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2024年06月21日
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カテゴリ: 戦国




元亀二年(1571)九月十二日、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に各所で
法螺貝 と鬨の声が上がり、攻め上がっていた。『信長公記』にはこの時の様子が


【九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り— 信長公記】


と記されている。坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは 日吉大社 の奥宮の八王子山 地図 に立て篭もったようだが、ここも焼かれた。


 この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの 書簡 には約 1500 人、『 言継卿記 』には三千~四千名と記されている。


 信長は戦後処理を 明智光秀 に任せ、翌十三日午前九時頃に精鋭の 馬廻り 衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。


 その後三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していく。 延暦寺 や日吉大社は消滅し、寺領、社領はことごとく没収され明智光秀・佐久間信盛・ 中川重政 ・柴田勝家・丹羽長秀に配分した。


 この五人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々 与力 らをこの地域に派遣して治めることになる。特に光秀と信盛はこの地域を中心に支配することになり、光秀は 坂本城 を築城することになる。


 一方、延暦寺側では正覚院豪盛らがなんとか逃げ切ることができ、 甲斐 武田信玄 に庇護を求めた。


 信玄は彼らを保護し延暦寺を復興しようと企てたが、元亀四年(1573)に病死。実現をみるに至らなかった。


 天正七年(1579)六月の日吉大社の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長によって綸旨が押さえられ、再興の動きは停止されてしまったとある。


 その後 本能寺の変 で信長は倒れ、光秀も 山崎の戦い で敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、簡単には許されなかった。


 山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の二人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われている。


 そして 小牧・長久手の戦い で出軍している秀吉に 犬山城 で度重なる要請を行い、ついに 天正 十二年(1585)五月一日、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として 青銅 一万 が寄進された。比叡山焼き討ちの約十三年後のことであった。


 明確に信長の比叡山焼き打ちで焼失が指摘できる建物は、 根本中堂 大講堂 のみで、他の場所でも焼土層が確認できるのが、この焼き打ち以前に廃絶していたものが大半であったと指摘している。


 また遺物に関しても 平安時代 の遺物が顕著であるとしている。発掘調査地点は、比叡山の全山にわたって調査されたわけではなく 東塔 西塔 横川 と限定されているが、焼き打ち時に比叡山に所在していた堂舎の数は限定的で、坂本城の遺物に比較して 16 世紀 の遺物は少ないことから、『 多聞院日記 』に記載されているように、僧侶の多くは坂本周辺に下っていた。


 従って『言継卿記』に記載されている、寺社堂塔五百余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女三千人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になり、九月十五日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎるのではないかと指摘している。


 『信長の天下布武への道』では「殺戮は八王寺山を中心に行われたようである」としている。


 兼康は、これまでとは視点を変えて「織田信長の人物像をはじめとする戦国時代の歴史観を再構築しなくてはならない時期が訪れつつある」と結論付けている。


 同時代の人間、山科言継は『言継卿日記』において「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼討した事への不安と動揺を吐露し、宮中においても信長の焼き討ちを『御湯殿上日記』において


【ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり】


と批判されている。また先述のように武田信玄は、この焼き討ちを非難して比叡山を復興しようとした。


 加えて『信長公記』でも焼き討ちの理由は比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがためと記しており、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」としている。


 すなわち焼討ちは敵対した者に対する攻撃であったというのが本質である。『信長公記』の記す「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」云々の下りは(事実ではあるが)大義名分であり、討伐するための論理であるという指摘がある。


 後代には、当時の比叡山が堕落していたことが指摘され、焼き討ちの責を比叡山に帰する指摘(犠牲者非難)が多く行われている。


 当時の史料である元亀元年(1570)の『多聞院日記』にも「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されており、『信長公記』にもこのような記述がある。


【山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く— 信長公記】


 そして何より、延暦寺が京の鬼門を封じている非常に重要な寺社であるにも関わらず、正親町天皇や朝廷も正式に抗議をしていない。






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最終更新日  2024年06月21日 10時00分16秒
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