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最近は神田沙也加が交際相手の前山剛久に死ねと言われた音声が録音されて週刊誌の記事になったようである。私は神田沙也加も前山剛久も知らないのでどっちが悪いかとかはどうでもいいけれど、死ねと言われたとおりに死んだ結果になったので、言霊について考えることにした。
●言霊(ことだま)とは何か
言霊とは古代に言葉に宿ると信じられた霊力のことで、発せられた言葉の内容通りの状態を実現する力があると信じられていて、言葉を積極的に使って言霊を働かせようとする考えと、言葉の使用をつつしむ考えがある。例えば結婚式のスピーチで別れるとかの縁起が悪い言葉を忌み言葉として避けるのは後者である。言霊を完全な迷信とは言えなくて、言葉が石や木とかの物体に影響を与えることはできないけれど、人間同士で言葉が伝達されたときには心理学的な作用がある。例えば薬としての効果を持たないプラセボにも病気の症状を改善する効果があるように、暗示や期待が人体に影響を与えうる。逆に誹謗中傷の言葉は相手の脳に作用してストレスを引き起こすので、文字や音声のデータにすぎないものが人体への物理的影響力を持っている。欧米だと罵り言葉のことをcurse wordというように、呪いの言葉という概念は現代にも残っている。科学的に呪いという超自然的な力が存在しないにもかかわらず、相手を呪う行為で実際に相手がストレスを受ければ傷害罪になる。それゆえに前山の「死ね」という言葉は相手を害する呪いの言葉といえる。言葉には言霊として心理に作用する力があるので、同様に文章も文章霊として心理に作用する力もあるといえるだろう。
●言葉の力
・言葉と文字の力の変遷
アニミズムの時代には神道の神主や中国の風水の占い師やアフリカのシャーマンのように、原始的な社会では神の言葉を聞いて人々に伝えることができる人が権力を持っていた。新約聖書の「始めに言葉ありき」という文句も、創世は神の言葉から始まったという言葉の力の大きさを表している。
文字が発明されてからは、文字を読み書き出来て集団内の貸し借りの帳簿をつけられる人や、明文化された法律や宗教的戒律を理解できる人が管理職として権力を持つようになった。階級社会で上流階級になるには武勲を上げるだけではだめで、古代ギリシアや古代ローマなどでは政治家は弁論で支持を得なければならなかったし、上流階級特有の言葉遣いを覚えて外国語や詩などの教養を身に着けたりして社交する必要もあったので、言葉と文字の両方が力を持った。
活版印刷が発明されてからは本が大量生産できるようになって筆での写本に比べて安価になって識字率が上がって、思想や情報を広める手段として印刷物が使われるようになって、1839年にイギリスの作家のエドワード・ブルワー=リットンにペンは剣よりも強しと言ったのが有名になったように文字が影響力を持って、文字が大衆を教育して思想を変えていった。
ラジオやテレビが発明されると、放送する側と受診する側で情報が不均衡になって、ヒトラーの演説とかが典型的で放送インフラを持つ権力者のプロパガンダの手段として言葉が使われるようになって、その一方で出版物は権力者に検閲されて情報を制限されて、再び言葉が力を持つようになる。しかし第二次世界大戦後は帝国主義が終わって民主主義国家では検閲はなくなる。
インターネットが発明されてからは、光回線が普及していなかった頃は大量のデータをやりとりできなかったのでブログや掲示板とかの文字が優勢だったけれど、光回線やWi-Fiや4Gが普及してSNSで動画投稿ができるようになると言葉も影響力を持って動画でべらべら喋るメンタリストDaiGoやひろゆきやオリラジ中田が読解力が低くて文章を読めない層に人気になって、言葉と文字の両方が世界中に拡散されるようになる。気の利いた一言をSNSに投稿するとバズって一躍人気者になって大勢のフォロワーを従えて大儲けしたり、逆に不用意な一言で炎上して世界中から誹謗中傷が殺到したりする。
このように言葉と文字が力を持つがゆえに権力者に重要な情報を独占されて、情報が大衆の扇動に使われたり、権力者に不都合な情報が統制されたり、インサイダー取引とかで情報が金儲けに使われたりしている。
・言葉の信用創造
言葉の意味を定義して、科学的に真偽を検証して、論理的に正しければ、何かの命題が真だといえる。真実の言葉を連ねていくことで言葉が信用を持つ。
人間は自分の言葉に責任をもって実行に移すことで信用を持つ。ビジネスだと5年で1億稼ぐプランがあるから初期費用の2000万貸してくれといって未来の成功を担保にして金を借りるのを信用創造というけれど、同様に約束や宣誓は自分は将来これをやりますよという未来の行為を担保にして信用してもらう言葉の信用創造といえる。しばしば結婚式やスポーツの開会式などの重要な場面で宣誓していて、将来これをやりますよと周知することで信用を得ようとする。法律はただ存在するだけでは意味がなくて、警察が法に則って取り締まって裁判で平等に法律が適用されることで信用される。古代の中国のように人治主義で法律がない国は武力で国を平定しようが、賄賂や縁故主義の不正がはびこって反乱が起きて国王を殺されて滅んでいる。
このように文明は言葉の信用から成り立っている。約束や契約や法律を破る行為は信用をなくして、罰せられたり交友関係から排除されたりする。韓国はどんな条約を締結しようが政権交代したら支持を得るために反日を打ち出して条約を無視するので国家としての信用をなくして、日本の政治家が譲歩して支持率を落としてまで交渉する意味がなくなって日韓関係が進展しなくなった。
・誹謗中傷という呪い
人種やジェンダーなどに関するポリティカル・コレクトネスの諸々の基準はソーシャルジャスティスウォーリアー(SJW)たちが他人にレイシストとか歴史修正主義者とかのレッテルを貼って攻撃する免罪符となって、現実でもインターネットでもSJWが暴れるようになった。
アメリカでHugh Mungus事件というのがあって、太ったおっさんが自分の名前を「Hugh Mungus(デカ男、humongousとかけたおやじギャグ)」と言ったら、Zarna Joshiというフェミニストがデカチンだと思い込んだのか「ナニがでかいのわよ? セクハラなのわよ? こいつあたいをセクハラしたわよ! 体の一部を指してデカいって言ったわよ! ハウデアユー! ディスガスティン!」とギャオギャオ騒ぎ立てて攻撃して、賛同を得られると思ったのかその動画を自分でアップロードしてイカレタSJWとしてバズったそうな。誰でも事実を誤認したり、先入観で誤解したり、言葉選びを間違えたりすることはある。しかしちょっと間違えたからといってその人の人格を全否定する必要はないし、こいつとんでもないクソだ死ねボケと大袈裟に騒ぎ立ててSNSで拡散して相手のプライドを傷つけて辱める必要もない。それは文明人として高等教育を受けた良識ある人間の態度ではない。科学的に論理的に間違っていると証明できる物事については、それは事実と違いますよと指摘すれば相手が論理を理解できない馬鹿でない限りは間違いを理解して訂正や謝罪をしてそれで終わる。
しかし正義を掲げて自分の理念を他人に押し付ける人はやたらと攻撃的になるのが問題である。裁判なら法に基づいて争いの決着がつくけれど、口論は落としどころがないので泥沼の中傷合戦になりかねない。自分の理念のために行動するのはよいけれど、だからといってハウデアユーと感情的に他人を罵る必要はないはずである。科学には正しいものと間違っているものがあるけれど、理念には正しいも間違いもないので、保守であれリベラルであれ個々人が違う考えを持つことを認めないといけないし、そうでないと民主主義は機能しなくて独裁の思想弾圧になってしまう。どんな思想を持つにしても基本的に良い社会を作ることが目的であるべきで、科学的に正しくなければ他人の理解は得られないし、武力革命を掲げる極左みたいに自分の理想のために他人の身体や権利を侵害したりしてはいけない。年齢も性別も性格も人種も国籍も宗教も違う人では意見が違って当たり前で、だからこそ冷静に論理的に議論する必要があるのだけれど、感情的な言葉の応酬では議論にならないので建設的でない。感情的に罵ればスカッとするだろうけれど、それでは何も問題が解決しないだけでなく別の問題を引き起こす。
・嘘という呪い
嘘は言葉の信用を利用する行為で、嘘は魅力的であるほど力をもつけれど、嘘がばれると嘘の大きさの分だけ他人を騙そうとした悪意があらわになって信用がなくなる。それゆえに仏教だと嘘をつくと閻魔に舌を抜かれるというし、妄語を言った人が行く大叫喚地獄とか焦熱地獄とか阿鼻地獄とかがあって嘘を戒めている。地上の楽園だと嘘をついた北朝鮮は独裁と飢餓の生き地獄になっている。
昔の日本人はお天道様が見ているというメタ認知的な意識が悪事に対するスタビライザーになっていたけれど、現代は金を持ってれば勝ちという価値観になって倫理観がなくなって、金を儲けるために嘘をつく人が増えた。
犯罪者やサイコパスや無教養な人は、上手く騙せるのは頭がいい、騙されるほうが悪い、自分が騙さなくても馬鹿は他の人に騙されるので自分が騙しても悪くないという考え方をする。情報商材は言う通りにするだけで金持ちになれると嘘をついて、情報商材を売った側は金持ちになるけれど買った人は損をするだけで社会を豊かにするための本質的な価値を提供していない。円天、安愚楽牧場、ケフィア事業団、効果のない健康食品とかの詐欺も多発している。中国人は隣人でさえ騙そうとして有毒の偽食品を売る。このように嘘で他人を騙す人は目先の金儲けはできても信用創造ができなくて事業が発展しなくて、嘘つきが増えると社会全体の信用を毀損して与信管理コストが増えて経済活動が停滞することになる。ゲーム理論だとお互いに信用すると最大の成果が出るけれど、お互いを信用できないと成果が低くなってしまう。
●言語の教育
・語彙を増やす必要性
語彙を増やすという事はそれだけ世界の仕組みを理解するということである。例えばビジネスだと常に新しい技術が開発されて社会が変化してSDGsだのなんだのと次々に外来の新しい言葉が出てくるけれど、その単語の意味を知らなければそれについての議論をまったく理解できなくなる。言葉の意味や定義を共有できないと真偽の判断ができないし、他人の思想を理解できないし、自分の思想も持てなくなる。自分の思想を持てないと政治家の理念を実現させるための政策の良し悪しの議論を理解できないので、民主主義政治にも参加できなくなって社会の意思決定の枠組みから疎外される。そんで不満があってもデモや選挙や政治家への陳情で社会を変えようとせずに、犯罪をしたり、ドラッグで現実逃避したり、ひきこもってゲームして現実逃避したりするようになる。それに語彙が乏しい人は「まじで」「やばい」「むかつく」「うざい」「きもい」「死ね」とかの論理や構成がなくて感情的な短い言葉ばかり使うようになって、中傷になりやすい。リアリティー番組で木村花を中傷したDQNとかが典型的で、論理的な批評の言葉を持たないので感情的な中傷になる。
・読解力の必要性
子供の国語力の低下について考える という記事でも考えたように最近は子供の読解力が落ちているようだけれど、世間の文系軽視も相まって重大な問題としてとらえられていないようである。話し言葉は自然に親から学ぶけれど、文字は意識的に学習しないと覚えられないので、文章の読解力が落ちているのはそれだけ教育全体のレベルが落ちているといえる。読解力が落ちているということは知識のインプットの質も落ちているわけで、インプットの質が落ちれば必然的にアウトプットの質も落とすことになる。例えば多機能の高性能の製品に詳細な説明書があってもそれを理解できなければ製品を使いこなせなくなるし、法律を正しく理解できなければうっかり違法行為をするようになるし、論理的な真偽の判断ができなければストローマンとかのよくある詭弁に騙されて陰謀論とかのデマに扇動されるようになる。ネットでいつでも情報を調べられるといっても、情報を正確に理解できないなら調べる意味がなくなってしまう。子供の読解力の低下は社会全体の将来に関わる重大な問題なので、対策する必要があるだろう。
・言葉の倫理の教育の必要性
嘘をついてはいけないとかの倫理観は幼児期に各家庭で教育されるけれど、学校ではあまり教育しない。「うざい」「きもい」とかの感情的な言葉もしばしばいじめに使われるけれど、学校ではいちおういじめは駄目よというけれど言葉遣いを教育しないし、普通の庶民の家庭は言葉遣いに厳しくないので、高学歴でも人格や倫理観が伴わない人が大勢いて社会人になっても暴言で部下にハラスメントをしたりネットで中傷したりして社会の幸福度を下げている。
誰かを嫌だと思う自由はあるけれど、それを口に出したら攻撃である。「やあやあ我こそはお主がうざくてきもくて嫌いなので死ね」とわざわざ戦争を吹っかけたところで得るものがなくて戦う意味がないので、相手を傷つけずに遠ざけるための方便としての嘘は私はよいと思う。嫌いな人に絡まれてうざかったら、「今うんこを我慢するのに集中してるから放っておいてッ」とか「今シカゴ先物から目が離せないから後にしてッ」とか適当な嘘で遠ざければよい。好きでない相手に告白されたときの断り方もうまく嘘をつくのが大事で、「きもいマジありえない迷惑だからもう関わらないで次会ったら事務所総出で潰すから」と素直に言って相手のプライドをへし折ると刃傷沙汰になってしまう。前山剛久が神田沙也加と別れたいにしても「死ね」はないだろう。
絵本だと嘘をついてはいけないとかの教訓を幼児に教えるけれど、大人に対しても状況に応じて適切に応答するリテラシーの教育が必要だろう。学校で言葉の倫理観を教育できないのであれば、フィクションが教育に役に立つと思う。
・思考力と文章力の必要性
思考とは言葉や知識を論理的につなぎ合わせる行為である。いくら知識を増やしても思考をしなければ創造や問題解決にはつながらないので、社会人は知識の記憶力よりも思考力が必要になる。それに人間の記憶力には限りがあるので、いくら思考をしてもそれを書き残さないと考えた内容を忘れてしまう。それゆえに思考を十分に記すための文章力が必要になる。
私は文章を書くのが苦手で大学生の時はレポートに何を書けばよいのかわからなくて原稿用紙10枚分のレポートを書くのに苦労していたのだけれど、今ではどんなトピックでも原稿用紙10枚分以上の文章を書けるようになった。これは私が若い頃は知識がなかったのに加えて十分に思考していなかったから文章を書けなかったわけで、思考力や文章力は先天的な才能でなくて訓練で伸ばせる。知識が乏しい子供に思考力や文章力を期待してもあまり意味がなくて、知識が豊富で意見を発信する立場にいる大人こそ文章力が必要になるので訓練するほうがよい。
しかしいったん大学を卒業するとレポートを書く機会が少なくなって、研究者やライターや広報などの一部の職業の人以外の大人がまとまった量の文章を書く機会があまりない。原稿料が出ないのに長文を書くメリットもないし、長文を書く時間もないし、長文を書いてもどうせ誰も読まないので、社会人が文章を書くにしてもせいぜいTwitterや掲示板で短文のコメントする程度じゃなかろうか。私は書いた本人でさえ忘れるような短文のコメントを100回書くよりも、よく考えて長文を1回書くほうが思考力や文章力が上がってよいと思うので、社会人こそいろいろな本を読んでブログで長文を書いて自発的に能力開発するべきだと思う。
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