ソノラマ。 長編。

第六章「ブンと悪魔」p133 
“「わかっています。で、フン先生というひとの家の所番地は?」
「市川市のはずれに下総の国分寺>という有名なお寺がある。
そのお寺の裏側の畑の中の一軒家だ。」・・・”
第六章「ブンと悪魔」p151  “ここは市川、国分寺。
フン先生は、寝るところであった。”

本の運命

1996(平成8)年6月号から9月号、「本の話」に初出。
1997(平成9)年4月、文芸春秋。
エッセイ。

p101 “新しい本って、つい袋に入れたまま部屋に置いて、
そのままツンドクになる恐れがあるでしょう。
ですから、本を持って、その日の気分で金町とか柴又とか
-当時、僕は市川に住んでましたから-、近くの町へ行く。・・・
”(第四章「無謀な二つの誓い」の巻、「本の新婚旅行」より)

民謡 『さまざまな自画像』

1971(昭和46)年2月18日号、「朝日ジャーナル」に初出。
1979(昭和54)年6月、中央公論社。エッセイ集4「さまざまな自画像」に所収。
エッセイ。

p156 “五年前、ぼくの家のすぐ近くに吃音治療学校が建てられることになり、
敷地の隅にまず小さな飯場が出来あがったが、そこに住込んだ作業員の中に
ひとり山形県人がいた。
・・・(中略)・・・「おっちゃん、中山まで馬券を買いに行っとくれ」などと、
便利に使われているようだった。”

野球盲導犬チビの告白

1978(昭和53)年7月7日号から1980(昭和55)年1月25日号の「週刊新潮」
に連載。 1986(昭和63)年11月、実業之日本社。 長篇小説。

p19 “どこへ行こうというあてもない。
が、とにかく市川の国分寺をめざして
千葉街道をてくてくと西に歩きつづけた。
市川の下総国分寺、ここにはあのドン松五郎先生のお墓がある。
先生の墓前にぬかずいて未来のことを思案しようと思ったわけです。”

p54 “「六年前になりますか、江戸川のグラウンドで見つけたんですよ。
そのとき彼は江戸川区の松本中学の四番でした。
それが河川敷のグラウンドから対岸の市川側まで三本も打ち込んだ・・・」
「江戸川ってそんなに川幅が狭いの」・・・(中略)・・・「ばかばかしい。
野球のボールがそんなに飛ぶもんか。
それとも市川辺にゃ重力のない地帯でもあるのかね」”

闇に咲く花

1987(昭和62)年12月、講談社。 戯曲。副題として「愛敬稲荷神社物語」
p149 “民子「市川橋の検問所に午後四時。」”
p155 “公麿「今日、銚子や勝浦方面から腐れ鰯を積んで市川橋検問所を
通ろうとした貨物自動車の数・・・。」”
​p84-85 “藤子「千葉街道の検問はいつも市川橋の小岩側袂だったわね。」”
・・・(中略)・・・“藤子「(四人に)やはり市川橋だって。」”

夢の泪

2004(平成16)年7月、新潮社。 戯曲。「東京裁判」をモチーフにした
三部作の第二部。
​p54 “正「・・・市川の実家に預けておいた四歳の長男を連れて、
大学イモを持って行ったのですが、夫は大好物の大学イモには見向きもせず、
長男を膝に乗せたまま、何度も何度もこの唄を歌っておりました。・・・」”

世は「平等」ばやり- 私の”ぶんか論”「悪党と幽霊」
1982(昭和57)年9月、学習研究社『明治の古典』第一巻
1989(平成元)年5月、中央公論社。エッセイ集7「悪党と幽霊」に所収。 エッセイ。
p30 “ちかごろは芝居とはまるで関係のなさそうな警官でさえ芝居をする。
この五月中旬、市川市の住宅街で女児監禁事件が起こった。
三十四歳の塗装工が、たまたますれちがった若い母親から赤ン坊を奪い取り、
近くの新聞販売店の三階に立てこもってしまった。・・・”

四千万歩の男​
1990(平成2)年1~5月、講談社。全五巻。 伊能忠敬の生涯を描く長編小説。
小名木川の説明部分。
四巻p98 “小名木川は徳川家康が行徳(千葉県市川市)の塩の搬入路として、
慶長年間に開削した運河である。”

四千万歩の男忠敬の生き方​
1979(昭和54)年、「くりま」 2000(平成12)年12月、講談社。
「地図ゲーム」p104 “なお、そのころぼくは市川市郊外の小さな建売住宅に
住んでいたが、思えばそれも井原さんの破格の台本料があればこそだった。・・・”

​わがマイホーム遍歴 『さまざまな自画像』​
1973(昭和48)年3月9日、「毎日新聞」に初出。
1979(昭和54)年6月、中央公論社。エッセイ集4「さまざまな自画像」に所収。
エッセイ。
p77 “いまの家に移り住んだのが八年前。市川の駅からバスで十分くらい。
バスを降りるころには、客はいつも二、三人しか残っていないさびしさだった。
当時は、どうしてこんな地の果てに住まなければならないのか、
なんて思ったものだけど、最近は、バスの終点もずっと先まで伸びて、・・・”

​わが町市川 『わが蒸発始末記』​
1980(昭和55)年1月22日、「東京新聞」に初出。
2009(平成21)年3月、中公文庫・エッセイ選集「わが蒸発始末記」に所収。





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Last updated  Feb 25, 2018 01:00:31 PM
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