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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」17
「自己意識の外化としての世界」、より道の2
前回の発信ですが、マルクスはとどのつまりヘーゲルのどこを評価したのか?弁証法でした。
しかし、それがもっている一面化の問題、そのための課題とは何か、ということでした。
そもそもその弁証法とはなにか? この問題があります。
この弁証法というものの理解の問題をめぐっても、いろいろな人が、その考えを、それこそ沢山の本になってだされています。
私なども「ヘーゲル 歴史のなかの弁証法」として、冊子にしたんですが。
さらに、今回の問題ですが。
知人が前回の発信に対し感想を寄せてくれました。
そのなかで、ヘーゲルの言っている「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」とは、どういうことなのか?
そのことを検討することと弁証法の問題とは、どのように関係しているのか?
こんな問題がありました。
ヘーゲルの表現というのは、私などの日常の言葉や文章からして、「なんじゃ、こりゃぁ???」となりがちなんですが。
注意して読むと、私たちが日常に経験していることを、ヘーゲルはそれを哲学的に表現しているんですね。
この場合も、「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」とは、ようするに私たちが見ている外界の世界というのは、私たちの意識がとらえ・つくりだしているものだということです。
それはそうですが、なんでそんなことが、今ここで大きな問題になるのか?との問題が問題なんです。このことをめぐって、マルクスは9文節(第24文節から第32文節)もの論評と議論を展開しているわけです。
「素朴実在論」ということがあります。古今東西の認識は、カントやヘーゲルが問題にするまでは、外界の世界とひとの意識とは一致していた。意識は外界そのものをとらえているとの普通人の常識です。
ところが、そこに「それは本当だろうか?」とカントからヘーゲルにいたるドイツの古典哲学は問題提起をしてるんですね。ふつうでは、「どうだっていいだろう、そんなことは」と済まされているんですが。
ヘーゲルは、「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」との見方を提起しています。
私たちの見ている世界は、私たち自身の意識こそがそのように見ているんだ、と。
では、世界は私たちの意識でしかないのか。そうした主観主義の唯我論との考え方もありますが、ヘーゲルは人の認識することを問い、自然を問い、哲学や歴史、法律や芸術や宗教といった、あらゆる分野をさぐってますから、「それは私の意識です」といっても、実在の対象をとらえようとしていますから、自己のことだけを問題にするたんなる唯我論じゃないんです。
でわなんなのか?そこが問題です。
そもそもこの「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」が、それはどのような問題を検討する中で、そうしたことが問題になっているのか?
ヘーゲルによれば、世界というのは人間の意識が対象としてつくりだしたもの、人がつくりだした世界というのは、自己の本質的意識とは違った、疎外されたものであり、個人の意識からしたらそれは疎遠な形である。理解しえないような、不本意な、巨大でなじみえないようなものとしてある。人はそのような形で世界をとらえている、ないしその姿をつくりだしている。それは個人にとっては、まぁたとえて言えば、私一人の力で車や時計をつくれといったようなものです。しかし人は歴史的な社会的力をもって、たしかにまわりの世界をつくりだしているとおもいます。弁証法の否定、規定はそれをつくりだしているわけですが、大事なところは、その疎遠なものというのはその人がつくりだしたものであり、同時にそのことは、その疎遠なものを人は自己のものとしてとりもどす面をもっている。この関係をヘーゲルは洞察しているんですね。そしてそれをマルクスは、偉大な業績として評価しているんですね。
ヘーゲルもマルクスも言っています。「大事なことは、意識の対象を克服することであり、その運動なんだ」と。
ヘーゲルは『精神現象学』で、その「序論」でもかさねて、実体というのは主体だと強調しています。
「真なるものを実体としてではなく、同時に主体として把促し、表現することである」
対象という実体は、人がつくりだしたものであり、それは取り戻せる、疎外された状態にあるのを回復することができる、「大事なことは、意識の対象を克服することだ」と。
と強調しているわけです。そのことは、人間がつくりだしたものは、疎外された形にあるわけですが、それはその疎外された形を回復していく運動でもあると。
なにか一種の精神論のように聞こえなくもないのですが、そうじゃなくてそれが弁証法の運動なんだ、と言っているわけです。
そして、その一般性をヘーゲルは、ヘーゲル流に、『精神現象学』『歴史哲学』『法の哲学』『エンチクロペディー』などとして、個々にその論証を試みているんです。
それを学んだマルクスとしては、「それは素晴らしい努力なんだけど、だけど、そのヘーゲル流のやり方(弁証法)には、一面的な誤りがある。人間の世界のあゆみについてもしかり」とみてとっていて、そのヘーゲル流の弁証法にはどこに一面性の誤りがあるのか、問題があるのか。
その点を検討しているのが、今回のマルクスの『1844年の経済学哲学手稿』なんですね。
ここでの探究というのは、そうした関係の中にあるわけです。
したがって、一見すると素人の私などには、「抽象的で、どうでもよいようなことを、ゴタゴタと検討している」ように見えるんですが、そこには大事な大きな問題があるわけです。
そのことは、疎外された今日の人間社会ですが、一般的、抽象的にみて、そこにも「いって、こい」「つくりだし、それを変えるとの弁証法がはたらいているわけで。そうした関係を解きほごして、疎外を克服することで、対象性をとりもどすことが出来る、そんな一般的な洞察が、ここにはあるというんです。
それはあくまで一般的なレベルでのことですが、私などはそのように理解しています。
しかし、これは過程としてあるわけですから、努力としてあり、運動としてあるわけです。
ですから、安易に手軽な名著(真理)をなにか一冊読みさえすれば、すべてのことがわかるといった、そんなことじゃないんですね。
このヘーゲルやマルクスの詮索していることの中身というのは、そうした内容をもっていると、私などは考えます。それは人類の大きな知的な成果であり、遺産だと思っています。
今回も、やぶの中で捜査の道を見失わないようにとのことで、
幕間での一つの整理であり、感想でした。
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