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2024年06月22日
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カテゴリ: 戦国




本能寺の変


 信 長は 四国 長宗我部元親 攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・ 蜂屋頼隆 津田信澄 の軍団を派遣する準備を進めていた。


 また北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃( 魚津城の戦い )。


 上杉氏は北の 新発田重家 の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。


 五月十五日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。


 そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は 15 日から十七日にわたって家康を手厚くもてなした。


 家康接待が続く中、信長は 備中高松城 攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。


 後世、『 明智軍記 』などによって 江戸時代 以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は 小姓 森成利 (蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。


 五月二九日、信長は 中国 遠征の出兵準備のために上洛し、 本能寺 に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、   六月二日 に本能寺を襲撃する。


 この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが『 本城惣右衛門覚書 』からもうかがえる。


 百人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、 自害 して果てた。 享年 四十九(満四十八歳没)。


 光秀の娘婿・ 明智秀満 が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまった、あるいは損傷が激しく誰の遺体か確認できなかったためと考えられる。


  ゆえに、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説が後世に流布した。実際事件当時も信長の生存説が京洛に流れており、緊急に光秀と対立することとなった羽柴秀吉はこの噂を利用し、味方を増やそうとしている。


 本能寺の変では光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、色々な説が流れており、後者には徳川家康説、秀吉説、天皇説、堺の商人説などがある。


波瀾万丈の類まれなる天下無双の織田信長と言うう知将は、天下取りに頂点に駆け登った。


 だがその終焉は余りにも儚く空しい結末で人生を閉じた。


非情にも、多くの人々の命を虫けらの如く奪い去った。


その功罪を語る時、戦国と言う有史以来の下剋上の不原則の時代で一長一短に語り尽くすことが出来ない。






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最終更新日  2024年06月22日 06時54分46秒
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