温故知新 0
徐福 0
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12「忠興の人物像」性格家臣が記したと考えられる『茶道四祖伝書』の中で、「忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長いのは蒲生氏郷である」と書かれている。また光秀から丹波平定の際に「降伏してくる者を無闇に殺してはならぬ」と諭されている。足利将軍家、織田氏、豊臣氏、徳川氏と多くの主君に仕えながら細川氏を生き延びさせた政治手腕の反面、身内の者にも容赦を加えない苛烈な側面もあり、関ヶ原の合戦中、父の幽斎が居城を敵に明け渡した(詳細は田辺城の戦いの項を参照)ことから一時不和になっている。また、弟の興元とも不仲であった。丹後港略戦では、同じ足利一門である一色氏を騙し討ちにした末、敗残兵を皆殺しにするなど残忍な手法も取った。一色義定に嫁いでいた忠興の妹の伊也はそのことを恨み、戦後に兄に斬りかかったという逸話が存在する。以上のように短気であったとされる忠興であるが、晩年は角が取れて丸くなったという。徳川秀忠から天下の政務について問われると「角なる物に丸い蓋をしたようになされませ」と答えた。さらに秀忠が「どんな人物を登用するのがよいか」と尋ねると「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう(明石の潮の流れは激しいが、その潮にもまれた蠣は味がいいから、人も人にもまれた者こそよき人柄になる)」と答えたという。情報戦にも長けていたが、その背景には後述のように当代一流の文化人の一人として、数多くの文化人や大名、公卿たちとの交流が盛んだったという事情があり、土井利勝や遠戚関係にあった春日局などを通して多くの情報を得ていたとされる。また隠居後も、忠利と交互に国許と江戸を行き来しており、忠利とは書状で頻繁に連絡を取っていた。ちなみに、忠興が生涯で書いた手紙の枚数は、『大日本近世史料 細川家史料』の成果によると慶長期の書状は少ないが、その後に急増して合計1820通で、そのほとんどが忠利宛てのものである。文化人として父と同じ教養人でもあり、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。『細川三斎茶書』という著書を残している。千利休に師事し、利休に最も気に入られていた弟子で、利休七哲の一人に数えられる。利休が切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と古田織部だけであったとされる。北野大茶湯の折には松向庵という名の茶席を設け、それに由来して後年「松向殿」と呼ばれることもあった。医学への造詣徳川家康が製剤させた漢方薬の紫雪に関心を持ち、江戸に詰めていた忠利に頼んで薬能書付きのこれの製法を入手し、玉弥というお抱え医師の指導のもと、自ら製剤している。脈の結滞を心配する息子の細川忠利の症状を癪か痰が原因と判断し、命に別状はないから心配はないと書状を送っている。つまり自己の体験をもとに、そうであれば生命に差し障りのないことなので、心配のないことと説いたのである。徳川秀忠が胸部の表皮に固まりができ、身体のほうぼうに移動するという病にかかり、万病円で回復した時に、忠興は薬も灸も効果がなく万病円で回復したのは寸白(寄生虫)が原因と断じている。この忠興の予知は秀忠の治療に専念していた幕府の医師衆が同様の結論を出す5ヶ月以上も前のことであった。食事のあり方にも心しており、偏食を嫌い、その弊害を重視している。息子の忠利にバランスのとれた食事をとるように諌めた書状を送っている。実際に忠利が病にかかった時には、同じ物をたくさん食べないように念を押して忠告し、鶏卵が痰によくないこと、疱瘡に鮑が大毒であることを指摘している。武具への造詣幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らしたが、特に打刀の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、甲冑においては「越中具足」(「越中流具足」ないし「三斎流具足」とも)と称される形式を確立したことで知られる。肥後拵は忠興が修めていた片山伯耆流居合術の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道のわび・さびの感覚が反映されている点が大きな特徴である。また、忠興に召し抱えられて鍔など刀装具の製作に当たった林又七、西垣勘四郎、平田彦三、志水甚五といった金工家の家系は「肥後金工」として幕末まで熊本藩内で続いた。忠興自身が所用した肥後拵の例としては、「信長拵」や「歌仙拵[23]」などが愛刀家の間で著名である。越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の当世具足のスタイルである。特に忠興が関ヶ原の戦いで使用したもの(黒糸威二枚胴具足[25])は勝利を収めた際の着料ということから「御吉例の甲冑」として細川家中で尊ばれ、以後、越中具足は歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された。
2024年06月27日
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12「戦後の転封」徳川家康は重臣からの進言により但馬一国の加増は実行しなかったものの、慶長5年(1600年)の論功行賞で丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に国替のうえ加増した。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので39万9,000石の大名となった。豊前国では前領主である黒田長政によって年貢が持ち去られており、返還をめぐって筑前商人を抑留するなど関係がこじれている。慶長7年(1602年)より、小城であった小倉城を九州の要とすべく大規模改修に取り掛かる。なお、長政が移った筑前国の年貢も小早川秀秋によって持ち去られている。その後中津城から完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となる。小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の家臣だった森勝信が豊前小倉6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城。なお、子の勝永にも豊前国に1万石(4万石とも)を与えられ、この際に秀吉の計らいによって元の姓である森から、中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで細川忠興は東軍に属して戦い、居城である丹後国田辺城は父細川幽斎が勅命により講和するまで西軍に頑強に抵抗した(田辺城の戦い)。その功により戦後細川氏は丹後田辺・豊後杵築合わせて18万石から、豊前一国と豊後国国東郡・速見郡都合39万9千石に大幅加増され、小倉藩を立藩した。当初は中津城に入城したが、すぐに毛利氏の旧小倉城の跡地に大大名の居城として相応しい規模の城郭と城下町の建設を開始し、慶長7年(1602年)小倉城に藩庁を移した。宮本武蔵と佐々木小次郎との決闘が当時は小倉藩領だった巌流島で行われたのはこの細川氏の時代である。2代忠利は寛永9年(1632年)加藤忠広の改易に伴い、さらに加増され熊本藩54万石に移封された。同年、播磨国明石藩より小笠原忠真が入部し、小倉城主として豊前北部15万石を領した。なおその際、支城の豊前中津城には忠真の甥長次が8万石で入部し中津藩が、同じく豊後杵築城には忠真の弟忠知が4万石で入部し杵築藩が成立した。忠真の母は松平信康の娘で徳川家康の外曾孫にあたることから、以後小倉小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を抑える、いわば「九州探題」の役割を果たし外様大名の監視にあたったが、これが幕末における小倉城落城の遠因ともなった。宮本武蔵の嗣子宮本伊織は、父ともに出陣した島原の乱の軍功などにより知行4000石の小倉藩筆頭家老となり忠真を支え、以後宮本家は代々その地位を世襲した。 2代忠雄は寛文7年(1667年)藩主相続の際、弟の真方に小倉新田藩(千束藩)1万石を内分分知した。享保15年(1730年)には、3代忠基の次男長逵が、継嗣のいなかった播州安志藩初代藩主小笠原長興の養子となってこれを相続、以後小倉藩・小倉新田藩・安志藩の小笠原三家は継嗣の養子縁組などにより姻戚関係を深め、小倉新田藩のみならず本来小笠原氏の嫡流だった安志藩までもが小倉藩の分家筋のように位置付けられていくこととなった。4代忠総は、宝暦8年(1758年)に小倉城内に藩士の文武教練場「思永斎」を設けた。これが後の藩校「思永館」となった。安永6年(1777年)犬甘知寛(いぬかい ともひろ)が家老に就任し藩財政改革を行った。犬甘の努力により寛政10年(1798年)頃には財政も好転し銀8千貫の貯蓄ができるまでになったが、反対派の陰謀により享和3年(1803年)に失脚、無実の罪により入牢しそこで非業の死を遂げた。その後藩内では重臣間の派閥争いが続くこととなった。文化8年(1811年)第6代藩主小笠原忠固の時代に文化の変とも白黒騒動とも呼ばれる御家騒動が勃発文政3年(1820年)には郡代杉生貞則による産業振興策が始まり、今川の河川改修、各地の道路整備、宇島港築港などが行われた。文政年間には村方騒動も起こった。幕末の安政元年(1854年)には家老島村志津摩と郡代河野四郎らによる藩政改革が始まる。農産品・石炭・焼物などの主要産品の集荷と販売を藩機構によって管理し、生産者を育成する一方で販路を開拓、また庄屋層の農村運営を検査して綱紀粛正を徹底した。文久3年(1863年)には、海防強化のため関門海峡沿岸に葛葉台場・東浜台場・西浜台場などの砲台を建設し、補助兵力として農兵の募集・訓練も開始した。この年には対岸の長州藩が関門海峡を通行する外国船に砲撃を行い、下関戦争につながってゆくが、幕府は敵対行動を取っていない外国船への一方的な先制攻撃を指示しておらず、小倉藩は配備は敷いたものの戦闘行動は行っていない。この頃長州藩との間では、関門海峡に面する小倉藩領の田野浦などに長州藩が一方的に兵を入れて占拠し砲台を建設しようとするなど、紛争が続いたが、小倉藩は幕府とも協議の上、長州藩との武力衝突を回避し交渉による解決に努めた。長州藩との関係は、八月十八日の政変以降長州藩の勢力が弱まり、占拠されていた地区は返還され、一旦小康状態となる。
2024年06月27日
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11「東軍で関ヶ原の戦い」徳川家康からの「味方につけば丹後の隣国である但馬一国(10万石)を進ぜよう」という言を受け慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる[4]。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある。主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。豊臣秀吉の死後発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになる。決戦までの経緯豊臣家内部の対立とその背景秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は秀吉の独裁から幼少の後継者秀頼を五奉行五大老のメンバーによって支える集団運営体制へと移行する。しかし秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してゆき、戦役の結果により消滅することになる。政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原の戦いにおける東西の対立関係は複雑なものであり、各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる。また地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無い。中央集権派と地方分権派の対立太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置や、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成・増田長盛らの強硬・集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立が抗争の背景にあったとする説である。一方、戸谷穂高は宥和・分権派として長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている。文禄2年長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め、また宇都宮氏・佐竹氏の改易を主導するなど宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。曽根勇二もこれら東国における長政の動向を朝鮮出兵のための「総力戦の体制を打ち出した秀吉政権の集権化の実態を示すもの」とし、集権派対分権派の構図に疑問を呈している。朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が関ヶ原の戦いの主要因とする説である。この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる。しかし、両派閥の不仲を示した逸話には一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く、一方のちに東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。巨済島海戦の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており、蔚山の戦い後、現地諸将より秀吉に提案された戦線縮小案については蜂須賀家政が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている(慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状)。中野等も、三成を中心とする「文治派」対加藤清正らを中心とする「武断派」との対立の構図は、江戸時代成立の軍記物等の二次史料から発して、その後旧来の研究の中でステレオタイプ化したものとしている。例えば、賤ヶ岳七本槍のイメージから武功による出世を果たしたと思われがちな加藤清正は国内統一戦の過程において目立った戦績が無く、朝鮮出兵以前においてはむしろ豊臣直轄地の代官や佐々成政改易後の肥後国統治など文官的活動が主であった。秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方諸大名は三成を憎むようになったとする。しかし、三成を事件の首謀者とする説は寛永3年(1626年)に執筆されて成立した歴史観となった「甫庵太閤記」と言う本の記述に登場して以降の軍記物等に取り入れられた逸話を根拠としており、史実として立証されたものでは無い。「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立「太閤様御置目」(秀吉の遺言や死の前後に作成された掟[27]・起請文群[28])に従って政権運営を進めようとする豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。
2024年06月27日
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10「秀次事件の嫌疑と払拭」文禄4年(1595年)の秀次事件では、秀吉の甥・豊臣秀次に借金があったために秀吉に嫌疑をかけられたが松井康之が奔走し、金子を用立て秀吉に返納した。豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。永禄11年(1568年)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として尾張国知多郡大高村で生まれた[3]。名は治兵衛(じへえ)。元亀元年(1570年)4月、織田信長と同盟していた北近江の浅井氏が離反して朝倉氏についたことから、信長は金ヶ崎より一旦撤退した後、6月に改めて徳川家康の援軍と共に近江国へ出陣して、浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利した。その後、浅井親子が籠城して小谷城攻めは長期化したが、陥落させた支城の横山城に入り、攻囲の責任者となったのが秀吉であった。秀吉は小谷城の他の支城に対して次々と調略を試み、元亀3年(1572年)、宮部城[注釈 10]主の宮部継潤を巧みに勧降したが、この際に継潤の安全を保障するための人質として送られたのが、秀吉の甥、当時4歳の治兵衛であった。治兵衛は、名目上、継潤の養子とされ、治兵衛の百姓名を棄て、通称を次兵衛尉、諱を吉継と改めて、宮部吉継を名乗ることになった。『筑後国史』によると、この時に継潤によって宮部家家臣の田中久兵衛が傅役とされたと云う。彼は後に吉政と名を改めたが、秀次には最も長く側近として仕えている。天正元年(1573年) 9月1日、小谷城は陥落して浅井氏は滅亡した(小谷城の戦い)。信長は第一の功績を秀吉に認めて同城を与え、宮部継潤も秀吉の与力の一人とされた。吉継(秀次)がいつまで宮部家の養子でいたのかわからないが、自分の臣下となった者に人質を出して置く道理がないため、天正2年(1574年)、琵琶湖沿岸に長浜城が築かれたときにはすでに羽柴氏か木下氏に復していたと考えられているが、6歳の秀次がこの頃に何と名乗っていたかは不明。三好孫七郎天正3年(1575年)、畿内で松永久秀や三好三人衆が信長に降った際に、三好一族で阿波国に勢力を持ち、河内高屋城で籠城していた三好康長も降ったが、彼は松井友閑を介して、信長が欲しがっていた名器「三日月の茶壷」を献上して大変喜ばれ、一転して家臣として厚遇されるようになった。信長はこの頃に土佐国を統一した長宗我部元親の所領を安堵し、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書いた朱印状を渡していたが、天正8年(1580年)に長宗我部氏が阿波国に勢力を伸ばして、織田方となった康長の息子・三好康俊や甥・十河一存の城を攻めるようになると情勢は変化した。康長は秀吉に接近してその支援を得ると、織田家重臣で長宗我部氏との外交窓口となっていた明智光秀の考えが反映した従来の方針が撤回されるように働きかけた。その結果、天正9年(1581年)3月、信長は阿波勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波国の占領地半分を返還するように命じたが、元親はこれに従わずに対立。翌年、信長三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐が行われることになり、康長は信孝を養子とするという手筈であったが、天正10年(1582年)6月に本能寺の変があって全てが中止となった。三好康長は連携を強めるために秀吉の甥を養子としてもらった。しかしその時期については諸説あり、早くは天正3年4月で荒木六之助は康長が投降した直後とする説をとるが、遅くは天正10年10月で諏訪勝則や谷口克広などが言う本能寺の変の後であったとする説もあり、諏訪は秀吉は瀬戸内から四国をおさえ、さらに長宗我部氏の行動を阻止する必要上、三好氏を自己のもとへ引き寄せるために秀次を養子に出したとする。 本能寺の変や信孝を養子とするという話との関連性などを含めて不明な点がある。藤田達生や小和田哲男などは天正8年から同9年にかけての四国政策の転換時期であろうと推定しているが、それぞれの説には反論や史料的裏付けの不足などあって確定には至っていない。ともかく再び養子とされた吉継(秀次)は、通称を孫七郎と改め、諱を信吉[注釈 12]として、三好信吉と名乗るようになった。康長は河内半国を知行して若江城を居城としていたが、本能寺の変後に出奔してその後の消息は不明で、一説には出家して妙心寺に入ったとも言うが、実子の康俊もこの頃に亡くなったか何かで姿を消しているため、天正11年(1583年)頃には信吉が残った三好家の家臣団を率いる立場となり、河内北山2万石の大名となった。また百姓の倅が名門三好氏を継いだということで父の弥助も三好姓を用いるようになり、以後、三好武蔵守吉房と名乗りを改めた。
2024年06月27日
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9「文禄の役の戦線」その後も天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍した。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜される。文禄元年(1592年)からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。10月には長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。翌文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。晋州城攻防戦(しんしゅうじょうこうぼうせん)は、文禄の役における2回の攻城戦。朝鮮半島の晋州城(朝鮮語: 진주성(チンジュソン)、現在の晋州市)を守る朝鮮軍を日本軍が攻撃、文禄元年(1592年)10月4日から10日までの第一次晋州城攻防戦では朝鮮軍が守りきり、文禄2年(1593年)6月21日から29日までの第二次晋州城攻防戦では日本軍が攻城に成功した。第一次攻防戦詳細は「第一次晋州城攻防戦(英語版)」を参照攻防戦の背景開戦以来、快進撃を続けた日本軍は有効な李氏朝鮮軍の抵抗をほとんど受けないまま約2ヶ月で平壌・咸興などまで急進撃をした。漢城(ソウル)を起点に朝鮮半島各地へ展開していた日本軍であったが、慶尚道の釜山から漢城を結ぶ三路の後方基幹ルートの確保や全羅道方面に至る西進作戦には積極的でなかった。李朝軍の主力を粉砕し、北方への進撃も予想外に進んだため、晋州城を攻略する若干の余裕が生じた。それまで晋州城は、釜山から漢城への侵攻路から外れていたため攻撃を受けていなかった。また、朝鮮では晋州城と平壌城が堅城との評価を受けていた。第一次攻防戦直前の状況攻略作戦を発動した。 日本勢は晋州城攻略のために細川忠興、長谷川秀一、木村重茲などの20,000弱の軍勢を編成し、釜山を出発して9月23日に昌原を攻めた。慶尚右兵使の柳崇仁は官軍および収容した敗兵を指揮して抵抗したが日本軍に大敗した。敗走した柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが、部下であり守将の晋州牧使・金時敏は日本軍の突入を怖れて城門を開く事を拒否した。やむなく柳崇仁は城外で敗兵を再編成して日本軍に野戦を挑むが敗死した。第一次攻防戦10月4日、咸安を経由して到着した日本軍の晋州城包囲が始まり6日より攻撃が始まった。晋州城では金時敏を中心に昆陽県監・李光若らが指揮する約3800人の兵士に加え、多くの避難民が城内で防戦に努めた。また城外では郭再祐の配下などの慶州道義兵約1200が日本軍の背後を攻撃し、7日の夜からは崔慶会・任啓英など全羅道で敗兵を再編成した軍約2500が到着して城外で遊撃戦を行った。日本軍は一時攻城を中断して遊撃軍を牽制し、10日朝より攻撃を再開したが晋州城は容易に攻略できないと判断し、長期戦を厭って退却した。旧参謀本部編纂『日本戦史 朝鮮役』では、この援兵の行動について、直接日本軍と戦闘を交えたものではなく、遠巻きに声援を行って日本軍を牽制しただけとしている。晋州城防衛の中心であった金時敏は日本軍の鉄砲によって重傷を負った。李朝軍にも撤退する日本軍を追撃する力はなかった。こうして第一次晋州城攻防戦は李朝軍の防衛成功で幕を閉じた。なお、金時敏は攻防戦の後に傷の悪化によって死亡したが、日本側では城を守りきった金時敏を官職の牧使の発音から「もくそ」(朝鮮語の発音は「モックサ」)、晋州城を「もくそ城」と呼び高く評価した(「もくそ」の当て字は「木曽」)。のちに京都で「もくそ官」として晒されたのはこの金時敏ではなく、第二次攻防戦の際に死亡した後任牧使の徐礼元の首である。第一次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成日本軍細川忠興 3500人長谷川秀一 5000人木村重茲 3500人新庄直定 300人糟屋武則 200人太田一吉 160人等 約20000人朝鮮軍晋州城守備金時敏 3800人後詰の軍 3700第二次攻防戦[編集]詳細は「第二次晋州城攻防戦(英語版)」を参照第二次攻防戦直前の状況和平交渉が進展し日本軍の主力が漢城から釜山周辺へ移動した事で兵力と補給の問題が解消したため、和平条件でもあった朝鮮半島南部の獲得を既成事実とするため、晋州城方面と全羅道の征服を図った。
2024年06月27日
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8「豊臣政権下小牧・長久手の戦い」天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加し、天正13年(1585年)には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた。小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし(甲州征伐)上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。また三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと、武田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した(天正壬午の乱)。天正11年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いにおいて織田信長の次男の信雄を加えて、信長の三男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の遺領の越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられ、大坂の地は秀吉が接収し、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いている。天正11年(1583年)に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。秀吉は信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、徳川家康と同盟を結んだ信雄は天正12年(1584年)3月6日に親秀吉派の三家老を処刑した。これに激怒する秀吉は、信雄に対し出兵を決断した。小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。詳細は「沼尻の合戦」、「紀州征伐」、および「末森城の戦い」を参照経過[編集]犬山城の占拠天正12年(1584年)3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけた。羽黒の戦い3月15日、池田恒興と協同戦とする森長可は兼山城を出て、16日羽黒(犬山市)に池田勢より突出したかたちで着陣した。しかし、この動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半、松平家忠・酒井忠次ら5,000人の兵が羽黒へ向けてひそかに出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を奇襲。酒井勢の先鋒、奥平信昌勢1,000に対抗し、押し返していた森勢だったが、側面から入ってきた松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退し、酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走した。森勢の死者300余人という。小牧における対陣敵襲の心配がなくなった家康は3月18日、小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ羽柴軍に備えた。秀吉は3月21日に兵30,000を率いて大坂城を出発、3月25日に岐阜に進み、3月27日に犬山に着陣する。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態に陥った。羽柴秀次の出陣両軍は小牧付近にて対陣状態におちいり、たがいに相手の出方をうかがっていた。4月4日、池田恒興は秀吉のもとを訪れて献策した。兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろうと。5日朝、恒興は秀吉のもとをまた訪れ、森長可とともに羽黒戦の恥を雪ぎたいと述べた。秀吉はついにこれを許可し、森長可らを主として支隊を編成して明6日三河西部へむけて前進すべしと命令。支隊は4月6日夜半出発した。各隊の主な編組は以下の通り:第一隊 - 池田恒興 - 兵6,000人第二隊 - 森長可 - 兵3,000人第三隊 - 堀秀政 - 兵3,000人第四隊 - 羽柴秀次 - 兵8,000人 家康は4月7日に羽柴秀次勢が篠木(春日井市)・上条城の周辺に、2泊宿営した頃に近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。4月8日、地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4,500人が支隊として小牧を夕方に出発して、20時小幡城(名古屋市守山区)に入り、付近の敵情を探った。
2024年06月27日
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7「光秀を断って山崎の戦」細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれ、光秀は13日に山崎の戦いで敗死している。山崎の戦い(山崎の戦)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府長岡京市乙訓郡大山崎町)において、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い。古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。天正10年6月2日の本能寺の変勃発時、織田家中の主要な武将ならびに同盟者・徳川家康の動静は次の通りであった。柴田勝家 - 越中魚津城で上杉勢と交戦中(魚津城の戦い)滝川一益 - 上野厩橋城で北条勢を牽制丹羽長秀 - 大坂・堺で四国征伐待機中羽柴秀吉 - 備中高松城近辺で毛利勢と交戦中(中国攻め、備中高松城の戦い)徳川家康 - 堺で近習数名と見物中(帰国途路の飯盛山(四條畷市)付近で凶報に接する)羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していたが、守将・清水宗治の申し出を受諾し、近日中に高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。しかし秀吉は6月3日に本能寺の変の報を入手し、ただちに毛利軍との和議を結ぶ。秀吉は4日に堀尾吉晴・蜂須賀正勝を立会人にして宗治の自刃の検分を行い、翌5日から6日にかけて撤兵すると、6日に沼(岡山城東方)、7日に姫路城、11日には尼崎(尼崎市)に達し、いわゆる「中国大返し」と言われる機敏さで畿内へ急行した。秀吉の懸念材料は、京都への進路上に勢力を張る摂津衆の動向であった。もし彼らが光秀方に与し足止めを受ければ、短期決戦に持ち込みたい羽柴軍の思惑に狂いが生じる。折しも、本能寺の変報を入手した摂津衆の一人・中川清秀から書状が舞い込み、秀吉は「上様(信長)・殿様(信忠)は危難を切り抜けられ膳所に下がっておられる。これに従う福富秀勝は比類なき功績を打ち立てた」という旨の返書を清秀に出した(6月5日付)。もちろん虚報であったが、光秀が大坂方面を重要視しなかったこともあり清秀・高山右近を始めとする摂津衆の多くが秀吉軍に味方する。四国の長宗我部征伐のために大坂に集結していた神戸信孝(織田信孝)・丹羽長秀は徳川家康の接待のために軍を離れており、本能寺の変の噂を伝え聞いた雑兵の多くは逃亡してしまったが、何とか数千の兵をまとめて合流し、最終的に秀吉軍は2万を超えた。羽柴軍は12日に富田で軍議を開き、秀吉は総大将に長秀、次いで信孝を推したが、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となり(名目上の総大将は信孝)、山崎を主戦場と想定した作戦部署を決定した。なお、長秀と信孝は軍議に先立ち、光秀に内通の疑いがあった光秀の女婿・津田信澄を自刃に追い込んでいる。一方、光秀は変後の京の治安維持に当たった後、武田元明・京極高次らの軍を近江に派遣し、京以東の地盤固めを急いだ。これは光秀の居城である坂本城や織田家の本拠地であった安土城の周辺を押さえると共に、当時の織田家中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えを最優先したためと考えられる。数日内に近江は瀬田城(山岡景隆・景佐兄弟居城。山岡兄弟は光秀の誘いを拒絶し、瀬田橋を焼き落として抵抗の構えを見せた後、一時甲賀方面に退避)、日野城(蒲生賢秀・賦秀父子居城)などを残し平定された。その傍ら、有力組下大名に加勢を呼びかけたが、縁戚であった細川藤孝・忠興父子は3日に「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せることで婉曲的にこれを拒んだ。奥丹後の領主・一色氏は、明智光秀に味方したので、南丹後の細川氏は軍勢を動かせない状態だった。また、筒井順慶はこれに応じ配下を山城に派遣していたが、秘密裏に秀吉側に寝返り、9日までに居城の大和郡山城で籠城の支度を開始した( →「成句「洞ヶ峠」」)。こうした状況下で光秀は10日に秀吉接近の報を受け、急いで淀城・勝龍寺城の修築に取り掛かり、男山に布陣していた兵を撤収させた。しかし、光秀は予想を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むこととなる。合戦経過両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山(標高270m)山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれた。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となっている。局地的な戦闘はあったものの、翌13日(雨天だったと言われる)も対峙は続く。同日午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に斎藤隊の右側に布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かり( →「成句「天王山」」)、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた。斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる。
2024年06月27日
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6「本能寺の変とガラシャ夫人」天正6年(1578年)に元服。信忠より偏諱を受け、忠興と名乗った。また、同年8月には信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある。この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。以前、忠興が信長の小刀の柄に九曜が描かれているのを大変気に入っていたことを、信長が覚えていたためと言われる。天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼした。天正8年(1580年)、父・藤孝は功により丹後南半国の領主となる(北半国は一色満信の領国)。天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも若年ながら一色満信らとともに参加する。この際に信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという(『信長公記』)。本能寺の変天正10年(1582年)6月、岳父・明智光秀が本能寺の変を起こし、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、細川父子はこれを拒否した上、玉子を丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か11日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。光秀が謀反を起こした理由については定説が存在せず、「日本史の謎」[15]「永遠のミステリー」などと呼ばれ、専門の中世史研究家ではない人々も含めて多種多様な説が発表されている。天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼・信勝親子を天目山に追い詰めて自害させた織田信長は、3月27日、2日に名城・高遠城を攻略した信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」との言葉も贈って褒め称えた。信長は甲府より返礼に来た信忠を諏訪に残して軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。4月3日には新府城の焼け跡を見物。かつての敵、信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在し、4月10日に甲府を出立した。長年の宿敵を倒し、立派な後継者の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。天下を展望すると、東北地方においては、伊達氏・最上氏・蘆名氏といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せており、関東では後北条氏がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて、佐竹氏とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸の上杉氏を残すのみとなった。北条氏政・氏直親子は甲州に共同で出陣する約束をしていたが、戸倉城を攻略した後は何ら貢献できなかったので、3月21日に酒・白鳥徳利を、26日には諏訪に米俵千俵を献じ、4月2日には雉500羽、4日には馬13頭と鷹3羽と、短期間で立て続けに献上品を送って誼を厚くしようとした。しかし、この時の馬と鷹はどれも信長が気に入らずに返却されている。他方で、信長は長年の同盟者である徳川家康には駿河1国を贈ったが、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待し、下士に至るまで手厚くもてなしたので、信長を大いに感心させた。これら信長の同盟者はもはや次の標的とされるよりもその威に服して従属するという姿勢を鮮明にしていた。西に目を転じると、中国地方では、毛利氏との争いが続き、四国でも長宗我部氏が信長の指図を拒否したことから交戦状態に入った(詳細は後述)が、九州においては大友氏と信長は友好関係にあり、島津氏とも外交が持たれていて、前年6月には准三宮近衛前久を仲介者として両氏を和睦させたことで、島津義久より貢物を受けている。信長は天正9年(1581年)8月13日、「信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」と、その意向を繰り返し表明していたが、上月城での攻防の際は重臣が反対し、鳥取城攻めの際には出陣の機会がなかった。その間に伊賀平定を終えて(高野山を除く)京都を中心とした畿内全域を完全に掌握したことから、次こそ第3次信長包囲網を打倒し、西国最大の大名である毛利氏を討つという意気込みを持っていた。「甲州征伐」、「清洲同盟」、「甲越同盟」、および「中国攻め」も参照他方で信長は、天正6年(1578年)4月9日に右大臣・右近衛大将の官位を辞して以来、無官・散位のままであった。正親町天皇とは誠仁親王への譲位を巡って意見を異にし、天正9年3月に信長は譲位を条件として左大臣の受諾を一旦は了承したが、天皇が金神を理由に譲位を中止したことで、信長の任官の話もそのまま宙に浮いていたからである。
2024年06月27日
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5「信貴山城の戦いに参戦」10月に信長から離反した松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその僚友・明智光秀と共に落とし(信貴山城の戦い)、10月2日、信長直筆の感状を受けた。信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)は、天正5年(1577年)10月5日から10月10日にかけて、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城信貴山城で行われた攻城戦。別名「松永久秀討伐戦」とも言われている。松永久秀は三好長慶の没後は甥の三好義継を擁立し、三好三人衆と三好氏の実権を巡って争ったが、織田信長が上洛するとこれに臣従し、畿内における三人衆との抗争を優位に進め、自身は大和の支配を引き続き任されていた。ところが、室町幕府15代将軍足利義昭が信長と対立し、諸侯に信長討伐を働きかけると義継と共に信長包囲網に加わり、摂津や河内で勢力を振るった。結局この動きは信長に抑えられ義昭は追放、義継は自刃に追い込まれ、久秀は許されたものの、大和の支配権を塙直政に奪われてしまう。その直政は天正4年(1576年)5月3日、石山合戦で指揮をとるも敗退し討ち取られてしまった。久秀にとって次の守護が誰に決まるのか気になっていたが、信長は久秀の宿敵筒井順慶を守護にすえた。以前の信貴山城の戦いや東大寺大仏殿の戦いでは三好三人衆と対決した相手である。信長の上洛後は両者は同格であったが、守護となったことで立場が変化した。信長としてみれば、久秀は和睦したとはいえ一度裏切っており順慶の守護は当然のことであったが、久秀にとっては当然不服ある措置であり、直後の謀反の大きな原因と考えられている。また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点であった多聞山城を破却するなど、松永氏の勢力の削減する行動に出たことも、久秀の政治的な危機感を強め、謀反へ向かわせる一因となったと思われる。翌天正5年(1577年)8月17日、石山本願寺攻めで詰めていた天王寺砦を焼き払い、息子の松永久通を引き連れ信貴山城に立て篭もった。この時「騎馬三百余其勢八千余人」(『和州諸将軍伝』)とかなりの軍勢だったと思われている。「城名人」、「近世式城郭建築の祖」と呼ばれている久秀は、翌日より信貴山城の補強工事を開始している。久秀は2つの目算があったと思われている。石山本願寺に立て篭もる顕如、上洛を目指す上杉謙信である。顕如軍は先の合戦で塙直政を討ち取り、第一次木津川口の戦いで毛利氏から武器、食糧も補給し軍事力は強大、上杉軍は2万の軍を率いて上洛を目指し、顕如の命により加賀一向一揆衆はゲリラ戦法で柴田勝家軍を妨害し、上杉軍を側面から援助している。久秀が単独で信長を倒すことは難しいが、三者はなんらかの密約、繋がりがあった可能性があるのではないかとされている。信長はこの時安土城におり謀反に驚いたのか、老功である久秀を惜しんだのか、堺の代官松井友閑を使者にたて信貴山城へ向かわせた。この時の様子は「何ようの仔細か、存分申上げ候へ、委細聞届けせれ、御裁許あるべきの由」(『織田軍記』)と記載されている。2度まで裏切った久秀に対して異例の処置であったが、久秀は信長の説得を拒絶した。これに憤慨した信長は同年9月後半ごろより筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を出陣させ、法隆寺へ布陣、信貴山城の先軍とした。同年10月1日が織田軍は信貴山城の支城となっていた片岡城を約5千兵で攻城、これに対して松永軍は海老名勝正(友清)、森秀光(正友)らが率いる約1千兵で防御した。この時の戦いの状況を「片岡城今日セメキリ、エヒナ河人始テ七十ハカリ無残討死了」(『多聞院日記』)と記載されており、筒井隊にもかなりに戦死者が出たようだが、松永軍の武将である海老名、森を含む150余が討死、片岡城も落城してしまう。この時信長に、同年9月23日手取川の戦いで勝利した上杉謙信であったが七尾城から進軍が止まった、との報告が同年10月3日に柴田勝家から直接安土城に入った。謙信がなぜ進軍を止めたのか諸説あるが、豪雪を恐れたのではないか、北条氏政が関東へ出軍し本国防衛のため等が言われている。信長は謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に嫡男の織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込んだ。この時の織田信長軍の総数は4万兵と言われている。一方、前回は武田信玄の死亡によって謀反は成功せず、今回も上杉謙信が動かなかったことにより、久秀は片岡城が落城した事と伴って窮地におちいる事になる。翌10月4日、どちらが放った火なのかはよく解らないが、「信貴山ヒサ門堂燃え云々」(『多聞日記』)と記載されており、現在の朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちた。戦いの状況戦いは翌10月5日から開始された。4万の軍が一斉に攻城を開始したが、信貴山城は簡単には落城しなかった。この日の戦いを、久秀の武将飯田基次が率いる200余人が斬り出て、織田軍数百人が手負い、または討たれたとあるので松永軍の抵抗も必死であったと考えられる(『和州諸将軍伝』)。戦いは持久戦の様相を呈してきた。信長はこの日、久秀の質子(久通の息子で久秀の孫、当時12歳と13歳)を洛中引き回しの上、六条河原で斬首した。
2024年06月27日
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信忠は追撃戦を開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞し梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志も表明する。論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられた事から、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼす事となった。天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都の妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在しており、信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、側近・斎藤利治、京都所司代・村井貞勝らと共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せた。しかし明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自刃した。介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように命じたという。斎藤利治を中心に福富秀勝・菅屋長頼・猪子兵助・団忠正らと共に敵数多討取り勇勢を震い闘うが、信忠自害後「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と刺し違い、討死(忠死)した。享年26。父同様、その首が明智方に発見されることはなかった。また、その奮戦の具体的な内容だが、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によると自ら剣をふるい敵の兵を斬ったらしい。 また、信忠の小姓に下方弥三郎という若者がおり、彼は奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出していた。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べたという。信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死したという。この時、信忠は八王子に落ち延びていた松姫に使者を出しており、彼女を妙覚寺に招こうとしていたといわれる。しかし再会を果たすことはできず、信忠自刃の報を聞いた松姫は八王子に戻り、出家して心源院で武田家と共に信忠の供養を行った。一部の史料には信忠の子・三法師(織田秀信)の生母は実は松姫だったとするものもある。 4「織田時代紀州攻め」天正5年(1577年)3月、15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾る。信長の紀州攻め雑賀侵攻元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである。天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。元々雑賀荘には浄土宗西山派の本山である総持寺があり、雑賀衆の中には真宗門徒もいれば、それ以外の宗派を信じる非門徒も多くいた。石山戦争の過程で雑賀衆の中でも本願寺を支援したい真宗門徒と信長に対して反感を持つ一部の非門徒が連携して一向一揆を編成していくのに対し、この動きに反発する非門徒もおり、彼らは雑賀三組を中心に信長と協力して反一向一揆の動きを強めていったとみられる。開戦から「降伏」まで同年2月2日、以前から織田方に加勢していた根来衆に加えて雑賀三組(三緘)の協力も得られることになったため、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。信長は9日に安土を発して上洛。膝下の近江の兵に加えて嫡男織田信忠率いる尾張・美濃の軍勢、北畠信雄・神戸信孝・織田信包配下の伊勢の軍勢、さらに畿内と越前・若狭・丹後・丹波・播磨の兵も合流して13日に京都を出発した。16日には和泉に入り、翌17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃したが、守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わった。同日根来衆と合流して18日に佐野、22日には志立(信達・現泉南市)に本陣を移した。織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ30000人の兵を投入して侵攻を開始した。その陣容は、山手に根来衆と雑賀三組を先導役として佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治・同重宗、浜手は滝川一益・明智光秀・長岡藤孝・丹羽長秀・筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・織田信包である。浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。
2024年06月27日
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織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代~安土桃山時代の武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ織田家当主となったが、本能寺の変で自刃した。岐阜城主。弘治3年(1557年)に、織田信長の長男(信正 が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。実母は久庵慶珠。 乳母は慈徳院(滝川氏)。なお濃姫が織田信忠を養子としたという説もある(勢州軍記)。幼名は奇妙丸。元服してはじめ勘九郎信重(のぶしげ)を名乗り、のちに信忠と改める。永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していた。『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄六女・松姫と婚約が成立したという。武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、元亀3年(1572年)に信玄は信長と敵対した将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始し(西上作戦)、これにより武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。以後、武田氏では勝頼末期に織田氏との関係改善が試みられるものの(甲江和与)、信長が和睦を拒否した為、武田・織田間の和睦は成立していない。元亀3年(1572年)1月に元服したと「勢州軍記」等にあるが、天正元年(1573年)4月1日付『兼見卿記』、また同年6月18日付の「朝河文書」でも、まだ幼名の「奇妙」で呼ばれており、諱の「信重」の名乗りが確認できるのは、同年7月が初見である。『信長公記』でも、同年8月12日付けの北近江浅井攻めで出陣した記録が「奇妙」から「勘九郎」に変化しており、若干遅めだが17歳~19歳頃が元服の時期と推察される。以来、信長に従って石山合戦、天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574年)7月~9月の伊勢長島攻めと各地を転戦した。信長の後継者天正3年(1575年)5月の長篠の戦いに勝利し、そのまま岩村城攻めの総大将として出陣(岩村城の戦い)。夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1,100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将・秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城させた。以後、一連の武田氏との戦いにおいても、大いに武名を上げていく事となる。天正4年(1576年)11月28日、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、信長正室濃姫を養母として岐阜城主となった。又、濃姫の弟である斎藤利治が信忠付きの側近(重臣)となる。同年に正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官し将軍格となることを目指した。足利義昭は織田政権下でも備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍になるしかなかった。また、この官職は越後守護家でもある上杉家との対抗上、有意義であったともされる。天正5年(1577年)2月に雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮して、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。その功績により10月15日には従三位左近衛権中将に叙任される。この頃より、信長に代わり総帥として諸将の指揮を執るようになる。12月28日には信長が持っていた茶道具のうちから8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。天正6年(1578年)、播磨国の上月城を奪還すべく、毛利家の総帥・毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景・宇喜多忠家・村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を包囲した。信長も上月城救援の為、信忠を総大将に明智光秀、丹羽長秀・滝川一益ら諸将を援軍に出し、三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。天正6年(1578年)10月4日、月岡野の戦いにて、義理の叔父にあたる斎藤利治の親衛隊である加治田衆を筆頭に、美濃衆・尾張衆の信忠付き援軍を送り、労をねぎらい「ご苦労の段とお察しする」と尊敬と親族の念を込めての書状を送っており、織田信忠と斎藤利治の絆が深い事が書状より判断できる。また同年から翌年の天正9年(1579年)にかけて、摂津で勃発した荒木村重の謀反(有岡城の戦い)の鎮圧にも出陣した。天正8年(1580年)には、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放された為、美濃・尾張の二ヶ国における支配領域が広がった。甲州征伐天正10年(1582年)の甲州征伐では、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康・北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。信忠は河尻秀隆、滝川一益の両将を軍監とし、伊那方面から進軍して、信濃南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略する。高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知している(『信長公記』巻15)。信忠の進撃の早さに、体勢を立て直すことが出来ず諏訪から撤退した武田勝頼は、新府城を焼き捨てて逃亡する。
2024年06月27日
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将軍権威の回復さらにこの頃から長慶の実弟十河一存と三好実休、長慶の嫡男三好義興など有力な一族が相次いで死亡。さらに弟の安宅冬康を失う。(長慶の居城・飯盛山城に呼び出され自害。)そして永禄7年(1564年)には長慶自身も没する。一方義輝は、全国の戦国大名へ合戦の調停を行なったり、幕府の役職を与えたりするなど、幕府権威の回復を図った。また、永禄7年には敵対していた政所執事の伊勢貞孝を敗死に追い込み、新たな政所執事に義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し、従来将軍の意向が及ばなかった政所を掌握して幕府決裁に対する影響力を強め幕府の将軍親政を進めようとした。しかし、このことが義輝に対する三好氏の危機感を抱かせる要因となった。これにより、三好家中の実権を長慶の甥で後継者の三好義継に代わって牛耳っていた松永久秀ならびに三好三人衆は、実力による義輝の根本的排除、すなわち将軍殺害へと向かっていくこととなる。この事件、ひいては足利義輝の幕権強化を考えるに当たって問題となるのが、義輝と三好長慶・三好義興ら三好家当主との関係である。天文年間末から弘治年間を経て永禄初年(1558年)にかけて、将軍家と三好家は武力衝突を繰り返していた。この期間には将軍家の元家臣の進士賢光が三好長慶を捨て身で切りつけるなどの事件も起きている(天文20年 1551年)。これについては『細川両家記』などの史料でも、進士賢光個人の本領安堵をめぐる三好長慶とのトラブルによるものだという説とともに、将軍の密命を受けた進士賢光による三好長慶の暗殺を狙った幕府側からのテロではないかという説が世間に流れたことが確認できる。しかし、永禄初年の末(1558年)に、将軍家と三好家は和解し、両家の間には直接的な主従関係も結ばれ、以降は三好家が将軍家を支える両者の協調体制が整えられていくことになる。この将軍家と三好家の協調体制は、途中、永禄4 - 5年(1561年 – 1562年)京都周辺の大名六角家・畠山家の京都及び河内飯盛山城下への侵攻や、幕府政所執事の伊勢貞孝の討ち死に、細川晴元、三好義興、三好長慶らの病没死を挟みつつも、永禄8年(1565年)まで、両家間の平穏な期間が続いた。山田康弘は、この時期の義輝の三好氏への急接近と幕府体制内への取り込みについて、「雑々聞検書」から永禄2年(1559年)と思しき二月二十六日付の書状を引用し、当時三好・伊勢の間に不慮の雑説が流れていたことを紹介し、義輝側からの三好氏・伊勢氏の分断工作や、伊勢貞孝の孤立化を目指した工作が行なわれていた可能性も考えられると指摘する。なお、21世紀に入ると、この平穏な期間にも、将軍家はたびたび三好家を狙ったテロを企てていたのではないかという説も登場している。小林の説によれば、安芸の大名毛利家は義輝の意向に沿わなくなった途端に嫡男の毛利隆元が不審な死を遂げ、後に朝倉家に滞在する足利義昭らに対して、朝倉家中では、都の毒で主君の一族が毒殺されることを警戒したなどの記録から、宣教師とも良好な関係を持っていた永禄期の幕府は異国の毒物をひそかに入手し、これを三好家に用いたのではないかと推論される。この説では、特に三好長慶には、阿片や新大陸のコカの葉から抽出された新種の薬物等が投与された可能性まで示唆される。これらの毒物によって長慶は若くして廃人同然にされ、三好義興は毒殺され、幼い主を抱えた三好家は毛利隆元らの死も含めて、幕府に対立する重要人物の相次ぐ不審死に対して将軍家への反感と疑惑を強め、ついには将軍を武力で打倒することを決意したのではないかと推測される。ただし、この風変わりな説は状況証拠のみによって組み立てられており、現在のところ通説となるには至っていない。また、近年の説として、三好・松永側には明応の政変(1493年)以来続く足利義稙系と足利義澄系による「足利将軍家の分裂」を解消させる積極的な意図があったとする説や、三好・松永側は実際に訴訟(要求)の取次を求めて御所を訪れた(いわゆる「御所巻」)ものの、取次の際の齟齬あるいはその過大な要求から両軍の衝突に発展してしまったもので、最初から将軍殺害を計画していた訳ではないとする説もある。もっとも、両説共に矛盾を抱えているとする指摘もあり、三好・松永側の真意が何処にあったのかは不明である。事件後義輝の死の直後、松永久秀らは義輝の弟で鹿苑院院主周暠を殺害、義輝のもう1人の弟で大和興福寺一乗院の門跡覚慶を幽閉した。だが、2ヵ月後の7月28日に覚慶は義輝の近臣一色藤長・細川藤孝らの手により脱出した。翌年2月に覚慶は足利義秋(後に義昭と改名)と名乗って還俗。近江矢島(現在の滋賀県守山市)を経て越前守護朝倉義景を頼った。一方、三好三人衆は義輝兄弟の従弟で、かつての堺公方の血統にあたる足利義親(後に義栄と改名)を淡路で擁立し、摂津富田(現在の大阪府高槻市)に入った。義輝の執政により回復したかに思えた室町幕府の権限であったが、永禄の変の直後にはすでに奉公衆や奉行衆が主君の仇敵である三好長逸の所に挨拶に赴くなど、義輝の執政の脆弱さを露見する結果に終わっている。さらに、永禄の変について織田信長の重臣太田牛一は、「義輝の側が三好家に対して謀反を企てたため殺害された」という旨を信長公記に記している。
2024年06月27日
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3「永禄の変と信忠」義輝の命により一族・奥州家の細川輝経の養子となるが、この養子縁組は系譜上のものであり、その後も実父・藤孝と行動をともにし、領国も継承した。永禄の変の後、藤孝や明智光秀らは尾張・美濃の大名・織田信長を頼って義輝の弟・義昭を第15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男・信忠に仕えた。永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある。義輝側は三好・松永らの謀叛に備え、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、事件前日の永禄8年(1565年)5月18日には、義輝は難を避け京を離れるために一旦、御所を脱出している。しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。一方、三好・松永らは、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、翌5月19日に清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように訴訟の取次自体は事実だったとする説もある)。奉公衆の進士晴舎が訴状の取次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。なお、松永久秀がこの事件の主導者であるという見解が広く巷間に流布しているが、久秀はこの事件が起こった当日は大和国にいて直接には関与していない。しかし、主導しなかったとはいえ、久秀が将軍暗殺を黙認したことは事実である。将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通やその弟・福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ義輝自身もまた、薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという。しかし、多勢に無勢の中、昼頃までに義輝や進士藤延、荒川晴宣、荒川輝宗、彦部晴直、彦部輝信、杉原晴盛、小笠原稙盛、沼田光長、細川隆是、武田輝信、摂津糸千代丸といった主従全員が討死・自害した。事件の当日に在京していた山科言継の日記『言継卿記』の五月十九日の条では、戦いが行われ、奉公衆が大勢討ち死にし、同日の午の刻の初め頃(昼頃)には将軍も「生害」されたと伝えている。その一方で、三好氏に近かった幕臣の伊勢貞助は義輝を助けずに御所内にあった室町幕府歴代の重宝が入った唐櫃を密かに御所外に搬出したという。また、義輝生母の慶寿院(近衛尚通の娘で12代将軍足利義晴の正室)も自害した。義輝正室(近衛稙家の娘)のほうは近衛家へ送り届けられたが、義輝の寵愛を受ていた側妾の小侍従(進士晴舎の娘)は殺害された。事件に至る経緯台頭する三好氏主家細川氏の管領職争いのために畿内を転戦してきた阿波守護代出身の三好氏当主で細川晴元を管領に就けた最大の功労者である三好元長は一転、晴元から危険視され、享禄5年5 月には飯盛城の戦いで晴元と手を組んだ一向一揆に攻め込まれ、和泉顕本寺において自刃に追い込まれていた(享禄・天文の乱、堺公方も消滅)。元長の子の三好長慶は、足利将軍家や晴元と対立しながらも、着実に勢力を伸ばしていった。そして天文18年(1549年)、晴元の側近で同族の三好政長を討ち取った長慶を恐れた晴元は、13代将軍足利義輝と大御所足利義晴を連れて近江坂本へ逃れた(江口の戦い)。この時から細川政権は崩壊、新たに三好政権が成立した。天文22年(1553年)には反撃を試みた義輝を近江朽木へ追いやり、三好氏は畿内の実力者として絶頂を極めた。但し、戦国時代における京都の支配は、将軍と対立し幕府政治機構に頼らないまま維持することが困難であった。その上、義輝が近江朽木へ動座した以降も断続的に六角氏や畠山氏の攻撃を受け、京都支配は一向に安定する兆しを見せなかった。そしてついに永禄元年(1558年)には義輝と近江守護六角義賢の攻撃を受けて和睦し、長慶は幕府相伴衆に列するに至った。しかし、これにより三好氏は京都の掌握はおろか、義輝の臣下として幕府政治機構に組み込まれることになった。
2024年06月27日
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信長家臣時代義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。義昭が信長に逆心を抱くふしがあることを密かに藤孝から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。義昭が追放された後の7月に桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて長岡 藤孝と名乗った。8月には池田勝正、三淵藤英と共に岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼす功を挙げ、以後は信長の武将として畿内各地を転戦。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を光秀と共に落とした(信貴山城の戦い)。天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がなる。光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信とともに出陣。信長は正月12日付の藤孝宛ての黒印状で、知多半島で取れた鯨肉を朝廷に献上したうえで、家臣である藤孝に裾分けする旨を述べており、鯨は多くの人に分ける習慣があったことが指摘されている.。本能寺の変以後天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った光秀は山崎の戦いで敗死した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされる。その後も光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州平定にも武将として参加した。また、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。この功により、文禄4年(1595年)には大隅国に3000石を加増された(後に越前国府中に移封)。幽斎は千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方で徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。)慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩39万 9000石の大封を得た。この後、長岡氏は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。 死後幽斎の所領6000石やそのほかの資産は死後に整理され、次男の興元の下野茂木藩1万石立藩の足しとして、あるいは慶長9年(1604年)に忠興から廃嫡された幽斎の孫の長岡休無(細川忠隆)への細川家からの京都隠居料(3000石)として、受け継がれた。
2024年06月27日
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二十六、「本能寺の変」 信長は四国の長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。 また北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。 上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。 五月十五日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。 そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から十七日にわたって家康を手厚くもてなした。 家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。 後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。 五月二九日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、 六月二日に本能寺を襲撃する。 この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが『本城惣右衛門覚書』からもうかがえる。 百人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年四十九(満四十八歳没)。 光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまった、あるいは損傷が激しく誰の遺体か確認できなかったためと考えられる。 ゆえに、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説が後世に流布した。実際事件当時も信長の生存説が京洛に流れており、緊急に光秀と対立することとなった羽柴秀吉はこの噂を利用し、味方を増やそうとしている。 本能寺の変では光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、色々な説が流れており、後者には徳川家康説、秀吉説、天皇説、堺の商人説などがある。波瀾万丈の類まれなる天下無双の織田信長と言うう知将は、天下取りに頂点に駆け登った。 だがその終焉は余りにも儚く空しい結末で人生を閉じた。非情にも、多くの人々の命を虫けらの如く奪い去った。その功罪を語る時、戦国と言う有史以来の下剋上の不原則の時代で一長一短に語り尽くすことが出来ない。 了
2024年06月22日
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二十五、「魚津城の戦い」 魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい)は、天正十年(1582)に行われた柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦い。上杉家(米沢藩)中条家文書・魚津在城衆12名連署書状を根拠とする 。 上杉氏と織田氏は甲斐武田氏や相模後北条氏に対して同盟関係にあったが天正四年(1576)に織田氏の当敵である毛利氏のもとに身を寄せていた将軍足利義昭が反信長勢力を糾合すると上杉謙信は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦し、同盟は手切となり敵対関係に入った。 天正六年に謙信が死去すると上杉家では御館の乱を経て上杉景勝が当主となり、景勝は信長の当敵である甲斐武田氏と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田氏は引き続き敵対関係となった。 謙信死後、織田信長は北陸地方の支配を目論んだとされ、天正九年(1581)に起こった荒川の合戦以後は、事実上、織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清され、北陸地方における織田氏方の基盤が作られていった。 天正十年(1582)二月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、同年三月に織田軍は魚津城を囲んだが、背後で小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住の富山城を急襲し城を乗っ取ったため、天正十年(1582)三月十一日に柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政は魚津攻めを中止し富山城を攻めさせ奪還した。その後四万ともいわれる織田軍は魚津城への攻撃を再開し、上杉氏も三千八百ともいう兵を挙げ立てこもった。 包囲された上杉軍部将の中条景泰はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には、武田氏を滅亡させた織田軍がまだ駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとったため兵を出せなかった。 その代わり能登国の諸将、および赤田城主斎藤朝信や松倉城主上条政繁を派遣した。そして景勝は天正十年(1582)五月四日に、自ら軍勢を率い春日山城を出発、五月十九日には魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を張った。一方織田軍は五月六日に二の丸を占拠したため、景勝は戦を仕掛けられず、信 濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が越後侵入の態勢に入ったため、五月二七日に退陣を決断した。 その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から三ヶ月後の六月三日に落城を悟った山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将十三人が自刃して果て落城、織田軍が勝利した(落城の日には、既に織田信長は京で横死していたことに注意)。 勝利に沸く織田勢であったが、六月二日に信長が本能寺で明智光秀により討たれた(本能寺の変)との報に接し、主君の死に動揺した織田勢は四散した。空城となった魚津城には須田満親を中心とする上杉勢が入り、越中東部における失地を奪還したが、清洲会議で越中を安堵された佐々成政に再び攻められ、城を明け渡した。上杉氏は織田氏に加賀能登越中を奪われ、越後に押し込められた。「魚津在城十三将」中条景泰 - 竹俣慶綱 - 吉江信景 - 寺嶋長資 - 蓼沼泰重 - 藤丸勝俊 - 亀田長乗 - 若林家吉 - 石口広宗 - 安部政吉 - 吉江宗信 - 山本寺景長 - (吉江景資)中条、竹俣、吉江信景は上杉謙信の代からの側近。藤丸、亀田、若林らは、元加賀一向宗門徒の国衆で、謙信の加賀侵攻に伴い上杉氏の被官となった者たちで、若林家吉は天正2年7月に謙信が加賀に侵攻した際の一揆側の主将・若林長門守の一族と考えられる。 上杉一門からは山本寺も加わっている。 吉江景資の名は「魚津在城衆十二名連署状」にはないが、同時期に戦死したと考えられており、ここでは含めることとした。なお、中条と蓼沼は第1廓を守備していたことが史料から判っている。
2024年06月22日
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二十四、「甲州征伐」天正九年(1581)五月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。七月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。 三月二三日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。 などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。 天正十年(1582)武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。二月三日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。 信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は十万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は二月二日に一万五千人が諏訪上の原に進出する。 武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が二月十四日に織田軍に投降する。 さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する。 このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、三月二日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、四百余の首級が信長の許に送られた。 この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る。 しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った。 織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した三月八日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、三月十一日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。 この時、俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた。 信長は三月十三日、岩村城から弥羽根に進み、三月十四日に勝頼らの首級を実検する。三月十九日、高遠から諏訪の法華寺に入り、三月二十日に木曽義昌と会見して信濃二郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した。 三月二三日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させた。 三月二九日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた。 南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている。 四月十日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。四月十二日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける。 さらに江尻城、四月十四日に田中城に入城し、四月十六日に浜松城に入城した。浜松からは船で吉田城に至り、四月十九日に清洲城に入城。四月二十一日に安土城へ帰城した。 信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は五月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った。 また伊達輝宗の側近・遠藤基信が六月一日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。「三職推任」四月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、五月に信長に伝えられた(三職推任問題)。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。
2024年06月22日
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二十二、「京都御馬揃え・左大臣推任」 京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)は天正九年二月二八日(1581))、織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードである。この馬揃えは京都内裏東にて行われた。丹羽長秀や柴田勝家を始め、織田軍団の各軍を総動員する大規模なものだった。正親町天皇が招待され、近衛前久ら馬術に通じた公家にはパレードへの参加が許された。 このパレードの目的は、天下布武を標榜する織田信長が、周辺大名を牽制し、力を誇示するためと考えられている。これにより、信長は京都の平和回復と織田家の天下掌握を内外に知らしめた。また、天皇や公家を招待した理由については、朝廷を威圧するためという説と、天皇側から査閲を希望したという説とがある。 天正九年(1581)一月二三日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した。 この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。 ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。信長は天正九年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。 二月二八日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。 『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。 三月五日には再度、名馬五百余騎をもって信長は馬揃えを挙行した。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという。 三月七日、天皇は信長を左大臣に推任。三月九日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。 朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。三月二四日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。だが四万月一日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。 八月一日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった。 二十三、、「高野山包囲」 天正九年(1581)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。 『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。 一方、『高野春秋』では前年八月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて九月二十一日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。 このため天正九年(1581)一月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した。 信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。一月三十日には高野聖一三三三名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。 十月二日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、三五〇名を捕虜とした。 十月五日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。 天正十年(1582)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。 武田家滅亡後の四月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。信孝は高野山に攻撃を加えて百三十一名の高僧と多数の宗徒を殺害した。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた。
2024年06月22日
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この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。 天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。 尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正四年(1576)にはこれらを安土に結集させた。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。 上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配置した。【*美濃・尾張・飛騨の抑え・織田信忠・斎藤利治・姉小路頼綱*対武田方面・滝川一益・織田信忠軍団(天正元年結成)*対本願寺方面・佐久間信盛軍団(天正四年結成 - 天正八年消滅)*北陸方面・柴田勝家軍団(天正四年昇格)*近畿方面・明智光秀軍団(天正八年昇格)*山陰・山陽方面・羽柴秀吉軍団(天正八年昇格)*関東方面・滝川一益軍団(天正十年結成)*四国方面・織田信孝・津田信澄・丹羽長秀・蜂屋頼隆軍団(天正十年結成)*東海道の抑え・徳川家康(形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない)*伊勢・伊賀方面の抑え・織田信雄・織田信包· (紀伊方面の抑え・織田信張)】 二十一、「中国侵攻」 天正六年(1578)三月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。四月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。 七月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。十月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重にはつかなかった。 十一月六日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、六隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。天正七年(1579)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年九月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで十月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。 十一月、信長は織田家の京屋敷・二条新御所を、皇太子である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・邦慶親王を猶子として、この邦慶親王も二条新御所に移っている。この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の十二か条の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などである。 徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させたという。 だが、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説も出ている(松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。 また伊勢国の出城・丸山城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し、家老の柘植保重が植田光次に討ち取られるなど敗退を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた(第一次天正伊賀の乱)。 天正八年(1580)一月、別所長治が切腹し、三木城が開城。三月十日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した。 四月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田家に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。八月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。 天正九年(1581)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらに岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将として四万の軍勢で伊賀十二人衆を倒して伊賀惣国一揆を滅ぼし、伊賀国は織田氏の領地となった。
2024年06月22日
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十一月二八日、信長は一週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠を正室・濃姫の養子とし、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直轄領)を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。 天正四年(1576)一月、信長自身の指揮のもと琵琶湖岸に安土城の築城を開始する。安土城は天正七年(1579)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。 天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。「第三次信長包囲網」天正四年(1576)一月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。 四月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀ら三万人の軍勢を大坂に派遣し、砦を構築させた。しかし塙が本願寺勢側の雑賀衆の伏兵の襲撃に遭って、塙を含む千人以上が戦死した。 織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。五月五日、救援要請を受けた信長は若江城に入って動員令を出したが、急な事であったため集まったのは三千人ほどであった。 五月七日早朝、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢一万五千人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。 信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功。本願寺勢を撃破し、これを追撃。二千七百人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。 その後、佐久間信盛を主将とした織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが七月十三日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍八百隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。 この頃、越後守護で関東管領の上杉謙信と信長との関係は悪化し、謙信は天正四年(1578年)に石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、十一月二十一日に信長は正三位・内大臣に昇進している。時に信長四十四歳であった。「織田右府」天正五年(1577)二月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、三月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、形式的な和睦を行い、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。 大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、十月に松永を攻め自刃させた(信貴山城の戦い)。 久秀を討った十月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。 十一月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。 その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。 十一月二十日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正六年(1578)一月にはさらに正二位に昇叙されている。天正六年(1578)三月十三日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。
2024年06月22日
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これに怒った氏郷は平楽寺を攻撃し、退けられるが滝川一益の援軍を得て陥落させた。続く比自山城は難攻不落の要塞で、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し、落とせなかった(比自山城の戦い、この時活躍した伊賀衆を比自山の七本槍という)。 しかし、総攻撃の前日に全ての城兵は柏原城に逃亡した。その後、内応者が出た事もあり(伊賀衆は織田方の調略を受け、連携を欠いていた)、織田軍は各地で進撃し同月十一日にはほぼ伊賀国を制圧した。村や寺院は焼き払われ、住民は殺害された(平楽寺では僧侶七百人余りが斬首、伊賀全体では九万の人口の内非戦闘員含む三万余が殺害された)。 奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が二八日早朝に信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期を九月十一日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。この柏原城が開城した時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。残党は徹底的に捕縛され殺されたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国した。 同年十月九日には信長自身が伊賀国に視察に訪れている。信長は阿拝郡、伊賀郡、名張郡を滝川雄利に、山田郡を織田信兼にそれぞれ与えた。 二十、、「信長包囲網」「長篠の戦い」 信長包囲網の打破後、信長や家康は甲斐国の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。 天正三年(1575)四月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、一万五千人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。 しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の五月十二日に信長は三万人の軍を率いて岐阜から出陣し、五月十七日に三河国の野田で徳川軍八千人と合流する。 三万八千人に増大した織田・徳川連合軍は五月十六日、設楽原に陣を布いた。そして五月二十一日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。 信長は設楽原決戦においては五人の奉行に千丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし、武田軍に勝利する。 六月二七日、相国寺に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論のことを知り、公家の中から五人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。 七月三日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。 天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、荒木村重に摂津守、羽柴秀吉に筑前守の官位と姓を与えた。「越前侵攻」 この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。 門徒達は天正三年(1575)一月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の八月、越前国に行軍した。 内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、一二二五〇人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された。 越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。「右近衛大将就任・天下人公認」 天正三年(1575)十一月四日、信長は権大納言に任じられる、また、十一月七日には征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任する。信長は右近衛大将就任にあたり、御所にて公卿を集め、 室町将軍家の将軍就任式に倣った儀礼(陣座)を挙行させた。。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた。 これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとみられる。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある。 また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある。 ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた。 同日、嫡子の信忠は秋田城介(鎮守府将軍になるための前官)に、次男の信雄は左近衛中将に任官している。
2024年06月22日
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信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した。 顕如退去後に教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如と教如の二派に分かれ、顕如は誓約違反を問われることになってしまった。結局、教如も石山を出ることで内紛には決着がつき、 天正十年(1582)六月の本能寺の変の信長の死の直後に顕如と教如は朝廷の仲介により和解するが、顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し三男の准如を嫡子と定めた。 文禄元年(1592)十一月、顕如が死没すると豊臣秀吉の命で教如が本願寺を継ぐが、如春(顕如の妻、教如・准如らの母)らが顕如の遺志にもとづき秀吉に働きかけたため、翌年に教如は隠居させられ弟の准如が跡を継いだ。しかしその後も教如は大坂の大谷本願寺(難波御堂、現在の真宗大谷派難波別院)を本拠地として、各地の門徒へ本尊の下付などの法主としての活動を続けたため、この時点で本願寺は准如を支持する派と教如を支持する派に事実上分裂した。 慶長七年(1602)、教如は以前より昵懇だった徳川家康による土地の寄進を受け、京都の七条烏丸に東本願寺を建てたために、本願寺は東西に分かれることとなった。 序文で述べているが、石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。 講和条件の「如在無きに於いては(=従順でいるならば)加賀江沼・能美二郡を本願寺に返付する」という条項については、実現されることはなかった。というのは教如が抗戦を呼びかけたため、加賀一向一揆と信長の重臣柴田勝家の交戦は続いたからである。信長と顕如は停戦を命じたものの戦闘は続き、天正八年十一月十七日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、天正十年(1582)三月には吉野谷の一揆が鎮圧されて「百姓の持ちたる国」は終焉を迎えた。 ちなみに全国各地の真宗寺院の記録には、誇らしげな武勇談・忠節談はあっても、不法行為をしてしまったという罪の意識や反省の弁は皆無であり、門徒たちの「正義の戦いであった」という意識が明確に投影されている。 十九、「天正伊賀の乱」 天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正六年(1578)から天正七年(1579)の戦を第一次、天正九年(1581)の戦を第二次とし区別する。 北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正四年(1576)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。 天正六年(1578)二月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信雄は同年三月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。 これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、三層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は九回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。 すぐさま伊賀郷士十一名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年十月二五日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。 翌天正七年(1579)九月十六日、信雄は信長に相談もせず独断で八千の兵を率いて伊賀国に三方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、二~三日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。信雄軍は重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。 信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる。 また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。「第二次天正伊賀の乱」 天正九年(1581)四月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の二人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。 そして再び織田信雄を総大将に五万の兵で伊賀国に侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には九月三日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では九月二九日に六か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月六日より戦闘が開始された。 伊賀衆は比自山城に参千五百人(非戦闘員含め一万人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に千五百人で籠城した。伊賀衆は河原(あるいは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ大敗した。筒井順慶隊にも夜襲を掛け、千兵を討ち取られた。
2024年06月22日
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十八、「第二次木津川口海戦」 木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に、大砲を装備した黒船を建造するよう命じ、滝川一益にも白船を一艘建造させた。 九鬼嘉隆らの船団は伊勢大湊を出発し、大坂へ向かった。雑賀衆はこれを迎え討つべく、淡輪(現大阪府岬町)周辺の海上でこの船団を取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃した。 しかし、嘉隆はこれに応戦し、大砲も使って敵船の多くを撃沈し、船団は七月十七日に堺に着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖した。 十一月六日、毛利水軍は六百余艘を繰り出して再び木津川河口に現れた。信長軍は九鬼嘉隆の大船を中心として立ち向かったが、毛利水軍はまたも焙烙火矢で攻撃を繰り返した。 しかし、嘉隆は淡輪での戦いと同様に、大船を相手の大将が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで撃沈するという方法で相手を打ち崩し、ついには毛利水軍の舟数百艘を木津沖に追い返すことに成功した(第二次木津川口海戦)。「講和」 天正六年十月、摂津における石山本願寺討伐の要であった荒木村重の離反によって(有岡城の戦い)、信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。 同時に、三木合戦で羽柴秀吉が三木城を攻めていたが、毛利氏が摂津に上陸して三木城に兵糧を運び込む恐れも出てきた。 これを機に信長は朝廷を動かして和解を試みた。朝廷は信長の希望を受け入れて勅使を送ったものの、本願寺は毛利氏の賛同がないと応じられないとしてこれを事実上拒否したため交渉は決裂した。 これを受けて信長は毛利氏とも講和を決め、毛利氏への勅使が派遣された。しかしその直後、第二次木津川口海戦において織田水軍が大勝すると信長は和平交渉を中止し、村重攻略を進めた。 また村重の反乱自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったため、反乱自体は長期にわたったものの石山本願寺攻略への影響は最小限に留まった。 第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めた他、天正七年(1579)十月には有岡城が陥落し、三木城の情勢もすこぶる悪くなっていたこともあり、十二月、ついに恒久的な和議を検討するようになり、密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えた。 その動きを期待していた信長側でも再度朝廷に講和の仲介を働きかけていた。そして、翌天正八年(1580)一月、三木城が落城した。 そのような状況の中で三月一日、朝廷は本願寺へ勧修寺晴豊と庭田重保を勅使として遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。 また、信長も別箇に開戦の経緯を知る近衛前久を派遣して本願寺側との妥協点を探った。以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものと言える。 閏三月七日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は三度目の講和を果たした。条件は顕如ら門徒の大坂退城など以下の通り。覚一 惣赦免事一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事一 人質為気仕可遣之事一 往還末寺如先々事一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事一 月切者七月盆前可究事一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事 三月十七日 朱印(信長) この他『信長公記』には退城の期限は七月二十日だったと書かれている。また、講和条約に署名したのは顕如の三人の側近下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝だった。 四月九日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し、紀伊鷺森御坊に退去した。しかし雑賀や淡路の門徒は石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調した。故に、顕如が石山を去った後も石山は信長に抵抗する教如勢が占拠し続けた。 七月二日、顕如は三人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った。これと前後して荒木村重が花隈城の戦いに破れ去るなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって石山の受け渡しを教如派も受け入れて雑賀に退去し、八月二日に石山は信長のものとなった。 引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。『信長公記』では松明の火が風で燃え移ったとされている。『多門院日記』には、「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」と噂されたとある。 八月、佐久間信盛は信長から折檻状を突きつけられて織田家から追放されたが、理由の一つに石山本願寺を包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げている。 また信長と石山本願寺の交渉の影には森成利(森蘭丸)の母の妙向尼がいた。妙向尼は和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った。森成利を通じて情報を得た妙向尼は信長と直接、面会し、直談判をして信長の石山本願寺の追撃を断念させた。
2024年06月22日
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信長は天王寺を本陣とし、住吉・遠里小野にも布陣させ、石山本願寺と対峙した。十四日に石山本願寺に押し寄せ、ここでも石山本願寺周辺の作物を薙ぎ捨てにした。十六日には遠里小野に移動し信長自身も作毛を刈り取り、新堀城周辺に陣を張った。 新堀城には十河一行や香西長信が立て篭もっており、高屋城と石山本願寺との中間にある城で両城を支援していた。十七日、織田軍はこの城を取り巻き、十九日に堀に草などを入れ埋め立て、夜になって火矢を射かけ大手門、搦手門の両方に突撃し、一七〇余の首級をあげた。十河一行は討ち死にし、香西長信は生け捕りにされ、斬首された。 新堀城が落城すると、三好康長は信長の側近であった松井友閑を仲介にして降伏を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。 遊佐信教は弓倉弘年によると以後、「遊佐河内入道」として本願寺と共に対信長戦を続けたとする。事実、当時の記録のどれにも信教が高屋城の戦いで戦死したとしているものはない。通説では信教はこの戦いで死んだ事になってはいるが、やはり後世に作られた軍記物の記述であり、信ぴょう性は無い。 河内守護の城として長い歴史を重ねていた高屋城はこの戦いで廃城となった。 信長公記はこの時既に「もはや本願寺の落城は時間の問題となった」としているが、武田勝頼が三河に侵入し長篠に迫ったとの報が入ったため、信長は石山本願寺攻めを中止し、塙直政に高屋城を含む河内の破城を命令、自身は四月二一日に帰京し、長篠の戦いへと赴いた。 十月中旬から、本願寺は松井友閑と康長を仲介とし、信長に三軸の名画を送って和睦を申し入れた。十二月に和睦が成立し、誓紙が取り交わされた。一、当寺の儀、御懇望について、御無事の上、御表裏あるべからざるの通り、御前において堅く申し究め候事。付けたり、新儀難題これあるべからざる事。一、御分国中当寺諸末寺は先々のごとくたるべし、並びに以下の輩、還住・同住還など異儀あるべからざる事。一、当寺に対して両人毛頭表裏抜公事などあるべからずる事。右違犯これあらば(中略)無間地獄に墜つるべきものなり。仍て件のごとし。 織田信長と石山本願寺の誓紙(龍谷大学所蔵文章)「当寺」は石山本願寺、「御前」は信長、「両人」は友閑と康長を意味している。署判者は友閑と康長で、宛所は当時石山本願寺の幕閣(顕如外)を構成していた五名であった。しかしこの和睦も一時のものにすぎず、翌年の天正四年(1576)信長と石山本願寺の間で天王寺の戦いが勃発する。 康長はその後河内南半分の守護に任じられた。これ以前、康長は阿波において、信長の敵の三好三人衆を補佐していた。 これに対して『信長合戦全録』では「名門三好家および老練の康長という人物に利用価値を認めたからであろう」とし、『信長の天下布武への道』では「康長は、宗家の義継が死んだ後は、三好家を代表する存在だった。 阿波・讃岐・淡路にまだ勢力をもっている三好一族への影響力も強い。そうした康長を、いずれは四国侵略に利用しようとしたのではないだろうか」とし、三好氏の影響力を四国征伐に役立てる為ではなかったかと解説している。 この戦いが始まる天正三年三月、信長が細川藤孝に対して与えた朱印状と同時期に、荒木村重に対しては摂津、藤孝には山城、塙直政には大和の守護をそれぞれ与えている。 この時に信長は石山本願寺を攻城を決意したと考えられ、『織田信長合戦全録』によると「対本願寺包囲体制が完成したわけである」と記している。 高屋城、石山本願寺と並ぶ主戦場であった新堀城は文献によって推定地に違いがある。『日本城郭大系』によると大阪府大阪市住吉区長居東周辺で「天正三年に織田信長に攻め落とされた。城跡付近の旧堀村は昭和初期まで環濠集落の形を残していた」とし、『大阪市史』も住吉区長居東周辺としている。(長居東にある瀧光寺のHPによると堀村には新堀城の伝承は伝わっておらず、築城伝承は残るが「栴檀城」という地名が過去に有りそちらである可能性があるとしている。) 「白天目」茶碗は谷下一夢『顕如上人伝』によると、信長の礼状に「十一月一八日」とあることから元亀三年(1572)ではないかとしている。「紀州征伐」 翌五年(1577)二月二日、紀伊の雑賀衆の中でも本願寺へ非協力的であった雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が信長軍へ内応した。 これを受けて、信長は準備を整えた上で二月十三日に京都を出て、対抗する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入った(紀州征伐)。織田信長の軍は貝塚にいた雑賀衆を攻撃したのち佐野に進み、自軍を信達で山手・浜手の二手に分け、紀伊に攻め入った。三月十日に雑賀衆の頭目の十人で有力な門徒でもある鈴木孫一の居城を包囲し攻め立てた。 しかし、この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、戦線も膠着状態に陥ったことから、事態を憂慮した雑賀衆が翌日に大坂での事に配慮を加えることを条件に降伏を申し入れたため、信長はこれを受け入れて兵を引いた。
2024年06月22日
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やがて義昭と信長が対立し、義昭は各勢力に信長討伐を呼びかけた(信長包囲網)。三好義継は三好三人衆や大和の松永久秀と再度結んで信長から離反して義昭側に味方し、畠山家中は信長派と義昭派とに分裂した。 当主・畠山秋高は信長派だったが、元亀四年(1557)六月、秋高は義昭派の守護代・遊佐信教に自害させられてしまった。安見宗房もこの頃には死去し、秋高の弔い合戦を行った兄の高政も信教に敗れて追われ、畠山家中の主導権は信教が握った。 しかし包囲網側は劣勢に立たされた。七月に槇島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、八月には一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害、九月には小谷城の戦いで浅井長政が敗死。十一月には三好義継も信長の攻勢を受け味方の裏切りにあって自害し(若江城の戦い)、十一月には石山本願寺が信長に名物の「白天目」(はくてんもく)茶碗を進呈して講和。十二月には堺に逃亡していた義昭がさらに紀伊の興国寺へ逃げ、十二月二十六日には松永久秀も降伏して多聞山城や堀城を明け渡した。こうして信長包囲網はほぼ崩壊した。 天正二年(1574)二月二十日、義昭は興国寺から武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに対し、徳川家康・顕如と共に帰京を図るように御内書を送付した。また側近の一色藤長が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。 この足利義昭御内書は御内書で、義昭の直書形式と考えられている。内容は毛利輝元が浦上宗景、宇喜多直家と和睦したことを喜び、今こそ天下のために励むべき時であると述べ、輝元が備中へ差し向ける軍勢を讃岐に向かわせることに対して賛意を表している。 こうした動きから、四月に摂津国の池田勝正、讃岐国の十河一行、雑賀衆の鈴木孫一ら雑賀衆や、三好義継に従っていた若江城の残兵や、池田勝正に従っていた池田城の城兵が加わり、信長方であった堀城の城主・細川昭元や堀城周辺の城を攻め落とした。 この動きに高屋城の遊佐信教も呼応し、阿波国の三好康長を呼び寄せ、大和国衆の一部とともにも高屋城に立て篭もった。この際、石山本願寺も挙兵している。 信長はこの報を京都でうけ討伐軍を編成。武将は柴田勝家・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・荒木村重といった面々である。四月十二日、これらの軍勢が下八尾、住吉、天王寺に着陣し石山本願寺と高屋城の両面を攻めた。 石山本願寺方面では住吉や天王寺を焼き討ちにし、石山本願寺から出軍してきた部隊と玉造辺りで合戦となった。しかし、これらの戦いについて詳しい事は分かっていない。二八日に織田軍は抑えとして荒木村重と高山右近を残し撤兵した。 この年、織田軍は七月から九月にかけて、長島一向一揆を全滅させた。また、佐久間信盛・細川藤孝・筒井順慶・明智光秀・塙直政・森長可らが若江城に入城し、九月一八日に飯盛山城や山城下で三好康長、顕如連合軍と激しい戦闘になり、飯盛山城を落城させ萱振城も落城し、高屋城下を放火している。 一旦兵を引いた織田軍だったが、天正三年(1575)三月二十二日に信長は細川藤孝に対して、【来たる秋、大坂合戦を申し付け候。然らば、丹州の舟井・桑名郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数など別して相催し、粉骨を抜きんぜられべく候。この旨を申し触れ、おのおのその意をなすべきこと肝要の状、件の如しという朱印状を与えた。秋には石山本願寺を攻撃するので、丹波の国人衆を与力として兵力を増強し、準備を進めるよう命じたものである。また摂津住吉郡に、】という禁制を発し、同地域の安全を確保した。 同三月、本願寺の一揆勢は大和田に大和田砦をつくり、渡辺や神崎あたりまで進軍した。 これに対して荒木村重が兵を送り破れてしまったが、村重は策を巡らし、一揆勢を十三の渡し周辺に誘い出し攻撃を加え、大和田砦と天満砦を奪うことに成功する。 これを好機とみたのか、四月六日、信長は秋を待たずに京都を出発した。『兼見卿記』にはとあり、当時京にいた信長は1万ほどを率いて出撃したようである。 織田軍は八幡を経て、七日に若江城へ入城。八日には駒ヶ谷山に布陣し、高屋城攻城に動き出した。三好康長も高屋城の不動坂口より出撃し、双方激しい合戦となった。織田軍は高屋城の周辺を焼き討ちにし、麦苗も薙ぎ捨てにした。 十二日、織田軍は住吉へ移動。十三日には摂津・大和・山城・若狭・美濃、尾張・伊勢・丹波・丹波・播磨・根来衆の増援軍が続々と到着し、総勢十万余の大軍となった。
2024年06月22日
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今城・火燧城・下間頼照大良越・杉津城・大塩の円強寺衆と加賀衆海岸に新しく作られた城・若林長門守・甚七郎父子と越前衆府中・竜門寺 三宅権丞このほか、西国の一揆勢も加わっていたという。八月一五日、風雨の強い日であったが、織田軍は大良(福井県南条郡南越前町)を越え、越前に乱入していった。 信長率いる織田軍は三万余。武将は佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、佐々成政、前田利家、簗田広正、細川藤孝、塙直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉良通(一鉄)・稲葉貞通、氏家直昌、安藤守就、磯野員昌、阿閉貞征・阿閉貞大、不破光治・不破直光、武藤舜秀、神戸信孝、津田信澄、織田信包、北畠信雄(伊勢衆)といった面々である。 そして最前列は越前衆と浪人が進んだ。既述のように一揆は分裂しており、越前衆の中にも織田側についた者がいたのである。 これと会わせて、海上からは水軍数百艘が進んだ。粟屋越中守、逸見駿河守、粟屋弥四郎、内藤筑前、熊谷伝左衛門、山県下野守、白井、松宮、寺井、香川、畑田、そして丹後の一色義道・矢野・大島・桜井である。これら水軍は浦や港に上陸し、あちこちに放火した。 対する一向一揆側は、円強寺勢と若林長門守親子が攻撃してきたが、羽柴秀吉・明智光秀が簡単に打ち破った。羽柴隊・明智隊は二〇〇~三〇〇人ほどを討ち取ると、彼らの居城である大良越・杉津城および海岸の新城に乗り込み、焼き払った。討ち取った首はその日のうちに敦賀の信長に届けられた。 この日の夜、織田勢は府中竜門寺に夜襲をかけ、近辺に放火した。背後を攻撃された木目峠・鉢伏城・今城・火燧城の一揆勢は驚き、府中に退却していったが、府中では羽柴秀吉・明智光秀が待ち受けており、二〇〇〇余りが討ち取られてしまった。 鉢伏城の阿波賀三郎・与三兄弟は信長に許しを求めたが、信長は許さず、塙直政に殺させた。八月一五日、織田軍は杉津城に攻撃を開始する。 この城は大塩円強寺と堀江景忠が守っていたが、織田の大軍が来襲してきたことを知ると、景忠は森田三左衛門や堺図書助らとともに内応して裏切り、板取城の下間頼俊、火裡城の下間頼照、そして今庄の七里頼周は逃亡。一向一揆指導部は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が全くできなくなった。十六日、信長は馬廻をはじめとした兵一万を率いて敦賀を出発し、府中竜門寺に布陣すると、今城に福田三河守を入れて通行路を確保させた。 ここで敵方の朝倉景健が、山中に隠れていた下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持の首を斬って持参し、信長に赦免を請うたが、許されずに殺された。 この時、景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門ら三人が切腹して殉死した。一八日、柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄の3人が鳥羽城を攻撃し、敵勢五〇〇~六〇〇を討ち取って陥落させた。金森長近、原長頼は美濃口から根尾~徳山経由で大野郡へ入り、数箇所の小さな城を落として多数の斬り捨て、諸口へ放火した。 一揆は完全に崩壊し、取るものも取りあえず右往左往しながら山中へ逃げていった。しかし信長は殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命令した。 織田軍により一揆衆一万二二五〇人以上が討ち取られた。、さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は三万から四万余に上るとされる。九月二日には一向一揆の味方をしたことを問われた豊原寺が全山の焼き討ちを受けた。 こうして、越前から一向衆は完全に駆逐された。また、に小丸城跡(武生市、現在の越前市の一部)から発見された瓦に、五月二四日、天正四年(1576)のと比定される)に前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く、という内容の書き置きがある。 信長は越前八郡七五万石を柴田勝家に与え、北ノ庄城主に命じた。越前府中一〇万石は前田利家・佐々成政・不破光治に均等に与えられ、府中三人衆として勝家の補佐・監視役を担うことになる。また、大野三万石は金森長近に、二万石は原長頼に与えられた。また、信長は越前国掟を作っている。 こうしてここに、柴田勝家を総司令官とする織田家の北陸軍団が誕生したのである。 この戦いは、織田信長の大勝であったと同時に、あらためて信長の武威を示す戦いともなった。 また、この一件で石山本願寺中央からの指導があまり地方には深く及んでいないことも露見した。その後、加賀も天正八年(1580)までに織田軍に一部を除いてあらかた制圧されてしまった十七、「高屋城の戦い」 高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)は、天正三年(1575)四月八日から二一日まで河内高屋城、新堀城、石山本願寺一帯で行われた戦い。石山合戦の一部で、別名「第二次石山合戦」や、もう一つの主戦場でもあった新堀城を併せて「高屋・新堀城の戦い」と呼ばれることもある。 高屋城は元々河内畠山氏の城だったが、畠山氏が内紛により弱体化すると、細川氏や三好氏の介入を受けるようになった。 当主畠山高政はこれに抵抗したが、永禄三年(1560)に三好長慶に河内を乗っ取られ高屋城から追放された。 永禄十一年(1568)、同じく河内を追われていた高政の家臣安見宗房は、十五代将軍足利義昭と義昭を擁立する織田信長の上洛に畠山高政共々協力し、高屋城への復帰を果たした。ただし河内は三好義継(長慶の甥)と南北で折半だった。
2024年06月21日
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※上記の他にも参陣武将は多数存在し神戸信孝、水野信元らの参陣も信長公記などで確認できる。 七月十四日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴した。 同日中に早尾口の織田本隊も小木江村を固めていた一揆勢を破り、篠橋砦を羽柴秀長・浅井政貞に攻めさせ、こだみ崎に船を集めて堤上で織田軍を迎え討とうとした一揆勢も丹羽長秀が撃破し、前ヶ須・海老江島・加路戸・鯏浦島の一揆拠点を焼き払って五明(現愛知県弥富市五明)へと移動しここに野営した。 翌七月十五日には九鬼嘉隆の安宅船を先頭とした大船団が到着。蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸など尾張から集められた兵を乗せて一揆を攻め立てた。 また、織田信雄も垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井など伊勢から集められた兵を大船に乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされた。 海陸、東西南北四方からの織田軍の猛攻を受けた諸砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の五つの城に逃げ込んだ。 大鳥居城・篠橋城は、織田信雄・信孝らに大鉄砲で砲撃され、降伏を申し出てきたが、信長は断固として許さず兵糧攻めにしようとした。八月二日夜中、 大鳥居城の者たちが城を抜け出したところを攻撃して男女千人ほどを討ち取り、大鳥居城は陥落した。 八月十二日、篠橋城の者たちが「長島城で織田に通じる」と約束してきたので、長島城へと追い入れた。しかし長島には何の動きも起こらず、籠城戦が続いて、城中では多くの者が餓死した。 兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、九月二十九日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。 これに怒った一揆衆八百余が、織田軍の手薄な箇所へ、裸になって抜刀するという捨て身で反撃を仕掛けた。フロイス日本史によれば、これは伏兵だったという。 これによって信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死し、七百~八百人(信長公記)または千人(フロイス日本史)ほどの被害が出た。ここで包囲を突破した者は、無人の陣小屋で仕度を整え、多芸山や北伊勢方面経由で大坂へと逃亡した。 この失態を受けて、信長は、残る屋長島・中江の二城は幾重にも柵で囲み、火攻めにした。城中の二万の男女が焼け死んだという。同日、信長は岐阜に向け帰陣した。 こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。討死した主な織田側の将一揆蜂起時・織田信興第一次長島侵攻時・氏家卜全・蜂須賀正元(正勝の叔父)第二次侵攻時・林通政第三次侵攻時・小瀬清長・織田信次・織田信直・織田信広・織田信成・織田信昌・織田秀成・佐々松千代丸(佐々成政の長男)・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・和田定利証意(佐玄、願証寺四世)顕忍(佐尭、願証寺五世)空明(香取法泉寺十一世)・下間頼旦・下間頼成・斎藤龍興(第二次長島侵攻の前に脱退)・長井道利(元亀二年(1571戦死)・日根野弘就(元亀三年(1572)から合流)・日根野盛就・梅戸高資・服部政光(尾張服部党)・石橋義忠・大島親崇(伊勢大島城主)・伊藤祐雅(加路戸城主)・大木兼能千人塚桑名市多度町下野代にある野志里神社の境内には、「千人塚」と刻まれた石碑が立っている。これは長島一向一揆の際に討死した人々を祀っているとされている。信長の長島一向一揆の戦の初戦の手痛い目に遭ったことを決して忘れていなかった。その制裁は悲惨を極め老若男女関係なく、降伏を許さず、全員皆殺しと、焼き殺した残酷なものであった。 十六、「越前一向一揆と信長」天正三年(1575)に入ると、一揆衆内部で分裂が始まった。顕如が越前「守護」として派遣した下間頼照や大野郡司の杉浦玄任、足羽郡司の下間頼俊、府中郡司の七里頼周ら大坊主たちが、前年に討伐した朝倉氏旧臣の領地を独占してしまったからである。さらに、織田軍との臨戦態勢下にあると称して、重税や過酷な賦役を越前在地の国人衆や民衆に課していた。 このため、大坊主らの悪政に対して、越前における天台宗や真言宗らが反発し、真宗高田派(専修寺派)をはじめ国人衆や民衆、遂には越前の一向門徒までもが反発してしまったのである。 一方の信長は、この年から領国全域で道路や橋を整備するなど、各地での戦いに備えていた。そして五月には長篠の戦いで武田勝頼に大勝した。 ここで信長は越前の一向一揆の分裂を好機ととらえ、越前への侵攻を決める。信長は八月十二日に岐阜を出発し、翌一三日に羽柴秀吉の守る小谷城に宿泊。ここで小谷城から兵糧を出し、全軍に配った。一四日、織田軍は敦賀城に入った。一揆勢の配置は以下だったという。板取城・下間頼俊と加賀・越前の一揆勢木目峠・石田西光寺と一揆勢鉢伏城・専修寺の住持、阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆
2024年06月21日
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このため後世の比叡山側への同情は薄く、小瀬甫庵も『太閤記』で「山門を亡ぼす者は山門なり」と批判している。儒学者である新井白石が『読史余論』で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきた。 現代の歴史家でも信長による古代的権威の克服・宗教的束縛からの解放を目的とした合理的な行動として肯定的に評価する説や、天下に君臨し、時には天皇もしのぐ権力を振りかざし傍若無人の振る舞い、仏法を説く事を忘れた、うつつを抜かす教団に織田信長が天に代わって鉄鎚を下す、という側面もあったのではないかという説がある。 信長の比叡山への制裁は容赦がなかった。信長にとって許しがたい浅井・朝倉軍への協力関係の比叡山には深い遺恨が込められていた。 十五、「長島一向一揆の戦い」②天正元年(1573)八月に浅井長政・朝倉義景を滅亡させた織田家であたが、九月にはの文がは二度目の長島攻めを各将に通達した。 今回は出陣の前の反省から水路を抑えるためには次男北畠具豊(織田信雄)に命じて伊勢大湊での船の調達も事前に命じていたが、こちら大湊の会合衆が要求を渋り、難航していた。 信長からも北畠具教・具房親子を通じて会合衆に働きかけたがこれも不調に終わった。それでも織田軍は予定通り九月中に二度目の長島攻撃を敢行した。九月二四日、信長をはじめとする数万の軍勢が北伊勢に出陣した、二五日に大田城に到着した。二十六日には一揆勢の篭る西別府城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らが攻め立てて、陥落させた。 柴田勝家・滝川一益らも坂井城を攻略し、十月六日には降伏させ、二人は続けて近藤城を金堀衆を使って攻め、退けた。 一〇月八日には信長は本陣を東別所に移動し、この時には萱生城・伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏などが相次いで降伏し、信長に人質を送って恭順の意を表した。 しかし白山城の中島将監は顔を見せなかったたため、佐久間・蜂屋・丹羽・羽柴の四人に命じて金堀を攻めさせ退散させた。 ただ、大湊の船の調達作業はこの時期に至っても進捗状況が芳しくなく、今回は長島への直接攻撃は見送らざるを得なかった。 信長は北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻めさせて落城させると、十月二十五日には矢田城に滝川一益を入れ美濃へと帰陣を開始した。「一揆勢の追撃 」 退く最中、門徒側が多芸山で待ち伏せし、またもや弓・鉄砲で攻撃を仕掛けてきた。中には伊賀・甲賀の兵もいたという。信長は林通政を殿軍としたが、折悪く雨が振り出して火縄銃が使用不可となってしまい、白兵戦となった。 林通政が討ち取られ、また正午過ぎからの風雨で人足がいくらか凍え死にするなどの損害を出したが、通政や毛屋猪介らの部隊の奮戦によって夜に信長は一揆勢を振り切って大垣城へと到着。十月二十六日には岐阜へと帰還した。「湊の取り締まり 」 大湊での船の調達が失敗した背景には織田家より長島に肩入れをする会合衆の姿勢にも要因があった。こうした中で大湊が長島の将、日根野弘就の要請に応じて足弱衆(女や子供)の運搬のため船を出していたことが判明した。 この事実を知った信長は激怒し、「曲事であるので(日根野に与した)船主共を必ず成敗すること」を命じ、山田三方の福島親子が処刑された。信長は福島親子の処刑によって「長島に与すことは死罪に値する重罪である」と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員・物資補充の動きを強く牽制した。「第三次長島侵攻 」 天正二年(1574)六月二十三日、信長は美濃から尾張国津島に移り三度目の長島攻めのため大動員令を発し、織田領の全域から兵を集め、七月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作戦が開始された。 陸からは東の市江口から織田信忠の部隊、西の賀鳥口からは柴田勝家の部隊、中央の早尾口からは信長本隊の三隊が、さらに海からは九鬼嘉隆などが動員され、畿内で政務にあたる明智光秀や越前方面の抑えに残された羽柴秀吉など一部を除いて主要な将のほとんどが参陣し、七~八万という織田家でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ込まれた。主な陣容は以下の通り。「市江口」織田信忠、長野信包、織田秀成、織田長利、織田信成、織田信次、斎藤利治、簗田広正、森長可、坂井越中守、池田恒興、長谷川与次、山田勝盛、梶原景久、和田定利、中嶋豊後守、関成政、佐藤秀方、市橋伝左衛門、塚本小大膳「賀鳥口」柴田勝家、佐久間信盛、稲葉良通、稲葉貞通、蜂屋頼隆「早尾口」信長、羽柴秀長、浅井政貞、丹羽長秀、氏家直通、安藤守就、飯沼長継、不破光治、不破勝光、丸毛長照、丸毛兼利、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条家忠、河尻秀隆、織田信広、飯尾尚清「水軍」九鬼嘉隆、滝川一益、伊藤実信、水野守隆、島田秀満、林秀貞、北畠具豊(織田信雄)、佐治信方
2024年06月21日
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元亀二年(1571)九月十二日、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に各所で法螺貝と鬨の声が上がり、攻め上がっていた。『信長公記』にはこの時の様子が【九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り— 信長公記】と記されている。坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山地図に立て篭もったようだが、ここも焼かれた。 この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『言継卿記』には三千~四千名と記されている。 信長は戦後処理を明智光秀に任せ、翌十三日午前九時頃に精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。 その後三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していく。延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領はことごとく没収され明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分した。 この五人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々与力らをこの地域に派遣して治めることになる。特に光秀と信盛はこの地域を中心に支配することになり、光秀は坂本城を築城することになる。 一方、延暦寺側では正覚院豪盛らがなんとか逃げ切ることができ、甲斐の武田信玄に庇護を求めた。 信玄は彼らを保護し延暦寺を復興しようと企てたが、元亀四年(1573)に病死。実現をみるに至らなかった。 天正七年(1579)六月の日吉大社の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長によって綸旨が押さえられ、再興の動きは停止されてしまったとある。 その後本能寺の変で信長は倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、簡単には許されなかった。 山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の二人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われている。 そして小牧・長久手の戦いで出軍している秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、ついに天正十二年(1585)五月一日、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として青銅一万貫が寄進された。比叡山焼き討ちの約十三年後のことであった。 明確に信長の比叡山焼き打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、他の場所でも焼土層が確認できるのが、この焼き打ち以前に廃絶していたものが大半であったと指摘している。 また遺物に関しても平安時代の遺物が顕著であるとしている。発掘調査地点は、比叡山の全山にわたって調査されたわけではなく東塔、西塔、横川と限定されているが、焼き打ち時に比叡山に所在していた堂舎の数は限定的で、坂本城の遺物に比較して16世紀の遺物は少ないことから、『多聞院日記』に記載されているように、僧侶の多くは坂本周辺に下っていた。 従って『言継卿記』に記載されている、寺社堂塔五百余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女三千人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になり、九月十五日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎるのではないかと指摘している。 『信長の天下布武への道』では「殺戮は八王寺山を中心に行われたようである」としている。 兼康は、これまでとは視点を変えて「織田信長の人物像をはじめとする戦国時代の歴史観を再構築しなくてはならない時期が訪れつつある」と結論付けている。 同時代の人間、山科言継は『言継卿日記』において「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼討した事への不安と動揺を吐露し、宮中においても信長の焼き討ちを『御湯殿上日記』において【ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり】と批判されている。また先述のように武田信玄は、この焼き討ちを非難して比叡山を復興しようとした。 加えて『信長公記』でも焼き討ちの理由は比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがためと記しており、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」としている。 すなわち焼討ちは敵対した者に対する攻撃であったというのが本質である。『信長公記』の記す「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」云々の下りは(事実ではあるが)大義名分であり、討伐するための論理であるという指摘がある。 後代には、当時の比叡山が堕落していたことが指摘され、焼き討ちの責を比叡山に帰する指摘(犠牲者非難)が多く行われている。 当時の史料である元亀元年(1570)の『多聞院日記』にも「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されており、『信長公記』にもこのような記述がある。【山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く— 信長公記】 そして何より、延暦寺が京の鬼門を封じている非常に重要な寺社であるにも関わらず、正親町天皇や朝廷も正式に抗議をしていない。
2024年06月21日
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近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃、景鏡は義景の首を持参し信長に降参した。義景の嫡男・愛王丸や義景の愛妾小少将など、義景の極近親者は降伏を条件に助命され捕らえられた。 義景近習の一部はあえて殉死せずに生き残り、彼らの助命交渉やその後の世話をしようと決めていたが、織田軍により義景の係累たちは護送中に処刑された。 一部の武将、一族衆らは織田方に参したが、特に重く用いられるものはなかった。またその他の親族衆・武将らがその後、反乱を企てたり、一向一揆とともに決挙したりしたが、数年後、越前一向一揆殲滅のため越前に再侵攻した信長の前には無力であった。 この後、織田方は軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井氏を滅ぼした。 八、「比叡山焼き討ち」 比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、元亀二年九月十二日(1471)に現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦い。 この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。またこの戦いはルイス・フロイスの書簡にも記載されている。 一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。 比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山領を横領した事実が指摘されている。永禄十二年(1569)に天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。 元亀元年六月二八日(1570)の姉川の戦いで勝利した信長であったが、同年八月二十六日の野田城・福島城の戦いでは逆に浅井長政・朝倉義景連合軍に背後を突かれ、浅井・朝倉連合軍は比叡山に立てこもり比叡山の攻防戦(志賀の陣)となったが、正親町天皇の調停により和睦した。 浅井・朝倉連合軍に加え、近江南部・甲賀では六角義賢がゲリラ的に活動し、三好三人衆も摂津・河内を抑えて再び京奪還を狙っていた。 更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津・河内・近江・伊勢、そして信長のお膝元でもある尾張の門徒衆にも号令を発していた。 元亀二年一月二日、横山城の城主であった木下秀吉に命じて大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させた。石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との 連絡を遮断するのが目的であった。この時の命令書が残っている。信長は「尋問して不審な者は殺害せよ」と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、『尋憲記』には奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。 同年二月、孤立していた佐和山城が降伏し、城主の磯野員昌が立ち退いたため、信長は丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。 五月には浅井軍が一向一揆と組んで、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉が堀を助けて奮戦し、一向一揆・浅井連合軍は敗退した。 同月、信長は伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払うと、八月一八日には長政の居城となっていた小谷城を攻め、九月一日に柴田勝家・佐久間信盛に命じ、六角義賢と近江の一向一揆衆の拠点となっていた志村城、小川城を攻城した。 志村城では六七〇もの首級をあげ、ほぼ全滅に近かったと思われている。それを見て小川城の城兵は投降してきた。また金ヶ森城も攻城したがこちらは大きな戦闘も無く落城した。 九月十一日、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いた。 当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。v先の比叡山の攻防戦では、比叡山側は信長が横領した寺領の返還を約束する講和も拒絶し、浅井・朝倉連合軍を援けたりもしたので、『戦国合戦大辞典』によると「軍事的拠点を完全に破却しようと考えた」としている。 信長包囲網で各勢力から包囲される中、近江の平定と比叡山の無力化が戦線打破の重要課題と考えられていた。比叡山の無力化とは、比叡山が信長方に属さない以上、軍事的役割の抹殺つまり比叡山の徹底的破壊を意味している。 しかし織田軍の武将の中に、この考え方に賛同しない者もいた。『甫庵信長記』によると佐久間信盛と武井夕庵らが、「前代未聞の戦」という言葉を使い強く諌めたが、信長はこれに激しく反論し全山焼き討ちが決定されたと思われている。 ただこのくだりは『織田信長総合辞典』によると「『信長公記』にも見えないから事実か否か明らかではない」と解説している。 この時池田恒興が進言し、夜になってしまえば逃散する者も出るであろうから、早朝を待って取り巻いて攻めれば一人も討ち洩らすことなく討ち取る事が出来るとした。信長はこの言を聞き入れ、十一日夜中より比叡山の東麓を三万の兵が隙間なく取り巻いて、早朝の合図を待った。 この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金三百を、また堅田からは二百を贈って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。 ここに至り戦闘止む無しとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。
2024年06月21日
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「一乗谷城の戦い」一乗谷の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、天正元年八月(1573)九月に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた戦国時代の合戦である。但し一乗谷城での攻防は極めて限定的であったため、激戦地の名を冠して刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)とも呼ばれる。 織田信長と対立した室町幕府一五代将軍足利義昭はいわゆる信長包囲網を形成して信長に対抗しようとした。浅井長政・朝倉義景はこの一員として信長と戦ったが、苦境に追い込まれていった。 元亀四年(天正元年、1573)四月、同じく包囲網の一員である武田信玄が死去し、七月には盟主の義昭が京都から追放されるなど(槇島城の戦い)、包囲網側は明らかに不利になった。 八月八日、信長は三万の大軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入った。これに対して浅井長政は五〇〇〇人の軍勢をもって小谷城に籠城し、朝倉義景も家中の反対を押し切った上で、自ら二万の大軍を率いて長政救援のため、余呉に本陣を敷いた。 ところが、長政の部将である山本山城主阿閉貞征が信長に寝返ったため、織田軍は月ヶ瀬城を落とし小谷城西側へ包囲を広げることが可能になった。 また朝倉側も重臣魚住景固らが数年来の軍事疲弊を理由に出兵を拒否、やむなく義景自身が出兵するしかなくなるなど、この頃から織田方の内部工作および朝倉氏家中の闘争による崩壊の予兆が見て取れる。 義景は小谷城を後詰めすべく、小谷城の背後に位置する北西の田上山に戦陣を構築、同時に大嶽砦(城)などからなる小谷城守備の城砦群を築く。一方、織田軍本隊は一〇日に田上山と小谷城の間にある山田山に割って陣取り、朝倉方を盛んに挑発牽制した。信長方各部隊も各要衝に城砦、戦陣を構築し、小谷城および朝倉軍包囲を画策する。 一二日、近江一帯を暴風雨が襲った。信長はこの暴風雨により敵が油断しているはずと判断し、これを好機と捉えたと考えられる。信長は本陣より自ら一〇〇〇人の手兵・馬廻のみを率いて軍を返し、朝倉方が守る大嶽砦を奇襲した。 この砦は山田山から南に下がった位置にあり、小谷城を含む連山の小谷城よりも高所に位置し、朝倉軍の対織田軍に対する前線基地だった。 朝倉方は暴風雨の中を敵が攻め寄せてくるとは思っても見なかったために降伏してきた。これを討ち取ることもできたが、ここで信長は一計を案じ、捕えた敵兵をわざと解放し義景の陣へ向かわせた。 義景は大獄砦の陥落を知れば必ずや撤退すると読み、そこを追撃しようというのである。信長は次に朝倉方の越前平泉寺僧兵が守備していた丁野城(砦)を襲って手中に収め、そこでも敵兵を解放した。 この二城に兵を配置した後、信長は「朝倉は必ず撤退する」と言い放ち、先手に佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀などを配置。好機を逃すことのないようにと何度も下知した。 一三日、大嶽砦の陥落を知った義景は形勢を判断。織田軍総勢三万に対し、朝倉軍は二万。朝倉勢は前述のように主力重臣らを欠いた上、戦意も低い。勝ち目がないことを悟った義景は撤退を決断した。 朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を徹底的に追撃した。しかし織田方の先手武将達は、事前通達を受けていたにも関わらず信長より遅れてしまい、後に叱責を受けている。 元々近江出兵に際し家中の意思統一も成されず、織田方の内部懐柔工作などで戦意もない朝倉軍は、退却戦の混乱に織田軍の猛追を受けて撫で斬り(皆殺し)にされた。 義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば三〇〇〇人以上(但し「武将三八人、兵三八〇〇人」などと、誇大な数字であることを感じさせる記録ではある)と言われる死者を出した。 朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主朝倉景行や当時一七歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう名のある武将が多数散っていった。 織田軍は翌一四日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅した。義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。 一五日から一六日にかけて、信長は味方の将兵を労うと同時に休息を取らせた。そして一七日には大軍を整え、義景の元家臣前波吉継を案内役にして越前に攻め入った。 一方、義景は一五日に一乗谷(一乗谷城)に帰陣したが、味方の劣勢を知った国内の武将らで馳せ参じるものもなく、もはや義景の手勢は近習含めわずか五〇〇人となってしまっていたと伝えられる。 ここにおいて、従弟で朝倉氏の同名衆筆頭の大野郡司朝倉景鏡が、一乗谷を捨てて越前北部の大野郡にて形勢の建て直しを図るように進言した。 大野郡は盆地であり守るに堅く、当時朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺を頼りに再起を期そうと促した(平泉寺は勇猛で知られる僧兵集団があり、近江出兵で丁野城の守備についていた)。 しかしこの時、すでに平泉寺の僧兵も所領安堵などを条件として信長と内通していた(木下秀吉による事前工作と伝えられる)。 一八日、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧して焼き払った。往時は一万人余もの人口にて繁栄を誇った街は灰燼に帰した。一乗谷突入の際の信長方で、最も際立った働きをしたのは当主武田元明を朝倉の捕虜にされていた若狭武田氏旧家臣らであったと伝えられる。 この時、朝倉氏になおも忠義を尽くそうとする者数百名が織田軍と戦ったと伝えられている。 それより以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、景鏡に促され大野郡へと移動していた義景は二〇日、仮の宿所として景鏡に指定されていた六坊賢松寺を、周到に主を裏切った景鏡の手勢二〇〇に囲まれた。
2024年06月21日
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信長は長島一向一揆の戦で手痛い戦いを思い知らされ、その後の信長の軍の作戦に大きな影響を与えた。 また、桑名方面から海路を使って雑賀衆らの人員や兵糧・鉄砲などの物資が補給されていたので、信長は長島に対しての侵攻作戦内容を大きく再考を余儀なくされた。 十三、「浅井・朝倉連合と信長の決戦」「小谷城の戦い」小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)は、天正元年(1573)八月八日から九月一日まで織田信長と浅井長政との間で行なわれた戦国時代の戦いである。元亀元年(1570)四月、尾張の織田信長・越前の朝倉義景と同盟関係を結んでいた北近江の浅井長政は、信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田氏と断交した(金ヶ崎の戦い)。 同年六月二八日には朝倉氏と連合して、信長と徳川家康の連合軍を迎えるも敗北(姉川の戦い)。直後に浅井氏は本拠・小谷城の南方拠点である横山城を奪われ、木下秀吉が守将として浅井氏の監視役に置かれた。 それでも浅井氏は信長への抵抗を続け、九月に信長が三好三人衆を討伐せんと摂津に出兵(野田城・福島城の戦い)した隙を突いて再び朝倉と蜂起し(志賀の陣)、一矢報いた。 この時期から室町幕府一五代将軍足利義昭の呼びかけに応じた石山本願寺らも織田氏を攻撃し始めた(信長包囲網)。しかし近江では、孤立した佐和山城主の磯野員昌や宮部継潤が織田家に降伏。小谷城近辺の町が毎年放火・刈田狼藉を受けるなど、浅井氏は苦境に陥っていった。 元亀三年(1572)七月、五万の大軍を率いた信長は小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から横山城まで長大な要害を作り始めた。 これを見た浅井氏は、朝倉氏に「河内・長島で一向一揆が起き、尾張と美濃の間の道をふさいだので、朝倉殿が出馬なされば尾張・美濃勢をことごとく討ち果たせるでしょう」と虚報を伝えて援軍を求め、越前からも朝倉軍(義景の一万五千、朝倉景鏡の五千)が救援に駆けつけた。これと同時期に西上作戦を発動させた甲斐の武田信玄が信長・家康の領国へ侵攻した。 しかし義景はほとんど攻勢に出ず、むしろ朝倉勢から前波吉継父子、富田長繁・戸田与次・毛屋猪介が織田方に寝返る始末で、織田方の要害が完成してしまった。信長は志賀の陣に引き続き、「日を決めて決戦に及ぼう」と義景に申し入れたが、やはり義景は動かなかった。九月十六日、信長は木下秀吉を虎御前山砦に残して横山城に兵を引いた。 十一月月三日に浅井・朝倉勢はやっと動き、要害に攻撃を仕掛けてきたが木下秀吉に撃退され、十二月三日に朝倉勢は越前へ撤兵してしまう。 武田軍も信玄の体調が悪化したために甲斐に撤退をはじめ、その途中、翌元亀四年(1573)四月に信玄が病没。朝倉軍引き上げから翌年二月までの信長の動向は良く判っていないが、おそらく美濃で武田氏を迎撃する準備をしていたと思われる。 なお、「自分の死を三年間は隠せ」との信玄の遺命に従った武田家では、同年内の織田・徳川への本格的な再攻をすることは無かった。「小谷城籠城・朝倉氏滅亡」 元亀四年三月、信長包囲網の盟主・足利義昭が槇島城で挙兵。信長は和睦を申し出るが義昭は拒絶、四月に一度は和睦したが、七月に義昭が再挙兵すると戦闘に及び義昭を降伏させ、七月二十日に義昭を放逐し(槇島城の戦い)、二八日には元亀から天正に改元させた。更に八月八日、浅井家重臣の山本山城主阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見、三万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始、虎御前山の砦に本陣を布いた。 織田軍は背後に朝倉氏が控えていた事もあり無理に力攻めはしなかった。一方、浅井長政は居城の小谷城に五千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ、小谷城の孤立は益々強まっていく。 浅井氏は朝倉氏への援軍要請しか手段が無く、その朝倉氏は朝倉家家中の一部から上がった反対の意見を押し切り、義景自ら二万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出する。 ところが朝倉軍は前哨戦で敗北した上、構築した城砦(大嶽砦など)を容易く失陥。このため撤退し始めるが、そこを織田軍に猛追され、壊滅的な敗北をこうむった(刀根坂の戦い)。義景は一五日に一乗谷城に辿り着いたが、一七日に織田軍は朝倉氏の居城一乗谷城を攻め焼き払ったため、最深部の大野郡の山田庄まで逃れ、ついに二〇日、朝倉景鏡の裏切りもあり、義景は自刃して朝倉氏は滅びた(一乗谷城の戦い)。「小谷決戦」 越前を制圧した信長は、織田軍の一部を越前での戦後処理に留めて小谷城へと引き返し、二六日に虎御前山の本陣へ帰還すると、全軍に小谷城の総攻撃を命じた。翌二七日、木下秀吉率いる三〇〇〇の兵が夜半に長政の拠る本丸と長政の父・浅井久政が籠る小丸にとの間にある京極丸(兵六〇〇)を占拠した。 この時、三田村定頼、海北綱親らは討死した。これで、父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功した。やがて小丸への攻撃が激しくなり、八〇〇の兵を指揮していた久政は追い詰められて小丸にて、浅井惟安らと共に自害した。 その後、本丸(長政以下兵五〇〇)はしばらく持ちこたえ、長政はその間に嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃がす。さらに正室のお市の方を三人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡した。 その最後の仕事を果たしたのち、九月一日、袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に長政は自害して小谷城は落城した。この日をもって、北近江の戦国大名浅井氏は亮政から三代で滅亡したのである。ただ、雨森清貞は、逃亡した。 金ヶ崎での裏切りもあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を窮めた。浅井長政・久政親子の首は京で獄門にされ、男系の万福丸は探し出されて関ヶ原で磔にされ、親族の浅井亮親、浅井井規、家臣の大野木秀俊も処刑された。他にも、浅見道西など、寝返った将にも、処分された。また、長政・久政の頭蓋骨は義景のそれと共に薄濃にした。これは敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものである。小谷城は廃城にした上で戦功のあった秀吉に与えられ、秀吉は長浜城を築いた。
2024年06月21日
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信長は尾張を統一したとされているがその時点で信長は一度も支配していなかった。 永禄一〇年(1567)信長は稲葉城を落として美濃国を平定したが、城を落とされても斎藤龍興は「河内長島」に逃げ込んだという。 直後、信長は龍興を追って伊勢国へ侵攻、長島を攻撃をした。その上で北伊勢の在地領主を服従させた。この年の一一月に顕如は信長に美濃・伊勢を平定したとして祝う書状を送っており、まだその時点で、信長と敵対関係ではなかった。 元亀元年(1570)九月、本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴って、当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島でも門徒が一斉に蜂起した。また、これに呼応して「北伊勢四十八家」と呼ばれて北伊勢の小豪族も織田家に反旗を翻し一揆に加担した。 大坂より派遣された坊官の下間頼旦らにひきいられた数万にも及ぶ一揆衆は、伊藤氏が城主を勤める長島城攻め落とした城を奪うと、続けて十一月には織田信興を守る尾張・小木江城を攻撃した。 信興を自害させた城を奪取させ、さらに桑名城の滝川一益を敗走させた。この頃、近江国で浅井・朝倉軍と対峙しており(志賀の陣)救援に赴くことが出来なかった。 同年十二月、信長は浅井・朝倉軍と和睦し、兵を引いた。※北勢四十八家(ほくせいしじゅうはちけ)は、伊勢国北部の北伊勢地域(特に三重県四日市市の周辺の北勢地域)に勢力をもった小規模の城主・豪族の集合体の呼称である。全部で五三の家系があり、四十八家より五家多い。途中で戦国時代の乱世による城主の興亡での城主の入替や、同名の家柄の別家系があり、正確な北勢四十八家は不明である。 北伊勢の室町時代から戦国時代の歴史研究で必ず語られるのが「北勢四十八家」の伝承である。「四十八家」の表現は「勢州軍記」で記述されて、以後の軍記物・地誌・市町村史に引き継がれた。四十八家は実数でなくて、相撲の技を指す「四十八手」と同様の用法で、北伊勢の国人・地侍を意味するものだった。 中世、戦国時代、安土桃山時代における伊勢国では北畠氏(中勢地方を支配)・神戸氏(鈴鹿郡が勢力圏)が戦国大名であった。北勢地域(伊勢国北部)では以下の北勢四十八家と呼ばれた豪族が統治していた。 北勢四十八家一覧 ・1、千種家 ・2、神戸家 ・3、赤堀家 ・4、朝倉家 ・5、南部・家 ・6、楠家 ・7、春日部家 ・8、海老名家 ・9、疋田家 ・10、稲生家 ・11、矢田家 ・12、田原家 ・13、田丸家 ・14、後藤家 ・15、沼木家 ・16、大矢知家 ・17、片岡家 ・18、水谷家 ・19、栗田家 ・29、高井家 ・21、小串家 ・22、草薙家 ・23、横瀬家 ・24、春日部家・25、江見家 ・26、後藤家 ・27、春日部家 ・28、毛利家 ・29、松岡家 ・30、富永家 ・31、保々家 ・32、多家 ・33、治田家 ・34、片山家・35、西野家 ・36、伊藤家 ・37、野村家 ・38、浜田家 ・39、小阪家 ・40近藤家 ・41、種村家 ・42、伊藤家 ・43、渡辺家 ・44、矢田家 ・45、森家 ・46、安藤家 ・47片岡家 ・48、西松家 ・49、近藤家 ・50.佐脇家 織田信長の北伊勢侵攻が1569年(永禄十一年)にあった。織田信長は四万人の大軍で岐阜城から進撃し、先陣の滝川一益の戦略と尽力により朝明郡の中野城(赤堀氏)、西村城、羽津城(田原氏)、茂福城(南部氏)、大矢知城(大矢知氏)、伊坂城(春日部氏)、市場城、疋田城、広永城、小向城(朝日町)、下野山城や、北勢四十八家の棟梁の千草城(菰野町)を攻略した。 三重郡の後藤采女正の居城、采女城(四日市市)を落城させた。有力な武将、赤堀近宗や楠城も織田氏の軍門に下った。 千草氏、宇野部氏、赤堀氏、稲生氏に従う国侍が織田氏に服属して北勢四十八家は滅んだ。『勢州軍記』には「勢州分領の事について。伊勢国は諸家が四分割して守護する。伊勢国の南部の六郡は北畠氏の領地なり。伊勢国の北部の八郡は工藤氏の一家、関氏の一党やその他北方諸侍の領地なり」と記述がある。南伊勢の北畠氏、安濃郡の長野氏、鈴鹿の関氏、北伊勢の北勢地域の諸侍の四勢力の分立であった。戦国時代の群雄割拠で伊勢国の諸家は四つの勢力に分かれた。一南勢の五郡は国司である北畠具教が統治していた。二長野氏・植藤氏を中心とする安濃郡地域は長野一族と安濃郡の雲林院に住む工藤一族が統治していた。 元亀二年(1571)2月、近江国・佐和山城の磯野員昌が信長に城を明け渡し退却した。5月には横山城の秀吉が、約五百の募兵で浅井井規率いる一揆勢を五千を破るなど近江では織田軍が優位に立った。 ここで信長は五万の兵を率いて伊勢に出陣・軍団は三方に分かれて攻めに入った。〇信長本隊、津島に着陣。〇佐久間信盛軍団、中筋口から攻め入る。(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)〇柴田勝家軍団、西河岸の太田口(氏家卜全、稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長嗣・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心) 織田軍は周辺の村々を中心に放火をし、五月十六日はひとまず軍を引いた。これを見た一揆勢は山中に打ち合わせ移動し、撤退の途中の道が狭い箇所に弓兵・鉄砲兵を配置して待ち受けた。 信長本隊と佐久間軍は直ぐに兵を引くことを出来たが、殿軍(最後尾で警備に備える)の柴田勝家が負傷、勝家に代わって殿をつとめた氏家卜全とその家臣数名が討ち死にした。 これによって、単なる一揆勢の攻撃と違って、伏兵戦略を講じた武将集団と見込んだ織田軍側は防衛の力の高さを思い知らされた。
2024年06月21日
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という立て札を立てよ、という点がこれまでの長島一向一揆・越前一向一揆への対応とは全く異なる。ただし指導者である坊主は許すな(=殺せ)と命じている。 四月十四日、信長は、荒木村重には尼崎から海上を通って北の野田に三箇所、明智光秀・細川藤孝らは南東の守口・森河内の二箇所に、塙直政は南の天王寺に一箇所それぞれ砦を築かせ、本願寺の包囲を強めようとした。 一方、本願寺側は楼の岸・木津の二箇所に砦があり、難波方面への水路を確保していた。信長はこれを断つため木津砦を攻撃する事を決め、天王寺砦に佐久間信盛の嫡男佐久間信栄と光秀を入れ置いた。 五月三日早朝、織田軍は木津に攻撃をかける。陣立ては先陣が三好康長・根来衆・和泉衆、二番手が塙直政・大和衆・山城衆である。しかし、楼の岸砦から本願寺勢・約一万が討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲で銃撃を加えた(精強鉄砲隊の雑賀衆が味方していた)。 直政の軍勢がこの攻撃を引き受けて数刻の間戦ったが敵に囲まれ、直政は一族の塙安弘・塙小七郎や蓑浦無右衛門・丹羽小四郎らと共に討死、康長は逃亡して軍は崩壊した。 本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を包囲・攻撃、窮地に陥った光秀・信栄らは、京都に滞在していた信長に援軍を要請した。 これを聞いた信長は諸国に動員令を出し、五日に百人の兵を率いて河内若江城に入った。しかし突然の命令だったため、兵力が集まらなかった。この時のことを、『信長公記』では次のように記している。 信長は 五月五日、後詰として御馬を出だされ、明衣の仕立、僅か百騎ばかりにて若江に至つて御参陣。次日御逗留あつて、先手の様子をもきかせられ、御人数を揃へられ候といへども、俄懸の事に候間、相調はず、下々の者、人足以下中々相続かず、首々ばかり着陣候 六日、信長は軍勢の到着を待ったが、突然の出陣だったためあまり兵力が集まらなかった。天王寺砦からは「あと三、五日さえ持ちこたえるのは難しい」とたびたび知らせてきたため、信長はこのまま眼前で味方を攻め殺させて面目を失っては無念と考え、わずかな手勢で本願寺勢を強襲することを決定、翌日の七日、信長は三千ほどの兵で本願寺勢一万五千に突撃した。 陣立ては三段で、先陣は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆、二番手は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄ら、三番手は信長の馬廻りで、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取った。 なおこの時、信長は荒木村重に先陣を任せようとしたが、村重は木津方面の守備を引き受けるといって断った。後に荒木村重が裏切った時、信長は「荒木に先陣をさせなくてよかった」と回想したという。 本願寺勢は多数の鉄砲で防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。この際、信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負った。合 流されたとはいえ、本願寺勢は退却せず、陣形を立て直しつつあった。信長はそこへ再度攻撃をかける事を決める。家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与えた好機である)」と言い放ち、陣形を二段に立て直して突撃。 本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、二七〇〇余りの敵を討ち取った。 こうして織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは幕を閉じた。信長は大坂の十箇所に付城を作るよう命じ、佐久間信盛・信栄父子と松永久秀らを天王寺砦に入れると、六月五日に若江城に帰還した。 この戦いで大勝した織田軍は、摂津方面での陸戦での優位を確立した。以後、本願寺軍は討って出ようとはせず、徹底した籠城戦に持ち込んだのである。 一時は第一次木津川口の戦いで毛利水軍が織田水軍に大勝して戦況が逆転しかけたこともあったが、天王寺砦の戦いで大損害を受けた本願寺軍は二度と陸戦に出ようとはせず、毛利水軍もやがて第二次木津川口の戦いで織田水軍に敗れて壊滅し、本願寺勢力の孤立化が決定的となることになる。 また、この戦いでは、先述のように本願寺攻撃の主将格であった塙直政が戦死し、直政の一族郎党は信長の厳しい追及をうけて没落した。 そして、佐久間信盛がその後任となって対本願寺戦を指揮し、畿内において織田家中最大規模の兵力を統率することになった。しかし、その佐久間信盛も、天正八年(1580)の本願寺の退去による石山合戦終結まではその地位にあったものの、対本願寺戦において非積極的であったと信長に折檻状を突きつけられ失脚した。 代わって信長の実質的本拠地たる畿内で大軍団を率いることになったのが、この戦いで信長が率先して救助した明智光秀であった。そして、その明智光秀が天正十年(1582)に本能寺の変を起こす事になった。 十二、「長島一向一揆の戦い」① 長島は元々「七島」と言って、尾張国と伊勢国の境界線にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近に輪中地帯を指し、幾筋にも枝分かれをした木曽川の流れによって陸地から隔絶された地域で、伊勢国桑名郡にあったが、信長公記には「尾張河内長島」とも呼ばれ、認識されていた。 文亀元年(1501)杉江の地に願証寺が創建されて、蓮如の六男・蓮淳が住職になった。 本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み、地域を支配し、後に長島の周りに防衛のための中江砦・大鳥居砦などを徐々に増設し武装化していった。 付近には願証寺をはじめ数十の寺院・道場が点在し、本願寺勢力が一種の自治勢力を形成していった。 ここの実力者の服部友貞は「河内一郡は二の江の坊主服部左京進、横領して御手を属さず」狭間の戦いには今川義元に呼応して信長に攻撃をしようとしている。
2024年06月21日
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天正三年(1575)には、信長は本願寺と結託した高屋城主三好康長を降伏させ、甲斐・信濃の武田勝頼を長篠の戦いで破り、兵を十分に休めた後で動員令を発し、八月十二日に越前に向けて進発した。一方越前では、下間頼照ら本願寺から派遣された坊官らが重税を課した事などにより、越前で一揆をおこした民衆との関係は悪化し、坊官の専横に反発し一揆が起こるという一揆内一揆まで起きた。 こうした一向宗内部の混乱に乗じ織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前を制圧し、さらに加賀の南部まで攻め込んだ。九月には信長は北の庄に戻り、さらに岐阜へと戻って石山を牽制した。 本願寺三拠点の二つが撃破され、特に長島では徹底的な根切を行ったことを知った石山本願寺は、顕如が信長に対して自らの行為を侘び、さらに条書と誓紙を納めることで信長と再度和議を結んだ。 しかし、前回の和議とは異なり、信長が「今後の対応を見て赦免するかを決める」とするなど、著しく信長に有利な状態での和議となった(実際には信長はまだ上杉・武田・毛利に挟まれており、信長にとっても和議は軍事上悪い話ではなかった)。 一方で中国地方ではこの年に毛利氏は織田方へと寝返った備中の三村氏を備中兵乱で滅ぼし、備前と美作でも宇喜多直家と同盟して天神山城の戦いを後援し浦上宗景・三浦貞広を失領させ、大きく東へと勢力圏を拡大した。 これによって毛利氏の軍勢は陸路で播磨まで侵攻する事が可能になり、海路でも瀬戸内海の制海権を確保して対織田を視野に入れた大坂の本願寺との連携が模索され始める。 天正四年(1576)春、顕如は毛利輝元に庇護されていた将軍足利義昭と与して三たび挙兵した。信長は四月十四日、明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲した。 しかし、包囲後も本願寺は楼岸(現大阪市中央区)や木津(同浪速区)から海上を経由して弾薬・兵糧を補給しており、織田軍が木津を攻めると、本願寺軍は逆に一万を超える軍勢をもって木津の織田軍を蹴散らし、天王寺砦付近まで攻め入った(この時に包囲軍の主将であった塙直政が戦死している)。危機に陥った光秀は砦に立て篭もり、信長に救援を要請した。 この敗報を聞いた信長は、すぐさま諸国へ陣触れを発したが、突然のことであるために兵の集結が遅かった。そのため信長は痺れを切らし、三〇〇〇ばかりの兵を連れて天王寺を包囲している一五〇〇〇余の本願寺軍に攻めかかった。 また、包囲を突破して砦に入ると、すぐさま光秀はじめとする砦内の兵等と合流して討って出た。そのため、篭城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍は浮き足立って敗走し、石山本願寺に退却した(天王寺合戦)。 その後、信長は石山本願寺の四方に付城を住吉の浜手に要害を設け、塙直政の後任の司令官に佐久間信盛を任命して本願寺を完全包囲下に置いた。 経済的に封鎖された本願寺は、毛利輝元に援助を要請した。輝元は要請に応じ、七月十五日に村上水軍など毛利水軍の船七百から八百艘(実際は六百艘程度と言われる)が兵糧・弾薬を運ぶために大坂の海上に現れた。 織田軍はすぐさま、配下の九鬼水軍など三百余艘で木津川河口を封じたが、毛利水軍は数の利を生かして焙烙火矢で織田軍の船を焼き払い、大勝して本願寺に兵糧・弾薬を届けた(第一次木津川口海戦)。信長は仕方なく、三方の監視のみを強化して一旦兵を引いた。 十一、「天王寺の戦い」 天王寺の戦いは、石山合戦の一環として天正四年(1576)五月に摂津天王寺(現在の大阪府大阪市)で行なわれた織田信長と一向一揆との戦いである。天王寺砦の戦いともいう。 元亀元年(1570)九月、石山本願寺の門跡・顕如は織田信長との対決を決意した。石山合戦の始まりである。 本願寺と織田軍は一進一退を繰り返したが、顕如の義兄武田信玄の病死や浅井長政・朝倉義景・長島一向一揆滅亡などで次第に追いつめられていった。信長包囲網がどんどん崩れていく中、石山本願寺は苦戦を強いられていった。 そんな中、天正四年(1576)二月、足利義昭の呼びかけに応じて毛利輝元が信長包囲網の一翼に参加し、本願寺に兵糧などの援助を始めた。 これが顕如を強気にして、畿内の信徒に動員令を出して五万の兵力をかき集めた。このため、諸々の事情から停滞していた本願寺と織田家の戦闘が再燃することとなった。 信長は本願寺の挙兵に危機感を強め、佐久間信盛・明智光秀・塙直政・細川藤孝・筒井順慶・中川清秀・高山右近・荒木村重らを摂津方面に出兵させた。この時、信長が光秀・藤孝宛てに送った書状が現存している。【其表(大坂表=石山本願寺)の麦悉く薙捨て候哉。猶以て油断無く申付くべき事専一に候。然して隙を明け候はば、大坂籠城候男女の事は相免ずべき候間、早々罷出ずべきの旨、口々に立札然るべく候。坊主以下用にも立ち候者をば、赦免すべからず候。其意をなすべく候也。】 本願寺周辺の麦を薙ぎ捨てよ(刈田)、油断のないようにせよという他、「一般の信徒の男女は赦免するので城を出るべきである」
2024年06月21日
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本願寺は当時、加賀に大きな勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。また、山科焼失の前年に大小一揆と呼ばれる本願寺一門内の内戦を加賀で起こしており、現地の門徒の間には本願寺への不信感があった。 そこで十世法主証如は京都に近く、交通の便の良い大坂御坊を本願寺の本拠とし、石山本願寺と改称した。こうして、石山本願寺は本願寺の本拠として発展した。細川晴元は石山の発展も恐れ、たびたび石山を攻撃したが、石山は小高い山や川が多く守りに適した土地であり、山科を教訓として本願寺が軍備を進めていたために、まったく戦果を挙げられなかった。 晴元以外の時の権力者も石山の武力を恐れ、同盟を結ぶなどして本願寺との戦火を避けた結果、本願寺の権力は年々増大し、十一世法主の顕如が准門跡(門跡は皇族・貴族が僧籍に入り住職となる際の呼称)になるなど、中央権力との結びつきが強くなった。 そんな中、永禄十一年(1568)に織田信長が足利義昭を擁して上洛に成功した。足利義昭は室町幕府十三代将軍足利義輝の弟であり、義昭が信長の武力と共に京都に入ったことで、将軍の地位は第十四代義栄から義昭に渡ることが確実になった。 信長は上洛してすぐに畿内をほぼ制圧した。信長は将軍家の名目で教行寺など畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこなった。本願寺には「京都御所再建費用」の名目で矢銭五千貫を請求し、顕如はこれを支払った。 永禄十二年(1569)半ばから、信長と義昭との仲はだんだんと険悪になって行った。この年の九月、信長は三好氏征伐を決行する。当時、義昭によって京都を追われ、石山本願寺を頼っていた近衛前久は、顕如に三好氏支援を進言した。 ただし、前久は朝廷内・幕府内での対立関係からくる義昭の排除が目的であり、織田氏と直接の利害関係はなかったようである。その証拠に信長が義昭を追放した後、近衛は京都に帰還し、一転して信長派の中心人物となっている。 元亀元年(1570)九月十二日に顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好三人衆攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。 そのまま本願寺軍は石山を出て、十四日に淀川堤で信長軍と直接激突した。この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺軍は石山に戻り篭城の構えを見せた。 織田軍は志賀の陣で既に四面楚歌の状態であるため、石山に監視のための軍を置くと、朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出すなど、本願寺との戦闘を避けた。 そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたないうちに実質的には終わったのである。この時の戦いの様子については「野田城・福島城の戦い」 石山挙兵とほぼ同時に長島願証寺で一向一揆が発生(長島一向一揆)し、尾張の古木江城を落として守っていた信長の弟信興を自害に追い込むなど、公然と信長に敵対するようになった。 元亀二年(1571)五月に信長は長島殲滅を図るが失敗し、多数の兵を失った。この年の一向一揆に対する戦果は、九月に一向一揆の篭る志村城・金ヶ森城を降伏させたに留まる。 また、元亀三年(1572)に信長が京都に自身の屋敷を建てた際には、三月に顕如から万里江山の一軸と白天目の茶碗を贈呈されている。 七月には家臣に一向宗禁令を出すなど緊迫したが、これは武田信玄の仲介という形で和議を結んでいる(信玄の妻と顕如の妻は姉妹である)。 元亀四年/天正元年(1573)に信長は再度長島を攻めたがまたも失敗した。十一月には白天目の茶碗を贈られたことに対しての謝礼をしている。 但し、兵力を出して戦火を交えてはいないものの、いわゆる情報戦は非常に盛んであった。顕如は遅くとも元亀三年末ごろまでには武田信玄や毛利輝元などと密かに同盟を結んでおり、信長を東西から挟撃しようと画策している。 足利義昭もこの流れに乗って信玄に上洛を促すなどしている。当然、信長もそれを牽制するために、朝廷外交や上杉謙信への友好工作などを行っている。 したがって天正元年末までは、石山本願寺と信長は互いに牽制しつつも戦火を交えない、いわば冷戦よりややましな程度で推移していたと思われる。 この頃長島・越前一揆殲滅、天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には義景の元家臣前波吉継を守護代に任じて統治させた。 しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年の一月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。 さらに一向一揆と結んだ国人領主も次々と一揆により織田方の役人を排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく一向一揆のもちたる国となった(越前一向一揆)。 これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった。これを知った顕如は、はじめ七里頼周を派遣し、その後下間頼照を越前守護に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し、四月二日に石山本願寺は織田家に対し再挙兵した。 本願寺は長島・越前・石山の三拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があった。 信長はそれを最大限に活用して各個撃破にでた。七月、信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。 島・屋長島・中江の三個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、九月二九日には降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処した。 この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の二個所は柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害した。
2024年06月21日
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この時、三人衆と篠原長房は、旧敵であった三好義継、松永久秀とも和睦しており、その後、両者は共闘することとなった。この戦い以降、信長は浅井・朝倉・六角連合軍の討伐にしばらく忙殺される事になる。 開戦当初は織田軍に属していた雑賀・根来連合軍であったが、石山本願寺と同じ浄土真宗の門徒であったため、石山本願寺が参戦後、すぐには入城しなかったが、本格化な籠城戦となっていくと、鈴木孫一らが率いる傭兵雑賀衆と行動を共にし、石山本願寺へ入城し信長の敵対勢力となっていく。 鉄砲を集団的に使用した最初の戦いは長篠の戦いが有名であるが、鉄砲を集団で使用したという点では、それより五年前にさかのぼる「野田城・福島城の戦い」が最初ではないかとされている。 『信長公記』等に記載されている雑賀衆・根来衆の鉄砲三十千兵がどこまで正確かは不明だが、織田軍、三人衆軍、傭兵雑賀衆等の鉄砲を合わせると、かなりの数がこの地域に集中していたのではないかと推察されている。それらが野田城・福島城や周辺の砦や櫓から鉄砲を使った攻城戦が繰り広げたのではないかと思われている。 また雑賀衆の佐武伊賀守なる人物が後の石山合戦で櫓にあがり、撃ち手となり他の五名が弾丸をこめ、堀などを渡って突破しようとする敵を確実に仕留めていった。 伊賀守のみがこのような戦術を実施したわけではなく、「野田城・福島城の戦い」でも用いられていたと推察でき、このような戦術ノウハウを雑賀衆・根来衆が共有し有能な鉄砲集団となっていった。 顕如の檄文には「織田信長が石山本願寺の破却を命じた」と書かれているが、それを通達した書状は見つかっていない。 また、本願寺側以外の記録にそのような記述が見られず、「細川両家記」には『信長が仰天した』とあること、通達のタイミング(おそらく檄文より少し前)が信長にとって悪すぎ、かつ本願寺にとって好都合なことなどから、「破却を命じた」というのは顕如および本願寺側のでっち上げである可能性が指摘されている。 一方で信長は大坂の地を狙っていたという説もある。なぜ石山本願寺が、宿敵・比叡山と敵対している信長に対して決起したかという理由について、三人衆に味方したためではないかという説がある。 本願寺門徒が大和に道場を建てようと試みた時、三人衆の一人岩成友通が助力したとの記述がある。 最終的に大和の寺社からの激しい反対にあって断念したが、この時に友通が熱心に助力していたため、三人衆に対して好印象を持ったのではないかとしている。 六角義賢は書状(右参照)で、宇佐山城を攻城し織田信治と森可成以下数百名を討ち取ったことを浅井方に知らせるために、地元の土豪・市川吉澄が船を用意した事に対して礼を述べている。 二行目と三行目に「森三左衛門尉以下数百人討死」との記載が見られる。その後、志賀の陣で義賢は比叡山に立てこもることになる。六角氏と浅井氏は長らく対立していたが、この時は反信長で協調し、浅井・朝倉連合軍に従軍していたと思われる。 十、「石山合戦と一向一揆の決起」八月には信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した。(野田城・福嶋城の戦い) しかも、織田軍本隊が摂津国に対峙している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺など連合軍三万人が近江国坂本に侵攻した。織田軍は劣勢の中、重臣の森可成と信長の弟・信治を失った。 九月二三日未明には信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受けて、近江国宇佐山城において浅井・朝倉軍と対峙する。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢国の門徒が一揆を起こした。「石山合戦」石山合戦は元亀元年九月十二日(1570)から天正八年八月二日(1580)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。 広義では、元亀元年九月十二日の石山挙兵から天正八年八月二日の顕如退去までの十年間を指すが、天正八年閏三月七日(1580)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏三月七日を終わりとすることもある。 戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦の終結と同時に各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。「本願寺勢力」という言い方は、本願寺派とすると現在の浄土真宗本願寺派(西本願寺系)と混交するためである。また、浄土真宗全体が本願寺側についた訳ではない点にも注意する必要がある。 大坂石山本願寺は、元は本願寺第八世法主蓮如が隠居先として選んだ場所であり、大坂御坊(石山御坊)と呼ばれた。 畿内では本願寺は京都山科を本拠としていたが、一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れた細川晴元は日蓮宗徒の法華一揆らと結託し、天文元年(1532)八月に山科本願寺を焼き討ちした(山科本願寺の戦い、天文の錯乱)。これにより山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなった。
2024年06月21日
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この報を受け、事態の重大さを再認識した信長は、自ら三人衆を討ち獲るべく、馬廻り衆三千騎を引き連れて岐阜城を二十日に出立。二十一日には横山城、二十二日には長光寺に、二三日は本能寺に到着した。 『言継卿記』によると京都にいた時の織田軍は四万まで膨れ上がったようである。その後、京都を二五日に出立、枚方を経由して翌二十六日には野田城・福島城から南東五キロの天王寺に着陣した。 これに対し三人衆軍も三好康長、安宅信康、十河存保、斎藤龍興等の阿波、讃岐、淡路からの援軍が到着し、この時の総数を『信長公記』によると八千ほどとしている。 織田軍の配陣は、本陣を天王寺に置き、天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に陣取り、主力は天満が森で摂津の地理に詳しい三好義継、松永久秀、和田惟政らを配した。 三人衆軍と比べて織田軍は数倍の兵力があったと思われるが、野田城・福島城がデルタ地帯にある堅城であった為、いきなり力攻めにしなかったようで、 まずは誘降戦術を採った。二八に細川信良を始め三好政勝、香西長信らが織田軍へ寝返り、九月三日に将軍義昭が奉行衆二千を引き連れ、細川藤賢のいる中嶋城へ着陣している。 このような中、中立を保っていた石山本願寺の顕如が一通の檄文をしたためていた。 この檄文は近江中部の本願寺門徒衆に宛てたもので、「身命をかえりみず」と記していることから、戦闘態勢を整えていたのではないかと推察されている。また顕如は九月十日にも浅井久政・長政父子に書状を送っている。 織田軍は野田城・福島城の対岸に「楼岸の砦」と「川口の砦」を築き、それぞれに武将を入れ、環境が整った八日、野田城・福島城の西の対岸にあった浦江城(別名、手好城、海老江の砦)を三好義継、松永久秀隊が攻城した。 この時火縄銃以外にも大鉄砲が用いられたのではないかと思われている。大鉄砲とは通常の火縄銃に比べて口径が大きく主に攻城戦や海戦に使用されたと言われている。 そのような兵器を使い三好:松永隊は浦江城を落城させ、野田城・福島城の攻城の砦とした。織田軍は更に川を埋め、対岸に土手を築き、櫓を上げ、十一日より野田城・福島城への直接的な攻城が開始され城兵の首級が七つ上がり、翌十二日は更に鉄砲を使用した攻城戦となったようである。 この日別動隊が織田軍に加わった。『信長公記』によると、雑賀衆・根来衆の二万兵(内、鉄砲衆三千兵)からなる連合軍が遠里小野、住吉、天王寺に陣取った。 大規模の援軍を得た織田軍は三好三人衆軍との間で銃撃戦となり、この時の様子を『信長公記』は、「御敵身方の鉄砲誠に日夜天地も響くはがりに候」と伝えている。 その後、織田軍は畠中城も落城させた。三人衆軍にも鉄砲があったと思われているが、野田城・福島城に入城している鈴木重秀等が率いる傭兵雑賀衆にもかなり数の鉄砲が存在していたと思われている。 浦江城、畠中城が落城し、目の前には砦や櫓がいくつも建てられ、二万兵からなる雑賀・根来連合軍が合流すると、さすがに三人衆は信長に和平を申し込むが、信長は徹底攻撃を主張し和平案を受け入れなかった。 この時まで堅城を誇る野田城・福島城に苦戦しているものの、大勢は織田軍の有利に変化なく和平案の拒否は当然と思われている。 しかし、この日の夜半から戦況は石山本願寺の参戦で変化する。『細川両家記』に、とあり、石山勢は鐘を合図にして織田軍に襲いかかったようである。 石山本願寺は福島城まで約四キロに位置する。顕如軍が参戦したことにより三人衆軍の士気は盛り上がり、翌十三日早朝、織田軍がせき止めていた防堤を打ち破ったようで、この時の状況を『細川両家記』は、と記している。浦江城だけではなく、野田城・福島城を周りを取り込んでいた砦も海水に浸かってしまったと思われている。 また『信長公記』によると同日夜には顕如自ら鎧を着て織田軍の本陣に襲いかかり、「楼岸の砦」と「川口の砦」には石山本願寺から鉄砲を撃ちかけたようである。 翌十四日は海水がなかなか引かず、翌十五日から十七日までは鉄砲による攻撃が出来ず大規模な戦闘にはならなかったようである。 十六日、近江で浅井・朝倉連合軍が信長の背後を突くべく進軍を開始。この報せを受けた宇佐山城主・森可成は野府城主・織田信治、青地茂綱らと共に交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖、連合軍の南進妨害を試みる。そして十六日に緒戦においては連合軍を撃退する。 しかし、顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わると、形勢は逆転。 二十日、森らはさらに数の増えた連合軍を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬・玄蕃の二千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉景恒、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったため、ついに崩れて森可成、織田信治、青地茂綱の三人は討ち死にする(宇佐山城の戦い) 続いて浅井・朝倉連合軍は宇佐山城への攻城戦に移行。守備側は千人、攻城側は三万人と劣勢であったが、可成の重臣各務元正、武藤兼友、肥田直勝、林通安らが奮闘して持ちこたえた。 連合軍は城攻めを諦め、二十一日に逢坂から京都の山科方面まで出軍してきた。 二三日、信長は全部隊に撤退命令を出し、足利義昭と共に帰京。これを知った浅井・朝倉連合軍は比叡山に後退。翌二四日、信長は逢坂を越え、近江へと向かった。戦いは「志賀の陣」へと続く。 三人衆軍には二七日、篠原長房が中心となり、細川真之、三好長治、十河存保ら、阿波・讃岐の兵二万からなる大援軍が兵庫浦に上陸、翌二八日、織田軍に属していた瓦林城、越水城の城主・瓦林三河守を討ち取り、十月一日に野田城・福島城に入城する。 ここに至って信長は、三人衆、本願寺、浅井長政、朝倉義景、六角義賢ら連合軍との和睦を模索する事になる。義昭は三人衆に対しては敵対心があったようではあるが、顕如に対しては開戦当初から一貫して和平を求めており、信長はこれを利用し朝廷工作を実施し、正親町天皇より「講和斡旋を希望す」という言を得て、十一月三十日に各陣営で話し合いが行われ、十二月十四日に和睦が成立し、長政、義景、六角連合軍も撤兵する。
2024年06月21日
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六角氏の布陣は、織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測し、そこを観音寺城や箕作城から出撃して挟撃することを狙っていたと思われる。 しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。九月十二日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、三隊に分かれた。 稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第二隊は観音寺城へ、信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉らの第三隊が箕作城に向かった。 戦端は箕作城でひらかれた。木下隊二千三百が北の口から、丹羽隊三千が東の口から攻撃を開始した。 この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。 木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は、三尺の松明を数百本用意させ、中腹まで五〇箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。 七時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。二百以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。 長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから一日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に甲賀へ落ち延びた。当主を失った一八の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は千五百人ほどだとに記載されている。 六角家老臣の蒲生賢秀は、敗北を聞いてもなお一千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、信長に質子を差出して忠節を誓った。この質子が後の蒲生氏郷である。 六角氏は観音寺城を失ったが、それでも織田軍に対して抵抗の姿勢をみせた。しかし、本領を失った六角氏の勢力は奮わず、ゲリラ的な抵抗が精一杯であった。戦国大名としての六角氏の没落は決定的なものとなった。 京都を支配していた三人衆らは六角氏の敗北を聞いて浮き足立ち、織田軍と満足な戦もしないまま、京都から駆逐された。信長は立政寺の義昭に使者を送り、戦況を報告して出立を促した。 九月二七日、信長と義昭は琵琶湖の三井寺に入った。翌二八日、入京した義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣し、細川藤孝は宮廷の警護に従事した。こうして信長は畿内の覇権を掴み、義昭は征夷大将軍の座に着いた。 九、「野田城・福島城の戦い」 野田城・福島城の戦い(のだじょう、ふくしまじょうのたたかい)は元亀元年(1570)八月二十六日から9月23日に行われた戦い。この後十年にも亘る石山合戦の端緒と言える戦いで、別名「第一次石山合戦」とも言われている。永禄十一年(1568)、織田信長らは足利義昭を奉じて上洛し、京都から三好三人衆を追いやった。 翌永禄十二年(1569)一月、三人衆は報復として本拠地阿波国から畿内に上陸、京都の義昭を襲撃して本圀寺の変を起こすが敗退。しかしその後も打倒信長を画策し続けた。 元亀元年(1570)六月、畿内から織田軍主力が撤収。これを好機と捉えた三人衆は、摂津池田城主・池田勝正の同族・池田知正と重臣の荒木村重を調略して勝正を追放し挙兵した。 なお、三人衆は北近江の浅井長政、越前国の朝倉義景、石山本願寺法主の顕如らと、開戦前から通じていたという説がある。 同年七月二十一日、三人衆軍は摂津中嶋に進出し、野田城・福島城を築城した。 石山合戦配陣図によると、当時この地域は西側が海、北・南・東は川に囲まれた島のような場所であったと推定されている。 そのような場所に堀を掘りなおしたり、壁をつけたり、櫓を建てるなどの改築を実施した。また細川昭元軍や紀伊国の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も到着し、『松井家譜』によると、この時の総数は一万三千兵までになったようである。 この雑賀衆というのは、水兵、鉄砲兵からなる傭兵部隊で、三人衆に属していた安宅信康に雇われた私兵ではなかったかといわれている。 この動きに、織田軍でいち早く応じたのが松永久秀・久通父子で、大和信貴山城で戦闘準備を整えると、二七日には信貴山城を出立、河内に入国し三人衆軍の河内侵攻に備えた。 また八月二日、足利義昭は畠山昭高に御内書を送り、信長と合力し紀伊・和泉国の兵を集結させ三人衆軍に対処するように命じた。 このような状態の中、十七日に三人衆軍によって開戦した。三人衆軍は三好義継の城であった古橋城を攻城した。古橋城は三人衆軍を討伐する前線基地のような役割を担わされていた模様で、この時『細川両家記』によると三好義継軍百五十、畠山昭高軍百五十、合わせて三百程度が集結していたと記載されている。 また記述によれば四百とも記載されている。野田城・福島城を出立した三人衆軍は古橋城を攻めた。『細川両家記』によると、この時の首級が二百十八と記載され、古橋城兵はほぼ全滅に近い損害であった。その後、榎並城も攻城したようである。
2024年06月21日
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姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死した。 朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。一方、初期戦闘で苦戦した織田方では坂井政尚の嫡子である尚恒らが戦死している。横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にした。 この戦いには敗れたがこの時点では浅井・朝倉連合軍にはまだ余力は残っており、近江、越前周辺では比叡山の僧兵衆や石山本願寺の一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返された(志賀の陣)。これらの戦いでは織田方の被害も軽微なものとはいえず、信長の実弟織田信治をはじめ森可成、坂井政尚などの諸将を失った。 信長は浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちするなど、周辺敵勢力の掃討に打って出た。また、軍事力だけでは攻略は困難と判断した信長は諜略によって浅井家の内部分裂を謀った。 浅井・朝倉連合軍と比叡山の衆徒らの引き離しを考え、既に信長の頭には「比叡山焼き討ち」の計画が練られていた。 その代表例が姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。姉川の合戦により領国が南北に分断されてしまっていたため犬上郡の佐和山城を守備する磯野員昌らは孤立してしまい物資の補給すらままならない状態であった。 そこに目をつけた秀吉が浅井家家中に員昌内通の風説を流し、長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、長政は再三にわたる員昌からの物資補給の要請をすべて拒絶し、兵糧が残り少なくなった員昌はついに織田方に投降し浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。 信長の家臣秀吉の内紛誘発の作戦が、浅井衰退の要因を作ったと言えよう。 次第に弱体化していった浅井・朝倉両氏は大局的な戦略に方向転換し甲斐の武田信玄や本願寺顕如らと組み信長包囲網を形成していく事になる。 八、「観音寺城の戦い」 観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄十一年(1568)九月十二日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城が主戦場だったため、箕作城の戦いともいわれている。 信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。 この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえる。一夜で箕作城が落城すると、観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びた。 永禄八年(1565)五月十九、日、室町幕府十三代将軍・足利義輝が三好三人衆に討ち取られるという事件(永禄の変)が起こった。義輝の弟である足利義昭は、興福寺一乗院で門跡となっていたが(一乗院覚慶と名乗っていた)、甲賀武士・和田惟政らの手引きで奈良を脱出した。以後、約三年間にわたる義昭の漂流生活が始まった。 まず義昭は近江甲賀郡和田城へ赴いたが、その後より京都に近い野洲郡矢島に仮御所を構えた。一時は近江の六角義治を頼ろうとしたようだが、三人衆と通じていることを擦知すると、若狭の武田義統および越前の朝倉義景を頼った。 越前で名を義昭と改め、義景が動かないと分かると尾張の織田信長を頼った。この時仲介をしたのは明智光秀と言われている。 永禄十年(1567)十一月に正親町天皇から信長に綸旨が届いた。内容は尾張・美濃の不地行になっている皇室領の回復を命じるものであった。 正親町天皇からの綸旨をうけた信長は、上洛と「天下布武」に向けて動き出した。越前にいる義昭を美濃の立政寺に迎え入れると、永禄十一年(1568)八月五日に岐阜城を出発、精鋭の馬廻り衆250騎を引き連れて、八月七月日に佐和山城に着陣した。 上洛する途上には観音寺城があった。信長は、義昭の近臣であった和田惟政に家臣三名をつけて、観音寺城にいる六角義治に義昭の入洛を助けるように使者を送った。 しかし、義治と父の六角義賢はこの申し出を拒絶した。信長が着陣する少し前に三人衆と篠原長房が観音寺城に出向き、織田軍の侵攻に対する評議を行っていたのである。拒絶された信長は、再度使者を送って入洛を助けるよう要請した。 これには諸説あるが、観音寺城と同じように後の安土城へ家臣を住まわすことや、楽市の発展等信長は六角氏の政治手法を取り込んでおり、そのような先進的な守護との決定的な対立は避けたかったのではないかと言われている。 これに対して、義治は三人衆の軍事力をあてにしていたのか、病気を理由に使者に会いもせずに追い返してしまった。七日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむなしと考え、一旦帰国した。 同年九月七日、軍勢を整えた信長は一万五千の兵を引き連れて岐阜城を出立し、これに三河の徳川家康が派遣した松平信一勢一千、北近江の浅井長政勢三千が加わり、翌九月八日は高宮に、九月十一日には愛知川北岸に進出した。この時の織田軍の総数は五~六万ともいわれている。 これに対して六角側は、本陣の観音寺城に当主・義治、父・義賢、弟・義定と精鋭の馬廻り衆千騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力六千を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に三千をそれぞれ配置し、その他被官衆を観音寺城の支城一八城に置いて態勢を整えた。
2024年06月21日
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七、「姉川の戦い」「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年六月二十八日(1570)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。 「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。 尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。 侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。 信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り(観音寺城の戦い)、足利義昭を奉じての上洛を果たした。 その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570)四月に信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。 優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。信長の家臣たちは「金ヶ崎の退き口」を経て退却した。 開戦、織田軍の撤退後、朝倉義景は自身は敦賀に滞陣し、戦後処理や浅井長政との連絡に努め、五月十一日に一族の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進発させる。 朝倉軍は浅井軍とともに南近江まで進出し、六角義賢と連携し信長の挟撃を図ったが、この連携はうまくいかず、信長は千草越えにより五月二十一日に岐阜への帰国に成功し、六角軍は六月四日、野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗れてしまう。 このため、浅井・朝倉軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火するとともに、国境に位置する長比・苅安尾といった城砦に修築を施し兵を入れて織田軍の来襲に備えた。 朝倉軍は六月十五日に越前へ帰陣するが、前後して長比城に配置された堀秀村・樋口直房が調略により信長に降り長比・苅安尾両城は陥落する。これを受けて六月十九日、信長は岐阜を出立しその日のうちに長比城に入った。 六月二十一日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。 翌六月二十二日、信長は殿軍として簗田広正、中条家忠、佐々成政らに鉄砲隊五百、弓兵三十を率いらせ、いったん後退した。 六月二十四日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。 ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる八千の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵五千が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計一万三千となった。 六月二十七日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌二十八日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。 これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かった。 午前六時頃に戦闘が始まる。浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長公記)」という激戦になったが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。 まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が一万一千余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。 信長は小谷城から五十町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。 奇襲説、姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲であったという説を高澤等は唱えている。六月二十七日早朝に浅井・朝倉軍は一旦大依山から姿を消した。 この時の状況を記述にでは「六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き候と存じ候のところ廿八日未明に三十町ばかりかゝり来なり」と陣払いして退却したと思った浅井・朝倉軍が突然として距離三十町のところに現れた様子を記している。 織田軍は敵勢が陣払いしたと勘違いして再び軍勢を横山城の包囲体制に戻し、織田軍は本陣の背を突かれる形となり両軍陣形を整えず即座に戦いに突入したとする。また姉川の戦いは両軍日時を取り決めた合戦だったとしている。
2024年06月21日
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義昭・信長と前久・石山本願寺との対立は後の石山合戦の一因となるが、兵乱の過程において、信長との関係が悪化した義昭は本願寺と和解し、反信長同盟(いわゆる信長包囲網)を形成するも信長に敗れ、室町幕府は滅亡することになる。 永禄十一年、信長は和田惟政、村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越後国に派遣した。義昭は七月十三日に一乗谷を出て美濃国に向かい、二十五日に岐阜城下に着き立政寺にて信長と対面した。 六、「義昭と信長上洛」 永禄十一年(1568)信長は、足利義昭を奉じて上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治親子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が陥落し、六角親子は甲賀郡に後退した。 大津まで信長が進軍すると、大和国に進軍していた三好三人衆と三好氏の連合軍も崩壊し、二十九日には山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し、三十日には摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄した。 十月二日には篠原長房も摂津越水域を放棄し、阿波国に落ち延びた。三好三人衆と対立していた松永久秀と三好義続は信長に従順、唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。 この頃の京都周辺の人々はようやく尾張、美濃を平定したばかりの信長の実力を認めておらず、当初は足利義昭が自派の諸将を率いて上洛したに過ぎず、信長は供奉の将としての認識であった。 足利義昭を第一五代将軍として擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督を継ぎ、副将軍の地位などを進められたが、足利家の桐紋と斯波家並の冷遇だけ賜り遠慮した。 永禄十二年(1569)一月、信長率いる織田軍主力を美濃国に帰還した隙を突き、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し足利義昭の仮御所の六条本圀寺を攻撃をした。 しかし、信長は俊敏に対応し豪雪の中、二日間援軍を差し向け、その機動力を見せつけた。もっとも、細川藤孝や三好義継、伊丹親興・池田勝正・荒木村重、明智光秀らによって、三好・斎藤軍は信長軍の到着を待たずに敗退していた。信長の上洛によって戦国の騒動衆三好三人衆は徐々にその影響力は薄れていった。 翌年の一月には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景攻め、春景は降伏したが信長は再度の離反を許さず処刑した。 和田惟政を高槻城に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹親興と和田惟政の三人に統治させた。 次に信長は堺に二万貫の矢銭を要求し、これに対して三好三人衆に頼り抵抗するが、三人衆が撤退すると支払いを余儀なくされた。 自治拠点を確保したい堺の商人、交易で利益を得ていた堺は政治の状況によっては、どちらに与しても、堺の保全に引き替えに、信長に矢銭の支払いを受け入れた。※矢銭・戦国時代、諸大名によって賦課された軍資金の名称。 信長は足利義昭は名目上将軍として立てたが実際は権力には『殿中御掟』九ヶ条を作って、傀儡将軍化に成功した。 堺を管理下に置くと、十四日には足利義昭の将軍としての権力を制限し『殿中御掟』九ヶ条の掟所、後に追加七ヶ条を加えた。この時点で正親町天皇から「信長副将軍に任命したい」との意向を事実上無視した。 同年八月に秀吉に命じて但馬国を攻めて山名裕豊を破り、生野銀山などを制圧し、祐豊は今井宗久の仲介で降伏した。 遡って同年二月、播磨の赤松政秀は信長に救援要請、池田勝正、別所安治が浦上宗景を攻める。同時に密かに信長と内通していた宇喜多直家も浦上宗景に反旗を翻した。 義昭・信長勢は播磨の城を数カ所攻め落として撤退したが、逆に浦上宗景は信長方の赤松政秀の龍野城を追い詰めて,十一月に政秀が降伏した。 宇喜多直家もその年のうちに宗景に謝罪し浦上家の傘下に戻った。一方、信長の伊勢国への侵攻も大詰めを迎え、南朝以来の国司の北畠氏が最大勢力を誇っていったが、北伊勢の神戸具盛と講和し、三男織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。 更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野市当主とした。 この頃より、信長と義昭に齟齬が生じ両者対立をして行った。この頃から信長に対する警戒感と不信感が周辺武将の反目に第一次信長包囲網が敷かれていった。 元亀元年(1570)四月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐すべく、浅井氏の盟約を反故にして、盟友徳川家康の軍勢とと共に越前に進軍を開始した。 織田・徳川軍は朝倉の諸城を次々と攻略して行く中、金ヶ崎で浅井郡の離反を知った。挟み撃ちされる危機を陥った織田・徳川軍は直ちに退却を開始し、信長家臣らの進言もあって僅か十名の兵と共に京に逃れた。 信長一生の内最も危機的状態を逃れた。ゆめゆめこのときの経験を忘れずに、その後浅井・朝倉連合軍には心して向かうことを学んだ。 六月になって、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川原で徳川軍と共に浅井・朝倉軍と対峙した。並行して浅井方は横山城を陥落させつつ、小田・徳川軍は勝利した。
2024年06月21日
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やがて、山を降りて東大寺大仏殿に本陣を移し、ここを拠点に多聞山城を攻撃した。双方とも相手を攻撃するために周辺各所に火を付けた為、東大寺や興福寺の一部塔頭や般若寺が次々に炎上した。 七月七、日には東大寺の戒壇である戒壇院が炎上し、松永軍はその焼け跡に陣地を構えた。これによって奈良時代以来の大寺院である東大寺の中に敵対する両者が陣地を築いて睨み合うという異常事態となったのである。この東大寺大仏で焼失は後々の世まで「大逆罪」と言われ非難されている。 そして、永禄十年十月十日(1567)、ついに久秀は大仏殿にいる三人衆・筒井連合軍に総攻撃をかけたのである。子の刻に大仏殿は三好方の陣からの出火により火の手に包まれ、東大寺の全域が戦場と化した。 やがて、三人衆軍・筒井連合軍は退却したものの、以後も大和国内をはじめとする畿内各地で戦闘が続いた。しかし、永禄十一年(1568)九月に足利義昭を擁立した織田信長が上洛し、永禄の変とその後の混乱は収束した。 東大寺は二月堂・法華堂・正倉院・南大門・鐘楼・転害門・念仏堂などが焼け残り、被害そのものは治承・寿永の乱(源平合戦)の時に行われた平重衡の南都焼討よりも少なかったが、類焼によって炎上した前回とは違い、東大寺そのものが戦場になり、なおかつ大仏殿に直接火がかけられたと言う事実は内外に衝撃を与えた。 更にこの時の火災で打撃を受けた大仏そのものも後日首が落下してしまい、修理費用も無くそのまま放置され、大仏と大仏殿の両方の再建が行われたのは、一二〇年以上も後の1680~1700年代(貞享・元禄年間)のことであった。 この変で義輝は殺され、室町幕府の棟梁である征夷大将軍が不在になってしまった。先に六代将軍足利義教が暗殺された嘉吉の乱では、管領の細川持之らが評定を開いて直ちに後継将軍が定められたが、応仁の乱以降管領の力は急激に弱まり永禄の変以前の永禄六年(1563)に管領細川氏綱が死去すると、次期管領は任命されなかった。 また、当時は将軍・管領の不在は珍しくはなく、その状況下でも奉行衆ら在京の幕臣によって最低限の幕府機能は維持されていたが、今回の場合は事件への対応を巡って在京の幕臣の分裂も招いて幕府機能は事実上停止するに至った。 更に、京都を支配する三好・松永両氏と京都近郊の有力守護である朝倉氏が別々の後継将軍候補を擁している状況にあった。 この事態に朝廷は苦慮した。永禄九年(1566)四月、朝廷は吉田兼右の推挙で義昭を従五位下左馬頭に任命した。馬寮の官職は清和源氏ゆかりのもので次期将軍候補とされた人物が歴任する事も多かった。 これに焦った義栄も巻き返しを図り、翌年初めには同じ従五位下左馬頭に任じられた。ここに将軍候補が並び立ったのである。 義栄は三好氏の、義昭は朝倉氏の支援をそれぞれ受けており、将軍宣下のための上洛は近いと思われた。だが、三好氏は三人衆と久秀の内紛が続き、朝倉氏は一向一揆対策に追われて上洛どころではなかった。 また、三好氏の場合は在京の幕臣の中に義輝殺害に対する反発や義栄への非協力的な動き(特に行政実務を担当していた奉行衆でこの動きが強く、一部は義昭の生存を知って越前に向かう)があり、三好氏に擁された義栄が上洛できる環境にはなかったとする指摘もあり、実際に三好氏は京都周辺にあった幕臣の所領の安堵と引換に義栄陣営への取り込みを図っている。 そこで朝廷は二人の将軍候補に対して取り敢えず一万疋(百貫)の銭貨の献金を将軍就任の要件として求めた。これに対して先に応じたのは義栄であった。 義栄は一万疋の献金を半分にまけて貰った上に永禄十一年(1568)二月に摂津富田において将軍宣下を受けた。だが、京都の情勢は不安定で義栄の入京は先送りとなった。 ところが、義昭は尾張の織田信長に頼って同年九月に上洛、織田軍は三人衆の勢力を駆逐、久秀と義継は信長に降伏、富田の義栄は阿波に逃れるものの間もなく病死した。 朝廷は十月になって義昭を新将軍とした(義栄の死去日ついては諸説あり、前将軍の義栄は解任されたか死去によって将軍職が空席になったのかは不明である)。義昭は先の義栄将軍宣下の関係者の処分を要求し、関白近衛前久と参議高倉永相は石山本願寺を頼って逃亡し、権中納言勧修寺晴右は蟄居、参議水無瀬親氏は義栄と共に阿波に下った。 これに対して、義昭のために越前国に下って義昭の元服の加冠役を務めた二条晴良は、義昭の後押しによって次の関白に任じられている。これまで、公家社会では近衛家(いわゆる近衛流摂関家)が足利義晴及びその子である義輝と婚姻を結んで外戚の地位を獲得し、これに対して摂関の地位を巡って競合関係にあった九条家や二条家(いわゆる九条流摂関家)が足利義維・義栄父子を支援して更に石山本願寺とも深くつながっていた。 このため、義晴や義輝が京都を追われた際には近衛家も随従するのが恒例であった。ところが、永禄の変において近衛前久では父・稙家の病気の影響か、稙家の弟である義俊の計らいで奈良を脱出した義昭を擁して近江や越前に下ることをせず、三好三人衆と和睦して義栄を擁する方向に路線転換し、両者の接近を警戒する九条稙通や二条晴良が反対に義昭を支援したため、公家社会の力のバランスに変動を起こした(なお、九条流摂関家とともに義栄を支持してきたとみられる本願寺は立場を変えなかったため、義昭に追放された前久を受け入れるとともにこれまで二条家に依頼してきた法主の猶父を近衛家に切り替えている)。
2024年06月21日
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一方義輝は、全国の戦国大名へ合戦の調停を行なったり、幕府の役職を与えたりするなど、幕府権威の回復を図った。 また、永禄七年には敵対していた政所執事の伊勢貞孝を敗死に追い込み、新たな政所執事に義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し、従来将軍の意向が及ばなかった政所を掌握して幕府決裁に対する影響力を強め幕府の将軍親政を進めようとした。 しかし、このことが義輝に対する三好氏の危機感を抱かせる要因となった。これにより、三好家中の実権を長慶の甥で後継者の三好義継に代わって牛耳っていた松永久秀ならびに三好三人衆は、実力による義輝の根本的排除、すなわち将軍殺害へと向かっていくこととなる。 この事件、ひいては足利義輝の幕権強化を考えるに当たって問題となるのが、義輝と三好長慶・三好義興ら三好家当主との関係である。 天文年間末から弘治年間を経て永禄初年(1558)にかけて、将軍家と三好家は激しく武力衝突を繰り返していた。 この期間には将軍家の元家臣の進士賢光が三好長慶を捨て身で切りつけるなどの事件も起きている。 しかし、永禄初年の末(1558)に、将軍家と三好家は和解し、両家の間には直接的な主従関係も結ばれ、以降は三好家が将軍家を支える両者の協調体制が急速に整えられていくことになる。 この将軍家と三好家の協調体制は、途中、永禄四~五年(1561~1562)京都周辺の大名六角家・畠山家の京都及び河内飯盛山城下への侵攻や、幕府政所執事の伊勢貞孝の討ち死に、細川晴元、三好義興、三好長慶らの病没死を挟みつつも、永禄八年(1565)まで、両家間の平穏な期間が続いた。 後に朝倉家に滞在する足利義昭らに対して、朝倉家中では、都の毒で主君の一族が毒殺されることを警戒したなどの記録から、宣教師とも良好な関係を持っていた永禄期の幕府は異国の毒物をひそかに入手し、これを三好家に用いたのではないかと推論される。 この説では、特に三好長慶には、阿片や新大陸のコカの葉から抽出された新種の薬物等が投与された可能性まで示唆される。これらの毒物によって長慶は若くして廃人同然にされ、三好義興は毒殺され、 幼い主を抱えた三好家は毛利隆元らの死も含めて、幕府に対立する重要人物の相次ぐ不審死に対して将軍家への反感と疑惑を強め、ついには将軍を武力で打倒することを決意したのではないかと推測される。 ただし、この風変わりな説は状況証拠のみによって組み立てられており、現在のところ通説となるには至っていない。 いずれにしても永禄の変直前の三好義興・三好長慶らの相次ぐ死は、三好家・将軍家の権力基盤を揺動させるものだったとは考えられる。義輝の排除はもともと三好・松永の発案ですらなく、古くは阿波守護細川持隆が最初に策した事でもあり、実権と将軍専制に固執し、かつ政治的手腕に欠け、幕府に混乱しか生まない義輝の存在を煙たく感じるものもいた。 三好・松永側は実際に訴訟(要求)の取次を求めて御所を訪れたものの、取次の際の齟齬から両軍の衝突に発展してしまったもので、最初から将軍殺害を計画していた訳ではないとする説もある。 義輝の死の直後、松永久秀らは義輝の弟で鹿苑院院主周暠を殺害、義輝のもう1人の弟で大和興福寺一乗院の門跡覚慶を幽閉した。だが、二ヵ月後の七月二八日に覚慶は義輝の近臣一色藤長・細川藤孝らの手により脱出した。翌年二月に覚慶は足利義秋(後に義昭と改名)と名乗って還俗。近江矢島(現在の滋賀県守山市)を経て越前守護朝倉義景を頼った。 一方、三好三人衆は義輝兄弟の従弟で、かつての堺公方の血統にあたる足利義親(後に義栄と改名)を淡路で擁立し、摂津富田(現在の大阪府高槻市)に入った。 義輝の執政により回復したかに思えた室町幕府の権限であったが、永禄の変の直後にはすでに府奉公衆や奉行衆が主君の仇敵である三好長逸の所に挨拶に赴くなど、義輝の執政の脆弱さを露見する結果に終わっている。 さらに、永禄の変について織田信長の重臣太田牛一は、「義輝の側が三好家に対して謀反を企てたため殺害された」という旨を信長公記に記している。 五、「南都焼討」 三好三人衆は義栄擁立を画策する一方で、長慶の死後に三好氏の家政を握った松永久秀と対立し、主君三好義継を擁して久秀の排除を画策した。 その頃、久秀は実力をもって大和守護を自称して大和の平定に動いていた。同国は元々興福寺に守護の権限があり、興福寺の衆徒であった筒井順昭が戦国大名化して大和を平定していたが、順昭が急死すると後継者である筒井順慶が幼い事を幸いに、永禄二年(1559)に久秀は長慶の命令を受けて大和に侵攻し、筒井氏の所領と興福寺が持つ守護の地位を奪い取ったのである。 三人衆はこれに不満を抱く順慶と興福寺に対して久秀討伐を持ちかけて秘かに手を結んだのである。 折りしも、覚慶が興福寺を脱出して越前に逃れたことが発覚したため、三人衆が守護である久秀の責任を追及し、一方の久秀も三好氏当主である義継が三人衆と対立するとこれを煽り、逆に三人衆討伐を計画するようになった。 かくして、十二月二十一日に三人衆の軍が大和に侵攻を開始し、筒井順慶と共に久秀の居城のある多聞山城(現在の奈良市法蓮町)を包囲した。しかし、多聞山城は強固で松永軍の士気も高かったために二年にわたる睨み合いを続け、あるいは畿内の各地で衝突を続け、次第に小康状態に陥った。 ところが、この戦い中に三人衆は義継を拘禁していたが、永禄十年(1567)二月、義継は三人衆の下を脱出、久秀と和睦し、三人衆に対し共闘するようになる。 この動きに三人衆は大規模な攻勢をかけるべく、四月に大和へ出兵した。松永軍は多聞山城に再度入り、三人衆・筒井軍は興福寺大乗院の裏山である大乗院山などに陣を構えた。
2024年06月21日
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信長は斉藤龍興の存在があって躊躇したが、義昭側の斉藤龍興への働きかけに応じて停戦に応じたために、斎藤氏の美濃国から北伊勢・南近江を経て上洛の兵を送ることとなった。 信長と斉藤道山の亡き後に継いだ龍興は険悪の中で、隙あらば両者の領地の奪い合いが勃発恐れがあった。 ところが、斉藤龍興と相前後して六角義賢も離反し、義昭、信長の交渉は一時中断した。その後、義昭と信長の交渉が再開されて、義昭の三好氏追討の要請に応じた。 四、「永禄の変」 永禄の変(えいろくのへん)は、永禄八年五月十九日(1565)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第十三代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある。 義輝側は三好・松永らの謀叛に備え、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。※三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国時代に三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の三人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であり、『言継卿記』や『多聞院日記』などの同時代の記録でも「三人衆」と表記されている。 事件前日の永禄八年(1565)五月一八日には、義輝は難を避け京を離れるためにいったん御所を脱出している。 しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。 いっぽう三好・松永らは、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、翌五月十九、日に清水寺参詣を名目に約一万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように訴訟の取次自体は事実だったとする説もある)。 奉公衆の進士晴舎(しんじ はるいえ)が訴状の取次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。なお、松永久秀がこの事件の主導者であるという見解が広く巷間に流布しているが、久秀はこの事件が起こった当日は大和国にいて直接には関与していない。 しかし、主導しなかったとはいえ、久秀が将軍暗殺を黙認したことは事実である。 将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。 治部藤通やその弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ義輝自身もまた、薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという。 しかし、多勢に無勢の中、昼頃までに義輝や進士藤延、荒川晴宣、荒川輝宗、彦部晴直、彦部輝信、杉原晴盛、小笠原稙盛、沼田光長、細川隆是、武田輝信、摂津糸千代丸といった主従全員が討死・自害した。 事件の当日に在京していた山科言継の日記『言継卿記』の五月十九日の条では、戦いが行われ、奉公衆が大勢討ち死にし、同日の午の刻の初め頃(昼頃)には将軍も「生害」されたと伝えている。 また、義輝生母の慶寿院(近衛尚通の娘で十二代将軍足利義晴の正室)も自害した。義輝正室(近衛稙家の娘)のほうは近衛家へ送り届けられたが、義輝の寵愛を受け懐妊していた側妾の小侍従(進士晴舎の娘)は殺害された。 主家細川氏の管領職争いのために畿内を転戦してきた阿波守護代出身の三好氏当主で細川晴元を管領に就けた最大の功労者である三好元長は一転、晴元から危険視され、享禄五年(1532)六月には飯盛城の戦いで晴元と手を組んだ一向一揆に攻め込まれ、和泉顕本寺において自刃に追い込まれていた(享禄・天文の乱、堺公方も消滅)。 元長の子の三好長慶は、足利将軍家や晴元と対立しながらも、着実に勢力を伸ばしていった。そして天文一八年(1549)、晴元の側近で同族の三好政長を討ち取った長慶を恐れた晴元は、十三代将軍足利義輝と大御所足利義晴を連れて近江坂本へ逃れた(江口の戦い)。 この時から細川政権は崩壊、新たに三好政権が成立した。天文二十二年(1553)には反撃を試みた義輝を近江朽木へ追いやり、三好氏は畿内の実力者として絶頂を極めた。 但し、戦国時代における京都の支配は、将軍と対立し幕府政治機構に頼らないまま維持することが困難であった。 その上、義輝が近江朽木へ動座した以降も断続的に六角氏や畠山氏の攻撃を受け、京都支配は一向に安定する兆しを見せなかった。そしてついに永禄元年(1558)には義輝と近江守護六角義賢の攻撃を受けて和睦し、長慶は幕府相伴衆に列するに至った。 しかし、これにより三好氏は京都の掌握はおろか、義輝の臣下として幕府政治機構に組み込まれることになった。 さらにこの頃から長慶の実弟十河一存と三好実休、長慶の嫡男三好義興など有力な一族が相次いで死亡。さらに弟の安宅冬康を失う。(長慶の居城・飯盛山城に呼び出され自害。)そして永禄七年(1564)には長慶自身も没する。
2024年06月21日
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これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将達の一人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。 単なる偶発遭遇による出会い頭の出来事としても考えることが出来る。 例えば大久保忠教の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。 また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長があらかじめよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。 何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。この記述を素直に信じるならば、つまり信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、大高城から出撃してきた敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけだったということである。 すなわち『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。 戦国時代の歴史上、今川方総力は二万五千~四万五千と言われている。片や織田軍の総勢は三千~五千の兵力で結果的に今川軍の総崩れで敗れ去ったことにある。しかも、十五歳も年下の若僧にしてやられた。 少数の織田軍が十倍はあろうかと言うう大軍に勝つことは愉快な奇跡の合戦として受け入れやすく、尾ひれがついて過大評価した節もないわけでもない。「桶狭間の戦い」は織田軍にとって戦力に劣る今川軍に勝ち目は少ない。まさに敵将に出合い頭に有利な交戦に、信長にとって思わぬ好機に、手薄になった義元と偶然に廻り合えた。 信長の性格上、合戦の戦法として、ともすれは強硬的、一か八かの勝負に打って出る可能性も少なくない。その場、その時の戦況の状況に偏在自在に作戦を変えてくることもありうる。 三、「美濃攻略」 尾張統一を果たした翌、永禄三年(1560)5月、今川義元が尾張国へ侵攻、駿河、遠江の本国に加え三河国を分国する今川氏の軍勢は二万人とも四万人とも言われる大軍であった。 敵将の今川義元を討ち取った限り、あまり間を置かずに、また時期大将の選出される前に、叩きのめさなければ、厄介なことになる。 織田信長は再復帰のたとえ小さな芽でも完全に摘み取らないと、やがては我が身に降りかかることは、戦国大名や武将の鉄則で、信長も十分わきまえての作戦であった。 迎え撃つ織田軍はこれに対して防戦した総兵力は五千人あまり、今川軍三河勢を先鋒(家康軍)として織田軍の城砦を次々に陥落させていった。 信長しばし静寂を保っていたが反転攻勢に転じ、四千人の軍勢を整えて、出撃し、今川軍三河勢の陣中に攻撃をかけ義元を討ち取った。今川軍はいったんは駿河国に退去した。 桶狭間戦い後に三河国の松平氏の離反に等により急速に衰退していった。今川氏から離反した家康は織田信長と手を結び両者勢力を伸ばしていった。 今川氏の人質同然の従属させられて、主権のなかった家康には独立できる絶好のチャンスであった。 織田信長は親戚関係の斉藤道三の死後は険悪な関係になり、一進一退の状況が続いたが斎藤氏の内紛に乗じて加世田城主・佐藤忠能と加世田衆を味方につけて中濃を手中に収め、さらに西美濃三人衆を味方に入れて、ついに永禄十年に斉藤龍興を伊勢国長島に敗走させた。※斉藤道山の娘帰蝶は織田信長の正室で、斉藤道山の存命中は、織田家とは表立った軋轢なく、平穏を保てていた。 朝廷は信長を「天下無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に断っている。 信長は戦乱世に一方の衰退する足利義昭に与することも、朝廷の依頼を受けて、都合良く遣われるのは嫌って朝廷からの要職を体よく断っていた。 その頃、中央の情勢は三好三人衆が、幕府権力の復活を目指し将軍足利義輝を暗殺し、十四代将軍として義輝の従弟の足利義栄を擁立する。 足利将軍候補にも弱体したにもかかわらず、将軍家の復活をかっけて、信長や朝廷、三好三人衆に思惑をはせる。 信長に取り、三好三人衆は戦国の世に混乱を招くだけの存在で、嫌っていたが、便利良く利用する信長包囲網に組み込まれていった。 一方足利義昭は六角義賢や和田惟政とともに諸国の大名に三好氏を討伐して義昭の上洛と将軍擁立に協力を働きかけた。 ところが上杉謙信や武田信玄は地方の諸大名は近隣諸国との対立を抱えて動きがとれなかった。京都周辺の大名を連合させて義昭を上洛させる計画が立てられ、尾張国の織田信長に要請を行った。 信長の上洛には、信長の拠点から程よい場所に合って、留守居し緊急時に帰還できる場所に合った。
2024年06月21日
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また、戦国大名の軍事行動においては対外勢力への備えとして相備衆を残存させることが一般的で、実際の合戦における兵力は最大動員可能兵力より少なくなる点も留意される。 しかしながら、今川は甲斐・信濃の武田、伊豆・相模・武蔵の北条とは同盟関係にあり、一方で織田は美濃の斉藤とは敵対関係にあったため、この面では今川にとって状勢はかなり有利であった。 それに加えて、駿河・遠江・三河の三国のほか、尾張の南半分を押さえている今川は、尾張の北半分を押さえるに過ぎない織田とは、隔絶した差があったように思われがちである。ただし、上述の通り尾張の南半分は知多半島の不毛地帯であり、逆に尾張の北半分は濃尾平野の穀倉地帯であった。 実際にはその支配領域から想像されるほどには農業生産性、ひいては動員可能兵力に差がある訳ではなかった。しかし、尾張の国力を信長の動員力と考えるのは適切ではない。 信長が、同族を平定し、自らが擁立した尾張守護・斯波義銀を追放して尾張国の国主となったのは、桶狭間の戦いの前年に過ぎない。 本合戦で信長に従って戦ったのは従来からの家臣たちであり、尾張統一の過程で信長家臣に組み込まれた者や国人・豪族たちは戦況を様子見するか、服部党の服部友貞のように今川方についた。このことからも、信長の動員力は非常に限られたものだったと考えられる。 いずれにせよ上記にあるように、義元の周辺にいて信長軍に直接対峙した兵力はせいぜい多くても五〇〇〇人程度であり、二〇〇〇人の精鋭を引き連れた信長軍と比べてそう大きな相手というわけでもなかった。 もちろん信長の引き連れた二〇〇〇人も、その当時に信長が動員できる全兵力ではなく、一部に過ぎない。 義元の尾張侵攻の理由、長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。 しかしながら義元は、今川家家督を継承してから長らく三河、尾張で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げており、尾張をほとんど制圧していない状況で一挙に上洛を目指すという冒険的決断をしたとするには極めて難がある。 信長は後に将軍・足利義昭を奉じて京周辺の支配や地方大名の紛争を調停する天下人の役割を間接的に担い、甲斐の武田信玄が元亀年間に行った西上作戦は上洛が意図されていた可能性が考えられているが、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。 仮に信長が上洛の名分に利用したように、将軍やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と義元の従来の領土拡大の方針から見て、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。 実際、義元が永禄二年(1559)に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。また、上洛が目的であるならば、事前に越前の朝倉氏や南近江の六角氏などに協力を要請するはずであるが、そのような書簡も残されておらず、この当時将軍であった足利義輝と義元との間に何らかのやり取りがあったとする史料もない。ちなみに合戦の直前に、織田信長は僅かな供を連れて足利義輝に謁見するという形での上洛は行っている。 既に合戦以前の情勢の節で述べたように、当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の二城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。 したがって、実際には領土紛争の一環としてこの二城を救出しようとしたか、より大胆な意図があったとしてもせいぜい尾張の奪取程度が自然とするのが現在では定説となっている。「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の二つの説にまとめることができる。 善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。 織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。「正面攻撃説」善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。 信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍、折からの豪雨で視界が効かないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。 ※今川軍が油断しているところを義元の首のみを狙って一挙にしかけたのだというような見解を述べることがある。例えば、『信長公記』には「今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり」(今川義元は塗輿を捨てて逃げた)という記述があるが、総大将の目印となる塗輿が義元のそばに置いてあったのだから、つまり義元が奇襲をまったく予期していなかったのだという見方がされる。 油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。
2024年06月21日
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二,「桶狭間の合戦」 正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら三十余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に気を良くした。 十三時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。記録には「石水混じり」と書かれているため、雹(ひょう)だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。 今川軍の総勢は二万人であったとされるが、義元を守る兵力は五千から六千人に過ぎずに、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。 記録によれば、義元は輿を捨て三百騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。 義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。記録によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。戦国の雄、大名今川義元はあっけなく討ち取られて今川家は消滅する運命となった。 総大将であり今川家の前当主である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わった。 江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・長福寺所蔵の「桶狭間合戦討死者書上」によると、今川方の戦死者は二七五三人、織田方の戦死者は九九〇人あまりだった。また、書上によると、近江国佐々木方(六角氏)が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち二七二人を占めたという。 ※今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦 国大名。今川氏第十一代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。 今川家の実質的な当主の今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。 水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。 大高城を守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場を離れ、大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹し果てようとした。その時、当寺十三代住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き、元康は切腹を思いとどまった。 そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は今川軍の城代山田景隆が捨てて逃げた岡崎城にたどりついた。 尾張・三河の国境で今川方に就いた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、六月二十一日に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。 しかし鳴海城は城将・岡部元信以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城、駿河に帰る途上三河の刈谷城を攻略し水野信近を討ち取るなどし、義元の首を携えて駿河に帰国したが、信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。 一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。「家康今川方から離反」 しかし元康は義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し、永禄五年(1562)になって氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。 また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。 桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、北条家武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正や勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが謙信に与し、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いに繋がっていった。 さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄十一年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの永禄八年頃には信長養女が信玄世子の勝頼に嫁いでいるなど関係は良好で、以後信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。。大高城・鵜殿長照。沓掛城・浅井政敏・近藤景春・清洲方面展開・葛山氏元。桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいる。
2024年06月21日
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一、「信長の台頭」 戦国三英傑と言えば、尾張国と三河国を中心に排出した織田信長・豊臣秀吉・徳川家康である。 出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた下記三人の戦国大名について、主に後世において中部地方や愛知県で顕彰する呼称。口語では戦国の三傑が用いられる。名古屋まつりでは毎年、この三人にちなんで郷土英傑行列が行われている。 一五世紀末、駿河国守護の今川氏親は東海地方において勢力を拡大し、後を継いだ今川義元は駿府を本拠とし駿河・遠江に領国を形成する。また、甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた。 尾張国では守護・斯波氏の家臣で清洲織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定、織田信秀と二代に渡り領土を広げ、今川氏と三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って争うようになる。 西三河を支配していた国衆である松平氏が当主の相次ぐ横死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、天文十一年(1542)の第一次小豆坂の戦いでは織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。 しかし、天文十七年(1548)の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。翌年、今川方が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略したことによって、織田氏の三河進出は挫折に終わった。 さらに天文二十年(1551)には織田信秀が病没、後を継いだ織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で内紛が起こった。信長は幼い頃より「うつけ者」と表され変人奇人の類いの人間で、多くに問題を起こす人間で、一族でも後継に疑心暗鬼を持つ者少なからず。 この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海・笠寺両城を守る山口氏が今川方に投降。加えて山口氏の調略によって尾張東南の大高城、沓掛城(豊明市)の一帯が今川氏の手に落ちた。 この四城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通以前の知多半島は不毛地帯であったため、そこを押さえられても農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。 しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。尾張西南の蟹江城も今川方に攻略されており、伊勢湾海域の制海権が徐々に侵略されつつあった。 織田氏も今川氏の進出阻止や逆襲に動いた。1554年には知多の領主である水野氏を支援して今川方の村木砦を攻め落とした。笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで圧迫し、城と城の相互の連絡を遮断した。 このような情勢の下、永禄三年(1560)五月十二日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。五月十七日、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌五月一八日夜、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。 一方の織田方は清洲城に篭城するか、出撃するべきかで軍議が紛糾していた。 翌五月十九日三時頃、松平元康(徳川家康)と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞「敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前四時頃に居城清洲城より出発。小姓衆五騎のみを連れて出た信長は八時頃、熱田神社に到着。その後軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。 ※松平元康(徳川家康)・幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごす。永禄三年(1560)、桶狭間の戦いでの今川義元の討死を機に今川氏から独立して織田信長と同盟を結び、三河国・遠江国に版図を広げる。信長が天正十年(1582)に本能寺の変において死亡すると天正壬午の乱を制して甲斐国・信濃国を手中に収める。 十時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ二〇〇〇から三〇〇〇人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍五百名余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死した。鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗、織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。 大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後進路を南に取った。一方の織田軍は十一時から十二時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下五百余りを置き、二千の兵で出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した(但し、信長は中嶋砦まで進軍していたとする資料もある)。 信長に取って宿敵今川を倒すことが、尾張で生き残る条件であった。今川義元は信長より一五歳年上、今川家の五男で世継ぎとは無縁で、妙心寺に出家していた。 相次ぐ、兄たちの早世に呼び戻されて今川家の家督を継ぐことになった。義元の諱は将軍足利義晴から一字を貰って義元と名乗る。義元は戦国武将としては不向き、今川家の諸事情で家督を譲り受けるが、周辺諸国で強敵であった武田氏との融和を図るために、武田信虎の娘定恵院を正室として、「甲駿同盟」を結んだ。信長は斎藤道三の娘濃姫を正妻として美濃国大名と融和を図った。
2024年06月21日
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『信長・戦国突破力』はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3一、「信長の台頭」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4二,「桶狭間の合戦」・・・・・・・・・・・・・・・・・・8三、「美濃攻略」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20四、「永禄の変」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23五、「南都焼き討ち」・・・・・・・・・・・・・・・・・・30六、 「義昭と信長上洛」・・・・・・・・・・・・・・・・・37七、「姉川の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41八、 「観音寺城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・47九、 「野田城・福島城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・52十、 「石山合戦と一向一揆の決起」・・・・・・・・・・・・61十一、「天王寺の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・・71十二、「長島一向一揆の戦い」①・・・・・・・・・・・・・・76十三、「浅井・朝倉連合の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・82十四、「比叡山焼き討ち」・・・・・・・・・・・・・・・・・・93十五、「長島一向一揆の戦い」②・・・・・・・・・・・・・・102十六、「越前一向一揆と信長」・・・・・・・・・・・・・・・110十七、「高屋城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・・115十八、「第二木津川河口合戦」・・・・・・・・・・・・・・・123十九、「天正伊賀の乱」・・・・・・・・・・・・・・・・・・130二十、「信長包囲網」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・134二十一、「中国侵攻」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・142二十二、「京都馬揃え・左大臣推任」・・・・・・・・・・・・145二十三、「高野山包囲」・・・・・・・・・・・・・・・・・・147二十四、「甲州征伐」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149二十五、「魚津城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・・153二十六、「本能寺の変」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・156 はじめに 戦国三英傑と言えば、尾張国と三河国を中心に排出した織田信長・豊臣秀吉・徳川家康である。 下剋上の戦国時代に終止符を打った天下無双の英雄は「織田信長」である。尾張の小大名から、美濃を制覇、有力周辺大名を怒涛の如く侵攻し傘下に収め、一向一揆から比叡山の宗徒から四面楚歌にも、ものともせず、果敢に戦い続けた戦略の知将でもあった。足利将軍を擁して上洛を果たし、敵対大名の信長包囲網を突破し、 若くして天下人になった。信長には運気もあった。優秀な家臣にも恵まれた。何よりも類まれなる勝機の「突破力」は東西随一の天才であった。敵対者には非情で残酷に制裁を加え抹殺していった。多くの人々の人命を虫けらの如く奪い去った。 天下取りには非常で妥協の許さない強硬な手段で立ち向かった。「問答無用」で立ちはだかる者をなぎ倒していった。 家臣の光秀の謀反で志中半で討たれたが、天下取りの突破力は古今東西、随一で、存命ならば日本は大きく変わっていただろう。 信長は戦国時代を駆け抜けた英雄であり、歴史の足跡は功罪は別にしてその影響は大きい。
2024年06月21日
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