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●「輪タク」自転車タクシーとは、2輪車もしくは3輪車で人力により乗客を運ぶ車両である。通常は、ドライバー以外に1人ないし2人の乗客を乗せることが出来るようになっている。自転車タクシーは人力車を改良したもので、英語ではCycle rickshawとなる。また自転車タクシーが発展し、オートバイや三輪自動車などを用いるようになったものはオートリクシャー、と呼ばれる(三輪タクシー、バイクタクシーを参照)。Rickshawは人力車のことで、Cycle rickshawは自転車の人力車と言う意味である。Rickshawの語源は日本語の 人力車 である(りきしゃから派生)。自転車タクシーの車両はドライバーの脚力が動力源だが、電気モーターの力を補助的に使うものもある。車両は3輪のものが多数派でトラクターとしての自転車と、乗客を乗せる人力車の部分で構成される。非常に稀だが4輪車もあり、2輪自転車とリアカーを合体させたものである。また、前に乗客を載せるタイプもある。自転車タクシーはアジアで広く使われている。自転車タクシーは人力車の代替交通機関として発達した。自転車タクシーはアジアで広く使われているが、道路混雑の原因になると考えられており、しばしば規制の対象になっている。広く普及しているアジアでは、人力車は農村地帯からの貧しい出稼ぎ労働者の重要な仕事となっている。しかし、最近では経済的で環境に優しい交通手段として再認識され、先進国でも復活する例が増えてきた。日本の自転車タクシー日本ではかつて自転車タクシーのことを輪タクとも言った。輪タクは当時、終戦時の物資不足から燃料がわずかで、タクシーを走らすことができなかったことから大正初期に生まれた「人働車」を新たに登場させたもので、その名称は、自転車を指す「銀輪」と「タクシー」という言葉の合成させたものからきている。日本における輪タク営業のはじまりは、1947年(昭和22年)2月1日に闇市を統率してきた関東尾津組が2人乗りの輪タク営業を東京で始めたものだといわれている。ちなみに営業当初は24キロ10円で、その後10月には20円に値上げされ、1キロごとに10円の加算となっていた。都電と都バスの料金が50銭だった当時から考えると高級な乗り物だった。その後、同じような営業が各地に広まり、1949年(昭和24年)には全国に70を超え、色々な種類の輪タクや業態が登場した。新潟市の厚生車では、リヤカーに一人用の幌をつけた急造的なもので、日中は駐輪場で、日暮れからは飲み屋などのある盛り場に停車場を設け、客を待つ日々だったという。輪タクの多くは、1951年(昭和26年) - 1952年(昭和27年)ころにはほとんど姿が見られなくなったが、大分県佐伯市では1955年(昭和30年)2月にまだ、15・16台の輪タクが営業していたという。秋田市内でも、1965年(昭和40年)頃まで営業していたという証言もある。
2024年06月17日
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14「昭和21年・世情・社会状況。」●尋ね人の時間(たずねびとのじかん)は、昭和中期に放送されたNHKラジオの番組の通称。正式名称は尋ね人(たずねびと)。「『尋ね人』の時間です」とアナウンスされたことから、『尋ね人の時間』が番組の呼称として親しまれた。この項目では、同時期に並行して放送された復員だより(ふくいんだより)、引揚者の時間(ひきあげしゃのじかん)についても記述する。『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組は、聴取者から送られた、第二次世界大戦(太平洋戦争)の混乱の中で連絡不能になった人物の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。当初は対象者別に以上の番組が設けられていたが、やがて『尋ね人』に集約した。放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件であり、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人を探し出せたとされる。内容依頼人の手紙の内容が端的にまとめられ、番組の題に即した要旨がアナウンサーによって淡々と抑揚なく読み上げられた。具体的には、次のような読み上げが行われた。· 昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。· シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。· 旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。· ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。· 昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。· これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。対象者は復員兵、引揚者、シベリア抑留者、戦中時に知り合った兵隊仲間など様々であり、依頼者の多くは同様の立場や境遇にあったか、戦時・戦後の混乱でやむを得ず離別した人であった。関係性でみると、依頼人と対象者とは親族、友人、戦友、知り合い同士などであった。なかには、日本に復員したにもかかわらず本人の意思で故郷に戻らない傷痍軍人や、復員していない残留日本兵と思われる者を尋ねる内容もあったという。依頼の中には、GHQに所属する日系二世の駐留軍人からのものもあったという。しかし、 局員のフランク・正三・馬場(馬場も日系二世である)が、「アメリカ国籍者からの依頼には対応すべきでない」と判断したために、採用が見送られたとされる。放送時期・時間· 復員だより – 1946年(昭和21年)1月から1947年(昭和22年)2月。終了時期は南方からの復員が一段落した時期と重なる· 尋ね人 – 1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日· 引揚者の時間 – 1947年(昭和22年)7月から1957年(昭和32年)3月放送時間の全容については、たびたび移動していたとみられたり、同時期資料での記述がまちまちであったりして、はっきりしない。ただ、ある程度の期間単位で定時放送されていたために、多くの人が流しっぱなしのラジオから一度はこの番組を耳にした経験があるといわれ、民間のラジオ放送開局後も聴取率は90%であったとされている。その他· 戦後50年の節目にあたる1995年に、テレビ朝日系列で『戦後50年企画 尋ね人の時間』が放送された。· 新井満の小説に、同名の『尋ね人の時間』がある(第99回芥川賞受賞作)が、関連はない。· 井上ひさしは、同番組をもとに戯曲『私はだれでしょう』を執筆し、こまつ座によって、2007年1月22日から2月25日、紀伊國屋サザンシアターにて上演された。同演目では「聴取率90%」とされる同番組のスタッフが描かれ、GHQによる番組内容の検閲により、広島や長崎の依頼人からの手紙は読み上げられなかった、といった場面が創作されている。· 横溝正史の推理小説『獄門島』の中で、登場人物が『復員だより』を聞いている場面があり、金田一耕助の推理の材料の一つとなっている。
2024年06月17日
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13「南海地震」・12月21日・南海地震(なんかいじしん)は、紀伊半島の紀伊水道沖から四国南方沖を震源域とする巨大地震の呼称。南海トラフ西側でプレート間の断層滑りが発生する低角逆断層型の地震と考えられている。狭義の南海地震は1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震を指す名称であるが、広義には安政南海地震や宝永地震(南海トラフのほぼ全域が震源域)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれ南海地震と総称される。さらに2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以降は、土佐湾から紀伊水道沖を震源域として発生するとされる固有地震の名称としても使用されるようになった。また、南海大地震(なんかいだいじしん)や南海道地震(なんかいどうじしん)と呼称される場合もある。この付近の南海トラフでは、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいるため、たびたび M8 級の海溝型地震が100 - 200年程度の再来間隔で起きている。巨大な地震となる原因について、年齢の若いプレートは薄く比較的高温でプレート間の固着が起こりやすいとするアスペリティモデルが提唱され、これが高い地震カップリング率と連動型の地震を生じる要因と考えられていた。実際にフィリピン海プレートは年齢が2千万年程度で、南海トラフの沈み込み帯では の観測からプレート間の固着による東海沖・南海沖の広い範囲でプレート間の滑り遅れが確認されている。しかし、逆に連動型地震が起こりにくいとされた古いプレートの境界でスマトラ島沖地震 (2004年)や東北地方太平洋沖地震が発生し、必ずしも当てはまらない例があることも指摘されている。 また、昭和南海地震でも確認されたように、単純な低角逆断層のプレート間地震ではなく、高角逆断層である分岐のスプレー断層の滑りをも伴う可能性も指摘されている。一方、付加体を形成する沈み込み帯では地震は巨大となりやすく、このときの陸側のプレートの沈み込み帯では津波地震が発生しやすいという説がある[8]が、発震機構にはまだ不明な点が多い。将来の発生が予想される南海トラフ沿いの巨大地震の震源域では、固有地震の考えに基づく震源域として東海地震・東南海地震とならぶ大規模地震に位置付けられ、地質学者・地震学者から注目されてきた。地震の特徴として· 中部地方西部、紀伊半島、中国、四国、大阪平野および九州東部に至る広い範囲に及ぶ強震。数分以上の長い地震動。著しい長周期地震動を伴う。· 太平洋沿岸の広い範囲に津波襲来。四国や紀伊半島で特に著しく、数時間から十数時間に亘り何度も押寄せ第3波前後に最大となることが多い。中国の上海やアメリカ西海岸にも到達。· 潮岬、室戸岬付近の隆起、高知平野および土佐湾岸西側付近の沈降など南東上りの傾動を示す地殻変動。足摺岬付近は各地震により隆起、沈降の挙動が異なる。· 地殻変動の結果と推定されるプレートの体積歪みによる地下水位の低下および、道後温泉、南紀白浜温泉、湯の峰温泉などの湧出の一時停止。などが挙げられる。南東上りの地殻変動は低角逆断層のプレート間の滑りで説明されているが、異論もあり、地盤沈下は地震動による地盤の圧縮、岬先端付近の隆起は東西方向の圧縮応力にかかる地震動の結果であり、西南日本外帯の地形に見られる東西性の波曲構造もこの結果によるとする見方もある。歴史地震の記録からは、東海・東南海地震とほぼ同時に連動、または2年程度までの間隔をあけて連動して発生していると考えられてきた(東海・東南海・南海地震)。このような発生パターンや推定される規模も様々で、地殻変動や津波の規模で直近のものを比較すると大きいものから宝永地震>安政南海地震>昭和南海地震の順であった。例えば宿毛市大島の鷣(ハイタカ)神社の石段は宝永地震津波では39段目まで浸水し、安政南海地震では7段目、昭和南海地震では石段まで達しなかった。2011年12月に発表された中央防災会議の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」の中間とりまとめでは、南海トラフで起きると想定される3連動型巨大地震の最大規模として、震源域が従来のほぼ2倍に拡大され、暫定値としてMw9.0の超巨大地震の想定が示された。地震調査委員会等による想定· 2012年1月の地震調査研究推進本部の予測では、30 -~50階建て程度の超高層建物など、固有周期が約3 ~ 5秒の建物が長周期地震動による強い影響を受ける可能性があり、特に大阪平野、奈良盆地、京都盆地、徳島平野、濃尾平野(名古屋市付近)の広い地域で速度50〜100カイン(cm/s)、最上部振幅1m以上の揺れが予想されている。特に東大阪市では南北方向に地面で2m・30階建て高層ビルで2.5m、大阪市舞洲では地面1.5m・30階1.9m、名古屋市の愛知県庁付近で東西方向に地面30㎝・30階40㎝揺れるとする。· 2012年1月の地震調査委員会の公表によれば、マグニチュードは8.4前後、地震発生確率は10年以内は20%程度、20年以内は60%程度、30年以内は90%程度である。
2024年06月17日
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12「日本国憲法公布」・11月3日・日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう、旧字体:日本國憲󠄁法、英: は、現在の日本の憲法。国家形態および統治の組織・作用を規定する。民定憲法として1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。日本国憲法第10章により、同憲法は日本の法体系における最高法規に位置付けられる。昭和憲法(しょうわけんぽう)、あるいは単に現行憲法(げんこうけんぽう)とも呼ばれる。他の多くの国の憲法と同じように、硬性憲法であり人権規定と統治規定を含む。また象徴天皇制や間接民主制、権力分立制、地方自治制度、国務大臣の文民規定が盛り込まれ、加えて戦力放棄、刑事手続(犯罪捜査・裁判の手続)についての詳細な規定等もなされている。1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。 GHQは、占領以来半年、日本の天皇制がいかに根強いものであるかを知り尽くしており、もし天皇制を廃止して共和制を実施したら大混乱をきたし、アメリカの占領統治が収拾不能に陥ることは火を観るより明らかであると認識していたが、ソ連が1946年2月26日に第一回総会の開会が予定されていた極東委員会において、日本に共和制を布くことを決定させて、日本を大混乱に陥れ、それに乗じて北海道侵入を敢行しようと策動し、ソ連、中国、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどによって支持されそうな形勢が現れたという情報をつかんだ。GHQはこれを阻止するために、先手を打って日本の憲法を早急に改正し、天皇の権能を全面的に剥奪して、極東委員会に対しては、日本の民主化は完全に終わり、あえて共和制を布く必要はないとの了解を求め、他方、日本国民に対しては、象徴天皇の名称を憲法に残すことによって、天皇制は存続され、日本の国体は変革されない、と納得させる以外に手はないとの結論に達した。マッカーサー元帥の命令によってわずか1週間で作成された英文の民政局草案を骨子として、連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で、徹夜して1日半で「憲法改正草案要綱」を作成した。民政局草案を起草したのは、民政局長のコートニー・ホイットニーと民政局員のマイロ・ラウエルを中心としたアメリカ人スタッフである。その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、枢密院が10月29日に新憲法案を可決、改正が成立した。極東委員会は1946年10月17日、「日本の新憲法の再検討に関する規定」の政策決定を採択していたが、吉田内閣及び昭和天皇は1946年(昭和21年)11月3日、公布文の上諭を付したうえで日本国憲法を公布した。上諭文は10月29日の閣議で決定し、10月31日昼に吉田総理が上奏し裁可を得た。朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。同憲法は明治憲法と異なり、内閣は憲法・法律の規定を実施するための施行令(政令)を制定することが規定されていた。〔内閣の職務権限〕第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。…六、この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。…新憲法は第100条の規定により、公布から6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。個人の尊厳という日本国憲法の目的を達成するため国民主権の原則を採用し、国民主権に基づいて象徴天皇制を定め、さらに基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。2017年現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である。2004年(平成16年)10月3日には、施行期間が20973日に達し大日本帝国憲法の施行期間(20972日)を追い抜いた。日本国憲法は、当用漢字表と現代かなづかいの告示より前に公布されたもので、原文の漢字表記は当用漢字以前の旧字体であり、仮名遣いは歴史的仮名遣である。原本は国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている。日本国憲法をブルジョア憲法(資本主義憲法)の一種と分類する学者もいる。日本国憲法の理念・基本原理日本国憲法の理念日本国憲法の三つの基本原理(詳細後述)の根底には、「個人の尊厳」(第13条)の理念があるとする学説がある。樋口陽一の1992年の著述では、ジョン・ロックの思想(国民の信託による国政)では人権思想の根もとには個人の尊厳があり、ロックの思想によれば日本国憲法の三大原理の根底に個人の尊厳の理念がある、とされている。
2024年06月17日
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11「第二次農地改革」10月21日・第二次農地改革・一般には、第二次世界大戦後、日本が連合国軍の占領下に置かれた際に、占領政策の重要な一環として実施された「農地改革」(1946~50)をさす。 戦前、日本農業は日本の資本主義経済にとって重要な地位と役割を有した。1940年(昭和15)段階においても、農業就業者は全就業者の41%、農林水産業は全国民所得の24%を占めていた。農業では、農家一戸当り平均経営耕地面積約1ヘクタールと零細農民経営が圧倒的であり、農家の半分は賃労働を主とした兼業農家だった。全耕地の半分は小作地であり、70%の農家は大なり小なり土地を借りる小作農民だった。小作農民は、小作地について収穫米の半分に達する高額現物小作料を徴収され、農業所得では最低限の生活を維持することさえ困難で、生活は貧しく、高利負債にあえぐ者が多かった。農業では生きていけない農民は子女も含めてその多数が低賃金で出稼ぎし、生活を補った。ここでは、零細農民経営、とりわけ高額小作料を負担する小作農民経営から低賃金労働力が生み出され、逆に、その賃金が農家所得を補充することによって零細農民経営と高額小作料が維持存続されるという相互規定関係がみられた。これによって、日本の資本家は農村から低賃金労働力を豊富に調達しえたし、またそれを有力な武器として対外市場を拡大し、アメリカ、イギリスなど先進資本主義国との対立を激化し、やがて戦争へと突入した。 連合国による対日占領の実権は資本主義超大国=アメリカが掌握したが、アメリカとしても、日本が農村を基盤とする低賃金を武器にふたたび脅威を及ぼすことを防止する必要があった。また、対日占領を開始してまもなく、中国や朝鮮で共産主義勢力が急速に勢力を増して政権を掌握していくが、その際、徹底した土地改革による広範な農民の支持の獲得がてことなっていた。また、日本国内でも、生産の著しい低下のもとで、労働・農民運動が高揚し、徹底した土地改革が要求され、共産主義勢力の伸長と相まって政治的危機が進行していた。こういった内外の諸条件に支えられて、地主制度の解体による自作農の広範な創出を目ざす農地改革が、占領政策の重要な一環として断行されることとなった。 農地改革遂行のための法律は、「自作農創設特別措置法」と「農地調整法改正」であり、1946年(昭和21)10月に公布された。それは、同年6月の対日理事会で提案・採択されたイギリス案を骨子としたものである。 そのおもな内容は次のとおりである。[1]不在地主の小作地はすべて、在村地主の小作地は、北海道4ヘクタール、都府県平均1ヘクタールを超える部分を国が買収する。[2]農地の買収価格は、田は賃貸価格の40倍(10アール当り平均750円)、畑は48倍(平均450円)とし、農地証券で支払う。[3]国は買収農地を小作人に直接売り渡す。その際、小作農は24年年賦の低利資金の融資を受けることができる。[4]農地の買収・売渡しを二か年で終える。[5]農地の買収・売渡し計画の立案・審議、紛争処理の機関として地方自治体に農地委員会を置く。市町村農地委員会は小作5、地主3、自作二の委員構成とし、階層別選挙により委員を選出する。[6]小作料は定額金納とし、最高小作料率は収穫物価額の25%(田)、15%(畑)とする。[7]小作農が「信義に反した行為」をするなど「正当の事由」がない限り、地主はかってに賃貸借契約を解除することはできない、などである。 すでに1920年代以降、小作争議が激化し、さらに戦時に入って社会平和と農業生産力増進の必要が強く叫ばれるようになった段階に、自作農創設政策は登場していた。また、現実には実施されなかったが、終戦直後の45年12月、占領軍とは独自に農地改革案が政府の手でつくられた(「農地調整法改正」、通称第一次農地改革案)。だが、そのいずれと対比しても、実施された農地改革は、地主的土地所有の解体とそれによる自作農の創設という点でははるかに徹底しており、その間に大きな断層が認められる。 この農地改革によって、かつての小作地(1945年で244万8000ヘクタール)の80%に及ぶ194万2000ヘクタールの農地が解放され、小作農に売り渡された(うち、買収=175万7000ヘクタール、財産税物納による「管理換」=18万5000ヘクタール)。解放農地の6割は在村地主、4割は不在地主の所有地であった。 改革前には全農地の46%、田の53%が小作地であったが、改革後(1949)にはそれぞれ13%、14%に激減した。地主保有地として残った「残存小作地」についても、小作料は低く抑えられ、小作農の小作料負担は著しく軽減され(小作料率は1950年代後半でも5~6%)、耕作権も強化された。そして、改革前には自作農は全農家の28%にすぎなかったが、改革後は55%と過半を占めるに至り、逆に、農地をまったくもたぬ小作農は28%から8%に著減し、大なり小なり農地を小作している小自作・自小作農家も改革前の41%から改革後には35%に減った。
2024年06月17日
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8「第一次吉田内閣誕生」5月22日・第1次吉田内閣(だいいちじ よしだないかく)は、外務大臣・貴族院議員の吉田茂が第45代内閣総理大臣に任命され、1946年(昭和21年)5月22日から1947年(昭和22年)5月24日まで続いた日本の内閣である。 これが旧憲法下で天皇から組閣の大命を受けて発足した最後の内閣となった。吉田茂内閣の顔ぶれは下記の通りである。内閣総理大臣・吉田茂・45代・貴族院・外務大臣・日本自由党。外務大臣・吉田茂・56代・貴族院・総理大臣と兼任・日本自由党総裁・内務大臣・大村清一・65代・内務省・初入閣。大蔵大臣・石橋湛山・50代・民間・初入閣。復員大臣・吉田茂・2代・貴族院・総理兼任・司法大臣・木村篤太郎・47代・司法省・初入閣。文部大臣・田中耕太郎・61代・民間・初入閣。厚生大臣・河合良成・15代・貴族院・・初入閣。農林大臣・和田博雄・4代・農林省・初入閣。。商工大臣・星島二郎・3代・衆議院・初入閣。逓信大臣・一松定吉・1代・日本進歩党・転任。国務大臣・幣原喜重郎・日本進歩党・日本進歩党総裁。国務大臣・上原悦二・衆議院・日本進歩党・初入閣。国務大臣・金森徳次郎・貴族院・憲法改正担当・初入閣。国務大臣・膳桂之助・貴族院・初入閣。「吉田 茂」(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 – 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。外務大臣(第 73・ 75・ 78・79 代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、および1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田と安倍晋三の2人のみである。政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学において総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人である。生い立ち1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)[注 1]に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。実母の身元はいまでもはっきりしない。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。吉田の実父と義父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった。1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した[2]。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている。学生時代少年期は、大磯町西小磯で義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科、学習院大学の前身)を卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。
2024年06月17日
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7「食糧メーデー」5月19日・食料メーデー。飯米獲得人民大会(はんまいかくとくじんみんたいかい)とは、1946年(昭和21年)5月19日に、日本の東京都千代田区の皇居(宮城)前で行われた、日本国政府の食糧配給遅延に抗議する集会であった。食糧メーデーとも呼ばれる。第二次世界大戦後の社会主義運動の高まりによって、最大で25万人が集結した。集会の開催は、太平洋戦争敗戦による食糧・衛生事情悪化と、労働力が出兵したことによる農産物の不作、流通経路の破壊、加えて前年の収穫期を襲った台風の被害によって、国の食糧配給が滞っていたことが背景にある。国民は闇市などで食糧を買い求めたが、需要過多によって価格は暴騰し、失業者のあふれる市街地は問題が特に深刻であった。東京での配給は10日に1度までに落ち、各地で「米よこせ大会」が巻き起こっていた。一方、1945年10月に徳田球一ら共産主義者が釈放されたことにより、日本共産党(以下、共産党と略記)が再結成されたほか、日本社会党(以下、社会党と略記)が支持者を急速に拡大しており、日本全体に社会主義運動の拡大の兆しがあった。ある程度の労働者の意識向上によって、米国式の民主主義を植えつけようとしていた GHQSCAPにとっては、この段階はまだ理想的な状況であった。1946年4月10日に新選挙法による第22回衆議院議員総選挙が行われ、保守の自由党が第一党となって、総裁の鳩山一郎が社会党の閣外協力を含めて組閣の準備に入った。社会党は第三党であった。ところが、GHQ/SCAPは、鳩山を公職追放にすることを決定した。そこで自由党は吉田茂を後継に指名し、5月16日に吉田に組閣の大命が下った。しかし、この間の5月1日に日本で11年ぶりのメーデーが行われており、(主催者発表で)100万人以上の労働者が集結して民主人民政府の設立や食料の人民管理を決議していた。吉田は反共主義で知られ、社会党の協力はありえなかった。大会開催5月19日、宮城前広場に25万人が集結し、食糧要求を訴える集会を行った。労働者代表として聴濤克巳と鈴木東民などが挨拶し、世田谷区の主婦代表の永野アヤメがおんぶ姿で劣悪な食糧事情の現状を訴えた。続いて集団はデモ行進に移った。この際、共産党員の松島松太郎はプラカードに昭和天皇を批判する文言を掲げたため、大会の3日後に警察から出頭を命じられたがこれを拒否し、最終的に6月14日に不敬罪で逮捕されている(プラカード事件)。デモ隊は3つの集団に分かれ、聴濤の率いる集団は坂下門から宮城内に突入し、天皇への面会を要求したが、犬山宮内省総務課長が拒否した。そこで、聴濤らは「天皇に食糧事情改善のため、人民の総意を汲み取り、適切な指導をするように願う」旨の上奏文を犬山に渡して撤収した。別のデモ隊は、社会党の鈴木茂三郎や共産党の徳田に率いられて、総理大臣官邸の吉田茂内閣総理大臣に面会を求めた。このとき、吉田は東京大学教授の東畑精一を農林大臣に据えようと説得していたが、東畑は拒否していた。そもそも国内の食糧総生産量が人口に見合わず、戦前は台湾や朝鮮半島から輸入していたため、また外地からの復員の分、人口が増えるわけであり、満足な供給には無理があった。農民も復員してきているとは言え、今すぐに食糧が増えるわけではなく、誰が大臣になっても解決策は無かった。GHQの声明大会翌日の5月20日、GHQ最高司令官マッカーサーは「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と声明を出し、社会党と共産党を牽制した。天皇の声明昭和天皇は、5月24日に『祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならない』という「おことば」を述べたラジオ放送を行った。プラカード事件この大会の際、日本共産党員の松島松太郎が天皇の飽食を揶揄するプラカードを掲げ、不敬罪の容疑で逮捕された。天皇の特別扱いを嫌うGHQは、日本国政府に圧力をかけ、名誉毀損罪の訴追に変更させた。1946年11月の恩赦により松島は釈放されたが、松島は控訴を続けた。影響デモを「暴民」と位置づけるGHQ声明に対して組合と左翼陣営は大きなショックを受け、以後の民衆運動を萎縮させる効果をもたらした。事件の翌日、マッカーサーは首相の吉田に対して、アメリカが日本に食糧支援をすることを約束した。これにより難航していた吉田の組閣が可能になった。内閣総理大臣吉田茂は、農林大臣に革新官僚の和田博雄農政局長を据え、5月22日に組閣を終えた。また、同年は幸いなことに気候が安定し、豊作となったため、翌年以降の危機は回避された。
2024年06月17日
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7「極東軍事裁判」5月3日・東京裁判。極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。この裁判は連合国によって東京に設置された極東国際軍事法廷により、東条英機元内閣総理大臣を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて 行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告人は7名、人道に対する罪で起訴された被告人はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこのthe judgmentsを受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している[3]。詳細は日本国との平和条約第11条の解釈参照。戦犯裁判までの経緯「ニュルンベルク裁判#前史」および「国際軍事裁判所憲章」も参照アメリカの対日政策裁判方式1944年8月から終戦以降の政策方針と敗戦国の戦争犯罪人の取り扱いについて議論された。ヘンリー・モーゲンソー財務長官はナチス指導者の即決処刑を主張し、他方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した。アメリカの新聞はモーゲンソーの即決処刑論を猛攻撃し、ルーズベルト大統領も裁判方式を支持することとなった。スティムソンは裁判は「報復」の対極にあるとみなしていた。国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会アメリカ対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が設立された。さらにその下位組織極東小委員会が1945年1月に設立され、日本と朝鮮の占領政策案が作成された。戦犯裁判方式にするか、指導者の処刑方式かの検討もなされ、1945年8月9日報告書(SFE106)では対独政策を踏襲し、「共同謀議」の起訴を満州事変までさかのぼること、日本にはドイツのような組織的迫害の行為はなかったので人道に対する罪を問責しても無駄であると報告された。8月13日の会議では日本に対しても平和に対する罪、人道に対する罪の責任者を含めることが合意され、8月24日のSWNCC57/1で占領軍が直接逮捕をし、容疑者が自殺で殉教者になることを防ぐ、連合国間の対等性を保障し各国が首席判事を出すこと、判決の権限はマッカーサーにあるとされた。連合国戦争犯罪委員会による対日勧告また、1943年10月20日に17カ国が共同で設立した連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)は戦争犯罪の証拠調査を担当する機関であったが、終戦期には政策提言などを行うようになっており、オーストラリア代表ライト卿が対日政策勧告を提言し、1945年8月8日には極東太平洋特別委員会を設置し、委員長には中華民国の駐英大使顧維鈞が就任し、8月29日に対日勧告が採択された。SWNCC57/3指令アメリカ統合参謀本部がJCS1512、またアメリカ合衆国内の日本占領問題を討議する国務・陸軍・海軍調整委員会が1945年10月2日にSWNCC57/3指令をマッカーサーに対して発し、日本における戦犯裁判所の設置準備が開始された。しかし、ダグラス・マッカーサーはこうした「国際裁判」には否定的で、「57/3指令を公表すれば、日本政府がダメージを受けて直接軍政をせざるをえない、東条英機を裁く権限を自分に与えるよう1945年10月7日の陸軍宛電報でのべ、アメリカ単独法廷を主張し、ハーグ条約で対米戦争を裁くことによって「戦争の犯罪化」に反対した。GHQ参謀第二部部長ウィロビーによれば、マッカーサーが東京裁判に反対したのは南北戦争で南部に怨恨が根深く残ったことを知っていたからとのべている。スティムソン、マクロイ陸軍次官補らはマッカーサーの提言を採用せず、57/3指令の国際裁判方針を固守した。イギリスイギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、1944年9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な戦犯裁判は各国で行えばよいという考えだった。結局英国は、1945年5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、イギリス連邦政府自治省およびイギリス連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは1945年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任した。
2024年06月17日
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「総選挙婦人議員39人誕生」4月10日・総選挙婦人議員39人誕生。女性参政権(じょせいさんせいけん)とは、女性が直接または間接的に国や地方自治体の政治に参加するための諸権利のこと。かつて婦人参政権(ふじんさんせいけん)と呼ばれていた用語を現代的に言い換えた表現である。18世紀末のフランス革命で、普通選挙が実現したが、参政権が付与されたのは男性のみであった。欧米社会にあっても、社会参加は男性が行い、女性は男性を支えていればよいとの意識が強かった。女性参政権は19世紀後半にごく一部で実現したが、欧米において女性参政権が広まったのは20世紀に入ってからであった。世界初の恒常的な女性の参政権は、1869年にアメリカ合衆国ワイオミング州で実現した(ただし選挙権のみ)。1871年にフランスのパリ・コミューンで短期間ながら女性参政権が実現された。被選挙権を含む参政権の実現は1894年のオーストラリア南オーストラリア州が世界初である。女性参政権は20世紀を通してほとんどの国で認められるようになった。ヨーロッパで比較的遅いスイスでは、1971年(連邦レベル)、1991年(全土)であった。21世紀に入ってからはそれらの国々でも女性参政権が徐々に認められてきており、現在でも純粋に女性参政権を認めていない国は、サウジアラビアとバチカン市国などである。日本日本の「婦人参政権運動(婦人運動)」の中では、A 国政参加の権利、衆議院議員の選挙・被選挙権。B 地方政治参加の権利、地方議会議員の選挙・被選挙権(公民権)。C 政党結社加入の権利(結社権)。の3つを合わせ、「婦選三案」あるいは「婦選三権」と呼ばれてきた。日本における女性参政権獲得までの歴史日本で普通選挙が実現したのは、1925年(大正14年)であった。しかし、フランス革命当時の欧米と同じように、男性のみの参政権が明文化された。日本の婦人運動は、戦争の激化による中断はあるものの明治末年からの歴史を有し、女性の中には政治的権利を希求する意識が醸成されていた。明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権を求める気運が徐々に高まってくる。堺利彦、幸徳秋水らの「平民社」による治安警察法改正請願運動を嚆矢として、平塚らいてうの青鞜社結成を経て、平塚と市川房枝、奥むめおらによる新婦人協会(1919年)や、ガントレット恒子、久布白落実らによる日本婦人参政権協会(1921年、後に日本基督教婦人参政権協会)が婦人参政権運動(婦人運動)を展開。続いて各団体の大同団結が図られ、婦人参政同盟{日本婦人協会}(1923年)<理事山根キク>、婦人参政権獲得期成同盟会(1924年、後に婦選獲得同盟と改称)が結成、さらに運動を推進した。これらの運動は、戦前の日本において、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年)や、女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。1931年には婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過するが、貴族院の反対で廃案に追い込まれた。その後、市川は戦争遂行の国策に協力することで女性の政治地位向上を目指し、婦人参政権運動団体は最終的に大日本婦人会へ統合され、市川は大日本言論報国会の理事として活動した。これは戦後に市川の公職追放理由となった。1945年9月20日、沖縄戦の後からアメリカの軍政下にあった沖縄本島の収容所で行われた市会議員選挙で、女性に参政権が認められ選挙が行われた。日本本土では第二次世界大戦後の1945年10月10日幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされた。翌10月11日、幣原内閣に対して連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが行った五大改革の指令(「日本の戦後改革」を参照)には「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていた。また、終戦後10日目の1945年(昭和20年)8月25日には、市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた五項目の決議を、政府及び主要政党に提出。同年11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動を再開している。1945年11月21日には、まず勅令により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められる。次に、同年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により、女性の国政参加が認められる(地方参政権は翌年の1946年9月27日の地方制度改正により実現)。1946年(昭和21年)4月10日の戦後初(かつ帝国議会最後)の衆議院選挙(第22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生する。そして、同年5月16日召集の第90特別議会での審議を経て、10月7日に大日本帝国憲法の全面改正案が成立し、第14条の「法の下の平等」で女性参政権が明確に保障された日本国憲法が同年11月3日公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
2024年06月17日
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5「片岡仁左衛門一家殺害事件」3月16日(かたおかにざえもん いっか さつがい じけん)は、1946年(昭和21年)3月に発生した殺人事件である。1946年3月16日、東京都渋谷区千駄ケ谷で歌舞伎役者・十二代目片岡仁左衛門一家5人が殺害されているのが見つかる。殺されたのは、片岡仁左衛門(当時65歳)、その妻で元日活女優の小町とし子(当時26歳)、四男(当時2歳)、女中2人(当時12歳と当時69歳)である。5人とも頭を薪割り用の斧で殴られていた。特にとし子は頭部をめった打ちにされていた。捜査線上に浮かんだのは、殺害された女中(当時12歳)の兄・X(当時22歳)で、事件直後から行方が分からなくなっていた。捜査本部はXを指名手配。3月30日、逃亡先の宮城県川渡温泉で逮捕された。捜査によって、Xは仁左衛門宅に座付見習作家として住み込みで働いていたが、戦後間もない当時の食料事情の悪さなどから配給米を不当に搾取され、1日2食(合計米1号3勺程度)しか与えられていなかったことと、とし子との諍いや、事件直前に仁左衛門がXを「座付き作家としてセンスがない」などと罵倒したことが犯行の動機になったと伝えられている。また、Xは薪を使った炊き出しをさせられていたのに対し、夫妻は電気コンロを使って蓄えた米をたくさん食べていた。さらに事件前日にはこれまで渡していた配給米をメリケン粉に変えるととし子から告げられたうえ、夫妻と口論になって仁左衛門から「今夜原稿を書いたら出て行け!」と怒鳴られた。そしてせっかく出した原稿も「これでも作家か!」と罵倒され、憤激を抱えたままXは床に就いた。その翌日の早朝便所に行った後、薪割り用の斧につまずいた後で5人を殺害したという。そしてXは台所にあった米飯とザラメを食べ、国民服に着替えたうえ家にあった現金を盗んで現場から逃走した。Xはそれまでに精神障害の既往はなかったが、取り調べで事件当時から逃走に至るまでの記憶が欠落していることが明らかとなったため東京大学医学部精神科教授の内村祐之による精神鑑定が行われた。鑑定結果は、激しい情動のため一時的な意識障害をおこしていたことを示唆するものであった。一方内村とは別に精神鑑定を行った菊池甚一は、少なくとも2人目以降の殺人については一時的に精神病状態であったと結論づけた。1947年10月22日、Xは無期懲役の判決を受けた。求刑は死刑であり、5人を残虐な手段で殺害しており、責任能力が認められれば死刑相当の事件であった。この刑について、一般には精神鑑定により心神耗弱状態だったと認定されたためとの説が流布されているが、実際の判決では全ての行為について責任能力を肯定すべきであるとしており、内村、菊池いずれの鑑定も採用されていないし、刑法39条の適用もしていない。それにも係わらず死刑判決にならなかったのは、低栄養や片岡家における葛藤、犯行前夜からの紛争、不眠等の理由で、Xの感情が著しく興奮して安定を失っていたことを考慮したものとのことである。Xのその後については現在も明らかにされていない。
2024年06月17日
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4「天皇の神奈川県巡幸」2月19日・天皇、神奈川県巡幸。昭和天皇 焦土の街歩いた 戦前、「現人神(あらひとがみ)」とされた昭和天皇は、終戦後の1946年、「人間宣言」をし、焦土と化した国土を歩き始めた。「巡幸」と呼ばれるその「旅」の出発点となったのが神奈川だ。焼け野原から奇跡の復興へ。巡幸はまさに戦後日本の出発点ともなった。 46年2月19日午前9時、宮城(きゅうじょう)(皇居)を自動車で出発した昭和天皇一行は、昭和電工川崎工場(川崎市)を訪ねた。爆薬の原料となる硝酸や海軍向けの溶接用酸素を作っていた同工場。度重なる空襲で壊滅的な打撃を受けたが、早くも化学肥料・硫安の生産を再開していた。背広にグレーのコート姿の昭和天皇は、工員などに「なにか生活に不自由はないか」などと言葉をかけ、「あっ、そう」とうなずいた。「あっ、そう」は流行語にもなった。 県内の巡幸は川崎工場を皮切りに、日産重工業横浜工場、県庁、大口商店街(横浜市)などと続き、翌20日も横須賀の復員軍人や引き揚げ者の収容施設などを訪ねた。 明治憲法で「天皇は神聖にして侵すべからず」と神格化されたが、敗戦から4カ月余りの46年1月1日、年頭詔書(人間宣言)で昭和天皇は神格を否定。「共に在り」とした国民との距離を少しでも埋めるかのように、巡幸先の各地で話しかけた。 横浜市旭区の石川啓次郎さん(81)は、2月19日の稲荷台共同宿舎(横浜市西区)への巡幸の際、昭和天皇に話しかけられた体験を持つ。当時、西前国民学校5年生だった石川さん。学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。両手のしもやけがひどく、母親から「粗相がないように」と渡された軍手を両手にはめ、寒さに耐えながら1時間ほど待ったという。 「シーンと静かに、みんなでただお辞儀をしていた」という中、昭和天皇は石川さんの前で立ち止まって帽子を取り、「家は焼けましたか」「学校の道具は焼けなかったのか」と尋ね、石川さんは無我夢中で答えたという。巡幸で声をかけられた最初の児童となり、そのやりとりは翌日の朝日新聞などに取り上げられた。 「戦前は神ですから、昭和天皇との距離感が分かりませんでしたね。街はバラックばかりで、まだ混沌(こんとん)としていましたが、巡幸で昭和天皇を間近で見て、戦後が始まったという気がしましたね」と石川さん。児童向けの新聞に感想文を記すと、全国の同世代の子どもから手紙が届き、数カ月間返信を書き続けたという。 神奈川から始まった巡幸は、米国の施政権下にあった沖縄を除き、約3万3千キロに及んだ。55年夏の記者会見で、昭和天皇は「直接に国民を慰め、あるいは復興の努力を激励したいと思った」と動機を語っている。歴史家の成田龍一・日本女子大教授(日本近現代史)は、巡幸は「天皇への人々の感情の観測」とともに、連合国軍が最初に上陸した神奈川から始まったことで、「連合国軍と天皇との関連を可視化させた」と見る。維新期の明治天皇の巡幸と同じく、「体制安定への天皇の関与の訴えを戦後に再現した」とし、「戦後と戦前の連続性と非連続性が凝縮してあらわれた」と指摘する。 54年8月の北海道への訪問で、8年をかけた計165日の戦後巡幸を終えた。唯一、沖縄訪問の望みは生涯かなわなかった。巡幸を終える2年前の52年、日本は沖縄などを切り離したまま、サンフランシスコ講和条約の発効で、連合国の占領から独立。56年、日本は国連に加盟し、国際社会への復帰を果たす。同じ年、政府の経済白書は「もはや戦後ではない」と記した。
2024年06月17日
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3「GHQの公職追放指令」1月4日・GHQ、軍国社等を公職追放を指令。公職追放(こうしょくついほう)は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本が太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された占領政策をいい、本項で扱う。「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」を参照日本政府が1945年(昭和20年)9月2日に「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」とあるポツダム宣言第6項の宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印し、同年9月22日にアメリカ政府が「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」を発表し、第一部「究極の目的」を達成するための主要な手段の一つとして「軍国主義者の権力と軍国主義の影響力は日本の政治・経済及び社会生活により一掃されなければならない」とし、第三部「政治」と第四部「経済」の中でそれぞれ「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を規定していた。同年10月4日のGHQの「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」で警察首脳陣と特高警察官吏の追放を指令し、同年10月22日の「日本の教育制度の行政に関する覚書」及び同年10月30日の「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」で軍国主義的又は極端な国家主義的な教職員の追放を指令した。1946年(昭和21年)1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」を追放することとなった。A 戦争犯罪人B 陸海軍の職業軍人C 超国家主義団体等の有力分子D 大政翼賛会等の政治団体の有力指導者E 海外の金融機関や開発組織の役員F 満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官G その他の軍国主義者・超国家主義者上記の連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。公職追放者は公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために動静について政府から観察されていた。一方、異議申立に対処するために1947年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(1948年3月に廃止、内閣が一時担当した後に1949年2月復置)、1948年に楢橋渡、保利茂、棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になった。これは当初のアメリカの日本の戦後処分の方針であるハード・ピース路線として行われた。逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、保守勢力の議席を守ったケースも多い。GHQ下で長期政権を務めた吉田内閣時代は名目は別にして実質としては吉田茂首相とソリが合わなかったために公職追放になったと思われた事例について、公職追放の該当理由がA項からG項までに区分されていたことになぞらえ、吉田のイニシャルをとってY項パージと揶揄された。その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化し、さらに大陸では国共内戦や朝鮮戦争などで共産主義勢力が伸張するなどの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(逆コース)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わった(レッドパージ)。また、講和が近づいた1949年、再び公職資格訴願審査委員会が設置。32089人の申請が受理されたが、1950年10月に発表された第一次追放解除者は10090人に留まったこの際、石井光次郎・安藤正純・平野力三ら政治家及び旧軍人らの一部も解除されている。翌1951年5月1日にマシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めた。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われた。公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(公職追放令廃止法。
2024年06月17日
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2「天皇の人間宣言。」1月1日・人間宣言(にんげんせんげん)は、連合国占領下の日本で1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書で、正式名称は『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』(しんねんニあたリちかいヲあらたニシテこくうんヲひらカントほっスこくみんハちんトこころヲいつニシテこノたいぎょうヲじょうじゅセンコトヲこいねがフ)。「人間宣言」は当時の日本のマスコミや出版社がつけた通称。詔書内には「人間」「宣言」という文言は一切ない。詔書の後半部には「天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定した」と解釈される部分がある。その部分を指して「人間宣言」と呼ぶこともある。詔書の概要「日本の民主主義は日本に元々あった『五箇条の御誓文』に基づいていること」を示すのが、昭和天皇による詔書の主な目的だった。「人間宣言」については最終段落の数行のみで、詔書の6分の1しかない。その数行も既成事実を確認するのみで、特に何かを放棄しているわけではない。いわゆる「人間宣言」についての記述は以下の通りである。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ— 『新日本建設に関する詔書』より抜粋このGHQ主導による詔書により、「天皇が神であることが否定された」とされる。しかし、「天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であること」を否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった。起草の経緯ポツダム宣言受諾による日本の降伏から4か月余り、日本はGHQの占領下にあるとはいえ、大日本帝国憲法の施行下にあった。1945年(昭和20年)12月15日、GHQの民間情報教育局 (CIES) 宗教課は、国家ないし政府が神道を支援・監督・普及することを禁止する「神道指令」を発した。さらに、「天皇は他国の元首より秀でた存在で、日本人は他の国民より優れている」といった教説を教えることを非合法化した。しかし、天皇が皇居で執り行う神道に基づく宗教儀式(宮中祭祀)はあくまで私的な事柄とされて、禁じられなかった。占領当局は天皇自身で自分の神格を否定してほしいと期待したため、神道指令では天皇の神格について言及しなかった。自分を神と主張したことのない昭和天皇は、占領当局の意向に同意した。宮内省(後に宮内府、現在の宮内庁へ改編)は、学習院に英語教師として赴任していたレジナルド・ブライスに、占領当局が納得するような案文を練るよう依頼した。ブライスはGHQの教育課長で日本文化の中でも俳句の造詣が深かったハロルド・ヘンダーソンに相談し、二人は人間宣言の案文を作成した。· 12月23日、昭和天皇は、木下道雄侍従次長に対し、前日進講した板沢武雄・学習院教授の講義の内容について語った。板沢の講義は「マッカーサー司令部の神道に関する指令について」と題するもので、昭和天皇が語ったところによれば、最後の結びの言葉は「この司令部の指令は、顕語を以て幽事を取り扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏を以て煙を切るようなものと私は考えております」というものだった。· また、昭和天皇は、興味を引いた点について、「後水尾帝御病にて疚(きゅう)の必要ありしも、現神には疚を差上ぐる訳には行かぬと云う所から御譲位の上、治療を受け給いしこと」、「徳川氏が家康を東照宮と神格化し、家康の定めたることは何事によらず神君の所定となし、改革を行わず、時のよろしきに従う政事を行わず、遂に破局に至りしこと」、「幽顕二界のこと。謡曲の発達、君臣の濃情を言い現わせる謡曲はかえって皇室衰微の時代に発達せること。顕界破れて幽界現われたること」の3点を挙げた。· また、天皇は、23日にマッカーサー司令部の高級幕僚たちと鴨猟を行う予定であった石渡荘太郎・宮内大臣に命じて、板沢の話を高級幕僚たちにも聞かせようと考えたが、石渡がすでに鴨場へ出発していたため断念した。· 12月24日、昭和天皇は幣原喜重郎内閣総理大臣を召して、「ご病気の後水尾天皇が側近に医者を要請されたところ、医者の如き者が玉体にふれることは、汚らわしいとの理由でおみせしなかったそうだ。· 同天皇はみすみす病気が悪化して亡くなられた」という歴史的実例を挙げて、神格化の是非について暗示した。また、昭和天皇は、「(自身の祖父にあたる)明治天皇の五箇条の御誓文を活用したい」とも話した。· これに対し幣原は「これまで陛下を神格化扱いしたことを、この際是正し改めたいと存じます」と答え、昭和天皇は静かに肯定し「昭和21年(1946年)の新春には一つそういう意味の詔書を出したいものだ」と言った。
2024年06月17日
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「戦後日本の回想・S21年」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「天皇の人間宣言」・・・・・・・・・・・・・・・33、 「GHQの公職者追放の指令」・・・・・・・・・・104、 「天皇の神奈川県巡幸」・・・・・・・・・・・・・265、 「片岡仁左衛門一家殺害事件」・・・・・・・・・286、 「総選挙で婦人議員39人誕生」・・・・・・・・・317、 「極東軍事裁判」・・・・・・・・・・・・・・・・378、 「食糧メーデー」・・・・・・・・・・・・・・・・549、 「第一次吉田内閣誕生」・・・・・・・・・・・・・5910、 「小平事件」・・・・・・・・・・・・・・・・6911、 「第二次農地改革」・・・・・・・・・・・・・・7412、 「日本国憲法公布」・・・・・・・・・・・・・・7913、 「南海地震」・・・・・・・・・・・・・・・・・9614、 「昭和21年世情・社会状況」・・・・・・・・・10615、 「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・141 1、「はじめに」戦後の間もない昭和21年は瓦礫と廃墟と化した国土の再建と、衣食住の食糧難が国民に敗戦という重苦しい国民の心に大きな重荷となって死にものぐるいで、形振り構わず、ただ今日一日を懸命に生きる。闇市は全国的に乱立、大日本帝国の価値観の転倒、アメリカに追準するほか成すすべがなかった。進駐軍に媚びて物乞いまがいの誇りを捨てての生き残りであった。GHQは戦前の軍部責任執行者・政治家などを「公職追放の処分をした。所が治安・公的処理が不全になって国家運営が滞り、その後、徐々に公職に復帰させていった。国民はアメリカ的民主主義を理解して、それなりの自由主義を理解をしていった。文化芸術は思想的理由で迫害されていた左翼と言われる人々の自由な表現ができるようになっていった。左翼労働者の共産党は潜行して活動から、堂々と表面に出て活動の場を与えられ、GHQも労働者や労働組合運動を理解を持って応じていた。何より戦後日本人の娯楽の面で戦前になかった視野が広まっていったが、食料品や生活必需品は慢性的に困窮し、栄養失調に日々の食料品に闇市や闇米によって流通していった。筆者は進駐軍の脱脂粉乳を飲んだ子供の一人である。当時の食糧難の時代でも脱脂粉乳の不味さは未だに忘れられない。
2024年06月17日
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羅生門・映画・『羅生門』(らしょうもん)は、1950年(昭和25年)8月26日に公開された日本映画である。大映製作・配給。監督は黒澤明、出演は三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬。モノクロ、スタンダード、88分。芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取った。舞台は平安時代の乱世で、ある変死事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した。自然光を生かすためにレフ板を使わず鏡を使ったり、当時はタブーとされてきた太陽に直接カメラを向けるという撮影を行ったり、その画期的な撮影手法でモノクロ映像の美しさを極限まで映し出している。撮影は宮川一夫が担当し、黒澤は宮川の撮影を「百点以上」と評価した。音楽は早坂文雄が手がけ、全体的にボレロ調の音楽となっている。日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞し、黒澤明や日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。本作の影響を受けた作品にアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』などがある。2008年(平成20年)から角川映画、映画芸術科学アカデミー、東京国立近代美術館フィルムセンターの3社によってデジタル復元が行われ、2010年(平成22年)に3社に対して全米映画批評家協会賞の映画遺産賞が贈られた。あらすじ打ち続く戦乱と疫病の流行、天災で人心も退廃を極めた平安時代の京の都。荒れ果てた羅城門で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。まず、金沢を殺した下手人として盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は、山で侍夫婦を見かけた際に真砂の顔を見て欲情し、金沢を騙して捕縛した上で、真砂を手篭めにしたことを語る。その後、凛とした真砂が両者の決闘を要求し、勝った方の妻になると申し出たことから、多襄丸は金沢と正々堂々と戦い、激闘の末に金沢を倒したという。ところが、その間に真砂は逃げており、短刀の行方も知らないと証言する。次に真砂の証言が始まる。手篭めにされた後、多襄丸は金沢を殺さずに逃げたという。真砂は金沢を助けようとするが、眼前で男に身体を許した妻を金沢は軽蔑の眼差しで見据え、その目についに耐えられなくなった真砂は自らを殺すように懇願した。
2024年06月16日
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14「昭和25年の世情と社会状況」・●朝鮮戦争特需景気・特需景気(とくじゅけいき)とは、好景気の通称で何らかの社会現象など他の要因に牽引される形で、特定地域の経済が大幅に活性化することをいう。単に特需(とくじゅ・特別な需要の略)とも。特需景気は、他の地域で発生した社会現象なり事件なりに関連する形で発生する需要によってそれら必要とされる物品などの市場価値が上がり、好景気を博することではあるが、一般に特需景気として語られる過去の現象の中には、単純に特定事象のみによって発生した訳ではなく、他の要因も関連している景気上昇も含まれる。特需とされる場合の例では、他にとっては非常に経済的な損失を発生させる戦争であっても、軍需産業の側にすれば「製品を使ってもらえる良い機会」である。また直接戦争で消費される兵器関連の産業だけではなく軍事活動で需要が増大する鉄鋼・エネルギー・食料・繊維など様々な方面に国家予算が投下され、それらに関連する企業に利益をもたらす。実際の例では第二次世界大戦開戦前後において世界恐慌により冷え込んだ経済界は軍需景気を期待した(→大戦景気)。特需景気の問題ただ特需景気に軍需景気にしろ一過性の好景気に過ぎない場合がほとんどであるため、この特需の間に収支や設備関連への投資の健全化や関連産業の育成といった産業界の姿勢が無い場合には、特需終了直後に没落するケースも発生、更なる社会的混乱を誘発する傾向も見られる。こと特需に当て込んで無目的なまでの増産にのみ注力した場合では、需要後退後に拡大させた生産設備を持て余し、結果的に産業全体が立ち行かなくなる場合すらみられる。また特需景気の傾向として、急速に需要が増大するために労働者の募集や産業体制の充実が間に合わず、しわ寄せが労働者に行き易い傾向が見られる。急激な増産により労働者の労働時間が急激に増加したり、あるいは老朽化した危険な設備での増産を余儀なくされた結果、安全確保が後回しになる傾向を含むためである。こういった問題は社会全体にも及び、発展途上国では児童労働の蔓延といった問題も見られる。戦争と特需朝鮮戦争では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領時下の日本を中継基地とした米軍が日本で物資調達のために大量の米ドルを投下したため、多大な利益をもたらした。これを指して朝鮮特需という。ただ、これは第二次世界大戦で産業レベルが一度徹底的に後退した(どん底)であった日本の復興期でもあり、単純に朝鮮戦争による米軍が日本に落としていった米ドルの力だけではないともみられている(→朝鮮特需参照)。しかし敗戦国で多大な戦時負債を抱えた日本経済が、急激に回復する一助ともなっていた部分があり、この特需は高度経済成長の足掛かりともなった。しかしこの特需で真に潤ったのは一部財界のみで、この当時はまだ特需の利益が労働者にまで還元されてはいなかった様子もうかがえ、当時の日本国民に於ける1日摂取カロリー量は、特需の期間中でも伸びは余り芳しくない。さらに注意すべきは、当時の日本は莫大な占領軍経費を「終戦処理費」の名目で負担していたことである。1952年(昭和27年)までの占領総経費は47億ドルとも言われ、朝鮮戦争特需の売り上げに相当する額を政府会計から米軍に支払っていた。すなわち、米軍から日本企業への支払いを日本政府が負担したに等しい。なお、朝鮮戦争は国際的な物品不足をもたらしたため、輸出を伸ばした国が見られた。たとえば、西ドイツは、朝鮮戦争により輸出を大幅に伸ばした。流行と特需・日本バブル景気の頃より様々な流行が見られたが、この流行の陰で世界各地で特需景気を巻き起こしている。例えばナタ・デ・ココやハバネロは日本で大流行を見せた食材だが、これの産地が特需景気に沸いている。しかしナタデココブームでは、急激に流行していつのまにか消え去ったブームのせいで、ブームを当てこんだ業者の中には倒産を余儀なくされた所も出たとする話も漏れ聞かれる。また鳥インフルエンザが社会問題として取り沙汰されると、タミフルの個人輸入が増大、一頃は日本円換算で薬価の10倍の価格(医者で処方してもらった場合と個人輸入代理業を仲介させた場合の比較)が付く場合もあるにも関わらず品薄状態が続いていると2005年(平成17年)11月22日の読売新聞が報じている。この他、2011年(平成23年)~2012年(平成24年)にかけて実施されたアナログ放送終了の直前には、薄型テレビやデジタルチューナーの特需が見られた。特に薄型テレビはエコポイントが大幅減少される直前の2010年(平成22年) 11月にかけて、大幅な需要の増加がみられた。
2024年06月16日
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13「貧乏人は麦を食え・池田外相」12月7日・池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 – 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚、全日本居合道連盟創立者と初代会長。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第56・代)、通商産業大臣(第2・7・56代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした。生い立ち広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・うめの間に7人兄弟の末子として生まれた。旧制忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格となる。一高を受験するが2度落第、五高を経て京都帝国大学法学部卒業。大蔵官僚時代・挫折と生命の危機の克服京都帝国大学法学部卒業後、高等試験をパスし1925年、同郷の政友会代議士・望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省。入省同期は山際正道、植木庚子郎、田村敏雄など。大蔵省の中枢は当時からすでに東大出身者で固められており、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流であった。本来ならば地方の出先機関の局長や税関長止まりというキャリアで、入省後は相場の通り地方を廻る。1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった。宇都宮税務署長を務めていた1929年、当時不治の病といわれた難病の落葉状天疱瘡を発症して大蔵省を休職、休職期間が切れたため1931年に退職、以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で、栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈み、出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いであった。少しよくなりかけた頃、四国巡礼をする。闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、1934年に奇跡的に完治する。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる。再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定したが、挨拶を受けた秘書課長の谷口恒二や松隈秀雄から復職を薦められる。同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職した。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。財政家として基盤の形成復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、野間清治や根津嘉一郎の遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる。当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻り、しばらくは重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされたが、1941年、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となる。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。丁度太平洋戦争と重なり、賀屋と共に、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金となり、国家財政は事実上の破綻に至る。1942年、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)。1944年、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長。出世の遅れに嫌気が差し、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが、母親に猛反対され断念した。1945年2月に主税局長となり、出世の遅れはここでほぼ取り戻した。初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった。この頃、家族を埼玉県春日部市に疎開させる。5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散した。主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移っており、同所で終戦を迎える。終戦後、池田は戦後補償の担当者だったといわれ、軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴いGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした。戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み、1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。
2024年06月16日
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12「鳴尾事件」9月5日・鳴尾事件(なるおじけん)とは、1950年9月9日に兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)の鳴尾競輪場(後の甲子園競輪場)で起こった騒擾事件。事件の舞台となった鳴尾競輪場は、この事件直前の9月3日に関西地方を直撃したジェーン台風により、メインスタンドや投票所の屋根が吹き飛ばされるなど、施設に大きな被害が出た。このため主催者側では明石競輪場で代替開催する事も検討したが、災害救援レースと銘打ち、収益の全てを災害復興資金に充てる事で開催に踏み切った経緯があったのだが、結果的にこれが裏目に出た。1950年9月9日、午後4時50分に発走した第11レース(B級選抜、距離2000メートル)は、実用車を使用して9車立てで行われた。490メートル付近(当時は500mバンク)で、ある本命視されたN選手(『競輪三十年史』の表記ではイニシャルだが、『近畿競輪二十年史』では実名で表記されている)より、クランクピンが緩んだのでレースをやり直したいと審判員に申告があり、N選手自らはコースを離れてスパナで緩んだピンの締め直しを行った上でレースに復帰した。既にレース中から観客からはレースのやり直しを求めて罵声や怒号が上がっていたものの、レースは中断されずに継続され成立し、結果として1着6番、2着1番で払戻金が11820円(的中車券216枚)の万車券となった。審議結果の発表前より一部のファンが走路に押し込み審判台周辺で警察官などと押し問答を繰り返していたが、場内に「原因は対象選手の手落ちによるもので、同選手を1ヶ月の謹慎処分とする」旨と、「第12レースの発売を開始する」というアナウンスが流れるや否や、自転車が故障したN選手の責任で済まそうとしたことに納得いかなかった400〜500名のファンが罵声で叫びつつ金網を破って走路内に侵入して騒ぎ出したことで、これ以上の開催継続は困難と判断した主催者側は、第12レースの開催中止と車券の買戻しを発表し、事態の沈静化を図った。だが、一部のファンは収まらず、待機中の消防車をひっくり返してガソリンを抜き取り木造のスタンドや払戻所4か所に放火した。さらに、車券売場を目掛けて投石し窓ガラスを全て破壊した上で金庫付近にも押しかけ投石、破壊、掠奪など悪質な暴行を行い、終いには穴場に入った一群が800万円もの大金の入った秘密金庫をも強奪せんと迫ったことから、事務所内に僅かに残っていた警察官は、現金強奪を図る暴徒に向けて威嚇射撃を行ったものの、ファン1名がその流れ弾に当たって死亡したため、騒乱は最高潮に達した。最終的に、観客のうち約5千名(当日の観客は1万人超)が暴徒と化した。丁度この頃、応援に駆けつけた600名の警察隊やアメリカ陸軍のMP数名が到着して鎮圧を開始、催涙弾2発を発射して暴徒を場外に退散させ、騒乱の扇動者や事務所に放火した多くの観客を逮捕するとともに、場内に留まっていたファンの場外への誘導に務め、騒乱発生3時間後の午後8時にようやく沈静化した。ただ、正門付近で頑張る1500名が不穏な形成を見せたことで、警官隊は夜9時半より検挙を開始、約250名を逮捕した。事件の影響事件直後より、新聞紙上では「競輪を廃止せよ」の論調一色となった。このため、9月14日に通産省は鳴尾競輪場での開催中止を指令するとともに、各競輪場の施設改善や騒乱発生防止対策の導入を指示したが、既に世論は政府にまで達しており、当時の吉田茂首相が関係閣僚と会見して競輪廃止の方針を確認した上、閣議了承するに至った。この結果、9月16日からの全国一斉の2ヶ月間の開催自粛を決定するとともに、政府内で競輪存続の是非を検討したが、最終的には競輪存続が決定した。しかしながら、世論では引き続き競輪廃止論が収まらなかったため、選手の資質の改善や開催方法の見直し、施設改善などの運営方法の改善を図るなどして競輪再開への環境整備に努め、11月15日に開催再開された。1951年、日本共産党より競輪廃止法案が提出され、大差で否決されたものの、引き続き諸制度の見直しを行った。なお、騒乱の舞台となった鳴尾競輪場は、甲子園競輪場と名称を改めるなどして、同年にレースを再開した。また、この事件をはじめ、各地の競輪場や競馬場で発生した騒乱事件や、ギャンブルを社会悪と見る風潮から1955年には、当時の河野一郎農林大臣が「公営ギャンブルの開催は土日に限定させるべき」という談話を発表し、事件の印象が強く残る関西地方の競輪場では、豊中競輪場や神戸競輪場、明石競輪場を始め、収益が好調であった大阪市の2競輪場も閉鎖されるなどの影響が出た。事件以前は競輪を「きょうわ」、「きょうりん」と発音していたが、鳴尾事件が発生した時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、事件以降は「けいりん」に改められた。さらに、鳴尾村は上述のようにジェーン台風による被害を受けて財政的に厳しい状態となっていたが、この事件で競輪の収益が断たれたこともあって危機的な状態となり、翌1951年4月1日に西宮市へ編入された。なお、この鳴尾事件の顛末と、その後の開催自粛、競輪廃止論から再開に至るまでの経緯は、『競輪三十年史』のp.172 – 189にかけて詳細な記述がある。その他事件の発端となったクランクピンの緩みは、本来競走向きではない実用車(一般の商用タイプの自転車)を競走に使用していることから、この事件が発生する前から何度か発生していたといわれる。このため、事故報告書においては、自転車のクランクピンの材質に問題があり、弛緩防止のための材質変更などを防止策の一つとしてあげている。
2024年06月16日
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11「ジェーン台風」9月3日・(昭和25年台風第28号、国際名:ジェーン)は、1950年(昭和25年)に主に強風により近畿地方や四国地方などに大きな影響を与えた台風である。1950年8月30日、硫黄島の南西海上で台風第28号が発生。当時の日本はアメリカの占領下にあり、気象業務も米軍と共同で行われていたため、番号ではなく、アメリカ式に「ジェーン台風」と呼ばれた。1950年は暖候期を中心に台風の発生緯度が比較的高く、ジェーン台風も高緯度で発生している。最盛期は、中心気圧940ヘクトパスカル、最大風速50m/sであった。台風は、9月3日10時に、徳島県日和佐町(現美波町)付近に上陸した。その後、台風は淡路島付近を通過し、12時頃神戸市垂水区付近に再上陸した。その後、若狭湾へ抜け、日本海へ進み、9月4日4時頃、北海道渡島半島南端に再上陸した。台風は北海道を縦断し、オホーツク海へ抜けた。台風による影響は、降水による影響よりも、強風による影響の方が大きかった。四国・紀伊半島の沿岸では35m/sの暴風が吹いた。また、近畿・北陸・東海では30m/sの暴風が吹いた。和歌山では、最大風速36.5m/s、最大瞬間風速47.2m/sを記録した。神戸海洋気象台でも、最大瞬間風速40m/s以上となったが、計測器の破損により、一時欠測となった。大阪湾では、台風の強風による吹き寄せで高潮が発生し、船舶に被害が出たり、多くの家屋が浸水したりした。被害死者 – 398名· 行方不明者 – 141名· 負傷者 – 26,062名· 住家全壊 – 19,131棟· 住家半壊 – 101,792棟· 床上浸水 – 93,116棟· 床下浸水 – 308,960棟和歌山県箕島町(現有田町)では、辰ヶ浜漁港から出漁した漁船が台風に遭遇。13隻13が流出、3隻が沈没、21隻が破損。100人以上が行方不明となった。
2024年06月16日
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10「ガリレオ資金」・8月14日・ガリオア資金(ガリオアしきん)とは、 GARIOA) 、占領地域救済政府資金のこと。第二次世界大戦が終わると、アメリカ軍占領地の疾病や飢餓による社会不安を防止し、占領行政の円滑を図るためアメリカ政府がオーストリア等の占領地、そして旧敵国の占領地である日本と西側ドイツに対して陸軍省の軍事予算から支出した援助資金である。例外として朝鮮にも割り当てている。この資金は、1947年度からは正式に陸軍省予算から計上され、1951年度まで続いた。一般的に、食糧・肥料・石油・医薬品など生活必要物資の緊急輸入という形で行われ、これらが国内で転売換金されることで資金としての性格を持った。なお、1946年7月より よる陸軍救済計画として実施された支出については、後にプレ・ガリオア資金と呼称され、返済等についてガリオア資金と同等の扱いをうけた。西ドイツでは、1948年7月のアメリカとの協定で見返り資金[1]として利用することを義務付けられた。特にガリオア資金の場合、別勘定とすることは資金を被援助国の債務として保全する意味も持った。一方日本では、当初は貿易資金特別会計[2]に繰り入れられ、貿易の補助金として日本政府の裁量で運用されていたが、1949年からはドッジ・ラインの枠組みの中で西ドイツと同様に見返り資金としての計上を義務付けられた。対日援助額は、1946年度から1951年度までの累計で16億ドル弱であり、占領地域経済復興資金 と合わせて18億ドルである。西ドイツは、1953年に33.178%の返済率のもとで資金返済に関してアメリカと協定を調印した。日本は、アメリカとの断続的な交渉の上で、1962年に西ドイツの返済率にならって約5億ドルの返済協定を調印した。
2024年06月16日
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9「レッドパージ始まる」・7月24日・レッドパージは、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。中国大陸では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。民間情報教育局(CIE)教育顧問のW.C.イールズが1949年7月19日に新潟大学の講演で「共産主義の教授は大学を去るのが適当」と演説し、以降各地の大学で同様の演説を行った(イールズ声明)。1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日に徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放し、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の日本共産党幹部について、団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の日本共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。こうした流れのなかで、マッカーサーは数次にわたり吉田首相に対し「共産分子の活動に関する書簡」を送付。各報道機関は1950年7月28日から書簡の趣旨に従い社内の共産党員、同調分子らに解雇を申し渡し始めた。初日の解雇数だけでも朝日新聞社72人、毎日新聞社49人、読売新聞社34人、日本経済新聞社10人、東京新聞社8人、日本放送協会104人、時事通信社16人、共同通信社33人に及んだ。さらに同年9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放(解雇)が行われていった(なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放がほとんど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった)。当時の日本共産党は1月のコミンフォルム批判(平和革命論を否定)により、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。公職追放の指令それ自体は1952年のサンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる。なお、1950年にはアメリカ合衆国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた。この一連の動きも含めた全てをレッドパージと呼ぶ場合もある。詳細は赤狩りの項を参照。裁判また、雇用主を相手取った訴訟は、主権回復前の1952年4月2日の共同通信事件の最高裁決定で報道機関に対するレッドパージが、そして主権回復後の1960年4月18日の中外製薬事件の最高裁決定でも重要産業に対するレッドパージが、いずれも「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」として原告敗訴となり、以降の関連訴訟の判決の判例となっている。1950年に電気通信省、旭硝子、川崎製鉄で追放解雇・免職にされた3人が、思想・良心の自由に対する侵害であるとして2004年に人権救済を申し立てた事をきっかけに、2008年現在、70人により同様の申し立てがされている。なお3人については2008年、日本弁護士連合会より救済勧告、後に神戸地方裁判所に国家賠償を求める訴訟を起こす。原告側は「報道機関や民間重要産業でのレッド・パージについてGHQは示唆したが指示まではおらず、日本政府が主導した」と主張したが、裁判所はこの主張について「示唆と受け取れるGHQ文書もあるが、実際はGHQの指示で日本政府には従う義務があった」とし、その上で「レッドパージはGHQの指示による超憲法的な措置で、解雇や免職は有効」と従来の判例を踏襲して2011年5月26日に請求を棄却。二審の大阪高等裁判所も、2012年10月24日に控訴棄却、2013年4月25日に最高裁判所第一小法廷にて上告不受理決定し判決確定した。2010年にも長崎県の7人について、同県弁護士会からの救済勧告が出た。日本共産党は神戸訴訟上告棄却・不受理について「日弁連も勧告を出しているように、日本国憲法第19条が保障する思想・良心の自由を蹂躙する人権侵害であり極めて不当なもの」とする抗議談話を発表した
2024年06月16日
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8「総評結成」7月11日日本労働組合総評議会(にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい)は、かつて存在した日本における労働組合のナショナルセンター。略称、総評(そうひょう)。日本最大の全国的労働組合中央組織だった。第二次世界大戦の日本敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の保護と育成の下に再出発した日本の労働運動は経済・社会情勢を背景に急進的かつ政治的色彩の濃いもので、日本共産党も大きな影響力を及ぼしていた。冷戦の激化・GHQの方針転換に伴い、産別会議や全労連などに集約されていたそのような労働運動は行き詰まりをみせていた。一方で労働組合主義や共産党の排除、国際自由労連(世界労連から分裂して結成)加盟などを指向する運動潮流の分岐と結集が進み、そのナショナルセンターとして1950年(昭和25年)7月11日、日本労働組合総評議会(総評)は結成された。初代議長には炭労出身の武藤武雄・事務局長には都市交出身の島上善五郎が選出され、総同盟、国労、日教組、都労連、海員組合、私鉄総連など主要なナショナルセンターと単産が参加した。総評結成にはGHQの強い意向が働いており、結成大会で日本共産党排除や国際自由労連への接近を内容とする大会宣言を採択し、産別会議・全労連とは一線を画する労働組合として出発した。GHQの援助の下、反共的色彩の強いナショナルセンターとして出発した総評であったが、翌1951年3月の第二回大会で行動綱領として平和四原則を決定し、国際自由労連に加盟する議案を否決するなどして、早くも左傾・反米へと方向転換した。吉田内閣の国家公安保障法(後に破防法として成立)、集会デモ取締法、ゼネスト禁止法、労働三法改正の成立を図ったことに対しては、1951年6月に「労働法規改悪反対闘争委員会」(労闘)を設置し、国会審議中の1952年には政治ゼネストを4波にわたって行った(労闘スト)。加盟単産も日本炭鉱労働組合連合会(炭労)と日本電気産業労働組合(電産)を筆頭に戦闘的な争議を展開した。この変化を、当時のマスコミは“ニワトリからアヒルへ”と呼んだ。一説に、これは総評の変化を当時のGHQ労働組合担当者が、“チキン(臆病者)が役立たず(レームダック)になった”と罵ったのを通訳が理解できず、「アヒルになった」と直訳したからという。1952年7月の第3回大会では右派の国際自由労連一括加盟案が否決され、左派社会党への支持を決定して左派路線を明確にした。人事においても電産委員長の藤田進が新たに選ばれ,高野実が事務局長に再選され民同左派の主導権が確立した。一方、右派は役員を出さず、総評内の左右の対立は深まっていった。1952年12月、全繊同盟・海員組合・全映演・日放労の4単産は総評指導部の政治闘争を重視した指導を批判する「総評批判――民主的労働組合の立場に立って」の題する声明を発表し、右派系組合と執行部の確執が表面化した(4単産批判)。両者の対立は解消されることなく第4回大会を経た1953年7月から11月にかけて日放労を除く右派系の3単産は相次いで総評から脱退し、右派ナショナルセンターである総同盟(1951年6月再建)と1954年、新たな連絡協議体として全日本労働組合会議(全労)を結成した。一方で総評は3単産の脱退を機に階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標に据え、第2回大会以来の路線転換を完成させた。日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めた。総評の持つ政治的影響力は絶大で、しばしば横紙破りな行動が物議をかもしたところから、「昔陸軍、今総評」などと揶揄された。この総評の左派路線形成には社会主義協会の影響があった。関係者の回想では、1950年代後半から1960年代にかけて、総評本部の専従者はほとんどが社会主義協会会員であったという。1958年2月、産別会議は2つの単産が加盟していたのみだったが、その1つの主力単産である全日本金属労働組合(全金属)が総評の全国金属労働組合(全国金属)と統合して総評へ合流し、同時に産別会議も解散した。1978年(昭和53年)には労働組合諮問委員会へ参加。1983年(昭和58年)には49単産、451万人、全組織労働者の36%が総評傘下にあり、その約7割は官公労働者だった。毎年、中立労連とともに春闘共闘会議を組織し、春闘を賃金決定機構として定着させた。1987年に発足した全日本民間労働組合連合会(全民労連。後の日本労働組合総連合会(連合))に合流するため、1989年11月に解散した。総評の政治活動を継承する組織としては、1989年9月に総評センターが作られ、さらに1992年10月には社会党と連帯する労組会議に移行。そのようにして、連合とは別の形態で社会党(のちに社民党)を支持していたが、民主党の結成後は軸足を民主党に移す動きが強まり、1997年7月に民主・リベラル労組会議に移行。1999年5月には、連合政治センターの結成に伴い、民主・リベラル労組会議も解散し、独自の政治活動に一応の終止符を打った。政治活動日本社会党支持を運動方針に明記し、日本共産党とは個別の課題で共闘するとしていた。1964年の4.17ゼネスト問題で、日本共産党がストライキに反対する方針をとった結果、一部の組合では組合内の日本共産党員に対して攻撃をかけることもあった。
2024年06月16日
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6「チャタレイ事件」6月26日チャタレー事件(チャタレーじけん)は、イギリスの作家D・H・ローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件。日本国政府と連合国軍最高司令官総司令部による検閲が行われていた、占領下の1951年(昭和26年)に始まり、1957年(昭和32年)の上告棄却で終結した。わいせつと表現の自由の関係が問われた。『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。6月26日、当該作品は押収され、7月8日、発禁となり、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、9月13日、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和27年12月10日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32年3月13日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。弁護人について被告人側の弁護人には、正木ひろし、後に最高裁判所裁判官となる環昌一らが付き、さらに特別弁護人として中島健蔵、福田恆存らが出廷して、論点についての無罪を主張した。論点· わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。· 表現の自由は、公共の福祉によって制限できるか。最高裁判決最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。わいせつの三要素A 徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、B 通常人の正常な性的羞恥心を害しC 善良な性的道義観念に反するものをいう(なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)公共の福祉「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である。」事件の意義わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。国内だけでなく、東京でのこの裁判は、のちのイギリスやアメリカでの同種の裁判の先鞭となり、書籍や映画の販売促進に効果的な手段としてみなされ、利用されるようになった。公共の福祉論について公共の福祉論の援用が安易であることには批判が強い。公共の福祉は人権の合理的な制約理由として働くが、わいせつの規制を公共の福祉と捉える見方には懐疑論も強い。補記· 出版された本のタイトルは『チャタレイ夫人の恋人』だが、判決文では「チャタレー夫人の恋人」となっている。憲法学界における表記も「チャタレー事件」「チャタレイ事件」の2通りがある。· この裁判の結果、『チャタレイ夫人の恋人』は問題とされた部分に伏字を用いて1964年に出版された。具体的には該当部分を削除し、そこにアスタリスクマークを用いて削除の意を表した。1996年に新潮文庫で、伊藤の息子伊藤礼が削除部分を補った完全版を刊行した。· 伊藤は、当事者として体験ノンフィクション『裁判』を書いた。『チャタレイ夫人の恋人』は、1973年に羽矢謙一が講談社文庫で完訳を刊行した。· 宮本百合子は『「チャタレー夫人の恋人」の起訴につよく抗議する』を発表した。
2024年06月16日
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5「朝鮮戦争勃発」・6月25日・朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(南朝鮮、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争。1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した。分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側社会主義陣営諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されていない。2018年4月27日、板門店で第3回南北首脳会談が開かれ、2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表されたが、実現には至っていない。第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国はカイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表した。1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて米英中ソ四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された。1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍(赤軍)は8月13日に当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸していたが、同じく連合国を構成していたアメリカ合衆国は、1945年4月12日に大統領に昇格したハリー・S・トルーマンの反共主義の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し連合国に降伏、朝鮮は解放された。しかし8月24日に平壌に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領、既存の朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施した。一方、朝鮮半島南部では、9月8日に仁川に上陸したアメリカ軍が朝鮮建国準備委員会を解体した後、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を開始。朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたまま、朝鮮半島内で抗日運動を行っていた人士や海外から帰国した左翼と右翼が衝突する連合国による軍政を迎えた。その後、米ソ対立を背景に1948年8月15日、南部に大韓民国が建国され、翌9月9日に残余の北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年建国の中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢だった。 武力統一支配(赤化統一)を目指す金日成率いる北朝鮮は1950年6月、中国の指導者である毛沢東と、ソ連のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、事実上の国境であった38度線を越えて侵略戦争を起こした。侵略を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、カナダ、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦。北朝鮮側にソ連が参戦すると米ソ間で第三次世界大戦が起こりかねないので北朝鮮側には抗美援朝義勇軍(実態は金日成に韓国侵略を許可した中国人民解放軍)が加わった。ソ連は武器調達や訓練などで支援したほか、戦闘パイロットを秘密裏に参戦させた(後述)ので実際は微妙に米ソ衝突していた。北朝鮮が意図的に起こしたため、「代理戦争」や「内戦」と表現する者には、韓国内において親北だと批判がなされている。· 本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。· これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。朝鮮戦争時に日本が果たした役割
2024年06月16日
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4「山本富士子・第一回ミスに選ばれる」・4月22日・山本 富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )は、日本の女優。本名は同じ。愛称はお富士さん。身長159㎝。1931年(昭和6年)、大阪市西区立売堀(いたちぼり)生まれ[2]。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。自宅が進駐軍に接収されたため引越し、大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)から京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)に転入し、1949年(昭和24年)卒業。1950年(昭和25年)、読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。この時の審査や授賞式の模様を伝えた白黒ニュースフィルムが現存する。1951年にミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローとジョー・ディマジオに会った。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトされるが、当初女優になる意思はなかった。しかしスカウトが途切れず、悩んだ末、姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに、3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。1954年に『金色夜叉』、1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍した。1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。永田は一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作する。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。彼女はテレビドラマに活路を求め、『山本富士子アワー』などに主演した後、演劇に新境地を開き、2013年現在まで演劇一筋で主演を続けている。なお、五社協定から49年が経過した2012年の今も映画界には復帰していない。ただ、テレビ番組『映像美の巨匠 市川崑』(1999年、NHK)の中で、1983年に市川崑から映画『細雪』への出演依頼があったが断っている。結局、岸惠子が演じることとなったが、公開になった映画を観て、出演しなかったことを後悔したと語っている。1962年、ギタリスト・作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年9月7日に死別)。1968年、長男を出産。現在は孫もいる。2002年12月、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載。2011年11月21日、夫・丈晴のお別れの会が東京都千代田区紀尾井町にあるホテルニューオータニで開かれ、喪主を務めた。会には芸能界や政財界などから約1000人が出席した。エピソード· 実家は南大阪では知られた素封家であり、富士子たち娘の花嫁道具としてうなるほどの着物を買い溜めていた。ところが戦後、米軍用住宅として住居が洋館風だったために接収され、その中の家財道具としてそれらの着物も没収され、二度と戻ってこなかった。· その時に落胆する両親の姿を見て、富士子は「女性も手に職を持たなければ」と実感させられたという(参考文献 『私の履歴書』(『日本経済新聞』連載))。· 山本は日本銀行の就職試験をうけるも不採用となったが、後年、当時を知る日銀関係者がさる雑誌のインタビューで「適性など能力には全く問題がなかった。ただあの美貌ゆえ、男子行員達が落ち着かなくなるのではと心配されて採用が見送られた。」と明らかにした。· ミス日本に推薦されたきっかけは、父の友人だった京都市役所の広報課だった人物の薦め。米国からの支援物資の答礼使節としての大任であるとの趣旨に感動して、推薦を承諾した。· 作家の三島由紀夫は自分の小説「にっぽん製」(1953年)の映画化の時、主演する山本と会って話をした。三島はその時の山本の印象を「外見だけでなく内面も素晴らしい女性」と絶賛している。· レコード録音のため古賀政男邸にレッスンに行ったことが縁で、古賀門下の高弟・古賀丈晴と知り合う。 · この時のレコード「青春日記」は、古賀政男と古賀丈晴がギター伴奏をした。結婚について両家は大反対だった。丈晴は結核を患っており、手術が成功したら結婚をすると約束。映画『彼岸花』の撮影中、丈晴の兄から「手術は無事成功した。」との電話を受け、泣いたと語っている。
2024年06月16日
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3「二俣事件」・1月6日・二俣事件(ふたまたじけん)とは、1950年1月6日に当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で発生した、四人が殺害された事件である。逮捕・起訴された少年が地裁・高裁とも死刑判決を受けたが、最高裁が審理を差し戻した後の地裁・高裁とも無罪判決を受け、無罪が確定した。同じ静岡県内で起きた袴田事件と並ぶ冤罪事件の一つとして知られる。この事件では、当時静岡県警察の警部補であり、多くの冤罪を作った紅林麻雄による拷問での尋問と自白強要、これに基づく供述調書作成などが、同僚警官の告発書により明らかとなった。1950年1月6日、当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で、就寝中の父親(当時46歳)、母親(当時33歳)、長女(当時2歳)、次女(当時生後11か月)の四人が殺害された。父親と母親の夫妻は鋭利な刃物で多数の部位を刺傷した出血による刺殺、長女は扼殺、次女は母親の遺体の下で窒息死した。被害者宅の時計は針が11時2分を指した状態で破損し、被害者の血痕がついた犯人の指と推測される指紋が付着していた。建物周辺には被害者一家の靴と合致しない27㎝の靴跡痕があり、犯行に使用した刃物と被害者の血痕が付着した手袋が発見された。犯行現場には血痕がついた新聞が残されており、犯人は殺害した後に新聞を読んでいた可能性がある。同じ部屋にいた長男(当時10歳)と次男(当時8歳)と三男(当時5歳)及び隣の部屋にいた祖母(当時87歳)は無事で、朝に起きて殺人に気づいたという。1950年2月23日、警察は近所の住人である少年(当時18歳)を犯行当時の所在が不明であるという、犯行の証明にならない推測を理由にして本件殺人の被疑者と推測し、窃盗被疑事件で別件逮捕した。警察は自白の強要と拷問を行って、少年が四人を殺害したとの虚偽の供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。なお、この供述調書において、殺害現場の柱時計は23時に止まっており、犯行時間が23時の場合はアリバイがあることになるが、警察は、少年が推理小説マニアで、止まった時計の針を回してアリバイを作るという偽装工作が出てくるミステリ映画『パレットナイフの殺人』を見ており、近くで当該作品が上映されていることなどの傍証を積み上げてアリバイを否定した。1950年3月12日、検察は少年を強盗殺人の罪で起訴した。少年を尋問した紅林麻雄警部補は拷問による尋問、自白の強要によって得られた供述調書の作成を以前から行っており、幸浦事件や小島事件の冤罪事件を発生させている。本事件を捜査していた山崎兵八刑事は読売新聞社に対して、紅林麻雄警部補の拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造を告発した。法廷では弁護側証人として本件の紅林麻雄警部補の拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造、および、紅林麻雄警部補が前記のような捜査方法の常習者であり、県警の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があると証言した。県警は拷問を告発した山崎刑事を偽証罪で逮捕し、検察は精神鑑定(名古屋大学医学部の乾憲男教授による。山崎兵八は脊髄液を採取された)で「妄想性痴呆症」の結果が出たことにより山崎刑事を不起訴処分にして、警察は山崎刑事を懲戒免職処分にした。少年の無実の根拠、検察が主張する証拠の不証明は下記のとおりである。· 被害者宅の破損した時計に付着していた、被害者の血痕が付いた犯人のものと推測される指紋は少年の指紋と合致しない。· 少年の着衣・所持している衣服・その他の所持品から、被害者一家の血痕は検出されていない。· 少年の足・靴のサイズは24㎝であり、被害者宅の建物周辺で検出された、被害者一家の靴と合致せず犯人の靴跡と推測される27㎝の靴跡痕とも合致しない。· 被害者一家の殺害に使用された鋭利な刃物を少年が入手した証明が無い。· 司法解剖の結果、四人の死亡推定時刻はいずれも23時前後であり(検察が主張する犯行時刻は21時)。· 少年は23時頃には父の営む中華そば店の手伝いで麻雀店に出前に来たという麻雀店店主の証言がある。裁判の経過・結果裁判で少年は、捜査段階で警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件にいかなる関与もしていない、無実であると主張した。裁判は下記のとおりの経過・結果になった。· 1950年12月27日、静岡地方裁判所は少年に死刑判決をした。少年側は無実・無罪を主張して控訴。· 1951年9月29日、東京高等裁判所は控訴を棄却した。少年は無実・無罪を主張して上告。清瀬一郎が弁護人に。· 1953年11月27日、最高裁判所は原判決を破棄。· 1956年9月20日、静岡地裁は無罪判決をした。検察は控訴。· 1957年10月26日、東京高裁は控訴を棄却。検察は上告を断念し、元少年の無罪が確定した。その後この事件では、少年の犯罪の証拠は上記の事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。またAが犯行日時に被害者宅と別の場所に所在したというアリバイがあったが、警察は無視した。
2024年06月16日
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2「共産党分裂」・1月6日・1950年問題(分裂、武装闘争路線)平和革命論批判と分裂アメリカ合衆国による日本占領が続く中、1948年の朝鮮半島で分断国家である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の成立、1945年の中国での国共内戦に勝利した中国共産党による中華人民共和国の成立などで、東アジアの緊張が高まった。「逆コース」を参照1950年1月6日、ヨシフ・スターリンが指導するコミンフォルムは、機関紙に論文「日本の情勢について」を掲載し、当時の日本共産党の野坂参三らの「占領下での革命」論(平和革命論)を批判した。これに対して徳田球一らは論文「“日本の情勢について”に関する所感」を発表して反論した(このため後に所感派と呼ばれた)。しかし中国共産党も人民日報で日本共産党を批判すると、第18回拡大中央委員会で宮本顕治らはスターリンや毛沢東による国際批判の受け入れを表明して、主流派の徳田らと平和革命論を批判した(このため後に国際派と呼ばれた。不破哲三は後に、当時はアメリカ占領軍撤退が優先されるべきと思ったと発言している)。また1950年2月には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。1950年5月には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に日本共産党と占領軍の間の大規模な衝突である人民広場事件が発生し、6月にはマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を指令した。7月には9人の共産党幹部(徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し、政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反で逮捕状が出た(後に春日正一に懲役3年の有罪判決、松本三益に免訴判決が言い渡された)。公職追放と逮捕状が出た徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、中国に亡命して「北京機関」とよばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の『クーデター的な手法』による党中央の解体」と呼び批判している。)6月25日には朝鮮戦争が勃発した。コミンフォルム論評への対応に加えレッドパージによる弾圧もあり、日本共産党は、主流派である徳田らの所感派と、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら 日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。所感派の非合法活動詳細は「51年綱領」、「中核自衛隊」、および「山村工作隊」を参照1951年2月、主流派(所管派)は第4回全国協議会(4全協)を開催し「軍事方針」を含む行動方針を採択した。この「軍事方針」はアメリカ帝国主義によるアジアでの侵略戦争を批判し、その暴力支配から日本国民を解放するため、中核自衛隊を組織しての武装蜂起、労働者の遊撃隊組織、山村工作隊による革命工作、などを掲げた。1951年4月、統一地方選では都道府県6人、市区町村489人の議員を当選させ党の強さを発揮した。1951年8月、コミンフォルムは主流派(所感派)による4全協を支持し、宮本ら国際派を「分派活動」と批判した。このため宮本ら国際派は自己批判して党に復帰し、統一を回復した。(ただし現在の執行部は、再統一は1955年の六全協と主張している。)1951年9月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印された。(日本共産党は「部分講和」に反対し「全面講和」を主張した。)1951年10月、第5回全国協議会(5全協)で51年綱領(武装闘争不可避論、武装闘争路線、暴力革命路線)と「軍事方針」を採択した。この武装方針に沿って、練馬事件、白鳥事件など様々な非合法活動が行われた。しかし、これらの武装闘争路線は国民の支持を得られず、多数の離党者を生む結果となった。また血のメーデー事件、火炎瓶事件など多数の武装闘争・騒乱事件が発生した。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになった。また、武装闘争方針により政府与党は治安立法を強化、1952年には破壊活動防止法(破防法)が制定された。破防法における破壊的団体の規制に関する調査を行う公安調査庁は、発足当初から一貫して日本共産党を主要な調査・監視対象としている。
2024年06月16日
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「戦後日本の回想・昭和25年」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「共産党分裂」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「二俣事件」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・214、 「山本富士子第一回ミス選出」・・・・・・・・・・・・265、 「朝鮮戦争勃発」・・・・・・・・・・・・・・・・・・326、 「チャタレイ事件」・・・・・・・・・・・・・・・・・577、 「金閣寺焼失」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・628、 「総評結成」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・669、 「レッド・パージー始まる」・・・・・・・・・・・・・7510、「ガリレオ資金」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8011、「ジェーン台風」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8212、「鳴尾事件」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8413、「貧乏人は飯を食え・池田外相」・・・・・・・・・・・・8814、「昭和25年の世情と社会状況」・・・・・・・・・・・12415、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141 1、「はじめに」昭和25年、朝鮮戦争が勃発、戦後復興に軍需産業の活況に日本経済は大きく景気拡大に展開する。日本も国力あった軍備を備えることを望む保守政党は憲法改正に動きを見せるが野党の強い反対で遅々として進まず、序段階の動きとして「警察予備隊公布」と「海上保安庁8000人」の増員を指示し、国体を整備をしていった。国民の娯楽は映画・ラジオからテレビの試験放送が開始され、それに伴ってプロ野球も国民的人気を得ていった。政党の編成は自由党・国民民主党など緑風会など離合集散を繰り返し、自由党と民主党が政治の基軸として国会運営がなされていった。この年、紙幣が1000円札が発行されて、国家予算の拡大の一方、人口も9000万人近く増大していった。再建日本の建設ダッシュに徐々に景気が上昇して行くのであった。
2024年06月16日
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12、「元親の逸話と評価」 幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいた。「「家督相続前」 幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいた。 初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方と大将の行動を聞いたという逸話がある。 秦泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。 そしていざ戦になると元親はその通りに行動し、敵兵を見事に突き崩し(『元親記』)、「鬼若子」と賞賛された。 一条氏の臣従時代に寺社奉行であった関係からか、熱心に寺社復興を行っており、四国統一戦の最中にも讃岐国の寺院を復興させるなど、手厚く僧侶を保護しており、谷忠澄や非有など神官・僧侶出身の者が家臣に抜擢される例も多かった。 特に非有は元親の信頼を得て出頭人として領国支配に広範な権限を行使した。「四国制圧期の逸話」 土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれた。土佐を統一した後、天正5年(1577)、阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。 住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた。 土佐統一を果たした年、37歳の若さで「雪蹊恕三(雪渓如三)」と法号を称している。 「雪蹊」には徳のある人物には多くの人が自然に帰服してくる、そして「恕三」には広く大きな心で事に処せば、前途に万物が生じるという意味が込められているという。 家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされる。 『土佐物語』では「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方に発向して軍慮を廻らし」と元親が述懐したとしている。 讃岐国の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈る麦薙戦術を行ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、一畦おきに刈取らせた。「豊臣政権下での逸話」 豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。 それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。 朝鮮出兵の際、泗川城で垣見一直に対し鉄砲狭間の高さの指導をした。 家来に対して、「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」と言っていたとされる。 土佐領内で禁酒令を出していたにも関わらず、自分自身が酒を城内へ運び込ませていたことがあった。これを福留儀重に厳しく諌められて、以後改心したという。 山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(後の春日局)を岡豊城でかくまったとされる。 後継者として期待していた信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするなど信親没後の元親は久武親直の讒言があったとしても片意地になり、それまでの度量を失っていた。 戸次川の戦いで信親が戦死した事を知り、自分も死のうと思ったが家来に諌められている。 その後、秀吉から大隅国を加増するとの話があったがこれを固辞している。 『土佐物語』などの信憑性はともかく、信親が死んで変貌する前までの元親には家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量があった。 阿波の勝瑞城攻略においては上級家臣の意見より下級の一領具足の意見を聞き入れたという。 また情け深く、妹婿の波川清宗が元親に謀反を起こして討たれたとき、弟の次郎兵衛や五郎大夫は助命した。 だが2人は兄の仇を討つため岡豊から出奔したので、家臣は2人を追討しようとしたが元親は許さなかった。 阿波白地城主の大西覚養が三好氏に寝返ったときも人質としてあった甥の上野介を殺さずに優遇したり、三好康長の子・康俊が父の誘いを受けて寝返ったときも、人質として岡豊にあった康俊の子を殺さずに丁重に送り返して康長に感謝されたりしている。
2024年06月15日
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11、「戦後の元親とその後」「元親の秀吉に降伏」 天正13年(1585)春、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。 元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず弟・羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦する。秀吉は宇喜多秀家・黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。 そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣・谷忠澄の言を容れて、7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された(四国国分)。 元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。 これを機に蜂須賀正勝・家政が長宗我部氏の取次になったとされるが、取次としての実態が不明なために疑問視する研究者もいる。また増田長盛を取次とする説もある。「豊臣政権下」 天正14年(1586)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かう。 しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した。 元親は信親の死を知って自害しようとしたが家臣の諌めで伊予国の日振島に落ち延びた。 天正16年(1588)、本拠地を大高坂城へ移転する。 その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定する。 その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興・吉良親実などを粛清し、盛親への家督相続を強行している。 天正17年(1589)ころに、羽柴の名字を与えられている。天正18年(1590)の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて参加し、後北条氏の下田城を攻め、さらに小田原城包囲に参加した。 天正19年(1591)1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋の鯨を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。 年末頃には本拠を浦戸城へ移転する。通説では洪水の多い大高坂城を元親が嫌ったからとされているが、近年では浦戸城は朝鮮出兵に備えた軍事拠点として築かれたもので、将来的には大高坂城を本拠に戻すことを前提に引き続き整備が進められていたとする指摘もされている。 また朝鮮出兵がなくとも行政機構整備は行われたとする指摘もある。 文禄元年(1592)から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。豊臣政権は諸大名の石高に応じて軍役人数を課したが、長宗我部の軍役は3000人で固定され、水軍としての軍事力を期待されていた。 慶長元年(1596)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年(1597)3月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。「最期」 慶長3年(1598)8月18日に秀吉が死去すると政情が不安定になる。 元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、11月26日に徳川家康の訪問を受けた。 その後、年末か年明けに土佐に帰国した。 慶長4年(1599)3月、三男の津野親忠を幽閉している。その直後から体調を崩しだした。 4月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在。4月23日には豊臣秀頼に謁見している。だが5月に入って重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は5月10日に盛親に遺言を残して、5月19日に死去。享年61歳。高知県高知市長浜にある天甫寺に葬られる。長宗我部元親の死後の継子は四男長兄信親天正14年(1586)の戦死後、家督と定められ、父と共に小田原攻めに、文禄・慶長の役に参戦した。慶長2年(1597)父と連名で『長宗我部元親百カ条』を発布。翌年関ケ原の戦い委では西軍に属し、美濃南山に陣したが戦わずして土佐国に帰国。徳川家康に兄の津野親忠が入れたが罪に問われ、領国を没収された。後に伏見に住み、大岩祐夢ろ号し寺子屋の師匠などで暮らす。1614年に豊臣秀頼の呼びかけに応じて、大坂冬の陣に参戦した。翌年の夏の陣では藤堂高虎と戦い敗れ、のちに橋本で捕られ、5月15日京都は六条河原で意板倉勝重に斬られた。盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた。長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫である島親典(後述)が土佐藩に下級藩士として仕えた。断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっているが、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられていた。再び長宗我部を名乗ったのは明治維新後である。元親の甥・吉良親実(元親の弟・吉良親貞の子)の子孫は肥後藩に仕え、傍系の一族は他家に仕えるか帰農して生きながらえた。この際、島姓など他の名字に改姓し、明治時代にいたって長宗我部姓に復した者も多い。
2024年06月15日
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10、「長宗我部元親の降伏」 白地城へ戻った谷忠澄は『南海治乱記』によると次のように述べて降伏を勧めた。【上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない。】これに対し元親は、『元親記』によると次のように以後の戦略を述べた。【縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。】 右同書での元親はさらに、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言い、また降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っている。 しかし忠澄を始めとする重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏した。交渉に当たっては蜂須賀正勝が仲介を務め、8月6日までには講和が成立した。講和の条件は、長宗我部氏に土佐一国安堵、長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、人質の提出、徳川家康との同盟禁止とされている。これに従い、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を割譲した。8月23日、秀長は戦後処理を終えて大坂に帰還した。「四国国分とその後」 四国平定の結果、豊臣政権によって「国分(くにわけ)」がおこなわれた。 長宗我部氏は土佐一国を安堵され豊臣政権に繰り込まれ、元親の三男の津野親忠が人質となった。 その他の3国は没収され、阿波に正勝の子の蜂須賀家政(一部に赤松則房)、讃岐に仙石秀久(聖通寺城)、うち山田郡2万石に十河存保(十河城)、伊予に小早川隆景(一部に小早川秀包、安国寺恵瓊、来島通総、得居通幸)が封じられた。 また淡路は脇坂安治が津名郡3万石(洲本城)、加藤嘉明が津名・三原郡1万5000石(志知城)に封じられた。 こうして、伊予には毛利旗下の大名、讃岐・阿波・淡路には豊臣系の大名が配されることとなった。 豊臣政権による天正13年の大規模国替えにより、検地と動員に代表される近世的統治が始まると各地で膨大な数の中世城郭が破却・整理されるとともに織豊系城郭が誕生していった。 四国を含む環瀬戸内海では播磨国明石城(高山右近)・室津城(小西行長)、淡路国洲本城(脇坂安治)・志知城(加藤嘉明)、阿波国徳島城(蜂須賀家政)、讃岐国聖通寺城(仙石秀久)、伊予国湊山城(小早川隆景)などが築城・修築され、豊臣政権による九州征伐への準備が進められた。「国分後の動向」 戦後処理の後、秀吉は惣無事令に反した島津氏他を討伐するために九州征伐を開始したが、豊後の大友宗麟救援のため仙石秀久、十河存保、長宗我部元親など四国の大名が先発で派遣された。 しかし豊臣軍は島津軍に戸次川の戦いで大敗北を喫し、秀久は戦場から逃亡、存保は戦死、元親の嫡男である信親も戦死したことによりお家騒動の原因となった。 本隊の到着により九州征伐は豊臣方の勝利に終わったが、九州国分により四国の勢力地図も書き変わることとなった。 逃亡した秀久は讃岐を召し上げられ、変わって後に生駒親正が入った。伊予では僅か2年弱で隆景が筑前へ転封となり、変わって福島正則(東部及び中部の一部)・粟野秀用(中部の一部)・戸田勝隆(南部)に入った。 後に正則が尾張に転出し、後嗣のない戸田氏が除封されると、小川祐忠(東部)・加藤嘉明(中部)・藤堂高虎(南部)・池田秀氏(南部の一部)が伊予に配置された。 一方、四国の在地勢力として伊予東部の河野通直は秀吉と敵対もせず、毛利氏と婚姻・友好関係にあったが大名として認められなかったため毛利氏に身を寄せ、家臣は領主となった隆景に従った。 伊予南部の西園寺は後に戸田氏の配下となったが後に謀殺され、後に讃岐の生駒氏の配下に繰り入れられた十河氏の勢力も次第に減殺されて弱体化していった。 これら有能な外様大名が存続したのに対して、様々な理由により豊臣政権に貢献出来ない大名達は時間とともに様々な理由で淘汰されて行くこととなった。「毛利輝元の四国出兵」 豊臣秀吉の四国攻めにより四国は豊臣体制に繰り込まれ、太閤検地と軍役動員によって四国の諸勢力は近世大名へと変貌を遂げていった。 また、秀吉の関白任官以降の基調となった惣無事の論理により、諸大名は私戦や自力救済による領土拡張を禁じられ、これを破るものは豊臣政権による制裁を受けた。 しかし、秀吉の死に伴い次第に影響力を強めていった家康に反発して関ヶ原の戦いが勃発し、一方の盟主であった輝元の手により四国諸国にも戦乱が起こることとなった。 輝元は、豊臣政権を運営する大老という名目の下に惣無事の論理を以って西軍諸将を統制・動員しつつ、一方では阿波国の蜂須賀氏に家臣を送り込んでこれを支配下に置き、さらに徳川方の伊予国を制圧すべく、豊臣政権によって廃絶された旧領主や土着勢力を動員して伊予へ出兵するなど(三津刈屋口の戦い)、まるで惣無事以前の戦国時代的な毛利氏の領土拡張の行動を取った。
2024年06月15日
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9、「秀吉の四国攻め開始」(四国の役) 事前の交渉に 秀吉はたびたび背後を長宗我部氏に脅かされたため、四国出兵を考えるようになった。 秀吉・元親とも当初は交渉による和解を模索したが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂した。 『長元記』によると、元親は秀吉に進物を贈って和解を試みたが、秀吉は讃岐・伊予の返納を命じた。元親は伊予一国を返還することで妥協を見出さんとするも秀吉は認めず、交渉は決裂した。 天正13年(1585))5月4日、秀吉は黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じ、また一柳直末には明石で待機するよう命じた。*黒田孝高」天正13年(1585)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わり、先鋒として諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退・降伏した。この頃に、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し、「シメオン」の洗礼名を与えられている。) 8日、秀吉は四国出陣の準備として、羽柴秀長に対して和泉・紀伊の船舶の数を調査するよう命じた。 また同日紀伊の国人白樫氏・玉置氏に対しても四国攻めの準備と船の手配を命じた。 これに従って秀長は翌9日、船数調査の実施と紀伊・和泉の船を同月27・28日までに紀ノ湊(現和歌山市)へ集結させることを命令している。 6月、秀吉は四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から四国への進軍を命じた。 当初秀吉は6月3日を四国出陣の日に予定していたが、越中の佐々成政がなお健在であり、また病を得たため自身の出馬を諦め、代わって弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定めた。 6月16日、秀吉は岸和田城に在陣しつつ、秀長以下の諸将を四国へ侵攻させた。 元親は、この年の春より秀吉の侵攻に備え土佐勢6000を含む2万から4万の軍勢を動員した。 5月には四国4ヶ国の境にあり各方面と連絡が取れる阿波西端の白地城に元親の本陣を置き、全軍を督戦した。 また羽柴方が阿波方面から侵攻することは長宗我部側も予測しており、阿波諸城に重臣らを配置して防備を固めていた。また讃岐でも植田城(現高松市)を築いた。 この戦いの最中の7月、秀吉は関白に就任した。以後、四国攻めは天下平定戦争の一環という色合いを強める。「讃岐」 宇喜多秀家率いる備前・美作の兵に加えて播磨から蜂須賀正勝・黒田孝高、さらに仙石秀久が加わり計2万3000(1万5000とも)の軍が屋島に上陸した。 秀家等はまず200の長宗我部軍が守る喜岡城(当時の高松城)を攻略して高松頼邑を討ち取り、香西城・牟礼城を攻略した。しかし、戸波親武の守る植田城の守りの堅さを見てとった孝高はこれを放置して阿波攻撃を優先することを主張したため、他の諸将もこれに同意して大坂越えより阿波に入り、秀長軍との合流を図った。この転進について山本は「元親の防衛策は早くも失敗したのである」と述べている。「伊予」 毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢は、3万から4万(2万5000とも)に達した。 輝元は備後三原に残り、6月下旬に三原及び安芸忠海の港を発し、同月27日に小早川隆景の第一軍が今治浦に上陸した。 続いて7月5日、吉川元長・宍戸元孝・福原元俊らの第二軍が今治浦もしくは新間(新麻、新居浜)に上陸した。 その最初の攻撃目標は宇摩・新居郡を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である金子元宅であった。 元宅は東伊予の実質的な指導者であり、長宗我部氏とは同盟関係にあった。元宅は自らは高尾城に在城し、高峠城に当時8歳の主君石川虎竹丸を置いて近藤長門守以下800余の兵で守らせ、金子城には弟の対馬守元春を配した。高尾城には土佐から派遣された長宗我部氏の援兵も籠城に加わった。*「丸山城の戦い」(まるやまじょうのたたかい)は、四国平定をめざす羽柴秀吉に伊予攻略を命じられた毛利輝元が、配下の小早川隆景と吉川元長に中国8か国の兵3万余をあたえて進発させた、いわゆる「天正の陣」の前哨となった伊予国丸山城(愛媛県西条市)の攻囲戦。丸山城の城主黒川広隆は戦わず降伏した。丸山城攻囲戦に先だって小早川隆景の四国上陸戦があったが、その際、隆景率いる軍は、海岸で迎撃しようとする長宗我部勢を巧みな用兵により打ち破って首級700余をあげたと言い伝えられている。つづいて隆景は、金子城と高尾城の攻略を企図し、天正13年(1585)7月2日。高尾城の支城丸山城を包囲した。高尾城主金子元宅は敵状視察を兼ねて30余騎を出動させたが敗走した。衆寡敵せずと判断した丸山城の守将黒川広隆は戦わずして降伏、隆景に城を明け渡した。その後、黒川広隆は小早川勢の嚮導役を命じられ、金子城・高尾城攻めに参加した。) 7月14日に中国勢は黒川広隆が守る丸山城(高尾城の出城)を攻略(丸山城の戦い)し、続いて15日から元宅と片岡光綱(長宗我部からの援軍)の籠る高尾城を包囲して17日には落城させ、元宅も討死した。 緒戦で中心人物を失った新居郡の将兵の打撃は大きかった。中国勢は続いて新居郡の高峠城を攻め、高峠城兵は石川虎竹丸を土佐に逃がしたのち野々市原(現西条市)にて迎撃、全滅した。
2024年06月15日
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「織田信長との戦いと讃岐衆の離反」 これ以降は長房による出兵にたびたび帯同した。永禄9年(1566)6月、篠原長房が阿波公方・足利義栄を奉じて四国勢を率い大和国の松永久秀・三好義継を攻めると、兄・長治と共にこれに呼応したが(東大寺大仏殿の戦い)、織田信長が足利義昭を奉じ上洛すると、阿波・讃岐へ撤退した。 元亀元年(1570)7月、三好三人衆・三好康長らが野田・福島に兵を挙げると(野田城・福島城の戦い)、存保は長房に呼応し再び畿内に上陸するが、正親町天皇の勅命により信長と和睦し、阿波・讃岐に引いている。 元亀4年(1573)3月、三好長治と険悪な仲となった篠原長房が上桜城に篭ると、同年6月、長治の命で十河存保は、阿波国の森飛騨守、井沢右近大輔、東讃の香西氏、西讃の香川氏、淡路国の兵の総勢7千人、紀伊国の増援3千人(鉄砲千丁)を率いて赤沢宗伝がいる板西城を攻め、ついで上桜城を攻め、同年7月15日に篠原長房、篠原長重を討ち取った(上桜城の戦い)。 この頃、存保は和泉国の松浦信輝を介し織田氏に通じたという説もある。しかし三好長治、十河存保兄弟は、その後も織田家と敵対している。 その後、讃岐国人らが反三好の行動を見せ始め、天正2年(1574)に十河存保は香川之景と香西佳清から連名で阿波三好家からの離反を警告される。 理由は、以前に篠原長房が東讃の有力国人であった寒川氏から大内郡を割譲したことと、三好長治の強権政治だったという。これに対し長治は讃岐に兵を出したが、大西氏、長尾氏ら他の讃岐国人までもが香西氏らに同調した上に、土佐国の長宗我部元親が阿波南部の海部城を攻撃したため、長治は阿波に撤退した。 一方の畿内では、天正3年(1575)4月、河内国高屋城と摂津国新堀城が落城、三好康長が信長に降伏した。 この時、新堀城に立て籠もっていた十河一行と香西長信が戦死している(高屋城の戦い)。これにより三好氏と十河氏は畿内の拠点を全て失った。さらに、降伏した三好康長は信長のために阿波・讃岐国人衆の調略まで開始している。 この頃には三好氏は、讃岐国人に対する支配力を完全に喪失しており、同3年、離反した香川之景は香西佳清と謀り、三好家家臣で那珂郡の奈良氏領の代官をつとめていた金倉顕忠を攻め滅ぼし、翌天正4年(1576)には香川氏と香西氏は揃って織田信長に使者を派遣し、織田氏に従属している。「長宗我部元親との戦い」 天正5年(1577)3月、阿波国で実兄の三好長治が、長宗我部元親の後援を受けた異父兄の細川真之に敗れ自害する。 また同年7月、讃岐に中国地方の小早川氏が上陸、西床城主の香川民部少輔を助け、長尾氏と羽床氏を攻めている(元吉合戦)。 これに対し存保は、三好家中から擁立され、天正6年(1578)に阿波勝瑞城に入り、阿波における三好家の勢力挽回に務めた。 以後、三好家の実質的な当主として活動したためか、署名などでは十河姓よりも三好姓を名乗ることが多くなる。 その後、長宗我部氏への抗戦を呼びかけ、讃岐・阿波の国人の大半を糾合することに成功するが、香川之景はこれに応じず、長宗我部元親の子・親和を養子として受け入れ、長宗我部家の軍門に下る。 その間、天正8年(1580)に長宗我部氏の四国征服をよしとしない織田信長は臣従するよう迫るが、元親はこの要求を拒絶する。このため信長と元親は敵対関係になる。 一方、阿波の存保は、中富川の戦いにて激戦を繰り広げるも長宗我部元親に敗北、存保は阿波と勝瑞城を放棄し、同年9月、讃岐の虎丸城に撤退した。 長宗我部軍は香川軍と合流し、総勢3万6千の兵をもって十河城を攻めたが落城させることは出来ず、冬には土佐に帰国した(第一次十河城の戦い)。同年10月、存保は阿波に再侵攻し茅ヶ岡城を攻め、細川真之を自害に追い込んでいる(ただし、長宗我部軍の讃岐・阿波侵攻と時期が被るため、真之を討ったのは元親であるとする説もある)。 その後、天正11年(1583)2月より、後世良く知られる「存保」の名乗りを用い始めるが、8月になると「三好義堅」という名乗りを用いている。 天野忠幸の研究によれば、存保の名乗りは十河一存の後継者として讃岐支配の立て直しを意図したものであったが、羽柴秀吉が自らの甥(後の豊臣秀次)を三好康長の養嗣子にして「三好信吉」と名乗らせたことに警戒感を強め、三好本宗家ゆかり(義興・義継)の「義」の字を加えて、阿波三好家や十河家ではなく三好本宗家継承の意思を表明したものとしている。 しかし、天正12年(1584)6月、十河城と虎丸城は長宗我部元親により落城、存保は大坂の羽柴秀吉(豊臣秀吉)を頼って落ち延びた(第二次十河城の戦い)。「四国征伐と九州征伐」 天正13年(1585)6月、豊臣秀吉の四国攻めに協力し、旧領である讃岐十河3万石を秀吉より与えられて大名として復帰した(四国国分)。 しかし、それは仙石氏の与力大名「十河孫六郎」としてであり、三好本宗家の継承権も阿波の領有権も否認された。 天正14年(1586)秀吉の九州征伐に従った際、軍監・仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれてしまい、島津家久との戸次川の戦いにおいて戦死した。享年33歳。戸次川の戦いにおいて「まだ(嫡男の)千松丸は豊臣秀吉に謁見していない。 自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、十河家を存続させるように」と家臣に伝え戦死した。しかし、存保の死により領地は没収された。 子として、嫡子の千松丸、存英がいる。このほかに坂東保長、豊前守長康、雅楽頭存純、村田九兵衛存継の名も伝えられるが、諸説あり定かではない。
2024年06月15日
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翌天正6年(1578)、ついに土佐の長宗我部元親の軍勢が讃岐へ乱入、香川氏の属城である藤目城が落とされた。斉藤師郷は土佐の軍門に降り、本篠城の財田常久は討死。土佐勢の勢いは止まることなく、破竹の勢いで九十九山城を攻め細川氏政を駆逐し、仁尾城主細川頼弘、天神山城主吉田兼久らも各地で討死、香川氏の諸城は次々と落ちていった。 しかし信景は十河氏からの再三の抗戦にも応じることはなかった。そして翌年、信景の弟、香川景全の家老香川備前の元へ大西頼包、先日土佐方へ降った斉藤師郷から土佐国分寺の僧が使いとして送られてきた。 その内容は早々に味方になれば本領は安堵されるというものであり、備前守はその由を景全に、さらに景全が信景へと伝えた。信景ももはやなす術もなく、それを容れ、土佐方への恭順の意を僧へ伝えると僧は元親にその旨を伝えた。 以後、不戦の約定を交わし、香川元春、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野栄久の四人の家老を二人ずつ交代で土佐へと遣わし質とする代わりに元親の次男親和を香川家に入れることで和睦が成立。ここに香川家は長宗我部家の軍門に降ることとなった。 土佐方と和睦した後、信景は岡豊へと参り元親に謁見した。長宗我部家臣中島重勝が奏者となり、進物に「長光の太刀」、「二字国俊の刀」、真綿五百把、紬百反、紅花五斤、馬一匹、その他子息簾中に至るまで各々に贈り物をし、元親も大いに喜び厚く饗応して、能乱舞などをも催させ五日間の逗留の後に帰国したとある。 それからまもなくして、元親は次子親和を多度津へ送ってきた。名を香川家の通名である五郎次郎と改め、信景の娘を嫁にして世継ぎとなった。 以後親和は讃岐方面軍の大将として転戦し、中富川の合戦の際には西讃岐勢五千を率いて参陣、十河城を攻撃した(第一次十河城の戦い)。 また、信景自身は外交によって香西氏、羽床氏らへ土佐方への恭順を説き、降伏させている。 また、引田の戦いでは秀吉の命によって十河氏救援のために渡海してきた仙石秀久の軍を大西氏と共に破った。そして天正13年(1585)、長宗我部元親は四国のほぼ全域を支配下に収めた。*「三好 康長」(みよし やすなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。阿波岩倉城主、河内高屋城主。諱は康慶ともする。剃髪して咲岩(しょうがん)と号した。三好長秀の子で元長の弟、康俊の父、三好長慶の叔父。三好政権、三好氏の一門衆で、甥に当たる宗家当主・三好長慶に従い、その弟で阿波国主の三好実休に仕えて、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。三好の本貫地である阿波を拠点とする。 永禄元年(1558)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍・足利義輝、細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸。永禄3年(1560)3月、長慶・実休兄弟の和解の仲介役を果たし、河内遠征でも実休の名代として長慶と対面した。 永禄5年(1562)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。 同年の実休の死後は拠点を河内高屋城に前進させ、他の家臣団と協力して実休の遺児・三好長治を支えた一方で、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 永禄7年(1564)の長慶の死後、三好宗家の家督は大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対して家中が分裂すると、康長は三人衆側に同調した。 永禄9年(1569)2月の上芝の戦いに参戦し、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。 しかし、翌永禄10年(1567)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出し、堺へ赴き久秀と手を結ぶ。康長と安見宗房も義継に従って久秀側へと一時的に鞍替えしたが、すぐに反目。 永禄11年(1568)2月には三人衆が担いだ14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席して、その頃には義継の元を去っている。 この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、康長・三人衆らは同年6月に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落し、9月には筒井順慶と結んで多聞山城を落とすなどして、松永勢を追い込んだ。 この頃、茶会において咲岩の法名の使用がすでに見られる。「信長包囲網」 15代将軍・足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立して、9月25日には大津まで大挙して6万の兵を進めると、大和国の制圧の途中だった三人衆の軍は背後を突かれて崩壊。国衆や公方衆の多くが織田側に寝返る中で、摂津・和泉に各々退却し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主・岩成友通が降伏。 30に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸も、細川昭元と共に城を退去して阿波に逃亡。康長は10月2日には摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びたが、同年暮れには反撃を始めて、三好政康と共に和泉家原城を攻略した。
2024年06月15日
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細川京兆家の重臣である父元景は在京し、管領の政務執行を補佐する役目にあったが、京兆家は分裂を繰り返しており、内部抗争が絶えなかった。 そこで元景は細川氏の勢力後退を好機として讃岐国内の内政に着手。自立の道を歩み始めることとなる。「善通寺合戦」 之景が讃岐香川家の当主に就いた後、管領家の実権は三好氏が握ることとなった。 天文21年(1552)には三好実休は守護の細川氏に取って代わり讃岐国内を従えようと諸将に書状を送ったが之景はこれに従わなかった。 そして永禄6年(1563)、実休(前年3月戦死)は香西元成を始め安富氏、十河氏、寒川氏など阿淡、東讃の兵八千余人を率いて押し寄せ、一宮に陣をはった。 讃岐の諸将にも参陣を呼びかけ9月18日に金蔵寺に陣を移す頃には、羽床資載、福家資顕、瀧宮弥十郎、瀧宮安資、香川行景、長尾元高、新目安光、本目正利、仲行司清左衛門、山脇久友ら中讃以西の諸将も加わりその数総勢一万八千人に及んだと伝わる。 之景は家老である香川元春、河田弥太郎、河田七郎兵衛、三野栄久らと共に天霧城に入城した。 そして、それに応じた大平国祐、斉藤師郷、香川左馬助、香川伊勢守、朝比奈弥太郎、秋山良泰、三野菅左衛門尉など、西讃各城の兵も加わり、総勢六千余人が城内外を固く守備した。 いざ戦闘が始まると城外で一進一退の攻防が繰り広げられたが、三好勢は堅固な天霧城へ大規模な攻城戦にはでられず、実休は、長期戦は不利とし、香西元成を介して和議を申し込むことにした。 之景もこれを容れ、香川氏の所領は細川政権下の時のまま安堵することを条件に、三好氏に従い畿内の軍役を務めるとの条項で連署状を作った。 そして10月20日、三好勢は軍を引き上げていった。この戦で朝比奈弥太郎は防戦の末、討死。弘法大師ゆかりの善通寺大伽藍、そして善正寺が焼失した。「讃州繚乱」 三好家の統治下に収まりはしたが讃岐は三好家への軍役に従い畿内での戦に多くの民衆が駆り立てられ、民政は乱れ、賊による略奪や土一揆が多発、また国人領主間の争いも絶えなかった。 とくに直接支配を受けていない西讃地方では反三好の気風が年々高まっていった。 そんな中、天正2年(1574)、之景は勝賀城の香西氏に組し、三好長治と対立した。 長治はただちに兵を出したが、大西氏、長尾氏らも香西氏に加勢したため、ついになすところなく兵を撤退した。この年、三好笑岩は織田信長に従う(高屋城の戦い)こととなり、讃岐における三好の勢力は衰退の一途を辿っていくこととなる。「金倉合戦」 天正3年(1575)、隣接する那珂郡は領主の奈良元政が畿内の領地からは離れられず、宇多津聖通寺城へ戻れない状況が続き、それに乗じて従兵が民を虐げ、暴虐をなしていた。 そこで之景は那珂郡を統べるべく諸氏への諜略を開始した。新目、本目、山脇の三家は之景に従ったが金倉城主金倉顕忠は、それに帰伏しないばかりか、三好氏に通じ、香川氏領との境界を侵し始めたので、兵を挙げてこれを討つ事になった。 そこで之景は香西佳清へ使者を送り、香西氏配下の羽床、福家、瀧宮の三家の協力を請うことにした。香西氏はこれを承諾したので之景は香川元春、大平国祐、三野栄久を大将として壱千余人の兵を金倉郷へと差し向けた。 時を隔ずして香西氏からの援兵として羽床資載、福家資顕、瀧宮安資、同弥十郎などが馳せ参じ、金倉氏に組する中津為忠城主、為忠将監を攻め、これを撃破した。 金倉顕忠は、城に引きこもらず出て切所を構えて防戦した。五百余人を五手に分かち三手を香川方へと向かわせ、残る二手を顕忠自らが率いて、福家資顕の軍に向かって戦いを仕掛けた。 しかし頼みの三好氏からの援軍は無く、双方戦闘をしている所へ瀧宮安資と同弥十郎の二軍が左右より挟んでせめかけて来たので顕忠はたまらず兵を引かせた。 その撤退の最中に顕忠は福家の従僕の石若なるものに討ち取られ、戦闘は幕を引くこととなった。戦闘終了後、羽床資載の計らいで那珂郡は香川方に属す事となり、ここに香川氏は西讃四郡を直領とすることになった。「覇権の行方」 織田家の版図拡大は讃岐にも大きな影響を及ぼしていた。天正4年(1576)、之景は香西佳清と謀り、香川元春と三野栄久を使者として手みやげに大原真盛の太刀を持参し、三好笑岩の仲介で信長に属すことを請うた。 信長は喜んで使者を饗応して之景に偏諱を与えた。使者も禄として各々が馬を一頭ずつ賜った。 これより之景は名を信景と改めることになった。そんな中、天正5年(1577)、三好家にはさらなる悲運が待ち受けていた。細川真之が長治討伐の兵を挙げ、長治が別宮浦で自刃してしまったのだ。 三好家は讃岐より移った十河存保があとを継いだが、ちょうどその頃、土佐の長宗我部元親が四国を平定すべく着々と讃岐侵攻への準備を進めていた。
2024年06月15日
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8、「秀吉の元親への降伏交渉」 天正13年(1585)春、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず。 羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦する。 秀吉は宇喜多秀家・黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。 そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣・谷忠澄の言を容れて、7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された(四国国分)。 元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。 これを機に蜂須賀正勝・家政が長宗我部氏の取次になったとされるが、取次としての実態が不明なために疑問視する研究者もいる。また増田長盛を取次とする説もある。「豊臣政権下」 天正14年(1586)秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かう。 しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した。 元親は信親の死を知って自害しようとしたが家臣の諌めで伊予国の日振島に落ち延びた。 天正16年(1588)、本拠地を大高坂城へ移転する。 その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定する。*「高知城」(大高坂城)(こうちじょう)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にある日本の城。別名鷹城(たかじょう)。江戸時代には土佐藩の藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿(なお、天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城のみである。)、追手門等が現存し(天守と追手門が両方現存している城は全国で弘前城・丸亀城・高知城の3ヶ所)、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。]高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた梯郭式平山城で、山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていた。戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう)または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。3層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。南北朝時代、大高坂山には、高知城の前身として大高坂山城(または大高坂城)があったとされる。付近の豪族・大高坂氏によって築かれたとされるが、定かではない。記録上では、大高坂松王丸が居城したことが知られている。松王丸は南朝方に付き、延元3年(1338)には後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎えている。しかし興国2年(1341)、松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦って敗北、大高坂山城は落城した。その後文献に名がなく、廃城となったと考えられる。安土桃山時代、天正15年(1587)、長宗我部元親は豊臣秀吉の九州征伐従軍から帰国後、大高坂山に再び城を築いた。ただし、天正13年(1585)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある。天正19年(1591)、水はけが悪かったため元親は3年で大高坂山城を捨て、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。しかし、元親が大高坂山城を捨てたとする見解は山内氏支配下の江戸時代の二次史料で初めて登場したものであること、浦戸城の規模の小ささや浦戸移転後も大高坂周辺の整備が進められていた形跡があることから、浦戸城は朝鮮出兵に対応した一時的な拠点に過ぎず、大高坂山城の整備も引き続き行われていたとする説もある。) その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興・吉良親実などを粛清し、盛親への家督相続を強行している。 天正17年(1589)ころに、羽柴の名字を与えられている。※「香川 之景」(かがわ ゆきかげ)は、室町時代末期から安土桃山時代の讃岐国の武将。西讃の守護代。一説に法名を釈通庵と伝わる。紋は巴九曜を用いている。 はじめは管領細川氏に仕え、三好氏に実権が移るとその旗下に入るが、安芸毛利氏の支援を得て独立状態を保つ。 長宗我部氏が台頭すると織田信長に近づき偏諱を与えられ信景と名乗る(信景を別人とする説もある)が、後に長宗我部元親の次男親和を養子として傘下に入り、讃岐の国人領主の懐柔に奔走した。 羽柴秀吉の四国征伐後に改易される。なお、通俗的な文献では「元景」とする用例もあるがこれは誤りである。「京兆家内乱」 室町時代末期、讃岐国香川氏に生まれる。香川氏は東讃の安富氏と並び、代々讃岐国守護代を務めていた。 多度、三野、豊田三郡(後に那珂を加えた四郡)を領する。居城は讃岐国多度郡本台山城で、有事に際しての牙城として天霧城を有した。
2024年06月15日
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*「虎丸城」(とらまるじょう)は、香川県東かがわ市水主、与田山の虎丸山にあった日本の城。築城年は不明であるが、寅年に築城されたためこの名を付けたとの説がある。元亀元年(1570)、寒川元政の代に安富盛定に奪われた。天正10年(1582)8月、中富川の戦いで長宗我部元親に敗れた十河存保は虎丸城に逃れた。天正12年(1584)6月には十河城が落とされた際、一説によれば、虎丸城も陥落し、存保は大坂の羽柴秀吉(豊臣秀吉)を頼って落ち延びたというが、別の説では存保は虎丸城に拠って抗戦を続けたという。(四国征伐#四国統一は完成したか) 十河存保は秀吉を頼って上方へ逃れた。天正13年(1585)春、湯築城の河野通直を降して伊予を平定した。河野氏の降伏によって長宗我部元親による四国統一が完成した。 史料から抜粋すると、天正12年11月に、 伊予に駐留している毛利氏の武将の桂元親の書状(桂文書)に、土州衆の出撃で数ヶ所が落城しているため、援軍の派遣を要請している。 また、大洲旧草記に近日中野封馬土州申合、伊予河野通直、注進、という記述があり、土州(長宗我部軍)との合戦が近いこと。萩藩閥閲録の天正12年12月21日、河野通直、伊予能美の村上景親をして、同国府中東条分を安堵せしむ、という記述を最後に河野氏が伊予を統治した形跡がないこと。 天正13年7月17日になって、隆景が伊予に侵攻している事実。このことから、通説に従って、伊予河野氏は降伏し、長宗我部元親の伊予統一は成ったとみなせる。 なお、伊予東部の金子氏は長宗我部軍であり、伊予・恵良(松山市北部)での毛利軍と長宗我部軍との交戦記録が毛利氏の記録に残ることから、松山市の周囲が長宗我部軍によって、軍事的に制圧されているのは確実である。 桂文書や大洲旧草記の記述から、長宗我部軍を土州衆・土州と呼んでいるのは明白であり、湯築城の土州様の瓦と関連するとも考えられる。以下、土州様の瓦の記事を掲載する。 一方、河野氏の居城だった湯築(ゆづき)城(松山市)の発掘調査で、城内から見つかった長宗我部氏にかかわる瓦や土器が近年、研究者の間で議論を呼んでいる。 大手(城の表門)付近から土佐の岡豊城、中村城でしか見つかっていない瓦が出土したからだ。 寸法や成形に共通点があり、文様は同じ笵(はん)木を使って焼かれたと考えられている。 城内の家臣団の居住区からは、元親を指すと考えられる「土州様」と墨書された土器皿も見つかった。 調査を担当した愛媛県埋蔵文化財調査センターは、「長宗我部氏が湯築城を占拠した証しに瓦をふいたのではないか」と推測し、河野氏の降伏説を主張している。*「湯築城」(ゆづきじょう)は、愛媛県松山市道後町にある城跡。堀や土塁が現存する。国の史跡に指定されている。建武2年(1335)前後、伊予国の守護であった河野通盛の代に築城され、一族本貫の地である風早郡河野郷(現松山市河野)より移住した。天文4年(1535)頃、通直(弾正少弼通直)によって外堀が造られたとされる。天正9年(1581)以後、四国征圧を狙う土佐国の長宗我部元親が伊予国に侵入し、通直(牛福丸通直)は元親と交戦した。天正13年(1585)、四国征伐をめざす羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻して金子城主の金子元宅を攻撃の末滅ぼし、湯築城の河野氏も約1ヶ月の篭城の後に降伏した。城に留まっていた通直は命は助けられたが、2年後に病没した。城は隆景に与えられたが、彼の所領は筑前に移された。天正15年(1587)、福島正則が城主となるが、程なく国分山城に居城を移したため、廃城となった。慶長7年(1602)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となる。建築にあたっては、湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明している。*「統一されていないとする説」「阿波・讃岐の未制圧」【ある学者の説によると、天正12年(1584)6月に讃岐で落城したのは十河城のみであり、東香川の十河存保は虎丸城でその後も抗戦を続けた。また森村春の阿波土佐泊城は、中富川の戦い以後も落城することはなかった。従って長宗我部氏は阿波・讃岐を完全には制圧できなかったとしている。また山本浩樹も津野の説を支持し、秀吉は海路を通じて両城への補給を続け、これによって両城は持ちこたえたと推測している。】 なお、秀吉事記には羽柴秀長・秀次は阿波土佐泊に上陸、一城を拵え、味方の樋いとなして、という記述があり、土佐泊城は存在せず豊臣軍が上陸したときに土佐泊に築城したことになっている。長宗我部軍も土佐泊には存在せず、最寄は木津城に東条関兵衛が篭っている。 また、香宗我部家伝証文には、天正11年4月是月、長宗我部元親の弟香宗我部親泰、阿波木津城を攻めて之を抜く、又淡路の洲本城を奪ふ、淡路の兵起り、洲本城を復す、という記述があり、この段階で、阿波国を平定し、さらに淡路国への影響力も及ぼしたことが伺える。「伊予の未制圧」【また学者の2人は河野氏の地盤である中予は攻略できず、統一は完成していないとする立場を取る。また、山本浩樹も長宗我部氏と河野・毛利氏の抗争は郡内表(喜多郡、現大洲市周辺)を中心とし、河野氏の本拠である道後地方に長宗我部方が攻め込むことはなかったとしている。】
2024年06月15日
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また、河野氏と毛利氏は同盟関係にあったことから、毛利氏が大友宗麟を攻めたときには援軍として参加し、大友水軍と戦っている。しかし、この海戦での作戦をめぐって毛利水軍を率いる村上武吉と不仲になったともされる。秀吉への接近、天正10年(1582)、織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利氏や河野氏に攻められて本拠地を追われて一時は秀吉の元に身を寄せた。なおも兄の得居通幸が鹿島城に拠って戦い抜き、羽柴方として留まった通総は秀吉と毛利氏との和睦後に旧領に復帰した。また、近年の説として通宣の後を継いだ河野牛福(後の伊予守通直)は実は通総の父である村上通康と側室とみられる宍戸隆家の長女(毛利元就の外孫)との間の子であるという見解が浮上している。この説によれば通康の没後に毛利氏が実子のいない河野通宣の後室に未亡人となった宍戸隆家の娘を入れてその連れ子である牛福を養嗣子に立てたというもので、毛利氏からみれば河野宗家の血を引く弾正少弼通直の娘及びその所生である通総の存在は「反・牛福」に擁される可能性がある警戒の対象であり、通総は異母弟である河野通直(牛福)とその後ろ盾である毛利氏から身を守るために織田陣営に飛び込んだとする。秀吉は三島村上氏の中でも早くから味方についた通総を「来島、来島」と呼んで重用したため、姓を村上から来島に改めた。天正13年(1585)の秀吉による四国攻めでは小早川隆景の指揮の下に伊予で先鋒を務め、天正の陣で旧主家の河野氏を攻めた。その戦功により伊予風早郡1万4000石を与えられて大名となった。その後も天正15年(1587)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原征伐にも参加した。年代は不明だが、豊臣姓を下賜されている。最期、天正20年(1592)からの文禄の役では当初四国勢を率いる福島正則の五番隊に所属して忠清道に進撃して陸戦に従事したが、朝鮮水軍の活動が活発になると水軍に再編され、朝鮮水軍と戦った。休戦期を挟んで慶長2年(1597)から再開された慶長の役では水軍として編成された後、南原城攻略戦では600人を率いて陸軍として戦った。その後再度水軍となり全羅道沿岸を掃討するために進撃した。9月16日の鳴梁海戦では先鋒となって海峡に突入したが、潮流などの地の利を生かした朝鮮水軍の板屋船の攻撃を受けて戦死した。享年37歳。この海戦では通総など先鋒の被害が大きかったものの、日本水軍は全羅道西岸への進出を果たした。日本側の捕虜となった姜沆は『看羊録』の中で日本の武将の仕組みについて「戦亡した将士はその子弟が職を継ぎ、池田秀雄が珍島(または安骨浦)で病死した時は子の秀氏が直ちに軍中で代わって職を受け、通総が全羅右水営で戦死した時も、弟が代わってその城に居ることになった」と記しており、通総の敗死に触れている。来島家の名跡は福島正則に仕えていた長男の通則が死去していたため、次男の長親が継いだ。) 秀吉が反秀吉陣営に敗れれば、中国国分・来島氏問題は毛利氏優位の解決が期待できたため、毛利氏は反秀吉陣営の一員である長宗我部氏への攻勢に出なかった。 第三は、秀吉による四国出兵の抑止である。長宗我部氏の渡海攻撃に備えるため、秀吉は和泉方面の防備を増強しなければならず、また織田・徳川氏への対応や帰趨の明らかでない毛利氏への警戒もせねばならず、その分十河氏などへの支援に振り向ける兵力は減少した。 長宗我部氏にとっては、秀吉による本格的な四国攻撃を回避することが同盟の最大の利点であった。 小牧・長久手の戦闘に先だって、家康は長宗我部元親のみならず紀伊の畠山貞政、越中の佐々成政らに檄を送り秀吉の背後を衝くよう要請して秀吉包囲網を形成した。 秀吉は成政に対し上杉景勝・真田昌幸・丹羽長秀らをあて、和泉および淡路には仙石秀久・中村一氏・蜂須賀家政らの軍勢を派兵させて長宗我部勢に備えさせた。「羽柴と毛利氏の同盟」 信長の時代には毛利氏との関係は対決基調であったが、毛利輝元は天正11年の賤ヶ岳の戦いののち、祝勝の品を届けて秀吉に接近し、叔父(ただし輝元より年少)にあたる小早川元総(のちの毛利秀包)や従兄弟の吉川経言(のちの広家)を差し出して秀吉との同盟関係に転じた。 元総は秀吉より「秀」の字を賜り、小牧・長久手の戦闘にも秀吉勢として参加した。 天正13年3月の紀州攻めでは、輝元は秀吉の命令により小早川隆景率いる毛利水軍を送っているので、この頃毛利氏は明確に秀吉の軍事行動に動員される服属大名となった。 長宗我部氏による四国統一について、秀吉による四国攻めが始まる以前、元親が四国統一を達成していたかについては統一は完成していたとするのが通説である。しかしながら統一は完成していないとする研究者も複数おり、見解は分かれている。 天正10年(1582)8月、中富川の戦いの勝利によって長宗我部氏は阿波を平定した。 同年讃岐に侵攻し、天正12年(1584)6月には十河城・虎丸城を陥落させて讃岐を平定した。
2024年06月15日
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この動きに即応した秀吉は大坂城へ帰城し防備を固める。秀吉の帰城を知った家康は元親へ直ちに進軍するように催促したが、伊予国で土豪衆の動向や毛利氏の侵入への警戒、そして十河城が落城していなかったことから、元親は家康の要望には応えられずにいた。 四国平定を急いだ元親は、十河軍に属していた寒川氏、由佐氏の調略に成功し、彼らを用いて雨滝城をはじめ十河城の支城を次々に落城、そして翌天正12年(1584)6月11日、元親は十河城をついに落城させ、第二次十河城の戦いは終結する。 しかしその前日6月10日夜に存保は城を抜け出して落ち延びていた。この時の様子を『讃岐の古城跡と豪族たち』と『十河郷土史』によると、存保と存之は元親に降伏を申し出、屋島から備前国そして堺へ落ち延び羽柴秀吉の配下になったとしている。 長宗我部軍の同盟者であった信雄は十河城落城の報を知ると、元親の弟である香宗我部親泰へ送った書状に、【六月十一日芳翰、令披見祝着候、十川要害被攻崩之由珍重候】とあり、十河城が落城した事に喜びを述べている。 十河城は長宗我部家の手に落ち、長宗我部親武が城主となったが羽柴軍が讃岐国に侵攻すると、天正13年(1585))には撤退、讃岐国には秀久が領主となり存之は2万石を与えられ十河城を復権された。 しかし翌、天正14年(1586))九州征伐に従軍し、島津氏との豊後国戸次川の戦いにて討死すると、十河城も廃城となる。 十河城は東西が川と谷(鷺池)にはさまれた舌状の微高地(標高42メートル、比高10メートル)に所在し、主郭部分は、鍵型の土塁に囲まれた部分に方形居館があり、周囲に曲輪を付属させていた。北側には大きな堀切と土橋があったと思われ、その北側には大きな曲輪があった。主郭には現在称念寺が建っている。鷺池とは城の西側にある細い谷をせき止めたものであったことが『南海通記』にみえる。】 この年の後半には伊予における長宗我部氏の攻撃は激しさを増し、10月19日には長宗我部方が西園寺公広の黒瀬城を攻略した。*「黒瀬城」(くろせじょう)は、愛媛県西予市に存在した日本の城(山城)。標高350メーターの黒瀬山の山頂にあり、堀や曲輪が設けられた。また、支城としてとびがす城、我合城、岡城、護摩が森城、土居城などがあった。『宇和旧記』によれば西園寺実充は松葉城を捨てて当城の築城を始めたが、完成前に実充は死去して西園寺公家の代に完成、移転したという。しかし『言継卿記』によれば実充は黒瀬城を完成させて移転し、黒瀬殿と称され、永禄8年(1565)には上洛して大徳寺で落髪している。当城は元亀3年(1572)に大友氏に攻撃され、天正9年(1581)には長宗我部氏によって城下町を焼かれ、天正12年(1584)は城主の西園寺公広が長宗我部元親に臣従している。天正13年(1585)の四国の役で公広は小早川隆景に降伏し、在城を許されて九州征伐に参加した。天正15年(1587)に戸田勝隆が伊予に移封されると公広は下城して願成寺に隠棲したが、同年12月1日に勝隆により謀殺された。その後、岩城少右衛門が城代として入っている。) これに対抗して毛利氏も伊予に児玉就英らを増派し、河野・西園寺氏への支援を強化した。だが、11月に入ると、家康・信雄と秀吉の間で和議が結ばれることになる。 天正13年(1585)3月から4月にかけて秀吉は紀州攻めを行い、元親の同盟勢力である根来・雑賀衆を潰した。これによって長宗我部氏は軍事的に孤立した。「長宗我部と織田・徳川との同盟」 天正10年6月の清洲会議で伊賀・伊勢・尾張南半を配分された信雄は、勝家と結んだ信孝の最期をみて不安を感じ、家康のもとを頼った。 家康は当時小田原に本拠をおく後北条氏と同盟していたので、秀吉と対決することになった場合、背後から衝かれることのない点が戦略上の強みであった。 天正12年3月、信雄は伊勢長島城にみずからの有力家臣で秀吉に内通した疑いのあった津川義冬・岡田重孝・浅井長時を招いて殺害した。家康の指示によるものであった。 この事件を契機として小牧・長久手の戦いが始まったが、当時、長宗我部氏は未だ四国内の各所に敵を抱えており、渡海して秀吉の勢力圏を攻撃することは現実的ではなかった。にもかかわらず、長宗我部氏は渡海計画を掲げ続けた。 津野倫明の話によると、現実味の乏しい渡海攻撃を喧伝し続けたことは信雄・家康との同盟関係を維持するためであり、長宗我部氏にとってこの同盟には3つの利点があった。 第一は、東予の金子氏との同盟維持である。金子氏は中予の河野氏及びその同盟者の毛利氏、ひいては秀吉とも敵対しており、天正12年(1584)時点では毛利勢の伊予上陸もあって大きな脅威を感じていた。長宗我部氏は自陣営の優勢を伝えることで、金子氏の離反を回避しようとしていた。 第二は、毛利氏の攻勢を抑止することである。毛利氏と秀吉は和睦していたものの、当時なお中国における両勢力の境界線確定(中国国分)は解決しておらず、また先に毛利氏から織田氏に寝返り、現在は秀吉の傘下にある来島通総の伊予帰国を巡って対立していた。⁂「来島 通総」(くるしま みちふさ)は、安土桃山時代の伊予国の武将、大名。出身、永禄4年(1561)、村上水軍の一族である来島村上氏当主・村上通康の四男として生まれる。永禄19年(1567)、父の通康が病死したため、7歳で家督を継いだ。通総には兄がいたが、通総の生母が主君である河野弾正少弼通直の娘であったため、家督を相続したものと思われる。代々河野氏の影響下にあったが、通総の代においては、元亀元年(1570)に主君の河野通宣が室町幕府に納めようとした公用銭を横領するなど、次第に河野氏から独立する姿勢を見せ始めた。
2024年06月15日
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7、「元親の調略」 4月には長宗我部氏に服さず自立の姿勢を見せていた木津城の篠原自遁が、香宗我部親泰に追われて淡路に敗走した。 同年冬から翌年にかけては、毛利氏が秀吉と和睦したことにより毛利・長宗我部の関係が冷却化し、毛利氏と友好関係にある伊予の河野通直・西園寺公広への長宗我部方の攻勢が再開された。*「河野 通直」(こうの みちなお)は、伊予国の戦国大名河野氏最後の当主。 後述するが、村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。 先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568)に後を継いだ。 しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。 通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。 豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。 この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。 通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。 通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ。 これまで通直の実父は通吉と言われてきたが、実母にあたる天遊永寿(宍戸隆家の娘)についての検証から、村上通康の子として生まれ、その後実母が先代当主である河野通宣に再嫁することで河野家の正当な後継者としての地位を手に入れたとする説がある。 この説に拠れば、通直は毛利元就の曾孫にあたることになる。この血縁関係もあり、四国攻め以前から通直政権は毛利氏、小早川氏の強い影響力により支えられていたとされ、史料も確認されつつある。 これまで通直が病弱と記録されていることもあって普通に病死したものと考えられてきた。だが、『予陽河野家譜』では7月9日に伊予に立ち退いた後、有馬温泉と高野山に向かった後に竹原に入ったとあるものの、死去したのは伊予出国の6日後の15日となっている。】 一方、天正11年(1583)の末に長宗我部氏と秀吉の間で和睦が協議されたとする説がある。 天正11年12月に毛利氏の重臣である安国寺恵瓊と林就長が連名で同じく重臣である佐世元嘉に充てた書状(『大日本古文書 毛利家文書』861号)の中に長宗我部元親が秀吉に対して讃岐と阿波を放棄して伊予を渡して欲しいと申し入れているという文言がある。 この文言について、藤木久志も後の四国攻め直前にも同様の国分案が出ていることから、この時期に国分協定が済んでいたが毛利氏の要求で伊予国の扱いが白紙になったために和平が成立しなかったと説いた。 これに対して藤田もこれは毛利氏と秀吉の和平を推進させたい安国寺恵瓊らの捏造した情報であり、一貫した反秀吉派であった長宗我部元親がほぼ手中に収めた讃岐・阿波を放棄することは考え難いとして否認した。 一方、この文書が書かれた天正11年12月には既に勝家は滅亡し反秀吉で提携する相手を失った長宗我部元親が苦境に立たされていた時期であり対外的に苦しい立場に置かれた元親が和平に動くことはあり得ること、また秀吉の長宗我部氏討伐の名目が三好氏の救援である以上、元親が和解の条件として讃岐・阿波を放棄して三好氏に返還する代替に秀吉と直接的な利害関係を持たない伊予を求めることは考えられることであるとして、説が成立する余地があるとしている。 天正12年(1584)正月、長宗我部氏の伊予侵攻に対応して毛利氏は河野氏援助のため伊予に派兵したため、織田政権時代からの長宗我部氏・毛利氏の関係が崩れた。 3月から始まった小牧・長久手の戦いでも元親は徳川家康・織田信雄と結び、紀伊の根来・雑賀衆と協力して秀吉の背後を脅かす姿勢を見せた。 6月、元親は長期の攻城の末に讃岐十河城を攻略した(第二次十河城の戦い)。*「第二次十河城の戦い」翌天正11年(1583)4月、秀吉の命をうけた仙石秀久軍が動き出した。 秀久は淡路島から小豆島に渡り、喜岡城、屋島城を攻城したが、攻めきれず撤退した。また小西行長軍も香西浦に押し寄せたが長宗我部軍の反撃のため、上陸できないまま撤退した。 同時期、元親の本隊も動き出した。阿波国から大窪越えし田面山に陣を張り虎丸城の攻城に取り掛かった。 与田、入野周辺で合戦となったが十河存保軍の反撃したため、止む無く虎丸城周辺の麦薙、苗代返しを行い兵糧攻めとした。 その時仙石軍が引田城に入城したとの報にふれ、香川之景隊を引田城に出軍させ引田の戦いとなった。この戦いで敗れた仙石軍は船で淡路国に撤退した。 存保は虎丸城を撤退し十河城に入城した。『長宗我部元親』によると「一説には虎丸城は翌十二年七月に落城したとも伝えているが、詳細は定かでない」としている。 一方秀吉は、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康連合軍と戦いを続けている。この時家康は元親に味方し淡路国に進軍するように呼びかけた。
2024年06月15日
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同年春、元親は再度讃岐に出陣して十河城・虎丸城を包囲したため、秀久を援軍に送ったが敗退して小豆島を維持するにとどまった(引田の戦い)。*「引田の戦い」(ひけたのたたかい)は、天正11年(1583)、讃岐国大内郡(現:香川県東かがわ市)の引田城附近で行われた長宗我部元親と羽柴秀吉の命により派遣された仙石秀久らとの戦いである。 四国統一に向け阿波・讃岐へと兵を繰り出していた元親は両国の一大勢力であった三好氏を駆逐し、天正8年(1580)までに両国をほぼ制圧した。 一方、中国攻略を進めていた織田信長は元親の台頭をよしとせず土佐・阿波二国の所領安堵を条件に臣従するよう元親に迫るが、四国統一を悲願とする元親はこれを拒否し、これまで良好な関係を築いてきた信長と敵対する道を選んだ。 信長と元親の敵対に乗じる形で、かつて信長と敵対していた三好一族の十河存保は失地回復を目論み信長に接近し、その後ろ盾を得ることに成功。 存保らは天正9年(1581)、再び讃岐へと反攻を開始した。天正10年(1582)、信長は三男の神戸信孝を総大将に丹羽長秀、津田信澄らを中心とする四国討伐軍を編成し、堺にて元親討伐の準備を整え始めた。 しかし、同年本能寺の変により信長が横死すると、信孝と長秀は明智光秀の娘婿である信澄が明智方へ内通していると疑い野田城にて信澄を討ち取るなど、討伐軍内部に混乱が生じたため四国討伐は立ち消えとなってしまった。 本能寺の変が起こると三好康長は近畿へ逃避し、三好側の反攻勢力は勢いを失ってしまった。 元親はこれを機に阿波・讃岐の反攻勢力の一掃を図り両国の完全掌握を目指した。 中富川の戦いにて存保を破り、さらに8月には雑賀衆の助力も得て存保の立て籠もる勝瑞城を攻め落とすことに成功。阿波に留まることが出来なくなった存保は讃岐虎丸城へと遁走し、秀吉に救援を求めた。「秀吉、仙石秀久を派遣」天正11年(1583)、中央では秀吉と柴田勝家による主導権争いが日増しに激化し賤ヶ岳の戦いが起ころうとしていた。 そのため存保の要請に対して多くの軍勢を割くことはできずにいた。秀吉の命を受けた仙石秀久は小西行長、森九郎左衛門等と2000の軍勢を率い、高松頼邑の守る喜岡城や牟礼城等、諸城の攻略に向かうもこれらを落とせず、一旦小豆島へと撤退する。 同年4月に秀久と九郎左衛門は再度讃岐へ侵攻し、海上からすぐに着岸できる引田城に入城した。「引田城落城」 その頃、阿波白地で兵を整えた元親は20000の軍勢を率いて讃岐へ侵攻。寒川郡田面山に陣を敷き、虎丸城攻めを開始する。 同月21日、秀久は長宗我部軍の香川信景率いる讃岐勢及び、大西頼包率いる阿波勢の計5000が引田に向け進軍中であるとの報を受け、奇襲をかけるため手勢を3つの隊に分け仙石勘解由、仙石覚右衛門、森権平をそれぞれ将とし、入野山麗に伏兵をおいた。 秀久の読みは的中し、入野原にさしかかった阿讃勢に対し鉄砲を浴びせ、奇襲を受けた阿讃勢は一時退却をせざるを得なくなった。 秀久本隊も追撃をかけ優勢に戦いを進めていたかに見えたが、数に勝る阿讃勢はすぐさま隊を立て直し次第に戦を優位に進めるようになった。 阿讃勢が会戦しているとの報を受けた元親は配下の桑名親光、中島重勝隊らを救援に向かわせた。 土佐勢の増援が駆けつけたことで長宗我部勢が仙石勢を完全に圧倒するようになり、完全に隊を乱した仙石勢は多くの将兵を失いながら引田城への退却を余儀なくされた。 この戦いで仙石勘解由は前田平兵衛に討たれ、殿をしていた森権平は稲吉新蔵人に討たれてしまう。 また、混乱の最中に秀久は幟を取られる失態を見せたという逸話もある。一方の長宗我部勢は中島重勝、桑名藤十郎等が討死した。 長宗我部勢はそのまま引田へ進撃、布陣した。翌日秀久の籠もる引田城を取り囲み総攻撃をかけたが、既に戦意を失った仙石勢は抵抗らしい抵抗を出来ずに城を逃げ出さざるを得なかった。 秀久は敗戦後淡路に逃げ帰り淡路と小豆島の守りを固め瀬戸内の制海権維持に務めた。 一方の元親は天正12年(1584)6月までに存保の居城である十河城や虎丸城も制圧し、勝ち目のなくなった存保は大坂の秀吉を頼って讃岐を脱出するほかなくなった。】*「中富川の戦い」(なかとみがわのたたかい)は、天正10年(1582)、阿波国へ攻略を目指す土佐国の長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦いである。 攻防戦は約20日間行われた戦いで、人的被害は阿波国史上最高のものであった。 天正10年(1582)5月、織田信長は三好康長を先鋒、三男の織田信孝を主将として四国攻めの兵を起こし、このため既に阿波侵攻を進めていた元親は一時兵を退いていた。 しかし本能寺の変により織田氏の圧力は消滅し、後ろ盾である信長を失った康長は阿波を捨てて退却した。こうして長宗我部氏にとっては阿波攻略の機会が訪れた。 長宗我部信親は、一宮城・夷山城を奪い返し、勝瑞城を攻め落とそうと考えた。 元親は8月まで待つように指示したが、信親は手勢を率いて海部(現海陽町)に至り、香宗我部親泰を頼って長宗我部元親の後援を待った。
2024年06月15日
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一方勝瑞城では同時期中富川の戦いとなったが敗れ、存保は同年9月21日の夜半、勝瑞城から虎丸城に落ち延びていった。存保は虎丸城に入るととし羽柴秀吉に援軍を要請した。これに応えた秀吉は淡路国洲本城の城主仙石秀久に救援を命じた。その間十河城では、長宗我部軍は岩倉から山越えし香川親和軍と合流し総勢3万6千兵となり、再び攻城戦となったが落城させる事は出来なかった。そして冬となり、監視の部隊を置いて長宗我部軍は一旦土佐国に撤兵し、第一次十河城の戦いは終了する。)「十河城」(そごうじょう)は、讃岐国山田郡蘇甲郷にあった日本の城(平城)。 現在の城跡は称念寺という十河氏ゆかりの寺となっており、称念寺一帯が本丸と考えられている。 市指定史跡。十河城は高松市の南部に位置し、春日川上流より南側にいくつもの丘陵があり、十河城もその丘陵上に築城された。 大正初期の整地で、城の遺構の大半が失われてしまったため、現在は門扉のみをとどめている。 なお、城門前立札よると「南北朝時代から桃山時代まで約230年間十河氏の居城だった。 西に池、東は断崖、南に大手があった。十河氏は景行天皇の末流で山田郡を領した。 三好長慶の弟一存が養子に入り鬼十河と恐れられ、讃岐一円を制した。その養子存保が、長宗我部軍3万5千とこの城で戦った。のち秀吉から2万石に封ぜられたが、九州で戦死し廃城となった。寺があるのは本丸跡である。 代々の城主であった十河氏とは、讃岐国山田郡を支配していた、植田氏の支族で1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に細川清氏の陣に最初に馳せ参じたのが、十河吉保でこの時の様子を『南海通期』によると、「清氏の曰く、十河は庶子なれども惣領の挙動也とて、十河を以て惣領す」とあり十河吉保がこの地の惣領となった。 これにより南北朝時代に十河氏によって築かれたと考えられている。以後8代目の十河景滋には子供がおらず、三好元長の子で三好長慶の末弟の十河一存を養子に迎え入れる。一存は「讃岐守鬼十河」といわれた勇猛な武将であったが、この時はまだ幼少であったため三好存保を迎え入れ十河城の城主となった。 しかし、永禄4年(1561)に一存が急死(前年の有馬温泉での落馬が原因といわれる)、永禄5年(1562)には三好実休が久 米田の戦いで討死、その翌年には長慶の嫡男の三好義興が病死してしまう。 有力な一族が次々に死亡する不幸に見舞われた長慶は実弟である安宅冬康を無実の罪で誅殺するなど往年の覇気を失い、その後間もなく死去した。 長慶の死後、三好政権の実権は松永久秀と三好三人衆が握るが、永禄の変や家中分裂によって畿内が混乱に陥る中で東からは織田信長が足利義昭を奉じて上洛、西からは長宗我部元親が阿波へ侵攻し三好氏は急速に弱体化していった。 長宗我部元親、香川親和連合軍が讃岐国に侵攻してきた。天正10年(1582)8月6日、香西佳清が立て篭もる藤尾城に攻め入ったが香川之景の仲介の基、親和軍に降伏した。 佳清隊1千兵を味方に加えた親和軍は、同月11日に讃岐国分寺を1万1千兵で出軍、十河城を取り囲んだ。 当時存保は勝瑞城におり、十河存之が城代として城を守っていたが1万の大軍との報が入ると長期戦を覚悟し城兵を1千兵迄絞り込み、兵糧三ヶ月分を積んで籠城戦の準備を整えた。 親和軍は平木周辺に着陣し十河城周辺の麦薙、苗代返しを行った。この時の様子をとあり、領民が難民となって故郷に逃亡するものも多かったと記している。 その後親和軍は十河城の四方を囲み、攻城のために作道をしたが城中には多数の鉄砲があり、四方の櫓から撃ち作道は中止となった。 長宗我部軍は十河城との間合いを2町まで詰め、大筒を2挺用意し十河城の櫓を打ち崩し、籠城戦も難しくなってきた。 しかしこの時前田城の城主前田宗清が夜討ちをかけ十河城を援護した。『四国の古城』によると「忍者戦術に出て敵をなやませた」とし、夜討ちや抜け穴、長宗我部元親軍の陣地に忍び込み食料を奪い取ることもあり、遠地で兵站もままならず長陣になると長宗我部軍も疲弊し始めた。 一方勝瑞城では同時期中富川の戦いとなったが敗れ、存保は同年9月21日の夜半、勝瑞城から虎丸城に落ち延びていった。 存保は虎丸城に入るととし羽柴秀吉に援軍を要請した。これに応えた秀吉は淡路国洲本城の城主仙石秀久に救援を命じた。 その間十河城では、長宗我部軍は岩倉から山越えし香川親和軍と合流し総勢3万6千兵となり、再び攻城戦となったが落城させる事は出来なかった。そして冬となり、監視の部隊を置いて長宗我部軍は一旦土佐国に撤兵し、第一次十河城の戦いは終了する。】 天正10年(1582)10月、元親は親政勢と合流し、合計36000の軍勢で十河城を包囲したが攻略には至らず、冬にはいったん帰国した。 この間に存保の救援要請に応じて秀吉から仙石秀久が小豆島に派遣された。秀久は屋島を攻撃したが、攻めきれず退却した。 前節における藤田の説によれば、天正9年(1581)以降、秀吉は四国に関しては一貫して長宗我部氏との対決路線を保持しており、そのため長宗我部氏は対抗上秀吉の敵対勢力と同盟する道を選んだとしている。 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際し、元親は柴田勝家・織田信孝と結んで秀吉を牽制したため、秀吉は秀久を淡路洲本城に配置してこれに備えた。
2024年06月15日
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羽柴軍本隊による四国攻めの折には喜岡城を攻略、木津城攻めで城の要を抑え、城内の水源を絶つなど奮戦した。天正13年(1585)、四国攻めの論功行賞により讃岐1国(うち2万石は十河氏領)を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)、或いは高松城に入城した。) さらに小西行長の水軍に香西浦を攻めさせるもこれも敗退した。しかし4月に勝家は秀吉に敗れて滅んだ。このため5月に秀吉は元親を討つべく軍勢を準備していた。 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破った(引田の戦い、第二次十河城の戦い)。 また東予の金子元宅と同盟し、南予の西園寺公広の諸城を落とすなど、伊予国においても勢力を拡大した。 6月11日には十河城を落として讃岐を平定する。しかし小牧の 戦いは秀吉と信雄が和睦するという形で終結した。 伊予国の平定は予想以上に手間取った。天正12年3月、毛利氏は宍戸元孝を河野氏救援のために派遣し、恵良で長宗我部軍と衝突する。 4月には高山で、5月から6月にかけては恵良・菊間(菊万)で合戦を行っている。 8月には小早川氏の将である杉就良によって現在の新居浜市を落とされた。しかし元親は東予の金子元宅との同盟をさらに強固にして9月から反攻に転じた。 しかし渡海して遠征していた毛利軍は次第に劣勢になり、12月には遂に河野氏は元親に降伏した。その後、天正13年(1585)春までに西予の豪族なども降伏させた。 6、、「元親の阿波・讃岐へ侵攻」 天正10年(1582)5月上旬、信長は三男の信孝を総大将に、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将として四国方面軍を編成し四国攻めの指示を下した。 康長はその先鋒として勝瑞城に入り、阿波の親三好勢力を糾合して一宮城(徳島市一宮町)・夷山城(徳島市八万町)を攻略した。 長宗我部方の野中三郎左衛門・池内肥前守らは一宮城主一宮成祐・夷山城主庄野和泉守を人質に取って牟岐(徳島県海部郡)に退却した。 5月29日には信孝の軍は摂津住吉(大阪市)に着陣し、また信澄・長秀勢は摂津大坂、頼隆勢は和泉岸和田に集結し、総勢1万4000の軍が渡海に備えていた。 これらの軍は6月2日に四国へ向けて出航する予定だったが、当日朝に本能寺の変で信長が自害したため作戦は立ち消えになった。 集められた軍勢のなかには、本能寺の変の報を受けて動揺し逃亡したものも少なくなかった。 また、光秀の女婿にあたる信澄は信孝・長秀によって野田城(大阪市福島区)で殺害された。 しかし、秀吉東上の大行軍(中国大返し)の報によって動揺は沈静化し、6月12日、摂津富田(大阪府高槻市)に着陣した秀吉軍に合流した。 このとき、信孝は名目的にではあるが総大将に推された。翌6月13日の山崎の戦いにも光秀討伐軍として参戦した。 後ろ盾である信長を失った康長は勝瑞城を捨てて逃亡した。長宗我部氏は存亡の危機を脱し、一転して阿波・讃岐侵攻の絶好の機会を迎えた。「羽柴秀吉と長宗我部元親の対立」 天正10年(1582)6月、元親は東予・西讃の諸将を動員し香川信景3000、長尾・羽床・新名氏ら1000の兵力を西長尾に集結させて香川親政を総大将となした。 7月、これらの兵はまず那珂・鵜足郡へ侵攻し、聖通寺城(現宇多津町)の奈良氏を敗走させた。次いで香西佳清の藤尾城を攻めて降伏させた。 さらに十河氏の名代三好隼人佐が守る十河城を攻めた(第一次十河城の戦い)が、攻略はできなかった。 また、淡路国の菅達長が長宗我部氏に呼応して淡路国内の羽柴軍の拠点を襲撃している。8月、元親は中富川の戦いで十河存保を破り、阿波勝瑞城・岩倉城を攻略した。さらに同年、虎丸城に逃れた存保を追って讃岐に侵攻した。*「第一次十河城の戦い」が讃岐国に侵攻してきた。天正10年(1582)8月6日、香西佳清が立て篭もる藤尾城に攻め入ったが香川之景の仲介の基、親和軍に降伏した。佳清隊1千兵を味方に加えた親和軍は、同月11日に讃岐国分寺を1万1千兵で出軍、十河城を取り囲んだ。当時存保は勝瑞城におり、十河存之が城代として城を守っていたが1万の大軍との報が入ると長期戦を覚悟し城兵を1千兵迄絞り込み、兵糧三ヶ月分を積んで籠城戦の準備を整えた。親和軍は平木周辺に着陣し十河城周辺の麦薙、苗代返しを行った。この時の様子を、とあり、領民が難民となって故郷に逃亡するものも多かったと記している。その後親和軍は十河城の四方を囲み、攻城のために作道をしたが城中には多数の鉄砲があり、四方の櫓から撃ち作道は中止となった。長宗我部軍は十河城との間合いを2町まで詰め、大筒を2挺用意し十河城の櫓を打ち崩し、籠城戦も難しくなってきた。しかしこの時前田城の城主前田宗清が夜討ちをかけ十河城を援護した。『四国の古城』によると「忍者戦術に出て敵をなやませた」とし、夜討ちや抜け穴、長宗我部元親軍の陣地に忍び込み食料を奪い取ることもあり、遠地で兵站もままならず長陣になると長宗我部軍も疲弊し始めた。
2024年06月15日
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「阿波・讃岐・伊予への侵攻」 土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。 阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退していたが、十河存保や三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗や、天正4年(1576)の吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。 しかし天正5年(1577)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。 天正6年(1578)2月、元親は阿波白地城を攻め、大西覚養を討った。 また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込んだ。阿波国では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が激しく抵抗するが、元親は天正7年(1579)夏に重清城を奪って十河軍に大勝した。 康俊に対しても岩倉城に追い詰めて実子を人質にとって降伏させた。この年には讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年(1580)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。 伊予方面においては、南予地方では軍代であった久武親信が天正7年(1579)春に岡本城攻めで土居清良の前に戦死するなどした。 しかし東予地方では白地から圧力と誘いをかけて金子元宅や妻鳥友春・石川勝重らを味方にして平定。 中予地方を支配していた伊予守護の河野氏は毛利氏の援助を得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定は長期化することになった。「織田信長との対立」 天正8年(1580)信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る。 元親は信長の要求を拒絶する。 このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581)3月には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。 天正10年(1582)5月には、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。 このため三好氏旧臣らは元親を見限って康長に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされた。 元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している。四国攻撃軍は6月2日に渡海の予定であったが、その日に本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺された。 信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。「四国平定と秀吉との対立」 元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を8月に中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置いた(第一次十河城の戦い)。9月には勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定する。10月には存保が逃れた虎丸城や十河城を攻めた。 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗する。 これに対して秀吉は家臣の仙石秀久を淡路洲本に入れて備えた。 また元親に追われた十河存保は秀吉に援軍を求め、秀吉は秀久に屋島城・高松城など讃岐の長宗我部方の城を攻めさせるも敗退。*「仙谷秀久の四国戦」天正10年(1582)6月、信長が本能寺の変で死去し、秀吉の中国大返しと山崎の戦いが始まると、秀久は淡路で明智光秀方に与した豪族達を討伐する任にあたり、淡路平定に貢献した。秀吉は織田氏重臣の柴田勝家と賤ヶ岳の戦いで対決。秀久も羽柴秀勝と共に十二番隊の将として参戦する予定であったが、秀吉は秀久に四国勢の抑えとして急遽近江から淡路に出向く命を与えた。これにより、柴田側に与した四国の長宗我部元親と対陣することとなる。淡路入りした秀久は菅達長を破り、その後小豆島を占拠し、十河存保を救援(第二次十河城の戦い)するために四国へ渡る。手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。次いで讃岐国引田に上陸、引田城に入城した。天正11年(1583)4月21日、長宗我部勢の香川信景らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと徐々に巻き返され、次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する(引田の戦い)。一説では、この戦いの最中に秀久は幟を取られる失態を見せたといわれている。敗戦後は淡路島と小豆島の守りを固める事に専念し、瀬戸内の制海権維持によって四国勢を牽制した。天正11年(1583)、秀久は淡路平定の軍功を評価されて淡路国5万石を拝領して大名となり、洲本城に入城した。天正8年(1580)との説もあるが、信長が淡路に平定軍として秀吉を派遣したのは天正9年(1581)といわれているため、これは資料の誤りである可能性が高い。淡路受領後は淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括し、紀州征伐では湯川一族討伐で功を挙げた。
2024年06月15日
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光秀は石谷頼辰を派遣して元親を説得したが、おそらく天正9年(1581)後半頃には織田・長宗我部の交渉は決裂した。 一方、長宗我部氏は信長と対立関係にあった毛利氏とも協調関係にあった。 両氏に関係が生じたのは、阿波の親長宗我部勢力であった大西覚用が遅くても天正5年(1577)2月までに毛利方に通じたために4月に長宗我部氏が大西氏を攻めたものの、同年7月までに毛利氏が現状(大西氏の長宗我部氏への服属)を認めて以降のことであり、大西氏や讃岐の親毛利勢力で天正7年(1579)以降長宗我部氏の傘下に入った香川信景を通じて協調関係にあったと考えられるが、長宗我部・織田の決裂に伴い、天正9年(1581)8月までには讃岐天霧城にて対織田同盟を結んだ。また東伊予の金子元宅とも天正9年(1581)中には同盟を結んだ。 同年9月までに篠原自遁や東讃岐の安富氏も小寺(黒田)孝高を介し、当時中国攻めの任にあった秀吉に人質を差し出して従属した。 これに伴い、秀吉は孝高に淡路攻撃を指示した。10月、秀吉は当時淡路志知城に進出していた孝高に、長宗我部氏に抵抗する篠原の木津城及び森村春の土佐泊城への兵糧・弾薬の補給を命じた。 11月中旬、秀吉は自ら池田元助と共に淡路に渡り、まず由良城の安宅貴康を降した。次いで岩屋城を攻略して生駒親正に守備させ、仙石秀久に淡路の支配を命じた。 また安富氏の秀吉への従属により、安富氏の勢力圏であった小豆島も同年中には秀吉の支配下に入った。天正10年4月には塩飽諸島も能島村上氏から離反して秀吉に属した。「四国の状況」*「四国一の盟主長宗我部」「長宗我部 元親」(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主・長宗我部元親と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。 しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。 豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。「家督相続」 天文8年(1539)岡豊城で生まれる。永禄3年(1560)5月、父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて実弟の親貞と共に初陣する。 数え年23歳という遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。 この一戦で元親の武名は高まり、長浜戦に続く潮江城の戦いでも戦果を挙げた。6月、父の国親が急死すると、家督を相続する。「土佐統一」 元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行う。長浜戦で敗れた本山茂辰は元親の攻撃に押される一方となり、永禄3年末の段階で現在の高知市における西南部の一端を除いて元親は悉く支配下に置いた。 永禄4年(1561)3月には本山方の神田・石立を落として茂辰を朝倉城と吉良城に追い込む。土佐国司で幡多郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名の一条氏と共同し、永禄5年(1562)9月16日に朝倉城攻めを行う。 このときは茂辰の子で元親の甥に当たる本山親茂の奮戦で敗北した。9月18日には鴨部の宮前で両軍が決戦するも痛み分けに終わる。 だが勢力圏の縮小から茂辰を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ、永禄6年(1563)1月に茂辰は朝倉城を放棄して本山城に籠もった。 この年、美濃斎藤氏から正室を迎え、長弟の親貞に吉良氏を継がせている。 また、次弟の親泰は国親の生前に香宗我部氏を継いでおり、土佐東部の安芸郡を支配する安芸国虎とも戦った。 本山方は5月に頽勢挽回を図って岡豊城を、攻撃を企てるも失敗。永禄7年(1564)4月7日には本山を放棄して瓜生野城に籠もって徹底抗戦する。 だがこの最中に茂辰が病死。 跡を継いだ親茂も抗戦するも遂に敗れて、永禄11年(1568)冬に降伏した。 こうして土佐中部を完全に平定した。 元親は永禄10年(1567)の毛利氏の伊予出兵によって勢力を激減させた一条兼定からの自立を目論み、河野氏へ独自に戦勝祝いを送るなど独立性を強めていった。 永禄12年(1569)には八流の戦いで安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。元亀2年(1571)、一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込む。 天正2年(1574)2月には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。 こうして元親は土佐国をほぼ制圧した。天正3年(1575)に兼定が伊予南部の諸将を率い再起を図って土佐国に攻め込んできたときは、一時窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦いでこれを撃破し、土佐国を完全に統一した。
2024年06月15日
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『信長公記』天正8年6月26日条に明智光秀を介して織田信長に献上した長宗我部元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現しているが、これは信長の織田政権が一条内政を土佐国主と認識していた、もしくは意図的に国主と認定することで陪臣である長宗我部元親の土佐支配を否認して信長ー内政ー元親の秩序に服従するように要求したと解する秋澤繁の説がある[4]。ところが天正9年(1581)2月に、長宗我部氏家臣の波川清宗の謀叛に加わった嫌疑で伊予法華津に追放。同国の法華津氏や豊後大友氏に援助を求めるが、その地で病死したとも、元親によって毒殺されたともいう。あるいは天正8年(1580)5月に伊予国邊浦に放たれて殺害されたともされる。前述の秋澤説では長宗我部側からすれば信長が認めた土佐国主・一条内政の追放によって、元親は織田政権への服属拒否の姿勢を示し、両者の関係は断絶・交戦状態に入ったと解している。) つまり、信長は長宗我部氏の土佐支配そのものを暗に否認して元親の行動に一条家の家臣として織田政権の秩序に従属するように求めたというのである。 なお、一条内政は天正9年(1581)2月に反乱に連座して、元親によって土佐から追放されているが、これは単なる土佐国内の問題ではなく、天正8年6月以後の状況の変化によって元親の織田政権政策が強硬寄りに変更されて「信長ー内政ー元親」の秩序を拒否した結果とされている。 同じ頃に康長と秀吉が接近しはじめていた。秀吉の目的は、当時交戦中だった毛利氏に対抗するため、三好氏の水軍を味方につけることにあったと推測する。両者の提携に際し、遅くとも天正9年(1581)2月までに秀吉の甥・孫七郎(後の豊臣秀次)が康長の養子となっていた。 天正9年(1581)3月、康長は讃岐から阿波に入り、三好康俊を長宗我部氏から離反させた。*三好 康俊(みよし やすとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏の一族。阿波岩倉城主。三好康長の嫡男として生まれる。はじめ、父・康長と共に三好氏に仕え、後に岩倉城主となり、従兄弟の横田宗昭や、重臣塩田一閑ら側近の補佐を受けた。父が畿内へと移動した後は勝瑞城城主となる。天正3年(1575)、土佐国を統一した長宗我部氏が、四国制覇を目指して阿波国への侵攻を開始した。康俊はこれに対抗するが、天正7年(1579)12月27日、三好氏重臣である三好越後守、矢野国村、川島惟忠らを脇城外で殺害、岩倉城西の城の一門の武将・大島丹波の嫡子・大島利忠を人質として差し出し降伏。一転して、織田方の同族・十河存保と戦った。ところが、天正9年(1581)3月、阿波国奪回を狙う父の勧めに従って織田信長に帰属した。当時、長宗我部氏と織田氏は交戦状態になく、人質となっていた嫡子の俊長は返されている。天正10年(1582)になって信長は長宗我部と断交。2月、神戸信孝を総大将とする四国遠征軍の先陣として父・康長が阿波に侵入すると、康俊も岩倉城でこれに呼応した。しかし6月、本能寺の変で織田信長が横死を遂げると、逆に長宗我部勢(香宗我部親泰)に攻められ、城を捨てて逃亡したとも、この時に討死したともいわれている。以後は消息不明。俊長は後に長宗我部氏の家臣となり、長宗我部氏改易後は新たな土佐国主となった山内一豊に仕えた。) 同年6月、信長から香宗我部親泰に朱印状が与えられた。その内容は長宗我部氏と三好氏が協力することを求めるもので、信長の四国政策が三好氏寄りに変更されたことを示すものだった。 長宗我部氏から圧力を受けた阿波の三好氏、伊予の河野氏や西園寺公広らは信長に救援を求めたため、信長は元親に土佐及び阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地は返還するよう命じた。*「西園寺 公広」(さいおんじ きんひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊予国の戦国大名。伊予西園寺氏8代当主。黒瀬城主。西園寺十五将の一人。天文6年(1537)、西園寺公宣の子として誕生。もともとは伊予来住寺で僧籍にあったが、弘治2年(1556)、当主であった伯父・西園寺実充の実子・公高が戦死したため、永禄8年(1565)に実充の養嗣子として迎えられて還俗し、実充の娘・西姫の婿となり、家督を継承した。同年、土佐国の一条兼定を攻める。永禄11年(1568)には毛利氏、河野氏と手を結んで一条兼定、宇都宮豊綱、津野氏を攻めて勝利した。(鳥坂峠の戦い)元亀3年(1572)にも一条氏を攻めたが、逆に兼定と縁戚関係にあった大友宗麟の攻撃を受けて大敗した。天正12年(1584)、長宗我部元親の猛攻を受けて降伏し、さらに翌天正13年(1585)、四国平定を図る豊臣秀吉配下の小早川隆景に降伏した。その後は居城の黒瀬城のみを残され、新領主の隆景に属し九州平定に配下として従軍するなどしたが、天正15年(1587)、新たに宇和の領主となった秀吉の家臣・戸田勝隆に戸田邸で謀殺された。享年51歳。実子も養子もなかったため、これにより大名としての西園寺家(伊予西園寺氏)は完全に滅亡した。辞世の歌は「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」。) しかし、元親は四国征服は信長が認めたことであり、また獲得した領地は自力で切り取ったものであり信長の力を借りたものではなく指図を受けるいわれはないとはねつけた。
2024年06月15日
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元信・元康の死後は再び畑山氏より元信の実弟である安芸元盛(もともり)が当主に迎えられて家の苦境を乗り切るも、以降の勢力拡大策は停滞することになった。とはいえ、戦国時代には土佐七雄の中でも「安芸5000貫」と称されるほどの土佐東部を代表する大国人として君臨し、なおも強勢を保った。戦国時代の大永6年(1526)には隣接する七雄の一つである香宗我部氏を破って勢力を拡大し、さらに元盛の曾孫・安芸国虎の代に国内の名家である土佐一条氏と姻戚関係になって全盛期を迎えた。しかし香宗我部氏を破って勢力を拡大したことから長宗我部氏との緊張関係に陥ると、永禄年間の初期、国虎が長宗我部元親の属領である香美郡夜須に侵入したことにより両家は敵対する。当初は東の安芸氏よりも、北の本山氏攻略に力を傾注していた元親に対し、一条兼定からの援軍を得た国虎が優勢で一時は元親の居城・岡豊城を落城寸前に追い込むなどしたが、土佐国内の動乱を憂慮した一条兼定による安芸氏・長宗我部氏の和睦を進めたため、一時的に両家は和睦した。だが和睦から5年後の永禄12年(1569)4月、国虎は一条兼定の援軍を得ることで和睦を破棄して元親と再度敵対する。だがこのときの元親は本山氏を服従させて土佐中部を完全に制圧しており、すでに力関係は完全に逆転していた。7月に安芸軍は矢流川合戦(もしくは八流の戦い)で衆寡敵せず大敗。支城の穴内城や新荘城なども長宗我部軍によって落とされ、国虎は安芸城に籠もった。だが譜代の家臣である横山紀伊守らが元親に内応して安芸城に招き入れたため、遂に力尽きて国虎は自殺。その遺児である千寿丸(弘恒)も三好氏を頼って阿波に落ちたため、安芸氏は滅亡した。その後、安芸氏の旧領は元親の実弟・香宗我部親泰が支配し、元親の四国征服における原動力となった。)これまでの間香宗我部氏とは同盟関係にあったが、安芸氏の打倒後、弟・親泰が入嗣し、併合が行われた。また、元亀2年(1571)津野氏に3男の親忠が養子として入って併合を行った。このように他の六雄(大平氏は一条氏により滅亡)を支配した元親は、土佐一条氏の内乱に乗じ、追放された当主一条兼定に代わって天正2年(1574)に兼定の子・一条内政を大津城に入れ「大津御所」として傀儡化(かいらいか)した。家臣所領 (天正15年(1587)時点。1町 = ~10石)[17]長宗我部氏直轄領 – 2300町吉良氏 – 1300町津野氏 – 1000町片岡氏 – 1000町香宗我部氏 -540町土佐統一過程で長宗我部氏が臣従化した国人一族は、このように多くの所領を有しており、集権化にあたって障害となったため、粛清されたとも考えられる。この後は、元親死去まで元親と盛親の二頭政治が行われている。 5、「戦国時代の四国情勢」「友好から対立へ」 天正3年(1575)土佐を統一した元親は家臣の反対を押し切り、中島可之介を使者として信長の元に派遣した。 目的は、元親の長男弥三郎の烏帽子親を信長に引き受けてもらうことだった。 交渉は成功し、信長は弥三郎に一字を与えて信親と名乗るよう返書を出した。 この時信長は元親に阿波での在陣を認め、また「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状も出したとされる。 天正8年(1580)6月、元親は香宗我部親泰を安土に派遣し、阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。 また阿波征服のために、康俊の父三好康長が長宗我部氏に敵対しないように信長から働きかけてくれるよう依頼し、いずれも了解を得た。 この頃は明智光秀が取次役として、元親・信長の交渉窓口となっていた。 なお、この時のことを記した『信長公記』天正8年6月22日条において、元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現していることが注目される。 この「捕佐(=輔佐)」の意味については不詳とされてきたが、この当時の土佐国は長宗我部氏によって統一されていたものの、土佐一条家の当主である一条内政が未だに元親の庇護下に置かれており、信長は内政=国主・元親=輔佐すなわち陪臣と位置づけたと解する説が浮上した。*「一条 内政」(いちじょう ただまさ)は、安土桃山時代の大名・公家。土佐一条氏第6代当主。権中納言・一条兼定の嫡男。一条兼定の嫡男として土佐国幡多郡中村に生まれる。名の「内」は宗家の一条内基(うちもと)からの偏諱とされる。ただし「内」の読みは異なる。天正元年(1573)9月、長宗我部元親に擁立されて父・兼定を追放して家督を継ぎ土佐国司となる。長岡郡大津城に移り、大津御所と称された。天正2年(1575)12月従五位上・左近衛少将に叙任され、天正5年(1577)従四位下・左近衛中将に至る。傀儡当主といわれるが、元親の娘を娶っていたためかある程度の領国経営を行い、弱体化した土佐一条家領の立て直しを図った。
2024年06月15日
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4、「南北朝・室町時代」南北朝時代の争乱においては、11代信能は足利氏方に属し、土佐国守護であった細川顕氏の下で長岡郡八幡山東坂本において南朝勢力と戦っている。その功で香美郡吉原庄(現・香南市吉川町西部)の他、長岡郡・香美郡・土佐郡の各地に計1134町(後世の天正期検地の石高、1町はおよそ10石)の土地を与えられ、発展の基礎を築いている。12代兼能は、貞和元年(1345)細川氏により吸江庵(現・吸江寺)寺奉行に任じられている。吸江庵は文保2年(1318)に夢窓疎石によって創建された、当時の名刹であった。寺奉行を解任されたという記事は16代文兼までないので、そのまま世襲されたと考えられる。14代能重の代には、至徳3年(1386)頃、吉原庄全域を支配下に収めている。土佐国守護代として細川頼益(細川遠州家 初代)が入部したのは康暦2年(1380)であり、細川氏とのつながりを背景に、吸江庵寺奉行と吉原庄を持ち、相当な勢力を有したと考えられている。 戦国時代に入り、16代文兼の代では、応仁の乱の戦乱を逃れ一条教房(土佐一条氏 初代)が土佐に下向している。文兼は文明3年(1471)、長子元門(17代)を追放しており、それがもとで吸江庵寺奉行を解任され、幾つかの領地も支配下から離れている。元門はこの際に久武氏・中内氏を連れて武者修行に出て、伊勢国桑名において桑名氏を家臣に加えた。これら3氏は、のちに長宗我部氏の三家老に数えられる。文兼・元門の争乱は、元門の弟・雄親(18代)が家督を継ぐことで決着し、雄親は幾つかの寺の再興も行なっている。応仁の乱以後、全国的に争乱が始まる。中央で大きな権力を持った本家の細川政元が暗殺(永正の錯乱)されたことで、土佐守護代の細川氏を含め各地の細川氏一族は京都に上洛。これにより土佐もまた、守護による領国支配が終わって戦国時代を迎えることとなる。この時期の土佐国は、盟主的存在である土佐一条氏の下に、土佐七雄と呼ばれる長宗我部氏を含めた七国人が割拠していた。土佐七雄一覧 (『長元物語』より。1貫 = 1から2石)土佐一条氏 - 土佐国司。七雄にとって盟主的存在。幡多郡 16,000貫*本山氏 - 長岡郡5000貫*吉良氏 - 吾川郡5000貫*安芸氏 - 安芸郡5000貫*津野氏 - 高岡郡 5000貫*香宗我部氏 - 香美郡 4000貫*大平氏 - 高岡郡 4000貫*長宗我部氏 - 長岡郡 3000貫この他、『土佐物語』には山田氏、片岡氏を加えた9氏が有力豪族として記載されている。このように最も弱い勢力であった長宗我部氏は、19代兼序(兼序は法名。正式名は元秀)の時、岡豊城を追われ、一時滅亡する。その経緯には、諸説ある。兼序は主君細川政元存命時はその威を借りて勢力を伸ばしたが前述の政元暗殺後、周辺豪族の反感を買い永正5年(1508)、本山・山田・吉良・大平連合軍3千により落城したという説(『土佐物語』)。吸江庵の寺領問題で、大津城を拠点とした天竺氏に滅ぼされたという説。いずれの説においても、戦乱で兼序の遺児千雄丸は城を脱出し、土佐一条氏のいる中村に落ち延びて保護されたとされる。千雄丸は土佐一条氏当主一条房家の下で元服して長宗我部国親を名乗った。そして房家の配慮により永155年(1518)岡豊城に帰還して長宗我部氏を復興、20代当主となる。国親は本山氏と表向き手を結んだ上で、吉田氏と婚姻関係を結び地位の安定を図ると共に、近在の天竺氏・横山氏・山田氏ら周辺豪族を滅ぼし、勢力を拡張した。永禄3年(1560)には本山氏に反旗を翻し長浜の戦いで敗走させたが、同永禄3年(1560)病死した。国親の跡を継いだ21代長宗我部元親の時代に、長宗我部氏は最盛期を迎える。元親は父・国親の遺志を継いで永禄5年(1562)本山氏を滅ぼし、同永禄6年(1563)には弟・親貞を吉良氏に入れ併合、同永禄12年(1569)には安芸氏を滅ぼしている。*「安芸氏」(あきし)は、土佐の国人領主。土佐国東部の安芸郡を支配したが、戦国時代に長宗我部元親によって滅ぼされた。安芸氏の出自は、通説では壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に味方した結果、土佐に配流となった蘇我赤兄の子孫が土佐の東端である安芸郡などに拡大して台頭し、国人になったものと伝わる。ただし別説も多く、詳細な出自に関しては不明である。室町時代に強勢となった安芸氏は、香美郡大忍庄に侵出して勢力を拡大した。安芸氏が勢力拡大に成功した背景には、安芸川という交通の要衝を利用した貨幣経済の発展に、土佐という土地経営を巧妙に生かして成長したのが要因といわれる。永享11年(1439)、当主の安芸元実(もとざね、摂津守)が摂津国内で戦死(大和永享の乱の影響によるものか)し、分家の畑山氏より安芸元信(もとのぶ)が養嗣子に迎えられた。しかし、応仁の乱で東軍(細川勝元方)へ加勢した元信とその嫡男の元康(もとやす)が共に戦死するなど苦境に見舞われる。
2024年06月15日
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3、「長宗我部の郎党頭」土佐に入国した長宗我部氏は、長岡郡岡豊(おこう、現・南国市岡豊町)の地を拠点とした。当時の土佐国は高知平野(現・高知県高知市中心部)が未開拓地であったことから、香長平野(長岡郡・香美郡)を中心としていた。戦国時代には長宗我部氏は岡豊山に築いた岡豊城を居城としているが、これは初代能俊が入部後に築いたものを南北朝時代に修築、戦国時代において城郭としての規模を整えたと伝えられている。*「岡豊城」(おこうじょう)は、高知県南国市にある中世の日本の城(山城)跡。戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている[1]。南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、ただの宗我部氏であったが、隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の宗我部氏があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。この頃、長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。七雄の抗争は翌年の永正5年(1508)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。 従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている。 岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574))主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591))新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。) 7代兼光の頃には多くの庶流を出していることから、当時の一般的な支配体制である惣領制により発展したと考えられる。
2024年06月15日
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2、「長宗我部の出自」長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。土佐国長岡郡によった国人の一族で、土佐国の七豪族(土佐七雄)の一つに数えられた。戦国時代に入って勢力を広げ、長宗我部元親の代で他の豪族を討滅・臣従化して勢力を広げて戦国大名に成長し、土佐一条氏を滅ぼし土佐を統一する。その後も勢力を伸ばし、ほぼ四国統一までこぎ着ける。しかしながら、羽柴秀吉の四国征伐の前に敗れ、土佐一国に減封され豊臣政権に臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦する。子・長宗我部盛親の代で関ヶ原の戦いに西軍として参戦・敗北し改易される。その後、盛親が大坂の陣で大坂方に味方して刑死したことにより、嫡流は断絶した。他家に仕えるか帰農した長宗我部子孫が、現在に残っている。「長宗我部」の名称と表記、長宗我部氏のよった土佐国長岡郡宗我部郷の名が古くより「宗部」・「曽加倍」[1]と記載されるなど一定しないこともあり、氏の名も「長宗我部」・「長曽(曾)我部」の両方が用いられている。長宗我部氏の出自には諸説あるが、秦氏祖先説が通説である。秦氏祖先説に秦氏の繁栄を築いた秦河勝の後裔が長宗我部氏であるとされている。秦河勝は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(587)にて聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功をたて信濃国に領地を与えられたので、子・秦広国を派遣した。*「丁未の乱」(ていびのらん)は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。 大和国から河内国へ入った蘇我陣営の軍は餌香川の河原で物部軍と交戦し、戦後の河内国司の言によれば双方合わせての戦死者は数百に上ったという。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。軍事を司る氏族として精鋭の戦闘集団でもあった物部氏の軍勢は強盛で、守屋自身も朴の木の枝間によじ登り雨のように矢を射かけ、大いに奮闘した。皇子ら追討軍の軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺し、総大将を失った物部軍は総崩れとなる。この好機に追討軍の寄せ手は攻めかかり、守屋の一族らを殺し、結果守屋の軍は敗北して離散した。生き残った守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。この結果、蘇我氏は親子二代に渡って対立してきた宿敵・物部氏の勢力を中央から完全に排除することに成功し、厩戸皇子と連携して更に権勢を強めていく。また、物部氏を中心としていた仏教反対派の発言力が衰え、仏教の国内浸透も本格化していくこととなった。この頃、厩戸皇子は摂津国に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。)これにより信濃秦氏が始まる。後年、信濃更級郡に居住していた秦能俊(初代 長宗我部能俊)が土佐に入ったのが、長宗我部氏の始まりとされる。能俊の入国時期には諸説ある。延久年間(1069~1073)説。*保元の乱(1156)に際し崇徳上皇方に属して敗戦した結果土佐に奔(はし)ったという説。*承久の乱(1221)において仁科氏と戦い、その功で所領を与えられ地頭となったとする説。これらより、正確な時期はわかっていないが平安時代末~鎌倉時代初期に入国したものと考えられる。能俊は土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷、現 南国市岡豊町・国分周辺)に定住したため宗我部氏を自称したが、近隣の香美郡宗我郷(宗我部郷、現・香南市赤岡町・吉川町周辺)によった宗我部氏を名乗る一族があったため、長岡郡の一字をとって「長宗我部」とし、香美郡の宗我部氏は「香宗我部」を名乗るようにし、互いに両者を区別したと言われる。1201年には「香宗我部」の書状が見えることから、この時期にはすでに区別されている。 なお、『元親記』などに基づいて長宗我部氏が国司として下向し土着したとする説があるが、国司任官を実証する史料はない。
2024年06月15日
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