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2024年06月04日
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8、「大聖寺藩前田家」


*「前田 利治」 (まえだ としはる)は、 江戸時代 前期の 大名 加賀国 大聖寺藩 の初代藩主。 小堀政一 (遠州)から手ほどきを受けた 茶人 であった。


元和 4年(1618)、 加賀藩 2代藩主・ 前田利常 の三男として誕生する。


寛永 16年(1639)、父・利常が 隠居 するにあたり、 江沼郡 を中心に7万石を分封される。


当初、鉱山の開発に力を注ぎ、領内に 金山 銀山 を発見した。この鉱山開発の途上で見つかった良質の 陶土 と、利治が 茶人 であったことが、後の 九谷焼 の生産に結びついた。


万治 3年(1660)に死去。 享年 43。跡を弟で養子・ 利明 が継いだ。


*「前田 利明」 (まえだ としあき)は、 江戸時代 前期の 大名 加賀国 大聖寺藩 の第2代藩主。


寛永 14年(1637)12月14日、 加賀藩 2代藩主・ 前田利常 の庶子(五男)として 金沢 に生まれる。


万治 2年(1659)、兄で大聖寺藩初代藩主であった 前田利治 の養子となり、翌万治3年(1660)に利治が死去したため跡を継ぐ。


治水 工事や 新田開発 用水路 改修や 製紙 業の導入など、富国政策を重視して藩政を確立した名君であった。 元禄 5年(1692)5月13日に死去し、跡を子の 利直 が継いだ。


1917年( 大正 6年)11月17日、贈 正四位


*「前田 利直」 (まえだ としなお)は、 江戸時代 中期の 大名 加賀 大聖寺藩 の第3代藩主。


寛文12年(1672年)6月25日、第2代藩主・ 利明 の長男として江戸に生まれる。


貞享 元年(1684)に将軍・ 徳川綱吉 御目見 して以降、綱吉の寵愛を受け、藩主になる以前の 元禄 4年(1691)に、 外様大名 の世子の立場にもかかわらず奥詰に任じられ、待遇も 譜代大名並 に扱われた。


翌元禄5年(1692)に父親が死去したために跡を継ぐ。


このとき、弟の 利昌 に1万石を分与して、 支藩 である 大聖寺新田藩 を立藩させた。


綱吉の側近であった立場から 江戸 に在府し、国に戻って藩政を執るということがほとんどなかったため、藩政は家臣団によって牛耳られ、実権をめぐっての対立が絶えず、また江戸 藩邸 の焼失などで藩財政が圧迫した。


しかも晩年の 宝永 6年(1709)、綱吉が死去すると奥詰を解任された上、弟の利昌が 大和 柳本藩 主・ 織田秀親 を刺殺して 切腹 処分となり、新田藩も 改易 となるなど、不幸が続く中で、宝永7年(1710年)12月13日に死去した。跡を養嗣子の 利章 が継いだ。


*「前田 利章」 (まえだ としあきら)は、 江戸時代 中期の 大名 加賀 大聖寺藩 の第4代藩主。


元禄4年(1691年)3月16日、 加賀藩 主・ 前田綱紀 の五男として 金沢 で生まれる。


大聖寺藩の第3代藩主で大叔父にあたる 利直 の養子となり、 宝永 7 年(1710)に利直が死去したため、翌年1月29日に跡を継いだ。


しかし、実父の諫言も聞かずに放蕩三昧な生活を繰り返して藩財政を悪化させ、さらには凶作が原因で 正徳 2年(1712)に 百姓一揆 が起こり、享保17年(1732)には幕命による 江戸城 改修工事による出費でさらに藩財政を悪化させた。


元文2年(1737年)9月9日に大聖寺で死去した。享年47歳。跡を長男の 利道 が継いだ。


*「前田 利道」 (まえだ としみち)は、 江戸時代 中期の 大名 加賀 大聖寺藩 の第5代藩主。


享保18年(1733年)4月24日、第4代藩主・ 利章 の長男として生まれる。


元文 2年(1737)の父の死去により跡を継ぐ。 宝暦 2年(1752)、 東海道 吉田大橋 架け替えの 手伝普請 が命ぜられるが、完成した橋が半年ほど後に湾曲してしまう事態が生じた。 井沢弥惣兵衛為永 の子で工事を担当した 勘定組頭 井沢弥惣兵衛正房 小普請組 に降格され、利道には再度の手伝普請が命じられた。


また、治世中に領内が災害に見舞われたこともあり、藩の財政は逼迫した。安永7年(1778)5月25日、家督を子の 利精 に譲って隠居し、安永10年(1781年)1月14日に死去した。 享年 49歳。



*「前田 利精」 (まえだ としあき)は、 加賀 大聖寺藩 の第6代藩主。


宝暦8年(1758年)11月15日、第5代藩主・ 前田利道 の次男として大聖寺で生まれる。


宝暦9年(1759)に長兄・ 利貞 が早世したため世子となり、 安永 7年 1778 5月25日に父の 隠居 により 家督 を継ぐ。


しかし安永10年(1781)、父が死去すると、 遊郭 に頻繁に通って女狂いとなり、無頼と交じって好き放題にふるまうなど、無法を繰り返すようになる。


これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・ 前田治脩 も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった。


このため 天明 2年(1782)8月21日、治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である 利物 に継がせた。寛政3年(1791年)9月15日に大聖寺で死去した。 享年 34歳歳。


*「前田 利物」 (まえだ としたね)は、 加賀 大聖寺藩 の第7代藩主。






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最終更新日  2024年06月04日 08時38分30秒
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