歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月21日
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カテゴリ: 安土桃山時代




大石内蔵助 たちと会見したのに対して、忠之は幕府を憚ってか、21日になってようやく浪士たちと会見している。


また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海( 毛利甲斐守 )の沖( 松平隠岐守 )ぞ濁れる」との狂歌が残っている。


これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と久松松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って九士を切腹させた。


宝永 2年(1705)1月1日に 奏者番 に就任する。さらに 正徳 元年(1711)12月23日には 若年寄 に就任した。


正徳4年(1714)9月6日に 京都所司代 に就任する。このときに従四位下侍従和泉守に昇進した。


享保 2年(1717)9月27日、 老中 となり将軍 徳川吉宗 享保の改革 を支えた。


享保7年(1722)、財政を専任する勝手掛老中に任ぜられた。享保8年(1723年)、見立新田十分一の法を設け、新田開発を促した。


享保10年(1725)には1万石を加増された。


享保13年(1728)、年貢を四公六民から五公五民に引き上げた。これらの施策により幕府の財政は好転したものの、米価の急落や負担増による不満から批判された。


享保15年(1730)6月12日に老中職を辞し、7月6日に次男の 忠輝 に家督を譲って隠居した。


隠居後は落髪して祥岳と号した。享保16年(1731)3月18日に死去した。


享年 63歳。生前の遺命に基づいて牛込宝泉寺にて荼毘し、遺骨は24日に 下総国 山川万松寺へ送られて葬られ た。


*「水野 勝成」 (みずの かつなり)は、 戦国時代 から 江戸時代 初期にかけての 武将 大名 。三河 刈谷藩 主、大和国 郡山藩 主を経て 備後 福山藩 の初代 藩主 となる。


少年時代


勝成は幼名を国松といい、若名を藤十郎といった。『 寛政重修諸家譜 』では母・妙舜尼は 都築吉豊 の娘としているが、水野家の文献では 本願寺光佐 の妹となっている。


永禄7年(1564)に三河国 刈谷 の生まれとされるが、父・ 水野忠重 は当時、同国 岡崎 に住んでおり、記録と矛盾している。忠重が 鷲塚城 主をしていた時代の子供であるから、鷲塚生まれとも考えられる。


高天神城の戦い


初陣は 天正 7年(1579)の 遠江 高天神城 攻めで忠重に従って出陣するが、このときは 武田勝頼 の撤退により戦にはならなかった。同年、 徳川秀忠 が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。


天正8年(1580)、父の忠重が 織田信長 に引き抜かれ、刈谷の大名になる。勝成は 奥田城 細目城 を任される。


同年の 第二次高天神城の戦い に忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。


このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から 感状 を与えられる。なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。


天正10年(1582)、 武田勝頼 を攻撃した 天目山の戦い に加わった。


本能寺の変 のおりは、水野忠重、勝成父子は京都にいた。


東山の東福寺山林に三日間身を隠したあと、東福寺境内の塔頭霊源院に匿われる。


霊源院の好意で京都を脱出したあと、 京極高次 の居城江州大津城に入り、それから京極勢の手で、刈谷城へ送られた。


天正壬午の乱


天正10年(1582)、勝成は父の許を離れ 徳川家康 の下で 天正壬午の乱 に参加する。


甲斐 古府(現在の 甲府市 )において家康と 北条氏直 が対峙すると、勝成は 鳥居元忠 三宅康貞 と共に 北条氏忠 の陣に攻め込んだ(黒駒合戦)。


これを見た 北条氏勝 は氏忠の救援に向かうが、勝成と三宅康貞はこれを返り討ちにした。


なお、この攻撃に際し鳥居元忠は勝成に出陣を知らせず自軍のみで行動していたが、これを知った勝成は元忠に追い付いて、抜け駆けだとして抗議したうえで「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と、先頭を切って敵陣に突入したという。


この戦いで勝成は自ら内藤某の首級をあげ、数多くの首級をあげる。その後、北条氏と徳川氏の講和が成立。


10月29日、和議の証として、大道寺孫九郎某等が人質として送られてくると、家康は人質は不要として勝成、鳥居元忠、 榊原康政 に見坂の城まで送らせる。


小牧・長久手の戦い


天正12年(1584)の 小牧・長久手の戦い では 織田信雄 与力 である忠重に従い徳川軍の 石川数正 と共に 岡田善同 の籠もる 星崎城 を攻略する。


勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に 小牧山 から 酒井忠次 、榊原康政、 大須賀康高 本多康重 らと 木幡城 に移り 羽柴信吉 を攻撃した。


この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。






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最終更新日  2024年05月21日 07時11分37秒
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