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2024年04月25日
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「上総の武田氏」


上総武田氏は武田信満の子・ 武田信長 に始まる家系である。 古河公方 足利成氏 によって 上総国 の支配を認められて同国を支配した。


信長の息子・ 信高 の死後、 本家 庁南城 に、分家は 真里谷城 に本拠を構えた。嫡流は地名を取って庁南氏(ちょうなんし)を名乗ることもあった。


上総武田家最後の当主・ 武田豊信 は地元の伝承では甲斐武田氏の武田信玄の三男・ 信之 と同一人物とされており、 織田氏 による甲斐武田氏滅亡後に弟の 仁科盛信 の家族を匿ったとする説がある。以後、豊信は 北条氏 傘下の将として反織田氏・反 豊臣氏 路線を貫き、 1590 小田原征伐 中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害し、同氏は滅亡した。


一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや / まりやつし)と名乗った。戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。


真里谷信清 古河公方 足利政氏 の子・ 義明 が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「 小弓公方 」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。だが、庶出ながら一人息子であった 信隆 に家の実権を譲った後に 正室 から次男・ 信応 が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂してしまった。


信清の死後、当主になった信隆ではあったが、程なく信応派が足利義明や 里見義堯 と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放してしまう。このため、信隆は 北条氏綱 の元へと亡命することとなった。これが 第一次国府台合戦 の一因とも言われている。


同合戦後、北条軍に攻められた真里谷信応とその支持者は降伏して信隆が当主に復帰したが、信隆の死後に 里見義堯 が信隆の跡を継いだ 信政 を攻め滅ぼして真里谷氏を支配下に収めるのである。だが、 第二次国府台合戦 後には再び北条氏に屈服し、 豊臣氏 の小田原征伐によって所領を奪われて 那須氏 のもとへ亡命、真里谷氏も庁南の本家と運命をともにするのである。


本家庁南氏の 豊信 の子・ 氏信 が生存し、庁南城落城の後家臣団に守られて近隣に移住、 郷士 として土着したともされている。この子孫を名乗る 家系 は現在も血筋が続いている。分家真里谷氏のその後は不明である。


「因幡の武田氏」


因幡 守護・ 山名氏 の家臣に若狭武田氏傍流の一族がいる。いつ頃から因幡山名氏に仕えたのかは不明だが、『 蔭涼軒日録 延徳 3年(1491)11月6日条に 山名豊時 家臣として「武田左衛門大夫」の記述が見える。


天文 14年(1545)、 山名誠通 の家臣 武田国信 が久松山城(後の 鳥取城 )を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。(国信の最後に関しては諸説あり、天文 9 年の 橋津川の戦い で討ち死にしたとする説もある)


天文 年間に 鵯尾城 が築城され、国信の嫡男 武田高信 が入ると弟の 武田又三郎 に鵯尾城を任せ、自らは鳥取城に入り守護 山名豊数 に対抗するような姿勢を見せる。


永禄6年(1563)、安芸の 毛利氏 と結んだ高信は 鹿野城 主・ 山名豊成 (誠通の子)を 毒殺 、同 1563 (永禄6年)4月の 湯所口の戦い で豊数を破った。 布勢天神山城 を追われた豊数は鹿野城へ逃れたものの、後に病死した。


天正元年(1573))、 出雲 戦国大名 尼子氏 の支流・ 新宮党 の遺児である 尼子勝久 山中幸盛 が因幡に侵入し、 甑山城 に入城する。武田氏は 山名豊国 ・尼子勝久連合軍と戦うため、これを攻撃するが破れ、鳥取城を主家 山名氏に明け渡し、鵯尾城に退いた。


天正6年(1578)、 美作 国人領主 草刈氏 が因幡国 智頭郡 淀山城 を構え、勢力を伸ばすと、山名氏はこれを討伐するため、同国佐貫の大義寺に陣を敷き、武田高信に軍議に応ぜよと招聘した。高信が寺に入ると門を閉ざし、これを討ったため、因幡の武田氏は滅亡した。


なお、近年の研究によって武田高信の死は天正元年(1573)5月以前であることが判明しており、同天正元年(1573)5月4日付の「小早川隆景書状」(『 萩藩閥閲録 』)には「不慮に相果て」と記されている。また、数年後の毛利氏側の史料には織田方との密通が明らかになったため、 山名豊国 によって 切腹 させられたと記されている。


陰徳太平記 』『 因幡民談記 』などによれば、高信の遺児・武田源五郎は 南条元続 の元に、源三郎( 武田助信 )は 毛利秀包 の元に身を寄せたという。この内、武田源三郎は 村岡藩 主となった山名豊国が200石をもって召抱えたとされる。 明治 元年(1868)1月の『山名家加封之時藩士格録人名』には武田氏の名前が見えており、因幡武田一族の一部は山名家に仕え、村岡藩士となり、 明治維新 を迎えたことが分かっている。


武田国信 豊前守


武田高信 (嫡男)


武田助信 村岡 藩士 となり、 山名豊国 に仕える)


14、「おわりに」


武田勝頼 の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575) 長篠の戦い に敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582) 織田信長 に攻め込まれて滅亡した( 天目山の戦い )。 徳川家康 の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち家康自身の五男の福松丸に 武田信吉 と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。


天目山の戦いの後、信玄の次男・竜芳( 海野信親 )の子の 信道 は織田氏による残党狩りから逃れた。


その後、信道は 大久保長安事件 に巻き込まれて 伊豆大島 へ流されたが、その子・ 信正 の代で許されて元禄13年(1700)に幕臣となり 高家 として仕えた。大正4年(1915)、 大正天皇 御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主 武田信保 に信玄に対する位記宣命が渡された。以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主 武田英信 へ受け継がれて現在に至っている。






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最終更新日  2024年04月25日 06時17分21秒
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