道楽れきし旅

PR

×

プロフィール

T.Yaokibe

T.Yaokibe

カレンダー

バックナンバー

2026.10
2026.09
2026.08
2026.07
2026.06

カテゴリ

カテゴリ未分類

(3)

歴史観光

(6)

宗教

(0)

歴史と旅

(5)

歴史

(0)

日本史

(6)

歴史研究

(0)

冬枯れ、山背~近江路へ

(0)

歴史の探索

(6)

現代史

(0)

現場日記

(4)

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2022.12.22
XML
カテゴリ: 歴史の探索

​ ​​​​​​ ​​​ ​​​ ​ ​紫香楽へ、「恭仁東北道」がつなぐ​ ​
​
​
​
遷都の道、 見守る 親王陵 ​ ​ ​​ ​​​ ​ ​

​ ​​
茶畑の丘に立つ安積親王陵。横ひだのコートを着たような姿で、紫香楽への「恭仁東北道」を見下ろす
​ =京都府相楽軍相楽郡和束町白栖​ ​ ​
​​
◆ ​​​​​​ ​ 茶​畑に少年皇族の陵墓 ​​ ​​​​​​​   恭仁京への遷都から1年余り後の天平14( 742)年春 、紫香楽に向けた「恭仁東北道」が開通。紫香楽宮の建設が本格化する。伊賀街道を木津川支流の和束(ワツカ)川沿いに左折、北上する現在の府道5号(木津信楽)線が当時のルートだと聞いて、そこから紫香楽へ向かうことに。
​​​​​​
​​
​​ ​ 冬枯れ間近の山あいを縫うように上る、緩い坂道だった。紅葉が盛りの、のどかな山里や、険しい崖が迫る渓谷も。 紫香楽まで 地図で見ると 、 ざっと40㎞。

​​ ほどなく和束川沿いの小盆地に入る。 ​ ​川岸 の 家並の背後に緑の茶畑が連なる一角、丘の上にこんもりとドーム状に盛り上がる森が見える。聖武天皇の皇子、​ 安積(アサカ)親王 ​ の陵墓 である。 地図であらかじめ見当はつけていたが、実に分かりやすい形だ 。
安積が亡くなるのは、 ​ ​​​ ​慌ただしい 遷都の動きのさなかだった 天平16(744)年 。当時の政治状況は、​ 歴史 家や小説家が​ 様々な作品 で描いている。 聖武による遷都の背景として、軽視できない要素と思われる。​
この時点で安積は 聖武のた ​だ一人 の皇子(男子)だった。だがそ の6年前、 異母姉・ 阿倍内親王 (後の孝謙天皇) が前例のない女性皇太子に立てられていた。 聖武に、当面は安積への後継の意思がなかったことが、うかがわれる 。
また天皇家の外戚として実権を得ようとしていた藤原氏にとっても
安積が 全く別の血脈にあり、阿倍の後継 の場合でも 障害以外の何ものでもなかった。

安積は難波宮に向かう途中に天皇と別れ、恭仁京に戻ったところで急死する。享年17。 阿倍の母•光明皇后の甥の​ 藤原仲麻呂 ​が政権掌握の過程にあり、様々な憶測がある。病死説も含め、真相は今も闇の中だ。 ​​
それ以前にも、似たような緊張関係を背景に、さらに深刻な事件があった。
​​​​​​​​​​​​ ◆長屋王の変、冤罪説で罪の意識も? 神亀5(728)年、聖武と光明子の初めての息子で、皇太子とした基(モトイ)王が1歳で病死。翌年、当時の左大臣長屋王がひそかに呪詛(ジュソ)していたとする密告があり、藤原氏の兵が邸宅を包囲して追及。わずか数日で一族とともに自害させた「長屋王の変」(729年)である。​ ​ ​ ​​ ​ ​ ​ ​ ​ ​ ​ ​ ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
​​​​​​
​ 事件は後に冤(エン)罪とされ、今では皇族虐殺事件とされる。 妻•光明子ともに聡明な 聖武夫妻にとって後味の悪い事件。罪の意識にとらわれたとも伝わる。 ​​
​​​​​​​ しかし当時の聖武は、乳児だった息子の死が呪詛によるものと思い込み、長屋王への追及を止めなかったとみられる。 安積はその基王死去の年に、別の母親から生まれていた。
それを 聖武は 光明子とともに、どのように受けとめて いただろうか。 安積の成長とともに、 ​​​二人には嫡男がいないことの 焦りを強めたとも言われる。
​
蘇我氏と藤原氏の外戚関係図 =二重線は天皇(数字は歴代即位順)
◆15歳の即位、父と同じでも見送り​​ 自身の ​ ​​​ 即位 前 にも曲折があった。霊亀1(715) 年、祖母の元明天皇が生前退位した際、聖武は父親の文武天皇のときと同じく、15歳で皇太子となっていた。だが、すぐに天皇となった父と異なり、10年近く即位を見送られる。
皇位を継いだのは、36歳で​独身の伯母、氷高内親王(元正天皇)だった。 氷高は当時、皇太子でないのはもちろん、それまでの女帝のように皇后でもなかった。異例中の異例の即位だったが、ただ一点、両親が天皇(元明)と皇太子(草壁)で、いずれも皇族。母が臣下の藤原氏の出だった聖武に、血統の上で確実に優っていた。
元明天皇
は譲位の際の詔(ミコトノリ)で、「皇太子(聖武)はまだ幼い」としたが、同年齢だった文武のことは語られなかった。 ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ ​​ ​
​​​​​​​​​​​​​ ​​​またもう1つ見逃せないのが文武まで 約150年間、 歴代天皇(用明、崇峻、推古、持統、元明ら)の多くが、母方を蘇我氏の女性で固められていたことだ。
蘇我氏は 、元明退位の 60年前にあった乙巳 (イッシ) の変( 645年→ 大化の改新 ) で滅ぼされたことになっているが、 一部家系の女性たちが皇族に残る。また
"蘇我の娘"である 持統と元明が、天智の娘として 天武らとの間で皇統をつないできていた。 ​​​​​​​​​​​

そこへ、右大臣•藤原不比等の娘•宮子を文武が受け入れてから藤原氏が割り込み続け、蘇我氏との葛藤、確執を様々生むことになる。
​ ​​​​​​ ​​天武天皇の孫で非藤原氏系だった長屋王は、父親の代から蘇我氏系皇族の女性との婚姻によって血統上の地位が向上、皇位への近さで天皇の聖武を超えたと周囲にもみられていた。
藤原氏の娘の宮子を母とする聖武だが、天武からの男系皇族である。だが母と妻がともに周囲とはつながらず、言わば 血脈上の転換点にあったと言える 。
​ 血脈抗争、勝者が世襲体制へ ​
◆二​ 度あった?!「乙巳の変」  ​ ​​​​​​​​​ 長屋王の変はまた、蘇我氏系が​標的となった流血事件としては、乙巳の変と似たような構図だった。持統から元明、元正、吉備内親王(長屋王)と、蘇我氏が女系で続いていたが、藤原氏側が80年以上たった後に再び襲撃し た形で、 ​ 蘇我氏 の勢力 は さすがに壊滅する。
​
この結果、藤原氏が外戚の地位を独占することになり、 後に 摂関家の世襲体制を構築するなど隆盛の時代を迎える。天皇家に次ぐ日本の№2以下も世代を 超えて固定化、世襲化される道を開くことになり、 影響は近現代にも及ぶとされる 。
◆◆  ◆◆ ◆◆
​ ​​​​​​​​​​​​​​事件が起きた長屋王邸は、平城宮朱雀門の南東、筋向いの一等地にあった。今は大型商業施設となっていて、入り口近くに邸宅跡の案内板が建つのみ。かつての発掘調査で出た木簡などから浮かぶ、邸宅の規模や邸内の生活の一端が簡単に紹介されている。
​​
​​ 長屋王一族の悲劇を伝える邸宅跡の案内板。王邸は何も残っていないという​​ =奈良市二条大路南一丁目
◆平城宮の女帝一族展、連続開催  ​​​​​​​ ​​​​​​​​ ​ ​また朱雀門前​​ の「平城宮いざない館」では、ちょうど当時の女帝・元正天皇展(上皇編)が開催されていた。色鮮やかなイラストとともに内親王時代からその生涯を紹介するパネルが年末まで ​​3回に分け 、 計約40枚 ​​ 。​​​​​​​​​​​​​
元正天皇展のパネル。 長屋王邸での宴を描いたひとこま (左) も =平城宮いざない館

​ ​​​ ​​​​​​​​この会場では2020年に元明天皇、21年はその娘で元正の妹の吉備内親王と、平城宮を中心に生きた女性を紹介する企画展が3年連続で開催されてきた。いずれも母方が蘇我系だった人物。元正展では、吉備とその夫•長屋王 を交えた3人 が宴を楽しむ場面でその絆が描かれている。 ​​​​​​​​​​​​​
​   ​ 《 ➁⇚ 》 ​   ➂ /6 ​​​​​ ⇒ ​ ​❹ ​​ ​ ​
《 ①へ戻る 》 ​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ ​​


バトルマンガで歴史が超わかる本 [ 茂木誠 ]


超ビジュアル!世界の歴史大事典 古代から現代まで世界が、動き出す! [ 仲林義浩 ]


るるぶ 地図でよくわかる! 47都道府県の歴史大百科 (こども絵本)


るるぶ マンガとクイズで楽しく学ぶ!日本の歴史 (こども絵本) [ 伊藤賀一 ]








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.01.17 15:50:56
コメント(0) | コメントを書く
[歴史の探索] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: