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、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。
8月に家康は 五山 の僧や 林羅山 に鐘銘文を解読させた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった。
また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。
「国家安康」について五山の僧の見解を、江戸時代に編纂された史料ある『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)は次のように伝えている。
「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えている。
この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった。しかし家康の追及は終わらなかった。
たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても [3] [4] 、当時の 諱 に関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった。
姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある。
家康のこの件に対する追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない。
しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している。
「豊臣方の準備」
慶長19年(1614) 10 月 2 日 、豊臣家では旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。
同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の 蔵屋敷 から 蔵米 を接収した。
秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ 福島正則 が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった。
また籠城のための武器の買い入れ、 総構 の修理・ 櫓 の建築なども行った。秀頼の援軍要請に応じる大名がいなかったことについて、徳川方は秀頼が孤立したものとは見ておらず、 島津家久 からは人質も取り黒田長政ら両名に対して重点的に馴致工作を行い、西国大名達に徳川秀忠に対して忠勤を誓う起請文を出させていたことが原因ではないかとする指摘がある。
集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、 明石全登 、 後藤基次 (又兵衛)、 真田信繁 (幸村)、 長宗我部盛親 、 毛利勝永 ら五人衆のほかにも 塙直之 、 大谷吉治 などがいた。
彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐を考える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は異なるが、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。
豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする 籠城 派。二重の 堀 で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。
これに対し浪人衆の真田信繁は、まず 畿内 を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。 近江国 の 瀬田川 まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。
後藤基次・毛利勝永も真田案を元に 伊賀国 と 大津 北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。
同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の 本多忠政 ・ 稲葉正成 などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。
「 幕府軍の出陣」
10 月 11 日 、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。
翌12日には豊臣方の 真木島昭光 が 堺 の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。
そして、23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は 25 日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。
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