歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年06月17日
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カテゴリ: 大正・昭和




」5月22日・ 第1次吉田内閣 (だいいちじ よしだないかく)は、外務大臣・貴族院議員の吉田茂が第45代内閣総理大臣に任命され、1946年(昭和21年)5月22日から 1947 年(昭和22年)5月24日まで続いた日本の内閣であ る。 これが 旧憲法 下で天皇から 組閣の大命 を受けて発足した最後の内閣となった。


吉田茂内閣の顔ぶれは下記の通りである。


内閣総理大臣・吉田茂・45代・貴族院・外務大臣・日本自由党。


外務大臣・吉田茂・56代・貴族院・総理大臣と兼任・日本自由党総裁・


内務大臣・大村清一・65代・内務省・初入閣。


大蔵大臣・石橋湛山・50代・民間・初入閣。


復員大臣・吉田茂・2代・貴族院・総理兼任・


司法大臣・木村篤太郎・47代・司法省・初入閣。


文部大臣・田中耕太郎・61代・民間・初入閣。


厚生大臣・河合良成・15代・貴族院・・初入閣。


農林大臣・和田博雄・4代・農林省・初入閣。。


商工大臣・星島二郎・3代・衆議院・初入閣。


逓信大臣・一松定吉・1代・日本進歩党・転任。


国務大臣・幣原喜重郎・日本進歩党・日本進歩党総裁。


国務大臣・上原悦二・衆議院・日本進歩党・初入閣。


国務大臣・金森徳次郎・貴族院・憲法改正担当・初入閣。


国務大臣・膳桂之助・貴族院・初入閣。


「吉田 茂」 (よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日  –  1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。


外務大臣(第 73  75  78 ・79 代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣(第45・48・49・ 50 51 代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。


東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、および1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。


優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田と安倍晋三の2人のみである。


政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学において総長に就任した。


また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。


なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人である。


生い立ち


1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区) [ 1] に生まれる。


父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。実母の身元はいまでもはっきりしない。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。


吉田の実父と義父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった。


1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。


ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。


養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した [2] 。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている。


学生時代


少年期は、大磯町西小磯で義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。


同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。


1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科、学習院大学の前身)を卒業した。


同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。






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最終更新日  2024年06月17日 07時49分15秒
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