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本願寺は当時、
加賀
に大きな勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。また、山科焼失の前年に
大小一揆
と呼ばれる本願寺一門内の内戦を加賀で起こしており、現地の門徒の間には本願寺への不信感があった。
そこで十世法主 証如 は京都に近く、交通の便の良い大坂御坊を本願寺の本拠とし、石山本願寺と改称した。こうして、石山本願寺は本願寺の本拠として発展した。
細川晴元は石山の発展も恐れ、たびたび石山を攻撃したが、石山は小高い山や川が多く守りに適した土地であり、山科を教訓として本願寺が軍備を進めていたために、まったく戦果を挙げられなかった。
晴元以外の時の権力者も石山の武力を恐れ、同盟を結ぶなどして本願寺との戦火を避けた結果、本願寺の権力は年々増大し、十一世法主の顕如が 准門跡 (門跡は皇族・貴族が僧籍に入り住職となる際の呼称)になるなど、中央権力との結びつきが強くなった。
そんな中、 永禄 十一年(1568)に織田信長が 足利義昭 を擁して上洛に成功した。足利義昭は 室町幕府 十三代 将軍 足利義輝 の弟であり、義昭が信長の武力と共に京都に入ったことで、将軍の地位は第十四代 義栄 から義昭に渡ることが確実になった。
信長は上洛してすぐに畿内をほぼ制圧した。信長は将軍家の名目で教行寺など畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこなった。本願寺には「 京都御所 再建費用」の名目で矢銭五千貫を請求し、顕如はこれを支払った。
永禄十二年(1569)半ばから、信長と義昭との仲はだんだんと険悪になって行った。この年の九月、信長は 三好氏 征伐を決行する。当時、義昭によって京都を追われ、石山本願寺を頼っていた 近衛前久 は、顕如に三好氏支援を進言した。
ただし、前久は朝廷内・幕府内での対立関係からくる義昭の排除が目的であり、織田氏と直接の利害関係はなかったようである。その証拠に信長が義昭を追放した後、近衛は京都に帰還し、一転して信長派の中心人物となっている。
元亀元年(1570)九月十二日に顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」として本願寺門徒に檄を飛ばし、 三好三人衆 攻略のために 摂津 福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。
そのまま本願寺軍は石山を出て、十四日に 淀川堤 で信長軍と直接激突した。この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺軍は石山に戻り篭城の構えを見せた。
織田軍は 志賀の陣 で既に四面楚歌の状態であるため、石山に監視のための軍を置くと、 朝廷 に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう 勅書 を出すなど、本願寺との戦闘を避けた。
そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は 1 月もたたないうちに実質的には終わったのである。
この時の戦いの様子については「 野田城・福島城の戦い 」
石山挙兵とほぼ同時に 長島 願証寺 で一向一揆が発生( 長島一向一揆 )し、尾張の 古木江城 を落として守っていた信長の弟 信興 を自害に追い込むなど、公然と信長に敵対するようになった。
元亀二年(1571)五月に信長は長島殲滅を図るが失敗し、多数の兵を失った。この年の一向一揆に対する戦果は、九月に一向一揆の篭る 志村城 ・ 金ヶ森城 を降伏させたに留まる。
また、元亀三年(1572)に信長が京都に自身の屋敷を建てた際には、三月に顕如から万里江山の一軸と白天目の茶碗を贈呈されている。
七月には家臣に一向宗禁令を出すなど緊迫したが、これは 武田信玄 の仲介という形で和議を結んでいる(信玄の妻と顕如の妻は姉妹である)。
元亀四年 / 天正元年(1573)に信長は再度長島を攻めたがまたも失敗した。十一月には 白天目の茶碗 を贈られたことに対しての謝礼をしている。
但し、兵力を出して戦火を交えてはいないものの、いわゆる 情報戦 は非常に盛んであった。顕如は遅くとも元亀三年末ごろまでには武田信玄や 毛利輝元 などと密かに同盟を結んでおり、信長を東西から挟撃しようと画策している。
足利義昭もこの流れに乗って信玄に上洛を促すなどしている。当然、信長もそれを牽制するために、朝廷外交や 上杉謙信 への友好工作などを行っている。
したがって天正元年末までは、石山本願寺と信長は互いに牽制しつつも戦火を交えない、いわば 冷戦 よりややましな程度で推移していたと思われる。
これを知った顕如は、はじめ 七里頼周 を派遣し、その後 下間頼照 を越前 守護 に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し、四月二日に石山本願寺は織田家に対し再挙兵した。
本願寺は長島・越前・石山の三拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があった。
信長はそれを最大限に活用して各個撃破にでた。七月、信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。
島・屋長島・中江の三個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、九月二九日には降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処した。
この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の二個所は柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の 顕忍 (佐堯)は自害した。
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