Tsunami氏寄稿、SCRAP記事、写経・感想など 326
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知人の、山崎 博司氏が素晴らしいHPを開示している。 以前に、ご紹介したかもしれないが「土佐の高知の歴史や風情」、 「土佐石州流茶道」などに興味を持たれた方は、ぜひとも、 「山崎 博司氏(やまさき ひろし)」のホームページ(公表) ・・・・・・「こころの友」・・・・・・・をご覧あれ !!! HP制作者の生まれは、県都・高知市と四万十市(旧中村市)の中間 にある、「高南台地」の四万十町(旧窪川町)であり、その生家 付近の佇まいもWEBの写真でみられる。 人となり (FACEBOOK) も詳しく記載されている。 高知県庁・中小企業大学校長時代の活躍ぶりや、謡や茶道の師範 としての見識にも触れることが出来よう。 また、土佐の偉人達、長曽我部一族や、特に坂本龍馬についての 思い入れも参考になろう。 小生の「めいてい君の日記」のような、呆けのリハビリを続けるための 「作業」とは違い、日本の伝統の神髄に、直接、触れることができる。 山崎 博司氏のホ-ムページは下記である。 「こころの友」 (宗教的ではない禅のこころ?) http://www5.ocn.ne.jp/~hiro1212/ 8部門からなる (1)花めぐり (2)茶道 (3)能楽 (4)人間学 (5)私の龍馬伝 (6)短歌 (7)こころの月 (8)プロフィール 彼のホームページへの感想・質問などがあれば直接にメールする方法 も書かれてあるはずである。 (上記のアドレスは彼のHPから転写したが、旨くなくて再度書き直した。)
Jan 7, 2012
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朝日新聞(本年4月10日付)によると、大谷鉱山(平泉の黄金文化の源泉。1905年試掘、最盛期には戦前年間約1トンの金産出。76年に資源枯渇で閉山)の廃鉱から、東日本大震災による土砂崩れと津波で、有害物質のヒ素を含む大量の土砂が住宅地に流出、一部住民が避難していることが、9日わかった。市の調べで、付近の井戸水や沢から環境基準の最大24倍のヒ素が検出された。その後のトレースはないものの今回の被害が、地震・津波・原発放射能だけでなく、過去の「負の遺産」が現実ものとなったことを意味する。「田中正造」が足尾銅山の鉱毒を訴えて、政府は、結局、鉱毒被害の村を移転、広大な渡良瀬川遊水池を造ったことが思い出される。正造氏は公害が社会に認知されない時代に政府、企業に、その鉱毒被害の大きさを訴えた豪傑である。同じように、高知にも、工場放水隧道の生コン投げ込み事件で、企業の公害対策に警鐘を鳴らした豪傑、「山崎 圭(次)」氏がいる。風光明媚な浦戸湾を製紙業の廃水が汚染するのを見かねて、ついに自分たちで、工場廃水を止め、鏡川に一日でも「きれいな川面」を取り戻すことで、県の公害企業の誘致政策を批判したのである。この直後から、国による公害規制が法制化され、本格的な水質、環境、騒音などの規制がやっと始まったのである。彼がやった企業活動妨害行為それだけをとりあげると違法行為であるが、公害発生という違法行為を国が規制することになる、先鞭を造ってくれた彼の行為そのものは「ジーザス・クライスト」的ではなかろうか。彼の、「星よりのことづて」(土佐出版社)に詳しいが、精密フライス・メーカーの社長であると共に、自然を愛する哲学者(ポールニューマンによく似た好人物)であった。圭次社長には、たくさん勉強させられ、当方も改善したことがいくつかある。金利、担保、融資先、技術について、企業経営者としての厳しい指摘や、哲学的思考には頭が下がったものだ。いまは息子さんの時代になっておりわからないが、当時は、「君とは話しはいくらでもするが、節操・節度のない政府のお金は利用しないよ。」、というのが口癖であった。「エピソード」がある。小生の会社には、「広報部」があり、「起業家でありながら公害を訴える哲学者」にぜひ、面会したいというので、高知新阪急ホテルでの「インタビュー」を、知人として設営したことがある。順調な仕上がりであったが、青天霹靂、彼が参議院議員選挙に立候補(みどりの党・党首)したものだから、選挙前・候補者の「インタビュー記事」は公選法上も取り下げざるをえなかったのである。もちろん、潔癖な彼はまともな選挙運動もせず、当選から見放されたのだが。かれの魂は、奇しくも「ヘールボップ彗星」とともに、宇宙に去ったが、日本の公害対策に対して警鐘を鳴らした豪傑として、記憶に残ろう。彼の死に際して、おこがましくも一番高い弔電を東京から打った、「あなたが、彗星に乗って、ふたたび地球を訪れるときには負の遺産が処理されているのを見せたいものだ。」と。また、脱線したが、「負の遺産」は、岐阜県神岡鉱山(「ニュートリノ発見」を目指した廃鉱の再利用・「スーパー・カミオカンデ」の方が有名かも知れないが)による富山県神通川のイタイイタイ病、熊本県の「チッソ水俣病」など、枚挙にいとまがない。静岡県の「田子の浦」だって、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」 山部赤人(万葉集)のような「優雅さ」とは別に、紙パルプのヘドロで海底は、ぶ厚い絨毯となっていて、津波が押し寄せたら、沿岸はヘドロで厚く覆われるだろう。このように言っても、高度成長の華やかさは、これらの企業が支えてくれたお陰であり、いまのわれわれの幸せな生活がそこにあることだけは確かである。しかし、「正の資産」に目を向けるだけでなく、「負の遺産」が裏腹に眠っていることを忘れてはならない。この際だからこそ、費用はかかっても、すこしづつ「負の遺産」を「劣後処理」ではなく、「優先処理」すべきではないか、とおもう。「そんな金はどこにあるか、言ってみろ!」と言われる向きもあろう。「増税」や、「国債発行」は「経済学者的意見」としては「正常」だが、「現実の政策」としては「デフレ・超円高」の今には向かない。幸いの「超円高環境」であり、「日銀の通貨発行権限」などを拡大解釈して、「紙幣を増発行」することができないか。増発目的は、東北大震災復興、負の遺産の整理、希少資源の備蓄等のための傾斜的資金供給である。いましばらくなら、リクイディティ・トラップの状態で「インフレ」も起こらないし、金利引き下げではないのでアメリカなども文句は言わないだろう。これはおおっぴらには言えないことだが。経済学の正統派からは、非難されようが、「毒を食らわない」では早急な復興はできない。今回の首相交代で、「NOと言える日本人」野田さんになったので(名前からすでに「NO!だ」し、泥鰌のように何でも食らう、生存力も強かだ)、過去の理論にこだわらず、財務省と日銀などを全面協力させることで、「思い切った傾斜金融・財政政策を断行」してもらいたいものである。日曜日の夜は、NHKで疲れる。琉球王国・孫寧温や大河ドラマ「江」、「同伊」の国を思う熱意を見て、女性のトップには「平和と愛」求め、歴史を変えていくような素晴らしい力があるのか、と感動し、疲れてフラフラの、大呆けの独り言である。
Sep 4, 2011
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ずいぶん昔のことである。四万十川の下流には鰻の養殖場があった。また、その付近で聞くと、四万十川で捕った鰻を大きな魚籠にいれて飼っている漁師がいるという。天然ものを、おうちに伺って、分けてもらった。自宅に帰って料理すると、たしかに美味しかった。しかし、昔田舎にいたとき、自分で捕まえた鰻に比べてはるかに大きかった。四万十川にも小振りなのと、大振りなのと、いろいろいるらしい。「養殖」の鰻でも「日本国産」である。そして「四万十川産」である。もともと、養殖というと、稚魚を捕まえて集団で育てる方法を言い、天然物は成魚が自然環境で捕獲された状態を言う。養殖鰻でも出荷前の半年か1年を四万十川で自然状態に泳がしてやれば美味しくなるのではないかと思う。養殖場で、まとめて餌と免疫剤で量産される鰻よりも、少しでも四万十川で泥を吐いて、美味しい水につかり、青苔を食べた鰻の方が美味しいに決まっている。このように、清流に浸かった「半天然物」を、付加価値を付けて売れないかと思う。 台湾で育ち日本に移入された台湾鰻は、日本での出荷前の生存期間のウエイトで原産地証明が決まるので、ほとんど、台湾産となる。つまり、出荷までの間にどこで鰻が一番長く暮らしたか、「だけ」によるのである。 しかし、これらにも、一定の期間を四万十川に住まわせることで、美味しくなる可能性がある。産地偽装というが、鰻そのものは、天然物はまず捕獲不可能な現状だ。産地といっても「養殖場」の場所を示すに過ぎない。田んぼの養殖場もあるし、鉄筋コンクリート池の養殖場だってある。餌だって色々あるのだ。 うまくないものを見せかけるのはすぐにバレルはずだ。もうすこし、「産地」ではなく、味の実態を基準として農水省は示すべきではないか。
Aug 17, 2010
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愛犬を連れての里山の散策が少年時代の毎日だった。 南国の海もある四万十町だが、小生の田舎は海抜200メートルと高い、高南台地(長曽我部時代に開墾した仁井田郷)にあり、冬は寒く雪がちらちらと降る。 道端に、野菜の「りゅうきゅう(雨の日に傘になる)」に似ているが、葉っぱは小さく、変わった形の野菜がある。 畑でもない所だが植えたような形跡がある。 根っこを掘ってみると芋のような物がある。 持って帰るとそれはこんにゃく芋であり、自然のものではなく、元に戻してこいと怒られた。 いたどり、椎の実などは採っても怒られないが、これは栽培物で個人の所有物である。 また、母の実家(昔の地主)の持ち山によく行ったが、野ウサギがぴょんぴょんと跳ねていた。 もし月が出ていたら、月に浮かぶような高さである。 大きな古木の上に椎茸がいっぱい生えていたので採って持ち帰った。 母方の祖母にそれを報告すると、にこにこ笑っていたが、どうも祖母が菌糸を植えさせていたのが出た「だけ」らしい。 見よう見まねで、木を曲げて、木の実を餌に見立てたワナなどを造ってみたが何も引っかかっていなかった。 知らぬ事とはいえ、随分腕白で回りを困らせていたようだ。 山に入って、高級紙原料として高く売れる樹皮「三椏」(みつまた)か、「楮」(こうぞ)を採取したことがある(たぶんミツマタ)。 樹皮が非常に厚く、木を折れば直ぐ矧がせるので、見つければ丸めてすぐに持ち帰れる。 あとには、白く軽い裸の木だけが残ることになる。 紅・赤珊瑚が枯れて白珊瑚になったような「罪悪感」を感じた。 一万円札・紙幣の原料だそうだ。 いまは、その山の反対側には高速道路が工事中である。
Aug 15, 2010
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昔の田舎の、子供の遊びというと、小生のようなものでも色々あったと思う。 正月は普通に、たこ揚げ、羽板ツキ、カルタなど。 普段は、広い庭でのビー玉遊び、面子(メンコ)、独楽回し、喧嘩ごま、缶蹴り、かくれんぼ、シャボン玉、竹とんぼ、竹馬など。 古い自転車から外したリールの輪(スポークは取り外してある)回し(棒で押す)。 親父が、造ってくれた木製の車に乗ること。 竹で造った水鉄砲。杉の実鉄砲。 竹とスポークなどで造った水中銃。 竹藪から切り出した小振りの釣り竿。 釣りの餌はいろいろあったが、屋根瓦に蜂が巣作りした蜂のさなぎで「はや」等がよく釣れたものだ。 山で見つけたY字型の木にゴムを付けたパチンコで雀など追っかけたこと。 大屋根に登って捕まえた雀の子や、親類から貰った、めじろ、しじゅうがら、ごじゅうがらを飼育したこと。 ウサギや山羊も飼っていた時期がある。 自転車に乗った紙芝居のおじさんが午後に廻ってきて、あめ玉付きで紙芝居を熱演してくれたこと。 当時は、物資が不足していたのか、やけ釘などを拾って持っていくと小銭をくれたものだ。 家の引き出しの中に、刀の柄のような、綺麗な物があったので持っていくともっとないかと言われてちょっと怖くなったのを覚えている。 今のような、ゲーム機などは無くとも充分遊べた時代であった。
Aug 14, 2010
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物資不足の時代には(さほど多くない需要でも供給が少ない時代には)、商品に特段の格差が認められない限り、販売力のある大手醸造業者に商品が集中して行くことになる。 少なくとも、戦前・戦後直後は、酒造業者間には全国的に有名な銘柄を持つ大手醸造業者に、地方の中小醸造業者からの「桶売り」が流入していた。 いわゆる、ウイスキーではブレンドすると味が良くなると言うが、そのような意味もあったと思う。 その後、米が自由に手に入る時代になり、人手不足、個性の時代になると、大手企業は自分で生産することが可能となり、中小企業は製造面の制約から特異なブランドを確立した企業のみが生き残りを賭けることになる。 中小企業では逆に桶売りから桶買いで生計を繋ぐ者まででているようだ。 販売面でも、コンビニでも小瓶を買える時代になり小口の需要に変化している。 酒造は生産期間が冬場の季節に依存するため、一年中の労働者を抱える訳にはいかない。 難しい経営を余儀なくされる。 酒造製造と逆のサイクルの季節商品で企業合同はないものか? 小生は、脳梗塞で酒を禁止されても別になにも不自由は感じない。 もともと、酒とお酢は同種の物なのだ。 お酢でも良いのかも知れない。 アラブ諸国ではお酒は飲まなくても生きていけるのだから。
Aug 13, 2010
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真暗いなか、釣り竿を自転車に縛り付けて自宅にもどる。と、あわただしく、出迎えた父親に頭をぶん殴られたのを思い出す。小学生の時代、大昔のことである。学校が終わると、餌のミミズなどを堀だして、自転車に乗って出かけた。大きな川の堰の手前から、藪を分け入り、開けた所にいいポイントが造ってある。青々と深い川の底が真下にみえる。大人の人が来ないうちに場所取りをする。余りお天気がいいときよりも、雨上がりや、小雨の日の方が水が濁っているせいか、餌にありつけると魚がおもうのか、大物に出くわす。造り酒屋の祖父からもらった酒粕に、こっそり田んぼなどの土を混ぜたソフトボールくらいの団子を、ドボン、ドボンとあちこちの方角に投げ込んでおく。魚を寄せておくのだ。ビニールか新聞紙を広げて、大きな竹の筒に巻いていたテングス(釣り糸)を繰り広げる(当時はリールなどは持っていない)。丸い錘の少し下につけた針に餌のミミズなどを引っかけて、短い竿から勢いよくさっーと錘を遠くに投げる。シュルシュルっと糸が鳴ってドボーンと音がすれば成功だ。ピュッ、ドボンでは餌は針から外れてどこかにいっている。短い竿を、Y字型の木の窪みに立てかけて、糸をたぐり、頃合いの良いテンションで竿元に釣り糸を止めておく。竿の先が少し動いてもすぐに上げてはいけない。ククツ、ククツと大きく引いたときが勝負だ。今日は食いはいいが、大雨の後で川底に溜まった藻くずに逃げ込まれて糸が縺れて切れてしまう。ついつい釣り竿の先を眺めていたら、暗くなってしまった。暗くなると、釣り糸を仕舞うのが大変だ。真っ暗闇になった。時計は持っていないので分からないが、いつもは明るい夕飯前には家にいるのだ。 親父は、当時、校長をしていた。夕刻、帰宅して川の上流から、下流までかなりの範囲を探し回ったそうである、溺れたのではないかと、警察に届けようとしていたら玄関先で見つかったのだ。まさか、家からはるか遠い藪の中の、大人が夜釣りをするスペースでのんびりしていたとは、思いつかなかったらしい。 このころは、四万十川上流の田舎では、鯉、鮒、なまず、うなぎなどの大物がたくさん釣れた。田植えの頃には、小川や田んぼの中まで入ってくるので、小さいのは網でも捕まえた。餌はみみず、どじょう、かいこのさなぎ(酒に浸したもの)や、練り餌玉などであった。また、釣り以外の漁法としては、次の2つの方法の成功率が高かった。前日の夕方にこっそり仕掛け、人が起きないうちに引き上げて来るのだ。1.竹で編んだ筒(うなぎうけ・鰻筌)に餌の「どじょう」や「みみず」をいれる、一方からしかうなぎが入れない(逆に入ったらでられない)仕組み、2.主ロープに枝糸を垂らして針を付け、餌のどじょうの切り身がぶらぶらと川を横切るように配置する、片方に錘石をつけて投げ、手元の端を引き上げやすい石や木に縛っておく仕組み(はえなわ・延縄)などで遊んだものだ。 親父は、四万十川の本流で鮎を囮でよく釣ってきたものだ。囮鮎は値段が高く、鮎は釣るより店で買った方が安いかもしれない。自分は、生きた鮎よりも、藁で縛って干した、燻製のような鮎が香ばしい香りで大好きである。鮎飯も美味しい。また、このころは、おいしいが保存が利かない「やまもも」が食べられた。東京では、両者とも、「赤坂料亭」でしか食べられない超高級品だ。
Jul 30, 2010
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薩摩のシラス台地は水はけが良いため一方では水害をもたらすが、土佐では作れない良質の味の「芋けんぴ」の原料ができる。土佐では、作物としては、「米」は「芋」の遥か上に位置づけられている。酒飲みの国であるが、「米で作った酒」しか飲まない人が多い。 紀貫之の土佐日記で見るように、土佐は、オーストラリアが英国の犯罪者流刑地であったように、西南部は京の政治犯流刑地であった。四万十川市中村(もとは、中村市と言った)はまるで京風・碁盤の目の街並みであり、京風言葉である(京都の国語の先生が土佐には平安時代の言葉と発音が残っていると言って、私に発音させたが、標準語の発音練習をしていたので、ご期待に添えなかった)。また、龍馬伝でみるように、戦国時代は長曽我部元親の本拠であったものの、外様大名の山内一豊(注)がその後を家康から押しつけられた形で支配せざるをえなかったものだから、武士(外来種・山内系)が武士(土着種・長曽我部系・・とはいっても大陸渡来の弥生人で、DNAを辿れば同じだが)を支配する二重構造が生じて、複雑な様相を呈している。広大な太平洋を前にして、「剛健さは」あるものの、へそ曲がりのような意味の「いごっそう」はそうしたいびつな社会構造から生まれた気質と思う。また、京の政治流刑地であったからか、中央へのあこがれは、いまでも人一倍強いようで、東京からの転勤者には「すばらしい、住みやすい土地」と感嘆される。しかし、意外とそれはその他の県民にはそうは映らないと思う。県内では、やはり、各地に封建時代の名残が残っているように感じる。龍馬が「民のための政治体制を模索して」果たせず、その後の板垣退助で代表される自由民権運動の、先端県・土佐でもそうだから他の県も同様かも知れないが。酒でも、「武士が芋から作った酒なぞ飲めるか!」という。 しかし、シラス台地でとれる芋はまったく味が違う、べつものだ。素材を野菜に分類するのでなく、「最高級の果物」に分類すべき味である。随分昔のことである。本社で「趣味の会員」になると、薩摩のおいしい名産を四半期毎に家に送り届けてくれるサービスがあった。一升瓶で数本買ったがとてもおいしかったのが、森伊蔵である。「伊蔵」というと、小生などは地元の「岡田伊蔵」のイメージ(人切り伊蔵)がつよい。また、父が胃ガンに罹り危ないというので、地元に転勤した。支店長が「伊蔵」という珍しい名前で、「伊蔵、伊蔵」と社長達に可愛がられていたころ、薩摩の芋けんぴ分工場の近くに、森伊蔵の醸造所があり、工場見学のついでに幸い立ち寄ることができた。しかし、この果実のような素材を使った焼酎は、またたくまに、市場では手に入りにくい、「幻の酒」となってしまった。一升瓶で楽しく飲めた時代が懐かしい。といっても、脳梗塞で禁酒の命がでているので、お酒自体が幻なのだが。 余談だが、土佐では、龍馬伝の乙女ねえさんのような「男勝りの元気の良い、歯切れの良い若い女性」を「はちきん」という、べつに、「きん」がついているわけではない。また、「皿鉢料理」といって、大皿に食べ物を綺麗に盛りつけるが、土佐は女性上位のところがあり、女性が最初から参加できる酒盛りである。男どもが美人の女性を侍らせ宴会をしているとき、料理を造り、運ぶのは女性だが、それは料亭だけのこと。どっこい、家ではそうはいかないのである。また、土佐では、お酒をうける杯が「天狗、ひょっとこ、おかめ」の形で、いずれも鼻の部分に穴が空いているものを罰?に使う。「はしけん」と言ってまず3本の箸を背中に隠して、利き手の裏側に選んだ本数の箸を隠して「何本」といい、利き手を出す。相手が「・・・・本」と言って、違ったら、罰?として杯を干させる、野球拳に似ている。また、「返杯」といって自分の飲んだ杯を、相手に差し出す風習がある。衛生的にはどうかとおもうが、悪気はない。そのときは、「いや、(当方、下戸でして)どうぞどうぞ」と、自分の手に持ったとっくりの先を、ちょいと、かるく、2度ほど上に上げて、相手に杯を干してもらうように仕草で示し、相手の杯にお酒を注いだ方が無難。手酌では意地汚く、しかし自分が飲みたいものだから、杯を出していると理解してあげればその場はきわめて友好的になる。よくでる、鰹のたたきは、火で軽くあぶることで、おいしさと、病気予防を兼ねている。いずれにしても、おいしいお酒を飲もうという魂胆がみえるのだ。土佐では、一人ぐびぐびやっていると、お客が廻ってきて次々注がれて大変なので、さっとご馳走を食べて、胃の中に油分を塗って、自分からお客回りをして、返杯をさせないように、「どうぞどうぞ」と更に注ぐ姿勢で、移動することに越したことはない。廻っている間は酒は飲まずに済むし、酔っぱらった相手からは、特段の情報が入る絶好の機会を大事にしよう。一升、二升は当たり前の豪傑なら、まさに楽園であるが、下戸には下戸なりの工夫がいるのである。先述の「伊蔵」支店長のすばらしい、社交術から学ばせてもらった。 土佐は、土佐鶴、司牡丹など名酒がある。(注)本題からずれるが、如何に、一豊が土佐を支配するために無茶をしたかの例をあげる。当初、なかなか、知行地の土佐に入ろうとしない夫に、妻・千代は治世をスムーズに進めるべく親睦会を開くことを薦めた。土佐藩内の力持ちを集めた相撲大会である。しかし、それは一豊の仕掛けるワナとなった。裸のままの土着力士を、刀で全員切り捨てたのだ。家康への絶対服従のためとはいえ、夫の変わりように呆れ、怒った千代は一豊の死後さっさと土佐をはなれ、臨済宗・高僧の息子(養子)と京都で終生暮らしたという。
Jul 16, 2010
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四国の山村の小学校。北村寿夫の「笛吹童子」を親父が買ってきて、学校で読んでいると、みんなが面白がるものだから、先生が、休み時間に少しずつ読んでくれて楽しみであった。先生は、もう亡くなったが、小柄ながら、短距離の選手で、奥さんは中学校の先生で、すごい美人だった。男先生があるとき言った。「自然のもつ力のなかで、すごいと思った力を子供が純粋な目で見つける。何に応用したいかを見いだして、科学者が実現する。子供と大人が、将来を先取りする大プロジェクト(今で言うコラボレイション)があります。ドイツの研究者のグループが、きみたちの夢を、君たちが大人になる前にそれを全力で実現してくれるかも知れません。テーマを見つけてきてください。先生がそのテーマをそれぞれ応募します。だれのものでもない提案となりますが、将来科学者となってドイツに行けば科学者が全力でみんなのために取り組んでくれていることがわかるでしょう。」と。めずらしく、宿題がでた。先生は怒るとき、鞭で叩く。しかし、そのあとで、みんなは鞭を持たされ、先生を叩くはめになる。泣き泣き叩くことにならないよう、みんなは先生を怒らさないように静かにしている。わたしのテーマは次のよう。1.「高速で廻っている駒が倒れないのは」2.「ハンマー投げ(鎖で繋いだ丸くて重い球をなげる、現在なら室伏浩二)でぐるぐる回っていると外に引っ張られる力が生じ、放すと外に飛び出す力」3.永久磁石のSとNを近づけるとくっついてはなれない。逆に極同士をくっつけようにもくっつかないすごい力。そして、応用したらいいと思うのは、次のよう。1. どんな場合でも、安定しているので不安定な局面でも姿勢を維持する装置。2. 地球には引力があり、それから、飛び出すのができないが、回転するものが遠心力を持つならそれを利用すれば地球から脱出できるのでは。宇宙円盤もそれで飛んでいるのではないか?3. 磁石の同じ極同士に反発力があるなら、どんな重いもの(重力である)でも運べる装置はできないのか。磁石の同極が反発するのはわかるが、永久磁石の大きさ、形状などはわからない。また、磁石が小さいと反転してくっついてしまう。 20年前のこと、ドイツに行った同窓生が、見学先のある研究所で、日本の山村からの子供の提案が実現されている面白いことを発見したという。あんたではないかと笑われたが、大勢が提案したので、おなじような提案はたくさんあったと思う。おもうに、その発想はドイツの研究者が次に生かしてくれたようだ。1. は姿勢制御装置のオートジャイロ2. は宇宙船の地球脱出まえの旋回から、ワープへの動き3. リニアモーターカー である。真夏の夜の夢である。脳梗塞で子供に戻ったのかもしれない。空飛ぶ円盤(宇宙船)だが、円盤の外にまるいものが沢山ついている。あれは錘のようなもので上下に移動できる。前後にも。それを高速回転させると重力はゼロになる。その回転の力の方向を磁石で一方にワープさせれば、どこにでも行ける乗り物ではないか。回転の力は当然磁石で生まれる。そのような、ECOで便利な乗り物をドイツの科学者さんは開発してくれませんか?タコかクラゲの生物が地球を救ってくれるまえに!
Jul 10, 2010
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明治生まれの圭さんが工業高校の先生で、特許をたくさん取り、教え子達と「ベンチャー企業」を立ち上げた話をもうすこし記したい。内燃機関(エンジン)を利用するというもの。一つは、ガッシリした自転車にエンジンを付けたもので、いわゆる「原付自転車」(今で言うパワーアシスト電動自転車のエンジン版)である。当時は「ブルーバード」(幸せの青い鳥)が商品名。親父が校長時代の通勤バイクに使用し、休日には鮎釣りに連れて行ってもらったものだ。振動が激しく、掴まっているのが大変だったことが思い出される。(余談だが、親父は、「鮎は縄張りを守る習性があり、囮の鮎を近づけると、鮎が体当たりし、囮の鮎に付けた鉤針が鮎にかかる漁法・友釣に限る」という。親父の知人が、「木箱の底にガラスを仕込んだ水中透視器を使い、泳いでいる鮎を、空洞の竹から、3本の鉤針が付いた糸を操り、引っかける漁法・覗き釣り」を嫌ったものだ。)もう一つは、ボートにエンジンを付けるもので、「舶用船外機」である。「浦戸湾を守る会」の会長であり、本当に海を愛した男だけに、動力ボートに乗って嬉しくてたまらないような、写真を見たことがある。しかし、この二つは、売り出しはじめは評判だったが、大手企業が参入し、販路、デザイン力、資金力などでの対応が大変だったのか、それとも、爆発的な購買層の増加で公害をもたらし、「自然との調和」を重んじる社長が自分の方針にそぐわないと判断したのか、他社に譲渡してしまう。日本工作機械メーカーにも名を連ねているのは、フライス加工機である。素人の小生には、工場に行くと、大量の特殊な鋳物の固まりがあるのに驚く。鋳物は長期に契約した、特殊なもので、これが命という。金属の「巣」は論外である。金属(材木はもっとひどいが)は、よく寝かせないと、「歪み」がでる。歪みが出ないと分かったときに、工作機械の本体を支えるベッド部分を削り出すそうだ。ワインを長期寝かせると極上酒となるのに似ている。工作機械の精度が、それから造ったもの(一般機械器具、部品)の精度を決定するのだから、高精度でないといけない。工作機械も、工作機械で造るので、その親工作機械(マザーマシンという)が超高精度の基を決定する。圭さんは、教師として、いかに精度が大切かを教えており、それを具体化した。また、工作機械で造るものは、単品生産のもの、や複数・量産するものがある。単品のものは、おもに工員の高度な技術によるが、後者のものは、同じような工程から自動化が行われる。自動化には、コンピューター制御(以前はパンチカードなどで制御)など、「先端技術」が応用される。当初は、圭さんはコンピューター化のなかでもそれに飛びつこうとはしなかった。小生が「みんな自動化に躍起となっていますが、おたくは遅れていませんか?」というと、なぜか、かすかに笑っていた。その後、工場見学させてもらったとき、できあがった工作機械は、生き物のように、流線型に見えてゴツゴツとしてなく、動きも極めてスムーズであった。コンピューターは最初伺った時には、まだ、動きが幼稚な時代にあった。しかし、その後の急速な技術進歩により、「使用するに足るという水準にまで達した」と圭さんが判断したときに、「機械とコンピューターを結合」させたのだ。「自然との調和、人間と機械の調和」が基本の社長方針から、人間にやさしい機械操作を優先させ、機械は人間が使うもので、機械が人間をつかうものでないことから、機械がだれでも使いこなせるような水準にまできたときに結合させたのだ。工員の高い技術は機械任せだけでは維持できなくなる。工員の高い技術があってこそ、日本の超精密機械技術は生きられる。現在は、優秀な機械が中国など東アジアに輸出され、工場立地が外地に移り、日本の空洞化が叫ばれているが、彼のような人がいたからこそ、なおも日本は高い技術の水準を保ち得ているのではなかろうか。圭さんが亡くなってから、HPをみるとLED関連会社があるようだ。最近のNEWSでは、ECOからみて白熱灯に比較してLED灯がもてはやされている。しかし、LEDはいろんな性質をもっていると、NHKでも他社の新製品を取り上げている。たとえば、超高速の検査機、高栄養の農産物育成器など。圭さんの意志を継いだ経営者ならば、もっと自然とのかかわりを探して欲しい。たとえば、南太平洋の島では、赤い海水の浅瀬に、深海魚が生きている。赤い海水は、光を通しにくいので、深海と同じ環境を創り出す。深海でしか卵を孵化させない鰻などを産卵に導けないものか。水産部門が、圭さんが求めた自然との関わりから、「飛躍する時」を待っているような気がしてならない。脳梗塞を治療中のため、多少ふらふらしてきたので、筆をおく。
Jul 9, 2010
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小生が「山崎圭さん」宅を訪問したときは、美人の奥さんに付き添われ、端正な顔(本人はジョン・ウエインが好きだと言うがポール・ニューマンに似ている)で、上体を30度持ち上げ、鼻眼鏡のままベッドでくつろいでいたが、重要な打合わせがあると高知新阪急ホテルに出かけ、意欲的に取組んでいた。庭の池には、なぜか清流にだけ棲むはずの鮎が群れ、鳥用ネットが揺れていた。彼は工作機械(フライス)メーカーの明治生まれ創業社長である。工業高校の先生が、特許を多数取得し、生徒達が連れ立って創った「ベンチャー企業」であり、社内には高校生仲間の老人ホーム慰問の「軽音楽バンド」があり、団結力は高く「ワークシェアリング」などは自然な行為である。人間と自然の共存を強く求める生き方が基本行動。一つの事業柱:「徹底的に人に優しい仕様の工作機械の生産」に加えて、もう一つの柱:「絶滅危惧種を中心に、魚卵から幼魚まで育てて海を復活させる事業(一部放流と養殖業者への稚魚販売)を選んだ。後者は、土佐市宇佐町の内海に水産事業所があり、魚類の誕生のための環境(命を育む海水、温度、明るさ、水流速度など)、生育環境(えさの選定、食い合いをしない方策など)を研究している。当時は車でのアクセスが大変で、マフラーを壊したことを覚えている。圭さんは、「経営者」であるが、芯は「哲学者」で「先駆的自然保護運動家」であるといった方がわかりやすい。「みどりの党の党首」として国政選挙に立候補したこともある。彼が「有名になった」のは、県が誘致したパルプ工場の廃液・廃パルプが鏡川支流、浦戸湾を汚染して魚類が全滅しかかったことで工場経営者、行政幹部と交渉するも、受け入れないことに業を煮やして、ついに、工場配水管に大量の生コンを投入したため、マンホールから汚水が大量にあふれ出して、水質汚濁の犯罪者をあぶり出したことである。水質汚濁はその後取り締まりの対象となったものの、当時は、事業妨害の方が「犯罪」である時代なので、家族も肝を冷やしたことであろう。事業者でありながら、他の事業者を苦しめることになったが、「自然との調和、住民の利益などを最優先課題として取り込むことができない事業者は事業者の資格はない」、「汚染企業を容認し、税収増加を図るだけの行政者は行政者の資格がない」という、圭さんの叫びはその後の「公害対策問題」をワープさせた。NHKの松平定知アナ(「その時歴史は動いた」担当アナ)など大勢が支援した。圭さんの著「星よりのことづて」から、その一部を引用したい。「正比例の時代に、疑問の余地なく善であった行為が、反比例の時代に入れば悪に転化する。飢えているときに飯をたべる行為は善である。腹がはり、胃という枠を感じはじめて、なおも食べつづける行為は悪である。すさまじき善悪の変転期に会い、人みな規範を失う。例えば、人間中心、人間優先、既に、諸悪の根元となりつつあるのではなかろうか。」圭さんの事業は、そっくりな息子さんが継いでいる。圭さんは、当時、養殖で内海が汚染されるのを防ぐため、外海に通ずる「横波半島を穿つ海の隧道建設」を提唱していたが、国、県、地元の同意はどうなっただろうか。本業は、好不況の波を大きく受け、また、輸出にも左右されるが、今、はやりの中国市場の開拓などは成功しているだろうか。七夕が近づいたが、圭さんが亡くなったころには美しい彗星(ヘール・ボップ彗星)が地球に接近していた。まるで迎えに来たかのように。天国に逝った圭さんが、ふたたび彗星にのって地球を訪れるとき、そこには「美しい地球」があるだろうか。それは後生の人類に託された命題だが、圭さんがすでに「種」だけは蒔いてくれている。(参考)圭さんが当時経営していた企業のHPhttp://www.yamasakigiken.co.jp/company/index.html余談だが、先述の著(小生の手元には、圭さんの「謹呈」の直筆サインがある)には、「美人の条件と距離」などの小誌も鏤められている。「その女(ひと)を美しいと思いました。けれども、彼女の顔を、虫めがねで見たら、毛穴がありました。次に、大分離れてみたら、男か、女かはっきりしませんでした。すると、彼女が美しいためには、「どれだけの距離をおいて、彼女を見るか、ということが、一番大切なことが分かります。・・」
Jul 4, 2010
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龍馬は、勝海舟が軍艦奉行を罷免されたとき、「北海道開発計画」等の選択肢から西郷隆盛を通じた薩摩藩の庇護を選択。亀山社中による商船事業、反目する薩・長の同盟化、海援隊の創設、後藤象二郎との合作「船中八策」から大政奉還へ。しかし倒幕・左幕両派から疎まれ、中岡慎太郎と「奉還後の新政治体制」画策中に暗殺される。親戚の坂本家に養子に入った坂本直寛は、立志学舎で英学を学び、自由民権運動に参画、キリスト教に洗礼、北光社を結成し土佐人等を大勢連れて北海道(「出エジプト記」の啓示。メキシコは政情不安で中止)に移住、開墾活動(聖園農場など)とキリスト教布教に従事、札幌で没。同行者のなかには武市安哉(浦臼町)、沢本楠弥、片岡健吉、前田駒次(北見市)、内田瀞(旭川市)等がいる。暖冬化の現代と異なり、あたたかさに慣れた土佐人には艱難苦難の地であった。土佐にはペギー葉山で有名な「よさこい節」があるが、北海道には、「よさこいそうらん節」があり、なにか相通じるものを感じる。参考 広報旭川市民10月号http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/koho/h21_10/html/tokusyu.htm#3北見市市史編纂ニュース ヌプケシ154号http://www.city.kitami.lg.jp/650-03/154/nupukesi154.htm
Jul 1, 2010
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明日は、「龍馬伝」がある。山内容堂が治める土佐では武士に上士(徳川幕府外様大名・山内家系列)、下士(消滅した長曽我部家の系列)の身分制が敷かれ、下士は見下されていた。かつて、信長が独断専制君主たらんとするのを見かねた、明智光秀を先鋒とする信長追討軍は朝廷からの支持をうけ、長曽我部元親なども蜂起した。豊臣秀吉は血判状に名を連ね、姫路から駆けつけたが、光秀が既に信長を暗殺したことを知るや、光秀に刃を向けた。家康は、堺から命からがら浜松に逃げ帰ったが、この秀吉の裏切りを口実に関ヶ原合戦で正義を唱えることとなる。天海僧正が明智光秀なのか、春日局をなぜ家康が大事にしたか。歴史は、支配者の思惑で編成替えされるために、隠された真実を掘り起こすのは、考古学以上に難しい。いずれにしても、下士である龍馬、弥太郎たちが矛盾だらけの支配層からの圧政には、屈することなく、目の前に開かれた「民のための政治体制」に向かって邁進した(龍馬はB型?)彼らは、幕末の救世主ともいえよう。一部は知人の下記HPを参考とした。http://www5.ocn.ne.jp/~hiro1212/rekisinomado.htm
Jun 26, 2010
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