温故知新 0
徐福 0
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守る山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、2万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害した。一方、大谷吉継は伏見城攻防戦など、上方にとどまっていたため、しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったが、8月3日に入って越前敦賀に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こした。しかし、吉継の率いる兵力はおよそ6000人ほどに過ぎなかった。吉継は前田軍に対して、「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落とした」・「西軍が上方を全て制圧した」・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を流したのである。この流言に前田利長は動揺した。さらに吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた中川光重(利長の妹婿)を半ば脅迫して、利長宛に偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせた。その文面は次の通りである。「今度大軍を催サレ、近国ヲ打ナビケ、上方発向有之由聞候。是ニ因リテ、大坂ヨリ大軍、敦賀表ヘ出張ス。大谷刑部、敦賀ヨリ兵船ヲ揃エ、貴殿出軍ノ跡を加州ノ浦々へ乱入セント欲ス。足長ニ出発候テ、海陸前後に敵を受ケタマヒテハ、始終覚束ナク候。能々御思慮有ルベシ」これら一連の吉継の謀略から、利長は自分の留守中に居城の金沢城が吉継に海路から襲われることを恐れた。そして8月8日、利長は軍勢を金沢に戻すことにしたのである。浅井畷の戦いしかし、撤退するためには問題があった。前田利長は加賀南部に攻め入るに当たって、小松城を攻め落とせず、わずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していたのである。このため、撤退途中に丹羽軍が前田軍を追撃する可能性があったのである。利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしたが、やはり2万5000の大軍勢の動きを隠密裏にすることなどは不可能だった。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から出撃した。小松城の周囲には泥沼や深田が広がっている。その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っている。畷とは縄のように細い筋になっている道のことであるが、小松城の東方に浅井畷という畷があった。長重はこの浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せした。8月9日、前田軍が浅井畷を通ったとき、待ち伏せしていた江口正吉ら丹羽軍が攻撃した。畷のために道幅が狭く、大軍としての威力を発揮することができない。このため、前田軍は被害を受けたが、前田軍の武将・長連龍や山崎長徳らの活躍もあって丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退することができたのである。なお、浅井畷古戦場は、1941年に石川県指定史跡となっている。】北陸三ヶ国120万石の太守関ヶ原の戦い後、弟・利政の能登の七尾城22万5000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5千石を支配する日本最大の藩・加賀藩が成立した。利長は、関ヶ原の戦いで敗れて薩摩国へ逃れていた宇喜多秀家の助命を家康に嘆願し、実現したと言われているが、実際に動いたのは母の芳春院であって、利長が助命に動いたことを示す史料は存在しない。利長は前田家領国を守ることを何よりも最優先にして利政・秀家の切り捨てを図り、その結果として120万石の大封を得たのが実像であったとみられている。家臣団の亀裂120万石の大大名になった利長の下には関ヶ原の戦い後も関ヶ原の戦いで所領を失った赤座直保・永原孝治父子や浮田休閑・内藤徳庵らを召し抱え、更に家康の重臣・本多正信の次男の本多政重に3万石を与えて召し抱えた。家臣団の拡大は家康への服従以来問題になっていた家臣同士の対立を深刻にした。尾張以来の家臣を中心とする太田長知(ながとも)のグループ(中川光重・篠原一孝・村井長次・奥村栄明・神尾之直ら)と能登・加賀時代からの家臣を中心とする横山長知(ながちか)のグループ(長連龍・高山長房・富田重政・山崎長徳・青山吉次ら)が対立し、利長は慶長6年(1601年)に19か条からなる定書を制定して喧嘩両成敗・徒党の禁止などを定めて家中の引き締めを図るが、結局は翌慶長7年(1602年)には利長自身が横山長知・山崎長徳に命じて金沢城内で太田長知を暗殺させた。その後、利長は横山長知・篠原一孝・奥村永福(栄明の父)の3人を筆頭家老として藩政を運営させ、利長が異母弟の利常に家督を譲った後は彼らに藩政を委ねさせた。永福の引退後は息子の栄明と本多政重を加えたが、横山は篠原一孝とも対立し、更に先の太田長知暗殺の功労を巡って山崎長徳とも対立する有様であった。慶長16年(1611年)に利長が一時病気で重篤になった際の遺言には特に「横山長知と神尾之直」「横山長知と山崎長徳」「高山長房と村井長次」の不仲は深刻であると述べて和解を求め、横山と山崎は横山の娘・せうを山崎の子・光式に嫁がせることで和解したものの他の和解は進まなかった。そして、慶長19年(1614年)1月に江戸幕府の命令で高山長房・浮田休閑・内藤徳庵らキリシタンの家臣が捕縛されて幕府に引き渡され、2月には横山長知が奥村栄頼(永福の三男で栄明の弟)に讒言されたことを憤慨して一族と共に剃髪致仕を申し入れると利長や本多政重の説得にも関わらず出奔してしまう。
2024年06月04日
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「第1次七尾城の戦い」これに対して能登畠山家中は謙信の介入を嫌い、対決する姿勢を鮮明にした。七尾城内では老臣筆頭の長続連以下兵2000での籠城戦と決定する。続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。さらに続連は謙信の背後を撹乱するために、笠師村や土川村、長浦村などの領民に対して一揆を起こすように扇動したのである。ところが、謙信もかつて一向一揆に悩まされた経験から一揆に関する情報網があり、これらを全て鎮圧した上で七尾城を囲んだ。しかし、七尾城は畠山義総によって築かれた難攻不落さで縄張りも広く、春日山城にも匹敵する堅城だったためさすがの謙信も攻めあぐねていた。そこで七尾城を孤立させるためにその支城群に矛先を転じた。鹿島郡中島町谷内にある熊木城、珠洲市正院町川尻の黒滝城をはじめ、羽咋郡富来町八幡の富来城、羽咋郡富来町の城ヶ根山城、羽咋市柳田町にある粟生七郎の粟生城、鳳至郡柳田村国光にある牧野上総介の米山城などが、あっという間に落城し七尾城は孤立した。しかしそれでも、堅城を頼む七尾城の続連らは降伏しなかった。越年して天正5年(1577)に入り、3月に北条氏政が北関東方面に出兵したため、謙信は本国の仕置を兼ねていったん越後に帰国した。このとき、謙信は熊木城に三宝寺平四郎と斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を、黒滝城に長景連を、穴水城に長沢光国と白小田善兵衛を、甲山城に轡田肥後と平子和泉を、富来城に藍浦長門を、石動山に上条織部と畠山将監をそれぞれ配置した。「畠山軍の反撃」謙信が越後に帰国すると、七尾城にあった畠山軍は即座に反撃を開始した。熊木城は畠山の家臣・甲斐庄親家の謀略で誘いに乗った斉藤帯刀が裏切りを起こし落城、七杉小伝次は自害し、三宝寺平四郎と内藤久弥は討ち死にした。富来城にも畠山の家臣・杉原和泉を総大将とした軍が押し寄せ、藍浦長門は捕らえられて処刑された。また、続連自身も自らの居城であった穴水城を奪還すべく出陣するなど、畠山軍は上杉留守部隊に攻勢をかけた。「第2次七尾城の戦い」閏7月、北条軍の侵攻は大規模なものではなく、領国の仕置を済ませた謙信は再び能登に出陣した。驚いた続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して全兵力を以って七尾城に籠もった。さらにこの時続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせたのである。このため、城内は兵士と領民合わせて1万5000人近くの大人数となった。ちなみに、このように七尾城で慌てて再び籠城戦の準備がなされていたとき、穴水城の長沢光国と甲山城の轡田肥後が七尾に攻め寄せたが、逆に敗退している。続連は謙信の再出兵に危機感を強め、僧籍にあった息子の長連龍を安土城の織田信長の許に使者として派遣し、援軍を要請した。信長は要請を了承し、8月8日に柴田勝家を総大将とした織田軍を能登に派遣した。謙信は8月9日に織田軍の越前出兵を知り、加賀の一向宗の総領である七里頼周に対して救援を求める書状を送って織田軍の進軍妨害を求め、また石動山に本陣を置いて七尾城攻略を急いだ。七尾城は堅城であったが、籠城戦が続く中、城内で疫病が起こり、畠山軍の兵士たちは戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだ。幼君の畠山春王丸も籠城中に疫病で死去してしまった。窮した続連は小伊勢村の八郎右衛門に上杉軍に対して一揆を起こすように扇動した。ところが一揆はまたもや謙信によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となった。このような中で、かねてから親謙信派であった遊佐続光は、かねてからの謙信の呼びかけに応じ、仲間の温井景隆や三宅長盛兄弟らと結託して内応しようとしていた。もともと彼らは、親信長派として実権を自分たちから奪った続連を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからである。遊佐・温井らは9月13日付で謙信に対して内応了承の書状を送った。この日は中秋の名月の日で、本陣で月見の宴を催していた謙信は「霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し)。数行過雁月三更(数行の過雁月三更)。越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)。遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)」という七言絶句、いわゆる『十三夜の詩』を口にしたと伝わっている。9月15日、遊佐・温井・三宅らは十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れた。この反乱によって続連とその子・長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族100余人はことごとく討たれてしまった。長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。こうして七尾城は謙信の手に落ちた。能登も完全に謙信の支配下に入った。戦後、その頃、織田の援軍を率いる柴田勝家の軍勢は遅々として進軍がはかどらなかった。一向一揆に加賀で進軍を妨害されていた事もあるが、8月17日に石山本願寺の包囲に加わっていた大和の松永久秀・久通父子が勝手に戦線を離脱して居城の信貴山城に立て籠もるという謀反が発生していたためでもあった。このため信長も本隊を率いて北陸出兵を計画していたが、久秀の説得と討伐が急務となり、信長による北陸出兵は中止となった。また、加賀に出兵した織田軍内で柴田勝家と羽柴秀吉が作戦上の対立を引き起こし、秀吉が無断で帰国するという事件も発生していた。
2024年06月03日
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9、「七尾畠山家出自」ともいわれる。歴代の当主が修理大夫に任じられたため、その唐名より畠山匠作家とも称された。修理大夫は畠山国清が称した官位であることから、没落した畠山国清系統の再興を意図したのではないかとの指摘がある。能登国は、当初は吉見家が守護を務めていたが、康暦の政変において細川頼之派であった吉見氏興が失脚し、代わって守護となった本庄宗成(義満の寵臣の一人で元々日野家の家人)もまた統治に失敗があったため、足利一門にして足利義満の信頼の厚かった畠山基国が守護となり、以降は畠山家の分国となった。「室町時代」初代当主である畠山満慶は、父である畠山基国の没後、当時足利義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄・畠山満家に代わって畠山家本家の家督を継いでいたが、義満の没後に満家が赦免されたため、満慶は家督を兄満家に返還した(当時は「天下の美挙」と言われた)。兄の満家は感謝の意から分国のうち能登一国を満慶に与え、応永15年(1408)に畠山満慶を初代とする能登畠山家が創設された。満慶と第2代当主・畠山義忠は、在京守護であり、所領の支配は守護代の遊佐家に委ねられていたが、応仁の乱後、第3代当主・畠山義統が能登に下向したことで在国大名となり、強力な領国支配体制を築き定着していったことで、他国の守護大名分国で起こったような下剋上が能登では起こらなかった。しかし、第4代当主・畠山義元の時、弟の畠山慶致との間で兄弟争いが起こり、明応9年(1500)には慶致派の守護代の遊佐統秀によって義元は追放され、第5代当主に弟の慶致が擁立された。だが、一向一揆など戦国の状況が能登でも差し迫ってくると、永正3年(1506)、両者は和解して義元は復帰して再び当主となった(その代わりの条件として、慶致の子・義総が義元の後継者と設定された)。「戦国時代」第7代当主・畠山義総は名君であり、畠山氏のお膝元である七尾は都から貴族も転居してくるなど小京都と呼ばれるほどに栄え、能登畠山家もまた大いに繁栄した。しかし義総が死去し第8代当主として畠山義続が家督を継ぐと統制が乱れ、畠山七人衆と呼ばれる重臣の権力者グループに実権を握られ大名は傀儡化されてしまう。第9代当主・畠山義綱のときに一時、内乱を鎮圧し大名権力を奪回し大名専制支配を行ったが、重臣たちの反発を招き、当主の追放というクーデターに発展した。その後はまた重臣たちに権力を握られ、内部紛争が続き衰退の道をたどった能登畠山家は、天正5年(1577)に越後の上杉謙信の侵攻を受けて滅亡した。義綱の弟・畠山義春(上杉義春)は上杉景勝に仕え、その姉を正室に迎えて上条上杉家の名跡を継いだ。「桃山時代」上杉義春(入庵)は豊臣秀吉の直臣となり、天正15年(1587)、河内国高安郡のうち500石を与えられる。天正18年(1590)摂津国豊嶋郡に300石を加増され、文禄・慶長の役では肥前国の名護屋城に在陣している。翌年、河内国交野郡に700石を加増され、父の遺領を合わせて1500石を知行した。 関ヶ原の戦いで義春は東軍に属し、1601年、自領とは別に次男の上杉長員に下総国印旛郡ほか1490石を加増。長員は高家旗本の上杉家の祖となる。「江戸時代」畠山景広は上杉景勝に仕え続けて米沢藩の一門衆・重臣となった。三男・畠山義真が父の実家である能登畠山氏の名跡を継承し、江戸幕府高家肝煎畠山家の初代となった。江戸時代中期、当主は江戸猿楽町や木挽町に居住していた。上杉綱勝が僅か8歳で米沢藩3代藩主となると、義真は江戸城登城の際に必ず同伴するなど、後見的な役割を果たした。万治2年(1659年)に隠居し、家督を次男・義里に譲った。 延宝2年(1674年)、90歳を超える長寿で死去した。義里の長男・義寧も、米沢藩上杉家の江戸屋敷にしばしば出入りしており、また自身の三男・知義を高家上杉家(上杉義陳)の養子に出している。 元禄15年(1702)12月15日、赤穂浪士たちに対して父の復讐のため追討軍の派遣を企図した上杉綱憲を諌止している。しかし、創作(小説や映画、ドラマなど)では、史実と異なりその役割は、上杉家の名家老だった千坂高房や色部安長に変更されてしまっている。歴代当主(匠作家)*「畠山 満慶」(はたけやま みつのり)は、室町時代の守護大名。室町幕府相伴衆、越中・紀伊・河内・能登守護。能登畠山氏の初代当主。畠山基国の次男で、満家の弟。子に畠山義忠、畠山教国(のりくに)がいる。詳しい生誕年は不明だが、元服時には室町幕府第3代将軍・足利義満より偏諱を賜って満慶(または満則)と名乗る。応永13年(1406)に父が亡くなると将軍・義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄満家に代わって畠山家の家督を継いだが、応永15年(1408)に義満が死去すると、満慶は家督を兄に返還することとした。このことは当時、「天下の美挙」と言われた。このため、兄は感謝の意から分国のうち能登1国を満慶に与え、同年には満慶を初代とする能登畠山氏が創設された。しかし義満の長男で第4代将軍の足利義持とは不仲だったようで、義持と対立していた足利義嗣が上杉禅秀の乱に呼応して反乱を起こそうとすると、満慶は義嗣を援助しようとしたため、義持の命令により捕らえられ、剃髪して蟄居するように命じられた。永享4年(1432年)6月27日に死去。長子の義忠が家督を継いだ。また、次子は第6代将軍足利義教(義持の弟)から偏諱を賜って教国と名乗り、御供衆の1人となっている。
2024年06月03日
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小山田信茂の投石隊三方ヶ原の戦いでは武田家臣の小山田信茂が投石隊を率いたとする逸話が知られる。三方原における投石隊に関して、『信長公記』諸本では武田氏では「水役之者」と呼ばれた200 – 300人の投石部隊が礫(つぶて)を打ったと記している。一方、『三河物語』でも武田氏では「郷人原(ごうにんばら)」と呼ばれた投石隊が率いられていたとしている。これらの史料では投石隊を率いたのが小山田信茂であるとは記述されていないが、江戸時代には正徳4年(1714年)の遠山信春『總見記(そうけんき)』においては信玄は信茂に先陣を命じ、それとは別に「水役之者」を先頭に立たせ礫を投げさせたと記し、これは「水役之者」を率いたのが小山田信茂であると誤読される可能性が指摘されている。1910年(明治43年)には陸軍参謀本部編『日本戦史 三方原役』においては信茂が投石隊を率いたと記され、1938年(昭和13年)の『大日本戦史』では陸軍中将・井上一次が同様に投石隊を率いたのが小山田信茂であると記している。その後、信茂が投石隊を率いた点が明確に否定されることがなかったため、俗説が成立したと考えられている[8]。逸話現在の温暖な浜松周辺では考えられないが、合戦当時雪が降っていた。浜松市内の地名の「小豆餅」(中区の町名)および「銭取」(同区和合町の地名)は、敗走中の家康が途中で立ち寄った茶屋の老婆より小豆餅を買い求めて食べていたが、そのとき武田軍が迫ってきたので代金を払わず逃げ、後から老婆が追いかけて家康から餅代を徴収したという話がその由来として知られているが出典は明確でなく、それほど古くない時代に筋立てが成立した伝承であると考えられる。敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、後に家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にした。また、家康が武田軍の追跡を逃れるため浜松八幡宮の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃げおおせた。後に家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがった。そこで家康は僧侶の宗円を招き武田兵の霊を弔うための供養を行い、それ以後うめき声は聞こえなくなった。この供養が遠州大念仏の起源であるという。また、犀ヶ崖の戦いがあったとされる場所は、その伝承によって「布橋」と言う地名になった。浜松には「布橋の雪」という銘菓がある。敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した後に家臣から脱糞した旨を咎められて「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話がよく知られているが、この話は出典となる史料が判明していない。類似した話が記述されている『三河後風土記』では一言坂の戦い後の話とされている。門松の習慣は平安時代からあったが、現在一般的となっている竹をななめに切って並べる「そぎ」にしたのは家康で、竹を武田家になぞらえて「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めたとされる。撤退戦に際して、家康は騎射で武田勢数名を撃ち倒したと『信長公記』にある。敗北した家康が浜松城に帰還した際、夜陰に乗じての帰還で供回りも少なかったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく自城に入れなかった。家康が浜松城に逃げ帰った後、酒井忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、河竹黙阿弥の『太鼓音知勇三略』(後に新歌舞伎十八番の一編となる)が1873年(明治6年)3月に村山座で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったもので、『三河後風土記』が典拠とされることがあるが同書にそのような記述はなく、城門を開け放しにした話を脚色したと考えられる。前哨戦では磐田・見付町の町衆が徳川軍に味方して武田軍に対抗し、そのおかげで家康からいくつかの特権を与えられたという(小和田哲男『戦国の群像』)。史料によると内容は3つである。「町衆が狼煙をあげ、武田軍の動きを浜松城の家康に知らせた」「夜討ちをかけた武田勢が引き上げるところを、省光寺の裏山にひそんでいた町衆が待ち伏せして襲い、何人かを討ち取った」「浅羽の内芝原に信玄が陣取った際、本多忠勝と内藤昌成が見付東坂の上まで物見に出たのだが、信玄隊が急に襲いかかってきたので、町衆は自ら町に火を掛け、本多隊の撤退を助けた」敗戦後、家康はしばらく夢でうなされた。しばしばこの戦で死ぬ夢を見たという。天正8年(1580年)に佐久間信盛が織田家から追放された際、信長は信盛が三方ヶ原においてほとんど戦わず、平手汎秀を見殺しにして退却した事を追放の理由の一つとして挙げている。家康はこの戦で人生初の恐怖と大きなトラウマをもらったのは有名だが、同時に武田信玄及び武田軍の武将達に尊敬の念を抱くようになったという説もある。武田氏滅亡後、家康が武田の残党を抱えたのも、山県昌景や小幡信貞の赤備えを井伊直政に継がせた(井伊の赤備え)のも敬意の表れだという。このほかにも様々な俗説があり、家康が敗走中に部下のとった坊主首を信玄を討ち取ったと言いふらさせた、徳川勢の戦死者が一人も背中を見せて死んでいなかった。三方ヶ原の戦
2024年05月28日
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家康の敗走と犀ヶ崖の戦い武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げる。同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させる(犀ヶ崖の戦い)。この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなどの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという。ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出である。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲と100人の兵で歴戦の武田勢3万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。また、戦死者数も書籍がどちらの側に立っているかによって差があり、『織田軍記』では徳川勢535人、甲州勢409人と互角に近い数字になっている。合戦後『甲陽軍鑑』によれば、三方原合戦後に武田氏は正式に信長と断交したという。ほぼ兵力を温存した状態の武田軍は遠江国で越年した後、元亀4年(1573年)正月に東三河へ侵攻する。2月16日には徳川軍にとって東三河防衛の要所である野田城を攻略する(野田城の戦い)。間もなく信玄の病状悪化に伴い、武田軍は西上作戦を切り上げて甲斐国への撤退を決断し、帰路の元亀4年/天正元年4月12日に信玄は信濃伊那郡駒場において病死する。また、『松平記』にて、この野田城の戦いで武田信玄が、討ち死にしたとの異説が記述されている。武田氏では信玄の死を秘匿し、四男の武田勝頼が家督を継ぐ。その際の間隙を突いて武田軍の撤退から半年も経たない8月には家康は長篠城を取り戻すことに成功した上に、奥平貞能・貞昌親子の調略も成功させている。これらは後の長篠の戦いで大きな意味を持つことになる。勝頼は翌天正2年(1574年)には三河・美濃岩村田へ侵攻し、2月7日には明智城を攻略している。信長は反信長勢力を打破し、三河・遠江では家康が反攻を強めた。一方で天正年間に勝頼は小笠原長忠が篭る高天神城を落とすなど遠江の再掌握を開始することに成功する。しかし天正3年(1575年)5月21日に三河における長篠の戦いでは武田方は織田・徳川連合軍に敗れる。勝頼は信長との和睦を試みるが(甲江和与)、天正9年(1581年)には徳川家康の遠江国高天神城の包囲に対して勝頼は救援を出せないまま高天神城は落城し、翌年天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)により、武田家は滅亡した。三方ヶ原の戦いをめぐる論点家康が出陣した理由通説では、信玄の挑発(相手にされず素通りされたこと)に乗ったとされているが、様々な説がある。あえてここで出撃することによって家臣や国人衆たちの信頼を得る(ここで武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る可能性があった)、織田氏・武田氏のどちらが勝つにせよ戦役終了後に徳川氏に有利になるよう戦略的アピールを狙ったなどがあるが、祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていたという説や、挑発に乗った振りをして浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた[6]と言った戦術的面から見た説もある。また、『当代記』『四戦紀聞』などの史料によれば、家康は戦うつもりが無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という旨の記述がある。両軍の布陣この戦において徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形であり、数に劣る徳川軍、数に勝る武田軍であったとすると、どちらも定石と異なる布陣を敷いていたことがわかる。徳川方が鶴翼の陣を取った理由の説そもそも武田軍本隊は去っており、待ち構えているのは少数であると予想していたため。最初から勝ち目が無いことはわかっていたため、兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。武田軍が魚鱗の陣を取った理由の説鶴翼の陣を見て大将首(家康)を討ち取ることに狙いを絞った(鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる)。織田軍の中でも特に増員兵力の多い佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたことなどから、織田軍の支援を考慮して相手方を多く見積もっていた。他にも説はあるが、何れにしてもはっきりしたことはわかっていない。
2024年05月28日
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一言坂・二俣城の戦い10月13日に只来城を落とした馬場信春隊はその後、徳川氏の本城・浜松城と支城・掛川城・高天神城を結ぶ要所・二俣城を包囲し、信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。10月14日、二俣城を取られることを避けたい家康がひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たが、一言坂で武田軍本隊と遭遇し敗走する(一言坂の戦い)。10月16日には武田軍本隊も包囲に加わり、降伏勧告を行う。二俣城は1,200人の兵力しか無かったがこれを拒否したため、10月18日から武田軍の攻撃が開始される。11月初旬に山県昌景隊も包囲に加わり、そして城の水の手を絶たれたことが致命的となって、12月19日、助命を条件に開城・降伏した(二俣城の戦い)。これにより、遠江国の北部が武田領となっていた。三方ヶ原の戦い織田家の武将織田信長による援軍は、二俣城落城の少し前に派遣された。この織田家から派遣された武将には諸説が有り、信長公記 - 佐久間右衛門・平手甚左衛門・水野下野守大将トシテ、松平記 - 平手(汎秀)・水野(信元)・林(秀貞)・佐久間(信盛)、佐久間軍記 - 佐久間右衛門尉ヲ為大将、七頭ヲサシコサル明智軍記 - 佐久間右衛門尉・林佐渡守・滝川左近将監、五千余騎ヲ卒シ、総見記 - 佐久間右衛門尉・平手甚左衛門ヲ両将トシ、林佐渡守・水野下野守・毛利河内守・美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)、都合三千ノ人数ヲ遣ハサレ、となっている。谷口克広は「佐久間は織田軍の最有力武将、平手は織田家代々の家老の家柄、水野は尾張から三河にかけて大きな勢力を持つ水野一族の惣領である。それを合計してわずか3千の兵というのは信じがたい。おそらく信長は、彼らの兵をほとんど尾張・美濃方面に残しておいたのだろう。」と援軍の武将と兵数を評している。織田家の援軍数織田家の援軍の数も諸説が有り、佐久間軍記 - 七頭(約1.5万人:1頭は2,100人とされる)明智軍記 – 5,000人総見記(織田軍記) - 3,000人甲陽軍鑑 - 「信長加勢を九頭まで仕る」(約1.9万人)前橋酒井家旧蔵聞書 - 信玄軍2.8万、徳川6千、織田の援軍2万。(国立公文書館蔵 紅葉山文庫)となっている。磯田道史は、文献調査の結果として織田の援軍を2万とし、織田の援軍は岡崎城(岡崎市)から吉田城(豊橋市)を経て白須賀(湖西市)へ分散配置されていたとする説を述べている。三方ヶ原における合戦の経緯当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり、武田軍は浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走する。武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人のほか、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった。
2024年05月28日
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5、「大岡 忠政」(おおおか ただまさ)は安土桃山時代の武将。江戸幕府旗本。大岡忠勝の三男。相模国高座郡の領主。父・大岡忠勝の代に松平氏に仕え、大岡忠政は徳川氏に仕えた。長兄・忠祐、次兄・忠次ともに、先に亡くなったため忠政が世子となり、通称を忠四郎から大岡家代々の名乗りである忠右衛門に改め、大岡家の家督を継ぐ。文禄3年(1594年)には兄たちの跡を追うように父・忠勝も亡くなった。徳川家康に仕え、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦い、次いで天正3年(1575年)5月の長篠の戦いなどに参戦した。その戦功により、家康の関東移封後の翌年天正19年(1591年)5月、相模国高座郡堤村に200石を知行する領主となり、本領の三河から移り、堤に陣屋を構えた。慶長⒉年(1597年)同郡、大曲村に220石を加増される。更に慶長8年(1603年)同郡、高田村に160余石を加増された。 慶長16年(1611年)、亡父・忠勝を弔うために柴田勝家の子といわれる芹沢村の来迎寺住職であった深誉円察に開山させ、堤村の神明谷に浄見寺を創建し、ここに父忠勝を葬る。寛永6年(1629年)、享年82。戒名「頂源院専誉浄西」。「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。戦国期に甲斐国の武田氏は信濃侵攻を行い領国を拡大し、越後の上杉氏と対決していたが、永禄4年の川中島の戦いを契機に方針を転換し、それまで同盟国であった駿河国の今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。また、桶狭間の戦いにおいて今川氏当主の義元が尾張国の織田信長に討ち取られると、今川氏に臣従していた三河国の松平元康(徳川家康)は三河において織田氏と同盟関係を結び独立した。駿河侵攻により武田氏は駿河において三河の徳川氏や今川氏の同盟国であった相模国の北条氏に挟撃される形となる。やがて武田氏は北条氏を退けて今川領国を確保し、徳川領国である三河・遠江方面への侵攻を開始する。武田氏の侵攻に対して徳川氏は同盟関係にある織田氏の後援を受け、東海地域においては武田氏と織田・徳川勢の対決が推移する。元亀⒉年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し(第二次信長包囲網)、それに応える形で信玄は翌元亀3年に徳川領国である遠江国・三河国に侵攻を行う(ただし、武田氏と織田氏は同盟関係は維持していたため、当初織田氏は徳川氏に援軍を送らなかった)。同年末には北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田氏と和睦して甲相同盟が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌元亀3年に西上作戦を開始する。西上作戦元亀3年(1572年)、武田軍は兵を3つの隊に分けて、遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始した。山県昌景は、『当代記』によれば秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻したという。軍勢は5000人とされる。⒐月29日、信濃国・諏訪より東三河に侵攻、徳川氏の支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻。秋山虎繁(信友)は、信濃国大島城(長野県下伊那郡松川町)の城代で、「下伊那郡司」として信濃下伊那郡から美濃・三河・遠江方面の軍事・外交を担っていた。『当代記』によれば、秋山は山県隊とともにほぼ同時に居城・高遠城より岩村遠山氏の領地を通って、徳川氏の本拠地の三河へ攻め込もうとしたため岩村遠山氏と徳川氏との連合軍との間で上村合戦が勃発した。秋山隊の軍勢は2500人とされる。秋山隊の勢いに押された徳川方は殆んど戦わずして退却した。秋山隊は、織田方の岩村遠山氏の主要拠点・岩村城を包囲(事実上の織田氏との同盟破棄)山県隊と。11月初旬に攻略。武田信玄率いる2万2,000人の本隊(うち北条氏の援軍2000人)は10月3日、甲府より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江国に侵攻。途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として西の只来城に向かわせて別れ、南進して要所・二俣城へ向かう。総計3万人の軍勢は、当時の武田氏の最大動員兵力であった。本来小さな支城1つ落とすのにも1ヶ月近くかかるところを、平均3日で陥落させていった。一方の徳川氏の動員兵力は最大でも1万5,000人ほどに過ぎず、しかも三河国に山県隊が侵攻していたため、遠江国防衛のためには実際には8,000人余しか動員できなかった。さらに盟友の織田氏は、いわゆる信長包囲網に参加した近畿の各勢力との戦いの最中であった。
2024年05月28日
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*「諏訪 頼忠」(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。信濃諏訪藩の基礎を築いた。武田家、家臣時代信濃国諏訪氏の一族。天文11年(1542)6月、諏訪氏の当主で、頼忠の従兄にあたる頼重は、甲斐国の武田信玄の諏訪侵攻で自害する。父・満隣は、高遠頼継・矢島満清らが諏訪大社上社の諏訪大社大祝(おおほうり)の簒奪を画策すると、これに対して頼重の遺児・千代宮丸(虎王丸、又は長岌)を擁立した。その後、満隣の動向は不明[5]。満隣の子では頼忠のほか頼豊・頼辰もそれぞれ武田家に仕えている。諏訪大社の大祝は頼重の弟・頼高が務めるが頼高は天文11年(1542)に殺害され、『当社神幸記』によれば、同年12月以前には頼忠が諏訪大社上社の大祝となり、12月7日には諏訪明神御渡の注進を行っている。『当社神幸記』によれば、天文16年(1547)1月11日時点で「頼忠」を名乗っている。永禄7年(1564)7月19日には武田氏の飛騨侵攻に際して信玄から祈祷を依頼されている。永禄8年(1565)12月・永禄9年(1566)には諏訪大社上社や末社の祭礼再興に尽力している。天正6年(1578)・天正7年(1579)には武田勝頼により諏訪大社の造営が実施され、頼忠もこれに携わっている。天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐し、信濃高島城(旧城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ本領を回復した。北条家、家臣時代信濃の混乱(天正壬午の乱)に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して[2]北条氏政に接近し、再起を図ろうとした。しかし同年12月、酒井忠次、小笠原信嶺ら家康の信濃平定軍に敗れて和睦[2]の形で臣従する事となる。翌天正11年(1583)3月に諏訪郡を所領として安堵されることとなった。 天正18年(1590)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い、武蔵国比企郡奈良梨、児玉郡蛭川、埼玉郡羽生に計1万2000石の所領を与えられた。文禄元年(1592)には上野国総社に所領を移される。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務めた。「諏訪 頼水」(すわ よりみず)は、安土桃山時代、江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩の初代藩主。諏訪頼忠の長男。天正5年(1577)、6歳で父頼忠から諏訪大社大祝(おおほうり)職を譲られる。天正18年(1590)、父と共に小田原征伐に従軍する。その後、主家の徳川氏が関東に移封となったため、頼忠父子はこれに従って諏訪を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。その翌々年、上野国総社へ移封され、同年に父から家督を譲られている。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、信濃国や上野国の守備を命じられた。その功績により、戦後の慶長6年(1601)10月、信濃国高島2万7000石へ復帰を許された。第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たしている。慶長19年(1614)からの大坂の陣では甲府城の守備を命じられ、長男の忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。頼水は冬の陣の際に自身が城の留守居などのような閑職に留められていることに奮起し、夏の陣では大坂へ従軍させてもらうように願ったが、かなえられず夏の陣でも甲府城の守備を命じられた。元和2年(1616)、改易となった松平忠輝の身柄を預かり、その後、諏訪氏は忠輝の面倒を生涯見ている。寛永11年(1634)、第3代将軍・徳川家光から杯と饗応を受けるという厚遇を受けるほどの信任を受けた。寛永17年(1640)、忠頼(忠恒)に家督を譲って隠居し、翌年の寛永18年1月14日(1641)に72歳で死去した。人柄頼水は政治手腕に優れ、前領主の七公三民(江戸時代の年貢率の一つ。その年の収穫高の7割を年貢として領主に納め、3割を農民の所得とするもの)のせいで荒れ果てていた農地から逃散していた百姓を呼び戻して新田開発を奨励するなど、藩政の安定に尽力し、家臣や領民に人気があった。性格は、頼水の剛毅(意志が強固で気力があり、何事にも屈しないこと)さを示す逸話として、永明寺事件がある。頼水の末娘亀姫が頼水にあてた書状(嫁ぎ先で起きたトラブルを告げ口)を、使いの下男が途中でとなりの下男と喧嘩し、衣之渡川へ捨てられてしまった。となりの下男は後難をおそれて 、諏訪氏の菩提寺である永明寺に逃げ込んだ。頼水は罪人を引き渡すように命じたが、僧侶は治外法権の特権を楯にして引き渡さなかった。そこで業を煮やした頼水は、寺を焼いて罪人を捕まえ首を刎ねた。この時に匿った僧侶も有無を言わせずに処刑したと言われている。織田信長の比叡山焼き討ち (1571年)を思わす苛酷な事件であった。
2024年05月26日
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学問藩主として頼徸は有職故実や様々な法令の知識に優れており、学問にも長けていた。特に頼徸が優れていたのは和算であり、関流の教えを継ぐ山路主住に師事してこれを学んだ。それまで52桁しか算出されていなかった円周率をさらに30桁算出し、小数の計算まで成立させた。明和6年(1769)には豊田文景の筆名で『拾璣算法』5巻を著した。これは関孝和の算法をさらに研究し、進めた成果をまとめたものである。評価幕府からその才能を認められて江戸は増上寺の御火消役に任じられると共に、官位もそれまでの歴代藩主より上の左少将に叙任された。また将軍が狩猟で仕留めた鶴を拝領できる「国鶴下賜」を3度も受けている。これは徳川御三家や伊達家・島津家・加賀前田家などの大藩しか賜れず、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受けた。頼徸の治世は54年の長きにわたり、また頼徸自身が優れた藩主だったこともあって、久留米藩の藩政は比較的安定した。その治績から頼徸は久留米藩の吉宗と賞賛されるに至った。また頼徸と同時期の教養人、新発田藩の溝口直温、松江藩の松平宗衍と並んで風流三大名と称される。 「有馬 頼貴」(ありま よりたか)は、筑後久留米藩の第8代藩主。久留米藩有馬家9代。藩校・明善堂を創設するなど、久留米藩の文運興隆に尽力したが、その一方で趣味の犬や相撲に傾倒、小野川才助らを抱えた。華美な大名火消は江戸で知られ、巷説「有馬の猫騒動」の題材にもされた。延享3年(1746年)4月2日、第7代藩主・有馬頼徸の長男として生まれる。宝暦8年(1758)11月15日に将軍徳川家重に初謁、12月18日に従四位下・上総介に叙位・任官される。天明元年(1781)に侍従に遷任。天明3年(1783)に父が死去したため、天明4年(1784)1月23日に家督を継いだ。天明4年(1784)閏正月に中務大輔にすすむ。当時の久留米藩は財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬をも好んで日本全国はもちろん、オランダからも犬の輸入を積極的に行い財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したり家臣の数を減らしたりして対処している。しかし幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった。寛政8年(1796)に藩校・明善堂を創設し、藩士教育に尽力している。文化元年(1804)に左少将に遷任された。文化9年(1812年)2月3日に死去した。享年67歳。嫡子だった三男・頼端は早世していたため、その長男の頼徳が跡を継いだ。家族・親族正室は長州藩主毛利重就の娘・勢代(勢与)。勢代は明和5年(1768年)に輿入れしたが、子をなさないまま安永4年(1775年)に没した。頼貴には10人の側室との間に男女25人の子があった。最初の男子は安永4年(1775年)生まれの安次郎であるが安永6年に没しており、『寛政重修諸家譜』にも記載されていない。 「有馬 頼徳」(ありま よりのり)は、筑後久留米藩の第9代藩主。久留米藩有馬家10代。寛政9年(1797年)6月22日、久留米藩嫡子・有馬頼端(第8代藩主・頼貴の三男)の長男として生まれる。頼瑞は頼貴の世子だったが早世したため、頼徳が祖父頼貴から世子に指名され、文化7年(1810)には従四位下・侍従・上総介に叙位・任官された。文化9年(1812)に祖父が死去したため家督を継ぎ、玄蕃頭に遷任される。しかし財政難のため、就任早々の幕府による関東河川の手伝い普請で領民に臨時税1192貫を課したり、文化13年(1816)には経費を3割縮減した緊縮財政や家中からの米献納を命じたりして、財政改革に取り組んだ。一方で、「月船」「水鴎」といった号を持ち、自らの趣味に没頭した。文政2年(1819)から、久留米城内に柳原御鷹場を作り始め、さらに能楽を何度も開くなどして財政をさらに悪化させた。このため、文政6年(1823)には江戸からの帰国中に旅費不足に陥り、急遽国許の大庄屋中から5000両を送金させる事態に陥る。翌文政7年(1824)から、役所整理などの経費節減による財政改革を開始したが、同年から文政11年(1828)まで毎年洪水または不作に見舞われるという不運も重なった。しかも、こうした中で文政8年(1825)に柳原の庭園が完成した際には、『柳原八景詩歌』を編纂させている。文政10年(1827)からは御用金を取り立て、文政11年には上米の増額と万事3か年の省略を命ずるなどしたが、借金はさらに膨れ上がり、天保2年(1831)には人別銀17446両を徴収した。
2024年05月23日
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「有馬 頼元」(ありま よりもと)は、筑後久留米藩の第4代藩主。久留米藩有馬家5代。承応3年(1654年)2月25日、第2代藩主・有馬忠頼の次男として生まれる。寛文8年(1668)に兄で第3代藩主であった有馬頼利が死去したため、その養子として家督を継ぎ、従四位下・中務大輔に叙位・任官される。このとき、父の養子で頼元の養弟に当たる有馬豊祐に1万石を分知して松崎藩を立藩させている。藩政では、新田開発や治水工事に尽力した。しかし凶作や暴風雨が相次いで飢饉が連年のように起こり、藩の財政が悪化して家臣から上米を行なったり、元禄15年(1702)からは年貢増徴を行なっている。元禄8年(1695)に侍従に遷任された。宝永2年(1705年)7月20日に死去した。享年52歳。跡を長男・頼旨が継いだ。 「有馬 頼旨」(ありま よりむね)は、筑後久留米藩の第5代藩主。久留米藩有馬家6代。第4代藩主・有馬頼元の次男。母は小野氏。生涯独身で、正室・側室はなし。父の死後に家督を継ぐが、宝永3年(1706年)4月8日に22歳で死去した。子はなく、末期養子の則維が跡を継いだ。 「有馬 則維」(ありま のりふさ)は、筑後久留米藩の第6代藩主。久留米藩有馬家7代。延宝2年(1674年)、旗本石野則員の五男として生まれる。石野氏・有馬氏はともに赤松氏の庶流であり、久留米有馬家の祖・有馬則頼の娘は石野氏満(赤松氏満)に嫁いでいる。則維は氏満の玄孫であり、有馬則頼の外来孫にあたる。貞享元年(1684)、旗本・有馬則故(御使番3500石。則頼の孫)の養子となる。元禄5年(1692)10月28日、第5代将軍・徳川綱吉に御目見する。宝永3年(1706)4月、久留米藩主・有馬頼旨の末期養子となり、5月2日に正式に遺領を継承する。当初、久留米藩有馬家では則維の次男・大二郎を養嗣子に迎えることを考えていたものの、幕府の指示により則維に改めたようである。宝永3年(1706年)12月19日、従四位下玄蕃頭に叙任する。後に侍従に任官する。正徳3年(1713)4月12日、初めてお国入りする許可を得る。藩主となってからは改革に努めた。当時の藩は財政が悪化しており、則維は役人の整理や実力による官吏の登用や倹約によって財政を立て直そうとした。また、家老の合議体制を弱め、藩主の実権を強化した。享保14年(1729)7月6日、隠居して四男の頼徸に家督を譲る。元文3年(1738年)4月1日死去、享年65歳。 「有馬 頼徸」(ありま よりゆき)は、江戸時代中期の大名・数学者(和算家)。筑後国久留米藩の第7代藩主。久留米藩有馬家8代。数学者としては関流算術を修め、当時最高水準の和算書『拾璣算法』を著した「算学大名」として著名である。一方、為政者としては久留米藩歴代中最長の治世(54年)を保ち、窮民救済などに意を払ったものの、大規模な一揆も発生しており、平坦なものではなかった。正徳4年11月25日(1714)第6代藩主・有馬則維の四男として生まれる。享保14年(1729)、父の隠居により16歳で家督を継ぐ。しかし若年のため、元文2年(1737)までは重臣が藩政を担った。頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩で飢饉が起こる。頼徸は領民を救うため、救済金・救済米を施した。広く優れた意見を求め、徳川吉宗に倣って目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽などの興行も奨励した。※「目安箱」(めやすばこ)江戸幕府8代将軍徳川吉宗が享保(きょうほう)の改革の一環として、将軍への直訴(じきそ)状を受理するため設けた箱。1721年(享保6年)8月以降毎月三度評定所の前に置き、27年からは京都・大坂に、1736年(元文1年)からは駿府(すんぷ)(静岡市)・甲府にも設けた。箱は将軍の面前で錠があけられ、訴状は将軍が自ら開封し、その採否は将軍の一存によった。この箱設置の目的は、言路を開いて庶民の不満の解消を図るとともに、広く施政上有益な建言を求めること、さらに将軍が直接下からの情報を握ることによって諸役人の監督を強化し、行政機構の緊張を高めようという意図もあった。その結果は、すでにその年の秋、浪人山下幸内(こうない)が吉宗の緊縮政策を大胆に批判した上書を投じて評判になったのをはじめ、救貧、防火、新田開発など諸方面にわたる意見が施政に採用され、享保以降においても幾多の効果を示す事例が知られている。当時、九州の各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していた。久留米藩でも頼徸の善政にもかかわらず発生してしまう。頼徸はこれに対して一揆側の首謀者全員に加え、藩の責任者である家老の稲次因幡・有馬石見らも処刑するという厳しさを見せた。一方でこれらを慰めるために五穀神社祭礼を行なっている。】天明3年11月23日(1783)70歳で死去した。跡を長男・頼貴が継いだ。
2024年05月23日
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元和6年(1620)12月8日、筑後久留米に21万石を与えられ国持ち大名となった。元和7年(1621)3月18日、久留米に入部した。前藩主・田中氏の統治の際に、支城の一つであった久留米城は一国一城令により破却されており、豊氏は久留米城の修築や城下町の整備を進めながら領国経営を開始する。久留米城修築に際しては、榎津城・福島城など廃城の資材が転用された。また、同年には、丹波福知山の瑞巌寺を久留米に移し、梅林寺を建立している。寛永14年(1637)11月に島原の乱が勃発すると、豊氏は当時江戸にあり、老齢であったが自ら島原まで出陣している。島原の乱では久留米藩から6300余人が出陣しており、戦死173人、手負い1412人を出している。※「島原の乱」(しまばらのらん)天草一揆ともいう。寛永 14 (1637) 年から翌 15年にかけて肥前島原と天草島のキリシタン信徒が起した一揆。この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で,住民にもキリスト教徒が多かったが,関ヶ原の戦いののち,天草の領主は小西氏から寺沢氏に代り,さらに元和1(15) 年島原の領主が松倉氏に代った。松倉氏は農民に対して過重な年貢の負担を強制し,滞納する者には過酷な刑罰を課した。また江戸幕府の禁教政策におけるこの地方のキリシタン弾圧は特にきびしかった。このようななかで寛永 14年 11月有馬村で代官と農民の衝突が起り,これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起した。これに商人,手工業者,船頭なども加わり,さらに天草の農民がこれに呼応して蜂起し,豪農益田甚兵衛の子四郎時貞 (→益田四郎時貞 ) が首領に推され,小西家牢人 (浪人) や村落代表によって指導部が構成された。一揆は松倉藩兵を破り城代家老を戦死させ原城にたてこもった。幕府は同 12月,鎮圧のため板倉重昌を派遣し近隣諸藩の兵を指揮させたが,一揆の勢力は強く,その数3万 8千人であったといわれる。翌年元旦,総攻撃をかけたが落ちず,重昌は戦死した。幕府は,老中松平信綱を派遣し,信綱は十数万の包囲軍による兵糧攻めや,一時的ではあったがオランダ商船『レイプ』号に依頼して海上から砲撃させるなどしたが,農民は頑強に抵抗した。しかし,食糧や弾薬が尽き,ついに2月末,幕府軍の総攻撃によって陥落した。幕府は 40万両余の費用と数千の武士を失い,一方松倉重次を処刑し,寺沢氏の所領を没収した。以後禁教は一層きびしくなり鎖国を促進した。】寛永19年(1642)閏9月29日、74歳で死去。跡を長男・忠頼が継いだ。豊氏の死後、近侍の2名が殉死しており、のちに豊氏の廟の傍らに葬られている。明治10年に篠山神社が創建されると、豊氏も祀られた[3]。年譜※日付=明治4年までは旧暦· 文禄3年(1594)6月、従五位下玄蕃頭に叙任。· 文禄4年(1595)、豊臣秀吉に仕え、3000石。o 8月、遠江国横須賀の地に3万石。· 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉薨去後、徳川家康に組し、徳川家の御伽衆となる。· 慶長5年(1600)o 6月、徳川家康の養女連姫と婚姻。関ヶ原の戦いでは東軍に従軍。o 12月13日、丹波国福知山で6万石。· 慶長7年(1602)8月以降、父則頼の遺領であった摂津国三田2万石を継承し、合計8万石。· 元和6年(1620)閏12月8日、筑後国久留米に転封し、21万石となる。· 寛永3年(1626)8月19日、従四位下に昇叙し、玄蕃頭如元。· 寛永11年(1634)7月16日、侍従兼任。· 寛永19年(1642)閏9月29日、卒去。享年74。法号:春林院殿如夢道長大居士。· 大正5年(1916)11月15日、政府より贈従三位。
2024年05月23日
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ただ、保科姓を名乗ったのは正之と会津藩二代目の保科正経までで、その子孫は「徳川家御家門」として松平姓に改めている(正之本人は勧められても保科姓を守り通したとされる)。三代家光と四代家綱を補佐した正之は玉川上水を開削し江戸の水不足に取り組み、米の備蓄で天災に備える制度を創設するなど江戸太平の基礎を築いたとされる。また明暦の大火で焼け落ちた江戸城天守の復旧をせず民への救済米としたと伝えられる。一方、正之の入嗣により世子の座を廃された正貞(正光の実弟)は、後に幕臣に取り立てられたために別家を興し、上総国飯野藩主として保科氏の血統を現在まで残している。 4、「高遠城」(たかとおじょう)は、長野県伊那市高遠町にある日本の城跡。兜山城の別名をもつ。桜の名所としても有名である。国の史跡に指定されている。戦国時代・安土桃山時代高遠氏高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としており、甲斐国守護の武田氏と同盟関係にある諏訪氏当主の頼重とは反目していた。頼継は1541年(天文10年)に甲斐守護武田晴信(信玄)に内応して諏訪攻略を援護している。頼重は武田により滅ぼされるが、諏訪の領有を巡り武田と頼継は対立し、1545年(天文14年)4月に武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への進出拠点とした。武田氏時代1555年(弘治元年) 武田氏は続いて小笠原氏や知久氏を撃破し、木曾氏を制圧して信濃を平定した。『甲陽軍鑑』によれば、高遠城は信濃への進出拠点として1547年(天文16年)に、足軽大将の山本勘助や譜代家老の秋山虎繁(信友)に命じて大規模な改築が行われたという。1556年(弘治2年)には秋山虎繁が城主となり、坂西氏などを伊那衆とした。1562年(永禄5年) 、晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼(武田勝頼)が諏訪氏を継承し、同時に高遠城主となる(『軍鑑』によれば伊那郡代に就任)。城主であった秋山は飯田城代となる。『軍鑑』によれば入城に際して改築が行われ、勝頼衆が預けられ親族衆に加えられたという。勝頼は1570年(元亀元年) に武田氏の正嫡であった義信が廃嫡される義信事件が起こると後継的立場となり、信玄により本拠の躑躅ヶ崎館に呼び戻され、高遠城主は信玄実弟の武田信廉となった。なお、勝頼の嫡子信勝の誕生と、信玄の父信虎の死去は、いずれも高遠城でのことである。信玄後期から勝頼期にかけて武田氏は領国を接する織田・徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点となる。武田氏は長篠の戦いにおける敗退を契機に領国の動揺を招き、勝頼は1581年(天正9年) に領国維持のため新府城(山梨県韮崎市中田町中條)への府中移転と同時に、異母弟の仁科盛信(信盛)に高遠城主を兼任させた。翌1582年(天正10年)2月、勝頼は内通した木曾氏攻めを行い、盛信は大将として出陣し、副将として信濃佐久郡内山城代の小山田昌成(二代目備中守)・大学助兄弟が入っている。同年2月に織田信長は本格的な武田攻め(甲州征伐)を開始し、長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる守備兵の数は3千で、盛信は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊は玉砕し、盛信や昌成・大学助兄弟らは戦死し、城は落城した。高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡した。高遠城の西では、織田軍が攻城拠点として使ったとみられる「一夜の城」と推定される遺構が発掘されている。織田氏・豊臣氏時代武田氏の滅亡後、信濃伊那郡は織田家臣・毛利長秀が支配する。織田氏の伊那郡支配の実態は不明であるが、毛利長秀は坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城(長野県飯田市)に在城していることが確認される。高遠城は甲州征伐により壊滅しており織田氏時代の城主も不明で、伊那郡支配の拠点として機能していたかは疑問視されている。同年6月に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。上伊那郡では諏訪氏の一族で上伊那郡福与城(長野県上伊那郡箕輪町)を拠点としていた藤沢頼親が復帰し、頼親は三河国の徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶ら信濃国衆を送り込むと、同年7月15日までに高遠城を奪還し、家康へ臣従した[7]その後は家康方の保科正直が高遠城に入り、これを豊臣秀吉方に寝返った小笠原貞慶が攻めたが撃退された。
2024年05月22日
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水野家滅亡とその後天正3年12月(1576)1月、信長の武将・佐久間信盛の讒言により武田勝頼の武将の秋山信友との内通や兵糧を輸送した疑いで、信長の命を受けた甥家康によって三河大樹寺(岡崎市鴨田町字広元)において殺害され、同時に養子の信政も養父とともに斬られた。 墓所は愛知県刈谷市天王町の楞厳寺。法名は信元院殿大英鑑光大居士。刺客役を命じられた平岩親吉は、信元を斬ったのち屍を抱き上げ「信元どのに私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたという。案内役をしていた久松俊勝は「かかる事とも知らずして、信元迎え来て打たせたりし事の無慙さよ。世の人のかえり聞かん事も恥ずかしとて、徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」と述べて、出奔してしまう。夫に出奔された妹の於大の方とその子供たちは、家康の下に引き取られた。兄を殺された於大の方は、石川数正を深く恨み、これが後の家康嫡男・松平信康とその母・築山殿粛清や石川数正の出奔の原因と考える人もいる。水野領は、佐久間信盛の領土となり、俊勝の長男・久松信俊は信盛の指揮下で、石山本願寺と戦っていたが、天正5年(1577)、かつて久松家が一向宗を保護していたことを理由に信盛の讒言をうけ、信長から謀反の嫌疑をかけられ憤慨して陣中で自害してしまう。そればかりか、その直後、阿久比に佐久間勢が攻め込み、信俊の子供二人も殺害されてしまう。その時まだ胎児であった子供がその母とともに助かり、その子孫は後に伊予松山藩に仕えたという。また、天正6年(1578)謀叛の噂があがった荒木村重が、信長に弁明に行こうとするのを、家臣の中川清秀が、行けば殺されると諫言したのは、信元粛清事件を念頭に置いたものと考えられている。荒木村重の容疑は、水野信元の容疑とまったく同じである。天正8年(1580)信長は佐久間信盛を追放した。さらに信長は、信元が冤罪だったとして、家康の下にいた信元の末弟・忠重を呼び寄せて、旧領を与え水野家を再興させた。*「水野 忠守」(みずの ただもり、大永5年(1525) - 慶長5年3月28日(1600)5月10日は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め忠義、通称は清六郎で、また織部を称した。水野忠政の三男または四男。兄弟には信元、忠重、於大の方らがいる。水野氏はもともと尾張国知多郡緒川城や刈谷城を含む知多郡北部および三河国西部の碧海郡を広く支配する国人領主であった。当時、尾張・三河の国境付近は織田氏と今川氏が鎬を削っており、その中で父の忠政は今川方についていたが、兄の信元が跡を継いだ後、織田方となった。また、信元が家督を相続した時には緒川城主となっている。以後、兄と行動をともにしたと考えられるが、天正3年12月(1576)1月に信元が謀叛の嫌疑によって織田信長に殺害された後、天正8年(1580)に、末弟の忠重が再び刈谷を与えられるまでの動向は不明である。天正8年に忠重が旧領に復した際に忠守は緒川城主となった。しかしその後、諸事情により緒川城を退去したとされ、その時期や理由は不明。なお、忠重は信長の死後、織田信雄や豊臣秀吉に仕えたが、忠守がこれに従ったかは不明である。忠守は嫡男忠元の所領であった相模国沼目郷(伊勢原市)に隠居し、慶長5年(1600年)に76歳で死去した。忠守の緒川支配と退去*「水野 分長」(みずの わけなが、永禄5年(1562)~ 元和9年3月1日(1623)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。尾張緒川藩主。三河新城藩の初代藩主。新城城主。水野忠分の長男。弟に水野重央がいる。正室は山口重勝の娘。子は水野元綱(長男)。官位は従五位下、備後守。弾正忠。永禄5年(1562年)、尾張国に生まれる。幼名は藤治郎。はじめ叔父の水野忠重に属した。天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで首級を挙げて武功を挙げた。小田原征伐にも忠重に属して従軍する。その後、水野氏を去って徳川家康の命令で蒲生氏郷に属し、九戸政実の乱で先陣を務め戦功を挙げた。慶長4年(1599)に家康から呼び戻され大番頭に任じられ、翌慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに参陣する。慶長6年(1601)に尾張緒川藩1万石を与えられた。慶長9年(1604)に備後守に任ぜられる。慶長11年(1606)に三河新城に移封され、設楽・宝飯郡内で1万石を与えられた。慶長19年(1614)からの大坂の陣にも従軍する。元和2年(1616)に家康が亡くなると徳川秀忠に仕え、近江国栗太郡内で2000石を加増された。元和6年(1620)に徳川頼房に付けられて水戸藩に移る。この際に新城の領地は長男の元綱に譲り、分長は安房国・上総国内で1万5000石を与えられた(近江の領地は収公されている)。元和9年(1623年)3月1日死去。享年62。法名は受光院殿実窓英真大居士。墓所は愛知県新城市字裏野の永住寺。死後、安房・上総国内の領地は相続する者がなく収公された。
2024年05月21日
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戦後、勝成は板倉重昌を討ち取った駒木根友房の首級の前で一曲舞う。また重昌の息子・板倉重矩が、父の仇を討たんと奮戦したことを賞して、勝成は自らの宇多国房の刀を与えた。また黒田家臣の郡正太夫(郡宗保の後継)の活躍を称えて盃を与えたり、黒田一成、黒田一任親子の活躍を称える手紙を出した記録が残っている。なお、島原の乱は幕府に配慮して軍功を記すことが憚られたため、勝成は幕閣首脳に大きな不満を持ち隠居を決断した。隠居・最期島原の乱の翌年、寛永16年(1639)に家督を嫡子・勝俊に譲り一分斎と号する。しかし、隠居料の1万石を領内の投資に注ぎ込むなど、藩政への関与は続けた。寛永20(1643)、京都大徳寺で1年間、禅の修行をする。正保元年(1644年)、法躰となり宋休と号す。慶安4年(1651)に福山城内において88歳で死去し、福山城下の菩提寺、賢忠寺に葬られる。神道の礼では聡敏明神として祀られ、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社があるほか、茨城県の結城城址脇にも聡敏社がある。また、徳川二十八神将として日光東照宮に配祀される。大正8年(1919)、従三位を追贈された。人物・逸話慶安3年(1650)5月7日、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、的に当ててみせ、諸人を驚かせる。この的は現在も茨城県立歴史館に保管されている水野時代の福山藩は、表石高10万石なのに対して、実質15万石とか30万石といわれるように大変豊かだった。しかし、阿部氏時代の福山藩は、水野時代の七割の領地しか与えられておらず、表石高10万石なのに対して、実質も10万石であった。そのためどうしても水野時代よりも税金を高くしなくてはならず、水野氏の治世を懐かしむ領民の扱いに苦慮する。そこで水野氏の治世を辱めるべく「五霊鬼」や「お糸伝説」といったデマを流す。後年、阿部氏の治世が終わると、福山市民はこれらの悪評を払拭して、水野勝成を福山開祖として慕うようになる。 水野諸家(戦国期)水野家は戦国期の尾張三河に於いて織田氏、松平氏と並ぶほどの大豪族であったわりに資料が少ないが、これは上記の佐久間信盛の讒言による水野信元誅殺による一族離散のおりに多くの資料が散逸してしまったためであると考えられる。 また「刈谷市誌」が主張する刈谷水野家なる家の存在は、① 於大が松平家を離縁となったあとで緒川ではなく刈谷に住したこと、② ②緊迫した桶狭間の戦いの中で水野信近が刈谷城に率いた軍勢があまりにも少なく一家の主としてはありえない状況で、伝承される通り城代であったと考えられる、などからその主張に無理がありすぎると言わざるを得ない。 『寛政譜』では以下のごとくである。 5、「緒川水野家」『寛永系図』も同様であるが、「賢正」および「清忠」については「某」とし、法名のみをあげる。ただし「清忠」の没年の記載がない。 「士林泝洄」は「貞守」-「為妙・下野守」-「賢勝・蔵人 」-「忠政」とする。『寛永系図・水野-坤』で忠政の兄弟とされた「藤助」(水野成政)は『寛政譜』に現れず、代わりに「清忠が長男」として左近大夫「清重」という人物が登場する。「清信」の子「水野正重」は『寛永系図』に「清久」として現れる。通称、太郎作もしくは左近。『寛政譜』によれば天文14年・1545年生まれ、桶狭間の戦いの後家康に仕えて軍功を示し、慶長7年・1602年に1000石を与えられて旗本になるという。実際は信元に仕え、その死後、家康の御家人となったようである。『松平記』にその名をみせる他、この人物の覚書(水野左近覚書。『水野記』巻十五)の内容が『武徳編年集成』や『寛政譜』の記事として用いられている。宗家は嗣子なく絶家となるが分家に紀州藩に仕えた子孫がいる。また「元定」子孫は、その経緯は不明としながらも水野を名乗って江戸旗本となっている(「水野重定」に始まって「水野穠喜」「水野穠久」「水野穠延」らの名前がみえる)。元教の妻は水野信元の娘で、信元殺害後、元教は知多に蟄居するが、子孫は徳川義直に仕えた後、徳川家宣の右筆、御家人を経て、明和5年(1768年)徳川家治の時代に旗本となっている。*「水野 近守」(みずの ちかもり、? 弘治2年3月20日(1556)は、戦国時代の三河国の武将。藤九郎。『寛政重修諸家譜』では、水野忠政(徳川家康の外祖父)の長男で、信元の兄であるが、父より早く没したとされるが、忠政は天文12年(1543)に没しており、記述が矛盾する。『士林泝洄』では、常滑水野家の水野為則の次男とされている。『刈谷市史』では、小川城主の本家を水野貞守・為則・賢勝・忠政とし、為則の次男で忠政の叔父にあたり、刈谷に分家したとする。また、子に守忠があったとし、守忠の養子に忠政の3子・信近が入ったという(『刈谷市史』)。永正14年ごろから10年間ほどは刈谷を守備していたらしい。昵懇だった連歌師宗長が、刈谷に来訪した際に近守を訪ねたりしており、連歌に通じた教養人であったようである。しかし、その他の具体的な行動については不明である。
2024年05月21日
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翌日、大和方面軍は家康の命により住吉に向かった。天王寺口において、真田信繁隊が家康の旗本へ攻め込んで、家康をあわやの目に合わせたとき、水野隊は天王寺へ駆けつけ、越前松平隊とともに戦って茶臼山[27]を落とし、後方を遮断。勢いを失った真田信繁は、松平忠直と本多忠政、松平忠明に足止めされていた。そこに勝成は勝愛院の西の方から600人で真田隊に攻め寄せた。三方から敵を受けた真田隊はついに壊滅した。信繁麾下の大谷吉治は、勝成の隊に討たれたとの情報もある。その後、越前松平隊は明石全登に崩されて、勝成の軍に逃げ込んでくるが、勝成はこれを叱責。槍を手に自ら先陣に立ってこれを押しとどめ、全登の部隊を撃退した。このとき勝成は自ら2つの首級をあげ、明石全登は勝成家臣・汀三右衛門が討ち取った。大坂城桜門に一番旗を立てる。郡山藩主元和元年(1615)に行われた大坂の役の論功行賞では「戦功第二」とされ、郡山に3万石加増の6万石で転封される。これは依然政情不安な旧豊臣領に睨みをきかすために、勝成を配置したものであるが、大坂の陣での勝成の戦功に比べて、いかにも過小評価と考える人は多かったらしく、勝成自身は2,30万石の知行を期待していたが、家康の命に反して2度も勝成自身が先頭に立って戦ったため、家康の機嫌を損ねてしまったとも言われる。この処遇に勝成は立腹するが、徳川秀忠は勝成を呼び止めてなだめ、家康隠居後に10万石の知行を約束したという水野氏側の伝承が伝わっている。郡山では破壊された城を再整備し刈谷から寺社を移転させるなどし、城下を整備した。元和3年(1617)11月22日、生母の妙瞬尼が亡くなる。初代福山藩主元和5年(1619)、福島正則の改易に伴い勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であったため地の利に詳しく、受領に当たっては幕府に尾道と笠岡との交換を要求し認めさせたといわれる。入封に際しても海上交通を重視し当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。福山城は『武家諸法度』で新規築城が禁止された中で例外的に認められた近世城郭で最後の城であり、5重の天守に7基の3重櫓や長大な多聞櫓を持つ10万石の城としては破格の巨城であった。福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630)には全国初ともいわれる藩札を発行した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発や鉱山開発、タバコの栽培も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。特に新田開発は後の水野勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。この他、備後国一宮である素盞嗚神社、吉備津神社を始めとする備後国内各地の寺社を復興し、旧領である郡山や刈谷からも寺社を移転させるなど、宗教の保護にも積極的であった。家臣の統制には目付などの監視役を置かず、法度の発布や誓詞を取ることもなかったが、問題は生じず、この噂を耳にした隣国の備前岡山藩藩主・池田光政は「良将の中の良将」と評したという。水野時代の福山では、一度の農民一揆も起こっていない。寛永元年(1624)、浅野家の亀田高綱出奔騒動を調停する。寛永3年(1626)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、従四位下に昇進し、相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1000石を加増される。寛永10年(1633)、家光の不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年(1637)、江戸城本丸天守の建設に功があり、水野家の江戸屋敷の奉行は銀、時服等を賜った。島原の乱寛永15年(1638)、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請された勝成は嫡子・勝俊、孫の水野勝貞を伴い約6000人を率いて幕府軍に加わった。これは幕府上使を除き九州の大名以外で唯一の参陣であり、老齢(当時75歳)にもかかわらず勝成の戦歴を評価されてのことであった。田尻村、高浜において同村産の巨樟を船材として軍船「大転輪丸」を造る。徳川家光は、勝成に松平信綱、戸田氏鉄と同格の相談相手になることを命じる。勝成は2月24日に島原に到着し、同日に松平信綱の陣で諸将が集い、軍議が行われた。ここで勝成の提案により総攻撃が決定され、2月28日に開始されることになったが、鍋島勝茂の抜け駆けにより27日に攻撃が始まった。勝成の陣は原城包囲の最後列であったが、鍋島軍が三の丸から攻めるのに対し、水野軍は本丸を直接攻略し、勝成の嫡子・勝俊と有馬直純の嫡子・康純が本丸の一番乗りを争った。しかし、勝成が前線指揮をとっていなかったからか、水野勢は同時に100人を超える戦死者を出すことにもなり、勝成の戦歴で最大の損害となった。
2024年05月21日
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これに勝成は反発し「父上ながらあまりのお言葉。兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗ると、そのまま信吉麾下の白江成定の陣に突入し一番首を取って、家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣・水野太郎作清久の足軽・杉山孫六が射殺した。しかし父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買った。出奔天正12年(1584)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。勝成は伊賀者とともに真っ先に乗り込み、九鬼船二艘を乗っ取る。一益の子滝川三九郎と一騎打ち。勝成は三槍入れるも二ヶ所槍を入れられ、双方傷を負い、三九郎は大手門に逃げ込む。このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。家康・信雄が羽柴秀吉と伊勢国桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。以後、美濃・尾張の縁者の下を転々とし、遂には京都にいく。京都では従者も連れず闊歩し、南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、清水では大いなる喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こした。天正13年(1585)3月27日、織田信雄の肝煎りで秀吉の陣営に入った勝成は、紀州雑賀攻めに参加した。同年に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった。この戦の直後、勝成は豊臣秀吉から摂津国豊島郡700石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から刺客を放たれたという。勝成自身はこの時期の行動を記録に残しておらず、詳細ななりゆきは不明である。九州転戦天正15年(1587)には肥後領主・佐々成政に1000石で召し抱えられる。隈部親永の反乱(肥後国人一揆)が起きると菊池城攻めで一番槍をあげ、隈本城救援戦で先鋒となる。この戦いでは武勇を知られた阿波鳴門之介(後に尼子十勇士に挙げられる)と戦功を競ったという。成政の要請に応じた立花宗茂が反乱側に包囲されていた平山城を後詰めした際には、立花家の十時連貞、安田国継と共に働き城を救っている。一説によれば隈部親子を討ったのは勝成であるといわれる。乱後に成政が一揆発生の責めを受けて切腹させられ、小西行長が肥後を領することになると、豊前領主・黒田孝高に仕官した。豊前国人一揆では野中鎮兼が籠もる長岩城を攻めあぐねた黒田軍が退く際に後藤基次と殿を争った。その後、豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう孝高の嫡男・黒田長政に随伴したが備後国鞆の浦で下船し出奔した。長政に操船の手伝いを命じられ憤慨したためとも、過去に秀吉の怒りを買っており大阪行きを嫌ったためともいわれる。天正16年(1588)には小西行長に1000石で仕官する。天正17年(1589)の天草五人衆の反乱(天正天草合戦)では、行長の弟・小西主殿介の副将を務め、当時小西家に仕官していた阿波鳴門之介と戦功を競った。志岐鎮経の本拠志岐城を加藤清正の援軍と共に攻略、さらに天草種元の本渡城を落とした。その後、行長の元を去り清正、次に立花宗茂に仕官したものの、いずれも間もなく出奔した。貴種流離譚ここから勝成の流浪生活が再び始まり、その足取りは、さまざまな伝説と憶測と逸話に彩られ、諸説紛々としている。最終的に備中国成羽の国人・三村親成の食客となった。文禄3年(1594)9月、月見会の席上で作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬って出奔するが、翌年正月、再び成羽に帰り三村家の食客になった。このとき勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうける。これが室となる於登久(おとく)であり、この子供が後に福山藩第2代藩主となる勝俊である。家督相続慶長3年(1598)、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌慶長4年(1599)、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった。そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・忠重と15年ぶりに和解する。同年4月22日、勝成の妹・かな姫(のちの清浄院)が家康の養女となって、加藤清正と結婚。慶長5年(1600)に家康に従って会津征伐のため下野小山に宿陣している。7月18日、三河国池鯉鮒にて、忠重は加賀井重望から西軍に誘われるも断ったので殺害された。その場で殺害された重望の懐から、石田三成より家康関係者を殺害することによって領地恩賞を与えるとの書状がでてきた。7月25日、家康に従軍していた勝成は、一旦、刈谷城に帰り、三河国刈谷3万石の家督相続を命じられた。以後、家康の側近になる。
2024年05月21日
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しかし、綱利が細川邸に入った後の浪士たちの元へすぐさま自ら赴いて大石内蔵助たちと会見したのに対して、忠之は幕府を憚ってか、21日になってようやく浪士たちと会見している。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と久松松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って九士を切腹させた。宝永2年(1705)1月1日に奏者番に就任する。さらに正徳元年(1711)12月23日には若年寄に就任した。正徳4年(1714)9月6日に京都所司代に就任する。このときに従四位下侍従和泉守に昇進した。享保2年(1717)9月27日、老中となり将軍徳川吉宗の享保の改革を支えた。享保7年(1722)、財政を専任する勝手掛老中に任ぜられた。享保8年(1723年)、見立新田十分一の法を設け、新田開発を促した。享保10年(1725)には1万石を加増された。享保13年(1728)、年貢を四公六民から五公五民に引き上げた。これらの施策により幕府の財政は好転したものの、米価の急落や負担増による不満から批判された。享保15年(1730)6月12日に老中職を辞し、7月6日に次男の忠輝に家督を譲って隠居した。隠居後は落髪して祥岳と号した。享保16年(1731)3月18日に死去した。享年63歳。生前の遺命に基づいて牛込宝泉寺にて荼毘し、遺骨は24日に下総国山川万松寺へ送られて葬られた。*「水野 勝成」(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。少年時代勝成は幼名を国松といい、若名を藤十郎といった。『寛政重修諸家譜』では母・妙舜尼は都築吉豊の娘としているが、水野家の文献では本願寺光佐の妹となっている。永禄7年(1564)に三河国刈谷の生まれとされるが、父・水野忠重は当時、同国岡崎に住んでおり、記録と矛盾している。忠重が鷲塚城主をしていた時代の子供であるから、鷲塚生まれとも考えられる。高天神城の戦い初陣は天正7年(1579)の遠江高天神城攻めで忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。天正8年(1580)、父の忠重が織田信長に引き抜かれ、刈谷の大名になる。勝成は奥田城、細目城を任される。同年の第二次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられる。なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。天正10年(1582)、武田勝頼を攻撃した天目山の戦いに加わった。本能寺の変のおりは、水野忠重、勝成父子は京都にいた。東山の東福寺山林に三日間身を隠したあと、東福寺境内の塔頭霊源院に匿われる。霊源院の好意で京都を脱出したあと、京極高次の居城江州大津城に入り、それから京極勢の手で、刈谷城へ送られた。天正壬午の乱天正10年(1582)、勝成は父の許を離れ徳川家康の下で天正壬午の乱に参加する。甲斐古府(現在の甲府市)において家康と北条氏直が対峙すると、勝成は鳥居元忠、三宅康貞と共に北条氏忠の陣に攻め込んだ(黒駒合戦)。これを見た北条氏勝は氏忠の救援に向かうが、勝成と三宅康貞はこれを返り討ちにした。なお、この攻撃に際し鳥居元忠は勝成に出陣を知らせず自軍のみで行動していたが、これを知った勝成は元忠に追い付いて、抜け駆けだとして抗議したうえで「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と、先頭を切って敵陣に突入したという。この戦いで勝成は自ら内藤某の首級をあげ、数多くの首級をあげる。その後、北条氏と徳川氏の講和が成立。10月29日、和議の証として、大道寺孫九郎某等が人質として送られてくると、家康は人質は不要として勝成、鳥居元忠、榊原康政に見坂の城まで送らせる。小牧・長久手の戦い天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の与力である忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に小牧山から酒井忠次、榊原康政、大須賀康高、本多康重らと木幡城に移り羽柴信吉を攻撃した。この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。
2024年05月21日
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水野家当主となったことで忠重は信長の家臣となり、織田信忠の軍団に組み込まれたらしい。天正9年(1581)1月4日、信忠の命により同族の水野守隆とともに横須賀城の番手として派遣された。この後、家康の高天神城攻めに加わり、度々信長に報告。1月25日付で、信長より細々とした指示を受けている。この時の忠重は、攻城軍の目付か軍監として徳川に付けられたものと思われている。天正10年(1582)2月、信忠の甲州征伐に従軍。武田滅亡の後に信長が凱旋する途中、三河にて信長を饗応している。同年6月、本能寺の変が起こると、信忠に従って妙覚寺、二条御新造にいたらしいが、難を逃れて京都に潜伏。脱出して、6月11日に三河国刈谷に戻った。『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、北畠信雄に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。天正12年(1584)3月10日、羽柴秀吉は、信雄方の水野忠重、丹羽氏次、高木貞友等を(家臣として)招くが、応じなかった。同月、小牧の戦いに信雄方として従軍し、13日、子・勝成は伊勢神戸城の救援を命じられ、忠重は(信雄に誅殺された)岡田重孝の弟・岡田善同の籠もった攻撃し、これを降伏させ、も攻略した。長久手の戦いでは、4月8日、岡部長盛、大須賀康高、榊原康政、本多広孝、丹羽氏次と共に織田・徳川連合軍の先手を務めた。小幡城で軍議の後、翌朝未明に三好秀次の本陣を襲撃して潰走させた。6月、蟹江城合戦でも、丹羽氏次と共に活躍した。10月に秀吉は織田信雄の籠もる桑名城を包囲したが、忠重らは堅く守ってこれを退けた。桑名対陣中、嫡男の勝成が、忠重の家臣・富永半兵衛に讒言されて父に罰を受けたといって、これを殺害した。小牧でこの弁明を受けた忠重は許さずに追放したので、勝成は諸国放浪した。11月15日、信雄が秀吉と単独講和して秀吉の臣下となったので、忠重は陪臣の身分となった。天正13年(1585)2月、秀吉が雑賀攻めの軍を起こすと、信雄から同月12日に出陣の命令を受けている。時期ははっきりしないが、この頃に忠重は秀吉の直臣となったようである。9月、秀吉に摂津豊島郡内の神田728石の加増を与えられているが[5][3]、『寛政譜』ではこれを勝成への扶助とする。秀吉は桑名対陣での働きや、多年の功績を評価して、石川数正と同じ武者奉行とした。天正15年(1587)の九州の役に参加。同年7月29日、従五位下和泉守に叙任されて、豊臣姓を賜った。天正18年(1590年)の小田原の役では、250騎を率いた。同年9月4日、伊勢神戸城4万石に移封された。文禄元年(1592)、文禄の役では、『松浦古事記』の記録に名護屋御留守番陣衆の中に水野和泉守の名があり、肥前名護屋城に在陣した[5]。文禄3年(1595)、伏見城普請を分担。経緯や理由はわからないが、同年に再び本領・三河刈谷城主に戻され、『当代記』によれば石高は2万石とあるので、減封になったようである。慶長3年(1598)8月、秀吉が死去すると、遺物左文字の刀を受領した。慶長5年(1600)、家康の会津征伐には子の勝成が従軍し、三河国に留まる。7月19日、三河国池鯉鮒において浜松から越前府中の新領に帰る堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、同席した加賀井重望(秀望)と口論になって殺害された。享年60歳。兄・信元と同じ三河楞厳寺の水野家の霊廟に葬られたが、子の勝成が追善供養のために建立した広島県福山市の賢忠寺にも墓がある。*「水野 忠之」(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。寛文9年(1669)6月7日午前6時頃に岡崎藩主水野忠春の四男として、水野家江戸屋敷で誕生した。延宝2年(1674)7月9日に親族の旗本水野忠近(2300石)の養子となって家督を継いだ。元禄10年(1697)2月には御使番に列し、布衣(六位相当になったことを意味する)の着用を許された。元禄11年(1698)4月19日には日光目付、さらに9月25日には日光普請奉行となった。元禄12年(1699)1月11日、実兄の岡崎藩主水野忠盈の養子となり、忠盈の没後の9月27日に家督相続し、10月18日には従五位下・大監物に叙任された。元禄14年(1701)3月14日に播磨赤穂藩主浅野長矩が高家吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。また翌年12月15日、赤穂浪士が吉良義央の首を挙げて幕府に出頭した後には、そのうち間光興・奥田行高・矢頭教兼・村松高直・間瀬正辰・茅野常成・横川宗利・三村包常・神崎則休9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。大石良雄を預かった肥後熊本藩主細川綱利に倣って、忠之も浪士たちを賞賛し、よくもてなした。
2024年05月21日
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「浦上 清宗」(うらがみ きよむね)は、戦国時代の武将。 浦上政宗の次男として誕生。『備前軍記』によると、永禄7年(1564年)1月11日、黒田職隆の娘を室に迎える婚礼当日に置塩城主・赤松晴政[2]の攻撃をうけ室山城にて父・政宗と共に討死した。妻は城主を継いだ弟・誠宗に再嫁している。 ただし、没年を弘治2年(1556年)とする説もある。 「浦上 誠宗」(うらがみ なりむね/あきむね)は、播磨国の戦国大名。浦上政宗の三男。Ø 父・浦上政宗と兄・清宗の死後、家臣である江見河原源五郎らに室津城主に擁立される。また兄の室になるはずだった黒田職隆の娘を娶り、久松丸を儲けた。 しかし、播磨国内での勢力拡大を恐れた、叔父・浦上宗景の意を奉じた江見河原によって暗殺され、これにより室津の浦上家は没落した。 「浦上 久松丸」(うらがみ ひさまつまる、永禄10年(1567年) - 天正3年(1575年)頃)は、戦国時代の人物。父は浦上誠宗、母は黒田職隆の娘。 守護・赤松氏の本拠である置塩城に住んだとされる(「備前軍記」など)。 9歳になった時、備前国で大叔父・浦上宗景と対立する宇喜多直家により、正統な浦上家の当主として擁立され、岡山城へ迎えられた。この際直宗という諱を名乗ったとされている。Ø その結果、配下の国人らの相次ぐ離反によって、宗景は天神山城から播磨国に退去した。Ø 天正元年(1573年)、東播磨の三木城主・別所長治の後援を受けて、増位山にて黒田職隆配下・小寺休夢を攻撃する。職隆・休夢らは有明山城に入って交戦するが、別所勢はこれを破った。Ø 一方で久松丸も、間もなく直家に毒殺されたとも伝えられる(美作沼本家文書、小寺家文書、「吉備前鑑」「備前記」など)。また「書写山十地坊過去帳」には、永禄10年(1567年)に父・二郎九郎と共に死亡したという記述がある。 「浦上 国秀」(うらがみ くにひで)は、戦国時代の武将。浦上氏の家臣。 国秀の家系は浦上氏の庶流。『紀姓堀田系図』では浦上国宗の子、他説には浦上則宗の子(弟とも)、浦上則国の一族であると伝わるが、いずれも後年作られた系図などの記録であり良質な史料の記録ではない。 享禄4年(1531年)、当主・浦上村宗が大物崩れで戦死すると、その嫡子・虎満丸(後の政宗)がその跡を継いだ。Ø しかし、虎満丸はまだ幼少の身であり当主の役割を果たすことは不可能であったため、国秀が後見人を務めた。Ø 同年の10月28日には前年の依藤城の戦いで柳本賢治暗殺に功のあった中村助三郎に対して村宗に替わって佐々村(播磨国揖東郡佐々村)に兵粮料所の宛がうなど、村宗死後の数ヶ月で当主に相当する権力を得たことが窺える。村宗の死から10年ほどの間の浦上氏の発給文書は国秀署名の物が殆どで、言わば虎満丸が成長するまでの当主代行的な地位にあったとされている。Ø その後、政宗が成長すると三奉行の一員として島村盛貫、角田佐家と共にこれを補佐した。Ø 政宗が成長した天文19年(1550年)以降も重臣として権勢をふるい、天文19年以降の様々な文書に島村盛貫らと共に連署している。Ø その後の政宗と弟の宗景が対立した際には政宗に従って出陣し宗景と争い、その後は政宗を裏切り宗景に寝返ったと伝わる。Ø しかし、いずれも軍記物のみの記述であり出陣したという事も裏切り行為をしたという事も裏付けに至るような史料は一切見つかっていない。 浦上氏分裂後は殆ど発給書状等が無く失脚した可能性が高いが、元亀2年(1571年)12月2日付けの『善福寺文書』には国秀の名前が再び登場し、摂津国有野荘の百姓が湯山阿弥陀堂の土地を横領しているのを停め、同地を阿弥陀堂に安堵する旨を伝えた書状が当人の花押付きで残されている。Ø この当時の国秀が摂津においてどういう立場で如何なる権限でこうした書状を発給していたのかの詳細は不明だが、晩年は播磨から離れていたようである。 「浦上 玉堂」(うらかみ ぎょくどう、延享2年(1745年) - 文政3年9月4日(1820年10月10日))は、江戸時代の文人画家、備中鴨方藩士。諱は孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得て「玉堂琴士」と号した。父は宗純。Ø 延享2年(1745年)、岡山藩の支藩鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の藩邸に生まれる。玉堂は播磨・備前の戦国大名であった浦上氏の末裔で、系図上では浦上一族の浦上備後守の曾孫とされるが、実際はさらに代は離れているようである(「浦上家系図」では備後守は宗景の孫とされるが、実際は同時代の人物である)。Ø 若年より、学問、詩文、七絃琴などに親しむ。鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であったが、琴詩書画にふける生活を送っていたことから、周囲の評判は芳しくなかったらしい。Ø 50歳のとき、武士を捨て、2人の子供(春琴と秋琴)を連れて脱藩(妻はその2年ほど前に亡くなっていた)。以後は絵画と七絃琴を友に諸国を放浪、晩年は京都に落ち着いて、文人画家として風流三昧の生活を送る。特に60歳以降に佳作が多い。代表作の「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は川端康成の愛蔵品として知られる。
2024年05月19日
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豊臣家臣として信長の死後は秀吉に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げて、近江国大津2万石を与えられる。天正12年(1584年)には京都奉行職となり、のちに豊臣政権下で五奉行の筆頭となる。長吉は、その卓越した行政手腕を買われて秀吉に命ぜられて太閤検地を実施する。また、東国の大名との関係も深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理を任されていた。天正14年(1586年)、秀吉の妹・朝日姫が徳川家康の正室として迎えられた際は、浜松まで赴いた。天正15年(1587年)、九州平定などでも従軍して活躍し、同年9月5日、若狭国小浜8万石の国持ち大名となる。天正16年(1588年)、従五位下・弾正少弼に叙任される。関東平定では忍城の戦いに参加し、攻城戦終盤や戦後処理では石田三成に代わって、長政が主導的な役割を果たしていくことになる。天正18年(1590年)の奥州仕置では実行役として中心的役割を担った。取次役として南部信直との関係を強め、葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処した。天正20年(1592年)、豊臣姓を下賜された。文禄2年(1593年)、朝鮮出兵でも功績があり、加藤光泰の死後に収公されていた甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入る。東国大名の取次役を命じられ、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長らを与力とするが、その職務実施状況に不満をもった伊達政宗より絶縁状を突きつけられた。また、宇都宮国綱の突然の改易に長政の讒言があったとする説もある。これには諸説あるが、宇都宮興廃記によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行の一人である長政の三男・浅野長重を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。傍証として、慶長2年(1597年)10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状がある。そこには、宇都宮氏を与力大名とし姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが、石田三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている。このことからも、宇都宮氏の改易に長政の関与があったことが伺える。後に東北・関東の諸大名への申次は、徳川家康・前田利家・蒲生氏郷・上杉景勝・石田三成などに取って代わられた。長政は上方に詰めていることが多く、甲斐支配は嫡男・幸長が在国して行った。浅野氏は近世に確立した地域区分である九筋二領にそれぞれ国奉行を配置し、郡内領や河内領においても支配機構を整えた。さらに甲斐における太閤検地の実施や甲府城の修築を行い、甲斐支配を進めた。五大老筆頭の徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行の石田三成と不仲であったとされているが、これには近年になって疑問も提示されている。しかし、佐竹義宣から父・義重への手紙において三成から長政の動向について密告があったことが記されていることからも、不仲と言えないまでも仲が良いとは言い難い状態であったことは確かである。慶長4年(1599年)、前田利長らと共に家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居した。関ヶ原の戦い慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、家康の三男・秀忠の軍に従軍して中山道を進み、幸長は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍した。戦後、幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封された。長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移った。慶長11年(1606年)、幸長の所領とは別に常陸国真壁5万石を隠居料として与えられた。慶長16年(1611年)、真壁陣屋にて死去。享年65。真壁5万石は三男・長重が継いだ。
2024年05月16日
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2、「浅野氏の出自」(あさのし、旧字体: 淺野氏)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩(はじめ紀伊和歌山藩)主、分家に三次藩、広島新田藩主、別家[3]は播磨赤穂藩主。通字は「長」(広島藩は「晟」も使用)。出自・血統家系は清和源氏頼光流土岐氏の庶流で、土岐光衡の次男で判官代土岐光時が承久の乱で宮方であったために乱後、土岐郡浅野の浅野館に蟄居するとともに浅野と名乗り、光時に始まる土岐氏草創期の一族であるとされている。その他、『寛政重修諸家譜』では尾張国丹羽郡浅野村を発祥地としている。浅野長政は尾張国春日井郡北野の宮後城主・安井重継の子として生まれ、浅野長勝の養子となった。同じく、杉原定利から浅野家へ養子に出されたおねとのちに関白となる木下藤吉郎(秀吉)との婚姻によって、豊臣政権下において浅野家は豊臣家の外縁となり、五奉行の一員に任ぜられた。なお、浅野宗家には綱晟の代に彼の正室、継室として九条道房の娘が入っている。道房の母は豊臣秀勝(秀吉の甥)の娘である豊臣完子である。宗家長勝の頃には、織田信長弓衆であったが、長勝の養女ねねが織田信長の家来だった木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に嫁いだことで、のちに関白となった秀吉に重用されることとなる。 3、「真壁藩と浅野長政」(まかべはん)は、常陸国(現在の茨城県桜川市真壁町)に存在した藩。藩史慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、浅野幸長は東軍に与して戦功を挙げたため、戦後、甲斐国から紀伊国紀州藩37万6500石に加増移封された。その幸長の父・浅野長政は慶長10年(1605年)に隠居して家督を幸長に譲ったが、翌年に隠居料として幕府から常陸真壁などに5万石を与えられた。これが真壁藩の立藩である。長政は慶長16年(1611年)4月7日、65歳で死去し、その所領は三男の浅野長重が継いだ。長重は大久保忠隣改易のときの小田原城受け取りや大坂の陣で武功を挙げ、さらに本多正純改易後の宇都宮城守備などでも功績を挙げたため、幕府よりこれらの功績を評価されて加増移封の命を受ける。しかし長重は父・長政の菩提寺(真壁郡桜井村の伝正寺)のある所領の支配を望んだため、3500石を加増の上で笠間藩へ加増移封とした。真壁藩は廃され、その所領は笠間藩領として併合された。赤穂事件で有名な浅野長矩は長重の曾孫である。歴代藩主・浅野家・外様 5万石。浅野長政・浅野長重 「浅野 長政」(あさの ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五奉行筆頭。浅野家14代当主。常陸国真壁藩初代藩主。長政は晩年の改名で、初名の長吉(ながよし)を名乗っていた時期が長い。家督相続から織田家臣へ尾張国春日井郡北野に宮後城主・安井重継の子として生まれる。織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に迎えられ、のちに家督を相続した。同じく長勝の養女となっていたねね(寧々、のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長吉は秀吉に最も近い姻戚として、信長の命で秀吉の与力となる。天正元年(1573年)、浅井長政攻めで活躍し、秀吉が小谷城主となると近江国内に120石を与えられた。
2024年05月16日
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4月1日、家康は家臣伊奈昭綱と五奉行の増田長盛の家臣河村長門を使者として会津に送り、景勝の上洛ないしは弁明の使者を送るように催促した。対する上杉方の返答は、上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌宛に5月3日に届いた。有名な直江状である。同文中では「内府様又は中納言(徳川秀忠)様、御下向の由に候間、万端、御下向次第に仕る可く候」と宣戦布告とも取れる言を発している。また、同文中で越後への野心について「久太郎(秀治)ふみつぶし候に、何の手間入り申すべきや。橋架けるにいたらず、」と、堀家を侮辱しているが、現存している直江状は後世に大幅に改竄された可能性が指摘されている。直江状が届いた即日、家康は上杉攻めを決定。諸大名に命じ、上杉討伐の軍を組織した。秀治にも「津川口から会津へ攻め入るべし」との書状を送った。これについて堀家では意見が割れた。堀直寄は「太閤(豊臣秀吉)の恩に報いるため上杉と組むべき」と主張し、直政は「秀吉のみの恩ではなく、そもそも(堀家は)信長公の御恩から起こったのだから、秀吉の恩だけを強く感じる必要はない」と主張し、加えて「家康方の勝利は確実なので、堀家のためには家康方」と主張したことにより、堀家は家康方につくこととなり、戦争の準備を始めた。6月2日に出陣を命じられた諸大名の内、越後の津川口から会津へ侵攻する担当とされたのは、加賀の前田利長、越後の堀秀治と堀家の与力大名である溝口秀勝・村上義明らであった。上杉遺民一揆予想される、北陸方面からの徳川方の諸将の会津侵入を妨害・阻止するため、また、景勝が奥羽越佐を一大領国化し、その覇王となることを目指したとする説もある[7]。上杉方は旧領越後国内にて軍事行動を行うことで妨害を行うこととした。上杉氏は会津に移動して間もないため、越後には当時、会津転封に従わずに越後に残留した、旧主である上杉氏に誼を通じ、自領を長く支配してきた在地武士(国人)や独立的な諸勢力が多く残っており、逆に言えば新しく入った堀・溝口・村上らはそれら在地勢力の扱いには悩まされてきた。 また堀氏は転封後、即座に検地を行い、作物にこれまでよりも多くの年貢をかけ、また上杉時代は無税であった商品作物などにも課税を行ったことにより、農民などからも恨みを買っていた。これらの統治政策に対し、越後に残った旧上杉方の国人領主・地侍らが堀氏の居城春日山城に大挙して押し掛け、罵声を上げる事件なども発生していた。上杉氏はこれら諸勢力・諸人や寺社に対し、竹俣朝綱や加地景綱などを中心に、一向宗などにも声をかけ、地侍らを糾合させた。さらに国境を越え、上杉氏の軍勢も送り込まれ、槍を携える者700人、銃を携える者2000人、雑兵6000人が集まった。また直江兼続は、身分の低い兵のうち、智謀に富み忠義のある者を選んで、越後に浪人を装わせて潜入させ、寺社などもにも声をかけて一揆を起こさせ、堀家の会津入りを邪魔しようとしたと伝わる。8月1日、一揆は小倉政熙の守る下倉城を囲んだ。小倉政熙は討死し、下倉城は一揆勢により陥落した。翌日には坂戸城の堀直寄により奪還されている。8月3日、一揆勢は堀直政の居城三条城(嫡男の堀直清が守備)を攻撃している。その後も魚沼地方、小千谷、柿崎など、越後各所で一揆勢は戦闘を繰り返した。一揆勢は会津と越後の境の加茂山など、新規に砦を構築したり、古城を修築して拠るなどした。一揆勢の活動はしかし、目標とするところも、主導する総大将的な存在も不確かなものであり、どうしても散発的なものになりがちであったため、これらは個別に追討されていった。小千谷では薭生城に僧侶に率いられた3800人が立て籠もるが、これも追討された。 9月8日、堀親良は下田に向かい、首300余りを獲えた。同日、堀直寄は父の堀直政、兄の堀直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。この頃、7月21日には上方で石田三成が挙兵していたため、8月5日、家康は江戸に戻り、諸将にも西上するように命じたため、越後口からの上杉追討軍の侵入は立ち消えとなった。越後の諸大名に対しては、上杉軍の侵入に備えつつ、国内の一揆勢の追討を行うこととされ、積極的な西上は命じられなかった。また、徳川方の西上により、上杉方は当面の攻撃目標を北方の最上氏に変更したため、越後方面に割く軍勢はなくなった。越後では堀家を中心とした残党の掃討戦が行われ、一揆は自然消滅していった。なお、片桐昭彦によると、この一揆は上杉景勝の意向ではなく、直江兼続が独断的に動かし、越後の村上・溝口両氏だけでなく、石田三成や佐竹氏らとも交渉を行っていたとする。これは一時的な状況だが、関ヶ原合戦前における上杉氏の政治体制のあり方を象徴的に示しているとしている。
2024年05月03日
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堀家除封の頃の堀家を取り巻く情勢を見ると、家康は外様大名の排除を着々と進めていた。堀家除封後、直江津福島城は廃城となり、松平忠輝が高田城に入る。直清の息子たちは、次男の主計直浄(家系図によっては直倫)は村上藩の叔父である直寄に仕え、村上除封後は新発田藩の溝口家に仕える。八男の主馬助直正(家系図によっては直信)は溝口宣直の母・長寿院の招きにより、新発田藩の溝口家に仕える。九男の新五左衛門直勝(家系図によっては直長)は信濃飯田藩の堀家に仕える。 「堀 秀治」(ほり ひではる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越後福嶋藩の初代藩主。堀秀政の長男。越前時代天正18年(1590年)、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父が陣中で病死したため、家督を継ぐこととなった。11月6日、父同様に豊臣姓を与えられる。文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に参陣する。文禄2年(1593年)には伏見城工事に貢献した。越後国主これらの功績から、慶長3年(1598年)4月に越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石へ加増移封され、その際に村上義明(9万石)、溝口秀勝(6万1000石)、堀親良(3万石)、堀直寄(1万石)を与力とした。秀治は24歳のため、豊臣秀吉は堀直政をして補佐せしめた。また、越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が前半歳の租税を徴したので、返還を求めたが、上杉氏はこれを拒否した。秀治は入部すると春日山城の矢倉・堀の普請を行ない、慶長5年(1600年)には福嶋の地に居城移転の計画を立てた。慶長年間に二段階に分けて太閤検地方式を行う、従来の上杉検地方式の否定であり、上・中越後に総検地を実施し、幕藩体制の基礎を確立し、その後の越後諸藩の検地制度に大きな影響を与えた[5]。関ヶ原の戦い慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去すると徳川家康に接近し、一族の堀直重を人質として江戸に送った。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、それ以前の4月に直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉旧臣・神官・僧侶の一揆を鎮圧した(越後一揆、上杉遺民一揆)。戦後、その功により家康から所領を安堵された。一揆の直接原因は上杉氏によるものであるが、秀治は直江兼続に年貢を持ち出されて財政が困窮していたため、財政強化のために堀検地を実施して漆などにも年貢をかけ、そのため領民の不満が高まり、寺社統制も強めて真言潰しと称される真言宗弾圧を行った結果とする説もある。慶長11年(1606年)5月に31歳で死去し、跡を嫡男の忠俊が継いだ[4]。 ●「堀 直寄」(ほり なおより)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。越後坂戸藩、信濃飯山藩、越後長岡藩、越後村上藩主。堀直政の次男(または三男)。兄に直清、弟に直之、直重ら。正室は長沢松平家出身の松平近清の娘。子に直次、直時、娘(池田長常正室)、娘(岡部行隆正室)。官位は従五位下、丹後守。天正5年(1577年)、堀直政の次男(または三男)として誕生。天正18年(1590年)、従叔父の堀秀政が死去し、又従弟で秀政の嫡男・秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老だった父・直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は「老齢の父を助けるため3年の暇を賜りたい」と秀吉に直訴、これに感心した秀吉は「丹後守(直寄)は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」と了承し、越後魚沼郡坂戸城2万石を与えられた(坂戸藩)。秀吉の死後、会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉・石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。※「上杉遺民一揆」(うえすぎいみんいっき)は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに関連して越後国で行なわれた、主に堀氏(東軍)と、上杉景勝(西軍)の軍および影響下にある在地勢力との戦闘。上杉棄民一揆とも。豊臣秀吉の死後、政情不安な状態の中、五大老のひとり上杉景勝は慶長4年(1599年)、伏見から領国会津へ帰国。家老の直江兼続に命じて新規に神指城を築城し始め、砦、道を修復し、峠を要塞化した。また武器、米を買い、前田慶次郎、上泉泰綱、小幡将監、山上道及らをはじめとする浪人を多数雇った。隣国であり、上杉氏の旧領であった越後を当時領していた堀秀治はこれらの実情を五大老の徳川家康に報告した[1]。慶長5年3月11日、家康と景勝の関係の修復に努めていた藤田信吉が上杉家から逃奔する。
2024年05月03日
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上杉遺民一揆兼続の催促、三成からの書状により、上杉譜代の兵達が8千人、鉄砲が2千挺集まった(『北越太平記』)。兼続は身分の低い兵のうち、智謀に富み忠義のある者を越後に浪人を装わせて潜入させ、寺社などに検地入を苦情の一つとして一揆を起こさせ、堀家の会津入りを遮らせようとした(『越後風土記』)。 8月1日、一揆は奥広瀬から起こり、小倉主膳の守る下倉城を囲んだ。小倉主膳は討死したが、救援で駆けつけた直寄が数百人を討ち取り一揆を鎮圧した。直政も柏崎方面へ出陣し、一揆を鎮圧した。8月3日、一揆勢は堀直政の居城三条城を攻撃したが、守将の直清が撃退している。7月21日、上方で石田三成が挙兵していたため、家康は江戸に戻った。兼続は家康追撃を景勝に進言するが、景勝は「今回の件は堀直政の讒言により家康が仕掛けてきたので、合戦の準備をしたにすぎない。しかし家康が江戸に引き返すからには、こちらも会津へ引取るべきは当然である」と出陣を拒否した。9月8日、直政は長男の直清、次男の直寄と共に三条城から津川に向けて兵を出し、これを平定した。9月21日、一揆鎮圧の功により家康から感状を賜った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを境に一揆は自然消滅していった。関ヶ原の戦い以後慶長6年(1601年)、家康は秀治に書状を送り、徳川家の直轄領になっていた佐渡で起きた一揆の鎮圧を直政に命じた。慶長10年(1605年)頃になると、家康の命により高台院の望む秀吉の菩提寺の建設にかかった。秀吉が生前建てた康徳寺を移転・拡張し、高台寺を建て、費用の半分を直政が負担した。開山堂内陣には直政の木像が祀られている。高台寺建築中、伏見に滞在しており、この時家康に秀治の息子に徳川家からの嫁を懇願していた。家康はこれを聞き入れ、外孫にあたる本多忠政の娘の百合姫を徳川秀忠の養子として嫁がせた。さらに秀忠の偏諱を与えて忠俊と改名させ、松平姓も与えられたが、終生、徳川将軍家の親藩・譜代としての扱いは受けられなかった。慶長10年(1605年)、堀親良と対立する。慶長11年(1606年)5月に秀治が死去すると、幼少の忠俊を補佐した。慶長13年(1608年)12月、62歳で死去した。歴戦をくぐり抜けた勇将であったと言われている。『堀鉄団公記』によると死後「城東の圓昌寺」というところに埋葬されたという。後に直寄の手により、高野山正智院に改葬された。人物『名将言行録』の堀直政の項に、天下の三陪臣の一人として挙げられている。「秀吉曰く、陪臣にて、直江山城(兼続)、小早川左衛門(隆景)、堀監物(直政)抔(抔は等と同じ)は天下の仕置をするとも、仕兼間敷(しかねまじき)者なりとて、共に賞誉せられけり」とある。 「堀 直清」(ほり なおきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。堀直政の長男。天正元年(1573年)、堀氏家臣・堀直政の長男として誕生。堀宗家の当主・堀秀治と忠俊に仕える。父・直政の名代として三条城主となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に東軍に属し、越後で発生した上杉氏残党による一揆の鎮圧に尽力した。8月4日、上杉方が土民を騙り、三条城を攻撃、直清は敵を数多く討ち取り撃退した。そののち一揆勢は越後の境である加茂山に砦を構え、9月8日、会津の兵3000余人とともに大崎へ出陣するが、直清は三条城より討って出て、敵将を討ち取り、徳川秀忠から賞賛された。慶長13年(1608年)、父の死後に三条5万石の城主となり、堀家の執政職となる。ところが慶長15年(1610年)、弟・直寄が直清による僧侶の殺害を徳川家康に訴えた。直清は浄土宗と日蓮宗の宗論を行わせ、敗れた浄土宗の僧侶十名を処刑したため、浄土宗門徒が直清のやり方を非難して一揆を起こしかねない状況となった。 直政の妻の自性院は、この騒動が大規模な宗教一揆に発展し、堀家の没落に発展しかねないと恐れ、自分の縁者に当たる秀忠の妻・お江の方に書状を送り善処策を乞い、さらに直寄を派遣して家康にも助力を求めた。しかしこれにより家康は直政時代にはできなかった堀家除封の口実を得た。(「越後福嶋騒動」項目参照)主君の忠俊、そして直清、直寄、親族の利重ら堀家の一族が駿府へ呼び出され、家康による裁定が行なわれた。家康は「家中取締不十分」とし、忠俊から所領を没収、忠俊は磐城平の鳥居忠政のもとへ配流となった。忠俊は直清には非がないことを訴え、助命嘆願した。直清も所領没収、最上義光のもとへ配流となった。直寄は1万石の減封となった。寛永18年(1641年)、死去。その後
2024年05月03日
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信長は「当家の家臣にも法華の宗徒は大勢いるので、信長の考えで斡旋をするから、大袈裟な事はせぬ様に」と、菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを使者として両宗に伝えた。しかし、浄土宗側ではどの様な指示でも信長に従うと返答したが、法華宗側は宗論に負けるわけがないと驕って従わず、ついに宗論をする事になってしまう。そこで信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申しつけ、京都五山の内でも指折りの博学で評判の、日野に住む臨済宗南禅寺・建仁寺長老・鉄叟景秀(てつそうけいしゅう)を審判者に招いた。そして折り良く因果居士(いんがこじ)が安土に来ていたので、彼も審判に加えて、安土の町外れに有る浄土宗の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。寺内の警備に、津田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一の5人を派遣。法華宗側はきらびやかな法衣を着飾り、頂妙寺日珖、常光院日諦、寂光寺日淵、妙国寺普伝、そして妙顕寺の大蔵坊の5人が記録係として、法華経八巻と筆記用具を持って登場。浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉貞安(せいよていあん)、正福寺信誉洞庫、知恩院一心院助念の4人が筆記用具を持って登場。法論の出席者は以下の通り。· 浄土宗側 - 霊誉玉念(浄蓮寺)、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、助念(知恩院、記録者)· 法華宗側 - 日諦(常光院)、日珖(頂妙寺)、日淵(久遠院)、普伝(妙国寺)、久遠院大蔵坊(記録者)· 判定者 - 鉄叟景秀(南禅寺、建仁寺)、華渓正稷(南禅寺帰雲院)、仙覚坊(法隆寺)、(因果居士)· 名代 - 津田信澄· 奉行 - 菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一· 目付役 - 矢部家定、森蘭丸】また、叔父である蓮照寺住職に育てられた関係で、本願寺との交渉にあたり、石山本願寺との和睦と紀州鷺森への退城を促し、交渉に奮闘していたことも想像される。後に秀政は、本願寺顕如から釋道哲の法名をいただいている。(蓮照寺文書) 天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。この功績ならびに荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功績により、この年、織田信長から長浜城主2万5000石を与えられた。※「天正伊賀の乱」(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。第一次天正伊賀の乱北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信雄は同年3月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。すぐさま伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。翌天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で8,000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。信雄軍は重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる。また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。第二次天正伊賀の乱天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。そして再び織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。
2024年05月03日
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加えて同時期、長繁が信長に対して自らの越前守護任命と引き換えに実弟を人質を差し出して恭順する、と誼を通じたという風聞が立ったこともそれに拍車をかける結果となった(『越州軍記』)。そして、一揆衆は長繁と手を切り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き、自勢力の首領とした。杉浦玄任は坊官でありながら越中において、総大将として一揆軍を率い、上杉謙信と戦った武将であった。尻垂坂の戦いでは謙信に敗れたが、五福山や日宮城で上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった。一揆衆の中に相当数の浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒がおり、彼らの意見が通ったのである。こうして富田長繁を大将とする土一揆は、そのまま七里頼周を大将とする一向一揆に変貌した。2月13日、一揆勢は先制攻撃をかけ、長繁の家臣である増井甚内助が守る片山館、毛屋猪介が守る旧朝倉土佐守館などを攻略、二人を滅ぼした。2月16日には長繁も反撃に出、帆山河原の一揆勢3万をわずか700の兵で敗走させている。翌2月17日には長繁は府中の町衆や一向一揆の指導的立場にある浄土真宗本願寺派(一向宗)と対立する真宗高田派(専修寺派)・真宗三門徒派等と手を結び、北ノ庄城の奪取を狙い北上。対して、七里頼周と杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向け、両者は浅水の辺りで激突した。このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であったが奮戦して一揆勢の先鋒を崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。次いで17日夕刻、長繁は浅水の合戦に参戦せず傍観していた安居景健、朝倉景胤らを敵対者と見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃を仕掛けた。しかし、一揆衆との合戦の影響で疲弊した長繁勢はさしたる戦果を挙げられなかった。長繁は翌18日に再度総攻撃を下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信が高まり、18日早朝からの合戦の最中、長繁は配下の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討死、長繁勢は瓦解した。その首は19日、一揆軍の司令官の一人である杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われた。またこの日、一揆勢は白山信仰の拠点であった豊原寺を降伏させて味方につけている。4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸と溝江長逸ら溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した(『朝倉始末記』)。5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となった。結果・影響この結果、信長は越前を失陥することになった、しかし、当時織田氏は武田氏、長島一向一揆、大坂の石山本願寺など他の敵対勢力との抗争に忙殺されており、すぐに失地回復のための討伐軍を派兵することは不可能であった。ところが、七里頼周や新しい越前の領主として石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政ではなかった。下間らは自らの私利私欲を満たすため、織田氏との臨戦体制下であるという大義名分のもと、桂田長俊以上の重税や賦役を彼らに課した。このため、下間らの統治に不満を抱く層による一揆内一揆が発生、一揆勢は内部から崩壊し始めた。】 天正7年(1579年)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。※「安土宗論」(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。安土問答とも称される。織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。法華宗は信長の意図的な弾圧により、敗れたとされ、処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。『信長公記』等に依ると、1579年(天正7年)5月中旬、浄土宗浄蓮寺の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。そこに法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。霊誉長老は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。説法の期間は7日の予定だったが、11日に延長して法華宗の方へ使者を出させた。法華宗の方も、では宗論をやろうと京都の頂妙寺の日珖、常光院の日諦、久遠院の日淵、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋の当主の弟で、妙国寺の僧普伝という歴々の僧たちが来る事になった。そしてこの噂が広まり、京都・安土内外の僧俗が安土に集まると騒ぎは大きくなり、信長も伝え聞く事になる。
2024年05月03日
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2、「堀氏の出自」(ほりし)は、日本の氏族の一つ。堀氏にも他氏と同様異流がいくつかある。後述の堀秀政の系統は藤原氏利仁流斎藤氏族、秀政の従兄弟堀直政は元は清和源氏の斯波氏族庶流奥田氏の血脈だが、秀政より堀氏を賜り、藤原姓に改める。他には、清和源氏頼光流(多田源氏)、桓武平氏良文流の千葉氏族、近江国の藤原氏秀郷流、近江国浅井郡堀村の菅原氏族、若狭武田氏族、宇多源氏佐々木氏族、藤原氏利仁流大神氏族などがある。歴史概略戦国時代後期から安土桃山時代にかけて織田信長、豊臣秀吉に仕え活躍した堀秀政の一族が著名である。秀政の死後、関ヶ原の戦いにおいて堀秀治や堀直政らは東軍に味方し、徳川氏の下で堀氏は大名として数家が生き残ったが、秀政系、直政系の各宗家は断絶・改易の憂き目に遭い、明治維新を大名として迎えたのは傍流の一部(秀政系で1家、直政系で3家)にとどまった。秀政の孫に当たる嫡男忠俊は、改易の際、芳泉院と名乗り出家。加賀の蓮照寺住職となり、堀家を残し、その後前田家の庇護のもと越中富山の大田口に地所を拝領し、蓮照寺、芳泉院釋定秀として寺を守り、現在の豊田山蓮照寺へと繋がっている。堀直政の子孫は、嫡男の直清(直次)の系統は、直清の嫡男直昌は小浜藩の酒井家に仕え、次男の直浄(直倫)と六男直正(直信)は越後新発田藩の家老となり、七男直勝(直長)は飯田堀家に仕えた。直清の子は三男から五男が不詳であるが、そのうち直成(なおしげ)が飯田堀家に、舎人某は細川越中守(熊本藩)に仕えたという。直政の子孫で、村松藩、須坂藩、椎谷藩の藩主となった、直寄、直重、直之の系統は、明治時代に奥田氏に復姓していて、子孫はすでに堀氏ではない(椎谷藩の嫡流は奥田復姓を拒み、現在も堀氏で、椎谷藩の家督は村松からの養子が相続した)。 3、「堀 秀政」(ほり ひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。信長の側近、天文22年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄の奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、室町幕府15代将軍・足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼・福富秀勝・大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・万見重元らがいる。秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。※「越前一向一揆」(えちぜんいっこういっき)は、天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。天正2年(1574年)に越前国で発生した富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆との戦いと、天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いとに区別して解説する。天正元年(1573年)8月、織田信長の越前侵攻により朝倉義景は攻め滅ぼされ、朝倉氏の旧臣の多くが信長に降伏して臣従することにより、旧領を安堵された。 信長は朝倉攻めで道案内役を務めた桂田長俊(前波吉継)を越前「守護代」に任命し、事実上、越前の行政・軍事を担当させた。しかし朝倉氏の中で特に重臣でもなかった長俊が守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わなかった。特に富田長繁などは長俊と朝倉家臣時代からの犬猿の仲であったため、長俊を敵視するようになった。さらに桂田はこれら元同格の者たちに対して無礼で尊大な態度を取ったため、天正2年(1574年)1月、ついに富田長繁は長俊を滅ぼそうと考え越前中の村々の有力者と談合し、反桂田の土一揆を発生させた。戦況1月19日、長繁は自ら一揆衆の大将として出陣し、一乗谷城の攻略に取り掛かった。城主・桂田長俊はこの時失明していて指揮が執れず、さらに一揆の兵力が3万以上と大軍だったことや、長繁の腹心である毛屋猪介の活躍もあり、さしたる抵抗もできないまま討死した。息子の新七郎ら一族は城外に逃亡したが、翌20日には捕捉されて皆殺しにされた。一揆衆は1月21日には信長が府中の旧朝倉土佐守館に置いていた三人の奉行、木下祐久・津田元嘉・三沢秀次(溝尾茂朝)を攻めたが、安居景健(朝倉景健)が間に入って調停をしたため和睦。三人は越前を出て岐阜に向かった。1月24日、長繁はさらに策謀を巡らし、桂田成敗の宴を開くと称して有力者である魚住景固を自らの居城である龍門寺城に招き、次男の魚住彦四郎もろとも謀殺した。翌日には鳥羽野城を攻めて景固の嫡男彦三郎も討ち取って魚住一族を滅亡させた。しかし、敵対関係になかった魚住一族を無闇に滅亡に追い込んだことで、一揆衆の長繁に対する不信感が生じたという。
2024年05月03日
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「堀氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「堀氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「堀秀政」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54、 「堀直政」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・315、 「春日山(越後福嶋)藩と堀氏」・・・・・・・・・586、 「飯田藩と堀氏」・・・・・・・・・・・・・・・・597、 「松村藩と堀氏」・・・・・・・・・・・・・・・・718、 「椎谷藩と堀氏」・・・・・・・・・・・・・・・・839、 「須坂藩と堀氏」・・・・・・・・・・・・・・・・9510、「堀直之」・・・・・・・・・・・・・・・・・・10211、「蔵王同藩と堀氏」・・・・・・・・・・・・・・11812、「三条城と堀氏」・・・・・・・・・・・・・・・12413、「飯山藩と堀氏」・・・・・・・・・・・・・・・12814、「上総苅谷藩と堀氏」・・・・・・・・・・・・・13115、「玉取藩と堀氏」・・・・・・・・・・・・・・・・13316、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・141 1、「はじめに」織豊時代に大名になり、近世には信濃国飯田城主となった家系。藤原北家の出で美濃国に居住し、斎藤氏に仕えた。堀秀政(1553~1590)安土桃山時代、堀秀重の子。通称は久太郎。左衛門督。はじめ美濃の斎藤氏に仕えその後織田信長の側近として仕えた。その後豊臣秀吉に転任し、天正13年1585)羽柴の氏と豊臣の姓を与えられ、越前国北荘城18万石を領した。子の秀治は朝鮮に出陣し、慶長3年(1598)越後国春日山城30万石に移封された。その子忠俊は1610年に一族の内紛によって改易されたが、旗本となっていた秀治の弟親良はその翌年下野国真岡で1万2000石が与えられ、その子孫は寛文12年(1612)飯田城主となり以降12代飯田藩として明治維新と至った。一族の庶子は越後国村松藩主、椎谷藩主、信濃国須坂藩主になっている。
2024年05月03日
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これを契機として双方の後背地での動向もあり両陣営間で講和の動きが進み、8月27日に講和が成立し、翌日には退陣となった。講和の内容は不明だが、由良長尾両氏による小泉城攻撃以前の状況に戻すというものであったと推察されている。合戦自体は引き分けであったが、戦後処理は北条氏の優勢に推移した。梶原政景が再び佐竹氏に服している一方、由良長尾両氏は北条氏に攻められ年内に降伏、所領を没収され柄杓山城(桐生城)などへ異動されるなど、従来の勢力圏を復活するため双方が行動した。この事態に対して、佐竹氏傘下の国衆である真壁氏幹は激怒して佐竹義重に対して「手抜之刷、前代未聞存候」と激しく責める書状(『佐竹文書』)送りつけている。しかしながら北条氏による北関東諸領主への個別攻撃は、それに止まらず広がりを見せた。天正14年(1586)、佐野宗綱が長尾氏との戦闘で戦死すると後継争いが起こり、最終的に北条氏忠が養子に入った。また同年、皆川広照も北条氏に降伏。下野西半は北条氏の勢力範囲となった。佐竹・宇都宮両氏はこれまで以上に秀吉への依存を深め、東国出馬を頻りに申し入れているが、家康との講和問題や九州征伐のため再三にわたり延期された。この間北条氏は、天正14年(1587)の惣無事令以来和戦両様の構えで来たものの、家康の勧めを受け、天正16年(1588)8月22日の北条氏規上洛・秀吉会見により一応服属の意思表明をしたことによって豊臣大名として位置づけられた。真田氏との領土紛争においても秀吉の仲裁によって北条氏に有利な和解をする事になっていた。しかし秀吉による氏政・氏直いずれかの上洛要求に応えなかったことから関係は悪化、双方戦争準備にかかる中、天正17年(1589)11月の名胡桃城占領事件を切っ掛けとして小田原征伐が勃発、佐竹・宇都宮両氏の長年の要望であった東国出馬となった。】 また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で南奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力をもってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。しかし義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行二郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪。小田原陣の頃は下総の千葉氏の傘下に転じている)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。 そして、水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。佐竹家は常陸水戸54万5800石で豊臣政権下で第8位の大大名となり(一門・与力の岩城氏らを含めると80万石を超え、伊達氏や宇喜多氏を上回る)、徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」とも呼ばれた。関ヶ原の戦い慶長5年(1600)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見をまとめられず、在国のまま観望するという中立的な態度を取った。戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602)の3月に義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。ところが5月8日、家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封された。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためといわれている。また徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。処遇の際、細川忠興が「大大名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言したが、家康の側近だった本多正信・正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国でよし」と決められてしまった。後に政争に負けた正純が失脚したとき(宇都宮城釣天井事件)、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えたという。
2024年04月17日
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7、「関ヶ原の戦いと佐竹氏」その後は義宣に実権を譲渡し、太田城にて悠々自適の隠居生活を送り、「北城様」と呼ばれた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、子の義宣はかねてから懇意にあった石田三成の西軍に付こうとしたが、時流を見ていた義重は徳川家康の東軍に与するように述べ、父子は対立した。東軍が勝利した戦後の慶長7年(1602)5月、義宣のどちらにも付くともいえない曖昧な態度を理由に、佐竹氏は出羽国久保田計20万石(実高40万石)に減封された。義重が前から誼を通じていた家康・秀忠親子に嘆願したため、改易は免れた。久保田移転後は相次ぐ反佐竹一揆に対応するため、義宣とは別に六郷城(仙北郡美郷町)に居を構え、六郷町の町割りをおこない、所領南部(仙北・平鹿・雄勝の3郡)の見張りを行っていたが、慶長17年(1612)4月19日、狩猟中に落馬して死去した。享年66歳。末子の義直は義重の死後に生まれている。菩提寺は闐信寺(秋田市手形字蛇野)。「人物・逸話」義重は智勇に優れていた。かつて北条軍と戦ったときなどは、7人の敵を一瞬で斬り伏せたとまで言われており、その勇猛さから「鬼義重」、「坂東太郎」の異名で恐れられた。就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽に転封された後、「北国は寒いから」と子の義宣から寝巻きと敷布団を送られて使ってみたものの結局気に入らず再び敷布団を使うことはなかったという。甲相同盟の破綻により相模の後北条氏と対決していた甲斐国の武田信玄と文書を交わし、甲斐源氏の嫡流を巡って議論したという逸話がある。自らの子女を蘆名氏などの諸大名に養子として送り込み、巧みに勢力を拡大している。上杉輝虎(後の謙信)から名刀「備前三郎国宗」を送られた。後にこれを義宣に譲るが、義宣が刀の切っ先を削って脇差にしてしまった。愛刀家である義重はこれを嘆いたという。愛刀は南北朝時代に鍛えられた「八文字長義」。北条氏政軍と戦った際に、この刀で北条方の騎馬武者を斬ったところ、その武者は兜もろとも真っ二つになり、八文字の形になって馬から落ちたという。俗説として佐竹氏が出羽国へ移る際に常陸国中の美女を集め、秋田美人の礎を築いたと言われるが証拠はない佐竹義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた]。甲斐武田氏と同盟し(甲佐同盟)、北条氏とは天正12年(1584)に沼尻(現在の栃木県栃木市)で対決した(沼尻の合戦)。 *「沼尻の合戦」(ぬまじりのかっせん)は、天正12年(1584)の5月から8月にかけて、後北条氏陣営と佐竹氏・宇都宮氏陣営の間で行われた合戦。この合戦の最大の特徴は北関東連合軍側が当時最新兵器である鉄砲を8000丁以上用意したという点である。その数は3,000丁用意した長篠の戦いを上回っている。本能寺の変直後、後北条氏は年天正10年(1582)7月の神流川の戦いで滝川一益を破り、上野から信濃まで勢力を広げたが、天正壬午の乱において徳川家康と講和し信濃から撤退した。この講和条件に「上野は北条の切取次第」とあったことから翌天正11年(1583)、北条氏直は北条高広を厩橋に攻め、後北条氏は北部の真田昌幸領を除き上野をほぼ制することとなった。佐竹義重、宇都宮国綱ら北関東の諸領主はこれに危機感を覚え、当時北条方であった由良国繁、長尾顕長兄弟を調略(佐野宗綱の説得と推察されている)、由良長尾両氏は天正11年(1584)11月27日北条方の富岡秀高を小泉城に攻めた。翌天正12年(1584)4月24日には佐野宗綱も小泉城を攻撃したが、北条氏は小泉城の救援に向かうとともに長尾氏の拠点であった足利も攻撃した。一方、佐竹義重、宇都宮国綱は4月に宇都宮城を出陣し、天正3年(1575)頃から北条方となっていた小山城の奪回を目指し小山を攻撃した。戦線は上野・下野両国の南端部に東西に細長く広がっていたが、北条方の目的であった小泉城近辺と佐竹・宇都宮方の目的であった小山城近辺の中間となる沼尻(現栃木市藤岡地域)で両陣営が激突することとなった。両陣営の兵力を最も少なく伝える軍記物『古先御戦聞書』には、北条陣営3500騎、佐竹・宇都宮陣営3000騎と記載されている。双方5月初旬には沼尻に着陣し、陣城を構えたが、決め手となる大きな戦闘もなく、長陣となった。『今宮祭祀録』(栃木県さくら市今宮神社の社伝)には110日の長陣とある。この間、両陣営は敵の後方攪乱・遠交近攻に努めていた。おりしも天正12年(1584)は羽柴秀吉陣営と徳川家康・織田信雄陣営の間で小牧・長久手の戦いが行われていた。佐竹・宇都宮両氏は秀吉と頻繁に連絡を取り合い、上杉景勝は秀吉の命により信濃出兵をし、北条氏を牽制している。一方、北条氏は先年の家康との講和を発展させ、対秀吉の攻守同盟を結んでいた形跡があり、事実北条氏は本合戦の直後に小牧・長久手の戦いに参陣しようとした動きがあった。北条氏はまた、梶原政景に調略の手を伸ばし、佐竹氏は本拠地との連絡を絶たれる虞が強まった。8月20日、北条氏が調略を行い皆川広照らを寝返らせ佐竹・宇都宮陣営の退路である岩船山の岩船陣城(現栃木市岩舟地域)を落とした(岩船山の戦い)。
2024年04月17日
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郡山・窪田での両軍対峙(5月 – 7月)5月22日に政宗は自ら兵を率いて小手森城の攻撃を開始したが天候の悪化により一旦大森城に退いた。ところが、閏5月12日、相馬義胤は田村清顕(政宗岳父・妻は義胤叔母)没後伊達派と相馬派に分かれて紛糾していた田村氏の所領を確保して、小手森城と蘆名勢の後詰めをするべく、自ら三春城へと向かったが、田村家中の伊達派・橋本顕徳らに阻まれて入城を果たせずに退去した。相馬勢の撤退を承け、政宗は宮森城に陣を構えて再び小手森城攻略に乗り出した。閏5月16日に小手森城は陥落し、石川光昌は相馬領へと逃れていった。17日には大倉城、18日には月山、百目木、石沢の諸城が陥落する。19日には船引城から義胤が退去し、東安達方面における相馬方の戦線は崩壊。苦境に立った義胤は佐竹義重・蘆名義広・岩城常隆に救援を求めた。佐竹・蘆名の両氏は直ちにこれに応じるが、田村清顕の存命中から田村領に侵攻していた常隆は義胤の三春入城に異を唱えて援軍を拒否した。田村領が伊達氏・相馬氏・岩城氏による三つ巴の対象になっていたことがこの戦いを複雑なものにした。6月に入ると佐竹、蘆名連合軍が郡山方面に向かって兵を進めた。これは宮森城に近い本宮方面への侵攻を予想していた政宗の思惑を裏切るものであったが、政宗も郡山の救援に向かうべく、宮森城を出て本宮から郡山に向かった。また、田村氏からも田村月斎・田村梅雪斎が援軍として駆けつけて、伊達氏の一門である留守政景も14日に援軍に駆けつけている。6月12日、郡山・窪田両城に向けて兵を進めた連合軍と伊達勢が対峙して互いに砦を築き、以降40日間にわたって延々小競り合いを繰り返した。政宗記によれば連合軍は約八千騎、伊達勢は約六百騎、貞山公治家記録には連合軍約四千騎、伊達勢約六百騎と兵数で伊達軍は圧倒的に不利であった。伊達勢は伊達成実が政宗の命により山王山を陣所とする。堀を掘、土手を築、如要害構へ」られた成実陣所を連合軍は落とすことができなかった。その上、阿武隈川沿いの篠川城が伊達側にあり、連合軍は背後に敵勢力を置いた状況で伊達勢と対峙せねばならなかった。また昼夜止むことなく互いに四、五千発の鉄砲を撃ちあう激しい銃撃戦が行われたという。7月4日、窪田を守っていた片倉景綱・伊達成実の前方を蘆名方、新国貞通の部隊が通過した。景綱弟の片倉藤左衛門に新国を追わせたところ、深追いして蘆名軍に囲まれた。景綱、成実はこれを救うべく戦闘したが、引き上げに苦戦した。伊東重信が討死にするも、 反撃に転じ五十余人を討ち取って引き上げた。両軍共に大規模な攻勢を仕掛けられなかった理由としては、伊達方からすれば寡兵であること、大崎・最上勢の進軍が停止し和睦交渉が始まったとはいえ、伊達領北方では依然として予断を許さぬ状況が続いており、また大崎合戦敗北による痛手も癒えておらず、積極的攻勢に打って出られるような状態には無く、一方の蘆名方も、頼みの佐竹義重が豊臣秀吉から再三にわたり、前年12月の惣無事令に則して子・義広と甥・政宗とを速やかに和睦させるよう督促されており、公然と自らが兵を進めて政宗を討つわけにもいかず、様子見を続けざるを得なかったため]、同様に決戦能力を欠いていたことが挙げられる。惣無事令の影響について小林清治は一時的に一定の影響を与えながらも、基本的には対立、対決の動きを抑制するには無効であったとする。また戸谷穂高は惣無事令の往来の見解に疑問を提示したうえで、豊臣政権による積極的な調停は一部に限定されていたとし、郡山合戦への影響を認めない。一方、城郭研究の松岡進は、普請と作事が一体化した簡易な遮断施設が野戦築城として広く活用されていた事実に注目する。郡山合戦は伊達方の郡山城をめぐって伊達軍と連合軍が対陣し、相互に陣地を形成するなどしたため、長期戦の様相を呈していたと整理できる。 7月2日、岩城常隆が石川昭光を誘って政宗に和議の仲介を打診した。5日から弓鉄砲は止められた。交渉は蘆名氏との所領の画定で難航したものの、7月16日には先に合意に達した佐竹氏と伊達氏の和議が、2日後には蘆名氏と伊達氏の和議が成立して佐竹氏もこれを確認、21日になって両軍とも撤退した[7]。戦後8月5日、政宗は三春城に入って愛姫の従弟・田村宗顕を田村氏当主に据えて田村領の確保に成功し、一連の合戦は伊達氏の勝利に終わった。ただし、岩城常隆が仲介に入った理由は田村領が義胤または政宗の手中に収めるのを阻止する意図があったが、義胤が三春城を諦めて代わりに政宗が三春城が入ったことでその打算が崩壊することになった。翌天正17年(1589年)4月には、今度は岩城常隆は田村領の確保のために出陣して政宗と戦っている。この戦いは人取橋の戦いから3年間にも及ぶ連敗をようやく止めたことにより、父・輝宗の死後、追い詰められる一方であった伊達氏が、一転して拡大に転じる契機となった。とはいえこの合戦は、前年に秀吉により発せられた惣無事令を無視したものであり、奥州仕置の際、これ以降に政宗が獲得した安積・岩瀬・白河・石川・耶麻・河沼・大沼・会津の8郡は没収の対象となった。】
2024年04月17日
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ところが同日夜、佐竹家の部将・小野崎義昌(佐竹義篤の子で義重の叔父にあたる)が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生し、さらには本国に北条方の馬場城主江戸重通や安房の里見義頼らが攻め寄せるとの報が入ったため、佐竹軍は撤退を決定した。優勢な状況下で30000の軍勢が撤退したことは、後年さまざまな憶測を呼び、佐竹氏の本国急変は政宗による裏工作があった等の説が生み出されるに至った。この戦の勝敗については、政略面・戦術面から見れば南奥諸大名を伊達氏の洞の支配下から解放させた連合軍の勝利であった。ただし、5年前の御代田合戦(人取橋の戦いと同じように、佐竹氏を中心とした連合軍が伊達方であった田村氏を破った戦い)の段階で南奥諸大名の主導権は伊達氏から佐竹氏に移っていたとする説もあり、既に確立していた佐竹氏の洞を守っただけに過ぎないとする見方も成立する。一方、戦略面から見た場合、連合軍はひとまず二本松城陥落を阻止し、伊達軍に対し損害を与えたものの、本宮城を攻略する、あるいは伊達軍を壊滅に追い込むには至らなかったため、決定的戦果を挙げたとまでは言えない。政宗は岩角城から小浜城へと引き上げ、ここに滞在して冬を越した。翌春から二本松攻めを再開したが、守将・新城盛継の防戦と、南奥諸大名による後詰めのため抜くことができなかった。籠城する二本松勢も戦闘継続の限界に達したため、7月16日に相馬義胤の斡旋を受けて、二本松勢の会津退去を条件に和睦が成立し、二本松城は無血開城した。このことについて蘆名家臣団からは佐竹義重へ訴状が届いている。この戦以降、佐竹氏は北条氏との戦闘が激化したため、再び伊達氏に対して積極的軍事行動に出ることは無くなった。伊達成実が二本松城主となったものの、伊達稙宗・晴宗によって築かれた洞は瓦解し、南奥羽の伊達氏を中心とする政治体制・外交秩序は後に佐竹氏を中心とする連合勢にその主導権を奪われることとなった。対してこの旧来の体制からの脱却と奥羽の覇権を求めた伊達政宗は二本松城という足がかりを得てさらなる領土拡大を目指し蘆名領へ武力侵攻を進めた。合戦が行われた福島県本宮市の国道4号線沿いには、戦死した鬼庭左月斎の墓と古戦場跡碑が残る。】 武力・兵力共に優位に立つ義重は戦いを有利に進めるが、あと一歩のところで留守中の常陸国で江戸氏らが不穏な動きを示したため撤退し、連合軍もそれぞれ撤退した。この合戦は、後に政宗が江戸城で将軍・徳川家光の饗応を受けた時、生涯の大戦と話したとされる。天正14年(1586)、二本松城が開城して二本松氏が事実上滅亡したのを機に、伊達氏と佐竹氏・蘆名氏との間で和議が結ばれた。天正15年(1587)には、次男の義広を蘆名氏の養嗣子として入れることで、政宗と対抗しようとした。しかし、父の遺志を継いで弟の小次郎を養嗣子にしようとした政宗はこれに反発する。天正16年(1588)、奥州の諸大名と連合して再び政宗と戦う。しかし兵力で圧倒的優位にありながら、逆に諸大名の連合軍だったために諸氏の利害が対立して軍が機能せず、義重は政宗に勝利することもできずに岩城常隆の調停で和睦することを余儀なくされた(郡山合戦)。*「郡山合戦」(こおりやまがっせん)は、天正16年(1588)2月から7月にかけての、安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる伊達政宗軍と蘆名義広・相馬義胤連合軍との一連の戦闘の総称である。ただし、田村清顕没後の田村氏の混乱(天正田村騒動)に乗じた同年4月以降の相馬氏の田村領侵攻とこれに対する伊達氏の反撃以降に限定する考え方もある(それ以前の戦いは蘆名氏側が主導的に政宗と戦ったのに対し、郡山合戦における蘆名氏は相馬氏の援軍として伊達氏と対峙しているため)。天正15年(1587)3月、佐竹義重の子・義広が蘆名氏当主として迎えられると、蘆名氏は伊達氏に対して積極攻勢に転じ、同年の内、数回にわたり苗代田城に攻撃を仕掛け、伊達・田村の分断と二本松攻略を狙っていた。蘆名義広の攻勢(2月 – 4月)天正16年(1588)2月、伊達政宗が大崎氏の内紛に介入して敗北すると(大崎合戦)、これを好機と見た蘆名義広は大内定綱を先鋒とする4000の兵を伊達領に進めた。定綱は12日に苗代田城を攻略、後続と合流して伊達方の郡山城・窪田城・高倉城・本宮城を攻め立てた。伊達領南方の抑えを担当する二本松城主・伊達成実の兵力は、大森城主片倉景綱・宮森城主白石宗実からの援軍を合わせてもわずか600人ほどであったが、成実は防戦して2ヶ月の間何とか蘆名の攻勢をしのぎ続けていた。しかし、北方では大崎方の援軍として参戦した最上義光に伊達領内各所を攻略され、さらには小手森城主石川光昌が相馬義胤を頼って離反したため、政宗自身は相馬方への備えに回っており、南方戦線への援軍は期待出来なかった。この状況を打開すべく、成実は政宗を説いて、定綱へ伊達郡内の保原・懸田等の所領を与える旨の判物を取り付けたうえで、定綱に伊達氏への帰参を持ちかけた。折しも蘆名家中では、義広に従って佐竹から入った新参と、蘆名譜代・傘下の奥州諸侯との間の対立が深刻化していたこともあり、定綱は成実の調略に応じて伊達方に転じた。4月18日、蘆名勢は離反した定綱と伊達勢とを討つべく本宮城に攻め寄せたが、阿武隈川河畔で定綱率いる1000余の兵によって撃ち払われて敗走した。
2024年04月17日
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伊達政宗との抗争この頃になると、奥州では蘆名氏が盛氏の死後、当主が次々と早世したため勢力が衰退した。蘆名氏の家督問題では、義重は幼少の蘆名亀王丸(亀若丸)をいち早く支持して自分の次男小次郎を送り込もうとした伊達輝宗を阻止し、蘆名家中における影響力を拡大した。輝宗の後を継いだ伊達政宗は先の御代田合戦で敗れた田村清顕の娘婿であり、田村氏の支援と佐竹氏の北上を警戒する立場から次第に義重との対立を深めていくことになる。天正13年(1585)には伊達氏と対立する二本松氏救援の名目で蘆名氏との連合軍を結成して奥州に出陣し、人取橋で会戦する(人取橋の戦い)。 *「人取橋の戦い」(ひととりばしのたたかい)は、二本松城主畠山義継が伊達輝宗を拉致して両者とも死去した事件がきっかけで、天正13年(1586)11月17日に旧安達郡本宮の人取橋付近で起きた戦い。陸奥国南部の洞 (武家)の中央集権化を画策していた伊達氏は、伊達政宗を擁して弔い合戦をしていた二本松城攻めの最中、二本松救援の名目で駆け付けた佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と激突した。室町幕府の崩壊による奥州探題の権威の喪失や伊達晴宗の死去、天正12年の蘆名盛隆死去後の蘆名家の混迷と家督相続問題、天正13年(1585年)5月の伊達政宗の蘆名攻め(関柴合戦)での敗報、羽柴秀吉の関白就任による朝廷の権威の回復、晴宗の次男伊達輝宗の急死による伊達家中の世代交代、二本松畠山氏の頑強な籠城戦が重なり、伊達氏の洞が佐竹氏、岩城氏、二階堂氏、蘆名氏、白河結城氏、石川氏らの洞により取って代わられる機会が生じたことで起きた戦いである。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、織田信長が天下統一を目前にして倒れた。伊達輝宗は南奥諸大名の洞の中央集権化をはかり、相馬盛胤・義胤を攻め祖父・伊達稙宗[5]の隠居領・伊具郡を奪還した。天正12年(1584)10月6日、蘆名盛隆が死去し、当主を失った蘆名家は内紛の危機に直面した。このとき塩松領の小浜城主・大内定綱は政宗の正室・愛姫の実家である田村氏と対立を深めていた。塩松領は伊達領と二本松領、田村領、相馬領に囲まれた緩衝地帯である。同10月、父・輝宗から家督を譲られた伊達政宗は定綱に伊達家への臣従を迫った。定綱は臣従を拒み、蘆名家を頼って反旗を翻した。天正13年(1585)5月、政宗は蘆名氏を攻め敗北を喫した。7月、羽柴秀吉が関白となり豊臣姓を名乗った。8月、政宗は大内定綱を塩松領に攻め、定綱は二本松領、蘆名領へ逃れた。政宗は定綱と姻戚関係にあった二本松城主二本松義継に対しても攻撃を加え、義継は輝宗の斡旋を受けて降伏した。10月8日、義継は宮森城にて会談中に輝宗を拉致し、政宗の追っ手によって輝宗と同時に討たれた。父の元より前日に飛脚が来て、本日帰還すると聞いていた義継の遺児、国王丸は喜び勇み、これを迎えようと阿武隈川の辺りまで出向いたが、軍勢が鉄砲の音を立てて迫ってくるのを見て驚いた。二本松氏は義継の従弟・新城盛継を中心に国王丸を擁して籠城戦の展開をはじめた。まず佐竹・会津両所へ急使をもって通達し、二本松の支城本宮・玉の井・渋川の三ヵ所をあけ、その人数を二本松に集めた。10月15日、政宗は父の初七日が明けると、正室愛姫の父田村清顕、輝宗の弔い合戦として加勢の要請を承諾していた相馬義胤とともに13000の兵を率いて二本松城攻めを開始した。11月2日 、二本松氏救援のため佐竹義重・義宣・蘆名亀王丸]・二階堂阿南・岩城常隆・石川昭光・白川義親・義広ら南奥諸大名が挙兵・派兵して集結した。11月10日、連合勢は須賀川まで進出。この時、「篠川日出山小荒田郡山」は田村氏の領地であり、佐竹義宣(原文ママ)が布陣した地に「窪田」(窪田城)とある。伊達政宗を援けて二本松城攻めに参加していた相馬義胤は石川、白川、須田伯耆(月見館)などが寝返る風聞が立ったため、これを大事として帰陣していた。また田村清顕は家臣田村右近大夫が居住する阿久津(郡山市阿久津)の巳午の方角(南南東)の行合(行合寺付近か)に布陣した。連合軍接近との報を受けた政宗は、二本松城の包囲部隊を残して自軍の諸城を固めた上で、自らは主力7000を率いて迎撃のため岩角城を経て本宮城に入った。11月17日、本宮城を出た政宗は、安達太良川を渡って南方の観音堂山に布陣する。前日のうちに五百川南方の前田沢に布陣していた佐竹および南奥諸大名の連合軍は、伊達本陣をめがけて北進を開始し、瀬戸川(阿武隈川支流)に架かる人取橋付近で両軍が激突する。伊達軍と連合軍の兵力差は7000対30000と4倍以上であった。戦闘は連合軍の一方的な攻勢に終始した。兵数に劣る伊達軍は潰走し、連合軍は伊達本陣に突入、政宗自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受けた。敗色濃厚となった伊達軍は政宗を逃がすべく、軍配を預かった宿将・鬼庭左月斎が殿を務め、人取橋を越えて敵中に突入して討ち死にを遂げた。また東方の瀬戸川館に布陣していた伊達成実の軍勢500も、挟撃を受けて攻撃を受けたが、踏み止まって時間を稼いだため、政宗は本宮城に逃れた。伊達軍の壊滅は必至であったが、日没を迎えたため、この日の戦闘は終結した。
2024年04月17日
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伊達政宗との抗争この頃になると、奥州では蘆名氏が盛氏の死後、当主が次々と早世したため勢力が衰退した。蘆名氏の家督問題では、義重は幼少の蘆名亀王丸(亀若丸)をいち早く支持して自分の次男小次郎を送り込もうとした伊達輝宗を阻止し、蘆名家中における影響力を拡大した。輝宗の後を継いだ伊達政宗は先の御代田合戦で敗れた田村清顕の娘婿であり、田村氏の支援と佐竹氏の北上を警戒する立場から次第に義重との対立を深めていくことになる。天正13年(1585)には伊達氏と対立する二本松氏救援の名目で蘆名氏との連合軍を結成して奥州に出陣し、人取橋で会戦する(人取橋の戦い)。 *「人取橋の戦い」(ひととりばしのたたかい)は、二本松城主畠山義継が伊達輝宗を拉致して両者とも死去した事件がきっかけで、天正13年(1586)11月17日に旧安達郡本宮の人取橋付近で起きた戦い。陸奥国南部の洞 (武家)の中央集権化を画策していた伊達氏は、伊達政宗を擁して弔い合戦をしていた二本松城攻めの最中、二本松救援の名目で駆け付けた佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と激突した。室町幕府の崩壊による奥州探題の権威の喪失や伊達晴宗の死去、天正12年の蘆名盛隆死去後の蘆名家の混迷と家督相続問題、天正13年(1585年)5月の伊達政宗の蘆名攻め(関柴合戦)での敗報、羽柴秀吉の関白就任による朝廷の権威の回復、晴宗の次男伊達輝宗の急死による伊達家中の世代交代、二本松畠山氏の頑強な籠城戦が重なり、伊達氏の洞が佐竹氏、岩城氏、二階堂氏、蘆名氏、白河結城氏、石川氏らの洞により取って代わられる機会が生じたことで起きた戦いである。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、織田信長が天下統一を目前にして倒れた。伊達輝宗は南奥諸大名の洞の中央集権化をはかり、相馬盛胤・義胤を攻め祖父・伊達稙宗[5]の隠居領・伊具郡を奪還した。天正12年(1584)10月6日、蘆名盛隆が死去し、当主を失った蘆名家は内紛の危機に直面した。このとき塩松領の小浜城主・大内定綱は政宗の正室・愛姫の実家である田村氏と対立を深めていた。塩松領は伊達領と二本松領、田村領、相馬領に囲まれた緩衝地帯である。同10月、父・輝宗から家督を譲られた伊達政宗は定綱に伊達家への臣従を迫った。定綱は臣従を拒み、蘆名家を頼って反旗を翻した。天正13年(1585)5月、政宗は蘆名氏を攻め敗北を喫した。7月、羽柴秀吉が関白となり豊臣姓を名乗った。8月、政宗は大内定綱を塩松領に攻め、定綱は二本松領、蘆名領へ逃れた。政宗は定綱と姻戚関係にあった二本松城主二本松義継に対しても攻撃を加え、義継は輝宗の斡旋を受けて降伏した。10月8日、義継は宮森城にて会談中に輝宗を拉致し、政宗の追っ手によって輝宗と同時に討たれた。父の元より前日に飛脚が来て、本日帰還すると聞いていた義継の遺児、国王丸は喜び勇み、これを迎えようと阿武隈川の辺りまで出向いたが、軍勢が鉄砲の音を立てて迫ってくるのを見て驚いた。二本松氏は義継の従弟・新城盛継を中心に国王丸を擁して籠城戦の展開をはじめた。まず佐竹・会津両所へ急使をもって通達し、二本松の支城本宮・玉の井・渋川の三ヵ所をあけ、その人数を二本松に集めた。10月15日、政宗は父の初七日が明けると、正室愛姫の父田村清顕、輝宗の弔い合戦として加勢の要請を承諾していた相馬義胤とともに13000の兵を率いて二本松城攻めを開始した。11月2日 、二本松氏救援のため佐竹義重・義宣・蘆名亀王丸]・二階堂阿南・岩城常隆・石川昭光・白川義親・義広ら南奥諸大名が挙兵・派兵して集結した。11月10日、連合勢は須賀川まで進出。この時、「篠川日出山小荒田郡山」は田村氏の領地であり、佐竹義宣(原文ママ)が布陣した地に「窪田」(窪田城)とある。伊達政宗を援けて二本松城攻めに参加していた相馬義胤は石川、白川、須田伯耆(月見館)などが寝返る風聞が立ったため、これを大事として帰陣していた。また田村清顕は家臣田村右近大夫が居住する阿久津(郡山市阿久津)の巳午の方角(南南東)の行合(行合寺付近か)に布陣した。連合軍接近との報を受けた政宗は、二本松城の包囲部隊を残して自軍の諸城を固めた上で、自らは主力7000を率いて迎撃のため岩角城を経て本宮城に入った。11月17日、本宮城を出た政宗は、安達太良川を渡って南方の観音堂山に布陣する。前日のうちに五百川南方の前田沢に布陣していた佐竹および南奥諸大名の連合軍は、伊達本陣をめがけて北進を開始し、瀬戸川(阿武隈川支流)に架かる人取橋付近で両軍が激突する。伊達軍と連合軍の兵力差は7000対30000と4倍以上であった。戦闘は連合軍の一方的な攻勢に終始した。兵数に劣る伊達軍は潰走し、連合軍は伊達本陣に突入、政宗自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受けた。敗色濃厚となった伊達軍は政宗を逃がすべく、軍配を預かった宿将・鬼庭左月斎が殿を務め、人取橋を越えて敵中に突入して討ち死にを遂げた。また東方の瀬戸川館に布陣していた伊達成実の軍勢500も、挟撃を受けて攻撃を受けたが、踏み止まって時間を稼いだため、政宗は本宮城に逃れた。伊達軍の壊滅は必至であったが、日没を迎えたため、この日の戦闘は終結した。
2024年04月17日
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本能寺の変直後、後北条氏は天正10年6月(1582)の神流川の戦いで滝川一益を破り、上野から信濃まで勢力を広げたが、天正壬午の乱において徳川家康と講和し信濃から撤退した。この講和条件に「上野は北条の切取次第」とあったことから翌天正11年(1583)、北条氏直は北条高広を厩橋に攻め、後北条氏は北部の真田昌幸領を除き上野をほぼ制することとなった。佐竹義重、宇都宮国綱ら北関東の諸領主はこれに危機感を覚え、当時北条方であった由良国繁、長尾顕長兄弟を調略(佐野宗綱の説得と推察されている)、由良長尾両氏は天正11年(1584)11月27日北条方の富岡秀高を小泉城に攻めた。翌天正12年(1584)2月24日には佐野宗綱も小泉城を攻撃したが、北条氏は小泉城の救援に向かうとともに長尾氏の拠点であった足利も攻撃した。一方、佐竹義重、宇都宮国綱は4月に宇都宮城を出陣し、天正3年(1575)頃から北条方となっていた小山城の奪回を目指し小山を攻撃した。戦線は上野・下野両国の南端部に東西に細長く広がっていたが、北条方の目的であった小泉城近辺と佐竹・宇都宮方の目的であった小山城近辺の中間となる沼尻(現栃木市藤岡地域)で両陣営が激突することとなった。両陣営の兵力を最も少なく伝える軍記物『古先御戦聞書』には、北条陣営3500騎、佐竹・宇都宮陣営3000騎と記載されている。双方5月初旬には沼尻に着陣し、陣城を構えたが、決め手となる大きな戦闘もなく、長陣となった。『今宮祭祀録』(栃木県さくら市今宮神社の社伝)には110日の長陣とある。この間、両陣営は敵の後方攪乱・遠交近攻に努めていた。おりしも天正12年(1584)は羽柴秀吉陣営と徳川家康・織田信雄陣営の間で小牧・長久手の戦いが行われていた。佐竹・宇都宮両氏は秀吉と頻繁に連絡を取り合い、上杉景勝は秀吉の命により信濃出兵をし、北条氏を牽制している。一方、北条氏は先年の家康との講和を発展させ、対秀吉の攻守同盟を結んでいた形跡があり、事実北条氏は本合戦の直後に小牧・長久手の戦いに参陣しようとした動きがあった。北条氏はまた、梶原政景に調略の手を伸ばし、佐竹氏は本拠地との連絡を絶たれる虞が強まった。8月20日、北条氏が調略を行い皆川広照らを寝返らせ佐竹・宇都宮陣営の退路である岩船山の岩船陣城(現栃木市岩舟地域)を落とした(岩船山の戦い)。これを契機として双方の後背地での動向もあり両陣営間で講和の動きが進み、8月27日に講和が成立し、翌日には退陣となった。講和の内容は不明だが、由良長尾両氏による小泉城攻撃以前の状況に戻すというものであったと推察されている。戦後処理合戦自体は引き分けであったが、戦後処理は北条氏の優勢に推移した。梶原政景が再び佐竹氏に服している一方、由良長尾両氏は北条氏に攻められ年内に降伏、所領を没収され柄杓山城(桐生城)などへ異動されるなど、従来の勢力圏を復活するため双方が行動した。この事態に対して、佐竹氏傘下の国衆である真壁氏幹は激怒して佐竹義重に対して「手抜之刷、前代未聞存候」と激しく責める書状(『佐竹文書』)送りつけている。しかしながら北条氏による北関東諸領主への個別攻撃は、それに止まらず広がりを見せた。天正14年(1586)、佐野宗綱が長尾氏との戦闘で戦死すると後継争いが起こり、最終的に北条氏忠が養子に入った。また同年、皆川広照も北条氏に降伏。下野西半は北条氏の勢力範囲となった。佐竹・宇都宮両氏はこれまで以上に秀吉への依存を深め、東国出馬を頻りに申し入れているが、家康との講和問題や九州征伐のため再三にわたり延期された。この間北条氏は、天正14年(1587)の惣無事令以来和戦両様の構えで来たものの、家康の勧めを受け、天正16年(1588)8月22日の北条氏規上洛・秀吉会見により一応服属の意思表明をしたことによって豊臣大名として位置づけられた。真田氏との領土紛争においても秀吉の仲裁によって北条氏に有利な和解をする事になっていた。しかし秀吉による氏政・氏直いずれかの上洛要求に応えなかったことから関係は悪化、双方戦争準備にかかる中、天正17年(1589)11月の名胡桃城占領事件を切っ掛けとして小田原征伐が勃発、佐竹・宇都宮両氏の長年の要望であった東国出馬となった。】
2024年04月17日
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1538年には、佐竹一族の宇留野長昌が反乱を起こした。1539年には、那須政資・那須高資親子の抗争に介入。義弟の小田政治と共に政資を支援した。天文9年(1540年)には部垂城を急襲して宇留野義元を自害に追い込み、高久義貞の謀反に続いて義元の反乱を終息させ(部垂の乱)、義元に与した兄・今宮永義や小場氏や前小屋氏らも支配下におさめた。対外的には白河結城氏や那須氏と戦って勢力を拡大し、国内においては江戸氏を従属させるなど常陸北部を統一して佐竹氏の戦国大名化に成功した。また、室町幕府奉公衆であった美濃佐竹氏の佐竹基親の下向をきっかけに幕府との関係を再構築している。伊達氏の天文の乱が起きると伊達晴宗に味方し、伊達稙宗方の相馬氏と戦った。天文14(1545)、死去。 「佐竹 義昭」(さたけ よしあき)は、常陸の戦国大名で、佐竹氏の第17代当主。常陸太田城主。享禄4年(1531年)8月23日、第16代当主・佐竹義篤の次男として生まれる。異母長兄の義友が庶子のために、後継者に定められた。天文14年(1545)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏は内紛を収拾して、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。小田政治と共同して江戸忠通と戦い、勝利した。弘治3年(1557)、宇都宮氏で内紛が勃発すると、当主の宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力し、のち娘を嫁がせている。永禄元年(1558)には岩城重隆が常陸に侵攻してくるが、これを小里で破り、婚姻関係を理由に有利な和睦を結んだ。永禄3年(1560)には結城晴朝を攻めて勝利し、さらに白河晴綱の寺山城を攻めて勝利した。永禄5年(1562)には上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結んで小山城を攻めた。この年に長男の義重に家督を譲って隠居し、常陸府中城に移ったが、なおも実権は握り続けた。永禄6年(1563)には那須資胤と戦って勝利し、永禄7年(1564)には北条氏康や結城晴朝と手を結んだ小田氏治の攻撃を受けるが、義昭は上杉謙信・宇都宮広綱と手を結んで逆に小田領に侵攻して小田城を奪取し、氏治を土浦城にまで追いつめた(小田城の戦い)。また、継室の実家である大掾氏に乗り込んで、事実上同氏を傘下に収めた。永禄8年(1565年)11月3日、常陸統一を目前にして突如として急死した。享年35歳。このため、佐竹氏の常陸統一は後一歩のところでならなかった。「人物・逸話」天文15年(1546)、河越夜戦にて関東管領・上杉憲政が北条氏康に大敗した。憲政は、当時常陸に勢力を拡大して勢いに乗る義昭に、関東管領職と(山内)上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたという(山内上杉氏から佐竹義人(第12代当主)を婿養子に迎えて以降、佐竹氏は上杉氏の男系子孫となっていた)。しかし、義昭は父系が代々世襲した関東管領職にこそ魅力を感じたようだが、系譜上(母系)として清和源氏義光流の末裔としての佐竹氏の誇りからか、上杉氏の家名を継承する気にはなれず、これを拒否したという。若くして隠居した理由は不明で、35歳の若さで死去していることから、病弱だったのではないかと思われる。「小田原城の戦い」永禄4年(1561年)3月、参陣の遅れていた北関東の諸将も謙信の元に結集し、この頃『関東幕注文』が完成する。謙信は旧上杉家家臣団も含め10万人を超える大軍となった遠征軍(関八州古戦録では11万3千人とも。9万余説もあり)で、小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した。上杉軍先陣は3月3日頃に当麻(相模原市南区)に陣を取り、同8日に中筋(中郡)に達し、14日には大槻(秦野市)で、北条方の大藤秀信隊と激突した(大藤文書・田原城主大藤式部丞宛て感状)。しかし上杉軍はさらに南下、22日に曽我山(小田原市曽我)、24日にぬた山(南足柄市怒田)でも戦闘が行われた。謙信も3月下旬までには小田原近辺に迫り、酒匂川辺に陣を張った(古今消息集・越)。攻防の中心となった北条氏の本城・小田原城では、太田資正の部隊が小田原城の蓮池門へ突入、激しく攻め立て北条軍も粘り強い抵抗を見せたと、後世成立の軍記である『関八州古戦録』等は伝えている。信頼性の高い史料にこの時の包囲戦の様子の詳細を伝える物はなく、わずかに上杉家文書で、小田原城下での両軍のぶつかり合いは認められず、挑発のため城下に放火をしても北条方は城から討って出ることはなかったとされる。3月下旬には氏康と同盟を結ぶ武田氏の援軍が甲斐吉田に到着する(大藤文書)。今川氏の援軍も近日出陣のための準備ができたと知らせが入った(大藤文書)。また、この頃既に長期布陣に対する不満が遠征軍諸将から出始めていた。越後でも関東への兵や荷の輸送についての紛争が各地で起り、謙信は伝馬・輸送に関する制札を出している(相沢清右衛門所蔵文書・『上越市史』)。閏3月初め、謙信は参陣諸将とともに鎌倉に移り、関東管領就任式を執り行い、長尾景虎から上杉政虎へと改名する。謙信は関東管領として戴く古河公方に近衛前久を迎え入れたかったが、関東の諸将では小山秀綱が足利藤氏を推し、簗田晴助が足利藤政を推して揉めた。
2024年04月17日
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古河公方足利氏永正3年(1506)、足利政氏の嫡子である足利高基は、政氏との不和が原因で、義父の宇都宮成綱を頼って下野国宇都宮に移座し、古河公方家の内紛永正の乱)が始まった。 不和の原因は、政氏が山内上杉氏との連携を重視する一方、高基は対立する後北条氏を重視したことを取り上げる見解がある。他には、高基の正室は宇都宮氏から瑞雲院(宇都宮成綱の娘)を迎えているが、このように正室を周辺の伝統的豪族に求めた例はないことから、高基と宇都宮氏との特別な関係も背景として考えられる。永正6年(1509)、上杉顕定らの調停により、高基は政氏と和解して古河に帰座したが、翌7年に顕定が越後で戦死した直後、高基は再び古河城を離れて、公方家重臣簗田高助の関宿城へ移座した。同時に山内上杉氏でも家督争いが始まると、政氏は顕実を支援し、高基は憲房を支援したため、公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大してしまう。また、これらの争いが永正9年(1512) に下野宇都宮氏で宇都宮錯乱を引き起こす遠因となってしまっている。永正9年(1512)、憲房が武蔵鉢形城を攻略した後、顕実は政氏を頼って古河城に逃走し、その直後に政氏も小山成長を頼って小山祇園城に移座した。代わりに高基が古河城に入り、第3代古河公方の地位を確立した結果、「公方-管領体制」は、政氏・顕定(顕実)体制から、高基・憲房体制に置き換わった。のちに憲房もまた、高基の子を養子に迎えて、関東管領の後継者(憲寛)とする。合戦までの経過前哨戦 那須口の戦い永正11年(1514) 7月頃には錯乱を鎮圧し、芳賀氏が宇都宮成綱・忠綱の支配体制に取り込まれることによって、小山祇園城の背後の守りがなくなり、足利政氏は直接宇都宮氏と隣接するようになった。危機感を覚えた政氏は、佐竹氏・岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜・岩城由隆・佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は永正11年7月29日に出陣し、2万もの大軍を率いて下野国に侵攻した。永正11年4月に足利高基は奥州伊達氏の伊達稙宗に出陣するよう要請しており、また、同年7月28日に宇都宮成綱が伊達稙宗に白河口へ出陣したか尋ねており、また、両那須氏を攻撃するように要請したが、稙宗はその要請に応えることはできなかった。佐竹氏・岩城氏の下野国侵攻に対し、宇都宮氏は宇都宮成綱の名代として宇都宮忠綱を総大将として、迎え討った。両氏はまず、下野国那須口で対峙し、一戦するが、宇都宮錯乱を鎮圧したばかりで疲弊していることや、清党が弱体化したことによって忠綱ら宇都宮勢は散々に打ち破られる。政氏方の那須領内での合戦だったなど条件が悪かったため、忠綱ら宇都宮勢は撤退している。竹林の合戦佐竹義舜・岩城由隆両軍は、撤退する宇都宮勢を追いかけ、同年8月16日に下野国宇都宮竹林で再び両軍は対峙する。この際には父・宇都宮成綱や同盟関係である結城氏の結城政朝、結城家臣の山川朝貞、水谷勝之などの援軍により、佐竹義舜・岩城由隆連合軍は撤退した。佐竹・岩城連合軍の撤退により、劣勢ながらも合戦は宇都宮・結城連合軍の勝利に終わった。合戦後の影響竹林の戦いで宇都宮氏・結城氏が勝利したことによって東国の大半が高基方になった。これによって「通路断絶」になり、足利政氏と佐竹義舜・岩城由隆は連絡が思うようにならなくなった。3ヶ月近くの遅れが生じていた。これによって足利政氏方についた大名にとってまた一歩、不利な情勢になってしまった。また、この合戦後に、宇都宮成綱は、調略を行い政氏方である那須氏の那須資房を高基方へと引き込み、佐竹氏・岩城氏らとの同盟関係を絶たせて、宇都宮氏と同盟を結ばせている。この同盟が、2年後に再び佐竹・岩城両氏が侵攻してきた際に大いに機能した(縄釣の戦い)】。 「佐竹 義篤」(さたけ よしあつ)は、室町時代後期から戦国時代にかけて武将。常陸国の戦国大名。佐竹氏第16代当主。永正4年(1507)、佐竹氏第15代当主・佐竹義舜の子(次男か)として生まれる。兄で庶子にあたる今宮永義(ながよし、今宮道義の祖父)が、伯父の今宮周義(義舜の兄)の跡を継いだため、義篤が嫡男となった。永正14年(1517)、父・義舜の死去に伴い、幼年ながら佐竹氏の家督を継ぎ、叔父の北義信が後見人となった。しかし、若き義篤は佐竹家中を統率するだけの器量に欠け、弟の佐竹義元とは不和が生じ[2]、ついに義元は享禄2年(1529)に反乱を起こし小貫俊通の居城・部垂城を攻撃、陥落させた。また、岩城成隆・江戸忠通が佐竹氏の領域に侵略すると、天分4年(1535)にこれに呼応する形で、佐竹一族の高久義貞も反旗を翻した。これに対し義篤は、伊達稙宗の斡旋で江戸忠通らと和睦し、孤立して進退窮まった義貞を降伏させて、反乱は終結させた。
2024年04月17日
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また、外交も巧みに活用し、古河公方足利政氏の子高基に娘の瑞雲院を嫁がせ、姉の玉隣慶珎大姉を結城氏の結城政朝に嫁がせ、また、初代古河公方足利成氏の孫娘である上杉顕実の娘を自らの妻としたりなど、周辺勢力間で有利になろうとしていた。父・宇都宮正綱の代に自立的だった塩谷氏、笠間氏、上三川氏、壬生氏などの宇都宮一族が従属性を強め、宇都宮一族の庶流や芳賀氏、益子氏などが直臣化している。これによって宇都宮成綱の時代には宇都宮一族と多くの家臣団で構成される宇都宮家中が成立した。成立当初、宇都宮家中で最も影響力を及ぼしていたのは芳賀氏と武茂氏であり、武茂氏が芳賀氏との政争に敗北すると、芳賀氏の政治の専横が始まった。永正3年(1506)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、成綱は勢力の拡大を図り、古河公方家の争いに介入した。この間に足利高基は宇都宮に逃れ義父である宇都宮成綱のもとに身を寄せていた。古河公方家の争いで、成綱は婿である高基を支持したが、政治を専横していた芳賀氏の芳賀高勝は、足利政氏を支持。権力者二人の意見が相違したことによって、宇都宮家中は大混乱。かつて享徳の乱などで起きてしまった家中の分裂が再び起ころうとしていた。宇都宮成綱はそれを恐れ、芳賀高勝と対立。家中の完全掌握を狙った。芳賀高勝が成綱の器量を恐れ、成綱の嫡男宇都宮忠綱を擁立し、成綱を強引に隠居に追い込もうと謀った。そこで成綱は忠綱に家督を相続させ、隠居する。また、同時期に成綱は弟の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせていた。また、同じく成綱の弟の兼綱も武茂氏の家督を継承している。隠居後も成綱が実質的な当主であり、芳賀高勝による忠綱擁立と成綱隠居の真相は、実は宇都宮成綱による家中の完全掌握を狙った謀略の1つであった。その最後の手段で、永正9年(1512) 、成綱は芳賀高勝を殺害し、宇都宮錯乱が勃発。芳賀氏与党は成綱に激しく抵抗するが、2年後の永正11年(15121512年)7月頃には錯乱を鎮圧し、芳賀氏は宇都宮成綱を頂点とする支配体制に取り込まれた。しかし、それと同時に芳賀氏を中心とする武士団・清党も大きく弱体化してしまった。佐竹氏常陸国の佐竹氏では佐竹氏四代にも及ぶ100年近く続いた佐竹の乱の最中で佐竹一門・山入氏の山入義藤・氏義父子が本家の佐竹義舜に背き、内紛が発生していた。延徳4年(1492)に、義藤が病死すると、義舜の正室の実家である岩城氏が仲介役となり、和議が成立するが、氏義が太田城の明け渡しの条件を呑まずに再び義舜に背き、明応9年(1500)に大山城、孫根城を攻撃し、義舜を金砂山城に追いやった。文亀2年(1502)には氏義が金砂山城に攻め込んできて義舜は危機に陥ったが、天候の悪化をうまく活用し、撃退に成功(金砂山城の戦い)。その後、岩城氏・小野崎氏・江戸氏らの協力によって、永正元年(1504)には常陸太田城を奪回することに成功した。永正3年(1506)頃に山入氏を滅ぼし、家中を掌握した。 その後は、独立的な動きを見せる江戸氏と同盟を結んだり、家法二十三ヶ条を制定したりと軍事力、領内支配の強化を図った。下総結城氏同時期、下総国の結城氏では、父・結城氏広が早世し、結城政朝はわずか3歳で家督を継承した。しかし、実権は重臣の多賀谷和泉守に握られており、多賀谷氏の専横がしばらく続いていた。元服後、政朝は多賀谷基泰の力を借りて多賀谷和泉守を誅殺している。その後、下野国の宇都宮成綱の姉である玉隣慶珎大姉を妻として迎える。これによって成綱と政朝は義理の兄弟となり、同盟関係を築いた。この同盟は宇都宮成綱が没するまでの間、大いに機能し、宇都宮、結城の良好な関係はしばらく続いた。岩城氏領内支配を固めた岩城親隆・岩城常隆父子は文明17年(1485)、佐竹氏と佐竹一門の山入氏らが争っている佐竹の乱に介入。常陸国車城を攻略し、常隆は佐竹領侵略の拠点として、車城に弟の車隆景を入れ車氏を名乗らせた。延徳4年(1492に、義藤が病死すると、岩城常隆が仲介役になり、和議が成立するが、氏義が太田城の明け渡しの条件を呑まずに再び佐竹義舜に背く。その後は佐竹氏を支援し、佐竹の乱鎮圧に貢献している。永正3年(1506)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、足利政氏は奥州諸氏に加担を求める。岩城常隆は当初、いずれにも加担せず、両者の和解を進めたことが、後に足利政氏派となる。また、永正7年(1510)に岩城常隆 (下総守)は、佐竹義舜と江戸通雅・江戸通泰父子との新しい盟約を仲介している。同年、佐竹氏が白河結城氏に奪われた依上保の地を白河結城氏の内紛に乗じて奪回した際に常隆は佐竹義舜に支援を行っている。岩城常隆は、娘を佐竹義舜に嫁がせたため、佐竹氏とは同盟関係を築いていた。那須氏那須氏は上杉禅秀の乱以降、上那須氏と下那須氏に分裂し、争っていた。永正9年(1512)頃は上那須氏は高基派、下那須氏は政氏派で、佐竹氏と同盟関係であった。永正11年(1514)には両那須氏とも政氏派になっている。また、上那須氏は永正11年(1514)に那須資親が没すると後継者争いが勃発し、上那須氏は断絶してしまう。これを機に下那須氏の那須資房が那須氏統一を図った。
2024年04月17日
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「本多氏氏一族の群像」1、「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22,「本多氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、「平八郎家(忠勝の家系)」・・・・・・・・・・・54、「彦八郎家(康俊の家系)」・・・・・・・・・・・425、「作左衛門家(重次の家系)」・・・・・・・・・・616、「弥八郎家(正信の家系)」・・・・・・・・・・・837、「三弥左衛門家(正重の家系)」・・・・・・・・・1088、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・120 1、「はじめに」本多氏の出自は、三河国の国人、江戸時代譜代大名・旗本家。左大臣藤原顕光11代目の助秀が豊後国本多に住してより本多を称し、12代助定の時足利尊氏に仕えたという。13代助政のあと定通家と定正家に分かれ、それぞれ三河で松平宗家に仕えた。歴史上著名な人物としては、定通家からは本多正信・本多忠勝が、定正家からは「徳川四天王」の一人とされた父子が出ている。正信の家は、元和8年(1622)正純の改易で絶えたが、本多氏全体としては、江戸時代には多くの大名・旗本の家に分かれた。大名として明治に至ったのは、定通家からは、三河国岡崎藩本多氏、正信を祖とする播磨国山崎藩本多氏、忠以を祖とする陸奥国泉藩本多氏、正時を祖とする近江国膳所藩本多氏、忠恒を祖とする伊勢国神戸藩本多氏、忠相を祖とする三河国西端藩本多氏の大名家6家が、定正家からは、正重を祖とする信濃国飯山藩本多氏の大名家二家が成立した。また、定正家には加賀藩家老本多氏、福井藩家老の本多氏がいる。
2024年04月13日
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そのため、防御が手薄で大坂城の脆弱部であると思われているが、千田嘉博は「大坂城の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであり、ここは地形の高低差が少なく、惣堀の幅も狭い。信繁は、真田丸という突出部を築くことで、真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくした」と述べている。また千田は、真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたと指摘している。この南惣構堀である空堀の東部に設けられた虎口が平野口である。慶長19年(1614)、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から牢人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。信繁は慶長5年(1600)に、第二次上田合戦において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。12月4日(1615)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功した。冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。夏の陣の終了後に造成された小橋寺町を境に、その西側が真田山、東側が宰相山と呼ばれるようになった。江戸期の絵図では、付近に加賀築山や越前築山といった記載も見られる。なお、昭和14年(1939)に開園した真田山公園に、真田山町という町名が昭和40年(1965)に付けられたが、真田丸跡を特定するものではない。真田丸の所在地は、上町台地東端の旧字名「真田山」(現・明星学園付近)に存在したのではないかと推定されている。平成28年(2016)には、2月に明星学園テニスコートの外側に真田丸顕彰碑が建てられたほか、7月には島根県松江市で実態を示す新たな絵図の発見が、12月には初の学術発掘調査により遺構と推測される盛り土の発見がなされた。大阪歴史博物館によって豊臣時代の上町台地周辺の地形が復元された。これによると、真田丸の北側には幅200メートルの谷があるため大坂城惣構えから孤立した立地にあり、大坂城の惣構えと隣接していたとする通説が誤りであることが判明した。規模について、千田嘉博は通説の南北220メートル、東西140メートルよりも大きかったのではないかと指摘し[8]、坂井尚登によると小曲輪を含めると南北270メートル余、東西280メートル余(堀の幅は除く)と推定している。半円形の曲輪で出口は後方と両脇に位置し、三方に堀・塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとして描かれる。多くの絵図では、真田丸は大坂城に隣接した半円形の出丸(曲輪)として描かれていることが多かった。しかし『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博によると、真田丸は半円形ではなく不定形の形の城であったとする。これに対して坂井尚登は形態は正方形に近い五角形の平面体とする[3]。また『摂津 真田丸』では徳川軍の迫る南側だけでなく、大坂城に面した北側にも堀を設け北側からの攻撃にも対処した曲輪を備えて描かれていたことから、すなわち真田丸が惣構えに従属した施設だったのではなく、全方向からの攻撃に備えた独立した出城であったことが判明した。一方、藤本正行は、大阪城に面した北側の堀について真田丸が作られる以前から存在していた可能性があること、また、真田丸と惣構の間が土橋で繋がっていることが多くの絵図により確認でき、真田丸は孤立していないことを指摘している。真田丸を設けた目的は、大坂城の弱点補強のための簡易的な出丸ではなく、徳川軍をおびき寄せて打撃を与える、より積極的な「攻撃のための出城」であったことが指摘されている。出入口は東西二ヶ所あり、西側の出入口は惣堀に近い場所に設置されていた。敵がここから侵入すると、惣構え内と真田丸との十字砲火を受けることになる。藤本正行は、『当代記』に「此丸ハ惣構江横矢俄二取手シ曲輪也」とあることから、側面攻撃を行うために築かれたとする。) 9、「大坂冬の陣」慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次(通称又兵衛)隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。
2024年04月11日
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豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・陣屋などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。朝廷から後陽成上皇の命により、17日に武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた。交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。講和内容は豊臣家側の条件として本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること。淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。が提出され、これに対し徳川家が秀頼の身の安全と本領の安堵。城中諸士についての不問。を約束する事で和議は成立。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある)。和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。城割(城の破却)は古来行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものだった。しかし徳川側は松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も破壊されている。幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てる卑劣な手段を使ったとされてきたが、この話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できない。さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる。 真田繁信は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる。大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いたが、千田嘉博によると大坂城の実際の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであるとされる。信繁は、地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくしたのである。さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している。さらに半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博により、不定形であったことが判明した。この戦闘で信繁は、寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなる。なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、警戒していた。冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、承知をするならば、本多正純から誓詞を与えると寝返るように説得している 。信繁が秀頼には恩があると言ってこれを断ると、正純から再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出たが、これを聞いた信繁は「信濃一国どころか、日本国中の半分をいただけるとしても、わたしの気持ちはかわりません」と立腹して対面をしなかったという。*「真田丸」(さなだまる)は、慶長19年(1614)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城(平野口の南に構築した出城・曲輪(出丸)である。豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られていたが、真田丸の築かれた地続きとなる南方だけは空堀のみであった。
2024年04月11日
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11月1日、摂関家の当主らが、家康の元に訪れて朔日の祝いを述べた。ところが現任の関白である鷹司信尚のみは、延期された方広寺の大仏の開眼供養に出席しようとしていたことを家康から問題視されて会見を断られてしまう。信尚はそのまま謹慎を余儀なくされ、その後家康が行った禁中並公家諸法度の草案に対する公家たちへの意見聴取の対象にもされることがないまま、翌年閏6月に関白の辞表の提出をしている。幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。福島正則や黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だった為、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家附家老の本多富正が軍を率いて越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。緒戦、慶長19年(1614)11月19日、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。攻囲戦、豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していった。これ以前、家康は10月23日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している。この接近時に起こった真田丸の戦い(12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退。秀忠は4日に岡山に着陣し、家康が和議を考えていると知り家康に総攻撃を提案するが、家康は「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」下している。5日、家康は住吉から茶臼山本陣を移し、8日までに到着した部隊にも仕寄(しより、塹壕の事)の構築を命じている。9日。家康が11月23日より伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄橋の工事が完了し、大和川があるため干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる。大和川の塞き止めも行われ、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)。この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は松平忠明隊は20から30間、藤堂隊は7間に近接している。10日には降伏を促す矢文を送り、11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道の掘削を始めた。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている。更に、船場の堀の埋め立ても命じた。また、大坂方武将への調略も行われ、本多正純が弟で前田家家老の本多政重に真田信尹(徳川軍使番・真田信繁の叔父)と協力して、真田信繁を徳川軍に寝返らせるよう指示した文書が残されている。15日に後述する和議交渉が暗礁に乗り上げた翌16日から、全軍より一斉砲撃が始められる。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。 この砲撃では国友製3貫目の大砲、芝辻理石衛門により鍛造で造られた鉄製の大砲が使われた。芝辻理石衛門製の大砲は靖国神社の遊就館に奉納されている。 6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)も含まれていると思われる。豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗。竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと火縄銃の効果は激減する。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる(『当代記』)。 大砲も使い、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげて徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、真冬の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。
2024年04月11日
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7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった。また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。「国家安康」について五山の僧の見解を、江戸時代に編纂された史料ある『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)は次のように伝えている。「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えている。 この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった。しかし家康の追及は終わらなかった。たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても[3][4]、当時の諱に関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある。家康のこの件に対する追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない。しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している。「豊臣方の準備」慶長19年(1614)10月2日、豊臣家では旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。秀頼の援軍要請に応じる大名がいなかったことについて、徳川方は秀頼が孤立したものとは見ておらず、島津家久からは人質も取り黒田長政ら両名に対して重点的に馴致工作を行い、西国大名達に徳川秀忠に対して忠勤を誓う起請文を出させていたことが原因ではないかとする指摘がある。集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆のほかにも塙直之、大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐を考える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は異なるが、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。「幕府軍の出陣」10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。 翌12日には豊臣方の真木島昭光が堺の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。そして、23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。
2024年04月11日
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5月8日、秀頼が臣下の礼を取るように、高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている。慶長16年(1611)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見)。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17年(1612)には前年上洛していなかった東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない。二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり、兵糧や浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。且元は大坂へ戻り、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。*秀頼を江戸に参勤させる*淀殿を人質として江戸に置く*秀頼が国替えに応じ大坂城を退去するこの案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。秀頼や木村重成からの調停があったものの、28日に高野山に入るとして大坂城を出ることを決めたが、これは秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として改易が決められる。10月1日に片桐且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を退去した。且元は慶長18年に秀頼から1万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあり[4]、豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになった。秀頼による且元殺害の企ての報を10月1日に受けた家康は、これを根拠に同日諸大名に出兵を命じて大坂の陣が勃発した。[4]「家康の天下普請」徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)に藤堂高虎の協力で築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城・二条城・彦根城・篠山城・亀山城・北ノ庄城・名古屋城の再建・造営や江戸城・駿府城・姫路城・上野城などの大改修など、諸大名を動員した建築事業として御手伝普請を課し、いわゆる天下普請を行った。この中で駿府城の普請は、普請に対する主従関係の希薄な五百石夫(知行高五百石につき人夫一人)という形で行われ、これは秀頼の所領に対しても賦課された。駿府城の改修により、家康は大御所政治を始動する[2]。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、淀殿がこれに拒否反応を示し、沙汰止みになっている。「秀頼の寺社造営」豊臣秀頼・淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っている。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年(1608)には、家康が方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596)に倒壊)の再建を勧めている。これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の金(約28万両)と約2万4千枚の銀(約24万両)が幕府に没収されている。「方広寺鐘銘事件」慶長19年(1614)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させている。且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。
2024年04月11日
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また、講和条件の大坂城の外堀を埋める作業の工事奉行となった。寛永元年(1624)には越前国敦賀郡が加増された。寛永11年(1634)には、毛利氏に対する押さえとして、京極氏が室町時代に代々守護を務めていた出雲、隠岐二ヶ国へ加増転封となり、合計26万石を所有し、さらに石見の石見銀山も当てられた。関ヶ原の戦い時にも京極氏と毛利氏は激闘しており、父高次は毛利元康の猛攻を大津城で防いでいる。この大幅な増封は明らかに毛利氏への押さえとしての配置と考えられている。それだけ徳川将軍家の京極家への信頼は厚いものであった。さらに将軍家姻戚として優遇された京極家だったが、正室・初姫との夫婦仲はあまり良くなかったとみられる。寛永7年(1630)に初姫が死去した際は、忠高は臨終に立ち会うこともなく相撲見物に興じていたと伝えられる。このため舅である大御所・秀忠や義弟の3代将軍・家光の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠により徳川家所縁の小石川伝通院にてとり行われ、忠高をはじめ京極家の関係者は葬儀への臨席を許可されなかった。寛永14年(1637年)、45歳で死去した。嗣子がなかったため、京極氏は改易されかけたが、それまでの徳川家に対する京極家の忠義を考慮されて、甥の高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許された。正室初姫との間に子供をなさなかったが、側室との間に一女をもうけた。なお、高和は甥ということになっているが、実は忠高の実子であるという説もある。側室所生の子であったので幕府と正室初姫の実家将軍家を憚り、甥ということにされたと言われる。 「京極 高国」(きょうごく たかくに)は、丹後宮津藩の第3代藩主。国持大名。元和2年(1616年)、第2代藩主京極高広の長男として田辺で生まれる。承応3年(1654)4月23日、父の隠居により家督を継いで藩主となる。しかし隠居した高広が藩政に介入したことから父と対立し、さらに高国自身も寛文元年(1661)には年貢が納められていないとして、その村そのものを取り潰すなどの悪政を布いた。このため寛文6年(1666)5月3日、親子不和や悪政を理由に幕命によって改易され、陸奥盛岡藩主南部重信預かりの身となった。ただし、扶助料として3000俵を与えられた。なお、改易されたとき、家臣の落合主税助らなど一部が宮津城明け渡しに応じず、一時は籠城して徹底抗戦しようとまでしたが、高国が説得することで開城している。このことから、暗君ながら家臣に慕われていた一面があったものと思われる。延宝3年(1675年)12月24日に死去。享年60歳。子孫は旗本となり、室町以来の名族ゆえ、高家に列した時期もあった。 「京極 高規」 (きょうごく たかのり、寛永20年(1943)~ - 宝永5年(1708)は、江戸時代前期の高家旗本。丹後宮津藩主京極高国の嫡男。生母は千菊姫。初名は高頼。通称は兵勝丸、采女、近江。官位は従四位下侍従、対馬守。父が改易されなければ国持大名・宮津藩主だったはずの人物である。曽祖父は関ヶ原の戦いで大功を挙げ、徳川家康より丹後一国を与えられた京極高知である。明暦元年(1655)1月28日、将軍徳川家綱に御目見する。明暦3年(1657)12月27日、従四位下近江守に叙任する。後に対馬守に改める。寛文6年(1666)5月3日、父高国の改易により、藤堂高次のもとに預けられる。扶助料3000俵を与えられる。延宝8年(1680)9月2日、赦免されて、母方の実家伊達家の領地常陸竜崎に暮らす。元禄3年(1690)8月18日、幕府の旗本となり、蔵米200俵を与えられ、寄合に所属する。元禄8年(1695)12月15日、高家職に就き、18日侍従に任官する。元禄10年(1697)7月26日、あらためて安房朝夷郡などで2000石を与えられる。元禄14年(1701)、浅野長矩の刃傷事件に際し、その刀を奪い取ったのは自分だと主張をし、梶川頼照と論争を生んだ。宝永2年(1705)7月25日辞職し、寄合に所属する。11月29日隠居し、養子高甫(実弟)に家督を譲る。宝永5年(1708年)10月19日死去、66歳。正妻はいない。2男1女があり、その他に養子が2人いた。 「京極 高甫」 (きょうごく たかすけ、寛文2年(1662) ~- 享保14年(1729)は、江戸時代中期の高家旗本。京極高国の三男。初名は高武、高茂、親信。通称は杢之助、大膳。官位は従五位下侍従・大膳大夫。一時、落合姓を称す。寛文6年(1666)5月7日、実父高国の改易により、池田光仲のもとに預けられる。延宝8年(1680)9月2日、赦免される。その後、実兄京極高規の養子になる。
2024年04月09日
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明治4年(1871)廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て京都府に編入された。藩主家の本庄松平氏は明治2年に華族に列し明治17年(1884)に子爵となった。宮津藩本荘家の家臣団「京極 高広」(きょうごく たかひろ)は、丹後宮津藩の第2代藩主。国持大名。慶長4年(1599年)、初代藩主・京極高知の次男として伏見城下の京極屋敷にて生まれる。元和8年(1622)の父の死去により、丹後京極家の家督と12万3000石の遺領うち7万8200石の領地を継いだ。藩政においては、城郭や城下町の整備・拡大を行なって藩政の確立に努めている。慶安元年(1648年)、隣藩福知山藩の藩主稲葉紀通に寒鰤100匹をねだられたが、これを幕府への賄賂として使われることを恐れた宮津藩は全て頭を切り落とした鰤を進呈した。こうなった鰤はいわゆる「打ち首」の状態であり、武士社会の贈物としては不適切で使用できない。また宮津藩側から挑発を受けた、と福知山藩側が思った可能性もある。ともあれ、この非礼に激怒した福知山藩側が、福知山藩内を通行する宮津藩の領民を次々首をはねて殺害するという報復を行ったとされる。『藩翰譜』では紀通自身が宮津藩の飛脚を狙撃しようとし、誤って他家の飛脚を殺害したことが謀叛騒ぎの原因であったという説を記している。幕府に激しく叱責された稲葉紀通は自害した。そもそも同年の稲葉紀通は幕府に叱責を受けており、8月18日には江戸に参府して弁明を行うよう命じられていた。加えて幕府は宮津藩を含む近隣大名に福知山藩討伐のための動員準備を命ずるなど緊迫する中、紀通は8月20日に自害し、福知山藩稲葉家も改易となった。高広は領民に対して悪政を敷いたとされ、承応3年(1654)に農民が藩外へ逃散している。同年4月23日、長男の高国に家督を譲って隠居し、安智軒道愚と号して現在の宮津市字安智に1万石の隠居料を持って住んだ。しかし隠居後も藩政に介入し、高国と対立したために、寛文6年(1666)5月3日に宮津藩は激しい親子喧嘩のせいで改易されるという前代未聞の事件を起こした。その後、京都岡崎に閉居し、同地で延宝5年(1677年)4月22日に死去した。享年79歳。 「京極 高次」(きょうごく たかつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。若狭小浜藩の初代藩主。京極氏は北近江の守護で本来は浅井氏の主筋に当たるが、臣下の浅井氏の下克上を受け、高次はその庇護のもと、浅井の居城内で生まれた。のちに妹(姉との説もある)・竜子(松の丸(京極)殿)が豊臣秀吉の側室となり、また淀殿の妹の初(常高院)を正室とした。そのため彼女たちの七光りで出世したとされ、蛍大名と囁かれた。しかし決して無能な人物ではなく、大津城の戦いでは、居城の大津城に篭もって1万人を超える西軍の大軍勢を食い止め、関ヶ原の戦いの主戦場へと向かわせなかった。戦後、その功により若狭一国を与えられて国持大名となり、弟・高知と並んで京極家を再興し、近世大名家としての礎を固めた。没落永禄6年(1563)、京極高吉と京極マリア(浅井久政の娘。浅井長政の姉)の長男として、浅井氏の居城である近江国の小谷城京極丸で生まれる。幼名は小法師と称した。父の高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭と織田信長が対立した際に出家し、高次は美濃国へ人質として送られ、幼少期を過ごす。元亀4年(1573)7月には宇治の槇島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、近江国奥島5000石を与えられる。天正10年6月2日(1582)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀に与し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めるが、13日の山崎の戦いで光秀は秀吉に討たれ、19日に元明は自害した。高次は初め美濃国、そして若狭国の武田領へと逃れ、一時は柴田勝家に匿われていたようである(京極家譜)。大名への道秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願などにより、高次は許されて秀吉に仕えることとなり、天正12年(158)に近江国高島郡2500石を与えられる。翌々年には5000石へと加増された。さらに同年の九州平定での功により、1万石に加増され、大溝城も与えられて大名となった。天正15年(1587)、京極家の旧家臣である浅井家の娘・初(父は浅井長政)を正室とする。高次と初は従兄妹同士であった。天正18年(1590)、小田原征伐の功により近江八幡山城2万8000石となり、翌年に豊臣秀次が関白に就任すると、従五位下侍従に任ぜられる。近江の大名文禄4年(1595)には近江大津城6万石へと加増された。
2024年04月09日
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慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは初め西軍に属するが、途中から東軍へと寝返り、大津城に篭もる(徳川家康との密約があったとされている)。そして、攻め寄せた西軍の大軍勢1万5000を相手に激しい篭城戦を行い、ついに攻め手を関ヶ原へと向かわせなかった(大津城の戦い)。この功により高次は戦後家康から若狭一国を与えられ、若狭後瀬山城8万5000石へと加増される。翌年に高島郡7100石も加増され9万2000石を領有、小浜藩の成立に繋がった。秀吉の死後は兄の与力大名となっていた弟の高知も兄の家老と共に家康に従い、東北に出兵して関ヶ原の戦いにおいても最前線で功を挙げ、丹後1国を与えられ国持大名となり丹後守を称すことを許され、丹後宮津城12万3009石を領有、宮津藩の成立に繋がった。「加州家」京極高詮の次男、京極高数に始まる家。高数を初見として代々の当主が加賀守を名乗ったことから、この名が定着したようである。甥(兄・高光の嫡男)・京極持高の跡を受け、高数は京極家の家督となったが、次代京極家当主は甥(持高の弟)である京極持清の血筋に戻ったため、高数の嫡男・京極教久(のりひさ、将軍・足利義教より1字を賜う)は別に家を立て以降の宗家を支えた。この家は室町幕府においても、京極別家(国持に准ずる外様衆)として重んじられ将軍家から新たに所領も拝領し、次代京極政数(まさかず、名は政宗(まさむね)とも、将軍足利義政より1字を賜う)以降も続いた。幕府内で活躍したほか京極氏の主たる領国である出雲においても、鞍智氏とともに宗家の代理として活躍した。応仁の乱以降は、荒廃する京都を離れ、出雲に拠点を移す。戦国大名として台頭した尼子氏からは、宍道氏と同じく御一門衆として厚遇されたため臣従し、尼子氏の他の領国で城督をつとめるなど活躍した。主家である尼子氏没落と運命をともにするものの、江戸時代まで松江藩藩士として家系を残した。 「近世外様大名」「高次流 」(若狭京極家)高次は慶長14年(1609)に47歳で死去、息子の忠高は大坂の陣で功績を挙げ、越前敦賀郡1郡をさらに加増される。また徳川将軍家より正室を迎え、寛永11年(1634)、室町時代にかつて京極氏が守護として世襲した旧領国の出雲・隠岐の2カ国26万4000石へと加増転封とされた(松江藩)。しかし、忠高は寛永14年(1637)に嫡子の無いまま急死、末期養子に甥の高和を望んでいたが認められず改易されかけたが、高次の功績により存続を許され、高和は播磨龍野藩6万石へと移封減封、さらに讃岐丸亀藩6万石へと転封となる。丸亀藩は飛び地として、近江の一部も領していた。高和の子である高豊も40歳で急死したため、嫡子の高或に5万1000石を、庶子の高通に多度津藩1万石をそれぞれ継がせることになり、高或は3歳、高通は4歳で藩主となった。高或・高通の成人以降は安定した時期が続いた。 7、「宮津藩京極氏」(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い後に細川忠興が豊前小倉藩へ移されると、丹後国には信濃飯田藩より京極高知が田辺城に入り(幕府に届出た正式な居城は宮津城)、丹後一国を領した(丹後藩)。のちに拠点を宮津城に移す。後に嫡男の高広を宮津藩に、三男の高三を田辺藩(舞鶴藩)に、甥で婿養子の高通を峰山藩に入れ、丹後に3藩を並立させた。従って、実質的には高広より宮津藩が成立したといえる。高広の子高国は寛文6年(1666)、幕府に悪政・一族不和等の不行跡を咎められ、改易となった(宮津京極家自体は高家旗本として存続した)。幕府直轄を経て、寛文9年(1669)、永井尚征が山城淀藩より入城した。奏者番となった第2代藩主・尚長は延宝8年(1680)、第4代将軍・徳川家綱の葬儀が増上寺で行われた際、乱心した志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に殺害された。尚長には嗣子がなく、永井家は改易となった。後に弟の直円に大和櫛羅藩1万石が与えられて再興している。天和元年(1681)、阿部正邦が武蔵岩槻藩より入封するが、元禄10年(1697)には下野宇都宮藩に転出している。入れ替わりに同地より奥平昌成が入封し、享保2年(1717)には豊前中津藩に転出する。代わって信濃飯山藩より青山幸秀が入封した。第2代藩主・幸道は宝暦8年(1758)、美濃郡上藩に移封となるなど、目まぐるしく入れ替わった。遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入って、ようやく藩主家は定着をみることとなった。松平(本庄)氏の家祖・宗資は第5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子資俊より松平姓を許された。当家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出している。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方として戦ったが敗戦し、以後は明治政府に恭順した。
2024年04月09日
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しかし翌2年(1489)に政経は近江国人衆の協力を得て高清を追放、高清は美濃の実力者斎藤妙純を頼り、越前敦賀、坂本へ逃れる。延徳2年(1490)8月に政経は幕府から当主(京極氏惣領職)と認められ、合わせて高清退治も命じられた。しかし、政経が配下の所領横領を阻止出来なかった事が10代将軍・足利義材(義尚の従弟)の怒りを買い失脚、代わりに高清が明応元年(1492)12月に家督を認められ、翌年9月に高清は北近江に復帰する。一方の政経は出雲の守護代尼子経久を頼り下向、近江に残った材宗は抗戦を継続した。しかし、明応5年(1496)に庇護を受けていた斎藤妙純が六角高頼に敗れて戦死すると高清も没落、美濃海津に寄留する。終結明応8年(1499)8月、京極氏重臣・上坂家信の助力により高清は江北へと帰還する。文亀元年(1501)6月、永正2年(1505)の材宗の2度に渡る襲撃も退け、同年冬に材宗と箕浦の日光寺で和睦し、35年続いた家督争いを終える。但し、材宗は2年後の永正4年(1507)に高清に自害させられている。高清は京極氏当主になれたが、その間に近江を除く領国(出雲・隠岐・飛騨)を守護代や国人に横領されてしまい、僅かに北近江しか残らなかった(六角高頼は幕府征討を乗り越え、明応の政変もあって南近江の支配者の地位を確保)。しかも大永3年(1523)には自分の2人の息子を巡って近江国人が2派に分かれて、再び御家騒動を勃発させてしまい、近江国外へ追放の憂き目にあった。そして京極氏は最終的な勝者・浅井氏の傀儡になってしまうのである。 「京極 高吉」(きょうごく たかよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。高佳・高慶と表記される場合もある。官位は長門守、中務少輔。京極高清の次男、異説として京極材宗の子で高清の養子ともされる。妻は浅井久政の娘(京極マリア)。子に高次、高知、松の丸殿(武田元明妻、後に豊臣秀吉側室)、娘(氏家行広室)、マグダレナ(朽木宣綱室)。高吉は父の高清に寵愛され、兄の高延と家督を争ったが、浅見貞則や浅井亮政を始めとする国人達の支持を受けた高延に敗れ、追放された。後に高延も浅井亮政と対立し追放され、京極氏の衰退は決定的となった。追放後の高吉は南近江の六角氏の支援のもと、高延・浅井亮政と争った。後に高延と対立した浅井氏に父と共に北近江に迎えられ北近江の領主に一時返り咲くものの、傀儡であったため結局近江を離れることになる。一時13代将軍足利義輝の近臣として仕えたが、永禄3年(1560)に権力奪回を目指して再び近江に下り六角氏と結んで浅井賢政(後の長政)に対して挙兵するも失敗し、近江における残された支配権を全て失う。永禄8年(1565)永禄の変において義輝が暗殺されると、義輝の弟の足利義昭の擁立に尽力する。だが、義昭が織田信長と対立すると高吉自身は近江に隠居し、子の小法師(高次)を信長に人質として差し出した。小法師は元服後高次と名乗り、そのまま信長に仕えた。天正9年(1581年)、妻と共に安土城にてグネッキ・ソルディ・オルガンティノからキリスト教徒としての洗礼を受けたが、その数日後に死去。突然の死に人々は仏罰で没したと噂したといわれる。 6、「織豊時代の京極氏」高広の子である京極高成(たかなり)は御供衆として足利義昭の近習となった。再興された京都の室町幕府が備後国鞆に移されると、将軍家に従い鞆に移る。毛利輝元の客将として働いた。やがて将軍家が関白・豊臣秀吉の命により畿内に戻ると、それに従って戻り最後まで義昭に仕えた。また、高成の息子は義昭の1字を受けて京極昭成(あきなり)と名乗っている。義昭没後は、高成・昭成父子共に小早川家(隆景(毛利輝元の叔父)・秀秋(秀詮))に仕えたが、江戸時代初期に秀詮が嗣子なくして没したために小早川家が改易されると流遇した。高吉の子である高次は初め織田信長に仕えるが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると光秀に属し、山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)からの追及を受ける。しかし、姉妹の竜子が秀吉の側室となったことから許され、天正12年(1584)に近江高島郡の2500石を与えられる。その後は加増を重ね、天正14年(1586)には高島郡5000石、翌年の九州征伐の功により近江大溝城1万石で大名となり、天正18年(1590)の小田原征伐の功により近江八幡山城2万8000石、文禄4年(1595)にはさらなる武功により近江大津城6万石へと封じられる。一方、弟である高知は当初から秀吉に仕え、天正19年(1591)に近江蒲生郡5千石、文禄2年(1593)に信濃国伊那郡6万石、翌年には10万石に加増される。
2024年04月09日
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3、「戦国時代から幕末」幕府は陸奥には奥州探題職を置き、守護は置かない方針であったが伊達稙宗は陸奥守護を望み補任された。勢いを得た稙宗は主筋にあたり奥州探題を世襲する名門の大崎氏の内紛に介入して二男の義宣を大崎氏の養子に送り込み、さらに羽州探題の最上氏も勢力圏に組みこんだ。稙宗は天文5年(1535)に分国法の塵芥集を制定するなどして家中統制の強化に努めた。しかし稙宗の専制を快く思わない家臣団の一部は、稙宗の子・伊達実元を越後守護上杉氏に入嗣させる計画に反対する嫡男・伊達晴宗を擁立して稙宗の追放を図った。こうして稙宗・晴宗父子の間で天文の乱が勃発した。この争乱は姻戚関係を結んだ奥羽の諸大名を巻き込む大乱へと発展した。乱は晴宗方の勝利に終わったが、長期の内戦により伊達家は疲弊し、勢力下に収めていた諸大名の独立を許すことになった。晴宗は居城を米沢城に移して態勢の立て直しにとりかかり、幕府に奥州探題への補任を求めた。すでに天文15年(1546)に大崎義直が探題に補任されていたが、晴宗は陸奥守護職と奥州探題職は同一のものであり、稙宗が守護職を得た時点で伊達氏が探題職に補任される権利を得ていると主張した。「江戸時代」伊達政宗は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、その恩賞として、甘糟景継から奪った刈田郡白石城2万石(実高4万石)をそのまま安堵・加増された。翌年には仙台城を築いて岩出山城から移る。後に近江国と常陸国で飛び地の小領土も得て、前田(102万石)・越後松平(75万石)・島津(72万石)・越前松平(67万石)・豊臣(65万石)に次ぐ徳川政権下で第6位(大坂の役と戦後の宇和島別家取り立て、松平忠輝と松平忠直の改易後は、前田・島津に次ぎ第3位)62万石余の大藩となる。娘婿の忠輝との関係で大久保長安とも交友があったとされるが、大久保長安事件では連座を免れている。江戸時代を通じて国持大名の家格を維持し、伊達宗家の当主は家督相続時左近衛権少将に任ぜられ、極官は従四位上・左近衛権中将に昇った。外様大名の中では別格の扱いを受け、将軍家から降嫁がある数少ない家のひとつとされ、松平の姓を与えられて松平陸奥守を称した。江戸時代に大名家および仙台藩士の他に、旗本(駿河伊達氏系)、紀州藩士(駿河伊達氏系)、津山藩士(駿河伊達氏系)、秋田藩士(伊達盛重の系統)にも伊達氏が確認できる。江戸時代において、伊達宗家の仙台藩以外に大名として取り立てられたのは以下の4家である。*慶長19年(1614年)、政宗の庶長子・秀宗が、伊予国宇和島藩10万石を拝領。*明暦3年(1657年)、宇和島藩初代藩主秀宗の五男・宗純が、宇和島藩より3万石を分知され伊予吉田藩を立藩。*万治3年(1660年)、政宗の十男・宗勝が、仙台藩より3万石を分知され一関藩を立藩(寛文11年(1671年)伊達騒動により改易)。*元禄8年(1696年)、仙台藩3代藩主綱宗の二男・村和が仙台藩より3万石を分知され陸奥中津山藩を立藩(元禄12年(1699年)改易、のちに長男・村詮が仙台藩一門・川崎伊達氏を興す)。仙台藩の実高は新田開発により100万石余に達したが、4代藩主綱村がこしらえた莫大な借金や、買米制による米相場依存の財政体質、7代藩主重村の失政などがたたって、次第に苦しい藩政運営を強いられるようになる。 「江戸時代後期」には、第9代藩主周宗・第10代藩主斉宗の兄弟が「宗」の字を使用したが、その後は仙台藩主が短期間で次々と交代する一方で、将軍・徳川家斉の治世が長期化したこともあって、偏諱の「斉」字に合わせて通名を使用することで同名となることを避けるため、通字を使用しない時期が続いていたが、明治維新期の宗基・邦宗兄弟以降は再び「宗」が通字となり現在に至っている。 慶応4年(1868)の戊辰戦争で、仙台藩は会津藩に味方して薩長軍に敗北した。そのため朝敵として処分され、いったん領地を没収された後、28万石を与えられた。このため、仙台藩の直臣7千人余のうち、仙台藩領内に留まった地域の家臣団の家禄を大幅に削減するとともに、仙台藩から没収された地域に居住する在郷家臣団は帰農を命じられた。また陪臣(主に仙台藩重臣の家臣)2万人余に至っては士族籍すら与えられず、一方的に解雇された。このため、伊達邦直・伊達邦成・片倉邦憲ら万石級の所領を知行していた領主たちは、自らの家臣団を救済するため北海道に自費で移住し、開拓に従事した。華族令施行により、仙台の伊達宗基と宇和島の伊達宗徳はともに伯爵(宇和島は明治24年(1891)侯爵に昇格)を授けられ、吉田の伊達宗定は子爵を授けられた。宇和島からは伊達宗敦(大陸浪人・馬賊として著名な伊達順之助は宗敦の六男)が明治22年(1889年)に、伊達宗倫がそれぞれ明治25年(1892年)にそれぞれ分家し男爵を授かる。また、北海道開拓の功績により明25年(1892年)に亘理の伊達邦成・当別の伊達正人(岩出山の伊達邦直の孫)が男爵を授爵した(後に同様の理由で片倉景光(邦憲の孫)も男爵を授爵している)。
2024年04月04日
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二十五、「魚津城の戦い」 魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい)は、天正十年(1582)に行われた柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦い。上杉家(米沢藩)中条家文書・魚津在城衆12名連署書状を根拠とする 。 上杉氏と織田氏は甲斐武田氏や相模後北条氏に対して同盟関係にあったが天正四年(1576)に織田氏の当敵である毛利氏のもとに身を寄せていた将軍足利義昭が反信長勢力を糾合すると上杉謙信は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦し、同盟は手切となり敵対関係に入った。 天正六年に謙信が死去すると上杉家では御館の乱を経て上杉景勝が当主となり、景勝は信長の当敵である甲斐武田氏と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田氏は引き続き敵対関係となった。 謙信死後、織田信長は北陸地方の支配を目論んだとされ、天正九年(1581)に起こった荒川の合戦以後は、事実上、織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清され、北陸地方における織田氏方の基盤が作られていった。 天正十年(1582)二月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、同年三月に織田軍は魚津城を囲んだが、背後で小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住の富山城を急襲し城を乗っ取ったため、天正十年(1582)三月十一日に柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政は魚津攻めを中止し富山城を攻めさせ奪還した。その後四万ともいわれる織田軍は魚津城への攻撃を再開し、上杉氏も三千八百ともいう兵を挙げ立てこもった。 包囲された上杉軍部将の中条景泰はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には、武田氏を滅亡させた織田軍がまだ駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとったため兵を出せなかった。 その代わり能登国の諸将、および赤田城主斎藤朝信や松倉城主上条政繁を派遣した。そして景勝は天正十年(1582)五月四日に、自ら軍勢を率い春日山城を出発、五月十九日には魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を張った。一方織田軍は五月六日に二の丸を占拠したため、景勝は戦を仕掛けられず、信 濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が越後侵入の態勢に入ったため、五月二七日に退陣を決断した。 その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から三ヶ月後の六月三日に落城を悟った山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将十三人が自刃して果て落城、織田軍が勝利した(落城の日には、既に織田信長は京で横死していたことに注意)。 勝利に沸く織田勢であったが、六月二日に信長が本能寺で明智光秀により討たれた(本能寺の変)との報に接し、主君の死に動揺した織田勢は四散した。空城となった魚津城には須田満親を中心とする上杉勢が入り、越中東部における失地を奪還したが、清洲会議で越中を安堵された佐々成政に再び攻められ、城を明け渡した。上杉氏は織田氏に加賀能登越中を奪われ、越後に押し込められた。「魚津在城十三将」中条景泰 - 竹俣慶綱 - 吉江信景 - 寺嶋長資 - 蓼沼泰重 - 藤丸勝俊 - 亀田長乗 - 若林家吉 - 石口広宗 - 安部政吉 - 吉江宗信 - 山本寺景長 - (吉江景資)中条、竹俣、吉江信景は上杉謙信の代からの側近。藤丸、亀田、若林らは、元加賀一向宗門徒の国衆で、謙信の加賀侵攻に伴い上杉氏の被官となった者たちで、若林家吉は天正二年七月に謙信が加賀に侵攻した際の一揆側の主将・若林長門守の一族と考えられる。 上杉一門からは山本寺も加わっている。 吉江景資の名は「魚津在城衆十二名連署状」にはないが、同時期に戦死したと考えられており、ここでは含めることとした。なお、中条と蓼沼は第1廓を守備していたことが史料から判っている。 二十六、「本能寺の変」 信長は四国の長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。 また北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。 上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。 五月十五日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。 そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から十七日にわたって家康を手厚くもてなした。 家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。 後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。 五月二九日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、六月二日に本能寺を襲撃する。 この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが『本城惣右衛門覚書』からもうかがえる。 百人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年四十九(満四十八歳没)。 光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまった、あるいは損傷が激しく誰の遺体か確認できなかったためと考えられる。 ゆえに、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説が後世に流布した。実際事件当時も信長の生存説が京洛に流れており、緊急に光秀と対立することとなった羽柴秀吉はこの噂を利用し、味方を増やそうとしている。 本能寺の変では光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、色々な説が流れており、後者には徳川家康説、秀吉説、天皇説、堺の商人説などがある。波瀾万丈の類まれなる天下無双の織田信長と言うう知将は、天下取りに頂点に駆け登った。 だがその終焉は余りにも儚く空しい結末で人生を閉じた。非情にも、多くの人々の命を虫けらの如く奪い去った。その功罪を語る時、戦国と言う有史以来の下剋上の不原則の時代で一長一短に語り尽くすことが出来ない。 了
2024年02月04日
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