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中央新聞時代と「政界往来」
蓮山にとっては人生のメンターであった原敬を失い、時事新報社を退社、47歳で蓮山は「文化通信社」なる月刊誌を発行した。大正12年(1923年)関東大震災を麹町下2番町で遭遇。そのすさまじさを『太陽』に投稿する。大正13年(1924年)1月、政友会が分裂する時期、政友会の機関新聞、中央新聞に主筆として迎えられた。大正14年(1925年)「政党哲学」を浩洋社より出版。大正14年(1925年)7月より中央新聞紙上に時事コラム「鼻苦笑」を蓮山生の筆名で毎日書き始める。その後「蟹の泡」「野の声」と題名の変遷はあったが昭和7年(1932年)8月まで続ける。震災での被害は免れたものの都内を避け田園都市開発のすすむ荏原郡馬込村出穂山(現・大岡山駅付近)に転居、自宅を手に入れた。
昭和に時代が変わり、原敬の偉業をまとめる原敬全集刊行会の編集委員となる。昭和4年(1929年)に完成。また立憲政友会報国史編纂人になり、上下巻を昭和6年(1931年)に完成した。昭和5年(1930年)木舎幾三郎が創刊した「政界往来」に同人として参加、毎号記事を提供した。この活動は中央新聞在籍中も続け、昭和10年(1935年)9月床次竹二郎が亡くなるまで5年間続いた。
昭和7年(1932年)犬養内閣ができると、内閣書記官長森恪からの要請で内閣嘱託となる。また鉄道省の嘱託もした。突然時事新報の武藤山治社長から社友として招かれる。昭和9年(1934年)3月武藤山治社長が暗殺された。これにより時事新報の再建は難しくなり、蓮山も退いた。政党政治の本場英国に1年ほど研究に出かけるつもりであったが断念、政党政治を分かりやすく紹介する目的で「政党政治の科学的検討」を野依秀市の秀文閣書房より出版した。
伝記編纂に取り組む
昭和14年(1939年)「床次竹二郎伝」を出版。昭和15年(1940年)念願の「原敬伝」に着手。7月「第二次近衛内閣、奇奇怪怪の政変有り。政党の醜態見るに堪えん。」蓮山は政界との縁を切り、もっぱら原敬伝完成に進むべく決心する。昭和18年(1943年)高山書院より出版。「原敬伝」は、戦後原敬日記が公開されるまでは、原敬研究の重要な文献であった。「中橋徳五郎伝」牧野良三編上巻執筆、下巻を蓮山が書き直し昭和19年(1944年)2月完成。昭和19年(1944年)12月故郷長崎の森山村に疎開した。しかし連日空襲警報に悩まされ、遂に8月9日長崎市内に原子爆弾が投下、15日に終戦を迎えた。
大命降下、晩年
明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するにいたった。組閣断念の理由について、歴史家の村瀬信一は渋沢をはじめとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥ともつながりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している。
大命拝辞したあとは後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。明治40年(1907年)、侯爵に陞爵。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席したときに尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復した。
明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された。明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車いすでの移動となる。大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。
生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日、財政面をおもに書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。昭和2年(1926年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて全5巻が刊行された。また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している。
陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「 平民宰相 (へいみんさいしょう)」と渾名された。
大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、大塚駅の駅員であった青年・中岡艮一に襲撃され、殺害された(原敬暗殺事件)。満65歳没。墓所は岩手県盛岡市の大慈寺。
古河鉱業(現:古河機械金属)の副社長にも就いていた。
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