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6、首相就任また、加藤友三郎海軍大臣が1921年(大正10年)からワシントン海軍軍縮会議出席のために外遊するにあたって、原は内閣官制第2条「内閣總理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣」の規定から内閣総理大臣は軍部大臣を含めたどの大臣の役目も代行できるという解釈から、内閣総理大臣が海軍大臣を代行をすることを提案した。 〇加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日〈文久元年2月22日〉- 1923年〈大正12年〉8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。階級は海軍大将、没後 元帥海軍大将。 日露戦争で連合艦隊参謀長(日本海海戦時、第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議で日本首席全権委員を務める。海軍大臣(第8代)、内閣総理大臣(第21代)を歴任し、山梨軍縮やシベリア出兵撤兵を成し遂げた。 海軍軍人として、海軍省の次官や呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官などを歴任した。その後、第2次大隈内閣をはじめ、寺内内閣・原内閣・高橋内閣・加藤友三郎内閣と5つの内閣で海軍大臣を務めた。1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて、ワシントン会議に出席した。階級は海軍大将だが、没後に元帥の称号を贈られている。 1922年(大正11年)には内閣総理大臣に就任したが、翌年、在職中のまま死去した。外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣臨時兼任として加藤友三郎内閣を差配し、後任の内閣総理大臣が任命されるまで政権を運営した。 同じく海軍大将であった加藤隆義は養子。小林躋造海軍大将、早川幹夫海軍中将(両者は兄弟)は甥とする書物もあるが、加藤の兄弟姉妹に早川姓、小林姓の者はいない。 海軍軍歴と入閣 広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島城下大手町(現在の広島市中区大手町)に生まれる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だが、学識があり頼聿庵らと共に藩校の教授を務めた人物であった。 幼年期に広島藩校学問所・修道館(現修道中学校・修道高等学校)で山田十竹らに学び、1884年(明治17年)10月、海軍兵学校7期卒業。1888年(明治21年)11月、海大甲号学生。 日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、「定遠」「鎮遠」を相手として黄海海戦に大いに活躍した。 日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。連合艦隊の司令長官・東郷平八郎、参謀長・加藤、参謀・秋山真之らは弾丸雨霰の中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の士気を鼓舞した。 その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、1915年(大正4年)8月10日、第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年8月28日、海軍大将に昇進。以後、加藤は寺内・原・高橋と3代の内閣にわたり海相に留任した。 ワシントン会議 1921年(大正10年)のワシントン会議には日本首席全権委員として出席。会議に向けて出発する際、当時の原敬首相より「国内のことは自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やってください」との確約を得た。 全権代表として会議に臨んだ加藤を、各国の記者などはその痩身から「ロウソク」と呼んで侮っていたが、当時の海軍の代表的な人物であり「八八艦隊計画」の推進者でもあった彼が、米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成したことが「好戦国日本」の悪印象を一時的ながら払拭し、彼は一転して「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」と称揚されたという[注釈 1]。 米国案の五・五・三の比率受諾を決意した加藤は、海軍省宛伝言を口述し、堀悌吉中佐(当時)に次のように筆記させている。 国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。 〇ワシントン海軍軍縮条約(ワシントンかいぐんぐんしゅくじょうやく)は、1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催されたワシントン会議のうち、海軍の軍縮問題についての討議の上で採択された条約。 アメリカ(米)、イギリス(英)、日本(日)、フランス(仏)、イタリア(伊)の戦艦・航空母艦(空母)等の保有の制限が取り決められた。華府条約(ワシントン条約)とも表記される。 第一次世界大戦が終結した後も、戦勝国となった連合国側は海軍力(特に戦艦)の増強を進めた。各国の軍備拡張計画の内、代表的なものは、アメリカのダニエルズ・プラン(三年艦隊計画と呼ばれることもある)と日本の八八艦隊計画である。しかし、軍備拡張に伴う経済負担は各国の国家予算を圧迫し、建造計画の遅滞を引き起こすことになった。先の八八艦隊を例に取れば、艦隊建造のためだけに国家予算の1/3を使い、維持だけでも半分弱を使うことになる。 このため、アメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提案で戦勝5か国の軍縮を行うことになる。 概要 5大海軍列強国は建艦競争を抑制するために、戦艦等の建造に厳しい制限を加えることに合意した。 条約は加盟国それぞれが保有する主力艦の数と、その排水量の合計を制限した。 計画中あるいは建造中の艦は直ちにキャンセルあるいは廃棄することとした。 戦艦の新造は条約締結後10年間は凍結することとされ、例外として艦齢20年以上の艦を退役させる代替としてのみ建造を許された。 さらにまた、いかなる新造艦も、主砲口径は16インチ(406㎜)以下、排水量は35,000トン以下に制限された。 条約の内容 一覧表 条約は建造中の艦船を全て廃艦とした上で、米英:日:仏伊の保有艦の総排水量比率を5:3:1.75と定めた。詳細は表のようになる。なお、各数値の由来や論拠に関しては不明な点が多いが、少なくとも日本とアメリカに関しては、アメリカのブラック・チェンバーによる暗号電文解読の結果、日本側が容認する最も低い海軍比率にしたとされる(日本海軍は対米7割、つまり5:3.5とすることを要求していた)。
2024年09月22日
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後継首相の人選が難航している間、今回の政変は陸軍と藩閥政治家、特に山縣の横暴であるという批判が世間では高まった。12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3,000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。この動きは憲政擁護運動、後に第1次護憲運動と呼ばれることとなる。特に、政変の黒幕であるとみなされた山縣に対しては、暗殺を企てる刺客まで現れた。 元老会議での首相選定は、最終的に桂を指名せざるを得なかった。12月17日、桂に大命が降る。しかし、桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりであったため、「宮中・府中の別」をあからさまに破る人事に非難の声があがった。これについては桂も気にかけており、大命降下と同時に特別に「卿をして輔国の重任に就かしめむことを惟ふ」と、勅語を下賜された。が、これが逆に「天皇の政治利用」とのちに批判を招いた。更に、政権交代の発端となった軍拡問題について、陸軍の増師に加えて海軍の増艦についても一時凍結、国防会議を設置して改めて審議する方針を打ち出したため海軍が硬化、大臣引き上げを示唆する。これを解決するためにまたしても勅語(優詔)によって斎藤実海相を留任させたため、「天皇の政治利用」批判に拍車をかけることになった。12月21日、第3次桂内閣が発足。 政友会と国民党の提携・同志会の結成 山縣元老らは、桂の政界復帰により桂園体制が復活し、藩閥と政友会との連携による政権運営が継続してゆくと見込んでいた、しかし、首相就任によって政界復帰を果たした桂は、内大臣就任前に企図していた二大政党制構想に基づき、自前の政治勢力の結成、新党設立を目論んでいた。そのため、内閣の陣容は非山縣系の閣僚で固めたほか、12月18日に桂が西園寺総裁を訪れた際、政権運営に当たり「政友会に対して厚意は望むものの、特に希望する事項はなし」と、遠回しに政友会との連携に否定的な態度をとった。つまりこの時点で、桂は山縣率いる藩閥、および政友会と意図的に距離を取り始めたのである。 これをきっかけに政友会は桂率いる藩閥勢力との提携打ち切りを決断、憲政擁護運動に肩入れするとともに、桂園時代には距離を置いていた議会第二党の立憲国民党(犬養毅党首)との連携を強めた。12月27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。その後、1913年(大正2年)1月にかけて運動は全国に広がり、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。 第3次桂内閣は、政見として、行財政整理の推進(政友会の地方利益誘導政策の是正)、「国防会議」による軍備拡張額管理(編制大権)の制度化や軍務大臣文官制の導入(山縣率いる陸軍閥のへの牽制)を掲げる(ただし、上述の海軍との対立によって、後者は政権発足前に打撃を受けた)。桂首相は国内で広がっている運動にも楽観的で、自らの新党構想が明るみに出れば、世論の矛先は藩閥や政友会に向かい、自身は輿論の支持を得られると想定していた。1月20日、桂は新聞記者を集めて新党・立憲同志会結成の構想を公表(党名決定は2月7日)、翌21日の議会開会時、政友会が内閣不信任決議案を提出する機先を制して、15日間の停会を命じた。そして、政友会や国民党、藩閥、貴族院などの切り崩し工作を行った。 一方、議会停会中に更に護憲運動は過熱した。24日、東京・新富座にて憲政擁護第2回大会が開かれ、会場内に3千人、会場外には2万人に大群衆が詰めかけた。この時点での政治情勢としては、桂はすでに山縣と袂を分かっており、藩閥を抑える手段として政界復帰、新党結成に動いていたのであるが、藩閥内の細かい暗闘を知らない外部は、山縣が子分である桂を宮中に入らせ、西園寺内閣を潰して政界に復帰させ、更には新党結成を行っている、とみなしており、山縣だけでなくその手下である(と思われていた)桂も、攻撃の対象となった。 議会が再開された2月5日、政友会、国民党などの野党は内閣不信任決議案を提出。政友会の尾崎行雄議員の有名な弾劾演説はこの時のものである。 …彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へておりますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動をとっておるのである。彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。かくの如きことをすればこそ、身既に内府に入って未だ何も為さざるに当りて、既に天下の物情騒然として却々静まらない。… この趣旨説明の演説の後、議会は再度、5日間の停会となり、議会周辺に詰めかけた群衆の間では騒然とした空気になった。 内閣総辞職 新党構想発表後も当初想定していた世論の支持を得られないことに動揺した桂内閣は、帰朝して外相に就任していた加藤高明から、明治天皇の諒闇中(服喪期間)であることを理由に、政争を中止するよう詔勅(優詔、御沙汰)を引き出すことを提案される(優詔政策)。2月4日、5日の閣議で議論され、再度の勅語渙発の方針が決まる。8日、桂首相は加藤外相の仲介で西園寺総裁と会談に臨み、優詔が出た場合の政友会の出方を伺う。西園寺も「内閣を取り巻く現状は気の毒であるが、自分の一存で党内を抑えられない(ので、御沙汰を出していただくよりほかにはない)」と、勅語渙発の方向に賛同(黙認)する。西園寺総裁が党務を預かる原敬・松田正久の賛同を得て、翌9日、西園寺総裁が参内、大正天皇から御沙汰を受けた。その日の夜、政友・国民両党の幹部が西園寺邸で協議を行い、御沙汰を奉じる他なし、と決議した。一方この日、両国国技館にて第3回憲政擁護大会が開かれ、場内だけで2万人の聴衆が集まった。 翌10日、朝から数万人の民衆が議事堂を包囲した。早朝、山本権兵衛元海相が首相官邸を訪問する。海軍は先の桂内閣成立の経緯から政権と距離をとっており、再度の勅語引き出しで事態を乗り切ろうとした桂の態度に憤慨していた。山本は「幼帝を差し挟んで政権を専らにする」などと桂を面罵、対する桂は「自分は地位に恋々とはしない、君が代わりにやるというなら代わりにやればどうか」と応酬し、短時間の面談は物別れに終わる。山本はそのまま西園寺総裁に面会すべく政友会本部へ向かったが、西園寺はまだ到着していなかった。そこで山本が桂との面談について語ると、代議士会のために集まっていた議員が意気軒昂として、反桂の気勢をあげる。その後、代議士会で西園寺が事情を説明するが効果なく、政友会は最終的に、内閣打倒で突進することを決する。
2024年09月22日
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内務大臣時代、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施し、東京帝国大学卒の学歴を持つエリートに変えていった。大正3年(1914年)6月18日には大正政変の道義的責任を取るとして辞任した西園寺の後任として、第 3代立憲政友会総裁に就任した。 〇大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末からおこった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことをさす。広義には第2次西園寺内閣の倒壊から第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる。 狭義の大正政変 桂園時代 大日本帝国政府は、明治維新を主導した西南雄藩(その中でも特に薩長)が主導権を握り(藩閥)、表向きは衆議院に代表される民意(民党)とは距離を置く超然主義を標榜したが、実際には、議会勢力の協力無くしては予算案や法案の審議、ひいては政権の運営がままならず、藩閥の歴代内閣は議会対応に苦慮した。 元勲世代が交代して首相職を務めた後、1901年(明治34年)に元勲の次世代に当たる桂太郎が、山縣有朋元老から藩閥陣営の主宰者を引き継ぐ形で首相に就任すると、議会第一党の座を確保した立憲政友会(西園寺公望総裁)との間で妥協が成立し、比較的安定した政権運営が行われるようになる。この間、首相の座に交互についた桂と西園寺から一字ずつ取って、桂園時代と呼称される。 ただし、「藩閥と政友会が権力の座を独占する」という対外的な安定性は確保された一方で、政権内部では、利益誘導などを巡って内紛が恒常的に続いた。特に、藩閥側の頂点に君臨する山縣元老は政党政治を本能的に嫌い、一方で政友会の党務を実質的に差配する原敬は地方への利益誘導を積極的に行って対立し、桂・西園寺両名(特に桂)の妥協的な態度には常に圧力が加えられた。1911年8月に第2次西園寺内閣が成立するときには、原は桂の政界引退の言質を取っており、一方山縣元老も、政友会に友好的な態度をとってきた桂を嫌い、藩閥内で桂のさらに次世代にあたる寺内正毅朝鮮総督らの引き上げを行うなど、桂の政治基盤の切り崩しにかかる。 一方桂は、藩閥、政友会以外の政治勢力を自ら立ち上げて、本格的な議会制民主主義(二大政党制)を日本に導入すべく、英国視察を企図する。加藤高明駐英大使を通じて段取りをつけ、7月6日、シベリア鉄道経由で訪英の旅に出る。ところがロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへ到着したところで明治天皇、発病、重態の知らせを受け、視察は取りやめとなる。一行は直ちに引き返し、7月29日、天皇崩御の知らせは帰路の旅上で受けた。 明治天皇の崩御後、山縣元老の策動により、桂は宮中職である内大臣兼侍従長に推される。「宮中・府中の別」の定めにより、この人事は、桂の事実上の政界引退を意味していた。しかし、明治天皇に大恩を感じていた桂は断りがたく、帰朝後の8月13日、内大臣兼侍従長に就任する。しかし桂は宮中職に精勤しつつも、政界復帰の可能性は保留し続けた。桂の後備役編入が迫る中、山縣は大正天皇に対して桂の元帥称号下賜を推薦。これは終身軍人の待遇を得るのと引き換えに、治安警察法の規定により、政治結社への関与が永久に禁じられることを意味した。そのため桂は天皇の「御沙汰」を辞退、また天皇に対し、今後は重大人事に関しては容易に御沙汰を下さないよう奏上した。11月28日、桂は後備役に編入される。 二個師団増設問題による西園寺内閣崩壊 陸海軍は明治40年に策定された帝国国防方針により、当面は陸軍が二個師団増、海軍が戦艦1隻、巡洋艦3隻の増艦を要求していた。一方で西園寺首相は日露戦争後の財政難から緊縮財政の方針を採っていた。 大正元年8月頃から、陸軍省(上原勇作陸軍大臣)と内閣(政友会)の間で、二個師団増設を巡って対立が深まる。藩閥勢力の長老である山縣元老は増設を求めており、また陸軍内の強硬派は、これを機に西園寺内閣を倒閣、寺内朝鮮総督を首班に陸軍主体の内閣を立ち上げることを計画した。しかし、山縣元老は内閣の意向や世論の反発を無視して増設を強引に推し進めることには慎重であり、また桂の政界引退により桂園体制が終焉した後の政友会との関係性を図る意味合いもあり、二個増師が不可能なら軍備充実、部分的増軍、一年延期などで妥協することも考えていた[9]。 上原陸相は、陸軍内部の突き上げと増設反対の内閣・世論の板挟みになったが、11月29日、陸軍内の妥協的な動きを受けて、一旦は増師撤回を表明する。しかし、政界復帰を模索する桂および、薩摩閥の復権を企図する財部彪海軍次官らは、増師問題がこじれて藩閥と政友会の連携が崩れると自らに有利に作用するため、逆に上原陸相に増師を押し通すようにを焚きつけた。 11月30日の閣議で、上原陸相は翌大正2年度からの増師を強硬に要求したが、増師計画は採用されなかった。12月2日、上原陸相は帷幄上奏権を利用して、単独で大正天皇に直接辞表を提出した。事態の急転に驚いた山縣元老は、桂内大臣を通じて、内閣と陸軍との和同を求める勅語の渙発を提案し、自ら勅語の草案を起草するが、この草案は桂の手によって握りつぶされた(12月1日)。桂は侍従長の資格で西園寺首相と面会したが、この時、増師要求を受け入れるよう口頭で求めるにとどめた。更に、後任陸相について、桂は人選は難しいという軍内情勢を伝えた。軍部大臣現役武官制により、陸軍から後継陸相の推薦が出ない場合は、内閣は成立しなくなる。 12月3日、西園寺首相は上原陸相の辞表を一時留めおくよう要請したのちに山縣元老と面会する。西園寺の目的は後継陸相についてであったが、勅語が桂の手で握りつぶされたことを知らない山縣は、増師問題で歩み寄ることで互いの妥協を図るよう提案した。西園寺は、山縣が増師問題で元から妥協をしてもかまわないと思っていることを知らなかったため、山縣は最初から倒閣を目論んでいたと解釈、かくなる上は一旦野に下り、後継の藩閥首脳陣と対決するほかない、と一決する。12月5日、第2次西園寺内閣は総辞職した。 桂内閣の成立と憲政擁護運動の高まり 西園寺内閣の崩壊を受けて、元老会議(山縣有朋・井上馨・松方正義・大山巌・桂太郎各元老)が開かれ、次期首相選定が行われたが、難航する。まず松方が押され、薩派の面々が賛同するが、海軍有力者の山本権兵衛元海相は元老世代からの世代交代を求めたため頓挫し、結局高齢を理由に辞退、更に山本元海相や、山縣閥の平田東助前内相なども政権運営の困難を理由に辞退、次いで桂が山縣子飼いの寺内朝鮮総督を推薦するが、寺内を温存したい山縣の意向で辞退する。
2024年09月22日
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選挙を行っても、政友会と憲政本党の合同での過半数は動かず、政権運営は困難を極めることが想像されたことから、桂首相は伊藤総裁の一本釣りを企図。翌1903年1月2日、伊藤総裁が葉山御用邸に伺候した帰路に葉山の自身の別宅に招待し、過去の思い出話や泣き落としなどで、一晩かけて伊藤と和解を成立させる。伊藤との密約で打開の糸口をつかんだ桂の指示により予算の組みなおしが行われ、地租増徴継続案は中止、海軍拡張費には鉄道建設費を回し、玉突きで鉄道建設費に公債を充てる案を作成し、2月22日、伊藤との内談が終わり、密約が成立する。 3月1日、第8回衆議院議員総選挙。政友会は単独でわずかに半数を割ったが、憲政本党と合わせると大きく過半数を達成した。桂・伊藤間での妥協なので対外的には藩閥と政友会の対立は継続しており、選挙中から大浦兼武警視総監を筆頭に選挙干渉、政友会攪乱を行い、原敬ら政友会首脳はこれに応じた党内の首謀者を除名、伊藤も桂が密約の裏で警視庁を動かしていると誤解して一時態度を硬化させる。更に、4月に神戸で行われた観艦式や大阪で開かれた内国勧業博覧会で政府首脳や代議士が上洛した折、大阪で政友会有志が会合を開き、それまで総裁専制が定められていた党則の改正を要求、政府攻撃に乗り気でない伊藤総裁を突き上げた(大阪一揆)。党内を制御できなくなった伊藤総裁の求めで密約を公表することになり、4月21日、桂と伊藤が公式に面談する口実として、京都の山縣元老の別荘に桂首相、小村外相に加えて伊藤総裁が筆頭元老の資格で招待されて、公式には対露政策(満韓交換論)を議論しながら、密約公表の打ち合わせを行う。25日、政友会幹部が会合を行い、伊藤が密約の存在を公表、地租増徴撤回と引き換えに鉄道建設を断念する方針を表明する。原敬はこれを受け入れるのと引き換えに党改革を要求、伊藤総裁はこれを受け入れて、総裁としての権力を手放すこととなった。5月30日、議会で海軍拡張案が成立する。 山縣・桂の藩閥勢力は、更に政友会の勢力をとどめ置くべく、伊藤総裁を枢密院議長に推薦、祭り上げを図る。7月13日、伊藤は枢相に就任して総裁を辞任、後継の総裁には腹心の西園寺公望枢相が入れ違いに就任した。しかしこの後、政友会は山縣・桂の思惑とは逆に離党の動きは止まり、西園寺総裁の下で実権を握った原敬のもとで安定的な党運営が行われるようになる。 1903年に入るころには、ロシアは露清満洲撤兵協約を露骨に無視して、朝鮮半島を勢力圏とすべく軍の増派を始めた。8月12日、桂内閣は日露協定案を提示して外務交渉を始めるが、ロシアは時間をかけて引き伸ばしつつ、軍備を整え始める。日露交渉が行き詰まりを見せる中。12月5日、第19回帝国議会が召集されるが、11日、奉答文事件により、衆議院解散。衆議院議員が不在となった中で、1904年2月3日、協定案の交渉は決裂し、元老、閣僚間で開戦に合意。4日の御前会議を経て、6日、ロシア政府に最終通告を行った。 2月8日、日本軍は旅順口攻撃を行い、日露戦争が開戦。10日に宣戦布告がなされる。朝鮮半島への航路が確保される中、桂内閣は補給線を確実にすべく、23日に日韓議定書を締結する。3月1日、第9回衆議院議員総選挙。政友会は半数を割り込むが第一党、憲政本党が第二党。その後も日本軍は黄海海戦(8月10日)、遼陽陥落(9月4日)と勝利を重ねるが、ロシアはバルチック艦隊を派遣するなど、戦闘の終結の見込みは立たなかった。桂内閣は政友会相手に再度の増税についての根回しを行い、西園寺総裁は再度の増税を容認する。その後も、終戦後の政権運営について、原が政友会側の窓口となり、桂との秘密交渉を継続、桂は西園寺への政権禅譲の可能性をほのめかした。 1905年1月1日、旅順陥落。3月10日、奉天会戦勝利。陸では日本軍が大勢を確保したが、国民の負担は限界に近づいている中でバルチック艦隊との海戦をまだ控えており、講和交渉のタイミングが問題になる。桂と原の交渉では、講和交渉に対する国民・議会の不満は政友会が抑えるとともに、戦後は政友会に政権を譲り、政党嫌いの山縣は桂が説得する、という妥協ができあがった。4月21日、講和条件案が閣議決定。5月28日、日本海海戦で日本軍が勝利。これを受けて、8月10日よりポーツマス講和会議が開かれる。この頃、桂と原の交渉で、講和条約締結後、時間を置かず西園寺を首相に推薦することで合意する。28日、ポーツマス講和条約締結。賠償金等の講和条件が世論の期待を下回ったことから、9月5日、講和反対集会がエスカレートし、日比谷焼き討ち事件が発生。政友会は党内を西園寺、原らが抑え、この動きには参加しなかった。桂内閣は暴動を受けて戒厳令を発した。 その後、11月17日に第二次日韓協約に調印、朝鮮半島を勢力圏下に置き、日露戦争の当初目標を達成した。12月22日、桂内閣は総辞職、立憲政友会の西園寺公望総裁に大命が降る。 また、地方政策では星の積極主義(鉄道敷設などの利益誘導と引換に、支持獲得を目指す集票手法)を引き継ぎ、政友会の党勢を拡大した。党内を掌握した原は、伊藤や西園寺を時には叱咤しながら、融和と対決を使い分ける路線を採って党分裂を辛うじて防いだ。しかし、原の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれる利益誘導型政治を生み出し、現代に繋がる日本の政党政治と利益誘導の構造を作り上げることとなった。明治末期には原のこうした手法を嫌う西園寺との間で確執が生じている。明治44年(1911年)8月から鉄道院総裁。 〇鉄道省(てつどうしょう、旧字体:鐵道省)は、戦前の日本で、鉄道に関する業務を管轄していた国家行政機関の一つ。1920年(大正9年)5月15日に設置され、1943年(昭和18年)11月1日に運輸通信省に改組された。 運輸全般の監督行政、および省線(省営鉄道)事業を所管した。戦後の日本における運輸省、国土交通省および公共企業体日本国有鉄道、JRグループの前身にあたる。 本項では、前身である鉄道院(てつどういん、正式名称は「内閣鉄道院」)も合わせて解説する。 英語名称は、省庁としての「鉄道省」を指す場合は、鉄道網としての「鉄道省」を指す場合はである(名称にを冠するケースもあった)。 所管は運輸通信省鉄道総局、後に運輸省鉄道総局が継承したが、1949年6月1日に鉄道監督行政が運輸省鉄道監督局(国有鉄道部・民営鉄道部)に、国鉄事業が公共企業体(公社)の日本国有鉄道にそれぞれ分離された。さらに鉄道行政の所管は1991年7月1日の運輸省内の再編で運輸省鉄道局に移行し、現在は2001年1月6日の中央省庁再編で発足した国土交通省鉄道局が所管している。
2024年09月22日
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5「政党政治家として」また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、原が政友会幹部として自信を深めていった明治末期以後である)。明治34年(1901年)6月、桂太郎が政権を握って組閣し、原は閣外へ去るが同月に星が暗殺され、その後は、第1次桂内閣に対する方針を巡る党内分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担った。 第1次桂内閣(だいいちじ かつらないかく)は、陸軍大将の桂太郎が第11代内閣総理大臣に任命され、1901年(明治34年)6月2日から1906年(明治39年)1月7日まで続いた日本の内閣である。 本内閣の成立後、藩閥政府の主宰の座を山縣有朋から引き継いだ桂と、元老筆頭の伊藤博文から立憲政友会を引き継いだ西園寺公望が協調、交互に首班となって組閣したことから、1913年(大正2年)の大正政変までの時期は桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれている。 また、日露戦争が勃発したときの内閣であり、在任期間は1681日で1つの内閣としては日本憲政史上最長である(現在では総選挙が行われるたびに内閣が総辞職するため、衆議院議員の任期である4年(約1460日)を超えるのは不可能である)。 内閣の動き 前内閣の第4次伊藤内閣は、伊藤博文筆頭元老が超然主義(衆議院の民意から意図的に距離を置いた藩閥主体の政権運営)からの脱却、議院内閣制の導入を模索し、衆議院に勢力を持っていた在野の政党を糾合して立憲政友会を政権与党として組織したが、藩閥を主宰していた山縣有朋元老の意趣返しによる貴族院との反目や政友会内の対立などで、1年足らずで政権は崩壊した。後任首相の選定において、元勲世代では、元老の筆頭であった伊藤と次席の山縣が反目しており、松方正義元首相は過去の2度の内閣が議会対策で失敗しており、西郷従道・大山巌両元帥は軍務畑であったことから、最後に残った井上馨元内相に大命降下される。しかし、井上が引き続き政友会を与党としようとしたが、これに対して井上と近しかった財界が反発、政友会の党内対立も続いており、さらに蔵相に期待していた渋沢栄一の就任が実現しなかったことから、組閣を辞退する。 元老会議では続いて、桂太郎前陸相を首相に推薦し、桂に大命降下される。桂は山縣の引き立てで陸軍から取り立てられた経緯があり、山縣が主宰する藩閥の後継者と目されており、組閣時の大臣人選も、山縣有朋系官僚が中心であった。世代的にも元勲世代であった過去の首相経験者(伊藤、山縣、松方、前年死没した黒田清隆、議会勢力として野にあった大隈重信)の次の世代になっており、山本権兵衛海相が同格の桂の部下になることを嫌って留任を渋るなど、当初は桂本人のリーダーシップの不足を山縣が補うことが想定されたことから、「小山縣内閣」などと揶揄される船出になった。また、議会対策については、立憲政友会、憲政本党(大隈総裁)などの主要政党は野党に回り、与党は帝国党のみという、オール野党に近い状態での船出となった。 桂内閣の懸案事項は、義和団事件で表面化したロシア帝国との対立であり、以下の4か条の政綱を定めた。 商工業の発達 海軍拡張 英国との協定の締結 韓国の保護国化 ちょうどこの頃、英国は栄光ある孤立からの脱却を模索しており、クロード・マクドナルド駐日公使からの日英連携の提案を受けて、桂内閣は8月5日、林董駐英公使に交渉開始の訓令を下す。同時に次善の策としてロシアとの関係改善の可能性も探るべく、9月18日、伊藤筆頭元老が外遊に出発する。10月16日から林公使とヘンリー・ペティ=フィッツモーリス英外相との交渉が始まる中、11月28日に伊藤筆頭元老はウラジーミル・ラムスドルフ露外相と意見交換をはじめ、英国側に日露協商の可能性をほのめかせ、揺さぶりをかけた。これによって英国側も妥協に動き、12月7日、元老会議で日英同盟の締結を決定、調印に至る。 一方、内政においては、10月に米国での公債募集に失敗したことにより、予算不成立の危機に直面するが、各省が予算組み替えを行うことによって乗り切る。議会では政友会を筆頭に政府攻撃が行われるが、対露交渉中の伊藤総裁から、現況での国家的理由のない政府攻撃を戒める意向が伝えられ、更に桂内閣側からの切り崩しで勢力が議会の過半数を失うなどしたことから、最終的に政友会も矛を収めた。 1902年1月30日に日英同盟が調印され、対露方面はロシアの反応待ちの状態になる。4月8日、露清満洲撤兵協約が締結され、ロシア軍の満洲撤兵がはじまる(実際には一部が履行されたのみ)。6月14日には北清事変の講和条件付帯議定書に調印。8月10日、任期満了による第7回衆議院議員総選挙。外交的に一段落した時期の選挙であったため大きな勢力変更はなく、政友会は過半数を回復する。 選挙後、地租増徴の期限の延長が争点になる。桂内閣としては、期限を延長して増徴分を海軍拡張費に当てる見込みであったが、桂首相が頼んだ政友会内では、先の総選挙でも増徴反対を公約に掲げた候補もいたことから反対運動が白熱。伊藤総裁もこの動きに抗することができず、12月3日に第二党の憲政本党の大隈総裁と協約を結ぶ。翌4日、政友会、憲政本党はともに党大会を開き、増徴打ち切りを決議する。9日、第17回帝国議会召集。衆議院では政友会の有力者であった原敬が予算委員長になり、地租増徴を否決しようとしたため、政府は議会を停会、児玉源太郎台湾総督や近衛篤麿貴族院議長などが調停を行うが果たせず、28日、衆議院解散。
2024年09月22日
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伊藤に相前後して参議らから次々に意見書が出され、様々な意見が出される中で1人大隈だけが意見書の提出を先延ばしにしていた。1881年(明治14年)3月、漸く大隈が左大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して「密奏」という形で意見書を提出、その中でイギリス流の立憲君主国家を標榜し、早期の憲法公布と国会の2年後開設を主張したのである。5月に内容を知った岩倉はその内容とともに自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見書を出した経緯に激怒し、太政官大書記官の井上毅に意見を求めた。 井上毅は大隈案と福澤諭吉の民権論(『民情一新』)との類似点を指摘して、一刻も早い対抗策を出す事を提言、岩倉の命令を受けた井上はドイツ帝国を樹立したプロシア式に倣った君権主義国家が妥当とする意見書を作成した。だが、大隈の密奏も岩倉・井上毅の意見書も他の政府首脳には詳細が明かされなかったために、伊藤がこの事情を知ったのは6月末であった。ただし、伊藤は大隈に対してのみではなく、岩倉・井上毅が勝手にプロシア式の導入を進めようとしていた事に対しても激怒して、説明に来た井上毅を罵倒した(6月30日)上で実美に辞意を伝えた。岩倉は伊藤に辞意の翻意を求め、井上毅も国家基盤を安定させてからイギリス流の議院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を求めたが、伊藤はイギリス式かプロシア式かは今決める事ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的であった。 この間にも井上毅が伊藤の盟友・井上馨(当初は将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入れ、伊藤が薩摩閥と結んでまず憲法制定・議会開催時期の決定することを求めた。 政変勃発 一方、自由民権運動は3月に起きたロシアのアレクサンドル2世暗殺事件で過激な論調が現れるようになっていた。そんな折の7月末に『東京横浜毎日新聞』及び『郵便報知新聞』のスクープにより、薩摩閥の開拓長官・黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に格安の金額で官有物払下げを行うことが明るみに出ると(開拓使官有物払下げ事件)、政府への強い批判が起こり自由民権運動が一層の盛り上がりを見せた。 更に大蔵省内の大隈派が黒田の払い下げ内容が不当に廉価であるとして中止を公然と主張したことから、伊藤が大隈派の「利敵行為」に激怒して一転して「大隈追放」に賛成する。8月31日、政府は大隈と民権陣営が結託した上での陰謀と断じて大隈の追放を決定した。政府内で払下げに反対していた大隈の処分と反政府運動の鉾先を収めるため、岩倉(ただし岩倉は7月から10月まで休養を取って有馬温泉に行っていたので現在では岩倉の関与を否定し、伊藤が主な計画者とする説が有力)、伊藤、井上毅らは協議を行い、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に大隈の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。 天皇が行幸から帰京した10月11日に御前会議の裁許を得て、翌日国会開設の詔勅などが公表された。また大隈邸を伊藤と西郷従道が訪れて辞表提出を促し、大隈は了承した。なお、この際に「建国の本各源流を殊にす。彼れを以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が為され、結果として自由民権運動や大隈の唱えるフランス流やイギリス流を否定したものの、岩倉らの進めようとしたプロシア流についても一旦は白紙撤回されることとなった(勿論、これによってプロシア(ドイツ)流論者の政府内での立場が強化されたのは事実であるが)。 政変の影響 一方、既にプロシア式の憲法導入に積極的であった岩倉や井上毅と違い、政変後の伊藤個人は立憲体制導入の決意は固めていたものの、どの形態を採るかについてはまだ確信は得ていなかった。また、華族制度改革や将来の内閣制度導入を巡って、岩倉との間に見解の相違があることも明らかになってきた(岩倉は華族に維新の功臣が加えられることや既存の律令制・太政官制度に基づいた大臣制が廃止されることで、公家出身の自分が政府の中枢から排除されることを警戒していた)。 このため、1882年(明治15年)、伊藤はドイツ(プロシア)の憲法事情を研究するという名目でドイツを訪問するが、それもあくまでも岩倉の意に沿ったというだけではなく、単にイギリスやフランスの事は自由民権派の人達が研究するだろうから、彼らが研究しないドイツを選んだ(末松謙澄充ての書簡など)という選択に過ぎなかった。伊藤がプロシア式の憲法導入の決意を固めたのは、現地で指導を受けたロレンツ・フォン・シュタインの助言(シュタインはドイツの立憲体制を批判してドイツを追われた学者であったが、日本の国情を研究した上でむしろ日本の方がドイツ本国以上にプロシア式の条件に符合していると説いた)によるものであるとされている。伊藤は1883年(明治16年)に岩倉の死に合わせるかのようにして帰国して、本格的な憲法制定作業に取り掛かることになった。 政府から追い出され下野した慶應義塾(福澤諭吉)門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することになる。特に下野し、三井に採用された中上川彦次郎はその後、三井に多くの慶應義塾出身者を雇い入れ、財界への基盤を確固たるものにした。 また、野に下った大隈も10年後の国会開設に備え、翌1882年(明治15年)3月には小野梓、矢野文雄とともに立憲改進党を結成、また同年10月、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に開設した。後に、大隈はこの時のことについて『大隈伯昔日譚』において自信がありすぎたと述べている。 また、明治10年代の日本ではすでに近代的な郵便制度が発足していたが、明治十四年の政変に際して政府高官は使用人を介した私的な書簡によって対処を相談しており、明治初頭においては機密保持のため私的使用人による情報交換がなされていた点が指摘される。 原はこれに反発し、明治15年(1882年)1月末に退社した。郵便報知新聞社を退社後は、関西で立憲帝政党の機関紙の役割を担っていた『大東日報』で主筆を務めた。この際井上馨にも接近したが、8か月で『大東日報』を離れることになった。また、明治12年3月に山梨県甲府市で創刊された『峡中新報』へも「鷲山樵夫」の筆名で寄稿している。
2024年09月22日
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閣僚を歴任 明治21年(1888年)、伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任した。黒田清隆が次の首相になると、黒田内閣で農商務大臣に復帰したが、かねてより政府寄りの政党を作るべく企画した自治党計画が翌22年(1889年)2月の黒田の超然内閣発言や周囲の反対で挫折、外務大臣に就任した大隈の条約改正案に不満を抱き、5月末から病気を理由に閣議を欠席して引きこもり、10月に黒田内閣が倒閣に陥ると辞任した。12月、悪酔いした黒田が留守中の自宅に押し入り暴言を吐く事件が発生し、黒田に抗議している。 明治25年(1892年)、第1次松方内閣が行き詰まりをみせると、伊藤は側近の伊東巳代治に「黒幕会議」を開催するよう命じた。6月29日に松方邸内で行われた会議の構成員は伊藤・黒田・山縣有朋と現首相の松方正義であり、井上は山口県に帰郷していたため参加できなった。この会議では第2次伊藤内閣の成立が事実上決まり、「元勲会議」によって後継首相が決まる先例となった。7月30日に松方が辞表を提出すると、明治天皇は伊藤、山縣、黒田に善後処置を諮り、そして2日後には井上馨に対して後継首相の意向を尋ねた。伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして山田顕義と大山巌を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された。これ以降、井上はその死までほとんどすべての内閣総理大臣推薦に関与し、いわゆる元老の一人として扱われた。 8月8日伊藤が内閣を組織すると内務大臣に就任。11月27日に伊藤が交通事故で重傷を負うと、翌26年(1893年)2月6日まで2か月あまり総理臨時代理を務めた。明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発、戦時中の10月15日に内務大臣を辞任し、朝鮮公使に転任。戦時中は陸奥宗光とともに伊藤を支え、翌明治28年(1895年)8月の終戦まで公使を務めた。朝鮮では金弘集内閣を成立させ改革に着手したが、三国干渉によるロシアの朝鮮進出と朝鮮の親露派台頭、ロシアと事を構えたくない日本政府の意向で成果を挙げられないまま帰国した。後任の朝鮮公使三浦梧楼が10月に親露派の閔妃を暗殺する事件を起こし解任されると(乙未事変)、 特派大使に任命され次の公使小村壽太郎の助け役として再渡海、11月に帰国した後は静岡県興津町(現・静岡市清水区)の別荘・長者荘へ引き籠った。 明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣成立にともない大蔵大臣となったが、半年で倒閣になったため成果はなかった。また、明治33年(1900年)の第4次伊藤内閣で大蔵大臣再任が検討されたが、渡辺国武が大蔵大臣を望み、伊藤が止むを得ず承諾したため話は流れた。 また、明治12年3月に山梨県甲府市で創刊された『峡中新報』へも「鷲山樵夫」の筆名で寄稿している。明治9年(1876年)、司法省法学校を受験し、受験者中2番の成績で合格した。在学中も101名中10位と成績は良かったが、明治12年(1879年)2月に退校処分にあっている。寄宿舎の待遇改善を求めた行動に対する処分に抗議したことが理由とされている。退校後の明治12年(1879年)、郵便報知新聞社に入社した。入社当初は翻訳を担当していたが、明治14年(1881年)5月には渡辺洪基とともに仕事で全国周遊旅行に出た。しかし明治十四年の政変をきっかけに大隈重信派が同社を買収、矢野文雄を社長に据え、犬養毅・尾崎行雄らが社に乗り込んできた。 〇明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治時代の政治事件。大隈重信一派が明治政府中枢から追放された事件である。 1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生(主に交詢社系)を政府から追放した政治事件である。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。 経緯 立憲体制の導入を巡る議論 明治10年代の明治政府において、大久保利通亡き後、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。そのような状況下で、政府は消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)とやや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)を中心に運営されていた。 大隈は政府内にあって、財政政策(西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対立していた。更に宮中にいた保守的な宮内官僚も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定であった。薩長土肥四藩の連合が変化し、薩長二藩至上主義的方向へ姿を変えていた。またこのとき、太政大臣・三条実美が薩長と談合し、「自由民権運動と結託して政府転覆の陰謀を企てた」として、大隈の罷免を明治天皇に願い出た場面が記録されている。 1880年(明治13年)に入ると、立憲体制に消極的であった岩倉も自由民権運動への対応から、参議や諸卿から今後の立憲体制導入の手法について意見を求めることにした。伊藤は同年暮れに意見書を提出し、漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議した(後者は公家出身の岩倉が嫌う点であるが、伊藤は敢えて提出したのである)。ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにしなかった。
2024年09月22日
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明治15年(1882年)1月末に退社した。郵便報知新聞社を退社後は、関西で立憲帝政党の機関紙の役割を担っていた『大東日報』で主筆を務めた。この際井上馨にも接近したが、8か月で『大東日報』を離れることになった。 〇井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日〈1836年1月16日〉 - 大正4年〈1915年〉9月1日)は、明治・大正期の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた[1]。 本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。 生い立ち 長州藩士・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現・山口市湯田温泉)に生まれる。嘉永4年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入学していない。安政2年(1855年)に長州藩士志道氏(大組・250石)の養嗣子となり、一時期は志道聞多(しじ ぶんた)とも名乗っていた。両家とも毛利元就以前から毛利氏に仕えた名門の流れを汲んでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みのいい中級武士であった。 同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤博文と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、桜田門外の変の余波で長州藩も警護を固める必要に迫られたため、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを勤め江戸へ再下向した。 長州藩士時代 江戸遊学中の文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴。同年11月に攘夷計画が漏れて定広の命令で数日間謹慎したにもかかわらず、御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らとともに12月のイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。 翌文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに長州五傑の1人としてイギリスへ密航し、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに学ぶ。留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)の下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。 第一次長州征伐では武備恭順を主張したために9月25日に俗論党(椋梨藤太を参照)に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓の中西君尾からもらった鏡を懐にしまっていたため、急所を守ることができ、美濃の浪人で適塾出身の医師の所郁太郎の約50針におよぶ縫合手術を受けて一命を取り留めた。このとき、あまりの重傷に聞多は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた。このエピソードはのちに第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。 この時の様子を、『世外井上公傳』は、以下のように記している(182頁)。 …口を公の耳に附け、大聲にて、「予は所郁太郎だ。君は家兄に介錯を請うたけれど、母君は是非に治療を受けしめようと自身で君を抱へ、强いて家兄を制止せられた。今現に君を抱へてゐるのは、即ち母君なるぞ。實に非常の負傷だから、予の手術が効を奏するかどうか分からぬが、母君の切なる至情は黙止する譯にはゆかぬ。宜しく予が手術を施すのを甘諾し、多少の苦痛は母君の慈愛心に對して之を忍ばねはならぬ。」と。その言が公の耳底に徹したと見え、頗る感動したやうであった。所は直ちに下げ緒を襷に掛け、焼酎で傷所を洗滌し、小さい畳針を以て縫合し始めた。公は殆ど知覺を失ひ、左程に苦痛を感じなかったやうであったが、それでも右頬から唇に掛けての創口を縫うた時には、苦痛の體であった… 。 また、寝込んでいたときに伊藤が見舞いに訪れ、危険だから早く離れろと忠告しても伊藤がなかなか承諾しなかったエピソードものちに伊藤が語っている。 体調は回復したが、俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかった。しかし、高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起(功山寺挙兵)、再び藩論を開国攘夷に統一した。慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉・伊藤と結託、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れ、若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏、別府温泉の古湯楠温泉にてしばらく療養した。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、7月から8月にかけて長崎で外国商人トーマス・ブレーク・グラバーから銃器を購入、翌慶応2年(1866年)1月に坂本龍馬の仲介で長州藩と薩摩藩が同盟(薩長同盟)、同年6月から8月までの第二次長州征伐で芸州口で戦い江戸幕府軍に勝利した。9月2日、広沢真臣とともに幕府の代表勝海舟と休戦協定を結んでいる。 慶応3年(1867年)の王政復古後は、新政府から参与兼外国事務掛に任じられ九州鎮撫総督澤宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任。浦上四番崩れに関わったあと、翌明治元年(1868年)6月に長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。明治2年6月に政府の意向で大阪へ赴任、7月に造幣局知事へ異動となり(8月に造幣頭と改名)、明治2年から3年(1869年 – 1870年)にかけて発生した長州の奇兵隊脱隊騒動を鎮圧した。この間、明治2年11月に死去した兄の家督を継承、甥で兄の次男勝之助を養子に引き取り、明治3年8月に大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚している。
2024年09月22日
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4、メディアの記者に明治9年(1876年)、司法省法学校を受験し、受験者中2番の成績で合格した。在学中も101名中10位と成績は良かったが、明治12年(1879年)2月に退校処分にあっている。寄宿舎の待遇改善を求めた行動に対する処分に抗議したことが理由とされている。退校後の明治12年(1879年)、郵便報知新聞社に入社した。 〇『報知新聞』(ほうちしんぶん)は、かつて日本で発行されていた日刊新聞の題号。1872年(明治5年)に創刊された郵便報知新聞が前身。明治末から大正期にかけて「東京五大新聞」の一角を占めた有力紙の一つで、直営販売店制度の開始、日本初の新聞写真の掲載、日本初の女性ジャーナリストの採用や箱根駅伝の創設など、新聞史・社会史に大きな足跡を残した。第二次世界大戦後はスポーツ紙「スポーツ報知」となった。 1872年(明治5年)7月15日(6月10日 (旧暦))、前嶋密らによって「郵便報知新聞」が創刊された(会社設立はその翌年。会社名は「報知社」)。草創期には旧幕臣の栗本鋤雲が主筆を務め、藤田茂吉・矢野龍渓(文雄)らの民権運動家が編集に携わったり、寄稿を行ったりした。1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、当時記者であった犬養毅による従軍ルポ「戦地直報」を掲載している。 1881年(明治14年)、矢野龍渓は大隈重信と謀って同社を買収。犬養毅・尾崎行雄らが入社し、立憲改進党の機関紙となった。当時記者だった原敬はこれに反発して退社している。 政論新聞(大新聞)は自由民権運動の退潮とともに人気が低下。1886年(明治19年)に同社に迎えられた三木善八は漢字の制限や小説の連載などを行い、新聞の大衆化を図ることになる。 「東京五大新聞」の一角 1894年(明治27年)に三木善八が社主に就任、同年12月26日「報知新聞」と改題した。1898年には案内広告のはじまりである「職業案内」欄が創設された。報知新聞がこの欄を創設したことの最大の功績は、掲載された校正係募集を見て入社した松岡もと子(後に結婚して羽仁もと子)が日本初の婦人記者となった事であろう。 1901年(明治34年) - 3日付け紙面では「二十世紀の豫言」を掲載。20世紀中に実現すると予想される23項目の事柄が書かれている。科学技術に関する部分はほとんど実現したが、自然や生物学関係は外れているものが多い。1903年(明治36年)、紙上で村井弦斎の小説「食道楽」を連載開始、日本にグルメブームをもたらす。同年、新聞直営店制を開始した。1904年(明治37年)には川上貞奴の写真を掲載、これは日本初の新聞写真であった。1906年(明治39年)には夕刊の発行を開始する。また1906年には日本で初めて2色刷りの新聞印刷を実施した。1913年(大正2年)の第一次護憲運動では政府系と見られて群衆の襲撃を受けた。1916年12月15日内閣交代を批判した社説「元老の宮中闖入」を掲載し、新聞紙法違反で発禁、告発された(主筆須崎芳三郎ほか1人、禁固3か月)。 1920年(大正9年)には東京箱根間往復大学駅伝競走を創設した。 明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞(東京日日・時事・國民・東京朝日・報知)の一角を占めた。1923年(大正12年)の関東大震災では社屋の焼失を免れたものの、その後は大阪を基盤に置く東京朝日や大阪毎日の傘下となった東京日日の台頭によって部数を減らすことになる。 買収・統合・再出発 1930年には講談社の野間清治に買収され、販売方針を見直す等経営努力を重ねたが、結局振るわず1941年に講談社は撤退。一時政界引退を余儀なくされていた三木武吉に譲渡した。しかし、戦時下行われた新聞統合により、1942年、讀賣新聞に合併された。「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は「讀賣報知」に改題された。 第二次世界大戦後の1946年、有志が夕刊紙「新報知」を創刊して読売から独立し、1948年に「報知新聞」に題号を戻した。しかし経営難から1949年には再び読売新聞の傘下に入る事となり、この年の12月30日より読売新聞系スポーツ紙として再出発することとなった。 詳細は「スポーツ報知#沿革」を参照 入社当初は翻訳を担当していたが、明治14年(1881年)5月には渡辺洪基とともに仕事で全国周遊旅行に出た。しかし明治十四年の政変をきっかけに大隈重信派が同社を買収、矢野文雄を社長に据え、犬養毅・尾崎行雄らが社に乗り込んできた。 〇大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈和暦:天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓[2]。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17 代)、外務大臣、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32 代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。 佐賀藩の上士の家に生まれ、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府に抜擢され、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる。
2024年09月22日
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中央新聞時代と「政界往来」 蓮山にとっては人生のメンターであった原敬を失い、時事新報社を退社、47歳で蓮山は「文化通信社」なる月刊誌を発行した。大正12年(1923年)関東大震災を麹町下2番町で遭遇。そのすさまじさを『太陽』に投稿する。大正13年(1924年)1月、政友会が分裂する時期、政友会の機関新聞、中央新聞に主筆として迎えられた。大正14年(1925年)「政党哲学」を浩洋社より出版。大正14年(1925年)7月より中央新聞紙上に時事コラム「鼻苦笑」を蓮山生の筆名で毎日書き始める。その後「蟹の泡」「野の声」と題名の変遷はあったが昭和7年(1932年)8月まで続ける。震災での被害は免れたものの都内を避け田園都市開発のすすむ荏原郡馬込村出穂山(現・大岡山駅付近)に転居、自宅を手に入れた。 昭和に時代が変わり、原敬の偉業をまとめる原敬全集刊行会の編集委員となる。昭和4年(1929年)に完成。また立憲政友会報国史編纂人になり、上下巻を昭和6年(1931年)に完成した。昭和5年(1930年)木舎幾三郎が創刊した「政界往来」に同人として参加、毎号記事を提供した。この活動は中央新聞在籍中も続け、昭和10年(1935年)9月床次竹二郎が亡くなるまで5年間続いた。 昭和7年(1932年)犬養内閣ができると、内閣書記官長森恪からの要請で内閣嘱託となる。また鉄道省の嘱託もした。突然時事新報の武藤山治社長から社友として招かれる。昭和9年(1934年)3月武藤山治社長が暗殺された。これにより時事新報の再建は難しくなり、蓮山も退いた。政党政治の本場英国に1年ほど研究に出かけるつもりであったが断念、政党政治を分かりやすく紹介する目的で「政党政治の科学的検討」を野依秀市の秀文閣書房より出版した。 伝記編纂に取り組む 昭和14年(1939年)「床次竹二郎伝」を出版。昭和15年(1940年)念願の「原敬伝」に着手。7月「第二次近衛内閣、奇奇怪怪の政変有り。政党の醜態見るに堪えん。」蓮山は政界との縁を切り、もっぱら原敬伝完成に進むべく決心する。昭和18年(1943年)高山書院より出版。「原敬伝」は、戦後原敬日記が公開されるまでは、原敬研究の重要な文献であった。「中橋徳五郎伝」牧野良三編上巻執筆、下巻を蓮山が書き直し昭和19年(1944年)2月完成。昭和19年(1944年)12月故郷長崎の森山村に疎開した。しかし連日空襲警報に悩まされ、遂に8月9日長崎市内に原子爆弾が投下、15日に終戦を迎えた。 大命降下、晩年 明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するにいたった。組閣断念の理由について、歴史家の村瀬信一は渋沢をはじめとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥ともつながりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している。 大命拝辞したあとは後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。明治40年(1907年)、侯爵に陞爵。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席したときに尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復した。 明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された。明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車いすでの移動となる。大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。 生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日、財政面をおもに書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。昭和2年(1926年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて全5巻が刊行された。また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と渾名された。大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、大塚駅の駅員であった青年・中岡艮一に襲撃され、殺害された(原敬暗殺事件)。満65歳没。墓所は岩手県盛岡市の大慈寺。古河鉱業(現:古河機械金属)の副社長にも就いていた。
2024年09月22日
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3「生い立ち形成」明治3年(1870年)1月、盛岡藩の藩校「作人館」に入った。翌年12月には上京し、藩の青年のために設立された学校「共慣義塾」に入学した。しかし盛岡の家が盗難にあい、学費に困った原は明治5年(1872年)4月、無料のカトリック神学校に移った。明治6年(1873年)4月には洗礼を受け、「ダビデ」の洗礼名を受けた。翌年から布教活動に加わり、1年間新潟に滞在した。新潟から戻った原は明治8年(1875年)6月分家して戸主となり、平民籍に編入された。分家の理由ははっきりしないが、戸主となれば兵役義務から免除されることと関連があるのではないかと前田蓮山は指摘している。 〇前田 蓮山(まえだ れんざん、本名:又吉、明治7年(1874年)10月2日 - 昭和36年(1961年)10月5日)は、政治記者、政治社会評論家。政党政治史や人物評伝などの著作を残した。代表作『原敬伝』など。筆名として、蓮山生、元龍山人、無名隠士、無名居士、覆面士、鬼谷庵先生、金剛眼などがある。 生い立ち 長崎県北高来郡森山村(後の北高来郡森山町・現諫早市)の農家の村役であった又次郎、イヨの二男として生まれる。小学校時代には神童と呼ばれ、十八史略、日本外史、国史略、論語などの漢籍及び徒然草や竹取物語などの国文は独学で読み取れた。13歳で唐詩選も読み漢詩の作り方も覚えた。「蓮山」という号の由来は、一家が森山村と隣の小野村を境する蓮華石岳という山の麓に住んでいたことから蓮という字に山をあて、「れんざん」と号した。その一方では、数え年10歳くらいの時に、早くも自由党の洗礼を受けた。数え年14歳になると、大人に混じって自由民権論を弁じるなどした。 青年期 明治23年(1890年)16歳で、佐賀に出て初めて英語を学んだ。次に長崎に出て、柴田英語学舎学校(創立者は柴田昌吉)に入った。モットというアメリカ人の宣教師から英語を習った。英語や普通学を学び準教員免許状を取り、明治26年(1893年)、長崎県尋常師範学校に合格した。明治30年(1897年)、卒業後すぐ東京高等師範学校へと進んだ。しかし在学中に盲腸炎になり、学業を続けることが困難な状況になったために帰郷。明治32年(1899年)、再び上京し東京専門学校(早稲田)の哲学科に入り、更に英語政治科に移った。この時は外交官になろうかと思った。一挙に高文試験を受けようと決心、図書館通いをはじめたが、長続きせず、外交官試験を断念。明治大学に編入したがこれも続かず挫折、ブラプラしているうちに早くも明治34年(1901年)27歳になっていた。郷里の隣町の小野出身で野口弥三という第一銀行の重役(副支配人)の世話で、辻新次(元文部次官、男爵となる)の書生をしてなんとか食いつないで過ごす。辻の援助のおかげで、「英*漢夜学塾」を設け、又一方、文学社という出版会社の原稿など書いて、独立生活ができるようになった。 新聞界に入る 明治35年(1902年)、又吉27歳の秋、諌早出身で有名な漢詩人野口寧斎の世話で横浜の新聞社「横浜新報」に入社した。翌年、政友会代議士日向輝武と出会い、その世話で新井イチと結婚する。日向は移民事業で財をなし、手広く事業に投資していた。その中に電報通信社(電通の前身)があり、その会長になっていた。日向のすすめで通信社の仕事に鞍替えし明治38年(1905年)東京に戻る。代議士になろうとおもい、そのために資金を作ろうと事業に取り組む。ランプの口金、英語講義録の出版などを手掛けたが失敗し、莫大な借財を負うこととなった。明治41年(1908年)長女2歳、長男が生まれたばかりで路頭に迷う人生最大の危機だった。この危機に日向の援助がありなんとか切り抜けた。 学生時代に小説の手ほどきを受けた小杉天外が、「無名通信」という雑誌を発行する企画があることを知り、編集長として職を得、3年ほど続ける。ここで政界話などの雑文を覚える。また発禁処分を三回食らいながら藩閥、官僚、軍部批判をし、政党政治を支持する論調で、実力を蓄えた。 明治44年(1911年)毎日新聞(東京横浜毎日新聞を改題)が報知新聞に身売りした時期に再び新聞社に入った。この時すでに36歳になっていた。立憲政友会の記者クラブ十日会のメンバーになり、報道記者ではないがいわゆる遊軍記者で、当時新聞界では「閑文字」と呼ばれ、政界の昔話や、人物評論や、社会批評などの雑文書きであつた。中でも人物批評は得意分野でその取材で多数の政界人と面識を持った。 いわゆる桂園時代で西園寺総裁率いる政友会に密着し人脈を構築しニュース源をひろげかつ信頼性を獲得していった。 時事新報時代と雑誌『太陽』 大正3年(1914年)2月。毎日新聞で「議会の闘将」と題し、犬養毅、尾崎行雄などに加え、政友会の実力者原敬の人物評論を執筆、評判を得る。経営が報知から山本実彦(後改造社社長)に移るのを期に退社、フリージャーナリストを目指す。雑誌『太陽』編集長浅田江村より原敬について論評に依頼を受け、世に出るチャンスととらえ「今日主義の原敬」と題する4百字60枚の原稿を書き上げ6月号に掲載となる。この原敬論は早速評判となり、時事新報と読売新聞から入社の誘いがきた。そこで当時日本一の新聞社であった時事新報に「太陽」に毎号書いてもよいという条件付きで入社を承諾する。時事新報に入ると、早速三党首領(原、加藤、犬養)の比較論を書いた。子爵秋元興朝の紹介で、原敬を訪問した。対談したのはこれが最初である。 大正4年(1915年)「逐鹿閑話」という選挙にまつわる話を連載、 また「人物の印象」という人物評論も連載した。一方雑誌『太陽』には、「党首月旦」「政党史論」などを毎月執筆、『中央公論』にも「加藤外相論」を執筆した。大正5年(1916年)になると『太陽』に「政界の表裏」を無名隠士の名で連載が開始、政界話をご隠居が語ると言うスタイルを生み出し、これが評判となりその後昭和2年(1927年)まで続くヒットとなった。 また、時事新報で「政変物語」を連載し、この連載を翌大正6年(1917年)に出版、徳富蘇峰、三宅雪嶺、石河幹明の推薦文を得た。政界のウラ話の情報は勿論政友会諸氏が情報源であったが、政党情報以外については枢密顧問官伊東巳代治が情報源であった。伊東巳代治は大の新聞記者嫌いで記者をめったに寄せ付けなかった。蓮山は同郷(長崎)のよしみということで近づき、絶大なる信頼を得た。大正7年(1918年)原敬内閣が初の政党内閣、平民宰相が誕生した。蓮山は原邸には「木戸御免」で毎日出入りできる程になっていた。大正デモクラシーの社会にあって開放的で華美な風潮が流れる中、大正8年(1919年)「社会の黴」なる社会批評を夕刊に連載し、政治評論に加え社会評論家としても認知された。大正10年(1921年)10月原敬、加藤高明、犬養毅の人物評論「三頭首領」を出版。大正10年(1921年)11月、原敬は東京駅にて刺殺された。
2024年09月22日
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外交と条約改正に尽力 政界から引いたあと、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、辞任していた木戸と板垣の説得にあたり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。同年に発生した江華島事件の処理として、翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆とともに副使として渡海、朝鮮の交渉にあたり2月に日朝修好条規を締結した。6月、欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らとともにアメリカへ渡り、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊。中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち、7月に帰国した。 大久保暗殺後に伊藤が政権の首班となると、同月に伊藤により参議兼工部卿に就任、翌12年(1879年)に外務卿へ転任した。 明治14年(1881年)に大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したときは、伊藤と協力して大隈を政界から追放した(明治十四年の政変)。この後も朝鮮との外交に対処、翌明治15年(1882年)で壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力した。同年、海運業独占の三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して三井など諸企業を結集させ共同運輸会社を設立したが、のちに両者を和睦・合併させ日本郵船を誕生させた。 明治16年(1883年)に鹿鳴館を建設して諸外国と不平等条約改正交渉にあたり、明治17年(1884年)の華族令で伯爵に叙爵された。同年に防長教育会や防長新聞の創設、三井物産相談役のロバート・W・アーウィンを通したハワイの官約移民(明治14年に日本を訪問した国王カラカウアと約束していた)にも尽力している。同年12月の甲申事変で朝鮮宗主国の清が介入すると渡海。翌18年(1885年)1月に朝鮮と漢城条約を締結して危機を脱した(4月に伊藤が清と天津条約を締結)。 明治18年(1885年)、伊藤が内閣総理大臣に就任して第1次伊藤内閣が誕生し、井上は外務卿に代わるポストとして第5代外務大臣(外務大臣の代数は外務卿から数えるため、初代外務大臣ではない)に就任。引き続き条約改正に専念した。 明治20年(1887年)に改正案が広まると、裁判に外国人判事を任用するなどの内容に反対運動が巻き起こり、井上毅・谷干城などの閣僚も反対に回り分裂の危機を招いたため、7月に改正交渉延期を発表、9月に外務大臣を辞任。このほか、山陽鉄道社長に中上川彦次郎を据えて鉄道建設を進めたり、パリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めたりしていたが、条約改正と同じく辞任にともない頓挫した。その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーとともに交渉に関わったハインリヒ・フォン・シーボルトには勲三等がのちに与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男と次男である。 閣僚を歴任 明治21年(1888年)、伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任した。黒田清隆が次の首相になると、黒田内閣で農商務大臣に復帰したが、かねてより政府寄りの政党を作るべく企画した自治党計画が翌22年(1889年)2月の黒田の超然内閣発言や周囲の反対で挫折、外務大臣に就任した大隈の条約改正案に不満を抱き、5月末から病気を理由に閣議を欠席して引きこもり、10月に黒田内閣が倒閣に陥ると辞任した。12月、悪酔いした黒田が留守中の自宅に押し入り暴言を吐く事件が発生し、黒田に抗議している。 明治25年(1892年)、第1次松方内閣が行き詰まりをみせると、伊藤は側近の伊東巳代治に「黒幕会議」を開催するよう命じた。6月29日に松方邸内で行われた会議の構成員は伊藤・黒田・山縣有朋と現首相の松方正義であり、井上は山口県に帰郷していたため参加できなった。この会議では第2次伊藤内閣の成立が事実上決まり、「元勲会議」によって後継首相が決まる先例となった。7月30日に松方が辞表を提出すると、明治天皇は伊藤、山縣、黒田に善後処置を諮り、そして2日後には井上馨に対して後継首相の意向を尋ねた。伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして山田顕義と大山巌を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された。これ以降、井上はその死までほとんどすべての内閣総理大臣推薦に関与し、いわゆる元老の一人として扱われた。 8月8日伊藤が内閣を組織すると内務大臣に就任。11月27日に伊藤が交通事故で重傷を負うと、翌26年(1893年)2月6日まで2か月あまり総理臨時代理を務めた。明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発、戦時中の10月15日に内務大臣を辞任し、朝鮮公使に転任。戦時中は陸奥宗光とともに伊藤を支え、翌明治28年(1895年)8月の終戦まで公使を務めた。朝鮮では金弘集内閣を成立させ改革に着手したが、三国干渉によるロシアの朝鮮進出と朝鮮の親露派台頭、ロシアと事を構えたくない日本政府の意向で成果を挙げられないまま帰国した。後任の朝鮮公使三浦梧楼が10月に親露派の閔妃を暗殺する事件を起こし解任されると(乙未事変)、 特派大使に任命され次の公使小村壽太郎の助け役として再渡海、11月に帰国した後は静岡県興津町(現・静岡市清水区)の別荘・長者荘へ引き籠った。 明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣成立にともない大蔵大臣となったが、半年で倒閣になったため成果はなかった。また、明治33年(1900年)の第4次伊藤内閣で大蔵大臣再任が検討されたが、渡辺国武が大蔵大臣を望み、伊藤が止むを得ず承諾したため話は流れた。
2024年09月22日
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第一次長州征伐では武備恭順を主張したために9月25日に俗論党(椋梨藤太を参照)に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓の中西君尾からもらった鏡を懐にしまっていたため、急所を守ることができ、美濃の浪人で適塾出身の医師の所郁太郎の約50針におよぶ縫合手術を受けて一命を取り留めた。このとき、あまりの重傷に聞多は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた。このエピソードはのちに第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。 この時の様子を、『世外井上公傳』は、以下のように記している(182頁)。 …口を公の耳に附け、大聲にて、「予は所郁太郎だ。君は家兄に介錯を請うたけれど、母君は是非に治療を受けしめようと自身で君を抱へ、强いて家兄を制止せられた。今現に君を抱へてゐるのは、即ち母君なるぞ。實に非常の負傷だから、予の手術が効を奏するかどうか分からぬが、母君の切なる至情は黙止する譯にはゆかぬ。宜しく予が手術を施すのを甘諾し、多少の苦痛は母君の慈愛心に對して之を忍ばねはならぬ。」と。その言が公の耳底に徹したと見え、頗る感動したやうであった。所は直ちに下げ緒を襷に掛け、焼酎で傷所を洗滌し、小さい畳針を以て縫合し始めた。公は殆ど知覺を失ひ、左程に苦痛を感じなかったやうであったが、それでも右頬から唇に掛けての創口を縫うた時には、苦痛の體であった… 。 また、寝込んでいたときに伊藤が見舞いに訪れ、危険だから早く離れろと忠告しても伊藤がなかなか承諾しなかったエピソードものちに伊藤が語っている。 体調は回復したが、俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかった。しかし、高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起(功山寺挙兵)、再び藩論を開国攘夷に統一した。慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉・伊藤と結託、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れ、若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏、別府温泉の古湯楠温泉にてしばらく療養した。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、7月から8月にかけて長崎で外国商人トーマス・ブレーク・グラバーから銃器を購入、翌慶応2年(1866年)1月に坂本龍馬の仲介で長州藩と薩摩藩が同盟(薩長同盟)、同年6月から8月までの第二次長州征伐で芸州口で戦い江戸幕府軍に勝利した。9月2日、広沢真臣とともに幕府の代表勝海舟と休戦協定を結んでいる。 慶応3年(1867年)の王政復古後は、新政府から参与兼外国事務掛に任じられ九州鎮撫総督澤宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任。浦上四番崩れに関わったあと、翌明治元年(1868年)6月に長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。明治2年6月に政府の意向で大阪へ赴任、7月に造幣局知事へ異動となり(8月に造幣頭と改名)、明治2年から3年(1869年 – 1870年)にかけて発生した長州の奇兵隊脱隊騒動を鎮圧した。この間、明治2年11月に死去した兄の家督を継承、甥で兄の次男勝之助を養子に引き取り、明治3年8月に大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚している。 留守政府時代 明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、伊藤と行動を共にし、主に財政に力を入れた。 明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席し、同月に副大臣相当職の大蔵大輔に昇進。大蔵卿・大久保利通が木戸や伊藤らと岩倉使節団に加わり外遊中は留守政府を預かり、事実上大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。 しかし大蔵省は民部省と合併してできた巨大省庁で、財政だけでなく地方官僚を通して地方行政にも介入できたため(元幕臣中野梧一の山口県参事登用など)、予算問題で改革にかかる多額の予算を要求する各省と衝突しただけでなく、学制頒布を掲げる文部卿・大木喬任や地方の裁判所設置と司法権の独立を目指す司法卿・江藤新平との対立も発生した。また、行政府の右院は各省の長官が構成員であり、前述の関係上対立・機能不全は避けられず、立法府の左院と最高機関である正院も調整力が疑問視されていた。 こうした事態を憂いた井上は大久保の洋行に反対だったが、西郷隆盛が大久保の代理となることで納得した。しかし、秩禄処分による武士への補填として吉田清成に命じたアメリカからの外債募集はうまくいかず、明治4年9月に大久保とともに建議した田畑永代売買禁止令・地租改正もまだ実現できず、財政は窮乏していた。 緊縮財政の方針と予算制度確立を図ったが、文部省が学制頒布、司法省が司法改革などで高い定額を要求すると拒絶して予算を削ったことが江藤らの怒りを買い、明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて5月に辞職した。その時に渋沢栄一と連名で建議書を提出し、政府の財政感覚の乏しさを指摘した。その建議書は新聞雑誌に掲載され、国家予算の明朗化の第一歩となった。その後、9月に使節団が帰国、征韓論をめぐる政争や10月の明治六年政変で西郷、江藤、板垣退助らが下野、大蔵省の権限分譲案として内務省が創設される。また、翌明治7年(1874年)に江藤が佐賀の乱を起こして敗死するなど変遷があったが、すでに下野していた井上にはそれらに関わりがなかった]。
2024年09月22日
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政界への復帰 明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。 明治21年(1888年)駐米公使となり、同年駐米公使兼駐メキシコ合衆国公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任。 明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し、初当選を果たし、1期を務めた。閣僚中唯一の衆議院議員であり、かつ日本の議会史上初めてとなる衆議院議員の閣僚となった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第1回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際に初代衆議院議長の中島信行は海援隊以来の親友であり、またかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。 明治24年(1891年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年5月成立した第1次松方内閣に留任し、内閣規約を提案、自ら政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、自らも列する松方内閣を批判、明治25年(1892年)3月、辞職して枢密顧問官となる。 外相時代 その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任。 明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。 以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ帝国、イタリア王国、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃)を成し遂げた。同年8月、子爵を叙爵する。一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる参謀次長川上操六中将の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。 戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。 日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。 明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去]。享年54(満53歳没)。墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町にあったが、昭和28年(1953年)に鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺に改葬された。 明治40年(1907年)、条約改正や日清戦争の難局打開に関する陸奥の功績を讃えて、外務省に彼の像が建立された。戦時中に金属回収により供出されたが、昭和41年(1966年)に再建された。 〇井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日〈1836年1月16日〉 - 大正4年〈1915年〉9月1日)は、明治・大正期の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。 生い立ち 長州藩士・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現・山口市湯田温泉)に生まれる。嘉永4年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入学していない。安政2年(1855年)に長州藩士志道氏(大組・250石)の養嗣子となり、一時期は志道聞多(しじ ぶんた)とも名乗っていた。両家とも毛利元就以前から毛利氏に仕えた名門の流れを汲んでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みのいい中級武士であった。 同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤博文と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、桜田門外の変の余波で長州藩も警護を固める必要に迫られたため、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを勤め江戸へ再下向した。 長州藩士時代 江戸遊学中の文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴。同年11月に攘夷計画が漏れて定広の命令で数日間謹慎したにもかかわらず、御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らとともに12月のイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。 翌文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに長州五傑の1人としてイギリスへ密航し、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに学ぶ。留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)の下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。
2024年09月22日
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2「原 敬の概略」(はら たかし、1856年3月15日〈安政3年2月9日〉- 1921年〈大正10年〉11月4日)は、日本の外交官、政治家。位階勲等は正二位大勲位。幼名は健次郎(けんじろう)。号は一山、逸山(いつざん)。「はら けい」と音読みが用いられるケースもある(原敬記念館、『原敬日記』など)。外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第 11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25 ・27 ・29 代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。『郵便報知新聞』記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。 〇陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日(1844年8月20日)- 明治30年(1897年)8月24日)は、明治期の日本の外交官、政治家。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与え、カミソリ大臣とも呼ばれて第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。 生い立ち 天保15年(1844年)8月20日、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市吹上3丁目)の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝(伊達政宗の末子)の後裔と伝えられるが、実際は12世紀に陸奥伊達氏から分岐して駿河国に土着した駿河伊達氏(の分家紀州伊達家)の子孫である。伊達小次郎、陸奥陽之助と称する。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活が訪れた。 幕末 安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。 文久3年(1863年)、泊園書院(現・ 関西大学)で学んだのちに勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と絶賛している。 龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。 維新後 明治維新後は岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係(1868年)。戊辰戦争に際し、局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功し、その際、未払金十万両があったが財政基盤の脆弱だった新政府には支払えなかった。これを大阪の商人達に交渉し、一晩で借り受けることに成功する。兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、和歌山に帰った。明治5年(1872年)に蓮子夫人が亡くなり、翌明治6年(1873年)に亮子と結婚している。大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。 投獄と欧州留学 明治10年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。翌年に発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け投獄された。山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄の後の明治16年(1883年)にベンサムの『(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」の名で刊行されている。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、明治11年(1878年)に伊藤博文が手を尽くして当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。 明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。明治17年(1884年)にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートは7冊現存されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されているのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収し、ウィーンではローレンツ・フォン・シュタインの国家学を学んだ。
2024年09月22日
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「歴史の回想・原敬」1、「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・22、「原敬の概略」・・・・・・・・・・・・・・43、「生い立ちと形成」・・・・・・・・・・・・244、「メディアの記者として」・・・・・・・・・575、「政党政治家として」・・・・・・・・・・・986、「首相就任」・・・・・・・・・・・・・・・1297、「原首相暗殺事件」・・・・・・・・・・・・1518、「人物評」・・・・・・・・・・・・・・・・1569、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・177 1、「はじめに」原敬(1856~1921)明治大正期の政党政治家。南部藩(岩手県)藩士原直治,リツ子の次男。本宮村(盛岡市本宮)生まれ。幼名健次郎。号は一山,逸山。明治4(1871)年南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入るが,学資に窮して受洗,7年神父エブラルの従僕として新潟に赴く。8年帰郷。分家して平民となり,9年司法省法学校に2位で合格。12年食堂の賄への不満が暴発した騒動で退校処分。同年郵便報知新聞社に入社,社説も執筆し,甲府の『峡中新報』にも寄稿。15年退社。同年立憲帝政党系の『大東日報』(神戸)主筆となり井上馨に知られる。同年末外務省御用掛,16年清仏関係の緊迫によりフランス語の能力を買われ天津領事。李鴻章と交渉。清仏戦争の記録は詳細,本省への報告は的確であった。18年在仏公使館書記官,22年帰国し農商務省参事官,次いで大臣秘書官。陸奥宗光農商務大臣に傾倒し,25年陸奥辞任に伴い辞職。同年陸奥外相に招かれて外務省通商局長,28年外務次官,29年朝鮮公使。 陸奥の死を機に30年官界を去り,大阪毎日新聞社に編輯総理として入社,翌年社長。新機軸により同社の発展に尽くした。33年伊藤博文の立憲政友会創立準備に参画,9月設立されると政友会に入り総務委員幹事長。12月星亨が辞任した逓相を継ぐが,34年6月内閣総辞職で辞任。大阪の北浜銀行頭取となり,36年5月まで務める。この間35年岩手県より立候補して衆院議員。以後没するまで連続当選。伊藤立憲政友会総裁下では伊藤と桂太郎首相の2度の妥協による政友会の動揺を最小限に止めた。以後西園寺公望総裁を助け,桂と交渉して39年1月第1次西園寺内閣を成立させた。自らは内務大臣として内務省の改革,「政友会知事」の増加に努め,郡制廃止法案で山県系を震撼させ,内閣の柱石となる。第2次西園寺内閣と大正政変(1913)後の第1次山本権兵衛内閣の内務大臣として行財政整理を推進した。シーメンス事件で内閣総辞職後は第3代立憲政友会総裁として寺内正毅内閣の準与党となり党勢を回復,大正7(1918)年9月政権を獲得。4大政綱(国防,産業,交通,教育)を掲げ,積極政策を展開,選挙資格などの選挙制度を改正したり,港湾の充実,高等教育機関の増設,海軍の充実に努め,国勢調査を創始した。外交はアメリカとの協調を重視し,西原借款を停止し,シベリア撤兵に着手した。一方,普通選挙は時期尚早とし,民本主義には理解を示さず,社会主義は抑圧した。この間政友会会員の横暴,恐慌後の不況,社会政策の不十分などがあり,その施政は独裁的とみられ,11月4日中岡艮一の凶刃に倒れた。高い識見と卓抜な指導力で党勢を伸ばし,本格的政党内閣を成立させたことが最大の功績。生涯授爵を拒む。
2024年09月22日
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16「人物・逸話」· 緒方洪庵の孫・緒方銈次郎は父親や祖母の緒方八重から聞いた話として、益次郎の適塾時代は「伝えるところによれば、村田は精根を尽くして学び、孜々として時に夜を徹して書を読むことを怠らず」とあるほど猛勉強をし、暇さえあれば解剖の本を読み、しばしば動物の解剖を行うなど研究熱心であった。塾頭としても綿密に考えて講義をし、遊びをしない品行方正な人格であったとしている。· 類い稀な語学力と、医学、化学などの豊かな知識を有する益次郎であったが、医師としての素質は欠けていた。郷里では、時候のあいさつをされても「夏は暑いのが当たり前です。」「寒中とはこういうものです。」と答える無愛想な性格に加え、治療も上手でなく評判は悪かった。江戸の「鳩居堂」時代の塾生も、学識は尊敬するが「先生は藪医者」と陰口を叩いていたこともある。塾生の一人野辺地尚義が目を患った時も「決して薬をつけてはならぬ。薬はつけるものではない。爛れたら水で洗い夜中に書見することはならぬ」と診断して塾生に「先生は医者の事は知られない」と笑われた。· 維新後、益次郎は「今後注意するは西である」と発言し、西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷を全く評価していなかった一人であり、西郷を建武の新政後に反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。· 海江田らが益次郎に反感を持った原因の一つに、彰義隊の討伐に際し激戦が予想される黒門口に薩摩兵を置く益次郎の作戦について、西郷と益次郎の間で「西郷熟視し終わりていわく、薩兵を見殺しにするの朝意なるや」「大村は静かに扇子を開閉し、天を仰ぎて言なし。すでにして曰く、しかりと。西郷また言なくして退くと」と記されてあるようなやり取りがあったからというものがある。もっとも西郷は、海江田と益次郎との論争には全面的に大村を支持するなど、その軍事知識を高く評価していた。また東海道総督府参謀木梨精一郎も黒門口担当は希望者が殺到し、両者にはそのような話はなかったと証言している。· 若年だった西園寺公望は益次郎に師事しており、京都にいた西園寺が益次郎を訪問しようとした際、公家の旧友に会ったために訪問できなくなったところ、そのとき大村は刺客に襲われ、西園寺は巻き込まれずに済んだといわれる。· 日本初の軍歌・行進曲とされる品川弥二郎作詞の「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者とも言われている。この曲は有栖川宮熾仁親王が東征大総督に就任して京都を発った慶応4年2月頃から一斉に歌われるようになったものといわれ、歌詞を刷った刷り物も頒布されて、東征軍将兵のみならず一般民衆にも広められた。· 明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(現在の靖国神社)の建立を献策している。· 戊辰戦争時に奥州北陸に遠征する兵士の食事を気にかけ、「兵食というものは、まことに粗末なものである。兵士が頼りにするのは米ばかりだ」と絶えず米糧のチェックを行うなど細かなところに気の付く面もあった。· 戊辰戦争で降伏した者の中に、適塾の後輩の大鳥圭介がいたことを知った益次郎は「大鳥もやはり助けねばならぬ。どうしても官軍に抵抗して一番強いが、後日のために尽くすならば、大鳥は一番賊のうちで役に立つ。どうしても戦はあの人が一番よい。」と述べ、その才能を惜しみ減刑に奔走したという。· 生活は質素で、芸者遊びや料亭も行かず、酒を好む以外は楽しみはなかった。江戸の蕃書調所時代の益次郎の小遣い帳には、大好物の豆腐をはじめ、蛸、鯛、鰹、蛤、刺身など相当の食物を購入したことが記されており、実入りが良かった事もあり一時期は贅沢な食事をしていたようであるが、後年の益次郎は粗食で、兵部大輔の高位になった後も「要するに先生は非常に気力旺盛な方で、豪傑でありました。強記博聞おのれを持することが極めて質素でありました」と曾我祐準が証言するほどであった。· 学究肌で趣味らしい趣味もなかったが、豆腐を食べることと骨董品を買うことだけは楽しみにしていた。特に掛け軸が好きだったが、1両以上のものは決して買うことがなかった。その理由について、部下で軍務官権判事の船越衛は「『おれも軸物などを楽しむが、その代わりに額を決めておく。その決めた額より上は出さぬ』ということだった」と証言している。· 遭難の直前、益次郎は軍事施設検分のため大阪を訪れ、蕃書調所時代の同僚だった原田敬策を呼び、 道頓堀での芝居見物の後、料亭で会食を共にした。後日、原田も普段の益次郎には珍しい歓待ぶりに「先生自身にはもはや今生の訣別なりと考え、すでに身辺に迫りくる逃るべからざる災難を予知しておられたから」と懐旧している。· 妻の名前は琴子(もしくは琴)。旧姓は高樹とされるが、高実(たかざね)という説もある。琴子の愛犬の名前は角之助、大村の死後の明治8年泥棒に斬り殺され、「大村角之助」と刻まれた墓に葬られたという。了
2024年09月01日
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14「大村益次郎の暗殺」当時の兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王で、名目上だけの存在であった。益次郎は事実上、近代日本の軍制建設を指導してゆく。益次郎は戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、山田に下士官候補の選出を委任した。山田も山口藩諸隊からを中心に約100名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。また、益次郎は明治2年(1869年)6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪城近くに兵部省の兵学寮を設け、フランス人教官を招いてフランス軍をモデルとする新しい軍の建設を始めた。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定された。このように益次郎が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、益次郎が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。このように着々と既成事実を構築していた明治2年(1869年)、益次郎は軍事施設視察と建設予定地の下見のため京阪方面に出張する。京都では弾正台支所長官の海江田が遺恨を晴らすため、新軍建設に不平を抱く士族たちを使って益次郎を襲うよう煽動する、などの風説が流れるなど不穏な情勢となっていた。木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、益次郎はそれを振り切って中山道から京へ向かう。益次郎は同年8月13日に京に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ20日に下阪する。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分することとなった。9月3日、京へ帰るも翌4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、益次郎の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。静間と安達は死亡、益次郎も重傷を負った。その時の疵は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負ったのであるが、なかんずく右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。兇徒が所持していた「斬奸状」では、益次郎襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあったことが示されている。益次郎は一命をとりとめたが、重傷で7日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。9月20日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。10月1日、益次郎は河東操練所生徒寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、10月2日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院する。ここで楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。だが、手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように手遅れとなっていた。果して10月27日手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し5日の夜に死去した。享年46。臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」と船越衛に後事を託した後「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ。」と遺言していた。益次郎の死去の報を受けた木戸は「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」(11月12日の日記)「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」(槙村正直宛の12月3日付の書)と、その無念さを述べている。11月13日、従三位を贈位し、金300両を賜る宣旨が下された。遺骸は妻・琴子によって郷里にもたらされ、11月20日に葬儀が営まれた。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。明治21年(1888年)に孫(養子の嫡男)の大村寛人は益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。益次郎の軍制構想は山田顕義、船越衛、曾我祐準、原田一道、大島貞薫らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。益次郎の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省(のち陸軍省)内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。 15「大村益次郎の経歴」※日付=明治4年までは旧暦· 1843年(天保14年)4月7日、豊後国日田の広瀬淡窓創始の咸宜園に入門。· 1844年(天保15年)6月29日、咸宜園を退塾。o 9月13日、長門国三田尻の梅田塾に再入塾。· 1846年(弘化3年)春、摂津国大坂の適塾に入塾。· 1849年(嘉永2年)、適塾の塾頭となる。· 1850年(嘉永3年)、適塾を退塾。郷里にて医業を開業。· 1851年(嘉永4年)、琴子と婚姻。· 1854年(嘉永7年)2月13日、伊予国宇和島藩の招きにて西洋兵学の翻訳や蘭学の教授となる。石高100石。ほかに月々、米6俵の待遇を受ける。· 1856年(安政3年)11月1日、江戸に於いて、私塾鳩居堂を開塾。o 11月16日、宇和島藩士のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となる。· 1857年(安政4年)11月11日、幕府の講武所教授に異動。· 1860年(万延元年)4月20日、長州藩士となり、馬廻士に准ずる待遇となる。年米25苞(つと)· 1861年(万延2年)1月29日、手廻組博習堂用掛となる。· 1861年(文久元年)12月22日、江戸詰となる。· 1863年(文久3年)10月24日、手当防禦事務用掛に異動。o 11月27日、撫育方用掛を兼帯。· 1864年(文久4年)2月24日、兵学校教授役に異動。o 2月、装条銃打方陣法等規則調に異動。· 1864年(元治元年)5月、鉄熕(てっこう=鉄の大砲)取調方に異動。o 8月18日、外人応接掛に異動。o 8月29日、政務座役事務扱及び軍事専任に異動。o 11月29日、全役向き免ず。o 12月9日、博習堂用掛及び赤間関応接掛となる。· 1865年(元治2年)3月14日、防禦掛及び兵学校用掛に異動。· 1865年(慶応元年)5月27日、用所役軍政専務に異動。o 閏5月6日、馬廻士譜代の班列となり、100石高。o 6月6日、新式具方用掛を兼帯。o 12月12日、名乗りを村田蔵六から大村益次郎に変える。· 1866年(慶応2年)4月3日、三兵教授方及び軍政用掛に異動。o 12月12日、海事用掛を兼帯。· 1867年(慶応3年)4月18日、三兵教授方及び陪臣大隊用掛に異動。o 10月27日、用所助役及び軍政専務に異動。· 1868年(慶応4年)1月17日、用所本役及び軍政専任に異動。o 2月22日、維新政府の軍防事務局判事加勢に任官。o 4月27日、軍防事務局判事に転任。o 閏4月21日、軍務官判事に異動。o 5月8日、従五位に叙位。o 5月11日、江戸府判事を兼帯。o 6月4日、従四位下に昇叙し、江戸府判事の兼帯を止め、鎮台府民政会計掛を兼帯。· 1868年(明治元年)10月24日、軍務官副知事に異動。· 1869年(明治2年)7月8日、兵部大輔に異動。o 9月4日、刺客に遭難。o 11月5日、逝去。o 11月13日、贈従三位。· 1882年(明治15年)山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。· 1888年(明治21年)1月17日、大村益次郎の孫寛人に子爵が授けられる。· 1893年(明治26年)6月、東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され除幕式が執行される。· 1919年(大正8年)11月27日、追贈従二位。参考:大村益次郎先生伝記刊行会「大村益次郎」マツノ書店 1999年
2024年09月01日
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13「兵制論争」明治2年(1869年)6月2日、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び新政府の幹部となった。10月24日、軍務官副知事に就任、益次郎は軍制改革の中心を担い、明治2年(1869年)6月には政府の兵制会議で大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。兵制会議は6月21日から25日にかけて開催された。そこで、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る益次郎らと、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保らとの間で激論が闘わされた。益次郎は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。そのための第1段階として3年間のうちに現在の藩兵を基にする軍の基礎づくり、第2段階として大阪に軍の基地、兵学校や武器工場を置いてハード面での組織作りを行った後、徴兵、鎮台制を置くという考えであった。大阪に着眼したのは、当時、東北の動向を心配する関係者に対して、益次郎が「奥羽はいま十年や二十年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である。」と答えたように、西郷らを中心とする薩摩藩の動向が気になっていたためと言われ、すでに西南戦争を予想していたのである。 ◯西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦である。 近因(私学校と士族反乱) 明治六年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島縣令大山綱良の協力の元で県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。 一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。 これが契機となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こった。日当山温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。 ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。その一方で1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられたことに対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考えられない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。 他方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、1876年(明治9年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。 この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は鹿児島県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。 しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その一つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視川路利良が中原尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことである。私学校徒達はこれを不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。 赤龍丸と弾薬掠奪事件 1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われたことが記録されている。 陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。 後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、オランダ商社を通じて、イギリス製のパトロン(薬莢)製造機械を輸入し、1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。 火薬・弾丸・雷管さえあれば使用できる前装式銃と異なり、後装式のスナイドル銃の弾薬(実包)は真鍮を主材料として水圧プレスで成型される基部を持った薬莢が不可欠で、これが無ければ銃として機能しない。 薬莢基部は単純な構造であるため、個人レベルの量であれば家内生産で製造できなくもないが、小規模とはいえ軍が戦闘で使用する量を確保するには専用の大量生産設備が不可欠であり、同様の設備は当時の日本国内には存在していなかった。こうした工業基盤の有無も、一地方に過ぎない鹿児島と中央政府の力関係を均衡させていた主要因の一つだった。 また、旧薩摩藩士の心情として、鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていたこともあり、私学校徒は中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出したことに怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために、夜、草牟田火薬庫を襲って武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。 スナイドル弾薬の製造設備を失ったことは、薩摩を象徴する新兵器だったスナイドル銃が無用の長物と化し、すでに旧式化していた前装式のエンフィールド銃で戦わなければならなくなったことを意味しており、後装式と前装式の連射速度の違いがもたらす決定的な戦力差を戊辰戦争に従軍した西郷はじめ多くの薩摩士族達は、実体験を通じて良く理解していた。 2月2日、政府側は赤龍丸に弾薬400箱を積んで鹿児島から撤退させたが、私学校側の弾薬接収にはほぼ無抵抗であり、この際に私学校青年により約84000発の弾薬と多数の小銃が接収された。 また私学校側ではこれ以外にも弾薬の備蓄を行っており、西南戦争を通じて薩摩軍が使用できた弾薬は約300万発ともいわれる。後述の柳原前光が勅使として鹿児島入りした際、鹿児島でスナイドル銃の弾薬約30万発や、弾薬の原料が多く残っているのを発見し、「薩摩側は1年は戦える備えがあった」と述べている。
2024年09月01日
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12「旧幕府軍の抵抗」このころ江戸は、天野八郎ら旧幕府残党による彰義隊約3千名が上野寛永寺に構え不穏な動きを示したが、西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化していた。新政府は益次郎の手腕を活かして混乱を収めようとしたのである。果して益次郎は制御不能となっていた大総督府の組織を再編成すべく、目黒の火薬庫を処分し、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却、奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、矢継ぎ早に手を打っていった。さらに5月外国官判事大隈重信の意見を受け、幕府が注文した軍艦ストーンウォール購入費用25万両を討伐費に充てている。また5月1日には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲され、同日には江戸府知事兼任となり、いよいよ市中の全警察権を収めた。こうして満を持した益次郎は討伐軍を指揮し、5月15日、わずか1日でこれを鎮圧する。この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。 ◯上野戦争(うえのせんそう、慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。 慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。 江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年(1868年4月5日)に新政府軍の東征大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。 抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した[2]。 上野周辺などで彰義隊ら旧幕府軍の関与が疑われる殺傷事件が続発したこともあり[3]、慶応4年5月13日(7月2日)に東征大総督府は上野の東叡山に集まった旧幕府軍を討伐する準備を各藩に命じた。また上野からの逃亡に備え、忍に芸州藩兵50人、川越に筑前藩兵50人、古河に肥前藩兵の配置を指示した。 5月14日(7月3日)、大総督府は寛永寺の旧幕府軍を討伐することを正式に決め、翌日の戦火に備えて徳川家達に徳川家の位牌や宝物などを寛永寺から避難させるように命じた。 また、入道公現親王には寛永寺からの速やかな退去を勧めた。同日夜、徳川家達家臣の服部常純、大久保一翁、山岡鉄舟は、徳川家の位牌や宝物などを避難させ終わるまで攻撃開始を遅らせるように大総督府に求めた。 また、服部常純は覚王院義観と面会して寛永寺の旧幕府軍の解散を説得した。田安慶頼も、彰義隊に解散を説得するので攻撃開始を遅らせるように大総督府に求め、5月15日(7月4日)には静寛院宮へ手紙を送り、静寛院宮からも大総督府へ攻撃開始を遅らせる働きかけをするように求めたが手遅れだった。 経過 新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。池波正太郎が日本史探訪において述べたところでは、大村は薩摩藩兵が気に入らず前述の布陣を敷き、問い詰めたのは桐野利秋になっている。 ただ、黒門口を受け持つことを各員が希望していたという話もあり、実際のところは不明である。いずれも虐殺の誹りを避けるための後世の作り話とも考えられる。軍事的反抗を行う旧幕府勢力には妥協せず徹底的に殲滅するのが当時の新政府軍の方針であり、その方針は続く会津戦争で遺憾なく発揮されたからである。 5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。 彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。 戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。 この席上で益次郎が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。佐賀藩出身で軍監の江藤新平は自藩への手紙で「まことにもって天運なり。大武力御立て遊ばされ候らへば、これよりは御号礼も、さきざき相行われ申すべくと存じ奉り罷りあり候。西郷の胆力、大村益次郎の戦略、老練、感心に耐へ難く御座候」述べているように、この戦闘はそれまで世間には無名であった大村益次郎の名を広く世間に知らしめるものであった。同年6月4日、鎮台府の民政会計をも兼任し従四位となる。関東北部での旧幕府残党勢力を鎮圧する一方で、江戸から事実上の新政府軍総司令官として指揮を行った。ここでは、前線から矢のように来る応援部隊や、武器補充の督促を益次郎独自の合理的な計算から判断し、場合によっては却下することもあった。また、白河方面の作戦を巡って益次郎は西郷と対立し、以降益次郎単独での作戦指導が行われた。戦争は官軍優位のまま続き、10月2日に軍功として益次郎は朝廷から300両を与えられる。同日の、妻・琴への手紙に「天朝より御太刀料として金三百両下し賜り候。そのまま父上へ御あげなさるべく候。年寄りは何時死するもはかりがたく候間、命ある間に早々御遣わしなさるべく候」と記し、父らへの配慮を示している。明治2年(1869年)、函館五稜郭で榎本武揚らの最後の旧幕府残党軍も降伏し戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が確立し、新しい明治時代が開かれた。
2024年09月01日
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11「江戸城開城に向けて」徳川慶喜による大政奉還後の明治元年(1868年)1月14日、鳥羽・伏見の戦いを受け、毛利広封が京へ進撃、17日に益次郎は随行する形で用所本役軍務専任となる。22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着する。その際、新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したと見られる。2月22日、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。益次郎は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。翌3月、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、26日の天保山での海軍閲兵と4月6日の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。4月には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。 ◯勝 海舟(かつ かいしゅう)は、日本の武士(幕臣)、政治家、華族。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。 幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦(よしくに)。明治維新後は安芳(やすよし)と改名。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものだが、「海舟」という号は本来誰のものであったかは分からないという。 曽祖父は視覚障害を持ち新潟の農民に生まれ、江戸に出て米山検校となる。祖父はその九男男谷平蔵。父は男谷平蔵の三男、旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末の剣客・男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる。家紋は丸に剣花菱。 10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。 安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。 李鴻章を始めとする清の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福沢諭吉(福澤諭吉)らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。 長崎海軍伝習所 嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。 これに海舟も海防意見書を提出(嘉永6年7月。西洋式兵学校の設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く)、意見書は阿部の目に留まることとなり、目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。 同月から洋学所創設の下準備、1月23日から4月3日にかけて勘定奉行石河政平と一翁が命じられた大阪湾検分調査の参加を経て7月29日に長崎海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。 この時の伝習生には矢田堀鴻(景蔵)、永持亨次郎らがいる。しかし、海軍知識はほとんど無かったため、本心では分野違いの長崎赴任を嫌がっていたが(8月20日の象山宛の手紙より)、幕府の期待に応えない訳にも行かず、10月20日に船で長崎へ来航、以後3年半に渡り勉強に取り組むことになる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っているためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。 海舟の学問成果については賛否両論で、藤井哲博は海舟の成績は悪く安政4年(1857年)3月に一期生が江戸へ戻ったのに海舟が長崎に残った点を挙げて落第したと書いたが、松浦玲は藤井の記述に反論、安政3年(1856年)6月に海舟が伝習所の成果に見切りをつけて江戸へ帰府の伺いを提出し、翌4年1月に江戸に軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設することを幕府が考案、帰府が決まった所、一転して残留に変更したことを詳細に記し、落第留年ではないと主張している。しかし、海舟が頻繁に船酔いに苦しんでいたことと、思うように勉強がはかどらなかった(特に数学が苦手)ことは事実であり、海舟が船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上する理由があった。いずれにせよ、海舟は安政4年の時点ではまだ江戸へ戻れず、更に2年を長崎で過ごすことになる。 この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、安政5年(1858年)3月と5月に海舟は薩摩を訪れて斉彬と出会う。2人は初対面ではなく藩主になる前の斉彬が江戸で海舟と交流していたが、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。同年から始まった安政の大獄で推薦者の一翁が左遷されたが、長崎にいる海舟に影響は無く、大獄を主導した大老井伊直弼の政治手法や大獄の一因である南紀派と一橋派の政争を批判する余裕を見せている。 8月に外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、10月と11月にそれぞれ永井と水野に宛ててアメリカ行きを希望、2人から了解の返事を取り付け、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになる。 渡米 万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。このアメリカ渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣であった。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米した。 このころ益次郎は岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べており、その意見を受け入れる形で益次郎は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられた。21日には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。
2024年09月01日
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10「戊辰戦争」慶応3年(1867年)、討幕と王政復古を目指し西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われた。 ◯西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体:西鄕隆盛、文政10年12月7日〈1828年1月23日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。(友人の手違いで父の名前「隆盛」と書いてしまったため)幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。 その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。 佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。 死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。 本項で、年月日は明治5年12月2日までは旧暦(太陰太陽暦)である天保暦、明治6年1月1日以後は新暦(太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの( )内にグレゴリオ暦を書く。 幼少・青年時代 文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)の第1子として生まれる。西郷氏の家格は御小姓与であり、下から2番目の身分である下級藩士であった。本姓は藤原姓(系譜参照)を称するが明確ではない。先祖は肥後国の菊池氏の庶家とされ、その家臣であったと伝わる。江戸時代の元禄年間に島津氏が支配する薩摩藩士になる。 天保10年(1839年)、郷中(ごじゅう)仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しそうになり喧嘩の仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。 西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めるが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した。刀が握れないなりに武術の部分に関しては相撲を習ったという]。 天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町(したかじやまち)郷中の二才組(にせこ)に昇進する。 郡方書役時代 弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。 これ以後、世子・島津斉彬の襲封を願うようになった。 伊藤茂右衛門に陽明学、福昌寺(島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、近思録崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)・税所喜三左衛門(篤)・吉井幸輔(友実)・伊地知竜右衛門(正治)・有村俊斎(海江田信義)らとつくった(このメンバーが精忠組のもとになった)。 斉彬時代 嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。嘉永5年(1852年)、父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀(敏(敏子)であったとも云われる)と結婚したが、7月に祖父・遊山、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。 嘉永6年(1853年)2月、家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。12月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。 安政元年(1854年)、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。4月、「御庭方役」となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学・藤田東湖にも会い、国事について教えを受けた。鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。 安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。12月、越前藩士・橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。安政3年(1856年)5月、武田耕雲斎と会う。7月、斉彬の密書を水戸藩の徳川斉昭に持って行く。 12月、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、西郷はその手足となって活動した。 安政4年(1857年)4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物・津田山三郎と会い、国事を話し合った。5月、帰藩。次弟・吉二郎が御勘定所書役、三弟・信吾が表茶坊主に任ぜられた。10月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた(大久保正助(利通)も同時期に徒目付になっている)。11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった。 12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主・松平慶永(春嶽)に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。安政5年(1858年)1、2月、橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には篤姫から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧・月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。 5月、彦根藩主・井伊直弼が大老となった。直弼は、6月に日米修好通商条約に調印し、次いで紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定した。7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始)。この間、西郷は6月に鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練を実施した(兵を率いて東上するつもりであったともいわれる)が、7月16日、急逝した。7月19日、斉彬の弟・島津久光の子・茂久が家督相続し、久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父・斉興が握った。
2024年09月01日
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留守政府時代 明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、伊藤と行動をともにし、おもに財政に力を入れた。明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席し、同月に副大臣相当職の大蔵大輔に昇進。大蔵卿・大久保利通が木戸や伊藤らと岩倉使節団に加わり外遊中は留守政府を預かり、事実上大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。 しかし大蔵省は民部省と合併してできた巨大省庁で、財政だけでなく地方官僚を通して地方行政にも介入できたため(元幕臣中野梧一の山口県参事登用など)、予算問題で改革にかかる多額の予算を要求する各省と衝突しただけでなく、学制頒布を掲げる文部卿・大木喬任や地方の裁判所設置と司法権の独立を目指す司法卿・江藤新平との対立も発生した。また、行政府の右院は各省の長官が構成員であり、前述の関係上対立・機能不全は避けられず、立法府の左院と最高機関である正院も調整力が疑問視されていた。 こうした事態を憂いた井上は大久保の洋行に反対だったが、西郷隆盛が大久保の代理となることで納得した。しかし、秩禄処分による武士への補填として吉田清成に命じたアメリカからの外債募集はうまくいかず、明治4年9月に大久保とともに建議した田畑永代売買禁止令・地租改正もまだ実現しておらず、財政は窮乏していた。緊縮財政の方針と予算制度確立を図ったが、文部省が学制頒布、司法省が司法改革などで高い定額を要求すると拒絶して予算を削ったことが江藤らの怒りを買い、明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて5月に辞職した。 その時に渋沢栄一と連名で建議書を提出し、政府の財政感覚の乏しさを指摘した。その建議書は新聞雑誌に掲載され、国家予算の明朗化の第一歩となった[7]。その後、9月に使節団が帰国、征韓論をめぐる政争や10月の明治六年政変で西郷、江藤、板垣退助らが下野、大蔵省の権限分譲案として内務省が創設される。また、翌明治7年(1874年)に江藤が佐賀の乱を起こして敗死するなど変遷があったが、すでに下野していた井上にはそれらに関わりがなかった。 外交と条約改正に尽力 政界から引いたあと、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、辞任していた木戸と板垣の説得にあたり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。同年に発生した江華島事件の処理として、翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆とともに副使として渡海、朝鮮の交渉にあたり2月に日朝修好条規を締結した。 6月、欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らとともにアメリカへ渡り、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊。中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち、7月に帰国した。 大久保暗殺後に伊藤が政権の首班となると、同月に伊藤により参議兼工部卿に就任、翌12年(1879年)に外務卿へ転任した。明治14年(1881年)に大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したときは、伊藤と協力して大隈を政界から追放した(明治十四年の政変)。この後も朝鮮との外交に対処、翌明治15年(1882年)で壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力した。同年、海運業独占の三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して三井など諸企業を結集させ共同運輸会社を設立したが、のちに両者を和睦・合併させ日本郵船を誕生させた。 明治17年(1884年)12月の甲申事変で朝鮮宗主国の清が介入すると渡海、翌18年(1885年)1月に朝鮮と漢城条約を締結して危機を脱した(4月に伊藤が清と天津条約を締結)。 また、明治16年(1883年)に鹿鳴館を建設して諸外国と不平等条約改正交渉にあたり、明治17年の華族令で伯爵に叙爵された。同年に防長教育会や防長新聞の創設、三井物産相談役のロバート・W・アーウィンを通したハワイの官約移民(明治14年に日本を訪問した国王カラカウアと約束していた)にも尽力している。 明治18年(1885年)、伊藤が内閣総理大臣に就任して第1次伊藤内閣が誕生すると、外務卿に代わるポストとして第5代外務大臣(外務大臣の代数は外務卿から数えるため、初代外務大臣ではない)に就任。引き続き条約改正に専念した。ところが、明治20年(1887年)に改正案が広まると、裁判に外国人判事を任用するなどの内容に反対運動が巻き起こり、井上毅・谷干城などの閣僚も反対に回り分裂の危機を招いたため、7月に改正交渉延期を発表、9月に外務大臣を辞任せざるを得なかった。このほか、山陽鉄道社長に中上川彦次郎を据えて鉄道建設を進めたり、パリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めたりしていたが、条約改正と同じく辞任にともない頓挫した。 その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーとともに交渉に関わったハインリヒ・フォン・シーボルトには勲三等がのちに与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男と次男である。 閣僚を歴任 明治21年(1888年)、伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任した。黒田清隆が次の首相になると、黒田内閣で農商務大臣に復帰したが、かねてより政府寄りの政党を作るべく企画した自治党計画が翌22年(1889年)2月の黒田の超然内閣発言や周囲の反対で挫折、外務大臣に就任した大隈の条約改正案に不満を抱き、5月末から病気を理由に閣議を欠席して引きこもり、10月に黒田内閣が倒閣に陥ると辞任した。 12月、悪酔いした黒田が留守中の自宅に押し入り暴言を吐く事件が発生し、黒田に抗議している。 明治25年(1892年)、第1次松方内閣が行き詰まりをみせると、伊藤は側近の伊東巳代治に「黒幕会議」を開催するよう命じた。6月29日に松方邸内で行われた会議の構成員は伊藤・黒田・山縣有朋と現首相の松方正義であり、井上は山口県に帰郷していたため参加できなった。 この会議では第2次伊藤内閣の成立が事実上決まり、「元勲会議」によって後継首相が決まる先例となった。7月30日に松方が辞表を提出すると、明治天皇は伊藤、山縣、黒田に善後処置を諮り、そして2日後には井上馨に対して後継首相の意向を尋ねた。 伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして山田顕義と大山巌を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された[12]。これ以降、井上はその死までほとんどすべての内閣総理大臣推薦に関与し、いわゆる元老の一人として扱われた。 8月8日伊藤が内閣を組織すると内務大臣に就任。11月27日に伊藤が交通事故で重傷を負うと、翌26年(1893年)2月6日まで2か月あまり総理臨時代理を務めた。明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発、戦時中の10月15日に内務大臣を辞任し、朝鮮公使に転任。戦時中は陸奥宗光とともに伊藤を支え、翌明治28年(1895年)8月の終戦まで公使を務めた。朝鮮では金弘集内閣を成立させ改革に着手したが、三国干渉によるロシアの朝鮮進出と朝鮮の親露派台頭、ロシアと事を構えたくない日本政府の意向で成果を挙げられないまま帰国した。 後任の朝鮮公使三浦梧楼が10月に親露派の閔妃を暗殺する事件を起こし解任されると(乙未事変)、 特派大使に任命され次の公使小村壽太郎の助け役として再渡海、11月に帰国した後は静岡県興津町(現・静岡市清水区)の別荘・長者荘へ引き籠った。 明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣成立にともない大蔵大臣となったが、半年で倒閣になったため成果はなかった。また、明治33年(1900年)の第4次伊藤内閣で大蔵大臣再任が検討されたが、渡辺国武が大蔵大臣を望み、伊藤が止むを得ず承諾したため話は流れた。 すでに3月13日、益次郎は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され名実共に藩士となる。益次郎は桂の意見を参考に、四方からの攻撃に備えるには従来の武士だけでなく、農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、併せて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、5月22日には1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた。
2024年09月01日
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将軍空位期の中央政局 7月20日、大坂城において将軍・家茂が客死した。この日から慶喜が将軍職就任する12月5日まで将軍職は空位となった。家茂の御台所であった和宮親子内親王は12月9日に落飾(出家)した。 家茂は征長の進発に際して「万一のことあらば田安亀之助をして、相続せしめんと思うなり」と和宮と天璋院へ伝えるように命じていたが、江戸の和宮は亀之助が将来の相続者であるとしながら「唯今の時勢、幼齢の亀之助にては、如何あるべき」「然るべき人骵(体)を、天下の為に選ぶべし」と、この時点での相続は否定したため、相続者は慶喜以外にはいないという結論になった。7月27日、慶喜は徳川宗家は継承すると決定(正式には29日に相続)したが、なお将軍職は辞退するとした。 20日に島津久光・忠義父子の連名により二条斉敬へ征長反対の建白書が提出された。具体的には寛大の詔を下して征長の兵を解き、然る後に天下の公議を尽くして大に政体を更新し、中興の功業を遂げられんとする政体改革の建議である。この建議は朝議に諮られた。 当時の朝議は二条斉敬と中川宮が主導、両者に対して批判的な勢力は近衛忠熙・忠房父子、山階宮晃親王(中川宮の兄)があり、別グループとして中山忠能、大原重徳、中御門経之、正親町三条実愛がいた。後者の指針は朝廷改革と攘夷貫徹であり、朝廷改革とは大政委任が現実には朝廷の権威を幕府に利用されるだけであるという不満から朝廷が主体的となり国政を一元化させようとする動きである。 当然、久光・忠義父子の建白書は賛成であった。 朝議は紛糾し、三回目(8月4日)の朝議に召し出された慶喜は「一当て仕らずては長人等追々京畿にも迫るべき有様なり、さはいへ強いて山口まで攻入るべしとのことにはあらず、芸石二州の地に進入せる長人を自国へ逐退けたる後、朝廷へ寛大の御処置を願ひ、又諸大名をも会同(集まって相談)して国事を議する事に仕るべきなり」と発言した。これを受けて孝明天皇が「朕は解兵すべからずとの決心なれば、速に進発して功を奏すべし」と叡慮を述べて議は決した。すなわち戦争継続である。8月8日、家茂の名代として出陣する慶喜は御暇乞の参内をして天盃、節刀を賜ったが、14日、慶喜は二条斉敬へ出陣を見合わせるようにとの4日と反対の内願を提出、16日に勅許が下ろされた。 これは11日に九州戦線崩壊(小倉城の自焼、諸藩の戦線離脱)が京都に伝わったことによる。長州征討は止戦するという勅命が20日に出され、同時に諸大名を召集し「天下公論」で国事を決すると決まった。 この8月、幕府は費用を確保するためイギリスのオリエンタル・バンクと600万ドルの借款契約を締結していた。 大久保は諸大名召集の行方を注視する一方で、岩倉具視の列参運動にも関心を寄せた。安易に朝廷を利用する慶喜に対して公卿たちの不満は爆発した。二条斉敬、中川宮を引きずり下ろして朝廷改革を進めようとする動きが出た。岩倉は列参諫奏により改革運動を推進しようとした。 薩摩側は朝廷内部の変革が諸侯参集に影響を与えることを危惧したが、岩倉側は列参の目的は諸大名の召集を朝廷が行うことにより幕府を棚上げする点にあると説明し、薩摩藩と岩倉側の同意がなり8月30日に列参が行われた。目的は朝廷改革、長防解兵の勅宣、勅勘公卿の赦免、そして諸藩召集である。 列参の結果は孝明天皇の逆鱗に触れ、中御門経之、大原重徳、山階宮、正親町三条実愛は処罰された。余波として二条斉敬、中川宮は辞意を表明するがその反作用として慶喜の除服参内、将軍宣下へ動く結果となった。 孝明天皇に対して諫奏しようとしても既に朝廷政治は公卿だけで行われる段階ではなく、慶喜がその一角に位置を占めていた。「不偏不党の権威を朝廷に求める廷臣にとって朝廷改革の最大の障害物は孝明帝自身であるという結論」になる。薩摩側は全てが裏目と出て、朝廷内のシンパが処罰されたことで発言力も低下を余儀なくされた。 朝廷から上洛令を出された24の諸大名でも上京したのは世子を含めて9名に過ぎなかった。物価高騰による不満から各地で一揆が頻発し諸侯にしても中央政局に積極的に関わる余裕はなく、また幕府に批判的であるが封建諸侯である以上幕府の否定をするには壁が高い状況が明らかとなった。かくして慶喜の将軍就任の環境は整った。 12月5日に慶喜は二条城において将軍宣下を受けるが、25日には孝明天皇が崩御された。 慶応3年5月の四侯会議では、課題の一つとして停戦した長州との問題が話し合われた。紆余曲折の末、主導権を握った慶喜が長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得る。慶応3年12月8日の二条斉敬が主催した朝議にて毛利敬親・定広父子の官位復旧が決定し、長州は朝敵を赦免された。 桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り、益次郎、晋作、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。 ◯井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日〈1836年1月16日〉 - 大正4年〈1915年〉9月1日)は、明治・大正期の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。 生い立ち 長州藩士・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現・山口市湯田温泉)に生まれる。嘉永4年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入学していない。 安政2年(1855年)に長州藩士志道氏(大組・250石)の養嗣子となり、一時期は志道聞多(しじ ぶんた)とも名乗っていた。両家とも毛利元就以前から毛利氏に仕えた名門の流れを汲んでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みのいい中級武士であった。 同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤博文と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、桜田門外の変の余波で長州藩も警護を固める必要に迫られたため、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを勤め江戸へ再下向した。 長州藩士時代 江戸遊学中の文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴。同年11月に攘夷計画が漏れて定広の命令で数日間謹慎したにもかかわらず、御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らとともに12月のイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。 翌文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに長州五傑の1人としてイギリスへ密航し、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに学ぶ。留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)の下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。 第一次長州征伐では武備恭順を主張したために9月25日に俗論党(椋梨藤太を参照)に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓の中西君尾からもらった鏡を懐にしまっていたため、急所を守ることができ、美濃の浪人で適塾出身の医師の所郁太郎の約50針におよぶ縫合手術を受けて一命を取り留めた。 このとき、あまりの重傷に聞多は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた。このエピソードはのちに第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。
2024年09月01日
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◯奇兵隊(きへいたい)とは、江戸時代末期(幕末)に結成された、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊。「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語で、「奇兵隊」も、藩士・武士のみからなる「撰鋒隊」に対する反対語に由来する。主に結成された奇兵隊は以下の通りで、順次詳細をこの項にて述べる。 江戸時代後期の幕末に結成された長州藩の部隊 西南戦争のときの西郷軍が組織した部隊長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。 奇兵隊などの諸隊は文久3年(1863年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。 同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は総督を更迭された。その後、河上弥市と滝弥太郎の両人が奇兵隊第2代総督を継ぎ、第3代総督は赤禰武人、その軍監は山縣狂介が務めた。同年には、京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。 翌元治元年(1864年)、新選組に捕らえられ拷問されていた古高俊太郎を救済するため池田屋に集まっていた各地の志士たちが当の新撰組・会津藩・桑名藩によって突如襲撃された池田屋事件により、長州藩では吉田稔麿・杉山松助ら11名が犠牲となったため、長州藩では卒兵上京してでも朝廷の誤解を解くべきという来島又兵衛らの勢力を抑えられなくなった。 来島又兵衛・久坂義助(久坂玄瑞)らが率いる先方隊約1000名が世子毛利定広率いる本隊約2000名の大阪上陸を押し留めて藩主父子の雪冤(せつえん)を嘆願しに行った結果、会津藩・桑名藩の軍勢に対しては優勢であったものの、援軍として加わった薩摩藩により形勢を逆転され、来島又兵衛は被弾で戦死、久坂義助(久坂玄瑞)・寺島忠三郎は嘆願を果たせず鷹司家邸内で自裁、長州勢は総崩れとなって退却し、大阪湾・瀬戸内海経由で帰藩した。この禁門の変により、長州藩は禁裏を侵したとして「朝敵」とされた。幕府は「朝敵」とした長州藩を更に征伐するため、第一次長州征伐を宣言する。 長州藩は、3家老自裁により第一次長州征伐の戦禍を未然に防いだものの、椋梨藤太・乃美織江などの俗論派政権が長州正義派の志士たちを粛正し始めたため、それを聞きつけた高杉晋作が亡命中であったにも拘わらず帰藩し、諸隊に決起を求め、功山寺挙兵を決行し、絵堂の会戦等で高杉ら正義派が勝利して俗論派を一掃し、長州藩の主導権を握った。 これらの結果、長州藩の方針は破約攘夷・倒幕に定まる。(破約攘夷は、異勅だった1858年の不平等条約を完全撤廃した1911年に完全成就し、倒幕は、1867年の大政奉還から1869年の戊辰戦争終了にかけて完全成就する。) 第二次長州征伐 翌、元治2年(1865年)、幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争・長幕戦争)が行われたものの、木戸孝允・大村益次郎・高杉晋作・山田顕義の指揮の下、奇兵隊ほか諸隊が幕府軍を圧倒し、江戸幕府に完全勝利した。 第15代将軍徳川慶喜の名代として長州藩と講和するため安芸(広島県)までやって来た幕閣は、後に明治政府で参議の一人となる勝麟太郎(勝海舟)であった。 慶応2年(1866年)1月21日、長州藩は薩摩藩と倒幕・長州雪冤の方針で薩長同盟を締結する。 慶応3年10月14日(1867年11月9日)、大政奉還。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、朝廷より、江戸幕府の廃止を明言した王政復古の大号令が発せられた。奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦うことになる。また、この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。 奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級[1]と農民や町人が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。また、奇兵隊には被差別部落民も取り入れられていた。当初これらの賤民層は屠勇隊として分離され、奇兵隊とは別に扱われていたが、その後、彼等は奇兵隊に組み入れられる事となった。 隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んだこのため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は、総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。高杉は、泰平の世で貴族化して堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、ミニエー銃や当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げた。 奇兵隊には統一された西洋的な軍服のイメージがあるが、当初からそうだったわけではなく、結成から最初の1年ほどは服装に明確な基準がなかった。元治元年(1864年)にはじめて胴着に袴の和装軍服が定められ、軍服に用いる生地や色には身分ごとに細かな定めが設けられていた。 慶応元年(1865年)、藩は、軍服の生地に輸入毛織物を使用することを規則として認めた。和装から洋装へ変化したのは慶応3年(1867年)9月になってのことであるが、この段階でも使用する生地は身分別であった。画期となったのは慶応4年(1868年)6月のことで、この時に軍服が羅紗の生地で統一され、以降、全兵士が身分に関係なく同じ軍服で戦うことになった。 桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、益次郎は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により「大村 益次郎(おおむら ますじろう)」と改名する。「大村」は故郷の地名から、「益次郎」は父親の「孝益」の「益」をそれぞれとっている。このころ、益次郎は精力的に明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に益次郎の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここで益次郎はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。 9「第二次長州征伐」慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、明倫館が再開される。 ◯第二次長州征討に至るまで 以下、年の記述がない場合は1865年とする。ただし、旧暦の日付とする。 幕府側の動き 大政委任を確認した孝明天皇の沙汰書、即ち元治国是は長州処分を幕府の専権事項に含んだが、朝廷も国事に関して幕府諸藩へ命令を出すことができるとした。朝廷、幕府、諸藩のパワーバランスの上に成り立つ体制下では大政委任が空文化する恐れもあり、一橋慶喜、会津藩主兼京都守護職・松平容保は大奥や保守派大名の影響力が大きい江戸城から将軍・家茂を引き離し、畿内長期滞在態勢で公武一和を推進しようとした。しかし幕閣は第一次長州征伐の後、フランス帝国の後押しもあり強硬な姿勢をとり、朝廷からの再三の上洛要請も遷延策で無視をした。長州処分も諸藩を動員し長門・周防を取り囲めば藩主父子は自ら出頭してくるとの見込みであり、最終処分案は慶応2年(1866年)1月21日まで決まらないまま事態は推移した。 復古派の幕閣に対して勤皇諸藩は、朝廷を以て幕府を制し挙国一致の体制を志向した。憂慮した容保は自ら江戸に出て将軍上洛運動を起こそうとしたが、2月5日に阿部正外、7日に本荘宗秀の両老中が幕府歩兵を率いて上洛したことで容保の東下は中止となった。 松前崇広からの内報では、正外と宗秀の目的は将軍上洛の中止と慶喜と容保および弟の桑名藩主兼京都所司代・松平定敬を京都から追い出すことにあると知らされた。22日に参内した両老中は目的を達せずに関白二条斉敬の叱責を受けた。23日、正外は将軍上洛のために江戸へ帰らされ、宗秀は摂海警備のために大坂表へ向かわされた。
2024年09月01日
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26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の12月9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。長州藩では、その風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。このあだ名は、周布政之助が付けたとも高杉晋作が付けたとも言われている。 ◯高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、日本の武士(長州藩士)。幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)とミチ(道子・大西将曹の娘)の長男として生まれる。3人の妹がいるが男子は晋作のみで跡取りとして大切に育てられた。 10歳のころに疱瘡を患う。祖父母ら家族の献身的な介抱で一命を取り留めるが、あばたが残った事から「あずき餅」とあだ名された。漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。 安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷後、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・250石)の次女・雅と結婚する。 留学 文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をした。8月には東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友する。 文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国。日記の『遊清五録』に大きな影響を受けたことが記されている。 尊王攘夷運動 長州藩では、晋作の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。 文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。 折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)[1] が相談した。しかし玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。 この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。 これらの過激な行いが幕府を刺激することを恐れた藩では、晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。 下関戦争と奇兵隊創設 文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。晋作は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。 京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害した。 8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。晋作が24歳のときであった。 交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。晋作はほぼすべての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。 これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付き租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはない。 功山寺挙兵 詳細は「功山寺挙兵」を参照 幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。 晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。 元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。高杉本家の家督は末妹・光の婿に迎えた春棋が継いだ。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。同年、益次郎は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。この公式文書は残されておらず、わずかに残された益次郎本人のメモしか知ることが出来ないため仔細は不明のままである。福沢諭吉は自伝『福翁自伝』で、1863年の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、「(福沢が)『どうだえ、馬関では大変なことをやったじゃないか。……あきれ返った話じゃないか』と言うと、村田が眼に角を立て『なんだと、やったらどうだ。……長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴原にわがままをされてたまるものか。……これを打ち払うのが当然だ。もう防長の土民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ。』と言うその剣幕は以前の村田ではない。」と、長州藩士になりたての益次郎が過激な攘夷論を吐いたことに驚き「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、または長州に行って、どうせ毒をなめれば皿までと云うような訳で、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」と解釈している。益次郎自身が攘夷について言及した記録が他には見当たらないので真相は不明であるが、諭吉と益次郎は元来そりが合わず、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢の物言いに立腹して口走ったのではないかという説もある晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、益次郎にその指導を要請する。
2024年09月01日
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8「長州征討」文久3年(1863年)10月、萩へ帰国する。24日、手当防御事務用掛に任命。翌元治元年(1864年)2月24日、兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、5月10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。一方では語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。 ◯下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と同4年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。 敗れた長州藩は幕政下での攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。 歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い。馬関は下関の古い呼び名。今では1863年のことを下関事件、1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、1863年のことを「下関事件」、1864年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある[4]。 概要 孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束した。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。 前段: 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。 しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。 後段: 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。 戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。 馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。 さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。 背景 嘉永6年(1853年)ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し幕府に開国を迫り、翌安政元年(1854年)幕府は日米和親条約を締結した(ペリー来航)。 安政5年(1858年)、アメリカの強い要求により、幕府は日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び(安政五カ国条約)、幕府の鎖国体制は完全に崩れた。孝明天皇は和親条約はともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった。また、幕府に不満を持つ攘夷派は尊皇思想から朝廷の攘夷派公卿たちと結び付くようになっていた。 これらの動きに対して、幕府大老井伊直弼は弾圧政策(安政の大獄)で応じたが、万延元年(1860年)水戸・薩摩脱藩浪士によって暗殺された(桜田門外の変)。この事件により幕府の威信は大きく揺らぎ始めた。 加えて、開港により、特に生糸が大量に輸出され、品不足・価格高騰が生じ、さらに金銀交換比率の内外差のため大量の金が流出し、経済は混乱した(五品江戸廻送令、幕末の通貨問題)。これに伴って政情も不安となり、幕府の開港政策を批判する攘夷の機運は、全国的に高まっていった。 後に倒幕の中心勢力となる長州藩は、文久元年(1861年)の段階では直目付長井雅楽の「航海遠略策」による公武合体策を藩論としつつあり、長井自身が幕府にも具申して大いに信頼を勝ち得ていた。しかし、当時藩内であった尊皇攘夷派とは対立関係にあり、吉田松陰の江戸護送を制止も弁明もしようとしなかったため、尊皇攘夷派の恨みを買っていた。文久2年(1862年)、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、同年6月には長井は藩主から罷免され、翌文久3年(1863年)には死罪を得て自裁した。自然、尊王攘夷が藩論となっていった。長州藩士や長州系の志士たちは朝廷の攘夷派公卿と積極的に結びつき京都朝廷の主導権を間接的に握るようになっていった。 文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が上洛。朝廷は従来通りの政務委任とともに攘夷の沙汰を申しつけ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し、諸藩にも通達した。 だが幕府は他方で、生麦事件と第二次東禅寺事件の損害賠償交渉にも追われており、攘夷決行は諸外国と勝ち目のない戦争をすることになり、その損害は計り知れないという趣旨の通達も諸藩に伝えていた。幕府は賠償金44万ドルを攘夷期日の前日の5月9日にイギリスに支払うと共に、各国公使に対して文書にて開港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告し、攘夷実行の体裁をとった。しかし、同時に口頭で閉鎖実行の意志がないことも伝え、9日後には文書にて閉鎖撤回を通達した。 長州藩の攘夷決行 攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。 攘夷期日の文久3年5月10日(1863年6月25日)、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払った[6] ことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。 文久3年5月23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号が長府沖に停泊しているのを発見。長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。 キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ペンブローク号は長崎に戻らず上海に向かったため、同船が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)、交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが深追いはせず、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。 文久3年5月26日、オランダ外交代表ポルスブルックを乗せたオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行の許可証も受領しており、幕府の水先案内人も乗艦していたため攻撃はされまいと油断していたところ、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。メデューサ号は1時間ほど交戦したが17発を被弾し死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した[7]。長州藩のアメリカ、フランス艦船への砲撃は当時の国際法に違反するものである
2024年09月01日
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兵制論争と官制改革 版籍奉還においては一致協力した木戸と大久保であったが、明治2年(1869年)になると両者は政治的路線の違いで対立した。大村益次郎、伊藤博文、井上馨、大隈重信ら開化派の官僚を登用して、兵制改革や官制改革など封建制の解体を目指す木戸に対し、大久保は副島種臣らと共に保守的な慎重論を唱えた。両派は兵制改革において対立し、徴兵制による国民皆兵を唱える大村に対して薩長を中心にした士族兵の必要性を唱える大久保が反発した。結果的には、大村と木戸はこの論争に敗れ、薩長土三藩による御親兵が設置された。 同年7月8日に発表された新官制においても、両者の対立は表面化した。大久保は岩倉具視と共に、副島と長州藩では保守的な前原一誠を参議に登用し、木戸を自身と共に参議から外して実権のない待詔院学士に祭り上げようとした。しかし、木戸と大隈ら木戸派の反発に遭い、また木戸と大久保が2人とも参議から外れる不自然さは「世論紛々、諸官解体」という混乱を呈し、結局は三条実美と岩倉が収拾に乗り出す形となり、大久保、木戸の盟友である広沢真臣、副島種臣の3人が改めて参議に任じられた。 奇兵隊脱隊騒動の鎮圧 詳細については「脱隊騒動」を参照 明治2年(1869年)11月、旧諸隊士1200人が脱隊騒動を起こした。翌明治3年(1870年)1月、脱退した旧諸隊士たちは、大森県(現・島根県の石見地方と隠岐諸島)を管轄する浜田裁判所を襲撃。1月24日には山口藩議事館(現・山口県庁舎の前身)を包囲して、交戦した旧干城隊を撃破し、付近の農民一揆も合流した結果、山口藩議事館が1800人規模で包囲され続けるという事態となった。 この事態を治めるため、木戸は毛利元徳知藩事から依頼されて山口藩正規軍による討伐軍を指揮し、鎮圧した。騒動を起こした者のうち、農商出身者約1300名は帰郷が許され、功労者と認められた約600名には扶持米1人半が支給された。一方首謀者の長島義輔ら35名が処刑された。 廃藩置県 詳細については「廃藩置県」を参照 明治4年(1871年)7月9日、木戸邸に大久保利通、西郷隆盛の他に、西郷従道、大山巌、山県有朋、井上馨らの薩長要人が集まり、廃藩置県断行の密議が行われた。この密議は、三条実美と岩倉具視にすら知らされていなかった。 西郷と大久保、そして木戸の3人はそれぞれに政見は異なっていたが、この廃藩置県断行については一致協力を見た(ただし後述のように、木戸1人を参議とする案については意見が分かれた)。この席上、井上は西郷隆盛に「反対する者は、どこまでも御親兵となって討伐してしまわねばならない」と要求し、西郷はそれを承諾した。 そして7月14日、在京の知藩事が皇居に召集され、廃藩置県の詔が下った。これによって旧藩主であった知藩事は失職して県令が任命され、封建制度を支えてきた領主による土地支配は廃止されることになった。 これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月、江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者や旧友とも付き合いがあった。 ◯箕作 阮甫(みつくり げんぽ、寛政11年(1799年10月5日) - 文久3年6月17日(1863年8月1日))は、日本の武士・津山藩士、蘭学者である。名は貞一、虔儒。字は痒西、号は紫川、逢谷。 津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の第三子として美作国西新町(後に津山東町、現在の岡山県津山市西新町)に生まれる。医家としての箕作は、阮甫の曾祖父貞辨(初代丈庵)からで、西新町に住み開業した。 父貞固の代になり天明2年10月24日(1782年11月28日)津山藩主松平家の「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられた。 阮甫は4歳で父をなくし、12歳で兄豊順をなくして、家督を相続することになる。藩の永田敬蔵(桐陰)・小島廣厚(天楽)から儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)には京都に出て、竹中文輔のもとで3カ年間医術習得にはげんだ。 文政2年(1819年)には、修業を終えて京都から帰り、本町三丁目で開業、翌年大村とゐと結婚した。やがて高50石御小姓組御匙代にすすみ、文政6年(1823年)には、藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研鑚を重ねる。 幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。 日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』・『産科簡明』・『和蘭文典』・『八紘通誌』・『水蒸船説略』・『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。 明治43年(1910年)、従四位を追贈された。 大槻 俊斎(おおつき しゅんさい、文化3年(1806年) - 文久2年4月9日(1862年5月7日))は、幕末の蘭方医、幕府医師。初代西洋医学所頭取。名は肇。 生涯・人物 文化3年(1806年)、陸奥国桃生郡赤井村(現・宮城県東松島市)に生まれる。安政5年(1858年)、伊東玄朴・戸塚静海らと図り、お玉が池種痘所設立。同所の長となる。万延元年(1860年)9月1日、将軍徳川家茂に拝謁し、お目見え医師となる。同年10月27日、陸奥国仙台藩医より幕府医師に登用される。お玉が池種痘所が公営(幕府営)となったのちも、そのまま頭取を勤めた。 文久2年(1862年)に死去。墓碑は巣鴨総禅寺に存在する。子の大槻玄俊はのちに俊斎の名を継いでいる。 お玉が池種痘所は西洋医学所、医学所等と改称・発展し、東京大学医学部の前身とされるため、俊斎は東大医学部初代総長と見なされている。なお、漫画家の手塚治虫の曽祖父である手塚良仙は妻の兄にあたり、妹は良仙の弟・鮭延良節の妻である。また、同じ仙台藩の出身で蘭学者の家系でもある大槻玄沢の家系とは、血縁的なつながりは無い。 ◯桂川 甫周(かつらがわ ほしゅう、宝暦元年(1751年) - 文化6年6月21日(1809年8月2日)は、医師及び蘭学者。桂川家第4代当主。諱は国瑞(くにあきら)であり、甫周は通称である。 月池・公鑑・無碍庵などの号を用い、字は公鑑。桂川甫三の子で、弟に森島中良(蘭学者・戯作者)がいる。 桂川家において甫周を名乗る者は2名おり、それぞれ桂川家の祖である桂川甫筑から数えて、4代目と7代目に当たる。また5代目にあたる桂川甫筑国宝(ほちく・くにとみ)も一時期甫周を名乗った記録がある。本項では4代目甫周について記述する。 宝暦元年(1751年)、桂川家3代当主・桂川甫三の長男として生まれる。桂川家は、江戸幕府第6代将軍・徳川家宣の侍医を務めた桂川甫筑(1661年 – 1747年、本名・森島邦教)以来代々将軍家に仕えた幕府奥医師であり、特に外科の最高の地位である法眼を務め、そのため蘭学書を自由に読むことが許されていた。 甫筑は大和国山辺郡蟹幡に生まれ、平戸藩医嵐山甫安にオランダ外科を学び、甫安より桂川の姓を受け、甲府藩主・徳川綱豊(のちの家宣)の侍医を経て幕府医官から法眼にまでなった。桂川甫三は、前野良沢・杉田玄白と友人であり、『解体新書』は甫三の推挙により将軍に内献されている。 明和8年(1771年)、21歳でオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』(『解体新書』)の翻訳に参加し、安永3年(1774年)の刊行に至るまで続けた。 安永5年(1776年)には、オランダ商館長の江戸参府に随行したスウェーデンの医学者であるカール・ツンベルクから中川淳庵とともに外科術を学び、ツンベルクの著した『日本紀行』により甫周の名は淳庵とともに海外にも知られることとなる。天明4年(1784年)、34歳の時『万国図説』を著す[。
2024年09月01日
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四侯会議・朝敵からの赦免・小御所会議 慶応2年(1866年)9月に長州征討の停戦合意が成立したものの、長州藩は朝敵とされたままだった。慶応3年(1867年)5月に四侯会議が開催され、長州問題と兵庫開港問題が論じられたが、最終的には兵庫開港および長州寛典論(藩主毛利敬親が世子広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)が奏請され、明治天皇の勅許を得ることが決定した。 これを受け、同年12月8日に二条斉敬が主催した朝議にて毛利敬親・定広父子の官位復旧が決定し、長州は朝敵を赦免された。翌12月9日に開かれた小御所会議により新政府が成立し、明くる年の慶応4年=明治元年(1868年)1月25日、木戸が総裁局顧問に拝命され、明治新政府の最初期のかじ取りを任されることになる。 明治革命家木戸孝允 明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、また長州藩の軍事力(木戸がその統率者と認識されていた)が背景にあり、明治元年(1868年)1月にただ一人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。太政官制度の改革後、外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務していく。 明治元年(1868年)以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進[25]、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、資本主義の弊害に対する修正・反対、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させた。 なお、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を、その当時に行っている。 五箇条の御誓文 各条文の詳細については「五箇条の御誓文」を参照 慶応4年(1868年)1月、木戸は新政府が成立するとさっそく、巣穴(江戸城)の迅急討伐、外国交際の大規則、天皇の大阪遷坐を建言している。 同年2月、木戸は新政府がある京都から兵庫に勤務する伊藤に手紙を出し、成立間もない新政府の様子について次のように書いている。 「こちらでの光景は十分気に入っていない。一昨年、御国の戦争(第二次長州征討)が容易に済んだ故に、後の変革が十分には行われなかった気味があり、今回の戦争(戊辰戦争)もいづれ存外に容易に片付きそうで、そのため上下とも骨に入らざる気味が少なからず、諸事下流にのみ随い目前の処にばかり力を用い、永遠の大策とてはいっこうに窺われようとせず、甚だ不平至極に思っているが、傍観することもできないので、及ばずながら陰となり日向となり尽くしていくつもりである。永遠の策は常人の目にも不見事ばかりにて華々しき事では更にないので、遠く先を考え、その実を推そうとする人は甚だ少なく、政務第一の会計・内国両事務などもわずか一人か二人居るばかりで、実行のところ容易に集まらず、ついては肝要の軍防等も自ら目途が立たず、多くはただ人数調べ位の処におとどまり、世界の体勢を察し我力を顧み、前途不朽の規則等に心を用いるような人物は尤少なく、いくつか建言してみたものの思うようにいかず、嘆いているところである。何かよい工夫があれば教えてもらえないだろうか。確乎とした根本を仕らずときは、けっして枝葉の道理も盛んにならず、ただ心配してやきもきするばかりである。今日朝廷の御為と思う人、多くは枝葉のみ尽力するばかりで、ますます根本は危くなる道理であり、この勢いにて流れてしまったときは、日本中には、当面は新政府に反す者が居なくても、いずれ一斉に民心が不平を抱き、したがって海外諸国へ信を失い、信頼できないものと見透かされてしまったときは、いか様の大患害になるかもしれずと苦心に苦心を重ねている。」 この年の1月に神戸事件が発生し、備前藩兵とフランス水兵が衝突し双方が発砲した。2月には堺事件が発生し、土佐藩兵がフランス水兵を殺傷した。どちらも外交問題になった。 2月末にはパークス襲撃事件が発生し、イギリス公使パークス一行が天皇に謁見するために御所に向かう途上、2人の攘夷志士に襲撃された。志士の1人がその場で斬殺され、もう1人の志士も捕縛され斬首された。新政府が外国と親睦を結ぶ方針をとり、各国公使が天皇に謁見したにもかかわらず、過激な攘夷活動がおさまる気配がなく、新たに成立した政府が外国の承認を得られなくなり列強の干渉を招くおそれががあった。 そんな中で、木戸は同年3月の始めに建言書を提出し「維新の日が浅いので天皇の御主意が広くすみずみまで徹底しておらず、諸藩はなお方向を異にし、草莽の同志たちも身をなげうって国家に尽くそうとするが、かえって禍害を醸成し、しばしば誤った方向に進む者も現れ、国家の不幸となるし、その事で彼らにとっても気の毒なことになる。願くば前途の大方向を定め、天皇みずから公卿諸侯百官を率いて、神明に誓い国是を確立させ、速やかに天下の人々に示されることを願っている」として、国の基本方針を定めて天下に示すことが必要と訴えた。 そこで木戸は急遽、国の基本方針を起草することになり、由利が新政府の会計担当の立場から資金調達と「民富めば国の富む理である」に基づいた経済活性化を目的として起草した五箇条、福岡が列候会議を目的として起草した五箇条、これらに変更を加えて国の基本方針となるものを起草した。これが五箇条の御誓文である。 などの修正を施している。「五箇条の御誓文」と称し、明治天皇以下全員が天地神明に誓うという儀式を木戸自身が構想したこともあり、木戸は抵抗する守旧派を説き伏せ、天皇には大いに本気になってもらっている。 同時に、天皇から国民へのお言葉である億兆安撫国威宣揚の御宸翰が告示され、木戸はその起草にあたった。 この御宸翰で、天皇は万民に対し「私は、このたび朝政一新の時に皇位の勤めを引き受けるにあたって、天下万民が一人でも充足した生を遂げられなければ、それはすべて私の罪であり、これからは私がみずから身骨を労し心志を苦しめ困難の先頭に立ち古の天皇達が尽くされた足跡をたどって、万民をよく治め務めてこそ、天からさずかった役目をはたし万民の君たるところに背かずいられるだろう。私は、私がむやみに宮中の中にこもったまま安居し、何もせずに、遂に各国に踏みつけられ、列祖(皇統)を辱め、万民を苦しめてしまうことを恐れる。ゆえに私はここに(百官諸侯を率いて)広く万民とともに誓い、列祖の御偉業を継述しわが身の困難を問わず自ら四方に国を治め、おまえたち万民を安じなだめ、国威を世界に広く行きわたらせることを望む。 おまえたち万民は私の志を体認して、私とともに私見を捨て公議をとり私の仕事を助け、神州を保全し、列祖の心霊を慰めてくれるなら一生の幸せである。」とのことばを賜り、天皇がそれまでの宮中から外に出て志を持ってみずから万民と向きあうことを宣言し、万民に天皇の志を体認しようとすることによって公議への参加と各々の志(近代的な主体、あるいは自立した個人)を持って生きることをよびかけた。 東京奠都 慶応4年(1868年)7月17日に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書おいて、木戸は岩倉が作成した草案をもとに起草・監修にあたり、天皇が江戸で政務を執ることを宣言し地名も江戸から東京に改められた。9月8日、慶応が明治に改元された。9月20日、天皇が京都を出発して東京に行幸し、木戸も随行している。 版籍奉還 木戸は、封建制の再編成を行い徳川幕府に代わって有力諸藩が力を合わせた挙国一致体制・諸侯会議をめざすのではなく、封建制を解体して中央集権国家確立と近代社会(市民社会・資本主義社会)をめざそうとした。 慶応3年(1867年)12月、第二次長州征討で長州藩が占領していた豊前・石見を朝廷に返還するよう藩に提案した。長州藩は、慶応4年1月に豊前・石見の返上願を出し、それをうけた新政府は、長州藩の預地とするよう指示した。 木戸は、まだ戊辰戦争の最中で江戸開城の2ヶ月ほど前の慶応4年(1868年)2月、三条実美、岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出し、今後の日本の建設について、「700年来の封建性を解体し、全国300の藩主にその土地・人民を朝廷に還納させ、今後は日本の名義がどこにあるのかはっきりさせなければならない。 実に天下の体勢は元亀・天正(戦国時代)にあらず。現在の朝廷及び各藩の情勢を察するに、わずかに兵力の強弱のみを各自うかがい、朝廷は自ら薩長に傾き、薩長はまたその兵力に傾き、その他の藩もまた概ね似たようなものであり、この混乱の拡大を終わらせなければ、実権が新政府に落ち着くことにはならない。元々、この国には国内の各藩それぞれに兵力、体制、政令・刑罰があり、混乱が起こりえる可能性があった。
2024年09月01日
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留学希望・開国・破約攘夷の志士 マシュー・ペリーが最初に来航した嘉永6年(1853年)、海防の必要性を実感した幕府は大船建造禁止令を撤回し、雄藩に軍船の建造を要請した。さらに江戸湾防衛のための砲台(お台場)建設を伊豆代官江川英龍に命じた。ペリーが浦賀に入港する時には、長州藩は大森海岸の警備を命じられており、その際に小五郎は藩主毛利慶親の警固隊の一員に任じられ、実際に警備にあたった。 海外の脅威を目の当たりにした小五郎は、その後直ちに練兵館道場主の斎藤弥九郎を通して江川英龍に弟子入りし、海岸線の測量やお台場建設を見学し、兵学・砲術を学ぶことにした。 それとほぼ同時期に、藩に軍艦建造の意見書(『相州海岸警衛に関する建言書』)を提出した。この提言を受け、嘉永7年1854年に藩主毛利慶親は洋式軍艦を建造することを決定し、さらに安政3年(1856年)に長州藩は恵美須ヶ鼻造船所を開設、君沢形(スクーナー)軍艦丙辰丸と、バーク型軍艦庚申丸が製造された。 小五郎は練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(嘉永7年1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など幕府領5カ国の代官である江川英龍に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。 吉田松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。 しかし、来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の下田踏海への対応に弱っていた藩政府をさらに驚愕させる。倒幕方針を持つ以前の長州藩政府が、幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎はそれまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、 など、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。 安政5年(1858年)3月、長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会で兵学書の講義を行った大村益次郎(この時点では村田蔵六)と知り合う。その後交流を深め、大村を長州藩士に迎えるよう尽力した。大村が実際に長州藩士となったのは、万延元年(1860年)。文久元年(1861年)正月に大村は国入りしている。 安政5年(1858年)8月、長州藩江戸藩邸の大検使役に任命される。吉田松陰が人材登用のために小五郎を藩上層部に熱心に推薦したことによるもの。同年10月に結婚のため萩に戻る。 同年12月24日に松陰の自宅を訪ね、老中間部詮勝の暗殺計画を諫めたため、松陰はこれを断念するも、別の計画(伏見要駕策)を立案したため松陰は野山獄に投獄される。松陰は松下村塾生たちの諫言は聞き入れなかったが、小五郎の言葉には「桂は厚情の人なり。この節同士と絶交せよと。桂の言なるをもって勉強してこれを守るなり」として聞き入れている。 安政6年(1859年)、長州藩江戸藩邸の藩校である有備館の御用掛に任じられ、後輩藩士の育成にも大きく関わった。同年10月27日、吉田松陰が処刑される。小五郎は、伊藤博文らと共に遺体をひきとり、埋葬した。 万延元年(1860年)7月2日、大村益次郎と連名で「竹島開拓建言書草案」を幕府に提出する。ただしこの時の竹島は、現代で言う「鬱陵島」であると考えられている。 万延元年(1860年)7月、水戸藩士の西丸帯刀らと丙辰丸の盟約を結ぶ。 文久2年(1862年)1月15日、坂下門外の変が起きる。その事件に関わるはずだったが遅刻して参加できなかった水戸浪士川辺左治右衛門が小五郎のもとを訪ね、切腹死してしまう。坂下門外の変との関わりを幕府から追及された小五郎であったが、航海遠略策により幕府や朝廷に注目されていた長井雅楽の尽力によって釈放される。 同じく文久2年、京都で学習院御用掛に任命され、朝廷や諸藩を相手に外交活動を行う。 文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助・久坂玄瑞(義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付・長井雅楽が唱える幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。 これにより長井雅楽と、小五郎の義弟(妹治子の夫)である来原良蔵が切腹する。来原良蔵自決の報せを聞いたとき、小五郎は顔を覆って泣き、周囲の者ももらい泣きしたという。 文久2年(1862年)6月、勅使大原重徳が江戸へ赴き、勅書として 1.将軍徳川家茂に上洛させること 2.攘夷を実行させること 3.徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老相当職(結果として新設の政事総裁職になった)に就任させること を幕府に要請した(文久の改革)。このうち1が小五郎の、2が岩倉具視の、3が島津久光の進言が基になったとされる。この勅書に応じ翌文久3年に家茂は上洛したが、このことにより天皇>将軍という格付けがさらに印象づけられた。 文久2年(1862年)閏8月、会津藩士秋月悌次郎に面会し、京都の事情等について情報を伝える。 同じく閏8月、周布政之助とともに、政事総裁職になった松平春嶽に面会。幕府に攘夷実行を迫るよう伝えた。その後、横浜のイギリス商会で軍艦購入の交渉を行った。後に井上馨らが担当して購入し、壬戌丸と名付けられた。 長州藩の軍艦は、外国から購入した壬戌丸・癸亥丸と、恵美須ヶ鼻造船所で建造された丙辰丸・庚申丸が下関戦争に用いられた。壬戌丸は四境戦争(第二次長州征伐)前に売却されたが、薩長同盟を経て購入された乙丑丸が龍馬の指揮の下で四境戦争に加わった。 文久2年(1862年)9月、対馬藩士大島友之允と面談、対馬藩主宗義和に関わるお家騒動の解決の斡旋を行う。先代対馬藩主宗義章の正室慈芳院が、長州藩10代藩主毛利斉熙の娘であった縁もあり、以降幕末史において対馬藩は長州藩と深い関係を保つ。 同じく9月、横井小楠と会談。横井の開国論が戦略論であり、小五郎らの攘夷論が戦術論であることを確認しあい、基本的には一致すること(開国を目的とする攘夷論)を了解しあった。 文久3年(1863年)3月、水戸藩士吉成勇太郎らを上京させた。 同じく3月の末頃、宍戸璣(当時は山県半蔵)とともに勝海舟を訪問し、海外に関する意見を聞く。勝は「海軍興隆は、護国の大急務、後世の基本成るべし。今後れたりとて、手を下さざる時は、後また今の如く。終に興起の基立つべからず。今用に応ぜざるとも、後世の国益を思はざるは、丈夫の事にあらず」と伝えた。 同年4月下旬、対馬藩士大島友之允とともに再び勝海舟を訪問し、朝鮮問題を論じる。対馬藩は、地理的に最も朝鮮に近い位置にあり、また2年前の文久元年にロシア軍艦対馬占領事件が起きたばかりということもあり、海外情勢は切実な問題であった。 勝は「当今亜細亜州中、欧羅巴人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁がるべからず。先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後支那に及ばんとす」と述べた。翌年の元治元年(1864年)には、大島は朝鮮進出の建白書を提出している。明治の最初期に木戸が征韓論を主張したのは、この時の論が基になっていると考えられる。 欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着し、5月8日、長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。 この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名(井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。
2024年09月01日
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7「長州藩に出仕」同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。 ◯木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。号は松菊、竿鈴。 明治維新の指導者として大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期は桂小五郎の名で活躍した。 長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1849年に吉田松陰の門弟となり、1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場に入門し剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ[5]。 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、高杉晋作や久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となった。 1862年以降には藩政の要職に就く。1864年の池田屋事件及びその直後の禁門の変により、但馬出石で8ヶ月の潜伏生活を余儀なくされた[1]。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜った。1866年には藩を代表して薩長同盟を締結している。 新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任。1868年(慶応4年=明治元年)に五箇条の御誓文の起草・監修にあたり明治維新の基本方針を定めた他、版籍奉還や廃藩置県など、封建的諸制度を解体して近代社会(市民社会・資本主義社会)と中央集権国家確立をめざす基礎作業に主導的役割を果たした。1871年には岩倉使節団に参加しており、諸国の憲法を研究した。1873年に帰国したのちはかねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では資本主義の弊害に対する修正・反対や、国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進した。また内政優先の立場から岩倉具視や大久保利通らとともに西郷隆盛の征韓論に反対し、西郷は下野した[7]。 憲法制定を建言していたが、大久保利通に容れられず、富国強兵政策に邁進する大久保主導政権に批判的になり、政府内において啓蒙官僚として行動。1874年には台湾出兵に反対して参議を辞した。翌年の大阪会議においては将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保批判をすることが多かったため、晩年は政府内で孤立しがちだった。 地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、復職後は健康が優れず、西南戦争中の1877年(明治10年)5月26日に出張中の京都において病死した。西南戦争を憂い「西郷よ。いいかげんにしないか」と言い残したという[1]。 その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。 少年時代 天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に長州藩の藩医である和田昌景の長男として生まれる。 和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。母はその後妻。前妻が生んだ異母姉が2人いる。実子としては長男であるが、長姉に婿養子・文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、小五郎は次男として扱われた。天保11年(1840年)、7歳で向かいに住んでいた藩士桂孝古の末期養子となり、藩の大組士に列して禄(90石)を得た。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父母・次姉と共に育つ。 少年時代は病弱でありながら、他方で悪戯好きの悪童でもあり、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶという悪戯に熱中していた。ある時、水面から顔を出し船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり額から血を流しながらもニコニコ笑っていたという。このときの額の三日月形の傷跡が古傷として残っている。 10代に入ってからは、藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。 嘉永元年(1848年)、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。 嘉永2年(1849年)、吉田松陰に山鹿流兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。 小五郎18歳の嘉永4年(1851年)、実父の和田昌景が72歳で没。銀10貫(当時のレートで金170両に相当する)と、継続的な不労収入が見込める貸家などの不動産を相続した。和田家(20石)と残りの動産(銀63貫余り)・不動産は義兄の文譲が継いだ。 小五郎はカネで武士の位を買ったと陰口を言われないように、剣術や学問に励んだ。 剣豪桂小五郎 弘化3年(1846年)、長州藩の剣術師範家のひとつの内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降は剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められる。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎の江戸へ帰途に5名の藩費留学生たちと他1名の私費留学生に随行し、私費で江戸に上る。 江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受ける。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となった。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡辺昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつける人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。 幕府講武所の総裁・男谷信友(直心影流)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間練兵館の塾頭を務め、剣豪としての名を天下に轟かせる。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。 また、近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたといわれるが、桃井春蔵や男谷信友に対しても同じような逸話があるため、本当に桂小五郎をそう評したかどうかはわからない。 一説には、安政5年(1858年)10月、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、士学館の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐国に帰郷していたとの説もある。 安政4年(1857年)3月、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬と対戦し、2隊3で龍馬が敗れたと記録する史料が、2017年10月30日に発見された。
2024年09月01日
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長崎での出来事 長崎の役人で高島秋帆門下の砲術家山本物次郎と出会う。(留学1回目) 山本に同道し、出島で蒸気船や機関の船体取り付けなどを図面に写す。(同2回目) 山本より幕府召抱えの話が出る。 長崎奉行より、村田蔵六(後の大村益次郎)と共に蒸気船修行を許される(同3回目) 竹内右吉郞宅で、蒸気機関を図面に取る。 竹内作、シリンダー模型の誤りを指摘する。 ジョン万次郎が帰国の折に使用した米国製の小船を、江戸へ輸送のため積み込まれた船中で図面に写す。 宿舎では、低い身分のため下女と同列で食事させられ、時間に遅れると食事を与えられないなど不遇に甘んじる。 我事ハ昼飯なと遅く帰り候と、すへて食も呉不申、三四度も不食に過ごし候事有之、 蒸気船の完成 安政3年(1856年)から本格的に製造に着手したが、度重なる試作、試運転を重ねてもなかなか満足する蒸気船の完成には至らなかった。鋳物の湯釜では、高圧になると「巣」から蒸気が噴出し、銅を使用することを進言しても、古来からの鋳物職人は納得せず喜市に非難が集中した。「御船手方」ではなく「おつぶし方」と言われたのもこの頃である。もし完成したのなら、自分の耳や鼻を切っても良いと悪態を突く者まで出た。 蒸気の車を廻すといふ事、愚人の喜市中々出来申儀夢にも無き事、若又万一出来車廻り候ハ、鼻を殺ぎ耳を切るべしとも申、餘ニ組中にも右様申人沢山にて諸職人にも心付申者多く 大阪から銅版を取り寄せ、苦労の末蒸気機関の試運転には成功したが、船としては思ったほど進まず失敗。安政4年(1857年)に研究、修行のため薩摩に出発。薩摩藩の蒸気船に同乗したり、島津斉彬の側近肥後七左衛門に学ぶ。翌年長崎を経由して帰国。長崎で楠本イネに会う。 銅座おい祢(ね)様方に国元二宮敬作被居候間、此処へ弐人参り候処、年賀祝儀なりと娘おたかと申す人々琴を弾し、おい祢様ハ三味線にて大さはぎの処へ…… 帰国後、蒸気船の試運転に成功、藩主・伊達宗徳を乗船させ、九島沖を航行。その後吉田、戸島、八幡浜、三浦などにも航行にも成功(翌年は江戸より帰国途中の藩主を三崎まで迎えに行く)。この功績により喜市は譜代(三人扶持九俵)となる。 度々旅勤いたし、深素工夫致し候、殊に多人数を使ひ、心配致し、御成就ニ相成、御満足被思召、右により此度御譜代被仰付、苗字御免、切扶持参人分九俵被下置目録被下、夢之如く有難御受申上…… ただし、わずかな差で国産初ではない(国産第1号は薩摩藩)といわれている。益次郎はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃に「村田 蔵六(むらた ぞうろく)」(蔵六は亀の意)と改名する。 6「江戸に出仕し蘭学塾」安政3年(1856年)4月、藩主・宗城の参勤にしたがって江戸に出る。同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える(塾頭は太田静馬)。 太田 静馬(おおた しずま、文政8年(1825年) - 明治2年10月5日(1869年11月8日)は、幕末期の因幡国鳥取藩士、医師、蘭学者である。後に村岡 秀造と改名。 文政8年(1825年)、因幡国八上郡釜口の医家太田要伯の子として生まれる。早くから蘭学を学んでいたと思われ、藩から嘱目され、「伊勢守様御家来太田幸助甥に御座候ところ、安政元寅閏七月十五日、兼て蘭学心懸候に付、御含象有之、毎歳銀五枚遣わされる旨、仰せ渡さる。」(『村岡範為馳家家譜』)とある。 鳥取藩東分知家家臣太田幸助甥の身分であったが、専ら出精致しているとの理由で、蘭学家として本藩から足留料をもらい安政5年(1858年)に4人扶持でもって正式に藩士として召抱えられている。同年6月、静馬は太田の姓から村岡の姓に改めるよう願い出て、7月18日許可された。またその12月には静馬の名も秀造に改めている。 安政2年(1855年)藩許を得て大坂の緒方洪庵の適塾に入り、さらに安政3年(1856年)江戸に出た村田蔵六(大村益次郎)に従い、その蘭学塾・鳩居堂の塾頭をしている。このことは蘭学の心得が早くからあったことと、あるいは緒方洪庵との関連が嘉永3年(1850年)以前にあったとも推測される。 明治2年10月5日(1869年11月8日)鳥取の掛出町において死去した。 同16日、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給される。 ◯蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)は、1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。開成所の前身で東京大学、 東京外国語大学の源流諸機関の一つ。 ペリー来航後、蘭学にとどまらない洋学研究の必要を痛感した江戸幕府は、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し、1855年(安政2年)、「洋学所」を開設した。3月6日(1月18日)、小田又蔵・勝安芳・箕作阮甫らを異国応接掛手付蘭書翻訳御用に任じ、洋学所準備を始め、旧暦8月30日古賀謹一郎が洋学所頭取となる。しかしこれが開設直後の安政の大地震で全壊焼失したため、1856年3月17日(安政3年2月11日)、洋学所を「蕃書調所」と改称し、古賀謹一郎を頭取、箕作阮甫と杉田成卿を教授、川本幸民、高畠五郎、松木弘安、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六、木村軍太郎、市川斎宮、西周 (啓蒙家)、津田真道、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元を教授手伝として同年末(安政4年1月)に開講した。(教授手伝にはこの後坪井信良(安政4年)、赤沢寛堂(安政5年)、箕作秋坪(安政6年)、も加わる。) 幕臣の子弟を対象に(1857年2月12日安政4年1月18日、幕臣の子弟のみに入学を許可。1858年7月3日(安政5年5月23日)初めて陪臣の入学を許す、ただし一定の学力制限を設けた。文久2年6月7日制限を撤廃。)、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当した。 語学教育は隆盛、書籍は次第に充実し、自然科学部門も置かれた。1860年9月23日(8月9日)、幕府は、幕臣子弟の西洋語学習得を奨励し、志望者は蕃書調所へ入学すべきことを布達し、文久1年12月9日に陪臣にも同様の布達をした。1862年(文久2年)には学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り昌平黌と同格の幕府官立学校となった。1862年3月11日(2月11日)、数学科を設置し、神田孝平を教授として出役。 1862年6月15日(5月18日)、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に「洋書調所」と改称、一橋門外に新築、旧暦5月23日授業開始。1863年2月16日(12月28日)、洋書調所教授箕作阮甫・川本幸民が幕府直参に列せられた(洋学者が直参に抜擢された最初とされることがある)。3月21日(2月3日)、洋書調所を学問所奉行の所管とする。 翌1863年10月11日(文久3年8月29日)、「開成所」と改称された。以降は開成所を参照。 所在地 前身である洋学所は神田小川町に所在していたが、これが壊滅したため、蕃書調所は新たに九段坂下に講舎を新築し開講した。その後井伊直弼政権期には洋学軽視政策の影響で、1860年(万延元年)、小川町の狭隘な講舎に移転されたが、1862年(文久2年)に一ツ橋門外「護持院原」(現在の神田錦町)の広大な校地に移転、これが後身機関である開成所・開成学校・東京外国語学校・東京大学法理文三学部に継承された。 最初に蕃書調所が置かれた九段坂下(現在の九段南)には「蕃書調所」跡の碑が建立されている(画像参照)。 安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。その内容の素晴らしさは同僚の原田敬策が「当時講武所における平書翻訳のごときは、先生(益次郎のこと)の参られてからにわかに面目を一新した次第で……新規舶来の原書の難文も、先生の前に行けばいつも容易に解釈せられ」と記しているように、当時では最高水準のもので、安政5年(1858年)幕府より銀15枚の褒章を受けた。
2024年09月01日
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宇和島藩の役人たちは、益次郎の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めた。しかし、このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、高待遇の約束といった事情も説明せず、汚い身なりで現れた益次郎に対して、むしろ親切心をもってした待遇であったらしい。益次郎は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。 ◯楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日(1827年5月31日)- 明治36年(1903年)8月26日)は、日本の医師。現在の長崎県長崎市出身。 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた 1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(1807年 – 1869年)の間に生まれる。 母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。 イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。 ところが父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。 イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。 後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。 イネは後年、益次郎が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。 ◯アントニウス・フランシスクス・ボードウィン1820年6月20日 – 1885年6月7日)は、オランダ出身の軍医。父はフランシスクス・ドミニクス・アンドレアス・ボードウィン、母はマリア・ヤコバ・マション。弟に駐日オランダ領事を務めたアルベルトゥス・ヨハネス・ボードウィンがいる。 1820年にドルトレヒトにフランス系の家庭に生まれる。 ユトレヒト陸軍軍医学校とユトレヒト大学医学部で医学を学び、卒業後はオランダ陸軍に入隊し、1845年からはユトレヒト陸軍軍医学校で教官を務める。 1862年(文久2年)、先に日本の出島に滞在していた弟の働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日。ポンペの後任として長崎養生所の教頭となる。 その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広め、また養生所の基礎科学教育の充実に努める。そして幕府に医学・理学学校の建設を呼びかけ、その準備のために1866年(慶応2年)に教頭を離任し、緒方惟準ら留学生を伴って帰国したが、この話は大政奉還で白紙に戻った為、1867年(慶応3年)に再来日し、新政府に同内容の呼びかけを行う。1870年、大阪仮学校、大阪陸軍病院に務め、大学東校で教鞭をとった後に帰国。1873年にはオランダ陸軍に復帰。1884年に退役し、ハーグで1885年に病没した。 明治13年(1880年)勲四等。 活動 養生所、医学校教頭としてオランダ医学の普及に努めたほか、本国からクーンラート・ハラタマを招聘するなどして物理学や化学の日本の教育制度の充実を図った。 また、上野に病院を立てる計画が持ち上がったときに、上野の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言した(現在の上野恩賜公園)。上野公園に業績を顕彰する銅像「ボードワン博士像」がある。 特に眼科に優れており、日本に初めて検眼鏡を導入した。なお、アントニウスが日本に持ってきた健胃剤の処方が日本人に伝播され、独自の改良を経たものとして太田胃散と守田宝丹がある。いずれもその後品質改良や薬価改定などによって形状・成分の変更などが行なわれたが現在に至るまで市販されている。 アマチュアの写真家でもあり、多くの写真を残している。宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。 ◯前原 巧山(まえばら こうざん、文化9年9月4日(1812年10月8日) - 明治25年(1892年)9月18日)は、江戸時代末期から明治期に活躍した日本の技術者。巧山は号で、名は喜市(きいち)、元の名を嘉蔵(かぞう)と言う。純国産の蒸気船の製造で知られる。 蒸気船の製造を命じられる 宇和島藩内で、細工物などをしながら糊口を凌いでいた嘉蔵は、かねてから懇意にしている本町の豪商清家市郎左衛門の屋敷で、藩の家老桑折左衛門より、火輪船(蒸気船)の程ではなくても、櫓をこぐ現在の舟より、人力を減らして速く進める船の工夫は無いものかと相談を受け、嘉蔵が器用であるので、彼ならばあるいは、と推挙しておいたと言う話を聞く。もとよりそのような大それた物は出来ないので他の方にお願いしてくれと、その日は辞去した。 中々左様なる品、我々工夫にてハ無覚束、外の方へ御吟味被成と申帰り、打過候処(前原一代記咄し) その半月後ほどに、漁に使う網曳きのロクロを思い出し、これを工夫して船を進退できないかと考え、以来一室にこもり不眠不休で2日思案し、さらに5日かかり横一尺、長さ二尺五寸、深さ七、八寸の箱車に四輪を付け、心棒を一回転すると車輪が三回転するカラクリを作り上げ、清家市郎左衛門に見せた。 その出来栄えに驚いた市郎左衛門は、その箱車を町年寄から町奉行を通じ家老桑折に差し出され、桑折はそれを火輪船の製造を希望する藩主伊達宗城に披露した。 直後に嘉蔵は藩の造船所でそのカラクリを船に応用する工事にかかる。陸では容易に進んだ箱車の仕掛けも、海では海水の抵抗で思うように推進しなかったが、藩主自ら操作し大変喜び、老職たちも大いに感心したという。 様御覧ニ入れ、両車御手にて、御試被成候処、御面躰至極宜敷、思召ニ入候様子にて、御役人様方も御感心被成候故(前原一代記咄し) その後、士分(御雇、二人扶持五俵)に取り立てられる。役所から袴に大小を差し、裡町(現中央町付近)の自宅に帰ったところ、近隣の住民は気が狂ったのかと思ったと言う。袴大小にて裡町四丁目へ帰候処、丁頭内山彦兵衛、近家之人とも気違ひ候と語り合候様子にて、(中略)'家内中大いに歓ひ被下、其夜家内中之貧相応之酒肴調、出世の悦を致し(以下略)
2024年09月01日
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シーボルト事件 文政3年(1820年)、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。 まもなく豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、逡巡したもののついに拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。 尚歯会入会 天保元年(1830年)江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業する。まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。 わが国で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約した。天保3年(1832年)、紀州藩儒官遠藤勝助の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入り、崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。 鳴滝塾出身者の宴会で、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた。多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、長英のみオランダ語を使い続けていた。 それを妬んだ仲間の伊東玄朴が、長英を階段から突き落としたが、長英は「GEVAARLIJK!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ、という逸話がある。長英自身才能を鼻にかけて増長する傾向があり、仲間内の評判も悪かったが、当時の蘭学者として最大の実力者であると周囲は認めざるを得なかった。 蛮社の獄 天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。翌天保9年(1838年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。 意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。 天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。 弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処す[2]との警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。 脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた[3]。高野家離座敷は文化財として公開されている。 後に、一時江戸に入って鈴木春山に匿われ、兵学書の翻訳を行うも春山が急死。鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したとされる。しかし、この生活も長くは続かず、暫くして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、誰かに見破られることも十分に考えられた。硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。 嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという[5]。 このとき藩主・伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。 ◯伊達 宗城(だて むねなり)は、江戸時代後期の大名、明治初期の政治家。伊予国宇和島藩8代藩主。 文政元年(1818年)、大身旗本・山口直勝の次男(祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった)として江戸にて誕生した。母は蒔田広朝の娘。幼名を亀三郎と称した。文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子となる。文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光(伊達村候の孫)の養子となったが、翌文政12年(1829年)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれない藩主・宗紀の養子となる。宗紀の五女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。 藩政時代 天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。 福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。 阿部正弘死去後、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除された。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らと共に隠居謹慎を命じられた。 養父の宗紀は隠居後に実子の宗徳を儲けており、宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を解かれて後は再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を幕府が支払うことに反対している。 その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。文久3年(1863年)末には参預会議、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間に終っている。 慶応2年(1866年)には、イギリス公使ハリー・パークスがプリンセス・ロイヤル(英語版)で宇和島を訪れた際、お忍びで同艦を訪問、パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国旗を交換、さらに同年後日、アーネスト・サトウ宇和島訪問の際には、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、外国人とも積極的に交流している[1]。
2024年09月01日
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閉塾後、関係者 1869年(明治2年)、後藤象二郎大阪府知事、参与小松清廉の尽力により、八丁目寺町(現在の大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院および仮医学校が設立される[2]。院長は緒方惟準(洪庵の次男)、主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招き大福寺の施設の提供を受けて、一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために開かれた。 半年で鈴木町(現在の大阪市中央区法円坂二丁目)の河内県庁跡(もと大坂代官所。のち南司農局。現在の大阪医療センター付近)に移転した。緒方惟準、緒方郁蔵(義弟)、緒方拙斎らがこれに参加。浪華仮病院および仮医学校は、改組・改称を経て大阪帝国大学へと発展し、現在の国立大学法人・大阪大学となっている。 建物等 適塾の建物等は、現在、適塾を前身とする大阪大学が管理している。 1901年(明治34年) 「洪庵文庫」が門弟らにより設立される。 1915年(大正4年) - 1920年(大正9年) 道路の拡張のため、建物の北側が2mほど軒切りされた。 1940年(昭和15年) 建物が大阪府の史跡に指定。 1941年(昭和16年) 建物が国の史跡に指定。 1942年(昭和17年) 建物が緒方家から大阪帝国大学に寄贈 1952年(昭和27年) 適塾記念会創立。 1964年(昭和39年) 建物が国の重要文化財に指定。 1972年(昭和47年) 大阪大学・適塾管理運営委員会が発足。 1976年(昭和51年) - 1980年(昭和55年) 文化庁により建物が解体修理された。 1980年(昭和55年) 一般公開開始。 1981年(昭和56年) 適塾周辺史跡公園化事業により東側隣接地に公園が完成。 1986年(昭和61年) 西側隣接地に公園(公開空地)が完成。 2013年(平成25年) - 2014年(平成26年) 建物の耐震改修工事が行われた。この間一般公開は休止されていたが、工事終了後一般公開を再開。 門下生 門下生の自筆による姓名録が残っており、1844年(弘化元年)から1862年(文久2年)までの636名の姓名・入門年・出身地が記載されている。現在の都道府県で出身地を分けると、山口県が56名で最も多く、洪庵の出身地の岡山県が46名で2番目。その他、大阪府は19名、鹿児島県は7名となっている。また、青森県と沖縄県を除いて、北は北海道から南は鹿児島県まで全国から入門している。嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し四辻で開業して村医となって「村田 良庵(むらた りょうあん)」と名乗る。翌年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚した。 4「江戸出府・講武所教授」嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど蘭学者の知識が求められる時代となり、益次郎は伊予宇和島藩の要請で出仕する。ただし宇和島藩関係者の証言では、益次郎はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島に来たのであり、藩側から要請したものでないという。 ◯二宮 敬作(にのみや けいさく、文化元年5月10日(1804年6月17日) - 文久2年3月12日(1862年4月10日))は、江戸時代後期の蘭学者・医学者。日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。 文化元年(1804年)、伊予国宇和郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれる。 文政2年(1819年)、医師を志し長崎へ留学。吉雄権之助や美馬順三に師事し、蘭語・蘭方医学を学んだ後、文政6年(1823年)、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの門弟となり鳴滝塾で学ぶ。文政9年(1826年)、シーボルトの江戸行きに同行し、測量器(水銀気圧計と推察される)を用いて富士山の高度を日本で初めて測量した(シーボルトの母国の恩師への報告によると測量結果は4982㎡である(『江戸参府紀行』東洋文庫 - シーボルト著))。 また、シーボルト著の『日本植物誌』によると、敬作が九州の高山から採取した植物にシーボルトが「ケイサキイアワモチ」と命名したとされる。 ところが、文政11年(1828年)にシーボルト事件が起き、シーボルトは長崎を去るが、敬作は弟子の高良斉(こうりょうさい)とともに漁師に変装して小舟に乗り、シーボルトを見送ったという。この際に、シーボルトの娘イネの養育を託された。その後、敬作は事件に連座し、半年の入獄ののち、江戸立ち入り禁止され長崎からも追放され、故郷・磯崎に戻った。 天保元年(1833年)、宇和郡卯之町で町医者となり、イネを呼び寄せ養育する。安政5年(1858年)に再び長崎へと赴き、開業医となった。なお、その後敬作が故郷へ帰ることはなかった。 安政6年(1859年)、長崎に再来日したシーボルトと再会した。産科医を開業している娘イネをみて、敬作の義侠に感涙したという。江戸に赴くシーボルトに同行するつもりであったが、病に倒れ果たせなかった。 文久2年(1862年)、長崎にて死去。享年59。墓は長崎の寺町の皓台寺。大正13年(1924年)、正五位を追贈された。 人物 情にあつく、貧しい人にも献身的な活動で地元民から「医聖」として慕われたほか、宇和島藩主伊達宗城に重用された。医者らや高野長英、村田蔵六(後の大村益次郎)とも親交があった。一方酒乱であり、酔って刃物を抜き家人を追い回すこともあったと言う。そのためか後年脳溢血で倒れた。その後右腕に障害が残ったが手術には誤りがなかったという。5「宇和島藩に出仕」宇和島に到着した益次郎は、二宮や藩の顧問格であった僧晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。 高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。 号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は伯父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。 誕生 陸奥国仙台藩の一門である水沢領主水沢伊達家家臣・後藤実慶の三男として生まれる。養父の玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く、長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事する。この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。
2024年09月01日
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東国からやってきた女の子もあった。桂林荘のときに、この寮生活の厳しさとその楽しさを詠った「桂林荘雑詠 諸生ニ示ス」の4首のうち、主に2首目冬の情景を詠ったもの、いわゆる「休道の詩」は教科書に取り上げられたことがあり、他にも四季それぞれの様子を詠んだ詩がある。休道の詩は、3代目塾主広瀬青邨が賓師を務めた私塾立命館を創始とする立命館大学の寮歌のルーツとも言われている。 咸宜園は、江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4,800人におよんだ。 咸宜園の前身である桂林荘は、文化2年(1805年)に豊後国日田に創立された。当時は照雲山長福寺(豆田町)の学寮を借りて開いていたが、文化4年(1807年)に桂林荘塾舎(桂林園・現在の桂林荘公園)を設置した。この後、淡窓は、文化14年(1817年)には堀田村(現在の大分県日田市淡窓町)に塾を移し、咸宜園とした。咸宜園は、淡窓の死後も、慶応2年(1866年)12月から4か月ほど一時閉鎖されたものの、明治30年(1897年)まで存続した。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。 ◯緒方 洪庵(おがた こうあん、〈文化7年〉7月14日(1810年8月13日) - 〈文久3年〉6月10日(1863年7月25日))は、江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。 諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。 文化7年(1810年)7月14日、豊後国の豪族豊後佐伯氏の流れをくむ備中佐伯氏の一族である備中国足守藩(現在の岡山市北部)士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれる[2]。母は、石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は佐伯惟寛(惟定の弟)の末裔と称した。8歳のとき天然痘にかかった。 文政8年(1825年)2月5日、元服して田上惟章と名乗る。10月、大坂堂島新地4丁目(現・大阪市北区堂島3丁目)にあった足守藩大坂蔵屋敷の留守居役となった父と共に大坂へ出た。 文政9年(1826年)7月に中天游の私塾「思々斎塾」に入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とする。4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。 天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。同7年(1836年)には長崎へ遊学し、出島のオランダ人医師ニーマンの下で医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。 天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。 弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入して適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え津村東之町の塾では手狭となった為である。嘉永2年11月1日(1849年12月15日)に京都に赴き、滞在7日にして出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わっていた痘苗を得、古手町(現・大阪市中央区道修町4丁目)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。同3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。 その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。安政5年4月24日(1858年6月5日)には洪庵の天然痘予防の活動を江戸幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした。万延元年(1860年)、除痘館を適塾南の尼崎町1丁目(現・大阪市中央区今橋3丁目)に移転。 伊東玄朴らの推挙を受け、文久2年(1862年)に幕府の西洋医学所頭取として出仕の要請を受ける。 一度は健康上の理由から固辞するが、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙せられた。 文久3年6月11日(1863年7月25日)、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し、窒息により死去。享年54(数え年)。墓所は大阪市北区同心1丁目龍海寺、東京都文京区向丘2丁目高林寺。明治42年(1909年)6月8日、贈従四位。 てきじゅく、正式名称: 適々斎塾〈てきてきさいじゅく〉、別称: 適々塾〈てきてきじゅく〉)は、緒方洪庵が江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾。1838年(天保9年)開学。緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする。幕末から明治維新にかけて福沢諭吉、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、高峰譲吉など多くの名士を輩出した。 大阪大学及び大阪大学医学部の源流の一つ。特徴[編集] 適塾の開塾二十五年の間には、およそ三千人の入門生があったと伝えられている。適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。 塾生であった慶應義塾創設者・福澤諭吉が在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったというほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。 塾生にとっての勉強は、蔵書の解読であった。「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。 適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて「○」・「●」・「△」の採点制度を導入し、3か月以上最上席を占めた者が上級に進む。こういった成績制度は、適塾出身者が創設した慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。 塾生の多くは苦学生で、遊びはたまに酒を飲んだり、道頓堀川を散策する程度だった。「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」(『福翁自伝』)というほど、ひたすら勉学に打ち込んだといわれる。後に卒業生は適塾時代を振り返り、「目的なしの勉強」を提唱している。 塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養ったのである。。緒方の死後は、福澤諭吉と大鳥圭介が中心となって、6月10日と11月10日を恩師の記念日として同窓の友誼を深めるために毎年親睦会を開いていたようである。この親睦会には長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していた
2024年09月01日
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2「大村 益次郎の形成」(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人。 ◯維新の十傑(いしんのじっけつ)は、山脇之人『維新元勲十傑論』(1884年3月刊)において、倒幕・明治維新に尽力した、志士のうち幕臣以外の10人を指す。このうち特に枢要な3人を「維新の三傑」と称する。 他方、廃藩置県後の官制で、明治維新を推し進めた薩長土肥藩の出身者が参議や各省の卿の大部分を独占して形成された藩閥(英語版)は、議会政治に対する抵抗勢力であり、民本主義もしくは一君万民論的な理想論とは相容れない情実的システムであったため、当時から批判もある。 小御所会議を経て王政復古の大号令を達成し、明治維新の新政府発足時の中心人物であり、各藩を代表する人物という点でも共通している。明治新政府に協力した有名な幕臣として、大久保一翁や山岡鉄舟、勝海舟等があり、他にも箱館戦争を戦ったのちに政府に協力した榎本武揚、武田斐三郎、大鳥圭介らがいるが、維新前に討幕に動かなかったことから含めない。藩閥の中で、十傑から洩れているのは土佐藩士だが、賞典禄は後藤象二郎と板垣退助の1,000石が最高位である。特に、大村益次郎については一時は「維新の三傑」に割って入ろうかという評価で、横井小楠も維新樹立を打ち立てた思想家として高い評価を得ている[1]。明治政府内では大久保利通と江藤新平は政敵として知られ、佐賀の乱を鎮圧した大久保が江藤の首を梟首したことでも垣間見える。 なお、この10人のうち岩倉具視を除く9人は、明治11年の紀尾井坂の変までに4人が暗殺され、2人が病死、2人が刑死、1人が戦死している。そして明治16年には残った岩倉具視が咽頭癌により死去する。十傑が去った後に明治政府を主導していったのは、伊藤博文や山縣有朋、井上馨といった長州藩の元老である。 なお、金澤正造の著書『維新十傑傳』(1941年)では、明治以後の政治家とは別に、幕末期に維新へと至るまでに導いた主な革命家10名に、吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、高橋多一郎、清河八郎、伴林光平、平野国臣、佐久間象山、高杉晋作、坂本龍馬を挙げた。 戊辰戦争では東征大総督府補佐となり勝利の立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官)を務め、日本陸軍の創始者、は陸軍建設の祖と見なされる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 3「村医」周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻・うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。 ◯広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号である。通称は寅之助のちに求馬(もとめ)。 諱は建。字は廉卿あるいは子基。当初の号は別号は青渓。死後、弟子たちにより文玄先生とおくり名されたという。末弟に広瀬旭荘、弟・広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の広瀬勝貞は現大分県知事。 豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。少年の頃より聡明で、淡窓が10歳の時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰に師事し、詩や文学を学んだが、淡窓が13歳のときに筑陰が佐伯藩毛利氏に仕官したため師を失う。16歳の頃に筑前国の亀井塾に遊学し亀井南冥・昭陽父子に師事したが、大病を患い19歳の暮れに退塾し帰郷。病は長引き、一時は命も危ぶまれたが肥後国の医師・倉重湊によって命を救われる。その後、病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて弟の久兵衛に店を任せ、一度は医師になることを志すが、倉重湊の言葉によって学者・教育者の道を選ぶ。 文化2年(1805年)には豆田町にある長福寺の一角を借りて初めの塾を開き、これを後の桂林荘・咸宜園へと発展させた。 咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等以降10代の塾主によって明治30年(1897年)まで存続、運営された。塾生は日本各地から集まり、入門者は延べ4,000人を超える日本最大級の私塾となった。 淡窓は晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら白丸を1つつけ、食べすぎなどの悪いことをしたら1つ黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが1万になるようにするものだった。 1度目は67歳(1848年)に達成し2度目の万善を目指して継続していたが73歳の8月頃で記録が途絶えている。淡窓は安政3年(1856年)に死去。享年75。 思想 淡窓には眼の病があり、目を使いすぎると腫れてしまうことから、「あまり眼を使いすぎると中年以降には失明してしまう」と医者に言われ、このことから経書の本文のみを読書するようになる。注釈を無視する代わりに、自分なりの解釈を行ったため、淡窓独自の思想を生むこととなった。 淡窓の指針である「敬天」とは、人間は正しいこと、善いことをすれば天[注 1]から報われるとする。淡窓の説くこの応報論は「敬天思想」といわれ、近年まで主な研究対象になっていた。最近は、実力主義教育を採った組織としての咸宜園研究や、淡窓自身の漢詩研究が主流となっている。 ◯咸宜園(かんぎえん)は、江戸時代の先哲・広瀬淡窓により、天領であった豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾である。「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。塾生の意志や個性を尊重する理念が込められている。 咸宜園では、入学金を納入して名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できた。また、「三奪の法」により、身分・出身・年齢などのバックグラウンドにとらわれず、すべての塾生が平等に学ぶことができるようにされた。 淡窓は、儒学者・漢詩人であったが、咸宜園では四書五経のほかにも、数学や天文学・医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われた。毎月試験があり、月旦評(げったんひょう)という成績評価の発表があり、それで入学時には無級だったものが、一級から九級まで成績により上がり下がりした。 塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設された。全国68か国のうち、66か国から学生が集まった。
2024年09月01日
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「大村益次郎の群像」1, 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22, 「大村益次郎の形成」・・・・・・・・・・・・・・・・・43, 「村医になる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64, 「江戸出府・講武所教授」・・・・・・・・・・・・・・・175, 「宇和島藩に出仕」・・・・・・・・・・・・・・・・・・206, 「江戸に再出仕し欄学塾」・・・・・・・・・・・・・・・367, 「長州藩に出仕」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・408, 「長州征討」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・769, 「第二次長州征伐」・・・・・・・・・・・・・・・・・・9410,「戊辰戦争」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12811,「江戸城開城に向けて」・・・・・・・・・・・・・・・・14612,「旧幕府軍の抵抗」・・・・・・・・・・・・・・・・・・15713,「兵制論争」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16214,「大村益次郎の暗殺」・・・・・・・・・・・・・・・・・17715,「大村益次郎の経歴」・・・・・・・・・・・・・・・・・18116,「人物・逸話」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18517,「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・189 1,「はじめに」大村益次郎(1825~1869)幕末・維新期の欄医、軍政家。1825年(文政5月3日。周防国吉敷鋳銭司村に生まれる。父は村田孝益、母はむめ、母は代々勘場付きの医者で、田畠3反あまりの農家でもあった。幼名宗太郎、医名は良庵。のち村田蔵六長州藩主の、命で大村益次郎と改名、諱は永敏。周防三田尻の欄医梅田幽斉に着き1843年(天保14)広瀬淡窓の塾成宜園に入門、1846年(弘化3)大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び塾頭となる。1850年(嘉永3)帰郷して医業を開き、翌年琴子と結婚。1853年宇和島藩に出仕軍制改革に参画、1856年(安政3)藩主の参勤に従って江戸に行く、私塾鳩居堂を開く。同年幕府の蕃調書教授手習い、翌年講武所教授となった。1860年(万延元)長州藩雇士となる。1861年(文久元)長州藩の洋学教育機関博習堂用掛となり、江戸で西洋兵学会読を指導、1863年井上馨、伊藤博文ら「の英国密航を周旋した。手当防御事務用掛から撫育方を兼任、1864年(元治元)には藩地の砲台を検分、兵学校教授政務座役御用、(軍務専任)博習堂用掛兼赤間関応接掛等を歴任1865年に三兵教授兼軍政用掛となり、第二次幕镸戦争では石州で長州軍を指揮し、海軍用掛けも兼ね、上野戦争で彰義隊を討ち、総督府にあって東北戦争に、参画、軍務官副知事になる。1869年永世禄1500石を下賜され、木戸孝允と謀って東京招魂社を建立。兵部省設置で兵部大輔となり、徴兵制の基礎を作った。9月に刺客に襲われ負傷、それが基で11月5日に没した。
2024年09月01日
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二大政党の時代 昭和に入ってからの政友会は民政党と交替で数年間にわたって政権を担うこととなる。1930年(昭和5年)の浜口雄幸首相遭難事件や1932年(昭和7年)五・一五事件での自党の犬養毅暗殺を政党政治の危機とはとらえず、民政党追い落としを画策して、親軍的保守的性格を却って強めたため国民の信を失い、犬養首相暗殺後「政党内閣で首相の死去による内閣総辞職の場合は後継の与党党首に大命が降下する」という「憲政の常道」にもかかわらず政権を逃し、1936年の総選挙では総裁の鈴木喜三郎が落選するなどの大惨敗を喫し、民政党、社会大衆党の躍進を許した。その後は1937年(昭和12年)浜田国松のいわゆる「腹切り問答」に代表されるような反ファッショ姿勢に一時的には転換したものの、盧溝橋事件に端を発する日中戦争の拡大以後は戦争に協力する姿勢に戻った。さらに1939年に次期総裁をめぐり久原房之助と中島知久平の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加、大政翼賛会に合流した。 分裂(第2次)と解党 1937年(昭和12年)、鈴木の総裁辞任後、鳩山一郎・前田米蔵・島田俊雄・中島知久平の4名が総裁代行委員を務める集団指導体制となったが、1939年(昭和14年)4月30日中島は一方的に「政友会革新同盟」を結成してその総裁となった。一方、中島総裁に反対する鳩山らは病床の鈴木前総裁を動かし、中島の革新同盟総裁就任2日前に新たに久原房之助・三土忠造・芳澤謙吉の3名を政友会の総裁代行委員に任命した。ここに政友会は、 正統派 - 久原派とも(鳩山・久原・三土・芳澤・肥田琢司らが中心) 革新派 - 中島派とも、正式名称は政友会革新同盟(中島・前田・島田・田邊七六・東郷実らが中心) の2派に分裂した。この分裂を、大正末期の政友本党結党にともなう分裂(第一次分裂)との対比で、第二次分裂と呼ぶこともある。 正統派は5月20日臨時党大会を開き、鈴木前総裁の指名という形式で久原を総裁とすることを決定、一方の革新派は旧昭和会の望月圭介・山崎達之輔ら政友会出身者を合流させた。またこの分裂の際に、正統派・革新派のどちらにも与しなかった金光庸夫・犬養健・太田正孝らは中立派を結成、翌1940年(昭和15年)には折からの斎藤隆夫除名問題で斎藤除名を支持して正統派内で孤立した議員がこの中立派に合流し、以後は「統一派」を名乗った。 中立派 - 金光派とも(金光・犬養・太田らが中心)→ 統一派に発展 第二次分裂時、党機関紙『政友』や党史の編集部門は革新派に握られていた。そのため解党後の1943年(昭和18年)に完成した『立憲政友会史』では、中島を正式な政友会第8代総裁としている。一方正統派は新たに党機関誌『立憲政友』を発行、久原を正統な政友会第8代総裁としてこれに対抗した。 しかし同年7月16日には66名を擁する正統派と10名を擁する統一派が解党、7月30日には97名を擁する革新派も解党して大政翼賛会に合流、ここに伊藤博文の結党から40年の歴史を持つ政友会は名実共に消滅するに至った。 原 敬(はら たかし、1856年3月15日〈安政3年2月9日〉- 1921年〈大正10年〉11月4日)は、日本の外交官、政治家。位階勲等は正二位大勲位。幼名は健次郎(けんじろう)。号は一山、逸山(いつざん)。「はら けい」と音読みが用いられるケースもある(原敬記念館、『原敬日記』など)。 外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16 代)、衆議院議員、内務大臣(第25 ・27 ・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。 『郵便報知新聞』記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。 陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と渾名された。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、大塚駅の駅員であった青年・中岡艮一に襲撃され、殺害された(原敬暗殺事件)。満65歳没。墓所は岩手県盛岡市の大慈寺。 古河鉱業(現:古河機械金属)の副社長にも就いていた。 生い立ち 明治3年(1870年)1月、盛岡藩の藩校「作人館」に入った。翌年12月には上京し、藩の青年のために設立された学校「共慣義塾」に入学した。しかし盛岡の家が盗難にあい、学費に困った原は明治5年(1872年)4月、無料のカトリック神学校に移った。明治6年(1873年)4月には洗礼を受け、「ダビデ」の洗礼名を受けた。翌年から布教活動に加わり、1年間新潟に滞在した。 新潟から戻った原は明治8年(1875年)6月分家して戸主となり、平民籍に編入された。分家の理由ははっきりしないが、戸主となれば兵役義務から免除されることと関連があるのではないかと前田蓮山は指摘している。生家も既に士族ではなかった。原敬記念館館長の説明によると、戊辰戦争で新政府軍に敵対した盛岡藩は賠償金を支払うことになり、原家も土地・屋敷や家財を売却し、菓子商売などで生計を立てることになった。原の上京費用もこうして捻出したという。分籍した際の戸籍謄本が記念館に保存されており、そこには(士族ではなく)士農工商の「商」と記載されている。 こうした変遷を経たものの、原は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとったことがなかったとされる。 メディアの記者に 明治9年(1876年)、司法省法学校を受験し、受験者中2番の成績で合格した。在学中も101名中10位と成績は良かったが、明治12年(1879年)2月に退校処分にあっている。寄宿舎の待遇改善を求めた行動に対する処分に抗議したことが理由とされている。 退校後の明治12年(1879年)、郵便報知新聞社に入社した。入社当初は翻訳を担当していたが、明治14年(1881年)5月には渡辺洪基とともに仕事で全国周遊旅行に出た。しかし明治十四年の政変をきっかけに大隈重信派が同社を買収、矢野文雄を社長に据え、犬養毅・尾崎行雄らが社に乗り込んできた。原はこれに反発し、明治15年(1882年)1月末に退社した。郵便報知新聞社を退社後は、関西で立憲帝政党の機関紙の役割を担っていた『大東日報』で主筆を務めた。この際井上馨にも接近したが、8か月で『大東日報』を離れることになった。 また、明治12年3月に山梨県甲府市で創刊された『峡中新報』へも「鷲山樵夫」の筆名で寄稿している。 パリ時代の原 政党政治家として また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、原が政友会幹部として自信を深めていった明治末期以後である)。 明治34年(1901年)6月、桂太郎が政権を握って組閣し、原は閣外へ去るが同月に星が暗殺され、その後は、第1次桂内閣に対する方針を巡る党内分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担った。また、地方政策では星の積極主義(鉄道敷設などの利益誘導と引換に、支持獲得を目指す集票手法)を引き継ぎ、政友会の党勢を拡大した。党内を掌握した原は、伊藤や西園寺を時には叱咤しながら、融和と対決を使い分ける路線を採って党分裂を辛うじて防いだ。 しかし、原の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれる利益誘導型政治を生み出し、現代に繋がる日本の政党政治と利益誘導の構造を作り上げることとなった。明治末期には原のこうした手法を嫌う西園寺との間で確執が生じている。 明治44年(1911年)8月から鉄道院総裁。 内務大臣時代、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施し、東京帝国大学卒の学歴を持つエリートに変えていった。大正3年(1914年)6月18日には大正政変の道義的責任を取るとして辞任した西園寺の後任として、第3代立憲政友会総裁に就任した。
2024年08月28日
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二大政党の時代 昭和に入ってからの政友会は民政党と交替で数年間にわたって政権を担うこととなる。1930年(昭和5年)の浜口雄幸首相遭難事件や1932年(昭和7年)五・一五事件での自党の犬養毅暗殺を政党政治の危機とはとらえず、民政党追い落としを画策して、親軍的保守的性格を却って強めたため国民の信を失い、犬養首相暗殺後「政党内閣で首相の死去による内閣総辞職の場合は後継の与党党首に大命が降下する」という「憲政の常道」にもかかわらず政権を逃し、1936年の総選挙では総裁の鈴木喜三郎が落選するなどの大惨敗を喫し、民政党、社会大衆党の躍進を許した。その後は1937年(昭和12年)浜田国松のいわゆる「腹切り問答」に代表されるような反ファッショ姿勢に一時的には転換したものの、盧溝橋事件に端を発する日中戦争の拡大以後は戦争に協力する姿勢に戻った。さらに1939年に次期総裁をめぐり久原房之助と中島知久平の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加、大政翼賛会に合流した。 分裂(第2次)と解党 1937年(昭和12年)、鈴木の総裁辞任後、鳩山一郎・前田米蔵・島田俊雄・中島知久平の4名が総裁代行委員を務める集団指導体制となったが、1939年(昭和14年)4月30日中島は一方的に「政友会革新同盟」を結成してその総裁となった。一方、中島総裁に反対する鳩山らは病床の鈴木前総裁を動かし、中島の革新同盟総裁就任2日前に新たに久原房之助・三土忠造・芳澤謙吉の3名を政友会の総裁代行委員に任命した。ここに政友会は、 正統派 - 久原派とも(鳩山・久原・三土・芳澤・肥田琢司らが中心) 革新派 - 中島派とも、正式名称は政友会革新同盟(中島・前田・島田・田邊七六・東郷実らが中心) の2派に分裂した。この分裂を、大正末期の政友本党結党にともなう分裂(第一次分裂)との対比で、第二次分裂と呼ぶこともある。 正統派は5月20日臨時党大会を開き、鈴木前総裁の指名という形式で久原を総裁とすることを決定、一方の革新派は旧昭和会の望月圭介・山崎達之輔ら政友会出身者を合流させた。またこの分裂の際に、正統派・革新派のどちらにも与しなかった金光庸夫・犬養健・太田正孝らは中立派を結成、翌1940年(昭和15年)には折からの斎藤隆夫除名問題で斎藤除名を支持して正統派内で孤立した議員がこの中立派に合流し、以後は「統一派」を名乗った。 中立派 - 金光派とも(金光・犬養・太田らが中心)→ 統一派に発展 第二次分裂時、党機関紙『政友』や党史の編集部門は革新派に握られていた。そのため解党後の1943年(昭和18年)に完成した『立憲政友会史』では、中島を正式な政友会第8代総裁としている。一方正統派は新たに党機関誌『立憲政友』を発行、久原を正統な政友会第8代総裁としてこれに対抗した。 しかし同年7月16日には66名を擁する正統派と10名を擁する統一派が解党、7月30日には97名を擁する革新派も解党して大政翼賛会に合流、ここに伊藤博文の結党から40年の歴史を持つ政友会は名実共に消滅するに至った。 原 敬(はら たかし、1856年3月15日〈安政3年2月9日〉- 1921年〈大正10年〉11月4日)は、日本の外交官、政治家。位階勲等は正二位大勲位。幼名は健次郎(けんじろう)。号は一山、逸山(いつざん)。「はら けい」と音読みが用いられるケースもある(原敬記念館、『原敬日記』など)。 外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16 代)、衆議院議員、内務大臣(第25 ・27 ・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。 『郵便報知新聞』記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。 陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と渾名された。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、大塚駅の駅員であった青年・中岡艮一に襲撃され、殺害された(原敬暗殺事件)。満65歳没。墓所は岩手県盛岡市の大慈寺。 古河鉱業(現:古河機械金属)の副社長にも就いていた。 生い立ち 明治3年(1870年)1月、盛岡藩の藩校「作人館」に入った。翌年12月には上京し、藩の青年のために設立された学校「共慣義塾」に入学した。しかし盛岡の家が盗難にあい、学費に困った原は明治5年(1872年)4月、無料のカトリック神学校に移った。明治6年(1873年)4月には洗礼を受け、「ダビデ」の洗礼名を受けた。翌年から布教活動に加わり、1年間新潟に滞在した。 新潟から戻った原は明治8年(1875年)6月分家して戸主となり、平民籍に編入された。分家の理由ははっきりしないが、戸主となれば兵役義務から免除されることと関連があるのではないかと前田蓮山は指摘している。生家も既に士族ではなかった。原敬記念館館長の説明によると、戊辰戦争で新政府軍に敵対した盛岡藩は賠償金を支払うことになり、原家も土地・屋敷や家財を売却し、菓子商売などで生計を立てることになった。原の上京費用もこうして捻出したという。分籍した際の戸籍謄本が記念館に保存されており、そこには(士族ではなく)士農工商の「商」と記載されている。 こうした変遷を経たものの、原は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとったことがなかったとされる。 メディアの記者に 明治9年(1876年)、司法省法学校を受験し、受験者中2番の成績で合格した。在学中も101名中10位と成績は良かったが、明治12年(1879年)2月に退校処分にあっている。寄宿舎の待遇改善を求めた行動に対する処分に抗議したことが理由とされている。 退校後の明治12年(1879年)、郵便報知新聞社に入社した。入社当初は翻訳を担当していたが、明治14年(1881年)5月には渡辺洪基とともに仕事で全国周遊旅行に出た。しかし明治十四年の政変をきっかけに大隈重信派が同社を買収、矢野文雄を社長に据え、犬養毅・尾崎行雄らが社に乗り込んできた。原はこれに反発し、明治15年(1882年)1月末に退社した。郵便報知新聞社を退社後は、関西で立憲帝政党の機関紙の役割を担っていた『大東日報』で主筆を務めた。この際井上馨にも接近したが、8か月で『大東日報』を離れることになった。 また、明治12年3月に山梨県甲府市で創刊された『峡中新報』へも「鷲山樵夫」の筆名で寄稿している。 パリ時代の原 政党政治家として また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、原が政友会幹部として自信を深めていった明治末期以後である)。 明治34年(1901年)6月、桂太郎が政権を握って組閣し、原は閣外へ去るが同月に星が暗殺され、その後は、第1次桂内閣に対する方針を巡る党内分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担った。また、地方政策では星の積極主義(鉄道敷設などの利益誘導と引換に、支持獲得を目指す集票手法)を引き継ぎ、政友会の党勢を拡大した。党内を掌握した原は、伊藤や西園寺を時には叱咤しながら、融和と対決を使い分ける路線を採って党分裂を辛うじて防いだ。 しかし、原の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれる利益誘導型政治を生み出し、現代に繋がる日本の政党政治と利益誘導の構造を作り上げることとなった。明治末期には原のこうした手法を嫌う西園寺との間で確執が生じている。 明治44年(1911年)8月から鉄道院総裁。 内務大臣時代、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施し、東京帝国大学卒の学歴を持つエリートに変えていった。大正3年(1914年)6月18日には大正政変の道義的責任を取るとして辞任した西園寺の後任として、第3代立憲政友会総裁に就任した。
2024年08月28日
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原総裁の時代 大正政変後、公家出身の西園寺は大正天皇の名で第3次桂内閣へ協力するよう詔勅が出ていたのを拒否した「違勅」の政治的責任を取って辞表を提出した。後任には松田が望まれたが、松田が急死したために原敬が1914年に総裁となる。大正デモクラシーの波にのって成長し、1917年第一党に復帰、1918年米騒動後、1918年(大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。 大正時代の政友会は、原敬を核として山本達雄、水野錬太郎、高橋是清ら伊藤博文系の政治家や非山縣有朋系官僚等を中心にして当時議会の多数派を占めていた大政党であり、「積極政策」を政策の目玉とし、地方利益の獲得を党勢拡大の梃子にしていた。ただ、原敬の歿後、党内で党人派=総裁派(高橋是清、尾崎行雄、野田卯太郎、横田千之助、小泉策太郎、小川平吉、岡崎邦輔ら)と官僚派=非総裁派(山本達雄、床次竹二郎、中橋徳五郎、元田肇ら)の対立傾向が先鋭化し始めていた。 分裂(第1次)と合同 原総裁のもとでは表面化しなかった内部対立が後継の高橋是清総裁の時代になると顕在化していった。対立の構図は、官僚系メンバー(中橋徳五郎・元田肇など)と自由党系メンバー(横田千之助・望月圭介など)の争いであった。第45回帝国議会後に内閣改造を企画した高橋首相は、1921年(大正10年)5月2日の閣議で内閣改造を提案するも、元田鉄相・中橋文相の反対にあい、更に翌日の閣議では山本農相も反対に回ったため一度は断念した。続く、6月5日には政友会の議員総会で総裁一任を決議して閣僚に辞表を求めた。山本農相・床次内相・野田逓相は辞表提出に同意したが、元田鉄相・中橋文相は内閣改造にあくまでも反対したため高橋内閣は総辞職することとなった。高橋や横田の内閣改造派は、非改造派の元田・中橋・木下・吉植・田辺・田村の6人を除名した。除名者が復党したのは半年後の12月のことであった。 高橋後に組閣したのは加藤友三郎であった、政友会が衆議院の第一党であるにも関わらず政権を失ったことについて党を主導した横田への批判が高まり、1922年(大正11年)9月3日付けの『神戸新聞』には「政友本党」の名で新党設立の動きがあることが報道された。加藤内閣の後も第2次山本内閣が続き、政友会には政権が回ってこなかった。このため1923年(大正12年)12月からの第47回帝国議会(臨時会)で政友会内に改革運動として再度紛糾が起き、改革派の山本・元田・中橋が総務委員に加わることで妥協を見た。山本後の内閣についても選挙管理内閣の意味合いもあって枢密院議長の清浦奎吾を首班とする清浦内閣が成立し、政友会は衆議院第一党のまま都合三度の政権を逃した。清浦は1924年(大正13年)1月1日に大命を拝受し、2日から組閣に入り、貴族院最大会派の研究会へ協力を要請した。当初、政友会では衆議院の議席を背景に床次と横田を通じて数名の閣僚を要求することで清浦が組閣を断念することに期待した。清浦内閣の組閣が難航する中、政友会改革派は高橋を引退させ、研究会とともに清浦内閣に協力し、床次を政友会総裁にして副総理格で入閣させることを企画した。折しも当時、高橋は総裁を辞任する決心を一度は漏らしていたが、小泉策太郎の説得で翻意して清浦内閣には野党の立場をとることを決めた。この高橋総裁続投の結果が政友会の分裂をもたらすこととなった。当初、横田や小泉は脱党者を少数と見積もっており、衆議院第一党は確保され、むしろ結束を固める良い機会だと見込みを立てていた。横田の予測では脱党者は20人から30人、多くても50人と推測していた。政友会幹部の中には脱党者を100人前後と予測していた者もおり、例えば松野鶴平は脱党者130人前後、残留組110人、去就不明者37人を予測した。また、小泉は脱党者130人、残留組150人程度であり、原前総裁の後継党であるという正当性もあるため、来たる選挙では160~180議席を獲得して比較第一党を維持可能と考えた。15日には清浦内閣反対を決定し、高橋総裁は爵位を子に譲り平民となって総選挙へ出馬することを宣言した。これを受け、政友会改革派は分裂を決心し、政友本党を結成して清浦内閣の与党を構成した。床次は最後まで迷っており、16日午後の岡崎邦輔の説得によって一時は政友会に踏みとどまって高橋と進退を共にすることを誓い、脱党組を説得しようとしたが逆に再度の説得をうけて脱党することとなった。16日夜、改革派の山本・元田・中橋・床次は脱党届を高橋総裁に提出し、結局過半数上の148人が政友会から分裂して政友本党を結成することとなった。29日、帝国ホテルで政友本党の結成式が行われた。第48回帝国議会の開始時に第一党は政友本党(150議席)であり、少数となった第二党の政友会(139議席)は18日に三浦梧楼宅で憲政会(103議席)・革新倶楽部(43議席)と会談し、護憲三派を形成して倒閣運動を開始した。清浦内閣では選挙権の拡大について選挙法改正に取り組んだが、独立生計を持つものについて大正17年(1928年、実際には大正天皇崩御により昭和3年)5月からの施行を目指したものであった。これが野党の攻撃の的となり、1924年(大正13年)1月31日に内閣不信任案が提出され議場に極度の混乱をもたらしたため、政府は衆議院の解散を行った。一般的に護憲三派は普通選挙を推進していたとされるが、個別に見れば政友会では従前の経緯もあって普通選挙は推進していなかったし、逆に与党の政友本党では普通選挙をスローガンとしていた。 関東大震災の影響で選挙人名簿の整備が遅れたため総選挙は解散から100日後の5月10日に投票が行われた。総選挙では与党の政友本党(114議席、第二党)および護憲三派のうち政友会(101議席、第三党)と革新倶楽部(30議席、第四党)がともに議席を減らし、憲政会(153議席、第一党)が躍進した。政友本党では総務の中橋徳五郎が落選をした。政友会では選挙によって第一党となるか、または革新倶楽部と合同することで第一党を狙っていたが当てが外れ、高橋総裁の責任問題であったが後継者難によって総裁は続投された。この間に、政友本党の床次総裁は5月23日に密かに松本剛吉と会談を行い、80人を率いて政友会復帰を果たしたいので横田千之助への交渉を依頼した。松本は西園寺公望と相談のうえ、極秘裏のまま留保することとした。このため床次派の政友会復帰は流れ、逆に反床次派による政友会復帰運動が起こった。5月25日、西園寺公望と会談した清浦首相は総選挙の結果を受けて議会運営が難しくなったため総辞職を申し出たが、西園寺の助言で選挙結果=政権交代が前例となるのを避けるために内閣不信任案が提出されてからの総辞職をすることとなり、辞職は6月7日となった。この間、政友会では小泉策太郎が政友会・革新倶楽部・政友本党を連合させる反憲政会運動を画策し、また清浦内閣側でも大木遠吉が政友会と政友本党の多数派合同による居座り工作がなされたがいずれも成功しなかった。9日、西園寺は衆議院第一党の憲政会党首加藤高明を首相に推奏した。加藤は最終的に護憲三派で内閣を構成したが、組閣時に政友会のポスト要求を拒むために政友本党との連立をほのめかした。政友会では党務を処理していた横田千之助が司法大臣に就いたため、野田卯太郎を新設の副総裁とした。総選挙で敗れた政友本党では、今まで設置していなかった党首ポストを設け、当初山本達雄を推戴しようとしたが山本が固辞したため、床次竹二郎が総裁に収まった。 護憲三派による加藤高明内閣が成立して間もない1924年(大正13年)8月には政友会の岡崎邦輔たちは加藤内閣で根本的な財政整理ができない場合にはより一層強力な内閣が必要であり、政友会と政友本党を合同させて陸軍大将の田中義一を総裁とすることを企画した。この計画は秋にも合同があり得るとの話であったが、高橋総裁の反対にあって頓挫した。1924年(大正14年)、第50回帝国議会では加藤高明内閣により普通選挙案が提出されると、政友会への復帰が図られたが政本合同運動は破綻し、復帰派による五月雨式脱党が起き、12月29日には鳩山一郎や中橋徳五郎など22名が政友会へ合流した。1926年(大正15年)1月20日の政友本党の党大会では顧問の川原茂輔などの引き締めもありなお、80人以上を擁してキャスティングボートを握る第三党路線を堅持した。8月、護憲三派の連立が崩れて憲政会単独内閣(いわゆる第2次加藤高明内閣)が成立した後は、政友本党が衆議院におけるキャスティング・ボートを握る展開となる。当初は政友会との合同の機運が高まり(政本合同問題)、田中政友会総裁と床次政友本党総裁の会談により提携の申合せ書が作成されたが、床次は合同には消極的であり、12月の第51帝国議会では衆議院の常任委員長ポストの割り振りをめぐって交渉が決裂した。こうした動きの中で12月29日、中橋徳五郎・鳩山一郎ほか合同促進派22名が脱党し、翌年2月にその多くが政友会に復党した。1927年(昭和2年)2月25日には憲政会と政友本党の連合(いわゆる、憲本提携)が成立し立憲民政党が政権を取ったが、政友会は切り崩しを行い、杉田定一・元田肇・川原茂輔など30名を脱党させ政友会に合流させた。昭和金融恐慌がおき、第1次若槻内閣が総辞職すると、代わって立憲政友会総裁の田中義一が内閣を組閣した。田中総裁の頃から、在郷軍人会が田中の影響で政友会の支持団体に加わるなど「政友会の親軍化」がいわれるようになる。
2024年08月28日
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9「桂園時代」その後、桂は西園寺公望と交互に組閣して政権を担い、桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれ、明治41年(1908年)7月から同44年(1911年)8月に第2次内閣、大正元年(1912年)12月から同2年(1913年)2月に第3次内閣を組閣し自身の最後の任期で政権を担う。 ◯桂園時代(けいえんじだい)は、陸軍・山県閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会第2代総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1901年(明治34年)から1913年(大正2年)の10年あまりをいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 日露戦争から明治天皇崩御にかけての約10年、内閣総理大臣に桂-西園寺-桂-西園寺-桂が就任してそれぞれ内閣を組織し、桂を擁する藩閥政治と西園寺を党首とする立憲政友会内閣が交代で政権を担当した。この時期が「桂園時代」である。そのため、一種の二大勢力間の内閣輪番制の時代とも捉えられる。この間、松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たず、あるいはそれぞれの勢力内で桂や西園寺に取って代わる基盤を持たずに、いずれも断念に追い込まれている。 大日本帝国憲法下にあっては、特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものであった。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上において桂園時代だけである。 西園寺は政友会総裁として政党内閣を組織するが、のちに首相となる原敬など1人か2人の政党員を主要閣僚にして実力をつけさせる一方、政党や藩閥など出自にとらわれない人材主義を採用して官僚・軍部・藩閥からの警戒心を解いた。また、その人柄もあって西園寺は衆議院、桂は貴族院の多数派を率いて互いに協力し合った。西園寺は清華家の家格を有する名門公家の西園寺家の出身で、若年より秀才の誉れ高く、戊辰戦争での功績もあって岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通とならぶ参与となったが、維新後はみずから官途を離れてパリに留学し、当地で民権思想の強い影響を受けた。西園寺が最も期待した政治家は、自由民権運動にも参加した陸奥宗光であり、1897年(明治30年)に陸奥の訃報に接したときの落胆ぶりは傍目にもいたわしいほどであったという[1]。対して桂は、長州藩出身で当時軍部の大御所的存在であった山県有朋に近く、山県系官僚閥の一員であったが、「ニコポン首相」と呼ばれ、人心掌握に長けていた。首相就任以来、明治天皇の信頼に加え、山県系官僚閥の居城ともいえる陸軍を山県とほぼ対等なほど掌握していた。 日露戦争中に繰り返された桂太郎・原敬会談を通して、戦後の西園寺政友会総裁への政権譲渡は既定路線となっていた。1904年(明治37年)12月8日、桂内閣と政友会の間に、日露戦争後に政権を譲るので、それまでの間政友会が桂内閣に協力するという密約が結ばれたのである。それまで後継首相は元老会議、または元老、元勲などの有力者が天皇に推薦するという形式が慣習的に存在しており、元老会議を通さない後継首相選定は当時異例のものであった。桂を自らの腹心と思っていた山県はこの密約を裏切りと捉え、強く怒ったというが流れは変わらなかった。1905年8月22日の桂・原会談で桂は「西侯は決して今の元老等の代表者たるが如き者を内閣に入れざる事」と、西園寺の組閣に対し助言をあたえた。桂は辞任前に元老たちに西園寺を後継首相とする了解を形式的に得て、天皇の意向も抑え、元老会議を開かずに後継を西園寺を推薦する旨を上奏した。こうして、1906年(明治39年)1月7日、第1次西園寺内閣が衆議院の第1党政友会を与党として発足した。外相加藤高明、内相原敬、蔵相阪谷芳郎、陸相寺内正毅、海相斎藤実、法相松田正久、文相牧野伸顕、農商務省松岡康毅、逓相山県伊三郎という顔ぶれで、政友会員は西園寺・原・松田の3人にすぎなかった[3]。阪谷が伊藤博文、牧野が松方正義、松岡が桂太郎への配慮であり、逓信大臣は山県有朋の養嗣子であった。総辞職を表明してから後継内閣が成立するまでの間に、桂内閣は鉄道国有化法案を閣議決定したが、西園寺内閣はこれに修正を加えて議会に提出し、可決後の1906年3月に鉄道国有法を公布した。 桂は元来、政党政治に不信感を抱いており、政友会による政権運営にも強い不満を持っていた。そのためしばしば批判を行なったが、1910年(明治43年)に発生した大逆事件により政治的ダメージを受けた第2次桂内閣は政友会との妥協体制なしには国内諸政策を遂行できなかった。桂は大逆事件関係者といった「猛悪志素」とくらべると、政友会は相対的に「温和なる分子」であるため、彼らを利用し「国勢の進運に任ぜしむるもまた時勢に適したる法弁(ママ)」と思い直して、1911年(明治44年)1月26日に西園寺や原、松田正久と会談して妥協が成立した。 1911年(明治44年)1月29日、当時の桂首相が政友会議員と会合した際に、「情意投合し、協同一致して、以て憲政の美果を収むる」と述べた。この時、桂が述べた情意投合(じょういとうごう)という語は、官僚・軍部勢力と政友会が暗黙のうちに意思疎通を図って政権運営に協力していくという桂園時代の政治体制を意味する言葉として、当時広く用いられた。両者の関係は日露戦争中の1904年(明治37年)12月頃から提携が模索され、戦争終結後の1906年(明治39年)1月に桂は西園寺を後継首相として退陣したことから本格化し、1912年(大正元年)12月に二個師団増設問題で西園寺・政友会と桂・軍部が対立して第2次西園寺内閣が崩壊するまで続いた。 桂園時代は、日英同盟の締結から日露戦争の勝利、韓国併合など日本の国際的地位が著しく向上し、陸奥宗光や小村寿太郎らの努力によって条約改正を達成し、また、重工業の発展のめざましい時期にあたっていた。一方で労働問題や公害問題など従来見られなかった問題も現出した。日本の国際的地位向上に尽くした桂に対し、陸奥の遺志を継いで原を育てた西園寺は来るべき「大正デモクラシー」に道に開いたといえる。 特質 日本史学者の千葉功は、桂園時代を「内政面・外政面とも、戦前期日本における相対的安定期であった」とし、その体制の特質として桂率いる陸軍・官僚・貴族院と西園寺率いる政友会との相互補完関係を挙げている。 しかし、「桂園体制は固定的かつ静態的なものではなく、鋭い対立関係を内包するものであった」としている。また、「政友会による永久政権を目指す、原敬にとってみれば西園寺内閣では不十分であったし、桂にとっても政友会との情意投合は常に政友会への譲歩を行なわなければならない点であきたらなかった。まして、公爵へ昇りつめ、また日露戦争の勝利により明治天皇の信任を篤くしていた桂は、自信を深めており第2次西園寺内閣成立以後は桂園体制を破棄する方向へ進んでいった」としている。この桂園時代は立憲政友会の原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立を図った時代でもある。 ◯立憲政友会(りっけんせいゆうかい、旧字体:立憲政友會)は、戦前の帝国議会において日本最初の本格的政党内閣を組織した政党で、明治後期から昭和前期の代表的な政党である。略称は政友会(せいゆうかい)。 立憲民政党とともに1925年から1931年にかけて二大政党制を形成した。 1900年(明治33年)9月15日に結党され、数代の内閣を組織して政権を担った。1939年(昭和14年)に分裂して革新派(中島派)・正統派(久原派)・中立派(金光派)の鼎立状態となり、1940年(昭和15年)7月16日に正統派と統一派(中立派の後身)が解散し、同年7月30日に革新派が解散したことにより解党となった。 政友会の特徴は同党の成立趣意書にもあるように、「余等同志は国家に対する政党の責任を重んじ、専ら公益を目的として行動」するのであって、「国運を進め文明を扶植」するため与論を指導し、地方公共施設の建設にも公益を最優先させる「国家公党」を謳った点である。立憲政友党ではなく「会」を称したのも、国家利益の優先や国家との一体感を強調する初代総裁・伊藤博文の政党観に由来するもので、政党に対する国家の優位性を表している。国民の私的な利益を追求する民党を政党と言うならば、政友会はこれらを抑える「反政党」的な政党だった。
2024年08月28日
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1903年に入るころには、ロシアは露清満洲撤兵協約を露骨に無視して、朝鮮半島を勢力圏とすべく軍の増派を始めた。8月12日、桂内閣は日露協定案を提示して外務交渉を始めるが、ロシアは時間をかけて引き伸ばしつつ、軍備を整え始める。日露交渉が行き詰まりを見せる中。12月5日、第19回帝国議会が召集されるが、11日、奉答文事件により、衆議院解散。衆議院議員が不在となった中で、1904年2月3日、協定案の交渉は決裂し、元老、閣僚間で開戦に合意。4日の御前会議を経て、6日、ロシア政府に最終通告を行った。 2月8日、日本軍は旅順口攻撃を行い、日露戦争が開戦。10日に宣戦布告がなされる。朝鮮半島への航路が確保される中、桂内閣は補給線を確実にすべく、23日に日韓議定書を締結する。3月1日、第9回衆議院議員総選挙。政友会は半数を割り込むが第一党、憲政本党が第二党。その後も日本軍は黄海海戦(8月10日)、遼陽陥落(9月4日)と勝利を重ねるが、ロシアはバルチック艦隊を派遣するなど、戦闘の終結の見込みは立たなかった。桂内閣は政友会相手に再度の増税についての根回しを行い、西園寺総裁は再度の増税を容認する。その後も、終戦後の政権運営について、原が政友会側の窓口となり、桂との秘密交渉を継続、桂は西園寺への政権禅譲の可能性をほのめかした。 1905年1月1日、旅順陥落。3月10日、奉天海戦勝利。陸では日本軍が大勢を確保したが、国民の負担は限界に近づいている中でバルチック艦隊との海戦をまだ控えており、講和交渉のタイミングが問題になる。桂と原の交渉では、講和交渉に対する国民・議会の不満は政友会が抑えるとともに、戦後は政友会に政権を譲り、政党嫌いの山縣は桂が説得する、という妥協ができあがった。4月21日、講和条件案が閣議決定。5月28日、日本海海戦で日本軍が勝利。これを受けて、8月10日よりポーツマス講和会議が開かれる。この頃、桂と原の交渉で、講和条約締結後、時間を置かず西園寺を首相に推薦することで合意する。28日、ポーツマス講和条約締結。賠償金等の講和条件が世論の期待を下回ったことから、9月5日、講和反対集会がエスカレートし、日比谷焼き討ち事件が発生。政友会は党内を西園寺、原らが抑え、この動きには参加しなかった。桂内閣は暴動を受けて戒厳令を発した。 その後、11月17日に第二次日韓協約に調印、朝鮮半島を勢力圏下に置き、日露戦争の当初目標を達成した。12月22日、桂内閣は総辞職、立憲政友会の西園寺公望総裁に大命が降る。 日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、1905年9月5日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日本の暴動事件。日比谷焼打ち事件[1]、日比谷焼き打ち事件、日比谷焼討事件、日比谷焼き討ち事件といった表記揺れがある。 1905年のポーツマス条約によってロシアは北緯50度以南の樺太島の割譲および租借地遼東半島の日本への移譲を認め、満洲や朝鮮の利権を手にし、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。 しかし、同条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかったため、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。 そのため、国内世論の非難が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令(緊急勅令)も布かれた。 原因 1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの斡旋の下、アメリカのポーツマスにて日露の和睦交渉が行われることとなった。当時、日本は戦争に対する多大な軍費への出費から財政が悪化し、ロシアでも血の日曜日事件など革命運動が激化していたため、両国とも戦争継続が困難になっていたのである。 相手は強大国・ロシアであり当時の日本には戦争を継続するだけの余力はすでになかった。しかしながら日本国内では政府の情報統制により連戦連勝報道がなされ、戦費を賄うために多額の増税・国債の増発もなされていた(戦費17億円は国家予算6年分。外債8億、内債・増税9億)。ロシアに戦争継続されれば日本は負ける可能性が高く、国民にその内情までも伝えればロシアにも情報が漏れる可能性があるため日本政府は機密にしていた。そのため国民の多くはロシアから多額の賠償金を取ることができると信じていた。 しかし、ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否する。日露戦争の戦場は全て満州(中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権・小村寿太郎は8月29日、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。 この条件は、朝日新聞などの予想記事から国民が考えていた講話条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 - ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部政治活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。しかし、小村の交渉を伊藤博文などは高く評価している。また、内閣総理大臣(首相)の桂と海軍大臣(海相)の山本権兵衛は小村を新橋駅に出迎え両脇を挟むように歩き、爆弾等を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟であったという。 長きにわたる戦争で戦費による増税に苦しんできた国民にとって、賠償金が取れなかった講和条約に対する不満が高まった。このため、9月3日に大阪市公会堂をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれたのである。その内容は、「国務大臣(閣僚)と元老を全て処分し、講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という過激なものであった。 9月6日、勅令で、治安妨害の新聞雑誌の発行停止権を内相に与えられた。これにより、大阪朝日、東京朝日、万朝報、報知新聞など発行停止を命じられた。 日比谷の暴動 9月5日、東京・日比谷公園でも野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。警視庁は不穏な空気を感じ禁止命令を出し、丸太と警察官350人で公園入り口を封鎖した。 しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、国民新聞社を襲撃した。すぐあとには内務大臣官邸を抜刀した5人組が襲撃し、棍棒丸太で裏門からも襲われた。銀座からの群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番、警察署などが破壊され、市内13か所以上から火の手が上がった。 この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になりあわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった。 これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)を布き[6]即日施行、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めたのである(戒厳令廃止は11月29日)。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。このうち裁判にかけられた者は104名、有罪となったのは87名であった。 なお、各地で講和反対の大会が開かれ、神戸(9月7日)、横浜(9月12日)でも暴動が起こった。 その後 暴動収拾後も人々の反発は収まらず、桂首相は立憲政友会を率いる西園寺公望と密かに会談を持って収拾策を話し合った。この結果、翌年1月に第1次桂内閣は総辞職して代わりに第1次西園寺内閣が成立した。西園寺や新内務大臣・原敬は反政府側から出された戒厳令関係者の処分要求を拒絶して、事件の幕引きを図ったのである。
2024年08月28日
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月8日、日本軍は旅順口攻撃を行い、日露戦争が開戦。10日に宣戦布告がなされる。朝鮮半島への航路が確保される中、桂内閣は補給線を確実にすべく、23日に日韓議定書を締結する。3月1日、第9回衆議院議員総選挙。政友会は半数を割り込むが第一党、憲政本党が第二党。その後も日本軍は黄海海戦(8月10日)、遼陽陥落(9月4日)と勝利を重ねるが、ロシアはバルチック艦隊を派遣するなど、戦闘の終結の見込みは立たなかった。桂内閣は政友会相手に再度の増税についての根回しを行い、西園寺総裁は再度の増税を容認する。その後も、終戦後の政権運営について、原が政友会側の窓口となり、桂との秘密交渉を継続、桂は西園寺への政権禅譲の可能性をほのめかした。 1905年1月1日、旅順陥落。3月10日、奉天会戦勝利。陸では日本軍が大勢を確保したが、国民の負担は限界に近づいている中でバルチック艦隊との海戦をまだ控えており、講和交渉のタイミングが問題になる。桂と原の交渉では、講和交渉に対する国民・議会の不満は政友会が抑えるとともに、戦後は政友会に政権を譲り、政党嫌いの山縣は桂が説得する、という妥協ができあがった。4月21日、講和条件案が閣議決定。5月28日、日本海海戦で日本軍が勝利。これを受けて、8月10日よりポーツマス講和会議が開かれる。この頃、桂と原の交渉で、講和条約締結後、時間を置かず西園寺を首相に推薦することで合意する。28日、ポーツマス講和条約締結。賠償金等の講和条件が世論の期待を下回ったことから、9月5日、講和反対集会がエスカレートし、日比谷焼き討ち事件が発生。政友会は党内を西園寺、原らが抑え、この動きには参加しなかった。桂内閣は暴動を受けて戒厳令を発した。 その後、11月17日に第二次日韓協約に調印、朝鮮半島を勢力圏下に置き、日露戦争の当初目標を達成した。12月22日、桂内閣は総辞職、立憲政友会の西園寺公望総裁に大命が降る。 世人は「小山縣内閣」「第二流内閣」と揶揄したが、桂は批判に対して勅命が降下したのだから仕方が無い、というスタンスをとり続けた[8]。 桂は首相就任と同時に予備役となるはずであったが、天皇の意向により現役であり続けた。桂は9月に小村寿太郎を外相に起用した。1901年(明治34年)には、後に日本商工会議所の前身となる商業会議所の設置法を成立させ、各地における50名以下の選出議員からなる商業会議所の設立を推進した。この商業会議所制度は、後継の商工会議所法により廃止される1927年まで続いた。 8、日露戦争1904年に日露戦争が起きた。桂は、明治天皇から参謀総長であった山縣の頭越しに戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めていった。しかし国民の人気は得られず、ポーツマス講和条約の内容に関する鬱積に端を発する日比谷焼打事件も、この第1次桂内閣の末に起こっている。 内閣の動き 前内閣の第4次伊藤内閣は、伊藤博文筆頭元老が超然主義(衆議院の民意から意図的に距離を置いた藩閥主体の政権運営)からの脱却、議院内閣制の導入を模索し、衆議院に勢力を持っていた在野の政党を糾合して立憲政友会を政権与党として組織したが、藩閥を主宰していた山縣有朋元老の意趣返しによる貴族院との反目や政友会内の対立などで、1年足らずで政権は崩壊した。後任首相の選定において、元勲世代では、元老の筆頭であった伊藤と次席の山縣が反目しており、松方正義元首相は過去の2度の内閣が議会対策で失敗しており、西郷従道・大山巌両元帥は軍務畑であったことから、最後に残った井上馨元内相に大命降下される。しかし、井上が引き続き政友会を与党としようとしたが、これに対して井上と近しかった財界が反発、政友会の党内対立も続いており、さらに蔵相に期待していた渋沢栄一の就任が実現しなかったことから、組閣を辞退する。 元老会議では続いて、桂太郎前陸相を首相に推薦し、桂に大命降下される。桂は山縣の引き立てで陸軍から取り立てられた経緯があり、山縣が主宰する藩閥の後継者と目されており、組閣時の大臣人選も、山縣有朋系官僚が中心であった。世代的にも元勲世代であった過去の首相経験者(伊藤、山縣、松方、前年死没した黒田清隆、議会勢力として野にあった大隈重信)の次の世代になっており、山本権兵衛海相が同格の桂の部下になることを嫌って留任を渋るなど、当初は桂本人のリーダーシップの不足を山縣が補うことが想定されたことから、「小山縣内閣」などと揶揄される船出になった。また、議会対策については、立憲政友会、憲政本党(大隈総裁)などの主要政党は野党に回り、与党は帝国党のみという、オール野党に近い状態での船出となった。 桂内閣の懸案事項は、義和団事件で表面化したロシア帝国との対立であり、以下の4か条の政綱を定めた。 商工業の発達 海軍拡張 英国との協定の締結 韓国の保護国化 ちょうどこの頃、英国は栄光ある孤立からの脱却を模索しており、クロード・マクドナルド駐日公使からの日英連携の提案を受けて、桂内閣は8月5日、林董駐英公使に交渉開始の訓令を下す。同時に次善の策としてロシアとの関係改善の可能性も探るべく、9月18日、伊藤筆頭元老が外遊に出発する。10月16日から林公使とヘンリー・ペティ=フィッツモーリス英外相との交渉が始まる中、11月28日に伊藤筆頭元老はウラジーミル・ラムスドルフ露外相と意見交換をはじめ、英国側に日露協商の可能性をほのめかせ、揺さぶりをかけた。これによって英国側も妥協に動き、12月7日、元老会議で日英同盟の締結を決定、調印に至る。 一方、内政においては、10月に米国での交際募集に失敗したことにより、予算不成立の危機に直面するが、各省が予算組み替えを行うことによって乗り切る。議会では政友会を筆頭に政府攻撃が行われるが、対露交渉中の伊藤総裁から、現況での国家的理由のない政府攻撃を戒める意向が伝えられ、更に桂内閣側からの切り崩しで勢力が議会の過半数を失うなどしたことから、最終的に政友会も矛を収めた。 1902年1月30日に日英同盟が調印され、対露方面はロシアの反応待ちの状態になる。4月8日、露清満洲撤兵協約が締結され、ロシア軍の満洲撤兵がはじまる(実際には一部が履行されたのみ)。6月14日には北清事変の講和条件付帯議定書に調印。8月10日、任期満了による第7回衆議院議員総選挙。外交的に一段落した時期の選挙であったため大きな勢力変更はなく、政友会は過半数を回復する。 選挙後、地租増徴の期限の延長が争点になる。桂内閣としては、期限を延長して増徴分を海軍拡張費に当てる見込みであったが、桂首相が頼んだ政友会内では、先の総選挙でも増徴反対を公約に掲げた候補もいたことから反対運動が白熱。伊藤総裁もこの動きに抗することができず、12月3日に第二党の憲政本党の大隈総裁と協約を結ぶ。翌4日、政友会、憲政本党はともに党大会を開き、増徴打ち切りを決議する。9日、第17回帝国議会召集。衆議院では政友会の有力者であった原敬が予算委員長になり、地租増徴を否決しようとしたため、政府は議会を停会、児玉源太郎台湾総督や近衛篤麿貴族院議長などが調停を行うが果たせず、28日、衆議院解散。 選挙を行っても、政友会と憲政本党の合同での過半数は動かず、政権運営は困難を極めることが想像されたことから、桂首相は伊藤総裁の一本釣りを企図。翌1903年1月2日、伊藤総裁が葉山御用邸に伺候した帰路に葉山の自身の別宅に招待し、過去の思い出話や泣き落としなどで、一晩かけて伊藤と和解を成立させる。伊藤との密約で打開の糸口をつかんだ桂の指示により予算の組みなおしが行われ、地租増徴継続案は中止、海軍拡張費には鉄道建設費を回し、玉突きで鉄道建設費に公債を充てる案を作成し、2月22日、伊藤との内談が終わり、密約が成立する。3月1日、第8回衆議院議員総選挙。政友会は単独でわずかに半数を割ったが、憲政本党と合わせると大きく過半数を達成した。桂・伊藤間での妥協なので対外的には藩閥と政友会の対立は継続しており、選挙中から大浦兼武警視総監を筆頭に選挙干渉、政友会攪乱を行い、原敬ら政友会首脳はこれに応じた党内の首謀者を除名、伊藤も桂が密約の裏で警視庁を動かしていると誤解して一時態度を硬化させる。更に、4月に神戸で行われた観艦式や大阪で開かれた内国勧業博覧会で政府首脳や代議士が上洛した折、大阪で政友会有志が会合を開き、それまで総裁専制が定められていた党則の改正を要求、政府攻撃に乗り気でない伊藤総裁を突き上げた(大阪一揆)。
2024年08月28日
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四侯会議・朝敵からの赦免・小御所会議 慶応2年(1866年)9月に長州征討の停戦合意が成立したものの、長州藩は朝敵とされたままだった。慶応3年(1867年)5月に四侯会議が開催され、長州問題と兵庫開港問題が論じられたが、最終的には兵庫開港および長州寛典論(藩主毛利敬親が世子広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)が奏請され、明治天皇の勅許を得ることが決定した。これを受け、同年12月8日に二条斉敬が主催した朝議にて毛利敬親・定広父子の官位復旧が決定し、長州は朝敵を赦免された。 翌12月9日に開かれた小御所会議により新政府が成立し、明くる年の慶応4年=明治元年(1868年)1月25日、木戸が総裁局顧問に拝命され、明治新政府の最初期のかじ取りを任されることになる。 明治革命家木戸孝允 明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、また長州藩の軍事力(木戸がその統率者と認識されていた)が背景にあり、明治元年(1868年)1月にただ一人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。太政官制度の改革後、外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務していく。明治元年(1868年)以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、資本主義の弊害に対する修正・反対、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させた。 なお、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を、その当時に行っている。木戸は桂の叔父・中谷正亮とは親しくしていたため、中谷の甥である桂にも目をかけていた。だが、木戸は帰国した明治6年(1873年)7月、政争の合い間に桂のために切り替え手続きを行ったものの、桂は10月半ばに留学を打ち切って帰国した。明治19年(1886年)、伊藤博文内閣は、陸軍の軍制改革に当たって、経費節減を命じた。陸軍省は現役兵の帰休(予備役化)による縮小と、代人料(一時期導入されていた、金納による徴兵免除)制度の復活で、経費節減を実現しようとした。 第1次伊藤内閣(だいいちじ いとうないかく)は、参議の伊藤博文が第1代内閣総理大臣に任命され、1885年(明治18年)12月22日から1888年(明治21年)4月30日まで続いた日本の内閣である。 明治政府は、廃藩置県の詔書を公布した明治4年(1871年)7月14日、長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信の4人による薩長土肥1人ずつの参議内閣をつくり、このとき初めて、廃藩置県の断行も可能そうな、内閣らしい内閣を実現することに成功した。そして、これ以降、太政官の議政官(立法府員)である参議がしばしば各省庁の長官である卿(行政府員)を兼務しつつ参議内閣を構成し、ほぼ毎朝皇居に集まって議論や決裁を行いつつ統治を行ない続けていた。ところが、欧米諸国の制度を視察・調査した影響および明治政府内外の諸事情から、参議たち自身が内閣(行政府)の主宰者が明白な内閣、いわば、リーダーがいて強力そうに見える内閣を志向するようになり、1885年(明治18年)12月22日の太政官達第69号「太政大臣左右大臣等ヲ廢シ内閣總理大臣等ヲ置ク」および内閣職権の制定により、首班指名された内閣総理大臣およびその者が任命した各国務大臣によって構成される首班指名制内閣に移行することとなった。その最初の内閣がこの第1次伊藤博文内閣である。桂はこれに反対する目的で、川上操六、川崎祐名と連名で、大山巌陸軍大臣宛に「軍政上改革に就き建議書」を提出した(公爵桂太郎伝. 乾巻 - 『公爵桂太郎伝 乾巻』 )。桂らの主張は、以下の内容だった。現役兵の帰休で節減できるのは「僅少の金額」であり、経費節減には抜本的な軍制改革が必要である軍隊の目的は二つある。第一は、「單に敵國の襲来を防禦」し、局外中立を守るための目的で、欧洲の二等国の目的はこれである。第二は、「大いに武威を輝かし」、他国の干渉を受けずに「他働の兵を養ふ」目的で、欧洲の(多数の植民地を支配している)一等国の目的はこれである。本邦の軍制の目的は、「決して此第一に止まらず」第二の目的がある。欧洲の諸強國は、徴兵の任期は3-5年で、十分な教育を行って非常時に備えている。徴兵の途中で兵を帰休させてしまえば、十分な教育を施せず、帝國は二等国に甘んじるしかない。代人料を復活させれば、「資産品行あるもの」はみな徴兵免除を選ぶから、兵士の質が低下する。兵士の帰休と代人料復活が「大いに不可」なのは、一等国の軍制を二等国に後退させるばかりか、「未開の地位に退却」させてしまうからである。他省庁の手前、どうしても経費節減を免れないのなら、東京湾海防予算削減などを行うべきである。大山は桂らの建議書に賛同したが、行政整理のためにさらなる調査を命じたという。 6、首相就任日清戦争後日清戦争には名古屋の大日本帝国陸軍第3師団長として出征した。 ◯日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日であり、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で両国は交戦し、日本側の勝利と見なせる日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。 講和条約の中で日本は、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費となった。 以下「和暦を含む西暦(中国暦)」という形式で年月日を表記する。特に断りがなければグレゴリオ暦である。 1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し大規模な農民反乱が勃発した。自力での鎮圧が不可能なことを悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も先年締結の天津条約に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し、5日に大本営を設置した。日本側も部隊を送り込んできたことを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないと主張して、安全保障のための内政改革の必要性を唱え、15日に日清共同による朝鮮内政改革案を清国側に提示したが、清国政府はこれを拒絶した上で日清双方の同時撤兵を提案した。これを受けた日本政府は24日に朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送った。同時に日本の追加部隊が朝鮮半島に派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し、日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。 日清開戦 1894年7月上旬、日清同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、朝鮮内政改革を要求する日本側の間で交渉が続けられたが決裂状態となり、14日に日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。 その一方で日本はイギリスとの外交交渉を続けており、7月16日に日英通商航海条約を結ぶことに成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌17日に清国との開戦を閣議決定し、23日に朝鮮王宮を事実上占拠して高宗から朝鮮独立の意志確認と清国兵追放の依頼を引き出した。
2024年08月28日
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吉吉田松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。しかし、来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の下田踏海への対応に弱っていた藩政府をさらに驚愕させる。倒幕方針を持つ以前の長州藩政府が、幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎はそれまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、 兵学家で幕府代官の江川英龍から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ 浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ。短い修学期間であったが、互いの人格を認めあい、中島の家族からも厚遇された。開明家ながらも中島は幕臣としての立場を貫徹し、箱館戦争の際に2人の息子と壮絶な戦死を遂げた。一方、明治政府成立後も木戸は中島の恩義を忘れず、遺族の保護に尽力している。明治9年(1876年)の奥羽・北海道巡幸に随従した木戸は、往時を回顧して慟哭した。 幕府海防掛本多越中守の家来・高崎伝蔵からスクーナー洋式帆船造船術を学ぶ 長州藩士・手塚律蔵から英語を学ぶ(維新の三傑の中で、木戸のみが英語で外国人と会話できたという) など、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。 安政5年(1858年)3月、長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会で兵学書の講義を行った大村益次郎(この時点では村田蔵六)と知り合う。その後交流を深め、大村を長州藩士に迎えるよう尽力した。大村が実際に長州藩士となったのは、万延元年(1860年)。文久元年(1861年)正月に大村は国入りしている。 安政5年(1858年)8月、長州藩江戸藩邸の大検使役に任命される。吉田松陰が人材登用のために小五郎を藩上層部に熱心に推薦したことによるもの。同年10月に結婚のため萩に戻る。同年12月24日に松陰の自宅を訪ね、老中間部詮勝の暗殺計画を諫めたため、松陰はこれを断念するも、別の計画(伏見要駕策)を立案したため松陰は野山獄に投獄される。松陰は松下村塾生たちの諫言は聞き入れなかったが、小五郎の言葉には「桂は厚情の人なり。この節同士と絶交せよと。桂の言なるをもって勉強してこれを守るなり」として聞き入れている。 安政6年(1859年)、長州藩江戸藩邸の藩校である有備館の御用掛に任じられ、後輩藩士の育成にも大きく関わった。同年10月27日、吉田松陰が処刑される。小五郎は、伊藤博文らと共に遺体をひきとり、埋葬した。 万延元年(1860年)7月2日、大村益次郎と連名で「竹島開拓建言書草案」を幕府に提出する。ただしこの時の竹島は、現代で言う「鬱陵島」であると考えられている。 万延元年(1860年)7月、水戸藩士の西丸帯刀らと丙辰丸の盟約を結ぶ。 文久2年(1862年)1月15日、坂下門外の変が起きる。その事件に関わるはずだったが遅刻して参加できなかった水戸浪士川辺左治右衛門が小五郎のもとを訪ね、切腹死してしまう。坂下門外の変との関わりを幕府から追及された小五郎であったが、航海遠略策により幕府や朝廷に注目されていた長井雅楽の尽力によって釈放される。 同じく文久2年、京都で学習院御用掛に任命され、朝廷や諸藩を相手に外交活動を行う。 文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助・久坂玄瑞(義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付・長井雅楽が唱える幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。これにより長井雅楽と、小五郎の義弟(妹治子の夫)である来原良蔵が切腹する。来原良蔵自決の報せを聞いたとき、小五郎は顔を覆って泣き、周囲の者ももらい泣きしたという。 文久2年(1862年)6月、勅使大原重徳が江戸へ赴き、勅書として 1.将軍徳川家茂に上洛させること 2.攘夷を実行させること 3.徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老相当職(結果として新設の政事総裁職になった)に就任させること を幕府に要請した(文久の改革)。このうち1が小五郎の、2が岩倉具視の、3が島津久光の進言が基になったとされる。この勅書に応じ翌文久3年に家茂は上洛したが、このことにより天皇>将軍という格付けがさらに印象づけられた。 文久2年(1862年)閏8月、会津藩士秋月悌次郎に面会し、京都の事情等について情報を伝える。 同じく閏8月、周布政之助とともに、政事総裁職になった松平春嶽に面会。幕府に攘夷実行を迫るよう伝えた。その後、横浜のイギリス商会で軍艦購入の交渉を行った。後に井上馨らが担当して購入し、壬戌丸と名付けられた。 長州藩の軍艦は、外国から購入した壬戌丸・癸亥丸と、恵美須ヶ鼻造船所で建造された丙辰丸・庚申丸が下関戦争に用いられた。壬戌丸は四境戦争(第二次長州征伐)前に売却されたが、薩長同盟を経て購入された乙丑丸が龍馬の指揮の下で四境戦争に加わった。 文久2年(1862年)9月、対馬藩士大島友之允と面談、対馬藩主宗義和に関わるお家騒動の解決の斡旋を行う。先代対馬藩主宗義章の正室慈芳院が、長州藩10代藩主毛利斉熙の娘であった縁もあり、以降幕末史において対馬藩は長州藩と深い関係を保つ。 同じく9月、横井小楠と会談。横井の開国論が戦略論であり、小五郎らの攘夷論が戦術論であることを確認しあい、基本的には一致すること(開国を目的とする攘夷論)を了解しあった。 文久3年(1863年)3月、水戸藩士吉成勇太郎らを上京させた。 同じく3月の末頃、宍戸璣(当時は山県半蔵)とともに勝海舟を訪問し、海外に関する意見を聞く。勝は「海軍興隆は、護国の大急務、後世の基本成るべし。今後れたりとて、手を下さざる時は、後また今の如く。終に興起の基立つべからず。今用に応ぜざるとも、後世の国益を思はざるは、丈夫の事にあらず」と伝えた。 同年4月下旬、対馬藩士大島友之允とともに再び勝海舟を訪問し、朝鮮問題を論じる。対馬藩は、地理的に最も朝鮮に近い位置にあり、また2年前の文久元年にロシア軍艦対馬占領事件が起きたばかりということもあり、海外情勢は切実な問題であった。勝は「当今亜細亜州中、欧羅巴人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁がるべからず。先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後支那に及ばんとす」と述べた[21]。翌年の元治元年(1864年)には、大島は朝鮮進出の建白書を提出している。明治の最初期に木戸が征韓論を主張したのは、この時の論が基になっていると考えられる。 欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着し、5月8日、長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名(井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。 5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める。この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した幕府が英米仏蘭4カ国に賠償金を支払うということで決着する。 5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞・真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す。文久3年(1863年)8月18日、八月十八日の政変が起こる。三条実美ら急進的な尊攘派公家と長州藩士が京都から追放された(七卿落ち)。
2024年08月28日
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5明治維新後明治3年(1870年)8月、桂は帝政ドイツに留学した。但し、賞典禄を元手にした私費留学であったことから現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団のためドイツへ来訪した木戸孝允を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。 木戸 孝允(きど たかよし、天保4年(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の幕末から明治時代にかけての政治家。号は松菊、竿鈴。 明治維新の指導者として大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期は桂小五郎の名で活躍した。 長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1849年に吉田松陰の門弟となり、1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、高杉晋作や久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となった。1862年以降には藩政の要職に就く。1864年の池田屋事件及びその直後の禁門の変により、但馬出石で8ヶ月の潜伏生活を余儀なくされた。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜った。1866年には藩を代表して薩長同盟を締結している。 新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任。1868年(慶応4年=明治元年)に五箇条の御誓文の起草・監修にあたり明治維新の基本方針を定めた他、版籍奉還や廃藩置県など、封建的諸制度を解体して近代社会(市民社会・資本主義社会)と中央集権国家確立をめざす基礎作業に主導的役割を果たした。1871年には岩倉使節団に参加し、諸国の憲法を研究した。1873年に帰国したのちはかねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では資本主義の弊害に対する修正・反対や、国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進した。また内政優先の立場から岩倉具視や大久保利通らとともに西郷隆盛の征韓論に反対し、西郷は下野した。 憲法制定を建言していたが、大久保利通に容れられず、富国強兵政策に邁進する大久保主導政権に批判的になり、政府内において啓蒙官僚として行動。1874年には台湾出兵に反対して参議を辞した。翌年の大阪会議においては将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保批判をすることが多く、晩年は政府内で孤立しがちだった。地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、復職後は健康が優れず、西南戦争中の1877年(明治10年)5月26日に出張中の京都において病死した。西南戦争を憂い「西郷よ。いいかげんにしないか」と言い残したという。 その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。 少年時代 天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に長州藩の藩医である和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。母はその後妻。前妻が生んだ異母姉が2人いる。実子としては長男であるが、長姉に婿養子・文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、小五郎は次男として扱われた。天保11年(1840年)、7歳で向かいに住んでいた藩士桂孝古の末期養子となり、藩の大組士に列して禄(90石)を得た。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父母・次姉と共に育つ。 少年時代は病弱でありながら、他方で悪戯好きの悪童でもあり、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶという悪戯に熱中していた。ある時、水面から顔を出し船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり額から血を流しながらもニコニコ笑っていたという。このときの額の三日月形の傷跡が古傷として残っている。 10代に入ってからは、藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。 嘉永元年(1848年)、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。 嘉永2年(1849年)、吉田松陰に山鹿流兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。 小五郎18歳の嘉永4年(1851年)、実父の和田昌景が72歳で没。銀10貫(当時のレートで金170両に相当する)と、継続的な不労収入が見込める貸家などの不動産を相続した。和田家(20石)と残りの動産(銀63貫余り)・不動産は義兄の文譲が継いだ。 小五郎はカネで武士の位を買ったと陰口を言われないように、剣術や学問に励んだ。 剣豪桂小五郎 弘化3年(1846年)、長州藩の剣術師範家のひとつの内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降は剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められる。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎の江戸へ帰途に5名の藩費留学生たちと他1名の私費留学生に随行し、私費で江戸に上る。 江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受ける。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となった。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡辺昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつける人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。 幕府講武所の総裁・男谷信友(直心影流)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間練兵館の塾頭を務め、剣豪としての名を天下に轟かせる。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。また、近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたといわれるが、桃井春蔵や男谷信友に対しても同じような逸話があるため、本当に桂小五郎をそう評したかどうかはわからない。 一説には、安政5年(1858年)10月、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、士学館の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐国に帰郷していたとの説もある。 安政4年(1857年)3月、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬と対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、2017年10月30日に発見された。 留学希望・開国・破約攘夷の志士 マシュー・ペリーが最初に来航した嘉永6年(1853年)、海防の必要性を実感した幕府は大船建造禁止令を撤回し、雄藩に軍船の建造を要請した。さらに江戸湾防衛のための砲台(お台場)建設を伊豆代官江川英龍に命じた。ペリーが浦賀に入港する時には、長州藩は大森海岸の警備を命じられており、その際に小五郎は藩主毛利慶親の警固隊の一員に任じられ、実際に警備にあたった。海外の脅威を目の当たりにした小五郎は、その後直ちに練兵館道場主の斎藤弥九郎を通して江川英龍に弟子入りし、海岸線の測量やお台場建設を見学し、兵学・砲術を学ぶことにした。それとほぼ同時期に、藩に軍艦建造の意見書(『相州海岸警衛に関する建言書』)を提出した。この提言を受け、嘉永7年1854年に藩主毛利慶親は洋式軍艦を建造することを決定し、さらに安政3年(1856年)に長州藩は恵美須ヶ鼻造船所を開設、君沢形(スクーナー)軍艦丙辰丸と、バーク型軍艦庚申丸が製造された。 小五郎は練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(嘉永7年1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など幕府領5カ国の代官である江川英龍に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。
2024年08月28日
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この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。 一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩、桑名藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・大多喜藩主松平正質)を京都へ向け行軍させた。 臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。— 討薩表(部分) 戦闘の勃発 慶応4年(1868年)1月2日夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。藩邸には三万両余りの軍資金が置かれていたが、藩士・税所篤が藩邸に火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金が幕府の手に渡る事は無かった。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。 新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により5日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。 この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。 鳥羽・伏見の戦いの与えた影響 1月5日、山陰道鎮撫総督・西園寺公望及び東海道鎮撫総督・橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩・桑名藩・高松藩・備中松山藩・伊予松山藩・大多喜藩の官位剥奪と京屋敷没収、3月7日に姫路藩が追加された。また、藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩・大垣藩・宮津藩・延岡藩・鳥羽藩には藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。ただし、大垣藩は1月10日の時点で藩主が謝罪と恭順の誓約を出していたことから、13日に新政府軍(中山道総督)の先鋒を務める事を条件に朝敵から外す確約を与えられて4月15日に正式に解除、更には戊辰戦争の功によって賞典禄まで与えられている。なお、同藩の場合、新政府参与に同藩重臣(小原忠寛)がおり、彼のとりなしを新政府・大垣藩双方が受け入れた事が大きい。 11日には改めて諸大名に対して上京命令が出された。これはそれまでの諸侯による「公平衆議」の開催を名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的としていた。これによって新政府はこれまで非協力的な藩に対して、恭順すれば所領の安堵などの寛大な処分を示す一方で、抵抗すれば朝敵(慶喜及び旧幕府)の一味として討伐する方針を突きつける事になった。特に西日本では慶喜討伐令と上京命令と鎮撫軍の派遣の報を立て続けに受ける事になり、所領安堵と追討回避のために親藩・譜代藩も含めて立て続けに恭順を表明し、鳥羽・伏見の戦いに関わったとして「朝敵」の認定を受けた藩ですら早々に抵抗を諦めて赦免を求める事となった。1月末には藩主が慶喜とともに江戸に逃亡した桑名藩ですら、重臣や藩士達が城を新政府軍に明け渡し、3月には近畿以西の諸藩は完全に新政府の支配下に入った。 1月、長州軍が大坂城を接収、大坂は新政府の管理下に入った。同日、東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行い、日本は内戦状態と認定された。20日、北陸道鎮撫総督・高倉永祜が発遣された。また、神戸事件に誘発される形で、堺事件も発生した。 幕府及び旧幕府勢力は近畿を失い薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。秋田戦争では、まず庄内戊辰戦争春の陣で負け、奥羽列藩同盟の成立を許し、その後弘前藩に入藩することを拒否され、東北諸藩を説得できないふがいなさに能代では自殺も考えたものの、なんとか久保田藩を新政府側に寝返らせることに成功する。その後、7月11日金山の戦いで仙台藩軍に壊滅的な打撃を与え、新庄藩を寝返らせることに成功するものの、14日には人数では勝っているはずの新庄の戦いで酒井吉之丞率いる庄内藩軍に負け、庄内藩や仙台藩相手に、新政府軍の増援が到着するまで延々久保田藩内で撤退戦を行わざるを得なくなった。 ◯新庄の戦い(しんじょうのたたかい)は、戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した新庄藩が、薩摩藩や長州藩と共に奥羽列藩同盟の庄内藩を中心とした旧幕府軍を相手に繰り広げた一連の戦いの総称である。 戊辰戦争時新庄藩の藩論は、勤王に一致していたが、慶応4年4月12日に、仙台にあった奥羽鎮撫総督府に、筆頭家老である川部伊織が出頭した時に、川部は庄内征討軍への出兵を命じられた。閏4月23日、鎮撫副総督の澤為量が薩長を中心とする討庄軍を率いて新庄に入り本営を置いた。討庄軍は、24日、清川口から攻撃を開始して、新庄藩の三つの小隊が出兵した。奇襲を受けた庄内軍は形勢を整えて、猛反撃を開始した。 閏4月20日に、総督府参謀世良修蔵が暗殺されて、閏4月23日に奥羽越列藩同盟が成立する。新庄藩は用人舟生源左右衛門が署名して同盟に参加した。 総督千坂太郎左衛門に率いられた米沢軍1000名と庄内藩、上山藩、山形藩、天童藩を加えた総勢2000名の奥羽越列藩同盟軍が新庄を目指して北上した。 これに驚いた澤為量は29日朝に、久保田藩(秋田藩)の領内へ脱出し、新庄藩は同盟軍を城下に迎え入れた。近習頭の竹村直記が鶴岡に行き、庄内藩家老の松平権十郎に会い、清川口の戦いの謝罪をした。 その後新庄藩は同盟を離脱する。7月14日、羽州街道の松平甚三郎が率いる、庄内藩一番大隊が進撃する。庄内藩二番大隊は西方に迂回して、長者原(最上郡舟形町)、角沢(最上郡戸沢村)を通る道より新庄を攻撃するために進軍した。 庄内藩一番大隊と松山藩の中隊が、午前8時に舟形を出発し、羽州街道を北上した。午前10時頃、先遣隊が突然左右の高地から一斉射撃を受け、死傷者が続出した。反撃しようとしたが、一番大隊の参謀長坂右近之助の提案で、正午頃撤退した。 酒井吉之丞が率いる二番大隊は、南西方向から新庄を攻撃した。長者原と角沢で新庄藩より攻撃を受けながら前進して、清水で昼食を取り、福田・仁間村方面に進んだ。 一番大隊が敗走した後も、二番大隊は間道で、新政府軍と激しい交戦を続けた。午後になって、新庄兵は仁間村付近を援軍を送り、佐賀藩、長州藩の半分も援軍に向かうが、薩摩藩と残りの長州藩は城下に引き上げる。2時間の激戦の後、新政府軍は敗走を初め、庄内藩軍は城下に一気に攻め込んだ。
2024年08月28日
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6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉った。長州に同情し寛大な措置を要望する他藩士や公卿もいたが、薩摩藩士・吉井幸輔、土佐藩士・乾正厚、久留米藩士・大塚敬介、田中紋次郎は議して、長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、7月17日朝廷に建白した。 長門宰相父子之儀、去年八月以来、勅勘候。未其藩臣歎願とは乍申、人數兵器を相携、近畿所々へ屯集奉要、天朝候姿無紛候處、寛大之御仁恕を以て、再度理非分明之被爲在御沙汰候得共、今以抗言不引拂段甚如何にも奉存候。就而者、譬申立候筋條理有之共、決而此儘御許容被爲在儀、萬々有御座間敷と奉存候得共、自然右邊御廟議にも被爲在候而者堂々たる天朝之御威光乍ら廢替、實以御大事之御場合に奉存候。方今夷難相迫り不容易御時際、一旦 朝權、地に落候而者、後日何を以て皇威振興可仕哉。甚不可然儀に付、速かに斷然と御處置被爲在候様状而奉懇願候。不肖我々共禁裡警衛相勤候儀も全く 朝威不廢替様盡力仕候。武門當然何分難黙止奉存に付、三藩在京之重役共一同申談奉歎願候事。※ (元治元年)七月十七日朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、18日夜には有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。禁裏御守衛総督・徳川慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。久坂は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島、真木らの進発論に押され、やむなく挙兵した。 戦闘経過 7月9日、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。一時福原隊と国司信濃・来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。狙撃を受け負傷した来島又兵衛は自決した。 真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知ったが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。しかし守る越前藩兵を破れず、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で自害した。遺命を託された入江九一はしかし鷹司邸を塀を乗り越えて脱出した時に越前藩士に発見され、槍で顔面を突かれて死亡した。 帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。 生き残った兵らはめいめいに落ち延び、福原・国司らは負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退した。天王山で殿となっていた益田隊も敗報を聞くと撤退して、長州へと帰還した。 主戦派であった真木保臣は敗残兵と共に天王山に辿り着いたが、益田らその他の勢は既に離脱しており、合流に失敗した。真木らは兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もった。20日に大和郡山藩の降伏勧告を無視し、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり、火薬に火を放って自爆死した。大沢逸平はその場を逃れ、真木の遺言を高杉晋作や三条実美らに伝えるために長州藩に向かった。 戦後 御所に向かって発砲したこと、藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、23日には藩主・毛利慶親の追討令が発せられ、長州藩は朝敵となった。また、慶親は幕府により、12代将軍・徳川家慶から賜った「慶」の偏諱を剥奪され、「敬親」と改めた。敬親の継嗣・毛利定広も同様に13代将軍・徳川家定から賜った「定」の諱を剥奪され、「広封」と改めた。長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされ、薩摩や会津への深い遺恨が後世に伝わっている。 一方、薩摩藩と交戦して死亡した20人の遺体は、薩摩藩により相国寺の塔頭寺院の大光明寺に葬られ、1906年(明治39年)になって毛利家により墓石が建立された。 鷹司邸で戦死した入江ら久坂隊の戦死者の首級は福井藩士が前藩主・松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した為、明治30年代に碑石が修築された。 ◯毛利 元徳/定広(もうり もとのり/さだひろ)は、長州藩第14代藩主。長州藩最後の藩主。のち公爵。位階は従一位。勲等は勲一等。 徳山藩第8代藩主・毛利広鎮の十男として生まれる。母は三宅才助の娘で側室の多喜勢(滝瀬)。広鎮は還暦を迎えた2年前の天保8年(1837年)に隠居し、すでに成人していた七男(元徳の異母兄)の元蕃が藩主を継いでいた。元徳の兄には他に福原元僴(越後、長州藩家老福原家を継ぐ)、秋元志朝(山形藩主、のち館林藩主)らがいる。徳山毛利家は長州藩祖輝元の男系の血筋を伝える毛利家の分家であったが、広鎮の曾祖父元次(輝元の孫)が毛利家の後継候補から外されたことが元で、長州藩内に確執を生んでいた。輝元直系の長州藩主は、4代吉広以来となる。 嘉永5年(1852年)2月27日、先代藩主の毛利慶親(のちの敬親)に嗣子がないため、元徳もその養子となる。はじめは広封(ひろあつ)と名乗るが、安政元年(1857年)2月18日、養父・慶親の嫡子となった。同年3月9日、従四位下侍従・長門守に叙任する。また、将軍・徳川家定から偏諱(「定」の一字)を受けて定広(さだひろ)と名乗った。 安政5年(1858年)、長府藩主毛利元運の次女銀姫(安子)と婚儀を挙げる。銀姫は元徳と前後して慶親の養女となっていた。 元治元年(1864年)7月14日、禁門の変に際し三条実美らをともない、兵を率い京都に向かう。だが7月21日、禁門の変の敗北を知り、山口に引き返す。8月22日、幕府により官位を剥奪された。また、「定」の字を召し上げられて広封に戻す。明治維新後に元徳と改名する。 元徳は慶応4年(1868年)2月上洛し、3月議定に就任する。明治2年(1869年)6月4日、養父・敬親の隠居で跡を継ぎ、従三位・参議となった。就任後、まもなく版籍奉還で知藩事となった。明治4年(1871年)、元徳は廃藩置県で免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。 明治29年(1896年)12月23日に死去した。57歳没。国葬が営まれた。号は忠愛公。
2024年08月28日
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外相加藤高明、内相原敬、蔵相阪谷芳郎、陸相寺内正毅、海相斎藤実、法相松田正久、文相牧野伸顕、農商務省松岡康毅、逓相山県伊三郎という顔ぶれで、政友会員は西園寺・原・松田の3人にすぎなかった。阪谷が伊藤博文、牧野が松方正義、松岡が桂太郎への配慮であり、逓信大臣は山県有朋の養嗣子であった。総辞職を表明してから後継内閣が成立するまでの間に、桂内閣は鉄道国有化法案を閣議決定したが、西園寺内閣はこれに修正を加えて議会に提出し、可決後の1906年3月に鉄道国有法を公布した[3]。 桂は元来、政党政治に不信感を抱いており、政友会による政権運営にも強い不満を持っていた。そのためしばしば批判を行なったが、1910年(明治43年)に発生した大逆事件により政治的ダメージを受けた第2次桂内閣は政友会との妥協体制なしには国内諸政策を遂行できなかった。桂は大逆事件関係者といった「猛悪志素」とくらべると、政友会は相対的に「温和なる分子」であるため、彼らを利用し「国勢の進運に任ぜしむるもまた時勢に適したる法弁(ママ)」と思い直して、1911年(明治44年)1月26日に西園寺や原、松田正久と会談して妥協が成立した。 1911年(明治44年)1月29日、当時の桂首相が政友会議員と会合した際に、「情意投合し、協同一致して、以て憲政の美果を収むる」と述べた。この時、桂が述べた情意投合(じょういとうごう)という語は、官僚・軍部勢力と政友会が暗黙のうちに意思疎通を図って政権運営に協力していくという桂園時代の政治体制を意味する言葉として、当時広く用いられた。両者の関係は日露戦争中の1904年(明治37年)12月頃から提携が模索され、戦争終結後の1906年(明治39年)1月に桂は西園寺を後継首相として退陣したことから本格化し、1912年(大正元年)12月に二個師団増設問題で西園寺・政友会と桂・軍部が対立して第2次西園寺内閣が崩壊するまで続いた。 桂園時代は、日英同盟の締結から日露戦争の勝利、韓国併合など日本の国際的地位が著しく向上し、陸奥宗光や小村寿太郎らの努力によって条約改正を達成し、また、重工業の発展のめざましい時期にあたっていた。一方で労働問題や公害問題など従来見られなかった問題も現出した。日本の国際的地位向上に尽くした桂に対し、陸奥の遺志を継いで原を育てた西園寺は来るべき「大正デモクラシー」に道に開いたといえる。 特質 日本史学者の千葉功は、桂園時代を「内政面・外政面とも、戦前期日本における相対的安定期であった」とし、その体制の特質として桂率いる陸軍・官僚・貴族院と西園寺率いる政友会との相互補完関係を挙げている。 しかし、「桂園体制は固定的かつ静態的なものではなく、鋭い対立関係を内包するものであった」としている。また、「政友会による永久政権を目指す、原敬にとってみれば西園寺内閣では不十分であったし、桂にとっても政友会との情意投合は常に政友会への譲歩を行なわなければならない点であきたらなかった。まして、公爵へ昇りつめ、また日露戦争の勝利により明治天皇の信任を篤くしていた桂は、自信を深めており第2次西園寺内閣成立以後は桂園体制を破棄する方向へ進んでいった」としている。大正2年(1913年)2月20日に辞任する(第3次桂内閣総辞職)までの内閣総理大臣通算在職日数は「2,886日」で、その後の百年以上に渡り日本の憲政史上最長となった。戦前戦後を通じて永らく歴代一位となる総理大臣在職日数であったが、令和元年(2019年)11月20日に第90・96・97・98代内閣総理大臣安倍晋三が「2,887日」となり在職記録を更新された。明治33年(1900年)9月15日には、拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である獨逸学協会学校の2代校長を明治20年(1887年)4月から同23年(1890年)7月まで務めた。第2次桂内閣時には韓国併合も行った(朝鮮の歴史:大韓帝国→日本統治時代の朝鮮)。 3「誕生から藩士」長門国阿武郡萩町、萩城下平安古(ひやこ、現・山口県萩市平安古)にて、長州藩士馬廻役・桂與一右衛門(125石)の嫡男として生まれる。幼少時に阿武郡川島村(現・萩市川島)に移り、万延元年(1860年)には藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入される。当初は「選鋒隊」に編入されたが、元治元年(1864年)、禁門の変などにより藩が存亡の窮地に立たされる中、7月に世子毛利元徳の小姓役となる。第2次長州征伐では志願して石州方面で戦う。 ◯禁門の変(元治甲子戦争)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。※ 以下の日付は、いずれも旧暦で記す。 前年の八月十八日の政変により京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。 畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。 大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢力は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させられることとなった。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局が主導されることとなった。 詳細は「一会桑政権」を参照 禁門の変の後に、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州の政治的復権を狙って薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。 なお、「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には当時の弾痕が残る。 戦前の経過 急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863年(文久3年)に公武合体派である会津藩と薩摩藩らの主導による政変(八月十八日の政変)の結果、長州藩兵は任を解かれて京都を追放され、藩主の毛利慶親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。一方、京や大坂に潜伏した数名の長州藩尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていた。 先の政変により対外戦争も辞さぬ急進的な攘夷路線は後退したものの、朝廷はなお攘夷を主張し続け、1864年(元治元年)、横浜港の鎖港方針が朝幕双方によって合意された。しかし幕府内の対立もあって鎖港は実行されず、3月には鎖港実行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間で長州藩の京都政局への復帰を望む声が高まることとなった。 長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴えようとする進発論が論じられた。進発論を主張したのは来島又兵衛、真木保臣らであり、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張した。慎重論を重く見た長州藩は、率兵上京を延期する代わりに来島を視察の名目で京都に向かわせた。京都の長州藩邸に入った来島は、火消装束や鎖帷子などを購入し、会津藩主・松平容保への襲撃を企てるが、警備が厳重だったため実現しなかった。 そんな中、雄藩による参預会議が失敗に終わり、公武合体派の諸侯が相次いで京都を離れたため、これを好機と見た久坂と来島は強く進発論を訴えた。 そして、6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていった。慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸真澂らは藩論の沈静化に努めるが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。益田、久坂らは山崎天王山、宝山に、国司、来島らは嵯峨天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えた。
2024年08月28日
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