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み吉野の 青根が峯(たけ)の こけ蓆(むしろ) 誰か織りけむ 經緯(たてぬき)無しに(― み吉野の青根が峯の苔のムシロは誰が織ったのであろうか、縦糸や横糸がないのに) 妹等(いもら)がり わがゆく道の 細竹(しの)すすき われし通はば 靡け細竹原(しのはら)(― 恋人の所に私が通う道の篠やススキよ、私が通ったら靡き伏せよ、しのの原よ) 山の間(ま)に 渡る秋沙(あきさ)の ゆきて居(ゐ)む その川の瀬に 波立つなゆめ((― 山の間をずっと渡っていくアイサガモが、行って翼を休めるであろう川の瀬よ、決して波を立てるなよ、分かったな) 佐保川に さ驟(ばし)る千鳥 夜更(よぐた)ちて 汝(な)が聲聞けば 寝(い)ねがてなくに(― 佐保川に素早く飛んでいる千鳥よ、夜が更けてからお前の声を聞くと眠れなくなってしまうよ) 清き瀬に 千鳥妻呼び 山の際(ま)に 霞立つらむ 神名火(かむなび)の里(― さぞかし今頃は、清い瀬では千鳥が妻を呼び立て、山の際では、霞が立っているであろう神名火の里では。どんなに良い景色であろうかなあ) 年月も いまだ經なくに 明日香川(あすかかは) 瀬瀬ゆ渡しし 石橋も無し(― 年月もまだあまり経ていないのに、明日香川の瀬々に渡した石橋も既になくなってしまった。世の中の変転の早さよ) 落ち激(たぎ)つ 走井(はしりゐ)の水 清くあれば おきてはわれは 去(ゆ)きかてぬかも(― 湧き出る水が溢れ落ちて、激しく流れる走井の水が清浄なので、私はそれを打ち捨てて通り去ることが出来ない) 馬酔木(あしび)なす 榮えし君が 掘りし井の 石井(いはゐ)の水は 飲めど飽かぬかも(― あしびの花の様に栄えていたあの御方がお掘りになった、岩で囲んだ井戸の水は、いくら飲んでも飽きない) 琴取れば 嘆き先立(さきた)つ けだしくも 琴の下樋(したひ)に 嬬(つま)や隠(こも)れる(― この琴を手に取ると先ず嘆かれる。もしや、琴の胴の虚ろな部分、下樋にこれを弾いていた今は亡き妻が隠れているのだろうかと) 神(かむ)さぶる 磐根(いはね)こごしき み吉野の 水分山(みくまりやま)を 見ればかなしも(― 神々しい磐がごつごつしているみ吉野の分水嶺、水分山を見ると切なる感動を覚えるよ) 皆人の 戀ふるみ吉野 今日見れば うべも戀けり 山川清み(― 人々が皆恋い慕うみ吉野の景色を今日見ると、なる程と、人々の気持が分かる。こんなにも山や川の景色が清らかなのだから) 夢のわだ 言(こと)にしありけり 現(うつつ)にも 見てけるものを 思ひし思へば(―吉野川宮滝の巨岩に囲まれた淵は天下の奇景であるとは嘘であったよ。夢ではなくて、現実にこの目でしかと観たのだが、全くの期待はずれであったよ) 皇祖神(すめかみ)の 神の宮人(みやひと) 冬薯蕷葛(ところつら) いや常(とこ)しくに われかへり見む(― 歴代の天皇が神にお仕えする宮人として、トコロのつるではないが、常永久に続いていくように、私はこの吉野の地を永遠にやって来ては眺めようと思うのだ) 吉野川 石(いは)と柏(かしは)と 常磐(ときは)なす われは通はむ 萬代(よろづよ)までに(― 吉野川の巌と柏の木が永久に変わらない如くに、私は変わらずにやって来て、この吉野の地に通おう、万代までも) 宇治川は 淀瀬無からし 網代人(あじろひと) 舟呼ばふ聲 をちこち聞ゆ(― 宇治川には澱んだ浅瀬がないようだ。網代で魚を取る人が舟を呼ぶ声があちこちで聞こえる) 宇治川に 生(お)ふる菅藻(すがも)を 川早み 取らず來にけり つとに爲(せ)ましを(― 宇治川に生えている菅藻を流れが速いものだから取らずに帰ってきてしまった。お土産にすれば良かったなあ) 宇治人の 譬(たと)への網代(あじろ) われならば 今は寄らまし 木屑(こづみ)來ずとも(― 宇治人の喩えによく引かれる網代に、私なら、今こそ寄るだろうに、いつも其処に溜まっている木の屑すら寄らなくとも。恋人が慕わしいので) 宇治川を 船渡せをと 呼ばへども 聞えざるらし 楫(かぢ)の音(と)もせず(― 宇治川に向かい、舟を渡せと繰り返し叫んでみたが、聞こえないらしい。さっぱり、櫓の音もしない) ちはや人(ひと) 宇治川波を 清みかも 旅行く人の 立ちがてにする(― 宇治川の波が清らかだからだろうか、旅ゆく人が立ち去り難く思っているのは) しなが鳥 猪名野(ゐなの)を來れば 有馬山(ありまやま) 夕霧立ちぬ 宿(よどり)は無くて(― 兵庫県の猪名野を歩いてくると、有馬山に夕霧が立った。まだ今夜泊まる所も決まってはいないのに) 武庫川(むこがは)の 水脈(みを)を早みか 赤駒の 足掻(あが)く激(たぎち)に 濡れにけるかも(― 武庫川の水脈の流れが速いからか、乗っている赤駒の足掻きに濡れてしまった)
2023年01月30日
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片岡の この向(むか)つ峯(を)に 椎(しひ)蒔(ま)かば 今年の夏の 蔭(かげ)に比(そ)へむか(― 片岡のこの向うにある峰に椎を蒔いたならば、今年の夏の木蔭に準えることができるだろうか。早く成長して欲しいものだ) 巻向(まきむく)の 痛足(あなし)の川ゆ 往(ゆ)く水の 絶ゆること無く またかへり見む(― 巻向の痛足の川を流れて行く水の様に、絶えることなく、この川の景色をまた来て眺めよう) ぬばたまの 夜(よる)さり來(く)れば 巻向(まきむく)の 川音(かはと)高しも 風かも疾(と)き(― 夜になってくると、巻向川の川の音が高い、嵐が激しいのであろうか) 大君(おほきみ)の 三笠の山の 帯にせる 細谷川(ほそたにがは)の 音の清(さや)かさ(― 天皇が三笠山の帯だと称せられておられる、細い谷川の能登川はなんとも爽やかな音を発して流れているよ) 今しくは 見めやと思ひし み吉野(よしの)の 大川淀を 今日見つるかも(― 当分の間は見る事が出来ないと思ったみ吉野の、大きな川淀の景色を見られて、今日は嬉しい限りであるよ) 馬並(な)めて み吉野川を 見まく欲(ほ)り うち越え來てそ 瀧に遊びつる(― 馬を並べてみ吉野川を観たいと思い、多くの山坂を越えて来て、滝のほとりで遊んだことである) 音(おと)に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川 六田(むつた)の淀を 今日見つるかも(― 評判に聞いてはいたがまだ見ていなかった吉野川の名所、六田の淀をとうとう今日は見たことであるよ) 蝦(かはづ)鳴く 清き河原(かはら)を 今日見ては 何時(いつ)か越え來て 見つつ偲(しの)はゆ(― カジカの鳴く、清冽な河原を今日見た後は、何時再び山坂を越えて来て、見る事が出来るであろうかなあ、感無量であるよ) 泊瀬川(はつせかは) 白木綿花(しらゆふはな)に 落ちたぎつ 瀬を清(さや)けみと 見に來(こ)しわれを(― 白い木綿花の様な波を立てて激流する泊瀬川の瀬の景色が、清冽だからとて、見物に来た自分であるよ) 泊瀬川 ながるる水脈(みを)の 瀬を早み 井堤(ゐで)越す波の 音の清(さよ)けく(― 泊瀬川の水脈の瀬の水が速く流れて行くので井堤・用水の為に流れをせき止めている所 を溢れ落ちる波の音がはっきりと聞こえるよ) 佐檜(さひ)の隈(くま) 檜(ひ)の隈川(くまがは)の 瀬を早み 君が手取らば 言寄(よ)せむかも(― 佐檜の隈、の檜の隈川の渡り瀬の流れが速いからと、貴女の手を取って渡ったならば、人々が噂を立てるでしょうか) 齋種(ゆたね)蒔く 新墾(あらき)の小田を 求めむと 足結(あゆひ)出で濡れぬ この川の瀬に(― 清浄な種を蒔く、新しく開墾する適地を求めて足結・武装、旅行、労働の為に膝の下で袴を結ぶこと をして出かけ、この川の瀬で濡れてしまった) いにしへも かく聞きつつや 偲(しの)びけむ この布留川(ふるかは)の 清き瀬の音(と)を(― 昔も今と同じように聞いて、いいなあと思ってことであろうよ、この布留川の清い瀬の流の音を) 葉根葛(はねかづら) 今爲(す)る妹を うら若み いざ率川(いざかは)の 音の清(さや)けさ(― うら若い少女が鬘・かつら にする鳥の羽の被り物を身につけた恋人を、いざいざと誘いたいが、そのいざ、ではないが、率川の音のさやかなことよ) この小川(をがは) みなぎらひつつ たぎちゆく 走り井のへに 言挙(ことあげ)せねど(― この小川では水が盛り上がる様に一面に溢れて激しく奔流して、走り井に向かっている、音は立ててはいないながらも) わが紐を 妹が手もちて 結八川(ゆふやかは) また還(かへ)り見む萬代(よろづよ)までに(― 私の腰紐を妻が手で結う、そのゆう ではないが、結八川を再度訪れて観てみよう。いや、万代までも皆で賞賛しようではないか) 妹が紐 結八川内(ゆふやかふち)を いにしへの 人さへ見きと こを誰か知る(― 将来此処に来て結八川の佳い景色を見る人は、昔の人もやはりこの景色を見たのだとは、誰も知るまいなあ) ぬばたまの わが黒髪に 降りなづむ 天(あめ)の露霜(つゆしも) 取れば消(け)につつ(― 私の黒髪に降ってからまる大空の露霜は、手に取ると消え消えして、続いて降って来る) 島廻(しまみ)すと 磯に見し花 風吹きて 波は寄すとも 取らずは止(や)まじ(― 島見をして磯で見た美しい花・女性 を風が吹いて波が寄せて来ても、取らずには置くまいよ) いにしへに ありけむ人も わが如(ごと)か 三輪の檜原に 挿頭(かざし)折りけむ(― 昔の人々も私の様に、三輪の檜原で枝を折って挿頭にしたことであろうか) 往(ゆ)く川の 過ぎにし人の 手折(たを)らねば うらぶれ立てり 三輪の檜原は(― 流れて行く川の水のように、通り過ぎて行った人々が手折らなかったので、しょんぼりと立っている三輪の檜原は)
2023年01月26日
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水底(みなそこ)の 玉さへ清(さや)に 見つべくも 照る月夜(つくよ)かも 夜の深((ふ)けゆけば(― 水底の玉までもはっきりと見る事が出来る程に、皓々と照る月であるよ。夜が更けたので) 霜ぐもり 爲(す)とにかあらむ ひさかたの 夜わたる月の 見えなく 思へば(― 霜が降りる為に空が曇るのであろうか、夜空を渡る月が見えない事であるよ) 山の末(は)に いさようふ月を 何時(いつ)とかも わが待ち居(を)らむ 夜は深(ふ(ふ)けにつつ(― 山の端でたゆたう月を、何時出て来るかと思って私は待っているのであろうか、夜は更けて行くのに) 妹があたり わが袖降らむ 木(こ)の間より 出で來(く)る月に 雲な棚引き(― 妻の家の辺りに向かって私は袖を振ろう。それが見える様に、木の間から出て来る月に、雲よ棚引いたりしないでくれ) 靭(ゆき)懸(か)くる 伴(とも)の男(を)廣き 大伴(おほとも)に 國榮えむと 月は照るらし(― 矢を容れる靭を背に負っている、朝廷に仕える勇士達の大勢いる大伴の土地に、国が栄える徴として、月は皓々と照るようだ) 痛足川(あなしがわ) 川波立ちぬ 巻目(まきもく)の 由槻(ゆつき)が嶽(たけ)に 雲居(くもゐ)立てるらし(― あなし川に白く波が立っている。まきもくの弓月が嶽に雲がしきりに湧きたっているらしい) あしひきの 山川(やまがは)の瀬の 響(な)るなべに 弓月(ゆつき)が嶽に 雲立ち渡る(― 山川の瀬が音高く響き流れるとともに、弓月が嶽一帯に雲が湧きたっている) ―― 表現されているのは確かに叙景なのであるが、全体の調べからは何か雄渾な、乃至は、悲痛哀切なある種の感情が何処からともなく立ち現れて、到底、凡手には描きだすことの出来ない人間の内面の葛藤・軋轢・劇的なエモーションが醸し出されている。これなどは、詩の翻訳が根本の所で不可能なのだと、とことん感じざるを得ない仕儀に私を、読者を、鑑賞者を追い込んで有無を言わせない無限の迫力を内包している、事を、解る者には分からせてくれる。柿本人麻呂が天才歌人であり、真の詩魂の所有者であった紛れもない証拠である。此処で私は、偉大なるシェークスピア、沙翁について述べたいと思うのだ。就中、十四行詩・ソネットに関して、端的に論じたい。彼のソネットの醍醐味をネイティヴの英語使用者以外ではなかなか理解が難しい。況や、他言語への翻訳などは全く不可能と承知すべきである。それ例が、日本語への言語学者の手になる翻訳である。私の参考にした翻訳のそれは、現物とは似ても似つかない、まがい物、と言うよりは、無い方がましと言わざるを得ない代物なのだ。学者の所為ではないのだ、翻訳など土台が無理なのだ。散文ならまだしも、本物の詩はクルアーンではないけれども、他言語での単なる置き換えすら、有害無益とならざるを得ないのだから、そのことを篤と胸に刻み込んでおいて頂きたい。また、人麻呂の歌に戻ろう。現代語訳など、初学者への手ほどき程度の便宜はあっても、現物をただひたすらに愛玩鑑賞する行為に終始するしか、詩歌の理解はないのであります。詩が生まれるのは、宇宙の出来事と同じで、一回こっきりの行為なのであって、繰り返しや、模倣は無意味なのですね。御解り戴けたでしょうか。 大海に 島もあらなくに 海原(うなはら)の たゆたふ波に 立てる白雲(― 広い大海に島一つなくて、海原のたゆたう浪の上に、堂々と立っている白雲よ) 吾妹子(わぎもこ)が 赤裳(あかも)の裾の ひづちなむ 今日のこさめに われさへ濡れな(― 私の愛する女性の鮮やかな赤い裳の裾が、今日の小雨で泥で汚れると思われるが、私も彼女と一緒に濡れようかな) とほるべく 雨はな降りそ 吾妹子が 形見の服(ころも) われ下(した)に着(け)り(― 濡れて肌まで通るほどに激しく降らないでおくれ、恋人の形見の服を私は下に着ているのだから) 鳴る神の 音のみ聞きし 巻向(まきむく)の 檜原(ひはら)の山を 今日見つるかな(― 雷の様な大変な評判だけを聞いていた巻向の檜原の山を、私は今日実地に目にしたことであるよ) 三諸(みもろ)の その山並(やまなみ)に 子らが手を 巻向山は 繼(つぎ)のよろしも(― 神をお祭りしている三諸の山並みに巻向山があるのは、並び具合が大変に良い) いにしへの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天(あま)の 香久山(― 天から下ったというような伝説の昔は知らないけれども、私が見るようになってからでも久しい時が経過したよ、神秘の天の香久山は) わが背子(せこ)を こち巨勢山(こせやま)と 人はいへど 君も來まさず 山の名にあらし(― 私の夫を、こちらに寄越せ、と言う意味の こせ山 だと人は言うのだが、恋しい君は御出でがない。すると、単なる山の名前だけの事らしい) 紀道(きぢ)にこそ 妹山(いもやま)ありといへ 玉櫛笥(たまくしげ) 二上山(ふたかみやま)も 妹こそありけれ(― 紀伊路にこそ有名な妹山があると言うが、大和の二上山にも雄岳と雌岳があるのだから、妹山があったのだよ)
2023年01月24日
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あり通(がよ)ふ 難波(なには)の宮は 海近み 漁童女(あまをとめ)らが 乗れる船見ゆ(― いつも通う難波の宮は海が近いので、海女の少女達が乗る舟が見える) 潮干(ふ)れば 葦邊に騒く 白鶴(あしたづ)の 妻呼ぶ聲は 宮もとどろに(― 潮が干ると葦の生えたあたりで鳴き騒ぐ鶴の妻を呼ぶ聲は、難波の宮を轟かすばかりである) 八千鉾(やちほこ)の 神の御世より 百船(ももふね)の 泊(は)つる泊(とまり)と 八島國 百船人(ももふなひと)の 定めてし 敏馬(みぬめ)の浦は 朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は來(き)寄(よ)る 白沙(しらまなご) 清き濱邊は 往き還り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り繼(つ)ぎ 偲(しの)はえゆかむ 清き白濱(― 八千鉾の神の御代、国家経営の初めから、多くの舟の停泊所の場所と、大八洲の国の多くの舟人が定めていた敏馬の浦は、朝風に浦波が騒ぎ、夕波に玉藻が寄って来る。白砂の清い浜辺は、行き帰りして見ても飽きる事が無い。見る人毎にその風光を語り継ぎ、賞美したらしいが、それもまことにもっともと思われる。この、百代を経てもなお慕われてゆくであろう、清き白浜よ) まそ鏡 敏馬(みぬめ)の浦は 百船の 過ぎて往くべき 濱にあらなくに(― 敏馬の美しい浦は、多くの舟が賞美しないでいたずらに過ぎていくことのできる浜ではないのだ) 濱清く 浦うるはしみ 神代より 千船(ちふね)の泊(は)つる 大和田(おほわだ)の濱(― 浜の景色が清く、浦の風景が立派なので、神代から多くの舟が停泊する大和田の浜である) 天(あめ)の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ(― 広々とした天の海に雲の波が立って、月の船が沢山の星の林の中に、漕いで、隠れて行くのが見える) ―― 大空を海にたとえて、夜空を渡る月を舟になぞらえる、何か明治期の明星派が少年少女の如くロマンチックな気分を歌い上げているかの様な、錯覚をふと抱いてしまうのは、私の勝手な妄想である。遥かの以前から、中国の古典などに類例が多くありそうな発想法と見えるが、この歌の出典が柿本人麻呂集なので、陳腐とは感じずに、清新かつ青春を感じさせるように受け取るのは、私の勝手な感受性のなせる業だと、ここでは言っておきましょうか。兎に角、人麻呂は不世出の天才歌人なのですから、私がそう感じてしまっても仕方のないことなのですね。 常はさね 思はぬものを この月の 過ぎ隠れまく 惜しき夕(よひ)かも(― いつもはこんな事をちっとも思いもしないのだが、この月が渡って行って隠れるのが惜しい今宵である) 丈夫(ますらを)の 弓末(ゆずゑ)振(ふ)り起し かり高(たか)の 野邊(のべ)さへ清く 照る月夜(つくよ)かも(― あっぱれ、男子達が弓弦を振り立てて狩をした、そのカリではないけれども、借高・かりたか の野辺でも清らかに照り渡っている、今夜の月であることよ) 山の末(は)に いさよふ月を 出でむかと 待ちつつ居(を)るに 夜そ降(くた)ちける(― 山の端で、出るのをたゆたって、仲々現れない月を、今出るか今出るかと待っているうちに、夜がすっかり更けてしまったことだよ) 明日(あす)の夕(よひ) 照らむ月夜は 片寄りに 今夜(こよひ)に寄(よ)りて 夜(よ)長(なが)くあらなむ(― 明日の晩に照るであろう月は、今夜の方に片寄って照って、楽しい今夜が長く続いて欲しいものだ) 玉垂(たまだれ)の 小簾(をす)の間(ま)通(とほ)し ひとり居て 見る験(しるし)なき 暮(ゆふ)月夜(つくよ)かも(― 玉を垂らして簾とした美々しい部屋で一人で月を眺めていても、何の甲斐もない事であるよ。訪ねて来てくれる人がいないので) 春日山(かすがやま) おして照らせる この月は 妹が庭にも 清(さや)けかりけり(― 春日山一帯に上方から皓々と照らしている今宵の月であるが、あの夜、吾妹子の庭にも鮮やかに照り輝いていたなあ) 海原(うなはら)の 道遠みかも 月讀(つくよみ)の 光すくなき 夜は降(くた)ちつつ(― 遠い舟路を来て時が経ったからだろうか、月の光が乏しいことよ。夜は次第に更け渡っているのだが) ものしきの 大宮人(おおみやひと)の 退(まか)り出(で)て あそぶ今夜(こよひ)の 月の清(さや)けさ(― 多くの木や石で築き上げた広壮な御殿で生活する、宮廷人達が公務を終えて、大宮を退出し、私的にくつろいで遊ぶ宴を上空から明るく照らす今夜の月は何と、清澄なことよ。大宮人に幸い有れ!) ぬばたまの 夜渡る月を とどめむに 西の山邊に 關(せき)もあらぬかも(― 夜、大空を渡る月を引き留める為に、西の山の辺りに関所でもあってほしいのだが、そうはいかないのであろうかなあ)
2023年01月20日
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三日(みか)の原 布當(ふたぎ)の野邊を 清みこそ 大宮所 定めけらしも(― 三日の原、布當の野の辺りの景色が清らかであるからこそ、大宮の場所を此処と御定めになられたのであろう) 山高み 川の瀬清し 百世(ももよ)まで 神(かむ)しみ行かむ 大宮所(― 山は高く、川の浅瀬は清らかであるから、百世の後までも、末永く神々しい状態であり続けるであろう、大宮所は) わご大君(おおきみ) 神の命(みこと)の 高知らす 布當の宮は 百樹(ももき)茂(も(も)く 山は木高(たか)し 落ち激(たぎ)つ 瀬の音(と)も清し 鶯の 來鳴く春べは 巖(いはほ)は 山した光り 錦なす 花咲きををり さ男鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧(あまぎ)らふ 時雨(しぐれ)を疾(いた)み さ丹(に)つらふ 黄葉(もみち)散りつつ 八千年(やちとせ)に 生(あ)れつがしつつ 天の下 知らしめさむと 百代(ももよ)にも 易(かは)るましじ 大宮所(― わが大君、神の尊が立派にお治めになられている布当の宮は、多くの樹が茂り、山には木々が聳えている。流れ落ちて逆巻く瀬の音も清澄である。鶯の来て鳴く春の頃は、巨岩には山も赤く輝くほどに錦の如き花が咲く。男鹿が妻を呼び立てて鳴く秋には空一杯に立ち込める霧時雨の激しさに、赤い紅葉がしきりに散る。天皇が永久に生まれ継いで天下をお治めになるべく、百世の後まで変わるはずのない大宮所であるよ) 泉川 ゆく瀬の水の 絶えばこそ 大宮所 移ろひ往(ゆ)かめ(― 泉川の流れが絶える事があるならば、大宮所は変わる事があるであろうが、そうしたことは万が一にもないのであるから、今の大宮所が変わる事は絶対にないのだ) 布當山 山並(やまなみ)見れば 百代にも 易るましじき 大宮所(― 布当山の山並みを見ていると、この久邇の宮はよい地を占めているので、百代までも移り変わることはありそうもない、この大宮所であるよ) をとめ等(ら)が 績麻(うみを)懸くといふ 鹿背(かせ)の山 時の往(ゆ)ければ 京師(みやこ)となりぬ(― 美しい乙女たちが、細く割いて長く撚って合わせた上で麻や荢を懸けた、そのカセ・工字型をした、紡いだ糸などを懸ける道具、ではないが、この鹿背山は時の廻りによって都となったことだ) 鹿背(かせ)の山 樹立(こだち)を茂み 朝去らず 來鳴きとよもす 鶯の聲(― 鹿背の山は木立が繁りあっているので、毎朝毎朝来て、鳴き響かせている鴬の声が絶えないことであるよ) 狛山(こまやま)に 鳴く霍公鳥(ほととぎす) 泉川 渡(わたり)を遠み 此処(ここ)に通はず(― 対岸の狛山で鳴いているホトトギスは、泉川の渡り場が遠いので、ここまで通って来ないことである) 三香(みか)の原 久邇(くに)の都は 山高く 川の瀬清し 住みよしと 人は言へども 在(あ)りよしと われは思へど 古(ふ)りにし 里にしあれば 國見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり 愛(は)しけやし 斯くありけるか 三諸(みもろ)つく 鹿背山(かせやま)の際(ま)に 咲く花の 色めづらしく 百鳥(ももとり)の 聲なつかしく 在(あ)りが欲(ほ)し 住みよき里の 荒るらく惜しも(― 三香の原の久邇の都は山が高くて、川瀬の水が清い。住みよいと人は言うが、住みよいと自分は思うが、もう、今は旧都となってしまったから、国を見ても、人も通わず、里を見ると家々も荒れている。ああ、こうなることだったのか。神座を築く鹿背山の間に、咲く花の色は好もしく、多くの鳥の声は懐かしく、そこに居たい住みよい里の、荒れるのは本当に惜しい事であるよ) 三香(みか)の原 久邇(くに)の京(みやこ)は 荒れにけり 大宮人(おおみやひと)の 移ろひぬれば(― 三香の原の久邇の都は荒れてしまった。大宮人が移り去ってしまったから) 咲く花の 色はかはらず ももしきの 大宮人ぞ 立ち易(かは)りける(― 咲く花の色は変わらないが、大宮人は移り変わってしまったよ) やすみしし わご大君(おほきみ)の あり通(かよ)ふ 難波の宮は 鯨魚(いさな)取り 海片附(かたつ)きて 玉拾(ひり)ふ 濱邊を近み 朝羽(あさは)振(ふ)る 波の音(と)騒き 夕凪(ゆふなぎ)に 櫂(かじ)の聲(と)聞ゆ 曉(あかとき)の 寝覚(ねさめ)に聞けば 海石(いくり)の 潮干(しほひ)の共(むた) 浦渚(うらす)には 千鳥妻呼び 葭邊(あしべ)には 鶴(たづ)が音(ね)とよむ 見る人の 語(かた)りにすれば 聞く人の 見まく欲(ほ)りする 御食(みけ)向(むか)ふ 味原(あぢふ)の宮は 見れど飽かぬかも(― わが大君がいつも御通いになる難波の宮は、海に寄っていて、玉を拾う浜辺が近いので、朝に立つ波の音が騒がしく、夕凪に漕ぐ船の櫓の音が聞こえる。夜明けの寝覚めの床で聞いていると、海の潮の干るとともに、渚では千鳥が妻を呼んで鳴き、葭の辺りでは鶴が鳴きたてている。見る人が語り草にするので、聞く人が見たいと思う、難波の味原の宮は、いくら見ても飽きない、立派な御殿である)
2023年01月18日
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紅(くれなゐ)に 深く染みにし 情(こころ)かも 寧樂(なら)の京師(みやこ)に 年の經(へ)ぬべき(― 紅のように深く染み付いてしまった私の気持故に、私は都移りをしてしまった奈良の都で、いつまでも年を経て行くのであろうか) 世間(よのなか)を 常無きものと 今そ知る 平城(なら)の京師(みやこ)の 移ろふ見れば(― 世間は無常であることを今こそ思い知った。あの立派だった奈良の都が荒廃するのを目前にすると) 石綱(いはつな)の また變若(を)ちかへり あをによし 奈良の都を また見なむかも(― また若返って、私は奈良の都を再び見ることが出来るだろうか。不可能だと知っているからこそ、そんな願望が自然に胸に湧くのであろうよ) やすみしし わご大君(おほきみ)の 高敷かす 倭(やまと)の國は 皇祖(すめろき)の 神の御代より 敷きませる 國にしあれば 生(あ)れまさむ 御子(みこ)のつぎつぎ 天の下 知らしいませと 八百万(やほよろづ) 千年(ちとせ)をかねて 定めけむ 平城(なら)の京師(みやこ)は かぎろひの 春にしなれば 春日山(かすがやま) 三笠の野邊に 櫻花 木(こ)の晩(くれ)こもり 貌鳥(かほどり)は 間(ま)なく數(しば)鳴く 露霜(つゆしも)の 秋さり來(く)れば 射駒山(いこまやま) 飛火(とぶひ)がたけに 萩の枝(え)を しがらみ散らし さ男鹿は 妻呼び響(とよ)む 山見れば 山も見が欲(ほ)し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の うち延(は)へて 思へりしくは 天地(あめつち)の 寄(よ)り會ひの限(かぎり) 萬代(よろづよ)に 榮え行かむと 思へりし 大宮すらを 恃(たの)めりし 奈良の都を 新世(あらたよ)の 事にしあれば 大君(おほきみ)の 引きのまにまに 春花の うつろひ易(かは)り 群鳥(むらとり)の 朝立ちゆけば さす竹の 大宮人(おほもやひと)の 踏み平(なら)し 通ひし道は 馬も行かず 人も往(ゆ)かねば 荒れにけるかも(― 我が君が立派にお治めになる大和の国は、皇祖神の御代から治めておいでになる国であるから、お生まれになる御子が次ぎ次ぎに天の下を治めておいでになるように、千年万年の将来も考えに入れてお定めになられたと思われる奈良の都は、かぎろいの立つ春になると、春日の三笠の野辺では桜花の咲く木立の暗いところに隠れて、貌鳥が間断なく鳴く。また、露霜のおりる秋になると、生駒山の飛火が岡で、萩の枝を身にからめては散らしながら、男鹿は妻を呼び立てる。山を見れば山も見事である。里を見れば里も住みよい。それ故、宮廷に仕える多くの人が心を寄せて、天地の依り合う遠い万代の代の後まで、この都は栄えていくであろうと思っていた、この大宮すら、頼みにしていたこの奈良の都すらも、新時代となったことであるから、天皇の御指図のままに、春の花のように移り変わり、人々は群がる鳥のように、朝立ちして都移りして行った。だから、大宮人がいつも踏み平・な らして通った道は、もはや馬も往かず、人も通らず、荒れ果ててしまったことであるよ) 立ちかはり 古き都と なりぬれば 道の芝草 長く生(お)ひにけり(― 移り変わって、立派だった奈良の都も、古い都になってしまったので、道の雑草も長く伸びたことだ) なつきにし 奈良の都の 荒れゆけば 出で立つごとに 嘆きし益(まさ)る(― すっかり馴染んでいた奈良の都が荒れていくので、外に出てみるごとに 嘆きの勝ることである) 現(あき)つ神 わご大君の 天の下 八島の中(うち)に 國はしも 多(さは)にあれども 里はしも 多(さは)にあれども 山並(やまなみ)の 宜しき國と 川波(かはなみ)の 立ち合う郷(さと)と 山城の 鹿背山(かせやま)の際(ま)に 宮柱(みやばしら) 太敷(ふとし)き奉(まつ)り 高知らす 布當(ふたぎ)の宮は 川近み 瀬の音(と)ぞ清き 山近み 鳥が音(ね)響(とよ)む 秋されば 山もとどろに さ男鹿は 妻呼び響(とよ)め 春されば 岡邊(をかべ)もしじに 巖(いはほ)には 花咲きををり あなおもしろ 布當の原 いと貴(たふと) 大宮所(おほみやどころ) うべしこそ わご大君 君ながら 聞(きか)し給ひて さす竹の 大宮此処と 定めけらしも(― 現世に姿を現されているただお一人の神でいらっしゃる我らの天皇の治め給うこの大八洲の国の中には、国は多くあるけれども、里は多くあるけれども、並び立つ山の姿の宜しい国、川波の流れ合う里であると、山代の鹿背山の際に、宮柱を太々とお立てして、立派にお治めになっている布当の宮は、川が近いので瀬の音が清く聞こえ、山が近いので鳥の鳴き声が夥しく響いている。秋になると山もどよめくほどに牡鹿は妻を呼び立て、春になると丘辺にはぎっしりと岩に花が咲き茂って、本当にいい景色の布当の原であり、全く貴い大宮所である。だからこそ、わが大君は、大君でいらせられるままに、それをお聞きになって大宮を此処とお定めになられたのは、誠にもっともなことと思われる)
2023年01月16日
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今造(つく)る 久邇(くに)の都は 山川の 清(さや)けき 見れば うべ知らすらし(― 今度造営されている久邇の都は、山や川の景色が澄明清冽である。それを見ると、誠に尤もな事であると首肯される) 故郷(ふるさと)は 遠くもあらず 一重山(ひとへやま) 越ゆるがからに 思ひそわが爲(せ)し(― 奈良の旧都は遠いわけでもなく、山一重を越えただけなのに、私は懐かしさに耐えられなかった) わが背子(せこ)と 二人し居(を)れば 山高み 里には月は 照らずともよし(― 愛しいあなたと二人しているので、山が高くてこの里に月が照らなくても構いません) ひさかたの 雨は降りしく 思ふ子が 宿(やど)に今夜(こよひ)は 明(あか)して行かむ(― 雨はしきりに降っている。今夜は思っている女性の家で明かしていこう) わが屋戸(やど)の 君松(きみまつ)の樹に 降る雪の 行きには去(ゆ)かじ 待ちにし待たむ(― 私の家の、君を待つ、と言う松の樹に降る雪ではありませんが、私はこちらからは行かずに、あなたのお越しをひたすらお待ち致して居りまする) 一つ松 幾夜か經(へ)ぬる 吹く風の 聲(おと)の清きは 年深みかも(― このひともとの松は幾代を経ているのことだろうか。この松を吹く風の音が清澄なのは、久しい年を経ているからであろうか) ―― 私は今年の誕生日が来ると、八月二十八日には満で八十歳になるけれども、清澄などといった境地からは程遠い、生臭く煩悩に塗れた肉体と、精神とを有している。もしくは、有させられている。好むと、好まざるとにかかわらずにである。私は一体、何を待っているのだろうか? 或いは、待たされているのだろうか? 多分、死ぬ時を、であるに相違ないのだ。私は「自由だ」、けれど、その自由とは何なのだろう…。私は自由であるはずはないにもかかわらずに、一般的に言えば自由そのものなのに間違いない。嬉しくも、悲しくもない。悦子に「唯、只、会いたい」と、切に願ってもそれは土台、無理な注文だと、問わぬ先から分かりきっているのだから、願わないだけで、他には何の願望もない。切実な願望としては、である。願わなくとも、希求しなくと、これまでの私の体験が、なるべくして成るのだから、悪足掻きしなくとよいのだと、教えてくれている。老いるとは生命力が衰えることではあるが、衰えたとは言えども、生きてある限りは生命力は持続しているわけで、食欲、色欲、睡眠欲など基本的な欲望は熾烈ではなくなったにしても、まだまだ健在であり、詰まりは生きている、その機能を発揮し続けている。実感としては、それで困る事態にはなっていないけれども、ふとわけもなくおセンチな気分に捕らわれたりして、ビックルすることもある。悟りとか、悠々自適などと言う境地からは程遠いと自覚的には感じているが、苦しみから早く逃れたいとも、積極的には思わないこともまた事実である。老いもまた楽し、とはまあまあ、感じるのである。今は遅ればせながら韓国ドラマにはまっているが、美男美女がラブシーンを演じたりすると、自分でも恋がしてみたいと自然に感じたりもする。羨ましいのであって、ヒリヒリするような渇望感とは異なっている。誰か、美人でなくてもよいので、私の擬似恋愛の相手になってやろうという、ジャンヌ・ダルクの様な、勇敢な女性はいないだろうか。但し、小生は限りなく条件が厳しいと言うか、ハードルは無際限に高いので、よっぽどの変人でもない限り、私のおメガネに叶うようなチャーミングこの上ない、人間味溢れる 美人人間 は恐らくこの耄碌爺いを恋愛の対象にしようなどとへんてこりんな考えを抱くことはないでしょうが、物は試し、一回くらいはチャレンジしてみても損はしないかもしれませんよ。但し、私は貧乏人ですから、私から金銭的な何物かを期待するのは見当違いであって、それ以外の精神的な領域では意外な掘り出し物が期待できるやも知れず、いやいや、宣伝や、自分の魅力をアッピールする愚は止めにしておきましょう。これ、結構、本気の本気なのであって、私の方は自信満々なのですから、手がつけられないのですよ。一回ぐらいダメもとで気軽にお声を掛けてみてくださいな。 たまきはる 命は知らず 松が枝(え)を 結ぶ情(こころ)は 長くとそ 思ふ(― 霊妙不可思議な命の故は理解できないけれども、伝承されて皆が受け継いでいる祈祷の形式、松の枝を結ぶ心は、長寿を願っての切なる行為でありまする。とにかく、人としてこの世に生をうけたことが無性にありがたくて、わが命長かれと祈るのでありまする) ―― 追伸、と言っては気が引けるのですが、私は所謂 美人 には惚れたことはないのです。何故かは知りません。そういう生まれつきなのだとしか、言い様がないのでして、男には結構惚れる方ですが、また男から結構惚れられもしましたが、その数も生涯でたかだか五指に足らないほどであり、最後にたった一人残った能村庸一氏とは、文字通りに 相思相愛 とでも形容すべき関係でしたが。ホモの関係ではなかった。魂に惹きつけられた、どちらからともなく。女性でも心底惚れたのは、旧姓が柴田悦子、ただひとり。それも、何故か最初は悦子の方が一方的にお熱をあげて、それが長い結婚生活を閲するうちに立場が逆転して、私のほうが少しだけ熱愛度が高くなっていた。それが実際であります。知れば知るほどに悦子に魅了された。その真情にほだされた。魂に惹きつけられた。これが私の愛情のあり方でありますので、私の巫山戯てはいても、真剣そのものである呼びかけに応じてくださる 勇者 は、この辺をとくとお考えの上で、チャレンジしてみてくださいな。
2023年01月12日
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大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み さし並(なら)ぶ 土佐の國に 出でますや わが背(せ)の君を 懸(か)けまくも ゆゆし恐(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ) 船(ふな)の舳(へ)に 領(うしは)き給ひ 着き給はむ 島の崎崎(さ きざき) 寄り賜はむ 磯の崎崎 荒き波 風に遇はせず 恙(つつみ)無(な)く 病(やまひ)あらせず 急(すむや)けく 還し賜はね 本(もと)の國邊(くにへ)に(― 大君の御命令を畏んで土佐の国に発って行かれるわが背の君を、口でお名前を称えるのも恐れ多い住吉の現人神が、船の舳先にお鎮まりになって、あなたのお着きになる島の崎々、お寄りになる磯の崎々で、荒い波や風に遇わせずに、障りなく、病気にならせず、もとの国に早く御帰しくださいますように) 父君(ちちぎみ)に われは愛子(まなご)ぞ 母刀自(ははとじ)に われは愛子(まなご)ぞ 參上(まゐのぼ)る 八十氏人(やそうぢひと)の 手向(たむけ)する 恐(かしこ)の坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り われはぞ退(まか)る 遠き土佐道(ぢ)を(― 父君にとって私は最愛の子である。母刀自にとっても私は最愛の子である。それだのに、私は田舎に流される罪人となって、都に上る大勢の氏人が手向け物を捧げる、恐怖の坂に幣を奉って、遠い土佐への坂を下っていくことであるよ) 大崎の 神の小濱(をばま)は 狭(せば)けども 百(もも)船人(ふなびと)も 過(す)ぐといはなくに(― 大崎の神が鎮座する小浜は、狭いけれども、大勢の船人も通過せずに必ず立ち寄って風光を賞美して行くというのに、自分は一路土佐に流されて行くのだ) 長門(ながと)なる 神つ借島(かりしま) 奥まへて わが思ふ君は 千歳(ちとせ)にもがも(― 私、長門の守は、神聖なる借島の奥、ではないが、あらかじめ将来の事を考え準備をしておいて、行く末かけて、私が大切に思っているあなたは、未来永劫、千年の齢を保って頂きたいと、切に願っておりまする) 奥まえて われを思へる わが背子は 千年(ちとせ)五百歳(いほとせ) 有りこせぬかも(― 行く末かけて私を大切に思ってくれているあなたは、五百年も、千年もいてほしいものです) ももしきの 大宮人(おほみやひと)は 今日もかも 暇を無みと 里に去(ゆ)かずあらむ(― 大宮仕えをしている御方は、今日も暇が無いので実家の方にはいかれないのでしょうか) 橘の 本(もと)に道履(ふ)む 八衢(やちまた)に ものをそ思ふ 人に知らえず(― 橘の木の根元で人が踏んで歩く道が八方に分かれているように、私はあれこれと思いが乱れることであるよ。恋い慕っていいる人に自分の気持を知られないでいて) 大夫(ますらを)の 高圓山(たかまとやま)に 迫(せ)めたれば 里に下(お)りける 鼯鼠(むざさび)そこれ(― 大夫達が高円山で攻め立てたので、人里に下りてきたというムササビです、これが) 河口の 野邊(のべ)に廬(いほ)りて 夜の經(ふ)れば 妹が手本(たもと)し 思ほゆるかも(― 河口の野辺に仮屋を営んで幾夜も泊まったので、妻の袂が恋しく思われる) 妹に戀ひ 吾(あが)の松原 見渡せば 潮干の潟(かた)に 鶴(たづ)鳴き渡る(― 妻を恋しく思ってアガの松原を見渡していると、潮の干た干潟の方へ鶴が鳴いて渡って行く) 後(おく)れにし 人を偲(しの)はく 四泥(しで)の崎 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて さきくとそ思(おも)ふ(― 後に残っている人を偲んでは、四日市市のシデの崎で木綿を手向けて無事であれかしと願うことであるよ) 天皇(おほきみ)の 行幸(みゆき)のまにま 吾妹子(わぎもこ)が 手枕(たまくら) 纏(ま)かず 月そ經(へ)にける(― 大君の行幸に随行して時間が経過して、吾妹子の手を枕にすることもなく、ひと月も経ってしまった) 御食(みけ)つ國 志摩(しま)の海人(あま)ならし 眞熊野(まくまの)の 小船(をぶね)に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ(― 天皇の御食料を奉献する国の、志摩の海人らしいが、熊野型の小舟に乗って、沖の方へ漕いで行くのが見える) 古(いにしへ)ゆ 人の言ひける 老人(おひひと)の 變若(を)つとふ水そ 名に負(お)ふ瀧(たぎ)の瀬(― 昔から人が言い伝えてきた、老人が若返るという滝である。その養老という名前を持ったこの滝の瀬は) 田跡川(たどかは)の 瀧を清みか 古ゆ 宮仕(みやづか)へけむ 多藝(たぎ)の野の上(へ)に(― 田跡川の水が清らかだから、昔から多芸の野の辺に行宮を造って、お仕え申し上げたのであろうか) 關(せき)無(な)くは 還(かへ)りだにも うち行きて 妹(いも)が手枕 纏(ま)きて寝ましを(― 岐阜県の不破の関が無いのだったら、せめてちょっと行って帰るだけでも、行って、妻の手枕をして寝てくるのだが。それも出来ない)
2023年01月10日
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思ほえず 來ましし君を 佐保川の 河(かは)づ聞かせず 歸しつるかも(― 思いがけずにおいでくださったあなた様なのに、佐保川のカジカの声をお聞かせしないでお帰えししてしまって残念です) やすみしし わご大君(おほきみ)の 見し給ふ 吉野の宮は 山高み 雲そ棚引く 川速み 瀬の音(と)そ清き 神(かむ)さびて 見れば貴く 宜(よろ)しなべ 見れば清(さや)けし この山の 盡(つ)きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所(おほみやどころ) 止(や)む時もあらめ(― わが大君がお治めになられる吉野の宮は、山が高いので雲が棚引き、川の流れが速いので、浅瀬の音が澄明に聞こえる。神々しくて見れば貴く思われる。その様はいかにも良くて、見れば明亮清潔な景色である。この山が万一尽きてなくなることがあればこそ、この川が万が一にも絶えてなくなることがあるのならばこそ、この立派な御殿が廃絶することもあるだろう。しかし、そのようなことは無いので、御殿も立派に栄えるであろう) 神代より 吉野の宮に 在り通(かよ)ひ 高知(たかし)らせるは 山川をよみ(― 神代から吉野の宮にいつも通って、立派な御殿を作っていらっしゃるのは、山や川の景色が素晴らしいからなのです) 言問(事と)はぬ 木すら妹(いも)と兄(せ)ありとふを ただ獨子(ひとりご)に あるが苦しさ(― 物を言わない木すらも妹と兄がいると言うのに、この私が一人子であることが、辛い事であるよ) 山の端(は)に いさよふ月の 出でむかと わが待つ君が 夜は降(くた)ちつつ(― 山の端で出るのを躊躇っているかに見える月、その月の出を今や遅しと待ち侘びている私。夜だけがさっさと更けていくように感じられてならないわ。愛しい貴方は何時来て下さるのかしら) 橘は 實(み)さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の樹(― 橘は実も花も葉も、枝に霜が降っても、いよいよ栄える、実にめでたい樹木であるよ) 奥山の 真木(まき)の葉凌(しの)ぎ 降る雪の 降りは益(ま)すとも 地(つち)に落ちめやも(― 奥山の真木の葉を押さえて、降り積もる雪が、いよいよ降り積もろうとも、この橘の実は地面に落ちる事は無いだろう) わが屋戸(やど)の 梅咲きたりと 告げやらば 來(こ)ちふに似たり 散りぬともよし(― 私の家の梅の花が咲いていますと報せてやったら、おいでなさいと言うのと同じことです。いや、あなた様がおいでくださるならば、花は散ってしまってもよいのですよ、実際の話が) 春さらば ををりにををり 鶯(うぐひす)の 鳴くわが山齋(しま)そ やまず通はせ(― 春になったならば、枝葉が繁りに茂って鶯が来て鳴く私の家の庭園です。どうぞ、何時でも御通い下さい) あらかじめ 君來(き)まさむと 知らませば 門(かど)に屋戸(やど)にも 珠(たま)敷かましを(― 前もってあなたがおいでになられると知っていたならば、門にも戸口にも真珠を敷いたでしょうに) 前日(をとつひ)も 昨日(きのふ)も今日(けふ)も 見つれども 明日(あす)さへ見まく 欲しき君かも(― 一昨日も昨日も今日もお会いしたのですが、明日もお会いしたいあなたです) 珠敷きて 待たましよりは たけそかに 來(きた)る今夜(こよひ)し 樂(たの)しく思ほゆ(― 玉を敷いて私を待っていてくださったよりも、不意にお出で下さった今夜が楽しく思われます) 海原の 遠き渡(わたり)を 遊士(みやびを)の 遊ぶを見むと まづさひそ來(こ)し(― 海原の遠い果の常世の蓬莱山から、私・仙姫(やまひめ)は宮廷の風流人の雅な遊びを観ようとはるばると海水に浸りながら渡ってやって来たのです) 木綿畳(ゆうたたみ) 手向(たむけ)の山を 今日越えて いづれの野邊(のべ)に 廬(いほり)せむわれ(― 神に供える木綿畳を携えて山に登り、そして今日いよいよその山・逢坂山、京都市と大津市の境、を通過して、野辺のどのあたりに廬を作って宿ろうか、我等は) 白珠(しらたま)は 人に知らえず 知らずとも よし知らずとも われし知れらば 知らずともよし(― 真珠はその真価を人に知られない。しかしそれでも構わない。世人がその真価を知らなくとも、自分が自分の真価を知っているならば、世人が知らなくとも意には介さない) 石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は た弱女(わやめ)の 惑(まとひ)に依りて 馬じもの 縄取り附け 鹿猪(しし)じもの 弓矢圍(かく)みて 大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 天離(あまざか)る ひな邊(べ)に退(まか)る 古衣(ふるごろも) 又打(まつち)の山ゆ 還り來(こ)ぬかも(― 石上乙麿卿は、女の人についての迷いによって、馬の如くに縄をつけ、鹿や猪の如くに弓矢で囲まれて、大君の御命令を畏んで、遠い田舎に流されて行く。国境の又打山辺りから帰ってこないかなあ)
2023年01月06日
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天(あめ)に坐(ま)す 月讀(つくよみ)壮子(をとこ) 幤(まひ)は爲(せ)む 今夜(こよひ)の長さ 五百夜(いほよ)繼ぎこそ(― 天上にいらっしゃいまする、月読男子様、供え物は致しましょう。どうぞ、今夜の長さを五百晩もそのままお続け下さいまし) 愛(は)しきやし 間近き里の 君來(こ)むと 大能備(おほのび)にかも 月の照りたる(― ああ、間近い里に居る君が来るだろうと、今この月はこんなにも伸び伸びと照っているのであろう。そうであって欲しいものだなあ) 待ちがてに わがする月は 妹(いも)が着る 三笠の山に 隠れてありけり(― 私が早く姿を現さないかと待ちわびている月は、私の最愛の人の冠る笠ではないが、三笠山に遮られて見えないだけで、実はもうそこまで来ているのだが) 春草は 後はうつろふ 巌(いはほ)なす 常磐(ときは)に坐(いま)せ 貴(たふと)きわが君(― 春の草はしなやかで美しいのですが、あとでは枯れ易いものです。どうぞ、巨岩の如くに永久不変でおいで下さい、貴い我が父君よ) 焼太刀(やきたち)の 稜(かど)打ち放ち 大夫(ますらを)の 祷(ほ)く豊御酒(とよみき)に われ酔(ゑ)ひにけり(― 焼き太刀の稜を強く打ち鳴らして祝福した芳醇な御酒を目出度く飲み干して、私は気分良く酔ったことである) 茂岡(しげをか)に 神(かむ)さび立ちて 栄えたる 千代松の樹(き)の 歳の知らなく(― 奈良県の茂岡に、神々しく鬱蒼と茂って栄えている、千年も経たかと思われる松の樹は、年齢も分からないことであるよ) 石走(いはばし)り 激(たぎ)ち流るる 泊瀬川(はつせがは) 絶ゆることなく またも來て見む(― 石の上を激しく流れ落ちていく泊瀬川の美しい景色を、この川が絶えない如くに絶えず来てはまた見たいものであるよ) 故郷(ふるさと)の 飛鳥(あすか)はあれど あをによし 平城(なら)の明日香(あすか)を 見らく好(よ)しも(― 古い都の飛鳥は言うに及ばないことだが、青々と植物が生育している素晴らしい奈良の明日香をこの目で見るのは実に快いことだ) 月立ちて ただ三日月の 眉根掻(まゆねか)き 日(け)長く戀ひし 君に逢へるかも(― 新月になった、それではないが、その三日月形に眉を引いて、久しく恋い慕って居りました愛しのあなたに会えたことでした、感激ですわ) 振仰(ふりさ)けて 若月(わかづき)見れば 一目見し 人の眉引(まよひき) 思ほゆるかも(― 夜空を振り仰いで三日月を見ると、一目会った女性の眉引きの美しかったことが思い出される) 斯くしつつ 遊び飲みこそ 草木すら 春は生(お)ひつつ 秋は散りゆく(― こうして楽しく遊び、そして心行くまで美味しいお酒をお飲み下さいまし。草や木でさえも春には生い茂り、秋には枯れて散っていくのです。草木はそれを毎年繰り返し行っているのですが、人間の人生は儚くも一回きりなのですから) 御民(みたみ)われ 生(い)ける験(しるし)あり 天地の榮ゆる時に 遇(あ)へらく思へば(― 有り難くも天皇の民である私は、本当に生きている甲斐があるとしみじみと感じる。天地の栄えているこの大御代に、生まれ合わせることが出来たと思うと) 住吉(すみのえ)の 粉濱(こはま)のしじみ 開けも見ず 隠(こも)りのみや 戀ひ渡りなむ(― 住吉の粉浜のしじみ、は有名ですが、そのシジミではないけれども、相手の心の中を開けることもできずに、私は自分の心の中だけで、密かに相手を恋い慕い続けるのでありましょうか。それしか今の私には手段がないのですから) 眉(まよ)の如(ごと) 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕(こ)ぐ舟 泊(とまり)知らずも(― 海原の遙かの彼方の空に、眉の様に見えている阿波の山をめがけて漕いで行く舟があるが、あの舟は一体何処で停泊する予定なのであろうか。他人事ながらも心配であるよ) 血沼廻(ちぬみ)より 雨そ降り來(く)る 四極(しはつ)の 白水郎網(あまあみ)手綱(てつな)乾(ほ)せり 濡れあへむかも(― ちぬみの方向から雨が降ってきた。大阪市のしはつの海人が網や手綱を干しているが、これではずぶ濡れになってしまうだろうなあ) 子らがあらば 二人聞かむを 沖つ渚(す)に 鳴くなる鶴(たづ)の暁(あかとき)の聲(ー 妻がもし一緒に居たならば二人して聞いたであろうに、一人居る私の耳に沖の洲に居る鶴達の早朝の声が聞こえてくることよ。寂しさに狂おしくさえなってしまう) 大夫(ますらを)は 御狩(みかり)に立たし 少女(をとめ)らは 赤裳(あかも)裾引(すそひ)く 清き濱廻(はまび)を(― 男子達は狩りをなさり、乙女達は赤い裳裾を清く澄んだ海水の上に引きながら歩いているよ。素晴らしい景観である) 馬の歩(あゆ)み 押さへ止(とど)めよ 住吉の 岸の黄土(はにふ)に にほひて行かむ(― 供の者達よ、馬の歩みを抑えて止めなさい。住吉の岸の著名な粘土で衣を美しく染めてから行きたいので) 海人少女(あまをとめ) 玉求むらし 沖つ波 恐(かしこ)き海に 船出(ふなで)せり見ゆ(― 海人の少女達が珠を採ろうとしているらしい。沖の恐ろしい波を目指して命懸けでないと出来ない船出をして行く勇ましい様子が望見されるよ)
2023年01月04日
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千萬(ちよろづ)の 軍(いくさ)なりとも 言擧(ことあ)げせず 取りて來(き)ぬべき 男(をのこ)とそ思ふ(― 相手にする敵がたとえ千人万人の大軍であっても、とやかく言い立てたりせずに打ち平らげてくるに相違ない、しっかりした男子だと、貴方の事を評価しております) 食國(をすくに)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に 汝等(いましら)し 斯く罷(まか)りなば 平(たひら)けく 朕(われ)は遊ばむ 手抱(たむだ)きて 朕(われ)は御在(い ま)さむ 天皇(すめら)朕(わ)が うづの御手以(みても)ち かき撫(な)でそ 勞( (ね)ぎたまふ 還(かへ)り來(こ)む日 相飲(の)まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は(― 我が治める国の遠い役所に、君たちがこのように出かけるならば、安心して平和に自分は遊んでいよう。手をつかねて何もせずに、天皇である自分の貴い御手をもって、君らをかき撫でて労をねぎらって進ぜよう。打ち撫でてねぎらってもやろう。君たちが帰って来る日に、一緒に飲もうと思う酒であるぞ、この豊御酒は) 大夫(ますらを)の 行くとふ道そ おほろかに 思ひて行くな 大夫の伴(とも)(― 大丈夫の行くという道である。疎かに思って行くな。大丈夫達よ) 斯くしつつ 在(あ)らくを好(よ)みぞ たまきはる 短き命を 長く欲(ほ)りする(― こうしていることが好ましいからである。短い命を長くあれと欲するのは) 難波潟(なにはがた) 潮干の餘波(なごり) 委曲(よく)見てむ 家なる妹が 待ち問はむ為(― 難波潟の潮干の名残をよく見て覚えておこう。家にいる妹が、待っていて訊くだろうから。それに答えられるように) 直越(ただこゑ)の この道にして 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも(― この草香山・くさかやま まで登って来てみると、成程、本当に難波潟一面に日の光が照りつけて美しく光り輝いているのが見える。この道からの眺望でこそ、成程、オシテルヤ難波の海と名付けた理由がすんなりと納得できる) 士(をのこ)やも 空(むな)しかるべき 萬代(よろづよ)に 語り續(つ)ぐべき 名は立てずして(― いやしくも男子たる者は虚しく朽ち果てるべきではないのだ。万代の後の世までも語り継がれるべき立派な名声を確立しなくていけないのだよ。この大病で死ぬのは、何とも悔しい限りである、ああ、残念無念!) ―― これは万葉歌人を代表する一人である山上憶良の詠んだものであるが、彼は本意ではなかったかも知れないが、この歌に詠んだ望みをほぼ達したと言える。万葉集は日本民族と共に永遠であると、ここでは本気で信じて、断言しておこう。私・古屋克征・ふるやかついく は男子の端くれではあるが、憶良が慨嘆したような感慨を抱くこともなく老いぼれて、余命幾許も無い高齢に達してしまったが、私はこれで世界一の幸福長者だと「心の胃袋が満腹」状態で居りますので、誰が何を言おうとも、反省などは致しません。知らぬ間にこの世に生まれ出され、無我夢中でやっているうちに、あれよあれよと、様々な経験・体験を閲みさせられ( 受身にしたのは責任逃れではなく、主体的な実感を率直に述べただけです )、悦子と邂逅し、もしくは、邂逅せしめられ、今日に至った。私のした、もしくは、繰り広げた人生には相違ないのだが、そうとばかりも言い切れず、神や仏や、悦子に縋ってかつがつ生きて来たし、これからも同様の事が予想されるが、これで私は十分で御座います。人間万歳と、ついでに、お目出度い人間の代表であろう かっちゃん にも万歳!を唱えておきましょうか。 わが背子(せこ)が 着る衣(きぬ)薄(うす)し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで(― わが最愛のお方が来ている着物は薄いので、佐保の風よ、激しく吹かないでおくれ、少なくとも家に行きつくまでは) 雨隠(あまごも)り 三笠の山を 高みかも 月の出で來(こ)ぬ 夜(よ)は降(くた)ちつつ(― 三笠の山が高いからであろうか、月がまだ出てこないのに、夜ばかりが更けていくことだよ) かり高の 高圓山(たかまとやま)を 高みかも 出で來る月の 遅く照るらむ(― かり高の地の高圓山が高いので、月の出が遅いのであろうか) ぬばたまの 夜霧(よぎり)の立てば おぼぼしく 照れる月夜(つくよ)の 見れば悲しさ(― 夜霧が立って、ぼんやりと照っている月の、見ればなんと悲しいことよ) 山の端(は)の ささらえ壮子(をとこ) 天(あま)の原 門渡(とわた)る光 見らくしよしも(― 山の端を出た愛らしい月が、小舟の如くに夜空の海を渡っていくのは、見ていて爽快であるよ) 雲隠(くもかく)り 行方(ゆくへ)を無みと わが戀ふる 月をや君が 見まく欲りする(― 雲に隠れて姿が見えずに行方が分からないので、私が恋しいと思っている月ですが、あなた様は見たいとお思いなのでしょうかしら。月に恋する私に会いたいと思うのは本心でしょうか、単なる嫉妬の感情でしょうか)
2023年01月02日
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