全5677件 (5677件中 201-250件目)
「長宗我部一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「長宗我部の出自」・・・・・・・・・・・・・・・43、 「長宗我部の郎党頭」・・・・・・・・・・・・・・84、 「南北朝・室町時代」・・・・・・・・・・・・・・115、 「戦国時代の四国情勢」・・・・・・・・・・・・・186、 「元親の阿波・讃岐へ侵攻」・・・・・・・・・・・347、 「長宗我部の調略」・・・・・・・・・・・・・・・508、 「秀吉の元親への降伏交渉」・・・・・・・・・・・689、 「秀吉の四国攻めの開始」・・・・・・・・・・・・8910、「長宗我部元親の降伏」・・・・・・・・・・・・・9911、「戦後の元親とその後」・・・・・・・・・・・・・10712、「元親の逸話と評価」・・・・・・・・・・・・・・11313、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・123 1,「はじめに」長宗我部氏は、中世土佐の武家、長曾我部とも書く。長岡郡宗部郷(元南国市)を領したことから長宗我部氏と称し、岡豊城を本拠に勢力を伸ばした。長宗我部氏の出自には諸説はあるが、まだ明確に解っていない。 室町期には守護細川氏の配下に属して活動していたが、永正4年((1507)京都で細川政元が暗殺されると、国内で孤立を深めていった。 まもなく、当主長宗我部兼序(かねつぐ)は周辺の国人達に襲撃を受けて岡豊城で自害をした。 この時、兼序の子長宗我部国親(くにちか)(1504年~1560年)は幡多郡の一条氏の下で逃れたが、やがて岡豊に戻って長宗我部氏の再興を勧めた。永禄3年(1560)国親が急死すると、その子長宗我部元親が家督を継いで近隣の国人層を次々に従えて、天正3年(1575)土佐統一を達成し、更に阿波・讃岐を制圧し、伊予にも侵攻したが、1585年に豊臣秀吉に従属を拒否し戦いになった。秀吉は毛利氏と連携し元親へ出兵を決意し、羽柴秀長を総大将として四国へ侵攻させた。多くの家臣団が参戦した。黒田孝高に淡路に先鋒と派兵した。元親も各地に防援軍を配置した。讃岐には宇喜多秀家軍が備前・美作の兵を、播磨から蜂須賀軍を編成し、仙谷軍が加わった。秀長軍の率いる大和・和泉・紀伊の軍勢は堺から船出し阿波に土佐伯に上陸し、元親防衛戦を次々突破し、長宗我部元親は最後には折れて秀長の停戦条件を飲み降伏したのである。元親は土佐一国は安堵されて、今後、秀吉に帰順する事で終結したのである。秀吉に敗れて服属した。 秀吉の下で諸国を転戦するが、慶長4年(1599)に元親が死ぬと、家督を長宗我部盛親は翌年の関が原では西軍に属した。このために、徳川家康は土佐一国を長宗我部から没収したところ、遺臣らが反発して浦戸一揆など、度々蜂起が見られた。元和元年(1615)盛親は大坂夏の陣で敗れて殺害され、一族は滅亡した。
2024年06月15日
コメント(0)
11「円仁帰国後の活動」翌年帰京、大法師位に任じられ、翌嘉祥2年(849)延暦寺に灌頂を始終し、翌年春文徳天皇即位に際し、奏請延暦寺に総持院を建て常時修法の道場とした。文徳天皇(もんとくてんのう、827年〈天長4年8月〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)は、日本の第55代天皇(在位:850年5月4日〈嘉祥3年3月19日〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。承和9年(842年)、承和の変で皇太子・恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の譲位により践祚。こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強めた。文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年の3月に第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産んだ。惟仁親王は11月に、生後8か月で3人の兄を押しのけ立太子した。天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子・惟喬親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に大内裏の東部にある東宮雅院や、嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかった。また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。9世紀後半における摂関政治や陣定の成立など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある。やがて天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣・源信の諫言で取り止めとなった。かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。宝算32。通説では死因は脳卒中といわれているが、歴史学者の彦由一太はあまりの病状の急変から藤原良房による暗殺説を唱えている。翌翌年文徳天皇に両部灌頂を授けたのをはじめ、清和天皇に菩薩戒、太后に菩薩戒、灌頂を授けた。清和天皇(せいわてんのう、850年5月10日〈嘉祥3年3月25日〉 – 881年1月7日〈元慶4年12月4日〉)は、日本の第56代天皇(在位: 858年10月7日〈天安2年8月27日〉 – 876年12月18日〈貞観18年11月29日〉)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。略歴父・文徳天皇が践祚して4日目に生まれる。第四皇子であり、異母兄に惟喬・惟条・惟彦親王がいたが、 外祖父・藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8か月で皇太子となる。天安2年(858年)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。貞観8年(866年)には伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生した。善男を信頼していた天皇は、事件が解決しない最中の同年8月に良房を正式に摂政に任命した。なお、『日本三代実録』の清和上皇の崩伝記事(元慶4年12月4日条)によれば、応天門の放火の主犯は善男の子である中庸とされて善男はその連座に過ぎないとされたものの、清和天皇の意向によって厳罰に処せられたという。貞観18年(876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、太上天皇となる。2年半後の元慶3年(年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。翌年3月丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。宝算31。陽成天皇即位後の清和上皇が国政に関わったという記録は見えないものの、藤原基経の摂政任命及び上皇の崩御その日に行われた基経の太政大臣任命には上皇の意向が働いていたとする説もある[3]。嘉祥3年(850年) 生誕。同年、立太子。天安2年(858年) 践祚。11月7日(12月15日)に即位(9歳)。貞観8年(866年) 応天門炎上事件(応天門の変)。貞観18年(876年) 27歳で突然譲位。元慶3年(879年) 出家して仏門に帰依。仏寺巡拝の旅へ。元慶4年(880年) 崩御。
2024年06月14日
コメント(0)
10「帰国の旅の苦難」当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った。この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』承和14年(847年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の記述を終えている(『行記』承和14年(847年)12月14日条)。54歳。最澄や空海が日本へ搬入しなかった経典やその後の新訳経典を意識的に集めて持ち帰り、日本の密教の発展に寄与した。この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価され、特にエドウィン・O・ライシャワーの研究により日本でも著名になり、欧米でも知られるようになる。
2024年06月14日
コメント(0)
五代以降長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。明代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐代には食料問題を内包する長安への遷都は実現せず、名称を西安(せいあん)と改称され地方都市として発展していった(現在の西安については西安の項目を参照のこと)。他国の都市計画への影響日本長安は当時における周辺諸民族の都市計画の模範となる都市であった。碁盤の目状の道路、南北を貫く大通り、北の政庁の位置、河川の配置といった特徴は日本の平城京、平安京にも強い影響を与えている。ただし平安京など日本の都は長安城と異なり、羅城門の左右を除いて城壁が設置されなかった。日本は大陸とは違い、北方騎馬民族の襲来に備える必要が無かったためとも言われている。またその規模も長安の三分の一程度であり、それでも人家が市域を埋めつくすことはなかった。平安初中期の詩文に、平安京を指して「長安城」と呼んだ例が見られる。渤海渤海の上京龍泉府も、長安を模して築かれた。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、大興善寺(だいこうぜんじ)は、中国の陝西省西安市雁塔区にある寺。隋の文帝が仏教復興の象徴、または国寺として建立した寺である。大興善寺は、文帝が即位後に新都として造営を開始した大興城のメイン・ストリートである朱雀門街の中ほど、すなわち大興城の中心に当たる位置にある靖善坊に置かれた。向かいの崇業坊には相い対する形で玄都観という道観が置かれた。但し、玄都観が崇業坊内の幾つかの道観の中で一番大きいというだけであったのに対して、大興善寺の方は、靖善坊の一坊すべてを占めていた。このことを以てしても、文帝の奉仏政策のさまをうかがい見ることができる。つまり、大興善寺は、その建立の当初から、その仏教治国策の中心寺院として構想されたのである。寺名の由来「大興」は、開皇2年(582年)の大興城造営と同時に詔勅によって定められた大興殿、大興門、大興県、大興園などの施設と同様、都城名に由来している。「善」の字は、その坊名から一字拝借したものである。住した僧侶北周末の大象元年(579年)に仏教復興に伴って陟岵寺に置かれた菩薩僧120名が、580年には正式の得度を受け、大興善寺が建立されると、移されて住僧とされた。この措置を見るだけでも、対仏教・道教の立場こそ違え、武帝の通道観・通道観学士と、宣帝の陟岵寺・菩薩僧、文帝の大興善寺・元菩薩僧の三者は、立場や名称こそ異なるけれども、統治者側の意向による国家的色彩の濃厚な施設と人員であったことを伺い知ることができる。また、闍那崛多・那連提耶舎・達磨般若・毘尼多流支らの西域からの渡来僧や、浄影寺の慧遠や曇遷・霊裕らの高僧名僧、60名余も集められ、訳経事業が行なわれた。こちらは、初唐の西明寺や大慈恩寺を舞台として行なわれた玄奘らの大規模な訳経を彷彿とさせるものである。青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所であった。歴史創建は、隋の開皇2年(582年)であり、当初は霊感寺と呼ばれた。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められた。青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のことである。唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学んだ。会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀された。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められている。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。そのため、以後三たび姿を消すこととなった。1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめた。
2024年06月14日
コメント(0)
9「長安への求法」当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。長安(ちょうあん、中国語: 長安、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。西周[長安の都市としての歴史は西周の都豊邑(旧字体:豐邑、ほうゆう)(または豊京(ほうけい))に始まる。豊邑は文王の時代まで周公の都であった。武王は殷の紂王を滅ぼしたのち、灃水(ほうすい、さんずいに豐、現在は灃河。似た字である澧水(れいすい)とは別の川)をはさんで豊邑の対岸にあった鎬京(こうけい)に遷都した。この豊・鎬の地は現在の西安市の西南近郊に相当する。秦紀元前350年、秦は都を雍(現在の陝西省鳳翔県の南)から、咸陽(現在の陝西省咸陽市の東北)に移した。渭水の北岸に位置する咸陽は、始皇帝のときに大幅に拡張され、渭水の南岸に興楽宮や甘泉宮が造営されて、渭水を渡す横橋で咸陽宮と連結された。渭南西郊の上林苑に朝宮の建造が計画され、その前殿として阿房宮が営まれた。前漢から北周秦滅亡後の戦乱の結果漢朝を建てた劉邦は、婁敬と張良の進言により破壊された咸陽の郊外に新たな都城を建設、長安と命名、蕭何が宮殿を造り、恵帝の時代には城壁が建築されている。長安城の南側は南斗、北側は北斗の形をしていたため、当時は長安城の別称として「斗城」が誕生した。長安城には九市、十二門が設けられ、城内には未央宮、長楽宮、北宮、桂宮といった宮殿があった(『三輔黄図』)。漢代の長安はいびつな形をしていた。その後前漢、新、後漢(滅亡前の数年間)、前趙、前秦、後秦、西魏、北周が首都を設置している。隋・唐北周を滅ぼした隋朝を立てた楊堅は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外である龍首原に新たな都城を造営した。新たな都城造営を担当したのは、宇文愷(555年 – 602年)である。初め大興城(だいこうじょう)と称された都城が、隋唐代の首都・国際都市としての長安の都である。中央の朱雀門街を挟んで、左街に54坊と東市、右街に54坊と西市、総計110の坊市から構成される条坊都市であった。全体はおよそ南北8651メートル、東西が9721メートルあったとされる。東西の方が長いのが特徴である。後述される日本の平安京とは異なり、長安城内では、各坊の四囲にも高い牆壁が取り囲んでおり、それら門は夜間は閉門され坊外との通行は禁止された。また、龍首原は、北から南に向かって、6段に分かれた台地状の丘陵であった。設計者の宇文愷は、それを周易の六爻になぞらえて都市計画がなされたと考えられている。天子の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である大興善寺と道観の玄都観とを置いて、国家の安泰をはかったという。最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。
2024年06月14日
コメント(0)
8「五台山巡礼」840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台叶斗峰にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。霊仙(りょうせん、759年?(天平宝字3年?) - 827年? (天長4年?))は日本の平安時代前期の法相宗の僧である。日本で唯一の三蔵法師。出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される。霊仙の出自については幾つかの説があるが、滋賀県醒井の松尾寺住職等の努力により2000年(平成12年)「霊仙三蔵顕彰の会」が発足し、「霊仙三蔵記念堂」が松尾寺内に設けられた。霊仙三蔵記念館に寄れば霊仙は、息長氏丹生真人族の中より霊仙山麓の地に生まれ、幼くして仏門に入り金勝寺別院霊山寺、その後興福寺で学んだとされている。興福寺で学んだ後、804年(和の延暦23年、唐の貞元20年)には第18次遣唐使の一人として45歳で入唐した。同期に最澄・空海・橘逸勢らがいる。長安で学び810年(唐の元和5年)には醴泉寺(れいせんじ)にて、カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受・訳語(おさ)を務めた。811年(唐の元和6年)、「三蔵法師」の号を与えられる。時の唐の皇帝・憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて、大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって、日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移る。825年(唐の宝暦2年、和の天長2年)には淳和天皇から渤海の僧・貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利や経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に、阿波国の稲千束を支給するよう計らった。その後、828年(唐の大和2年、和の天長5年)までの間に没したようで、一説によれば霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから死ぬまで日本の地を踏むことはなかった。840年(唐の開成5年、和の承和7年)7 - 8月、霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧・霊仙の最期の様子を聞いている。また、円行・常暁が入唐した際には、霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。文殊菩薩(もんじゅぼさつ、〈マンジュシュリー〉、梵:〈マンジュゴーシャ〉)は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。一般に智慧を司る仏とされる[2]。文殊は文殊師利(もんじゅしゅり)の略称。また妙吉祥菩薩(みょうきっしょうぼさつ)などともいう。曼殊室利等とも音写し、妙吉祥、妙徳、妙首などとも訳す。文珠菩薩とも書く。 三昧耶形は青蓮華(青い熱帯睡蓮の花)、利剣、梵篋(椰子の葉に書かれた経典)など。種字はマン。『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。また一説に釈迦十大弟子とも親しく仏典結集にも関わったとされる。『維摩経』には、維摩居士に問答でかなう者がいなかった時、居士の病床を釈迦の代理として見舞った文殊菩薩のみが対等に問答を交えたと記され、智慧の菩薩としての性格を際立たせている。この教説に基づき、維摩居士と相対した場面を表した造形も行われている。文殊菩薩が登場するのは初期の大乗経典、特に般若経典である。ここでは釈迦仏に代って般若の「空(くう)」を説いている。『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で描かれることなどからもわかるように、文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。尚、本来悟りへ到るための智慧という側面の延長線上として、一般的な知恵(頭の良さや知識が優れること)の象徴ともなり、これが後に「三人寄れば文殊の智恵」ということわざを生むことになった。中国の唐の天台宗の僧侶、湛然は『法華文句記』において、文殊菩薩は本来、龍種上尊王仏であったとする。文殊菩薩が、優填王、仏陀波利三蔵、善財童子、大聖老人(あるいは最勝老人=婆藪)の四尊ともに描かれた文殊五尊図は、中国・日本などでよく描かれた。文殊菩薩の五使者として、髻設尼、烏波髻設尼、質多羅、地慧、請召、が挙げられる。 文殊菩薩の八童子として、光綱、地慧、無垢光、不思議、請召、髻設尼、救護慧、烏波髻設尼が挙げられる。文殊菩薩の密号は、吉祥金剛、あるいは般若金剛とされる。文殊菩薩を描いた主な経典には、『文殊師利般涅槃経』、『文殊師利問経』、『文殊師利浄律経』、『伽耶山頂経』などがある。 また、『文殊師利発願経』、『文殊悔過経』、『文殊師利現宝蔵経』、『仏説文殊師利巡行記』、『妙吉祥菩薩所問大乗法羅経』、『千鉢文殊一百八名讃』、『大聖文殊師利菩薩讃仏法身礼』、『聖者文殊師利発菩提心願文』、『文殊師利菩薩無相十礼』などがある。
2024年06月14日
コメント(0)
7「在唐新羅人社会の助け」当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、張 保皐(ちょう ほこう、790年頃 – 846年?)は、統一新羅時期に新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた人物。張宝高とも記される。朝鮮語でもどちらもチャン ボゴと読む。張保皐とは漢名であり、本名は弓福(又は弓巴)だった。清海鎮大使から感義軍使を経て、鎮海将軍。張保皐は790年頃に新羅南部の海岸地帯に生まれ、810年中国の山東半島に渡り、その地の軍閥勢力であった徐州武寧軍に入って、高句麗人出身の北方軍閥・李正己と戦った。徐州節度使配下の軍中小将の地位を得た後、828年頃に新羅に帰国し、興徳王に面会して新羅人が中国で特に海賊たちに奴隷として盛んに売買されている実情を報告し、兵1万を授けられて清海鎮大使に任命された。清海鎮は現在の全羅南道莞島郡に相当し、任務は奴隷貿易禁圧である。張保皐は、海賊達を平定するに当たって、武力での鎮圧ではなく、奴隷貿易よりも安定して高収入が得られる海運業・造船業の仕事を与える方策を用いたといわれる。現在の全羅南道莞島に根拠地を置いた張保皐は、新羅南部の群小海上勢力を傘下に収め、唐・日本と手広く交易活動を行い、中国沿海諸港に居住するイスラーム商人とも交易を行った。このため、その名前は日本でもよく知られるようになった。836年に興徳王が死去すると、新羅の都・金城(慶州)では王族間の後継争いが起こり、一旦は敗れた金祐徴(後の神武王)が張保皐のもとに身を寄せてきた。張保皐は金祐徴を支援するために友軍の鄭年に5千の兵を与えて閔哀王を討ち、金祐徴は神武王として即位することができた。この功により張保皐は感義軍使に任命され、食邑2千戸を賜った。神武王は王位簒奪の成功の暁には張保皐の娘を王妃に迎えると約束していたが、即位後6ヶ月で急死した。後を継いだ文聖王は即位後直ち(839年8月)に大赦を行うとともに、張保皐の功績を称えて鎮海将軍の官位と礼服とを授けた。さらに845年3月、先王の盟約に従って張保皐の娘を王妃に迎えようとしたが、張保皐の身分が卑しいという群臣の反対によって取りやめとなり、これを恨んで張保皐は846年に反乱を起こした。文聖王は張保皐の武力を恐れて討伐を躊躇していたが、ここで閻長という剣客が彼の暗殺を請け負った。閻長は張保皐に偽装投降し、宴会の席で張保皐を暗殺した。閻長によって暗殺されたことは『三国史記』新羅本紀には文聖王8年(846年)条に見えるが、『三国遺事』紀異・神武大王閻長弓巴条には神武王代のこととしている。また、『続日本後紀』では11月までに死去しているとする。承和7年12月(841年1月)に特産品の日本朝廷への献上を目的に使人を大宰府に派遣したが、他国の人臣による安易な貢進は受け入れられないとして献上品の馬の鞍を返却する命が日本の朝廷から出ている。張保皐が暗殺された後、文聖王は851年に清海鎮を廃止した。張保皐の元部下達は、慶州の碧骨県(今の金堤)に移動させられたが、ここで再び反乱を起こした。張保皐が係わる一連の兵乱を「弓福之乱」と称することもある。死後に反逆者として扱われてきたため、張保皐に関する資料や彼の拠点は破壊されてほとんど残っておらず、残っている資料は大変貴重である。元部下達の一部は九州に移動したと見られている。『新唐書』新羅伝・『三国史記』列伝における評価『新唐書』巻220・新羅伝では、張保皐と鄭年とが元々知己であったこと、ともに唐で武寧軍少将となったことを伝える。張保皐が先に新羅に帰って高い官位(清海鎮大使)を得た後に、職を去って餓え凍えていた鄭年が張保皐を頼っていったときに暖かくこれを迎えたこと、歓迎の宴の最中に閔哀王が殺されて国都が混乱していることを聞くや、張保皐が鄭年に兵5千を与えて「あなた(鄭年)でなくては、この禍難を収めることはできないだろう」といい、反乱者を討たせて新王を立てたこと、新王によって張保皐は宰相に取り立てられたこと、代わりに鄭年が清海鎮大使を継いだこと、を記している。さらに続けて、杜牧が張保皐・鄭年の交わりを安禄山の乱における郭汾陽(郭子儀)・李臨淮(李光弼)の交わりに見立てて仁義の人であると賞賛したことを伝え、『新唐書』の列伝を編纂した宋祁の評として、国難の時期に義の心を持って国家の憂患を第一に考えた人として晋国の祁奚、唐代の郭汾陽・張保皐を挙げ、「どうして東方の蛮国に優れた人物がいないということがあろうか」と称えている(原文:嗟乎、不以怨毒相槊、而先国家之憂、晋有祁奚、唐有汾陽・保皐、孰謂夷無人哉。)。『三国史記』の編者の金富軾は、新羅の伝記(新羅本紀に基づく記事、上記)とは食い違っていることを明記したうえで、『新唐書』新羅伝の記述をほぼ引用した形で巻44・張保皐伝を記しており、張保皐の評価を支持している。また、巻43・金庾信伝下においても、新羅の三国統一を果たした金庾信の功績を図抜けたものとしながらも、乙支文徳の知略と張保皐の武勇とをともに顕彰している。慈覚大師円仁の求法の旅を支援9世紀前半、山東半島の港町・赤山(当時多くの新羅商人が居留するところとなっていた)に赤山法華院を寄進するとともに、短期で帰国しなければならなかった入唐請益僧円仁の長期不法在唐を実現(不法在留を決意した円仁のために地方役人と交渉して公験(旅行許可証)下付を取り付ける)したのを始め、円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。
2024年06月14日
コメント(0)
この帰国時の渡航ルートを巡って、常嗣と判官の長岑高名が対立するが、全責任者の常嗣はしかし高名の主張に敗れた。帰途、第2船は南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成らは協力し廃材を集めて島で船を作り、承和7年6月(4月?)に大隅国に帰着した。また、承和3年(836年)7月、途上の便宜を新羅に要請するために紀三津が遣新羅使として派遣されるが、三津と新羅側の双方の態度が新羅との間に外交問題を引き起こした。積年の格下蕃国扱いに対する新羅の反発離脱の意図もあると指摘されている。琵琶の名手として知られた藤原貞敏は唐で琵琶の名人の門下となり、さらに師の娘を娶った。貞敏は琵琶の名器「玄象」「青山」を持ち帰ったと同時にこの妻も一緒に帰国し、日本に筝を伝えた。本来短期留学の予定の円仁は一行から離脱する形で以降は不法滞在し、9年後に「会昌の廃仏」の影響を利用して帰国した。円載は以降40年近く唐に滞在し、862年には入唐した真如法親王(高岳親王)の世話をしている。なお円載は後に帰国の途上にて遭難死。 短期間の請益僧(学業を修めた僧が、その業を深め疑問を解決するための短期留学僧)であったため目指す天台山へは、規制が厳しくなり旅行許可が下りず、そのまま帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて、外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要だったが、危険を冒して、不法在唐を決意する[1]。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山から日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って、はるばる円仁を訪ねてきた。天台山(てんだいさん)は、中国浙江省東部の天台県の北方2㎞にある霊山である。最高峰は華頂峰で標高1,138m。旧字表記でも天台山であり、天臺山は誤り。桐柏峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する。中国三大霊山の一つ。仏教との関係では、天台智顗(538年 – 597年)が太建7年(575年)からこの天台山に登って天台教学を確立した。呉の赤烏中(238年 – 251年)に仏教寺院が建立された、という伝承がある。支遁や曇光、竺曇猷らの僧が、この山中に住した。また、後漢のころから道教の聖地ともされていた。竺曇猷は天台県の隣の三門県でも活躍し、国清寺の下院として密教の道場多宝講寺なども建立してある。法華経を根本経典とした中国天台宗の開祖智顗ゆかりの地として、古くから仏教信仰を集めている。仏隴峰の南山麓に天台大師(智顗)の国清寺がある。天台山の名は日本では日本天台宗山門派の総本山の比叡山(滋賀県大津市)の別名として使われることもある。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒される。中国語が通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもなく、怪しい僧だと、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻される(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
2024年06月14日
コメント(0)
6「天台山を目指すも規制と滞在」最後の遣唐使として唐に留学するが、遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。遣唐使の目的中国の先進的な技術や政治制度や文化、ならびに仏教の経典等の収集が目的とされた。白村江の戦いで日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった。遣唐使は日本からは原材料の朝貢品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易で、物品は正倉院にも残る。それだけでは需要に不足し、私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されていたが、遣唐使一行は調達の努力をしていた。旧唐書倭国伝には、日本の吉備真備と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が残されている。第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。この歳貢を免ずる措置は、倭国に唐への歳貢義務があることが前提で、唐国は倭国を冊封する国家関係を当然のものと考えていた、と指摘している。貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用したと、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在せず天皇号の使用自体を伏せていたとされる。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。 天台山留学を切望していた僧の円仁の渡航のために、大使の常嗣は便宜を図った。承和3年・承和4年ともに渡航失敗。承和3年5月に一旦出航するも、嵐に遭い摂津国大輪田泊から進めず、九州に至るまでに時間を要した。承和3年(836年)7月に太宰府を発って出航するも、全船が同月から翌月までに肥前国など九州各地に漂着した。真済・真然の子弟の船も遭難し、筏に乗り換え23日間漂流。筏の30余人は皆が餓死したが真済・真然だけは生き残り島に漂着。島民に助けられた。翌承和4年に仕切り直しとなるがこれも失敗。翌承和5年に改めて出航する。ここまでの過程で第1船が損傷し、大使の常嗣は自身の乗船である第1船と副使の小野篁が乗る予定の第2船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航を拒否したため、隠岐国へ流罪となった。篁に限らず、当時の朝廷ではもはや遣唐使の意義が薄れたことを理由に、危険な遣唐使を再検討すべきだとの批判があったとも指摘されているが、さらに伴有仁ら4名も乗船を拒否して逃亡し処罰を受けている。小野篁の拒否により副使不在となったが、現地では長岑高名や藤原貞敏らが代行した。この往路の渡航は志賀島から揚州まで8日間で到達した。一隻は往路で遭難。円仁の乗船は到達するも揚州の海岸に乗り上げて大破全壊している。この様子は円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている。揚州到達後、唐の政情不安により34名のみ長安に赴く。翌承和6年(839年)常嗣は長安で文宗に拝謁したのち、帰途は新羅船9隻を雇い8月に肥前に帰国。9月には帰国した使節それぞれに叙爵が行われている。
2024年06月14日
コメント(0)
5「唐への留学」遣唐使の渡海の困難承和2年(836年)、1回目の渡航失敗、翌承和3年(837年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。承和5年(838年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。砂州により本土と陸続きになった陸繋島。全国的にも非常に珍しい。規模は小さいが半島の定義を満たしている。島の南部と西部は博多湾に接し、北部と東部は玄界灘に接する。北部から東部にかけての沿岸は岩場がある。北西部の60mほど沖合いには沖津島という小島があり陸繋島となっている。島には3つの集落がある。海の中道から志賀島に入る道のある南東部にあるのが志賀(しか)、西部にあるのが弘(ひろ)、北部にあるのが勝馬(かつま)である。また、志賀と弘にはそれぞれ志賀島漁港(第2種)弘漁港(第1種)という漁港がある。勝馬に漁港はないが、田畑が広く、農業が営まれている。温暖な気候を活かした果樹やイチゴの栽培が多い。住所表記は南部と東部が志賀島(読みは島自体の「しかのしま」と異なり「しかしま」。郵便番号811-0323)、北部と中央部が勝馬(郵便番号811-0325)。西部が弘(郵便番号811-0324)。日本書紀や古事記に綿津見神の祭主・阿曇氏についての記述が見られる。筑前国風土記逸文に神功皇后の三韓征伐の際に立ち寄ったとの記述が見られる[3]。これには古代の半島・大陸との海上交通における志賀島の泊地としての役割が反映されていると考えられる。地名説話として、志賀島が「打昇浜」(うちあげのはま、海ノ中道)と連なりほとんど同じ所といってよいということから、「近島」とよんだものがなまって「資珂島」となったのだと伝えている。万葉集において、柿本人麻呂の「大君の遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば神代し思ほゆ」と詠まれる。“島門”とは博多湾への入口に位置する志賀島と能古島を門に見立てた謂い。万葉集で志賀島を歌ったものは、全部で16首になる。1274年(文永11年)、文永の役にて撤退する際に座礁した蒙古兵が志賀島で捕虜となり、うち220人ほどが首切塚(蒙古塚)で斬首されたとされる。1281年(弘安4年)、弘安の役では 志賀島の戦いの舞台となる。博多湾に現れた元軍は、石築地(元寇防塁)からの上陸を避け、陸繋島である志賀島を占領し軍の停泊地とした。これに対して、日本軍は海上と海の中道の陸路から元軍に総攻撃を行った。この志賀島の戦いで日本軍は大勝し、元軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退した。島内に残る火炎塚のある場所では高野山の僧侶によって敵軍退散の祈祷がおこなわれた。 円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁は潮で濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)とは、9世紀の日本人僧で、最後の遣唐使(承和)における入唐請益僧である円仁の旅行記である。その記述内容は、円仁がちょうど遭遇してしまった、武宗による会昌の廃仏の状況を記録した同時代史料として注目される。また、正史には見られない、9世紀の中国の社会・風習についての記述も多く、晩唐の歴史研究をする上での貴重な史料として高く評価される。円仁は最澄に師事した天台僧で、のちに山門派の祖となる。838年(承和5年)、博多津を出港した場面から始まり、揚州へ向かい、847年に帰国するまでを記述する。日記式の文体で書かれる。入宋した僧成尋が北宋皇帝に進上している。その後所在が忘れられていたが、明治に入って写本が東寺で再発見された。1955年には、駐日アメリカ合衆国大使でもあったエドウィン・O・ライシャワーが英訳して紹介し、各国語に翻訳されて広く知られる所となる。
2024年06月14日
コメント(0)
818年、みずから具足戒を破棄。『山家学生式』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論』を執筆。『内証仏法血脈譜』を書いて正統性を説く。弘仁13年6月4日(822年6月26日)、比叡山の中道院で遷化、享年56(満54歳没)。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子・光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。貞観8年(866年)、清和天皇より伝教大師(でんぎょうだいし)の諡号が贈られた。日本で初めての大師号である。以後「伝教大師最澄」と称される。書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、清澄で品格が高い。真跡として現存するものには次のようなものがある。久隔帖『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付で書いた尺牘(書状)で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『集字聖教序』を肉筆化したような響きを放つ。大きさは、29.2㎝×55.2㎝。奈良国立博物館蔵。国宝。円行(えんぎょう、延暦18年(799年)- 仁寿2年3月6日(852年3月29日))は、平安時代の真言宗の僧。出身は京都。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。略歴初め元興寺歳栄に師事して華厳宗の僧として得度・受戒した。823年(弘仁14年)空海から金剛界・胎蔵界両部の大法を受け、また杲隣(ごうりん)から灌頂を受けた。実恵の推挙により入唐請益僧(にっとうしょうやくそう)となり、838年(承和5年)円仁・円載・常暁らと唐に渡った。青龍寺義真から法を受けた。翌839年(承和6年)に帰国し「請来目録」を奉った。その後勅命により山城国霊巌寺を開創し、また天王寺の初代別当に任じられた。播磨国太山寺の開祖とも伝えられる。常暁(じょうぎょう、生年不詳 - 貞観8年11月30日(867年1月9日))は、平安時代前期の僧。出自については不詳。小栗栖律師・入唐根本大師とも称される。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。初め元興寺の豊安に三論(中論・十二論・百論)の教学を学び、その後空海から灌頂を受けた。838年(承和5年)三論の留学僧として唐に渡った。揚州で元照に三論の教学を、文サイ(サイは王へんに祭)に密教と大元帥法(怨敵・逆臣の調伏、国家安泰を祈る真言密教の法)を学び、翌839年(承和6年)日本に帰国した。840年(承和7年)山城国宇治の法琳寺に大元帥明王像を安置して修法院とすることを請い許された。ついで宮中の常寧殿で大元帥法を初めて行っている。以後大元帥法は後七日御修法に準じる扱いとなった。864年(貞観6年)権律師に任じられた。恵運(えうん、延暦17年(798年)- 貞観11年9月23日(869年10月31日))は、平安時代前期の真言宗の僧。俗姓は安曇氏。山城国の出身。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。慧運とも書く。初め東大寺泰基・薬師寺仲継に法相教学を学んだが、受戒後の824年(天長元年)真言宗の実恵の門下に入った。関東での一切経書写の検校や筑紫観世音寺講師などを歴任した後、842年(承和9年)唐の商人李処人の船で唐に渡った。長安青龍寺で義真に灌頂を受け、五台山・天台山を巡拝した。847年(承和14年)に帰国し、八家請来目録を呈上している。翌848年(承和15年)女御藤原順子の発願により京都安祥寺を開創した。その後僧都に任じられ、安祥寺僧都と称された。円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗(寺門派)の宗祖。諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。法号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」である。弘仁5年(814年)讃岐国(香川県)金倉郷に誕生。多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる
2024年06月14日
コメント(0)
4「入唐八家」「慈覚大師」(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(767年 – 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)もしくは生源寺(現在の大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。なお、最澄に唱える言葉は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」である。なお、年齢は神護景雲元年出生説に基づく。神護景雲元年(767年)8月18日、近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市坂本の一帯)を統治する豪族の三津首百枝(みつのおびとももえ)を父として古市郷か現在の生源寺の地で誕生する。幼名は広野(ひろの)。宝亀9年(778年)、12歳のとき近江国分寺(現在の大津市石山)に入り、出家して行表の弟子となる。宝亀11年〈780年)11月10日、近江国分寺僧闕(そうけつ、欠員の意)により得度し名を最澄と改めた。延暦2年(783年)1月20日、正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。延暦4年(785年)4月6日、東大寺で具足戒を受け比丘(僧侶)となる。同年7月に比叡山に登り山林修行に入り、大蔵経を読破。788年、自刻の薬師如来を本尊とする草庵、後に延暦寺根本中堂となる一乗止観院を創建する。797年、桓武天皇の内供奉十禅師。801年、比叡山一乗止観院で法華十講奉修。南都六宗の高僧10名に講師を依頼する(請十大徳書)。802年、高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師。桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発。9月上旬明州に到着。9月下旬台州に到着、湛然の弟子の道邃から天台法門の書写を受け修学する。10月天台山に登り、国清寺に入る。湛然の弟子の行満(ぎょうまん)から付法82巻を受け、翛然(しゅくねん)から達磨禅を受法する。805年2月、台州龍興寺において道邃の付法相承を受ける。3月、道邃より円頓大戒(大乗菩薩戒)を受け、4月、越州龍興寺の順暁より三部三昧耶の灌頂を受け、真言密教の「付法文」を受ける。5月、帰路の途中和田岬(現在の神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創する。7月に上洛、滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。9月、桓武天皇の要請で高雄山神護寺で日本最初の公式な灌頂が最澄により行われる。大同元年(806年)1月、最澄の上表により、天台業2人(止観業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。このころ、空海から、真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究する。弘仁3年(812年)の冬、弟子の泰範、円澄、光定らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂を受ける。そのとき曼荼羅の宝幢如来の「密号」である「福聚金剛」が法号としてつけられた。813年1月、泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。815年、和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。その後東国へ旅立つ。関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺(現在の群馬県浄法寺に位置する)や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。法相宗の学僧会津徳一との間に、三一権実の論争。徳一が『仏性抄』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、比叡山へ帰った後も続き、『法華去惑』(こわく)『守護国界章』『決権実論』『法華秀句』などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はことごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。
2024年06月14日
コメント(0)
説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導く法として上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。弘仁5年(814年)、言試(国家試験)に合格、翌年21歳で得度(出家)する。得度(とくど)は仏教における僧侶となるための出家の儀式。本来、僧侶になるには、仏教教団の10名の先輩構成員(三師七証)の承認があり、戒律を護る事を誓えば誰にでもなれるものであったが、中国や日本に於いては、労働、納税、兵役を免除されていたため、僧侶になる者が続出し、国家の財政を脅かす事態となった。そこで国家は年度や地域毎に僧侶になる人数を制限するために、得度を国家の許可制とした。インドで興起した仏教が中国に伝来すると、仏教本来の教団規律の他に、国家による統制を受けなければならなくなった。北宋の賛寧は、その著である『大宋僧史略』の巻中「僧籍弛張」において、仏教は本来は国家の統制を受けるような筋合いのものではないのだが、真実の求道者だけではなく、僧侶の生活が優雅閑雅であることを羨んで、または、徭役を免れようとするような目的によって出家を志す者が頻出するようになり、僧伽の内律のみでは、その弊風を抑制することが無理になってしまい、そこで、国家による統制が加えられることとなり、僧官の設置、僧尼の造籍を見るに至ったのであるということを述べている。確かに中国では、僧侶に徭役免除の特権が付与されたため、徭役免除を目的とした出家者が数多く現われ、そのために、国家が出家得度に定数を定めるなどの諸々の抑制策や規制を設けるようになった。さらに、国家公認の僧は僧籍に編成されることとなり、その統制に拍車がかかることとなった。同時に、国家の手によって国家公認の僧であることの証明書としての度牒が発給され、その統制を更に一層強化することとなったのである。日本日本の古代、律令制度下において、剃髪して僧籍に入ること。年に一定数の得度を許す年分度と臨時度があり、原則は定員10名。ともに試験に及第して官許された。度者には、官から得度を証明する文書として度牒が発給され、得度者の氏名や年齢、本貫地などを師僧が保障し、玄蕃寮、治部省などの官人や僧綱の署名を得た後、太政官印を受けて支給された。得度者には課役を免除される特権があり、官の許可なく僧となる農民などが出現し、これらは私度、そうした僧は私度僧と呼ばれ、律令の編目である戸婚律や僧尼令で禁じられた。また、臨時度としては官寺における定員の不足、天皇などの貴人の病気回復などを祈願したもの、貴族などへの褒賞の一環として当該貴族に特定人数の得度(の推挙)を許してその貴族による善行の積み重ねを助けたものなどが挙げられる。もっとも、私度僧であっても僧侶としての修行・活動がきちんと行われているものに関しては寛容に見られていた節もある。『続日本紀』天平宝字2年(758年)8月朔日(1日)条には天下の諸国で山林などに隠れて10年以上修行を積んでいる「清行逸士」には得度を許したという記事がある。これは「清行逸士」という表現こそ用いているが、度牒を持たないまま長期にわたって修行してきた私度僧が処罰を受けるどころか、逆に正式な僧侶として認められることもあったという事実を示している。以後も六国史などには修行者に得度を許すために試験を行ったという記事が何回も記されており、その受験者の多くが私度僧であったと考えられている。私度僧は違法であり取締りの対象ではあったが、実情においては2本立ての方針が存在し、課役忌避を目的とした私度僧に対しては厳しい取締りが行われた一方で、僧侶としての実態のあるものについてはある程度までは容認されており、その中の優秀者は処罰の対象ではなく、むしろ得度させて体制の中に積極的に取り込む方針があったと考えられている。なお、私度僧で大成した者には円澄(最澄の高弟)、景戒(『日本霊異記』著者)などがある。弘仁7年(816年)、23歳で三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。弘仁8年(817年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。菩薩戒(ぼさつかい、梵:、梵: )は、仏教の菩薩が受けて保つべき戒。菩薩を特色づける戒。大乗戒や仏性戒ともいう。菩薩戒は、在家にも出家にもありうるものである。僧伽の構成員を形成する七衆を特色づける戒が七衆戒と総称され律蔵の文献で説かれるのに対し、菩薩の特徴となる戒が菩薩戒と総称され、一般的には経蔵の文献で説かれる。菩薩戒の典型と考えられているのは瑜伽師地論の三聚浄戒であり、中国で成立した菩薩戒の代表に梵網戒がある。具体的に遵守すべき戒条は学処(がくしょ)と呼ばれる。瑜伽師地論では四重四十三軽戒が、梵網経では十重四十八軽戒が学処として定められた。菩薩戒は菩提心や仏性に基づくものとされ、形式よりも動機や心を重視する傾向がある。その灌頂したときの投華得仏は金剛薩埵で「大勇金剛」の密号を与えられたと云われる。弘仁13年(822年)29歳で最澄から一心三観の妙義を授けられ、その後最澄は死去した。
2024年06月14日
コメント(0)
『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意)の漢訳での総称であり、梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」が「法」、「プンダリーカ」が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い。漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは『正法華経』10巻26品(竺法護訳、286年、大正蔵263)『妙法蓮華経』8巻28品(鳩摩羅什訳、400年、大正蔵262)『添品妙法蓮華経』7巻27品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264)の3種で、漢訳三本と称されている。漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。内容概説鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている。現在、日本で広く用いられている智顗(天台大師)の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の天台宗や法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。迹門前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。 また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。本門後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に本仏論問題を惹起する。本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。
2024年06月14日
コメント(0)
3「修業時代」奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。意味と位置づけかつての日本では、密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した天台宗での台密を指したが、インドやチベットにおける同種の仏教思想の存在が認知・紹介されるに伴い、現代ではそれらも合わせて密教と総称するようになっている。今日の仏教学は一般に密教を「後期大乗」に含めるが、後期大乗と密教とを区別しようとする立場もある。江戸後期の日本で確立した分類である雑密・純密をそれぞれ大まかにインド密教の前期・中期に対応させることが多い。真言宗においては、伝統的には、「密教」とは顕教と対比されるところの教えであるとされる。インドの後期大乗仏教の教学(顕教)と後期密教とを継承したチベット仏教においても、大乗を波羅蜜乗(顕教)と真言乗(密教)とに分けるという形で顕密の教えが説かれている。密教の他の用語としては金剛乗(、ヴァジュラヤーナ)、真言乗(、マントラヤーナ)などとも称される。金剛乗という用語金剛という言葉はすでに部派仏教時代の経論からみられ、部派仏典の論蔵(アビダルマ)の時代から、菩提樹下に於ける釈迦の(降魔)成道は、金剛(宝)座でなされたとする記述がみられるが、金剛乗の語が出現するのは密教経典からである。金剛乗の語は、金剛頂経系統のインド後期密教を、声聞乗・大乗と対比して、第三の最高の教えと見る立場からの名称であるが、拡大解釈により大日経系統も含めた密教の総称として用いられることもあり、欧米などでも文献中に仏教用語として登場する。概説顕教では経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対し、密教は「阿字観」等に代表される視覚的な瞑想を重んじ、曼荼羅や法具類、灌頂の儀式を伴う「印信」や「三昧耶形」等の象徴的な教えを旨とし、それを授かった者以外には示してはならない秘密の教えとされる。空海(弘法大師)は、密教が顕教と異なる点を『弁顕密二教論』の中で「密教の三原則」として以下のように挙げている。法身説法(法身は、自ら説法している。)果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)部派仏教が阿羅漢の果を優先的に説き、大乗仏教が膨大な時間(三阿僧祇劫)を費やすことによる成仏を説くのに対して、密教は老若男女を問わず今世(この世)における成仏である「即身成仏」を説く。密教においては、師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、その教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶(しゃびょう)の如し」といい、受者である弟子に対して阿闍梨(教師)の称号と資格を与えるものである。いわゆるインド密教を継承したチベット密教がかつて一般に「ラマ教」と称されたのは、チベット密教では師資相承における個別の伝承である血脈を特に重んじ、自身の「根本ラマ」(師僧)に対して献身的に帰依するという特徴を捉えたものである。インド密教部派仏教パーリ仏典の長部・『梵網経』には、迷信的な呪術や様々な世間的な知識を「無益徒労の明」に挙げて否定する箇所があり、原始経典では比丘が呪術を行うことは禁じられていたが、律蔵においては(世俗や外道で唱えられていた)「治歯呪」や「治毒呪」 といった護身のための呪文(護呪)は許容されていた。そうした特例のひとつに、比丘が遊行の折に毒蛇を避けるための防蛇呪がある(これが大乗仏教において発展してできたのが初期密教の『孔雀王呪経』とされる)。密教研究者の宮坂宥勝の考察によれば、本来は現世利益的な民間信仰の呪文とは目的を異にするもので、蛇に咬まれないためには蛇に対する慈悲の心をもたねばならないという趣旨の偈頌のごときものであったとも考えられるが、社会における民衆への仏教の普及に伴って次第に呪術的な呪文へと転じていったのでないかという。また意味の不明瞭な呪文ではなく、たとえば森で修行をするにあたって(木霊の妨害など)様々な障害を防ぐために慈経を唱える、アングリマーラ経を唱えることで安産を願うなど、ブッダによって説かれた経典を唱えることで真実語によって祝福するという習慣が存在する。 こうした祝福や護身のために、あたかも呪文のように経典を読誦する行為は、パーリ仏教系統では「パリッタ(護経、護呪)」と称され、現代のスリランカや東南アジアの上座部仏教でも数々のパリッタが読誦されている。インドの錬金術が密教となり、密教は錬金術そのものであったとの仮説があるが、一般的な見解ではないし、また仏教学の研究でも検証されていない。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
2024年06月14日
コメント(0)
戦国時代戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻め、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍を焼いた。また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵4千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。この時の戦いの様子は比叡山焼き討ちも参照。信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は江戸に移った(現在は比叡山に戻っている)。しかし、いったん世俗の権力に屈した延暦寺は、かつての精神的権威を復活することはできなかった。現代1956年(昭和31年)10月11日午前3時30分に重要文化財だった大講堂から出火、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、これら2棟が全焼した。1987年(昭和62年)8月3日、8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されている。
2024年06月14日
コメント(0)
大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる。823年、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなった。なお、最澄の死後、義信が最初の天台座主になった。名僧を輩出大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 ~ 864)と円珍(智証大師、814 ~ 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった[5]。なお、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。良源(慈恵大師、元三大師 912年 – 985年)比叡山中興の祖。源信(恵心僧都、942年 – 1016年)『往生要集』の著者良忍(聖応大師、1072年 – 1132年)融通念仏宗の開祖法然(円光大師、源空上人 1133年 – 1212年)日本の浄土宗の開祖栄西(千光国師、1141年 – 1215年)日本の臨済宗の開祖慈円(慈鎮和尚、1155年 – 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。道元(承陽大師、1200年 – 1253年)日本の曹洞宗の開祖親鸞(見真大師、1173年 – 1262年)浄土真宗の開祖日蓮(立正大師、1222年 – 1282年)日蓮宗の開祖武装化[編集]延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していた。また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力も持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(建久二年の強訴)。武家との確執初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。
2024年06月14日
コメント(0)
天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。最澄最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。延暦7年(788年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ。延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。大乗戒壇の設立延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた。
2024年06月14日
コメント(0)
2「円仁の出自」 794年(延暦13年)下野国の景勝の地、安蘇山の裾野脇の湖畔みかもノ山の越奈良の須(美加保の関、みかもの崎)に豪族壬生氏の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。] 大慈寺(だいじじ)は、栃木県栃木市にある天台宗の寺院。] 山号は小野寺山、院号は転法輪院。天平9年(737年)の開基を伝える。最澄(伝教大師)による六所宝塔の建立の地、円仁(慈覚大師)の修行の寺として有名である。天台宗の準別格寺に指定されている。] 創建の正確な時期は不明ながら、隣接する村檜神社境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、この地に古代から寺院が存在し、東国における天台系仏教の拠点となっていたことは確かである。] 寺伝によれば、大慈寺は天平9年(737年)に行基が開基した寺院で、二祖は道忠、三祖は広智とされる。道忠は鑑真の高弟で最澄とも親交があった僧であり、東国の化主と称された。] 広智のときに、大慈寺で修行していた円仁(慈覚大師、後の第三代天台座主)、安慧(後の第四代天台座主)などを最澄のもとへ弟子入りさせ天台教学を学ばせている。弘仁8年(817年)、最澄(伝教大師)が弟子たちとともに東国を巡錫した際、当寺にて大乗戒の授与を行い、東国への天台布教の足場とした。また、法華経による国家鎮護のため、最澄が日本国内の6箇所に建立を計画した六所宝塔の1つが当寺に建てられた。二度の火災(天正年間、弘化年間)などにあったが、絶えることなく今日まで法灯を伝えている。昭和39年3月3日にエドウィン・O・ライシャワー元駐日大使が参拝するために訪れた。伝説など当寺には小野小町に関わる伝説がある。伝説によれば、小町は大慈寺の本尊薬師如来に病気平癒の祈願をし、その結果治癒したため、終世大慈寺所在の小野寺の地に住んだとされる。境内に小町の碑があり、近隣には小野小町の墓と称するものも現存する。時宗開祖一遍上人が来院し、雨宿りをしたとの伝承があり、『一遍上人絵伝』にも描かれている。なお、生誕地については壬生寺(現・下都賀郡壬生町大師町)美加保ノ関(栃木市藤岡町三鴨の都賀字館・佐野市越名)安蘇山麓手洗窪(安蘇郡下津原、現・栃木市岩舟町下津原)などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、「みかほの関」山也「みかほノ山」古名所での誕生が記されている。 美可母ノ山の越奈良の須(美加保の関、みかもの崎)については、万葉集や歌人によって和歌も詠まれており、しもつけの美可母ノ山の越奈良の須まぐはし頃は誰が家かもたんあずま路の人に問はばや みかもなる関にもかくや花は匂うと石ふまぬ安蘇の河原に行き暮れて みかほの関に今日やとまらん下野や安蘇の川原に行きくれば みかもの崎に宿を借りなんなどがある。この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、美加保ノ関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。 安蘇山の麓、手洗窪に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…元 安蘇郡下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。入門と出家大同3年(808年)、15歳のとき、広智に連れられ比叡山延暦寺に上り、最澄に師事する。延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。
2024年06月14日
コメント(0)
「高僧名僧伝・円仁」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「円仁の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「修業時代」・・・・・・・・・・・・・・・・・194、 「入唐八家」・・・・・・・・・・・・・・・・・355、 「唐への留学」・・・・・・・・・・・・・・・・466、 「天台山を目指すも規制と滞在」・・・・・・・・507、 「在新羅人社会の助け」・・・・・・・・・・・・578、 「五台山巡礼」・・・・・・・・・・・・・・・・669、 「長安への求法」・・・・・・・・・・・・・・・7310、「帰国の旅の苦難」・・・・・・・・・・・・・・9711、「円仁帰国後の活動」・・・・・・・・・・・・・9912、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・153 1、「はじめに」円仁(794年~864年)平安前期の天台僧。下野国都賀郡の人。俗姓は壬生氏、父は都賀郡の三鴨駅長麻呂。幼時、栃木県下都賀郡岩舟町に現存する大悲寺の広智に師事し最澄の創始した天台宗触れる。808年(大同3)広智に伴われて比叡山に登り、以後最長の下で修業。814年(弘仁5)の年分得度者として得度。「摩訶止観」を学ぶ。817年、最澄の東国巡錫に随行し、上野国の緑野寺で最澄から伝法灌頂を受け、また故郷下野国の大悲寺で円頓菩薩大戒を授けらえた。823年4月、延暦寺での菩薩大戒受戒にあたって教授師となり、ついで最澄の本願に基ずき12年の籠山に入る。828年(天長5)山内の諸僧の要職により半ばにして籠山を中止。以後、延暦寺から出て天台宗の布教に尽力。835年(承和2)請益僧として遣唐使に随行し渡唐することになり、翌年5月、遣唐使とともに難波を出帆。しかしこの年、および翌年の大宰府からの出発は、逆風にあって2度とも失敗した。838年6月、3度目の渡海に成功し、同年7月、揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村、南通県堀港・呂四の中間地帯に上陸。かって師僧最澄が登山した天台山に行くことが目的であったが、許可されず、ひそかに唐にとどまり求法の旅を続けることを決意し、こののち、847年まで足掛け10年間、苦難の求法に明け暮れた。なかでも会昌の廃仏という仏教弾圧の苦しみを現地で体験。その記録は「入唐求法巡礼行記」帰国後、天台宗の布教に専念し、天台座主となる。864年(貞観6)没。866年7月、慈覚大師諡号を贈られた。
2024年06月14日
コメント(0)
11、「江戸時代(但馬山名氏子孫 清水氏流山名氏)」徳川家康により江戸幕府が開かれたものの大坂には豊臣家がいまだ健在であった。山名氏の嫡流である但馬山名氏山名堯熙の嫡男・山名堯政は豊臣氏の直臣として豊臣秀頼に近侍していたとされる]。しかし慶長20年(1615)の大坂夏の陣が起き、 堯政は大坂城内にて戦死した。その一方、父親の堯熙は大坂夏の陣を生き延び 京都六条の屋敷において晩年を過ごした。堯熙は堯政の子の山名煕政(当時8歳)およびその兄弟による但馬守護山名氏の家名存続を意図したが、豊臣旧臣である家の存続は難しく、煕政は当時徳川家臣となっていた山名豊国の尽力により、既に徳川家臣となっていた山名氏旧臣である清水正親の養子となることで清水氏の家督を相続し、これにより但馬守護山名氏嫡流は断絶した。煕政の弟の煕氏は外祖父(田結庄氏)がかつて徳川家康の次男秀康に仕えていた経緯や、叔父山名豊郷が松平忠直の家臣であったことなどから越前松平家一門に元服後仕えることが出来、その子孫も代々越前松平家一門に仕えた。山名煕政は清水氏の養子となったため、名を改め清水恒豊と称し 清水氏の家督を継承したことで徳川氏の幕臣となることができた。以降、清水恒豊および恒豊の子の清水煕豊が清水姓から山名姓への復帰を願い嘆願するも、豊臣遺臣を警戒する初期の江戸幕府からは許されることはなかった、とされる]。しかし断絶して85年後江戸時代も治安が落ち着いてくると、復姓の嘆願が叶う。元禄13年(1700)3月2日、恒豊の孫の清水時信が徳川綱吉から許しを得、山名に復姓、山名時信と称した。これにより煕政流山名氏は再興し、以後山名氏嫡流(の山名時氏)にちなむ「時」字を通字として幕末まで代々続く。石高は微禄ながらも、以後の幕府からも山名家嫡流のうちの一つとして認知された。時信の従兄弟の山名豊常の養子である山名豊明は第八代将軍徳川吉宗により寄合に加えられたのち作事奉行・槍奉行に任じられた。山名豊明は当初は布衣(従六位相当)であったが立身し従五位下伊豆守に叙任されるなど将軍吉宗の信任を得た。のち徳川家治にも重く用いられ、日光東照宮参詣にも同行を許された。幕末の動乱の時期、この山名氏は御家人として最後まで徳川将軍家に従った。明治新政府により徳川家当主の徳川家達が駿府(静岡)に転封されると、山名氏も幕臣として静岡県に赴いた。この山名家は明治を迎え、他の幕臣同様士族となった。「山名 豊国」(やまな とよくに)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名、武将。戦国大名天文17年(1548)、但馬国の大名で但馬山名家の山名豊定の次男として生まれる。初名は元豊(もととよ)。生母は室町幕府の管領・第15代細川京兆家当主細川高国の娘。正室は伯父(豊定の兄)である山名祐豊の娘。永禄3年(1560)に父・豊定が死去。その跡を継ぐため派遣された棟豊(むねとよ、祐豊の子)も永禄4年(1561)に早世し、次いで兄・豊数が因幡山名家(通称、布施屋形・布施殿)の家督を継承すると、支城であった因幡岩井城の城主となるが、のちに敵対した兄・豊数やその家老の武田高信によって城を追われて隣国の但馬国八束まで逃れた。兄・豊数の死後、山中幸盛ら尼子氏残党軍の支援を得て因幡山名家の家督を継承するが、天正元年(1573)、毛利氏の武将・吉川元春に攻められて降伏して毛利氏の軍門に下った。毛利氏の当主・毛利輝元(元春の甥)より偏諱を受けて元豊(もととよ)と名乗るが、のちに織田氏と誼を通じて豊国に改名する。織田豊臣時代天正6年(1578)から織田信長と誼を通じたものの、天正8年(1580)に織田氏の武将・羽柴秀吉の侵攻によって、一旦は鳥取城に籠城するが、重臣の中村春続、森下道誉ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、単身で秀吉の陣中に赴き降伏した。豊国は秀吉を通じて助命され、天正9年(1581)には、秀吉と共に吉川経家や自分の旧家臣が籠もる鳥取城攻めにも従軍する。豊国が籠城した時は鳥取城に兵糧攻めは通じなかったが、再度の兵糧攻めによって陥落するという悲惨な結果になった。秀吉に下った豊国であったが、秀吉からの豊臣氏への仕官の話を断り、浪人となったと伝えられる。のちに摂津国川辺郡の小領主・多田氏の食客となる。天正14年(1586)、浜松時代の徳川家康から知遇を得たと伝えられている。天正20年(1592)からの朝鮮出兵には豊臣秀吉から家臣でなかったのに九州肥前名護屋城まで、同行を命じられる。幕臣慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方に付き、亀井茲矩軍に加わり活躍。慶長6年(1601)には但馬国内で一郡(七美郡全域)を与えられ6700石を領した。事実上、但馬山名家(祐豊の家系)が断絶したこともあり、但馬山名家の血筋でもある豊国の家系が山名氏宗家となった。その後は家康・秀忠から篤い信頼を得て、駿府城の茶会などに参加するなどしている。寛永3年(1626)10月7日に死去。享年79歳。豊国の子孫は江戸時代を通じて表高家並寄合と交代寄合表御礼衆として存続した。
2024年06月13日
コメント(0)
10、「江戸時代の山名氏(但馬)」因幡守護代山名豊定の長男山名豊数は豊定の地位を継承したが因幡の有力国人武田氏により国を追われ但馬の所領に戻った。そこで豊数の長男山名豊宗がうまれた。豊宗は後に鳥取城主宮部長房に仕えた。主家の宮部家は関ケ原の戦い後改易所領没収となったので子孫は但馬で帰農した。江戸時代(但馬 村岡)因幡の山名豊国は豊臣時代は無禄であったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで家康側につき、亀井茲矩の軍に加わった。山名氏は徳川氏とおなじく新田一族に繋がるということもあり、大名待遇の交代寄合表御礼衆という家格の旗本に列せられた(江戸幕府の正式な家譜では松平家、酒井家と同格の血族とされた)。 江戸初期、但馬山名家が断絶したため、山名宗家は豊国が継承した。江戸時代初期の山名隆豊は旗本・福島家に生まれ、福島正則の曾孫にあたる。のち山名家の養子となった。第8代将軍徳川吉宗時代の当主山名豊就(山名豊政の孫)は徳川吉宗の信任を得、大番頭を、その後旗本としては異例の大名職である寺社奉行に任じられ、因幡守護山名氏の後胤として縁のある因幡守を称するなど、山名一族の長者として山名家の名を高めた。江戸時代中期の当主山名義徳は九州の筑後柳川藩の藩主立花貞俶の子として生まれ、山名家の養子となった。江戸後期の当主 山名義蕃は越前鯖江藩の藩主間部詮茂の子として生まれ、はじめ詮量と名乗った。のち山名義方の養子となり義蕃と改名し、1821年山名家を継承した。義蕃は、1818年まで、甥の間部詮勝(老中在職期間: (1840~1843)(1858~1859)の後見役を務めていた。幕末の動乱では、山名家は早い段階で新政府側に従った。明治2年(1869)、山名義済は1万1000石への高直しが明治政府に認められ大名と認定され、新たに但馬村岡藩を立藩した(いわゆる維新立藩)。その後明治4年(1871)廃藩置県となる。明治17年(1884)華族令の公布にともない、山名家は男爵を授けられた。*「山名 堯熙」(やまな あきひろ / たかひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。但馬の戦国大名時代但馬国の大名・山名祐豊の三男として誕生。長兄・棟豊次兄・義親の後を受け、山名氏を継承した。長命であった父・祐豊との共著の文書が多く残り、家督継承後も隠居の父の威厳が強かったと思われる。父・祐豊は、当初は但馬にまで侵攻した織田氏との抗戦後に織田方に属していた。天正3年(1575)に重臣・太田垣氏らが毛利氏の吉川元春と和睦してしまったため、織田信長から織田氏に離反し毛利氏についたとみなされ、天正8年(1580)に信長から中国地方攻略を命ぜられた羽柴秀吉に居城の有子山城を攻められ降伏した。父の祐豊は開城後、まもなく死去する。豊臣家家臣時代父と意見の合わなかった堯熙は開城前に隣国の因幡国へ逃れた。羽柴氏の陣を訪問したところ、秀吉に請われ家臣となる。天正8年(1580年)には因幡八頭郡に領地を給された。羽柴家から市場城主に任ぜられ、この城から山名豊国らの籠る鳥取城攻めに参加している。鳥取城が落城し、因幡平定が終了すると馬廻衆(親衛隊)の一人に加えられたという。天正10年(1582)には播磨国加古郡に転封となり2000石余を領した。秀吉の晩年に御伽衆の一人に加えられていたが、秀吉死後は子・堯政と共に豊臣秀頼の傍近くに仕えたという。堯政と共に秀頼に近侍した旧室町名族には、細川京兆家の細川頼範や河内守護家の畠山政信らもいた。慶長17年(1612)9月28日にはさらに摂津国能勢郡与野村に596石2斗が秀頼より加増されている。大坂の陣後慶長20年(1615)の大坂夏の陣にて豊臣氏は滅亡。この戦いにて息子の一人である堯政も父に先立ち戦死した。堯熙は大坂の陣後は京都六条の屋敷にて閑居したともいわれている。没年および墓所については諸説有る(後述)。子孫は地方の藩の藩士になったほか、徳川将軍家の幕臣である清水氏の養子になった子孫がある。異説『寛永諸家系図伝』では「堯熙 生国 但州。出石の城に住す。秀吉の代にいたりて、但馬を去って浪人となる。」となっているが史実とは異なる。寛永4年(1627年)に死去。法名は円成院殿一翁紹仙居士。 墓は東林院内、従兄弟である山名豊国の墓の左隣にあると言う(諸説有り)。閑居の間には山名豊国の扶助があったとされるが、実際には父・祐豊晩年の時代にすでに有力家臣団は分裂、離反していた。清水正親(しみず まさちか)も天正18年(1590)から徳川家臣となっていた。堯煕の亡くなった嫡男の山名堯政には幼い山名煕政という息子がいた。堯煕は、この煕政を旧但馬守護山名家の後継者にさせることを嘱望していたとされている。豊臣方に味方した人物の子としては徳川家に仕えることが難しいという理由で幕臣(旗本)となっていた清水正親が自ら養子に引き取ることを願い出たのが認められ、煕政は正親の養子・清水恒豊(つねとよ)として幕臣に列することなった(山名豊国の計らいがあったといわれる)。以降は御家人や旗本として続いた。】
2024年06月13日
コメント(0)
9、「織田家の侵攻と滅亡」祐豊には山名棟豊・山名義親・山名堯熙の三子があった。棟豊は親より早く若くして亡くなったので第二子が嫡男となった。足利義昭より偏諱を受け氏煕より昭豊と諱を改め、さらに義親と改めた。山名家中から将来の活躍が期待されていたものの早世する。晩年の山名祐豊は長男、次男に先立たれ気力が衰えた]のか、織田信長の勢力が但馬へ伸張してくると、天正8年(1580)信長の重臣・羽柴秀吉(およびその弟・羽柴秀長)の軍勢に取り囲まれることとなり降伏後しばらくして死去。自刃とも病死ともいう。祐豊の三男・山名堯熙は、落城前に因幡へ敗走して助かった。但馬平定に続き、羽柴氏による因幡侵攻が始まると、堯熙は八木氏・垣屋氏ら旧山名家重臣らとともに羽柴氏に従い因幡へ従軍した。羽柴家の要請により鳥取城に籠もる敵方の主要な付城である因幡国八東郡私部城を攻め取り入城し、鳥取城落城因幡平定に貢献した。但馬は、その後も播磨と併せて羽柴氏の根本領地となり、生野銀山からの莫大な財力と但馬兵は後の羽柴氏と明智光秀(丹波)との戦を支え続けた。堯熙は秀吉に請われ、馬廻衆(親衛隊)として仕えることとなり、天正9年(1581)因幡国八東郡のうち2000石の所領を認められる。天正10年(1582)8月、堯煕は秀吉より播磨国加古郡のうち2000に転封され、近習に列する。その後500石さらに摂津国能勢郡に加増された。さらにその後5000石が加増された。秀吉没後、堯熙の子・山名堯政は豊臣秀頼に仕えた。西因幡でも、山名豊定の子、山名豊国が自らの居城である鳥取城から重臣たちの反対を押し切り、単身秀吉に降伏した。城内に残った者は悲惨な最期を遂げた。その後、和歌等、教養面での造詣の深い豊国は豊臣家からの仕官の話を固く断り浪人となり摂津の多田氏の食客となった。中・東因幡では、毛利氏の勢力が早くから強く、因幡守護家の山名誠通の子孫は毛利家家臣となった(すでに備後山名氏は毛利氏家臣となっていた)。
2024年06月13日
コメント(0)
8、「山名氏と赤松氏が播磨奪回戦」応仁元年(1467)5月からの応仁の乱では、政則は東軍(細川勝元側)に与した。政則は山名主力が京都に集中しているのを見て、応仁の乱開始直後に山名宗全が率いる西軍と京都で交戦しながら、家臣の宇野政秀らを播磨へ攻め込み赤松氏の旧領であった播磨・備前・美作に侵攻させた。播磨奪回においては赤松家の旧本拠だった事もあり旧臣・牢人から寺社・百姓・土民までが協力して数日で奪回した。他の旧領である備前・美作も応仁2年(1468)までに奪回した[12](加賀半国は富樫政親が奪回)。文明3年(1471)には侍所頭人に任じられるなど、義政の信任と寵愛を受けた。政則は猿楽の名手であり、それが義政に気に入られた理由という。ただし、旧領奪回という悲願が果たされながら、今度は赤松家内部で家督争いが起こった。一族の有馬元家が赤松惣領家の地位を狙って政則に叛旗を翻したのである。政則は応仁2年(1468)に元家を殺害して鎮圧したが、以後の政則は内紛にも苦しめられていく事になる。応仁の乱は文明5年(1473)に東西両軍の首脳である山名宗全・細川勝元が相次いで死去したため、翌年にそれぞれの後継者である山名政豊と細川政元が講和を結んだが、政則はこの講和に最後まで反対した。これは戦乱の終結で奪回した3か国を失う事を恐れたためとされるが、政則が奪回した領国はそのまま赤松家の分国として保全された[15]。播磨支配と相次ぐ内紛文明10年(1478)、応仁の乱が終結した頃から赤松家の播磨支配にも動揺が見られだした。先の有馬氏の反乱の他、文明3年(1471)には赤松家の一族で播磨北部に勢力を持つ在田氏が仙洞御料所の松井荘を横領するという事件を起こした。この時は政則が派遣した宇野政秀と堀秀世により鎮圧された。だが在田氏と政則の対立は続き、文明12年(1480)5月にようやく政則は在田一族を失脚させたが、同年9月には残党が所領を再度横領するなどした。しびれを切らした政則は文明14年(1482)閏7月、在田一族4名を殺害した。この一連の争いは在田氏が赤松惣領家の家督を狙っての事とされている。領国支配の動揺が見られる一方で政則の中央政界における立場も悪化しだした。文明11年(1479)8月、幕府より政則は出仕の停止を命じられた。理由は赤松領における寺社領において将軍・足利義尚の意向に沿わなかったためとされているが、当時の幕府は権力が衰退して赤松家に限らず各地の守護大名がやっていた事であり、理由に関しては義尚とその父で大御所の義政の対立があり、政則は義政の寵臣だった事が原因ではないかと推測されている。文明12年(1480年)10月には播磨で徳政に関連する土一揆蜂起の風聞も流れ、赤松家は土一揆を起こすなら厳しく対処すると宗徒に通告した。このように播磨など旧赤松領内では赤松一族の内紛、中央政界での立場悪化から支配が不安定になっていたが、これは赤松家が再興し播磨を奪回した際に在地の豪族を被官に取り込んでいたから、赤松家の基盤は彼ら在地豪族の協力で成立しており、彼らの協力を得られなければ赤松家そのものが存続できなくなる危険性を孕んでいた事が原因であった。山名政豊との戦い赤松政則が播磨をはじめ、山陽に勢力を回復したため、旧赤松領を支配していた山陰に勢力を張る宗全の孫・政豊との対立・抗争が起こり、応仁の乱の収束後も抗争は続いた。政則は山名領の因幡で強大な勢力を保持していた国人・毛利次郎貞元を支援して因幡守護・山名豊氏を圧迫させたが、政豊により鎮圧された(毛利次郎の乱)。また伯耆でも山名豊氏の弟で同国守護の元之と豊氏の子・政之による争いが起こり、政則は政之を支援して元之の追放を目論むなどした(山名新九郎・小太郎の乱)。このため文明16年(1483)7月に松田元成が山名政豊軍を手引きしたため、山名方の赤松領侵攻が開始された(山名氏の第1次播磨侵攻)。浦上則宗より山名軍に攻められる福岡城への救援を求められると、政則は援軍を送る一方で山名氏の本領である但馬攻めにこだわった。このため赤松軍は軍を二分して山名軍と当たり、その結果同年12月25日に真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に大敗し、逆に播磨へと追撃された。大敗により後詰も失敗して福岡城も陥落してしまった。政則は生き残った家臣らと姫路を目指したが途中で行方不明になるなど大失態を演じた。政則の大敗という大失態を知った則宗は激怒した。この大失態により則宗と小寺則職ら重臣らがいったん実権を握り、政則は海路から堺へと出奔した。文明16年(1484)2月5日、則宗は政則の守護職と家督の廃位を宣言し、新たに赤松分家の有馬氏から有馬慶寿丸(有馬元家の孫)を擁立する動きを行ない、他の有力被官である明石・依藤・中村・小寺の各氏を説得し、彼ら全員の総意として幕府に申請を行なった。第9代将軍・足利義尚はこれを承諾したとされるが、『大乗院寺社雑事記』では政則の解任は無効であると記されている。また、政則の失脚はかえって赤松家内部での分裂を激化させ、赤松一族の摂津有馬の他、在田・広岡氏は山名政豊に味方して新赤松を擁立した。堺に逃れた政則は別所則治の助けを得て3月に将軍の義尚と謁見し、12月には播磨への帰還を果たした。これら政則の一連の復帰を助けた別所氏は以後政則の片腕となり、播磨東部守護代に任命されている。また、一連の赤松の内紛を突いた政豊の進撃により美作と備前を奪われ、則宗・則職の専横に他の家臣が反発して政則の復帰を求めて則宗は窮地に陥った。
2024年06月13日
コメント(0)
応仁の乱の頃の宗全は60を越える老齢のためか、若い頃の剛毅な性格はあまり見られなくなった。文明2年(1470)6月には宗全が東軍に降参する、あるいは副将格の大内政弘が赦免を望んでいるという奇妙な噂も流れ、西軍の結束力に乱れが起こった。西軍が擁立した足利義視と畠山義就の不和も生じ、8月には山名一族の山名教之が東軍に転じたという噂も流れたという。このような事態のためか、文明4年(1472年)8月に宗全は家督を政豊に譲っている。嫡子の教豊は応仁元年に死去していたためである。応仁3年(1469)、東軍が西軍本陣に斬り込んできたときには66歳の老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て、敵兵を追い払ったという記録がある。しかし年齢による衰えは隠しようもなく、文明2年には重度の中風に冒されて自筆もできずに花押印を使用していた。またこの頃は宗全が和平を望んでいるという噂が頻繁に流れたという。文明5年(1473年)1月、一族の最重鎮だった教之が死去、後を追うように2ヵ月後の3月18日に宗全も病死した。享年70歳。先年に切腹未遂を起こした時の傷が悪化したのが原因とも言われているが、詳細は不明。死後宗全死去から2ヶ月後の5月11日に勝元も死去、文明6年4月3日(1474)4月19日、政豊と勝元の子政元の間に和睦が成立、細川氏と山名氏の和解が実現した。東西両軍の残存勢力はなおも戦ったが、最終的に文明9年(1477)に終結した。政豊は和睦後も播磨・備前・美作を巡って赤松政則と衝突、文明15年(1483)に政則に勝利して1時は3ヶ国の大半を制圧したが、政則と家臣団が団結して反撃、文明17年(1485)から劣勢に傾き、長享2年(1488)に播磨から撤退、3ヶ国は政則が領有した。また、播磨奪還の失敗から次男の俊豊(としとよ)を擁立した備後国人衆と対立、政豊は俊豊を廃嫡して事態を収拾させたが、国人が力をつけるようになり、領国支配は揺らいでいった。因幡、伯耆それぞれの山名氏も抗争を起こし、没落の端緒となっていった。】 7、「室町時代後期」宗全の死後、家督は孫(四男とも)の山名政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退してゆく。領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、播磨、備前、美作は赤松政則(赤松満祐の大甥)に奪われ、政豊は奪回を企てるが長享2年(1488)に敗れ、播磨から撤退した。さらに備後守護の嫡男・山名俊豊や備後国人衆とも対立した。戦国大名山名氏政豊は山名俊豊を廃嫡して三男の山名致豊を後継者に決めて、国内混乱の決着をつけた(山名俊豊の子孫は備後に土着し備後山名氏となる)。しかし国人衆の要求を呑んだこと、またその過程で国人衆の支持を取り付けるために各種の特権を与えたため、守護権の縮小に繋がり、結果として国人衆とりわけ守護代の垣屋氏が力をつけた。家臣筋である垣屋氏に城之崎城(豊岡城)を制圧された政豊・致豊は九日市の守護所を放棄し、より守備力がある丸山川対岸の此隅山城に移ったが、そこも攻撃されるような状態となった。さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前守護代・浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に山陰道山陽道の領国は奪われていった。更に永正から享禄にかけて但馬・因幡両守護家では内紛状態に陥った。但馬では但馬上守護代・垣屋氏や但馬下守護代・太田垣氏らによって致豊が排除されて弟の山名誠豊が擁立され、因幡では山名豊時の子である山名豊重・豊頼兄弟が守護を争った。1528年(享禄元年)には誠豊が死去し、甥で養子の山名祐豊(致豊の子)が但馬守護家を継ぎ、同じ頃に豊頼の子・山名誠通が豊重の子・豊治から因幡守護を奪ったことで一旦は内紛は収拾された[10]。但馬の山名祐豊は垣屋氏・太田垣氏・田結庄・八木氏ら但馬の有力国人衆を次々と武力で征した。更に一族で因幡山名家の山名誠通が尼子氏の従属下に入る(尼子晴久から偏諱を得て改名し、因幡国の支配権を譲り渡す)とこれを討ち、弟の豊定を因幡へ派遣し因幡守護代(陣代)とすることで、「因幡守護家の山名誠通の遺児が成長するまで政務を後見する」という形で因幡を実質支配した。また、因幡の国人たちに対してもこれを武力で従え、地位を失いつつあった守護大名山名氏を但馬因幡の戦国大名山名氏へと成長させた。なお、正式な守護職は幕府より、出雲尼子氏に与えられていた。豊定の没後はその地位を祐豊の長男の山名棟豊が継いだが早世したため、豊定の子の山名豊数が継承し、また誠通の子山名豊儀が一時期、出雲の尼子氏に支援されて因幡守護家を再興していたともいわれている]。さらに、新興勢力である毛利元就とも手を結び、あるいは対立し、因幡国人および因幡守護家を支援して勢力を拡大しようとする出雲尼子氏ら周辺諸国と抗争を続けた。*「山名 是豊」(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。父とは不仲であり、寛正元年(1460)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。
2024年06月13日
コメント(0)
嘉吉の乱から隠居まで嘉吉元年(1441)6月24日に足利義教と共に播磨・備前・美作守護赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出し、領国の播磨で挙兵した満祐を討つため、7月28日に侍所頭人を解かれた後は同族の山名教清・山名教之や嫡男の教豊と共に討伐軍を率いて但馬から播磨へ侵攻。満祐の城山城を陥落させて鎮圧に貢献し、赤松氏の領国を加えて播磨を獲得、5ヶ国の守護となり(教清は石見・美作、教之は伯耆・備前を領有)、山名熙高の因幡も合わせて10ヶ国の守護職を回復して権勢を得た(嘉吉の乱)。だが、一方で赤松満祐を討つ前から持豊は勝手に自らの守護代らを播磨に送り込み、同国内の所領を横領するなど、幕命を無視する行動を続けており、公家の万里小路時房は持豊が守護に任じられれば「一国滅亡」になると嘆いている。嘉吉2年(1442)に出家して宗峯と号し、長禄年間に宗全と改めた。東播磨の明石郡、美嚢郡、加東郡3郡は満祐の従弟の赤松満政が代官になっていたが、幕府に申し出て文安元年(1444)にこの3郡も領有した。同年10月に不満を抱いた満政が播磨へ下向したが、翌年(1445)1月から4月にかけて満政を討伐、東播磨を実力で領有した。しかし、この後に赤松氏の領国奪還運動が続いていくことになる。嘉吉3年(1443)には嘉吉の乱で殺された山名熙貴の娘を猶子に迎えて大内教弘に嫁がせ、文安4年(1447)には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結び勝元と共に畠山持国に対抗した。結果、享徳3年(1454)にお家騒動で足元が揺らいだ持国を失脚させることに成功、勝元と共に幕政の頂点に立った。享徳3年(1454年)11月2日に赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立、宗全退治を命じられた諸大名の軍勢が京都に集結したが、細川勝元の取り成しで宗全退治は中止され、宗全は家督と守護職を嫡男の教豊に譲り、但馬へ下国。同年、赤松満祐の甥則尚が播磨で挙兵して、教豊の子で宗全の孫に当たる山名政豊を攻撃した。宗全は但馬から出兵して則尚軍を破り、則尚を自害に追い込んだ。結局、但馬で4年間過ごし長禄2年(1458)に赦免されて再び上洛、幕政に復帰した。寛正元年(1460)に教豊と対立して教豊が播磨へ逃れる事件が発生、程なく和解している。寛正3年(1462)に次男の是豊が備後・安芸守護に任命、寛正5年(1464)に山城守護も兼ねたが、勝元の引き立てがあったとされる。元々、明徳の乱で厳罰を受けた山名氏が応永の乱の功績で備後や安芸、石見が与えられたのは大内氏を牽制させる意図であったのに、山名氏が大内氏と結ぶことはその戦略を大きく狂わせるものであったから、この動きに対抗するために宗全と是豊父子の関係に楔を打とうと考えたとみられる(実際、応仁の乱中に勝元は宗全に従う山名政清に代わって是豊を石見守護としている)。三管領家の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持、幕政を巡り婿である勝元と対立するようになった。斯波義廉のみならず、大内氏や一色氏など「反細川勢力」と呼ぶべき諸大名は次第に宗全と関係を深め、宗全は彼らの盟主的存在(「大名頭」)へとなっていった。応仁の乱と最期寛正6年(1465)に男子を出産した足利義政正室の日野富子は、実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する。文正元年(1466)には勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる文正の政変を行う。同年12月には畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる。応仁元年(1467)には畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる。さらに御霊合戦では義就に加勢し、政長を駆逐させる。勝元も巻き返しを図り、5月には宗全と対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ是豊も備後へ侵攻、双方で散発的な衝突が起こり、5月26日の上京の戦いをきっかけに応仁の乱が始まった。宗全は出石此隅山城に各国から集結した西軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。当初室町亭の将軍らを確保した勝元率いる東軍に対して劣勢であったが、8月には周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。文明3年(1471)に小倉宮の血を引く西陣南帝を擁立したが、程なく放逐された。文明4年(1472)には和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗、5月には宗全は自害を試みている。
2024年06月13日
コメント(0)
文明9年(1477)9月22日には主戦派の畠山義就が畠山政長の追討を名目に河内国に下国する。そして、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された大内政弘が、11月11日(1477)に京から撤収したことによって西軍は事実上解体され、京都での戦闘は収束した。足利義視・義材(後の10代将軍)親子は、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。なお、能登守護の畠山義統や土岐成頼はこの和睦に納得せず、京の自邸を焼き払ったという。西軍の解体は僅か1日で終わったと伝えられる。9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた。乱の終了後も畠山政長と義就は戦い続けていたが、山城国では度重なる戦乱に国人が団結し、勝元の後継者であった細川政元の後ろ盾も得て、文明17年(1485)に山城国一揆を起して両派は国外に退去させられた。また、加賀では東軍に参戦した富樫政親が長享2年(1488)に加賀一向一揆に居城・高尾城を攻め込まれて自害、加賀は一向一揆が領有した。これらは旧体制の支配下にあった新勢力が台頭しつつあることを示すこととなった。 6、、「応永の乱と山名氏再興」ところが、明徳の乱で殺された氏清の遺児らを保護していたのは他ならぬ時熈であり、時熈は惣領として分裂した一族の和解と再結集に努めている。 応永6年(1399)に発生した応永の乱で戦功をあげて、山名氏は備後・安芸・石見の3か国の守護に任じられ、今度は大内氏に対する最前線を務めることになる.その結果、明徳の乱からわずか8年で6か国の守護としての地位を回復した。また、山名時熈は幕政にも深く関与して第6代将軍・足利義教からは長老として遇された。だが、時熈が3男の持豊を後継者にしようとしたところ、将軍義教は自分の側近である次男の持熙を次期当主と定めた上、その持熈が義教の怒りを買って追放後に討たれると持豊が改めて後継者に決定されるという事件発生している。赤松氏討伐と応仁の乱家督を継いだ・山名持豊(宗全)は、嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱で第6代将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺されると、同嘉吉元年(1441)、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げた。この功績によって山名氏は、新たに備前・美作・播磨の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。宗全は、城之崎城・九日市城を詰め城とする九日市(豊岡市九日市)の丘陵に広大な守護所を構えたとされている。だが、先の家督継承の経緯から持豊は幕府に反抗的な態度を取り、享徳3年(1454年)には第8代将軍・足利義政が持豊討伐の命を下すが、管領・細川勝元の奔走で持豊が一時隠退することで事態を収拾させた。しかし、幕府に復帰した宗全は幕政の主導権をめぐって細川勝元と対立する。また、足利将軍家や畠山氏、斯波氏などの後継者争いなど複雑な事情も重なった結果、応仁元年(1467)には応仁の乱の勃発に至った。この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦ったが、乱の最中である。文明5年(1473)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。宗全の嫡男・山名教豊は山名氏を継承したものの、父に先立ち陣没した。教豊の弟のうち、山名勝豊は山名氏一族が継承していた因幡守護に任じられ因幡山名氏を興し、山名是豊は家督をめぐり父と対立したため細川勝元の陣に加わり、東軍より安芸・備後の守護職に任じられ備後山名氏の祖となる。*「山名 宗全」 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。家督相続応永11年(1404年)5月29日、山名時熙の3男として生まれる。同20年(1413)、10歳で元服、4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊 を名乗る。同28年(1421)12月、初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高(ひろたか)と共に備後国人の討伐に向かい、翌年(1422)に京都へ戻った。応永27年(1420)に長兄満時が死去し、後継問題が浮上した。応永35年(1428年)に山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍足利義教が自分の側近であった次兄持熙を後継に立てるように命じた。間もなく時熙の病状が回復したために一度は先送りになったが、将軍の意向が示されたことで山名氏は動揺した。ところが、永享3年(1431)5月には持熙が義教の勘気を受けて廃嫡されたため、永享5年(1433)8月9日に家督を相続、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。病気がちの父に代わって義教に仕え、永享7年(1435)には父が死去、同9年(1437)には持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する。永享11年(1439)、正四位下左衛門佐に任官し、翌年(1440)には幕府侍所頭人兼山城守護となる。
2024年06月12日
コメント(0)
応仁2年(1468)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。5月2日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。管領の斯波義廉は西軍についていたものの、将軍・義政から直ちに解任されなかった。このため、将軍が主宰する御前沙汰など、幕府の政務も管領不在のまま行われていた。 だが、応仁2年(1468年)、義廉が幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に和睦を提案、宗全と義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる[30]。足利義視の西軍入り応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏10月16日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11月23日、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注してい。大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469)には九州の大友親繁・少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470)2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。細川勝元と山名宗全の死去文明3年(1471)5月21日には斯波義廉(管領)の重臣で西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返った。このことで東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕も生まれた。一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とした(西陣南帝)。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった。文明4年(1472)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、桜井英治はこれを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている。文明5年(1473)の3月18日に宗全が、5月11日に勝元が相次いで死去した。宗全の死を契機に、双方で停滞していた和睦交渉が再開されたが、畠山政長と畠山義就の大反対で頓挫している。また、宗全の死後に西軍で擁立されていた西陣南帝も放擲されている。
2024年06月12日
コメント(0)
各勢力の動向応仁の乱は先述の通り御霊合戦を契機に前半は京都を中心とした山城一帯が主戦場となっていたが、次第に地方へ戦線が拡大していった。鎌倉府が管轄する関東地方八ヶ国と伊豆・甲斐は享徳の乱が勃発していたが、足利義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側は西軍と連携する動きもあった。更に、文明7年には関東管領上杉顕定の実父でその後見人でもあった越後守護上杉房定が、西軍の能登守護・畠山義統と共に東軍の畠山政長が領する越中を攻撃するという事件も起きている[16]。東軍は将軍・義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して「官軍」の体裁を整えており、西軍は結果的に「賊軍」の立場に置かれていた。しかし、正親町三条家・阿野家・葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は義視と共に西軍に投じており、さらに西軍は「西陣南帝」と呼ばれた小倉宮後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。宗教勢力の動きでは蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている。ただこの一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。開戦と足利義視の西軍攻撃応仁元年(1467年)5月、細川勝元派である元播磨守護家の赤松政則が播磨国へ侵攻、山名氏から播磨国を奪還した。また武田信賢、細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ侵攻し、斯波義敏は越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。5月26日の夜明け前には室町亭の西隣にある一色義直の屋敷近郊の正実坊を成身院光宣が、実相院を武田信賢が占拠、続いて武田信賢・細川成之の軍が義直の屋敷を襲撃し、義直は直前に脱出、屋敷は焼き払われ京都での戦いが始まった(上京の戦い)。勝元は匿っていた畠山政長を含む全国の同盟者に呼びかける一方、室町御所を押さえ戦火から保護するという名目で将軍らを確保、勝元は自邸今出川邸に本陣を置いた。室町御所を奪還した勝元らは西軍方についた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された。5月26日、宗全邸の南に位置する一条大宮の細川勝久邸を斯波義廉(管領)の配下の朝倉孝景、甲斐氏ら西軍が攻めかかり、応戦した細川軍と激戦を展開、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。続いて赤松政則が南下して正親町を通り、猪熊に攻め上がって斯波軍を引き上げさせ、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之の屋敷に逃亡した。西軍は勝久邸を焼き払い、続いて成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿、革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが、東軍の抵抗で決着が着かず翌27日に両軍は引き上げた。この合戦で起きた火災で北は船岡山、南は二条通りまで延焼した。足利義政は28日に両軍に和睦を命じ、細川勝元の軍事行動を非難しながら畠山義就の河内下向を命ずる一方、伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど復権の動きを取っていた。しかし、6月3日に勝元が要請を行うと、義政は将軍の牙旗を足利義視が率いる東軍に下し、東軍は官軍の体裁を整えた。義視率いる官軍は総攻撃を開始し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに義政の降伏勧告により斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもった。東軍は斯波義廉邸も攻撃し、戦闘の巻き添えで南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。六角高頼、土岐成頼、さらに、斯波義廉(管領)は投降しようとしたが、東軍に対し激しく抗戦する重臣の朝倉孝景の首を持ってくるよういわれて投降を断念した。大内政弘の入京しかし6月14日には大和国の古市胤栄が、19日に紀伊国の畠山政国などの西軍の援軍が到着し始めた。8月23日には周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢1万と2千艘の水軍[27]を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。同日天皇・上皇が室町御所に避難し、室町御所の一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した。またこの頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、9月1日に畠山義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6日に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた。9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡に斯波義廉軍が陣取り、義就が山名宗全邸の西に移り東軍は劣勢に立たされた。朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。
2024年06月12日
コメント(0)
文明3年になると信賢と国信の弟で安芸の留守を守っていた武田元綱が西軍の工作で反乱を起こし、毛利豊元も大内氏に誘われて安芸に帰国すると西軍に寝返り、安芸・備後は西軍有利に傾いた。東軍は国人衆に忠誠を誓わせ寝返り防止に努め、山名是豊も備後で転戦して形勢を立て直そうとしたが、文明5年から文明7年の2年間西軍の小早川弘景ら安芸・備後国人衆が東軍方の小早川敬平が籠城する高山城を包囲したにも関わらず救援に来なかったことから人望を失い、備後から追放され消息を絶った。文明7年4月23日に安芸・備後の東西両軍は和睦を結び、中国地方の戦乱は終息に向かった。戦後備後は山名是豊の甥(弟とも)に当たる山名政豊が領有することになり、残党は政豊に討伐された。安芸は武田氏を始め国人が割拠する状態に置かれ、武田元綱は文明13年に信賢の後を継いだ武田国信と和睦、安芸の国人領主として兄から独立し大内氏と友好関係を結んだ。他の国人衆も大内氏との対立を解消し安芸は平穏になったが、戦乱を通して大内氏の影響力は増大、備後で山名政豊と国人が対立して支配が揺らいだため、大内氏と新たに台頭した尼子経久が国人衆を巻き込み衝突していった。御霊合戦文正元年(1466年)12月、畠山義就が突如大軍を率いて上洛し、千本地蔵院に陣取った。これは、文正の政変の結果に満足しない山名宗全、斯波義廉の支援をうけたものであった。足利義政はこの動きに屈し、文正2年1月2日(1467)、畠山政長(管領)や、細川勝元に断ることなく、将軍邸の室町御所に畠山義就を招いた。追い討ちをかけるように足利義政は正月恒例の管領邸への「御成」を中止し、3日後の5日に畠山義就が宗全邸で開いた酒宴に出席、その席で義政は畠山義就の畠山氏総領を認め、畠山政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。畠山政長は反発して管領を辞任し、後任に山名派の斯波義廉が就任した。細川勝元は室町御所を占拠して足利義政から畠山義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して山名宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ山名宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町御所を囲み足利義政に畠山政長や細川勝元らの追放を願い出た。これを知った細川勝元・畠山政長・京極持清はそれぞれ御所の西側・北側・南側に布陣して御所への攻撃を企てた。足利義政は細川勝元の追放は認めなかったが、諸大名が一方に加担しないことを条件に畠山義就による畠山政長への攻撃を認めた。文正2年(1467年)1月18日、政長は無防備であった自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷いた。一方義就は後土御門天皇や後花園上皇、伏見宮貞常親王(上皇の実弟)を一つ車に御乗せして室町御所に避難させた。義政は畠山氏の私闘への関わりを禁じるが、宗全や斯波義廉(管領)、山名政豊(宗全の孫)、朝倉孝景らは義就に加勢した。一方勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかった。このため勝元は「弓矢の道」に背いたと激しい非難を受けた。御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就側は釈迦堂から出兵して政長を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走した。勝元邸に匿われたと言われる。室町御所が山名軍に占拠されたために、勝元は形式上は幕府中枢から排除された。だが、勝元は京都に留まり続けただけでなく、非常事態を口実に細川京兆家の当主として、独自に管領の職務である軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行わせた[12]。大乱前夜御霊合戦の後、細川勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させるなど緊張が高まった。文正2年(1497年)4月5日には元号が文正から応仁に改元された。4月になると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。片や宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、当初から東軍が優位を占めていた。西軍は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は、細川家、斯波家、畠山家と、京極持清、赤松政則、武田信賢であり、西軍の主力は、山名家、斯波家、畠山家、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や、土岐成頼、大内政弘であった。一方、関東や九州では鎌倉公方や少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、中央の大乱より前に戦乱状態に突入していた。
2024年06月12日
コメント(0)
5、「応仁の乱と山名氏」細川氏・山名氏の連携管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。しかし、持国には子が居なかったため、弟の持富を養子に迎えていた。しかし、永享9年(1437)に義夏(後の畠山義就)が生まれたため、文安5年(1448年)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。これは将軍・足利義政にも認められ、義夏は義政から偏諱を授けられている。そして、畠山持国、足利義政、義政の乳母今参局は一致して斯波氏家臣の争いに介入し、宝徳3年(1451年)の織田郷広の尾張守護代復帰を支援した。しかしこれは越前・遠江守護代甲斐常治の意を受けた日野重子(義政の母)の反対により頓挫した。さらに、畠山家内部でも重臣神保氏・遊佐氏は持富の廃嫡に納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張した(持富は宝徳4年(1452)に死去)。このため享徳3年(1454)4月3日畠山持国は神保国宗を誅殺した。この畠山氏の内紛に対し、細川勝元、山名宗全、そして畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下に逃れた畠山弥三郎・政長兄弟を支持し、8月12日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃。難を逃れた畠山持国は8月28日に隠居させられ、義就は京都を追われ、足利義政は弥三郎を家督継承者と認めなくてはならなかった。一方で、弥三郎を匿った細川勝元の被官の処刑も命ぜられ、喧嘩両成敗の形も取られた。しかし山名宗全はこの命令に激怒。処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬国に隠居することで決着した。12月6日に宗全が但馬国に下向すると13に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走。再び畠山義就が家督継承者となった。なお、文安4年(1447)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。播磨・備前・美作播磨・備前・美作は元は赤松氏領だった所を山名宗全・山名教之・山名政清ら山名一族が嘉吉の乱で奪い取った経緯があり、再興を目指す赤松の遺臣達にとって山名氏との衝突は避けられなかった。長禄の変で赤松郎党が手柄を立てたことにより、赤松政則は細川勝元の支援で加賀半国守護に就任して復権の足掛かりを築き、赤松政則は家臣の浦上則宗と共に義政の警固や屋敷建造、土一揆鎮圧などに努め義政の側近として重用された。宗全からは敵視され文正の政変で失脚したが程無く復帰、応仁の乱では在京して則宗と共に西軍と戦った。播磨3ヶ国では宗全を始めとする山名一族は軍勢を引き連れて上洛したため、好機と捉えた宇野政秀ら赤松氏家臣団は3ヶ国の奪還に動き出した。乱勃発直後の応仁元年5月に宇野政秀は播磨に下向して赤松氏遺臣の蜂起を促し、播磨を手に入れると備前・美作にも侵攻し備前も奪回したが、美作は守護代の抵抗が強く一度敗退、完全平定まで3年後の文明2年までかかった。この間、宇野政秀は文明元年に摂津で山名是豊と合流して池田城の救援に赴き大内軍を撃破、兵庫を奪還している。また、乱における活躍で赤松政則は東軍から3ヶ国の守護に任じられ、赤松氏の再興に大きく前進した。文明5年に宗全と勝元が死去したことをきっかけに両軍は和睦に動き、文明6年に細川氏と山名氏は単独で和睦を結び戦争から離脱した。赤松政則は和睦に反対したが、文明9年の終戦で3ヶ国守護と侍所頭人の地位を保証され赤松氏の再興を果たし、側近の浦上則宗も侍所所司代として赤松氏の重臣に成り上がった。しかし、山名氏は和睦で失った3ヶ国の奪還を狙い、宗全の後を継いだ山名政豊は播磨を伺い、赤松政則も山名氏領国の不満分子を嗾けて反乱を起こさせたため、両者は終結後も3ヶ国を巡り争奪戦を繰り広げていった。備後・安芸備後は宗全の次男山名是豊が治めていたが、宗全と不仲であった所を勝元に籠絡され、山名氏の大半が西軍に属したのと異なり唯一東軍に与した。安芸国は大内氏と武田氏の対立の場となっていて、安芸国人の殆どを勢力下に収める大内氏に対し、武田氏は大内氏に危機感を抱く細川氏の支援で対抗した。文安4年に安芸国で最初の衝突が発生、これ以後は大内氏が度々安芸に侵攻しては勝元が武田氏と反大内の国人を支援して侵略を阻止していった。伊予国で大内氏が河野氏を支援したことも勝元が大内氏と対立する原因となった。乱勃発で大内政弘は宗全の要請で領国周防から出陣、応仁元年7月20日に兵庫に上陸して8月23日に上洛、西軍と合流して東軍の脅威となった。対する武田信賢・国信兄弟と毛利豊元・吉川経基・小早川煕平ら反大内の安芸国人は東軍に加わり、是豊も上洛して東軍と合流した。上洛せず安芸・備後に留まった国人勢力も二分されそれぞれ争ったが、備後は宗全の影響力が健在だったため東軍が不利で、応仁2年11月に是豊が一時 帰国しなければならない程であった。文明元年に是豊は再び上洛、その途上で摂津の大内軍を破り山崎に布陣して翌文明2年西軍と交戦、備後が西軍の加勢でまたもや劣勢になったため12月に帰国した。一方の武田信賢らは京都に留まり西軍と戦った。
2024年06月12日
コメント(0)
しかし翌元中8年/明徳2年(1391)11月、分国出雲の仙洞領(上皇の所領)横田荘を押領したという理由で義満から守護職を解任され京都からも放逐された。さらに先に満幸らが追討した山名時煕・氏之の復帰を義満が認めるという噂を聞き、怒った満幸は氏清の分国和泉を訪ねて誘い、ともに室町幕府と戦う約を誓う。12月、山名軍は丹波で挙兵して京都へ攻め込むが、幕府軍の応戦により敗れて氏清は戦死し、満幸は山陰へ逃れた(明徳の乱)。その後、満幸は剃髪して僧になり一旦は九州筑紫まで逃げるが、応永2年(1395)、京都の五条坊門高倉に潜伏していたところを出雲守護京極高詮の手により捕らえられ、斬られた。満幸の死により再び嫡流の師義流から、時義流の時煕およびその子孫に惣領権が移った。『明徳記』には、満幸は怯懦な性格であると批難されている。】*「土岐康行の乱」(ときやすゆきのらん)は、南北朝時代の康応元年(1389)から明徳元年(1390)にかけて発生した、守護大名の土岐康行が室町幕府に討伐された事件である。美濃の乱、美濃土岐の乱とも呼ばれる。土岐氏、美濃源氏の土岐氏は美濃国で大きな勢力を有し鎌倉幕府の有力御家人となった。土岐頼貞は南北朝の争乱では北朝方について室町幕府から美濃守護職に任じられ、足利尊氏を助けて功績が大きく幕府創業の功臣となった。その孫の頼康は美濃国・尾張国・伊勢国の3ヵ国の守護に任ぜられて評定衆に連なり、土岐氏の最盛期を築いた。三代将軍足利義満の時、頼康は管領細川頼之と不和になって勝手に帰国してしまい、義満を激怒させ討伐令を出されたことがある(後に謝罪して許された)。康暦元年(1379)の康暦の政変では斯波義将とともに細川頼之排斥に動いている。頼康は幕府創業以来の宿老として重きをおいた。嘉慶元年(1387)頼康が70歳の高齢で死去。土岐氏の惣領は養子の康行が継いだ。康行は従兄弟の詮直を尾張守護代とし、弟の満貞を京都代官として義満に近侍させた。将軍専制権力の確立を目指す義満は統制が困難だった有力守護大名の弱体化を狙っていた。嘉慶2年(1388)義満は美濃国、伊勢国の守護職の継承のみを康行に許し、尾張国は満貞に与えてしまった。満貞は野心家で尾張守護職を欲して度々義満へ康行と詮直の讒言をしていた。義満はこの兄弟の不和を利用して土岐氏の分裂を図ったのである。これに激怒したのが尾張守護代の詮直で、満貞は尾張国へ下向するがこれを拒んで尾張国黒田宿で合戦になり、満貞は敗れて敗走した。京へ逃げ帰った満貞は康行と詮直の謀叛を訴えた。義満はこの機を逃さず、康応元年(1389)4月に康行を謀反人と断じて討伐を命じ、土岐氏一族の土岐頼忠・頼益父子が征討に向かった。翌明徳元年(1390)閏3月に康行は美濃国池田郡小島城(岐阜県揖斐川町)で挙兵するが敗れて没落した。康行の美濃国・伊勢国の守護職は没収され、美濃国は戦功のあった土岐頼世(頼忠)、伊勢国は仁木満長へ与えられた。『䕃涼軒日録』によると義満は土岐氏の断絶を考えたが、雲渓支山のとりなしでこれを思い止まり、義満は頼世へ支山に感謝して在所を寄進するよう命じ、頼世は美濃国玉村保を寄進したという。義満の有力守護大名弱体化政策は続けられ、明徳2年(1391)には11カ国を領して『六分の一殿』と呼ばれた山名氏一族が征伐された(明徳の乱)。応永6年(1399)には6カ国の守護だった大内義弘が義満の挑発によって挙兵して滅ぼされた(応永の乱)。美濃守護職は後に土岐頼益へ譲補され、以後、頼益の家系が土岐氏の惣領として美濃国を支配する。康行は明徳2年(1391年)に許されて明徳の乱で戦功を挙げ、応永7年(1400)に伊勢北半国守護に再任された。以後、康行の家系は伊勢守護職を継承して土岐世保家と呼ばれた。満貞は明徳の乱に参戦するが、卑怯な振る舞いがあったと咎められて明徳3年(1392)に尾張守護職を解任されている。尾張守護職は土岐氏から離れて、応永7年(1400年)以降は斯波氏が継承することになった。乱の発端となった詮直は応永の乱の時に大内義弘に呼応して尾張国で挙兵して美濃国へ討ち入り、美濃守護の土岐頼益に敗れている。】
2024年06月12日
コメント(0)
12月30日早朝、氏清の弟山名義数、小林上野守の700騎が二条大宮に攻め寄せて、大内義弘の300騎と激突して合戦が始まった。大内勢は下馬して雨のように矢を射かけた。乱戦となり劣勢となった山名義数、小林上野守は討ち死に覚悟で突撃。義弘は上野守と一騎討ちをして負傷しながらもこれを討ち取った。義数も討死、山名軍は緒戦で敗れてしまう。義満は義弘の武勇を賞して太刀を与えた。次いで、満幸の軍勢2000騎が内野へ突入した。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、畠山基国、京極高詮の3000騎で激戦となるが、義満の馬廻5000騎が投入されて勝敗は決した。敗れた満幸は丹波へ落ちた。氏清の軍勢2000騎は二手に分かれて突入。大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突する。氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退。幕府に帰参していた山名時熙が50騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜いた。劣勢になった大内、赤松は義満に援軍を要請、一色氏と斯波義重の軍勢が加勢して幕府軍は盛り返す。氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬するに及び潰走した。氏清は落ち延びようとするが、一色勢に取り囲まれて一色詮範・満範父子に討ち取られた。こうして、1日の合戦で山名氏は敗れ去った。幕府軍の死者は260余、山名軍の死者は879人であった。戦後明徳3年/元中9年(1392)正月、論功行賞が行われ、山城は畠山基国、丹波は細川頼元、丹後は一色満範(父の範詮は若狭国今富名を与えられて若狭守護領を回復する)、美作は赤松義則、和泉・紀伊は大内義弘、但馬は山名時熙、因幡は山名氏家(反乱に加わったが、降伏して許された)、伯耆は山名氏之、隠岐・出雲は京極高詮にそれぞれ与えられた。11か国の守護領国を誇った山名氏は僅か3か国に減らされてしまった。また、義満が増強していた直轄軍の馬廻(奉公衆)はこの戦いで大いに働き、将軍権力の力を示した。同年2月、山名義理は紀伊で大内義弘に攻められて没落。応永2年(1395)、剃髪して僧になり九州の筑紫まで落ち延びていた満幸も捕らえられて京都で斬られた。その後も義満は明徳の和約で南北朝合一を成し遂げ、応永6年(1399)大内義弘を挑発して挙兵させて滅ぼし(応永の乱)、将軍権力を固めていく。一方、山名氏はこの乱では幕府方として活躍し、その戦功により(大内氏を牽制する意図を含めて)山名時熙に備後、山名満氏に安芸、山名氏利に石見が与えられた。満氏・氏利兄弟は氏清の遺児であったが、時熙に匿われてその後赦免を受けていたのである。乱の様子を詳細に記した『明徳記』は太平記の流れを汲む軍記物語で、著者不明で全3巻。同書は資料性は高いものの、幕府寄りの視点で書かれている。*山名 氏清(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。興国5年/康永3年(1344)、山名時氏の四男として誕生。父・時氏が2代将軍・足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。建徳2年/応安4年(1371)に父が没すると長兄・師義が惣領となるが5年後に死去、氏清の弟・時義が後を継いで山名氏の惣領となった。氏清は父の遺領から丹波を相続、天授3年/永和3年(1377)に侍所頭人に任じられ、翌天授4年/永和4年(1378)に次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命された。しかし惣領になれなかった事に不満を持ち、時義と常に対立していたという。元中5年/嘉慶2年(1388)8月17日、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利するという武功をあげ(平尾合戦)、義満から感状を賜る(『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。元中6年/康応元年(1389)、時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだ。康暦の政変で管領・細川頼之が失脚し、山名氏の強大化を懸念していたと考えられる3代将軍・足利義満は、時義死後の家中分裂に伴い、将軍命令として氏清とその甥(婿)にあたる山名満幸に対して時熙、氏之の討伐令を下し、氏清はこれに応じて時熙を攻めて追放、恩賞として時熙の領国但馬を手に入れた。しかしその後、義満は時熙・氏之を赦免し、時熙を攻めた責任を満幸に問うとまで言い出した。氏清は満幸に反乱へ誘われ、積極的でなかったとされるが次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に元中8年/明徳2年/(1391)に挙兵して、同年12月には京都に攻め入る。合戦は京都内野で行われ、大内義弘や赤松義則、京極高詮などの有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。妻も殉死しようとしたが叶わず3年後に死去した。】*「山名 満幸」(やまな みつゆき、生年不詳 - 応永2年3月10日(1395)3月31日))は、室町時代の武将、守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆守護。山名師義の4男で、義幸、氏之、義熙の弟。妻は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い満幸と名乗る。父師義は山名氏の惣領であったが、天授2年/永和2年(1376)の死後、長兄の山名義幸ではなく惣領に叔父の時義がなったことに強い不満を抱いていた。 義幸の下で守護代として働いていたが、義幸が病の療養のため国もとの所領に下国すると師義流の家系の長となり室町幕府に出仕、弘和元年/永徳元年(1381)に丹後・出雲・隠岐の3ヶ国の大守護となる。元中6年/康応元年(1389)、時義が没してその子の時煕が惣領を継ぐことになると、山名氏嫡流の血筋を自認する満幸の不満が頂点に達した。翌元中7年/明徳元年(1390)、将軍・足利義満に命じられて叔父で舅の氏清と共に、時熙およびその義兄弟(時義の養子)となっていた次兄の氏之を攻め勝利した。その功により氏之の領国伯耆が与えられた。これにより4ヵ国の守護を兼任する満幸の勢力は山名氏中最大となり、自他ともに認める惣領の地位に就いたかにみえた。
2024年06月12日
コメント(0)
これに対して、氏清とその婿の満幸が不満を示す。元中6年/康応元年に時義が死去、惣領と但馬・備後は時義の息子時熙が、伯耆は時義の養子になっていた時熙の義兄弟の氏之に与えられた。しかし、病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸は自分が無視されたとしてこの件でも不満を増大させていった(義幸は永徳元年/弘和元年(1381)に病を理由に丹後・出雲・隠岐守護を辞任、満幸が3か国を継承した)。また、家臣団も時氏以前からの東国出身の譜代家臣、師義が佐々木氏(京極氏)に追われた後も彼に随従したことから重用された出雲出身の家臣、支配地域で新たに登用された家臣に分かれて争うようになり、それが主家一族の内紛に拍車をかけた[1]。明徳元年/元中7年3月、義満は時義が生前将軍に対して不遜であり、時熙と氏之にも不遜な態度が目立つとして、氏清と満幸に討伐を命じた。時熙と氏之は挙兵して戦うが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏之の本拠伯耆を攻め、翌元中8年/明徳2年(1391年)に2人は敗れて没落した。戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職が新たに与えられた。備後も満幸の兄義熙が継承したが、同年に細川頼之に交替させられた。山名氏との対決義満の挑発山名氏を分裂させて時熙と氏之を追放したが、氏清と満幸の勢力が強まってしまった。義満は、今度は氏清と満幸に対して巧妙な挑発を行っていく。元中8年/明徳2年(1391年)、逃亡していた時熙と氏之が京都に戻って清水寺の辺りに潜伏して義満に赦免を嘆願。義満がこれを許そうとしているとの噂が広まった。氏清は不安になり、同年10月の義満を招いての宇治の紅葉狩りを直前になって病を理由に中止してしまい、義満の不興を買う。3月に斯波義将が管領を罷免され、後任の管領に頼之の弟で養子の頼元が就任、四国に逼塞していた頼之が赦免され上洛したことと、政変に参加していた土岐氏が勢力削減されたことから義満は斯波派の打倒も図ったと推測されている。その一方で、山名氏の内紛は観応の擾乱において時氏と師義が一時的に対立して以来の長期にわたる構造的な問題であること、時熙と氏之が討伐された後に氏清が山城守護に任じられた理由が説明できないことから、足利義満による守護大名家惣領への権力集中を回避する政策があったとしても、山名氏そのものに対する一族への分裂策や挑発が実際にあったかどうかは不明で、むしろ山名氏の内紛の深刻化に乱の原因を求めるべきであるとする考え方もある。同年11月、満幸の分国出雲において後円融上皇の御料である仙洞領横田荘を押領して、御教書にも従わなかったとの理由で、満幸は出雲守護職を剥奪され京都から追放されてしまった。仙洞領の保護はかつて応安大法によって規定されたもので、同法の施行時には守護や守護代が召集されて、当時幼少であった将軍義満および管領細川頼之から直々に遵守を命じられた経緯がある土地政策の基本法令であった。当時、幕府による守護統制は重要な課題となっており、幕府にとって重要法令と言える応安大法を無視した守護・満幸に対して解任という厳しい処分を下すことで、他の守護に対しても警告を示すと言う側面もあった。怒った満幸は舅の氏清の分国和泉の堺へ赴いて「昨今の将軍のやり方は、山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説いた。氏清もこれに同意して一挙に京へ攻め上ることを決意する。満幸を分国丹波へ帰国させて丹波路から京へ攻め寄せる準備をさせ、氏清は堺に兵を集めると共に、兄で紀伊守護の義理を訪ねて挙兵を説いた。義理は躊躇するが遂に同意した。氏清は大義名分を得るために南朝に降り、錦の御旗を下賜される。幕府に氏清、満幸謀反の報が12月19日に丹後と河内の代官より伝えられた。幕府重臣らは半信半疑であったが氏清の甥の氏家(因幡守護、氏冬の子)が一族と合流すべく京都を退去するに及んで洛中は大騒ぎになり、重臣達も山名氏の謀反を悟る。12月25日、義満は軍評定を開き、重臣の間では和解論も出た。氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んだ義満だが、必勝を確信していたわけではなかった。山名氏の勢力は強大であり、時氏の時代には山名氏の軍勢によって2度も京都を占領されているからである。義満は和解論を退け「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」と述べて決戦を決める。内野合戦幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく主力5000騎を旧平安京の大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機した。一色氏は若狭国の守護であったが、前任守護の斯波氏の時代に小浜など若狭国の主要部を占める今富名が恩賞として山名氏に与えられたために守護領のほとんどが失われて以来、歴代の若狭守護は領国経営の基盤を持てずに苦しんでおり、山名氏に対する強い反感を持っていた。山名軍は決戦を12月27日と定めて、氏清の軍勢3000騎は堺から、満幸の軍勢2000騎は丹波から京都へ進軍した。丹波路を進む満幸の軍勢は26日には内野から三里の峯の堂に布陣する。しかし、氏清は河内守護代遊佐国長に阻まれて到着が遅れてしまい、軍勢の中からは脱落して幕府方に降参する者も出始める。12月29日夜、到着が遅れた氏清の軍勢は淀の中島に至り3隊に分かれて京に進撃。満幸の軍勢は2手に分かれて京に攻めかけた。闇夜の進軍のため各隊の連係は乱れがちで各個に京へ突入することになった。
2024年06月12日
コメント(0)
永享7年(1435年)7月4日、京都で69歳で死去。法名は大明寺殿巨川常熙大居士。但馬黒川(兵庫県朝来市)の大明寺に葬られた。また、父時義と並ぶ墓と木像が兵庫県豊岡市の円通寺にあり、この2つの寺や大同寺・楞厳寺など時熙が中興開基・創建した寺が多く残されている。山名氏は明徳の乱で没落したが、時熙の代で勢力を取り戻し、安芸守護に満氏が、石見守護に氏利が、因幡守護に従弟で猶子となった熙高が任命され、時熙と氏之の領国伯耆と合わせて7ヶ国の領有を果たした。山名氏の家督は時熙の家系が受け継いでいった。*「山名 満幸」(やまな みつゆき、生年不詳 - 応永2年3月10日(1395)3月31日)は、室町時代の武将、守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆守護。山名師義の4男で、義幸、氏之、義熙の弟。妻は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い満幸と名乗る。父師義は山名氏の惣領であったが、天授2年/永和2年(1376)の死後、長兄の山名義幸ではなく惣領に叔父の時義がなったことに強い不満を抱いていた。 義幸の下で守護代として働いていたが、義幸が病の療養のため国もとの所領に下国すると師義流の家系の長となり室町幕府に出仕、弘和元年/永徳元年(1381)に丹後・出雲・隠岐の3ヶ国の大守護となる。元中6年/康応元年(1389)、時義が没してその子の時煕が惣領を継ぐことになると、山名氏嫡流の血筋を自認する満幸の不満が頂点に達した。翌元中7年/明徳元年(1390)、将軍・足利義満に命じられて叔父で舅の氏清と共に、時熙およびその義兄弟(時義の養子)となっていた次兄の氏之を攻め勝利した。その功により氏之の領国伯耆が与えられた。これにより4ヵ国の守護を兼任する満幸の勢力は山名氏中最大となり、自他ともに認める惣領の地位に就いたかにみえた。しかし翌元中8年/明徳2年(1391)11月、分国出雲の仙洞領(上皇の所領)横田荘を押領したという理由で義満から守護職を解任され京都からも放逐された。さらに先に満幸らが追討した山名時煕・氏之の復帰を義満が認めるという噂を聞き、怒った満幸は氏清の分国和泉を訪ねて誘い、ともに室町幕府と戦う約を誓う。12月、山名軍は丹波で挙兵して京都へ攻め込むが、幕府軍の応戦により敗れて氏清は戦死し、満幸は山陰へ逃れた(明徳の乱)。その後、満幸は剃髪して僧になり一旦は九州筑紫まで逃げるが、応永2年(1395)、京都の五条坊門高倉に潜伏していたところを出雲守護京極高詮の手により捕らえられ、斬られた。満幸の死により再び嫡流の師義流から、時義流の時煕およびその子孫に惣領権が移った。『明徳記』には、満幸は怯懦な性格であると批難されている。】*「明徳の乱」(めいとくのらん)は、南北朝時代(室町時代)の元中8年/明徳2年(1391)に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱である。内野合戦とも呼ばれる。山名氏は新田氏の一族であったが、山名時氏の時に鎌倉幕府に対する足利尊氏の挙兵に従い、南北朝時代の争乱でも足利氏に味方して功があった。観応の擾乱では尊氏の弟足利直義に加担して戦い、直義の死後は幕府に帰参するが、再び叛いて南朝に降って一時は京都を占領する勢いを示した。その後は直義の養子直冬を助けて戦い山陰地方に大きな勢力を張り、2代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の5か国の守護となった。時氏の死後も山名氏は領国を拡大する。惣領を継いだ長男の師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となった。師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得ている。全国66か国(正確には68か国だが、1、.陸奥・出羽は守護不設置なので除く、2、「嶋」扱いなので対馬・壱岐を除く、3、 狭島・遠島扱いの隠岐とあまりにも領土が狭いため伊勢守護が室町時代を通じて兼任の属領扱いの志摩を除いたため通称全国66か国にしたとの3説あり)のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた。「将軍権力の強化」室町幕府の将軍は守護大名の連合の上に成り立っており、その権力は弱体なものであった。正平24年/応安2年(1369)に3代将軍に就任した足利義満は将軍権力の強化を図った。天授5年/康暦元年(1379)、康暦の政変により幕府の実権を握っていた管領細川頼之が失脚、斯波義将が管領に就任する。義満は細川氏と斯波氏の対立を利用して権力を掌握。直轄軍である奉公衆を増強するなどして着実に将軍の権力を強化した。これに加えて、義満は勢力が強すぎて統制が困難な有力守護大名の弱体化を図る。元中4年/嘉慶元年(1387)、幕府創業の功臣であり、美濃、尾張、伊勢3か国の守護である土岐頼康が死去した。甥の康行が後を継いだが、義満は土岐氏一族が分裂するように仕向けて挑発して康行を挙兵に追い込み、康応元年/元中6年(1389)に義満は康行討伐の命を下して、 翌明徳元年/元中7年(1390)にこれを下した(土岐康行の乱)。康行は領国を全て取り上げられ、康行の弟満貞が尾張を領有、土岐氏の惣領は叔父の頼忠に移ったが、美濃一国の領有しか許されなかった。義満の次の狙いは11か国を領する山名氏であった。山名氏の内紛山名師義は天授2年/永和2年(1376)に死去し、4人の息子義幸、氏之、義熙、満幸は若年であったため、中継ぎとして末弟の時義が惣領となった。
2024年06月12日
コメント(0)
*「山名 氏清」(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。興国5年/康永3年(1344)、山名時氏の四男として誕生。父・時氏が2代将軍・足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。建徳2年/応安4年(1371)に父が没すると長兄・師義が惣領となるが5年後に死去、氏清の弟・時義が後を継いで山名氏の惣領となった。氏清は父の遺領から丹波を相続、天授3年/永和3年(1377)に侍所頭人に任じられ、翌天授4年/永和4年(1378)に次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命された。しかし惣領になれなかった事に不満を持ち、時義と常に対立していたという。元中5年/嘉慶2年(1388)8月17日、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利するという武功をあげ(平尾合戦)、義満から感状を賜る(『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。元中6年/康応元年(1389)、時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだ。康暦の政変で管領・細川頼之が失脚し、山名氏の強大化を懸念していたと考えられる3代将軍・足利義満は、時義死後の家中分裂に伴い、将軍命令として氏清とその甥(婿)にあたる山名満幸に対して時熙、氏之の討伐令を下し、氏清はこれに応じて時熙を攻めて追放、恩賞として時熙の領国但馬を手に入れた。しかしその後、義満は時熙・氏之を赦免し、時熙を攻めた責任を満幸に問うとまで言い出した。氏清は満幸に反乱へ誘われ、積極的でなかったとされるが次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に元中8年/明徳2年/(1391)に挙兵して、同年12月には京都に攻め入る。合戦は京都内野で行われ、大内義弘や赤松義則、京極高詮などの有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。妻も殉死しようとしたが叶わず3年後に死去した。】*「山名 時義」(やまな ときよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人・小侍所別当、美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護。応仁の乱で有名な山名宗全(持豊)は孫に当たる。正平元年/貞和2年(1346)、山名時氏の五男として誕生。父に従い中国地方を転戦、正平18年/貞治2年(1363)秋、足利直冬や南朝と結んで度々室町幕府に反抗していた父が幕府の誘いを受け帰参を表明した際、時義は兄・氏冬と共に父の名代として上洛し、2代将軍・足利義詮に謁見、美作守護に任じられた。但し、正平21年/貞治5年(1366)に次兄・義理に交替させられている。建徳2年/応安4年(1371)に父が没し長兄・師義が惣領となった時は伯耆を受け継ぎ、天授元年/永和元年(1375)には幕府により侍所頭人、小侍所別当に任じられた。翌天授2年/永和2年(1376)、師義が49歳で病死し、弟の一人である時義が山名氏当主となり、合わせて但馬守護職も継承した。時義の相続には甥で師義の子・山名満幸や兄・氏清が不満を持ったとされ、後の山名氏における内紛の原因となる。文中元年/応安5年(1372)に但馬に此隅山城を築城、天授5年/康暦元年(1379)に起こった康暦の政変で今川了俊に代わって備後守護に任じられ、元中元年/至徳元年(1384)に侍所頭人に再任された。山名氏はこの時点で全国66ヶ国の内11ヶ国も領有、「六分一殿」の通称を付けられる程の勢力を誇った。元中6年/康応元年(1389)、死去。享年43歳。長男・時熙が惣領と但馬を、甥・氏之が伯耆を継いだが、程なくして「時義は生前将軍に対し不遜な態度があり、時熙と氏之にもそれが見られる」として3代将軍・足利義満から命じられた氏清・満幸らの追討を受けた。更に時義の死から2年後の元中8年/明徳2年(1391)には時熙・氏之を赦免した義満の挑発により挙兵した氏清・満幸らが敗死し、山名氏の勢力は大きく衰退した(明徳の乱)。墓所は兵庫県豊岡市の円通寺にあり、時熙と共に墓と木像が伝えられている。】*「山名 時熙」(やまな ときひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、侍所頭人、但馬・備後・安芸・伊賀守護。父は山名時義で長男。養子として入った兄弟(従兄)に氏之。正室は山名氏清の娘(山名師義の娘とも)。子に満時、持熙、持豊(宗全)。猶子に熙高(ひろたか)。官位は宮内少輔、右衛門佐、右衛門督。法名、常熙(じょうき)。康応元年/元中6年(1389)に父が死去し、家督を相続。しかし、山名氏の惣領権を巡る争いから明徳元年/元中7年(1390)3月には氏之と共に3代将軍足利義満から討伐を受け、伯父の山名氏清、従兄の山名満幸(氏之の弟)らに攻められ、但馬から備後へ逃れ、但馬を取り上げられ氏清に替えられた。翌明徳2年/元中8年(1391)には義満に赦免され、氏清らが挙兵した明徳の乱では義満の馬廻勢に加わり戦い、戦後氏清の分国但馬を拝領する。だが、一方でこの乱で敗れた従兄の満氏(みつうじ、氏清の子)・氏利(うじとし、同)兄弟や従弟の熙高(ひろたか、叔父高義の子)を秘かに匿っていた。応永6年(1399)に堺で大内義弘が蜂起した応永の乱でも戦い、備後の守護となる。相伴衆として幕政にも参加し、4代将軍足利義持から6代足利義教時代まで仕える。応永21年(1441)、永享4年(1432)には侍所頭人を務め、畠山満家と共に宿老となる。応永23年(1416)に鎌倉府で起こった上杉禅秀の乱では、同時期に京都から出奔しようとした足利義嗣と共に内通疑惑をもたれる。応永34年(1427)の赤松満祐出奔事件では討伐軍に加わる。永享5年(1433)に家督を持豊に譲り、日明貿易に関する横領疑惑で失脚。
2024年06月12日
コメント(0)
4、「六分一殿と明徳の乱」時氏から惣領を継いだ長男の山名師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となった。師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得ている。全国66か国のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた。師義の後は病弱だった嫡男の義幸でなく、師義の5弟の山名時義が惣領となり時義の後は山名時煕が継承した。この時煕の惣領継承には、師義の3男の山名満幸が、強い不満を持っていた。1390年(元中7年・明徳元年)、将軍・足利義満の命により満幸と氏清(満幸の義父で叔父)が時煕を攻め但馬国外へ追放した。しかし1391年(元中8年・明徳2年)、時煕を許すという将軍義満の変心に対し満幸は、氏清・義理の両叔父と共に幕府に対して挙兵(明徳の乱)、同元中8年・明徳2年12月には山名軍が室町幕府のある京都を制圧したが、最終的には幕府軍の反撃にあって満幸は逃亡、後に捕えられて処刑、氏清も戦死、義理は出家して没落した。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時熙の但馬守護職、氏之(満幸の兄)の伯耆守護職、氏家(氏冬の子)の因幡守護職のみとなり、一族は大幅にその勢力を減少させた。山名氏の惣領は時煕に戻り、師義の嫡男・山名義幸および嫡孫・師幸は伯耆国日野郡で山名日野家として続く。*「山名 師義」(やまな もろよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府小侍所所司、丹後国・伯耆国・但馬国守護。嘉暦3年(1328)、山名時氏の嫡男として誕生。父に従い興国2年/暦応4年(1341)の塩冶高貞追討と正平2年/貞和3年(1347)の楠木正行との戦闘に参加、観応の擾乱では足利尊氏ら北朝方に属し父・時氏が足利直義ら南朝方に寝返った後も北朝に留まり、正平7年/文和元年(1352)の八幡の戦いでは尊氏の嫡男・義詮と共に南朝の男山を攻めている。しかし、若狭国にあった所領の知行を佐々木道誉に妨害されていることに怒り、父や兄弟達と共に南朝に帰順、直義の養子・直冬を奉じて北朝方の赤松則祐と争い、中国地方における勢力拡大に務める。正平18年/貞治2年(1363)に父が北朝に帰順すると、丹後・伯耆の守護職を引き継ぐ。幕政においては管領・細川頼之らと派閥抗争を繰り広げた。建徳2年/応安4年(1371)に父が死去すると惣領となるが、5年後に師義も49歳で死去。嫡男・義幸は病弱で他の息子も幼少のため、弟・時義が後を継いだが、これが山名一族内紛の一因となる。また、伯耆に打吹山城を築き、時氏統治時代の居城田内城から移転している。】*「山名 義理」(やまな よしただ/よしまさ)は、南北朝時代の守護大名。美作国・紀伊国守護。延元2年/建武4年(1337)、山名時氏の次男として誕生。正平21年/貞治5年(1366)、弟・時義に代わって美作守護に任ぜられる。建徳元年/応安3年(1370)6月、内談に出仕。天授4年/永和4年(1378)、紀伊で挙兵した南朝方の橋本正督討伐を命じられ弟・氏清と出兵、紀伊守護を兼ねる。元中8年/明徳2年(1391)、山名氏の弱体化を図る3代将軍・足利義満の挑発に乗って氏清と甥・満幸が謀叛を決断。氏清は義理の分国紀伊を訪ねて同心を説得、義理は躊躇するが、氏清の熱弁に圧されて同意する。氏清と満幸は挙兵して京へ攻め込むが敗れて氏清は討死、満幸は逃亡した。義理は兵を発せずに紀伊から動かなかった(明徳の乱)。乱後に義理は義満に謝罪するが、義満は許さず紀伊と美作を没収して大内義弘と赤松義則へ与えた。美作の兵は赤松義則に降伏、元中9年/明徳3年(1392)に大内義弘は兵1000騎をもって義理が在国している紀伊へ討ち入った。義理は抗戦を試みるが紀伊の国人は皆背いてしまった。義理は一族63人と共に舟で脱出して紀伊由良湊まで逃げ込み、この地の興国寺で子の氏親、時理ら17人と共に剃髪して出家した。その後の動向は不明。孫(義清の子)の山名教清は後に嘉吉の乱で功績を挙げ、石見国及び美作守護として大名に復帰した。*「山名 氏冬」(やまな うじふゆ)は、南北朝時代の武将。因幡国守護。略歴山名時氏の三男として誕生。観応の擾乱では足利直義方に属した父・時氏に従い、兄弟達と共に播磨国・美作国などの守護である北朝方の赤松氏と争い、山名氏の中国地方一帯における勢力拡大に務める。正平18年/貞治8年(1363)に山名一族は北朝に帰順し、氏冬は因幡の守護を任じられる。】
2024年06月12日
コメント(0)
3、「南朝時代と山名氏の台頭」南北朝時代、新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従った。尊氏が征夷大将軍に就任、室町幕府を開くと、時氏は建武4年(1337)に伯耆国の守護に任じられ、以降南朝方の勢力の根強い山陰地方の守護に任じられて最前線で戦い、守護大名として大勢力を張った。山名を称する武家も複数あったが時氏は山名氏宗家として尊氏から公認され先祖にちなむ「伊豆守」に任じられた。その後の観応の擾乱では足利直義に従ったが、室町幕府第2代将軍・足利義詮時代には幕府側に帰参し、赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つにまで数えられるに至った。*「山名 時氏」(やまな ときうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、引付頭人。伯耆国・出雲国・隠岐国・因幡国・若狭国・丹波国・丹後国守護。足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子は母方の従姉妹に当たる。嘉元元年(1303)あるいは永仁6年(1298)、上野国の新田氏の一族である山名政氏の子として誕生。今川貞世の著した『難太平記』によれば民百姓の暮らしをしていたとされるが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は貞世がライバル関係にある山名氏を貶めたものと考えられる。その一方で、鎌倉幕府において活躍していた山名氏は庶流である山名重家(山名義範の子)や山名朝家(山名重国の子)の子孫であり、朝家の兄・山名重村の子孫である嫡流の活動は確認できない(重村は時氏の高祖父にあたる)とする指摘もあり、この指摘が正しければ貞世の記述が必ずしも山名氏(嫡流家)を貶めたものとは言えない、ということになる。なお、重家や朝家の子孫は鎌倉時代末期の政争や幕府の滅亡に伴って没落しており、時氏こそが山名氏の嫡流の地位を回復させた人物と言うことになる。足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加、その功で延元2年/建武4年(1337)には名和氏の本拠である伯耆守護に任ぜられる。その後も南朝との戦いで楠木正行、名和氏の掃討などを行い、興国2年/暦応4年(1341)の塩冶高貞討伐で功績を挙げ、その功で丹後・出雲・隠岐守護となり、正平2年/貞和3年(1347)に楠木正行と戦い敗北したが、翌年に若狭守護となる。正平5年/観応元年(1350)、室町幕府初代将軍・足利尊氏の弟である直義と、足利家執事・高師直の対立が発展して観応の擾乱が起こると、時氏は初め師直を推して直義排斥のクーデターにも参加するが、12月に京都を脱出して南朝に属し、師直を滅ぼした直義に従う(ただし、出雲にいた嫡男・師義は離反して尊氏に従っている)。翌正平6年/観応2年(1351)に直義が死去すると一時は将軍派に転身するが、出雲や若狭守護職を巡る佐々木道誉との対立もあり、正平8年/文和2年(1353)には師義と共に室町幕府に対して挙兵して出雲へ進攻、6月には南朝の楠木正儀らと共に足利義詮を追い京都を占領するが、7月には奪還される。時氏は領国に撤退した後、尊氏の庶子で一時は九州で影響力を持っていた足利直冬を奉じ、翌正平9年/文和3年(1354)12月には斯波高経や桃井直常らと再び京都を占領するが、撤退。その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨国の赤松則祐とも戦う。幕府では細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、正平18年/貞治2年(1363)8月には子・氏冬と時義を上洛させ、大内氏に続いて室町幕府に帰順、時氏は伯耆・丹波守護に、師義は丹後、氏冬は因幡国、時義は美作国守護に任命され(後に次男・義理に交代)、山名氏は5ヶ国の守護となった。また、引付頭人にも任じられ幕政に参加した。翌正平19年/貞治3年(1364)3月には若狭の今富名が与えられて若狭守護ではない時氏が小浜などの同国の主要地点を掌握した。幕府では義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世ら共に反頼之派の武将であった。建徳2年/応安4年(1371)、死去。享年69歳。伯耆大雄山の光孝寺(現山名寺倉吉市厳城)に葬られ、嫡男・師義が後を継いだ。時氏は南北両朝や守護大名同士の抗争に付け込んで自勢力の拡大に注力し、因幡に二上山城、伯耆には田内城と打吹城を築き、やがて山名氏は山陰地方随一の勢力となった。5人の息子も時氏の死後に所領を増やしていったが、それが将軍家に危険視され、後の同族争いに繋がっていくのである。「人物・逸話」幕府に敵対しながら5ヶ国の領国を安堵されたため、『太平記』では「多く所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかりけれ」と人々が噂し合ったという。かつて敵であった時氏が大勢力を保持したまま帰順したことが皮肉られたと思われる。『難太平記』では時氏は自分の体験を子供達に語り、道理を弁えた自分でさえ上意をおろそかにする時があるため、子孫は度を過ぎて上に警戒されるのではないかと心配したという逸話もある。真偽は不明ながら、時氏の死から20年後に山名氏は明徳の乱において将軍家から追討されることになり、勢力は削減されてしまった。】
2024年06月12日
コメント(0)
2、「山名氏の出自」山名氏(やまなうじ、やまなし)は、山陰地方を中心に勢力を持った武家(守護大名・戦国大名)である。鎌倉時代山名氏の本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁・鎮守府将軍・源義家の子・義国を祖とする名門・新田氏の一門。新田義重の庶子・三郎義範(または太郎三郎とも)が上野多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)を本貫として山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。*「山名 義範」(やまな よしのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山名氏の祖。新田義重の庶子として誕生。上野国多胡郡八幡荘の山名郷[2]を与えられ、山名氏を称した。承安5年/安元元年(1175)から安元3年/治承元年(1177)頃には豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比較されて義範のみ新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の庶流の中でもかなり冷遇されていたと見られる。父・義重は治承4年(1180)8月に挙兵した源頼朝の命になかなか従おうとしなかったために、頼朝から不興を買って鎌倉幕府成立後に冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の下に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された。治承8年(1184)2月の源義経率いる平氏追討軍に参加。文治元年(1185)8月には伊豆守に任じられる。文治5年(1189)7月の奥州合戦に従軍。建久元年(1190)、頼朝の上洛に供奉。建久6年(1195)の2度目の上洛では東大寺供養の際に頼朝に近侍し、その嫡子・頼家の参内にも従っている。いち早く頼朝のもとに参陣したのは、早くから足利氏との縁があったためであると伝わる。】 山名氏の祖の義範は鎌倉時代には早くから源頼朝に従って御家人となり、頼朝の知行国(関東御分国)の一つである伊豆の国主に推挙され伊豆守となる。源伊豆守の公称を許され源氏の門葉として優遇された。逆に本家の新田氏は頼朝へ参上することが遅れたこともあり、門葉になれなかった。通説では山名義範の嫡男重国の長男の重村が山名郷を継承し、山名氏の嫡流になったとされている。系譜上においては通説通りで問題はないものの、実際には重村の弟・朝家の系統と重国の弟(すなわち、重村・朝家の叔父にあたる)重家の系統が鎌倉時代における山名氏の中心的存在であったとみられている。朝家の子孫は鎌倉幕府の法曹官僚、重家の子孫は六波羅探題の奉行人を務める家柄であったが、朝家の曾孫の俊行が正安3年(1301)に謀反の疑いで滅ぼされ、残った重家の子孫も鎌倉幕府滅亡と前後して没落したため、結果的に鎌倉時代を通じて不振であった山名重村の子孫だけが残ったとみられている。なお、重家の子孫とみられる山名氏が丹波国・出雲国・備前国などに所領を有していた可能性があるものの、重村の子孫である守護大名の山名氏による支配との連続性は確認できないため、別物とみなされる。
2024年06月12日
コメント(0)
「山名氏の一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「山名氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「南北朝と山名氏の台頭」・・・・・・・・・・・・64、 「六の一殿と明徳の乱・・・・・・・・・・・・・・105、 「応仁の乱と山名氏」・・・・・・・・・・・・・・376、 「応仁の乱と山名氏の再興」・・・・・・・・・・・567、 「室町時代の後期」・・・・・・・・・・・・・・・648、 「山名氏と赤松氏の播磨奪回」・・・・・・・・・・859、 「織田家の侵攻と滅亡」・・・・・・・・・・・・・9110、「江戸時代の山名氏(但馬)」・・・・・・・・・・9311、「江戸時代(但馬山名子孫。清水山名氏)・・・・・10112、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・111 1「はじめに」南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。
2024年06月12日
コメント(0)
「山名氏の一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「山名氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「南北朝と山名氏の台頭」・・・・・・・・・・・・64、 「六の一殿と明徳の乱・・・・・・・・・・・・・・105、 「応仁の乱と山名氏」・・・・・・・・・・・・・・376、 「応仁の乱と山名氏の再興」・・・・・・・・・・・567、 「室町時代の後期」・・・・・・・・・・・・・・・648、 「山名氏と赤松氏の播磨奪回」・・・・・・・・・・859、 「織田家の侵攻と滅亡」・・・・・・・・・・・・・9110、「江戸時代の山名氏(但馬)」・・・・・・・・・・9311、「江戸時代(但馬山名子孫。清水山名氏)・・・・・10112、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・111 1「はじめに」南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。 「
2024年06月12日
コメント(0)
14、「近現代における松平氏」王政復古後に明治新政府は徳川慶喜が朝敵であるため松平姓を称するのは不適当であるとして、慶応4年(1868年)1月27日に本姓に復するよう布告した。これにより、賜姓によって松平氏を称していた一族は本来の名字を名乗るようになり、十八松平に連なる一部の松平家(桜井松平家・大給松平家・滝脇松平家)も松平氏を改めた。それでも松平氏を称する華族は30家に及び、同じ名字を名乗る家の中では最も多い。中でも福井藩越前松平家は松平春嶽の功により侯爵となっている。また昭和前期には松平恆雄が外交官・宮中で活躍し、戦後には初代の参議院議長となっている。現在の子孫は、徳川・松平一門の会に所属し、その会員数は約600名である。松平氏の本姓について三代信光は賀茂氏あるいは源姓を称していたことが知られる。元来賀茂姓であったのを源姓に改めたものと見られる。三つ葉葵の家紋もまた賀茂氏に由来するともみられている。7代清康は清和源氏(源姓世良田氏)と名乗ったこともある。9代当主となった家康は、今川からの独立直後である永禄4年(1561年)に発給した菅沼氏への安堵状において「源元康」と署しており(「菅沼家譜」『久能山東照宮所蔵文書』)、永禄4年から6年の間に、5点の正文を含む6点に「源氏」の署名がみられる。家康の徳川改姓と叙爵の際、吉田兼右が万里小路家の文書を調査した結果、新田氏系得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見された。この件には近衛前久が関与しており、その経緯を子である近衛信尹に送った書状が現存している。このため家康の叙爵は「藤原家康」として行われ、以降家康も藤原氏を名乗った。笠谷和比古は源氏の棟梁である足利将軍家に家康がつてを持たなかっただけでなく、将軍家が当時当主不在であるという異常事態を迎えており、取り次ぎを行った近衛前久が官位奏請を行うためには藤原氏一門であるほうが好都合であったという指摘を行っている。米田雄介が官務である「壬生家文書」にある口宣を調査したところ、天正14年(1585年)の権中納言就任以前の口宣はすべて藤原姓であるが、天正15年(1586年)などは不明であり、天正20年(1592年)9月、徳川家を清華の家格とする「清華成り」の発給の際には源姓となり、以降一貫して源姓を称していたことが明らかになっている。米田は源氏改姓を天正20年と見ているが、笠谷は『聚楽行幸記』で家康が「大納言源家康」と署名したという記事を指摘し、天正16年の聚楽第行幸頃の時期であると見ており、足利義昭の出家による将軍家消滅が契機であったと見ている。以降の現存する発給文書でも源姓となっている。了
2024年06月11日
コメント(0)
12、「松平氏傍流」「その他の長沢松平家」· 傍系の松平清直は松平忠輝の付家老を務め、忠輝の改易後浪人するが、元和4年5月(1618年)に将軍家に召し出されて三河国宝飯郡形原に5、000石の所領を与えられ、交代寄合となったが、孫の信実の代に無嗣絶家。· 清直の弟・松平正世は忠輝改易後は越前松平家に召抱えられ、藩重臣の松平主馬家として存続した。また、同家の分家筋である松平正直は明治政府に官僚として出仕し、後に男爵に叙せられた。正世 - 正詮 - 正恒 - 正村(正勝) - 正恒(再襲) - 正明(正般) - 正惟 - 正郷 - 正義 - 正方 - 正一· 越後長岡藩牧野氏の家老・今泉氏も長沢松平氏の庶流の一つであるとされている。「五井松平家」(ごいまつだいらけ)は、松平信光の七男・松平忠景を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡五井(御油とも、現在の愛知県蒲郡市五井町)を領したことから五井松平家と称した。代々松平宗家(徳川氏)に仕え、5代・松平景忠は武功を立て、生涯徳川家康に忠誠を尽くした。7代・松平忠実の時に2代将軍・徳川秀忠から下総国海上郡に6千石を与えられた。大名に取り立てられなかったが、上級旗本であった。その後は、代々寄合で、御家断絶の危機も訪れず、幕末まで存続した。「深溝松平家」(ふこうず(ふこうぞ)まつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つ。先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。起源大永4年(1524年)、五井松平家2代・松平元心が松平宗家当主・松平長親の命により額田郡深溝城主・大場次郎左衛門を討ち獲るが、元心の戦功を譲られた弟・松平忠定によって深溝松平家は発足されたという。一方で、島原市の本光寺の記録によると、岩津家の松平親長の娘と婚姻してその所領を譲受し発祥させたというが、真偽のほどはわからない。戦国時代から安土桃山時代その後も深溝城主であり続けた。2代・松平好景、3代・松平伊忠は徳川家康の岡崎城での独立期から善明堤の戦いなどで働きを示し続けた。4代・松平家忠は酒井忠次の指揮下に組み込まれるが、「長篠の戦い」などで功を挙げた。天正8年(1590年)の徳川家の関東移封で、家忠は武蔵忍に1万石を与えられている。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦であった「伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城玉砕している。3代・伊忠以来、主殿助(4代・家忠からは主殿頭)の通称を用いていたため、松平主殿家とも言われる。江戸時代慶長6年(1601年)、関ヶ原での戦勝により家忠の子・松平忠利は、念願であった旧領復帰が叶い三河国深溝藩Ⅰ万石の大名となった。ところが、慶長17年(1612年)3万石に加増された上で同吉田藩へ移った。松平忠房の代に三河国刈谷藩、丹波国福知山藩と転封を続け寛文9年(1669年)6万5000石で肥前国島原藩に入った。寛延2年(1747年)、戸田忠盈と入れ替わりで下野国宇都宮藩へ移封。安永3年(1774年)再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、以後定着して明治維新を迎える。維新後、子爵。13、「岩津松平家」 (いわつまつだいらけ)とは、室町時代(15世紀)に西三河地方に分出した松平氏の一流。古文書における関係人物の表記で、岩津は岩戸とも表記されている。三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津城攻撃を受けて衰退し、松平氏庶流の安城松平家が岩津家に代わって惣領家化した。その後、岡崎の宗家第八代(安城家の五代目)・広忠の代には岩津家の跡が絶え、三木松平家とされる信孝によって遺領が押領されたという。
2024年06月11日
コメント(0)
「松平信重の子孫」松平信重は、『寛政重修諸家譜』及び家伝の系譜と系図によると松平親清の二男とされるが、中嶋次太郎著『松平忠輝と家臣団』では、松平康忠の近親者の可能性も指摘されている。なお、政信以降、姓は長澤となる。酒井忠恭の代に厩橋(前橋)藩が姫路へ転封されたため、その後の系図は姫路市城郭研究室所蔵の資料及び善導寺(姫路市)の過去帳によった。また、明治以降は戸籍簿による。 「大河内松平家」松平康直病没前の天正15年(1587年)、徳川家康の命で摂津源氏の末裔の大河内正綱が長沢松平家分家の松平正次の養子となる。この後は大河内松平家とも呼ぶ。この松平正綱の甥が正綱の養子となり、知恵伊豆と謳われる老中・松平伊豆守信綱(武蔵国忍藩、そして川越藩主)となる。またその末裔から小知恵伊豆と言われる老中・松平伊豆守信明(三河吉田藩主)も出す。大名を三家出し、旗本の家もあった。明治維新後、大河内松平家は全家が大河内姓に復している。長沢松平家の大名深谷藩 → 佐倉藩 → 川中島藩 → 高田藩(忠輝のとき改易)*三河吉田藩 - (大河内松平家)*大多喜藩 - (大河内松平家)*高崎藩 - (大河内松平家) 「長沢松平家」(ながさわまつだいらけ)は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。長沢城(三河国宝飯郡長沢)を本拠地としたため、長沢松平家と呼ばれた。なお、摂津源氏とされる大河内氏から分家に養子として入った松平正綱が大名として取り立てられただけでなく、正綱の後継として入嗣した甥の信綱が松平伊豆守家として大成させて本家より栄えたため、江戸時代の長沢松平家は傍流の大河内松平家を指す場合が多いようである。ただし、正綱にせよ信綱にせよ長沢松平家の傍系へ入嗣したに過ぎず、大河内氏の流れではない長沢松平家の直系は存続している。長沢松平家は松平宗家三代・松平信光の十一男(異説あり)親則を祖とする。本拠地は長沢城であった。この長沢城は現在の豊川市立長沢小学校(愛知県豊川市長沢町字午新)周辺。今では旧東海道拡張のための国道1号建設により、城の丘は南北に分断されている。著名な人物には、徳川家康の従弟・松平康忠がある。康忠は戦功多く、徳川十六神将の一人にかぞえられている。文禄2年(1593年)、康忠の子・松平康直が嗣子無きまま病没したため、家康の七男・松千代を養子に迎えて家名存続を図った。その松千代が夭折すると、今度は家康六男(松千代の同母兄)を新たな養子とした。これが松平忠輝である。忠輝を養子に迎えて繁栄を見込めたのは、ほんの僅かな期間に過ぎず、元和2年(1616年)、忠輝は異母兄の将軍・徳川秀忠により改易。長沢松平家の家名は断絶してしまう。ただし、忠輝の改易後も長沢松平家の血統は残っていた。それでも江戸幕府はなかなかこの家を認めず、享保4年(1719年)にようやく長沢松平家と認知した。天保5年(1834年)に十人扶持になり、やっと幕臣として禄が下された。幕末期の当主・松平忠敏(主税助)は新選組の前身である浪士組の取締役になった。
2024年06月11日
コメント(0)
明治以降 (明治17年)、18代・松平信正が子爵を授爵し、華族に列した。「大草松平家」(おおくさまつだいらけ)は、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身の松平氏。岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする。十四松平・十八松平の一つとされる。初めは岡崎松平家と称した。宗家に対抗的で、3代・松平昌安(信貞・弾正左衛門)の時に松平清康に叛したが敗れ、4代・松平昌久は三河一向一揆で一揆側に付いた。このため大草松平家は一時追放されたが、再び一門に復し、7代・松平康安の時、徳川家康に忠を尽くして旗本(6千石)となった。しかし9代・松平正永の代で無嗣のため絶家した。出自・沿革文明年間(1469~1487年)、岡崎城主・西郷頼嗣は松平信光と争って敗れたので、岡崎城を信光に譲り自身は自領の大草郷に隠退した。この時、信光は五男・松平光重(紀伊守・号榮金)に頼嗣の娘を娶らせ岡崎城主として光重を岡崎に分出させた。その後、光重の嫡子・松平親貞(左馬允)は無嗣のまま早世し、西郷頼嗣の実子とされる信貞が養子入りして親貞の跡を継いだ。信貞は一説に実父の西郷姓に復して、西郷弾正左衛門と称したとされ、新たに山中城を構え近隣を押領して、宗家・安城松平家の松平清康に叛意を示したが、属城の山中城を清康に攻め落とされると恐怖して降参した。信貞は祖父の先例に同じく岡崎城を清康に譲り、嫡女の於波留(おはる)を清康に嫁がせると、自らは父祖の地額田郡大草郷に移住した。以後子孫は暫く同地の大草城を根拠にしたので大草松平家と呼ばれた。信貞の子・昌久(七郎)は宗家の徳川家康に背き三河一向一揆に加担したが、一揆軍が敗北したため逃亡して所領の大草を没収され、これより一族は浪々の身となる。6代・松平正親の嫡男・康安が家康長男の松平信康の旗本として復帰したとされる[2]。松平康安(石見守・善兵衛)は家康の嫡子松平信康に、信康切腹後は家康に仕えた。鉄砲射撃を得意とし、足軽大将として対武田氏・北条氏戦で活躍し、最初期の大番頭になる。家康死後、将軍・徳川秀忠より6000石を給与された。7代・松平正朝は家康・秀忠に仕え、後に駿河大納言・徳川忠長付きとなったが忠長の改易・除封に連座して所領を収公された。後に水戸徳川家に仕官して家老になったが、子の正永は無嗣で絶家した。歴代*松平光重(みつしげ、通称は紀伊守・号榮金)*松平親貞(ちかさだ、通称は左馬允・岡崎左馬允)*松平信貞(のぶさだ、信貞・別名昌安(一説に法号)、通称は弾正左衛門、西郷を称す)*松平昌久(まさひさ、七郎)*松平三光(みつみつ・かずみつ、通称は善四郎・善兵衛・源太郎)*松平正親(まさちか、通称は善四郎・善兵衛)*松平康安(やすやす、通称は善四郎・善兵衛、官職名は石見守、官位は従五位下)*松平正朝(まさとも、通称は善四郎、官職名は壱岐守、官位は従五位下、)*松平正永(まさなが、通称は善四郎、官職名は壱岐守・因幡守、官位は従五位下) 「能見松平家」(のみまつだいらけ)は、三河国の松平氏の庶流。松平信光の八男・光親を祖とする。三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)を領したことから能見松平家と称す。立家から安土桃山時代まで3代・松平重吉の頃から徳川家康に仕えた。家康の岡崎独立時代から豊臣秀吉死後の徳川家の覇権掌握の時期は、4代・松平重勝から5代・重忠の頃に相当する。その間、能見松平家は長篠の戦いや大坂夏の陣などの徳川宗家が関わった各戦場で戦功を挙げている。江戸時代元和2年(1616年)に下総国関宿藩2万6千石の大名となる。他の松平分家と比較すると遅い出世となるが、これは当主の松平重勝が家康の六男・松平忠輝の付家老であった為と考えられる。重勝の功績の数々が認められたため、忠輝の改易に連座することはなく、独立大名として取り立てられた。重勝の長男以外の子たちも大名として取り立てられ、それぞれ分家を興している。その後、本家は遠江国横須賀藩2万6千石、出羽国上山藩4万石、摂津国三田藩3万石、豊後国高田藩3万7千石と転封を続けたが、7代・松平英親の時に移封した豊後国杵築藩3万2千石に定着し、幕末まで存続する。幕末・明治時代以降14代・松平親貴のとき、戊辰戦争が起こると旧幕府側から離反し、新政府側に寝返る。のち廃藩置県を迎え、子爵に列せられた。「長沢松平家」(ながさわまつだいらけ)は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。長沢城(三河国宝飯郡長沢)を本拠地としたため、長沢松平家と呼ばれた。なお、摂津源氏とされる大河内氏から分家に養子として入った松平正綱が大名として取り立てられただけでなく、正綱の後継として入嗣した甥の信綱が松平伊豆守家として大成させて本家より栄えたため、江戸時代の長沢松平家は傍流の大河内松平家を指す場合が多いようである。ただし、正綱にせよ信綱にせよ長沢松平家の傍系へ入嗣したに過ぎず、大河内氏の流れではない長沢松平家の直系は存続している。長沢松平家は松平宗家三代・松平信光の十一男(異説あり)親則を祖とする。
2024年06月11日
コメント(0)
家康の関東移封の噂は戦前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが[41]、結局北条氏の旧領国に移されることになった。秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したと考えられている。一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった。ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が徳川家中に流れている(『家忠日記』天正20年2月6日条)。この移封によって150万石から250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと考察している。 この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城とした。なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していた。8月1日に江戸へ入府した家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。12、「松平氏庶流」「竹谷松平家」(たけのやまつだいらけ)は、松平信光の長男の松平守家を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡竹谷(現在の愛知県蒲郡市竹谷町)を領したことから竹谷松平家と称する。松平氏の分家では最も古く、代々松平宗家に貢献した。6代家清は小田原征伐で宗家の徳川家康に従軍し、家康の関東移封後、武蔵八幡山1万石の大名となった。家清は関ヶ原の戦いでも功績を立て、三河国渥美郡吉田3万石に移封されるが、7代忠清に嫡子なく絶家となり、忠清の弟松平清昌が三河国宝飯郡に5千石を与えられ、蒲形(かまがた)陣屋を構えた。清昌の系統は帝鑑間詰の交代寄合の上級旗本として幕末まで続いた。歴代当主松平守家*松平守親*松平親善*松平清善*松平清宗*松平家清*松平忠清*松平清昌*松平清直*松平清当*松平義堯*松平義著*松平義峯*松平守惇*松平守誠*松平善長*松平清良*松平清倫*松平敬信* 「形原松平家」(かたのはらまつだいらけ )は、松平信光の四男・与副(与嗣とも[3])を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡形原(現・愛知県蒲郡市形原町)を領したことから形原松平家と称した。なお、与副の弟である松平光重(大草松平家)及びその三男である貞光も形原に拠点を持っていたとされ、初期(天文年間まで)には与副系統と貞光系統があったとする説もある。形原は天然の良港であり、この地を狙う近隣の深溝松平家や幡豆小笠原氏との所領争いが絶えなかった。そのため、形原松平家の動向もこの両氏との争いに左右されることが多く、一般的には4代・松平家広の頃より宗家の徳川家康に従ったとされるものの、家広の頃には今川氏に形原を奪われて今川方の奥平貞友が進出している時期があることや、桶狭間の戦い後に深溝松平家との争いをきっかけに今川氏真に寝返り、その後今度は今川方の幡豆小笠原氏との争いをきっかけに家康の下に帰参したことが明らかになっている。5代・松平家忠は長篠の戦いで武功を上げ、6代・家信も小牧・長久手の戦いや小田原征伐で武功を上げた。家康が関東に移封されると、上総国五井藩に移されるが、五井は地理的条件が形原に似ており、また当時の徳川水軍の一翼を担っていたとみられている[7]。江戸時代元和4年(1618年)、家信に故地である三河国形原藩1万石が与えられ、大名となる。その後、家信は翌年の摂津国高槻藩2万石への移封を経て、寛永12年(1635年)に下総国佐倉藩4万石へ移封された。高槻・佐倉への移封によって海上と切り離された形原松平家は譜代大名として新たな発展を遂げることになる[8]。寛永17年(1640年)、7代・松平康信は高槻に3万6千石で再封され、慶安2年(1649年)に丹波国篠山藩5万石へ移封された。しかし、11代・松平信岑が享保の大飢饉の最中に重税を課したことにより、寛延元年(1748年)に丹波亀山藩5万1千石に移封され、そのまま幕末まで存続した。
2024年06月11日
コメント(0)
家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(第一次上田合戦)。また同年には、家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、重篤に陥るも、最終的には治った。勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に天正11年5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」に見舞われた。その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる。家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。天正14年(1586年)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『当代記』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。家康は10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀).豊臣家臣時代天正14年(1586年)11月1日、京へ上り、11月5日に正三位に叙される。このとき、多くの家康家臣も叙任された。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜された。同年12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託された。12月28日秀吉の推挙によりさらに朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に任ぜられる。 このことにより、このころの家康は駿府左大将と呼ばれた。家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛ての5月21日付起請文[41]で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。*家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない*今月中に兄弟衆を京都に派遣する*豊臣家への出仕を拒否する場合娘(氏直に嫁いだ督姫)を離別させる家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもある北条氏規を上洛させるなどある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じなかった。天正18年(1590年)1月、家康は嫡男とみなされていた三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせることで改めて秀吉への臣従の意思を明確にして北条氏と事実上の断交となり、これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供し、4月には吉川広家が豊臣家の城番として岡崎城に入城している(小田原征伐)。尚、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得たノウハウと経験は新領地の関東統治に生かされた。天正18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。
2024年06月10日
コメント(0)
本能寺の変と天正壬午の乱天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れた。6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。この時、三河の国一色において一行を介抱したのが、高須克弥の先祖とされている。その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、このとき中国地方から帰還した羽柴秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知った。一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領国のうち上野一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3ヶ月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走した。また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担った河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺・一条信龍屋敷に本陣を置いていたが、新府城(韮崎市中田町中條)に本陣を移すと七里岩台上の城砦群に布陣し、若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙した。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がった。小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従[編集]信長死後の織田政権においては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、さらに影響力を強めた。信雄は天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁しており、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信長嫡孫・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗した(『岩田氏覚書』)。天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3月13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は28日に尾張国小牧(小牧山)に着陣した。秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、4月初めには森長可・池田恒興らが三河国に出兵した。4月9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した(小牧・長久手の戦い)。「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」といわれた。小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とした。戦後の和議は秀吉優位であったとされる。越中国の佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかった。天正13年(1585年)に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属している。さらに秀吉は7月11日に関白に補任され、豊臣政権を確立する。これに対して家康は東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。
2024年06月10日
コメント(0)
小山田信茂の投石隊三方ヶ原の戦いでは武田家臣の小山田信茂が投石隊を率いたとする逸話が知られる。三方原における投石隊に関して、『信長公記』諸本では武田氏では「水役之者」と呼ばれた200 – 300人の投石部隊が礫(つぶて)を打ったと記している。一方、『三河物語』でも武田氏では「郷人原(ごうにんばら)」と呼ばれた投石隊が率いられていたとしている。これらの史料では投石隊を率いたのが小山田信茂であるとは記述されていないが、江戸時代には正徳4年(1714年)の遠山信春『總見記(そうけんき)』においては信玄は信茂に先陣を命じ、それとは別に「水役之者」を先頭に立たせ礫を投げさせたと記し、これは「水役之者」を率いたのが小山田信茂であると誤読される可能性が指摘されている。1910年(明治43年)には陸軍参謀本部編『日本戦史三方原役』においては信茂が投石隊を率いたと記され、1938年(昭和13年)の『大日本戦史』では陸軍中将・井上一次が同様に投石隊を率いたのが小山田信茂であると記している。その後、信茂が投石隊を率いた点が明確に否定されることがなかったため、俗説が成立したと考えられている。逸話· 現在の温暖な浜松周辺では考えられないが、合戦当時雪が降っていた。· 浜松市内の地名の「小豆餅」(中区の町名)および「銭取」(同区和合町の地名)は、敗走中の家康が途中で立ち寄った茶屋の老婆より小豆餅を買い求めて食べていたが、そのとき武田軍が迫ってきたので代金を払わず逃げ、後から老婆が追いかけて家康から餅代を徴収したという話がその由来として知られているが出典は明確でなく、それほど古くない時代に筋立てが成立した伝承であると考えられる。· 敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、後に家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にした。· また、家康が武田軍の追跡を逃れるため浜松八幡宮の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃げおおせた。· 後に家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。· 犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがった。· そこで家康は僧侶の宗円を招き武田兵の霊を弔うための供養を行い、それ以後うめき声は聞こえなくなった。· この供養が遠州大念仏の起源であるという。また、犀ヶ崖の戦いがあったとされる場所は、その伝承によって「布橋」と言う地名になった。浜松には「布橋の雪」という銘菓がある。· 敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した後に家臣から脱糞した旨を咎められて「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話がよく知られているが、この話は出典となる史料が判明していない。· 類似した話が記述されている『三河後風土記』では一言坂の戦い後の話とされている。· 門松の習慣は平安時代からあったが、現在一般的となっている竹をななめに切って並べる「そぎ」にしたのは家康で、竹を武田家になぞらえて「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めたとされる。· 撤退戦に際して、家康は騎射で武田勢数名を撃ち倒したと『信長公記』にある。· 敗北した家康が浜松城に帰還した際、夜陰に乗じての帰還で供回りも少なかったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく自城に入れなかった。· 家康が浜松城に逃げ帰った後、酒井忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、河竹黙阿弥の『太鼓音知勇三略』(後に新歌舞伎十八番の一編となる)が1873年(明治6年)3月に村山座で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったもので、『三河後風土記』が典拠とされることがあるが同書にそのような記述はなく、城門を開け放しにした話を脚色したと考えられる。· 前哨戦では磐田・見付町の町衆が徳川軍に味方して武田軍に対抗し、そのおかげで家康からいくつかの特権を与えられたという(小和田哲男『戦国の群像』)。史料によると内容は3つである。*「町衆が狼煙をあげ、武田軍の動きを浜松城の家康に知らせた」*夜討ちをかけた武田勢が引き上げるところを、省光寺の裏山にひそんでいた町衆が待ち伏せして襲い、何人かを討ち取った」*「浅羽の内芝原に信玄が陣取った際、本多忠勝と内藤昌成が見付東坂の上まで物見に出たのだが、信玄隊が急に襲いかかってきたので、町衆は自ら町に火を掛け、本多隊の撤退を助けた」· 敗戦後、家康はしばらく夢でうなされた。しばしばこの戦で死ぬ夢を見たという。· 天正8年(1580年)に佐久間信盛が織田家から追放された際、信長は信盛が三方ヶ原においてほとんど戦わず、平手汎秀を見殺しにして退却した事を追放の理由の一つとして挙げている。· 家康はこの戦で人生初の恐怖と大きなトラウマをもらったのは有名だが、同時に武田信玄及び武田軍の武将達に尊敬の念を抱くようになったという説もある。· 武田氏滅亡後、家康が武田の残党を抱えたのも、山県昌景や小幡信貞の赤備えを井伊直政に継がせた(井伊の赤備え)のも敬意の表れだという。· このほかにも様々な俗説があり、家康が敗走中に部下のとった坊主首を信玄を討ち取ったと言いふらさせた、徳川勢の戦死者が一人も背中を見せて死んでいなかった、· 信玄が米倉丹後守に火牛の計を授けた、などがある。小説家の佐藤春夫は、『三河後風土記』などの内容のほか、講釈師が張扇でたたき出した創作などもあるだろうと述べている。
2024年06月10日
コメント(0)
「家康の敗走と犀ヶ崖の戦い」武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げる。同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させる(犀ヶ崖の戦い)。この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなどの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという。ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出である。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲と100人の兵で歴戦の武田勢3万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。また、戦死者数も書籍がどちらの側に立っているかによって差があり、『織田軍記』では徳川勢535人、甲州勢409人と互角に近い数字になっている。合戦後『甲陽軍鑑』によれば、三方原合戦後に武田氏は正式に信長と断交したという。ほぼ兵力を温存した状態の武田軍は遠江国で越年した後、元亀4年(1573年)正月に東三河へ侵攻する。2月16日には徳川軍にとって東三河防衛の要所である野田城を攻略する(野田城の戦い)。間もなく信玄の病状悪化に伴い、武田軍は西上作戦を切り上げて甲斐国への撤退を決断し、帰路の元亀4年/天正元年4月12日に信玄は信濃伊那郡駒場において病死する。また、『松平記』にて、この野田城の戦いで武田信玄が、討ち死にしたとの異説が記述されている。武田氏では信玄の死を秘匿し、四男の武田勝頼が家督を継ぐ。その際の間隙を突いて武田軍の撤退から半年も経たない8月には家康は長篠城を取り戻すことに成功した上に、奥平貞能・貞昌親子の調略も成功させている。これらは後の長篠の戦いで大きな意味を持つことになる。勝頼は翌天正2年(1574年)には三河・美濃岩村田へ侵攻し、2月7日には明智城を攻略している。信長は反信長勢力を打破し、三河・遠江では家康が反攻を強めた。一方で天正年間に勝頼は小笠原長忠が篭る高天神城を落とすなど遠江の再掌握を開始することに成功する。しかし天正3年(1575年)5月21日に三河における長篠の戦いでは武田方は織田・徳川連合軍に敗れる。勝頼は信長との和睦を試みるが(甲江和与)、天正9年(1581年)には徳川家康の遠江国高天神城の包囲に対して勝頼は救援を出せないまま高天神城は落城し、翌年天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)により、武田家は滅亡した。三方ヶ原の戦いをめぐる論点 家康が出陣した理由通説では、信玄の挑発(相手にされず素通りされたこと)に乗ったとされているが、様々な説がある。あえてここで出撃することによって家臣や国人衆たちの信頼を得る(ここで武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る可能性があった)、織田氏・武田氏のどちらが勝つにせよ戦役終了後に徳川氏に有利になるよう戦略的アピールを狙ったなどがあるが、祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていたという説や、挑発に乗った振りをして浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていたと言った戦術的面から見た説もある。また、『当代記』『四戦紀聞』などの史料によれば、家康は戦うつもりが無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という旨の記述がある。両軍の布陣[編集]この戦において徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形であり、数に劣る徳川軍、数に勝る武田軍であったとすると、どちらも定石と異なる布陣を敷いていたことがわかる。徳川方が鶴翼の陣を取った理由の説⁂そもそも武田軍本隊は去っており、待ち構えているのは少数であると予想していたため。⁂最初から勝ち目が無いことはわかっていたため、兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。武田軍が魚鱗の陣を取った理由の説*鶴翼の陣を見て大将首(家康)を討ち取ることに狙いを絞った(鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる)。*織田軍の中でも特に増員兵力の多い佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたことなどから、織田軍の支援を考慮して相手方を多く見積もっていた。他にも説はあるが、何れにしてもはっきりしたことはわかっていない。
2024年06月10日
コメント(0)
全5677件 (5677件中 201-250件目)