歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月09日
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カテゴリ: 安土桃山時代




大坂城 の外堀を埋める作業の工事奉行となった。寛永元年(1624)には 越前国 敦賀郡 が加増された。


寛永11年(1634)には、毛利氏に対する押さえとして、京極氏が室町時代に代々 守護 を務めていた 出雲 隠岐 二ヶ国へ加増転封となり、合計26万石を所有し、さらに 石見 石見銀山 も当てられた。


関ヶ原の戦い時にも京極氏と毛利氏は激闘しており、父高次は 毛利元康 の猛攻を 大津城 で防いでいる。


この大幅な増封は明らかに毛利氏への押さえとしての配置と考えられている。それだけ 徳川将軍家 の京極家への信頼は厚いものであった。


さらに将軍家姻戚として優遇された京極家だったが、正室・初姫との夫婦仲はあまり良くなかったとみられる。


寛永7年(1630)に初姫が死去した際は、忠高は臨終に立ち会うこともなく 相撲 見物に興じていたと伝えられる。


このため舅である 大御所 ・秀忠や義弟の3代将軍・ 家光 の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠により徳川家所縁の 小石川 伝通院 にてとり行われ、忠高をはじめ京極家の関係者は葬儀への臨席を許可されなかった。


寛永14年(1637年)、45歳で死去した。嗣子がなかったため、京極氏は 改易 されかけたが、それまでの徳川家に対する京極家の忠義を考慮されて、甥の 高和 播磨 龍野 に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許された。


正室初姫との間に子供をなさなかったが、側室との間に一女をもうけた。なお、高和は甥ということになっているが、実は忠高の実子であるという説もある。


側室所生の子であったので幕府と正室初姫の実家将軍家を憚り、甥ということにされたと言われる。



「京極 高国」 (きょうごく たかくに)は、 丹後 宮津藩 の第3代藩主。 国持大名


元和2年(1616年)、第2代藩主 京極高広 の長男として田辺で生まれる。


承応 3年(1654)4月23日、父の 隠居 により家督を継いで藩主となる。しかし隠居した高広が藩政に介入したことから父と対立し、さらに高国自身も 寛文 元年(1661)には年貢が納められていないとして、その村そのものを取り潰すなどの悪政を布いた。


このため寛文6年(1666)5月3日、親子不和や悪政を理由に幕命によって 改易 され、 陸奥 盛岡藩 南部重信 預かりの身となった。ただし、扶助料として3000俵を与えられた。


なお、改易されたとき、家臣の 落合主税助 らなど一部が 宮津城 明け渡しに応じず、一時は籠城して徹底抗戦しようとまでしたが、高国が説得することで開城している。このことから、暗君ながら家臣に慕われていた一面があったものと思われる。


延宝3年(1675年)12月24日に死去。享年60歳。子孫は 旗本 となり、室町以来の名族ゆえ、 高家 に列した時期もあった。



「京極 高規」 (きょうごく たかのり、 寛永 20年(1943)~ 宝永 5年(1708)は、 江戸時代 前期の 高家 旗本 丹後 宮津藩 京極高国 の嫡男。生母は 千菊姫 。初名は高頼。 通称 は兵勝丸、采女、近江。官位は従四位下侍従、 対馬 守。


父が 改易 されなければ 国持大名 ・宮津藩主だったはずの人物である。曽祖父は 関ヶ原の戦い で大功を挙げ、 徳川家康 より丹後一国を与えられた 京極高知 である。


明暦 元年(1655)1月28日、将軍 徳川家綱 御目見 する。


明暦3年(1657)12月27日、従四位下 近江 守に叙任する。後に対馬守に改める。


寛文 6年(1666)5月3日、父高国の改易により、 藤堂高次 のもとに預けられる。扶助料 3000 俵を与えられる。


延宝 8年(1680)9月2日、赦免されて、母方の実家 伊達家 の領地 常陸 竜崎に暮らす。


元禄 3年(1690)8月18日、幕府の旗本となり、蔵米200俵を与えられ、 寄合 に所属する。


元禄8年(1695)12月15日、 高家 職に就き、18日侍従に任官する。


元禄10年(1697)7月26日、あらためて 安房 朝夷郡などで2000石を与えられる。


元禄14年(1701)、 浅野長矩 の刃傷事件に際し、その刀を奪い取ったのは自分だと主張をし、 梶川頼照 と論争を生んだ。


宝永2年(1705)7月25日辞職し、寄合に所属する。11月29日隠居し、養子 高甫 (実弟)に家督を譲る。


宝永5年(1708年)10月19日死去、66歳。


正妻はいない。2男1女があり、その他に養子が2人いた。



「京極 高甫」 (きょうごく たかすけ、 寛文 2年(1662) ~ 享保 14年(1729)は、 江戸時代 中期の 高家 旗本 京極高国 の三男。初名は高武、高茂、親信。 通称 は杢之助、大膳。官位は従五位下侍従・大膳大夫。


一時、落合姓を称す。 寛文 6年(1666)5月7日、実父高国の改易により、 池田光仲 のもとに預けられる。


延宝 8年(1680)9月2日、赦免される。その後、実兄 京極高規 の養子になる。






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最終更新日  2024年04月09日 06時39分00秒
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