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慶応元年(1865年)閏5月11日、 武市瑞山
を獄に断じ、次いで慶応2年(1866年)、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究した。
◯武市 瑞山 (たけち ずいざん)は、幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称の 武市 半平太 (たけち はんぺいた)で呼ばれることも多い。
幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。
土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子。板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる [2] 。
優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。
剣術家
文政12年9月27日(1829年10月24日)、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。 白札郷士 とは上士として認められたことを意味する。
天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ。嘉永 2 年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き [6] 、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。
安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政 2 年( 1855 年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった [7] 。この道場の門下には中岡慎太郎や岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡や香美郡での出張教授を行う。
安政3年(1856年) 8 月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。
同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている。
これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政 5 年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる [11] 。
安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信が大老・井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年)3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった。
同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている。
土佐勤王党結成
文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、 7 月に江戸に到着し、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した。
土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと提案し、この提案は一同の同意を得ることとなった。