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れきし旅
二上山 がつなぐ 万葉集の、最多の歌と編纂(さん)で知られる大伴家持。赴任先の越中国
(
富山県
)
二上山麓で詠んだ"越中万葉"の中核展示施設が、山裾に立つ高岡市万葉歴史館だ。近ごろそこに、
400km
も離れた、もう一つ別の二上山にまつわる和歌が、新たに掲げられている。
◆もう一つ別の二上山
二つに分かれた山頂と、なだらかな稜線。外観から「二上山」と名のつく山は、富山を含め国内に10カ所近く数えられる。その一つ、奈良県・葛城山系の二上山麓に飛鳥時代、非業の死を遂げた若い皇子が葬られた。万葉集にその哀悼歌がある。
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬った時、哀傷して作った歌
「うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を弟世(いろせ)とわが見む」
(現世の人である私は明日から二上山を弟と思って見よう。弟がいない現世では 万葉集巻二・165 大伯皇女<おおくのひめみこ> 大津皇子哀傷歌 6首
)
天武天皇が崩御した7世紀終盤。第3皇子の大津皇子が謀叛の疑いをかけられ死罪となり、二上山に埋葬された。24歳だった。2歳年上で、伊勢斎宮を務めていた姉・大伯皇女が哀悼歌を詠んだ。二上山にかかる万葉歌として、よく知られる。
姉弟は幼くして母の大田皇女を亡くし、互いに支え合って成長期を過ごしてきた。一人残される姉にとって、耐え難い悲しみだっただろう。
皇子は文・武、人望に優れ、皇位継承の有力候補だった。「移し葬る」とあり、政争の犠牲とみて悼む声が起きたのか、遺体が罪人扱いの墓地から掘り起こされ、改めて山麓に埋葬されたとみられる。
◆「大伯皇女哀歌」を
創作
高岡市万葉歴史館の歌は、万葉集に残る皇女の6首をもとに、元館長のS氏が姉弟の心情を深く読み込み、創作。「大伯皇女哀歌」として30首を同人誌に投稿した。それが、歴史館玄関ロビーにパネルで展示されている。
「弟人(おとひと)を 移し葬(はぶ)れる二上の 青きを見れば 我(わ)を音(ね)し泣くる」(弟を二上の山へ移し葬った。その二上山の青々とした姿を見るたび、私は声を出して泣いてしまう S元館長)
「(天照)大神に 仕へ奉りて 生き来たる 我にはじめて 湧きし憎しみ」(斎宮として神に仕えてきた私だが、〈弟を死なせた側を〉初めて憎む気持ちが湧いた 同上 大伯皇女哀歌 30首
)
S元館長は「あくまで僕の想像ですが、13歳のころから斎宮となって奉仕してきて、その結果がかけがいのない身内の死罪ですから。無念だったでしょうね」。
二上山麓に立つ高岡市万葉歴史館。
越中万葉の中核展示施設となっている。
入り口の人形は、大伴家持・坂上大嬢像@富山県高岡市
◇ ◇ ◇
山里が紅葉し始めたころ。奈良市で開催中だった正倉院展も予定に加え、万葉歴史館から大和国にある"もう一つの二上山"へと数人で出かけた。
正倉院展では、本物の蘭奢待(らんじゃたい=香木)などメディアでも人気の品が目当てか、大勢ファンが殺到した。30分ごとの予約時間別に並ぶ長蛇の列が会場外にはみ出し、入場前から大混雑だった。
ようやく退出し、レンタカーで国道24号を南下。途中、京奈和自動車道で西へ向かうと、てっぺんが丸く優雅な形の双峰が前方に迫る。国道165号に降り、當麻(たいま)寺近くの小路の緩い坂を登る。奈良市から小一時間。小ぎれいな植込みに皇女の歌碑が立っていた。
◆「二上山」の音読みと訓読み
當麻寺は白鳳時代の伽藍配置や仏像が残る、国内屈指の古刹。参拝前、仁王(東大)門前の店「茶房ふたかみ」に立ち寄り、名物の柿の葉寿司をいただいた。柿の葉の香りと魚の旨みが酢飯にほどよく染み、独特の旨みがあった。
柿の葉ずしをアピールする「茶房ふたかみ」@葛城市當麻
店の名前は、ふたかみと訓読みだが、地元では二上山を「にじょうざん」と音読みする。おかみさんは「店名は子供が通った小学校の読み方から。ずっと昔は山も、ふたかみやま、と読んだと聞きます」。今は地名や駅名などほとんどが音読み。道の駅など比較的新しい施設名は訓読みに戻りつつあるという。